「感性を高めるためのヒント」

      
感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」


(3)発想・企画は、感性の創出力の賜物

24 先見力は“感じ”からつかむ

 いろんなものを同じようにみていても、そのことがまわりにもたらす影響や先の兆をそこに感じられる人とそうでない人がいる。暗くなってきた空模様をみて、雨になるとわかる人もいれば、湿気からいち早くそれを察知する人もいる。なかには、水滴が頬にあたって、ようやく気づく人もいる。
 ビジネス、戦争、スポーツなど、すべては先をどう読むかで決まる。これは、先見力として、本人の資質のようにも言われているが、感性の鋭さと直結している。というのも、感性はこういった情報獲得能力ともいえるからである。

 感性の鋭い人は、他の人がつい見逃してしまうようなことに目がいく。そこに人一倍、こだわる。刑事ドラマなどをみていると、主役であるベテランの刑事は、まわりにあるいろんなものを、犬のように、くんくんとかぎまわり、それを充分に深く感じて味わっているようにみえる。すぐに分析したり解釈したり、先読みしようというのは、なりたての刑事で、失敗する。一流は、五感で広く捉えて、よく観察し何かに思いあたるまでじっとしている。それは、自分の感覚が充分に働き、正しくとり入れるまで待つことが大切なことを経験から知っているからであろう。
 それをせずに頭を働かせてしまうと、これまでの先入観や固定観念によって自分勝手な仮説を立て解釈してしまうからだ。つまり、これまですでにあったもの、わかりやすいものだけを見て、自分の考えのワク内で解釈し、そうでないものを切り捨ててしまうことになる。本当のプロは必ず、小さな疑いを徹底して確認することを怠らない。それは、その恐さをよく知っているからだ。

 マニュアルなどは、確かに人をうまく使うために便利な手法である。しかし、頭に無理に入れて、安易にそれに頼らせるようになると、かえってものをみえなくしてしまう。ファーストフード店で、お客さんがたった一人で現われ「ハンバーガー十個ください」といったときも、「お持ち帰りですか、それとも店内でお召し上がりですか」と聞くような販売員は、決して珍しくないという。こういう人を、石頭という。
 日常やプライベートでは決してしないようなおかしなことさえ、会社やビジネスではしてしまう人も少なくない。それは、感性のマヒした状態である。大企業病も官僚主義もしかり、既製のワク内で手順化した理論に現実に起きたことをあてはめようとするからである。現実は刻々と変わっているのだから、放っておくと、対処のマニュアルはどんどん現実離れしたことになっていく。なのに、自浄作用、新たに創り変えていく作業が伴わないのである。これは、そのおかしさを感じられていないからであり、感性を自ら放棄しているのである。

 感性は、必要なものを求め、自ずともっともうまく動くという合理性をもつ。それは、まず未知なるもの、新しいものに対し、働こうとする。
 たとえば知らない人や、初めてみたものには、誰でもパッと目がいく。なぜなら、第一に自分の身を守るためである。これまでに起きたことのないものに対し、危険や害がないかどうかというのは、安全に生きるため、そして次におかれた状況下でうまく対応するために、もっとも必要な情報だからである。
 もっとも新しいもの、未知なるものでなければ、情報とはいわないのだろうが、それらをすべてとり込みつつも、自分にとってプラスになるものを、瞬時に見極め、行動に結びつけていくのである。
 そのときに、感性がうまく働いていると、どうなるのかというのがポイントだ。頭が働いたり、理が先立つ目先の損得で判断してしまうことも、感性は切り捨てはしない。どちらかというと、ありのままにすべてをまず、受け入れる。そこからもっとも必要なものを、もっとも近くに引きつける。そんな感じで働く。
 つまり、自分が中心にあり、それに対して万物を役立てようと感性が働くのである。なぜなら、それは生きていくことに深く直結しているからである。
 たとえ会社の仕事一つをとっても、感性を働かせると、今日の業績よりも、将来の自分、そしてそのために仕事をどうするかという大きな観点から捉えることになる。一会社だけでなく、社会全体から会社のやっていることを捉えようとする。
 もちろん、これは鋭い感性であって、鈍ければ、将来よりも今、まわりより自分だけを考えるとなってしまう。こういった感じたままというのと、感性とは、違うのである。(感性を間違って捉えると、数字や理屈で目標を立てる管理手法の方がよいと言われるようになるが、それは手法のよしあしでなく、そこに感性がどう働いているかが大切なのである。)
 先見力は、感覚がトータルで働くときに、もっとも研ぎ澄まされる。だから、次の項目の直感力でも述べるように、ピンチのとき、命がけの覚悟が定まったときに、奇跡的な力を発揮することになる。そのため、過去の栄光、先人の偉業の上にあぐらをかいてはいけないのだ。

☆感性が働いていると、何事もうまくいく。


25 小さな兆しから、先を読む直感力を身につける

 知識とはすでに決まったもの、知恵はくみあわせて生じるものだから、間違いも生じる。通用しないこともある。しかし直観とは、間違えのないものであると聞いたことがある。直観の鋭い代表的人物としては、松下幸之助氏がよく掲げられる。彼は、人使いの名手であったが、それにも増して先見力にすぐれていた。小学校しか出ていないし、体も弱いことが、感性を磨き抜くことで逆に力となったといえないだろうか。
 とかく、経営のトップとなると、理屈や論理の判断レベルを超えて、直観に頼らざるをえない高次な判断が必要とされる。常に未経験の状況に直面するからだ。
 だから、占い師に頼る経営者も多い。また、瞑想や禅を日課とする経営者が多いのは、頭だけで考えることを絶ち、感性を鋭くするためであろう。余計なことを忘れることで、感性が直接、どうすべきかを読みにいき、直観が働いて、悟るわけである。
 世の中も人の心も知り抜いた経営者が、山奥で経をよむだけの高僧や占い師に教えを受けに行く。そこには、ただ経験だけでは得られない高次の知恵があることを現わしている。これこそが、仏のいう悟りである。
 生活やビジネスで問われる問題を解決することと、悩みを解き悟ることは、同じことなのだ。経営者だけではない。スポーツ選手や芸術家も、一流といわれた人ほど、そういうところへ行く。往年の巨人軍の監督、川上哲治氏などは、坐禅の本まで著している。

 私が思うに、総じて経営者の勘がよいのは、過去の成功の体験で勘が働く道すじが強化されているからだけではない。一方で、常に大きな責任とリスクを背負っているからである。そのため、考えるまでもなく、考えている。つまり、頭での考えを切って、体で考えている。結果的に、誰よりも身銭を切り、考える時間をかけているということである。これが発想を促し、直観を冴えさせる前提となっている。はためには、バカなようにみえる社長になれそうでも、なかなかなれないのは、ここの差であると思う。

 感性は、生命の生きようとする力の働きである。これがもっとも働くときは、どんなときだろう。まさに、命が生き生きと働こうとするときであろう。この、命が命たることをもっとも自覚するときというのなら、それはその対極である死を意識したときであろう。死に瀕しているとき、人は嘘を言わないという。嘘は、頭のなかでできる。頭を切れば、消える。そのときは、純粋に生がとり出され、命の働きが機能しているのだろう。
 死ぬ直前に走馬灯のように自分の過去が瞬時にみえたとか、崖から落ちたときにこれまでの人生でお世話になった人、すべてがみえたとかいうことをよく聞く。これは、あらゆる記憶が脳裏で最高速のコンピュータのように検索されるからだ。自殺を考えた人も、殺されそうになった人も同じことが起きると思われる。
 大成する経営者の条件として、大病、倒産の経験があることというのが入っているのは、そのためであろう。死もしくは、それに類する体験を身近に味わって生きる覚悟を強めることは、結果として感性を高める。つまり、直観を中心に生きることとなり、正しく間違わなくなるのである。
 黒澤明監督の「生きる」は、無難な公務員人生をおくっていた主人公が、ガンでの死を知ったときから、本当に他人のためを考えた仕事に精を出し、それによって“自分を生きる”ように一八〇度、転身した感動的な話である。

 さて、夢というのもまた、擬死の世界である。疑死体験では、自分を上からみているという話が多い。これは、自己を客観視している姿である。夢みることは、経営でも人生でも、ヴィジョンといって、大切にしなくてはいけないことだ。それは、目では見えないことが感性で観えるようになることなのであり、先述したvisual(見る)からvision(観る)へ感性が高まるということである。

 第二次世界大戦で、なべ釜を共にした同僚を亡くし、生き残った世代が、政治家、経営者など各界のリーダーとして戦後の日本を大きく復興させた。その原動力は、死に損ねた体験にあったといえる。
 もちろん、軍国主義は、他人の命を己れにひき受け、国を生かすところにあった。その美しさが利用され、多くの若者が死に追いやられた事実は忘れてはいけない。しかし一方で、それは、確かに美しいのである。忠臣蔵も、明治維新での白虎隊などの悲話なども同じである。これからも、そういった悲劇は語り続けられていくだろう。
 人の胸を打つ物語は、私利私欲を捨て、自らの命をかけた言動に象徴される。生涯、滅私奉公した人に、そのおかげで自分勝手に生きている今の私たちは、ただ黙るしかない。それは、人は人のために生き、生かされているものだからであろう。
 つまり、直感力を鋭くしたければ、死に向き合うことである。すると、命の働きが純粋にとり出され、感性が直観力を磨くのである。

○死に向き合う疑似体験をする方法
1.がけっぷちに立つ
2.ハングライダー、スカイダイビング、空や海など大自然でスポーツをする
3.恐怖を味わう(お化け屋敷、フリーホール、映画、墓場など)
4.宇宙を知る
5.他人の生涯を知る

☆背水の陣に感性の風が吹く。


26 異種組み合わせで、発想する

 前項の直感力に関しては、情報整理法・発想法で有名な川喜田二郎氏のKJ法での「カードが語りかけてくる」「ピーンとくる」ということばに集約されていると思う。これは、いくつかの関連のなさそうな情報(これがカードに書き出されている)が、関わりを生じることで、もっとも正しい答えを浮かび出していくということである。
 そして、発想というのも、この延長上にある。発想とは、0から1を生じさせる力である。これがあれば、何もなくとも恐くない。金をもっていなくとも、金を生み出せる。それは、頭のなかに蒔いた一粒の種のようなものである。
 発想力に直観力とアイデア創出力がどう絡むかというと、次のように考えてみるとわかりやすいのではないだろうか。「分析せずにパッと本質を捉えること」は直観力、「適当な情報を組み合わせ、新しいものをつくること」は、創出力である。前者は成りきることであり、後者は非日常にスパークさせることともいえる。ここから、発想が生まれる。
 私たちの頭のなかには、無数の情報が入っている。仮にこの情報の一つひとつが脳細胞というカードにそれぞれ書かれて、頭の中に保存されているとしておこう。するとそのなかから、必要に応じたカードを、うまくとり出すことのできる人が、感(勘)がよいということだ。それを、その場で必要とされていることを踏まえて、もっとも適切なものに変えてとり出せる人は、機知やウィットに富み、発想力のあるアイデアマンといえる。

 感性の鋭いといわれる人は、多くのカードのなかから、いつもたった一枚のエースのカードをとり出すことができる。それどころか、他人の頭やまわりのものからも、マジシャンのように取り出せる。
 それと比べると、多くの人は、どれだけのカードが自分のなかに入っているのかわからないまま、他人のカードを買ってきて使おうとしているようなものだ。つまり、マスコミや他人の言うことの受け売りで発言し、自分で深く考えることなく、ものごとを進めようとする。その結果、手に負えなくなって失敗する。最初からみえていないし、感じていないことだから当然である。今さらながら、バブルの遺物をみれば、呆れる。そのように、ことばだけが独り歩きしているようなカードはいくら集めても、かえってどうすればよいのかわからなくなっていくだけなのだ。それでうまくいくのなら、世の中、皆がうまくいく。
 アイデアマンは、しっかりと自分の手持ちのカードを把握して、じっくりと何が生み出せるかを考える。多くの発見や発明は、その問いから生まれる。手持ちのカードというのは、自分の育ちや経験から身に入っているもののことである。
 もちろん、そのカードは自分の頭の中だけでない。世の中に出ているもの、夢の中のもの、他人のもの、すべて含めて、カードとして使える。多くの場合は、自分が考えているものに、外で見たものがきっかけとして触発され、必要なものが瞬時に結びついて、新しいものが生じるわけである。表向き、全く違うようにみえる。異質なものがその本質で共通の要素として、結びつくのである。セラミックの骨と湯のみをみて、どちらも土だとわかるようなものである。つまり、形でなく、*をみるのである。

 たとえば、夢の中の発明といわれる多くの報告事例がある。これについて、感性から考えてみよう。夢という時間、空間の軸のない世界、これは論理がないから整理されていない情報の大海である(インターネットなども、同じく大きな潜在情報ストックといえる)。そこから、その人がよりうまく生きる知恵を真剣に求めていると、問題意識というエサをつけた感性という釣り針がおりて、そこにひっかかる。
 ぐうたらに寝ていると、私たちはなかなか起きないものだが、感性が強く何かを欲して手応えの得られたときは、ガバッと目を覚ます。それは、命を助けるための力が働いたからである。火事場のバカ力や、〆切前にはアイデアが出るという〆切効果も、この類である。寝るというのは、先ほどから述べているように、頭を切るということである。
 そこで、アイデアマンは、必ず枕もとにメモをおいておく。夢からヒントをつかまえたとき、すぐに書き入れることができるからだ。だから、あなたも枕もとにメモとペンをおいておこう。魚を釣るのに入れもの(びく)を忘れるような心がけでは、何も釣れないだろう。
 感性は、とり出して形に表現する力をもつ。言うまでもなく、アイデアというのは形として、とり出されたものなのである。

☆感性の釣り針にひっかけよう。

【参考】
○夢のお告げは感性で聴く
 インスピレーションが働くには、準備が必要であるといわれる。つまり、考えに考え、煮つめておくこと、問題意識を高めておくことである。そして、ひらめきというのは、高揚感、驚きとともに起き、その答えは全体、象徴として表われるといわれている。
 夢の中での発明の事例は、とても多い。メンデレーエフは、テーブルに元素がそろっていたという。ハウは、未開族の槍に穴があいているのをみて、ミシンの穴を発明した(ロックステッチ・ミシン)。ニールス・ボーア(物理学者、ノーベル賞)のボーア模型、フレデリック・グランド・バンティングのインシュリンの発明、オットー・レーウィ(生理学者)の神経インパルスの活動の証明(1960)なども、夢から得られたことが伝えられている。

☆心の眼でみること。夢見ること。

○ビジュアライズ 絵や図にする
 アリストテレスは、思考とはイメージで成立し、イメージが内部の信仰の知識を表にあらわす情緒を喚起する力をもつと述べた。そして、直感(的推論)は最初に浮かんだ原理を図式的に示すことで、直感は理解の跳躍(lea)であり、他の知的な手段では到達できない大きな概念を把握できる知的プロセスであるとした。
 仏陀も、真理、知恵の根源は理性でなく直感であることを知っていたという。そのため、禅の瞑想やヨーガは直観を磨くトレーニングともされている。

☆禅、ヨーガに親しもう。


27 ひらめきの生まれる条件とは

 それでは、発想とひらめきとは、どのように違うのだろうか。
 私は、発想とは、異種情報の組み合わせで生じたものと考えるようにしている。発想とはその字のごとく、想いを発する、思いが始まる。つまり、異なるものがスパークしてアイデアを発することである。
 それに対してひらめきとは、アインシュタインが光になりきって相対性理論を発見したように、心身一如、つまり、ものごとになり切ってわかるものと捉えている。
 先に述べた異質結合というのは、発想であり、もっと直接パッと出るのがひらめきといえる。ちなみにアイデアはidea、理想が形をとることから、インスピレーションは、インスパイヤ、命にいぶきを吹き込むという意味からきている。
 まあ、どちらも表にみえる形でなく、見えないところの力のなすものだ。つまり、頭より体の知恵、理性より感性の働きということである。

 さて、感性を磨くには、迷いを切ることが大切である。それには、何かになり切るとよい。これは、ひらめきの秘訣でもあり、共に本質を見ることにも通じる。
 アインシュタインは光になり切り、道元禅師は、雨だれになり切った。他人にも他のものにも、自分を一体化できる。つまり、シンクロするわけである。すると、自分の思い込み、固定概念といったもの、我から解放されるわけだ。
 研究開発や営業でも、自社のサービスや商品に惚れ込み、それと一体になれたら、どこをどうしたらよいのかがおのずとわかるという。商品が、ここを直してくれと言うのだそうだ。このように、自分の会社やサービスや商品に惚れ込んで、仕事をしている人は、幸せである。惚れて生きるというのは、感じて生きることであるから、対象が何であれ、それは感性が働いていて幸せを感じることになるといえるのだ。それには、ものごとにひたり切る体験を積むことだ。
 そのためには、好きなことをやればよい。好きなことをやっていると、時のたつのも、そこにいるのも忘れる。それを、三昧の境地という。囲碁でもゲームでも、読書でも、気づいたら日が暮れていたとか、寝食忘れて打ち込んでいたということを、経験したことは誰にでもあろう。

 なり切るとは、三昧の境地のことである
 子供のように、ひたり切る。
 ものごとに夢中になる。
 アイデアが出ないなら、そのものになりきる。
 スポーツ選手でも、基本トレーニングをあくなくくり返すと、そのなかに入っていき、そして自由に体でプレーを応用できるようになるという。行き詰まってもいても、あるとき阿波踊りのように、どうせアホなら踊らにゃソンソンと、逃げずになりきれる。すると、ものごとがひらけてくる。
 だから、夏炉冬扇といわれる。これは、夏に炉、冬に扇を使うことで、苦しいときは、苦しさに入り込み、抜けることである。「心、頭、滅却すれば火もまた涼し」というのも同じである。

 このように、そのものになり切るのが、感性での問題解決法なのである。
 暑いときは熱いものを食べる。寒いときは冷たいものを食べる。夏のラーメン、焼き肉、冬の寿司やビールはうまい。
 苦しいときは苦しさに入ること。
 知や理は、言い訳し逃げ場を求めようとするが、
 逃げずにそのものになりきるようにするのが、感性である。
 考えたら、なりきれない。感性とは、統合、帰一、ひたりきることだからだ。

☆感じて統合するのが悟りである。それは、なりきることだ。

○同じ釜のメシを食うことの大切さ
 かつて同じ釜のメシをくって、部課が一体になるのは、チームとしての一体感を生み出すためだった。今、そういうことがうまくいかないのは、豊かになり一緒にメシを食うことなどが、喜びではなくなったためであろう。そして、それを社員も、損得勘定などを含め、頭で割り切って考えるようになったからであろう。
 プライベート重視そのものは悪いとは思わないが、相手と自分とを分けることとは、おたがいの生活を大切にすることとは全く違う。相手のことを感じ、そこに思いが至ってこそ、共にうまく分けてやっていくことができるともいえる。一体になるために、おいしいものを食べるくらいでは、うまくいかなくなったのは、不幸なことかもしれない。
 物の豊かさが、心の豊かさを奪うとは、皮肉なものである。物がなければ物で嬉しい、分け与えて共に食べ、共感できたことが、あるとあたりまえ、ないと不自由となってしまうのであろう。これが今の日本人の不幸なところである。この限度ある物の豊かさを、心の豊かさ、つまり感じる心の豊かさに変えるべきなのである。
 命のよろこぶことをすることが、感性を働かせるのに大切な条件となることは、いつの世でも変わらない。食べることは、命をいとおしむことで幸せなことであったはずだ。今一度、食べもの、着るもの、住むところを大切に扱うところから、感じ方を見直していきたいものだ。
 むしろ、どんなものも喜んで受け入れられる心があるかどうかの方が問われる。何事も感謝、ありたがって受けとめた方が、感性のためなのである。

☆皆でおいしいものを味わいに行こう。食べて、噛みしめて、感謝しよう。


28 理性、理屈で考えるとアイデアキラーとなる

 自分の足で稼いだ情報でなく、パソコンで頭に入れたくらいの情報では、実際は、あまり役に立たないことが多い。情報は行動するために使うのだが、動くことに慣れていないと、おのずと動かないために使おうとしてしまいがちになるからだ。そのため、現実には情報が与えられるほど、動けなくなる人の方が多い。
 私は、いろんな研究所の研究員に接してきたが、あれこれ口では言うものの、すぐさまそこで電話をしたり人に会いに行くことを嫌うような人が多く、すぐに成果の限界を感じた。そういう人は、大した業績をあげられない。それどころか、他の人の行動を頭ごなしに妨げに働くことになる。つまり、アイデアキラーの類となる。動くことは、他に働きかけ、何かを変えていくことであるのだが、それに結びつかない知識は動くまい、変えまいと理論武装してしまうわけだ。
 頭で考え始めたら、キリがない。他のものになり切れないし、バカにもなり切れない。つまり、無駄、無理ばかりが目につき、行動にうつせなくなるのである。こういう人は、どんなに考えても、動かないと結果はゼロだから、それは無能というのに等しい。ところが、考えることだけが好きなのだから、ビジネスではお荷物となる。
 しかし、もし感性が働いたら、それは統合し、帰一するように向う。つまり、ものごとにひたり切れるわけである。ひたり切ったまま、動けてしまうのである。知りたいと思ったら、手が電話をプッシュしているのだ。

 たとえば、理性では、悲しいことがあっても泣けない。泣いてはいけないと泣くのをがまんするからだ。これでは、悲しみに入りきれず、そこから逃げただけで、何も開けてこない。
 日本では、男は泣くなといわれ、感情を出さないのが大人とされてきた。しかし、悲しみは大きいほど、悲しさにひたっていくことで抜けるしかないのだ。悲しく感じると、人は泣くという行動をとる。それが、しぜんであり、その行為を通して自分もまわりも変わるきっかけがつかめるのだ。
 思いっきり泣いたり笑ったりすると、頭での思考を離れ、体が命の力で動き出す。そして、心で解決する。喜怒哀楽あってこそ、人間なのだ。思っきり泣いたあとの子供や、熟睡に入っている赤ん坊の顔を思い浮かべて欲しい。天使のような、すこやかな顔や魅力的な生き生きした顔をしているだろう。
 頭では考えれば考えるほど、怒っても泣いても問題が出てきてうまく運ばず、心身バラバラとなるということだ。しかし、その行為を通じ、心と体が一つになったとき、人間は人間に戻り、よりよい解決に近づくのである。

 たとえば猫や犬は、天気の心配をしない。ことばがないから、論理がない。時間の観念もない。ものごとを直接、感じたままに捉える。具合が悪いと寝ている、寝るということで正しく体を休めている。そこでガンかもしれないなどと考えない。つまり、考えないから間違えることはない。自分の感じた状態に素直なのである。起こった状態に身を委ねるのである。生命力が働き、自分をいやすのである。
 そこに今いることを受け入れることで、それを超えることができる。つまり、対象に一体となることで、心が生き生きしてくる。
 「社長が」「部下が」などと区分して言うのでなく、自分が相手になりきる。対決するのでなく、入り込むことで一体感をもつと、何事も解決しやすくなる。
 そのためにも、いつも一人の人間対一人の人間という立場で、同じ目線で人に接することが大切だ。どんな不作法なお調子もので嫌だと思う相手でも、その人にも家族もいれば愛する人もいると考えよう。片や自分の身を振り返ったら、同じくらいに程度の低いことがわかるというものだ。それが人間なのだと、そこまで思いをはせたら、好感をもち関われるというものだ。
 マリア・テレサやダイアナ妃は貧しい人たちやエイズ患者の手をとり、抱き寄せた。だからこそ、今も多くの人に愛されている。ダイアナ妃が愛を分かち合う方法は、相手に触れることだった。そして、そのことで自分の苦しみも癒されたと述べていた。病人には、手紙よりも見舞い、ことばよりじっと手を握りしめることが、何よりの元気づけだ。
 また名僧は、外から子供たちをながめているだけでなく、そのよこにきてすぐに心に入りきれるという。同じ目の高さでかがみ、よこにつき、手を握る。そして、子供の心も捉える。
 感性で感じ入ることで、わかりあう。
 頭では、いくら考えても、客体としてあるにすぎず、人の痛さが自分のものにならないのだ。

☆感性は、運命をも超える

○エリートの使えない理由
 頭がよくとも、人をうまく扱えない人も多い。これは、そうでない人の状況、プロセスの体験がないからである。つまり、相手の状況になり切れないからである。体の頑強な人には、体の弱い人の気持ちは、なかなかわからない。車で酔う人の気分もわからないし、高齢者の不自由さも思いいたらない。しかし人間は、感性で他人の状況をわずかな体験から自分の身におきかえて感じ、理解することもできる。体験も大切だが、さらに大切なのは感じる力なのだ。そこでいじめたり、強者の立場をとる人は、頭だけを働かしている。そういう人は、気に入らない人を排除、迫害するようになることも多い。

 理屈や理性は、世界を区切り区別し、差をつけていくからである。
 それに対し、感性は結合させる。これは、全く逆の働きである。理性は、一つの真理を求めるため、そうでないものには、対立し、対決し、論破しようとするからだ。そこで勝ち続けるのは、容易でない。いつか、疲れ果て、そのとき自分も、自分の人生からも見離されかねない。
 たとえばアイデアキラーは、相手のアイデアを否定することに精力を費やす。だからといって、よりよい代案がない限り、現実は何も変わらない。そして、それは、自分が新しく生み出すことで負うべきなのに、手間ひまを省きたいからやらない。自分のものを苦心して創り出すより、他のもので手軽にうまく代用したいわけだ。
 この能力にすぐれた人を評価してきたのが、日本の偏差値教育である。これは、制限時間内に予め与えられたなかから、正答を選択する力を問う。そのため、自分で選択ワク外の答えをつくり出したり、じっくりと時間をかけることを許さないのである。
 しかし、感性のある人は、そこで手間ひまをかける。料理なども素材から凝る。歌も三十回で覚えられるところを三百回も練習する。深めていくことで、より心が充たされるからである。より、内面の奥深くにある本当の自分に近づけるからである。

 感性は、包括する。つみ重ね、豊かに大きくする。無限の真実を求める。突き詰めれば、それぞれにそれぞれの生きるための答えがある。
 理性や理屈が悪いとはいわない。しかし、それは感性による実践をサポートし勇気づける方向で使うことではじめて意味があるといえる。
 たとえば、ことばの力で立ち直るというようなこと一つをとっても、これはことばの論理よりも、そのことばをかけるタイミングやことばに含まれた肉声の情感の力によることが多い。同じことばをかけても、いつだったのか、誰がそうしたのかで全く違うだろう。交渉で、間に人を立てるのも、そういうことを意識するからだろう。日頃の接し方やタイミングが悪ければ、どんなによいことばも逆効果になる。
 このようにすばらしい感性の働きを充分に活かし切れないのは、第一に、体を動かしたり、具体的に考えていくことはめんどくさいものだからだ。だから、体力や集中力を保持し、体も頭も心もスタンバイOKの状態においておかなくてはいけない。すると、心や体を使うことが気持ちよく楽しくなる。

☆心も体もスタンバイ・オッケーにして、ものごとや人に接しよう。

○感性はいい加減なもの
 人には、パソコンにない能力が二つある。一つは、いい加減であるということ、これをファジィという。もう一つは、創出力である。いい加減でないと手が打てないことが、現実には多い。

☆何事にも、自動車のハンドルと同じように、遊びが必要である。

○トイレで企画を考えよう
 トイレは、三上の厠上、馬上中、床上の一つで、アイデアの出るところといわれる。狭いところで一人で静かにという条件では、現代、残された唯一の茶室ともいえる。臭覚も磨かれる。そこで、茶を飲むのはともかく、頭をまとめるのはよいことだ。ちなみに、茶は薬である。集中してアイデアを出すときによい。コーヒーも疲れをとり、覚醒させる。

☆茶を味わい、アイデアを出そう。


29 無防備でいること、とらわれないこと

 横尾忠則さんが直観やヒラメキで感じたことを絵で伝えることについて、次のようなことを述べていた。
 「自分の考え(コンセプト)から自分のアイデンティティを証明するために使うのは、自分には役立つが、相手の意識や魂の進化に必要ない。理解したところでおわるような芸術は、何日ももたない。ただの欲だ。
 ところが、直観やヒラメキで肉体で表現されたものは、ことばや論理を超えた力が働く。それには、子供のように無心、無我夢中になることが必要で、それで本人がまず解放される。「上手に」とか「人に影響を」というまえに、「自分は何か」を問うことだ。」
 そして、感性を磨くには、観察、よくみることから始めることをくり返し述べている。
 次のようなことばも、感性というものを考える上でとても参考になるだろう。
「体で描いたものは、絵の具や墨にのりうつっている。そのエネルギー、パワーを感じることが、見ることであり、感じることだ。
 偉人の字には、パワーがある。見つめているうちに、相手やその相手が、体でつくったものとの間に交流ができ、情報が伝わってくる。これを返して交流する。これは、ことばを超えた思い、情念のようなもの、そしてそのものの実体や全体がみえてくる。それが感じることである。」
 そして、そのためにどのようにしていけばよいかというと、
「無防備でいること、すべてのものが聞こえ、すべてのものがみえる。何かにとらわれていると、他の音が聞こえない。それができないのは、恐れがあるからだ。常識、一般の通念の拘束、それから解放され、肩の力を抜くこと。好き嫌いは、単に感情、欲得、値段、他人の評価などで決めていることが多い。見られたくないものをどれだけ吐き出せるか、である。」
 自分でしっかりと感じ見極めることが大切なのである。

☆見た感じ、聞いた感じ、ピーンときた感じで、ものごとは決まる。

 

INDEX