ブレスヴォイストレーニング研究所

 

研究所史

 

1.これまでの変遷と現在

2.専属ヴォイストレーナーについて

3.方針と研究

4.企業メセナとコンサルタント

5.感動と集まり

6.優先するもの

7.人材と成果

8.個人レッスン制へ

9.声楽家トレーナー

10.邦楽の集約

11.先に実践あり☆

12.座から学ぶ☆

13.場から学ぶ☆

14.声の道へ

15.メンタルとフィジカルの問題☆

16.グループの場と兆し☆

17.トレーナーのオリジナリティ☆☆

18.オリジナリティの価値

19.声の研究で変わる☆☆

20.さいごに

 

 

1.これまでの変遷と現在

 

 研究所は、前身としてロック、ポピュラーの歌い手の身体からの声づくりから始まりました。欧米のメソッドを参考にしつつも、ヴォイトレに関しては、当初、日本の役者の声づくりを応用していました。

 その後、対象は声優、役者などから一般の人の声づくりにまで拡がりました。今は病院からの紹介者の声のリハビリまで行っています。

 次に、音楽(洋楽)スタイルを目指す歌手の補助として、カンツォーネ、ナポリターナ、そして、シャンソン、ファドなどワールドミュージック、日本の歌の順で使ってきました。

  前者は、声質、共鳴、後者は、ことば、日本語と外国語の問題に対応できました。それに伴い、噺家、お笑い芸人、邦楽家、伝統芸能家などとも接していくことになったわけです。

 

2.専属ヴォイストレーナーについて

 

 ここには、日本を代表する8つの音大出身のトレーナーと邦楽、ミュージカルなどのゲストトレーナーがいます。そこまでにも声楽以外に、ミュージカル(宝塚、劇団四季、東宝系)、ポップス、ゴスペル、ジャズ、コーラス(合唱、カラオケ)の関係者、プロデューサーや演出家(日本、韓国、アメリカほか)などと共に、いろんなトレーナーに接してきました。

 現在に至るまでに、歌手、ミュージカル俳優、噺家、声優、朗読家、役者、ものまね芸人、民謡歌手、邦楽家、長唄、詩吟、ビジネスマンと、まさに声とせりふと歌唱で、研究所は、さまざまな世界を縦断してきたわけです。(詳しくは、「レッスンの受講生」について)

 

3.方針と研究

 

 声の習得を一般化しようとしたスタイルが塾、養成所、学校、ビジネススクールであり、そして研究所です。

 研究所では、私個人の研究から、複数での共有の場へ、研究したい個人が集まるということで、集団化の流れをとっていきました。個人レッスンが集団レッスン、グループレッスンに変じたときもありました。プロダクションや会社、コーラスからバンドなどとも関わっていたので、私のなかには、いろんな考えや方針がいつも混在していました。それを、今の若い人や、年配の人が、どう受け入れ、どう活かしたのか、その結果をみて変じてきたのです。

 他の組織や集団の歴史、関わった人たちのその後の活動、それらもまた研究所に凝縮されています。そこまでには、いろんな選択がせまられました。何かを選んだために捨てざるをえなかったものも多々あります。成功も失敗もたくさんありました。常に第一線にいたために、方向転換や変革の連続でした。

 

4.企業メセナとコンサルタント

 

 ある時期で、研究所のプロダクション化やライブハウス運営、専門学校化の方向をやめました。やめる判断も、その都度、学びの材料として、提示してきました。できること、できないこと、やりたいこと、そうでないこと、やるべきこととやるべきでないこと、多くのことを判断してきました。

 私は、研究所を創り、支えるために、プロダクションや会社のアドバイザー、コンサルタントもしています。そのため、企業やプロダクション、大学などの内情にも通じ、一方で、ビジネス社会、マスコミ業界、芸能界、学会などと、今もですが関わりつつ、あえて均等に距離をとっています。その中では、教育、医学、健康・メンタル関係者との関わりが多くなってきました。

 コンサルタントと事業化というのは、タレントとプロデューサーというのと同じく、両立しがたいために中途半端にもなったと思いますが、それゆえ、見えてきたこともありました。そこで得たことを次にどう活かすのかを優先しています。研究に専念できる体制づくりに、こうして25年もかかったゆえに、選択については、人よりも多く学べ、アドバイスもできるようになったように思っています。この四半世紀の研究所の歩みは、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)に詳しくまとめましたので参考にしてください。  

 

5.感動と集まり

 

 現在、研究所では、レッスンとしては複数名(2~4名)のトレーナーによる個人レッスン指導(スタッフカウンセリング含む)を中心にしています。それとは別に内外にいくつかの研究会、勉強会、実習、研修を設けています。その体制、システムとして、参考にしたのは、邦楽とクラシックの世界です。

 一人のカリスマが一つの芸を確立させ、形として、そこに人が感じ入り、たくさん人が集まって、次の時代に残す。時流にのると大きくなり、のらないと廃れていきます。舞台やイベントであれ、店や会社であれ、その人の創りだした一芸であれ、同じことです。

 人が感動する、人が集まる、この2つのくり返しを、私は若いときから、いろんな機会や場で行いつつ、自らも、事業、研究所、学校の運営、他のところのブレーンとして試みてきました。

 これらは、横社会のつながりでした。かつての大型コンピュータよりはマック(マッキントッシュ)の思想です。現実に社会は、その方向に動いていきました。

 しかし、それによってアーティストが生まれたのか、それによって人々が、より大きな感動と集まる機会を得られたのかというと、そう単純ではありません。  

 

6.優先するもの

 

 研究所のレッスンは、マンツーマンに移行し、多くのトレーナーや生徒さんから、いろんな考え方や価値観が持ち込まれます。柔軟な組織ゆえ、そのまま、その場の相手との対応で自由にできていたことが、形ができて、それを求められるようになると、メリットとデメリットの兼ね合いも、優先度も変わっていきます。

 一律の判断が求められると、8割の人にはよいが2割の人にはよくないという、まさに民主主義の欠陥のようなことが出てきます。その2割のなかに一人でもすごい人がいたら、そこへすべてを絞り込む方がよいという考えもとりにくくなります。巷では、1割にも満たないクレーマーぽい人のために全体が不利益を被り、いつしれず、無難に存続させることと収益維持だけが目的になり、サービス面での成果を出すことが目標になってしまったところもたくさんあります。

 「アーティストたれ」を掲げて発足した研究所も、この目的だけでは、もたなかったことでしょう。それを死守するなら、私自身が潰したはずです。

 2000年の時点で、ここは「声に関心をもつ人なら誰でも来たれ」になりました。声に関わる分野が広がったため、深く絞り込む前に拡散していく方にいったのです。それを今、再び、原点に回帰、いや新たに突き詰めようと思っています。

 

7.人材と成果

 

 研究所の発足当初は、時間など誰でも気にしませんでした。劇団のように、最初のレクチャーが3~5時間連続でも誰も去りませんでした。それが、2時間では長すぎるという人が出てきたのが、ちょうど1997年頃、最初の転機でした。

 私のところは、当時いらっしゃる人も、時代の波から20年くらい遅れていたのが、最大の長所だったのですが(一方で他分野からは早すぎるほど勘のよい人も多かったのですが)、バブルから後の日本、特に音楽の業界の動きは、私の望む方向と真逆になりました。ここが続いているのが不思議なほど、日本で歌や声の価値、その世界が縮小したのです。

 「レッスン時間が延びては困る」というような人が出てきたのに驚いたのを覚えています。(今では、それはあたりまえのことなので、そのことに驚いたということに驚くくらいです。ここでは終了の時間は厳守となっています。)

 

 人数がいくら増えても、人材が出なくては仕方ありません。幸い、研究所で学んだかどうかは別としても、ここに在籍したあと、歌い手や声優だけでなく、アーティスト、プロデューサー、ビジネス、自営業、役者、トレーナー、指揮者、作家、演出家、プレーヤー、ビジネスマンなど、多様な分野で活躍している人がたくさんいるのは、ありがたいことです。

 

8.個人レッスン制へ

 

 2005年からは個人レッスンだけにしたため、プロやセミプロの人が来やすくなり、一方で他のプロダクションや他のところのトレーナーと併用される人も多くなりました。そういう面では、純粋な成果がみえにくくなりました。しかし、「他と分担することで、ここで声のことにより専念できる」なら、とても望ましいことです。

 いつしれず、どこのヴォイトレでも即効性を問われるようになりました。そのため、声づくりよりも総合的なバランスを整えるようにもなってしまいました。それは、声のトレーニングの成果でなく、声の使い方の成果ですが、ともかくも、ここは、その流れとは別に、声そのものの成果を出すことに専念できる体制にしていったのです。  

 

9.声楽家トレーナー

 

 ここでは、メニュ、ノウハウ、マニュアル、方法よりも基準を学ばせ、それに必要な材料を与えるというのが、最初からの考えです。このあたりは私の最初の本に詳しいです。(現在は「ヴォイストレーニング基本講座」として増補改訂)  ここのトレーナーのレッスンは、標準化されたものでも、全員共通のものでもありません。深いレベルでは、そのトレーナーなりに発声を捉えてきた持論の実践です。それゆえ、組み合わせることで効果を大きくして、リスクを回避しています。

 

 研究所では、声楽家だけでも、たくさんレッスンをしてきた人を中心に、30名以上のトレーナーとして組み込んできました。おかげで日本の声楽の過去から現在についても、どこの声楽家よりも研究ができ、共通や異質の要素を抽出して把握しています。

 ここでの声楽家出身トレーナーは、音大生に教えるのでなく、一般の門外漢に教えるのですから、相手に応じた組み換えができなくては続きません。生徒の目的、タイプ、学び方、進度についても、トレーナーとの組み合わせも含め、無数のパターンが出てきます。他のジャンルのトレーナーや海外のトレーナーも加えてきたので、これが複雑になって、より学ばざるをえないわけです。トレーナーもこのなかで選ばれるには、相当な技術が必要となっています。

 

10.邦楽の集約

 

 一方で、この20年、邦楽のヴォイトレに力を入れています。一見すると、混乱した環境こそが研究所の本質と思っています。おかげで、声の研究の基準材料に事欠かないからです。

 その方法は、外国人の方が日本人の師弟の継承などにこだわらない分、広く比較しつつ学んで、総合的に早くよいとこどりをできるというのと似ているかもしれません。個人や一つの流派だけで何十年もやっている人は、他のことや新しいことを学ぶ機会が少ないものです。そこに合う人だけが来て残るので、同じタイプにしか通じないやり方になるものです。

 トレーナーも知らないうちに長くいる生徒の望む方向に偏っていくものです。しかし、ここではトレーナー本人もそれに気づかず、自分が万能と思ってしまう愚を避けられます。このあたりがここ独自のフィードバックなのです。

 日本において、洋楽を学んだ音大生の方が、邦楽や日本の芸能については、一般の人よりも無知だというのも似たようなものです。

 

11.先に実践あり☆

 

 声のことを学ぶのだから声を出さなくては始まりません。そういう面では、当初、この研究所は、まさしく実践的でした。

 グループレッスン当時は、いきなり、「ハイ」という声から始めたり、皆のなかで順に自分の1フレーズを問いました。主に一流の歌手たちのフレーズのコピーをします。[同曲異唱]大体は前にいる先輩が先にやることになるのですから、先に倣え、だったのです。(先輩たちは、オリジナルの歌唱にストレートに挑み、後輩のを聞いて乱されたくなかったのでしょう。自立心もつきます。)そこでできていれば、つまり、まわりが感動すれば、卒業レベルです。そんな人はほとんどいませんでしたが。課題により、すばらしいフレーズの出たときもありました。それぞれに得意、不得意もわかります。

 当時でさえ、何割かは、こうした養成所方式についていけず、いや、嫌って、ついてこれなかったのです。今、この形を続けていたら、ほとんどの人はもたないと思います。ですからおのずと消えてしまったのです。

 

12.座から学ぶ☆

 

 研究所で、もっとも大きく変わっていったのは、学ぶことのスタンスです。元より、ここには拙著の読者が多かったので、頭で考えなくては動けないタイプも少なからずいました。多くの本やテキストがあるからこそ、レッスンは耳と声だけで実践だけに集中したかったのです。

 しかし、それは、当初5年くらいで限度でした。本が広く普及し、研究所がライブステージになるにつれ、声を使いに来る人でなく、声を学びに来る人が多くなったからです。

 私は、研究所をつくる前は、座(ブレスヴォイス、BV座)といっていましたが、(ジャズのクラブや沖縄の民謡酒場をイメージしてください)そこを近場のようにし、そこに道場破りのように殴り込んで、真剣勝負の場の力で自分の力をつけていく人を待っていました。

 そして、自ら、修正していく、自分の内や外からよりすぐれたものに気づき、それをくみ取っていき、周りとのセッションのなかで、即興で、その時空を最大限に活かして表現する、そういうプロセスの経験の場として設けていました。

 やがて初歩から基礎を徹底する養成所になり、自分とその声の研究という目的で研究所になりました。当時の私にはそれ以外にアーティストの育て方などありようもなかったのです。

 

13.場から学ぶ☆

 

 チャンスをおくということ、それはプロデューサーがプロデュースするというものではなく、トレーナーがトレーニングして終わらずに、誰であれ、ここが自らトレーニングできる場としてあればよいと思うのです。そこで教えるのは、むしろタブーと思っていました。(今も、本音ではそう思っています。)

 手取り足取り教わらなくてはいけないようでは、所詮、どうにもなりません。その代りに、本人が学べるものを整えておき、それを組み上げさせていくプロセスのレッスンで基準を高める、こちらからでなく、つかみとらせる。ここに臨むのに誰かに頼るのでなく、ここで自立する、ここでアーティストたれ、その延長に自分に切り開かれる世界があると、そういう方針でした。

 これは、若かった私自身が自らに課していたことでもあったのです。私を先生とするのではなく、私のもつ場、同じ場を、私よりも使い切れということで開放したのです。

 

14.声の道へ

 

 そのうち、一方的に教えられたい人が増え、キャンパスライフの時代となり、他の専門学校と似たものとなり、その存在意義が失われつつあったのです。400名ほどになるとそうならざるをえなかったのでしょうか。

 私は、先生やトレーナーになるつもりもなかったし、学校やプロダクションをつくったり、組織を大きくするつもりもありませんでした。それを期待されても、その分野においては専門外です。

 

 そういう先達の教えていたことの大半も認めていなかったどころか、そうあってはならないと思っていました。邦楽や落語から武道、およそ道と名のつくものは、そういうものです。今も、その分野では、そういう考えが根付いています。時代に合わなくなったのかどうかはまだわかりません。しかし、合わないからこそ伝わるもの、残るもの、学べるものもたくさんあると思っています。そのままでは、よくないだけです。たえず変わり、創りつづけなくては伝統は保てないのです。

 

15.メンタルとフィジカルの問題☆

 

 研究所でもメンタルの問題は、中心課題の一つになりつつあります。医者からの紹介が多くなって、さまざまな対策が必要とされてきました。私は、メンタルトレーニングについて、徹底して学びました。その後は、モチベート維持のために個別にプログラム化をすること(プランニングというのもメンタルトレーニングです)。

 そして、フィジカルの問題にさかのぼって、体について一から学び直すことになったのです。生徒さんの対応のためでしたが、私自身も、齢をとることで心身について、より理解、実感、体験もできて、身をもって、深い洞察力が出てきたと思います。

 些細なことの差に音楽や声の面だけでなく、メンタル、フィジカルの面で敏感になってきたのです。勢いや力づくでやってから、技の世界へ入るのは、フォローであり、文化でもあります。

 若い人にその若さが欠け、それゆえ、技で補うこと、これには、反対の立場です。もちろん、現実に病人や一般の方には、その対処が必要な人もいるのでそうしています。弱者にはフォローが必要ですが、弱者でないのに弱者のフォローを求めると可能性は閉ざされます。フォローされて元に戻したら、少しでも前へ自ら踏み出してくださいということです。

 

16.グループの場と兆し☆

 

 研究所のグループのレッスンや活動の場の復活を求める人がときおりいます。それぞれ皆が異なるように、ということでなく、皆が同じにというようにと、揃ってくると、グループレッスンは、意味がなくなってきます。

 一人ひとりのアピールの場として保つこと、競争というよりも、共同制作の場です。よくも悪くも自分の表現や声の参考にする場、よいものは盗み、すぐれたものとの差を知り、勝負を挑み続けることです。

 それが序列や派閥色がでたり、追い抜け、追い越せや仲良く「どれもそれぞれによいでしょう」になると、場が崩れていくのです。参加していること、がんばっている自分が偉いとか好きになると、自己啓発の場となります。

 それでもうまく運営しているスクールもありますから、そういうのも否定はしません。しかし、ここは、時期をみて、全てを個別レッスンにしました。周りのレベルに合わせるよりは、トレーナーのすぐれているところを、直接、個別に影響された方がずっとよいからです。

 

 すぐれた仲間の集う場は少ないものです。一人でもハイレベルなメンバーがいれば充分です。グループでも1対1でトレーナーと面しているつもりでやり、自分自身の存在が他のメンバーへ大きな影響力をもてるようになることです。基本的なシミュレーションを試みることができます。

 モチベートが失せ、よい意味でのハングリーさや緊張感がなくなった場は、居心地はよくなった分、個としての成長を阻害します。それはトレーナーの力でなく、参加するメンバーでつくるものでなくては意味がないのです。それを導くためにトレーナーが尽力するとカリスマ化される、これもよし悪しです。

 ともかく、伸びていく仲間と学びあうのは、理想的です。本当によい作品など4、5年で、1つ、その兆しだけでも出れば充分なのです。

 

17.トレーナーのオリジナリティ☆☆

 

 ここは今、日本の声楽では、ほとんど音楽大学、その他、邦楽まで、それぞれ教え方の違うトレーナーの総合体といえる場です。こんなに開かれたのは、私の反省からです。私自身違うことから多くを学んできたし、いつも違う人と会い、違うことをやる人とやろうとしてきたからです。

 日本では、違うことをやることは、本業をいい加減にしているというふうにみられます。やれビジネスだとか、儲け主義だとか揶揄されるようになります。本も声優、役者からビジネス書、小中学生、シルバー(アンチエイジング)、女性、英語など、求められるまま、必要に応じて誰かれなく対象にしていくと、節操なくみられます。

 でも、声はまさに相手を問わないのです。出る杭となったため、そういう機会を与えられ、学んでこられたのは、私にとっても研究所にとっても大きな財産です。ここには歌以外の異なる分野の人やアーティストがいらっしゃいます。それに充分に対応してきました。私もここのトレーナーも、常に学ばざるをえなかったからです。

 

18.オリジナリティの価値

 

 自分がやってきたり、学んだことで、教えられるような相手としか接していないなら、方法もメニュも教え方も、ずっと同じです。学ぶきっかけも変わるきっかけもないでしょう。自分よりもすぐれた相手にどれだけ接することができるかが、トレーナーには大切なのです。

 私は、当初からプロに対してきましたから、ずっと自分以上の実力の人を相手にしてきました。今、ここのトレーナーは、邦楽家や噺家、社会人、それぞれ第一線で活躍する人も教えています。トレーナーの方が多くを教えられているともいえましょう。

 教え方の違いを叩いたり、潰したりするような排斥も、違いをなくして同じようにしようとする同化も、よくありません。違うというのと、相手を自分の外においてしまうからです。

 私は違うやり方や考えのトレーナーとも棲み分けもせずにやってきました。だからといって妥協して、共存していくのでありません。違いを鮮明に強く打ち出し、そこでのそれぞれの価値を認めていくのだけのものにしていくのです。何よりもレッスンは受ける人の成長のためにあります。それがトレーナーについて必要なオリジナリティの構築だと思っています。  

 

19.声の研究で変わる☆☆

 

 私は最初、外交官、エアロビのインストラクター、プロの声優などがきたとき、新しいメニュを、そういう人たちとつくっていったのです。ここは歌い手の養成所でしたが、その他の分野の人とは、研究所であったわけです。それは今も、医師やST(言語聴覚士)、MT(音楽療法士)、科学者、邦楽家などとの共同研究という形になって続いています。

 「声とは何なのでしょうか。」それは、歌だけのための歌声ではありません。特に、私はいわゆる日本のつくられた歌声をよくは思っていませんから、最初から、そういう意味で、ボーダーレスの声の研究所をつくったわけです。“声”の“表現”の“舞台”のための基本トレーニングをするところと言っていました。

 今は、音大受験性、学校の先生、ミュージカルの人など、目的、課題が明確に限定できる人もいるので、そこは、主に声楽家出身トレーナーに任せられます。

 

20.さいごに

 

 すべての声は、人間の活動に根ざしているものです。それを教えていただいき、あらゆる分野に広げ、深めてくれたのもここにいらした人たちです。

 研究所には、解剖図や人体模型、発声、共鳴、発音、声紋分析などの測定器、各種センサー、世界中の楽器などがたくさんあります。そういうニーズが、ここにいらっしゃる人たちの個々の違いが、いつも研究所をも大きく成長させているのです。

 「求めよ、さらば与えられん」、そして「与えよ、さらば、求められん」なのです。

 

[出典] 1~10 トレ選42、11~17 トレ選49 、18~20 トレ選50