t自分の歌を歌おう

(1)アーティスト・表現論 自分の歌とは何か


○アーティストの条件

 その人のオリジナルなものではないと、誰も価値は認めません。そのためには新たな創造作業が必要です。それは一から、自分で創り出さなくてはいけません。なのに、歌では、それを他の人に預けてしまう人がほとんどなのです。

 たとえば、漫画を描ける人はたくさんいます。でも、漫画家の漫画をいくら写していても、漫画家にはなれません。有名になった漫画家をみると、デビューのときにはすごく絵が下手な人もいます。

 しかし、下手なのにデビューできたということは、それをカバーする何かがあったということなのです。ストーリーや人物描写、コマワリやタッチなどに、斬新で読み手の心をひきつけるもの、つまり、そこに表現するものと、表現する心があったのです。さらに、稚拙な技術でも、それを超えて、訴えかけてくる才能があった。それを、プロの編集者は、見抜いたわけです。

 つまり、どんなに絵だけを練習していてもダメなのです。むしろ絵などは、あとからうまくなればよいわけです。大切なのは、自分の絵、つまりタッチ、線、色をどう出すかということです。
 殊にヴォイストレーニングにおいては、そういうことがわからず、声や歌を勉強している。それでは何にもならないわけです。なぜなら、それは決してクリエイティブなレベルで求められず、それゆえ創造が行なわれないからです。

 漫画、絵を歌、タッチを声、線をフレーズ、色を音色におきかえてみてください。


○プロになりたい、歌がうまくなりたい、声がよくなりたいは、目的にならない

 個性とかオリジナル豊かに、自分の歌をつくっても、必ずしもデビューできたり、プロとして活躍できるわけではありません。業界にとっての向き不向きもあります。売れるためには、ポピュラリティも必要です。

 まして日本人にとっての歌の評価というものは、かなりいい加減なものです。ライブデビューできたら、CDを作ったら成功となるというなら、それがゴールで終わりになる人が大半でしょう。ほとんどの人は、その入口にも至らないでしょう。でも、CDづくりもライブも、その気になれば誰でもできます。

 世界には、そういう商業主義に歌を使うことは、自分には合わないという人もいます。そういうものを使って広めるのは嫌だという人もいます。それぞれの思想において、その人のスタンスがあるのです。

 売れた人が優れていて、売れていない人が優れていないということではありません。でも売れているものには、それだけの何かがあるのも確かです。

 あなたが、何をめざすかによって、スタンスが違ってくるわけです。

 私に会いに来る人に目的を聞くと、だいたいは「プロになりたい」「歌がうまくなりたい」「声をよくしたい」と言います。しかし、これらは具体的でないからトレーニングの目的にはなりません。多くの人がそう思って漠然とトレーニングをしています。あなたにとって、プロとはどういうことでしょうか。うまく歌えても声がよくなっても、プロになれることとは違うということが、わかっていますか。

※具体的とは、10代なら「○年後、○○で○○人の客を集め、自分の曲○曲を○○と共にやる」というようなこと、20代なら「自分の歌や芸とは○○において価値があり、○○に認められ、他に代われぬ○○の才能がある」というようなこと。


○ヴォーカルや役者に初心者はいない

 さて、楽器の世界というのは、音色とその使い方で勝負します。私がピアニストになれないのは、自分の音がピアノで作れないからです。自分の気持ちを音に託して表現するのに、ピアノに同化できるほど親しんでいないからです。つまり、ピアノでそういう聞き方と弾き方ができないからです。そこには、ミュージシャンとしての技量と、プレイヤーとしての自分の演奏のアイデアやイメージが必要です。

 ピアニストやバイオリニストは、楽器が体の外にあるため、それと自分とを一体化するのに膨大な時間をかけます。皆さんも、20歳を過ぎてからやって、その道のプロになれるとは思わないでしょう。

 でもヴォーカルや役者をめざせると思うのはなぜでしょう。それは、初心者であっても、すでに声は使ってきているからです。声で人に何かを伝える経験は誰もが積んでいます。つまり、全くの声の初心者はいないのです。

 そして、現に演奏のへたな歌い手も、たくさんいるのも、大きな理由でしょう。日本ではパフォーマンス、作詞作曲、タレント性など、ミュージシャンとしてより、パーソナリティで問われる部分が大きいからです。

 (もちろんアメリカあたりでは、10代でまわりに天才と思われなければ、やれないからやらないのです。そこにミュージシャンとしての専門教育が、必要とされます。)

 しかし、日本は今のところ、違います。この基準のあいまいさが逆に、誰でもめざせるけど、多くの人の上達しない原因にもなっているのです。

 初心者ということばは、楽器なら通用します。しかし歌やせりふは、初心者だから、これまでと全く異なる特殊技術を身につけ、それによって行なうという考えが、おかしいのではないでしょうか。


○日常化した歌と声

 今のポップスも、向こうの形を取り入れているのは、昔と変わりません。最近は、浅い息のところで声をたれ流して、形の悪いつながり方で、きちんとした作品にならなくなっています。でも聴き手は、そんなことを聞いてはいません。世界一といってもよい音響技術やアレンジでカバーしています。ポップスですから、その人に華があって、声がよくて表わしたい世界が出ていればよいというわけです。

 逆にいうと、声が出たり、歌がうまいからといって、必ずしも人々に伝わるのではなくなってきています。むしろ、今や生声やいい加減な=くせのついた発声の方がよいかのようにさえ、思えます。

 つまり、今や、日本では、かつての音声で表現する舞台が死に、誰もが表現を“声”に求めず聞かなくなってきたのです。ただでさえ、視覚文化中心の日本で歌も芝居もヴィジュアルの全盛時代となったわけです。

 まあ、これもよく言えば歌が日常化してしまったので、日常レベルのテンションの歌でよい。ということは、ある面では、日本の歌も芝居も、これまでの仰々しいものから、しぜんになりつつあるわけです。(参考:歌声、役者声)

 そこで、いまだにマニアックな発声を教えようとするトレーナーの鈍さには、どうか気をつけていただきたいものです。(特に日本のミュージカルなどのなかでは、いまだ昔のように、形や技術を前面に押し出したいやらしい歌、生声、こもり声、口内音、音響技術に頼った歌が、よくみられます。どれも私のいうしぜんな歌ではありません。でもきっと、ファンの人は、そこがいいのですね)


○音響技術の進歩と声力の衰退

 昔の日本では、少なくとも、歌詞やメロディの魅力を、声のよさ、すぐれた歌唱力で一つのドラマとして伝えるのが歌だったわけです。また、技術面ではマイクに通りやすい声でなければ拾ってくれなかったため、発声力が問われました。「アナウンサーは、あごが四角くないと、声がひびかないからいかん」など、言われたそうです。

 ところが今ではどんな人の声でもマイクは拾います。機材の進歩で、日本では声そのものの力が、さほど問われなくなってきました。つまり、日本人は、特有の歌声”“役者声”を、放棄し始めたのです。


○基本に戻る

 しかし基本というのは、時代や国によって変わらないものでしょう。50年前でもあとでも、どこでも通じるから基本です。人間としての変わらないものに密接してあるからです。もちろん、それが応用された作品の表われ方は時代や地域(国)によって大きく違います。時代に合うからこそ、ヒットするわけです。

 人間の体には、それがうまく働く原理があります。全人類共通の部分です。それを磨いてこそ、声の楽器として使えるわけです。まずは人間の体の原理に基づいて、声を使っていくことが基本です。ですから、トレーニングでは、自分の声を深めることに意味をもち、そういう体の部分とか感覚の部分を磨いていくべきです。日本人から、人類に共通の人間に戻ってみる、ということです。

 そこの部分と、今のJ-POPで使われている声が、かけ離れてきているのが難しいところです。一言でいうと、きっと今のあなたの歌よりは、あなたの言葉の方が、きっと私には楽しめるでしょう。くせのつけた発声、ことばの使い方で、音色、リズム処理しているのですから。

 国や時代では変わっていかないところを見て、そこで創造できるためにどのくらいの声やその使い方が必要かということでなければ、本来、トレーニングもあり得ないのです。


○プロとアーティストに必要な感性

 私は、ある面では声のプロですから、与えられた状況に対応します。

 声がよいとか歌がうまくても世に出られない人は、その対応力(=感性)に問題があります。主にはカラオケの高音競争と変わらない次元でやっているからです。つまり客が期待するものに対し、それ以上のものを返せないから、仕事になりません。

 しかし、一方で私が今の業界にどっぷりつからないのは、アーティストとして自分の作品づくりを中心に生きているからです。研究所は私のアトリエです。私自身が感覚や体を深め、客の反応を知り、時代を呼吸しながら作品を磨いていくところです。そこで生きている姿をさらすこと以外、伝えられることなどはありません。そう、声や歌は、特別なものではないと思うのです。

 私はもはや、単に“歌うこと”がそれほどアーティックなことだとも思っていません。レッスンや、こういう本を書いている方がまだ創造的なことのようにも思えるから、そうしているのでしょう。日本の多くの歌い手が、作詩や作曲、プロデュース業に転身するのと、似ているかもしれません。

 声や音楽に対しても、もともと幻想を抱いているわけではありません。何にしても、表現の手段に過ぎません。

 ロックをやりたいといって、他人の歌を他人のように歌っている精神的弛緩に、私自身は何らロックもアートも感じません。どんなにうまくまねできても、創造的価値はゼロです。

 反面、演劇でもスポーツでも、いや商売人、起業家、実業家でも、自分しかできぬ作品で人に働きかけ大きなものを与えているなら、そういう人こそがアーティストと呼ぶにふさわしいと思っています。

 現に、私たちの世代で今も残っているのは、声のよい人、歌のうまい人ではありません。ユーミン、中島みゆき、桑田佳祐さんなどと、自分の世界をもっていた人が、多くの人々とのなかで作品を声を、感性を働かせて磨いてきたわけでしょう。それをもって、人は彼らをアーティストと呼ぶのでしょう。

 (研究所に、役者、お笑いの人、一般の人がくるのも、私はその肩書き、芸歴で人をみているわけではないからです。)


○現実をみる

 歌もアーティックなものも、そんなに日常から離れたものではありません。私もできが悪いため、いろんな考え方や、体のことを勉強し続けています。この分野の本も文献もCDも、いろいろと入手してきました。(おかげで研究所は、本もCDも膨大なライブラリーをなし、研究所の声のサンプルや学び方のデータは、世界でも稀にみるくらいになりました。HP参照のこと。)何よりもの財産は、誰よりも多くの熱意ある人と、長期にわたりレッスン、ワークショップを共にしてきたことです。(声楽家以外に、ここのように10年、レパートリーを広げる目的以外で通う人がいるところは、それほどないでしょう。大半のスクールでは、1年ももたず、3年もいたらベテランのようになる。それはおかしなことです。)

 一方で、今現実に行われていることの方が正しいということは、どこかで見ておかなくてはいけません。つまり、今、現実に人の心を捉えているアーティストの感覚の方が正しい。それは、時は未来へ歩んでいくからです。何よりも、今、生きている人間のなかで、ものの価値は決まってくるからです。

 歌については、私は若い人の感じていることを、ある面では正しいと思っています。先に、「日常化した歌と声」の項でJ-POPの生声を肯定したのも、現実、未来優先だからです。アーティストは、未来を予兆を、作品にとり込むものです。現にやれている人の声や歌に何があるか、みてください。決して、テノールやソプラノをまねして、なり損ねた発声のようなものではないですね。


○自分をみる

 一方で、誰の中にも正解、その人にとっての歌があるのも確かです。当人自身がこの程度でよいというところで終わらせているから、伝わらないだけです。今の時代の息吹は吸っていても、自分自身の中でまだ煮詰めていないから出てこないのです。あなたがよりあなたであるところまで、徹底して、こだわっていないから、作品にならないのです。(それを待てず、声や歌のうわべの上達?に足元をすくわれて、2〜3年で進歩が終わる人が多いのは残念なことです。いつまでも、慣れず、こなせないから、ひたむきに練習を繰り返す、飽きずに続ける。なのに、「皆さんよくそんなに早くできますね(できると思えますね)」って言いたくなります)

 人前で問うていくなら、本当にその判断は厳しくなるはずです。そこまでこだわって深めてきたというところを出さない限り、人は本当には納得しません。それには、声がよかったり、歌が上手くてもダメなのです。それに気づいて、ようやく基本トレーニングをやる必要が出てくるのです。


○歌は創造物である

 彫刻でも、焼き物でも、何かを作るときには、これで何を表現しようかと考えるでしょう。そこに、おのずとその人しか出せない持ち味が、一見して「○○の作品」というのが、出てるでしょう。○○には、名前が入る。

 ところが歌や音楽をやる人は、いきなり違うところにいってしまうのは、なぜでしょう。誰かのつくった形にのっかり、そこからおりずに真似とくせでこなす。そして、それが上達だと思う。そういう人に対し、それを教えている人たちがたくさんいる。これは結構、絶望的な状況ともいえます。


○固定観念をはずそう 本当に必要なものは

 たとえば、次のようなことは、日本で現実の歌い手をみる限り、もはや、思い込みに過ぎないのではないでしょうか。

1.高音や、シャウトが決め手。
2.バンドが必要、メンバーには、Bs. Gui. Dr. Key.、4人が必要。
3.高い声、低い声が出ないと歌えない。声域は2オクターブ以上必要。
4.発音、ことばがしっかり言えないとだめ。
5.声量が必要。
6.楽典、理論が必要。
7.絶対音感が必要。
8.楽器ができないとだめ。
9.ルックス、スタイルがよくないとだめ。
10.作詞作曲の力がいる。

 私は、これらの条件をすべて否定しているわけではありません。しかし、もっと大切なことを核にもつことを強調したいのです。それは、あなた自身の作風、そして作品をつくり続けるということです。

 日常がだらしなくて、だらしないことばを使っていたら、歌もだらしなくなってしまうわけです。だらしないとはいつも前の世代の人からいわれることですから、私がこう使うのも、お許しください。

 しかし、歌にしても、せりふ一つにしても、もし本当の力をつけたいのであれば、バンドや詞と曲の世界よりも前に、体から声を発して、人に働きかけることからやるべきでしょう。それには、テンションと集中力が不可欠です。

 表現を支え、効果的に伝えるためには呼吸が必要です。さらに音の世界にそれをどう取り出し収めていくかという音の世界での感覚が必要です。大切なのは、プロの感覚とプロの体、この二つです。


○基準となるもの

 ヴォーカルの上達に、一定の基準やプロセスはありません。私も昔は声だけを基準に判断をしていたのですが、最近のように音響技術が進んでくると、おのずと総合的にプロデューサーのような判断をせざるを得なくなります。そのため、研究所でもおのずと日本の著名なプロデューサーの協力も頼むことになってきました。

 業界においては、私は音声そのものより、そこでの感覚と気持ちの表われをみます。多くの場合、それはすでに選ばれた人だからです。即戦力として長くかけられる時間はありません。選ぶ側のおめがねにかなう形のとり出しが、第一です。しかし多くは、20歳後半の歌唱力のあるヴォーカリストが、口うつしに教えたら、間に合うのです。

 しかし、研究所では作品としての感性や人に働きかける力でみます。どこであれ、厳しく選ばれたわけではないところ、悪い言葉で言うと、少しのお金と暇があれば入れるスクールなどでは、そこで学んで、まわりの人並に上達しても、何とかなるわけはないのです。

 ともかく、即戦力と可能性、潜在能力をみるのは、違ってきます。

 ただ、一言でわかりやすくいうと、トレーナーができないことがやれるようになるかどうかということです。

 トレーナーというのは器用ですから、他の人の声や歌を真似ることくらいできます。そこでできない何かとなると、その人独自の声、そしてタッチ、さらに音楽性、音楽観になってきます。
 もちろん、その人自身の作詞作曲、アレンジ能力なども、別にあるとは思います。しかし、私は、その人の表現のルーツ、鉱脈と、その発掘物のみせ方、つまり、作品のコンセプトとオリジナリティを嗅ぐのです。

 ですから、トレーナーの評価は自分のできないことをやれるように育てたかどうかとなります。ところが、自分の思うままに導こうとする、それが叶えば大ヒットさせてくれるプロデューサーならともかく、人脈も発言力もないトレーナーがミニトレーナーのような人ばかり、つくっても、どうしようもないでしょう。

 ルックスやスタイル、若さなど、前項の9、10は有利な条件です。結局のところ、業界、デビューには、客としての、若い世代の求める作品や総合的なステージ力が決め手となるからです。商品としてみるなら、投資効率と市場原理に大きく左右されるのは否めません。

 オーディションなどでは、ルックス、性格(芸能向き)、やる気(プロ志向)、そして声の質が問われます。しかし、歌を聞くまえに誰が合格するか、私にはほぼ、わかります。変でしょう。つまり、日本では先天的な声質とタレント性重視なのです。


○歌い手になりたいなら

 いろんなオーディションを受けてみましょう。デモテープをつくりましょう。

 スクールやトレーナーのところへ行っても、デビューできるかどうかわからないのですが、ほとんどは、無料で親切に案内してくれることでしょう。無料体験レッスンに各1回ずつ出れば、何十レッスンにも出ることができます。関係者の方々、ごめんなさいね。

 みんな商売ですからそんなに悪いことはいわないと思います。それで同じことをいわれたら、きっとそこが指摘しやすいところなのです。そういったことが、いかにつまらないことで回っているのかを感じられたら、少しはあなたも見込みがあります。

 本当に知るべきことは、あなたなりに自分の出口を見ることです。

 一口に歌い手といっても、いろんなタイプがいるでしょう。その上で、わからなければ、私の話を聞きにくるのもよいでしょう。

 結論からいうと、いつでも、誰がその人を認めるかということだけなのです。

 実力は実力なのですが、何をもって実力というかということです。ヴォイストレーニングをやったからといって、プロにはなれるわけでは決してありません。しかし、ステージをやれる人がトレーニングをやれば、少しは意味があります。つまり、トレーニングは補強に過ぎないのです。そしたら、やれるということについてもっと考え、まずはやれる人になることでしょう。やれる人とは、声がよい人や、歌がうまい人でなく、それを使った自己アピールでやらしてくれる人を動かせる人です。


○目的を絞り込む

 声や歌がよいトレーナーについて、安心してしまう人もいます。どんな優れた人についても、それは自分の力とは、全く関係ありません。100人に99人は、そのトレーナー並みにもならないでしょう。なぜだか、わかりますか?

 さらに、100人のうち、1人になれたとしましょう。でも、やれない。たとえば、いったい、そのトレーナー自身、世に認められてきたのかということです。歌がうまいなら、尚さら、なぜっていうことでしょう。そこを克服することこそ、あなたの最大の課題となることを忘れてはいけません。そして、決してそれは、そこでは解決しないということも。それを知らないから、トレーナーを自分のために使えないのです。

 最終目標はともかく、どうなりたいのかということは、はっきりさせていくことです。そうしたら、世に認められた人たちが歩んだ道というのが、いろいろとあることがわかります。そういう人たちを誰が支えてくれているのかも、少しずつわかるでしょう。

 やれるのは、力があるからですが、その力とは、人が支えてくれる力です。有名(こんなものが目標では、つまらないのですが)にしてくれるのは、他の人たちなのです。

 今ヒットチャートをにぎわせているアーティストの中には、スクールに行った人もいるかもしれません。が、決してスクールで育ったのではありません。

 スクールに来る人たちを育てるより、5万人の中からオーディションで選ばれた人の方が、デビューさせやすいに決まっています。そういう人を一時、スクールに置いておくことはあったとしても、デビューへのルートは違うのです。まして、コネクションのないところでは、あなたが独力ならやれたやる力さえ、奪いかねません。

 私はうまく歌いこなす人でなく、アーティストのもつ才能や後世に残る作品に関心があります。だから、全くもって歌い手にこだわっていません。役者、声優、ナレーター、ビジネスマン、一般の人、誰でもOK、肩書き不要です。プロデューサー、演出家、音声医師、研究者、いろんな人と会い、招き、彼らの持ち分は、彼らに任せます。

 まして研究所では、業界へ向けてのみ、人材を出したいとは思いません。私が業界と切り離してここをもっているのは、業界とは別のことをやるためです。私自身は、業界でやれることは業界で、プロダクションや専門学校でやれることはそこでやればよいと思うからです。

 逆にいえば、専門学校やプロダクションともやってきたから、そこでの限界も知りつくしているつもりです。毎年、世界中の学校をまわってきたのも、日本にないものが多すぎるからです。


○何をめざせばよいのか

 作品づくりの技術が進歩してきたために、役者でもヴォーカリストでも、それほど声における基本の力が必要とされなくなってきました。その代わり、ほかの意味で、才能やオリジナリティが、より必要になってきました。それはタレント性、さらにヴィジュアル面で大きく問われるようになってきています。ミュージカル俳優も今や、ごまかしのきかないダンスの力をつける方が優先されるでしょう。

 もちろん変わらないものとしては、パワー、柔軟性、素直さ、まじめさ、などがあります。

 海外の音楽事情をよく知らない国に行くと、私はCDジャケットでルックスのよい人を除いて、売れているCDを買います。日本なら、なおさらです。歌や声だけで聞きたいからです。

 ヴォーカリストにとって、格好よいことは必要条件です。でも、それは生まれながらのルックスでない。でも、日本ではそれでやれる人も多い。だから、「今歌っている人よりもうまく歌える」ことをめざしても、だめです。そんな人は、すでにいくらでもいるわけです。

 昔であれば、弟子になって修業すれば、出ていけるという基準がありました。もちろん、弟子にとってもらうのが大変でした。しかし、そこでの最大のメリットは、歌や声そのものよりも、ものごとへの処し方、つまり考え方や生活が入るということでした。それが、歌や声を伸ばしてくれたのです。だから、世に出たい人は、このことをしっかりと学ぶこと、学べるところへ行かなくてはなりません。

 声量、声域を拡げたいといったら音響さんに頼めばよい。それを使って、加工して、よく聞かせられるのもポップスの魅力です。しかし、だからこそ自分にしかやれないものをもつことが大切なのです。そして、そういう考え方や生活を伝えてくれる場が必要です。


○作品の表現を考えること

 歌とか声というのは、ツールにすぎません。そのうえにあなたが何を乗せるのかということです。他の人のものをコピーするのは、一つの勉強方法です。しかし、自分の名でやっていきたいのなら、それをメインにするなということです。

 レベルの高いコピーからやるのは、トレーニングにはなりません。声のためにも、楽器の扱い方や創造のためにも不毛なことです。きちんとした接点がつけられないと、粗雑になっていくからです。もちろん、器用な人は、そこから入ってもよいし、誰でもやってはみるべきことです。しかし、やったから学べるとは限らないのです。

 自分がそのファンとして真似ごとをやりたいのか、自分の作品で舞台に立つ立場でやるのかということは、しっかりと分けてください。

 歌とか舞台というのは、応用です。基本がなくても応用でできてしまえば通じたというのなら、それでよい、そこで応用力の不足を感じるからこそ、基本をやる必要が出てくるのです。でも、本当に足らないものが具体的にしっかりと、わかってますか。わからないから、レッスンに出るのです。

 ヴォイストレーニングをしたら、表現力が鍛えられるのではありません。表現が何かを知る人が足らないところについて、求めながらヴォイストレーニングをすると、声の面での表現を詰めていけるのです。音声面でとことん煮詰まった作品にならないから、より繊細にパワフルに声を扱う感覚や技術が必要だということがわかったときに、はじめてトレーニングが役に立つのです(というより、後で効いてくるのです。

 ヴォイストレーナーの先生について、言われる通りに声を出していくということであれば、音大の2年生くらいに、みんな同じように成長してしまうくらいで、とどまると思います。いったい、それは何になるのでしょうか。音大生の歌を聞きに行ってみるとよいのではないでしょうか。


○「お笑い」のステージに学べ

 若い世代の場合は、メジャーの方向めざしてということになるのでしょう。是非、ビッグになってください。そのプロセスで多くのことが学べるからです。世に出ないと学べないことは、とてもたくさんあるのです。

 ステージ感覚としては、お笑いの世界の方がわかりやすいと思います。そこでは、客がおもしろく思うかどうかという基準がはっきりしているからです。自分自身で考え、創ってきたものをしっかりと演じないと、しらけて、誰も受け入れなくなってしまいます。そのため、自作自演作品は日本のヴォーカリスト並みレベルに近いといってもよい人もいます。

 ステージということでは、分ける必要もないでしょう。共に客の心に働きかけるパワーとテンション、芸の力、安定性、柔軟性が問われます。

 ところがバンドの場合は、音楽にのっかって、何となく盛りあがる。それが当人たちもみえない逃げにつながりやすいのです。ヴォーカリストは、尚さらです。好きなものに成り切ることで恍惚とするからです。しかし、全力プレイと作品の価値とは違うのです。

 高い声や大声でテンションはあがる。それは作品の価値とは関係ない。しかし、おとなしい日本人は、大きな音で麻痺させられる。会場も盛り上がる。でも、それは盛り上がりたい人が、そこで盛上げているだけだす。ものまね王国、日本では。そこで、少しはやれる。でも、長くは続きません。

 他の国では、歌でも音楽でも、つまらなければブーイングがきます。客は床をならし、退場を指示し、続くなら、さっさと帰るでしょう。歌う前からスタンディングオペレーション、そんな国は、日本の他にありません。そういう環境で、身内対策に向けるから、自分の作品も実力も判断しにくいのです。

 厳しい評価のないところに、負けのないところに、成長はないのです。


○文化、民族としての歌を聞く

 特に東京は、そういう意味では地方よりもやりにくいと思います。ヴィジュアルに肥えた客は、総合的な演出、過剰な演出装置に期待します。ステージのつくり方、みせ方をはじめ、バックの力知名度がものを言います。テレビなどを中心としたメディアでの露出度が、客の評価にまで大きく影響します。そのため、どうしても中心は、10代や子役の頃から出て、コネを持っている人たちになります。

 地方だと3年やっていれば、しばらく休んでも誰かが覚えていてくれるのですが、東京では、客もオーナーや働く人も、好みも、さまがわりします。しかも箱(ライブハウス)に客がつかない。
 私は、地元でやれといっています。というのも、文化としては一所(処)で長くやることが、必要だからです。今、独自のものをきちんともっているところは、日本ではほとんどなくなりつつあるでしょう。

 音楽と生活が一体になっていることが、本当の基本です。日本独自のリズム、言語と結びついていないのが、今の日本の歌の本当に弱いところです。

 ワールドミュージックの発信が沖縄になるのは、その証拠でしょう。

 海外留学も、かなりの人が利用しています。しかし、歌ではさして成果を出していません。語学力もあるのですが、最大の難点は、日本人の耳と言語機能にあるからです。


○アウトプットから考える

 残念なことながら今の日本の場合は、20,3歳過ぎから、5、6年きちんとヴォイストレーニングをやり、実力をつけてから世の中に出ていきたいと思っても、現実には難しいでしょう。ヴォーカリストになるにも年齢制限があるといってもよいです。オーディションに年齢制限があるし、プロデューサーもそこを第一にみます。

 だから私は、やれる人はすぐに出て、やれるところまでやった方がよいといっています。

 オーディションを見て、そこに対してヴォイストレーニングがどのくらいの効果を及ぼすかということから考えるべきです。

 まず人の目を引いて、そのあとにヴォイストレーニング?などをして、下手だとさえ思われない商品にすればよいという考えが、まかり通っています。歌なんて、うまくならなくても、まして声など磨かなくとも、相手に売れると思わせたら、どこでも通わしてくれます。それも立派な才能です。はっきり言うと、今、受からなければ、何年か学んで、少々うまくなっても、決して受かることはないでしょう。優れたプロデューサーは、あなたの未知の可能性もまた折り込んで評価しています。

 プロになって、持続した力が必要となるからこそ、トレーナーを利用すればよいわけです。また、そういう経験で自分が今はなれないことがわかれば、そこからヴォイストレーニングの、自分にとっての本当の意味を知り、第二の道を歩んでもよいでしょう。理想だけではなく、現実を見ながらやることです。


○音声表現を否定する国、日本

 日本では、一般の人にとって、音声の力は大して必要がなく、そこでの説得力もあまり求められません。いえ、日本は音声での強い表現を否定する国ともいえます。私たち日本人の日常からの感覚がそうなのです。日本で役者が、役者がかるのは、外国人のように日常の音声表現レベルが高くないからです。唯一の例外が、ワールドカップのときの日本人でした。でも、韓国には及びませんでしたね。

 もし新宿アルタの前で、無名で歌のうまい人とTVに出ているお笑いタレントが歌っていたら、皆、どちらをみるかは、明らかでしょう。職場や家で話題にできる方です。所詮、大半の歌はそうやって表向きに消費されているものなのです。

 しかし一方では、より深いところで、人生とか、生き方に大きな影響をもたらしている歌もたくさんあります。あなたにとって、どちらが優先されているかから自問してください。あなたがやるとしたら、です。


○歌の効果と使われ方

 日本の歌というのは、いつのまにかタレントを売り出すために使われるようになりました。人を集め、お金を稼ぐために、一番効率がよいのが歌、いや歌を利用したステージだったからです。何よりも周りがプロであれば、その人に、歌い手としては大したものがなくても音楽CDやライブステージは作れるわけです。CDをお札(さつ)のように刷りますから、巨大なビジネス利権となっています。

 ピアニストやバイオリニスト、いや芸人だって、こうはいきません。サーカスやイリュージョンショーと同じように演出する技術に、日本はどこよりも優れています。どんな歌もうまくみせられる、それはカラオケの技術でもわかるでしょう。

 日本のライブコンサートは、何万人動員しても赤字だそうです。大したサービス精神です。

 それは日本の業界の築いてきた体質です。もちろん、そこで選ばれるという才能をもつということも並大抵のことではありません。

 しかし、そういうものに選ばれなかった人は、そういう人と比較にならぬくらい強い個性と音声表現力がないといけないのです。そのために、トレーニングがあるのです。


○日本人が外国人のアーティストのようになれない理由

 向こうの歌というのは、向こうの言語文化、音声文化の上に成り立っています。風土から生活、言語環境の問題も含め、日本人とは言語と感覚でのギャップが大きく横たわっています。

 彼らの音楽というのは、彼らが生活しているなかで、感情を込めて発している声やことばが、そのまま歌につながっているわけです。こういうことを、世界の民族と歌ということで学ぶことは、有意義です。〈rf.世界音楽紀行などを見ましょう〉

 日本人との歌に対する捉え方と歴史の違いは、思いのほか、大きいのです。まさに、血なのです。

 もちろん、日本人の歌い方というのもありましょう。日本の中ではそういうものでいいと思えるものもあるから、それはそれでもよいと思います。これも、長唄、歌謡曲、演歌、浪曲など、CDで入手できます。

 音声表現力にとてつもない差があるのは、日本のアーティストも皆、知っている厳然たる事実です。

 逆にいうと、日本人のアーティストの多くも、向こうの人を見て、やれるようになったのです。それも徹底して聞き込んだ。そこに何を聞いたかが、才能の差です。レッスンは、それを埋めることのためにあるといえます。

 あなたも直接、海外のアーティストを見てやった方がよいのです。日本のトップでやれている人たちが、見本にしているもの、彼らが聞いていたアーティストを直接、聞いてください。声楽もどき、あるいは日本の歌い手のためのトレーニングより、ずっと有効です。身近な歌い手やトレーナーの歌や発声よりも、よほど身に入れておかなくてはいけないことです。あとで伸びる人は、必ず徹底して聞き込んでいます。この入れ込みがなくては、なにごとも不可能なのです。


○歌の判断について

 私はいつも歌は応用といっています。応用されたところでは、その作品やステージでは、ファンが判断すればよい。やれていればよいからです。歌がうまいとかうまくないとかいうのでない。そこで楽しんだり感動したりしている人がいる、好きでたまらない人がいる。だから、成り立つのです。

 業界の基準なら、ビジネスになること、CDが売れるか、ライブコンサートに人が集まるかに絞り込まれます。

 実際にやれている人たちの中には、ひどい声も、のど声の人もたくさんいます。今の日本人の男性の声はほとんどのど声、生声に近いし、女性も単にのどを外しあてたところに高い音域を作っています。そのため、発声からみると、作り声で口内音です。

 しかし、歌には、こういうことも含め、いろんな要素が混在するのを許されているのです。そこから考えても、日本のプロは、自分の見せ方を知っている点においてプロだから、そこを学ぶべきです。

 外国人と比べてどうかというのも、言ってはきましたが、今の10代のファンには、その必要もないでしょう。

 私は、現実にやれている人に対しては、例外なく認めています。やれている、やっていくことに対し、敬意を払っています。


○歌と仕事

 冗談のようにとられるのですが、歌もへたで、声もよくない、それなのにやれている、それはその逆の人よりずっと偉いことだと本当に思っているのです。なぜなら、歌も声も使ってこそ、意味があるからです。力が足らないことは、本人が一番知っているから、やれているともいえます。プロというのは、そのことがどのレベルでできるかでなく、その仕事がくるということで問われることだからです。

 仕事がこない、なら力をつける、そのときに、やれている人と同じやり方がとれるかどうかで見ると、大体の場合は、他の人のやり方はとれないのです。どんなに同じやり方をして歌ったとしても、おもしろくはなりません。似ているのはよしとしても、そこから、はみ出てくる個性が感じられないからです。そこで客は、歌は聞いてくれますが、心や財布は開きません。

 そもそも歌を教えるということが、先生のように歌いなさいということであれば、最初から、方向のとり方の間違いでしょう。正解の押しつけは、よくありません。

 どうしてプロがおもしろいのかというと、声だけではなく、その声を出すための彼らの音楽性とか、彼らの感じていることが、すべてミックスされているからです。その声だけを真似するということは、とてもつまらないことです。そこで多くの引出しが必要なのです。だから、声は、その人のもつ精神性の表われになるのです。


○声や歌を聞かせるのではない

 アーティストをたくさん聴いていたら、誰でもしぜんに歌がうまくなるということはあり得ません。トレーナーの発声を何度も聞いて真似たら、声がしぜんによくなることもありません。もちろん、うまくなる人、よくなる人もいます。そういう人はそれをキャッチできるアンテナがあり、そこに、うまく経験が伴ったのです。

 ところが日本では声とか表情が、変にゆがんでしまう人の方が多いようです。トレーナーをまねるとよくないところだけ、まねしてしまう。よいところをまねられるくらいなら学べているわけで、まねられるところは、よくないところとなるのです。

 そこで自分との接点を正しくつけなくては、トレーニングはできません。それが第一に学ぶことです。

 音楽というのは、音の中に刻んでいくものです。1秒の中に何が行われているかということを受けとめるところからスタートです。それを一瞬でも自分のものとして出せれば、それが線と色、フレーズと音色、つまり、あなたのデッサンとなります。一本調子といった、1フレーズに1つしか感じられなければ、声にはそうでます。プロは、そこにいくつも深く感じ、それを表現する術を磨いてきたのです。

 歌だから、難しいのではありません。「ハーア」と声を出すところだけでも、とても難しいわけです。何もない人が真似しても、何も出てこないのです。声が出ても、歌ってもそれに何ものっかっていないと何も伝わらないのです。

 つまり、声や歌を聞かせるのではなくて、声や歌に何をのせて伝えるかということが問われます。

 だから、元の声や出し方が少々悪かろうが、本当は大したことではないのです。伝えたいというものがあって、それを声を使って、どうやるかなのです。そこではじめて、声や発声、いや呼吸や感覚が問題となるのです。音程、発音などが、解決すべき問題の中心ではないのです。むしろ、音楽、リズムに、どうのせるかなのです。


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(2)レッスン論 何をどう学ぶのか

 

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