「感性を高めるためのヒント」

       感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」


(5)感じる感性からクリエイティブな感性へ高める

40 感受性と教養が感性を磨く

 さて、若いがための無垢なる感性に対して、人生の機微、物事を知ったために涙もろくなるように経験、文化、教養によって磨かれる感性もある。感性を感受性ということばで置き換えてみてもよい。この章では、この二つのレベルの感性についてみていこう。
 これは、何の果物かわからず食べてみて、舌に直接、感じるのと、すでに何度も食べ、どこで産出され、どういういわくのあるのかを知った上で食べて感じるのとの違いのようなものである。後者には、初めて食べたときには、なぜうまいのかわからないような珍味といわれるものに多い。「うまいんだ」と言われても、何度か体験して味覚が磨かれていき、ようやくわかってくる味もある。
 子供が純粋な星の輝きをみて感じ入るのと、大人が空が曇っていて星一つみえなくとも七夕の物語に思いをはせて感じるのも、この二つの違いといえる。
 このように、何かを感じるにも、多くの場合、知識やことばがあると、より豊かにものごとを味わうことができる。これを支えるのを教養という。
 ことばも知識も、応用するのに便利で効率よく早く正しく行動できるため、使われる。しかし、それは自分で感じて、判断することを他に委ねているために、プロセスを飛ばしているので、感性が鋭くないと見えないものが多くなり、誤りやすくなるわけである。
 ところが、感性を高めることのできる教養が、頭に知識や理屈としてつまって、体におりてこないと、イマジネーションどころか、美しい星の輝きさえ、目に入らないようになってしまう。そこで、頭でっかちの大人が天性の詩人である子供にハッとさせられることも、たびたび起こるのである。
 その天性が磨かれるには、努力が必要であり、それゆえ大半の子供は大人になると詩人になれないどころか、詩人の心を失ってしまうのである。二十歳すぎたらただの人といわれるゆえんである。ただの人でもよいから、豊かに感じる心は磨いていきたい。そのために、教養を身につけよと言われるのである。
 もう一つ、身近な事例をとってみよう。

○クラシックとロックは、どちらが感性があるのか
 たとえば、音楽では、教養とはクラシック音楽を示し、若者はロックを好む。これは、どちらが感性があるといえるのだろうか。
 音楽とは、人間の心に働きかける音、リズムのまとまりである。ことば以上に音を扱うということは、高度に抽象化されており、それゆえ、ことばを超えて、つまり国や民族を超えて、人々にストレートに伝わるものとなる。私が考えるに、クラシックは、自然の理(生命力)に基づき、ロックは新鮮さ、パワー、インパクトや刺激を求める。つまり、心臓でいうと、落ち着いたときと走っているときとの鼓動の違いである。
 だから、どちらを受け入れるのかというのは、生まれ育ちに入っているものと、そのときの状況によるといえる。私自身は、分野りもすぐれているものが好きで、気分によって使い分けている。危険を感じさせるものや見かけ上の情報の多さ、刺激量などを求める若者は、身近なポピュラーを好む。
 他の分野と同じく、古典といわれるもの、クラシックやオールディーズも、出始めた当初は充分に新鮮かつパワフルで、そこには危険な香りがあった。時代とともに風化していくものが多いなかで、感性の鋭い人によって選ばれ何十年も世界中で生き残ってきたものと、海のもの山のものともわからず、今、どんどん出てきているものとを同列に比べることはできない。クラシックにも駄作はたくさんあったし、ロックにも一流のものもあるということである。

☆無垢なる感性にも触れ、教養も豊かにして、感性を磨きあげよう。


41 感性の表現には、それをとり出す論理がいる

 情報は刺激として、五感のどこかから受ける。目でみたり、耳できいたり、肌で感じたりする。しかし、それをそのままにしておいたら、感情は生じても何ら、クリエイティブなものは生まれてこない。「暑いなぁ」で汗をぬぐって終わりである。
 少なくとも、あなたの求める感性とは、こんなものではないであろう。きっと何らかをよりよく変えるきっかけとなるもの、つまりクリエイティビティの源泉となるものであろう。感性もまた、仕事でも生活で活かしてこそ、はじめて意味あるものだからだ。
 現実の生活へ活かせるようにもっていくには、感じるだけではしようがない。感性の働きが捉えたものを何らかの形にしなくてはいけない。そうでなければ、そのまま流れて失われていくからである。
 つまり、感性を磨くための最大のコツは、形として取り出すことである。それは、表現することといえる。たとえば、花をみて美しいと思った。そしたら、写真で撮ったり、絵を描く、またそこで一句、自分の心を詠むなどというのは、感性を形にする試みである。カタカナ職、クリエイターといわれる仕事は、まさにそれを人々にさし示す仕事である。しかし、考えてみれば、すべての仕事がそうであるはずだ。そうでないとしたら、それは仕事がどうこうではなく、あなたの感性がまだ定まっていないといえる。

 感じたことを統合して形に表わしていくには、イメージ、ことば、表情などが使われる。絵や彫刻のようにビジュアルに表現されることもある。音楽のように、音につくられることもある。言語の発生もまた、目にみえないものを言い表わすところにあり、文字の発明もそれを形に残すことにあった。写真や絵も、消えていくものを何とか形に残したいという人間の強い願望によって、生み出されたものであるのは、言うまでもない。
 センスがよい、感性があるといわれる人は、必ずそれを何らかの概念で捉え、人にわかるように表現しているわけだ。
 そのためには、感覚や感情に豊かなことはもとより、それを伝える表現手段をもっていることが問われる。ここを間違ってはいけない。
 先述したように、何を食べても「本当においしんだから、もう」というオバさんは、ただの食いしん坊であり、それなりのものを特上のものと嗅ぎ分け、何かで示して説明できる人とは、“感性”からは、雲泥の差がある。それは、よいものが何たるかを知っているという判断力があると同時に、それを適確に示せる表現力をもつということである。判断するにも、そういう経験が豊かでなくてはならない。あいまいなもの、ことばにならないものも、何らかの感覚で位置づけるから、比べられるわけだ。
 だから、感性の達人は、コンセプトワーク、あるいはネーミングなど、多くの場合、言語表現力にすぐれたもののある人ともいえる。言語を駆使する能力やボキャブラリーは欠かせない。もちろん、感じたことを即興演奏したり、絵筆でさっと描けるというのでも、形にできるということでは同じである。
 自然は、確かに美しい。しかし、絵も、庭や芸術も、人工的美しさで取り出したものである。しぜんそのものがよいか、人間の作品がよいのかというのも、一概に比較できない。しかし、感性を高めるのに、日々移ろう自然は、人間が扱える代物ではない。
 たとえば、富士山はさまざまな様相になり、毎日、見ても飽きないという。見るところによって、違うという。だからといって、毎日、見られる人はそうはいない。だからこそ人間は、作品にそのもっともよい瞬間を切りとり、命を与えた。しかも、自分という人間の心的情景も移入したため、本物以上に素晴らしく感銘を受けるものになる。それは、創作者の見えない深い世界が富士山の形をとって、私たちに訴えかけてくるからである。その深さが、私たちの深いところにある感性を刺激するからである。そこで私たちは、大切なものに気づかされるのである。
 となると、対象が自然であっても、作品(人のつくったもの)であっても、美しいと感じる心があることの方が大切である。逆にいうと、汚いと感じる心をなくすと、感性も慣れで、まひしてしまう。何でもよくなってしまう。だから、感性の死は,人間としての死ともいえるのである。

☆感性は、みえないものを形にとり出す。


42 人と出会うこと

 私たち人間も、生物体であるから、環境のなかで絶えず、変化、成長している。日々、どんな生物よりも多くの情報を外からとり入れ、自ら情報を創造している。ことばの獲得が、この情報量を飛躍的に多くした。
 他人との交流も、その一つである。それは、おたがいに自分の好き勝手にふるまうのではなく、マナーやルールの上にその人の持ち味という個性がのっていてこそ、さらに新たなものを生み出すものになる。わがままな個性だけでは、認められることはない。
 さて、人との出会いというのにもよい出会いとそうでない出会いというのは、確かにあるだろう。それは、相手がどういう人であるというランクづけよりも、その人との関わり方において、決まるといえよう。おたがいの、そのときの時間の過し方やその後の関わり方、関係のもち方しだいで、どうとにもなるのである。
 私は、すぐれた芸術や仕事は、人になぐさみを与えるだけでなく、さらに士気を鼓舞し、よりよく生きるようとする力を与えてくれるものだと思うが、よい出会いというのも、それにも増してまさにそういった類のものであると思う。
 しかし、どんな出会いも共に努力して自らも高めていなければ、使い古されていく置物のように、飽きられてしまう。
 いつも同じことをして、そこで同じ反応しかしなければ、慣れ合い、マンネリ、飽きがくる。これは仕事と同じで、悪循環に陥る。共に感じ合えなければ、よい関わり合いは期待できない。
 しかし、とりくみ方しだいでは、同じ人とも常に新しい出会いと関係を結べる。静物より、ペットが好まれるのも、そのためかもしれない。それ以上に、手間ひまかかるからこそ、人との関わりは人を苦労させ不幸にもするし、それが報われて幸せにもする。
 このように、人間関係には感性の働き方がもっとも大きくものを言うものの一つなのである。
 その感性の現われ方が、さまざまであるところが難しい。自分がどんなに気を遣っても、相手が他のことで機嫌が悪くてうまくいかないときもある。同じ入力をしても、違う答えがでるところが、人間関係の困ったところであり、それゆえ永遠の課題としてである。もちろん、そこが、もっともおもしろいところであるからこそ、週刊誌もテレビも、こぞって有名人の人間関係をトピックスとする。昔から、スキャンダルは娯楽の一番の種であった。つまり、人間の喜怒哀楽といった勘定の世界は、多くの人がのぞきたがる舞台なのである。
 人間は、おたがいに変わるからこそ、絶えず情報交換をし、コミュニケーションをとる。その上で結ばれる信頼は、最初から保証しあうものでなく、おたがいに育てていくものなのである。
 最近の若者のわがままは、できたもの、つくられたものに完全を求めることだが、こと人間は、そうでないから、おもしろいことを知ることだ。人間は、神ではない。
 結婚相手に完全を求めると、成田離婚となる。不完全だからこそ、おたがいに努力してそこから高め合えるものなのだ。その年月が、人生である。
 パワーを求めて、人は人に会おうとするが、本当は他人にパワーを与えることがパワーをつける最高の秘訣なのである。どこかに自分を待っている人がいると、人は絶望のなかでも生きていけるという。ナチスの収容所で生き残った人は、そういう希望を失わなかった人だけであった。自分が生かされていることを知るのも、感性の働きである。
 人間関係が感性に基づくのは、それぞれに真実の関係があり、それぞれに完全を求めながらも、そうはなれず、しかし共に高めていく努力をしていこうとするところで、わかる。どう考えても、パッとみると不釣り合いなカップルも、また感性のとりもつ縁なのである。

☆よい出会いは人を元気にする。変わらざれば、出会いにあらず。感性縁にあらず。


43 モノ社会で感性をとり戻すこと

 捉えどころがない感性を、目で見えやすい形として、デザインということから考えてみたい。まず、これまで述べたように、感性では、1.表現の対象を捉え 2.適切に表現するということになる。そのためには予め表現する方法を学んでおかなくてはならない。あるいは、1.星空の曲をつくりたい 2.音やリズムを決め、タイトルをつけ、楽器で演奏する ということになるとしたら、これは、演奏力や作詩作曲、アレンジ、コピーライト能力も必要である。
1.ウォンツ、ニーズ、リアリティ・・・  感覚力、情報先取力、本質把握力
2.イメージを形に表現する・・・  創出力、表現力
  説明(コンフィギュレーション)する
となる。
 つまり、まで最初に何かを感じ、それを形にしたいという欲求が必要である。
 かつては、自分でポジティブに何かを欲し、つくり出していくのが人々の活動だった。自分が欲しいものは、自分が手間ひまかけ工夫し苦労しないと、手に入らなかったからだ。
 ところが、現在の大消費社会では、モノは自分のいないところで生産され、店頭にところせましと並んでいる。コンビニでレトルト食品を買えば、調理は必要ない。すると、あたかもそこに欲しいものがすべてあるかのように思えてくる。だから、今の若い人はどこかに正しい客観的な世界があるように信じてしまう。
 すると、自分の感性を発動しなくてよくなくなる。外の情報の選択ととり入れ、消化ばかりに専念する。目移りばかりするなかでは、マスメディアやまわりの人に合わせての選択、判断をしてしまう。本当は、足元をみて、心から感じてから動くべきなのに、そのプロセスを飛ばしてしまうわけだ。
 そこに感性を働かし、自分で動かないといけないのに、自分らしさを磨かないと本当は価値もつかないのに、なかなかそうはいかないのである。そして、これらの選択以外にも、自分がつくり出せるもののある可能性があることに、気づかなくなるのである。
 このように、現代の問題を考えると、じっくりと感じる子供と、その体験より本質をきちんと判断する大人に対し、今の若者は、じっくりと感じることを子供のときにやれなかったため、大人よりも断片から観念的な判断をしてしまう。いつの時代にも、青年期はそういった不安定なものだが、そこから高まらないことに大きな問題があるといえる。これは、感じることをもっと入れ、他の世代や外国人にも触れて補うしかないだろう。

○感じて求める
 たとえば植物は、光に対し技を伸ばし、地下の水に根を伸ばす。これは、光や水といった刺激に対し、自ら生きるために、必要なものとして求めて働きかけていくからである。
 人間の場合、生きるために必要な情報を合理的に把握するのが脳である。食べるものが欲しければ、それを手に入れようと動くようになっている。
 ところが、生命を守ることが大して努力を必要としなくなり、その分、絶対に必要でないようなことをするために、頭を使うことが多くなった。情報で合理的に追求することが、生きること自体と離れるにつれ、生命力、パワーが働かず、逆に知識が固定観念化して、何事も行き詰まるようになる。生命力がパワーダウンして、顔色まで悪くなるわけだ。
 こういうときは、思考停止(不思慮の思慮)をして、山にでもこもるとよい。すると、感性がよみがえって働きやすくなる。感性は情報獲得能力であるということを忘れてはいけない。
 獲得能力である以上、獲得の必要性を与えなくてはうまく働かない。だから、一見、必要のなさそうなことにも、イマジネーションを働かせ、自分の人生とどう結びつくのかをイメージしておくことが大切だ。そうしておいてはじめて、日常生活にも仕事にも感性が働くようになる。

○自腹を切る
 失敗したときに、その痛みを充分に感じておくことだ。それはとても嫌なことだから、次から失敗しないように動こうとする。そのために面倒なこともやる。先も読み、まわりも読んで動くようになる。ふだん出さない力が、必要に応じて出てくる。だから、必要性を与えればうまくいくようになっていく。ところが、小賢しくこの痛みを回避すると、体でつかめなくなる。感性が鈍くなる。
 感性は先を感じることで、過去を省みる。まわりを感じることで、自分の行動を正す。そこでは、不安、苦しみ、憂鬱、無気力、知性、理論を一時、捨てることだ。

☆自分の欲しいものを自分で手でつくろう。


44 感性のある人には、変わりものが多い

 感性の鋭い人は、ものの見方、考え方が一般の人とは違う、といわれる。しかし、それは一般の人は考えているつもりで考えていないことが多いからというだけの気がする。誰でも真剣に考えたら、それぞれに違ってくるはずだ。
 ところが、多くの人の「自分の考え」というのは、マスコミや上司のことばの受け売りだからであることがほとんどなのだ。迷ったり、悩んでいたりしても、本当にものごとを突き詰めて、とことん考えたり感じたりしていないことが少なくないのではなかろうか。
 その証拠に、どんな人でも自分の好きなことについては、とても勘が鋭く、感性が働いている。それには真剣で鋭いのに、その範囲を、日常生活や仕事にまで広めていないのではないだろうか。自ら広めないようにしているのではないだろうかと、思える節もある。日本では、あまり独自のことを考えると、まわりから白い眼で見られるからでもあろう。
 感性の鋭すぎる人には、変人といわれる人もいる。しかし、変人といわれる人は、そうであっても、どこかで認められている。だから、変人として受け入れられ、感性が鋭いなどといわれるのだろう。それは、あとでその人が言っていたことが正しかったり、結果として、他の人が気づかなかったことが、先にみえていたことがわかるからだ。こういう人は、日本の村社会では好かれない。
 しかし、そういう人は、他の人が気づかないうちに、本質を把握しているのだ。だから、先もみえる。そして、ものごとに集中するため、一心不乱、それが子供っぽい、危ないと、他の人には見える。こういう人の三昧、ハングリー精神などは、感性に親しむのである。
 だからといって、成功するとは限らないのが人間のおもしろいところである。こういう人材は、一度の失敗でまわりから叩かれ、感性を封じ込められる。相当に出すぎた杭でないと、やってはいけない。
 また、芸術家肌と企業人との違いでもあるが、真実や本物がうまくマーケットにのるわけではない。芸人にマネジャーが必要のように、これは人に通じる感性や売れる感性とは少々、違う。より本質的で本物である感性は、磨かれないと出てこないが、世に通用するのは、通用する感性、器用さ、そつなさのようなものであることが多いからである。

 本物の追求と、人々のニーズでの追求についても、ずれることが多い。生前、一枚も絵の売れなかったゴッホのような画家もいる。発案当時は、狂気としか扱われなかった発明家の片鱗も多いだろう。誰もが、あたりまえに理解できるようなものなら、大発明や大発見ではないからだ。まわりが新しいもの、理解できないものを、おもしろいものと感じる風土が必要なのである。
 おいしいものでも、何カ月もかかってつくり、1食10万円ではヒットはしない。もちろん、それを欲する人もいるだろうが、ビジネスではコストやそれを知らしめるのに必要な行動力が大きな要素となるからだ。
 しかし、本物たるものを知った上で、それに近づけようと努力することが大切に思う。本物と一言でいっても、ものとして本物というだけでなく、市場ニーズ、人々の求める本物というのもある。人々といっても、一人ひとり、求めるものが違う。それは、感じるものが違うからだ。感性に唯一、絶対の、正解などはない。
 何事も、なぜ、より、どうするかが大切なのだ。
 今これからどうするかに、力を使うべきである。原因を探るのは、そのためだ。
☆感性は行動力だ へたに頭で考えるのをやめることである。

○感性のある人は、おだやかで、切れないのか
 (変人が出たついでに、このことを考えてみよう。)私が思うには、若くして悟り切っているような人は、一見、できているようでいても、その人自身でなく、その後ろの誰かの衣をかぶって洗脳されているようなことが多い。つまり、他の人や他人の教義にそってマニュアル通りに答える人が多い。苦しみにひたるのでなく逃げてきたのであれば、少し苦難が吹っかかってきたら、すぐに化けの皮がはがれる。現実の問題から目をそむけ、本人も自分自身がわからなくなっているのである。
 だから、そういう人は、表情が暗く輝きがない。口から理論が出る。具体的な事例や対処法にいたらない。
 本当に感じたら、動かずにはいられないし、他人やものごとに対し真剣にぶつかってしまう。だから、本当に感性があるときびきびして輝いている、子供のような表情をしていることが多い。あなたも、好きなことを思いっきりやっていると、そういう状態になるだろう。芸術家も経営者も、若くてはおだやかにならず、切れることもある。事を起こすのが若さであり、感性のある仕事だからだ。
 ただ、人間的に成長してきたら、そのエネルギーは仕事や創作活動に向けられ、他の人にあたるようなことは少なくなるのだろう。しかし私は、本当にものごとを真剣にやるならば、自分に対しても、それに関わる他人に対しても、厳しくなるのは当然のことだと思う。おだやかでなく、切れるのも、誠実さの表われといえる。
 日本の社会は、自分を主張するより、まわりと合わせることを大人としてきたから、こういう点では特異である。しかし、それでも、一昔前はチームの誰かがへまをすると、誰かのかんしゃく玉が落ちたものだ。それを小学生の体罰問題と同じレベルで抑えて、理解ある上司を頭で演じている人が多くなったから、おかしくなってきた。感性が磨かれると、おのずと自分の生き方、ポリシーも明確になってくるものと思う。頭で考えるより、行動に出てしまうのだから当然だろう。

☆理性は悩みをもたらし醜くするが、感性は、人を美しくする。


45 感性で問題を解決する

 感性は、その人がその人らしくあるときに発揮される。自分の根底の意識を掘り下げ、そこに本質的なものを見つけ、それを抽出したものが、感性の表現となる。その表われ方は人それぞれとなるから、たった一つの正解というものではない。自分のなかにあるものを自ら求め、深く磨きあげていくため、常にプロセスとなる。ここでは、理性と対比させておく。もちろん、どんな人にも、この二つの要素は入っているから、二タイプの人がいるというのではない。

感性のある人   ─理性のある人
―――――――――┼――――――――――――
真実       ─真理
その人それぞれ  ─共通して、一つの正答
自分で深める   ─他に深す 他人、偉い人に合わす
プロセス     ─結果がすべて
正解はない    ─正解あり

 それでは、次のモデルで、いくつかの感性に対する多くの人の抱く矛盾について、誤解を解きながら、その正体をつかまえてみよう。これまでも触れてきたことだが、確認しておく。

○子供のもつ感性は、大人になるとなくなる
 子供の絵は、芸術だ。
 感性というと、しぜんのまま、子供のままといわれる。芸術家の多くもそういう部分を多くもっているし、子供は芸術家ともいわれる。
 しかし、芸術家は子供でないし、子供は芸術家でない。
 なぜなら、芸術家は、自分のイメージを確実にとり出す技術をもち、自分の作品を評価できる力をもつ。さらに、まわりと自分が何をやっているかがわかっている。歴史や同時代のことを知り、自分の作品の位置づけができる。
 だから、いつでも自分を、よい作品を取り出せる状態におき、確実に、あるレベル以上のものを再現する力がある。基本が入っているから、応用できるわけだ。
 子供は論理力が弱いから、感じるままに行動する点から、社会的規範で自主規制している大人より、自由である。画家もミュージシャンも、論理的に考えるよりも、感性を使い右脳を働かせているのは確かだが、一方で、自分のことばをもち、自在に使っている。小説家、詩人は、言うまでもないだろう。つまり、創作のプロセスでは、左脳の方が働いているとさえいえるのである。

 つまり、感性には右脳で感じるだけでなく、感じたことを人に伝えるための表現手段や情報発信能力が不可欠なのである。それがない子供の絵は芸術ではなないし、大人になると感性が鈍るのでなく、使わないでやっていけるため、あまり働かせないようになる人が多いということなのだ。

○感性でパッと決めると間違わない
 競馬も賭けごとも第一印象が正しいとか、最初に決めたのが当たるなどといわれる。これは確かに見た一瞬の方が、感性が働きやすいからだ。頭で考えていくほど先入観やいらない知識、情報で判断し、雰囲気、予感といった、見えないがもっと本質的な情報に反していくからである。共感力や予知力といった、みえない力の働くのを、邪魔するからだ。
 また、自分に経験があったり、両親やまわりの人が経験してきたりしたものなら、そのときの記憶、単なる知識でなく体や血に入っているものが教えてくれる。それが、最初に出る。マスコミやまわりの人のことばなどで決めて当たるものなら、誰でも当たる。だから、そういうものに頼ると、はずれやすいということだ。

☆感性の正体は、プロセス、可能性、正解なし。本質あり、自分の正答あり。


46 受験勉強は感性を殺す

 今の日本の受験勉強は、予め決まった答えを記憶し、早く間違いなく答えることができる人に有利である。独創的な答えはあいまいで評価しにくいため、許されない。それは、採点する側に、よほど感性がないと対応できないからである。
 そこで、画一化された正解答へ合わせようと無理に頭を使い、機械的な思考を強いられる結果、そのほとんどは、正解一つといった知識の引き出し、つまり暗記能力、計算能力での競争となる。
 知識は、ある条件下で正しいにすぎない。教育で知識を入れるのは、状況に応じ組みあわせ応用するためであり、それだけを問うても、現実社会ではそれほど意味がない。受験天才が社会での成功者にならないのは、このためである。
 それを時間内に数多くおうむ返ししていく勉強は、感じる間もない。制限時間と問題数の多さは、じっくりと一つのことをとことん考えさせてくれない。だから、解いても驚きや発見がなく感動もない。決められた手順で決められた答えがでて、得られた点数をみて、よければ達成感くらいである。私は、カラオケの採点機を思い出す。
 しかも、それを同じ土俵上で競争し、勝敗を分けるため、一人の勝者になろうとがんばっていく。
 これは、十人十色の答えがあり、それは、決まりきったものでなく、その人のなかでも変化していく可能性のあるものという感性の世界とは、かけ離れている。感性は、対立をさけ、争いを好まない。
 しかし、サラリーマン社会でも、この受験勉強と同じようなことが行なわれているところは少なくないはずだ。いや、以前とても学歴と社会的能力は、あまり結びつかなかったし、日本の会社では、個性までは育てなかったのだが、まだじっくりと先に力をつけていくようなことは行なわれていたように思う。今や、それもなくなりつつある。感性が大切といっている教育や会社の現場で行なわれていることは、頭で考えたことばかりのように思える。

○あたりまえのなかの不思議に気づこう
 それでは、どういう教育が望まれているかを、いろんな感性教育の例から引いてみたい。
 たとえば、どうして自分は生きているのだろう。この体はどうして動くのだろう。それは、誰でも一度は関心をもったことであろう。心臓があるからだと知ったら、どうして心臓が動くのだろうと思うだろう。そういう身近なところから、考えてみることが大切だ。
 心臓が動くと、血液が流れる。心臓が動くと、一定方向に流れる。それはなぜだろうと思ったら調べてみる。カエルなどを解剖すると、そこに弁があることに気づく。観察によって、そのしくみがわかる。わかると、驚き、その神秘に打たれ感動し、嬉しくなるだろう。こういうふうに、ものごとに気づいていくのが、感性の働きである。それは決して、心臓の図と名称というように、こういった気づきの体験のプロセスを飛ばして、知識を丸暗記することではない。まして、子供の興味本位で行なわれる解剖授業では困る。
 何事でも、このようにありのままにみていくことが必要であるが、どうしても事実といっても、そのままにみられるものではない。そこで、自分なりにフィルターをもってみるしかない。しかし、そこでいろんなフィルターをつけかえることが大切である。よくわからないときは、他人のフィルターでみてみるのもよい。それによって見えるものも、見方も変わってくる。そのために、学びにいくのである。他人のフィルターでみることで、自分のフィルターを磨くのである。
 どちらにしろ、みる必然性がなければみえないものだし、何事も必要性なければ身につかない。
 こういう、ある観点でみることのできる力をつけることが、感性をつけることにつながる。
 たとえば、小学校の理科とは、自然の事実から合理性、客観性を得て、科学的なものの見方、考え方を身につけていくことだという。つまり、ここには、感性の高める手順が入っている。ところが、教師がそのプロセスを理解しているのだろうか。いや、理解よりも行動できていれば、授業がつまらないことなどにはならないだろう。
 人間が自然に働きかけ、土や畑に愛着を感じていく。土や空は地学、虫や鳥は生物、そこからの現象を化学と物理は数式にまで論理化する。それは感性を働かせていくプロセスでもある。

 つまり、
1.断片、兆しから、ふっと感じることに気をとめる(情報先取力)
2.事実の断片をまとめて新しい知恵、判断をつくる(本質把握力)
3.その知識、判断をもとに、新たなものを創出する(文化、文明、一流、本物)(創出力、表現力)
の順をたどる。
 そう難しく考えなくてもよい。観察日記をつけた気分になればよいのである。

☆美しい、すばらしい、快感などを感じるのは、感性が心のベースにあるからである。


47 感性の教育は与えない、教えない、気づかせる

 生活の便利さ、豊かさのせいか、過干渉、過保護、放任と、家庭や学校の教育問題は大荒れである。
 生きる力が発揮されるように導く(エデュケート)のが、教育の根本と思うのだが、それが正しくなされていたら、子供たちは、笑顔、自信、正義感にあふれるはずだ。どうやら、そのようにうまくいっていないのは、最近の子供たちの疲れ切った顔からも明らかである。「感性からの教育」というのも、ことばだけが踊っている気がする。
 子供は、遊びのなかでも、しぜんに手伝い、しつけ、礼儀、マナー、人間関係に触れていけるのに、そういう体験をカットすると、根っこにある生きる力や感覚が磨かれない。自分で考えなくなる。だから、今日(こんにち)のように、すべてにマニュアルが必要となる。しかし、マニュアルは知識にすぎない。それを知恵ある行動にするには、与えすぎない、教えすぎないことが何よりも大切なのである。
 私の知人である門脇邦弘さんは、生き生き村というものを手掛け、毎年、全国から集まる子供たちにキャンプ体験を与えている。そこでは、キャンプ生活を通じ、ルールや考え方を学ばせているのだが、私が何よりも共感したのは、与えない、教えないという教育指針である。
 モノが過剰で迷うのなら、モノをなくせばよい。ゲームも捨てるとよい。そしたら、仲間とどう時間を過ごせばよいのかを考えるようになる。私の二人の子供も、嫌々覚悟で小学校のときにお世話になった。全国から来る育ちも年齢も違う子供と混じらせるためだ。飯炊きに失敗したら、食べられないか、それを食べる。ケガをしても命に別条なければ構わない。それでよいのでなく、それが大切なのである。
 村長が強くいましめるのは、自分の好き嫌いで行動したとき、するべきことをしたくないからしなかったときである。人としてあたりまえのことをしないのに誰からも注意されない。かわいそうなのは、子供たちである。感性も磨かれないし、心も豊かになれない。
 なぜ、大人が叱らないのかは、自分もいい加減にやっていたいからである。相互不干渉かプライバシーとか民主主義と言いかえられてしまったゆえの、無責任の生み出した悲劇である。そういうとき、子供を一方的に叱るのでなく、なぜそう考えて、そのように行動したのかのプロセスを明らかにし、どうすればよかったのかを、他のケースや他人の立場まで思いをめぐらせ、共に考えて、自ら気づかせていく。
 不便、不足したところで暮らすとき、人はあたりまえのように必要なものを知り、それがどうしても必要なら、つくり出す。食べること、遊ぶこと、寝ることについても、自ら必要に応じて動く。感じて動く力をとり戻すことが、感性教育であろう。

☆自分のことを自分でやらないと生きていけないところに身をおくとよい。


48 未熟な感性と磨かれた感性

 感性は、はっきりしないものであり、理屈やことばではなかなかせまれない。感性は、主観的なものだからだ。
 若者、子供、あるいは素人、高校生などの感性は、マスメディアや友人など外からの情報量が多いため、それによって大きくゆれている。まだ、磨かれておらず、判断の主体が自分にないからだ。体験なども内に入っていないうちは、正しく判断が働かず、「おもしろそう」「かわいい」という感じで動く。これは、制約のないための気ままで、好き勝手なだけの行動ともいえる。わがままな幼児の行動と同じである。
 女子高生の感性は高いといわれているが、これはある意味では一本筋が通っているためであると言える。そこまで生きただけの経験とマスメディア情報を結びつけ、狭い範囲において集大成しているために、迷わない強さとなるのである。
 一方で、それに翻弄されている大人たちの自信のなさは、困ったものである。それで「センスが悪い」とか、「この感性がわからないと時代おくれ」などといわれてしょぼくれていても仕方がない。
 大人であれば、大人としての自分の感性に自信をもつべきなのである。若者とのギャップは、若者にこびてすり寄るのでなく、相手に自分の感性を伝える論理(=ことば)と正当化するポリシーをもつことで乗り超えることだ。違ってあたりまえ、それで自分がそう感じるものを、伝える努力をしないのがよくない。若者もふらふらする自分の好みに対し、確固たるポリシーで決めた大人には、羨望の念を抱いているのだから。

☆自分の感性を伝える努力をしよう。


49 感性は感じたままに、行動するものではない

 感性とは、感じるまま疲れたから休み、嫌だからやめるのではない。それでは、何事も身につかない。先ほどの子供の叱り方でも述べたが、疲れたときも、そのままの気分に流されるのでなく、嫌なことでも、それを対象化して問いとして捉え、どう解決すべきかを論理化する必要がある。つまり、自分の内面の感覚したものを対象化して、もっともよい行動にまで高めることが大切である。
 たとえば、仕事のなかで自分の提案したことが受け入れられなかったとする。受け入れさせようとしたが、無理だったと引っ込めてしまうのは、自分はやるだけやったのだという自己満足にすぎない。結果も成果も変わらなければ、やったことに入らない。
 そういうときは、どうして受け入れられないのかを、上司や同僚という相手の身になって考え、その上でもう一度、どうすればよいのかを考える。「なぜ、どうしてだめなのか」「どうすればよいのか」「どうすれば受け入れられるのか」をしっかりと捉え、そういう状況を変えられる条件をどうつくっていけばよいのかまで、きちんと明らかにしておく。自分の感じただけの思い込みの案でも、こうした対人関係とのプロセスを経て、一つの企画や計画にまでおとしこむ。ここからが、仕事なのである。
 だから、感性のある人は、自分の仕事を自分の思い通り、仕上げていける。手間をかけたら、時間が解決するようにしているからだ。
 自分の眼を通して見えるものは事実であるが、感性が磨かれるとそれさえも充分でないように思えてくるはずだ。それを受け入れた後も、疑い、内面の真実を直接よみ出していこうと感性はさらに深く働く。それは、事実から感性を通してひき出された、さらに深いリアリティである。
 感性がよく混同されてしまうのは、感性の深さの違いを念頭におかないからである。リアリティとは、事実として表われ出た、ものごとの表層のなかにひそむ本質である。
 一つの事件が起こっても、それはたまたまそういう形になっただけで、その背因をつきとめなくては解決しない。殺人は、事件でも、動機は怨恨という場合、事実は殺人事件でも、背因の感性では、怨みなのである。そして、さらに深くその下に、どうしてそこまで感じるようになったという、本質があるはずである。

☆好き嫌いで動くのはガキ。
☆感性は、裏の裏のリアリティを読み込む。

○歌手にも芸人にも、あなたしだいでどこでもいつでもなれる
 どうありたいか、そのためにどうすればよいかを感じたら、
 常に、今、どう実行するかだけが問題なのだ。
 自分を正当化するのはよいが、それによりかかるのは、やめた方がよい。
 うまくいかないのが当然と思い込んでいたら、うまくいくはずがない。
 うまくいくのがあたりまえと思えたらそうなるわけである。
 そしたら、そう思えるまで行動すればよいだけだ。

☆夢やロマンは感性で実現する。


50 “感性に訴える” 表現から感性を探る

 ある新聞に、最近の博物館が「知的情報を与えることより、感性に訴える工夫をしている」と述べてあった。ここでの感性の使われ方について、考えてみよう。( )内著者。
 「臨場感で知への関心をひく(体験型)」(知に興味をもたせる工夫をしている)(感覚力)、「啓蒙的、教科書的発想ではなく、小説を書くようなセンスをもつ」(表現力)、「思いもつかなかった関係性を発見してみせること」(発想力)
 そして、「“進化”する博物館」とあった。進化するというのは、固定されていない、決まりきっていないということと、感性の特徴の一つである。さらに、使われている感性の意味を示すことばを記事中から抜いてみよう。

臨場感、当時の雰囲気が感じとれる(→雰囲気 共感力)
生々しく動く(生命力)
従来の博物館のイメージに納まらない(創出力)
直接、触れられる(感覚力)
自然状態で生息する(生命力)
分類から関係性の把握へ(本質把握力)
多様性(感覚力、創出力)
 こういう感性の使われ方は、感性に触れるときの参考になる。次のようなものに触れてみよう。
1.芸能、文化 絵、ファッション、芸術
2.自然 すばらしい 天地、山海、谷河
3.意識 個性の強い人や、秘められた力に接する

☆感性のひびき、喜び、香りを感じよう


51 嘘はなぜバレるのか

 ことばレベルでの隠しごとは、感性で見破られる。それは、何らかふしぜんな動きがみられるからである。一つの嘘を隠すためには、さらにいくつか嘘をついて隠さなくてはならず、つじつまを合わそうと日頃よりもずっと頭を動かさなくてはいけなくなる。それは、しぜんな状態ではなくなるために、まわりの人におかしいと思われる。
 また、悪事が長く続かないのも、同じようなことである。どこかで人を傷つけることをやっている意識が、自分の命をも傷つける。それが、表情や行動に知らずと出る。その逆に、本心から人を喜ばすことをやっていると、心が嬉しくなり、体も生き生きしてくることでもわかる。長い人類の血が、そうさせているのであろう。

 だから、うまく生きることに反する行動は、自らの命を助ける力が大きいためにうまくいかなくなる。
 だから、悪いことは長続きしないし、顔や心まで悪くする。それに対し、よいことはパワーアップしていく。人を魅力的にしていく。
 悪いことはいけないという思いが育ちのなかに入っていると、どんなに頭で押さえつけても体や心に表われる。嘘発見器は、その徴候を捉えて、嘘を見破る。

☆うしろめたいことは、感性に反する。

○感性によるステップアップは感じることから
 心の中の何かに点火することで、人は変われる、熱くなり、感動したときが、チャンスなのである。そのときに、変身できる。そのきっかけをつかめる。そこでの思いを握り離さなければ、少しずつステップアップしていくのだ。そして、感覚が変わり、それを表現する道具(体)や技術を手に入れたら、プロになれる。「開眼」して悟りを得るようになることもある。
 「何か変わったね」とまわりの人からいわれるようになって、はじめて変わったということである。しかし、まずは自ら、感じなければ、何も変われない。

☆胸が熱くなった瞬間を大切にしよう。

☆つみ重ねたもの、続けたものの価値を知ろう。
 平凡、同じことのなかに深さをみよう。

○空想好き、熟考、こだわりが感性を高める
 感情・直感、アバウトな判断、快楽を大切にしよう。
 理性、論理、数字、実益、実用、伝統 正しい答えがあることに、とらわれすぎないことも大切だ。

☆遊び好きなユーモア人間になろう。

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