― 音声を舞台で表現するために ―
プロフェッショナルへの伝言Vol.1

めざせ、アーティスト!
学び方のヒント

 

 

あとがき1 ―キツネとバラの話―
(「96.7合宿特集レッスン 編纂 古賀まりあ」より)



 一流のもの、そこに受け継がれたものをなるべく汲み取って欲しいということでも、材料を提供しました。「星の王子様」の意味は、何もわからない頃に読んできた人もいるし、成人してからも読んだという人もいるようです。

 今回のテーマは、リブ・フォエバーということば、そして、この「星の王子様」(サン=デグジュぺリ 内藤濯訳)です。これそのものがテーマというよりも、ここでやった歌でも他のものでも、一流のもの、受け継がれたもの、それを歌の場合は時間を音の世界にして勝負しますが、同じものだということです。その意味をまとめ、組み立ててみました。自分なりに、読み直してみてください。解釈のヒントだけ与えておきますので、あとは自分でもっとふくらませてください。すると、ここで言うよりも深い意味がつかめると思います。だから、名作、一流の作品は世界に普及するし、生き残るのです。触れた人がそれぞれに自分で深くできるからです。

『そこにきつねが現れました。こんにちはときつねが言いました。こんにちはと王子様はていねいに答えて振り向きました。』(『 』内原文 以下、同じ)
 何も見えません。見えた人には見えていますが、何も見えないのです。

『ここだよ、りんごの木の下だよ』
 私はいつもこれを言っているつもりです。しかし、見えない人にはいつまでも見えないのです。

『キツネの声が言いました。すると王子様は君誰だい、とてもきれいな風をしてるじゃない、と言いました。そこで仕方がないから、オレ、キツネだよとキツネは言いました。』
 とても身につまされます。

『僕と遊ばないかい、僕本当に楽しんだから、と王子様はキツネに言いました。』
 一つ決め手となるセリフがあります。『オレ、あんたと遊ばないよ』とキツネは言うわけです。キツネは歌と考えてください。『飼い慣らされちゃいないんだから。』飼い慣らすというのもキーワードです。

『とキツネが言いました。飼い慣らすって、それ何のことだい。』
 ちょっと途中を省きます。

『よく忘れられていることだがね。仲よくなるということ。』
 僕と仲よくなったよとか、そんな程度のものではないですよ。イマジネーションを働かせてください。わかりにくいからもう一回、述べます。「仲よくなる」ということは、どういうことでしょう。

『うん、そうだと思う。オレの目から見ると、あんたはまだ、今じゃ他の10万もの男の子と別に変わりがないさ。男の子だもの、だからオレは、あんたがいなくてもいいんだ。あんたもやっぱりオレがいなくってもいいんだ。』

『あんたの目から見ると、オレは10万ものキツネと同じだ、だからあんたがオレを飼い慣らすとオレたちはお互いに離れていられなくなる。』
 「飼い慣らし仲よくなると、僕と離れていられなくなるよ」そんな意味ですね。

『あんたはオレにとって、この世でたった一人の人になるし、オレはあんたにとってかけがえのないものになる。』
 最初から、そのような関係に「ある」ということではないのですね。「なる」、つまりその前に飼い慣らす、仲よくなる手続きがあるわけです。

『何だか話が少しわかりかけたようだね、王子様が少し考え込みます。』
 自分が来た星に、花が一つあって、その花が僕になついていたようだった。キツネとは初めての出会いなので、よくはわからない。そこで、自分の過去を振り返って、あの星に花があった、この花は自分になついていたことを思い出します。飼い慣らす、仲よくなるということから、そう浮かんだのでしょう。キツネは言いました。

『オレは同じことをして暮らしているよ。
オレがにわとりを追いかけると人間のヤツがオレを追いかける。
にわとりがみんな似たり寄ったりならば、人間もまた、似たり寄ったりなんだ。
オレは少々、対立してやるよ。
だけどもしあんたがオレと仲よくしてくれたら、オレはお日さまに当たったような気持ちになって、暮らしていけるんだ。
足音だって、今日まで聞いていたのと違ったのが聞けるんだ。
他の足音がすると、オレは穴のなかに引っ込んでしまう。
でも、あんたの足音がすると、オレは音楽でも聞いているように気持ちになる。
穴の外にはい出すだろうね。
それからアレッ見なさい。
あの向こうに見える麦畑はどうだい、オレはパンなんか食いはしない。
麦なんかなんにもなりゃしない。だから麦畑なんか見たところで、思い出すことなんか何にもありゃしないよ。それどころか、オレはあれを見ると気がふさぐんだ。
だけどあんたの(王子様の)その金髪の黄色い髪は美しいな。
あんたがオレと仲よくしてくれたらオレには、そいつ(麦畑)がすばらしいものに見えるだろう。金色の麦を見るとあんたを思い出すだろう。それに麦を吹く風の音もオレにはうれしいだろうな。
キツネは黙って王子様の顔をじっと見ていました。
何ならオレと仲よくしておくれよ。とキツネは言いました。
王子様は言います。
僕はとても仲よくなりたいんだよ、だけど僕、あまり暇がないんだ。友だちを見つけなきゃならないし、それにしなければならないことがたくさんあるのでね。
キツネは言います。
自分のものにしてしまったことじゃなきゃ何にもわかりゃしないよ。人間ってヤツは、今じゃもう何もわかる暇はないんだ。商人のお店で、できあいの品物を買っているんだ。友だちが売りものにしている商人なんか、ありゃあしないんだから。人間のヤツ、今じゃ友だちなんかもっていやしないんだ。あんたが友だちが欲しいのなら、オレと仲よくするんだ。』

 うちの店(研究所)にもよく来ます。声が欲しいんです。いくらですか、何日で身につきますか。この歌をどう歌うのか教えてくださいよってね。

『キツネが答えました。辛抱が大事だよ。オレと仲よくするためにどうしたらいいかということ。最初はオレから少し離れてこんなふうにふたの中に座るんだ。オレはあんたをちょいちょい横目で見る。』
 皆さんも人と初めて会うとき、同じだと思います。人と会ったとき、知り合うときです。

『あんたは何も言わない、それもことばってやつが勘違いのもとだ。』
これもよく言っています。ことばということの限界、皆も自分のモノトークをもう一度、よく読んでみてください。自分のことばのなかで束縛されてしまうものです。そこで突き詰めなければいけないのに、そこで止まって次に移ってしまったり、他のところに目を向けたりして、大切なことに戻れないことが、ずいぶんとある気もします。ことばというやつが勘違いなのです。
 最初はことばは交さないわけです。横目でチラチラやる。何も言わない。辛抱が大事だということです。一日一日経っていくうちに、あなたはだんだん近いところに来て座れるようになる。ことばはないところから生じ、やがてことばを交わすようになり、そしてもっと親しくなると、ことばはまたいらなくなります。

『ある日、王子様はまたやってきました。
するとキツネが言いました。いつも同じ時刻にやってくる方がいいんだ。
(手続きだから。)
あんたが午後4時にやってくるとすると、オレ3時にはもううれしくなりだすってもんだ。そして時刻が経つにつれて、オレはうれしくなるだろう。
4時にはもうオチオチしていられなくなって、オレは幸福のありがたさを身にしみて思う。
(好きな人と待ち合わせするときのことを考えればわかると思います。)
だけどもし、あんたがいつも構わずやってきて、いつあんたを待つ気持ちになっていいのか、てんでわかりゃしない。(パッと手に入ってしまっても困るわけです。)
きまりがいるんだ。(きまりというのも一つのキーワードです。)

きまりってそれ何だい、と王子様は言います。
そいつがまた、とかくいいかげんにされているやつだ。
キツネが答えます。
そいつがあればこそ、一つの日が他の日と違うんだし、一つの時間が他の時間と違うわけだ
(私たちの仕事は、一つの時間を違う時間にすること、価値をつけることです)
オレを追いかける狩人だって、やっぱりきまりがあって、木曜日は村で娘たちと踊るから、木曜というのがオレにはすばらしいんだ。木曜になるとオレはぶどう畑まで出ていくよ。だけど狩人たちがいつでも構わず踊るのだったら、どんなときも同じで、オレは休暇なんかなくなってしまう。
(仲よしになるプロセスがありますが、時間の関係で省略します。王子様の星の話に戻ります。)

もう一度、バラの花を見ててごらんよ。
(今回は、そういうプロセスを踏んだはずです。)
あなたの花が世の中に一つしかないことがわかるのなら、それからあんたがオレにさよならを言いに、もう一度ここに戻ってきたら、オレは、お土産に一つ、秘密を贈り物にするよ。(この秘密こそが本当に大切なものだと思います。)

そこで王子様は、もう一度、バラの花を見に行きます。そしてこう言いました。
(バラに向かって言うわけです。王子様の星のバラではなく、ここの星のバラです。)

あんたたち僕のバラとはまるっきり違うよ。
それではただ咲いているだけじゃないか。誰もあんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちの方でも誰とも仲よくしなかったんだからね。
僕が初めてでくわした自分のキツネと同じさ。
(もうキツネのことばがわかっているわけです。)
あのキツネははじめ、10万ものキツネと同じだった。だけど今では、もう僕の友だちになっているんだ。この世に一匹しかいないキツネなんだ。
そう言われて、バラの花はたいそうきまり悪がりました。
王子様は言います。
あんたたちは美しいけれど、ただ咲いているだけなんだ。あんたたちのために死ぬ気になんかなれないよ。
(なぜだかわかりますよね。)
それは僕の花も何でもなく、そばを通っていく人が見たら、あんたたちと同じ花だと思うかもしれない。(別に特別な花ではないわけです。ただ何が特別かというと、)だけどあの一輪の花が僕には、あんたたちみんなよりも大切なんだ。だって、僕が水をかけた花なのだからね。覆いガラスだってかけてやったんだ。ついたてで風に当たらないようにだってしてやったんだからね。毛虫の2つ3つは、チョウになるように殺さずにおいたけれど(そんなに手数をかけたということです)。不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやったし、黙っているならいるで、どうしているんだろうと、ときには聞き耳をたててやって、そうしてきた花なんだからね。僕のものになった花なんだから。
こういって王子様はキツネのところへ戻ってきました。

じゃあさようならと王子様は言いました。さようならとキツネが言いました。
(キツネが秘密を教えてくれます。ここで初めて教えてくれます。)

さっきの秘密を言おうかね。
なに、何でもないことだよ。
心で見なくては、ものごとはよく見えないということさ。
肝心なことは目に見えないんだよ。
(心で見なければものごとは見えないということです。)

肝心なことは目に見えないと王子様は忘れないように繰り返します。

あんたのバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラのために暇つぶしをしたからなんだよ。
(暇つぶし…決してよいことばのようには思われていませんが、大切なことばです。暇つぶしをしたからだ、飼い慣らす、仲よくなる、手続き、暇つぶしをした、今、4つのことばを言いました。)
僕が僕のバラの花をとても大切に思っているのは、王子様は忘れないように言いました。
キツネは言いました。
人間というのは、この大切なことを忘れているんで、だけれど、あんたはこのことを忘れてはいけない。面倒を見た相手にはいつまでも責任があるんだ。守らなきゃならないんだ。バラの花との約束を。
(きまりということばが出ました。約束ということばも出ました。)
僕はあの花と、バラの花との約束を守らなきゃ、王子様は忘れないように繰り返しました。』
このところが、大切なところです。



 これと、今回のリブ・フォエバーのメニュの組み立てとが結びつきましたか。
 あの人わかってないんだろうなと、人のことを見ていても仕方がないですが、それを自分のこととして喚起できればよいと思います。自分もできていないということはわかっていないということなのに、それを忘れているのです。ただ皆の方も、この合宿、あるいはいつものレッスンでもよいと思います。それが、何でそういうふうに組み立てられているのかを考えてみてください。いろいろなメニュがあります。そのなかでいつも、やはりギリギリで私は選んでいます。ギリギリの時間をギリギリに使っています。この時間も含めてです。最後に交流会もやりたいし、記念写真もとりたいですが、そういうものも捨ててやっています。そうして選ばれるものが何かということです。

 選ぶということは、他を捨てること、最初に合宿に来なければ何をしているかと聞きましたね。私も仕事や人との出会いを捨て、ここに皆と過ごすことを選んで来た。いつも、選んでいます。すべて、組み立てられているのに、もしかして皆の方が拒んでいるとしか思えない場合もあります。自分が成長するために、お金を払ってきて、何らかの戦いに来ているわけです。自分や研究所をつぶし役立たなくする戦いをしているような人もいます。ここと同じだけの用意は、いつものメニュでもしています。合宿だからということで、特別なことをやっているつもりではありません。アテンダンスシートの提出もLDをみることも求めています。それを今回は3日間にコンパクトにしているだけです。合宿の組み立てで、凝縮しただけです。

 いつも同じことを何回も言っています。私自身は、同じことを同じレベルで終わらせないために、誰よりも話し、誰よりもたくさん書いています。なぜ、こういうものがあるのかということも、今まで何回も言ってきています。苦悩があって絶望があって、なぜ毎年、このメニュばかりをやらなければいけないんだと思います。本当は歌のメニュをやりたいのです。ただ、微笑みが出せない。希望に届かない。先にいかない。

 それは、皆だけの課題ではないのです。私やトレーナーの課題でもでもあります。パヴァロッティのように歌えるかどうかということではなく、ジョルジアみたいに顔ができるかということです。ああいう顔ができるまでは、本当は歌えていないということです。私たちも皆に向かって、先生として対しているわけがない、皆、自分たちはわかっているんだから教えてやるといってやっているのではないです。皆より活動し発信している、それから皆よりも歩もうとして努力している。そのキャリアの差にすぎない。

 トレーニングの大切な時間をものにするには、何回も来て、30回目でわかること、100回目でわかることがあるということを知ることです。そのため、何回も来るということは一つの学び方です。それから何回も来た人から学ぶこともあります。何年もやっている人からも学べます。何もないところから自分で気づこうとすることもできるし、自分でそれに気づいて取り入れていけばよいのです。
 ところが、多くの人は1回みてわかった気になる。できもしないのに、その気になってやらないのです。それなら単に高慢ちきな観客にすぎません。皆が100回でやめるところを1万回やってものにした人だけが残っていくのです。
 昼休みに私は、食堂の庭の釜めしの花壇のことに今年、気づいたことを述べました。「水」という詩のことも言いました。多くの人はうなづいているだけでした。自分で見て触って感じた人だけが、何かをものにしていくことができるのです。


 健闘する人と認めるというところ、今のところ私は戦っている人に対して、自分の力を伝えたり、そこで一緒に戦っているつもりなので、この活動をやっています。だから、考えて欲しいことは、ここにくるまえまでの戦いは、皆にとって何だったかということです。それがノートに残っているはずです。日常を日記でつけている人もいます。いろいろなことをやっているでしょう。ただノートのつけ方を、これまでああいうふうにはまとめてこなかった、まとめたら違うことに気づいた。それだったらそこから学べばよいわけです。日頃、レッスン上で誰よりもアテンダンスシートをたくさん書いて出している人は書きやすかったはずです。自分から学ばずして何から学ぶのですか。そうでなければ、まだ深いところの問いができていないということです。そしてそのノートのなかで、もしかすると泣いたり煮つまって書けなかったり、いろいろなことを考えたり苦しんだりしてきたかもしれない。でも一つの作品の原型がもてたわけです。

 3つの戦いがあるといいました。3つ目の戦いは、まだこれからだからどうなるかわからないです。これをどう受け止めるかです。ただ2つ目の戦いまでは終わっています。この3日間に関しては、もう取り返しがつかないです。1つ目の戦いのなかで泣いて苦しんで、この3日間で体調を崩し声がガラガラで、結果を出せなかった、だから負けたのかというと、そうではないのです。そこまでに手続きを踏んでいるわけです。今皆に大切なのは、手続きを踏むこと、そしたらそこで泣いたこと、誰よりも泣いて、誰よりも自分の作品を想ってやったことが下地になってきます。いつも言いますね。10回で覚えるより1000回で覚える方が手続きとしては大切だということです。同じ歌詞を言うのに1万回、あるいはもっと深いところでそれを読めること、そしたら一度くらいはどうでもよいわけです。今日なんか、声が全然、出ていないわけです。だから、伝わっていなかったわけではない。

 神様が私に、皆が求める声をこの3日間で差し上げられるようにしてくれて、ここですごい声をもらった、それは結果ですよね。その結果だけを与えられてうれしいですか。その声が買いたいか、それでは私の声を○○君にあげる、私の声欲しい人、何十万いくらで、よいですか。ついでに体も顔もあげる、さあどうします?

 合宿にしろ研究所にしろ、いつまでもあると思わないでください。私も役割があり、はざまにおりますが、結局、誰もが自分に大切な一つのことを成すためには一人ひとりで歩んでいくということです。ただ、よい戦いをして欲しい、

 今年、モノトークでセリフができたら、今度はそれを歌で、その濃さよりももっと濃い歌を歌っていかないと困るわけです。せっかくそれを感じたのですから。笑顔でたどり着くまでには、もっともっとかかると思います。そこのプロセスをきちんととりたいです。そのために、なるべく嘘をなくしていきたい。

 昨年と同じメニュでやったのも、昨年できたような気がして、やはり嘘があるからです。今回でも、やればやるほど自分のなかで嘘がわかってくるわけです。そしたら伝わらなくなってきます。ギリギリでやることです。

 皆はもっとすごいことをやってくれよと言うかもしれませんが、ギリギリでできることをやっていくしかない。そのことの結果、得られた笑顔が自分のものになるわけです。さらに10年後まで、やるかどうかわからない。けれどやりたい人はやっていくのです。やった人も最初は皆と何も変わらなかったはずです。

 集団でなかに入ってやれる人はよいです。それが傍観だけで終わってしまってはつまらないです。見ていておもしろい、それはおもしろいです。それだけでよいのかということです。それでよい人はそれでよいのですが、今日の日もまた、あなたの一生を凝縮しているのです。帰っても忘れないで欲しい。

 リブ・フォエバーをもっと考えてください。答えはすべて、自分のなかにあります。歌でやっていけるとかいけないとか、いつも聞く人が多いのですが、そんな問いが出てくる間もなく、やっている人だけがやることによって出ていけるのです。やっている人はやっている、それだけの話で、やっていった方がよいというわけでも、やめた方がダメだとかということでもないということです。

 ただ、自分をきちっと見つめないとダメです。いろいろなことをやると、自分のわかっていると思っていることは全くの間違いだということがよくわかります。毎年わかってきます。自分のことは自分しかわからないのですが、こと、芸に関しては自分ほどわからないことが多いのです。

 自分のなかには表現の種があるわけです。それを育てる手続きの一部は経験はしているわけです。感情のなか、身体のなかでもそうです。しかし、まだ眠っているわけです。もしかして、先祖代々、家系のなかで、いつもフラれている家系とかもあって、それも血です。顔とか形とかそういうことだけを言っているわけではないです。運命的なものもあります。いろいろな意味で自分が何を愛してきたのか、何に涙をしてきたのかということもありますね。それを全部、否定しないで、人前で、では一体、何を表現するのかということです。誰でも声を表現する人間であることには変わらないわけです。しかし、磨かなくては底にあるものが見えてしまいます。人のことですから、その当人が深まって、どこで満足なのかということも問われます。できる人はできるでよいでしょうけれど、そこで休めば伸びていかないし、そんな人に声は必要ないと思います。


 あなたにはたぶん、忘れられないこと、言いたくないことが、まだまだたくさんあると思います。自分が人を憎んだとか傷つけたこととか、体と心に刻みこんでいるわけです。とにかくテーマは皆のなかにそのすべての心とともにあって、それがよいとか悪いとかを決めることもできません。

 (食堂の壁に)掲げてある「水」を読みなさいと言いました。多数の人は、私からいわれたときに読もうと思ったのにも関わらず読んでいないでしょう。そんなものです。できることなのにやらないということは、できないことなのです。そのときを生きていないからです。

 そのときを生きるのは、そう思ったらきちんと読むこと、そのときをつくれるのはそのことの意味に気づくこと、差がその1分でついていくのです。

 日常、流されているうちに、見失っていないでしょうか、だから自分が自分だと思っている像をどんどん創っていってしまっているわけです。私も今、ここにいるのが自分だとは思っていないです。しかし、これも自分で演出した自分ですから、認め、責任をとらなくてはなりません。この時間が多くなってくると、どんどん頬の皮がこわばってきて頬ばってきて、動かなくなるわけです。そこで、自分のものが歌えなくなるわけです。だからこそ、それをきちっと見つめないといけないと思います。

 自分の姿は自分の目で見れません。ビデオで見てみて愕然とするわけです。だから鏡が必要です。鏡というのは別に見る鏡ではない。もっと内面的なものを見るために必要です。だから、研究所の場合は書くことをやっています。書き出すことがわかりやすいからです。

 今回の戦いが、皆の鏡です。もう見たくないと思うかもしれない。自分の顔、声、歌も見たくないと思うかもしれないけれど、その鏡を磨いていって欲しいと思います。曇っていませんか。V検で見たくないと思って、なぜ見せるのかというと、それが自分の人前での姿だからです。その人が生きてきたものがそこに出ているわけです。そこにいて伝わるものにしか価値を与えられないわけです。

 だから、書き綴られたノートに、自分のなかにもう育ててきたバラの花があるわけです。自分の姿をきちんと見てくれということです。それが今の皆の顔をつくっています。ところどころの文字が、やはり叫び声をあげています。皆も他の人のことばを聞いて、キュンとなったり涙がポロリと流れたりする、いろいろなことばがあります。そういうものを含めて、自分のなかに既に答はある、それを取り出す、そしてまた高めるのがとても大変だということです。だから自分が思っているものではなくて、思い込んで決めつけたものではなくて、やはり鏡に写ったものをきちっと見ることです。


 手続きというのはいろいろなものがあります。私も皆が苦しんでいるとき、苦しんでいます。そして皆が解放されて、それが本物であれば、こちらも息が楽になってくるわけです。そういうところのものを出すことです。

 皆も仕事をして疲れ、家に帰ってそのときに音楽を聞きたいと思う。その状態で入ってくる音楽だって本物です。ただそれで寝てしまう人と、そうなったときに息が深くなる、声を出したくなる、歌いたくなると思うかで、全く違うわけです。それもプロセスであり、手続きです。そういう人しか向いていません。やれない人はやらなければいけない手続きです。バラの花に水をやらないと枯れてしまいます。そうしたら花が咲くのは見られないわけです。いつまで、人の花を見ているつもりでしょう。同じ手足がありながら。

 声や歌を手に入れた人は、皆よりもそのプロセスを楽しんできたし、そうしている人、他の人よりも時間と心をかけ、確かなものにしたのです。それは、かけがえのない宝物です。それに接する時間こそ、自分が本当に自分であることに触れられるのですから、練習ほど楽しいものはないのです。

 私も、自分の楽しめること、楽しんでいる自分がみたいので、ギリギリのところでやっているわけです。だから過去に積み上げたことの余力でやろうなどとは思いません。常に新しいものがそこに入ってこなければつまらないからです。幸い、やる気のある人たちに恵まれています。で、ここは教えているなどと思っていない、いつも新しい意味づけをしています。

 人生を楽しめる人と楽しめない人があって、楽しめる人というのは手続きを愛するわけです。手続きすべてを愛します。花を買ってくるわけではないです。花を育てること、水をやること、肥料をやること、毛虫をとってやること、他の人なら嫌がることも含め、すべてを愛します。嫌なこともあります。人とつき合ってすべてをかける恋愛なら、フルコースですから嫌なものもたくさん入っているわけです。それと、よいところだけのつまみぐいとどちらを好むかということです。

 楽しめない人は、結果だけを愛するのです。プロのヴォーカリストになるとか歌を身につけるとか、幸せになりたい、結婚したいとかよい恋愛をしたいとかいうのは結果です。いくら、そのことを思っていても、相手をみつけたり、愛を育んでいくプロセスなしに結果は得られないのです。だからそのプロセスがどこに落ちてくるのかということの方を見なければいけないと思います。ただいろいろなプロセスがありますから、どの方法がよいということではないと思います。

 天の声で気分がよくなっています。日頃の行ないがよく、日々仕事に打ち込んで努め、いずれ天国に行って天の声が聞こえる人は、このなかにいると思いますし、そういう人が何を好き好んで地獄をみる必要があるのかとも思います。天国に行ける人はそのまま天国に行けばよいでしょう。問題なのは、どうしても天国へ行けない人、それを待てない人です。別にこの世で悪いことをしたということではなく、そういう人はやはりこの世で天の声を聞いていくしかないです。その日に耳を澄まし、感覚を研いで聞いていくしかないわけです。それがアーティストかもしれません。

 ギリギリのところでやることをやって、天の感じがこの世でつかめたら、きっとそういう声が出てくるのだろうということです。地獄の向こうに天国はあり、鬼になった人だけがいけるのです。外からはそうみえても、当人にはその二つはイコールです。他の人と違うのはその高さ、深さだけです。仮に、10万人が集まるコンサートで失敗したら地獄でしょう。自分の力でその地獄を天国に変えるしかないのです。それは常に次の地獄をもっているのです。オリンピックで入賞で喜ぶ人と銀メダルで悲しむ人がいます。金を得たときから、先に地獄しかなくなるのです。


 人生は、どんなに大きな花が咲くかということではありません。目立たなくてもきちんと種を見つけ育てたら何か咲くわけです。それを認めればよい話です。

 ところが、どうしても結果を先に求めてしまう商人になりがちです。何でも売ってくれるお店に行きたがります。誰でも買えるものなら、どうして欲しがるのでしょう。考えてみたら、神様は声帯をくれている、健康な体も。それなのに、体の不自由な人を見てはじめて、健康な体をもらっていることに気づくほど、私たちはごうまんです。

 その上、声ですか。そのくらい自分が獲得していく楽しみを残しておきなさいよ。神様がなぜ、声だけよい声をくれなかったんだろうということです。最初からパヴァロッティとかカレーラスみたいに歌えたら、やはり皆、つまらなかったでしょう。彼らだって、あそこまで偉大になれなかったでしょう。

 プロセスを楽しめるかどうかは、今日を楽しめるかどうかです。トレーニングはキツイと思ったことはありますが、おもしろくないと思ったことはないです。キツイのは、自分が信じられるかどうかという一点のみです。その時間、できるのが待ち遠しかった、別なことで邪魔をされればされるほど、その時間は輝いてきます。そして力をつけるために何をすればよいかという手続きを楽しめばよいわけです。

 歌が入っていなければ感情が入っていなければ、そこまでのことは素人の劇団でもできます。今日やった、たぶん半分近くは、あるいは全部のこともできるかもしれない。当然のことながら、それでよい人はそれでよいと思います。そういう人たちは毎日毎日、積み重ねていかないです。だから次の年にそれと同じ密度をもった歌には、絶対ならないです。でも皆のなかにもならない人が多いですね、なぜならないか考えてみてもよいと思います。

 なりたいと思うのではなくて、それが結果として現れてくればよいわけです。単にうまいのでなく、すごくなりたいなら、すごい理由、すごい顔をつくりなさい。

 だから、いつも研究所では、ワークショップ、エチュードといっています。常に練習でよいわけです。そして、バックグラウンドを大きくしていけばよいわけです。それだけのものを大きくしていったときに技術が必要になったら、その人は技術をつけようとするし、そのときには技術が身につくでしょう。ただそういう姿勢で自分を見つめていたら、今、何をやらなければいけないか、どういう問いが必要なのかわかるでしょう。それを邪魔する人はいないと思いますし、止められないと思います。求めていくこと自体が尊いことです。今、鬼にならなければいけないのです。

 私が語るくらいにものごとを語れたら、私程度の技術は宿る、それだけです。だから、ちょっとした練習をやって、それっぽい声になって与えられることを表現してどこかでデビューでもすることが、今やったことよりも幸せなのかどうかということを考えてもらえればよいと思います。そうするともう少し、必要なプロセスが見えてくるような気がします。

 歌がうまくなるということは、うまくなるプロセスをとればよいのです。声が欲しいならその声を、愛することも同じです。一度しかない人生です。一度しかない時です。その暇つぶしをきちっとしてあげることです。必要な時間、待つことです。次がない歌かもしれません。人間は、いつまでも歌えるわけではない。

 プロセスとは、自分のモノトークをもっと深めていくことだと思ってください。大切なことは、それが大きなものになったときに、それを他の人にきちっと伝えていくのに技術がいるから、毎日、息を吐いていくような手続き、毎日、自分と歌とを関連づけていくようなトレーニングが必要なのです。そうすると、即興でここにと出てきても、歌えないはずの歌であっても、伝えるものというものが、つまり技術なり表現、表情、ことばといったその人のそこまでのプロセスが助けてくれます。皆からもいろいろなよいことばが出ました。感覚を鋭くしていきましょう。

 舞台のカーテンコールになると、一人ひとりに拍手します。一人ひとり、見えている舞台であったというのが、案外よかったと思います。よい合宿だったと思わなくてもよいですが、よい自分であったと思えたらよいと思います。自分で自分に拍手できるようにしてください。私も見ているのは、研究所にあるわけではなく会報にあるわけでもなく、そこでおもしろいことをしている自分にあるし、そこで何か価値あるものを発せられる自分であるということです。ここでつまらないことを言ってしまったり、ここでうまく皆に伝わらなかったら、やはり自分にグサッとささってきます。それが続けば、私の性分からいって、やめざるをえないでしょう。やめないためには、ギリギリでやっていかなければならないし、その自分を高めていくしかありません。ダメなときは苦しむしかないわけです。

 私のことをほとんど寝ないで大変という人がいますが、大変なことはそんなことでないのです。寝ないでやっていることのなかに自分である姿があるからです。自分が自分であることです。寝なくて自分であるなら、そんなに楽なことはないでしょう。

 手続きは準備しなければだめです。来年もまたやろうと逃げない、また会おうということではない。歩んでいって欲しいです。そしたら、どこかで会えます。歩んでいる人は、少ないです。自分を見て歩んでいる人は、もっと少ないからです。皆、歩んでいますが、足だけが動き、顔のしわだけが増えていく。よいしわを脳にも顔にも刻むことです。

 今日、私が一番心に残っていたのは、簡単なことばでした。「そんな日だから、そう、私は歌いたい」そんなふうになれればよいと思っています。「こういう風が吹いていた、なら私は口ずさんでいたよ、この歌を」って感じです。これは最近の私の境地です。

 自分のなかで自分に対して歌う部分もあるし、歌わないことが歌うことになる場合もあるし、安易に勝負しないことも大切なことでしょう。歌っているんだ、伝えているんだと思っても、観客が集まっているんだと思っても、それだけのものではないと思います。そんな結果より、1日1日歳をとっていくわけで、その年齢をきちんと踏んでいって欲しいような気もします。

 だいたい皆のなかでつながりましたでしょうか。皆の先ほどの質問からも、いろいろな理解の仕方があることがわかります。語られることがモノトークから、人に伝えられるものになったら、自分が自分として感じられる、伝わる。皆がV検とかL懇とかでやっているものより、今日ここで言ってみたものの方が、よほど密度が濃いし説得力があるわけです。10秒はOKです。しかし、それを3分でやりたいとか、ライブでもっと大きな世界を創って伝えたいということであれば、それなりの手続きを踏まなければならない。だから、手続きを踏んだ人だけが旅立てます。黙っていて、それが人に与えられるはずがありません。

 誰でも研究所にきたら声を買えるとしたらどうします。買えても絶対、人前で歌えないですよ。もっとお金持ちはたくさんいますから、どんな社長でも買いますよ。声は誰でもよくしたいし、歌は雑でもうまくなりたいのですから。そのソフトがフロッピーディスクで売れるものなら、私はきっと、ビル・ゲイツを抜くでしょう。そういうものはお金がいくらあっても手に入れられない。逆にお金がなくても手に入るものなのです。だから尊いのです。

 せっかくそのことで目覚めたのであれば、そういう花を、必ずしも歌とはいいませんが、きまりをきちんとつくって約束を守って育てて欲しいと思います。そういうものを一つの表現に凝縮したのが歌であり花です。

 表情トレーニングなどもありますが、毎日、鏡を見てニコと笑って、それだけでジョルジアの顔よりかわいい顔が五万人の前で、できますか。そしたら、どこで踏んでいけばよいのか。アーティストの顔やアスリートの顔は美しいですね。それと、どこで近い顔をすることがありますか。

 あとは、深く読み込んで欲しい。本を読むとかいうこともありますけれど、何回も読んで耐えるもの、何年も残るものは、人間にとって深い意味があります。その人が一つ高いことをやろうとしたら、それにエネルギーを与えてくれます。

 街角でフォークを歌うからといって、回りの人のフォークを聞く必要はないでしょう。もっと、より魅きつけるものを聞いた方が、たぶんパワーが凝縮していくと思います。一つのことで10コを語っている人もいますし、一つのことで一つしか語れない人もいます。表現を志す場合は、一つを固めて、自分を語っていっている人たちのものを受け継いでいけばよいと思います。それから後、自分がやればよい話です。

 先ほどのキツネの例でいうのなら、キツネと親しくなりたいといいながら、キツネを選ばない、キツネを愛さない、あるいは仲よくなろうといってキュッと首根っこをつかんで引き寄せて抱えたって、友だちになれますか。向こうは逃げ出して、決して戻ってきませんよ。皆の歌や音楽との接し方は、まだそんな感じです。まず、離れて逃げない距離に、そっといることです。そしたらやがて、仲よしになれる。手続きを踏まないといけないです。毎日来て何年もたって何もいわなくても仲よくなっている。他の人から見たら、何であの人仲よしなの、なぜキツネがあんなになつくの、私が近づいたら逃げるのに、どうして? そこの差です。人と比べたり人をうらやむより、やれている人のプロセスに敬意を払いなさい。

 皆にとってはキツネが何だかわからないわけです。わからなくてもよいです。今がわかったら舞台をやって、今の舞台とは違うかもしれないでしょうが、そこで考えてみるとよいでしょう。

 



あとがき2  人と歌と生きざま

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