会報バックナンバーVol.193/2007.7


レッスン概要

■ミュージカル俳優と役者のヴォイストレーニング

○日本人の声づくり

私は、多くの歌手、役者、声優、ミュージカル俳優、お笑い芸人などのヴォイストレーニングを行なってきました。中心はプロですが、一般の方や後にプロになった人も多くみてきました。そこで多くの方法を探り、多くのことに気づき、それぞれの人とその声をつくったり変えたり鍛えたりしてきたのです。
 ここでは、主に日本人の声づくりについて述べていきます。とてもあいまいな日本人の声の基準についての問題をも提起します。多くの方がトレーニングを行ないつつ迷っている現状に対し、その頭の中をすっきりさせてあげたいという狙いもあります。
一言でいうのであれば、日本人の声は、弱く、細く、かん高いというのが、多いのですが、強く太く、タフで耐久力に富んだ声にトレーニングしていくのが、目的です。なぜなら、長く過酷な舞台を続けていくには、才能もさることながら、壊れない声をつくることが基本だからです。

○日本人のプロの声というのは
 
 私がヴォイストレーニングにあたり、最初に考えたのは、欧米の歌手、俳優のもつパワーとインパクトとの差でした。
それとともに、日本のヴォイストレーニングでの現実の成果、いったいポピュラーのヴォーカルの声というのは、歌唱技術はともかく、ヴォイストレーニングでどのくらい変わっているのか、そこが大いに疑問だったのです。
 私の関係した劇団で、声がどんどんよくなっていく役者と、それに比べ大した変化のない若い声楽のトレーナーをみたことも大きなヒントでした。今でも、お笑い芸人の、短期でプロの使い方となる変容は、声というものが鍛えられることを証明してくれます。私自身の声も、十代の頃とは比べものにならないほど、タフに力強く深くなりました。今では、8時間話しても、翌日変調がありません。
 役者はせりふを言うことで少しずつ声がよくなっていくのが、4、5年もあればわかりました。それに比べ、最近の日本の歌い手の声は、普通の人とあまり変わらないのです。現在のポップスの歌手なら、なおさら声は素人同然なのです。プロの声の使い手であるのに、こんなおかしなことはないと思ったのです。

○日本人の声のベースは、役者
 
そもそも日本人でプロの声をしているというと、誰が思い浮ぶでしょうか。私は、どうしても一時代前の役者の声となるのです。時代劇俳優やアクションスターによい声の使い手が多かったように思います。そこでの歌手の声でも、印象に残る人は、独自の音色のあった1970年代くらいまででしょうか。
 もちろん、アナウンサーや落語家というのもプロの声です。さらに、ミュージカル俳優や歌手も、朗読家、ナレーター、講演家もセールスマンも販売員でも、プロとして声を使うといってよいでしょう。ただ、そのなかでも、プロとしての声の使い方をしている人が大半です。それでは、声だけで必ずしもプロと思わせるには足りません。もちろん、どちらであっても、プロならまだよいのですが。どちらでもない人が、大半ではないでしょうか。

○ミュージカルの声
 
 ここで、海外との差が象徴的な、ミュージカル俳優について述べてみましょう。本来は、個人別にみていくべきものですが、大まかな分け方をしてみます。
 日本の場合、大きくは、声楽出身と役者出身に分かれます。仮にここで、前者をAタイプ、後者をBタイプとしておきましょう。
 Aタイプは、声が伸びやかでつやがあります。声楽特有の歌声、音色があり、それは高音域で明らかに目立ちます。つくった声、磨かれた声であり、そこには確かに一つの基準と技術があります。
それゆえ、コンクールのように、基準が確固としてあります。日本では、それにあわせて一つの似た傾向が声に表われます。出来不出来も、他人との比較も容易なのは、声楽という共通の勝負土俵があるからです。
日本人の場合は、ほんの少数をのぞき、個性的とはいえず、ややステレオタイプ、多くの人に思い浮かべるクラシック歌手のイメージに近いです(本来はそのように、それっぽいふしぜんな声ではないのですが)。
声楽出身者は、ミュージカルにおいて、貴族役などには合います。 

それに対して、Bタイプは、パワーとインパクトがあります。クラシック型に対して、ロック型といえます。それぞれにあまり似ておらず、個性なのかくせなのか、存在感があります。中には、低音に太い声のあるタイプもいます。苦手なのは、高音処理です。シャウトでこなす人もいます。合うのは、ロックオペラ。それでも、日本人の場合、細くかん高い声が多いです。
 Aタイプは、エビータ(ミュージカル)での劇団四季のものと、Bタイプは、映画版エビータのマドンナとバンディラスので、同じ歌を比べてみるとわかりやすいでしょう。さて、どうしてこのようにキッパリと二つに分かれるのでしょうか。海外のように、どちらのよさをも兼ねそろえたような人はいないのでしょうか。

○二つに分かれてしまう日本人の声
 
この分類を、もう少し他の分野に応用してみますと、
 A.アナウンサー、ナレーター、声優、コーラス、合唱団、民謡、童謡歌手……共通(似ている声)伝達
 B.パーソナリティ、落語家、レポーター、ゴスペル、ロック……異質(違っている声)表現
 ポップスのヴォーカリストでも役者と声楽(音大)出身の人は大きく分かれます。カンツォーネとシャンソンのなかでも違うし、演歌とニューミュージックのなかでも違う。ジャズや民謡のなかでも違います。
ジャンル別というよりも、二つの声の違い、古いところでは三橋美智也と村田英雄の声の違いと考えてください。そこには民謡と浪曲の違い以上のものがあるのです。これを、内輪(室内)と外野(野外)の声といっている方もいます。
日本の場合、この二つのパターンそれぞれに代表する声や共通する声が、どこにもあるようなことがおわかりでしょうか。

○プロは大きな声が必要だった
 
かつては、舞台というのは、今ほど音響がよくありませんでしたから、当然、プロになるということは、大きな声、通る声が必要だったのです。
 そのためにも、生まれもっていながらの楽器である声が大きいことが条件でした。
 これは共鳴によるので、生まれもってあごが大きい、顔が大きいのは有利だったわけです。それに加えて、声の使い方で大きくすることが問われたのです。アナウンサーも、歌手もその類にもれません。
そこで歌手の多くは、声楽のレッスンを受けました。声楽家出身の人がポピュラーの黎明期を築いたのです。
その頃のよい声は、藤山一郎、近江俊郎、淡谷のり子などといえば、おわかりでしょうか。日本では声楽出身、しかも、日本では一流どころの彼らは、むしろ声量を抑えるのに苦労したようです。(ちなみに、声を大小や長短で調整するのも、日本人らしい感覚です。)
 これは、ポップス、特にカンツォーネやシャンソン歌手などには、継承されました。
代表的選手は、宝塚歌劇団や岸洋子さんでしょう。今はその感覚はミュージカルに流れ込んでいます。ただ、これを語る上で、声楽のなかでもみられる日本の特殊性に触れないわけにはいきません。

○日本の声楽の限界
 
声楽家のもつ声のイメージというのは、日本では必ずしも的を得たものではありません。海外の本場の声楽家とは、やや異なるといってもよいでしょう。(最近さらに、しぜんに自分の中心の声を使うイタリアのベルカントより、先生に教えられるやわらかなドイツ式リートに傾き、なおさら、迫力のあるドラマチックでなくなってきました。)
 あまり本場のものをみたことのない方は、日本人の弱く美しくやわらかい音色に対し、向こうの迫力にびっくりするかもしれません。(本書は、声楽の本でないので、これ以上、イタリア、ドイツなどの違いには触れません。ただ一説では、その人の体の中心の声を伸ばすイタリアと師のコピーを徹底するドイツの違いが触れられていました。そうであれば、日本の声楽が後者になりがちで、私は前者の立場をとっています。)
私自身のクラシックで学んだ感想では、「何と本物はしぜんでダイナミックなのだろう」でした。ストレートかつことばを言うようにして、声がビンビンにひびいています。
 本書は、日本人の批判や欧米人の賞賛を旨とするものではありません。しかし、こういう入り方をするのは、私の願う、しぜんな歌い手があまりに日本に少ないからです。
 もちろん、イタリア人がイタリア語を使って歌うのはしぜんです。少なくとも、日本人がイタリア語を学んで欧米人になり切って、歌うよりも、しぜんなのは言うまでもありません。しかし、ここで述べるしぜんとは、そのような現実の問題ではなく、リアリティの程度においてということです。

○ミュージカルのふしぜんさ
 
そこで当然、このリアリティへの思いは日本のミュージカルのふしぜんさに及ぶのです。
 いきなり踊り出したり、いきなり歌い出す、このことは日本のミュージカルだからではありません。日本は向こうのものを真似ているのですから。本場とそっくりに真似てやっているのが多いのですから、シミュレーションは驚くほど似ているのです。そこで、ふしぜんさが目立つのです。
これは、日本人が金髪にしたり、ドレスを着たりすることのふしぜんさではありません。日本人の作家の書いた日本を舞台に、日本人しか登場しない作品でも私は感じるのです。そこでも客演の外国人の歌の方が、しぜんに思えることが少なくありません。そういえば、外国人が日本語で歌う歌の方が、高く評価されているケースが多いのではありませんか。

 日本人の場合、音程だけを歌っているような歌唱、高い声はひびかせ、スタッカート気味に歌う。いかにも声楽もどき歌い方がそのまま表われるのです(誤解がないように言うと、クラシックでなく声楽もどきです)。このあたりになると、日本語の弱点の問題も加わってきます。
 ふしぜんに対し、しぜんとは、歌い方や発声の仕方が表立って出ないものと考えてください。つまり、音程やメロディや発声の技術などが表立って出てはいないものに対して、ということです。それは表現やリアリティが欠けているから目立つのだと捉えるべきです。もともと、表現、個性、構成、展開などを、芝居や歌にもちこもうとしなかった日本人のドラマツルギーのなさに由来しているのかもしれません。

 お笑い芸人をみていると、金髪に付け鼻をつけて、外国人になり切ってコントをすることがあります。へたな芸人は、日本人が合わないものをつけているのが目につきます。うまい芸人は、客に日本人か外国人かも忘れさせ、その芸に魅せられます。そういうことなのです。
 歌や声が目立つ(これもよくありませんが)ならともかく、歌い方や発声が目立つのは、決してよくありません。

 ところが日本の舞台では、信じられないことにそれを売りものとし、発声技術っぽいものをわざと披露していることがあります。余興ならよいのですが、どうもステージがもたないから小手先で拍手を稼ぐ、売れない芸人のサービス精神のようにみえます。
 本場をまねするなら、このような邪道なことをも厳しくカットすべきだと思うのは、私だけでしょうか。
 もちろん、本場に追いつけとか、超えろとはいいたくありません。日本人に、日本で日本人が演じている以上、そこが本場であるべきだからです。

○このふしぜんさはどこからくるのか
 
このふしぜんさは、映画の吹き替えやアニメの声優などにもみられます。子役相手の番組にもあります。NHKのアナウンサーも民放のアナウンサーもレポーターも、あまりしぜんには思えません。そう考えると、部下の上司へのおべっか声も、主婦の電話の出るときや先生と話すときの声まで、嘘くさく聞こえてきます。
 それを仕方がないこととみることもできるかもしれません。少なくとも、日本人の声の使い方や話し方にパブリックなものはなかったからです。(それゆえ、逆に音声表現を使わないのが、マナーとされたのかもしれません。)
まず、日本には会話はありますが、対話はないと、よくいわれています。舞台やTVでは対話が必要です。簡単に言うと、身内では会話、第三者に伝えるのが対話です。
日本語にはないので、つくらなくてはならなかった。つまり、わざわざつくるのですから、ふしぜんです。
日本人は、内の人には何も言わなくとも以心伝心です。外の人も、話をするときには、もう内の人になります。そして、ヨソさまには話をしません。どこにも対話する必要性がないのです。

 外国人はどうしているのか。彼らは身内でも対話をするのです。対話というのは、持論で論理的に説得して、相手を従わせようとするものです。コミュニケーションのあり方が全く違うのです。
日本は村長が言うことが絶対、父と長男が絶対、議論の余地はありません。長老政治の封建的な身分制度、家族制度が背後にありました。そこでは、ものを言わなくても通じたのです。
 相手が異なる意見であることが前提の異民族の混合社会を主とする外国では、異なる価値観のコミュニケーションのために対話が中心でした。そのため、たとえ兄弟であっても、自分の思うところを説き、その論によってジャッジする教育がなされていたのです。つまり、音声表現力として、家庭でも学校でも、教育されていたのです。

○対話には、強い声が必要
 
もし自論を一方的にまくしたてるというのなら、お腹から息を出し、強くメリハリをきかせて言い切っていかなくてはいけません。一つの自論をそれなりの長さで言い切るまで、聞き手は待ちます。日本人のように、途中で投げ出しても、相づちや受けをとってくれません。おのずと腹式呼吸と胸式をベースとした深い声が中心となります。姿勢、発声、呼吸の問題もここから考えたいものです。
少し大きな声で、強く言い切ると角の立ちかねない、大人げのない日本では、常にあいまいに語尾を濁し、うやむやにします。
しかし、日本人のは見方によれば、言語を介さない腹と腹の高度なコミュニケーションといえるのです。ただし、論をもって説得する必要がないため、言語能力は磨かれません。必要のないものは、発展せず、衰えていくのです。
 そこには、日本語の特性も、日本の風土、住環境、気質も大きく影響しているのです。
 それゆえ、舞台のためには、外国人が日常レベルで得てきたことを学ばなくてはなりません。舞台では、対話、説得を必要とするのですから。

○日本語の音声力の弱点
 
となると、彼らが日常で生活しているなかでやっていることが、日本人にとっては演劇の養成所にいるものだとみてもよいでしょう。
 私は、「二十歳で外国人は20年のヴォイストレーニングをやってきている」と述べました。それに加えて表情トレーニング、ボディランゲージもやっています。聴音トレーニング、発声、発音、調音トレーニングもやっています。
 日本人でも難しい日本語習得において、それをやってきたと思われるかもしれません。しかし、日本語は読み書きは難しいのですが、音声は幼稚園に入るまえに両親などから教えてもらったキリではありませんか。

 中学校で英語を学ぶまでは、よほど方言の強い地域でなくては、日本語(共通語)の発音練習などやっていないはずです。
 だいたい母音もアイウエオの5つが言い分けられたらよいのですから、アだけでいくつもの発音のある国と比べても仕方ありません。認識している音の数が100くらいしかない日本と、何千もある国とは、耳の力も発声の調音能力も著しく違っていて、あたりまえでしょう。
 学ぶといっても、母音「ア」の出し方ひとつ、日本では明確に決まっていないのです。そこでそれぞれにバラバラ、いい加減に使ってきた結果が、日本人の音声表現力の弱さになっているのです。
聞き取ったものを、声を整え、発声する。そのことによって、耳と共に内部の感覚から発声発音調整器官は磨かれ、鍛えられてくるのです。しかもそのチェックは、相手によってなされるのですが、その相手が不在です。本来は、両親や教師がよきボイストレーナーともいえるのです。

○日常の言語力を鍛えよ
 
ですから、私は声楽家であれ、声優、ナレーター、アナウンサーであれ、発音や歌唱トレーニングのまえに徹底して言語対話能力をつけるように強くお勧めしています。できたらパフォーマンス能力、ボディランゲージなども必修です。
 なぜなら、舞台といえども、日常の経験上、そこでのテンションの高まった部分のダイジェストにすぎないからです。生活の生の感情や思いが、発声や歌唱の技術に負けてはなりません。日常の感覚と舞台が一体化してこそ、真のリアリティが出てくると思うからです。
つまり、輸入した技術というには、その形に足元をとられないことが大切なのです。
まずは、自分の述べることばの声の力で語りましょう。それで相手に伝え、伝わるようにし、相手の心を動かしましょう。それが表現の基礎です。これは、今の音響技術のサポートのある歌のようにごまかせません。まわりにも自分にも、声で、はっきりと伝わる度合いがわかります。だから、トレーニングになるのです。

○モノローグから始めよう
 
伝わるかどうか、それは第一に、母国の言語でお勧めします。日本語であるからこそ、日本人にはわかるのです。
発声ということだけでいうのなら、外国語、たとえばイタリア語から入るのもよいでしょう。声楽も、人間の声を出す原理に基づいた一つの理想の方法として使えます。
 しかし、表現というのなら、伝わったかどうかの判断は、母語、つまり、生活に使っていることばで行なうべきでしょう。
もちろん、この判断は、ことばのない感嘆詞、悲鳴、怒声などにも、また音楽的演奏力、声を楽器として捉えたときのノンバーバルな伝達力でも、できなくはありません。しかし、ともに状況において、ごまかしが効きやすいのです。ですから、マイクなど、音響技術の補助も除きましょう。
この前、ある有名な劇団の群読を聞いて、その声の力のなさに、情けなくなりました。基礎を学ぶのなら、沈黙な空間でのモノローグにベースをもってきた方がよいのです。そこに台本一つで、声一つで表現を生じさせる。そこで感じては修正して磨いていくべきなのです。声の力とともに、それを判断し修正できる力をつけるのです。

○状況という設定をはずす
 
 本書はトレーニングのための本です。ですから、トレーニングとして効果の上がる考え方を優先しています。
 私は、体から息、息から声ということを考えますが、そのまえに、舞台で必要な声、それを支える息、それを支える体とも考えてもらいたいと思っています。つまり、アウトプットする必要に応じて、技術を磨くべきであり、そのためにあるのがトレーニングです。
舞台から考えると、そこでギリギリ通じたらOKということ、つまり、最低ラインへ応用することが主になりかねません。
 トレーニングとして考えるのであれば、私は、少なくとも最悪の状況において、そのギリギリに耐えうるものでありたいと思っています。
 それゆえ、舞台からはずして、独自にもっぱら鍛えることに目的をおきます。最低レベルをあげるため、目的レベルは最高に高めたいと考えます。そうでないと、トレーニングの目的そのものもあいまいになるからです。

 監督演出家、作品、舞台というものから、必要なものを優先順に考えると、声というのは必ずしも大きなものでなくなることもあります。ビジュアル系やダンサブルなバンドにおいては、ヴォイストレーニングの重要度は、声での表現力がすべてという歌い手よりもずっと比率が下がることになります。

 声はみえません。音声です。ですから、聞こえないところでは働きません。必要ありません。ですから、私はヴォイストレーニングでパントマイムの役者を引き受けたことはありません(あればおもしろいし、意味もあると思うのですが……)。
私は、トレーナーとしては、音の世界の中だけで厳しく声の世界を判断します。
ミュージカルや演劇関係者からみると「舞台を歌だけ、ましてCDで判断されてもなあ」ということになるかもしれません。声は、役どころと状況のなかで使われるからです。
 日本の観客のように目にみせる方が、声や音で変化させるよりも、ビビッドに反応するなら、演出家としては(仮に私がそうであったとしても)、声よりもビジュアルの効果をとるでしょう。事実そのようにしたからこそ、ミュージカルでもダンスのレベル向上に対して、声はおき忘れられてしまったのです。

○日本人の耳の力のなさ

バレエやダンスで世界のトップクラスにいくという奇跡的な偉業を何人もが成しながら、声や歌では、いまだプロといっても恥ずかしいくらい世界のレベルにおいていかれているのはなぜでしょう。音響装置の発達で、かなりつくりこめるようにもなったこともあります。しかし、客にも原因はあります。

日本が声の弱小国であるのは、客の(耳の)レベルをあげなくては、芸も育たないという一つの例ですが、アーティストがそんなことを言っては終りです。客が納得するレベルでなく、感動するレベルでやる、少なくとも、それをめざすべきなのですから。(ところが、日本のあまりに優秀な技術陣は、それをカラオケ機器というもので表向きに解決させてしまったのです。舞台やレコーディングで使われる、世界でも最強の音響技術が、誰のどんな声をもフォローしてくれます。)
 だからこそ、ヴォイストレーニングは、状況は踏まえつつ、独自に一本、日本の今の舞台で問われるよりも、はるかに高いレベル(ブロードウェイ、グラミー賞)を念頭にやるべきなのです。

 そのように高く目標を掲げないと、歌や声というのは、逆に迷ってしまうからです。
今のあなたでも、みせ方やつくり込みでは、プロの声や歌にみせることはたやすいことだからです。この技術(音響、照明、装飾)の発達こそが、声の地力をも奪ったといえるのです(へたな人ほど、ましに聞こえるカラオケを考えてください)。
 体や息や声を徹底してやるのは、パワフルで耐久力のある声が直接的な目的ですが、実は真の目的は、すぐれたアートを生むのに、ハイレベルの繊細でていねいに、声を完璧に扱える技術を身につけることが必要だからです。そうでなければ、腹式呼吸も、発声トレーニングも不要。詩と曲を作れば、誰でもすぐに歌えるのですから。

○音響技術に埋もれた声
 
 とはいえ、大きな声が第一条件として必要だった役者などに、音響技術は、他の可能性を与えてくれました。
 つまり、大きな声が出なくてもよい。トレーニングで大きな声にしなくても、よいということです。
 声は届かないと、伝えられません。どんなに声がよくて味があっても、舞台では、届くことが第一条件だったのです。
大きな声というのは、誤解されやすい表現です。必ずしも大きな声が遠くまで聞こえるわけではないからです。
ですから、私は、通る声を目的にしています。つまり、ヴォイストレーニングを通じて、得るものは通る声であるということです。これもまた、どんなに弱く小さくとも、大きなイメージ、表現力を使ったコントロールされた声というハイレベルな技術には、違いありません。
もちろん、そこには伝える声、そして伝わる声というのを含んでください。伝えようとしてトレーニングしているうちに、伝わるようになってくるというのが理想かもしれません。とはいえ、大きく声が出るのは、楽器としての物理的特性からみると、出ないよりもずっとよいことなので、トレーニングの目的の一つになります。

○先生を見本にする

日本では先生を見本に真似していきます。それゆえ、その先生を越せない。先生というのも、日本では先に生まれてやったというのに過ぎないことが多いのです。特に、海外へ習えの時代の日本では、先に向こうに行って取り入れた人が、リーダーになります。
 そういう人がやるべきことは模範でなく、踏み石であるべきです。私などは、その役割としてやってきたつもりです。
ところが、それを勝手にまつりあげ模範にしてしまう。そして自分たちがそれを越せなければ、それは間違っているとこき下ろす。習うという依存から始めるのは、声に関しては、注意しなくてはならないところです。
トレーナーはそもそも自分の表現のためのサポーターにすぎません。その能力、才能を自らが使い切ろうとして、レッスンにのぞまなくては何ともならないのです。日本の家元制は、こういう日本人に、長くいるということでの地位と、秩序と集金手段を得るために便利なものでした。いわば既得権の継承方式です。師匠のまわりに集まり、裸の王様化現象がはじまるのです。そして、そういう分野はやがて衰退していきます。

声については、一人ひとり楽器が違います。生まれもって違うし、育ちも違います。さらに表現したいことも違うはずです。
 先生といわれるトレーナーは叩き台や参考になっても、自分が目的としてあるものではないと考えてください。
トップスターをまねる方法は、あるレベルまで育てるには早いやり方ですが、よほどまわりが気をつけてあげないと、もっとも大切なものを落としてしまいます。それでは、若きアーティストの芽を抜いてしまいかねません。その繰り返しが、音大ほか、至るところで行なわれてきました。
舞台も同じです。もっとも欲しい固定客を得たところから、こんどはそういう客の固定した評価でしかみられなくなります。客を質よりも数で評価する日本では、やはりバラエティ化するのです。(アメリカもその傾向はありますが、そこでは徹底した実力主義、個人主義、スタッフやプロデューサーのレベルの高さが、それを救っています)どこかに正解があると、自分で創造せず、トレーナーめぐりをしている人もあとを絶ちません。

○それぞれの発声法について
 
日本では、ジャンルごとに何かしら、それっぽい発声の仕方、歌い方があります。スターをまねるのは仕方ないのですが、スターの歌い方は、まねた時点で失敗です。まねられるところが、そもそも嘘だからです。
 しかし、マイク、エコーがつくと、その方がうまくみえて受けがよいので、多くの人、特に器用で優秀な人ほど、技術とごまかしとを勘違いしてしまいます。また、それで、この国ではプロになれるからです。
 演歌やシャンソン、ゴスペルも、演歌らしい歌い方、シャンソンらしい歌い方、ゴスペルらしい歌い方、ほかのものもみんな、○○らしいが出て、パワーが落ちました。ロックも同じです。まねはすぐに飽きられるのです。そもそも歌にジャンルが出てくることがおかしいのです。真似るのは盗むためで、感覚を大きく読み込まなくてはいけないのです。

○クラシックとは、オリジナルの体の使い方

それでも、声楽はやはり違うと思われます。クラシック特有の高い声や大きく太い声、ひびく声が出るのは、確かに声楽をやらないと身につきにくいでしょうから。ただ、残念なことに、日本人では声が演奏に使えていない、演奏と別のところでまわっていることが少なくないのです。それがしっかり一致していないのが、残念ですが、現状でしょう。
 私の考えるクラシックは、声楽そのものではなく、人間の体から声だけを考えて、もっともうまく使えるようにしたもの、その人の体を楽器として音声を奏でたときの使い方というものです。ですから、これは、声楽に限ったことではなく、あらゆる歌や声のベースと考えています。
 すると、クラシックとポップスは、歌い方が違うのかという、よくある問いにもはっきりお答えできます。違うとか同じというにも、そもそもどのくらいのことを違うのが同じとはどこまでかさえ、はっきりしないのに、言えることではありませんね。
 日本人は、正誤問題が好きで、白黒をつけたがります。世の中のほとんどのことはグレーゾーン、程度問題なのです。このことを、アートをやっていく人は、まず叩き込んでおいて欲しいものです。

本書で説くヴォイストレーニングは、声楽でなく、ここでいう意味でのクラシックなのです。ここから出力の仕方によって、オペラ(声楽というとややこしいから)でも演歌でもロックでもポップスでも応用できる、そういう基礎のことです。
たとえていうと、クラシックバレエの基礎レッスンは、どういうダンスにも有効だということです。バレリーナは、すぐにはラップを踊れないかもしれません。しかし、同時にラップを習い始めたとしたら、誰よりも有利な体と感覚をもっている、それを私はプロの体とよびます。同じような意味で、プロの声というものがあり、プロの体があるということです。それを認めるところから、スタートしています。
ですから、どんな声でも、心を込めて使えば通じるというトレーナーとは、やや立場を異にします。そういう人が、まれに伝える表現をすることが起きるのは、認めます。しかし、私が求めるのは、百発百中。そして、百回に一回ほどは魔法か奇跡が、声によってもたらされることです。

○イメージに伴う体と声
 
この基礎となる声は、イメージにそって丁寧に繊細に扱える声ということになります。その条件として、体でコントロールできていることになります。動かない体は最初は邪魔しますが、やがて動くようになると、声を支えます。この辺は他の分野と全く同じです。器を大きくするためにトレーニングがあるのです。
腹式呼吸、発声、レガート、調音などは、その支えとしてあります。まして、発音、ビブラート、声域、声量、ミックスヴォイスなどは、その応用、もしくは派生したところにあるのです。このトレーニングにおける位置づけを、忘れないでください。

○演技と歌唱
 
プロになるのには、どんな分野でも、苦節十年、それで世の中に出られたら、まして食べることができたら早い方かもしれません。
しかし、歌手と役者には、10代で(あるいはそれ以下、子役など)、トップの役を射止める人もいます。
 そういう人は、オーディションで受かったとはいえ、それほどのトレーニングをしていたのでしょうか。昨日までのクラスメイトがいきなりデビュー、実力というのは問われないのでしょうか。素質が大半なのでしょうか。となると、努力など報われないのでしょうか。

 歌手と役者は、少し違います。役者というのは、日常の生活を普通にして生きてきたら、それをすぐれた演出家や監督が配役し、演技指導しますから、何か一つ取り柄があれば、何とかならなくもありません。クラスでもてる子や変わった子がいるのを全国基準でみればよいのです。つまり、1クラス30人のうちの1人を30分の1として、3万分の1くらいにすれば適役の子もいます。
 役もいろいろとあります。十六歳の子を演じるのは、四十歳のベテラン女優よりも、十六歳の高校生の方がふさわしいでしょう。もちろんミュージカルやオペラでは、優先されるものが違ってきますから、必ずしもそうはいえませんが。

 養成所で基本を学んで合格する子もいますが、ずぶの素人でもいます。たとえば、ミスコンテストのチャンピオンやレースクイーンでも、何かしら華があれば演技は現場で直せなくもないのです。
素材というのは、表情、ルックス、個性、存在感などとともに、問われます。現場での柔軟性や対応能力、つまり可能性をみるのがオーディションです。
選ばれるには、その人なりに、小さい頃から役者にふさわしい感性をもって生きている子が多いのも確かです。人一倍、目をひく美少女に生まれて十六年生きてきたら、それは見られること、演じることに慣れているでしょう。養成所に1,2年いる人よりも、修業しているともいえます。

 現在では、歌手もまた、ある面では役者と同じく、ずぶの素人でもまわりをプロが固めたら、やれないことはありません。プロデューサーがいて、プロの作詞作曲家が曲を提供して、歌と振付を丸暗記すればよいのです。アイドル歌手などは、今はタレントや役者と変わりません。どちらに先に出るのかというくらいです。(最近は歌手より映画やドラマに先に出すようです。)二世、二代目の全盛時代というのも、そんな理由からです。クリエイティビティにおいては、プロデューサーやアレンジャーの時代なのでしょう。

 しかし本来、歌手はミュージシャンですから、付け焼き刃はきかないものです。音楽というのは、再現芸術ですから、それなりのものを入れていないと出てこないものなのです。
 ですから、シンガーソングライターの歌手となると、自ら、幼い頃から作詞や作曲をやり、楽器に親しんできた人が多いといえます。その上で、ルックスやキャラクターも問われます。バンドについては、サウンドと打ち出し方(キャラクターも)ですが、ここでは省略します。
 しかし一時のように、歌をやるために音大にいったり、作曲家に弟子入りすることは、少なくなりつつあるのも、そういう流れだからといえます。

 それにしても、本来アーティストとして不可欠な、オリジナリティとクリエイティビティが果たして、日本での歌唱において、どのくらい問われてきたのか、それを体現しえた歌い手は、本当にわずかだったのではないかと思います。

○肩書きをつけたその日からなれるけど
 
歌手と役者の芸に資格はいりません。いや、ありません。肩書をつけたら、その日からなれます。エッセイストや漫画家と同じですね。
 ですから、どこに出ているの(ステージ)、何を出したの(CD)などで評価するしかありません。アマチュアとプロの明確な区切りもありません。CDを出したり、ライブに出たからといっても、生計をそれで生涯、立てられている人は、わずかでしょう。
 事務所に所属して、給料をもらっていたら一応プロといえます。実力世界だけに稼ぎの差は他の比ではありません。一人で千人分くらい稼ぐ人もいます。知名度というか、人に知られることで成り立つ職業です。
 つまり、誰でもいつでもなれるものだから、そうなるのも、それを続けていくのも、大変なことだと言いたいのです。
 そして、私たちがプロと認めるのは、最低でも十五年、二十年と続けられた人のことです。

○どう関わるのか
 
知っておいてもらいたいのは、声や歌のように、誰でもそこですぐにできることにおいて、トレーニングを行なう意味とは何であろうかということです。すでにいくつか述べましたが、そこを間違っては欲しくないのです。
 ど素人でも、歌も演技もできる役者も歌手も名乗れるとしたら、いったい何を鍛えるのでしょうか。
 ヴォイストレーニングは声をトレーニングするのですが、将来の自分にどのように関わるのかということ、これが大切なポイントです。というのは、こんな大切なことを押さえずにトレーニングに励んでいる人が大半だからです。

○ヴォイストレーニングの目的
 
今の声で、役者も歌手もできる、もうそこにいるというなら、全力を投じてください。しかしまだ職を手にしていないとしたら、あるいはプロだがこのままでよいと思わないとしたら、あなたにとってのヴォイストレーニングの必要性を考えてみてください。
 ヴォイストレーニングの第一の目的は、応用力を高めるということです。つまり、声についていろんなことを知り、これまでできなかったことにもう応用してこなせるようにしていこうということです。これで芸域が拡がります。また難しいこともやさしくできるようになります。そのために確実な再現力がいります。このことを基本の習得といいます。

 第二は、攻めのための、守り方です。声の調子が悪くても、芸や歌が荒れないように納められる力をつけます。どんなに不調でも、声が出せる、また声が使えるようにしていきます。つまり、耐久力です。
 プロが素人以下にみられたら終りです。しかし、生で体で勝負する世界では、やり直しは効きません。タフに再現できる力、つまり基礎力がなくてはとても努まりません。

 第三は、長期にわたってやり続けられるようにすること。そのためには常にあなたへの期待にこたえるのは当然そこで終わらず、期待されるステージ以上のものを出せる力をもつことです。声の管理力、コントロール力をもつといってよいでしょう。
 確かにヴォイストレーニングには、声を大きくする、声域を拡げる、ビブラートがかかるようにする、音程をよくする、歌をうまくする……など、いろいろと目的として掲げられています。
 しかし私は、もっとも大切なこととして、声をイメージ通りに繊細に丁寧に扱えるようにする、そのための器づくりという、具体的な目的を加えておきたいのです。

○ポップスとミュージカル
 
ミュージカルには、ポップスの要素がたくさん入っています。またオペラに近いものもあります。ポップスがソロで、あるいはバンドを中心で少ない人数を単位としているのに対し、ミュージカルは原則的には演劇と同じく、多くの人数で(出演もスタッフ)、くみあげていきます(演劇も一人芝居、二人芝居とありますが……)。
 演出家が作品の指揮をとるので、あまりわがままは許されません。
 求められることも、そのレベルも、だいたい決まっています。それ以上のことをやれないと、よい役につけません。現場でキャリアを重ねるうちに、応用力はついていきます。しかし、それが基礎力に降りてこないところが、日本人の難しいところです。それゆえ、そこにヴォイストレーニングの必要性があるといえるのです。

逆に、ポップスのソロは一人ですべてを決めていきます。何をどのように歌ってもよいから、まさに自分の判断ですべてが決まっていくのです(もちろん事務所に属したら、その方針もあるでしょうが)。
 この声や歌唱の基準のない感情移入だけでファンがつくという適当さ加減が、声や歌のレベルをとてもあいまいにしてしまった気もします。もちろん、売れていて作品のレベルも高い人には、何もいいません。人によって声の重要性も違うからです。
 声が出せるなら、誰でも歌えるのです。レベルを問わなければ誰でもデビューできる。だからこそ、売れること=プロとなるのが難しくなりつつあるのです。そこで確かな差をつけるものとして、ヴォイストレーニングがあるともいえるのです。
つまり、上達するには、それぞれに専門の教育はあるのですが、それが何かということも考えて欲しいのです。
人間として普通に生きてきたら、語り演じ、歌ってきたのだから、誰でもできるということです。それ以上のものとして、何があなたに望めるかということなのです。

役者や歌手という職業の魅力もそこに関係してきます。いつでもどこにあったことでも何であっても、すべて自分の芸に使えることです。もちろん、他の職でもそうですが、この2つはかなりストレートに個人の人生経験、体験が反映します。
 だからこそ、確かなものを求める人に、ヴォイストレーニングの専門レッスンとして本書に述べてみたのです。

○オンリーワンをめざす

誰でもできるもので抜きんでるのは、誰もができないレベルでやるか、誰でもができるレベルで工夫するかです。
それは、未知の分野のトップランナーになるか、これまであるにある分野のトップをとるかですね。
ですから、ここでは両方のタイプを考えます。
 役者なら、つぶしが効きます。これも基本として役者の発声をする、つまり、自分の持ち役をみつければよいのです。
 多くの役があるからこそ、自分の役もあります。つまり、多くの人が多くの役柄をめざす世界では、オンリーワンを磨いていけばよいのです。
 ところが歌は、ヴォーカリストであれば、そのオンリーワンはベストワン、あるいはトップワンに等しいのです。ヴォーカリストも日本では、役者やタレントに転身する人の方が多いようです。

 ギャラになる仕事も、役者の方に多い。ヴォーカルが稼げるのは、作詞作曲、印税がほとんどです。
 もちろん売れないのが役者稼業といわれるほど、役者もきついのが現状ですが。
 とにかく、これまでのヴォーカルは、若いのが条件、年をとって残りたければ役者、というのが定番のようでした。年をとった人にしかできない役も役者にはありますから。しかし、生涯、歌手だった人もたくさんいます。年をとればまた、その年なりの歌があるものだからです。

○ビギナーラック
 
若いときにポッと出て売れた歌手は、そのあとどうやればよいのかわかっていません。役者はまわりから教えられて考えていきます。
 私の知る範囲内で、ヒットしたり、賞をとれた人のビギナーラックについて言及します。
それが人生においてよかったのかどうかは、死んでもわからないものですから、一つの考え方として、です。
若くして名が売れるのは、この世界では、メリットが大きいものです。一発屋でもよい、当たれば大きいのですから、この世界は半分、運です。しかし、それをキープするために、絶え間ない努力と、本当に培われた実力が必要となるのです。
ヴォーカルの場合は、まさにビギナーラック、歌が輝くのは努力+αというより、αが大きいです。だから若くして素材のよさを磨くことに、どうしても力が入るのです。

 かつては、歌手も役者に比較的近かったといえます。苦節十何年でデビューの演歌や民謡、それでも十代からやっていますから、三十歳くらいでほぼ勝負はついています。
 発声に関しても、ビギナーラックはあります。役者にもあります。
 しぜんに演じていたのが一番よかったというケースは少なくありません。子役などで活躍して後で伸びないパターンは、そうですね。
 しかし、今の芸能界はコネクション化してきています。何とかファミリーとか、芸を磨くことよりも、人とつながることで、地位や仕事を守っています。制作側も、人材の発掘や育てることよりも、手早く、有名人の二世、三世を使うようになりました。
 演劇でさえ、芸の力より有名タレントを主役にそえるようになりました。本当は、映画、ドラマのように編集がきかない演劇では、特に声の力が大きく問われるものだったのですが。
選ばれたんだから、そういう人は器用で勘はよい。でも本当は、それだけでできているとはいえません。
 もはや、芸術はバラエティ化しつつあります。それなら、お笑い芸人が強くなり、あらゆる分野に進出するのはあたりまえです。

○お笑い芸人の強さ
 
彼らには、ビギナーラックはあまりないからです。もちろん、若くしてもてまくるのと同じく、若くて受けまくることもあります。しかし、アイドル系は、あまりいません。笑いというのは、ともかくも難しい芸だからです。タイミング、勘、流れや空気を読む力、ことばの力など、多くの総合的な力が要ります。
 実力派であっても、波がひいたように受けなくなる時期がきます。今は売れると早々に、TVで司会やゲストとして、本来の本業以外に進んでしまうのです。そして、すぐに芸が荒れてしまうのは、残念なことです。

 日本の会社で管理職になって、現場にいられなくなるのと似ています。その方が安定して、場を得られて収入になります。人を知られてなんぼですから、やむをえません。TV中心の時代の弊害の一つでしょう。
 そのうちライブをあまり、やらなくなります。日本のショービジネス、エンターティメントのセミプロ化です。落語界の凋落も、このあたりにあるのかもしれません。しかし、誰でもTVで顔を売って宣伝しないと客がこなくなったのですから、仕方ありません。

○才能と発揮の場
 
 ヴォーカルにしても同じです。十代ではキャーキャーさわいでいたファンは、乗り換えていきます。他のアーティストならともかく、日本では、ロックや好きだった音楽からも離れていく客が多いのです。
 つまり、それは単にイベントだったから来ていただけで、本当に大切なものでなかったともいえます。
 CDが売れず、携帯電話やパソコンにお金がいくのも、これまでお金や時間の使い道がなかったから音楽に使っていたといえなくもないのです。

 つまり、元々、どちらも、たいしたものでなかった。そこで、ヴォーカリストもまた、生き残るために、作詞家、作曲家、あるいはプロデューサーとして才能を発揮しようとします。その方がクリエイティブで奥深いし、大人としてやっていけるし、何よりもお金になります。
 それは同時にヴォーカリストとしてのレベルアップをめざせなくなることからもきています。
本人の限界だけではありません。歌唱としての才能やオリジナリティを高く評価しない日本においては、大ヒット曲や知名度なくしては、なかなか続けるのは、難しくなっているのです。

○クリエイティビティとオリジナリティ
 
 ヴォーカリスト、ミュージシャンは、アーティストです。即ち、その作品のレベルによって評価されるべき類のものです。ところが日本においては、歌唱においての実力とランキングは別です。もちろん、ヒット曲というのは、どこの国でも、歌のうまい順、声のよい順ではありません。曲や詞やアレンジのよさも多くを占めます。時流に乗れるかということもあります。
日本でもアーティストとよばれるヴォーカリストは、作詞作曲に加えて、オリジナルな歌唱力をもって評価されているのも確かです。
 しかし、それがどのくらいかというと、クリエイティビティ、オリジナリティにおいて、感動させるレベルにはなかなか至っていないのです。見せ方においてはプロでも、歌唱力のメッキは、よりすぐれたアーティストが隣にきたら、はがれてしまいます。

○装置としての日本のヴォーカルとバンド

日本のアイドルのような歌のレベルの低さは、やはり相当重症といえます。それでも歌を使えば、人は集まり、CDは売れ、儲けられます。以前ほどでなくなったため、今や音楽プロダクションは、歌手よりも芸人の獲得に力を入れています。
声の力そのものを鍛えなくとも、音は創り込めるようになりました。つまり、美人しか主演女優になれなかった時代からメーキャップで創り込めば、そのようにみせられるようになって、いろんな女優が出てきたのと似ています。
 今の日本では、声も作りこめるのです。しかし、そんなことをしていたら、ファンがいなくなり、CDが売れず、業界が低迷するのは当たり前でしょう。ここのところ、全く歌番組はなくなり、歌手がTVに出ても歌わないことが多くなりました。これは、大変なことなのですが・・・。

○ミュージカルの歌と声
 
さらに、これをもっともよく表わすのが日本のオペラ、ミュージカルなどです。あのリアリティ、生活感、役者の個性のなさは、高校生の合唱団や文化祭の出しものにも比べられかねません。どうも翻訳劇に過ぎないように思うのです。
 もちろん演出や舞台技術によって、ストーリーは動きます。しかし本当は、ストーリーをみせるのでなく(それは小説で充分です)、それを感じさせない役者や歌い手の芸でドラマを披露するものではないでしょうか。
 私はよく、ビジュアルや装置に金をかけて、プロの舞台なのに、これだけ平坦にドラマを生じさせず、演出できるものだとあきれることがあります。歌い手や役者もよくそれに耐えられるなと。私には、まだまだ違和感があるのです。
 もちろんプロですから、魅せる技術はあります。歌として聞かせる歌唱力はあります。音を正しくとる、音感やリズム感、発声の力はあります。しかし、それがあるとみえることが、そもそも内容の、リアリティの空虚なことを物語っているような気がしてならないのです。

一つの声に心揺さぶられ、二つの声が重なると、目頭が熱くなる。
 私は幾度となく、海外のミュージカルでそのような体験をしてきました。外国人は、声でその音で、つまり音声の力というものを私に伝えてくれました。
 日本でも、たまに涙腺がゆるむことがありますが、それはストーリーや脚本の力であることがほとんどなのです。
 あとは、ここまで練習したのかとか、ここまでサービスするのかという一所懸命さや努力に心をほだされることでしょうか。人間の情熱や私情での感情移入に頼るのは、芸ではありません。
これは厳しくみると、お祭りと同じです。気分は排除して、純粋に作品として、私の立場では声の力として判断してみたいとなると、やはり感動とはほど遠いレベルなのです。第一の原因は、声がない、第二に音楽がない、第三にその人がいない、厳しくいうと、成立していないのです。

○歌詞の背景やストーリーが中心の日本の歌唱
 
それはまた、声の力、リズムグループ、演奏力でなく、歌詞のイメージとメロディで支えられてきた日本の歌謡曲、ニューミュージック、Jポップスの流れと基調を同じにします。
シャンソン、カンツォーネからジャズまで、そのようにしてしまう。日本人らしく、パワーを去勢する。そこに日本の集団主義的な恐さを感じてしまいます。

○イベントとしてのステージから、本物のライブに

私がなぜこのような状況を悲観的のように述べるのかというと、何も日本の舞台を否定したいわけではないのです。
今、そこの第一線でやれている人は、優秀です。そして、多くの人は、才能があり、努力もしてきています。
 そういう人は、私の言うことをどのように判断してくださっても結構です。
しかし、これからやる人に、今の現状を伝え、才能があり、努力した人のやれているレベルを、きちんと突きつけ、そのはるか上をめざして欲しいと思うからです。
 もっというなら、その中でみてしまったら、そういう人たちに、かないません。
 何ごとも創りあげていく人たちのみえない努力は、それにのっかかり、早く場を得た人の数倍、その地力の差があとで働き、効いてきます。
 だから、日本の多くのパターン、海外から直にそのパワーをあびて輸入して広めた人のレベルから、そのインパクトやパワーに二代、三代続くうちに劣るようになってしまうのです。プロレベルが一般化していくといえます。その結果、そのジャンルの成立とともに、空虚化が起きるのは、日本ではあまりに多く見られる例です。

イベントとしてのステージとは、一度見たらスッキリして、疲れて帰り、また何ヶ月かたってその人に会いたくなる。私のいうライブは、ずっとそこにいたくて、帰りたくなくなって、眠れなくて、パワーをもらい、次の日にも行動的になり、また多くの人を連れて行って、毎日見たくなるというものです。

そこには、新しいものをみたがらない客、パワーインパクトを求めない客の、自立したクリエイティビティのなさが横たわっています。
ただ、客のせいにしても、しかたありません。よいレベルの高い深い世界を創りあげ示し、客を創造的にするのは、アーティストの役割だからです。
 つまり、才能のある日本の先駆者の経験を踏まえて、より上にいくためにトレーニングがあるのです。

○現実の嘘、リアリティの力
 
ここで少し話を戻して、現実とリアリティについて話しましょう。60歳の男の役者が、20歳の美女を演じる。客はその清純な乙女心に心を打たれるとします。現実は60歳の男、リアリティは20歳の女性にあります。そういう服を着ているからではありません。つまり、私たちはそこでの心を読んでいるのです。役者の感性が20歳の女性以上に、20歳の女性の感性になったときにそうみえるのです。
 これは歌舞伎の女形や美輪明宏さんでも思い浮かべてください。たとえば、大男の美輪さんは、外国人の小柄な女ピアフ(シャンソンの女王)になりきってしまうのです。若い男と恋をして、別れて悲しむ。
それは、メーキャップや衣裳ではなく、演じる力なのです。嘘だけど現実に本物以上に迫って、客の涙をさそうのです。
 声優で男の子の吹き替えは、二、三十代の女性がやります。なぜ、同じ年ごろの男の子がやらないのかというと、なかなか演じられないからです。
日常のしぜんなまま、それをそのまま切りとったからといっても、芸になりません。
ドキュメンタリーでもニュースでも、意図をもって編集されています。まして、フィクションは、ドラマ化しなくては成立しません。一言でなく、客は、現実でなく現実離れしたところ、もしくは現実の編集された姿をみにくるのです。

○編集力
 
これが映画監督、演出家、プロデューサー、そしてあるレベル以上の役者、タレント、歌手の才能でもあります。
 時間と空間をばらして、新たにどのように再構成するのかという技術ともいえます。
 つまり、創造されたものは、90分間で人の一生も、100年、200年も入れることができるのです。世界中のどこの国も、いや宇宙の果てまでも、もってくることができるのです。
これは、歌い手の世界でも同じです。詩人や小説も同じです。そこは、無法地帯であります。表記の自由の範囲内では、罰せられません(これについては省略します)。

○声のリアリティ

そしたら、声のリアリティはどうなるのかということです。
役者が何役も分けるように、女形が頬に綿を含んで声色をかえるように、落語家が5人の人物を演じ分けるように声も多彩に使い分けることができます。七つくらいの声を使い分ける声優もいます。
 しかしここでは、使い分けは応用と考えてみてください。すると、声の問題がかなりシンプルになるからです。使い分けというのは、
声の大きさ、強さ→声量(声色)
声の音色の変化→音色
声の高さ(低さ)→声域
声の長さ→持続、時間
声の発音、ことば、アクセント、イマジネーションなど

 そもそも、自分の規準となる声は、何かというところに行き着くわけです。
 これが日常話している声というなら、話は簡単です。しかし必ずしもそうでないというよりも、そうでない人がほとんどというのが、この日本、私たち日本人なのです。そこでヴォイストレーニングが必要なのに、それがなされていない、その結果どうなっているのかということです。

○すぐにのどを痛める日本人に、外国人並みの声の強さを求める

選挙、応援、エアロビクス、インストラクターで声を痛める人がたくさんいらっしゃいます。カラオケ一晩でガラガラ声。本当に日本人は声が弱いのですね。それに使い方と今の程度を知らないということです。そこからスタートしましょう。

○人生で演じる
 
まず、映画や舞台に人生があるのでなく、人生は人生としてあり、その一部が舞台なのだということを前提にしましょう。
 つまり、役者の感性を日常にもつこと、それがかなえば、日常的に舞台をやれるのです。しかし、一般の人には、そのテンションや緊張に耐え、しぜんにふるまう、あるいは演じることは、大きなプレッシャーです。
 そこでトレーニングが必要となります。ということは、このトレーニングは、一面で外国人とやっていくこと、外国で暮らす面をもつからです。
 日本人のオペラ歌手は、必ず現地へ留学し、現地の母語で生活します。日本語を、日本の生活を一時忘れることだけで、ずいぶんと声が深く、楽に大きく出せるようになるのです。

○ドラマは日常にある
 
人生のなかにあらゆるドラマがつまっています。
あなたのもっとも楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、怒ったこと、それもドラマです。それがうまく伝えられるだけで、多くの人の共感を得られるかもしれません。
 人生そのものがドラマだった人を伝記や映画、演劇は数多く上演してきました。もちろん24時間365日すべてを演じることはできません。舞台は、そのエッセンスを演じるのです。
 そういう人生を生きるかどうかは別です。しかし、少なくともそういうシチュエーションをイマジネーションできなくてはなりません。そのイメージする力が、その人の能力の多くを決めていきます。

○体験、イマジネーション力
 
声の表現にもっとも必要なのは、イメージです。
 よく体験は必要かと問われます。体験があれば、イマジネーションが働きます。その意味では、ないよりもあった方がよいでしょう。しかし大切なのは、一つの体験から、いかにしてイメージをふくらませるかです。
 一つのことから多くを気づく能力がクリエイティブな世界では大切です。
 それとともに、そのなかの何が、表現を支えるのに、より必要なのかを見抜くことです。

○表現の真実と本質
 
それは、本質を見抜く力となります。泣いていないのに悲しさを伝えられる。それは心だけでなく、表現の本質、つまり人間とその心の創造でもあるのです。そこに無意識で触れるために、意識的にトレーニングを積むといえるかもしれません。

○子供の表現力に学ぶ
 
子供はときに大人を感動させたり泣かせたりします。演技ではない、その素地に大人は何かを感じ、気づかされるからです。ここに高度な表現力の働くことと同じことが起きています。
赤ちゃんなら笑ったり泣いたりするだけで、人の心を揺さぶります。いや、生まれてくるときは、それだけで感動です。人間が創造された、ありのまま、そのまま素直な世界、しぜん、宇宙レベルの驚きだからです。
 そういう子供でも意図的に何かをやると、ぶち壊しになります。無邪気に遊んでいるときの声は、ストレートに心に届きます。なのに、本を読んだり、発表会での声は、いきなりよそよそしく、何ら伝わらなくなります。演劇部やアナウンス部になると、さらにしらじらしさを増します。これはどうしてでしょうか。

○演じないこと
 
悲しいと演じることが、悲しいと伝わらず、演じていると伝わるからです。
 演じなくては悲しくないから伝わらないのに、どうすればよいのでしょう。一つは、悲しい気持ちにとことんなること、感情に同化することです。そのものになりきる、それは「ガラスの仮面」のマヤですね。彼女のすぐれているのは、なろうとするまえに、なりきっていることです。そんなことはまともな人間ではできません。それでは社会的に生きていけないし、役もはずれがちです。

 もう一つは、演じないことです。そうみえる、そうなるまで、その状態を突き放しておくのです。つまり、演技や技術の放棄です。
一般的に演技術や発声法、ヴォイストレーニングなどは、そのために踏む型として使われます。守破離の離のための守としてあるのです。
演技や声、これは使わざるをえない。しかし使うと、使ったと思われる、みえてしまう。だから忘れるのです。
これを体に入れるといいます。頭から追い出しても、体が覚えているのです。それを信じてください。
ところが、あるレベルまでいかないと、守のまま、あるいは守の次の破のまま、ひどいときは守がなくて破のままに出てしまいます。
 すると先に述べた、ジャンルというのが、もろに出てしまうのです。
 私としては、守よりも破から入って、守を知ると、離れやすいと思うのです。この破こそ、自分のやりたいイメージなのです。それを実現するために支えとして守が、技術がいるのです。しかし目的は、離=オリジナリティでの新しい世界の構築なのです。

○感動と技術
 
技術は表だって出ないこと、それが目立っては、はしたないこととなります。つまり、感動が結果となる、演じないことが目的、そのための技術というのが架け橋です。
 感動させるとしたら、そこに技術のあることを感じます。そして、それを得たいと思います。そのために基礎をやろうとします。基礎を積み重ねといって、それが感動に結びつくときには、技術が架け橋となっています。感動を目的にするのもよくはありません。
 まして、技術で演じたり、歌ったりするとなると、大きく方向性が違ってきます。
技術は、基礎か応用か、というと基礎の範疇に入るものですが、他人の演技で技術にみえるものは、応用が多いのです。そのため、先に述べたように技術をまねしてうまくなろうという勘違いがはびこります。
 真の技術は、表面ですごいと思うところではなく、内面にみえないところの感覚です。そこに手足が伴って、体が動いてファインプレーとなるのです。それは、イチローの計算して打ったポテンヒットのようなものです。そのポテンヒットを狙ってまねても仕方ありません。

○うまいをめざすな
 
だから、うまくなることや、上達をめざしてはいけません。というと、目標がわからなくなるかもしれませんが、それもまた結果としておくことです。
 あなたやあなたのまわりの人が求める上達は、あなたの上達でなく他人(あこがれ)に近づくことです。
ですから、それを正すべきトレーナーのめざさせるべき上達とは、早くうまくさせることでなく、今のあなたなりのへたに、とことんつきあっていくことなのです。安易にうまくなることをいさめます。なぜなら、そこでのごまかし、飛ばしこそをチェックするのがトレーナーの役割だからです。
 それは遠回りでなく、あなたがより深いあなたになるための唯一の手段だからです(これをトレーニングというならば、内部に深くおとしこむことです)。
 続けたらうまくなります。しかし、そこで教えられたりまねしていたのでは、それは決してあなたのうまさにはなりません。
 うまいというのは、うまくやるのではなく、うまいなあ!と、あとでまわりに思わせるようにやれてしまうことです。

○再現力とトレーニング
 
それではトレーニングは何をめざすべきでしょうか。先に述したように、まずは長くやれるように、そして過度にやれるようにします。これは芸にとって守りです。最低ラインの実力の確保です。
 守りとは、昨日やったことが、今日もまったく同じようにできることです。つまり、再現力なのです。なぜなら、これがないと、次にオンしないからです。

○リピートとオン
 
トレーニングは、昨日(過去)のベストの自分の状態が毎日、出せるようにするために行ないます。そのためにリピートをして、悪い状態になるのを避けるのです。これがないと、トレーニングの成果は上下に大きく揺れます。この揺れ幅を狭くしていくことで、右肩上がりにしていきたいのです。
しかし、こういう分野では、順調に右肩へ斜めにあがっていくことはありません。不規則な階段のように急にワンステップあがるのです。
 つまり、オンは急に起こるからオンなのです。次元の違うことが起きます。それを捉えられるように日頃からトレーニングしておくということです。
 このステップは、3年後からの進歩のために大切です。それまでの間は、素人でも調子のよいときはやれてしまうことがあるのです。いわゆるビギナーラックです。その偶然のトップ感覚へのっていけるのは、勘のよい人、あるいは選択能力のすぐれた人です。それは自分でない感覚ですから、多くの人は普通の自分に戻りたがり、すぐれた自分の瞬間をものにできません。それを指摘するために、トレーナーがいるのです。

○オンにのせる

トレーニングを積んでも、うまく疲れを解放できず、ためてしまって、一時的に低迷することが多いのです。これはいわば、次のレベルへいくための停滞、もしくは一時的な落ち込みなのです。しかし、これをトレーニングの方法で悪くなったと考える人が少なくありません。
 トレーナーにも多くいますから、困りものです。(もちろん、固定してしまうような明らかな誤りは別です。しかし、当のトレーニングが固定させることもあるのです。)
10年先とはいいませんが、2年くらい先のみえないときには、黙っておくべきだと思うのです。私は正直に、わからないといいます。共に探っていく段階に、必ずくるものです。トレーナーが答えをもっているレベルで、一流になれるほど甘くありません。オリジナリティというのは独自、つまり、いつでも出会った数だけ、はじめての経験になるのですから。

○客の心に残るリピート力
 
自分の活動がやれていくには、ステージで成功することです。それでは何をもって成功というのでしょう。
 たとえば、自分で精一杯やれた。自分の力を出し切った、これは自己満足です。厳しく言うとお客さんには関係ありません。ただ、そのようにさえやらないなら、論外というだけです。極論ですが、いくら手を抜いても、すべての人が絶賛したら、OKです(というほど人間離れした人はそうはいないでしょうが……)。

私は成功ということを、次のようにみています。
 その日の満足を超えること、客の使った時間やお金を損したと思わせないこと、これは最低必要条件です。これで成功などと浮かれていると、次に手痛いしっぺ返しを食います。やってあたりまえです。
 まず、イベントが終わっても、すぐに去りがたいこと。映画なら字幕が最後まで終わるまで、席を立つ客がいないこと。
 もう一度、すぐさま見たいこと、くり返し家族や知人などに話して、もう一度、一緒に連れてきたくなること。さらに第三者にも強く勧め、自らPRを務めたい気分にさせるもの、つまり、ただよかったでなく、もう一度みたいと思い、もう一度見にくるということです。このリピート客が取れてこそ、活動は成り立つのです。
 レストランなどではあたりまえのことです。一見客しかこない店は、どんどん経営が難しくなり、つぶれます。会社も同じです。
 実績とは、それによって客が自ら買おうとしてくることです。こうなれば、その作品もあなたもあぶれることはありません。

○初心者の運まかせは続かない
 
ビギナーラックは、技術でなく感性からきます。その人が素直に芸やトレーニングに臨んだときは、その自由さからとても素晴らしいことが起きます。たった一行の歌詞やフレーズに人の心を捉える何かが表われてくるのです。
 それが出にくくなるのは、リピートを怠るからです。トレーニングで素直さを失い、何かを固定してしまうからです。流言や思い込みで心を固くすることが大半です。
即ち、客の心がみえなくなっているのです。それでは、形のための形、歌のための歌、声のための声になってしまうのです。
 ただ、そこで固定して興業的にやられてしまう人が日本ではいるから、ややこしいのです。誰が歌を殺したのか、過去を繰り返すだけの歌手にも、大きな責任があります。

○第三者の眼をもつ
 
その一人よがりを戒めるためには、そこから離れた人に、あらゆるものを正直にみてもらうことです。
アウトローな人だからこそ、プロデューサーやトレーナーだからこそ、みえるところがあるのです。いや、あなた自身も声や歌にどっぷりと入りつつも、どこかに第三者の眼を忘れないことです。

○直勘力を養う
 
ストレートに勘の働く力というのは、ステージを務めることにはとても大切です。
 素直とは、余計なものがついていないことです。
 何もないと、人間かえって開きなおって、うまく心身が動くものです。
 余計なもの、不要なものがあると、それを守ろうとします。そこで捉えて、代表作にしようということになって、狂っていくのです。
 それよりもしっかりした強みは生活とともにギリギリとあることです。
この何もないことの強みを、いろんなトレーニングメニュに分けて習得していくことです。

○頭の固さを解く
 
頭がよいか悪いかでなく、優秀か劣っているかだけです。そこで、社会常識を放った演技ができたら、充分です。

○器用さだけではやれない
 
ピーク<圧縮された時間<編集力 つまり、真にピーク、クライマックスをつくるために、大人は突き放したレベルから編集するのです。
 頭も体も特に器用といえる人がいると、何となく、そこが中心となります。その人に何もないとリスクだけが加わります。すべて、日本人の欠点を表わしています。特に群れたときに、弊害が大きくなります。

 繊細なイメージなくコピーだけをして発表する人は少なくありません。
 この場合の仕事は、その人自身で兼ね合いを考えることなのです。
 テンポ、キィから、ことば、曲まで、徹底して分析し、再構成します。
器用貧乏、八方美人は、何ごとも中途半端にできても仕方がないことを表わしています。生涯、養成所、トレーニング生から出られません。

○大きくつくるMAXトレーニングと、繊細にコントロールするMINIトレーニング

トレーニングは、MAXでMAXを求め、レッスンや本番はMINIMUMでMAXを表現することを求めます。

○客は何を求めているのかを知る

客は何を求めて舞台を見に来るのでしょうか。
1.発散したい、スッキリしたい、カタルシス
2.じっくりひたりたい
3.狂いたい、興じたい
4.気づきたい、思い出したい
5.人間を見たい、その人を知りたい
6.ストーリー、役者、演じ方(芸)など
もちろん、それ以上に表現力、説得力なども必要と思います。まずはリピートしたくなるほどの作品の演じ方へのアプローチからです。公演では、それぞれのプロの条件があります。いろいろな人から学んでください。

○さまざまなスペシャリストにつく
 
私は、音声学については、専門家に任せ、医療については医者に任せています。一人ですべてをやると必ず欠けたところ、手のまわらないところが出てくるからです。
 これも自分のトレーナーをどういう役割で、どのくらい使うかの問題となります。
 私は、すぐに表現に入ることで、即ちピークにもってきたところでみて、それをうまく活かすことから考えます。あとは、その人がこれまで出せなかった可能性を開くベーシックトレーニングです。

○真実と核心
 
歌がうまくなることは、その人の世界が立ち上がるのとは、あまり関係ないのです。
 生きることで真実、核心は誰にでもあるから、それを意図的にアートに編集すればよいだけともいえます。
 しかし、筋(ストーリー)として、時代も人物も自分でないものを演じるところに難しさがあるのです。

○技術と本質
 
技術とは、内なるものを外へ表出する、それを表現として成り立たせるものと考えるとよいと思います。そのプロセスがトレーニングすべきものなのです。
本質は、そのままでは、つかみとれません。ずっと遠くまで離れてから、ズバリ切り込むことです。板前の見習いのようですが、これがとても大切なのです。すぐに中に入り込まないこと。外からみることです。

○歌と演劇
 
戦いへ行って帰るとき、死への感情を納める儀式、祭式で声が使われました。さらに、本来こうありたいという願いが、祈りや舞踏、歌唱となり、あるべき姿として、その虚構を構築するようになったのでしょう。それが舞台です。そこに、リアリティが生じます。

○日常の会話
 
日常では、誰に何をどうして話しているのかという状況や目的がすでにあります。
劇でも台本には流れとしてはありますが、演じる人にそれをもつためには、解釈と役づくりが必要です。否応なく意識的に演じなくてはいけなくなるのです。しかも、演技せずに、です。あなた自身を、何かをもたらしに現われたもの、神の遣いのように考えてみましょう。オペラ歌手は神の声で歌うというのです。役者も神がかりになります。

○手がかり
 
台本を演じるのでなく、それを元に創造していきます。歌い手も同じです。
美空ひばりさんの歌唱をイメージしてください。
 レッスンや稽古は、この世と天界との行き来をします。日常でない日常にひたすら浸ります。
 それを、せりふを覚えたり、歌詞、メロディを覚えて、そのまま口にしたり、覚えて振りをつけて演じる。そしたら、嘘っぽくなります。ふしぜん丸出しになってしまうのです。何らリアリティを生じません。
 くさい、わざとらしい、ふしぜんであっても許されはするのですが、それを自分で押し込まなくては通用しません。さらに、自分を超えるもっと大きな力が降りてくることで芸になります。
せりふが切り出されるや否や、いや、あなたがそこに現われ出るや否や、新しい世界を創出していなくてはいけません。むしろ、その世界を邪魔してはいけないのです。あなたの一声が、すべてをチェンジするのです。

○見立て

<見立て>と声を発する<声立て>で、ことばはその世界を現出させます。仕切るわけです。この立ち上げに客をどうつきあわすかが、最大の見せ場です。ミュージカルは音やリズムの力をもっとも効果的に使います。
人物を演じる、そんなものに、興味がないようになってしまったのでしょうか。このことに気づかない人もたくさんいます。ともかく、その世界を立ち上げていくことです。

○共鳴させる
 
声、ことば、振動、気持ちが統一されることです。

○ことばを生み出すこと

命名する
ことばを自分のものにする
そして、それを声で相手の体に届けるか、間におくのか、考えてみましょう。

○ことばが聞こえない日本の役者
 
気持ちを込めたから、といって、必ずしも共感されるわけではありません。むしろ嘘の方が、社会性をもつでしょう。
 「せりふに気持ちをのせたり、せりふを歌わないこと」です。
働きかけ、アクションは、暴力にも癒しにもなります。
 しゃべりながら確認して修正し、正されているのか、チェックします。
 歌いながら確認して修正し、正されているのか、チェックしてください。
 聞く力、聞くことを磨くことが大切です。
 間やリズムよりも優先します。
 生じること―無と有、変化―定と不定、この二つを常に考えてください。


■「ボーカル上達100の裏ワザ」その3<P38参照>
(リットーミュージック刊)より、一部だけ抜粋紹介です。詳しくは、本をお読みください。

048 展開をとらえる

 ボーカリストは、曲の展開をあまり意識せず、そのとき歌っている歌詞によって歌い方を変える傾向があります。1番が明るい歌詞だったらほほえんで、2番が暗い歌詞だったら悲しそうに歌うといった感じです。しかしこれは、音楽的に見れば適切ではありません。原則として、1番と2番は同じように歌わなければならないのです。そうでなければ、合わせて1番とすべきなのですから。もっといえば、AメロはAメロ、BメロはBメロと、全て同じように歌う必要があるのです。なぜなら、安定した形(定型)が客に伝わってこそ、ちょっとした変化が新鮮に感じ取ってもらえるからです。少なくとも、1番のAメロと2番のAメロ、1番のBメロと2番のBメロなどは、そろえる意識を強くもちましょう。

 Aメロ、Bメロ、サビなどの展開をお客さんに感じさせることは、歌の盛り上がりを作る最大のポイントです。構成と展開をとらえることに意識的になりましょう。
 トレーニングとしては、ドラマの起承転結のように、1コーラスを4つに分け、その1ブロックを、さらに4つに細かく区切って考えると分かりやすいでしょう。自分勝手な感情移入や雑な表現は整理し、展開上、同じ役割を持つ個所を、同じように歌っていきます。
 例えば、1〜3番のAメロ、Bメロ、サビの出だしとエンディングを、それぞれ同じ歌い方をするように意識するのです。まずは、Aメロ、Bメロ、サビなどのブロックを、それぞれ通して歌うことができれば十分でしょう。最終的に、1曲を通して、展開をとらえながら歌えるようになってください。原曲をリスペクトしてください。

 これができてこそ、1番、2番、3番と徐々に盛り上げていったり、3番でいきなりフェイクを入れるなど、荒ワザで流れに変化を付ける効果が現れます。
 楽器プレーヤーも、変化を付ける前に必ず演奏をシンプルにしておきます。「この部分はこんなフレーズです」ということを繰り返しお客さんに教えておいてから、それとは違うことをやるからこそ、ちょっとした変化がビビットに響くわけです。「安定したものがあるから、変化が通用する」ということです。これは029にも通じますね。

075 流れを止めない練習

 出だしは緊張していたり、声の出が悪かったり、つまづきやすいものです。そういうとき、一番のさいごから歌って、二番の頭で出だしの感覚を覚えましょう。もちろん、一番の歌詞でやってよいでしょう。
 同様にフレージングのよくない場合には、しばらくの間、必ず、次の出だしのところまでやって止めましょう。つまり、一つのフレーズが1、2、3、4だとすると、次のフレーズ5、6、7、8の5のところまでやってから、終わりにします。
 Aメロなら、Bメロの頭のフレーズ、Bメロなら次がサビだとすると、その出だしのところ。サビなら、必ず、Aメロなどに戻りますから、そこで頭のところをやってから、チェックします。1コーラス歌うときも、できるだけ2コーラス目の頭までやります。
 どうも日本人は、構成を短く切ってしまいがちです。ですから、必ず、次の流れにつなげて終わることで、フレーズが終わって、声が出し終わっても、曲は動いていること、その間のつなぎ方こそが、表現にとって、最も大切なことだと思ってください。どのように前のフレーズが終わったかを踏まえて、次のフレーズの出し方、タイミングや声の強さ、角度やテンションまで、決まってくるのです。この流れが止まってしまうと、歌はとても悪い印象になるのです。

076 同じ言葉だけで歌う

 歌の評価のわかりにくいところは、一人ひとり声が違うところ(これがオリジナリティと思われている)と、ことばのあるところ(音楽的に成り立っていなくても説得できてしまう)ことです。ですから、バンドのメンバー同士で厳しく、リズムが展開について指摘しあっているときも、ボーカルはかやの外に置かれて、音楽的に指摘を受けにくいのです。(きっとボーカルが楽器レベルに声を使いこなせていたら、音楽として完成していくプロセスで、かなり気づきやすくなるはずです)
 そこで「ラ」や母音で、合唱団のように歌わせるトレーナーもいます。これは発声や共鳴のチェックになりますが、声の魅力を捉えるには、子音も含めたことばでやるほうが、そのニュアンスがわかりやすくなるでしょう。

 たとえば私は、プロの曲を聴くのに、1、2、3番のAメロを並べて、チェックします。基本としてはずしてはいけない流れのなかで、変化させているかをみます。ことばや発音もその一要素にすぎません。
 やりにくいときは、同じことばで歌ってもらいます。たとえば、Aメロの最初のフレーズ(1、2、3、4)のことばで、次のAメロも歌うと、その流れがみえます。同じにしても、異なってもよいのですが、ボーカリストにその自覚がなく勝手に、しかも毎回変わっているようでは、失格です。(かなりハイレベルな人は、逆にOKですが)ときにBメロさえも、Aメロの歌詞でやらせます。合わなければ、てきとうに変えればよいのです。
 1、2くらいの短いことばで、すべて歌ってみてもよいでしょう。たとえば、「あなたに会った」の繰り返しだけで一曲通すのです。聴いている人が飽きたり、あなた自身が単調に思えたら、それはまだ曲として成り立っていないのです。歌はストーリーでももちますが、曲として完成させられるなら、どんなことばでも、一曲のなかで完成させられるはずです。それができない人のスキャットなどは、所詮、まだ形だけなのです。

077 同曲異唱のススメ

歌に関しては、自分のものの判断や批評は難しいものです。好きな歌を好きに歌えたら、よしとしてしまうからです。しかし、誰でも他人の歌に対しては、少しは客観的にみることができるものです。のど自慢や歌番組の審査員になり切ってみましょう。
 さらに、こんな練習をしてみましょう。同じ歌を何人かに歌ってもらって、気づいた点を細かくメモをとってみます。そのあと、自分が歌ったものを審査してみるのです。他の人の歌で判断した経験が、自分の歌のよしあしを判断しやすくするはずです。
 同じ歌でプロの歌と比べてみるのもよいでしょう。最近は、ネットで同曲異唱(同じ曲をいろんなアーティストがカバーしている)の音源を入手できるようになりました。それらを使えば、一つの曲をいろんなアーティストがそれぞれどのようなアプローチで歌っているかが聴き比べられるのです。一人の歌唱から学ぶよりも、ずっと気づきやすくなるはずです。そして、プロの優れている部分を学び、表現してください。私は外国人と日本人のをよく比較材料として使います。

■同じ曲で比較してみよう
「Somos Novios」……クリスティーナ・アギレラと夏川りみ(アンドレア・ボッチェリとのデュエット)
唱歌、童謡、演歌、歌謡曲、Jポップと、日本の近代の歌の大半は、欧米を中心とする海外の作品の移し替えで作られてきました。しかし、リズム中心の曲が主流になるに従い、日本語という言葉はさらに処理しにくくなっています。そのためか、現在の曲の多くは、日本語詞の中に英語を中心とした外国語がたくさん入って、音楽的に(のりやすく)しています。
でも、単に外国語を入れるだけでは、本当に伝わる表現にはなりません。かつて、日本一のボーカリストは、声楽や欧米のポップス、ジャズ、ラテンなどからリズムや声色を取り入れ、それを日本語に生かす努力をしていたものです。あなたも、その頃の外国人の歌を聴き、リズムや声色を感じ取った上で、日本語を付けて歌ってみてください。日本語だからこそ、表現のチェックはやりやすいはずです。
また、「外国人による日本語の歌」や、「外国曲の日本人による歌(外国語・日本語)」を比較するのもお勧めです。「駅前留学」のようなものですが、生まれてから染み付いている日本人の感覚を一時切ることで、感覚、発声、歌唱をシンプルにできます。歌は適当な外国語をつけて歌ってから、それを日本語に戻すのもよい方法です。
(今回で終了です。あとは是非、お買い求めください。)


■トレーナーのアドバイス 
レッスンの中での概要です。これらのメニュが必しも誰にでもあてはまるものとは限りません。参考にとどめておくようにしてください。

<レッスンのアドバイス>

○大きな声だけでは
大きな声で歌うのは、とてもいいことです。
しかし、ただ大声で歌うのは上手に聞こえません。
大きな声といっても、コントロールされて出ている大きな声が欲しいのです。
自分はどのくらいの音量の声を出しているのか考えてみてください。
練習中やレッスンの時、何かを習得するために単なる大きな声でやることもあると思います。
そうして積み重ねた結果、最後の仕上げでは、自分の声をコントロールして適した音量で歌ってみてください。
電車の中で、子供が興奮してだんだん大きな声になってしまうのを
聞いたことはありませんか。あれは、コントロールされていない大きな声です。

逆に小さな声もそうです。ただ声を小さくすればいいのではなく、小さいといってもお客さんに聞こえなければダメだし、はっきり歌詞が聞き取れるようにすると、そんなに小さな声でもダメだし、こういう場合は「小さく歌っていると思わせる声」なんかがいりますね。
誰かに内緒話をするときは、相手に聞こえる程度に声をおとして話しますよね。無意識にしていることを意識してみましょう。
歌詞や音符から読み取った上で、歌っている時の声の音量について考えてみましょう。(♯Б)

○意識し続けるということ
レッスンで指摘された、若しくは日頃から自分が感じている苦手な箇所を改善するにあたって、皆さまはどのようにしていますか?
数日前はできたのに、今日はできなかった・・・あるいはしばらくできていたのに、ここのところ思うようにいかない・・・などという経験は、どなたでも一度はあると思います。
人間の声は、短期間で劇的には変化しません。
まして苦手な箇所であれば尚更です。だからこそ、少しずつ、しかし確実に声を良い方向へ導くためにはその苦手な箇所をきちんと見つめ、多方面からさまざまなアプローチを試み、その中で一番適した方法を用いてその箇所を改善していくことを「忘れないで意識し続ける」ことが必要です。
まぐれで良く出た声はあくまでまぐれでしかないのです。10回歌って、10回とも同じ「質」でできるように。そうして身に付けた「質」は今後声を使う上で長く役に立ちます。

○自信
いつもレッスンに臨む際、自信を持って臨んでいますか?
レッスンを受けにいらっしゃる皆さまの環境・状況は千差万別だと思うので、最初の問いかけが厳しい方もいらっしゃるでしょう。
なぜ「自信」が必要か?それは自信の有る・無しが、ここぞという時の声に影響を及ぼすからです。
お教えする立場、また私自身も研鑚を積む立場・・・・双方を経験して
「自信をもって毎回のレッスンに臨む難しさ・厳しさ」
「自信をもって毎回のレッスンに挑む大切さ」を身をもって知っているからです。
やはり自分が納得して自信をもてるまで、練習を行うのも必要ですし、誤解を恐れずにいえば、例えハッタリであったとしても自信が無いよりかはやはりあったほうが良いのです。自信をもってレッスンに臨み、1つでも多くその日のレッスンから色々なものを得て帰ろう、という意気込みで頑張って下さい。

○「レガート≠流れる」
声を出す時、また歌を歌う時によく
「レガート(legato/伊/なめらかに)を意識して」
「もっとレガート(legato/伊/なめらかに)に・・」
とアドバイス受けたことがあるだろうと思いますが、声を滑らかに出すことと声が流れてしまうことは=(イコール)ではないのです。声を1つのラインのように繋げることを意識するのは良いことなのですが、その影響で1つ1つの音がぼやけてしまったり、
(何の音を出しているのかわからなくなる/何の言葉を発しているのかわからない、聞こえないetc)
音の輪郭が不明瞭になってしまっては意味が無いのです。
流れに任せて気持ち良く声を出したり歌ったりするのはもちろん悪いことではないのですが、今一度「レガートになっているか?」「ただ流れてしまってはいないか?」を意識してみて下さい。(♯Ψ)

○お腹に息をためる練習
素直ないい声で歌えているときは、響きもそのままを維持して歌ってください。
あとは、腹式呼吸の強化をして、支えを確実なものにできれば、さらに良いと思います。そのためには、お腹に息をためる練習が効果的です。お腹に息をためるコツとしては、お腹の底に息を溜めようとすることです。
例えば、蛇口の口にビニール袋の口をあてて、蛇口をひねると、ビニール袋の底から、水が溜まります。そのイメージで、息を溜めます。息は、肺に入って、肺から出るのが、実際の仕組みです。
肺に入ることによって、横隔膜が、あがったり、下がったりする動きで、お腹にも動きが見られるのです。
思い切り笑ったり、泣いたりすると、横隔膜は、とても活発に運動します。
歌うにあたり、私たちは、横隔膜の動きを自由自在に動かす能力が必要になります。
息を溜める練習のほかにも、たくさん、息が使えるようになるため、カセットテープを、少し遠くにおいて、それを、息だけで、倒す練習も、かなり、効果的です。また、息をしばらく止める練習もいいかもしれません。(♯Ω)

<声、せりふ、歌のアドバイス>

○意識を高くもつ
音楽に限りませんが、自分の中で確かな目標・希望、しいては夢というものがなければ成長しません。それを達成するために人は努力するのです。レッスンに通われている方もそれぞれ目的が違ったとしても、ここで何かを得ようとして自分で選択して通っているのだと思います。それが、プロ志望でもそうでなくても目標に対する努力の必要性は同じです。

ここに来ればプロになれる、うまくなれると考えるのは大きな誤りです。時には自分の道を疑問に思ったり、考え直したりすることもあるでしょう。それは当然のことです。しかし、やめてしまってはまた再起動しようとするのに時間がかかってしまいます。私は先生に『続けて同じレベル、人の三倍努力して人並み、やめるのは論外』といわれました。夢があるならばもっと身近な目標をしっかり見立ててひとつひとつこなしていきましょう。気が付けば大輪が咲いていることでしょう。

○飲食について(1)
ここ最近暑くなってきて体調管理が大変になってきました。この時期にのどをはじめ、体調を管理する上で知っておいて欲しいことを挙げます。ときどき見られますが、レッスン中に飲み物を飲む方がいらっしゃいます。水分補給自体がいけないとは言いませんが、飲み物でのどの調子を整えようとすると、返って変な癖がつき、飲み物がないと歌えなくなったりします。レッスン中はよほどのことがない限り、30分くらいは水分補給せず歌ってみましょう。

また、もし水分補給をする際には自動販売機で買ってきたばかりの冷たい飲み物は口にしないようにしましょう。声帯が熱を帯びている状態で、いきなり冷たいものを飲むと、焼いた石に水をかけるとジュッと蒸発してしまうように、声帯にも相当負担がかかり、場合によっては突然声が出なくなってしまう事もあるので注意してください。もし、冷たいものしかない場合は一度口に含んで熱をもたせた後飲み込むようにしましょう。カラオケをしながら冷たいビールを飲むなどは問題外です。

○飲食について(2)
食品や食事の摂取時間についてはそれぞれの趣味嗜好や生活リズムがあるので一概に「こうして下さい」とは言えませんが、最低限注意して欲しいことを挙げます。
基本的に食べ物はエネルギー源になりうるもので、また補給に効率のよいものが良いでしょう。つまり、栄養価が高く、消化・吸収がよいものが望ましいということです。というのも、みなさんもお分かりのように、歌うことはかなりの集中力と体力が必要なのです。まして、ステージ・舞台に立つとなると一日がかり、場合によっては稽古なども含め一ヶ月以上の期間を要します。その時、いくら良い声があっても、体力が付いていかず断念してしまうなんていうことは悲しいことです。歌い手に美食家が多いのはこういったこともあるのでしょう。ただ、摂取の量と時間には注意をしてください

○飲食について(3)
欲張って一度に大量に摂取する必要はありません。個人差がありますので、その人にとって適量な分だけ取るのが良いでしょう。そして、摂取時間の目安時間ですが、3時間前〜1時間半前まででしょう。発声直前に摂取するのは厳禁です。その理由は二つあります。
1.血液循環の主力が消化器官に集中するため、大脳の働きがにぶり集中力が低下し、さらには眠くなってくる。
2.胃が満杯になると横隔膜を上に圧迫し、横隔膜の上下運動、すなわち腹式呼吸を妨害する。
発声の3要素(声帯、呼吸、共鳴)の一つである呼吸のコントロールは非常に大事です。それをつかさどる横隔膜が、吸気のときに下がりきらないと瞬時に息が吸えず、呼吸方式が制限され、おのずと胸部が拡大され胸式呼吸になり、浅く不安定な声になっていってしまいます。声を出すだけが大事なのではなく、声を出すまでの体調管理、生活習慣まで節制できてこそプロだと思います。体調管理は自己責任です。普段の生活から気をつけましょう。

○腰と丹田
呼吸法や発声を習得するにはまず体を作らなくてはいけません。しかし、私たちはスポーツ選手になるわけではないのですから、腕立て伏せや腹筋を毎日鍛えることはしません。まったく無駄とはいいませんが、余計な力が入ってしまうよりは、むしろ柔軟・ストレッチに力を注いでください。歌に関する本には必ず柔軟・ストレッチの類が書かれています。しかも、はじめに書かれているはずです。
歌は腰の支えと丹田の意識があれば、他は脱力あるのみです。これができればどれだけ楽に歌えるでしょう?みなさん無駄な力が入りすぎているように感じます。一度力が入ってしまうと、その癖を取る事が難しくなります。最近の歌手は演出からなのでしょうか、そう高くない音程でも苦しそうに、難しく歌って見せています。あんな歌い方を毎日していればのどは壊れてしまいます。
歌い手はじめ、業を見せる職業の人は、いともたやすくやって見せるのが美なのです。外見をマネするのではなく本質を見ましょう。

○あるライブを観ての感想
わたしはライブにはあまり行かないのですが、先日とあるビジュアルバンドのライブに行く機会があり観てきました。声楽の世界だと、オペラは舞台芸術のため視覚的演出も重要視されますが、そのほかは音を優先するため演出を大々的にすることはありません。
そんな世界にいるため、先日観たライブで一番印象深かったのがグループのパフォーマンスでした。言葉が悪いですが、観客をあおるのがとても上手いのです。自分たちのバンドをどう印象付けるかもテクニックではないでしょうか?
私のレッスンではそういったパフォーマンスのレッスンはしませんが、人に見られている意識や自分を表現して印象付けさせることは普段の生活から取り入れていかないと、すぐにはできないことだと思います。歌もさることながら、行動学というジャンルも勉強してみると良いかもしれませんね。

○ハンディを乗り越える
音楽の世界は英才教育であることは広く知られていることです。ヴァイオリンもピアノも3歳にははじめています。私たちが食事のときに箸を使うように、奏者は楽器が体の一部になっていなくてはいけないのです。
しかし、歌い手は英才教育の必要ありません。むしろ、15歳以降にはじめる方が大半だと思います。声帯は体の中でも一番成長が遅く30歳くらいまで変化し続けます。そのため、大器晩成ではないでしょうが、たしかなトレーニングをしていれば音楽家として通用するのです。ですが、楽器奏者と歌い手の大きな違いは音感です。幼少期から楽譜を見て、音程を身に付け、音楽表現を学んできた楽器奏者と、10代後半もしくは20代になってから本格的に音楽を学びはじめた歌い手とでは15年以上もの差があるのです。この年月の差を埋めるには相当の努力が必要です。
音楽をするには音に敏感にならなくてはいけません。ハンディがあるからこそ、人の何倍も努力しなければ同じフィールドで演奏できないのです。近道はありません。地道な練習の継続あるのみです。がんばりましょう。

○再現性
音楽は『時間の芸術』とともに『再現芸術』とも言われます。音は一瞬一瞬で消え去ってしまうので、まったく同じ音を作り出すことは不可能です。しかし作曲者の意図することを再現するという意味で再現芸術なのです。それは何年経とうが再現しうるのです。
ともすると、芸術は感情のみで動いていると思われがちですが、音楽の場合、再現芸術である上、ルールが必要となります。音楽理論であったり、楽器の奏法、歌の発声法があります。これは作曲者を尊重する故、常に同じ様に演奏することが大事なためです。(決して機械音のように寸分もくるわないで無機質な演奏をするということではありません)
料理の世界でも星が付くレストランとは、同じ味を作り続けられる事が条件になります。プロとはそういうものです。調子が良い悪いで作り上げるものが揺らいではいけないのです。作曲者(作詞家も含め)の尊敬の念と徹底したテクニックを持ちましょう。 

○迎合すべきかどうか
ポピュラー音楽は良い発声、悪い発声に関係なく、多くのファンの心をとられ支持を得て認められていく世界のように思います。多くのファンを持つということは、その時代感を共有しているということではないでしょうか?そこで、コロンブスの卵ではありませんが、たくさんの人の気持ちを集約して歌を作り上げるのが良いのか?はたまた、自分の歌でたくさんの人の気持ちを動かすのが良いのかみなさんはどのように考えるでしょうか?
私は前者の結果としては、ファンに迎合することになりえなると思います。しかし、後者はまさしく創造者となるでしょう。迎合するということはその他大勢のなかの一部になるということです。しかし、魅力あるものは迎合せずとも、多くの人たちの視線を自分に向けられるほどエネルギーがあるものです。
自己主張が希薄なときほど個性を叫ぶようになるものです。オリジナリティということをもう一度考えてみてはいかがでしょうか?(♭Π)

○スペインの曲(1)
とても、迫力があり、情熱的ですので、喉で、叫ぶように歌いがちですが、こういう曲こそ、体を使って、歌わなくてはなりません。
鼻から、おもいきり顔中に息を吸うと、お腹に息がたまります。
その感覚を忘れないで、常にその状態を保ちます。
響きは、鼻を意識してください。
細かい、節回しは、鼻歌のようにやると、やりやすいと思います。
ハミングで練習するのがいいと思います。
そのときに、細い針をイメージして、大きな声でなくていいので、何度も歌ってみてください。
響きのポジションがわかったら、「ウ」で歌ってみてください。
「ウ」でもスムーズにできたら、言葉をつけて、母音が変わっても、同じ響きで歌えるように意識してください。
鼻歌の感覚は、何度も繰り返しやってみるとわかってくると思います。
あとは、体全体に響かせるように意識するだけでも、体が響鳴して、遠くまで声が響くと思います。
スペインの歌は、独特ですが、基本はどの歌も共通だと思います。

○スペインの曲(2)
スペインの曲は、その日の調子などによって、調を変えて歌うことができますので、ピッチに関してはあまり気にしなくてもよいと思いますが、ピッチは全て、鼻でつくるものです。もちろん、発声の面で、おかしいところがあれば、正しくとれないところもあるかもしれませんが、まずは、鼻に響いていないと、正しいピッチはとれません。
響きをつかむためにも、ピッチのためにも、ハミングの練習は欠かせません。
また、発声の面で言えば、支えは重要です。正しい複式呼吸ができなければなりません。
一番いいのは、いすに座って、お腹に息を溜める練習です。
横隔膜の動きが一番わかりやすいところは、みぞうちとおへその間、そして、腰の部分です。
そこに手を当てて、お腹の中に袋があるのをイメージします。
袋の一番底に、水が溜まるように息を吸いますが、そのときに、口は、ストローでジュースを飲むように吸います。
息を吸うとき、一番お腹に入りやすいのは、鼻から吸う、もしくは、上記のことですが、とにかく、吸い口が細いほうが、お腹に息が溜まりやすいのです。口から大きく吸うと、胸に息が入りますので、気をつけてください。(♯Ω)

○受身にならないこと
自分探しのためにレッスンに来ている人は、いるだろうか?それもいいことだろう。ただ、気をつけてほしいことは、レッスンを受ける上でトレーナーから与えられることを待つ受身の姿勢になってはいけないということである。自分がやりたいことがわからなければ(やりたいジャンルや歌いたい曲など)、トレーナーにもわからない。行けば何かみつかる、ではなくて〜をするためにレッスンに行く、と目的意識をもって臨んでほしいと思う。プロやプロを目指す人たちは、目的を高く、夢を大きく、そして具体的に抱いている人たちばかりである。レッスンに通う人の中で特にプロを目指している人は、〜なれたらいいなぁ、程度に漠然と抱くのではなく、絶対〜なる、位の気持ちを持ってほしい。そして、〜なるための具体的・実践的プロセスを見直し、着実に前にむかって進むことが必要である。そこの過程において、必要であればトレーナーが手助けできることもあるだろう。(♯Θ)

○クラシックとポップス
クラシックの歌の伴奏というのは、歌にあわせるような形で演奏します。歌のメロディーは、大幅に揺れたり、ためがあったり、大きくブレスをとったりします。それに合わせていく感覚で、伴奏はついていきます。歌の伸び縮みに合わせていくといえばいいでしょうか。
それに対して、ポップスの伴奏というのは、ほとんど揺らすことなく、一定のテンポを刻んでいます。(もちろん大きな決めになるような部分は、歌手と息を合わせます。)その一定のテンポの中にはまるように、歌は揺らしたり、ブレスをします。
ですから、カラオケ伴奏に合わせて歌を楽しむことができます。
うまく歌っていくには、伴奏を聞くことがとても大切です。
変わっていく、コードの変化も聞き取ることができると、歌にとても役立ちます。
最近は、耳で覚えてはっきりとしたものがないまま、何となく歌うことが多いので、楽譜を見て、どのようになっているのか確認するようにしましょう。拍感を持って、小節の頭はどこなのか、何拍伸ばしているのか・・など、数字で確認して、歌う時は、頭の中でしっかりと確認しながら歌えるようにしましょう。(♯Б)

○男性歌手の高音化
ここ数年でJ−ポップの歌手、特に男性のキーが全体的に高くなっている事にとても驚かされます。GLAY、TMR、hydeなどはその典型的な歌手だと思います。しかしよく聞いているとGLAYのTERUやTMRなどは高い音もそのままだしますが、平井堅やCHEMISTRYなどは裏声を駆使しています。
どちらも裏声を使っている事に変わりありませんがTERUやTMRは裏声と実声を混ぜています。平井堅やCHEMISTRY、森山直太郎は裏声をそのまま出しています。
技術としては前者の方が大変難しいです。本人達はそのような気はしていなくても声楽家が高い音を出す技術に近いものはあります。ですからちょっとこもったような声に聴こえます。声楽家も高い音を取得する途中経過で暗くこもってしまう事があるのです。
ですからモノマネの芸人でも平井堅などはよく見ますがGLAYなどのものまねを原曲のまま歌いこなせる人はいません。
あくまでも技術論なのでどちらがいいとか悪いとか一概には言えませんがどちらにしても全体的な流れが高音化していることには変わりはありません。男性らしい低い声もとても心地よいものがあるのでバランスよくいろんな種類の声がでてほしいと思います。

○女性歌手の低音化
女性歌手の低音化についてです。男性はある程度の音域まで地声で持っていけます。しかし女性はそおいう訳にはいかずほとんどの女性が上のE♭辺りでは地声ではいけません。いけたとしても頭声とのミックスでしょう。
最近のJポップの女性歌手は全ての音域を地声のみで歌おうとする人が多くなりました。モーニング娘。aikoなども決して無理しているわけではありませんが地声の部類です。結果として全体的なキーが下がってきています。楽譜にすると五線より下の音なんてざらにあります。しかし黒人の方々歌うゴスペルや、黒人霊歌などにくらべるとなんと幼稚な声でしょうか。同じ音を歌っているとは到底思えません。
訓練の差、歌い手としての差、人種の差色々あるとおもいますが、日本人の歌手、客、全てにいえることですが実力がある歌手=売れている歌手と言うことではないということでしょう。歌手はお客様に育てられる部分がとても大きいです。その客が意識が低く、ビジュアル面ばかりを追っていては歌手の歌の意識は薄れていくばかりでではないでしょうか。

○あいうえお、と、AIUEO
私達の母国語である日本語の「あいうえお」とアルファベット表記の「AIUEO」は一見すると同じです。しかし発音すると大きな違いになります。日本人の話し声はとても浅くペチャペチャした感じに聴こえます。しかしイタリア人、フランス人などの言葉は大きな空間が開いているように聴こえます。
まず第一に口が開かないという欠点があります。ある生徒にオ(O)の母音でドレミファソファミレドと歌ってもらうと口が開かないためアルファベットのUに聴こえてくるということがありました。
「口を開けて」と指導しても顎を外したり顎を硬く締め付けたりといったようにうまくいかないことが多いように思います。
いろいろなやり方があると思いますが、我々日本人は声が浅い人種だという認識を持つ事が第一歩だと思います。そう理解した上でトレーナーの指導を受けるとまた変わってくるとおもいます。

○裏方
舞台には主役となる歌い手だけではなくそれを影から支える裏方さん達がいます。照明や小道具、大道具、メイク、衣装、音響、などの全ての雑務は裏方の手によって行われこの人達の努力のおかげで舞台は成り立っています。
今の歌手の人たちはいきなりデビューすることが多いので下積みでいろんな裏方を経験してきたというひとはすくないかもしれません。しかし裏方の事が分からなければ実際舞台にたっても彼らの仕事に対する評価は分からないと思います。
もしプロになりたいとおもっているひとがいるとすれば若いうちに裏方の経験をしてください。この経験が後に大きな変化になると思います。 

○発声マニアにはなるな
皆さんはそれぞれに声に対して悩み、疑問をもってレッスンを受けている事だと思います。レッスンを通して思うことのですがドレミレド(ア〜〜)などの音階を指導していると良い声になるのに曲になったとたん違う声を出す人がとても多いように思います。それは何故でしょうか。
レッスン後のレポートをみても事細かく書いてくださる方もいますが、実際に声を出してみると書いてある事ほど上達していないと感じることもあります。
ヴォイストレーニングを受けに来ているのですから、声の出し方に興味、関心がいくのは当たり前の事です。しかしそれが行き過ぎるといわゆる「発声マニア」になってしまいます。ただの音階を歌っても自分が音楽を奏でていないと絶対に曲になったときに生きてきません。考えるよりもまず実践です。歌手というのはスポーツ選手と一緒です。必要な筋肉を必要なときに使い、息の流れで声をだす。音楽になっていない(生きていない)声でどれだけ発声練習をしようとも曲には生かされません。
  
○う(U)の母音
先日、イタリアにあるS歌劇場のコレペティトゥーア(稽古ピアニスト)で近年指揮者としてもデビューしたイタリア人にレッスンを受けに行ってきました。私の他にも受けていた人のレッスンを見ていて、実際に受けてみて感じたことを書こうと思います。
レッスンを受講した全員に共通して言われた事が、「う(U)」が浅いという事でした。日本人ではトップクラスの声楽家でさえ浅いと言われていました。
「たとえ母音がUであってもノドの状態はOでなければいけない」としきりに指導していました。
若い頃からクピード、マティウッツィ、などのコレペティを経験してきた彼にとっては私達のUはUではなく、ドイツ語のウムラウト(UのくちでI)に聴こえるそうです。
歌唱母音のUは限りなく口内はOでありAIUEOの基本五つの母音の中で一番深く奥なのがUだそうです。来週も受講してきますが。新しい発見とともにU母音についてもしっかり勉強してきたいと思います。

○邪念を捨てる
これは私が舞台に立つ上でいつも心に留めている事です。現在、某大学のオペラ、ミュージカルなどに毎週助演で歌いにいったり、年間約25〜35ステージ程の舞台にたっていますが、稽古の時はうまくいくのに本番になると調子が悪かったりもうちょっと上手くいくのに…と後悔することも多々あります。
しかし開き直ったり勢いで歌っているときの方が上手くいったりするものです。高い音を出るかな…と思った瞬間体が硬くなり、緊張してきてうまくいかないものなのです。
私の最も尊敬する先生の言葉です
「あなたはどこに向かって声を出していますか?」
「ホールの一番後ろに向かってです。」
「それではそこまでの声になるしホールを響かせようという邪念でしかありません」
「ホールを超え、その先にいる音楽の神様に自分の声を届けるだけです。それがすべてです。お客さんがそこにいることなど関係なく、そっと届ければよいのです」(♭Σ)

<テキスト>

○変拍子
このテキストにでてくる拍子記号は、4分の4拍子や8分の6拍子などですが、このほかに、変拍子と呼ばれているものがあります。4分の5拍子や4分の7拍子、8分の9拍子や8分の12拍子などです。
1曲丸ごとこの拍子の場合もありますが、4分の4拍子の中に、挟まれて度々でてきたり、なんていう組み込まれ方もあります。
常に規則正しい拍子の中に、急にでてきると非常に不規則な感じがしたり、大変よい効果があります。
オペラの蝶々婦人などには、多用されています(プッチーニ作曲)。
楽しい場面よりは、切迫感や悲壮感を表す部分によく使用されています。
変拍子が安定より不安定さを感じさせやすいためですね。機会を作って譜面を見てみるとそれだけでもおもしろいと思います。(♯Б)

○ダイナミクスについて
声の4つの因子の中で「強弱」があります。音楽の中ではピアノ、フォルテなど呼ばれるものであったり、アクセントやクレッシェンドなど音量の変化を表します。楽譜の中で、山田耕筰のように細かく音楽記号を書き記している作曲者もいれば、まったく指示を出さない作曲者もいます。どちらにしても、一曲のなかで音量を変化させなければ単調なものになってしまいます。それには『声の3要素』である呼吸で調節をします。しかし、息の吸える量は人によって様々ですから数値で説明しても分かり難いと思います。そこで音楽の利点である感覚を利用してください。ピアノ〜フォルテまでの音量の変化は自分で調節すればよいのです。少なくともピアノ、メゾピアノ、メゾフォルテ、フォルテの4段階は明確に音量の違いを出せるようにしましょう。この変化量をダイナミクスと言います。自分の声は自分でしかコントロールできません。まずは呼吸をコントロールさせるところから始めましょう。(♭Π)

<メニュ>

○息を入れる
レッスンでは毎回ウエストにしっかり息を入れるブレストレーニングを行なっています。対策の工夫としては、壁やバーに体をななめにして手をつき、重心を移動させて、首、肩のまわりの力を抜くようにします。(♭Φ)


<トレーナーのお勧めアーティスト>

○ラ・フォル・ジュルネー・オ・ジャポン
今年で3回目となる、音楽祭「ラ・フォル・ジュルネー・オ・ジャポン」がGW中に開かれました。クラシックの音楽祭です。
フランスのナントで開催されているものを日本でも・・ということで、同じような形態で行われています。
毎年、作曲家を決めているのですが(1回目ベートーヴェン2回目モーツァルト)、今年は民族音楽ということで、有名なところでは、
ドヴォルザークやラヴェルなどがとりあげられていました。
この音楽祭では、一つの演目が45ー60分程度という短さに加え、
更に、一演目が¥1500−3000と低価格です。
そして、朝の9時から夜23時頃まで、国際フォーラムのたくさんの会場を使って一日中演奏会が開かれています。
演奏会の合間には、外にある屋台でご飯を食べたり(お酒もある)、
スクリーンでやっている本場ナントで開かれた音楽祭の模様を見たり、大きなイベントブースでは無料で、コンサートやレクチャーをやっているので見に行ったり、様々なことができます。お土産ショップもあります。
日頃、クラシックに興味のない人でも、気軽に行けるのでぜひ一度はどんなものか冷やかし程度にでも行ってみるのをお勧めします。
混雑振りには必ず驚くはずです。
ちなみに今年は62万人の来場者数があったそうです。
普段はあまり人気のないクラシック演奏会。
本当は行ってみたい人がたくさんいるんだということを知らされた企画でもあり、クラシック業界に様々な課題を投げかけたものとなっています。(♯Б)

○「英語でしゃべらナイト」
先日の放送では、スペシャル・ゲスト、郷ひろみさんが出演していました。NYでのヴォーカル・レッスンの様子もVTRで流れました。そんな中、郷さんが歌について語りながら、声を出していて、途中でクラシックの発声でも出していて、「こういう声で歌ったら、僕の声らしさがでないけど」と言ったあと、「こういう風に歌えば、僕らしくなる」とポップスをミックスした声で、「ジャパーン!」と皆がイメージするような声で歌っていました。でも、それは郷さんがクラシックの発声もできる基礎のしっかりとした声で歌っているという裏づけでした。私は「そう、そう」と画面の前で納得。まさに生徒さんに目指してほしい方向だったからです。声の道ができる前に色々な声を出そうとしても、軌道修正する道がないのだから、わからなくなってしまいます。声の道が整ってから、自分の個性を出したり、色づけをしてほしいと思います。(♯Θ)


■チーフトレーナーの一言アドバイス 
自分にあてはまるものをチェックしてみましょう。

<発声>

○視線を下げない。視線の先に声が乗ってゆくのだから、視線の先が大切。これから先は音楽性も問われてくる。歌が一本調子にならないように、その部分も磨いていくこと。

○発声時のリラックスした体の使い方で歌っていくこと。のどで頑張りすぎるためか、息も続かない。もっとリラックスして、体も腹筋も固めないこと。

○慢性の喉疲労。病院に通うことを勧める。発声を良くするだけでは、のどは治らない。

○呼吸法を行う。まずは強く息が吐けるようにしていく。リラックスして強い息を吐いていく。日々体に覚えこませていくこと。

○姿勢が悪い。腰が引けてしまうので、重心をしっかり感じて、胸を開いていくこと。口の力は抜けてきているが、閉じすぎてしまう。自然な形にしていきたい。

○腹式呼吸の確認をする。体を固めてしまうので、リラックスした上で、強い息が吐ける筋肉を鍛えていくこと。柔軟な腹回りにしていくこと。

○自分の好きな理想の声があるとは思うが、まずは自分の声に興味を持って、自分の声が好きになること。

<せりふ>

○フリートークの中では違和感なく話せている。声が出ている自分というものに、もっと自信を持っていい。

○内容さえ把握していれば、スムーズにことばも出てくるし、ことばに力がある。あとは本人が自信を持つこと。いい声であると自信を持つこと。

○技術的な細かいこだわりがあるが、こだわりすぎないこと。声に思いも乗せていくこと。イメージすることで表現も豊かになってくる。

○息の流れを感じて、シンプルに読んでいくこと。少し慣れてきたせいか、細かなニュアンスが入ってきて、臭くなってしまう。原点に帰ってシンプルに。

○力みすぎる。正しく発音しようとしているのはわかるが、口、あごはもっとリラックスしたほうが、ことばも自然に出てくる。正しく発音したいのならば、息の強さで調整していくこと。

○体が鳴ってきている。普段の声とセリフの時の声をミックスさせていくこと。普段から、深い声でしゃべっていくこと。普段からの心がけが必要。

○母音で読む練習、母音でつなげていく練習をする。違和感はあるが、慣れてくれば、なめらかになってくるはず。慣れてくるまでは<2音><3音>で練習していくこと。

○体がひびいている時は、声が低くなる。この低い声を自分の本来の声だと思い、そしてこの声を基準に、普段の声を見ていくように。長時間話している時でも、時おり、低い声かどうか、チェックしていくこと。

○腹から声を出していくこと。声を出している時には、息の流れを常に感じていくこと。先へ先へ息を流していくこと。体から声を出す感覚を、体に覚えさせていくこと。

○点や丸をあまり意識しないで、思いをつなげていくこと。テンションを切らさずに、一文一気持ちのつもりで読んでいくこと。

○視線の先に声が届く。例えば、遠くを見れば遠くに届くし、目を伏せていれば、声も伸びていかない。視線の先をしっかりイメージしていくこと。

○表情や動きの前に、気持ちがある。その気持ちも体から感じていくこと。体で感じ、体から気持ちを出していく。体もリアルにお芝居をしている。

○入り込みすぎて、冷静さを失わないように。ある程度、冷静さをキープしつつ、感情の高まりを表現していくこと。その中から、自然なのどの使い方も生まれてくる。

○ボリュームを上げて読んでいくこと。まずは息を吐ききること。吐ききることで、次に自然に息が入ってくる。フレーズの最後まで集中して、息を吐ききること。

○正確にきれいに歌えている。地声から裏声の移行が気になるようだが、聞いていて、あまり気にならない。そういった声自体のことよりも、内容に入っていく、役として歌っていく意識がもっとほしい。声楽はこのまま続けていってほしい。

<日本語曲>

○上半身の力を抜いていくこと。浅い気持ちで歌っているので、そういうことになる。深いポジションから、深い気持ち、リアルな自分自身の思いを、声に乗せていくこと。

○リアルな思いを作って歌うこと。歌詞の説明ではなく、歌手がどう感じているかを、お客さんは聞きたい。イメージを強く、思いを強く、前に出していくこと。それが出来てから、技術的なことを補っていく。

○体の深いところから声を出していくこと。日本語を英語だと思って、あいまいに歌っていくこと。その時のひびきを大切にしていくこと。

○声が上ずり、浅くなる。腹から声を出していくこと。そのイメージを常に持っておくこと。思いも息も下から下から出していくこと。

○自分の中で殻が破れていない。殻を破るにはどうしたらいいのか?気持ちをもっと込めるためには?もっと考えていくこと。

○気持ちがあって、その歌詞が出てくる。どんな思いを伝えたいのか?伝える内容がほしい。もう少し気持ちを出していくこと。

○もう少し喉の力を抜いていくこと。息の流れに集中していくこと。のどの力が抜けている時は、息の流れがいい。その感覚を覚えていくこと。

○歌い方がパワフルでも繊細に歌える。イメージを強く持って歌っていくこと。あいまいな思いが、そのまま歌に出てしまう。思いのあいまいさは、なくしていくこと。

○歌詞をなぞっているだけになってしまう。なぜその歌詞が出てくるのか?思いをもっと突き詰めて考えていくこと。そしてその思いを体に入れていくこと。

○なめらかに歌っていくこと。思いを遠くへ投げていくこと。気持ちが弱い。思いが薄い。自分でどれだけ日々練習を積み上げていくかが課題。

○まずは息の流れで、なめらかにつなげていくこと。その感覚が体に入ったら、ゴツゴツ歌っていってもいい。テンションの流れ、息の流れを大切にしていくこと。

○歌いすぎてしまう。歌うことで満足しない。しゃべるつもりで、ちょうどいい。しゃべるつもりで、息は流していくこと。ことばや内容にもっと集中していくこと。

○のどで押さなくなってきている。重くなってしまうので、のどはリラックスしていくこと。しっかり声を出しても、前に前に進んでいくイメージは持っておくこと。

○歌わない。歌いすぎて、気持ちが入ってこない。「語る」「叫ぶ」の延長に歌があると思って、思いを込めていくこと。

○あいまいな気持ちのまま、気持ちを出そうとしている。もっと具体的に内容を見つめて、自分自身の思いを確認しておくこと。考えること、歌うこと、同じ。

○歌い上げることには集中しているが、何を伝えたいのかがわからない。思いは強く、歌はシンプルに。具体的に感じていくこと。

○丁寧に歌っていくこと。フレーズのつなぎも丁寧に。歌うこと自体に集中しすぎないで、ことばやイメージに集中していくこと。徐々に力も抜けてきている。

○声を遠くへ送ることは意識できている。それをイメージしすぎて、声が浅くなってしまう。上半身をリラックスさせて、お腹の深いところから、声を出していくこと。

○気持ちが出てこない。もっと出していくこと。普段の自分の気持ちの振り幅しか出てこないので、思いを高め、多くの人に聞かれているイメージを常に持つこと。気持ちを大きく。

○消極的にならないように。体の深いところから、しっかり歌っていくこと。またフレーズのとらえ方が点々になってしまう。フレーズをなめらかにつなげていくこと。

○高音の裏声はいい声をしている。この声を生かすためにも、地声を充実させていきたい。
もっとリラックスして地声を出していくこと。なめらかに歌っていくこと。

○雑。イメージができていない。集中力がない。いいものを持っているのだから、後は本人の自覚。

○いい地声をしている。力を抜くことも覚えていくこと。歌に対してもっと、内容からとらえていく部分があってもいい。

○のどで頑張りすぎる。抜くところは抜いていい。ことばの意味も考えていき、すべての音に、均等に力を入れすぎないようにしていくこと。流れを大切に。

○リアルな時間、リアルな空間を感じて、自分の世界を作っていくこと。歌の中で自分がどう感じているのか?その部分をお客さんは聞いている。歌の世界に入ること。

○語りから歌への気持ちの流れを、もっと大切にしていくこと。 気持ちが高まったから、歌ってしまうという自然な流れを作り出していくこと。

○全力で歌いすぎて、一本調子。もっと緩急をつけていくこと、息の流れの変化をつけていくこと。ことばを積み上げていく。テンションを積み上げていく。

<英語曲・ジャズ>

○アカペラになると、テンポ感がなくなり、止まって聞こえてしまう。意識して進んでいき、流れをよくしていくこと。次のフレーズを意識して進んでいくこと。

○歌いすぎて、一本調子に聞こえる。息の流れの変化がつくように、歌いすぎないこと。丁寧に息の流れでつなげていき、流れに変化をつけていくこと。

○もっと爆発力がほしい。思い切りが足りない。テンション高く歌い上げていくこと。譜面どおりではなく、もっと自由な流れを作っていくこと。

○何度も原曲のスキャットを聞くこと。真似できるのなら真似していい。そのうえで自分のフレーズを作っていくこと。決まりにとらわれないで、自由に歌っていくこと。

○ブレスが浅くなってしまう。ブレスも歌の一部だと思って、丁寧にたっぷりすること。英語のワンセンテンスを息の流れと、気持ちの流れでつなげていくこと。

<カンツォーネ・シャンソン>

○高音を出す時、頑張りすぎず、抜きすぎないポイントを見つけていくこと。テンションの高い状態でも、体を使って、のどをリラックスさせて歌っていくこと。

○シンプルに歌っている時は、体で歌っている時。細かい表現ではなくて、体から声を出していくこと。

○「マ」で歌っている時の、なめらかなイメージを壊さずに、イタリア語を扱っていくこと。イタリア語の読みの練習もしていくこと。流れを感じて、何度も読んでいくこと。

○ハミングがのどに力が入らなくて、フレーズの流れをつかみやすい。ハミングの延長で声を出していけるように工夫していくこと。

○少しづつ安定してきている。フレーズを次に次につなげていくこと。テンションを抜くことなく、キープして、歌い続けていくこと。

○「ア→オ→ウ」「ア→エ→イ」の流れで、ひびきをキープしたまま歌っていくこと。日本語的な、ひびきの浅い感覚を捨てていくこと。

○テンション高く歌いだすこと。消極的に歌い出さないこと。その上でなめらかに歌っていくこと。集中して歌の世界に入ること、集中力が甘い。

○なめらかにつなげようとしているが、流れが停滞してしまう。流れは前へ前へつなげていくこと。前へ前へ進んでいきながら、なめらかさを出していくこと。

○フレーズのつなぎを大切にしていくこと。次へ次へテンションをつなげていく。ブレスで思いを深くして、次につなげていくこと。大きなフレーズでとらえていくこと。

○メロディーに高低差があっても、なめらかにつなげていくこと。深い呼吸で、のどへの意識を少なくしていくこと。のど中心にしないこと。体調管理、体力作りがこれからの課題。

○声楽的なイメージで歌っていくこと。イタリア語になると、力で押してしまう。ことばをはっきりさせることよりも、今は、ひびきの流れを大切につなげていくこと。

○自分の歌いやすいポジションで歌うと、声も浅くなる。もっと深い声をイメージして出していくこと。お腹で息を取り込むこと。無理やり上半身で吸わないこと。

○地声であっても裏声であっても、流れでつなげていくこと。イタリア語のひびきを大切にしていくこと。このひびきをつなげていくこと。

○イタリア語、日本語、母音、言語を区別することなく、歌い込んでいくこと。声を出すこと自体に集中しすぎないで、息の流れに、ことばの意味に集中していくこと。

○なめらかに歌ってはいるが、フレーズが停滞して聞こえる。テンションを上げて、次につなげていくこと。フレーズを進めていくこと。

○フレーズとしてなめらかにとらえていくこと。日本語の意味をもっと深く考えていくこと。何度も歌詞を読み込んでくること。

○内容に対してのイメージが弱い。歌う前にもっともっと深く考えておくこと。日本語の歌詞をもっと読み込んでおくこと。

○体を固めすぎないこと。高音も力が抜けてきている。頑張りすぎずに、声を集めていくこと。

○少しボリュームのある声を出していくこと。そして息を流し続けて、フレーズをなめらかにしていくこと。低音は頑張りすぎないで、息の流れでつなげていくこと。

○のどの頑張りと、気持ちの高ぶりが連動してしまう。気持ちは込めるが、そのことで、のどに力が入りすぎないように。

○呼吸の安定感がほしい。歌えば歌うほど、息も浅くなり、胸で呼吸をしてしまう。気持ちも落ち着かせて、体もリラックスして、安定した深い呼吸がほしい。

○息をたくさん取り込むために、息をしっかり吐ききること。もっと前へ前へ進んでいくイメージで、なめらかさが出てくる。

○最後まで息を流し続けること。集中して切ること。ことばが点々になってしまうので、フレーズをもっとなめらかに扱っていくこと。

○平らにシンプルに歌っていくこと。そしてその声に気持ちを入れていくこと。表面的な浅い表現にしないこと。メロディーラインをしっかり感じて、流れを乱さないこと。

○歌うことで満足しないこと。声を出さないで歌った時に、どんな感覚になるのか、よく感じてみること。ボリュームではなく、ボリューム感のある深い声を目指すこと。

○高音を頑張りすぎる。もっと低音からのひびき、流れを生かしていくこと。フレーズとフレーズのつなぎも雑。大きく、なめらかにつなげていくこと。

○イタリア語の発音にこだわりすぎずに、なめらかに歌えている。このなめらかな感覚を体に染み込ませていくこと。日本語との違いを体で感じていくこと。

○思いがあいまい。もっと具体的に考えていくこと。表面的な歌詞から、あいまいな意味を考えないこと。もっともっと深く考えていくこと。

○丁寧に音をつなげていくこと。そして低音から高音へのなめらかな流れを作っていくこと。

○歌い続けていくうちに、力が入ってくる。のどはリラックスということを、常に考えておくこと。息から声。この流れを感じていくこと。

○ことばに気持ちを込めようとしすぎて、フレーズの流れが切れてしまう。フレーズはなめらかにつなげていくこと。それにより、ことばもつながり、ことばの意味も出てくる。

○歌いすぎないこと。いい声は出ているが、歌いすぎて内容が出てこない。原曲を真似してもいいが、練習していく段階で、自分の歌にしていくこと。

<オリジナル>

○軽く歌っていっていい。流れが止まってしまうほど、重くなりすぎないように。軽く歌うが、体の支えはしっかり保つこと。体の中心から丁寧に声を出していくこと。

○定期的にライブを行っていく中からいろいろ経験していき、歌以外のことも学んでいくこと。貪欲に吸収していくこと。すべてが歌のためになる。

○自分の思いを歌っているが、思いの集中が散漫。思いの先をもっとはっきりさせること。思いを固めていくこと。歌わない。思いに集中するだけでいい。

○自分ができること、歌だけではなく、ラップ、ダンス、等あるのならば、そこも鍛えていくこと。表現すべてにおいて、貪欲にアプローチしていくこと。

○モチベーションが下がっている。やる気を出すためにも、一旦歌から離れてみるのもいい。まずは何でもいいので、一所懸命体を動かしたり、働いたりしていくこと。外からもう一度、歌をやる意味を考えていくこと。

○時間の使い方をもっと考えていくこと。自分に与えられた環境の中で最大限の努力をしていくこと。完璧主義になりすぎずに、できることをやっていくこと。


■トレーナーとのQ&A

研究所内外の質問とトレーナーの回答です。
これも相手、目的やトレーナーによって、回答が異なることもあります。参考までにしてください。                      

Q.声に伸びがありません。どうすればよいでしょうか?

A.息の流れが解決してくれると思います。曲でも発声練習でも、フレーズを感じて歌っていきましょう。そしてひとつひとつのフレーズがしっかり作れるようになったら、次の段階として、フレーズ同士の間でその都度切れるのではなく、ブレスの間でも音楽を感じられるようにしましょう。最終的には曲全体の構想が見えてきて、どこをピアノで出すか、どこでフォルテにするかが分かれば、おのずとその方向性に向かって息が流れるはずです。
 声の伸び=(イコール)声の大きさではありません。芯のある声であればピアノでもフォルテでも声は伸びるものです。したがって、呼吸がキーポイントになります。息の流れをコントロールできるように、地道に呼吸法を続けていってください。

Q.ヴィヴラートをつけたいのですが。

A.私の考えでは、早くからヴィヴラートをつけた声にしてしまうとノドに負担がかかると思い、そのままの方が良いと思います。また、ヴィヴラートは響けば自然につくと思うのですが・・・

Q.発声に関して意識する場所にも個人差があるのでしょうか?またあるとしたら自分のオリジナルポイントを探した方がよいのでしょうか。

A.この質問の「意識する場所」とは、共鳴させる場所のことを指すのでしょうか。これに関してピンポイントに説明してある文章があるので紹介します。是非参考にしてください。

「アンザッツは、出そうとしている声の強さ、高さにより、またいくらかは母音の種類によっても、歌おうとしている音楽のそれぞれのスタイルによっても、異なったものとなるだろう。しかしながらー支配的な考え方をもう一度言わせてもらうがーこの声の当る場所というのは、その原因すなわち、それに対応する発声器官の働きがどうか、ということによって決るのである。そのことは非常に規則正しく現れるものだから、そこには個人差の介入する余地はまったくない。
歌手や発声指導者が、およそまったく単純なやり方で、彼の音響現象ーすなわち、そこでも知られており、昔から知られているアンザッツを喚起することによって、しかもかなりの成功率をもって、発声器官の筋肉とその働き方に作用を及ぼしているのだが、もっとほかに理由があるだろうか?もちろん、とにかくこれを実行することこそ、声を開発するための、最も有望な可能性のひとつが、存在しているのだ。そして、歌手や発声指導者は、この信頼に足るアンザッツの実施を、十分頼りにするべきなのだ。
個人的なのは、自分ができるアンザッツの中の、どれを歌手が特に好んで用いるか、ということだけである。」
(歌うことー発声器官の肉体的特質ー)フレデリック・フースラー

Q.以前より声の密度が上がり、話し声も大きな声になったと感じるが、しっかり息が出せている時と、出せていない時がある。
息に意識をとられると、支えが抜けるが、両者はどういう関係なのか?

A.息をしっかり吐くというイメージと、それをしっかり支えるというイメージ、両方を常に持っておくことです。両方大切なのです。

Q.弾き語りの際の姿勢について。マイクがあると、そこに意識をとられ、余計な力がはいりやすいのですが。

A.マイクをあまり意識しすぎないことです。まずはマイクのない状態、ピアノのない状態で、リラックスして歌えるようにしていくことです。

Q.息が長く続かないのですが、腹筋や息吐きのほかに方法はありますか?

A.息吐きが一番大切です。それ以外となると、体を鍛える、有酸素運動をする、呼吸法をする、といったところでしょうか。
また息を長く続かせることは、あまり気にしないことです。長く続かせようとして、逆に力が入ってしまい長く続かなくなります。効率のいいポジションにおさまれば、いずれ長く続くようになってきます。

Q.全身を力みながら、声を出すシチュエーションはあるのでしょうか?

A.オペラなどでは、もちろんあります。全身が力むくらいの思いになった時は、そうなるはずです。しかしトレーニングの際は、ある程度、体をリラックスさせてから、声を出す練習をしていってください。そして徐々に下半身で支えて、声を出せるようにしていきましょう。 

Q.音程、音感が悪いのは、耳が悪いからなのでしょうか?

A.耳が慣れていないということはあるかもしれません。音に対して常に敏感であること。そういう習慣を作っていけば、徐々に音を聞ける耳になってきます。
 また体がうまく使われていないせいもあります。頭の中では、正しい音程をイメージできていても、それを発する体が対応していなければ、音程は定まりません。体も自由に扱えるようにしていくことです。体から声を出していくことです。

Q.発声練習したときの感覚が曲だと活かされません。何が違うのでしょうか?

A.曲といっても作品として仕上げる歌い方と、ここでレッスンしているように、発声をそのまま生かして歌う歌い方があります。私のレッスンの場合、声のコントロールの仕方を曲を通して理解してもらいたいので、発声練習と同じように歌ってもらっています。しかし、あくまでこれはベースとなるものですので、実際人前で歌う時は同じように歌わなくてもよいと思います。
 曲によっては英語など外国語の場合もあるので、この発声の仕方がベストであると一概には言えないかもしれません。ただ、発声の仕方が分かっていれば、自分の歌に取り入れられることができるのではないでしょうか?いわゆる、応用が効くようになると思います。今すぐに曲に活かされなくとも、続けていく間に自然と体が覚えていって、意図的に活かすことができるようになります。自分の声をコントロールするのはそう簡単なものではありません。焦らずひとつひとつ確実に身につけていきましょう。 

Q.コンコーネNo.6の低いミから高いミにすぐ移るところが難しいのですが・・・

A.今までレガートでゆったりした曲想が多かったのですがここに来て伴奏形も先頭にアクセント、力が入る形でついどなり勝ちに歌ってしまう人が多いのではないでしょうか?しかしここは落ち着いて、伴奏部にSempre sotto voceと書いてありますね。常に声を柔らかく、音量を落として初めから大きく歌いださず、徐々に音量を上げていきます。テノール、ソプラノのように自然と高音も出しやすい声質の人は割とスムーズに上行形を歌えるのですが、メゾ、バリトンはのどに詰まる音形かも知れません。低声用テキストに変えて歌うことも考えられますができるだけ中声用を使って音域を広げるトレーニングをして行きましょう。後半長調に変わるところは伴奏部も最後にアクセントが来て曲想が変わっていくところをニュアンスを上手に付けて練習しましょう。

                                
■研究生の声
研究生、通信生などのレッスンに関するレポート選です。

<福島英のレッスン>

○構成をきっちりとって、それでもっていかないとダメだと思いました。肝心な所が乱れがちになるのも考えが足りない証拠。
いつも勢いでばっかり流れにのせてしまうので、それが出来ない曲調でダメなパターンが表れ過ぎる。
「4、5サイズ」が乱れがちなのもこれかもしれない。
7、8、9の声で勝負せずに 4、5の所をもっと丁寧に出す。
しかし、そうすると急にしょぼくなるパターンもあるので…
やっぱり構成の練り込みが必要なのですね。
4、5でもフレーズを止めてはいけない。
だからはじめは10で作っておくのだな、そうか…
しみ込むと落としても流れる。あそーか。
凄いナマケモノだったのだなぁ。

○早めに勝負!
変化をずるずる後延ばしすると、どんどん苦しくなる。
もっと早めにまとめて行く。もっと楽に歌う。
(勝負所を広げたり長くしたりしない)
「スピードを変えてみる練習」
1. ゆっくりやってみる
  つながりを見てみる。
  一つ一つ確認しながらフレーズをつなげて行く
2.凄い早くしてみる
 自分の呼吸に充分な余裕があるところで動きをとらえる
 1フレーズでとらえる。ひとつにしてみる。
曲全体を(4フレーズや8フレーズを)ひとつにとらえる。

○ひく所はキッチリひく!土俵から出るくらいにひいてみる。
メリハリをつける。

○青木裕史
「我が心のアラーフェス」
「モナムール」
「辻馬車」
イヴェットギルヴェール版も聴く
カルメンマキライブ聴く
やりにくい、とり辛い。。。
やだなあと思いつつ、長い時間さんざん我慢して聴いて、その後に原曲を聴いたら…曲のイメージがグッとUPした。
不思議だがよくある。日本もののどこがそんなに苦しいなかなあ。
日本もの特有の「こういう感じでつかみたくない」って所を外してやってみようと試みるんですけど、そうすると音楽もつかみそこねちゃったりしてしまう。むつかしいなあ。

○選曲の問題
歌に対するアプローチを自分軸できちっと取る
声が乗っている所でやる(ハマって無い所は捨てる位の勢い)
「ダメパターン」
声量落とす、身体の流れを抜く、小さく&ソフト
対策:もう出す。
喉に支障が無い程度なら、ある程度のボリュームでやる。
出しすぎる為におかしくなる所(語尾等)だけ注意する。
曲にアプローチする時のスタンスの取り方重要
(イメージの取り方)
「詰まっている声=動かない声」を使わない事
「しなやかに動いて乗りのある声」を使う
そのポイントを中心に一曲組み立てる。そこ勝負。

○イヴェットギルベールで「辻馬車」(日本語)
「フライミー トゥ ザ ムーン」聴く
「メアクレパ」
「エモチオーニ」
辻馬車、コレは出来ない…
出来たらラッパー。

○「固い」圧迫している感じ。
もっと「ねばっこさ」「やわらかさ」必要。
声が抑圧されている→もっと『解放』する!
イメージの問題だろうかしら、自分でもピンと来ない状態が続いている。むー。
なんか混乱ほどじゃないが、もつれた感じするです。

○日本のネイティブ系の曲いろいろ聴く
アレサのカバー集聴く
んー凄まじいです。

○オーティス・レディングいろいろ聴く
語っているだけ、というかザックリした節回し。
ちょっと変なとこも、それもファンキーに思える。
どっか氣狂い入ってないと面白うないですもの。
世界的に有名な日本語は「オタク」と「ヘンタイ」だものなあ。
妙なのはエンタメの基本。そおやった、忘れとった。

日本語カンツォーネ数曲聴く
「ノートル・コンチェルト」
不思議な旋律。
こういうのは頭を空っぽにしてやらないと、考えるとドツボにはまっちゃう…
「青春に恋しよう」 

○荒井恍子さんのライブ聴く。
凄いこの人…同じ人が歌ってるの?って感じです。
「変声」で歌っているお金の歌、いい感じで押し切ってた。
MCの声があくまで基本ですね。
そして次の曲、全く違う声で「スッ」と歌っているが、一体どういうふうになってんのかしら。

「美しい恋の物語」
タイトルと曲の気配とのギャップが素敵。
何故ピアフはこんなにゴムみたいなフレーズを作れるのでしょう。
高低差もまるで感じない。
何もしていないみたいで、何もかもが調度良い感じになっている。
じーっと聴いてみたけれど、どうしても計れないのだった。
数値に表すことが出来ない類いのものなのかなあ。(NI)

○「美しい恋の物語」
きいていて気がついたこと。
アライさんのほうは、出だしの最後:“あなたがいる”と曲の終わり:“あなたがいる”が、リンクしている。
(どういった違いがあるのか詳細は聴き取れなかった。)
サビは、どう処理していいのかわからない。こういったパターンの曲は、馴染みがない。

○沖縄民謡を聴くと、夏だなぁと思う。
アレサ・フランクリン
「let it be」のカバーは初めて聴いた。
原曲とは、異なるアレンジだが聴いていて気持がよかった。
特に、サビはどうするのかと思っていたが納得のいくものだった。
Otis Reddding
ベタベタと声を伸ばしているわけではないのに、きちんと声がつながって聞こえる。同時に、ことばとしても聞こえる。
「ノートル・コンチェルト」
リズム、メロディともに馴染みがなく、コピーさえできなかった。
自分の状態について知る。

○声をはりあげないところで魅せるのが狙いだったが、出だしからこけた。声がうわずり、コントロールできず。焦って、結局力でおしてしまった。本番で、低音や小さい音をだすことは難しいのだと思った。が、だんだん慣れてきているのでできるようになるのも時間の問題だ。
詰めが甘いということは自覚している。どうやって創っていくのかはわかりはじめた。
しかし、完成させるまでの執念が足りない。そこを粘れることが、成長するということなのだ。(TU)

○今日、フレーズまわしをした曲はA→A’→B→B’という解りやすい構成。定石的なこの曲の解釈としてA部分は言葉、リズムでたたみかけてB部分でメロディックにという解釈があった。まずはA部分から。音源の歌い手が女性なのでオクターブ下で口ずさんでメロディを覚えこむ。その後、一人3回ずつ続けてフレーズを回した。一回目はオクターブ下の覚えたキーのまま出し、メロディを体に染み込ませる。2回目。「このA部分は芯のある声で外に投げ掛けないと成り立たない。」という曲の解釈から、言葉が外に飛びやすいようにキーを上げる。歌詞内容とメロディラインが合っているように感じたので比較的、世界に入りやすかったように思う。3回目。どう料理しようか?というのを考える。音源の歌い手は語尾をビブラートで処理しているのを自分もそのまま盗ってフレーズを出しているが果たして?頭の中でイメトレしてみた。「駄目だ。ビブラートを外すとだらしなく間延びしまくる。じゃあ言葉としての要素を強めて語尾を伸ばさず、言い切るような感じで切ってみよう。しっくりくるが、バックの演奏のブレイク音?『ジャアジャ!!』までが無音になってしまう。ここは無音より音が合った方がいいよなぁ〜。」となって、結局はビブラート部分はそのまま盗る事にした。結構シンプルなメロディが続くので単調になるのも避けたい。結果、自然にメロディに誘われたのもあるが言葉としてのたたみかけの最中でも呼吸レベルでの抜く部分も少し出せた感覚があった。

○出だし「忘れるには」の「わすれ」だけで音源の歌い手はかなりニュアンスを入れている。Aで見せた、たたみかけに対してかなり繊細に言葉を動かしメロウにしていると感じた。自分がだしてみると、なんか違う。まずメロディを覚え込む為にAの時のようにオクターブ下で出したのだが、違和感。特に「綺麗すぎる」の「すぎる」の部分のピッチがとれていない。とりにいこうという意識が働けば働くほどにおかしくなりそうだったのでひとます別問題として置いておき、コード内で自分の歌いやすいようにしたがなんとも情けない事だ。次に歌詞の2番でA部分。1番の詞に比べ、「奇跡」だとか「神を呪い」「神に縋り」だとか「とり乱して」だとか非日常的な言葉が続く。今度はこの言葉の持つ意味からアプローチを試みた。「神を呪い」なんて言葉、ふにゃふにゃな声で言ってられない!スタンスを1番の、ただの言葉によるたたみかけから、「悲壮感」「叫び」にチェンジ。思惑には近い結果だったが、帰りの電車の中で「今日のあの部分、もっと目茶苦茶、気が狂ったようにやったらよかった…」と、感じたという事は中途半端だったという事だろうか。もし、やってた場合、もっと音楽が壊れていただろうけど。次にA部分の3番。実験的に「この曲のA部分はたたみかけるのだ」という思いこみを捨てて、「バラードの出だしのつもりで」というスタンスに変えてみた。結果、「お!?なんか暖かみのある声で言葉が言えたな」という事が起きたので、このアプローチはこれはこれで他の曲で使えそうだ。そしてB'部分の最後のフレーズが6回続くエンディング部分。イメージとしてどんどん高揚していく感じがあったのだが、いざやってみると変化がつかない。同じメロディ(しかも短い)の繰り返しでそれをする事の難しさを実感した。徐々に声を大きくしていけば高揚感が出るという単純なものでもないし、一つの課題として持ち帰る。「高揚感を出す」というイメージそのものを変えて違うアプローチでいくのも考えていこう。今日最後のフレーズまわし。1番を通して歌唱だ。キーは音源のままオクターブ下で。本来ならばキーを自分のベストに変えなければならないのだが、メロディがきっちり体に入っている自信がなかった。A部分はやはりもう少し高い所の方がイメージのたたみかけがしやすい。B、B'に関してはまだまだ歌う前のスタンス、イメージを作る所、メロディをきっちり入れる所での問題だな。なにはともあれ、今日の曲は色々な自分の要素、特徴等が良い部分も悪い部分も両方出たような気がする。それをいかにピックアップして使いものになるようにしていくか、自分の良い所も悪い所もしっかり把握していくかが大切になってくると思う。(YK)

<トレーナーのレッスン>

○今回から、大きな声を遠くに飛ばす訓練をしていただくことになりました。
まず最初に「声優入門」44ページの口慣らしトレーニングの中の
ペチャペチャしやすい、ナ行タ行を使って今まで通りの発声練習。
次に、大きな声を高いキーにして「ナ行タ行」。
さらにこの声を新宿の駅まで飛ばすつもりで。
(久しぶりに大きな声を出したのですが、入会する前より確実に大きな声を出せるようになっているので驚きました)
今度はそれを母音だけで。
今度は普通に。
それを普通のまま飛ばす。
再度、大きな声を高いキーで。
次に、ここで出た音を普通に、そして前で喋るつもりで。
「最後に出した声は身体から離れている。これなら少し遠くにいる人にもきちんと届く。
また、のどを締め付けている感じがしないので、聞いていて心地よい。」

○91ページ 声量を変えるトレーニング
Ex.1 大きな声で
上記、最初のレッスンをこなした後だったこともあり、きちんと大きな声が出せました。

Ex.2 小さな声で
はじめに、普通の自分の声を少し小さめにした状態で文章を読んだところ、「そうではなく、ささやき声にして読んで下さい」とのご指摘を受けました。
この「Ex.2 小さな声で」のトレーニングでは、ささやき声を新宿の駅まで飛ばすつもりで行う。
それを行った後、大きな声で同じ文章を読むと遠くへ飛ばしやすくなる。
これが「小さな声を出すことで通り道ができる、ということ。声量をごまかさないということ。」
この訓練なら集合住宅でも可能。

Ex.3 大きな声と小さな声を組み合わせて
文章の内容に従い、大きな声と小さな声とで発声し分ける。
今度はその声の大きさを、逆にして読んでみる。
また、全部大きな声にしてみたり、小さな声にしてみたりする。

『オペラの訓練にも、ささやき声を使うものがある。この声で全部歌える訓練をする。sotto voceといって学術用語にもなっている。ノドのためにもよい。
また、このレッスンは大きな声を使うレッスンとは違い、ごまかしが聞かない。小さな声で綺麗に歌えれば、大きな声でもきちんと発声できる。
「小さな声を出すからこそ、大きなところの通り道を見つけやすい。」
sotto voceは、上手な人ほどできる。これができるのが一流。この声でもきちんと響かせてやれば3千人の前でも届く。大きな声でしか発声できないのは三流。』
−大変参考になりました。(NR)

○「真っ直ぐ進む」
高い所を引っ張らない⇔むしろ押す(押すわけじゃないが)
「同じ所でいる!」
引っぱりもしないし、押しもしないところ。
んー、前に倒れる感じかなあ、あえて言えば。
「出だし」注意する!
そこから引っぱって上ずってたら、もうダメダメにしかなりません。
余裕で出るはずの所も「ヒーッ」って引っぱり癖がある。
それに引きずられて全部がおかしくなるので、要注意!(NI)

○『高音処理のもうひとつのアプローチ』
中高音を中心とした音程練習
あくびで<ハァー>
<マァー>
唇を震わせて<ブゥー>
<ワン><イェイ><ユイ><マァ><エー>
「変化(ファルセットやヘッドボイスへの切り替わり)を妨げない。変化を許してあげる」 
「動きが硬いので、急激な変化になってしまっている」
体や声の動きが硬いのは、力みが原因だと考える。また、力を入れるのが当たり前、力を入れないと不安という感覚や、無意識(癖化した意識)が更なる原因。癖を直すには、まずはそれに気付き、意識し続けること。「力まない!リラックス!」でも、それを意識しすぎると余計力が入ってしまうので難しい。体も頭もリラックスして発声できるように。(IZ)

○自分なりの流れのイメージを忘れていた。縦でイメージをとり、英語の強アクセントは、きちんとチェックかつ気をつける。例えば changeと全部強くするわけではなく、change〜→、chaにアクセントを置き、強めるのはそこだけで、他は流れにまかせる。そのあとに流れがでてくる。言葉にするということだけを考えていたため、変に大切なことを忘れてしまっているのだ。でも、こういうことは、ちょっとした意識が必要であり、そのイメージだけをもっていればミスることもない。
今日のレッスンで得たものは、(1)気楽さは常に(2)子音(3)流れ、強で巻き込む(4)コンパクト、省エネ。(1)は、とにかく声をよくしようと思い、無意識に強めている。そのため、言葉として生きてこないのである。(2)は、子音としての発音がうまくいかない、できていないのと、子音だけをちゃんと発音する練習が必要。(3)は、子音の流れにまかせるのとイメージが足りない。縦十円のイメージの欠けているのをとにかくイメージとしてもっていくということが必要。(4)は、コンパクトは今まで言われてきたこと。そのまま、小さくまとめるということだが、そのイメージがあまりわかない。軽く、小さくまとめていくと流れがきえていくイメージがあるし、実際やってみても微妙という感じ。まあ、そこから研究して、自分のものにしていくわけだから、一番得れることでもある。

○「全ては円の動き」
呼吸も円の動き
吸う&吐く―切らさずにまわし続ける
フレーズもリズムもまわる
太鼓の動きも円である

すべては直線ではない円の動き。
うまい人は自然にそうなっている。(NI)

○呼吸の流動。まず仰向けになり、足の裏から空気を取り入れ、背中から後頭部にかけて一本のラインをイメージして息を流し、頭を抜けて上空からスタート地点の足の裏に向けて、回転ジェットコースターのような軌道を描き流動させる。ポイントとしてはできるだけ大きな軌道を描く事。この事によって呼吸も深く大きくなるようにする。大きく描きすぎて自分の体の器を越えてスタート地点の足の裏まで戻れなくなった時もあった。この時に「今やっている事は器の拡大というよりはむしろ『循環』を目的としているのだ」と気付き、修正。うまく流動して循環できる楕円軌道イメージにもどした。もどしたが、それでもできる範囲内で軌道イメージは大きく。足の裏では「吸う」という意識よりは「入ってくる」という意識の方がよい。今までポジショニングイメージとしてお尻ぐらいまではもっていたが、足の裏までの低いポジションは意識した事がなかったので、今後さらに密度のある声を出す事を目的に、トレーニング段階として足の裏もポジショニング箇所としてとりいれていこうかと思う。続いてこの一連の流れを、立ち姿勢で。流動の軌道イメージは仰向けの時と同じ。軌道イメージをさらに明確にして息の流れがイメージに近くなるように手の動きもつけながらやる。首の後、後頭部をしっかり通ってから外に出ていく楕円を描くとうまく回った感じがした。この流動イメージをもったまま歌唱へ。

○テーマ曲は「島唄」。出だしのAメロ、3フレーズをやる。「でいごの花が咲き」で一楕円軌道、「風を呼び嵐が来た」で一楕円軌道。合計2軌道×3フレーズで6回流動させる。まず「MA」で行う。フレーズの最高音の箇所では軌道のピークを持っていきやすかったが、フレーズの後半の低音部分ではしぼんでいく感じになってしまった。「終わりにむけて音が下がると共にテンションまで一緒に下げないように」とアドバイスをして頂いた。アドバイスを承けて語尾の低音箇所でも呼吸をしっかり流動させる事を再イメージ。多少押し出す感じになった感覚はあるが、しぼんでいく感じは改善されたように思う。

○今日のポイントは、このようになめらかになめらかに流して歌う事が目的ではなく、この楕円流動が安定した見えない基盤としてあった上で好きなスタイルで自由に歌えるようになる事だ。この流動の基盤がしっかりしていると、言葉重視、リズム重視、シャウト等のスタイルでも崩れにくい、安定したものになる気がした。声が詰まってきたり自由に動かなくなる場合はこの流動がうまくいっていないのだろう。経験あるのだが、うまくまわっている時というのはあと何時間歌い続けても大丈夫な感じがするし(これは錯覚でしょうけど。声帯そのものの疲労、なにより集中力の低下があるでしょうし)、この呼吸の循環が無意識で上手くまわるかどうかというのはかなり重要だと感じた。「ハイ」のトレーニングでもこの楕円軌道の流動は大切だ。「ハイ」の時は今日のようにフレーズではないので、半径がもう少し自分よりになると思うが、今日のをきっかけに「ハイ」のクオリティとリピート再現性も問うていこう。(YK)

○A hard day’s night
とにかく力を入れないで歌う練習をしてきてレッスンに臨みました。ところが実際歌ってみると、コーチからは、それ以上にもっと力を抜いて良いと言われました。自分の中で、イメージ的にはフラフラ歌っていて、歌になっていない感じがしたのに、コーチからは喉の感じはそのくらいで良いとの事でした。私の場合、軽く歌ってみてと指示されると力が抜け、体が鳴り、結果普通に歌った(普段私が歌っている)時より、良い声が出るようです。キーの高いところでも頑張り過ぎないことが大事であると改めて実感させられたレッスンでした。

○X JAPANのForeverLove
私の場合、声を出しすぎる傾向にあるので、力を抜いて歌ってみてと指示され、その通り歌ってみると、やはり結果として、深い声が出るようになります。これは非常に良い傾向ではあると思いますが、力を入れないように軽く歌う時や息を半分にして歌う時に、テンションまで下がってしまう欠点も見えて来たレッスンとなりました。
今回のレッスンで、野球のスイングの例え話が分かりやすかったです。野球のバッティングで素振りの練習をやりますが、私の場合、フォームを無視し、力まかせに振っている感じ(クリーンヒットは期待できないような歌い方になっている)との事でした。まずは力を入れず、フォーム重視で練習をし、インパクトまでの形をしっかりと固める事が必要であると感じました。

○最近、やっと力を入れない方が高い声が出るという事が改めて分かってきました。かなり以前より、高い声は力を入れると出ないと指導していただいて来ましたが、正直いまひとつ実感がありませんでした。やはり、自分の中では高い声=大きい声で、大きい声は力を出すという考えがどこかにありました。確かに、全く力を入れない訳ではありませんが、体は全体的にリラックスした状態で歌わないと高い声が出ません。力まかせの歌い方では、良い声ではないし、一時的に高い声が出ても長続きしません。とは言っても、私の場合、まだまだ不必要な力があちこちに生じているので、どんなに高い声でもリラックスして深い声で歌えるようになりたいと思います。    (SH)

○喉の力が徐々に抜けてきている。
息をたくさん流して良い声で歌うことと言葉としてどう聴こえてくるかのバランスを意識する
言葉(歌詞)の具体的な意味を考えながら歌う。
息の流れをよくし音と音を繋げ、さらに大きいフレーズで繋げていく。
一音一音を深く掘り過ぎなので、小節の頭などアクセントをつける位置を考える。(OG)

○仰向けに寝て、お腹に手をあててまずは何も意識せずに睡眠しているようにリラックスする。あえて「どこに焦点を」等と考えない。結果として勝手にお腹が上下に動いている状態だ。その状態から少し「呼吸の規模」を大きくする。いや、「大きくする」と言うと力を加えているようなので「足す」と言った方がいいかな。自然な状態でという事だ。続いてここからは焦点を意図的に。前回やった楕円軌道。足の裏から入り、背中、首の後ろを通って天空を回り、また足の裏から入ってくるイメージ。最初は細く長い呼吸で。長いと言っても息が切れてきているのに無理やりしぼりだして伸ばすのではなく、あくまで自分のサイズで。途中自分の心臓の鼓動に息の流れを揺さぶられるような感覚があり流れがふらついたが、しっかり流し続ける事を意識するとそのふらつきもマシになった。次に楕円軌道は止めて、60くらいのテンポで5カウント吐き、1カウント吸って5カウント吐く事を続ける。自分の中のイメージとして後頭部から回ってくる楕円軌道の時に比べ、口からまっすぐ前に飛んでいる感じに切り替わっていたが、それも割合の問題で、楕円軌道の時の通り道も使う意識なく使われている感じもあった。1カウントの時の「吸う」時も目一杯取り込もうというのではなく(それをするといらぬ箇所に力が入る。鍛えるという目的で意図的にやる時もあるが)、自然に「ぶわっ」っとお腹が膨らんで、空気が入ってきてくれる良い感覚があった。

○課題曲「島唄」。前回はAメロだけ歌ったのだが、今回はBメロ、サビまで。一回目はとりあえず体をつけた感じで歌ったのだが所詮とりあえずで歌った感じが出てしまった。なんというか声の焦点が右にいったり左にいったり内だったり前だったりと一本通ってない感覚。二回目は出だし「でいごの…」から聞き手を「おっ!?」と振り向かすぐらいのテンションで。力で行くというわけではなくて、イメージ的には威厳のある感じのイメージ。ただ歌っている最中に感じた事だがこのフレーズ、3回繰り返しになるので3回目には「なんか単調だな」と感じた。それでも曲は進行中だ。Bメロ、「ウージの森で…」から意識的にリズミカルに言葉で言っていく感じにしたつもりだが、サビを予感させるような高揚感みたいなものが出せなくなり、ここだけ単品みたいな感じになったように思う。サビ、「島唄よ風に乗り」までは音自体も上がるので外に解き放つ感じが出しやすいのだが、「鳥と共に」で少しパワーダウンして「海を渡れ」で尻つぼみになる。音が低くなるので呼吸として高い所の方が外に飛ばしやすいのは当たり前なのでこのあたりのバランスをどうもっていくかはこれからも課題だ。今日は対策として外に解放するのはこの高さでは無理なので言葉で力強く言っているイメージで尻つぼみになるのを回避しようとしたのだが果たして。この部分だけ重々しくなったかもしれない。3回目、バランス、聞きやすさを意識した上で訴えかけるような要素を加味するイメージ。いつも自分を丸だしでいこうとすると力みが先行して音楽的でなくなるので、それをセーブしてくれるもう一人の自分がいる感じだ。出だし、リラックスできているのに肉声に近い威厳のある感じが無意識に出た!繰り返しの時には少し動きも自然に計算ではなく出た感じ。Bメロの「ウージの森で…」からサビまではやはり問題だ。「サビ前の高揚感」にこだわりすぎてサビ直前の「千代にさよなら」を無理やり押し出してボリュームをつけようとした感じに。これは高揚感とは言えない!正直、音として低いから高揚していく感じが自分には難しいのだ。それならむしろ、とことん落として、サビで爆発するというようなギャップ作戦で言ってもおもしろかったかも。「なんだそりゃ!」という結果になるリスクもあるが。サビは音色をできるだけ統一させようと意識してみた。顔に響きをもっていった技術に頼ったような、なんともいえぬ気持ちの悪さ(「これって表現じゃあないよな」みたいな。)があったが、バランスはとれた!

○本当は赴くままにイメージした景色に向かって爆発させたいのだが(こっちの方が表現している実感が。)、先程のとおり高音部分だけ解放して低音部分で尻つぼみになる。バランスを意識した(響かせる場所等の技術を意識した)方が表現しようとした方より出来が良いという矛盾に陥るが、そこは個人的見解として、「一人よがりの自己満足」と「表現」は紙一重であるからその要素はこれからも意識して自分をさらけ出していく事をやっていくべき。という意識と「客観的に自分を突き放して『音楽としてどうか』と冷静に判断できる、いかにまとめあげた作品にしていくか」というとことん、音の流れを最重要視した意識と両方合わせもたなければならない。という事で結論として「自分の表現したい世界は何なのか、またそれをどう表現したいのか」というバックグラウンドを生きていく中でしっかり意識していく事と、好き勝手やって音楽として成り立つという事をやるなら、よほどたくさんの音楽が入ってないと無理だから「意図的に数を入れていく事(聴き方の質も大事!)」をやっていかないと難しい。はっきり言って今の自分、両方中途半端だ。そりゃ〜、何も生まれてこないわな。(YK)

○発声練習「ん〜〜〜、まぁぁぁぁぁ」と「ん〜〜〜、めぇぇぇぇぇ」「ん〜〜〜、まめまめま〜」をした後にカンツォーネ・ベスト・アルバムVol2の88ページ「花をありがとう」の3ページ目の途中までのイタリア語読みを習った後「ま」で練習しました。
この研究所に入る前までは、喉を外して力をものすごく入れて発声してたせいか、息を流し続けて発声する方法がいまいち掴めない状態です。
感覚は掴めているんですが、声がまったく出てないような、そんな感じにもなってしまっていて、歌っていて力を抜いているんだけど、更に感覚まで抜けて、たまに本当に息だけになってしまっていたりしてます。とにかく、感覚を手放さないように頑張ります。(OO)

○音程が上がっていく過程でのファで声が落ちて、音程が狂う。いつも同じ発声で歌えるようにする。音を覚える。
音程とリズムの両方が安定するように練習する。
〜度などの楽典は考えないでもぱっと出るようにする。(HS)

○喉の調子が悪くレッスン全体を通して音程がフラットしていました。 
体調管理にはもっと気をつけたいと思います。
ポジションがどうしても下がってしまう。良いポジションの時と悪いポジションの時の区別がまだしっかりできていない。響かせる部分の使い分けがまだできていない。(OG)

○ハミングから実声アにうつる練習で
横隔膜は下がり、肛門は上がってくる感じ。横隔膜と肛門との距離を縮めるジャバラのポンプの中で。肋骨は開いている感じ。横隔膜は下に保つ。
おしりだけ上げようと思ってもこない。下からの矢印と上からの圧力と両方あって成り立つ。
ずっとカラダは動いている。動いていて、伸ばす最後の音も捨てないこと。
最後まで歌いきったらカラダを緩めれば、息は自然に入ってくる。
高音部、辛くなったらおしりでぐっとがんばる。横隔膜は保って。
水中の中に入ったような状態。息を止めて、張ってるような状態。
頭部は、あくびの状態。
いいにおいを嗅いだ時みたいに広がる感じ。
声を出したいんだけど、息の方向は後ろ。息すってるような感じ。出してるんだけど同時にすってる感じ。
頭から息を送るというよりは、息入れちゃう。音を作るだけ。響きを作るだけ。その中から出さない。
危ないと思ったとき抜いてしまうクセがあるが、怖いだろうけど、そのまま。

○「ミメマモム」
頭の中に音を入れてしまう。mを利用して響きをつくる。手を額にあてて、振動がくるように、カラダを出発して圧力を高めて。
「キケカコク」
声を発声する。額から鼻のあたりにかけて、共鳴部分のストライクゾーンがある感じ。
なかなかできませんが、徐々にイメージできるようになってると思います。
キケカコクをやっていたら、ウエスト(腰上)のあたりの背筋がすごく動いていました。今までどんな練習をやってもこんなに背筋を使うものはなかったので驚いています。(OA)

○「ミメマモム」の発声で
頭にも入っているが、半分くらいはまだ胸に入っている。声を出そうとせず、鼻から額のあたりにかけての共鳴ボックスに閉じ込める練習。
喉を上げるクセがある。逆に拡げること。
喉の周りは開けている感じ。周りの筋肉を開けると、声帯は閉じている。そういう状態。そうするとムダな息は出ない。
あくびをしたときの感じとか、息をすっている時、喉の前後の距離が延びる。そういう使っている感じ。
声帯が開いたままシャウトとかすると、喉を痛めてしまう。前後に長く、力の方向も相互にありながら、のど仏もリラックスしておりていること。
腰回りと、頭のポジションが一瞬で繋がるように。途中喉でじゃまをしない。無意識かもしれないが、まだ喉で言っている。頭のてっぺんで言うつもりで。
肩を緩めて、下からきていて、その力のバランス。それで息を作っててっぺんまで持っていく。
喉で押さえない。まだ「いいかな?」と喉で押さえている。
最初の「む」という瞬間に力み過ぎ。最初は息っぽくていいから、だんだん「む」になる。
喉を上げてしまって、胸で押しているので、この辺り(胸喉あたり)を忘れる。腰回りだけ。背骨と。背骨を通ってきている。
口の奥が高いまま(あくびポジション)、開けたときにスーっとする場所(名前を忘れました)が高いまま、その後ろを通っていく感じ。
ベロの奥が硬い。後ろが上がってしまっている。ベロはダラーっとして。発音している位置が後ろ過ぎ。ベロの先にもちょっと意識がある。

○「イエアオウ」指を歯にあてて
あくびの口蓋(?)をトンカチで毎回下がってこないように叩いている感じ。
発声するとおなかがへこむクセがある。
立っている時、意識は地球の真ん中まで突き刺さっていて、上は天まで 延びている。出発点は下からきているので、おなかの前後ではない。だから喉にどかっと息があたってしまう。おなかはむしろ前面は緩いくらい。ふくらむくらい。そして、頭は上半分だけ。
音を伸ばしている間は、カラダは動いている。
送り出す体が足りない。いろんなところで踏ん張るクセがついている。邪魔をしてはいけない。

ドで「ミメマモム」
落ちないように保つ。動き続けてカラダを。
腰から上が、カラダが閉じている。
胸のラインから緩んでいなければいけないのに、硬くなって閉じてしまっている。それをとること。
下からのが足りない。背筋をつけること。腰からせないかのあたり。
腹筋は使おうと思うと硬くなってしまうので、下からのを意識して、前はむしろ緩める。 (OA)

○音の最後を喉に入れないこと=微妙に音が揺れる
ちょっと足りないかな?位の余裕を持って歌う。
「んマんメんミんモんム」「カケキコク」
響きを頭に閉じ込める感じ。喉は力はいらない。

頭の中に息を吐きながら氣を送っていくトレーニング。
声を出さずにやってみる。
「まず響きを作る」脳みそを空っぽにする感じ。
その上で延ばす
「んマんメんミんモんムーーーーーーーーーーーーーー」
“マメミモ”は声をつくるだけ、歌おうとしないで出す。
“ム”で入った所のまんま延ばす。
延ばす時、止まったままじゃない。喉も身体も常に動いている。止めない、緩んで行く感じ。そうすると声がやわらかくなる。
喉で調整しない、身体の圧力で調整する。
押し出しが足りなかったら「もっと下から」ぐっと出す。
上と下のポンプ「ジャバラな身体」
中間音がどっちつかずでフラフラしてしまう、今は“上より”の感覚で出してった方がよい感じ。(NI)

○技術、曲想のまとめ
はじめ、全てを太く出そうとして声が重くなっている。息が出ていない感じ。上下降するとき、最後の方をいつも抜いてしまう癖がある。最後の最後まで芯のある声で出し切る。クレッシェンドではもっとエネルギーを使う。普段から今日やったくらいのヴォリュームとか変化量をつけてやらないと身につかない。
「アメージング・グレース」
はじめは母音のみで歌った。出だしが一番難しい。ミを押さず、ラを抜かない。いつも逆にしてしまう癖がある。
二分音符がいつも短い。頭の中でしっかりリズムが取れていない。
ブレスがせわしない。急いでいる感じに聴こえる。
自然に、見ている人が呼吸しているように、たっぷりとブレスする。
そうすると必要な量だけ入ってくるし、テンポもハシりにくくなる。
後半の高音の上のポジションはしっかりつかむ。ジラーレに入れてから一気に開放する。伸ばす語尾は、いつも吐ききる。 
まとめようとしているのか、いつも息を止めてしまう癖がある。
そうではなく吐ききる。そうすると次のフレーズにつながりやすくなる。

○英語の歌詞で歌った。
英語は子音中心なのでさっきのように行かないが、伸ばす音ではしっかりと母音を鳴らす。
また、母音に比べてフレーズがうねうねしやすい。ストレートに、1フレーズをつなげて出すようにする。
「グレース」、子音の部分を伸ばしすぎ、一瞬で母音に移って、母音を明るく鳴らす。
だんだん音を合わせない。パッと入ってから、好きなだけクレッシェンドする。
次に全部をpで歌ってみる。所々音が抜けてしまう。
pでも全部を芯のある声で歌えるようにする。しっかり母音を鳴らす。(KA)

○お腹をに力を入れて締め上げるのではなくポンプのように使って声を出す。常に声を頭につなげて、頭に響かせる。
声を安定させる。声を出しながら腰を回しても決してぶれないところで歌う。
喉を下げない。喉のことは「忘れる。」
「まめみもむ」と頭に響かせる練習で、声の出し方をつかむ。
声の出し方だけに気をとられて音程がぶれることはなくす。(HS)

○上の方を「より大きく」出す。
声は半分より上で響かす。
鼻の奥も開ける事大事。
鼻の横にも穴があって、そこも通っているイメージでいく。
アクビにもなっている「とにかく開ける」事!
「音の違い」と「自分の身体の違い」を、よく観察してリンクさせよ!
下の方も上と同じ感じで丁寧に出す。
「ロングトーン」一度ハマったら、自然に任せて広がるに任せる。
上のEとE♭で変わってしまうようだ。

○ハミングの時、喉つめない事⇔むしろ逆に吸うよな方向
(スタッカートも同じ所)
思っているよりも倍位のイメージを持っておく
声をつぶさないことを意識する
戻ってくる時、喉に戻さない。
引っ込めないで送ったままにする。(身体は休めない。保つ。)
聴いた高さで身体を準備する。そして顔上にカンッと入れる。
頭の中に渦巻きをイメージする。それに引っ掛けて出す。
スタッカートの時は腹はペコペコしない。
上下に動く。身体は筒、ピストン。(NI)

○鼻の奥を開ける。
顔の前に人差し指を立てて、そこに出すイメージ。
声を前に出すのでなく、縦に伸びる。
出だしの音を無理に作って出そうとしない。
地声低音→ファルセット高音→地声低音に移動する時、
1.丹田の意識は同じままで出す。
2.音目の高音のまま、ポジションを下げない。無理にたくさん声を出そうとしない。 
3.腰を曲げ、空気の流れを感じる。
地声・ファルセットの切り替え音域で、音程が細かく動いて、きれいに出ない時、鼻の奥に各音当てる。(OK)

○気持ち悪いズレ
慎重になりすぎかヴォリューム抑えすぎか、ストレートに出せない。
うねうねしてフレーズのつながりがない。もっと自信持ってやる。
だいぶ以前とは身体が変わってきたので、支えようと構える必要はそんなにないように思うがついしっかり出そうと力んでしまっている。そのせいか、重くて広がった音色になっている気がする。
リラックスと細さの両立が足りないと思った。細さはテンションが高くないと出せないけど、同時に力まないようにする。
あとは、ここにきて半音系がかなり増えて一気に難しくなった気がする。
ただ、基本的に余裕で出る音域なので、大切なのはとにかく丁寧に細く、針の穴よりもっと細いところへ通すイメージを持つことだと思う。
歌や言葉はもちろん別だが、wの練習に限っては音の正解は本当にそれくらい狭いというかほぼひとつだと思った。
わずかでもずれているとどうしようもないくらい気持ち悪い。
指摘されて気付く事もあれば、言われなくてもここはまずいと思うことも増えてきた。
身体は自然に通過するのを待つとして、ここでは細さと半音の違いの大切さをかみ締めてやる。
あと、ストレートに出す事だけは気をつける。一瞬で目的の音に行く。(KA)

○「スタッカート」
“シュッ!”のポンプ時に、固くなってはいけない。
下からの↑と共に、上からの緩みがセットになってないとダメ。
緩める感じが難しければ、力を抜くだけ(踏ん張りをやめるだけ)でも可。
へそから下以外は“だらんだらん”に抜く
身体の力はそのままで、ボリュームを半分位に落としてみる
“スタッカートは「力の集約のコツ」が必要”
キーンと、頭つむじまで届くようにスタッカート。つむじが響く。
ティーパックになる。
高い所はヒモのフリを「ふん!」っと大きくする。
上に行けば行くほど、下から出発する。
今は響きにならなくても、方向性は変えずに、小細工はしないでそのまんま出して行くこと。

「レガート」
これもシュッ!これも噴水!
下に“シュッ”の時、上にアサガオ状に広がって行くように。
胴で止めない。
シュッ!の瞬発力で上まで広がってゆく。
顔面の上半分で響く。
この顔面と身体をつなげていく。

「開く」
上半身全部で暖かくなるように“ふわん”と開く。

○「スタッカート」
腹はへっこむ
ダイレクトに送り出す
押さえつけてはダメ、押し付けるのと違う
下腹が上へポンプする

喉で邪魔しない
→喉にひっかかると語尾が揺れる=音の方向が逆になる為
息を送る事だけを考える

途中(胸など)を固くしない、顔も固めない。
上に行くほど広がって行く「噴水」のイメージを持つ。

○閉める・羽閉じる       閉める・ 羽閉じる
[ ハ!]            [ ハ!]
ポンプ           ポンプ
シュッ!           シュッ!
ゆる〜         ゆる〜           ゆる〜
[ハ]         [ハ] 
[ハ]
羽広げる        羽広げる         羽広げる
「強弱をつけてやる」
強拍のとこ&高いとこ→シュッ!とポンプする、集中する。
羽を閉じたり広げたりするイメージも持つ。
踏ん張るのでは無い(下広がりではない)=逆三角形になる
んー、何かまだ、イメージし辛いな…。(NI)

<メニュ>

○声のしくみについての講義
声の3要素
1.声帯
2.呼吸
3.共鳴
(これだけでは、ただの音にしかならない)

声の4つの因子
1.高低
2.強弱
3.持続時間
4.音色
(これを組み合わせて、バランスをとり、自分の出したい声をコントロールする)

これを踏まえて、「声優入門」71ページ。
5音から8音を、胸部共鳴で。

これらの短い言葉であれば、良い声が出るようになってきている。
将来的には、これを長い文章で出せるように。

○頭部共鳴
鼻腔共鳴を使う。これは鼻にかけるのではない。
鼻声のようになってはいけない。
この胸部共鳴と頭部共鳴を使い分けられるようにすると良い。

上記「声の3要素」の1.声帯はさらに4つに分けられる。
1.声門の緊張(張り)
2.声帯の開閉
3.声帯の厚み
4.声帯の長短
厚みと長短は生まれ持ったものなので、変えられない。
緊張と開閉は調整しなければならない。
息もれは開閉で調整。
<結局、鼻腔共鳴・頭部共鳴が上手くできませんでした。
今後は胸部共鳴をメインにトレーニングをして、頭部共鳴>

普段使う声の「強弱」を、自分で決める。(役者なら大声の息の量を使う)
普段使う声の音量を決めておくと、大きな声を出したいときの音量を調節できるようになる。

○「声優入門」
p.50 母音の無声化のトレーニング(2)
アイウエオで無声化されるものはほとんどない。
子音がくっついてはじめて無声化できる。

二重母音のトレーニング
アクセントの位置によっても不自然な聞こえ方になるので注意すること。
「青い家」は全部母音。aoi ie 。特にイの2文字をはっきりと発音すること。
そうしないと遠くの人には聞こえない。

P.141 パーソナリティのトレーニング
「もう一度」は、「う」と「一(い)」の間をはっきりとさせて発音。
「あなた」は、全てア母音。一つ一つの音で口をきちんと開けるように意識する。
「輝いて」の「かがや」も同様。
「まず」の「ず」が「す」に聞こえる。この「ず」はほとんど無声化する感じ。
「u」「z」のほうが強い。
「その土地」の「そ」は無声化する。「の」は無声化せず発声する。
「うみべ」は無声化なし。すべての音をハッキリと発音。
「ひるね」の「ひ」は無声化。
「かなた」は「あなた」と同様に。

途中で段々と私のクセである「口が狭くなる」がでてくるので注意。
読むことに集中してくると、そうなりがち。
以上のように、二重母音と無声化しているところで、だいぶ喋り方が変わる。
特にア母音が3つ続く単語は、走りがちになるので注意が必要。
また、私の場合は、語尾が聞き取りにくくなるので注意。きちんと母音が聞こえるように。それと声が暗くなりがちなのも注意する。(NR)

○1.発声前顔面の動かし
2.頭を下げた前かがみから、体を起こしながら発声「オオオオオ」
3.フレーズを長くした母音の発生
4.音程をいろいろ変えて組み立て。発声間違わないように注意。
5.「ラリラリラ」「ラロラロラ」「ラルラルラ」の発声→区切るように歌っている。レガートで。
6.「ザー」「ゾー」「ゼー」の発声
7.「真珠取り」タンゴ、
ドラゴン唄→昔、聞いたのを思い出す。のびのびとした声で引き込まれる感じ。

1.高音を出すにつれ、息の量を多く出す。喉に力をいれない。
2.「 I 」の発声→喉に力をいれてしまう
3.コンコーネ5.7.8番。テープを聞いても良く歌えていない。
復習すること。(SI)

○・声は上半身だけじゃなく、下半身も合わせて、体全体で出すものだということ。
・声を出す前は、運動する前と同じで準備体操、ストレッチを行い、体をほぐしておく必要がある。
・自分は歌うとき、今までは胸で息をしていた。それは無意識にやっていたが、先生に指摘され気づくことができた。
頭の中でイメージし、体の部分に意識を向けながら歌うと、そうでない時との感覚が違う。例えば、鼻と口のつながっているとこ(わさびを食べたらツーンとするところ)が開いていること、顔の至るところに空洞があること、声が高くなるとき首のうしろ側が太くなってゆくこと、etc...を意識しながら歌うと、本当に何気なく声を出しているときとは違う声が出たような気がした。(YD)

○・日常生活から、ろっ骨のある所で全ての声を支えるように意識してきました。今日は比較的話し声から出しやすくなっていると感じます。
・日常生活から、のどの奥を広げるように心がけてきました。(AM)


○「ダ・カーポ」研究生の取材

Q.研究所に通うようになったきっかけ。

「趣味として取り組む声楽の勉強のために入所し、呼吸や発声のトレーニングを続ける中で自分自身の日常の話し声についても関心を持つようになった」そして、「トレーニングを通じて、少しずつ自分自身の話し声が変わってきた(自分の感覚ではあるが声が良くなってきた)という自覚がある」
ただし、「声が変わるといっても、声を磨いていく結果として仕事やプレイベートの日常の場面、つまり、たとえば営業マンであるならば営業成績が上がったとかの具体的な結果に結びつけることが大切と思う」

Q.実際に、どのようなトレーニングをしているのか。

これは実際に行ってみせた。言葉での説明が難しく、たとえば「息の支え」というような言葉は用いない方がよいと思い、「内臓の筋トレ」「息の筋トレ」「横隔膜の筋トレ」等の言葉で説明し、イメージしてもらえたようだ。
ハミングなどは電車のなかでも行っている。また、自分のような一般の社会人の場合、何よりも通常の仕事の中で話す場面が最高最善のトレーニングの場であると思うと述べる。

Q.実際に声を鍛えることによって、仕事上の成果とか、あるいは異性にモテるようになったなどの効果はみられたか。

「これは、仕事の上でも、プライベートでもそうなのであるが、声が変わってきたという自覚を得ることによって、自信を持って話せるようになったと思う。また、より重要なことは、その結果として、気持ちに余裕が生まれ、相手の話に深く耳を傾けることができるようになったと思う。それは相手が男性であれ、女性であれ同じである。結果、以前よりもコミュニケーションを深めることが上手になったと感じる」
「仕事の上での成績向上などは以前よりもある。ただし、それには声の力もあるかもしれないが、無論、声の力だけではないと思う」
(雑誌でも単行本でも「恋愛」「モテ」をテーマにすると飛躍的に部数が伸びると以前どこかで聞いたことがあったので、この質問はある程度予測していた。残念ながら「モテ」の実感は特にないが、そのように即答してしまうとテーマとしては身も蓋もないので、概ね上記のように答えた。なお、仮に「モテ」の実感があったとしても、「はい。モテるようになりました」などと臆面もなく言うことはできないと思うが)

Q.では、トレーニングを開始する前は、どんな声だったのか。

これは答えるのが難しかった。というのは、決して「劇的」に変わったわけではないからである。「現在よりも薄っぺらい、浅いような声」と説明。

Q.今後は、どのように取り組んでゆくのか。また、「このような声になりたい」という目標(有名人など)はいるか。

「特に有名人の声などを目標にしているわけではないが、自分が本来持っている声の良さを知り、それをさらに深めてゆきたい。私たち一般の社会人にとって第一腺の仕事の場はオペラのようなものだと思う。営業マンであれば商談の場はオペラ、市役所職員であれば窓口はオペラの舞台である。その、第一腺で用いる声を少しでも魅力的にすべく、訓練を続けてゆく」
(「商談はオペラ」は私自身、率直にそう考えているがゆえの発言であったが、ゲラを見て、いざ活字になるとかなり大仰な感じで、気恥ずかしいものがある。ただ、記事のテンション、ノリから考えると案外しっくりときて、ちょうど良い表現だとも思った)

以上、取材対象として、お役に立てたかは不安であるが、自分自身としては、今回の取材の機会をいただくことによって、改めて、これまでのトレーニングを振り返って分析し、また今後の課題を考えることができたと思う。(SD)