― 音声を舞台で表現するために ―
プロフェッショナルへの伝言

めざせ、アーティスト!
学び方のヒント

 

[ セレクト集
8−1 “鏡”

あなたのことを
幸せな人だな、と思います

なぜなら
愛する者のために
命を削って生きているから

あなたのもとに集う人々
その目はおせじにも澄んでいるとは言えないかもしれない
あるものはあなたを『声』と呼び
またあるものはあなたを『成功』と呼ぶ
しばらくしてきびすを返して去っていく
『なんだ『声』じゃなかったのか』
『『成功』じゃなかったのか』

しかし別なものはあなたを『鏡』と呼ぶ
曇ることなく自分を映し出してくれる『聖なる泉』に行き着いたと
自分の目で自分をみるには
そう、『鏡』が必要なのです
変な顔をしたら『その顔変だよ』
みっともないことをしたら『かっこわるい』
自分のありのままをうつしてくれる『鏡』が

でも『鏡』はしゃべりません
白雪姫のお話の『鏡』は偽物です
『鏡』は判断しない
『鏡』はあるがままの姿をあるがままに映すだけ
判断するのはいつだって
姿見のもの

姿見のものはつらい
だって醜い自分ばかりがうつる
だって、いくじのない自分ばかりがうつる
姿見のものは目をそらす
『『鏡』なんていらない』
『鏡』をみなければ自分を嘆くことはない

しかしある日『鏡』がみたくなる
再び姿をうつしてみる
ああ...
そこにうつる姿は、以前の自分よりも
もっと醜い自分だった...

「気づいたよ...
 自分には『鏡』が必要だと
 小さい自分を『小さく』映してくれる『鏡』が
 それでぼくは自分の小ささがわかる
 自分がまだ足りないことにきづく
 もしも
『鏡』がなかったとしたら
 ぼくは自分の姿を自分の目でみることはできないから
 自分の目の色を
 本当は青なのに黒だ、ということもできたんだ
 そして、他人はぼくの目をみてわらうだろう...」

『鏡』をみつけられる人は運がいい
自分の目の色がわかる
自分の肌の赤みがみれる
自分のからだの大きさを知れる

別なものはあなたを『鏡』と呼ぶ
曇ることなく自分を映し出してくれる『聖なる泉』に行き着いたと
かれらはあなたを愛し
あなたもかれらを愛す

『鏡』が『鏡』であり続けるための努力について
誰か考える者はあるだろうか?
他の仕事をすること
それが私には
あなたが好きでやっているようにはみえない
そう『鏡』が『鏡』であり続けるために必要な条件...

ほかのどんな時よりも
かれらの中にいるあなたが
一番幸せそうです
それはきっとかれらがあなたの前で服を脱ぐからでしょう
少なくとも脱ごうとしているからでしょう
だから
『鏡』であろうと、無理をするのでしょう
無理をしたいのでしょう

『鏡』よ『鏡』よ『鏡』さん
わたしは
あなたを
幸せな人だな、と思います
なぜなら
愛する者のために
命を削って生きているから
少なくとも、愛する者は
幸せにしているから  それでは!


8−2 「リブ・フォエヴァー」

初め私はこの曲はONE SWEET MOMENTを選んだ歌だと思ってました
『永遠の生』なんていらない
私が欲しいのは『至高の一瞬』を、と
まあ、間違ってはいないが、いかにも端的でした

もちろん
この歌は『至高の一瞬』を選んでいるのですが
その後ろには、断ち切れない『永遠の生』への想いがあります
つまり
『永遠の生』がいらないのではなく
『永遠の生』は手に入らない どんなに望んでも どんなに努力しても
だから
その枠の中で生きる僕たちは
『至高の一瞬』を求めるのだ、と

ほんとうは
『永遠の生』が欲しいのです
そしてそれがだめだとわかっていても
なお、求めずにはいられない...
死をまぬがれない人間の宿命的な悲劇が、ここにはあります
だって、死ぬなんて、怖いよね


ベッドミドラーのうたった名曲「THE ROSE」の一節
THE SOUL AFRAID OF DYIN'..
BUT NEVER LEARNS TO LIVE
<人は死ぬことを恐れて、生きる事を学ばない>
「限り」を恐れて、目をそらしてしまったら
「限り」を宿命として内包した「生」は学べない・・・
そう『永遠の生』への想いは断ち切らないと
「生」は、学べないのです

でもそれの、なんと難しいことでしょう
理屈ではわかる
そうだよね、と思うだけど...

ほとんどの人間は、弱くて、
死を恐れ、生きることをしない内に、本当に死んでしまうのです

『至高の一瞬』を手にするには
心も体も、存在のすべてを傾けなければだめです
すべてを捧げるから、すべて=永遠が手に入るのです
このことを一番がんばってます、ではだめで
すべて、が要求されるのです
自分の全体重をその一瞬にかけて
その次の瞬間には、すべてが終わる
かけた体重のまま、寄りかかっていたものをなくし、墜落していく
絶頂からどん底へ
それが
『至高の一瞬』の正体です
絶頂だけ、は選べない

墜落して..
    下手すれば死んじゃうかもしれない
     死なないまでも、
      身も心もボロボロになります
その痛みをひきうける強さが
『至高の一瞬』には必要です

更に問題なのは
果たして人間は『至高の一瞬』だけで生きていけるだろうか?ということ

例えば恋愛についての『至高の一瞬』について
必死に『至高の一瞬』を掴み取ったとする
けれど、今、彼はそばにいない
これからもいないだろう
あれは、もう現出することはないのだ
『至高の一瞬』をなまじ知ってしまっているがゆえに
生き地獄かもしれません
だから
『至高の一瞬』を見てしまった者はドラックや酒におぼれたり、死んじゃったりします

素晴らしいものを手にした
しかし、人は死ぬ
つまり、どんな形にしろ、その素晴らしいものを失うのだ いつかは..
素晴らしければ素晴らしいほど
失うときは、身を切られるほどつらい

だから多くの人は
自分のコアをひっくり返すような
素晴らしいものをつくらないようにします
だって、いつかは、なくすんだから
なくせないものをなくしちゃったら...おしまいじゃないか?

でも
それって、生きてないよね

『永遠の生』があって『至高の一瞬』を手に入れられたら
何の問題もないんだけどね
そうはいかない
そうは、絶対にいかない
だから
『永遠の生』を夢見て、生きようとしない人がいて
一方では
『至高の一瞬』を手に入れて、失って、ボロボロになる人がいる

リブ・フォエヴァーは
『永遠の生』を思い断って
『至高の一瞬』を選ぼうとする
ねえ、みんな、生きようよ!
といっているみたいに
この歌を口にできるほど愛するもの..
『至高の一瞬』を選ぶことによって

自分の身に降りかかる、苦しみを
あえて引き受けられるほど愛するもの
ほんとうは誰にだってひとつくらいあるかもしれないけど...
『至高の一瞬』を選ぶのは本当に難しいことです

時間芸術である歌は、まさにこの『至高の一瞬』を現出させられるかどうかが
一流とそれ以外の歌い手との別れ道です
『リブ・フォエヴァー』...
この曲を歌うジョルジアは本当に、神々しいまでに美しいです
『至高の一瞬』へ身をゆだねる、覚悟も強さも持ちわせている
それは、まるで、オリンピックで自分の限界にいどんでいたアスリートのような顔です

このステージ自体が『至高の一瞬』でした
ジョルジアは当時23歳
サンレモで優勝して脚光をあび
自国イタリアのスーパースター パバロッティと競演する大チャンスを得て
大観衆の前で歌う
数多くのレパートリーから選び取った曲は『リブ・フォエヴァー』
恋愛ソングなのだけれども
まるで、
同じ時代に生きて、同じ時代に死に行く愛すべき人々への、
応援歌のようでした
つらいけど、生きていこうよという
彼女は歌は本当に上手いけど
多分、一生に数度しかできないようなステージだったのではないか、と思います
舞台設定、当時の状況、観客など
『至高の一瞬』ができあがる条件がすべてそろうなんてことは、そうないのですから
力がなければもちろんだめですが、
たとえ、どんなに力があっても...
そして、そんな数少ないチャンスをきっちりとものにしたジョルジア
すごいなあ

アウシュビッツで殺された子供たちのことなどを自分の作品にとりあげる
“叫ぶ詩人の会”のドリアン助川さんに
『こんなにいろんなことを背負い込んで、つらくないですか?』
とインタビュアーが聞いた
『味あわなくて何の人生じゃい!』
と彼は叫んだ

でも
強くないと、できないよね
『至高の一瞬』を追い求めることによって身に降りかかる苦しみ
それを引き受けてヴォーカルは行くんだね
今は苦しいかもしれないけど
いつかトップアスリートみたいな表情で
『リブ・フォエバー』を歌ってみせてよ
生きようとしない同じ時代の人達に
生きる素晴らしさを教えてください
がんばれ!


8−3 細胞の意識をとり出す

 自分は、自分自身で考えているよりもっとずっと遥かに、自分のことは知らないんだということ。
 『自分』といったとき、それが体と魂をさすとすれば、私たちはなんと自分を知らないことか? 
一日の生活を振り返ってみればいい。一体、自分は自分のどれくらいを『意識』して使っているのか?
それに比べて、なんと果てしなく膨大な組織が記憶が、自分に含まれているのか?


 『体のすべてを使って声を出す』といわれたとき、使っている意識できている『体』 はどのレベルまでなのか?
 細胞だって、分子だって、生きている。生命体レベルでそれぞれ意志を、記憶もっている。自分で統御するしないに係わらず、数え切れないほどの生命体がこの『自分』の中には息づいている。そんな大宇宙の統御者であることをいつ、どれくらいの頻度で人間は考えるのだろう
 それら生命体のしたがっている法則は?『自分』という統御者ではなく、もしかして宇宙の大きな流れなのかもしれない。なぜ、私たちのからだはこんなにも『ルナ』の影響を受けるのか?

・もっと、自分を知りたいと思わなくてはいけない
 意識して自分の宇宙の住人に話しかけなくてはならない

・魂..膨大の記憶の宇宙に対して。意識して、彼らを訪ねること

・ 体..自分の構成者達を。知覚して触覚して。

 あなたの魂はあなたが思っているより、もっとずっと奥行きがある
 あなたの体はあなたが思っているより、もっとずっと複雑だ
 目で見えるもの、自分の外ばかり見ていて見失ったもの
 人間はもっともっと自分を知覚できるようにならなければならない
 もし、本当に歌いたいなら 
 知覚できてないものが、自分=統御者と一緒に歌ってくれると思う?
 もっと多くの『体』と歌おうよ
 もちろんばらばらの歌ではなくシンフォニーを。
 その際、彼ら生命体と同じ『ゆらぎ』を知る必要があるのではないか。目には見えない宇宙のバイブレーションを感じ、その大きな流れに身をまかせて漂う。
 自分を失うかもしれない恐怖心を克服して、『生命を神様にあずける』こと


8−4 偉大な秘密

 フンパーディングが超能力者であってもおかしくないな、と思う
 きっと、あんな声がだせる人は、トップアスリートと同じような体験をしているのではないかと想像する。

 アイルトン・セナがあるレースのあと『今日僕は神を見た』といったことがあった。それを聞いて記者達は『またセナのホラが始まったよ』と揶揄した。しかし、その話を記者から聞いた中嶋悟はこういったという。『君達、時速300キロの化け物みたいなマシーンに乗って自分の極限状態に挑戦したことある?ないんだったらわからないだろう。彼にはそれが見えたのかもしれない』

 『表層意識や、意志の力では決して得られないある種のつながり、引き合い、調和が生まれる』それが『スポーツの最も偉大な秘密』と述べられている。

・ヴォイストレーニングもそうなのではないのでしょうか?
・ある生徒がこんなことを言ってました
 『すごくわかるんだ。声が出せている人が当たり前のようにわかっていて、私にわかってないことがあるって。息吐きの数とか練習量とかそういうことじゃなくて、彼女たちが3カ月でもやっていた何かが、2年経った今でも私にはわかっていない。想像もできない』

 その時思いました。その生徒はその生徒で考えつく限りやっている
 それなのになぜ、ある人が初めから、当たり前のようにわかっていることが、いくらやっても彼女には降りてこないのか?
 結局この『最も偉大な秘密』を知っているか知っていないか、なのではないのでしょうか?
 そう、この『最も偉大な秘密』の状態というのは、体験したことのない人、それを知覚したことのない人にとってはまるで『超能力』のように別の世界の話だったりするのです

・集中することの大切さは誰でもしっている、その人なりにやっている
 しかし、集中のレベルのステージが各人それぞれなのであるということは容易に想像できます
 表層意識や、意志の力では決して得られないもの
 本能のレベルまで降りていく感覚を知っている人は、そう多くはないのではないでしょうか?

・ スポーツをやっていた人の方が上達が早いというのは、こういう理由もあるのではないでしょうか?声にすんなり入れた人というのは、すごく共通点が多いような気がします

・声ができている人に練習法を聞いてもなんのヒントにもならないんだそうです
 『息を吐いて、ポジションをとる練習をする』という答えなのです。
 それは、自分でもやっている、ということになります
 しかし、きっとその答えを言った人は、本当に、それだけを考えてやっているのだと思います

 本能まで降りていく感覚。
 ある人にはあたりまえで、
 ある人はそれがあることさえ知らない
 意志での深い声と
 本能での深い声、それが
 いつか交わる日はくるのでしょうか?
 それとも本能にたどり着かなければほとんどゼロなのでしょうか?
 それならば、本能を、見せてください


あとがき1 キツネの話

目次

HOME