t自分の歌を歌おう

(6)舞台論 自分を知るために学べる場をもつ


○レッスンのレベル

 レッスンに接するのは、いろんな面で鋭くなっていくためです。そのあとに、それがどう出てくるかということは、その人の声やその使い方、希望や目的によっても違ってきます。

 多くの人が考えているように、歌えないからヴォイストレーニングをやる、そうしたら歌えるようになるということはありません。

 声が出るようになるとか、歌がうまくなるのは、時間やお金をかけたらあたりまえのことです。しかし、それはやっていないことをやっただけです。そのことと、自分でやっていける力がつくとか自分の自信になっていくということは、レベルが全く違うのです。そこには常に他の人にみせられる作品づくりと、それを問うステージ経験が必要です。

 アマチュアのなかでの差は、やったかやってないか、知っているか知らないか、プロのなかでやれるには、アマチュアでなくプロに認められる、つまり皆、そういうことをやっている、知っている人のなかで評価を得ることが必要なのです。


○必要な場とは

 何ごとも、1ヶ月や2ヶ月でできるものではありません。2年たって、音声イメージが豊かに湧くようになったから、次の2年で体に落として、次の2年で心から出せるようにしていくというくらいが正道ではないかと思います。これは舞踏でもスポーツでも何でも同じでしょう。

 レッスンの、場としての役割は、あなたが、他の人たちの中で何を働きかけられるかということを体験し、キャリアとしていけることです。キャリアとは、体験を整理、統合して、再現、応用できる力です。

 伸びるためには、お笑いのオーディションのように、それはおもしろい、つまらないということがはっきりとわかる場が必要です。他の人にでなく、自分自身が、そこで突き詰められる場が必要です。日本ではそれが難しいから、デビューしても、なかなか上達していかないでしょう。やれてはいっても、よくはなっていないのです。

 他の人は、本当にどこまで聞いてくれているのかわかりません。下手で怒られたという人もいないでしょう。現役のプロ歌手にとっては、多くの生徒はお客であるのです。いつまでも、やる立場での厳しい基準をわからせないのに、上達はできません。

 シビアに具体的な反応が返ってくるような場が必要です。そこで常にできない、足らないことを突きつけられてこそ、学んでいけるのです。


○しっかりと学ぶために

 もちろん、自分自身のとりくみも問われます。将来の自分の力をつけるためにレッスンはあるのですから、第一に今ある力を精一杯出せるようにならない限り、本当の意味での新しい力というのはつかないのです。

 外からいろんなものを教わるという考え方では、一生かかっても何にもなりません。それだけ自分が出せるものが何かということを知らなくてはいけません。

 正しいトレーニング方法の習得などと考えない方がよいのです。そんなものなくても、やれればよい、やれるべきであるという考えの上で、それを自分が作っていくのです。

 同じ志をもっている人との交流など考えても、交流だけで終わってしまいます。力をつける人は、どこでも孤軍奮闘です。仲間を頼ってしかやれない人を、誰が支えてくれるでしょうか。どこにも世間のようなものがありますが、そこに慮(おもんばか)って居心地よくあろうとしていたら、何もできません。

 唯一、自分は何を価値として出していくかということを考えなくてはいけないのです。その人がたった一人でも、きちんとした自分の作品をすぐれたレベルで提示できるようになれば、認める人がいます。

 少なくとも私はそういう人を認めてきました。それが何もなくては、アーティストとしては誰も認めてくれません。このように、自分の目的に対して特化する生き方をとることが日本人には難しいことのようです。


○似ている見本は、よくない

 自分がなりたい声というのをイメージするのも大切です。しかし、自分自身のもつ、声のことを知る方が、もっと大切です。

 そのためにも、他の人の声をたくさん聞いて、意識に入れていって欲しいのです。もちろん、それに似せたまま出してはダメでしょう。

 自分と似ているヴォーカリストというのは、練習はしやすいところはあります。しかし、同時に間違いを起こしやすいものです。しかも、気づきにくいので、尚悪い。まわりも、ほめてくれるので、本人もやれている気になります。どこまで似ているかというのも、わからなくなりがちです。そういうところをそのまま受けてしまうと、その人を一生、越せなくなってしまいます。

 トレーナーについても、同じことがいえます。むしろ、逆のタイプから、あるいは複数の人から気づきながら多くを深く学ぶことが大切です。

 どちらにしろ、直感的に、人間の体の原理に基づいて出しているものを捉えられるようにしていくことです。表向きだけ聞いてそれにあわせてはいけません。声質や声域の違いということは表向きのことです。そういうことで歌が判断されるわけではないのです。その人が、どういう感覚でやっているかということです。


○真似しない

 もしあなたがフレディマーキュリーやマライアキャリーのようになりたいと思って毎日それを聞いていたら、そうなれるでしょうか。そうなれないとしたら、どうしてでしょうか。

 体や感覚が違うこともあります。しかし、そのイメージとか、そのバックグラウンドにあるものが取れないからです。さらに、あなたの声という楽器そのものの特性や限界もあります。

 もちろん誰でも表向きは取れるのです。ことば、メロディ、リズムの形は、練習すればとれます。器用な人は、コピーもできるでしょう。ただ、誰もが取れる表向きのところを取ることで、すでに間違いなのです。一曲、歌い通せたからといって、歌にはならないのです。

 思うにアマチュアというのは、絶対に真似してはいけないところだけを取るのです。一流のプロの人というのは絶対にそこは取らないで、根本の感覚でとり、自ら変じて正します。自分にプラスになるところだけを活かし、つないで、自分がやるとマイナスになるところは除いていくわけです。それを解釈し、分離し、自分の勝負どころで作品として再構成する力があるのです。その力こそ、レッスンでつけるべきなのです。


○編集力

 歌という作品は、最初のワンフレーズ聞いただけで、およそ、その人の力がわかります。

 映画でも最初の5分を見たら、おもしろいのかつまらないのかがわかるでしょう。俳優などが監督をやり、自分の思いこみを入れ、長くなって切れなくなり失敗することは、よくあります。

 映画監督というのは、それを客への効果や働きかけから、ばっさりと切れる人です。歌でも同じです。

 ところが日本の場合は、たくさん歌った方が得とか、あとで歌った方が偉いとか、そういうおかしな思惑が働くのです。2分間を持たせられない人が10分間、歌っても迷惑なだけです。1曲でよいところだけ出す方が有利です。たとえば、デモテープで、20曲も持ってくるということがどんなに不利かということがわからないのです。

 人の印象に残るためには、できるだけ短い時間で強いインパクトを与えることです。多くの場合、未知の可能性こそが、才能の最大の魅力だからです。この人はもっと他にもいろんなことができそうだと思うから、また次も聞きたいとなるわけです。最小の力で最大に働きかける術を知るのが、プロです。

 だいたい2曲くらいを聞けば、その人のキャパシティはわかります。しかし、ほとんどはそれで全部わかってしまう、ということは、それ以上の魅力がないということです。


○プロとの接点をつける

 あるフレーズを同じ密度で出すと、プロは7秒持たせられるけれども、自分は2秒しか持たないとか、あるいは同じ7秒を伸ばしたら、プロは声に厚みがあるけれども、自分のは薄っぺらくなるとか、そういうギャップを見ていくことです。この差がわからないとトレーニングのメニュにならないのです。

 そういうイメージを自分の中で持つことができれば、だんだん体や感覚というのは変わってきます。真似するのでなく、入り込んで感じて変わっていくことが大切です。変えるのでなく、変わるのを待つことです。

 自分の歌い方はこうだと決めつけ、声も歌も違うといっていたら、接点がつかなくなってしまいます。


○聞きとる

 レッスンでたった一つでも自分が気づいたことがあれば、それを家に持ちかえって、100回でも1000回でもやってみましょう。そこで、あなたの音声の世界は、築かれていくのです。

 最初は、その気づきのために、後には人への働きかけのために、レッスンの“場”に来なさいといっています。

 トレーナーの見本に頼りすぎないことです。一流の、たった一人のアーティストの、たった一つのフレーズの中に、凡人なら一生かかって学び切れないだけの全部のノウハウが入っているのです。それを聞きとれないことが問題なのです。そのために、レッスンの場と他の人を使うのです。


○異色なものに学ぶ

 たとえば演歌をやりたい人と、ジャズをやりたい人というのは、感覚そのもののところで、違うわけです。

 しかし、一度、そういう好き嫌いを捨てることです。もっと違う国や、違う時代の曲に、自分の世界を拡げましょう。それに関わらず、自分が心を引かれるものがあるということで、自分の深いものを発見したり、確認していくのです。そういうものを取り入れて、自分自身で思い込んでいる器を壊し、もう一度自分の中で判断し再構築していくことです。

 時期によっても、感じ方、聞こえ方は違うでしょう。今は心引かれている曲も、何年か経ったら嫌いになるかもしれません。あまり好きではなかったのに、大好きになってくる曲もあるでしょう。それが自分の歌うことを支配してしまう場合もあります。しかし、好き嫌いとやれるやれないを混同してはいけません。それについては、常に自分の中で格闘していることをよしとしましょう。

 ここでは外国のものを多く使っています。それは、あなたの先のイメージとか、先の声に対してやっているのです。接点がつかないようであれば、自分にわかりやすい歌や今流行っているものから入っていくのは構いません。しかし、わからなくとも、よいから、なるべく一流の材料に早めに接することです。わからなくても、ひかれるものをどれだけたくさん入れておくかが大切です。

 わからないものがわからないままに入り、わからないままに出て、皆に感動を与えるのが理想です。


○声が出ないと、歌えないわけでない

 今はマイクとか、音響もふんだんに使えますから、ポップスの場合は自分の状態を踏まえて、どういうふうに声で音楽を整理していくかを知ることが、ますます大切になってきました。

 声が出なかったり、歌が歌えないからといって、ステージがダメになるわけではないということです。声の調子の悪いときにどこまで持たせられるかということが、実力でもあるのです。今はやり方でかなりカバーできます。こういう状態のときはどうやればよいかということも知っていくことです。

 むしろ逆に声が自由に出るときほど怖いものはありません。うまくいくと思っているときほど、どこかで思いあがって、歌がぶれ、声でやろうとして失敗します。

 歌の一番難しいことは、役者の舞台以上に客観的把握がしにくいところです。そのためのレッスンは、日本では、劇団の養成所でもなければほとんどやられていないようです。

 もはや、歌は総合力ですから、トレーナー一人に師事する時代ではありません。

 自分が好きな曲を好きなように歌っているときは、声が出ていれば自分でも気持ちがよいわけです。しかし、それは客とは関係のないことです。あなたのお部屋は、あなたの勝手につくった世界で、そのまま客に共有されるわけではありません。私は、5メートル先から向こうに飛んだ分しか、客は聞かないと言っています。


○独学でやることの限界

 私自身の考えでは、やるのは自分であるということが前提です。どこでやろうと、最終的には、自分が得たことを自分がどう組みたててうまく活かしていくかという個人の力の差だからです。

 たとえば、先生が全部やってくれるなどということは、芸事に関しては期待することではないわけです。やることに対しても、どの程度を求めるかは、あなたが決めることです。他の人を最高に使う力こそ、学ぶ力であり、才能、実力に大きく関わります。すべてが整っている環境というのはどこにもありません。養成所などでも、トップクラスに努力をした人以外は、残らないものです。

 独学の限界もあります。こういうものは人前でやるものですから、一人ではできません。自分のオリジナリティや勝負できる武器は、人間の中で問うてフィードバックしていかないとわからないものです。どんなに自分で考えて、カラオケボックスで練習して上達したと思っていても、大して変わらないでしょう。

 それがどう人に働きかけているか、人にどう受けとめられるかが実感としてわからないからです。


○一人よがりにならないために

 オーディションでは、歌がうまい人はたくさんいます。しかし、自分一人で好きな曲を固定して歌っているだけだから、やはり限界がみえるのです。もっと悪いのは、先生に習ったままに歌っている人です。どちらも、曲をそこで自分できちんと組み立てることができないのです。そうすると、10代の勢いのある人が勝ってしまうのです。

 歌という、応用への柔軟性ということで、あなたの感受性や、感性が見られているわけです。

 それが頭でやってきた勉強と、身につけた芸との違いです。

 せっかく、研究所でやってきたのに、ここを出ると身から離れてしまう人も少なくありません。歌うのに慣れたからといって、そのテンションをキープできるほど、表現世界は甘くありません。


○バックボーンを身につける

 学んでいるプロセスでは、歌そのものより、それに対してのスタンスや判断、それから毎日どうやって生きて取り組んでいるかということが、より重要です。バックボーンのない歌は、通じません。

 そういうことを、身近なところから材料としてとり、学ぶ時期が必要です。

 もちろん、やる気があればどういうやり方でもよいのです。人前での弾き語りからやっていてもよいでしょう。そこで自分には何が足らないかとか、人からどう見られているかということを自分でわかっていけば第一歩だと思います。

 でも普通の場合は、具体的にこういうところがどうだという部分をいわれないと、なかなか気づけないのです。歌や声については、特にそうでしょう。

 一人でやっていけるには、それが自分の中できちんとやれるまでセットできる力がつかないと、難しいでしょう。人間が成長するには、他の人の経験をうまく使うしかありません。

 たとえば、私が何かで大成したいと思ったら、求められる限り、優秀な人につくでしょう。一流の作品を徹底して比較するでしょう。プロの中ではどう見られるのかということを知らない限り、どんなにやっていても、客観視できず、上達できないからです。

 (そのためにこういうところで何か気づくのであれば、それで意味があるということです。だからといって、いろんな学校を転々としていてもダメでしょう。やはり一つのところに強い足跡を残せるまで徹底してやらないと、他でもやっていけないと思います。養成所に通う意義、意味や価値は、自ら求めるものです。)


Q.多人数の前が苦手だが、どうすればよいか

 声を使ってやることは、人前で何ができるかというところから入っていくべきだと思います。

 若い人に限らず、日本人にとって集団の場での表現が苦手なのはわかります。しかし、そこで自分の表現をつきつけては、自分が何たるものかということを知っていくことです。自分の思っている自分なんて大したものではないのということさえ、他人とまみえてみて初めてわかることです。

 要は、オリジナリティや個性でやっていく世界です。オリジナルや個性というのは、他の人と違うということです。他と違ったところに感じてこだわることです。どこに対して心が働くのか、それをどう変えたいのかということを拡大していくのが、その人の個性として表われてきます。その上で、音声技術の向上なのです。自分を知るためには、人の中に入って、まみえる勇気が必要です。

 (自分のものを表現する、そこに何人いても関係ないのです。それより、どうせ表現するなら、多くの人や自分が欲する人にきてもらった方がいいのではないですか。)


Q.音楽スクールとの考え方や方針との違い

 スクールというのは、本音で考え方は出せないでしょう。それを強く出すと、その考え方や方針と違う人が、辞めざるをえないからです。先生や客あっての商売、営利事業だからです。

 私は自分の名前でやっているので、必要あれば、本音でズケズケ言います。どうしても来たい人だけが必要なときだけ来て、そうでない人は来なければよい。

 ここ以上のことができるところがあれば、私はいつでも、そこに行ってやります。大学や専門学校も手伝ってきましたが、いつも長く続ける気になりません。

 もはや学校は、サービス業化していますから、本音を言ったら、生徒が来なくなり、学校がつぶれます。経営のための人数確保から、広告、案内書づくり、カリキュラム、編成がなされる。おかしなことでしょう。

 そのうえ、生徒が先生に本音をいわせなくなってきているのです。だから、先生が認めてくれないということくらい辞めてしまうのです。ということで、絶対にあなたが下手だとは言いません。ほめて、楽しませ続けさせます。何が根本的に足らないか、いつまでもわからないところでは、学べません。要は、本人がそこでどういう力をつけたいのかということです。


Q.どこで学べばよいか

 どこに行こうと、自分でやらなくてはいけないということです。それはこの研究所でも同じです。何かをやれる人が来たら、ここを生かすことができるということでしょう。

 ただ、専門学校とかスクールというのは、そのことをわからなくしてしまうのです。資格が得られたり、就職ができるというような、アートとは無関係の利益をダシにしているからです。すぐにデビューできるとか、CDが出せるとかにつられても、自分がどうなるかくらいの知性や想像力もないのでしょうか。

 これでは仕方がないと思えば、何かが動き出すわけです。自ら、学ぶことと学び方を知ること、それがもっとも大切なことなのです。何かを創るためにやるなら創るやり方を覚えることです。

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(7)トレーニング論 伸びる人の条件、トレーナーの条件