t

――音声を舞台で表現するために――
プロフェッショナルへの伝言

めざせ、アーティスト
学び方のヒント

Z 福島英と研究所

7−1 一粒の種

 20年たった今も、私はやりたいこと、やらなくてはいけないことが片づかぬばかりか、がれきの山となり、壊れゆく脳や肉体とハモっている。

 一流に近づくにつれ一流が遠ざかっていったのと同じように、仕事をあげていくにつれ、より多くの仕事がたまっていく。登山のように、ただ踏みしめていく。時間がないのも、金がないのも、昔とちっとも変わらない。ただ、自分の心配をしなくなっただけだ。

 一人でなく、大勢で動くようになって、昔の孤軍奮闘と違い、ある意味では楽になった。待ってくれている人、愛してくれる人、こんな自分に価値を見いだしてくれる人、研究所を大切にしてくれている人がいて、逃げ場がなくなった。悩むべきこと以外、悩まずにすむようになった。人生の時間を輝かすことを求めて人がくる。そういう人々のおかげで、続ける苦労だけになった。

 私は、人間の可能性を信じる。
 日本人の、今の日本人、これからの日本人の可能性も信じる。
 あなたたちではなくとも、あなたたちの向こうにある大きな可能性を信じる。

 そして、その日のために生きる。死んだあとも生きるように生きる。
 大きな歴史、大きな地球のなかで、
 生命の音、誕生の音と共振する、
 人間が人間であることを信じられる真実の歌を奏でる。

 そのために妥協はしない。
 一人の人間のなすことは偉大で、しかし一人の人間の生命は、はかない。
 継承されぬことに完成を見いだすのは、いかなる天才にもうぬぼれに過ぎぬ。
 まして、我身には。

 地上は、いつもどこでも戦場であり、そこに傷ついて今日も泣いているもののために、声のあるものは歌わねばならぬ。真実の歌を。闘わねばならぬ、己と。

 誰がでなく、まず自ら、生きるなかで実をつかみとらなくてはならない。
 耕し、肥料をまき、どんな嵐や争いにも耐えられる強い麦をと、自ら踏む。
 そしたら、風が吹いても、嵐がきても心地よいコーラスがひびくだろう。
 そんな麦畑にしたい。

 一粒の種、もしまかねば………


7−2 その“とき”

 チャンスはいつも一度であり、それをものにするかどうかは、日頃、それにそなえ、どれだけ待っていたか、準備していたか、覚悟していたかで決まる。

 道を切り拓く人は決してそれを逃さず、わずかな兆から嗅ぎとって、自分を確実に生かしていく。しかし、多くの人はチャンスの訪れさえ気づかない。臆病で保身ばかりで、自分が変わる勇気、そして生かす自分をもてない。

 ことに日本には、自分で自分の人生を、自分の所で切り拓こうとせず、他人や他の所に任せてしまう人があまりに多い。それどころか自分でやらなかったことで人をうらやむ(やれなかったのでなく、やらなかったから、やれなかった)。

 なぜ、好きなことを好きなようにやって生きないのだろう。できないといったら何でもできないのだし、どうであっても苦労するのが人生なのだから、好きなことで苦しむことを楽しんだ方がよいのに……。とにかくすべては、シンプルなものである。

 それは、きっと使命と自覚がないからだ。ということは、日頃、接している歌や芸術から何も学べていないのである。歌まねよりも、もっと大きなものを先に学ぶ必要さえ学べなかったのだ。だから、いつまでも時間に、場に、自分に人に、そしてやるべきことに、甘い。

 慣れ合った人間関係のなかでの才能を殺していく。その鈍感さ。

 いつも、“今”しかない。今を活かせない人に、明日はない。

 今を活かさなければ、“今”はそのまま過去になる。過去に生きるより、先にある未来に生きることだ。その“とき”は必ずくるのだから、先にある夢は必ず、現実となるものだ。
(1998から1999、もしくはロスからパリの間で考えること)(99.1)


7−3 感謝

 僕は、異国で感謝する。歴史を汗と涙と血で変えてきた無名の人々に。日本人の努力に、日系人の努力に、黒人の、少数民族の努力に。日本のしっかりと働いてきた人々に。

 こうして、何の差別もなく安全にランチを食べられることを。

 そして、それをその何倍もの苦労と喜び、もしくは無念の思いのなかで先導した、数多くのアーティストやアスリートたちに。その、過酷なる戦いに。


7−4 BVX'masライブ評

まあ、こんなものだろって。

あたしもクマと出てしまった
から、批評でなく、
感想になっちまう

やはり、自分の体温で生きるんだな。

それにしても
ベストが出せるということは難しいものだ。
ベストで生きる方が
簡単に思えるほどに―


7−5 親愛する友へ

 世の流れにうまくのれてものれなくとも、今からこそ、さらに学ぶことに思います。ただ、研究所がそうであるように、発声や技術についてより、大切なものがあります。ポピュラーということからは、どうしたら伝わるか、伝える心、伝える自分=内容の方が大切です。人間(客)の感性、コミュニケーション(これはクラシックでも同じです)がわからなくては、だめです。技術、発声にも生涯、研鑽すべきところ多いにあると思います。しかし、心よりも技術が先行しているときは、発声も声楽も(歌や音楽さえも)、一度、決別する勇気をもたなくてはならないこともあります。そうでなければ、観客不在の、もっとも芸術、表現と離れたところへいきかねません。それを学ぶことが歌の学び方です。人を求めなければ、人もあなたを求めません。

[ セレクト集

目次

 

HOME