t自分の歌を歌おう

(2)レッスン論 何をどう学ぶのか


○学ぶ環境とシステムを得る

 もし、あなたが何かを手に入れたいとしたら、そのことが手に入ることがあたりまえになるような環境システムをセットすることです。そして、その上に自分の目標をおくべきです。

 この声とこの感覚があったら、こういうことがやりたいということが、何よりも優先してあれば、やがてそれは手に入るでしょう。その人にとっての本当の必要性があれば、ということです。

 しかし、あの人の声が欲しいとか、ああいう歌い方がしたいというのでは、いくらがんばって真似していても、大してものにはなりません。決してこういう世界のもつハイクオリティには届かないでしょう。

 一流のアーティストは、やりたいままに好き勝手に歌っているようにみえるでしょう。その中でどこが正しいとか、間違っているということはありません。要は、どのくらいすぐれて深いのかです。そのためには、どこまで、自分の絵がみえているかです。

 結果として、「私の描いた世界に、共感してよ」というところでやっています。だからこそ創造物=アートなのです。それを支えているものこそ必要性であり、感覚と体であり、その人の学ぶ環境とシステムです。


○状況に対応する力をつける

 ライブで、やれるということは、歌がうまいとかへたということよりも、客との信頼関係がどう築かれているのかということでしょう。客は、人生の大切な時間を、あなたに託しにくるのです。歌のうまさ、声のよさなどを見られているくらいでは、大して通用していないものです。要はあなたに会える、同じところで同じ時を過ごせる喜びに値するものを、あなたが出せているかです。CDでも同じ、買ってくれるのは、あなたの歌がその価格以上のものを与えてくれるからです。

 そこに歌が独立した作品として、どれだけの価値をもって働きかけているかということが問われます。

 それには、それを支えるあなたが、あなた自身であるということが第一です。人間性や人格のことではありません。声や歌に表われた個性の独自性のもつインパクトと魅力のことです。

 他の人の(歌の)ように歌ってしまうと、そこでその人の価値、つまり歌が出なくなるのです。それは、歌っている間だけの歌で、心に伝わることも、残ることもありません。時間も空間も、変わらなければ、何も起きません。何かを聴き手の心のなかに起こし、納めるために歌や声が使われるのです。

 そういうことに気づいたり、または近づくためには、徹底して、そういう状況に鋭く対応するトレーニングが必要なのです。いえ、一声で状況そのものを打破して創りあげるというべきものが必要でしょう。


○トレーニングの目的

 トレーニングは、何かの目的を達成するためにあります。それなのに、トレーニング自体が目的になっていく人が少なくありません。健康のためとか、ストレス発散のためにやるのも、音楽の効用としてはよいでしょう。歌うことで、癒されるのもよい。

 しかし、表現活動というのは、創造的な要素が第一です。声とか歌を使って、本気で何を表現したいかということです。その苦悶ゆえ、伝わったとき、分かち合えたときに楽しみ、喜びがもたらされるのです。人を結果として癒す、いや、力づけるのです。

 やれている人というのは、それを明確にしているわけです。それがない人たちは、誰かのように歌っているだけですから、何の価値にもなっていきません。人の心を動かさないのですから、やれていかないのは、あたりまえです。でも、声を出すということは無自覚であると、自分では心地よいだけに、そしてはまってしまう人が少なくないのです。

 そのことを“場”でぶつけて知っていくことが大切です。


○レッスンは、気づき、オンすること

 ここで私の思うレッスン(他のところや他の人に習うこと)の意味について、まとめておきます。

 まず、レッスンというのは、どんなところにいったとしても、それだけでは決して身にはつかないのです。レッスンの目的は、気づくことです。単に時間や量をこなすのではありません。できないことを見つけるのが、レッスンの意味です。だからこそ、何かを変える必要があり、多くはすぐに上達するのではなく、一時、へたになりします。これまで自分に足らない感覚や声(体)を同時にハイレベルで扱おうとすると、さまざまな矛盾が露わになるからです。そのために、気づき発見することができるのです。

 だからレッスンが終わったあとは、必ず、レッスンノートを書くことです。(私は、研究生全員にレッスンノートを書かせ、担当トレーナーと共に目を通しています。よい内容のものは他の人に気づきをシェアできるように、会報に載せています。)

 というのも気づかないこと、足らないこと、入っていないことは直しようがないからです。その必要性を本人が自覚していないから、変わりません。変わるには、まず気づくことです。

 ともかく、本当に必要のあるものは、必要のあるところまで身につきます。それを私は、自分の身、声をもって体験してきました。

 そのためには、練習量だけではなく、それに向けての気の遠くなるほどの時間や情熱のキープが必要です。そして、何よりも、レッスンで気づいたことを確実に身につけるためにトレーニングが必要です。

 トレーニングというのは、まわりの声に左右されず、一人静かに黙々とくり返しやるしかないのです。いくつも出てくる不安や迷いのなか、それを切り、ブルドーザーのようにパワフルに前進していく人だけが、地道にプラスαを得ていくのです。(ちなみに、「注意される」ことと「気づくこと」は全く違うということも、知っておいてください)


○テンションの高いこと

 レッスン時間のなかでレッスンになるのは、今までの自分のできぬことができる瞬間の変化を知ることとすれば、レッスン時間内に1分どころか二、三声もあれば、すごいものです。

 これは、スポーツでいうと、毎日、自己新記録を出すことにあたります。大半は、年に何度かそういう感覚や声を出せるくらいでしょう。それには、何よりも最高のテンションが不可欠です。

 私は2年間でたった1フレーズでよいから、プロとの接点がつけば、次の2年はそれを4フレーズにするので充分と思っています。そのために、すべてはあるのです。それがいかに難しいかは、一流のアーティストでさえ、歌ではそれを1コーラス1分間くらいでもたせるのが、やっとということでもわかるでしょう。(これをエンドレスにできるのが、天才アーティストでしょう)

 つまり、そこまでと、そこからその4フレーズを3分間の作品にまとめあげることに、すべてのノウハウは含まれるのです。

 参考に、多くの歌(特に日本人)は、1番のテンション、集中力、作品の完成度を、2番、3番では保てていません。


○本当の基本とは

 かつてのヴォイストレーナーは、自分が歌ったり、声を出したりして、それと同じようにやりなさいとやっていたらよかったのです。声のよさや発声、歌のうまさがプロの条件と、そのまま結びついていたからです。

 声がよいとか歌のうまいという人を求めて、プロデューサーや作曲家は全国を、相撲の弟子とりのように回りました。歌い手は歌えたら、詞も曲も服も振付けも、あとはまわりがすべて整えてくれました。

 今、そういうヴォーカルアドバイスは、すでに売れている歌い手や少なくともデビューが約束されている人にしか通用しません。

 トレーナーと同じ声が出たり、それが同じくらいに使えたからといって、何の力にもならないからです。それで通用するなら、そのトレーナーが歌ってヒットしているでしょう。なぜトレーナーができなかったことを、その力さえない自分ができると思うのでしょうか。

 いろんなことができた上で、そういうこともやりたいということであれば別ですが、昔の基本が今は基本ではなくなってきたのです。

 でも、それは私に言わせてみれば、もともと本当の基本でなく、声の応用技でしかなかったからです。

 本当の基本というのは、いつの世もどこの国でも通じるものでしょう。現に、私は、世界各国をまわるなかで、わざわざ歌やせりふにしなくとも、その道のプロにGood Voiceと評価されます。ありがたいことです。これこそ、私の第一の目標であったからです。

 さて、きちんと音の世界を聴いていくということ、そこで起きていることを見逃さないことと、その音楽を受けとめて、自分だったらどういう形で創るかということを磨くのが、本当のレッスンです。

 基本っぽいことばかりが、巷に広まっています。発声も呼吸法も形ばかりの基本らしきことでは、身につきません。それなのに教えている人は、皆、簡単だといいます。応用されず、実践してみてわからないような発声や呼吸法は、覚えても仕方ないと思うのですが……。

 本当の基本は、全身と全神経を使ってやるものです。たやすいものではありません。そして、どんな変化にも応じられる柔軟性をもつものです。それゆえ、一声で、示せるものなのです。


○レッスンとトレーナー

 私がレッスンでやってきたことは、それを示した上で、1音から半オクターブ、一つのフレーズから1分間保てるように膨らましていくようなことです。そのなかに、いろんな音楽や表現のパターンが入っています。音をつかみ動かすことから学びます。その延長上にムリなく歌が出てくるためです。

 私の他にも、トレーナーを置いています。今は、声楽家も二期会から、黒人のプロシンガーにも、一流で実績のある、さらに、私のレッスンをきちんと受けてきた人にも、お願いしています。レッスンで何に気づいて上達したということがわかっていると、その点をみんなに伝えてくれます。

 ただ、その人たちの気づいたように他の人が気づくかということは別です。トレーナーとの相性ということもあります。

 トレーナーにも、それぞれ得意分野があります。

 それだけに、研究生は混乱するのですが、それを超えてその中で自分にとっては何が必要かという選択ができなければ、本当に学べるようにはならないのです。

 全員が同じように育つのか? そんな低いレベルで問うなら、そのこと自体に意味がありません(トレーナーという一人の人間の方法論よりも、もっと大きなもので正されていく、そのきっかけを与えるのがレッスンの場であると思っています)。レッスンもまた、ライブであるべきでしょう。

 そこでは、自分自身を信じることが必要です。他の人のやり方で左右されてしまうのは、よくありません。トレーナーが誰であれ、誰についても正しいものは、自分にあるのであり、そこで受け継がれていないなら、自分のミスなのです。信じられるまで、やることです。

 つまり、自分との闘いなのです。ただの自分でなく、無心に努力し、学び続けていく、深い自分との出会い、他の人でなく、もっと大きなものに身を委ねるのです。

 トレーナーを信じられないというのは、つまりそれを判断する自分を信じられない、だから続かない。転々としたり、やったりやめたり、そういう人を、たくさんみてきました。

 ただ一つ、確かなことは、本当に真剣に全力でやった人は、決して他人のせいにしません。

 あなたが、世の中でうまくやれているとしましょう。そしたら、あらゆる人に感謝こそすれ、文句を言うような愚かなことをやらないはずです。そういう人は、やれていかないからです。

 先生やスクールをよく変える人も、問題です。文化やアートのベースは一処(ひとところ)で懸命にやること、どこでも3年間は学べるものがあります。学んだことが何だかわからない人もいます。それでもよいのですか。一生わからないとしたら、もったいない。何からも大きく学べる人は、少なくなったものです。


○十人十様のプロセス

 何もわからないうちは、声楽のレッスンを主に受けてもよいでしょう。声楽は土俵が決まっているため、おのずと基準がはっきりしているので、声のアドバイスするときには便利です。つまり、“声楽では、それは……”と言えます。一貫した基準があるからです。しかし残念なことに、正しく使えている人は、日本には稀有のようです。特に、ポピュラーを知らない声楽家には、困ってしまいます。

 まあ、それを補助にでなく全面的に頼ろうとするところで、よくないということなのですが……。何にしろ自ら主体的に使い切る能力が問われるのです。

 10代のうちは、まだ体ができていませんから、根詰めて声のことをやるよりも、感覚の力をつけていくことです。たくさんの優れたアーティストから、作品と経験を入れ込むことです。

 ともかく、それぞれが、伸びる時期も必要なレベル、最低限かかる年月もやり方もすべて違うから、個性なのでしょう。


○イヤートレーニングとステージパフォーマンス

 研究所の最近のレッスンでは、歌や声での表現をどう聞いていくかというイヤートレーニング、表現や舞台に何が足らないかということに気づかせるためのステージパフォーマンス、そこにどういう気づきの材料を放りこむかということに時間を費やしています。入っていないもの、足らないもの、気づかないものは、出てこないからです。

 私の頃はラジオを聞きながら歌詞を書きとめることが、イヤートレーニングになっていたのです。最近の人たちは目で見ているだけで、耳で聞くことに、ぞんざいです。

 そのため、耳の力が弱いのです。若い人の英語の発音がよくなったといっても、口先での発音だけで、そこでリズムを刻めるパワーと柔軟性はもっていないわけです。

 研究所のように、いつもよい音で音声の世界を真剣に聞き続けている人は、あまりいません。

 スタジオで、生の声や音源を、リアルに聴けるのは、何よりも大きな財産のはずです。声優や落語家の声の魔術にも学びましょう。


○感覚の切り替え

 ここでは、多くの外国語も音声として使っています。イタリア語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、もちろん英語も。

 外国語には、多くの音の世界があり、耳と発声器官を柔軟に使うトレーニングに有効です。耳と声を扱う器官の柔軟性を養えます。

 そして、私たち日本人の感覚を一時、向こうの人の感覚に切り替えさせます。声が楽に出やすく使えるような感覚や発声ポジションを得るためです。そこで、他の国の言語や曲を、たくさん使っています。

 さらに、声の働きかけを実感するために、向こうの曲にも、できる限り日本語訳詞を使うようにしています。

 私たちは日本人で、客も日本人、おたがいに日本語をもっとも理解して使ってきている以上、それで表現したときの実感として磨くべきです。

 キィテンポことばも、即時に感覚を移動させなくてはいけないレッスンが中心です。そこで、自分のことや体に足らないものがわかるのです。そこから、自分と自分の作品を知るヒントが得られます。創造せざるをえないようにさせ、おのずと創造させる余地をふくらませているのです。

 日本人はだめで、欧米人がよいといっているのではありません。どちらの感覚をベースにすると早く楽に身につくかということです。どちらもできた方がよい。使うときに選べばよいのです。何でもできる分にはよいということです。

 たとえば、人によってそれぞれ出しやすいことばや音が違うでしょう。ですから、メニュも自分専門のメニュを自分の手でつくるのです。


○唯一のメニュ、やり方などはない

 「一日でやり方を教えて欲しい、あとは一人でやるから」といわれることがあります。といわれても、困るのは、やり方にこそ、正しい経験と判断力が必要だからです。その人自身の目的や体を離れた既製の独自のメニューというのは、ないからです。メニュや方法は、それぞれ目的のためにあり、すべてのメニュをやりたいとか、どれをやれば一番よいかということではありません。むしろメニュや方法の差は大したことではありません。それを何のためにどう使うかが大切だからです。どのレベルで使うかということです。

 さらに、トレーニングというのは、身につくのに必ずタイムラグが出てきます。それを、他の人と同じやり方でクリアするのは至難です。今日やったから今日できるものではないのです。

 歌というのは、誰でも歌えるわけです。そこでできないというなら、よりできる人に比べて、いろんな部分で欠けているものがあることを知るからでしょう。

 多くの人は、それを発声、音程、リズム、発音、声量、声域のことだと思うのです。しかし、それがすべて満たされているのに、何も伝わらない歌がどれだけ多いかわかりますか。これらのことは弱点補強として、やることで、メインの課題ではないのです。正確であるのと、表現とは、別ものです。ピアノコンクールに自動伴奏ピアノが出る日は来るでしょうか。ただ、欠点をなくすようなレッスンでは、個性もなくなるのです。

 しかし、メイン以外のことをやるのが、メインの人が多い。つまり、習い事の好きなのが、日本人なのでしょう。

 まず、アーティストの感性で生きていること、そして何をどう表現したいかということがあります。そこではじめて、それを充分に人々に伝えるために、手段として欠けているテンション、感覚、体、声の芯、呼吸をつけるという順なのです。

 そのための体づくりには、とても時間がかかります。状態だけでなく、条件づくりからやるからです。私が思うに、やり方でなく、あり方なのです。それでもメニュの一例を知りたい人は、研究所のHPの100MENUを参照ください。

 こんなものは、一万でも十万でもつくれるのです。だからこそ、十もあれば充分です。ただ、そのために自分で自分を知りながらつくった100くらいのメニュが必要です。誰にでも通用する正しいメニュとかメソッドなどはありません。これも程度の問題です。誰でもうまくなる、誰でもすぐにできる、それゆえ、やったことのない人には、知識としては語れても、語らずにはわからない、伝わらないもの、やった人は誰にもできて、全く差もつかず、どこでもやれないレベル、つまりワークショップ用のものになるのです。


○トレーニングは必要悪、副作用もある

 トレーニングというのは、部分的に、意識的にどこかを強化するためにやるものです。そもそも、しぜんにできるのが理想なのに、効率を目指すから必要悪です。一時、バランスを崩したり柔軟性に欠けたり、副作用も伴います。これも、人や目的、優先順ややり方、時間などによって、大きく違います。

 トレーニングがトレーニングとなるということさえ、1、2ヵ月では、とてもできません。何事もそのことを意識しなくても、自分の体で対応できるようになって初めて自由に使えるわけです。

 たとえば、バッターが腕の力が弱いといわれたときに、腕立て伏せを100回やって、すぐにバッターボックスに入るわけはないでしょう。それが全然苦にならないくらいの力がついて、自分で気づかないうちに、それが結果に反映されたときに、初めて腕の力がついたということがわかるのです。

 たとえば誰でも、もっと大きな声を出そうとしたら、一瞬、体の準備がいります。そのように、準備を必要とした声では、音楽にはついていけません。その準備を全く感じさせずに、表現として出ているようになって、身についているといえるのです。


○トレーニングは、しぜんなものから抽出する

 ところがほとんどのトレーナーというのは、信じられないことにそれを同時にやらせようとしてしまうのです。

 「高いところが出ない」といったら、こう出しなさいと、「音程が取れない」といったら、この音を覚えなさいと、見本をみせて真似させるわけです。それを気づいていない人への指摘としては、悪いことではありません。

 でも、気づいていてそれができないのは、その人の調整できない感覚と、対応できない体が邪魔しているからです。つまり、その条件を入れていかないと、根本的な解決にはならないのです。そのまえに、それが本人に必要なのかという素朴な疑問もあるべきです。

 本人は欲しているが、それが本人のためにならないときどうするかは、いつも迷うところです。

 まずは感覚を入れること、そしてしぜんにとり出せるようになるまで、まわりの条件を整え、待つことです。

 何よりも、現にプロのヴォーカリストになった多くの人は、発声法もヴォイストレーニングもやっていません。素質として、発声はすぐやれてしまう人もいる。

 ヴォイストレーニングは、そういう名で単独にやるのではなく、そういう人たちのプロセスでなされていたもののエッセンスであるべきです。特別なものでなく、しぜんに結びつくものとしてあるのです。それを忘れてはなりません。


○レッスンでやるべきこと

 それでは、レッスンでやるべきことは何でしょう。

  1.自分の作品を創ること。〈オリジナルフレーズ〉
  2.自分の武器を磨くこと。〈オリジナルの声〉
  3.自分の勝負どころを知ること。
  4.自分の限界とその対処法を知ること。
  5.感覚と体を特化させていくこと。
  6.判断基準をもち、鋭い感覚で対処すること。
  7.まわりの人に働きかけること。
  8.プロに認められるものをつくること。
  9.プロに学ぶこと、一流のものを聴くこと。
  10.作品の本質をコピーして、感覚を磨くこと。

 以上のための基礎づくりです。


○表現に必要なところまで身につける

 プロは、スクールで教えられる“発声法”や“ヴォイストレーニング”をやったのではなく、自らの作品が求められるレベルになるようにするプロセスで、音楽を入れ、声を使い、結果としてその人に必要な発声やヴォイストレーニングをやってきたということです。表現を出したい方向に、声を伴わせてきたといってもよいでしょう。

 ということで、プロでも、日本では発声とかヴォイストレーニングからみると、ほとんどできていない人、アマチュアの一般レベルよりもひどい人もいます。でも、伝わるなら、そこに何かがあるのです。そういう見方が大切です。よい声、正確な歌、素人ではない発声、自己陶酔、感情移入たっぷりの歌に退屈しまくってきた私としては、それより、ずっとましといいたいのです。

 声や歌で悩んでいても、人前に出て活動することが優先するから、アーティストなのです。力不足を気力で補うから、輝くのです。

 その逆の声マニアは、つまらない顔して、目が輝いていません。人間的魅力や、パワーにも乏しい。だから、どんなに声があっても、歌がうまくてもやっていけません。発声のために歪めた顔や、生気のない声を見せびらかしてもトレーニング歴以外、何も語らないでしょう。

 初心者に技術をみせ、すごいと思わせたり、声も歌の力もなくても、やれているヴォーカリストを、高見から批判して自己正当化する、他に表現することがないから、そうなるのでしょう。

 日本人の歌にそこまでの発声や技術が問われていないということは、確かでしょう。しかし、たとえ外国人であっても私はこの1〜10が基本だと思っています。

 つまり、声は、技術として教わるものでなく、感性として身につけるものです。それは、一流のアーティストがしぜんと幼い頃から踏んできたプロセスを経ること、楽譜を声で置き換えるのでなく、音楽や歌が、原始に人の心に一声で働きかけたものを、今も変わらぬものとして、宿していくことにほかならないのです。

 たった一つに決まった正しい声とか、それを出すためのたった一つの正しい方法はないのです。ヒントはたくさんあるし、アプローチもたくさんあるというのは、確かですが。


○状態が飽和して条件となる

 頑張って、一所懸命にやったら伝わる、というのは、あくまで状態での話です。確かに状態というのは、モチベートしだいで変わります。でも、プロなら状態がどんなに狂っても、それを支える条件を作っておかなくてはいけません。

 スポーツをやったことがあれば、一所懸命にやるほど、結果が悪くなることは、わかるでしょう。無駄な力が入ってしまうからです。

 このように、常に経験したことについて思い出してみることも大切です。そして、どうすればよかったのか、考えてみましょう。

 ヴォイストレーニングは、最高の声や発声の完成のためにやるのではありません。現実には、声が最悪の状況のときに最善の状態にもっていく自分のやり方、術(すべ)を知っておくためにやるといった方がよいでしょう。基本トレーニングとその応用とのくり返しから、自分を知り、常に自分のベストに短時間で調整することが可能とするのです。ここでの条件とは、確かな声を捉えること。状態とはそれを放って歌に表わすことともいえましょう。


○体力、集中力をつける

 私が明日からプロ野球にいってホームランを打ちたいといっても、しばらくは、みっちり走れといわれるでしょう。プロの体は、状態でなく、それを支える条件からして違うのです。

 歌でも同じです。すぐれた歌を聞いて、その次元で本気でやりたいと思ったら、まず、声を出すことよりも体力作りと集中力において、一流のアーティストと同じくらいのものを持たなければ、到底ものになりません。気づくことさえ、できないからです。

 だから案外と、走る方が正解なのです。体力がなければ、集中力も保てないからです。声のコントロールには、最高のレベルの集中力が必要です。そういうものの足らない人は、それも一緒に身につけていくことです。歩くのがうるさい人とか、ドアの開け締めが雑な人などは、そこを直さないと、こういう世界には不向きです。音や他人に鈍いからです。


○身体の体験に学ぶ

 歌とか音楽で考えるより、踊りとかスポーツで考えた方がわかりやすいことはたくさんあります。スポーツは結果が突きつけられるから、わかりやすいのです。また、舞踏や他の芸術は目でみて比較できます。ダンスでも、バスケットのシュートでも、ビデオで見ると自分がやったことがイメージとどれだけ違うのかが、よくわかるでしょう。思ったより、ずっと悲惨でしょう。でも、プロがみたら、もっとうまくできていても、ひどいのです。歌も声も、同じことがいえます。

 ただ、これらは、音なので最初はつかみようがないのです。そのため、みえている人も少ないのです。それをみえるようになっていくことこそが、学ぶということのベースです。その上で、声をつかまえ、動かし、描き、しかも人の心に働かせなくてはなりません。

 スポーツでも、本当に強いチームは、プロの試合をたくさん見て比較検討するでしょう。ところが、だいたいは、努力が足らなかったと練習時間を長くし、意気込みで勝てると思いがちです。本当はそういう問題ではないわけです。

 レッスンでも、その中で自分はどれくらいできているかということより、何が足らないかということが問題になるのです。大してできているはずがありません。

 やり方のまえに、感じ方、考え方が大切です。そして自分で自分のトレーニング方法を作ることです。手探りでも、試行錯誤で、やっていくのです。

 そのためには、トレーナーや他の生徒という他の人は生身ですから、よい研究材料として使えるはずです。ちょっとした違いが、どのくらい大きいかがわかって、半人前です。


○ポップスの方法論は、歌そのもの

 私は、ポップスに関しては、ヴォイストレーニングとか発声法は、単独に方法論としてあるのでなく、歌うことが方法論そのものだと思うようになりました。歌の中でいろんな試みをすることと、ヴォイストレーニングで試みることは、違わないということです。

 ただ、それを歌という形でまとめて、作品として客に向けて切り出すか、その作品の支え、プロセスでの実験としてやるかどうかという違いはあります。客によっても変わるからこそ、歌であり、ライブです。変幻自在でありたいものです。

 しかし、トレーニングでの基準は揺らいではなりません。そこに、歌で自由に選択したり、変化したりするだけのベースを練り込んでおくということです。もちろん、初心者は正され、感覚的には、より深い基準を得ていくでしょう。

 だから、ベースは、常に声をつかめ、ことばのいえる(シャウトできる)ところにおいておきます。一時、ややフラットしたり、音色が暗くなっても、前に出ていたら、よしとします。歌になったときに、しぜんとひびきがまとまり、輝けばよいのです。この切り替えは、とても大切な感覚です。

 歌とか音楽の勉強といって、知識とか理論の方にいくのではなくて、むしろ自分が思ったように声を出してみることから始めてください。せりふも声も、ストレートに人に働きかけてみてください。そこから、みんなができるレベルでないことを、やる、あなただけしかできないことをどう出していくのかという、根本的なところを詰めていくのです。


○ライブということ

 たとえば、極端な比較ですが、あなたの、たぶん固定観念でこれが歌だと固まった歌と、私の講演と、どちらが自由ですか? ライブですか?

 私の講演会は、これまでの10年、音声で表現する舞台として、何千名のまえで一例として示してきました。

1.4時間にわたり、声で働きかけ続け、乱れさせない。飽きさせない(うーん、飽きた人もいるか)
2.客によって自在に変わる。いつも全くの第三者(身内でない)としての客を対象。
3.ワンウエイでなく、ツーウエイで始まる。(相手の望みをくみ、即興で折り込む)
4.他に誰もやれない。(と思うのですが……)
5.有料、予約制。
6.リピートして客が、やってくる。

 プロシンガーは歌で魅了します。私は声の基準を一声で示しています。外国人もプロの人も、実力のある人ほど、すぐにわかります。最後まで歌わなければわからないなどということは、ないのです。私の次の目標は、声を出さなくとも、通じる、伝わるようになることです。

 シンプル、本質的であることを、旨とします。

 論より証拠。百分は一見に如かず、です。


○創作を1日10編で2年、続けたら

 たとえば、作詞を教えて欲しいという人がいたとします。私なら、自分で毎日10篇、書きだしてみなさいというでしょう。それを2年間やると7000篇できます。その中で自分で手応えのあったと思う詞を並べてみると、どれがよくてどれが悪いかということが少しはわかるようになります。その中から、選び抜いた1、2篇を見せて指導を受けるのであれば、それはとても意味があります。つくる才能とともに、自分で選んだ眼力のレベルを問われるからです。

 実践なしに、指導だけ受けても、大したものにならないのは、声や歌も、同じです。

 週に一度くらいの個人レッスンだけでは、週に一個、作品にもならないものをもってきているのに過ぎません。(だから、研究所では最低、月に1回、人前でやる舞台をセットしています)

 「今の歌、どうでしたか」と聞かれても、聞かれて答えられるくらいでは、それだけのものでしょう。

 何ら、人の心を揺さぶらず、感動もさせないでしょう。なぜ、感じられないのでしょうか。そこで、ことばが消え、立ち上がり抱きしめたいと思うだけのものを。でも、果たしてあなたは出したのか、いや、出そうとしたのかということです。その自問から、すべてはじまるのです。


○やれるレベルと基準

 研究所では、99%は本人がやること、私やトレーナーは、それを導く核としての残りの1%くらいの役割だと思っています(特に、有能なトレーナーを迎えた今は、歌う才能は彼らに任せ、私は世界の歌や声を聞いてきた眼力(聴力)、判断力、つまり耳の力で、対しています)。教えるよりも、鏡として、やっている人の実際を写し出すこと、そこでわからせることが大切だからです。

 声で、もし聞こえてくるものがあるとしたら、第一に、本当にその人が真剣にそのことに誰よりもこだわってやってきたという姿勢から伝わってくるものがあります。それで、だいたい何を歌っても伝わるのです。ことばを間違えようが、そんなことは誰も大して聞いていません。そういうレベルでの力をつけていく方向でやるのです。だから生活であり、感性なのです。

 となると、やっている人へは、精神的なアドバイスや考え方を説くこと、音の世界をみせ、自ら、創らせることが大切です。

 もちろんやらない人には、やるようにさせることが必要です。でも、やりたくてやるのに、それはどういうことでしょうね。

 多くの人は、自分の歌を50〜60点くらいと漠然と思っています。それが10倍くらい伸びるという可能性を気づかせていくためには、それが5点にみえる基準が必要です。そして、そこで足らないものを埋めていくために気づきの契機(そう簡単に気づくものではないだけに)、具体的なトレーニングの材料を与えることが、レッスンなのです。


○トレーニングをやらずにやれた人を目指すな

 きれいな声でうまく歌える人はどこの国にもいます。声が魅力的で、もうそれを聞いたら、歌がどうであろうと、その声に惹かれてしまうという人も何万人に一人くらいいます。カーペンターズのカレンなどの声質、これは生来の楽器そのものの性能です。でもそれはトレーニングではできないことです。

 トレーニングをやらないでできる人を追いかけることほど、難しいことはありません。

 トレーニングでは、できることをやるしかないのです。ですから、声質そのものをよくするよりも、声をパワフルかつ繊細に使いやすくするという基本に戻ることです。

 J-POPの歌い手にも多いのですが、ただ幼い声から一流のアーティストで、声と歌を入れてきているからこそ、正され、伸びたともいえます。

 でも、生まれつきとまではいかないですが、天性で決まるところも少なくないのです。たとえば、高い声一つとっても、有利な人と、そうでない人がいます。


○J-POPを使わない理由

 私がJ-POPの歌を、そのまま扱わないのは、日常の声レベルのパフォーマンスだからです。

 感覚を拡大して、よみ込むのに使いにくいからです。せっかく時間を費やしたのに、カラオケでほかの人並に歌えたくらいが成果というなら、あまり意味はありません。

 まして、ルックスのよい人、ビジュアル系でやれるという人は、前項の理由からも番外です。

 今日の日本のJ-POPのヒットは、プロとしての歌唱力を聞かせるよりも、カラオケで素人が挑戦しやすいようにしようというような意識に塗り変えました。だから、音響技術なしでは成立しません。ハイトーンのところまで無理にくせをつけた声を出して音響で加工してならします。

 声が高さに届くかどうかというのはもっとも簡単でわかりやすい基準だから、アマチュアの安易な挑戦目標になりやすいのです。しかし、これは音域の広い(横に長い)ピアノの方がよいピアノだというくらい無意味なことです。マイクなしで届かない声は、私の思う基本ではありません。

 また、表現ということでは、今流行っていることをやっても遅いわけです。どうせなら、30年前から今に選ばれ伝わってきたものに学んだ方が、あと10年経ったとしても、褪(あ)せないものが身につくはずです。

 J-POPで、生来、声と感覚のよい人の場合は尚さら、学ぶ教材には難しく、まね、くせをつけることになります。


○思想、表現を学ぶ

 研究所ではカンツォーネ、シャンソン、ジャズ、オールディーズ、スタンダードナンバーを中心に使っています。それは日本のものやロックだけを取りあげるよりも、広く世界中の音楽の方がいろんなリズムやメロディ、発声の感覚が入っている、わかりやすいというか、体に浸透しやすいということ、さらに時代を現実に動かしてきたもの、歌い手の思いに、思想とか表現が入っているからです。(現に、私も、そこに心を動かされてきたからです)

 そういうものがあなたに宿らなければ、本当に人の心に伝わらないし、残らないでしょう。聞いた人の心に残り、その人が他の人にも伝えたい、後世の人にも残したいと思うから、すぐれた作品は永遠の生命を得るのです。そこに直接、学ぶべきです。多くのアーティストがそうであったように。


○歌う必要

 まず、あなたが歌にする必要、歌う必要がどこにあるのかを考えてください。せりふで伝わることはせりふでやればよいでしょう。私は、話で伝わるものは講演でやり、活字で伝わるのは本やHPや会報ですませています。

 講演では、本で伝わらない声のことをやるのです。レッスンでは、講演でできないことをやります。

 あらゆる手段を含めて問うからこそ、どう歌うかということも定まってきます。さらに、そこからバンド伴奏などとの役割分担や声、歌の活かし方、みせ方も決まってきます。優れたアーティストが、今や詩(詞)、作曲、演奏はもちろん、舞台構成、衣裳、演技、文章、脚本、絵、映画などでも才能を発揮していることは、今さら述べるまでもないでしょう。

 応用された作品である歌の判断は、やっかいなものです。それが好きなファンも嫌いな人もいる。人に働きかける以上、誰かの心には入るけど、誰かには嫌われます。だからこそ、ポリシー、スタンスが決まってくる。

 ましてやっかいなのは、「歌う」という形です。「私はその歌を歌いたくない」「そういう歌い方はしたくない」「そういう声をめざしているのではない」ということになりがちです。これは、ファンとしての立場や好きな曲への思いとの混同です。好きな歌い手やトレーナーの歌の形を真似ることは、非創造的な時間になりかねません。私が歌でなく声のフレーズ、働きかけというのを基本としてこだわるのは、そのためです。


○普遍的なものをめざして

 人間の中で表現できるものというのは、喜びや悲しみ、人類愛とか大自然とかくらいでしょうか。そんなに複雑、難解なものではありません。誰にでも共通する思いや感情、叫びが中心です。それを音声という抽象化された世界では、自由にイマジネーションを喚起するから、ことばを超え国を超えて伝えることもできます。

 つまり、歌詞とかメロディではなく、そこでの音色、音声まで戻ってとり出して扱うことが基本だということです。そこまで戻ることにより、いろんなものがとりこめるようになってきます。その根底をつかむことです。イマジネーションで及ばないなら、体験で克服することです。これが、歌→レッスン→トレーニングということになります。

 今の歌の多くは、どうも形が先に作られてしまっています。メロディに歌詞をつけて、歌い手がそれなりにこなせたところで、どれだけのものでしょう。その形の中で何も動かなくなって不自由、極まりない。そんなところでは、本当の会話は、できないでしょう。まして、世代や国を超えられません。歌の方が自由になれるから、歌うのではないでしょうか。


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(3)発声・歌唱論 日本人の声・歌の限界と突破法

 

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