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――音声を舞台で表現するために――
プロフェッショナルへの伝言

めざせ、アーティスト
学び方のヒント

U 研究所―学びの場とその役割

2−1 出会いと場

 歌のうまい人、器用な人はいくらでもいます。しかしプロとしてそれを仕事にするには、多くのことを学び、体得し、人に確実に与えられるようにならなくてはなりません。ヴォーカルというと、スター性、カリスマ性のもと、早熟な天才たちの折りなす世界のように考えがちですが、スポーツ選手と同様、そこまでには普通の人には想像できないほどのトレーニングと、いくつもの壁を乗り越える克起心が必要です。そのことで自分の世界を表現できる喜びは何ごとにも代えがたいから、トレーニングを楽しめるのです。

 私の研究所にも多くのトレーニング志願者が訪れます。本で述べられたことを実際に体験したいと言う人もいます。しかし大切なことは、表現することにあるのです。そうでない人は、本当の意味では学べたとはいえません。

 プロや指導者もきます。ある程度の活動をやってきた人は、それをやっていない人よりも、慣れているということではすぐれているようにみえます。しかしそれは歌や表現としてすぐれていることとは全く違うのです。

 それを知るためには、人のいる場に出て問うことが必要です。まして、すぐれたものをとり出せるようになるためには、自ら変わらなくてはいけません。

 人間は、人と出会わなくては変わりません。
 歌は、それを成り立たせる音やことばと出会わなくては変わりません。

 誰の作品も、その人なりに、これまで経験したり、試みたりしたことの上に成り立っているのですが、一流や本物に比べて何かが足らないと思ったら、自分を白紙にしなくてはなりません。自分を殺して、学ばなくては何も変えられないし、それ以上の上達ができないことを知ることです。

 そんなことをしたら、自分の個性がなくなるなどと心配する人がいます。しかし、基本をやることでなくなってしまうような個性や才能などは、的はずれのものです。その人の力になるのではなく、その人の本当の力を制限してしまっているに過ぎないのです。だから、思い切って捨てなくてはなりません。

 日本のヴォーカリストは、早熟なタレントと変わらなくなりつつあります。そうではない人にとって、それを手本に学ぶことは困難になりつつあると言ってもよいでしょう。

 そういうタレントに近いルックスがあって少々、踊れても、そういう判断基準で見ると、もっと似つかわしい人がいるので、多くの人はその道を閉ざされてしまいます。

 しかし基本に戻って考えるならば、ヴォーカリストは、自分の声を音にのせることによって、人に何かを与える仕事です。そのことができれば人が集まらないわけがないのです。つまり、それができていないのは自分の力不足にすべての原因があります。タレントに負けるくらいしか音や声の力を活かし切れていないのですから、あたりまえのことです。

 少々やっているだけで人よりすぐれていると思い上がり、基本のトレーニングをなおざりずに自己流でやっている、他から学ぶことをせず、自分を認める仲間内でだけ満足してしまう、これが、学べない人のパターンです。

 本当の力不足を知ったら、やはり自分で思い込んでいることを一度捨てて、プロのトレーニングを受けることです。そして、自分の可能性をより大きく活かすために、力を練り込む時期を耐えることです。このプロが少ないのがこの国の悲劇です。絶対的な力の差が出せるところまでやらないのは、とてももったいないことです。

 多くの才能ある人々が、たかだか一、二年で学べなくなるのは、本当に残念なことです。歌にもスポーツの勝負やタイムのように、結果がつきつけられる場が必要です。そこで、私は研究所を作りました。そのスタジオには、こう記してあります。

  あなたがきて ここが変わらなければ
  あなたって何だ
  きみがくることで このときがもりあがらないなら
  きみって何だ
  あなたがいないことで 何も欠けなければ
  あなたって何だ

 もっとも大切なことは、ポピュラーのヴォーカリストであっても、スポーツ選手であっても、ダンサーや舞踏と同じく基本のトレーニングによって、体と感覚を磨かなくては本当の上達はできないということです。そのためには、人と音楽との出会いが必要なのです。それを場と私は言っています。いや、出会いつづけることが歌や表現のキャリアと言ってもよいでしょう。

 アーティストは、どこかで二年間はどっぷりとその世界につかり、何やかや合わせて一〇年ほどは、努力(当人がそういうことばで言わなくとも)して、一つの世界を作り出しているのです。そうではなくて、やれている人を私は一人も知りません。


2−2 ワークショップとしての場

 研究所でのグループレッスンでは、ワークショップが行なわれています。

*ワークショップとは
 ワークショップとは参加者が受け身にでなく、積極的に関わる研究集会のことです。英語で“Workshop”とはもともと「作業場」の意味でした。それが転じて、「研究集会」を意味するようになったのです。そこでは講師が一方的に教育を行なうのではなく、参加者もまた、自分の知識や体験を持って積極的に関わることが期待されます。文化活動のように創造的なテーマを追求するためには、ワークショップは欠かせない方法です。以下、ワークショップの要点をまとめておきます。

*ワークショップに先生はいない
 ワークショップとは、先生を招いてお話を聴く講習会とは違います。参加者が自ら主人公となって作りあげていきます。もちろん専門家に参加を求めその自説を聞いたり、研究成果を紹介したりすることもあります。しかし、それは一方通行の講演として、聴衆が講師に質問や意見を出して終わるものではありません。参加者は講師と対等にぶつかりあって、ともに新しいものを求めて徹底して関わりあうのです。従って講師も、参加者からの刺激をうけて学ぶことになります。講師は一人の問題提起者であり、そこで出したものは材料にすぎません。

*お客さんでいることはできない
 参加者は単に受け身の聴衆として、聴いているばかりではいけません。「私は何もわかりませんので見ています」という態度では通りません。参加者は、自分の知識と体験を他のメンバーに提供することを求められます。彼はその心と頭と体を総動員して材料に反応し、自分の表現を現実に提示しなくてはなりません。

 このワークショップにおいては、一人ひとりの表現行為が最大限に尊重されます。初心者やアマチュアでも、プロに思いがけないヒントを与えることも少なくありません。遠慮は無用です。消極的に傍観するのは自分の能力の出し惜しみであり、できるはずの協力の拒否となります。そこに関わることで、自分の能力、素質、感性、才能に気づいていくのです。その結果、誰にも真似できない自分自身の表現を見つけ出してみんなのものにするのが、「作業場」としてのワークショップのねらいです。

*決まった答えはない
 ワークショップは「創造の場」です。予想通りに展開するのではありません。講師の提供する正解を、参加者が素早く正確に身につけることが目的ではなく、その答えを自分自身で、作りだすところに意味があります。

 ワークショップにおいては「常識への挑戦」が大きな目標です。それまで考えられなかったこと、誰もがあたりまえだと信じて疑わなかったことなど、堅固そうに見える常識の壁にあえて突進を試み、そこに風穴をあけて新しい世界を壁の向こうに見いだそうとする心意気が必要です。

 もちろん、いつもうまくいくとはかぎりません。それでも全員が既成のもの、思い込んでいたもの(これには何よりもこれまで自分自身をどうみてきたかということが含まれます)、通用してきた常識を疑ってみるところに価値があるのです。

 「どうせ大したことはできはしない」という思い込みはすてましょう。自分にとって、世界でもっとも価値あるはずの自分を、自らが変えていく時間と空間にします。そして、それを他の人にもシェアできるのかは、一人ひとりの意識と日頃の生き方から問われることです。

*頭が動き身体も動く 反応し創造する感覚と体
 机に座って考えたり、ことばだけの論議にうつつをぬかすのでなく、立ち上がって動いて、さまざまな体験を身体に与えます。思い切り身体を動かして跳んだりはねたり、汗をかいたりするだけでも心身は活発になります。まして、そこにリズムや音楽を加えたら、かたくなな心であっても動いてくるでしょう。

 ワークショップには多様な体験学習の材料がセットされる必要があります。そこでの時間や空間を、密なるものに導いていくのが講師の役割です。声を出して歌い、ハーモニーを楽しみ、体を踊らせ、そして身体のすべてを使って何かを表現する……。それらのパフォーマンスをテーマとからめていくことによって、音楽や歌へアプローチしていくのです。


2−3 きっと最後の他人のためのアーティスト論――研究所のあり方について

 トレーニングはトレーニングですから、内輪でやっていてもよいのですが、だからこそ意識は外に問うていなくてはいけないのです。意識は、現実よりも大きな想像の空間を自由に飛びまわり、そこから現実を見据えます。観客に一般の人を入れたら刺激されるのではないかなどと言う人がいますが、同じ人間なのですから、内も外もありません。そんなことで左右されるレベルからは、何も生まれようがないのです。ライブハウスでも、日本では、一般に内輪の顔見知りが店の客でしょう。

 友人や、ちょっと知り合った人に無理に来てもらって、仲間で群れているところに、表現も批評性も存在しようがないのです。結局、それは作品ではなく人を見にきて、それを話のツマミにしているのですから、おたがいに暇なことです。それしかないから、大した必要性もなく戯れ遊んでいるのでしょう。飲みニケーション、あるいは主婦がちょっとご自慢のお菓子を作って、「ネエ、食べてみて」などと押しつけているのと変わりません。だから誰も文句もつけず、「楽しかったワ」などと言うことで終わるのです。

 もちろん、研究所内は〈同人誌〉でよいのです。習作の場ですから、やれる力と自信をつければよいのです。そこに、内も外もありません。

 自分の基準もあいまいなまま外に出ても、この日本ではさしさわりのないおべっかか、本音ではない無難なホメことばやご挨拶しか返ってこないでしょう。誰も、本当の意味では言ってくれない、見てくれない、わかっていないのです。それは本物のプロの批評家がいないからです。いや、いなくなりつつあるからです。

 本当は、誰にどう認められているかが何よりも大切なのです。だからこそ、ここは厳しい場としてあらねばならないのです。認めるところは大いに認めても、それをきちんと判断しなくてはなりません。どんなに小さくともよくなりそうなところはよし、どんなによさそうでも流しているものはだめ―と見据えることです。

 世界やアートにつながっている意識をもてば、厳しくなるのはあたりまえです。音楽は、その名に値するなら、時代も空間も超えるべきです。「内輪だから応援してやればよい」といわれますが、本当にそうですか。これから伸びようとする人に対する本当の応援とは、誰も見てはくれないとこを見てやること、言いたくないことを言ってやることでしょう。

 まだその土俵にあがっていない人には、いい加減な応答で迎合せず、黙して待つことです。

 だから、ここを出た人はやっていけばよいのです。やっていくしかない。場や時間をどう活かすかも含めて、すべてはその人の才能の発露です。世間に問えばよいのです。

 ただ、一般に問うということでやるなら、それはメジャーなことですから、何千人と集めているアーティストと競うことになるでしょう。研究所でも二、三〇〇名のライブはすぐできます。それ以上のこともできずに、外で問うているなどとは言えないのです。

 そういう人は、単に長くやっているという唯一の理由でそれを続けているだけです。それは「長い期間」という価値しかなく、内輪で同時代を生きたという経験の共有以上ではありません。時空に限定され、やがては埋もれてしまうものなのです。日本のライブがライブたりえない理由です。だから、多くの人は一〇年ももちません。

 ファンがファンをよんで増えていくはずが、先細りしていく。待っている人がいなくなる。出たがりだけでやっていたのでは、自分の気力が失せたときが終わるときです。こんなものはアーティスト活動でも何でもありません。

 最後まで勘違いできる幸せな人以外は、もっと内面を見つめることです。そういう人がアートとか表現を全くの素人に語ったりするから困るのです。そういう人は、自分の世界で、一人で、自己満足で作品を作っていればよいのです。それも最高のぜいたくの一つでしょう。その代わり、自分の他の仕事を全力でやることです。

 歌というのは、本当の力がなければ、どこかででまとめなくてはなりません。神が手をさし出してまとめてくれるまで努力しなくては、本物になりません。そこまで問わないのなら、誰でも歌えます。あなたでも、優秀なプロデューサーとバンドとスポンサーがつけば、CDも出せるし、ライブもできるでしょう。しかし、それだけのものです。ところが多くの人は、それだけのことしか考えられないし、それだけのことでさえ、すべて他人に頼ろうとするから、そのチャンスもそれだけの力もつきません。

 それなら働いて貯めたお金で自主制作している人の方が、よほどましです。家族や愛する人のまえで歌っている人の方が、立派です。当人以外に意味がないのは同じですが、自分にも意味のないことをやっているよりもましです。自分を超えたところに意味をもつように、意味が宿ってくるように意味をつかんでいないし、つかもうとしないから、クローズになるのです。おのずとまとまってくるまで歌に精進した人だけが、やがて自分の歌を歌えるのです。

 同じように、プロは、どこかがプロのレベルにあればプロ活動はできるのですから、自分で見極めたところに才能の出口を持ってくるべきです。私は、ここで日本のアーティストの可能性を限定したくはありません。世界を見てきたことで、少しは世界との差がわかるつもりですから、日本人の歌や音声表現に、理想と、ある意味では確信を持っています。かつてのモータウンのように、新しい時代はこういう確信の重なりがもたらすものだと思っています。


2−4 誰に求められているか

 人材がいないのではない、人材は音の世界でトレーニングをつんで出てくる。誰もがそうなりたいと思うだけで、本当にそうなろうとはせず、またそうなれるだけのこともしていない、つかめないでいるだけなのです。どうして、そのようになる努力をしないかと言えば、自分自身の才能、自分の何があるのかを知らないからです。

 それをこの研究所では、わかりやすくオープンにしています。ただ、それをものにするには、意志と力が必要なのです。

 それにしても、昨今のアーティストをめざしているはずの人の、ポリシーのなさには閉口します。自分の意志もことばをもたない人たち、ステレオタイプのことばしか口から出ない人は、頭の中も同じと思われます。

 力がないのに無理に力を求めたり、働かせようとする人(そういう人は一人でできないから、いつも群れたがります)より、自分の絶対的な力をつけることを考えないのはどうしてでしょうか。

 問わないのはなぜですか。力って、何ですか。

 きっと、アーティストはアーティストとして生まれつくもので、なろうとしてなるものではないのでしょう。あなたの毎日の表情、口から出てくることば、内に煮つまる思考がそうでなければ、そうではならないのです。

 それならまず、自分に与えられた仕事を三〇〇パーセントすること、それがプロを知るためのきっかけです。求められたことの三倍を返すこと、客から三千円とったら、一万円分、聞かせることです。

 努力をすればプロにはなれます。力も金も、普通でない生き方も、それは、そんなつまらないものよりも、真実や本質を、自分の本性を、表現をもってとり出そうとしていれば、やがてなれることです。それもしないで、デビューやステージを求める、タレントの素養もない人って何でしょうか。

 もっと考え、もっと行動し、もっと叫びなさい。

 ちょっとやったつもりになると自分は人とは違うと思ったり、人を見下したり先生ぶってきたり、――人間て、つくづく愚かなものです!

 それであんた、いったい誰に求められているんです?

 どこへいこうとしているんです?


2−5 自ら発信せよ

 身近なところから始めることです。たとえば、会報に寄稿することでも構いません。

 価値のある文章というのは、すでに誰かが書いていることをなぞった文章のことではありません。それはすでにみんな知っていることで、いまさら言っても、誰も新鮮には思いません。知らない人にだけ、通じるだけの文章です。

 かと言って、価値のある文章というのは、誰も思いつかない奇想天外なことを書いた文章のことでもありません。誰にも理解されず、受け入れられないからです。そういうことから、価値ということが何かがわかってきます。

 誰もが知っていること、わかっていることでありながら、それでいて、うまくとり出せなかったもの――それが共感を得るのです。その点では、アイデアと同じだと言ってもよいでしょう。つまり、同時代や同時代を生きている人のたった半歩先をいくような感覚でとり出されたものが、もっともふさわしいものだと言えるでしょう。

 その多くは、他の人が思うのと全く逆のことのように見えても、人々の関心をひき、その上でしっかりと他の人を説得できるものです。しかし、全く間違ったことを言っても、受け入れられませんから、肝心なのはバランス感覚です。だから、いろんなものを勉強しなくてはいけないのです。

 一見、全く逆でありながら、その裏づけ、理由を聞くと納得できるとしたら、そこでの展開こそ、表現の極意といえましょう。

 難しく考える必要はありません。そもそもこの世にありとあらゆるもの、すべては無から生じたものではなく、誰かが思いつき考え新しく生み出したのです。そして誰かの支持を受けて、今日まで残ってきたものです。料理一つ、つまみ一つをとっても、そうです。時代がいかに進み、いかに多くの本や情報が出てきても、新しく語るべきことはなくなりません。よくよく考えると、多くの先人は、いつも、同じことを違うことばで言っているだけなのです。それにも関わらず、私たちは違うことばを聴かないと、その同じことを学べないのです。だから、ことばはとても大切なのです。

 あなたが生まれ、この世に存在するかぎり、あなたには書くべき内容があります。そして、それは何よりも価値のあることなのです。他の人が言っていることの受け売りをやめましょう。ものごとの本質を自分にとり入れつつ、自分のものを深めましょう。自分のことばで考え、思考を磨いていかなければいけません。自分を表現するために、文章を書くのはよいことです。それが、自分を知ることになるからです。


2−6 今を生きる

 あなたたちは、研究所で研究しさえしていれば、歌えるようになるとでも思っているのではないか。うす汚い金なんかとは無縁の、世俗とは切り離された真理探求の場で清く貧しくつつましくやってさえいれば、何かが自分に宿るにちがいないとでも思っているのではないか。ここは修道院ではない。アーティストの精神の向こう側に天国があるはずがないだろう(そういうヴォーカリストたちはすでに夭折した)。

 少なくとも今のみんなを見ているかぎりで言えば、そこまで降りてはじめて、やっと少しはものの本質に近づけるだろうということだ。

 身銭を切ることにおいて得られたものは体に宿るのに、身銭を切った痛みを味あわないからいけないとしか言いようがないではないか。

 なぜなら、本質を観る力とは、その人の生きているさま、生きざま、生活、価値観と切り離せないからだ。

 たとえば、金とは価値のやりとりの現実である。

 リスクを覚悟したギリギリの瀬戸際で、今の時代、日本で自分という商品をいかに高く売るかということを見るところから、自分の評価も生じてくる。現実に生きていくところに客がいるからこそ形も決まり、舞台ができる。世の中で現実に生きている客ほどに闘っていない人が、何をそういう人々に伝えられると言うのか?

 歌うことがストレスの解消や健康のためによいと言うのなら、それはそれでよい。自分の本業である仕事をしっかりとやることだ。そのことで歌もよくなる。少なくとも高級クラブのカラオケで歌っているサラリーマンの何人かに一人は、声をのぞけば、そこそこのレベルに立てるのではないか。それが現実の強みである。彼らもまた現実を生きているからだ。

 自分はプロだ、これが仕事だと言って、歌や表現を恥じないまでに高めたいなら、歌ったり声を出すだけではなく、本質を今の時代にとり出さなくてはいけない。そのためには、今を生きていなくてはいけない。

 プロとは、仕事にする人、仕事とは金をとれること。

 金というものは、力、価値につく。その時代を生きていない人のやることに、少なくとも誰も金を払うはずはない。客の気分をよくする店の雰囲気には金を払っているかもしれないが、ヴォーカリストには払われていない、そんなところが日本の現状だろう。
 (歌は、死後になって認められたゴッホのようにはいかない。)

 嘘や偽りは続きもしないし、通用もしない。金はシビアである。隣のオバサンが、手づくりで焼いたケーキを近所の人から「おいしい、売れるわよ」と言われたからと言って、その気になってケーキの店を出してどうなる。ただでおいしいものでも、いくらかでも金をとるならプロである。おいしいのがあたりまえで、そうでなくては誰も買わない、少なくとも続けては買わない。金を出して、買いに来る時間を使ってまで食べるほどのものでないからだ。

 お情けで来てもらい、拍手をもらってどうなるのだろう。

 プロになりたいと言うなら、金にもならない歌はやめることだ。それでも金にすることができたら、その金で好きにやればよい。

 仲間や近所の客以外、一人の客もいないのに、〈歌の真実〉なんてもっともらしいことばを使わないことだ。真実を見ているつもりで〈目がくもる〉のでは、金に目がくらんで痛い目に合うよりも、さらにたちが悪い。

 金は現実である。そこに生まれる欲もまた現実である。少なくとも、それらは人の心を捉えているではないか。それなら、名声や金や異性や人間らしい欲にひかれて歌った方がましだ。人間のうわべのきれいさばかり見、オツに構えて「これが恋愛の理想的な姿ですね」などと歌って、聞くものに何が伝わるというのか。こんなエセ修道院風の発想をする人よりも、刑務所にいて欲求不満をぶつける人の方がよほどアーティックだと言うべきではないか。

 歌さえあれば他に何もいらない。本当か、それは他に何も見ていないからだけではないか。歌をやる先に、現実をみていなければ、歌への逃避にすぎないだろう。子守歌を歌ってもらって、いつまでも母サンの膝の上にいたい甘ったれのガキと同じだ。それに、反論のしようがあるか。

 いい加減、目をさませ。大人になれ。

 外ではわがままでどうしようもなかった者が、嘘を忘れて素直な心になり、霊性を取り戻すために、歌はある。表現するということは、傷手を負うものである。それを勇気をもち、リスクを犯して冒険してやり抜くこと、その結果どんなに傷ついてきても、ここでやったこと、やっていることで自信を取り戻せるためにある。

 だまって生きているだけなら何も言われない。その静まりかえった現実にあえて波紋を起こそうというのだから、覚悟がなければ人前に立つ仕事など選ぶべきではない。静まりかえっている現実など、ありえない。それをよく見てはじめて、表現の心が生まれる。そこに波紋を起こすことは、たとえそれがたとえどんな仕事でも、それはあなたの存在であり意味なのだ。

 外での評判だけを気にして客にこびウケだけをねらうのなら、いっそアーティストなど、めざさない方がよい。

 研究所で全力投球できなくなり、歌や表現のピークが保てなくなって、自分の言い訳、弁明をしてやめていく人で、外の世界で伸びた人はいない。業界の甘いことばに、勘違いした自信など、長く世間に通じるはずはない。

 金は正直である。自分がやっていなければ、同じ会費も高く思えてくる。
 自分の歌を素晴らしくするための努力をしているのか。
 歌を素晴らしくするのは、ほかの誰でもなく、あなた自身なのだ。
 自分の力をもっと信じてあげなさい。その声、体、顔は死ぬまで、もっているものなのだから、もっといとおしんで輝かせてやりなさい。あなたが少しほほえんだら、みんなを幸せな気持ちにさせられるまで、がんばりなさい。あなたが変わったら、そこに歌が聴こえてくるはずだ。

 歌は、現実を生き、今を生きている人には真実である。その価値は金に比べられるものではない。お金は他の人が拾うことも受け継ぐこともできる。しかし、体についたもの、身についたものはそうではない。自分の命の限り、一代のもので、誰にも譲れない。受け継がれるのは精神であり、それとて受け継ぐには、先人を超える努力がいる。

 私の声を聴くこと、私に声を聴かせること、ピアノの音や声をあびること、それがすでにレッスンになっている。そのことさえわからず、「見本みせてください」だの、「歌い方を教えてください」と言うほどに、きみらは鈍感になったのですか。


2−7 自灯明〜自分で選ぶということ、選ばれるということ

 いつも、何かが起こっている場でありたい。変化を嫌うのは成長をやめることになる。やる気のある人にはどんどんチャンスを与えたい。

 研究所での第一のチャンスとは力をつけるチャンス、自分に投資できるチャンスである。もっと徹底してここを使えるためのチャンスである。そのために、私自身も自分の時間とお金を投資している。

 ここの変化を嫌う人は、自問して欲しい。他から変えられるほどの自分しかないのか。

 ここは、誰でも入れる。しかし、誰でも入れたわけではない。
 ここは誰でもいられる。しかし誰でもいられるわけではない。
 自分を伸ばそうと思いつづけ、それを実践する努力をやめたら、ここはいらなくなる。それを卒業と言う。学べなくなれば卒業だ。

 ここに学んだ足跡をくっきり残し、さらに学ぶために本当に卒業して欲しい。挑戦しないことは、それをやめたことは、自分の人生に背を向けたことなのだ。

 それでも人は、生きている。でも、何のために。


2−8 底辺であること、周辺であること

 ここは、誰でも入れる。自分で選び、来たのだから。入ったとき、他の人に比べ、すぐれている人も、そうではない人もいる。だから何だ。

 あなたの価値は業界からルックス、スタイルなどで他人に決められるものではないだろう。比べられて、うんぬん言われる。そこで問われているのは、単に商品価値である。これは客が決める。

 しかし、客に決めさせたくなければ、客を決めることだ。そのためには、もっと力が必要だ。

 私もずっと底辺であったから、中心からみると、いくばくか力がつき価値を与えられるようになったであろう今も、周辺でありつづける努力をしている。

 メジャーでないために他から目を向けられない人を、見つめている。

 その先に、あなたたちが手に入れるものというところで見ている。この世界でどうやっていくかでなく、この世界をどう変えていけるかという可能性を見ている。

 でも多くの人は、それを問わず求めず、それゆえ放してしまう。

 本当の中心にある真実とは、いったい何かを見据えるために、学ぶことは尽きないはずだ。バブルの頃のように、わかりやすかった虚ろな中心に近づくひまも意味も、もう自分の人生になくなりつつあるのを感じる。

 中心は、中心であるための、華とひきかえの労がある。しかし周辺にはそれ以上に、そこが中心としてないために、自らに中心をもつ労がある。どちらも大変なことだ。

 ただ底辺、周辺たる人は、人に求められなくとも努力の中心でなければならない。底辺、周辺があって、中心もある。今はすぐれていない人、すぐにすぐれられない人がいる。でも、それは器用に中心に添えられた人の人生に劣るものではない。

 不器用、鈍い、できない、とりえがない。たとえまだそうであっても、これをコツコツとクリアしていくことで、自分の人生を中心にもってくることができる。これは、中心にいくことよりも尊いことである。そこで人に求められるようになると、華が出てくる。自分の力以上の力が出てくる。それはやがて、かつての中心を周辺にしてしまうほどの力をもつ。無常は、人の世の常である。


2−9 今のままの私では困る

 〈今のままの私でよい〉といった類の考え方は、やめなさい。そんなものから得た自己肯定の自信などは、何のパワーにもなりません。だいたい、そういうことを述べる人は、決して今のままの私でよいと思って生きなかった時期があるから、そう思えるようになって述べているのです。その結果だけまねてもだめです。親が自分の苦労は子供にさせたくないと思って育てた結果が、今の日本の現状です。

 今のままの私でよいなら、なぜその人は、何百枚も原稿を書くのですか。わざわざ、そう発言するのですか。

 誰でも電柱のようにボーッと立って、社会の役に立っていたら、それはそれでとても偉いことなのですけど、あなた、電柱になれますか?


2−10 ベテランへのメッセージ

自立せよ!

1.一人では何もできない奴らがいつまでも群れて何やっているのか。人を頼り、大手にへつらって、友という名に甘え、他人を巻き込んでやっているもの、それはいったい何だ。

2.この世界にOBなどはいない。齢六〇にもならず一花咲かせることもなく、先輩づらをするな。歌やアートのOBとは、あきらめ組みというならわかるが、情けないことだ。

3.外に出ても学ばない、ここで学んだことも失ったというのは、つまりは何も学べなかったということ。どうしようもない。
 いつでもここはライブハウスだ。それが私の〈店〉であるとしたら、私しか客を呼んで満足させる力がないからであろう。単にきみの作品が平凡だからに過ぎない。
 ソフトがなければ、ハードは動かないものだ。三〇年もまえにライブや歌や演奏を作った偉大なるミュージシャンたちのものまねは、そろそろやめたらどうだ。若くないな。

4.やらない? やっていないなら肩たたきだ。

5.自分の足もとを自分の足で踏んで、しっかりと生きることだ。大人になるのは悪いことではない。でも生来持って生まれてきたもの、生理的、動物的直観で見い出していく自分の輝きをくもらせるのは、あなたの本当の魅力をそぐことになる。


 ここで原石の魅力の輝きを一瞬はみせてくれた人たちが、活動とやらの名のもとに、うわべだけをとりつくろった、まがいものに身を投じていくのは残念なことだ。
 おのれの才を見誤り、おごりの中に自らを見失い、あるいは勘違いし、凡たる道にしかばねをさらしていく。
 二〇歳(はたち)過ぎたらただの人、そうでなく、三〇歳、四〇歳を迎えるのは難しいものだ。そうではなくあるためには、一人深く黙して、心を見開き、ただひたすら基本に忠実にトレーニングする時間と空間をもつことだ。内なる神の声を聴くことだ。
 研究所にいるとか、いないとかいうことを問うているのではない。どこにいても、主体的に自立せよということだ。
 ここには、来てくれといわれて来ない奴、来るなといわれて来ない奴を求めている。同じく、やめるなといわれてやめる奴、やめろといわれてやめない奴であって欲しいものだ。


2−11 迷いと光明

孤独と力
 ステージの上を楽しむには力がいる。力のないものはステージで孤独である。その力は、一人で身につけるしかない。力を身につけていくには、孤独が必要である(力がつけば、ステージ以外の場が孤独となる)。
 どちらの孤独を選ぶか。

 ステージでは、他の誰よりも、やった分しか通じない。

 守られて育ってきてしまった人は、ここでも守られていたら、どこでもやっていけなくなる。それなのに、どうして守られることを期待するのだろう。

 自由には、責任もリスクもつきものだ。自由にやらせているところで、自由を使い切れないから、自由でなくしてくれときみは言うのか。他人に自分の人生を歌を決めてくれと言うのか。

 レッスンへの不満、世の先生方や生徒たちの中には、自分の居場所を平然と批判する人もいる。しかし、新たに提案できない人に、既存のものを否定する権利はない。自分がそう思うなら、自分がいるところから変えればよい、自分の力で。

 どこかに属していることで守られている。それを隠れミノにして、ぐちしか言えないなら、だまって力をつけよう。言われたことしかやらず(そして言われたことの何分の一もできず)、言われるのを期待している節があるとしたら、いつも〈言われたらやる〉では、いったい誰のために力をつけているのか。

 力をつけたければ、一流を見よと言っている。

 百年たったら何が残るのか。他の国の一流とよばれている人がきたら、きみは何を見せられるのか。

 そんなところから、考えてみることだ。

 そして、今ここで、まわりの人に、自分が何ができているのかを知ることだ。あなたにとっての目標とトレーニングとは何なのか。

 要は、努力とか厳しさとかを強いられたり、そんなことで自虐的になるのではなく、単に自分がどうなりたいのかということなのだ。そのためには、自分がどうありたいのかがわからなくてはならない。そうしたら、そのために利用できるあらゆるものを、最大限に利用すればよいということが明確になるはずだ。

 身につくかどうか、さらにやっていけるかどうかは、その人の人間性による。それがないなら、考え方で克服する。それもないなら、場でがんばる。

 やれることもやらずに「できない」と言う、成人した〈子供〉が多くなった。

 今こそ、かつての芸人やプロに学ぶべきではないだろうか。表面でなく本質を学ぶために必要だ。どう学ぶべきなのかを学ぶために。表面しか見えず、ことば尻やことばのあやに翻弄される人に何ができる? 人生も同じだが、舞台では同じことは決して起こらない。どんな状況にも対応できる力をつけることだ。

 それを人やモノのせいにしたり、嘘を自分についたりしても、すべては結果として、自分にはねかえってくる。天に向かって唾しているのは、自分の人生への冒とくである。何かことが起きたとき(ハプニング)にこそ、つねにそれを最大限に生かして乗り超えていける力を学ぶことだ。

 上達しないのは、その覚悟がなく、逃げ場を作りすぎるためだろう。ステージに逃げ場はない。ステージから逃げるかどうかだけだ。

 人生に人から与えられる特別な時間などない。それは、自分がそう意識するかどうかだけなのだ。

 「待たされた」と文句を言える人は、待たされないように、心地よくすごせるように求めているお客さんだけである。力をつけるのにレッスンよりも大切なことがあるのを知らない甘ちゃんだ。これでは、レッスンも身にならない。

 一人で学ぶことのできない、と言うより学ぶ姿勢のないもの、自分で自分を処し、おもしろくできない無芸もの。誰かに言われないと頭の中で何も考えず、やろうとしない他人依存症患者。いつも、守られていることを欲する赤ン坊。
 ……どうして、歌えないと思う? これだから、やっていけない。やっていけた人とは、そこが違う。

 プロの世界は、その人のもつものを相手に与え、投じられたお金や時間以上の満足を返さないと続けられない世界である。それは、続いていること(量)で証されることが多いが、実は内容(質)である。

 ここを去る人の多くは、ここから旅立つつもりで、結果として表現をあきらめる道を進む。自立の精神を得ずしては、進む行き先は閉ざされるだけなのに――。これほどわかりやすくしているところでさえ、学べなかったのだから。

 しかしそれは、その人にとって決して悪いことではない。でも、世界の損失。才能の浪費。

 一つのことがあれば、そこで考えよ。
 それはどうしてなのか、
 そして他の人とはまったく違う行動をとれ。
 何よりも自分のためになる処し方は何なのかを考えよ。
 あなたの芸に、あなたの生き方に、それより何が優先するのだろうか。

 いつも迷い、迷路をめぐるだけで、人生の多くは費やされる。多くの人は自分の居場所、ステージを定めたがらない。会社、学校、家庭、研究所、それが何だと言うのだ。たとえ、それが砂のようなものだとしても。五十年先には、あなたも僕もいない。

 もしそこが意味をもつとしたら、そこであなたが何をやっているか、どんな意味を作っているだけだろう。人生は、その意味を、価値をおびるまで待てるかどうかなのだ。

 いつか、どこかではない。大切なものは、いつもここにある。それが見えないなら目を開き、聞こえないなら耳を開くことだ。あなたのステージは、どこなのだ。そんなもの超えて、足跡を残そうではないか。

 地上に、人の心に。


2−12 群れるな

 とかくメダカは群れたがる。しゃべりたがる、人のことばかり言いたがる。
 一人でだまって自分のことを見つめ、自分の心に語ることを知らない。

1.力があるかないかの判断は、他人がする。
 その現実を知りたまえ。しかし認められないのは、まず自分で認められないからではないか。自分と同等か、あるいはそれより下のレベルの人から認められても、それはあなたでなければならない必然性がない場合が少なくない。知人だから、友人だからというくらいでの評価に過ぎない。だから道も開けてはこない。道が開けなければやっていけるはずもない。

 レベルの上の人から認められるのが難しいのは、そういう人は、あなたが自分自身に忠実であり、そのうえに出てくる誠実な表現を期待しているからだ。

 他人から動かされているだけで、絶対的な自己を持っていない人は、やがて去らざるをえない。

 出てこないものを、どうして力と呼べるんだい。


2.誰もが、自分は違う自分は違う、と心の中で言いながら、しかし、やっていることは何だ、見ているものは何だ、口に出ることばは何だ、歌えるものは何だ。どれもこれも、同じじゃないか。違うと言いたければ、まず違うだけのものをみせることだ。それには、心構えの違いからである。


3.同じことをより高いレベルでやる力がつくまで全力でやる、必死に絞り出してやる。

 この楽しみを選び続ける中に、やがて他人が心を打たれ、頭を下げるようになり、あなたの作品を好きという気持ちとなる。まずはあなた自身が力をつけようとする自分に謙虚に頭を下げるところから始めなさい。


2−13 わかることとできること

 わかってはいるができないのだと言う人がいる。これはどういうことか。よく考えてみれば、この人は本当に〈わかって〉いるのか? 実のところ、それは「わかっていないということさえわかっていない」ということの別な表現だということが私にもわかってきた。

 昔から言う、〈バカ〉と〈利口〉は紙一重だが、どこが違うか。それは、自分が〈バカ〉であること、〈何も知らない〉ことを知っているかどうかの違いだ。そして〈何も知らない〉ことを知っているものを、〈智者〉と言う。

 できるできないというレベルはどこにあるか。これは〈深み〉ということに通じるが、スポーツや芸ごとの経験のない人は、この〈深み〉というのがわからない。

 わかったということは、すでにできたということである。目標が低すぎると、ほんの少しやっただけなのに〈ものすごく〉やったような気分になり、そのあげくに「わかっているけどできない」などと言い出す。気づいている人、わかっている人は、ほんの一フレーズで表現して、それを感じさせ、証明する。この一フレーズがどれだけ大変かわからないうちは、わかったことなど何もないに等しい。

 一フレーズでの表現が少しも出ないということは、少しもわかっていないということだ。体や心との接点さえとれないで、何が〈わかった〉なのだろう。こういうわかった、わかっているという思い込み自体、すでにレベルの低いものである。そのことがわからないようでは何も始まらない。

 年齢がちょっと高かったり、何か他のことで少しばかりやってきていたら、こういうことが何となく、自分には身についた気なる。だから、結局のところ、まったくできていかない。自分のいるところから、やり始めたばかりのもっともできていない人だけをみて、遠くの人を薄目で見て安心しているだけ。だから、その不安がおしゃべりにさせる。

 プロ野球のバッターボックスに立って、一〇回に一回、たまたまボールにかすって「バッティングがわかった」ような気がしても、それはそれ以上のことではない。

 ぼくがきみらより、ぼくがきみらの中ですぐれている人よりすぐれているところがあるとしたら、きっと、学べば学ぶほど、わからないこと、やるべきことがたくさん出てきて、少しずつ少しずつ、しかし確かに実感をもって学べているからだろう。だからレッスンも、年ごとによいレッスンになっているはずだ。

 本当に学べているなら、おのずと世界は開けてくる、世界が動く、そして運やつきがまわってくる。そういうものだ。チャンスがないのではなく、自分の力がないだけなのに、そのことを見たがらないものだ。


2−14 きみの売りものは

 ぼくがここを本当の意味で卒業させることができたのは、わずか三人である。あとは学べないから出ていったのだが、学べたつもりでいる人に、何をとやかく言う必要もない。どうせ学べないなら、お金も時間ももったいないから、それはそれでよい。

 ぼくは、オレはできている、おまえらできていないくせにと言っているのではない。ここでは、レッスンごとに、どちらがどれだけ学べるかの勝負なのだ。先生も生徒もない。

 泳ぎたい、それもオリンピックで泳ぎたいと言っている人たちがプールにやってきて、そのくせ水には入らない。気分がのらなくてとか、少し寒いワネとか、服を着たまま眺めて、ちょっと水にさわっては、冷たいワなんて、また考えてるようなものではないか。

 それは、要するにお稽古ごと以前の趣味なんだ。
 水に入っても泳がない。泳げる人を目の前で見ても、泳ごうとしなければ泳げない。自己流のフォームも正さず、より楽に、よりうまく泳ぐことを考えない人も多い。

 スポーツ選手も超一流の人は芸を極めている。ただ、アーティストが違うのは、勝敗やタイムで成績をつけないこと。

 この世界では、成績は自己申告である。他人は教えられないし、評価もできない。私は口が酸っぱくなるほど、自分で自分を教え、評価するしかないと言ってきた。

 所詮、スタート以前の状態だから、他人から評価されてしまうし、表現についても底まで何もつまっていないことまで見抜かれてしまう。

 きみの売りものは何なのだ。
 ここに何を売りにきたのか。
 ぼくの使い古したことばや、やり方だけを買いに来たとでも言うのか。
 使わなくては、壷や皿ほどにも役立たないのに。


2−15 全力を尽くしていますか

 今日をがんばっていますか。

 あなたがこれまで一番がんばったときよりも、今日をもっとがんばっていますか。

 あるレベル以上のことをキープするためには、それがあたりまえにならなくてはいけない。それなのに、他のせいにしたり、他の人を頼ろうとしたりしていませんか。

 なぜ、先人を乗り越えようとしないのか。先人の教えはそのためにあるのに、なぜ日本人はすでに限界だったことを二度追いするのか、昔の才能のあった歌い手でさえできなかった過ちを追うのか。

 彼らはその才能で成功したゆえ見ず、日本を超えなかった、超える必要がなかったからだ。

 それにくらべ、きみらは超えないかぎりどこにも出られないのに。なのにどうしてそれを頼るのか。聞けばすぐにわかる〈声〉のことさえわからなくなり、本質とは無関係な、よけいなことばかり学んだ〈ふりをして〉そのためにもっと見えなくなる。自分に厳しかった初心だけが正しかったなんてことでどうする。

 研究所が海外で評価され、日本で権威づけられ、メジャーになり、ライブハウスができ、お偉い人にこぞって評価されたら、きみらはぼくにつくのか。そのときは、きみはもう、およびじゃない。

 最初にわからなかったことを、この研究所で詰めていくことを放り投げてしまったら、実現するわけがない。基本なくして、力はつかない。もったいないことだが、所詮、それはその程度にしか、あなたに必要なものではなかったのだ


2−16 自分を研究すること

 自分で研究すること、そのために研究所を利用すること。使い切ること。
 自分が自分になるために、歌や声に学ぶ。
 欧米人と日本人を研究しつくした基本の型の意味が、わからないのだろうか。
 ゼロからはじめたものだけが、何もないところから打ち立てたものだけが、時代も、学問をも超えられる。
 そして、そこに立ち会いつづけたものだけが、栄誉と次の時代を切り拓く。
 その若さで傍観者になってどうするのだ。一〇年たって悔いないよう、権威と名にこびる生き方を改めよう(ぼくも、ぼくの内にではなく、うしろにあるものに出会おうとする人は嫌う)。一〇年たったら身についていた、日本で稀有(けう)の体現をした人間のことを、少しは本気で信じてみたらどうだろう。

 何もやりもせずに、自分にはできなかったのだという言い訳を作って長い余生を歩む。悔いてやり直すことさえない、そんな夢のない人生に歌はない。

 どこが違うかと言っても、原点からして違う。
 ぼくは二〇年間で生きて与えてもらったことを、あとの二〇年間で与えて生きようと思った。やや、余計にかかっているだけだ。それでも五年くらい、人生の一割くらい余分にかかっても、どうってことはあるまい。きみらも早く原点に立つことだ。

 声や歌をやるとは、そういうことだと思う。声や歌自体を高めようなどと思うのでは、単なる趣味じゃないか。

 英語が身につく人は英語が好きな人ではなく、それを使わなければならない人だ。たくみに使って何かを成し得て〈なんぼ〉のものじゃないか。


2−17 一〇年たったら見てごらん。

 一〇〇年たったらではない。あと五〇年ももたない肉体や声を少しは惜しみたまえ。世界で一流、本物とは、三〇年からの評価であり、いかなる天才でも一〇年の仕込みなく世に出た人はいない。

 研究所でぼくが認めた卒業生の、狂信的語録をここに再録してみよう。
 「福島の言うことのすべてを疑い、トレーニングで消し去れば、真理のあることが、おのずと自分に見えてくる」
 「「ハイ、ララ」は、天才的発想である」
 「福島は〈鏡〉である。期待せず、ハサミも入れず、根のはるのを写し出す。自分の曇りをとることだ」
 身にあまることばである。
 これは、私と出会ったことの意味を活かせてもらえた実例である。一〇年たつ必要のなかった稀有なる人たちである。
 人は真理のためには殉ずることができる。人に〈期待せず〉わがままな私が、命を預けられる先をみつけられ、幸せである感謝で研究所は続いている。


2−18 卒業すること

 ちゃんと卒業してごらん、みんなにこの場を去ることを惜しまれつつ。それがアーティストというものだろう。

 教えて欲しければ、与えられたければ、精一杯、伝えようと与えようとしたらよい。そのことこそが教えであり、そのことにおいてすでに豊かな果実だ。

 育てずもぎとろうとするだけのその精神の貧しさが、あなたの今の力、顔、歌、声に現われている。だから、できないのだ。

 誰よりも一所懸命やること。それを胸張っていえる人は、ナンバーワンの努力は、ナンバーワンゆえにどこでも一人であり、あなたがそうであるかどうかだけなのだ。あなたがそう生きていることが、まわりを勇気づけ、あなたの本当にかけがえのない財になる。そうしたら、おのずとあなたの声も歌もほほえみ出すだろう。


2−19 自省し、自分自身を見つめよ

 これまでの自分の歌の〈器〉をいったん壊すことが研究所に入る条件である。しかし、器用で小賢しい人は、才能のある分、自分かわいさで小さくまとめて急いでしまう。努力する気持ちはあるのに、今の時代にとらわれ、何に向けてどう発信し、いかなる形をとるべきかを学ぼうとはしない。いまもって〈アーティスト〉の育たない現状をどう見るべきなのか。

 あなたが力をつけようと考える人なら、地中深く潜って自分を磨くとともに、宇宙の真理、人間の真理を学んで欲しい。力を発揮したい人は、発信にそなえ、時代や社会を学び、自分のおかれた環境をいかに自分の活動にいかすのかを考えて欲しい。

 芸とは、技術に人間性の加わったもののことである。

 文化は、毎日の積み重ねから、個人が生み出し社会へおとしていくものである。

 時代にも社会にも、世の中の動きにも学ぼうとせず、ただいたずらに技術だけを高めようとしているのは、自己満足に過ぎない。人間をみないで技術にだけこだわっているのなら、ステージの繰り返し以上の意味もない。

 もしあなたがそうであるなら、それは趣味でやればよいことである。プロでやろうなど考えないで欲しい。もしあなたがほんとうにプロとしてやりたいなら、腰を据えて、中心になってやることである。その周りでチョコマカしていても、どうしようもない。

 それができないなら、タレントやヴォーカリストの道はあきらめなさい。

 タレントになるには、タレントとしての素質が必要だ。歌がいくらうまくても、タレント性がなくてはどうしようもない。

 タレントとは、その時代、その社会の求める能力を持ったキャラクターである。

 そこで自分も自分もとあせって、急いで他の評価に身をゆだねたりするよりも、まず自分を絶対なものにしていくことが先決だ。この自分とは、一生つきあっていくのだから。

 それには違う自分、アピールできる自分を持てるところまで、自分自身を〈個〉として掘り下げていかなくては仕方あるまい。歌うのには権利はいらないが、私たちが聞きたいのは内容のある歌である。そして内容のある歌は、内容のある人からしか出てこない。

 ここのトレーナーさえ超えられずにいて、何がアーティストだろう。そういう人は、研究所という福島英のライブハウスをまだ理解していない。ロックをやっている、歌っているというだけで、世間に威張れるわけではない。世間がそれをきみとして認めてくれるなどと思うな。きみの声がいったいどこに届き、誰の心を動かしていると言うのか?


2−20 時代を街を呼吸せよ

 自らヴォーカリスト、ミュージシャンと名乗れるのは、音楽を通じて、タレント以上のことができるようになってからのことだろう。まず、今、きみがいる、この場、この研究所に集まっている人間の集団の心を動かせ。歌の力、まねごとではないきみの存在感、オリジナリティ、きみ自身の世界で、ここにいるみんなを感心させてみることだ。それさえできず、それをめざすことさえできず、中途半端なまま外に出て何ができると言うのか?

 世に出たければ、世界を、人間をもっと真剣に見よ。ここを、ここにいる人の心を本当に動かすことができたら、どこへ行ってもヴォーカリスト、ミュージシャンとして通じる。それなのに、なぜ、まず一人前になろうとしないのだろうか。

 あなた方は、本当に狭いところに過ぎないこの研究所での日々を狭い視野で過ごし、あたら自分の可能性まで閉じ込めようとしているのではないかと思えるときがある。こんな狭いところで群れるな。まがいものの〈友人〉関係などを作るな。世の中には、もっともっと大きく動いている人、動こうとしている人がいる。時代を、街を呼吸せよ。

 ここでしか〈友人〉のできないような人は、恥じよ。それは外の世界に目が向けられていない結果であることが多いからだ。きみの〈友人〉は、外の世界にもいないような〈人間〉であるか。


2−21 今、闘っているか?

 もう一度、音楽をすること、歌うことから疑ってみたらどうか。他に何もやることがないから、〈音楽〉でもやっているというだけではないのか。〈他に何もやることがないから〉というのも理由の一つであってもよいが、早く主権をもつことだ。自らを解放してくれるはずの歌に、逆にしばられて、その奴隷になってしまってはいないか?

 自己陶酔、自己満足に終わってはいないか?

 この時代に生きていて、ロックを手段として選んだことからして、すでに、前世代の愛好家ファンクラブをやりたいとでも考えているのかと見えなくもない。
 私が古いものをとりあげるのは、そこに基本があり、力をつけるにはまずそれを学ぶべきだと思うからである。それをやっていればよいなどと考えてのことではない。

 古いと思われているアーティストを紹介するのは、多くの場合、みんな、今も最前線で大いなる試みをしているから人たちであり、あるいはそうしてきたからこそその名を残した人たちであるからだ。その精神に学んで欲しいということ以外に理由はない。築かれた伝統や〈神話〉に学び、そこから学びとったものを、自らの手で、今、そして未来へ生かしていこうと考えるからであって、そこに共に埋もれたいと思っているからではない。いや、彼らは死して生きるが、きみは死して埋まるではないか。

 純粋に音楽や歌に魅了されたい、歌が好きだから自分も歌ってみたい――もしそれだけなら、単なる聴衆、評論家と変わらない。少しばかり声の出し方や歌い方をまねられるようになったからと、どうなるというのか。


2−22 今を生きているか?

 世の中には、〈学者バカ〉などと悪態をつかれても仕方のない人たちがいる。過去についての知識は人並みすぐれて豊富だが、それを〈明日〉に生かそうとする、あるいは生かしうる哲学は、薬にしたくても持ち合わさないといった人たちのことだ。同様に、もしきみたちが、これまであるライブハウスや音楽や歌などを基準に考えているだけだとしたら、〈学者バカ〉と同じ意味で〈音楽バカ〉だと言われるべきだろう。これっぽっちも明日に生かせない古い知識に首まで漬かって抜けられず、それで生涯は終わりだ。そんなもの、誰もみとめるわけはない。

 ロックやジャズをやりたいと言う人たちが、なぜこんなに保守的なのか、なぜ何も語れないのか。自分を、世界を、なぜ語れないのか、それをなぜ体現できないのか。不思議に思う。

 問われるのは、きみが何を変えたか、どうジャンルを破ったか、新たに何をもたらしたかだ。あるいはきみが何を変えようとしているか、どうジャンルを破ろうとしているか、新たに何をもたらそうとしているかだ。

 生きざまを問うて欲しい。賞賛に値する芸は人間に宿る。
 早く〈にせもの〉から脱し、ほんものになって欲しい。


2−23 自分の名で生きること 歌うこと

 今、代々木のハイツ(旧スタジオ)が改築している。わずか12畳の、一つだけのスタジオだった。だから、だめだったわけではない。何一つも。忘れないで欲しい。すでに、その家の白いペンキを塗ったトレーニング生もほとんど巣立っていった。

 ここは学校でない。道場である。

 先生だとか事務だとか先輩だとか新入生だから、とか、レッテルを貼るな。
誰もが一人の人間である。自分の名で動け。
ごみがおちていたら拾え。
スリッパがちらかっていたら片づけろ
そこで文句言っている人は去れ。
何も言わず動く人だけが残っていく。

 お金を払っているから、通っていたら、何が身につくわけではない。ましてや、何かやってもらえるわけでない。
1時間にたくさん話を聞いたから、勉強になるのではもない。二年間でたった一言から自ら気づいたことが、人生を、歌を価値あるものに変えるのだ。何もないところから、学べる力が自分でやっていける力なのだ。

 ここには、今は福島英がいる。それでよい。あとは、あなたが“自分”でいれば。たとえ、一人であっても。


2−24 “学ぶ”こと

1.学び方を学べ

2.好きなものより学びえるものより学べ 多くを、いつまでも学べる材料を与えてくれるのが、一流、もしくは本物。一流は一流、本物は本物を知る。本物という難物にぶつかり、何かを感じること。そこから始まる。

3.価値をつけているのが何なのか、誰なのかをみよ

4.自分の力を限定しているのが自分であるのを知れ
“学ぶ”ためのヒント


2−25 常に唱えよ

 研究所にいたらアマチュアで、外のライブに出れたらプロと考える? 本当にそうか。価値そのものは技術力と伝える力の上に成り立つ“人間力”にあり、値段や人数といった価値の出し方(メディア)は、一つの目安にすぎない。

 世界をめざしたら日本で通用するのに、研究所内で通用するために、そこでみんなで刺激しあえればよい、など考えるから、ここでも生涯、通用しない。世界をつくった人は、世界しかみなかったはずだ。


2−26 課題のとりくみ方

 課題は自分で置き換えてこなければいけません。他人のものを持ってきて、それを無難にこなしても何にもならないのです。ことばも声も、自分で引き受け、自分のものにすることです。そのことばや曲をあなたがどう感じているのかが見えるように、です。

 このことは、初めはとてもわかりにくいものです。一般的には、歌になってメロディがついたらそれにのっかってしまうため、ことばだけのときよりもさらに伝わらなくなります。形をなぞってみせたら何か伝わると思うのは大きな間違いです。まず自分がそこに出ることです。実が形をとるのです。

 そのために、まず他人と同じ課題の中に自分を入れていきます。そこで自分の中には何もないと思ったら無理にでも入れて、そうやって自分をひねり出していく経験を積んでください。何もないからと言って、何も出ないわけではありません。

 そのための課題です。自分の世界を捉え、つかみ出し、その必要性を示していくこと、それがない人は、まずその必要性を自分に与えていくことです。そこでもう一度声のこと、自分にとって歌と何なのか考えてください。

 自分の思いをきちんと伝えようとして続けていくと、思いはかならず出てくるものに宿ってきます。歌などは誰にでも歌えるのです。しかし、それ以上のものを出したいと思って、初めて足りないものに気づくのです。

 課題や練習に賭ける情熱や意欲が人並のままであれば、人並み以上のことはできません。勉強ができている人は、みな人並み以上のことをどこかでやってきているのです。

 そのためには時間もお金もかかるでしょう。しかしやっていく人にとっては、それ以上の値打ちがあることなのです。自分の力で、それ以上のものにしていくことができるからです。そしてそれは、その人にとって、掛け替えのないものになります。


2−27軽井沢と私

 毎年、合宿から帰るときに、これで来年はやらないと100%の確信をもって、まわりにもらす。昨年も同じだった。今年はないと思った。いつも、それで私はすっからかんになる。いつもこれ以上、どうしようもないと終わる。これ以上、君たちに与えようはないというところでは、君たちに対して、与えるすべをなくす己の力に対する崖っぷちの愉悦。そして、皆の大部分にとっては特別で、私には日常の三日間は過ぎ去る。

 こうして、合宿はブレスヴォイスの夏を自分に刻印するためのセレモニとなりつつある。それもよいかと思う自分が不思議だ。気高き女神の唾棄に心が動くのか。

 春風が吹くと、何だかそういう気になる。非日常におかれて、あぶり出される才能のかけらに胸をつきさされ、そこに赤い血の流れることを期するかのように。おき忘れた大空を、やわらかくなった土から掘り出せと、誰がいうのか。私の首すじに生風が吹く。耳もとにささやく。生臭い血の匂いは、郷愁か。

 見えぬ目をゴシゴシこすって、スモッグの向こうにある透き通った青空を、満天の星空を―呼吸しようと―私の肺は、声を出さなくとも生きている。

 風が呼ぶ、軽井沢の風はその名の通り軽やかで爽やかで、そこに夜つゆのいやしをさそりのように集う―人間の、その愚かさとそれゆえ、天地の、神々の創造の偉大さを、見つめる浅間山は、煙たたねど―呼ぶ風に、やはり、今夏もいくか。動かねば、何も起きぬ。軽井沢の夏。


2−28 ないもの

 時間や空間を越えられないでいる、あなたたち―。
 要は、時間や金がないのではない。勇気と覚悟がないのである。


V ブレスヴォイストレーニングの学び方

目次

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