「感性を高めるためのヒント」

    感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」


「感性のある人、感性のない人はどう違う」

 ビジネスや人間関係において、うまくやっていける人とそうでない人は、どのように違うのか、それは、一言に言えば、鋭いか鈍いかであり、鈍いといわれる人は、人よりも苦労しているわりに、まわりに嫌な思いをさせ、結果として、うまくやれていないことが多い。だから、鈍
いといわれる。
 今の若者も、頭のよしあしは気にしないようであっても、鈍いといわれたら身もフタもない。本心深く、傷つかない人はいないだろう。そう思われないようにふるまうがあまり、本音も言えず、まわりに同調していると思われるフシさえある。
 さて、それでは鈍いと思われないためには、どのようにすればよいのか、それはつまり、感性のよしあしということにあると思う。

 感性ということばが、クローズ・アップされたことは、これまでにも何度かあった。
 1.モノ不足の時代からモノが過剰になり、デザインや使いやすさという機能が選択のセールスポイントになったとき 2.工業化社会から脱し(重厚長大から軽薄短小)、情報化社会といわれるようになり、広告、イメージ戦略に重点がおかれるようになったとき、ハード(もの、製品)からソフト(人、アイデア)が重視されたとき、 3.衣食住や働(勤労)よりも遊、休(休暇、レジャー)の過し方が求められ、形成され、男性から女性中心(「男時」から「女時」)の価値観となったとき 4.知性や理屈よりも、感情や直観でものを進めるとなったとき、などである。

 私自身、これまで多くの成功者と出会い、自分なりにやりたいことをやりつつ生きてきて、結局、何ごとも感性が決め手と思うことが多くなった。長くツキ、運に恵まれ、成功するように歩んでいる人には一つのルールがみえる。それは一言で言い難いものだが、あえて、そういう人がもっているものを総称して、「感性」といってみると何ともピッタリとくる。
 つまり、感性のある人は何事もうまくできるが、そうでない人は、うまくできないのである。

 「鈍牛」ということばがある。これは一見、鈍いということばで、感性がよくないことを表わすように思えるかもしれない。しかし、私はむしろ、一つひとつのものごとをしっかりと感じとめながら、ゆっくりと歩み、人に感じられるように何かを出していくということで、感性をよく表わしたことばに思う。そういう生き方をしてきた人は、おのずと気品、色気、人間として、ほまれが高く香っている。
 これから大きな変化が避けられない社会も、いったいどのように生きていけばよいか、ますますわかりにくくなる時代も、「鈍牛」の「牛歩」なら、さほど変わりもないように思える。
 国や会社、家庭に、自らの身を預けようとするから、振り回される。すべてを一つひとつのできごととして捉え、それをどう感じてどう感じさせていくかということで捉えたのならば、何ら動ずる必要はないだろう。

 幸せに生きている人、楽しく生きている人は、まぎれもなく感性の豊かな人であり、日々、感性を磨くことを大切にしている人である。
 本テキストでは、何となく“感性”的に語られてきた感性を明確に定義し、日常の生活のなかで感性の磨き方、活かし方を具体的にかつ実践的に述べた。頭で考えるよりも、興味深く感じたところから、感じたままにすぐやってみて欲しい。何といっても、感性の本だからである。


プロローグ

感性とは何か 福島流・感性理論

 まず、ずばり感性とは何かということから入っていこう。感性という捉え難きものを、私なりに次の6つに大きく分類した。
A 生命力
B 感覚力(五感)
C 情報先取力  C1 予知力(時間)  C2 共感力(空間)
D 本質把握力
E 創出力
F 表現力
 さらに、感性が磨かれたものとして、次の2つを加えてみた。この2つは結果であるので、主として先の6つについて触れていく。
G 人格
H スピリチュアル


1 感性とは、感じる力(感覚力)である

 「あの色のよさが感性なんだね」「感性を刺激する音だ」このようにいうとき、感性は主としてその人が何に感じているかということを意味する。つまり、「感性が悪いと見過ごしてしまう」ものを捉える力である。ここで感じるとは、五感、即ち視覚、聴覚、臭覚、味覚、触感を示す。つまり、肌で知るということである。
 そこで心地よい状態をもたらすものを快感とよぶ。これが人々の心を捉える。どんなものも、私たちがそれを捉えようとすると、五感のうちのいくつかを通じて、多かれ少なかれ、快、不快が伝わるわけだ。これをもとに使うときの“感性”が、この感じる力である。
 つまり、この場合の感性は、身体機能、あるいはそれに直結したものを示す。
 逆に、これに対立するものから考えると、もう少しわかりやすくなるだろう。それは、理性、理屈、計算、即ち“頭”といったものである。
 「あの人は頭でしか考えないからな」「理屈じゃ、売れないよ」「計算で人は動かないね」「仕事は、理性ではやれない」などということばは、肌で知る経験のなさ、五感からの感じる力が足りないと思われることで、口に出る。
 「頭でなく、体で覚えろ」などという注意も、こういう感性のない人に与えられる。この場合、感性のない人の代表例としては、学生、学者、机上のプランナー、おじさんなどが含まれる。「頭が固く柔軟性に乏しく応用が効かない」ということだ。
 もっとも、感覚器官そのものは、快・不快を区別なくとりこむ。快を求め、不快を嫌うというのは、赤ん坊や動物のレベルと同じで、環境の変化に対応できる幅が狭い。つまり、暑ければひかげへ、いい匂いがしたらそこへ向うようなこととなる(これが、この感じる感性の限界でもある)。これらを、感じる力=感覚力としておこう。

○感じる力から感じとる力へ
 それでは、この五感のセンサー、つまり感覚器官に入った刺激は、どうなるのだろう。
 感覚したものは、次に感情、情緒をもたらす。
 「頭じゃわかるけど、やだね」「理屈はともかく、心意気に動かされた」というように、私たち人間は、感情で動き、理屈や説得では動けない。感じて情がほだされなければ、つまり、感情で納得してなければ、なかなか行動は伴わない。多くの人間関係のよしあしには、その根底に感情が関わるのは言うまでもない。気心が合わないと親しくはなれないというわけである。
 また、感覚器官に刺激が加わりやすい環境を私は、特に雰囲気として、感性を捉えるためのキィワードとしておきたいと思う。次の段階で、感性は、外からの働きかけを待つだけでなく、自ら感じようと動き出すようになる。つまり、うなぎを食べておいしいと感じたことが重なると、次に炭の匂いにも、うなぎを思い浮かべてしまうようになる。感覚器官の方から、主体的に刺激をとり入れるようとする心の動きは、探求心、好奇心とよばれるものでもある。感性をその刺激を自ら求め、とり込むものと捉えると、次の二つめの定義に進む。


2 感性は、感じとる力(情報先取力)である

 感性の鋭い人は、何かよくない予感がしたり何かよくないことが隠されていることを、さっと見抜く。つまり、炭の匂いからうなぎにピーンとくるように実際に、感じる力(この場合は味覚)で刺激を得なくとも、主体的に五感を総合的に働かせて、あたかも読み込みにいって感じとる。匂いや音もないのに雰囲気や感じからわかるのだから、あたかも第六感のように、パッと気づくのである。この場合、五感で情報を得るのでなく、情報を得るアンテナが五感から外へ出ているといえる。つまり、「気づき」の力が強いのである。
 これを、感性のもつ情報先取力として捉えておく。
 たとえば、目に見えるためには脳が読み込みにいかなくてはいけない。さらに、見るということばは、ただものが見えるという感覚器官としての視覚でなく、こういった感覚力の拡大としても使われている。ただそこにあるものだけを見ているのでなく、見えないもの、雰囲気や気配などから先のことや人の心をも観ていることを表わしている。

○予知力と共感力
 となると、「あの着こなしは感性がよくない」「あの人は感性がよいね」「感性が悪いんじゃないか、君」「これは感性でヒットしたね」などということは、先の感覚力から情報先取力のなかで説明できる。
 こういった予兆を感じる力、予感を、予知力として、ここに先見性、見通し、第六感などを含めておきたい。みえないもののうち、時間の先を読む力だ。
 それに対し、よくないことが隠されているなどということに気づく力は、人の顔や視線、雰囲気でピンとくることであるから、これは人の心を感じる力である。これは、共感力としたい。これは、空間の先を読む力ともいえる。
 たとえば、「時代に先駆ける感性」は予知力、「人間であればわかりあえる感性」は共感力といったように、分けてみる。
 しかし、この二つは、情報を先取する点では同じなので、やや強引だが、情報先取力にくくる。なぜなら「人々のニーズに共感できる商品を生み出す」などというのは、どちらの要素もあるからだ。
 つまり、感性が豊かというのは、ここでは情報の吸収力、情報量の多さ、気づきのよさをさす。さらに一歩、読み込むと、このなかには次に述べる三つめの本質把握力も入っていることになる。


3 感性は、観る力(本質把握力)である

 感性を磨くために禅や瞑想、ヨーガなどをしているという経営者やビジネスマンは少なくない。こういう場合の感性とは、本質を観ることや本物を知ることのできる力である。
 先の情報先取力では、見えないものを観ることを述べたが、三つめの本質把握力とは、それに基づいた正しい把握力、判断力のことである。その大切さは、ビジネスだけでなく、何においてもよく説かれている。出世したり、齢を重ねたりするにつれ、必要度の増す力ともいえる。
 たとえば、これは「表面的にみるのでなく感性でみよう」「企画マンは感性が決め手だ」「理論で経営はできん、感性でマネジメントする」などというようにいたるところで使われている。
 事故やトラブルの根本原因をつきとめるにも、市場ニーズ、企画コンセプトをつかむにも、感性を働かせよといわれる。また、古陶器や名画など芸術品、美術品を見分ける力も、感性としか言いようがない。
 これらは、先の二つの力である感覚力や情報先取力とも関係が深いが、もう一段、レベルの高いところにあると思われる。そこで本質を見極める力、つまり本質把握力といった方がわかりやすい。一言でいうと、直観である。
 これは、ものごとのリアリティ(実相)を瞬時に捉える力であり、たとえば先に述べた
C 情報先取力│社会の実体、状況の把握
C1 予知力│未来予測、先見力
C2 共感力│人を観る眼、心情の理解力
などを含んだ上で、統合された力である。そしてこれは、大局観にまでつながるといえよう。
 この力こそが、まさに感性の正しい働かせ方ともいえるものである。そして、これは未経験の新たな現象や未知のものに対しても、正しい答を導く力があると言っても過言ではない。
 この感性が乏しい場合は、「現場でよく観察せよ」ということがいわれる。つまり、感覚力から情報先取力をより働かせ、本質を把握しなおせというわけである。


4 感性はつくる力(創出力)である

 アイデアマン、発明家、ジョークの名手などは、「感性が豊か」、「頭が柔らかい」といわれる。つまり、いろんな材料(情報)を使って、新しい企画、商品、ジョークを創り出す力があるのだ。もちろん、知恵もその一種である。
 ただし、知恵もアイデアも、ときに間違うことはある。そのために、悪い使われ方としては、「あの人の感性にはついていけない」「感性頼りの発明で売れそうもない」「あの人のダジャレは感性がない」「感性だけじゃだめだね、数字だよ、ビジネスは」などともいわれる。
 ここまで述べてきた感性ということばの使われ方も、この発想する力と結びつくものも少なくない。しかし、ここでは同時に感覚頼りであてにならないという欠点も出てきた点に注目しておこう。

 発想力、創出力といった力は、私の知る限りでは、自分のもつ情報が何らかの刺激を受け、異質結合が起こったときに働く。無意識下の状態で、自然のアナロジーを使ったり、あるいは自分がそのものになりきったときに、アイデアというのは出る(※異質結合、アナロジなど、発想のメカニズムについては三章に詳しい)。また、夢のなかからのヒントを得ることも多い。そのときの状態は、三昧、遊び、いわば無我夢中のときである。
 感性を磨くには、遊びが必要だとはよく言われている。また、リラックス、自然体と感性はよく結びついて使われる。たとえば、「自然のなかで感性と戯れる」「長期の休暇をとって感性をとり戻す」「感性を扱う右脳を働かせなさい」などである。このあたりの要素をまとめてみると、どうやら、こういった感性は、創出力といえる。


5 感性は、表現する力(表現力)である

 ところで、食べるときにおいしいものばかり選んで食べている人を、感性のある人とは言わない。お金持ちで高級レストランでしか食べない人であっても、何を食べても「おいしい、おいしい」としか言えない人は、逆に感性がないと言われよう。
 さらに、何百メートルも先にうなぎの店があると言い当てられる人も、臭覚という感覚力はすぐれ、犬のようであるのに、感性があるといわれない。
 となると、感性のある人というのは、ただ五感が人よりすぐれているのでない。たとえば、「このワインは、つやっぽくてウィーンの森の妖精の香り」とか「この光沢は、なまめかしい女の足のようだ」などと言う人を、感性があるという。
 つまり、感じてばかりいても、それでは感性とは言わないということだ。感じたことをことばや絵など、何らかの手段をもって、表現しなくては、感性とは認めてもらえないわけだ。
 そう、感性のあるなしは、自分が決めるものでなく、まわりの人、他人の評価としてある。だから、伝達力が欠かせない。その結果、ことばや絵といった表現手段においてすぐれていることが問われる。
 ことばにするには、語いや論理力がいる。表現するには、話す力か書く力がいる。もちろん、何らかの作品を創る力でもよい。絵や彫刻、写真、映画でもよいし、衣装やアクセサリーなどをつくって伝える方法もある。つまり、自分なりの情報編集力と発信力が必要なのである。
 一流の作家には、感性がなくてはなれない。そこで表現されたものが、新奇なだけでなく当を得ていなくてはいけないから、バランス感覚も必要だ。どんなに鋭い感覚で書かれた文章も、論旨が通っていなければ、理解不能である(バランス感覚などは、五章に詳しい)。
 どうだろうか。一見、右脳中心で論理力や知識が不要のように思われる感性は、ここにくると一転して、論理や知識、即ち人々が感じるあいまいなものを秩序化する働きを求められることになる。つまり、先の例のようなことが語れるには、知識や教養が必要となる。いや、知っているだけでなく、それを場に応じて正しく判断しとり出せる力も必要となる。これは、先の創出力のジョークや発明などにも通じる。文化や芸術は、このレベルでの磨かれ抜かれた感性の産物といえよう。

○素人の感性とプロの感性
 さて、感じる力から芸術、文化を生み出す力にまで行き着いたこの五つの感性の力に対し、多くの人はもっと素朴に素直に、ものごとを受けて捉えることのできるものとして感性ということばが使われていることを知っているだろう。
 たとえば、商品の企画やネーミングが、女子高校生や主婦に任されたり、学生や女性だけの企画開発グループがもてはやされたことがある。主婦の洗濯機の糸くずゴミをとるアミといったアイデアから、OLの発案した「タマゴッチ」まで、いわゆる素人の発明や企画の成功した例もたくさんある。
 モノ余りの市場になるにつれ、年配の社長や役員クラスや企画のプロが、企画や商品・サービスの発案については若者や女性に負けを認め、さらに、お客に直接、聞けということになった。マーケティングも主婦のアンケートなどが重宝された。そこでのポイントは、素人感覚であった。
 これは、なまじ専門的にとりくんでいないからこそ、無垢な心だからこそ、正しく感じられるとして、その素朴な感性を重宝した一例である。プロとしてやってきた人の方が、それまでやってきたことでの固定観念に妨げられ、時代や人のニーズが読めなくなったといわれ、同時に知識や経験、スキル、理論の権威、信頼が損なわれた例で、時代の変換期にはよく現われることである。
 しかし、アイデアを出すような創出力をもつのは、どちらにせよ一部の感性のよい女子高校生や主婦で、誰でもよいわけではない。それは現場を知った上で自分の欲求との接点をつけ、表現できる人のことである。ある意味では、その分野については、プロよりもわがまま、かつ、欲求レベルの高いプロなのである。
 今も、パソコンソフトの開発の会社などは、二十代の社員が主力であるのが普通である。ロックアーティストやバンドも、十代から二十代であろう。お客である素人は、消費者としてのプロである。実際に現場にいて、感覚力や情報先取力を働かし、自分の身銭を切って買っているから、そういう感性が強いのはあたりまえであろう。
 ただし、そこから使えるものを選び出すのは、やはりプロとしての本質把握力と表現力がある人なのである。これを忘れてはいけない。

○現場を知る
 部下の心情が理解できず、うまく動かせないのは、共感力のない上司である。また、先の読めない企画マンは、予知力、創出力がないわけだ。こういった場合、感性がないともいわれるのは、現場での感覚が欠けているということである。
 「子供の頃の感性を失わず、童心に戻って、ものをみる」というのも、大きなくくりでは、これと同じであろう。
 つまり、ここでいう感性を働かせるというのは、知識という、ある条件下でしか有効に使えないものに毒された眼を洗って、事実、そこで起こっていることを見て、本質を観よということである。そのために、自然に帰れということである。
 判断力も創出力も、自然という誤りのないメカニズム、合理性や奥ゆきのあるふところの深いものにすべての答えはつまっているので、それを掘り下げていくように、ということである。頭をくわえたヘビをみて、炭素原子の式を思いついたなど、アイデアのヒントの多くが、自然のメカニズムのアナロジーから生まれるのは、まさにこのことを表わしている。


6 感性のもとは、生きる力(生命力)である

 ところで、自然は、私たちの生みの親であり、普段、意識せずとも私たちの生まれ育ちのなかに入っているものである。血縁、地縁といった関わりのなかで、私たち人間は集団として生活を営んできた。だから、ふるさと、田舎、そして母なる大地は身近で親しみのあるもので、それぞれの人の心底に深く入っている。生まれ育ちの風土、環境は、体や心の奥深くに、無意識に眠っていて、さまざまな行動に関わっているのだ。その影響は強く、それが、その人の好き嫌いを決めているとさえいってもよい。

 さて、およそ、感性たるものが働くとき、私たちはそこにみずみずしい生命力を感じる。イキイキして生きがいを感じる。気に満ち、リズムを感じる。これは、生きとし生きるもののもつ生命力といえる。
 そして、感性の働くときは、というと、切迫感があったりピンチになったりしたときが多い。そういうときにアイデアが出やすいなどというのは、生きようとする力、またよりよく生きたいという力にそれを妨げる力、つまりプレッシャー、危険、リスクがかかってくるからであろう。
 死の直前、危機一髪のピンチのときには、人の頭のなかを、自分のこれまでの人生の大切な場面が一瞬にかけめぐるという。眠っていた記憶をフルスピードで脳が検索する。すぐれた経営者の感性の鋭さは、常に切迫感をもつところにあるとも言われている。火事場のバカ力ではないが、つぶれかけた会社が全社員一丸となって感性を働かせ、立ち直ったという例もある。
 また、感性にピンとくるというときは、自分の命が輝くような気がするとか、ピンチを避けられるとか、生まれ育ちが入っているものに合うという場合が多い。それらは本能に根ざした生きる力のなせるわざである。

 この生きる力は、最初に述べたかったのだが、論理や秩序まで高めたところの感性の表現力まで述べ、それに対置する方がわかりやすいと思ったので、ここで述べた。これを生命力としたい。この生命力を、今、述べたように3つに小分類した。さらに、最後に、これらの感性のより高まり、深まった状態(人格、スピリチュアル)を2つ加えておきたい。

○感性は人格
 これまで述べた六つの感性の発展したものとして、もう二つ、人格の力とスピリチュアルな力を加えておきたい。
 感性の磨かれた人は、何事も受け入れ、さつばくとして、ものごとにとらわれない度量がある。トータルでものごとを把握するのにすぐれている。これは、品や格としてその人から表われ出てくる感性である。
 こういう人は、社名、肩書き、年齢、身分、育ちなどに全くとらわれないで生きている。○○らしくふるまうのでなく、自分らしく生きている。人気まん画の主人公、「浮浪雲」の浮浪や「釣りバカ日誌」の浜ちゃんの延長上にある力ともいえようか。
 感性は、生きる力(生命力)、よりよく生きようとする力(情報先取力)の働きで、その人自身が自分の本質をみつめ、それを深め、本当の自分に近づく努力をさせていく。その結果、自分のもち味をしぜんと発揮できる人となる。それが、このレベルである。

○感性はスピリチュアル
 そしてさらに、自分が本当の自分という自然体にたどりついたとき、それは人間あるいは生命としての普遍性をおびる。つまり、自分独自、個人といったオリジナリティが同時に自分のルーツである人間、生命体に深くたどりつくのである。つまり、超自我(トランスパーソナル)として存在するようになる。これが悟りであり、静かに安定した秩序のなか、深く覚醒している状態であるといえる。この状態の感性は、スピリチュアルである。自然のもとの大自然=宇宙へとつながっているのである。

INDEX