「感性を高めるためのヒント」

       感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」


(2)感性で人脈は広がる〜対人関係は、感性の共感力と人格力だ

15 人の心を捉える力、放す力とは何か

 私は、仕事や生活上の能力とは別に、人の心を捉える力というものがあることに気づき、その正体を考えたことがあった。勉強会やサロンの主宰者を中心に、毎日たくさんの人に会っていたときに、会社の知名度や役職名といった社会的なものさしでは、さして“偉く”もない(らしい)人が、多くの人を集めているのを知ったのが発端だった。
 無名の人がたくさんの人を集めることは、容易なことではない。それだけに私には、新鮮かつ驚きであった。しかも、そのことを長い間、続けているのだから、その秘訣は何かと思ったわけだ。結論として、さして目立たぬ人なのに、人が慕って集まる人は、感性がある人なのだ。

 私もまた、年齢とともに、人を魅きつける力に関心をもつようになった。これは、人の上に立つ人、あるいは管理職にでもなれば誰しも、考えざるをえないことだろう。
 リーダーシップやカリスマの力については、さまざまな参考書がでている。人の心を知る心理学、社会学は、ビジネスマンの必修でもある。しかし、もっと根本に感性学というようなものがあってもよいのではないかと思う。
 これまでにも、人が人の心を捉える瞬間というのを何度か私も見てきた。会社で、こういうことに気づかなかった人は、榮がドラマを思い出してみて欲しい。そこには、いくつかの共通項があるように思われる。これを人を捉える力と、人を離す力に大きく分けて、簡単に整理してみたい。

@〈人の心を捉える力〉
 1.自分は苦しくても、他人のためにがんばる自己犠牲的な行動。
 2.結果を問わず、一所懸命、同じことをくり返す、必死にやる。
 3.他の人の欲しいもの、知りたいことを苦労して手に入れ、笑ってさし示す。
 4.他の人のできないことをやる。
 5.難しいことにチャレンジする姿。
 6.時間をかけてやる。
 7.手間をかけてやる。
 8.言ったことを守り抜く。
 9.堂々とふるまう、正義感にあふれる。
 10.人をたてる、認める。
 いわば、これらは平凡な日常生活で“ドラマ”が起こる瞬間である。そこに障害があり、それを乗り越えなくては、ドラマとなり得ないところである。つまり、人の感性はドラマにひきつけられるのである。
 そして、その逆の言動は、明らかに人の心を放してしまうことがわかる。

A〈人の心を離す力〉
 1.自分のためだけを考えて、保身に走る。
 2.手を抜く。逃げる。
 3.隠す。
 4.裏切る。
 5.自己顕示欲。見栄をはる。
 6.すぐに、あきらめる。
 7.悪口を言う。けなす。
 8.言い訳をする。
 9.言うばかりで実行しない。
 10.その場逃れをする。
 人の心を捉えるのは、誰にもすぐにできないことをやること、それゆえ、やることに価値がある。
 人の心を離すことは、誰もがやってしまいがちなこと、また、ちょっと油断したり気をゆるめると陥りやすいこと、それゆえ、やらないことに価値がある。

 @のようにやればよいのにできないのは、なぜか。Aのようにやらなければよいのにやってしまうのは、なぜか。それは、感性をうまく働かせられないからであるといえる。もう少し具体的に言うと、この二つの大きな違いは、@には行動を伴わせることが必要で、そのための大変さが伴い、Aにはそれがないということである。Aも、1、2度ならまだしも、何度も重なると人格を疑われかねない。この大変さは理性や頭では引き受けられず、感性が体で身をもって示していくしかないわけだ。
 頭だけで判断したり、欲のままに行動したりすると、先のことや他人の心がみえなくなる。人間には心がある、感じる心がある。そのアンテナを大きく張り巡らして、情報をとりこみ、本質をみて行動しなくては、人の心を捉えることはできない。@に述べられたものの理由には、感性が磨かれ現われ出るシチュエーションがある。ものごとを他の人間よりも一歩先に大きく捉え、やり抜くことで、人が共感する。
 勇気、友情、根性、初心、素直さ、これらはすべて、感性と親しいことばであり、また、少年や少女のあこがれるキィワードである。

☆感性が働くと、あなたもヒーローになる。


16 人との信頼関係をつくるのは、感性の交感能力だ

 事故に合いそうなときや、転ぶときなどには何となく予感があるものだ。ビジネスなども危ないかどうか、ピーンとくるようになれば一人前といわれる。このように予兆に鋭くなるのは、予知力であるから感性の働きである。
 スポーツでも、“いける”ときと“やばい”ときは、直感的にわかるものだろう。それを動かせるムードメーカーは、スターよりも重宝されている。試合の流れを変えた人が、ヒーローインタビューに立つ。
 同じように、人とのつきあいでも、よい目にも痛い目にも会っていると、そのうちその人とは、おもしろいことが起こるか、うまがあうかなど、予感が働くようになってくる。人脈も、またこういった感性の賜物であるように思える。
 私も、よい仕事やパートナーに恵まれるときは、そういう人や仕事がたて続けに現われる。確かに何かが共振している気がする。つまり、感性を中心に、シンクロニティという力が働いているように思える。

 相手が自分に対してどういうスタンスをとるかに敏感にならざるをえないサラリーマンは、気づかい、根回しに、たけてくる。それでも程度問題で、加減を適確にできる人が、感性があるわけだ。必要以上に気を働かせては、小さなことはよくとも、大きなことがうまくいかなくなる。卑屈に臆病にみえ、まわりの信頼が得られないからだ。いろんな慣習、権威、人間関係のあつれきが支配しているのが会社だからだ。読みが深くないと、やってはいけない。いつも自分の感じ方の壁を破る努力を怠ってはならないだろう。
 私が見ている例では、偉い先生にベストセラーの本を贈る人や、部下にあれこれとよけいなおせっかいばかりして、その人のまわりからも嫌われている人もいるが、これも、感性が鈍いといえる。
 そつなく、そういうことができるようになるためには、相手方の身にならなくてはうまくできない。身になるとは、相手の心で感じることである。そのためには、そういう人のことを知り、少なくとも自分の読む本くらいは知っているという謙虚さも必要である。素直さと謙虚さがなくては、感性はうまく働かない。

 人を見る眼のある人は、頭が切れ、仕事上の能力がある人とは必ずしも同じではない。どちらかというと、人との関係をつくれる人に目をかけている。それは、その人も仕事として対しているようであっても、必ず相手に人間としてどう対するかという面を疎かにしてはいないからである。だから、よい人脈をもつ。
 確かに、ビジネスで会う以上、仕事として、その形のなかで対される方がめんどうはないという考えもある。会社勤めのOLが、仕事で使われる以上のことに関心をもたれることを好まないのは、その方がめんどうごとがないからである。最近の若者も、その傾向が大きい。会社は仕事をするところだから、人と人とも仕事あっての関係だから、それでよいのは確かだ。だからビジネスにはルールがあり、ビジネスマナーやビジネス文書などが定められている。
 しかしそれを踏まえた上で、そこから一歩、一人の人間として関わっていくことが、忘れられているように思う。学校の友人も、会社の同僚も、会社の上司も、短い人生で関わりのもてる数少ない人間の一人であることに変わりがない。会社を抜いたところに築いていく関係こそが人生の財産となると考えたいものだ。
 もちろん、会社のなかでしか知り合いができないサラリーマン、会社をやめたら誰とも疎遠になるサラリーマンでは、これから先は思いやられる。そのためには、サラリーマンという立場に縛られない自由奔放な交感能力のようなものが必要だ。そこで感性が欠かせないのである。感性は、人を差別しない。

 深いつきあいは、地位も富もないうちの若い頃や不遇の身の上に起こりやすいという。それは、そういうときには理屈、たてまえ、立場抜きに感性が働きやすいからである。しかし、相手の気持ちを思いやるイマジネーションがあれば、常に、相手の身になって、ものを捉えられるはずだ。そこには、地位も年齢もない。感覚を交換して、相手の身を慮(おもんばか)れる力、それが交感能力である。交感能力がある人は、まわりの人を誰でも自分の味方にしていく。それは、自分の心を開いているからである。

☆人との関係をうまくつくれる人になろう。


17 社縁、血縁から感性縁へ

 これまでは、地の縁、血の縁という運命の結びつきが、社会を編成するユニットとなっていた。会社もまた同じ時間に同じ場所に集う仲間の集合地であったといえる。それは一見、社会的なつながりのようにみえても、身内の縁に似てくる。実際、会社でも相続やコネ入社など、同族という血縁や地元という地縁を中心に動いているところも少なくない。家族は、この血縁と地縁とを生まれたときから共に兼ねていることが多いゆえ、きずなも強かった。そこに、同じ育ちが入っていることから、同じようにものごとを感じやすく、何事もすすめやすかったからである。人間の社会の身分制度なども、そういうところから出てきて長く続いているわけだ。
 しかし、日本の社会でも、会社や家族における結合関係は、以前から比べるとずっと薄くなりつつある。同郷や同窓という縁も、それほど大きなつながりではなくなってきた。
 まして、これからのインターネットを中心とするネット社会では、時間や時空を容易に超えることになり、これまで、日常であった社会や家族というユニットは縦横に分断されていくだろう。
 そこでとって変わる関係は、何だろうか。私が思うに、これは気が合うのか合わないのかというフィーリング、つまり感性が決め手となっていく感性縁だろう。
 結婚する男女の関係も、友だちのような感覚のカップルが増えた。少子化やセックスレスの問題も増えている。つまり、これまでの社会的因習にとらわれず、自分の感覚に正直に生きようとする人が増えてきたのである。
 このフィーリングでの結びつきである。感性縁は、身分、財産、出身地、生活の価値観などで決めていたお見合い型に対し、趣味や行動、話の一致を主とする恋愛型から友人型であるのが特徴である。つまり、これからの新しい縁組みである。とある芸能人のように「ビビビときたから、すぐ結婚する」というのは、まさに感性婚といえよう。

 たとえば、ゲームでも、当初は技術を競うものであったのが、感性をくすぐるものに移ってきた。インベーダーからパックマン、シミュレーションゲームからRG(ロールプレイングゲーム)の流れもそういうことであろう。そのため、女性などのファンも増えた。スケールは違うが、オリンピックなども感性に訴える種目が増えてきた。そこでは、芸術点などというのが採用されている。
 プロの技術よりもプロと通じる感性を求める人が多くなるのは、セミプロ、セミ芸術家(アーティスト)社会の到来であるといえる。今のカルチャーセンターブームも単に不況下の資格とり合戦だけでなく、自分の感性に合うものや合う人を捜そうとしているように思われる。

☆ビビビときて親しくなるのが、感性の関係。


18 人脈は人脈にシンクロナイズしていく

 よい人脈をもつ人は、おのずと広い人脈をもつことになる。なぜなら、人脈は、個としてあるのでなく、個と個との関係としてあるからである。その関係が開かれていたら、どんどんと広がっていく。つまり、神経のシナプス回路のようにシンクロナイズして増幅していく。人は人の集まるところへ行き、人の集まるところで楽しみたいものだからだ。
 私も新しくめぐり会った人から、知り合いの名前がどんどん出てくることには毎度、驚くばかりだ。友だちの友だちは、本当に友だちなのである。感性で合う仲間同志の縁は、グローバルに拡がりつつある。この世で感性よく動いている人、感性をよく動かしている人の世間も案外と狭いということだ。
 以前は、日本の社会も親分・子分のタテの関係であり、どこかに属していたら他には属さない。それゆえ、どこでも派閥組織間での対立抗争が日常茶飯事であったように思う。誰か一人が上に立っていたから、その一人を選ぶということは、他を切り捨てるということになる。
 サクセスや一人勝ちを求めるのは、どちらかというと、理想を理性的に求め、頭で秩序づけたものといえる。成功か失敗かということが、迫られた。
 それに対し、現実の個々の人間関係におりて、気の向くままにネットワークしていくのが感性縁となる。これは、人を選ばない、切らない。必要に応じて、ネットし協力しあう、ゆるやかな関係ともいえる。これからは、こういうネットワークを中心とする社会になっていくようである。

☆感じがいい人のまわりに人脈ができる。感性のより集うところに、感性ある人は集まる。


19 共鳴能力は、共感をもたらす

 口笛は、くちびるの共鳴であるが、やたら「ヒューヒュー」鳴らしていたら、ひんしゅくをかうだろう。しかし、使い方しだいで、相手をひきたたせることもひきたつこともある。そう、相手に共鳴する力というのは、なかなかうまく発揮できるものではない。
 そういうときは、うまいコーラスでも聴いて、カラオケでよいから、誰かとハモってみよう。
 人間の声の共鳴も、いろいろと変わるものだが、相手と一つになるひびきという接点を結んだら、和して共鳴する。一つのものに入り込むことで深く感じ合うこと、つまり共感できる。
 これは、つまり、波長があうということであり、感性での交流となる。音楽、ダンスなどはすべて、リズムや音のこういう動きをたくみにとり入れて、人の心を動かしている。社交ダンスブームは、感性ブームであったといえる。
 コミュニケーションというのは、こういった共感能力をめざめさせることから始まる。それは、論理、説得よりも、共にいて共感するところから始まる。感じて、納得して、人は動くのである。
 それは、私たちが理屈や計算抜きに、感性から突き出た勇気と責任感ある行動に魅かれることからも、わかる。

☆Shall we dance! 気やリズム、波動は感性を刺激する。


20 出会いは第一印象で決まる〜肩書きをはずして接しよう

 会ったとき、その人から何ともいえない香り、人間味や、よい感じが伝わってくることがある。すると、思いのほか、自分の気持ちもなごむものだ。会ったあと、元気がでる。その人の独特の匂いや雰囲気、個性に触れ、会ってよかったと思う。ときに、こういう出会いもある。
 人のもち味、感じ、香りというのは感性の捉えたものであるが、これは案外と全国、いや全世界の人間に共通にあるものではなかろうか。そういう人が世の中にはたくさんおり、国やことばを超えて親しく交流している。人が他人に会おうとするのは、そういうものに触れたいからだろう。感じたい気持ちが、他人を求めるのである。友情や愛も、そこから始まる。
 それに対し、名刺の肩書きが幅を効かす世界などはとても狭い。その効力は、せいぜい、その業界や社内だけであろう。そういうときでも「えっ、あの人が、あの業界の(会社の)○○といわれている○○」と、あとで人づてに聞くくらいで感嘆できたら、格好よいものだが…、本人が自己顕示欲でPRするのでは興ざめであろう。人から伝わってこそ、イメージがふくらみ感性に働きかけるものとなる。
 日本では、肩書きや相手の身分によって、その人を判断する傾向が、まだまだ強く、それに閉口させられることは、たびたびある。まるで、人の信用が、その人の言動でなく会社や職業、肩書きの信用に負うかのように思われるからだ。つまり、相手がしっかりした保証書をもっていないと安心してつきあえないというのだから、困ったものだ。
 これは、人をきちんと見極める力が磨かれていないからだろう。そのためには、他人に自分や自分の考えを語る力も必要だが、それもないわけだ。だから、何らかのお墨つきがいる。
 海外でカモとなる日本人の例は、枚挙にことかかないし、国内でも、悪徳商法にだまされる人も多い。
 私たち日本人は人を疑うことを知らないというのに生きていけるということでは、幸せな国民なのだろうが、それだけ自分の考えや個性も判断力も大局観もないということである。以前よりも、単純なトリックでだまされる人が多くなったように思うが、それは感性さえも鈍ってきているのではないだろうか。最近は、海外での事故も多い。他の国であっても、危険な通りというのは雰囲気でわかるから、足を踏み入れてもすぐ戻るものだが、最近の若い日本人は、それさえ感じられないので危ないと聞いた。ガイドブックを見ないと、歩けないというが、困ったものである。
 こういうことでは、結果として、自らつきあいの範囲を身内に限定し、異なる価値観をもつ人たちとの出会いのチャンスを奪うこととなる。

 私は、今はラフな格好でどこでも出かける。フットワークを軽くするのに、肩に重しがついていたのでは、かなわないからだ。しかし、ときに先生としての役割を期待されることもある。そういう仕事に接し、そういう立場に立たされると、とても窮屈で不自由な思いをする。すると、相手はもっと窮屈になるしかない。となると、こちらも「お仕事ごくろうさま」としか言えなくなる。
 だから、こういうときは、「おもしろい人ですね」と言われるくらい、早めに相手のイメージをぶち壊すのが、私のスタイルとなりつつある。そうなってはじめて、おたがいのよそ行きの顔がとれて、生き生きするからである。感性が自由になろうとする。しかし、仕事としてしか関わりたくないと思われては、手の打ちようもない。そういう人は、家でもこうなのかなどと考えてしまう。
 
 サラリーマンの背広、ネクタイも、社員バッチも、プライド、誇りであるとともに、拘束であり束縛である。
 もちろん、大人である以上、ましてビジネスであれば期待される役割はまっとうしなくてはいけない。相手の期待には、十二分に応えるべきだ。でも、そういうなかであっても、そのなかで精一杯、自分なりに工夫し、その時間を楽しもうと演出することが欠かせないと思う。その人なりの着こなし、話し方など、自分らしさをもっている人は、どこにいても魅力的なものだ。

 まして、公としての場でないところでそうではない人と出会ったときくらいは、自由になれる自分を確保しておこう。あなたも社会や家庭では、いろんな役割があるだろう。しかし、プライベートなときにまで、サラリーマンやOL、主婦をやる必要はない。
 名刺は、一つの役割を表わしているのにすぎない。それ以外のときは、自分が好きな自分をしっかりと演出しよう。自分から他人に一方的に与えられた肩書きにとらわれるのはやめよう。それは同時に、相手をもその肩書きのなかに押し込めることになるからだ。
 名刺は、欧米から日本にくる人も使っているが、彼らは口頭で自己Rするのが慣習である。魅力的な表情と声でたっぷりと感じていることを伝える。私たちも、原稿なしでスピーチできるようになろう。歌でも、歌詞をみながらではしらける。それは、自由な感性が働きにくくなるからだ。まして、自分の思っていることを語るときぐらいは、理屈抜きでニュアンスで伝えよう。
 それには、気概をもって、一つの出会いを瞬時にとらえることである。
 万里一空という言葉がある。剣の道は相手の気と自分の気が一つになるだけでなく、宇宙の気の流れと一体になるという。
 相手と出会ったときの、最初の3分間、目一杯の自己演出をしてみよう。気を込めて、相手に精一杯、アピールしよう。

☆名刺の肩書きを裏切った、パフォーマンスしよう。


21 好感をもたれること〜育ちのよさを自分で身につけよう

 世の中での成功は、人に認められることにおいてしか、ありえない。
 「芸能界に有名になるということばはない、好きになってくれた人が有名にしてくれるだけ」と、萩本欽一さんが言っていた。まさに、その通り、そのためには、まずは、まわりの人に好感をもたれることからだ。
 それには、とにかく、何事もせっせと一心にやっていることだ。今の日本にそういう人は少ないから、それだけでもとても目立つ。さらに、やらなくてもよいことまでやる。
 それも、誰も文句がつけようのないくらい、いや、他の人が困るからそんなに一所懸命やらないでくれというくらいにやっておく。あたかも、出世するまえの秀吉のように―。主人のわらじを冷たくないように胸であたためておく。
 そういったことを何のとらわれもなくやれるのが、感性だ。お茶を三杯出すときにぬるめのものから出していく。これも感性だ。こういう話が長い時代、人から人へ伝わるのも、伝えていく人たちに感性が働くからである。

 そこであなたも、今おかれている立場でやれるだけのことを精一杯やるように考えて、やっていこう。すると、そのうち、考えなくとも、体が動くようになる。そうならなくては、いつしれず、またやらなくなるし、考えながらやるのはいちいちめんどうだから、やめてしまうだろう。だから、そこまで身につけることだ。そうして身につけた動き方を、基本という。何事にも基本が大切なのは、それがあってこそ現実に応用して対応できるからだ。
 こういう基本の身についた人をたまにみかけると、一度目は顔を覚え、二度目は声をかけたくなる。そしてそういう人は、多くの人にそのように思われるから、だまっていても人にかつがれていく。しだいに、よくなっていく。何事もうまくいっていない人は、ここを学ぶことである。
 皆が楽を求めるようなときに、必死にやることを、照れず気兼ねせずにできるのは、多くの場合、その人に志があるからだ。
 というようなことがわかってきてから、私もそういう人に出会うと、声をかけたくなってきた。しかし、無理には働きかけない。そういう人は、考える間もなく、思わず声をかけさせてしまうからである。感性が人を呼び込むとは、まさにこういうことだろう。

 今の若者には、こういうタイプが少なくなってきたが、これは親が自由を、自分勝手で甘やかすことと勘違いして与えたせいもある。そうではない恵まれた人は、きっと、しつけが厳しかったのだろうと思う。親が厳しいと、子供は親の気持ちに立ってみるようになる。怒られるまえに、先を読み、防ぐようになるからだ。
 人間、成長するには、まわりに気を使うべきときや、それを教えてくれる人が必要であると、この頃、よく思う。それは、上司でも先輩でも、近所のオヤジでもよい。それによって、相手を慮り、自分で自分をコントロールできるようになる。
 そのうち、相手にとってよかれと自分を投げ出せる。こういう力が磨かれていくと、感性の力となっていく。
 親が苦労したから、我が子に苦労させないように好き勝手にさせるのではなく、厳しいしつけを徹底することこそが、大切なのだ。
 そのおかげで、そういう人は、どこでもうまく生きていく術を労せずにもっていることとなる。なぜなら、他に人が苦労して嫌がってやることを、しぜんに進んでこなせるから、自分の負担にもならない。そして、そういうことをしているその人の顔や動きをみるだけで、誰もが好感をもつからだ。そしたら、悪いようになるわけがない。
 だから、そうでなかった人は、これから自分で自分をしつけなくてはいけない。あるいは、そういう逆境に身をおく勇気をもって欲しい。自衛隊とか海外青年派遣隊やボランティアなども実践の機会としては、なかなかよいではないか。
 理不尽と思っても、体が喜んで動く経験も大切なのだ。それは最初は、修行のように無理に動かされる方が、結果として楽なのである。
 自由、平等、自己主張という看板のもと、間違ったしつけ(戦後、民主主義教育?の賜物)では、他の人の分に手を出さず、自分の分だけやれば、それでよい、自分は自分のままでよいという考えを確立させてきたかのようである。
 「それでよい」つもりなら、「それでやれば」と人から、言われて終わりである。
 そこに、相手と何のつながりもできない。関わらないから、自ら、学ぶことも気づくことも、変えることもできない。こういう教育方針に、私は大反対である。こういったのが好きを伸ばす感性教育といわれ、はびこってきた結果が、今の無感動な若者に育てた。
 すると、自分と他人を分け、自分だけがうまくやれるようにと動くようになるのである。小賢しくして一時、労せず得をしたようでいても、その結果、やはりうまくいかなくなるのである。
人は、人のなかで共に感じながら生きるものだからである。そういうときは、他人の分もやればよい。すると、その相手もやりたくなる。次には、やらせたらよい。自分の感じることをやってもらい、自分のやったことに感じてもらうと、気持ちのよいものだからだ。そうやって人間は気持ちよく関わっていくものなのである。
 大切なのは、自分が楽しむことで他人をも楽しませること、自分よりも他人を楽しませて、その楽しみを自分に感じられるという感性である。まさにこれは、アーティストの生き方といえる。人は一人では楽しく生きられない。

 だからといって、これはそんなに難しいことではない。たとえば、あなたのちょっとした表情や動きも、他の人の心を充分になごませることができるのだ。そのようにしたら、おのずとあなたも好感をもたれるようになる。大切なことは、他人と区別することでなく、心地よく関わり合うことである。マナーやルールも、そのためにある。
 その代表的なものが、あいさつだ。あいさつがきちんとできることは、だまっていてはおのずと敵になる他人でさえ味方にする最高の方法である。

 人をひきつけるには、次の四つの要素があるという。それぞれについて、自分が何にひかれるか考えてみよう。
1.Interest…興味、好奇心(感覚力、情報先取力)
2.Feeling…感情(感覚力、情報先取力)
3.Intuition…直観(本質把握力)
4.Active…行動(生命力)

 また、広告業界にはAIDMAの法則というのがある。広告をみて、買うまでの人の心理の順の頭文字をつけたものである。
1.A―Attention 注意(感覚力)
2.I―Interset 関心(感覚力、情報先取力)
3.D―Desire 願望
4.M―Market 市場
5.A―Action 行動
 共に、( )内は、私の感性マップより、解釈したものである。

 自分がものを買うときに、この心理を追ってみよう。実際に自分がどのように感じて買うに至ったのかを考えてみるとよい。店、店員、広告、商品、サービス、その他について考えてみる。
 ついでに、誰をもひきつける3Bは、Brute(動物)、Baby(赤ん坊)、Beauty(美人)である。これらは、もっとも感性に働きかけるもののベスト3ともいえる。これらがテレビや雑誌などで、どのように使われているのか、調べてみよう。自分が、みてよいと思うものは、どこがよいのか、なぜよいのか考えてみよう。

☆損して得をとれ、身を切らせて骨を切るのではなく、身を使って心をとれ。


22 マナーこそが感性の基本だ

 あいさつや、気遣いがきちんとできるということは、さまざまな人間の関係に生じる摩擦を、自ら潤滑油を出し、解消する能力があるということだ。こんな簡単なことが、いろいろなことが起こるこの世の中を生きる、最大のノウハウなのである。それを称して、マナーという。
 マナーは、形から覚えるのがてっとり早い。なかなかそういう機会に恵まれない人は、マナーのガイドブックを一通り、読んでおくとよい。
 しかし、それで終わっては、うまく使えないだろう。大切なのは、マナーも一つずつ、そうする理由を掘り下げ、自分なりにそれぞれのケースに応じてしっかりと考えておくことだ。
 なぜ、車では後部座席に偉い人が座るのかは、誰でもわかる。引き手のドアと押し戸のドアでは、もてなす人の立つ位置が違ってくる。こういったものも、相手の立場に立って考えたら、なるほどと思える理由があるはずだ。テーブルの食器の並べ方も同じである。
 この「なるほど」と感じられることが、しぜんとできるように感性を磨くのだ。
 形式的なマナー、礼儀作法よりも、重要なことは、そうする理由の方である。そのマナーが成り立ち、継承されているのはなぜか。人々の心の内に秘められた心遣いの心を読むことが、感性なのである。その理由を知ったら、さまざまなケースに応用できるということだ。
 お悔やみのことばでも、同じことばを言っても、そこに込められた心の深さは随分と違うはずである。それは、故人や遺族との関係の深さにもよるが、それだけではない。形式的なことばよりも、とっさに相手を気遣うことばが出たり、おのずと手を握りしめたりする。そういう感じたことからき働きかけの方が大切なのである。

 たとえば、相手の気持ちに感じ入って共に悲しむだけでなく、本当に共感したら、その後のことまで思いやれるはずである。感性は同情に終わらない。共に行動しようとなるのだ。「○○君がそんなことしたの? 私が一緒にいってあげる!」子供の頃は、あなたもこうだったでしょう。
 心遣いとは、自分の心を相手の気持ちのよい方に遣ることである。そのためには、その場で臨機応変に対応できるためにも、基本的なことを身につけておかなくてはいけない。

 新入社員でも、すぐに得意先に一人で派遣できる人と、必ず上司をつけなくては安心できない人がいる。これは、仕事をこなす能力よりは、感性の差である。一方は、相手に対し、何を言われても失礼のないよう納められるのに、もう一方は、不慮な事態が起こると、とっさに対応できそうでないからである。
 これは、一見、頭のよしあしや仕事の能力のよしあしではないようにみえる。しかし、その場に応じてもっとも適切な行動を選び、あるいは考案してとれるということは、高度な判断力を必要とする。一流の仕事のできる人というのは、こういう能力にも秀でていることから、仕事の能力としても、人としての能力としても、もっとも大切なものであることがわかる。

 私も偉い先生にたくさん会い、あるいは逆に講師としても接待されて、いろんな人の、いろんな気遣い方から、多くの工夫や演出を学んできた。しかし、本当に他人の心を打つのは、形からはずれたとき、不慮の事態がおきたときの対処からである。そのときに、形だけのマナーなのか、その人の心の表われとしてのマナーなのかがわかる。それは、その人の心の深さ、感性そのものである。形だけの人は、そういうときには相手への評価や関心の度合いが露見してしまう。
 ある先生は、もう二十年前に私が雨の中、カサを求めに走ったことだけで、名前を覚えてくださっている。とある先生は、自宅へ伺った帰りがけ、私の肩に背広をかけてくださった。私は、そのことだけ覚えている。社会に出たてでマナーや作法に混乱していた頃の私だったので、今もことに触れては、思い出すのだが、人の心に残ることは、こういうときのとっさの行動に秘められたものであり、それこそ、その人の心であることを知ったしだいである。
 ときに私も、その場でのごちそうのお礼を言いそびれて、手紙を書くはめになることもある。ミスは誰でもある。これも、不慮の事態である。その一つひとつをどこまでフォローするかが心遣いであり、自分への責任である。そして、それを一つひとつクリアすることが信用の基本となる。

 ともかく接待というのは、まさに感性のノウハウの宝である。相手の気持ちを知らなくてはどんなにお金や時間を使っても、逆効果になりかねない。心と心との琴線をどう触れあわせるかの演出は、相手に共感し先を読む力が欠かせない。相手が何を欲しがっているのか、何をしたがっているのか、それが感じられなければ、どんな相手にも本当の応対やサービスができないのである。

☆マナーは、なるほどと思える理由を学べ。


23 静かに歩こう

 私は、いろんな人に会うが、感性については、次のようなことですぐにわかってしまうように思う。
 まず、どたどたと歩く人…これは、感性ゼロである。まわりにいばりちらす効果を考えて、そうしている人は逆効果であることを知るべきだ。
 社内や公共の場、電車や店で大声で話す人も同じである。
 訪問したあと、ドアをゆっくり閉める人、そこでカギ音をカチャッといわさない人、これらは相手の身になれているということだ。
 見送り一つでもわかる。別れたあと、相手がもう一度、振り返ることを知り、きちんと見ている人、それを見送りという。見送られる方も、同じである。車が出ても、見えなくなるまで動かない人、マナーというより相手をもてなす気持ちのあり方が問われる。訪問先では、靴をそろえるのに、トイレなどでスリッパをそろえておかない人もいる。これも、感性に欠ける。
 自分がその身になったら、こういう心遣いは、すぐにわかることであろう。そこでわかっていても、行動にとれない人は、まだ頭や、体が邪魔している。感性の働きを抑えている。だから、人生や仕事の問題が片づかない。
 感性豊かな人は、感じたままに行動している。自分の頭や体を感じるままに遣うことに躊躇しない。
 目の前にゴミが落ちていたら、拾う。それは、自分のためでも誰かのためでもなく、ただ拾うのだ。それで、まわりの人のためにも自分のためにもなる。理屈で言われたり、自分でそう決めないと動けない人は、人がみていなかったり、自分の気分がのらないとか疲れていると、すぐにやらなくなる。つまり、三日坊主である。それは頭でわかっても、体が動かない。
 感性は、使うことで磨かれるものだし、行動を欲する。何事も行動することでしか、うまくいかないし、感性は行動してうまくいくようにしていくからである。そこで、自分の手間と心をかけて行動している人が、感性のある人である。相手に対して、心を働かせられる人である。

☆感性のある人は、足音を立てない。

 

INDEX