会報バックナンバーVol.185/2006.11


レッスン概要(2005年)

■講演録[051020]<rfは、HPやQ&Aブログを参照>

Q.自分の声が悪い、はっきりとしていない。

A.きれいな声、美しい声ということはありますが、声はその人のキャラクターとあいまって、なんぼのものです。あまり気にせず、トレーニングしましょう。(rf)

Q.聞き取りやすい声と聞き取りにくい声があるではないですか。

A.確かに言葉が聞こえないよりは聞こえたほうがいいのですが、これはいろんな要素が総合的になっています。私は、深い声を重点的にみていますが、そればかりではありません。(rf)

Q.ビブラートのかけ方がうまくできない。

A.しっかりと基本の勉強したら身についてきます。(rf)

Q.プロデューサーにきちんと評価されない。

A.プロデューサーに言われて、ここに来る人もいます。「ここに来たら直りますか」といわれますが、いろんな問題点は、一般論ではなく、個別にあるものです。あなたと、あなたのやっていくことに対して、見なくてはなりません。そのように言われたから直す必要があるのかも、難しい判断なのです。要は、その人の音楽や歌の中で、何を本質的なものにするかということです。

○トレーニングで判断力をつける

現状にやれていて売れているような人は、皆、ことばがきちんとして、声がよくて、美しい発声で歌っているということではないのですね。たとえばバンドをやらなければいけない、歌をやらなければいけない、そこで、ヴォイストレーニングに行こうとします。これはひとつの選択肢にすぎません。

その人がつくりたい世界に対して、何が明瞭に欠けているのかというのが、あったときに、ヴォイストレーニングであれば、補強できると思います。ヴォイストレーニングで来られたとしたら、その必要性があればよいが、なければつかむことから、です。
業界でどういわれても、そこから疑おうということです。歌をやるのに、習いに行かなければいけないのかというところから、疑ったほうがいいということです。

どこかでヴォイストレーニングを受ければ、すぐに効果が上がって、すごいヴォーカルになれるという期待で来られます。しかし、それをどこまで実現できているのか。多くの人を見てきたらわかります。長い時間やっていたら、どんなものかがわかります。それがうまくいく人もうまくいかない人もいるという部分もあるのです。良し悪しは別の問題で、判断は難しいことなのです。力をどうつけていっているかのプロセスをみるのです。

○可能性と限界

声というのは、皆さん、大体、イメージとして、こういうのがいい声だというのがあります。けれど、それ自体が間違っていることもあるし、そういうふうなものがあったとしても、それに自分がなれるかということでは、そういう資質を持っているかということで、別問題です。声には可能性もあるけれど、限界もあるのです。☆☆

ヴォイストレーニングで間違えやすいのは、多くの場合は、自分の課題ではなくて、大体誰かに憧れてヴォーカリストになろうと入るわけです。その人にとっての目標というのは、誰かの歌を誰かのように歌えたら、気持ちがいい。それができないから来ている人が多い。

トレーナーの指導を受けたら、皆が同じようにできるようになるのでしょうか。その人と似ている骨格を持っていて、似ているような声を出せる人なら、有利で、それに近いことはできる。同じことはできない。それがまったく逆だと、その目的をとること自体、意味がないといわないまでも実現は難しいです。
プレスリーそっくりに歌うようなことはできるかと、いうと、声で判断して、「たぶん無理でしょう」とか、「似たところまではいけると思いますが、そこまでです」と。その程度は、今の私はわかります。

○目的を見つける

若い人に言うのは、「本当にそれが目的なんですか」ということです。あなたは彼らがやっているステージに、変わる自分のステージがやりたいということが目的だったら、彼らのような声や歌を勉強することは、本当のことをいうと、あまり意味のないことなのです。カラオケがうまくなるためというのは、また別の目的としてあります。私は自己投資という考えですから、結果が得られないものに関して、引き受けたくない。でも、明確な目的を見つける時間は、長年でも待ちます。やる分には何でもいいでしょう。やることを楽しむなら、もう少し楽にできるしょう。それも第一歩だからです。

Q.ミュージカルのきちんとした発声で、響いた声をつくっていきたい。

ミュージカルの希望者は3年くらい前から多くなりました。最初に徹底して、声楽を、マスターしましょう。
いろいろな先生がいますが、ここは特に声に対しては厳しいので、そういう人には、声楽をベースでやっています。
日本でミュージカルというと、声楽の延長上に置かれているのが確かです。審査する人や、劇団の演出をやっている人がそういう感覚があるのです。そこに通りたい人には、一時、そういう目的をとらせるということで、ここでもそういう形の対応をさせています。
声楽家で一流になれば、レベルの高いことができるようになるのではないのですが、とりあえず、日本のミュージカルは出られます。ここでプロとして、10年15年やっている人も引き受けていますが、ロングランができることが第一条件になります。

○声楽のメリットとは?

声楽というのは、ある意味では自分の身を守るために必要です。役者の発声でプロに入ってくると、インパクトや個性はありますが、自分の声のことを本当の意味で使っていないから、わからないのです。役者は声を少しつぶしても成り立つのですが、歌い手の場合は、高いところは出ない、響きは伸びないと、なります。その点、声楽の人が残るのは、逃げ方を知っている。これ以上やってはいけない限度として、ふまえています。

劇団出身の人は、演出家が「もっと大きく出して」というと、そのまま大きく出してつぶすのです。ところが声楽をやっていると、声を荒らしては元も子もないということで、大きく出しているように見えるように、出さないでやるのです。それは自分を知っているという意味では大切なことです。そんな意味で、声楽をやらせます。声楽の先生中心に変えてきたのも、私の指針として、元々、自分のところの出身で固めたくないというのがあって、外部からトレーナーをとっていました。今は、できるだけ外からプロの活動をやった人にしようと考えています。

実際に、合唱団やゴスペル、アカペラで歌いたいときに、まず日本の場合、向こうの曲を原調でやることが多いのです。すると、ある時期、高音獲得競争になってしまうのです。本当のことであれば、歌い手に合わせてキーを設定すべきですが、そんなことをやっているところはありません。そういうことでは、声楽は世界的に成果を上げてきた。アジア人の中でも効果を上げています。だから声楽に頼るというのは、確かな手段の一つなのです。

○はったりつづける実力

はったり力をつけないとやっていけない。はったりといっても、続けるとそれがキャリアなのです。お客さんは、ハッタったところしか見ていないからです。はったりといわれるのは、それが続けていかれないからです。15年、20年続けば実力です。練習でひどくとも、本番になったときに、その数倍の力が出せている人は、そこで認めています。逆のパターンは困ります。どんなに練習できちんとしていても、本番だめなら使えないです。それから安心できるようなのもよくない。気分的にはいいけれど、そんなところでは伸びないです。私は絶対に安心させないように、どうしようかと思っています。

アーティックなことをやっていくのに、不安なのはしかたない。自分で練習しているときには、不安だろうだけれど、ステージに出たら安心できるのがいいわけです。ということは、日ごろから、相当なことをやっておかなければいけない。ヴォイストレーニングとして、自分の知らない基本というのがどこかにあって、それをマスターすればみるみるうまくなるとか、そのお金や時間をかけただけ上達すると思っている人が多いのです。 けれど、必ずしもそういうものではない。楽器は、ある程度約束できると思うのですが、プロとの間には大きなカベがあります。

まったくできない人が人並みになることに関しては、人間であるかぎりそんなに差がないから、できます。それをプロとして、あるいはアーティストのレベルでやっていくというのは、その人の中に何かが入っていて、しかもそれをきちんと取り出せるかが、前提ですね。
だから、考え方からも、伝えないわけにはいきません。

○思想

私は、プロは声や歌がいいということは全然考えていない。思想がある人、考え方ができていて、自分を伸ばすことに関して、プロなのかどうかです。結果としていろいろな人をみていると、きちんとつみ重ねる習慣を持っている人が、プロになっています。なかには一発だけで終わってしまう人もいます。
だから、真面目でなければいけないのですが、真面目に考えていくと、キリはない。

私は不真面目の代表です。そうでないと、こんなに本は出せないです。でも、追求していくと、一生かかってもまとまらない。出すことでいろいろなことを言われたり、いろいろな方とあって、ヒントをもらったりして学ぶことができます。問い続けるのです。同様に結果的にどこまでできたら、基本ということではないのです。人に対してコミュニケーションをとれるのであれば、それが基本だと思ったほうがいいですね。現実にやれていることが大切です。その上で、歌として音楽としての才能があれば、それを使えばいい。

何もかも歌えばいいということではないと思うのです。歌ったら伝わるだろうという形でいくと、確かに歌は、楽なのです。
音楽をつけて、それでバンドみたいな形でやれば、かわいくやって拍手ももらえ、うまくいけばCDも買ってもらえるかもしれない。
だから、それだけ楽な土俵の上でやることで、逆に力がつかないとか、他の分野の人から見たら、本当に何年もたっても上達しない。 というのが、今の日本の現状ですね。

○全ての基礎に通じる声

最近は「音楽がだめでお笑いの時代だね」といわれます。私は声から見ていますので、あえて分けていません。音楽スクールのヴォイストレーニングというのは、役者さんや声優さんとか、お笑いの人とかそういうのは、引き受けられない。ここの場合は、ヴォーカル以外の人がも多くなっています。基礎は同じなのです。

お笑いのほうがブームになっているのではなくて、お笑いの人のほうが、基本がきちんとして、実力があるということです。さだまさしさんは、噺家になりたいと思っていた。中島みゆきさんは、歌より詩をやりたかった。表現したいということから、時代の流れで音楽をとっただけです。自分の世界、言葉や詩をつくるのが好きという動機で入っているのです。

ロックやジャズを歌いたいという人は、物まねだけの人も多い。要は自分が本気になろうと思っているのではなくて、ファンです。憧れているから、ああいうことができれば何となく楽しいと。それはそれでよいことです。カラオケでやるのもいい。ただ、人様を道連れにしてまで、苦しめる必要はない。というのは、冗談ですが、最近思っていることでもあります。

お笑いは、新人で30歳、越えているでしょう。大体10年のキャリアがありますね。あのレベルに出るのには、もちろん社会的な批評はともかく、人の悪口をいうには、20歳ぐらいではできないというのがあります。もうひとつはキャリア、縦の関係があり、レベルがわけられている。お笑いが面白いのではなくて、面白い奴らがお笑いをやっているのです。彼らが歌を歌ったり、漫画家になっていても、ある程度までいきます。そこで問われると、ヴォーカルでは勝てっこない。考え方や自分の表現したい世界があるのです。

才能はお金がまわっているところや、世の中で優れた人がいるところに集まります。それが日本の場合、映画や漫画アニメやお笑いにいっています。残念なことながら、ヴォーカルは受難の時代です。

○悪声のトレーニング

人の嫌がる声、人をおびやかしたり威圧する声というのは、声の原理からいうと、逆のことをやるのです。本来、自分にも心地よく理想的な発声だから、人に気持ちよく聞かれる。人に対して逆の働きをするというのは、喉を使うことが前提になります。それでやっていたら、つぶれないほうがおかしい。私は、役者のトレーナーをやっていたことがあるので、役者の延長上でそういうものを処理しています。役者になると、悪役などで力んだ声を身につけていく人がいます。

ところが声楽やヴォイストレーニングの世界では、日本人は、声に対して正しく正しくと考え、ある面ではひ弱になってしまう。☆よほどレベルの高い人でなくては、プロでも、しゃべらせたり役者のようなことをやっていたら、声を痛めてしまう。日本人ほど、のどの弱い声楽家は、いないのではないでしょうか。しゃべると歌えなくなるという考えの人もいます。テノールやソプラノの場合は、実際に歌う音域が話声と違うから、やむをえないのかもしれません。
海外には、声楽もポップスに近いように思えます。日本ほど垣根がない。

日本は、あれやるなこれやるなと、喉に負担のないような出し方を教えられて、それしか応用がきかない。役者のように、わからなくてやってきた人のほうが、勘があるとよい。結果がでます。10年も経つと、声が強くなったり太くなるでしょう。そういうのも、ミュージカルなど、いろいろな演目を演じる人には必要だと思います。ヴォイストレーニングでは間違えないで、正しく早く覚えられると思っているのです。けれど、それでやっていくことの限界が出ている気がします。だからといって、のどを壊したらいいということでもない。ひずませて出したらいいということでもない。

○ミュージカルと個性

今、ミュージカルや劇団では、演目が広まった。昔はクラシックのやり方でやれたのです。ところが今、いろんなリズムが入ってきた。「オペラ座の怪人」を歌えるような声で歌っても、成り立たないのもある。しかし、そうではない声のノウハウはないのです。声楽から入って、声の美しさや発声のよさで聞かせるタレントがいます。それとまったく別に、ロックをそのまま持ってきているような歌い手、これは日本にあまりいません。

日本にいるのは、役者出身のほうで、言葉に感情表現を持っていく人、これは歌になってしまうと、もたない。たとえば高音の発声になると、声楽を出た人にかなわない。キーを下げられないミュージカルになってしまうと、どうしても不利になってしまうのです。
お客さん自体がクラシックの技法を見たがっているところが、日本の場合はあるのです。☆

どこがいいのかよくわからないが、変わったことや技っぽいことをやったら拍手しようというところです。その辺が情けないといったら、あたかも、演出上もそういうことをやらなければいけないというふうにもなります。だからといって、アナウンサーがやっているような音程をとりにいくようなものが、日本のミュージカルのイメージについてきているのは、よくないでしょう。いい方向にと思うのですけれど、なかなか難しい。ミュージカルファンの人が書いている本を読んでも、何か、ひとつ含みがある。足りないというような言い方をしている。ミュージカルは好きだけど、歌い手のレベルに関しては、まだ言いたいのでしょう。その辺を具体的に述べていかなければいけないと思います。

○トレーニングと鈍さ

私はあまり、歌と話と分けていません。最初に歌をかけると、役者の人や一般の人は、場違いなところに来たと思われる人がいます。けれど、私は同じだと思っています。いわゆる音声で表現する舞台、この3要素に関して、このトレーニングをするということです。歌というのはわかりやすい部分があります。5秒の中で、声のすべてを見せていける。その例として歌を使うことが多い。役者さんが多い場合は、違う例を出す場合もあります。
まず、音楽や歌の基本というのがあります。何かしら自分の外にあるものを勉強しようというのは、これは勉強だからいいのですが、ほとんどの問題は、自分のイメージの問題です。自分の中に入っているものをどこまで使える、出すかということがオーの条件です。そこを間違えてしまうと、使えるものになりません。

たとえば歌に歌い方があります、ビブラートのかけ方も発声の仕方もあります。でも、そんなものを学んだところで、あるレベルにはいかないです。それに限定されて、悪くなってしまっている人がたくさんいます。だから、今、トレーニングを受けられていなかったり、何か直感的が働いて来られたのであれば、その感覚を忘れないようにしてほしいのです。

だいたいトレーニングをやることによって、多くの人は満足し、それと同時に鈍くなります。☆☆時間やお金を払っていたり、トレーニングをやっていると、何かを必ず得られると思う。そんなことはこの世界に関して保証ないのです。安心感で鈍くするのは、自ら、レベルの設定をあげていかないからです。☆レベルを上げるために、レッスンはあるのです。☆☆

○イメージと自身

歌の世界は厳しいですけれど、10年やってもうまくならない人もいます。しかし、私の講演をひとつ聞くだけで、明日から変わる人は変わります。そこまでイメージや感覚の力に応じていることが多い。自分の中で自信をなくしていったら、最悪です。大切なことは自信を持つことです。それを書いたのが、拙著「愛される声になる本」という本です。ヴォイストレーニング以前の問題で、イメージを変えるとか、感覚を変えるということは、それを読んでください。

○レッスンの位置づけ

まず、レッスンは何かということになります。私が、月に接する時間は15分レッスンのプロもいます。それも補えるように、会報を出しています。これは本音で書いています。会報は月に本1冊分くらい。何をやっているのかよくわからないといわれるのですが、レッスンを全部起こしているから、読んでください。授業で喋っていることをまとめて、のせています。

レッスンの位置づけは、プロの人なら、月に15分でも、充分に成り立っていると思っているのです。トレーニングと何が違うのかというと、レッスンというのは気づくこと、いわゆる気づきのために来るのです。そのことが分かっていたら、発声練習や音程練習は自分でやればいい。それができない人のためにどうするかというレッスンは必要だと思うのです。これはメールでも大半はすみます。以前は、全日制でやっていました。講師陣は、黒人から英語の矯正の先生まで入れて、最強の体制としていた。その結果、その前までの10年より人材が出るかと思ったら、キャンパスライフになった。

私がやっているレベルは年々上がっていると思っています。トレーナーも、それだけ経験を積んできています。元々くる人が優秀だったせいか、もう10年経ってみないと結果はわからないです。トレーナーというのは、人を育ててなんぼのものなのです。そういう意味でいうと、声がどう、歌がどうなったかということです。

○プロ志向とトレーニング

プロ志向の人は、プロになることは全然違うということを、最初に見ておく必要があります。歌がうまくなることと、声が出ることと、プロになることは違います。アーティストになることも違います。せいぜい10分の1くらいの武器、あるいは道具です。ただ世の中において、10分の1、獲得できるものはあまりないのです。それでトレーニングの意味があります。多くの人がトレーニング受けると、声が10分の8とか10分の9になってしまう人がいます。

人々が何で集まるかということを考えればいいと思うのです。人の歌のうまいのや声のいいのを、今、誰が聞きに来たいのかということです。身内でもなければ退屈です。

お笑いははっきりしています。皆、ネタを集めに行くのではない。世の中を知りたくて行くのではない。行くと、面白くてすっきりするから行くのです。そんなものです。何かしら救いを与えるか、すっきりさせなければ、自分はこんなにすごいと見せても、どうしようもない。そこで演出など使われるから、よけいに歌の世界がわからなくなっているのです。

○レッスンとは気づくことから

レッスンに関しては、気づくために来る。トレーニングで日ごろやることは、足りないもの、入っていないもの、補強しなければいけないもの、こういうものを入れる。その入れることをきちんと捉えなければいけない。何かを勉強するとか知るということではないのです。体が身につけるのだから、入れなければです。もし、今の自分の問題が明確にあるとしたら、それに対して足りないことを入れるのです。

音程が悪いとかリズムがよくないといって、どんなにリズムの教科書を見ていても、あるいは音程をとる練習をしても、それだけでは人並みまでだめです。なぜかというと、ちゃんとやれている人は、音程やリズムの勉強をしていないです。そう捉えます。それだけの音楽を聞いて、耳で捉えていたら、入っているわけです。歌に関してもそうです。

○脱依存症

ヴォイストレーニングをやってプロになった人はいません。プロになった人が、ヴォイストレーニングをやっていることはあります。ロックやパンクをやろうといって、学校に行こうと、思うところからおかしい。だからといって必要のないことではないのです。お笑いさえ、学校にいく。そこを間違えてはいけませんね。

トレーナーにも、よく言っていることはそのことです。とにかく生徒を依存症にしてはいけない。主体的に自分が全部判断してつくり上げていかなければいけない世界に対して、先生を頼らせて、そこにいることで何かしらできていくという錯覚を与えるのは、さけることです。
自信があっても、他の先生についてみたときに、そうじゃないといわれたらガラガラと崩れてしまう。前の先生に習っていたことは全部間違っていたのかと思ってしまうようなことだったら、困るわけですね。

○正誤でみない

ここも、他の学校をやめてきたり、他の学校から来ている人もいます。そのときに、トレーナーの中での判断の違いが出てきてしまうのです。優先順位が違う。判断の基準そのものが違う場合もあります。でも、そのことが出てくること自体が、本来おかしいでしょう。要はすぐれているかすぐれていないか、深いか深くないかのどちらか、なのです。正しいか間違いかではない。

質問に多いのは、正しいか間違っているか、「今の息の吐き方はいいのですか」、「間違っていますか」、答えようがない。間違っていたら生きていないでしょう。すべて、程度問題なのです。「腹式呼吸ですか、胸式呼吸ですか」。「腹式呼吸はどう身につけるんですか」。誰でも腹式です。
程度問題というのは、より大きな必要性がなければ高度に身につかないということです。☆その必要性に対してどのくらい自分に意識があるのか、これが、トレーニングで身につけるための前提です。

ヴォイストレーニングの学校に行くと、必要のないことをやらせていることがあまりにも多いのです。批判しているわけではなく、自分で考えなさいというべきです。誰かが与えてくれるものではないし、それから誰かの方法ややり方を身につけたからといって、ほとんど使えない。これは他の分野と同じです。

ただ、クラシックや声楽は、舞台が決まっているから、その舞台に対して準備します。後でいろいろと補わなければいけないのですけれど、とりあえず形を整える方法というのがあります。トレーニングの位置づけそのものは、その人によって違うと思うのです。ただ、ここは、基本的には即戦力としてのトレーニングは考えていないです。それは私はやる必要はないと思っています。それは、巷に、たくさんの器用な先生がいます。

○本当のトレーニング

トレーニングは、その場で必要のないこと、将来的に役立つこと。もっというのだったら、自分ひとりではやらないことやれないこと。 あるいは現場ではすぐに要求されないことをやるのですね。たとえばミュージカルでいうと、踊りに関するクラシックバレエみたいなものです。バレエを踊れなくても、そこでヒップホップをやれといったらやれるのです。やれなかったら、そこでパッと反応できない人は、そこでオーディションに受かっていないです。だからやれる。やれるが、長くそれをやっていったり、あるいはソロとしてそれを見せたいというときに、そこでクラシックバレエをずっと続けた人と続けていない人というのは、極端な差があります。そういうものが基本というものです。そんなことでは1日直して1ヶ月や2ヶ月で得ようとしても、あまり意味がない。それだけ時間がかかります。

○成り立たせる

やらなければいけないことは、質のよい時間を自分でかけるということ。以前はこの場でかけさせようとしたのです。ライブまでつくってやらせたところ、そこで形だけ成り立ってしまったと思うようになった。それがよくないのです。本当に成り立つとは、評判が評判を呼んで、客をつれてくることです。☆本当にすごいことをやっていたら、世の中のトップに出て行けるということでしょう。そうなっていないものは、私は本心では認めていない。

ここで言っていることと、サンボマスターの歌は違うのですが、彼らがやれている現実をもって、私は彼らを肯定するのです。ライブにできるならよい。はっきりいうとそういうものです。結果的にやれているやれていないのところで問うていく。この必要性というのは、後でもう少し具体的に言います。必要性のあるところまでは伸びるけれど、必要性のないところまでは、必要がないのだから、あまり伸びないのです。また、必要もないのです。これをどう考えるかというのは、非常に大きな問題です。プロになっている人は、プロになる必要性があるから、なっている。そういうふうに考えてもらえばいいと思います。

○アンテナと捉え方

それから、楽器の限定というのがあります。それより大きなのは、イメージと対応力です。たとえば、音程がとれるとれないというのは、一つの差です。同じ曲を同じくらい、聞いたとして、それで、すぐに音がとれる人ととれない人がいますね。それは、そこまでの生活の中で入っている音楽の量も関係あります。似たような曲をたくさん聞いていたら、有利ですね。でも、そういう条件と別に、そういうものをすぐに捉えられる人と捉えられない人がいます。たとえば、同じクラスメイトでも、練習した順番に歌がうまいわけではないですね。同じくらい生活の中で聞いていても、すごくうまい人もいるし、あまりうまくない人もいるし、音さえとれない人もいる。それには性格やいろいろなものが入ってくるのです。それを私はアンテナといっています。

要は、1回聞いても、そこに20本のアンテナがある人と、1本のアンテナがある人と、20倍の差がある。6曲歌ってくださいといって、3回聞いたら歌え分けられる人もいる。それから、その1曲を1日中かけても、次の日に、メロディをまだ覚えていない人もいます。そういう意味のアンテナということです。経験もものを言います。

もう一つは、その人のタイプです。たとえば皆さんが勉強するときに、目で見たほうがわかりやすい人、手を動かしたほうが、耳で聞いたほうがわかりやすい人、いろいろいますね。音楽は当然のことながら、耳で聞いたところで、捉えられる力が大きい人が有利です。日本人はその能力が低いのです。音声の必要性があまりないところで育って、しかも、そういう教育をまったく受けていない。だから、外国人なら20歳くらいまでに受けるような教育で、このくらいのものだとどこまで伝わるかとか、どういうふうに思われるかというようなことはわかるのに、日本人は劇団でも入らないかぎり、突きつけられない。今は、歌を歌っていても、そういうことが突きつけられないと思うのですね。

○相手が受け入れるかどうか

でも、話で一番大切なことは、相手が受け入れるかどうかでしょう。これは他のことでもそうです。自分がうまく話せるかどうかではないのです。だから、多くの場合は、せりふ歌も、「サ」の発音がどうだとか、ピッチがとか、私はそんなことを聞いていないのです。要は、ひきつけられるかひきつけられないかです。どうせ、ひきつけられないのだったら、音が全部外れていようが、言葉が全然聞こえなかろうが同じでしょう。ことばが全部聞こえなくても、ひきつけられたら、それを見たいと思うことに価値があります。その上で、すべてができていたらいいのですが、すべてできている必要もないのです。そういうふうに考えていかないと、真の上達はしません。しかし、それが許されない場というのもあります。出演者の意図と関係なく形があって、それに合わせることだけが求められるなど、いろいろな事情があるところはあります。それはしかたがない。

○応用力をつけるための混乱

ただ、そういうときには、どう考えるかというと、応用力なのです。そこのくらいに合わせられなければ、一人でやってもやれないよということです。私もトレーナーとして、自分で総合的にやっていたのは、100人越えるまで、あとは体力的に無理というより、相称と価値観的で、他のトレーナーと組んで、今でも、総合的な指導体制です。これは、研究所の中でいろいろと混乱を起こさせたほうがいいということです。☆
たとえばここで受けてみて、外へ行ったときに、他の先生に違うといわれる。それで崩壊してしまうくらいなら、中でいろいろな先生がいて、違うことを言われても対応力をつけていく。トレーナーには、私の方針ややり方を押しつけていません。その人を認めていたら、あとは、生徒とやれる。生徒がレベルが高かったら、ダメな先生には人がつかなくなります。

○必要なトレーナーとは

ただし生徒の受けがいいのが、いい先生ではないのです。レベルの高さが先生の能力を表します。他の学校では、人当たりがいいとかカウンセリング能力のある人が、評価が高いのですが、ここでは、生徒の能力が高いので、先生が見限られてしまう。それでいいと思うのです。あくまで受けにくる人が、トレーナーを使う。だから、ここの中でも、違う先生について、違うことを言われたと。そうやりなさいといわれたら、そこに合わせる能力をもつ。合わせたくなければ、その先生を切ってしまえばいいということです。

だから、正しい正しくないということではないのです。その先生を認めるのだったら、そこに合わせられる力をつける。合わせられたら学べます。合わせられないのに、そこでゴタゴタと文句を言っていても、しかたない。ここの場合は、外も中もないから、自由に行き来してくださいと。いいトレーナーでなく、自分に必要なトレーナーが大切なのです。

○基準のとり方

ここの基準を絶対的なものにしてはいけないということです。先生について、ものを習いたいとか、プロデューサーについて、勉強したいといったら、まず相手に合わせること、合わせるつもりがなければ、縁を切る、そうでなければ合わせる努力をする。そのくらいの応用力がなければ、現場ではもっと混乱するでしょう。応用性をつけるために、基本をきちんとつけていきましょうというようなことです。基本があるという考え方はあっても、あまりとらわれないほうが、私はいいと思います。研究所の場合は、いろいろな人がきます。基準をどこに持ってきたかというと、日本人と外国人との違い、というより、日本人と人間といいたいのです。

今の日本人の声は非常に弱いです。あまり使っていないというのもあります。日本語自体も深まらない言葉、深い息が必要ないということ。それから、日本の風土自体が、音声で響いてくる言葉を、拒絶します。音声に対して否定的な国です。世界の中で、日本のほうが偏っていると思ってもいい。アフリカ、欧米、中国、韓国とどこでも、もう少し楽に、声を使っています。それを考えてみたときに、人間として考えてみたら、そういうふうなところで、我々に足りないもの、入っていないものは何かということで見ていく。韓国や中国の人には、当てはまらないのですが、日本人には共通の問題になることと思います。

○足らないもの

今日やってほしいのは、トレーニングと同じことです。こうやってパッとみて、それで、オーディションをする。この聞き取り表だけで一次審査はできます。その人がどういうふうに聞いているのか、トレーナーをうならせるものが書けていなければ、たいしたものは、その人にはない。

まず、我々の聞こえないものからみていきましょう。順番にいくつか上げていきます。ひとつは、深い息です。これは日本語に必要ないから。日本のプロの歌い手にも、あまり聞こえないです。だから、息を出さなければいけないということではないのです。けれど、呼吸法、姿勢とか体ということのトレーニングをどういうふうに捉えるかということに関わってきます。

○実践に学ぶ

細かいことよりも、大きな考え方を覚えていってほしい。どちらが正しいという考え方は捨てることです。外国人と日本人がどちらがいい悪いということではなく、両方できて、後で選べばいいのです。外国人のこともやって、日本人の歌い方が好きなら、それをやればいいだけの話です。そうしないと、訳がわからなくなってしまいます。そんな明確に分かれているわけではありません。ただ、トレーニングというと、どうしてもそういうことをはっきり言わないと上達しないから、これ、だめですよ、こっちにしなさいというようなことになってしまうのです。けれど、あまりに日本で生きて偏っているから、バランスをとるためにもこちらをやりましょうと。

それから、現実をみましょう。アーティストのCDは、私が見本を見せるよりも実践的です。あとでいろいろなことをやりますが、どちらかというと悪い見本を見せたほうがいいのではないかと思っております。というのは、現実にアーティストがやっているなかに、体づくりも、呼吸づくりもあるのです。ただ、外側から見えない。連れてきて歌ってもらっても、たぶんわからない。その中を、自分の感覚で見ていくということをやらなければいけません。そのお手伝いをします。それが耳からできれば一番いいですね。

私はCDを使いまくってきた。どういう理由かというと、簡単です。優れたアーティストというのは、何をやったか。ヴォイストレーニングはやっていません。その代わり、一世代前の、優れたアーティストのレコードを擦り切れるまで聞いています。この条件なしに音楽家になった人は、いないです。親がプロ歌手で、いつもライブハウスで母親が歌っているのを聞いたというのも同じことですが、さらにいいと思います。

すくなくともそういうことをやってみるべきです。そのことを追体験します。☆優れたヴォーカリスト、日本でもやっている人は、相当、勉強とは言わないのでしょうけれど、気づいてみたら、相当な曲数と回数を聞いています。それがまったくない人は太刀打ちはできないですね。
それも全部を聞いているわけではないけれど、どこかの偏りのあるところで非常に深く聞いています。何かしら、強い分野が必ずひとつあります。これは日本人に限らず、楽器の人でなくても、ミュージシャンだということであれば、それを入れることです。

○再現芸術

役者とヴォーカリストの違いはそこですね。役者も表現力があって、歌にはなるのに、音楽にはならない。それは音楽は再現芸術ということです。歌を入れている程度が、バンドや歌手として出てきた人よりは少ないのですね。それとともに、言葉や自分の声でやれてしまうところがあるのです。これが判断をややこしくします。

歌のオリジナリティというのは、本当にその人の声が、その人であるということで、強いのです。そんなことは顔が違うという程度のオリジナリティで、個性でも何でもないのです。そんなものでやれるのなら全員がやれる。全員がやれるから、成り立たないという話でしょう。
すごく個性的な顔をしているなら別だし、すごい声なら別ですけれど、顔と同じく声は10人いたら、10人違います。でも、そこでオリジナリティ性というのが、何となく認知されてしまう。

それから、もう一つ音楽的にならないのは、言葉があるということですね。これがまた強い。どんな優れた演奏であっても、たった一人のちょっとした声で、そっちのほうに人間の耳というのは、すべていってしまう。その2つでの強い力のおかげで歌というのは、ある意味では守られているのです。そこにさらにバンドがあって、音楽を進行してくれます。

何もできないルックスだけのよい子を世に売り出そうと思ったときに、特に日本の場合は、そこが顕著ですが、何もなくてもいい。周りにミュージシャンを置いておいて、歌詞とメロディだけ覚えたら、何とか持たせられるというほどの音響環境をつくってしまった。 それでCDにすれば、ぼろ儲け。踊ろうが裸になろうが、何をしようが、それだけの金や人というのは、集まらないのです。ところが歌はそういうマジックができてしまう。逆にいうと、そこで本当に必要な力は何だったのだろうかと、なかなかわからない。プロとして考える場合、声というのが必ずしもメインではないということです。

○トレーニングの根本

研究所に関しては、トレーニングをやるところです。トレーニングによって、ルックスや、スタイルもよくなるかもしれませんが、それで生まれつき勝負できる人とは違います。声や体、発声ということでのキャリアということになるのですけれど、それで10分の1ですね。こういうところに来る目的というのは、あとの10分の9が、何かをそこから知るためです。ほとんどは、自分の中にすでに入っているものです。多くの人が声や話し方を変えたいとか、歌をうまくしたいと来ます。けれど、それは人のものをとるとか、学ぶということではないのです。自分の中にすでに与えられているものを、より磨いて、きちんと活用できるようにしていくということにしかすぎない。

だから、神様が皆さんに与えた、声帯、声というものを、今まで雑に扱っていたり、そういう意識もなく、過ごしていたことを、より磨いていく。それ以上のことはできないのです。他人の声帯と取りかえることもできない。誰かが特殊な声を出していることを、そのまま出すこともできない。楽器としての限界もあります。

ただ歌に関して必要なことは、だいたい1オクターブくらいの声域でしかないのです。だから他人をまねようなどと無理なことを言わなければ、今持っているものをよりていねいに使うことで、充分です。ただし、役者とかヴォーカリストとか、特殊な世界においては、声の表現力の必要度がもっと高いです。瞬間的に変えたり、大きく出したり、感情を表現します。一言聞こえないことによって、その場面が転換しないで、失敗してしまうことがあります。

日常的には、そういうことはあまりないです。特に日本の社会においては、あまりしゃべらないほうがいいくらいです。
よくわからないことがあれば、いつも現場に戻りなさいといっています。現場がわからなければ、一流のアーティストに戻りましょう。

○呼吸法

では腹式呼吸はどうやるのか、呼吸法はどうやるのか。これは実際にやっている人を見ましょう。腹式呼吸法をやってもしかたがない。
声楽家はお腹をさわらせたりします。そういうのはまだいいと。ただ、5年10年経って、そういうお腹や呼吸ができていくのは、ほとんどまれですね。声楽はひとつの基準としてあっていいと思うのですが、ポップスや役者は必ずしもそうではない。

海外のアーティストは、声楽家のように、体の後ろや横も動きます。一般の人でも動く人がいますね。それは音声の中で、話などもそうですが、日常の中ではすでに使われています。皆さんは声や歌の初心者ではないということを、知っておかなければいけないのです。
歌よりも簡単に弾ける楽器はありますが、すごく優れた感覚と、“アンテナ”の数が多くて、今まで生きてきたら、たぶん日本でトップレベルに歌えているし、トップレベルに声が使えている。そんな人もいます。それは特殊な訓練をしているのではないが、日常の中で、たまたまそういうふうに声が使われたり、応用できていた人です。

○トレーニングでのマスター

トレーニングは、それを方法と時間でカバーする。たとえば、2年4年5年10年、かけていくことによって、本来だったら10年か20年先でないと、そういうふうにならないことを、もっと短縮して手に入れる。それから、一生かかってもそうならなかったことを、ある意味ではハードなトレーニングをすることによって、それをできるようにする。

これはスポーツを見ていればわかりますね。基礎トレーニングをやらなければ、形はできるかもしれませんが、本当の意味ではあるレベル以上に到達できないのです。でもそれも、感覚なのですね。ただ、その感覚に対して、運動能力を必要とします。より高くとかより速くとか。だから、身体を鍛えなければいけない。ヴォーカルもそういう部分は若干あります。体が楽器ですから。1時間立っているのがしんどいという人は、向いていない。

だけど、朗読やレコーディングだけ、ピアノで弾き語りで歌うようなことでは、ヴォーカルに、なれないのかというと、なれます。体力もないよりはあったほうがいいだけで、体力がなくても、作品はできる。ただ、跳ね回るのが、その人のステージだったら、まず体力づくりをやらなければいけないですね。

○身近に芸を

皆さんが、スポーツや武道をやっていたら、声はわかりにくい分野ですから、そういうところで自分に合った身につけ方や、その経験をいつもシミュレーションして考えると、よいと思うのです。声や歌は別の分野で、少なくとも、皆さんが生きた年月分、使われてきているのです。気づかないままに聞いて、口で出して習得してきています。全員歌ってきているのですね。

芸事といって、あまり遠いものにしてしまうと、難しくなります。よく他の学校に行って、トレーナーに注意することがあります。一つは、普通の人の状態というのは、だいたい波が大きいわけですね。うまく出たり出なかったりする。プロになるにしたがって、それが高いレベルになるというよりも、底上げしてきます。声楽をやっていると、自分の限界が見えてくるのです。

ヴォイストレーニングをやるときの一番の問題は、ワークショップをやるときでもよくやっている場合は、まずその人の一番いい声、ここを最低基準にすることです。皆さんでいうと、1年の中で一番うまく声が出るとき、一番声が出ないときもありますね。トレーニングをやるということは、私から言わせると、最高レベルよりもオンしないと意味がない。いろいろな学校に行って、びっくりしたのは、普通の人の普通の状態で、一番出ないときの、悪い声で、1年2年かけて何とか普通の声の状態にしています。その人が笑いまくっていて、友達を遊んでいるときに、出ている声よりも、魅力のない声を、トレーニングの目的にしている場合があるのです。

一番大切なのは、今、皆さんに声を出してくれとか、歌ってくれといったら、いい状態ではないはずです。1時間座っているだけでも、体が動いていません。そういう状態でやってもよくないということです。ヴォイストレーニングといわれるのは、何となく、リラックスしなさい、力を抜きなさいです。そんなことでスポーツができればいいのですが、できません。前提条件は前提で、目的ではありません。 それで終わっていることが多いのです。
これをいくら繰り返してみても、変わらない。私がバッティングセンターに毎日行っていたら、大リーガーにいけると思うくらい、意味がないことです。こりをほぐしたり、こったりしておわりです。それがヴォイストレーニングで行われている場合が多いです。調整するだけが目的なのです。

○負荷トレーニング

私はトレーニングというかぎり、すべて負荷トレーニングという考え方です。だから、トレーニングを全ての人が、必要とすることでないのも伝えています。
普通の場合は、何年かのうちのどこかの瞬間に変わるということがあります。こういうのがわかったとかいうのも、体ができてからわかることなのです。自分の感覚だけが頼りだと他人を引き受けられない。長嶋茂雄さんのバッティングみたいなもので、他人が受け入れられるかというレベルです。

そういう感覚がある人は、もうやれているから、そういう感覚がないからやれていないんだろうということになります。ときに、一番頼りになるのですね。体というのは変わります。特に初心者ややっていない人は、大きく変わります。その無限の可能性があるか、時間がかかります。やりだすと凡人への道へ陥りやすい。☆

○プロ歌手のトレーニング

逆に歌を10年20年30年とやってきた人、私が今、引き受けているのは30年くらいやってきた人、プロで、ずっと歌ってきた人を引き受けています。その人たちは、うまく歌えるのです。毎日、舞台に出ていて、慣れています。私は話すのが舞台で、歌の舞台をさほど踏んでいない。そういう人が何で何を私に勉強しにくるのでしょうか。

ほとんどの場合、歌い手は自己流でやって、器用な人が歌い手になれたのです。日本のレベルでいうと。すると2,30年経って、自分がかつて思っていた歌い手という像は、今の私なのかという疑問が出てくるのです。もし、違うやり方をとっていたら、もっと、自分が目指していたヴォーカルのようになれたのではないかと。客観視する基準がないから、ここに来ます。

ぱっと歌ってもらうと、うまいから文句はない。うまくなければプロはやれない。それをどういうふうに見ていくかといったら、とても細かくと大きく2面からみます。部分的に細かいところを拡大していくと、そのうまさがいかにごまかしで、いい加減な上にのっているかということです。そのギャップを、本人につきつけていくのです。そんなに難しいことではありません。3秒くらいで伸ばしているところ、6秒で伸ばさせたら、乱れてきます。トレーニングはそういうものの必要に対して鍛えてムリをなくし、しぜんにこなせるキャパをつけるものです。☆10秒伸ばすような歌は、ほとんどありません。

だから、20秒、40秒伸ばそうという息吐きのトレーニングをしても、それ自体が意味がない。そうやってギャップが見えていたら、10秒とは言いませんが、3秒しか伸ばせない人が、8秒保てるような体を身につけたら、それだけ余裕が生まれます。それが器づくりです。

○伝わる動きから

表現ということでいうと、ほとんどの歌は、単に歌われているだけですが、なかには、そこで何か伝わったという動きがきちんと出てくるようなところがあるのです。そうしたら、その動き、相手にきちんと伝わるという動きから考えます。要は出し手の方から考えるのではなく、聞き手のほうから考えるのです。

流れがとれているときに、次のところできちんと気持ちを入れかえるのに、この人の場合、2秒かかるとした場合には、トレーニングではこの2秒を絶対に守らせるということです。歌からいうと遅れます。テンポを破っています。ところがそれだけ体を準備して、気持ちを整えないと次に入れない。そうしたら、2秒必要だという見方をするのです。楽譜で見たら、そこは0.3秒くらいでいっているから、これで遅れです。乱れます。音程もリズムも乱れます。それでもOKなのです。伝えていることを重視するからです。

私から言わせると、こちらのほうがその人の歌なのです。単に楽譜に書かれた歌、あるいは作曲家や今まで歌ってきていた人が形づくってきた歌ではなく、その人の歌なのです。トレーニングは何のためにするかというと、2秒かかっては0.3秒にもっていけません。0.1秒くらいで、できるくらいの体の力や感覚が磨かれて、はじめて0.3秒の間で、歌えるようになる。そして、ようやくこの歌が選曲できるという見方です。

○高くて使えない声

日本でそういう考え方は、高音の場合だけあると思うのです。その高さまで、キーが届いたら、その曲を歌えると。これも馬鹿な話です。声の高さも人によって違うわけです。本来は、その歌い手の一番得意なキーに持ってくるべきです。ただ、ミュージカルや合唱など、他の人ととるものは、だめなのです。日本の合唱やミュージカルを見ていると、皆、3度下げればいいのにと思います。歌も向こうが5番までやっているからといって、5番まで持っていないのに無理に同じことをしようとします。2番までで客は疲れてきているのだから、2番までにしてしまえばいいのです。

そういうところは律儀に、向こうを立てますね。権利問題やいろいろなこともあるのでしょう。しかし、本来なら、成り立つか成り立たないかで、見ていかないからわからなくなる。お笑いだったら、そのときに変えます。これで受けなかった、この間が悪かったといったら、次のときに変えます。そういう修正力が、日本の音楽やバンドの中から、抜けてしまっているのです。そういうチェック力が必要です。とにかく楽譜に書かれたことを、最後までバーッとやってしまえば、そうしたらお客さんは拍手をくれます。だから、そういうことをプロはやっています。

○ディテールでのチェックをする

発声よりも、月に20曲くらい、曲を渡します。そこから4フレーズくらい、15分で30分だと8フレーズくらいできます。フレーズというのは、歌詞で書いて1行くらいあればいい。8小節くらいです。それで、一番うまくできたのだけを持ってきて、そういうことを見ていきましょう。それができたら、完全にできているままに1音あげていきましょう、2音あげていきましょう、とすると、2音上げても乱れます。1、2音下げても乱れます。

私は、当人に基準の厳しさを与えているのです。今まで1曲ずつで見ていったでしょう。今度はそれを、10分の1くらいの単位で見ていきましょう。100分の1くらいで感知していきましょうと。日本の歌はだいたい歌って終わりですが、歌というのは、本当は何かを起こし、何かを伝えるものです。グルーブの中に何かしら起きて、何かしら落とし込んでいるのです。今はバンドがやって、歌い手がやっていないわけですね。だから退屈な歌になってしまう。

○ジャストミートのフォーム

まず息の問題に入りましょう。できるだけ聞いてください。プロを目指している方は、感覚を変えなければ、変わらないというところから入ってください。歌とか声に関しては、皆、初心者ではないのです。もし、自分が同じ感覚と同じ体があるとしたら、そのことができているのです。それができないということは、感覚も体も足りないのだから、そこでやってはいけないということです。はっきり言うと、私がバッティングセンターに行って、いきなり、150キロの球にあわせて振ろうとしているようなもので、あまり意味がありません。ボールが見えないのですから。

自分のペースでまず振って、実感をつかんでいく。一方で、130キロくらいで、こんな速いのかと、目を慣らしていきます。バットを出せば、たまに当たるかもしれないけれど、自分のフォームがなければ、通用しません。ボールにあわせて打っても、それは実践では、打ち取られたということになりますね。

ところがヴォーカルの場合は、そういう人が多いのです。実際は、試合に勝つことが目的だったり、ヒットを打つことが目的です。それなのに、バットに当てることが練習のようにしている人が多いのです。それは非常に悪い結果になります。当たるけれど、その代わりヒットにはならない。高いボール球の悪球打ちばかりということは、やっても意味がないのです。当たらない人が当てるということで、上達した気がするのです。きちんとやる人は、最初素振りばっかりやっているのです。

○深い息

これも息を聞いてください。こういう発声は、日本では全部声に変換させられます。私が最初、勉強しに行ったときに、深い息を吐きなさいと言われました。分からないから、「ハー」「ハッ」とかやってみたところ、それで歌ってみなさいと言われてましたが、全然結びつかない。それは深い息でも何でもなくて、勢いをつけただけの息だったなのです。深い息というのは、完全にコントロールできる息です。「H―」、本当は音は立たないのですが、口を開けているだけでわからないから。オペラを聞くと、わかります。クラシック歌手はそういうベースで支えられています。それから外国のヘビメタやロックも、ステージの問題もきちんと捉えておかなければいけません。

○母音中心感覚

基礎をやることと付け焼刃的にやることは、大きく違ってきます。たとえば「口を大きく開けるのか、開けないのか」ということは、本来は喉を開けるということなのです。声がない場合は、口をはっきり開けないとビジュアル的にわかりにくい。同じような声だったら、口をはっきり開けたほうがいいのです。けれど、実際に歌やリズムのグルーブの中で動かしていくときに、口をパクパクさせることは、全体の流れを壊していきます。 逆にそれに沿った発声法をつくっていかなければいけない。

声楽は母音で伸ばすので、体、息は聞こえにくいのです。クラシックのオーケストラの上を、声がとんでいかなければいけない。ですから、意図的にかなり母音で共鳴させて持っていくのです。そのやり方が、日本人には合ったのです。それは確かで、日本語は母音中心ですから、わかりやすいということです。韓国語や中国語、イタリア語は、子音が中心です。英語はHで息を吐く。「H―」「H―」「H―」こういうなかにグルーブができて、強拍ができてきます。この強迫に対して、弱拍が巻き込まれてくるのが、向こうのことばのアクセントです。この息を吐くところを、いろいろなもので妨げ、そこに非常に多彩な音色が生まれます。

これを日本人の場合は、ノイズといって嫌います。シャウトしたりするのは全部こういうところでやるわけです。けれど、そういう人はあまり日本にはいないです。日本のがなり声のシャウトに比べたら、声楽の応用上にやったシャウトのほうがまだましだという言いました。高低アクセントというのは、音程アクセントといわれます。いわゆるメロディです。これを日本人は捉えています。言葉とメロディ、発された音とメロディを捉える耳になっているのです。生まれて、そうやって日本語を聞いて生活してきたのです。言葉の臨界期で、我々が今さらネイティブになれないように、小さい頃に配線がされている。
ロックを聞いても、高いところを歌っているとか、大きな声で歌っているとか、長く伸ばしているとか、日本人的な聞き方になります。彼らが聞いているような、強く歌った、息を吐いたというような、音色がこうなったというところは、無視しているのです。

○感覚の切りかえ

今の皆さんはそんなことはないでしょうけれど、英語を「あいらぶゆう」と聞いてしまったら、そうしか言えないわけです。外国人が、昔だったら「ふくしーま」と言っていたのに、最近は日本語がうまくなって「ふくしまさん」とか「おはようござます」となった。でも我々から見ると、彼らのは点々に聞こえるでしょう。高低アクセントがついているのに、彼らは強弱で聞いているから、高低が耳に入らないのです。高低をとってしまったら、単純な8ビートになってしまう。そのくらいに違うのです。それをどう変えていくのかというのは教えます。しかし、教えると、聞いているだけでできたように思うのです。けれど、私の経験からいうと、直るのに4年くらいから一生かかると。相当優れていたら、2年くらいで切りかわるということを言っています。そんな簡単に、感覚は切りかわりません。

もちろん、スペイン語やポルトガル語を聞いてすぐに、言えてしまうという程度のアンテナがあれば、切りかわると思います。日本でも大してレベルは違いません。そういう問題があって、曲に接していくのと、気づきが違います。要はこれで気づきを何回起こして、ものにしていくかという世界です。それを敏感にしてください。外国語の場合は、強弱がリズムです。音色、この2つで捉えていく。これを理解していください。

○発声のしくみ

ヴォイストレーニングのことをふれておきます。まず、肺のところから、呼気、これがエネルギー源になります。吐く息ですね。
これが声帯のところで声にかわります。音に変わるといってもいいですが、これが喉頭原音といって、ほとんど響きのない音です。
次に声道という道のところを通り、いわゆる喉から口の中、口と鼻に出口で抜けます。ここまでの部分が共鳴します。今の私の声というのは、共鳴して出てきている声です。ここまでは、共鳴というのは、母音のレベルでできることです。楽器と同じです。ここまでが楽器、人間の体として、音を奏でる楽器の部分です。母音のところ、「アイウエオ」というのは楽器のところでできます。口のなかの大きさを変えることでできるのです。

もうひとつ、人間でしかできないこと、言葉、いわゆる子音の部分です。これは何をするかというと、声の共鳴を邪魔させることで発します。唇や舌、歯で呼吸の流れを妨害するわけです。外国人というのは、ここが中心です。日本人はここの部分までの構造だと見てください。

○ミュージカルでの比較

一番わかりやすいのは、ミュージカルをやる人が多くなってきたため、ミュージカルでの力の差です。原調をそのままやるのはいいのです。
この歌い手は、優れていますから合っているのですが、多くの場合、バンデラスがやる場合は、好き勝手にキーを変えています。
そのくらいの応用力は演者に応じて、やるべきだと思います。それによって、声の負担が楽になるのです。演出的な効果はあまり変わらないので、あとはオーケストラやバンドがやりやすいかです。テープに吹き込んでやっていたら、問題ないはずです。

この2つを比べてください。どちらがいい悪いということではなくて、我々が欠けている感覚が何かということ、その2つの違いが明瞭です。どちらが優れているということではなくて、文化の違いです。そういう耳で捉えたら、どういうふうに歌がなるだろうかということですね。

○トレーナーの見本とする声と歌

こういう高音のところは母音を中心に持っていっている部分です。難しいと思うでしょう。この歌い手のレベルでいうと、日本でクラシックでもかなりのレベルまで行けた人です。そういう人は、全部そういうものを投げ捨てて、ポップスの世界に入ってきている部分では、力のある人です。だから、批判するために取り上げているのではなく、教材です。それまでもうひとつ取り上げた理由は、ヴォイストレーナー自体が、声楽科出身の人が多いから、こういうものを見本にしている人が多いのです。

こういう歌い方は、ミュージカルのところに受けようとする人ばかりの人がここに入ってくれるのなら、すぐにトレーナーとして採用したいくらいです。ミュージカルという分野であれば、OKです。ただ、そのことがJ-POPSやプロという分野になってきたら、全然違う。そこを間違えてはいけません。
合唱やミュージカル、そういう分野においてはいいけれど、J-POPSとか今のロック、バンドの市場で、こういう歌い方をする人はいないし、今後も出てくることはないでしょう。今の若い人にとったら、古い感覚になります。もっというのなら、昔から変わらない日本の歌い方の延長上にあります。ただ、いくつか変えているところがあっています。

たとえばシャウトを入れています。こういうところは昔はやらなかった。クラシックをやっている人でも、こういうことをなかなかやれない人がいます。「うらまちの」の「うら」のところ、シャウトというか、このくらいの音楽性を持ってほしいという意味で認めて書いた部分です。

○声の素質

もうひとつ理由があって、あまり取り上げないのは、多くのヴォイストレーナーがこういうものを目標としていながら、実際に来る人が、こういうものになれない人というのは、ある程度予測がつきます。100人くらいいたら、95人くらいはあまり可能性がない。だから、私も引き受けない。

声楽の分野もそうですね。ある程度の年齢、25歳くらいになってきたら、だいたいわかります。まだ可能性があるかもしれないという人と、かなりレベルが高い人、あらかじめ定められているわけではありませんが、その努力でかなわない部分で、持って生まれたものが有利な人たちはいます。そういうレベルの声でもあります。声楽は正にそうですね。持って生まれたものがそうでなかったら、ロックの歌い手にはなれても、声楽家にはなれないですね。それは合っているかいないかという部分はあります。

たまにそれを越えてやれてしまうような人がいます。それでも声がつぶれていたり、まったくそういうものにそぐわない声だったら、どうでしょうか。少なくてもそれを評価する人が、その分野の人です。土俵というのがある分野では、それにそって生まれた人は比較的有利です。

日本では今のニューミュージックやJ-POPSでいうと、生まれたときに声の高い人は有利ですね。声の表現力があるなしではなくて、単に高い声が出るだけで、日本の人はひきつけられる部分があります。だからあまり表現力が伸びないのです。
外国は、そういうヴォーカルはあまりいないです。もともと声がよくてやれている人はいます。
カーペンターズのカレンみたいに。日本でも白鳥さんなどは、そうです。そんな人は1万人、10万人に一人です。
生まれ持った声で、そのままやろうという人は一番難しい。

○リアリティ

考えてほしいのは、生まれ持った声でやっている人もいます。昔は多かったです。音響で加工できなかったから、生まれつきの声がよくないとだめだった。ポップスをやるにも、声楽をやっていました。これは普通の人がやっていない発声のよさでもたせる。今のポップスやJ-POPSは、音の中でどう組み合わせていくかという、演奏、フレーズの組み合わせなのです。それをどういうふうに見せていくか。声や発声がいいのが条件ではない。歌としての世界の描き方です。しかし、応用できる力といて基礎が必要です。

漫画家を見ていたらわかりますよね、絵が下手でストーリーが下手、でも、感動的という人と、絵はすごくきれいだけど、きれいなだけで伝わってこない人と。彼らの能力は、どういうふうにフォーカスを当てるか、どの速度で展開させるか、そういう能力で、写生画がうまく描けるのとは、違います。リアリティがそこに出てくるかということです。ポップスの世界もそういう部分です。それから見ると、ミュージカルやゴスペルは、そういう土俵があって、評価もあります。

本来は土俵がなくて感じさせなければいけない。ゴスペルがゴスペルを歌っているとか、演歌でも、あれは演歌だと思われて、だめになってしまった。本来、歌手といって仕事が取れるようなのは、そんなものは、あってはいけないのです。ミュージカルでも、踊っているからミュージカルだとか、そこで歌いだしたからミュージカルでなく、もっと自然なものでなければいけない。
表現でも、あまり歌われているって思われてしまうようなものは、レベルが低いのです。なのに、それをめざす人ばかりです。何か知らないけれど、心が伝わってくる、そういうものが残るのです。

○比べられない自由さ、自由度

ポップスの場合は、私はそういう自由度を尊びます。歌で自由にならなかったら、何で歌うんだろう、歌で不自由になるのは、いやだ。というふうに聞くから、発声法というやり方は好きではありません。クラシックがだめなのではありません。一流のクラシックはいい。それは同じです。自由だからです。比べる比べられないということがありません。

たとえば、中途半端なクラシックには、順番がついてしまう。この人が1番、この人が2番、この人が3番と、10人いたら10人に順番がつきます。その人が3回舞台をやってみたら、その3回のうちのどれが一番よかったとわかります。たとえば1回目のは2回目のよりもよかったとか、3回目はちょっと失敗した、4回目はすごくよかったと。そういう比較がされてしまうものは、結局は、形の上にのっかってしまっているものです。予め、想定される理想像があって、それにそっているからです。

本当に自由なものだったら、たとえば、酔っ払いながら、その辺に出て、音を外しても、あんな台詞があったっけと、いい加減だからわからないでしょう。そのいい加減さが、いいとか悪いとかではありません。音楽の中における躍動感やリズムみたいなもので盛り上がったときに破綻しても、納まるところにドラマが生じます。ただ、日本ではそういう考え方をあまりしないです。そういうものをやってしまうと、基準というものがおけなくなってしまうからです。
その人が適当にやっていればいいというような基準は認められない。そんな基準があってはいけないというのが、第一です。

○ストーリーより、音のリピート効果

耳のないトレーナーが直したり、教えたりするような歌は、どこにも通用しないと。現実からいうとそうなのにです。皆さんがドライブで聞こうと思ったときに、1時間、聞かなければいけないときに、どちらを選ぶかということです。聞かなければいけないのではなく、聞きたいとなるためには何が必要でしょうか。たぶん、好きな人も、選ばなくなってくる。それはどうしてかというと、ストーリーで持たせているからです。

言葉を聞いて、物語に行く。日本人で日本語で歌われているのです。その物語がわかった後に、どのくらい聞き続けられるかというのが、勝負です。こうあってこうなって、ここでサビがくる、ここで聞きたいといって、またサビがくると期待して、やったという高揚感でいく。同じことを繰り返しやっていく中で高まっていくものです。この歌が1曲ということではなくて、連続で30分流れていても、本当に好きだったら聞けるでしょう。それは音楽の強さです。まして、言葉を聞けなくてもいいのです。本当の意味で、その人の世界を構築したりつくっているというのは、こういうものです。

○自分の判断を疑う

2つにわけるということではなくて、そもそもの狙いが違う。ミュージカルのものをCDで切り取って聞いても、これも狙いが違う。ここの場合は、トレーニングとして切りとるのです。音声の舞台として鑑賞しましょうということです。こういう聞き方は本来、邪道なのですね。実際のステージにおいて、その人と同時に出てきた歌で聞く。そこにはステージの演出で、すごく感動したということで勝負のわけです。ただ、勉強する側に、私がCDの使い方を教えているのは、プロのCDの聞き方ができるようにするためです。本人が自分で勉強するためには、CDの聞き方を覚えること。そこから何を学び、自分に足りない部分をやっていくのです。今の時代には自分でやれるのです。トレーナーについて全部やるというのは理想ですが、24時間ついても、そんなにわからないと思います。

だから、2つ必要です。一流のものを徹底して入れるということ、それに引っ張られるようにしてしか伸びていかないということです。
今の時代、自分が自分がといって、一人よがりに陥ります。歌や声というのは、自分が自分が、といって、生きてきた結果、こうだったじゃないかということをどこかで見なければいけないということなのです。その人を否定するわけではないのです。ただ、その人が出してきた歌とか声や音楽が、結果として自分がイメージして歌ってみたら、そのとおりにそこに出るのです。ということは、それを、内部からの感覚で変えないと、正せないのです。

どんなに外からこういう出し方をしなさいといって、トレーナーがいて、教えても、そういう人がいればいるほど、その人と同じ歌い方になって、真似して覚えただけで、歌にもそれが出てきます。だから、お客さんは感動しない。誰かのまねっぽいというのはわかります。微妙にわからない人もたまにいます。それはそれでいいのですが。

○筋トレと分析

内部の中で感覚やイメージが変わることでしか、声は変わってこない。それが第一です。
それを補強するのに、呼吸に関わる筋肉とか、横隔膜とか、いろいろなことを柔軟や筋トレをすることで、補うことはできます。
ただ、スポーツほどに如実ではありません。スポーツはこの筋肉を使うから、こういうやり方で鍛えなさいというところまで、分析ができています。声帯に関しては、そこまでできていない。

今はいろいろな研究しています。鈴木松美さんという声紋分析の研究家と、声紋と私の持論を合わせた本を出しました。
声紋はカラーで見ると、きれいです。図を見て、これがいい発声だといえる。美空ひばりなどは、いい理由がわかります。
宇多田ヒカルが超音波を出している、北野武さんも出ていると。武さんはそれほどの歌なのかということになってしまう。
だから、いいものをとって読むのは簡単なのです。それを目指すということではできない。ただ、よしあしの違いがグラフに出てしまうということです。

○やり方もつくる

クラシックで母音を深くして、イタリア語と同じようなところで喉を開けて歌った上で、今度は日本語に応用してみます。これは普通の人が、やっていこうとすると、8年から10年かかっている。 16,7歳からやって、実際には22,3歳あたりから徹底したトレーニングをやっていく。そういうことに対しては声楽ということで対応するとよいと思っています。何でもいいから、やるだけやってみましょう。伸びそうで、それが好きなら、そうやっていってもいい。声楽とポップスが一緒という考えではないです。ポップスは、一定やり方があるという考えがおかしいからです。やり方も自らつくっていくのでよい。そんなふうに考えています。

○強制的に変化させる

感覚はどういうふうに変えるのかということについて述べます。これを、聞いても音程というものは聞こえないでしょう。これは「レミファミミレレドド♭シ♭シ」。たとえば、日本人は、ここまで極端でなくても、メロディを高低で捉えます。ところが彼らは強弱で捉えるから、まったく同じところで持っていっています。しかし、勉強してしまうと、「レミファーミミレレドド♭シ♭シー」ととって、そういうふうに歌ってしまうのです。

楽譜というのも一面では、よくないのです。音の高さと長さを表すでしょう。正に日本語はそういうものにのった言葉です。たとえば、日本語がついて「冷たいことば聞いても」。「つーめーたーい」と、ここに当てはめていくのです。彼らの場合は、強弱アクセントですから、「たい」「ば」「ても」のところにアクセントがついて、そういうふうに聞こえる。そういうふうに聞こえない人に対して、そういうアンテナの立て方を伝えて、無理にでも、そういうふうに体が動くように入れていきなさいというのが、強制的な勉強です。案外と、聞けているようで聞けていない。優秀な人ほど音程でとってしまう。

○音程より強弱

日本のミュージカルなどは、音程だけとってつけたように聞こえてくる。音域が広くて、対応できていないのです。日本人だったら1オクターブくらいで、急にとばないのですけれど、名曲にも、そういうものがある。歌い手が1オクターブ半を同じところで、ことばで言えるくらいの処理能力があると、本当は成り立つのです。そうでない若い子がやると、高い、低い、高いみたいな、変な感覚になります。原語で聞いたら、そんなことはないのです。

ルックスと知名度中心に、日本の歌い手は、なってきました。お客さんを呼ぶためにしかたないのでしょう。音響がすごく発達カバーできるようになったためもあります。それから客もあまり声を聞かなくなった。その上で、声にどこまで執着するかというのは、その人の価値観です。

まず、強弱で捉えるという勉強です。若干ずらしています。こういうずれのつくり方が、その人のオリジナリティになります。ただ大きな動きとしては、崩していません。音の構造の世界に入っていくわけです。日本でも昔の人のほうが、よほどそのことをきちんとやっています。その感覚の問題は、大きい。日本人以外は、今のような捉え方をしています。そこから入ったほうが、問題が楽に解決するのです。

○まねても完成しない

コピーの問題では、何で間違ってしまうのでしょうか。こういうのを気に入って、持ってくる人がたくさんいます。皆、優れたヴォーカルのコピーですが、持ってくるときに、音程がとれて最後まで歌えた、最後までキーが高いところまで届いたというレベルで持ってくるのです。ピアニストでいうと、弾けたからといって、演奏していることにはならないわけです。

音の世界を見ていくことを早くからやっていくことです。それがなければ、人は聞いてくれません。何で誤解してしまうのかというと、こういうものを心地よく捉えてしまうからです。しょせん体と感覚でやっている世界というのを、どこかで強く持っていれば間違えないと思います。私は、真似してはいけないという教え方をしています。自分を見本に真似させることも、していません。

たとえば、これはよくヴォイストレーナーの研修で使うのですが、ここの「H−AH−」のような抜いたところを生徒に教える必要は、ない。そこまでしっかり歌って、ふっと抜いたら出てしまう。それがトレーニングになるのは、おかしい。
その前の部分の、わずか1秒でも同じレベルの声が出ることを3年かけてもやるべきだというのが、私の考えです。
だから、このくらい大きくしてかけてみたら、本を読んで姿勢はこうだ、発声はこうだといっても、そんなものではないというのは、わかります。

○もっと基本的なもの

高いテンションと、集中力と体力と、意思がなければ、動かせない。その距離がわかってくると縮められます。距離が最初はわからなくても、とりあえずギャップがあるなというのがわかれば、わずか1秒やるにも、すごく大変なことだというのがわかります。

ヴォーカルがお笑いの人に比べてかわいそうだと思うのは、最初の1年はいいのですが、10年重ねるギャップが見えないことです。学校に行って、なんとなくうまくなって、周りからもそういわれている、でも何か違う、その何かがわからないのです。だから、3年5年10年とたっても、そこの問題は、解決されないのです。お笑いは、それがすぐにわかるのです。受けるかどうかは、自分が言ったら、しらけ、身につまされます。ここは受けたけれど、ここは引いてしまったということが、客の反応で分かるのです。日本の音楽の客は、そこまで反応しない。よくなくても拍手をくれるし、よくても少し拍手が多いくらい。突きつけられないのです。

だから、トレーナーこそが、日本においては、一番厳しい評価を下すべきと思うのです。トレーナーは厳格な鏡です。ごちゃごちゃ言う必要はありません。相手がやったことを、鏡で返して突きつければいい。当人がそれを認知できない感覚であれば、待ちます。それは、本人の感覚の問題です。その基準はどこからできるのかというと、優れた感覚をどんどん入れていって、そこに引っ張られるようにして変わっていくしかない。

○能力の伸ばし方

スポーツでいうと、能力をのばすやり方は、試合に負けたから、明日から朝早くきて、練習時間を伸ばすのではない。相手のチームもそうやっているから、同じことを繰り返しているなら結果も同じでしょう。どこで負けたかという分析、相手の研究、自分の弱点を補強することです。先輩から受け継がれた練習を2倍にして勝てるわけがありません。ただ若いときは量が自身になります。その自身が大きく能力を本番で発揮させます。真剣に考えて、精一杯頑張ったことはそれだけというのが多いです。そのときは体を使うことしかなかったのです。

私が今、コーチをするとしたら、アメリカのNBLを見せて、バスケットなら、エリアをとりに行くスポーツというところから教えます。昔のサッカーは、ボールが落ちたところに全員が集まる、だから、問題さえおきないのです。そもそもパスが思ったところに出せないから話になりません。自分の蹴ったボールがどこに飛ぶか本人がわからない。

歌も同じでしょう。そういう見取り図がどのくらい描けているかということになります。だから、高校生がプロか大学生の中に混じって、ついていけない、危ないくらいです。でも、一瞬だけ体が動いて、ちょっとでもボールにさわれたというのであれば、それが最大の成果です。その感覚で、体が全部動くようにするためには、何が足りないのか、体力や感覚を鍛えたり、目が見えるようにしなければいけない。
こういう音楽の分野も同じです。それを努力でやるよりは感覚でやるわけですから、より聞き込むしかない。ていねいに聞き込んでいく。
そういう中で、ギャップをきちんと見ていくことです。

○トレーナーまがいにしない

トレーナーが一番間違うのは、安易に教えすぎることです。褒めて、その人に見えないようにさせていく。
トレーナーがOKや間違いを簡単に言うと、それで先生の顔色を伺うようになってしまう。トレーナーは、自分に伝わったものがあれば返してやればいいのです。それ以外は全部伝わっていないから、問題外だから、本人が工夫するまで待つしかないのです。

漫画家にこう描きなさい、こういうふうに描いたら面白いでしょうと、編集者が言ったら、漫画家が育つわけがないですね。育てようと思ったら、ここは面白かったといえば、あとは全部だめ。ここはよかったというのがあれば、何とかものになっていく。そこまでは、どちらも忍耐しかないのです。
相手側から捉えるという基準を与える以上に、何かいろいろなことをやってしまうと、トレーナーまがいの歌い手になってしまいます。それは一番気をつけなければいけないことです。

○古くならない

これは、ラテンの女王といわれた方が、1960年代に歌われたものです。日本人でも、この延長上でステージでも古いことをやっていることが、多いのですね。この前、キューバに行ってきました。現地の歌い手からもらったCDをかけます。本質的なものやオリジナリティを持っているものというのは、古くならないです。どんな時代になっても、国が違っても、価値が損なわれることはありません。それで判断してもらえばいい。

絵もそうでしょう。生命感があるか、立体的にリアリティを持って飛び出してくるか、絵でしかないものは、価値がないですね。
私が描いたら、平面図にしかならないわけです。描くのは難しいことではないのです。でも絵を超えられない。歌をやっている人も、トレーニングをすればするほど、鈍くなって歌を超えられなくなってしまう。基準が甘くなってしまうのは、気をつけなければいけない。周りと同じ基準にそまっては、日本というのは、レベルが高くないですから。

歌を練習しなかったときのほうが、聞こえて、きちんと見えていたことをトレーニングでぼかしてしまうことが多いのです。歌は、慣れてきたら、ごまかし方がわかってきます。それでお客さんが反感を持たなければ成り立ってしまう。すると楽な方にいってしまう。
声が楽に出せるほうとか、声が守れるほう、それは興行上必要ですが、基本としてはよくないです。

○フェイク

フェイクをかけています。こんな楽なものです。一つひとつのフレーズに、すべて意味があって、フレーズの組み立てにも意味があります。その歌い手が歌ったら、最大限、それを生かせるような組み方をしています。他の人が同じようにフェイクしてみても、なかなかうまくいかないです。
外国人が歌ったものは、どうしてもコピーしているから、日本人が不利なのは確かですが、形だけにとらわれてしまう部分をなくしていくことです。
それでも、その人の独自の世界をつくってしまうと通じてしまう部分もあって、その辺のあんばいが難しいです。私も、自分の好き嫌いでみる立場にはいませんから、客観的な基準として聞く。客観的な基準というのは、何なのかを伝えるのは、時間がかかります。

○本物ということ

声もいいし歌もうまいし、でも何か古い。今の若い人は、そういうCDは買わないと思います。そういう部分を大切にしてもらえばいい。同じ時代に歌っているのに、色あせるものと新鮮なままのものがあります。楽譜や曲を歌っただけのもの、誰かがつくったものをそれっぽく歌ったもの、本当に心からきちんと声を使って、それを重ねて、1曲を通しているものは、明らかに違うのです。けれど、そういう曲に接していないとわからなくなってしまいます。どう歌おうが勝手だとはいっているのですが、基本をやっておかないと、本当の意味の基本はわからないのです。音がとれることや声が出ることは、基本ではないのです。

自分の声をきちんと見つけ、それを相手に伝わるように動かしていく。それは相手に伝えようと思ったり、こうやればいいという表向きのレベルではない。その人の中にある感覚で紡いだ結果、それがどう働きかけるかということです。だから、名唱はどれも、歌っているとか、急に高くなったとか、大きくなったとか、そういうことは聞かせないのです。

音程がいいとか英語がうまいとか、声がいいと思わせてしまうことともない。その人の世界が、リアルに、生命力をもって働きかけます。きちんと落ち着いて聞こえると思うのです。その辺を目的にきちんと定めていけば、それに替わる自分の何を出せばいいかということが課題となります。すると、そんなに間違うことはありません。

○間違う

自分でないことをやることを間違うというのです。☆うまい下手とか、音が当たった当たらないとか、仮に音を変えても、そのほうが伝わるなら、そのほうが正しいわけです。私は立場として声を中心に考えるのですが、バンドが変わろうが言葉が変ろうが、自由でいい、ただそのほうが伝わればいい。それで伝わらなくなるのだったら、あえて変えるべきではないと思います。

プロの作曲家や作詞家のほうが、よく考えてやっているのだから、その世界をきちんと得て、表現しなければいけない。ただ、もっと表現できると思うのだったら、いくらでも自由に変えなさい。ただし、その理由をきちんと突きつけるようにして変えなさいと言っています。☆適当にやられたら作品は壊れてしまいます。ただ、作品を壊してもいいからつくれということをレッスンでは一番メインにしています。

○気づきと作用

難しい曲は、何でこんな進み方をするのかというのもあるでしょう。でも、慣れてみれば、それが美的な感覚になる。最後まで変だというのでは、人々の心に残らない。作曲家はおかしなことをします。後で考えてみたら、彼らが正しいということは、見えないところをきちんと見て。ちょっとした違いを正しくセレクトしています。だいたいクリエートしていく人は、自分のほうからしか考えない。自分がその曲が好きか嫌いかというだけの人も多い。そこでプロデューサーが必要となります。

話す商売をすればすぐにわかります。受け入られなかったら話にならないのです。曲のほうから考える。その中で気づいていくこと。そこから見て、自分の中に何があるかです。それに対応するものが自分の中になければ、その曲はまだ歌えない。あるいは歌わないほうがいいということになります。

自分の方から考えてみると、一体何をすればいいのか、案外とわからないのです。長くやればやるほどわからなくなってきます。最初は何でもできそうに思う。そうではなくて、何もできないことを知ることです。そして、何かから自分が引き出されるというのが一番いいのです。すごく優れていたら別ですが、そうでない場合は、優れている曲に自分の歌や声や、自分の中にある音楽性の不足を、きちんと対峙してみて、気づくしかない。何かしら気づかされるしかない。その作用が成り立っていたら、今度はその作用をお客さんと起こせばいいのですね。

優れたアーティストでも、自分の中と曲とだけでしかできない場合が多い。そこから見て、お客さんのほうに受け入れられる形にしすぎると、曲もパターン化する。曲も、歌い手も、自分がそこに入ってクローズにしてしまったら、何も出てこないわけです。基本としてやることは、古い曲を、今の日本であなたが、同じ世代や今生きている人に歌ってみて、いいものとするために、どういうふうにしていくかというようなことです。それも世の中から気づいていかなければいけないですね。そういうふうに組み合わせてみると、なかなか大変な世界になってきます。

○よみがえらせる

できるだけややこしいものや、単純なスケールの中でつくられていない曲は、いろいろと気づくことも多いと思います。こういうものの作曲を徹底して勉強したら、新しい時代のものが、生まれる。新しいものは、常に昔のものの焼きまわしです。
何か、自分でいいと思うところがあれば、曲の中からでもとってみればよいと思います。
今の世界の中では死んでいる曲を生き返らせましょう。この手の音楽。昔はずいぶん周辺に似たものがありました。だから古いというのでない、またよみがえらせれる可能性があると考えればいいと思います。トレーニングには最適です。

○区別

自分が出しやすいことと、将来使える声が、必ずしも一致するわけではありません。声の場合は、そこは複雑です。何通りも声があるわけではないから、どう出そうが、ひとつの声帯の中での違いです。だから、そのときにどう区別するかという、自分の認識の問題になってしまいます。
たとえば声を明るくしたいといって、明るい表情で出したら、明るくもなるのです。しかし、声質自体はそんなに変わっていない。それを明るいと変わったら、それは声でなく使い方ということです。 全体的に見たら、全然変わっていない。日本では明るさが求められるが、必要なのは柔らかさです。☆レベルの違いというのも、認識の細かさのところです。

日本語は発音で切ると全部切れてしまいます。
ところが、オペラの世界や他の言語は、発声が流れている上で、発音が変わる。息だけ吐いていても、声の芯みたいなものはあるのです。そういうふうな体を一回持つことをめざしてください。その上で日本語を歌うのに、それが必要かどうかはまた別の問題です。
ビブラートや共鳴ということが、ヴォイストレーニングの中では、よく言われます。
ただ、実際にJ-POPSやアカペラをやるときには響かないとよくない。だから、声をとっているものをさらに線にしていく。点でなくては線にして、徹底してつなげていくといいですね。

○グレーゾーンの中で

発声も正誤、つまり黒、白というのではなくて、全部グレーゾーンなわけです。その中で、あまり細かく、いい方に動いている、悪い方に動いているというのは、この中で体が覚えていけばいいのです。いちいち頭で考えたり止めたりすると、レッスンのレベルがおちます。
スポーツをやるときに、一つひとつちょっと待てといわれているようでは、体全体の動きがとまってしまう。
今までと明らかに違っていいとか悪いとか、特に明らかにその方向は救いがないという場合は注意してもよいでしょう。一声出したところで、確かに判断はつくものです。しかし、レッスンの中でそれを全部やっていくと、レッスン自体が頭でコントロールできるところでのものになってしまいます。

判断を知るということで、日ごろやっていることを持ってくるのはかまいません。それはあなたの中で、たとえばこれとこれは、どっちがいいのかよくわからないというときには、ただ出してみたものがいいのか悪いのかというと、どこに基準を置くかになってしまいます。
声楽に基準を置くのだったら、だめといえるかもしれません。でもポップスだったら、そこはわからないところです。
とにかく全神経で体で覚えていくしかない。

○コントロール力を得る

レッスンは体のチェックです。そういうことを繰り返していく中で、今スムーズにいったとか、今のは違う感覚になったとか、そうなったのがいい悪いではなくて、そうなったという事実をしっかり把握することが、とても重要なのです。☆☆そうなったことから、どういうふうに自分の中で、もう少し安定したところに戻そうとか、冒険して、強くやってみようとか、試みてはそれをフィードバックする。

トレーニングで気をつけなければいけないのは、間違ったところを全部なくして、正しいところを求めるよりも、自分が声を細かく認知できるようにする。最終的に使いわけられることをきちんとすることです。
必要なことは、今出している声で1時間、同じ声に、それが何年か経ったときには、何種類かの声を認識できるようになってくることです。自分の練習でも、自分が出したものを自分なりにマッピングしていくのです。

○発声から歌わない

トレーナーがいろいろ言うのは方向性としてのヒントです。言われるとおりに全部やって、自分でわからないまま、腑におちないのに、いいんだと言われているようになっては、元もこうもない。
クラシックはそういう場合が最初はあるのですが、ほとんど、そのままいく人が多い。
ポップスの場合はそれも難しいです。意図的に発声をつくると、高いところはテノールのようになるが、誰もそんなふうには出していないのです。だから発声のやり方というのも、ポップスの場合は、ある程度で限界があります。発声から歌ってはならないのです。☆☆

その人のオリジナリティや作品にとって、その声がそぐうか、そぐわないか。ボサノバをやるのにクラシックのような声でやっても、うまくいかない。でもクラシックがあることで応用できる人は有利だと思います。
逆に応用できなくて、カチカチに固まっている人は、勉強しないほうが、案外うまく歌えたということになりかねない。 その先にようやく結びついてくるのを待てないからです。だから、柔軟な感覚でやっていったほうがいいと思います。

歌から入るのもその部分です。あなたが新しいものをやったり、ここで与えているようなものをやったときに、声がどう動くか、そこから見ていったほうが、よい。「ドレミレド」とかということが、実際の歌に使われるわけではないのですから。

○方向のとり方

声楽はこういうやり方でいいわけです。完全に声として完成していき、歌ってみたら、歌としてはまだとしても、とりあえず、飛ばせる声がなければ、ビリビリくるような声でなければ、どうしようもない。

ところがポップスの場合は、その条件さえいらないわけですから、そうなったときに我々としては歌を聞いてみて、方向性をみます。
こういう音で出ていたのが、今度は違う音になって、「あ」はこうなったのに、「う」はこうなったと、見極め、そのときにどちらが理想的に近いのかをみます。

なぜそこでそういうことが起きるのか、「う」を「え」に変えたらどうなるのかというようなことで統一させていく。
それはクラシックの基準とは、ちょっと違います。その人の歌の中で説得力や統一性が感じられるようなそろえ方で、クラシックの人は浅くて口先だけでやっていると言っても、いい場合もある。

全部が深くというわけではない、ただ、何もわからないところにおいては、体が使えたり、声も大きいほうがいいし、音域も広いほうがいい。何かしら正しくやっていたら、そっちのほうにいくだろうという方向ではやる。ただ、場合によっては音域よりも個性ととる場合もある。その辺は自分自身で課題を持ってきたほうがいいかもしれません。

歌の中できちんと見ていくというのは、別に歌を歌おうと思って、歌を持っていくのではありません。歌の中で使われている発声について、発声を勉強するというかたちでもよいのです。
だから、歌が1曲歌えなくてもいいし、フレーズのつながりが悪いと思ったら、そこの部分をやりましょう。あるいは、ここはすごくうまくできているというなら、そこだけ持ってきて、本当に問題がないのか、何かしらあるのかを見ていったほうが、早いでしょう。実際に使うのは歌だから、ポップスの場合はその方が早いから、私のレッスンも最終的にそんな形になりました。

○見せるのではない

声の使い方なり、歌い方、どう歌ってもいいとなると、今度はレッスンの意味がなくなってしまう。単にあなたが見せにくるだけになってしまう。それでよい人もいます。あくまでも自分の声の可能性や方向性、それから、自分はこれが好みだけど、実際の自分の生まれもった体や声から言うと、将来的にこっちの方が声としていろいろ使えるという部分があれば、そちらで伸ばしながら、最終的に選ぶのは、自分のステージの中で歌えばいい。
だから、ここでやっている声と同じように歌う必要はないという考えもあるのです。こういうところは、状況や環境や条件をそろえていく。

一番いいのは、何でも応用できる方がいいと思うことです。ただ、条件がすごくせまくて、いろいろなことができなければ、徹底して何か強いものに対して、一つのことで、すべての歌がまかなえるようにすればいい。最初はそんなことはわからない。他の人よりもどういうものがあるのかを、発見していくようなことからです。自分の曲を持ってくるのも、スタンダードな曲を持ってくるのもいいです。すぐれたアーティストを聞くというのは、判断の基本です。そして実践練習です。そのアーティストのほうから、あなたの声を引き出してもらったほうが本当はいいわけです。音楽的にも入る。

○くせ

くせというのは、個性と原理のはざまにあります。その人の声はもう癖だから、歌を歌うのに差し障りがなければ問題ない。わずか1オクターブくらいの歌を歌うのに、差し障るようだったら、取り除いたほうがいいということです。全部がだめということではない。そこも微妙なところですね。
4回チャンスがあって1回生かせるなら、何とかなるでしょう。レッスンはしますが、むしろ曲をみましょう。健康な体があって、意欲さえあれば、歌は誰でも、歌えます。サラリーマンでもうまい人はたくさんいるでしょう。でも、あれだけでは金はとれない。どんなにうまくても、そこに音楽が入っていなければいけない。音楽を勉強するとは、どうすればいいのか、これが勘みたいなものだから、とにかく一流のものをかたっぱしから聞かせていくことで補っています。

個人でヴォイストレーニングをやって、声はよくなるけれど、歌はうまくならない。歌はその人がうまいところまでしかいかない。
それを越えて、うまくしようと思ったときに、どれだけ一流の歌を入れているかということ、パターンが効くのですね。それを、たくさん入れていてうまく使える人もいれば、たくさん入れていてもだめな人も、ちょっとしか入れていないのに、すごく使える人もいます。レッスンもそのために生かすのです。


■V検[050728]

○相手側からみる

課題としては、わかりやすかったのではないかと思います。いろいろな力を総動員しましょう。なかなかアカペラでは総動員しにくい。
ただ、楽器をつけてアレンジをしていくと、訳のわからない曲になってしまうでしょう。アカペラの曲としては、見る分には、何をそれぞれの人がやりたいと思って、やってみて、うまくいったりいかなかったり、わかりやすかったのではないかと思います。他の人が、いろいろな歌い方をしたところから、もう一度、自分の解釈、あるいは作品を見直し、少しでも細かく気づきましょう。

全体的に、この曲は有名な曲でもないと思いますから、その人に聞かせたときに何を感じるかというふうに、常に考えたほうがいいと思います。
歌にかぎらず、その世界の中にいると、自分の知っている曲を歌うときには、自分の中に、そのイメージがあります。その曲の落としどころを理解しています。自分の中では違和感はないけれど、それを初めての客が聞いたときに、どういうふうに受け止めるかを留意しましょう。

常に新しい曲でも古い曲でも、そこでやったら初めてで、その曲を知らない人がいることを前提にやっていくべきと思います。
そうでないから、ゴスペルや日本のそういう昔の世界の人たちのものが、どんどんゆがんできてしまう。
大体、そこで知っていることや聞いていること、それを基に組み立てられてしまうのです。日本人ですから、向こうのものを格好いいと思って、向こうのもののイメージで曲を聞いてしまう。そうすると、その歌い手の力が1割しかなくても、残りの9割はバックグラウンドで補ってしまうのです。

この曲はきっとこういう曲で、こんなにすばらしい、その部分をこの人は、案内してくれているというようになります。
でも本来は、そんな聞き方はおかしい。そのことを知っていようが、いなかろうが、成り立たせることです。
その歌い手がもし必要であれば、言葉で補うなり、背景を語るなりすればいいわけです。
その前に何か本物を聞いているからとか、原盤を聞いたからとか、本を読んだということを元に、そんな曲を聞きにくるという前提にないことです。

○違和感の解釈

オペラを原語で聞くときに、そのストーリーがまったくわからないというのでは、全部に字幕を出してもらえないなら、それは客として勉強しなければいけないということもあると思います。仲間内では受けるのに、外に出したときには、ほとんど通用しない。頼ることにもなります。
客に勉強が足りないという責任に持っていける場合もあります。けれど、それもおかしなことだと思います。
まず最初に考えなければいけないのは、この曲の解釈です。この曲は、一体どういうふうに作られているんだろうと。
それから、それに対して歌手の解釈です。

私はこの曲に関しては、最初に聞いたときに、相当な違和感を持った。なんていう曲だと。ただ、それはプロが歌い代えている部分でもある。もし原曲にそういう指示があったとしても、そこで違和感を感じるというのは、大切なことですね。というのは、その違和感を持ったまま、自分がその歌を歌ってしまったら、さらにお客さんの違和感が大きくなります。

だから、最低限、その違和感を自分の中で、消化して、あるいは消化できないのだったら、何とかして歌に戻すことです。
言葉にしてしまう。日本では成り立っていないのに、やたら言葉にしてしまうのですね。メロディで歌っていたほうがいいのにと思うのは一応、歌として聞いているから。

本当のことでいうと、言葉で言っているものが音楽がついても、あまり違和感がなく、音楽に入れてしまえばよい。それがどこが言葉で、どこが音楽というのを、こっちが考えなくても、きちんと聞かせられるレベルにおいてですが。
言葉というのは、嘘ではないので、その言葉を言っていることにメロディがついて音楽になるという順番だから、かまわないのです。けれど、この曲みたいに、ところどころ言葉が挟まったときに、そこでなぜ言葉にしたんだろうということを、疑問に持たれてしまったり、「えっ」と思われてしまうと、なかなか成り立たない。

○全体の流れ

今日の評価は大きくわけると、その2つですね。要は、全体の流れの中で処理ができたのか、練習したときにはうまくいったかもしれませんが、今日ここに出てきたときに、その流れが失ってしまったかですね。
そのときは一応、リスクヘッジというか、どこかで取り戻さなければいけない。この曲はけっこう長いですし、後半のほうでいろいろなことができます。前半にうまくのれなくても、とり戻すことはできたと思います。その辺の切り換えの感覚も、必要になってくると思います。

一番目、ぶつぶつ切れることがいけないことではないのです。実際、切れているいないということではなくて、お客さんが聞いたときに、流れがなくなる。あるいは流れを見失ってしまう。
どこかを見失って、歌い手がまた全然違うところから、うわっと持ってくるのも一つのやり方でしょう。けれど、相当に高等なことです。
普通は1曲の中で、見失わないようにしていく。これはきちんとつなげていくということですね。
そのためにレガートのようなことが必要です。

この前、あるプロシンガーのところにいって、面白いなと思って聞いていたのが、徹底して、日本の古い歌、唱歌で歌わせると。それもレガートで徹底して、舐めるように繰り返し、ひとつの音から次の音へ、絶対に切れないようにしてつながらせていく。それではじめてフェイクやアドリブということが分かるのだと。
私がくれぐれも誤解しないようにと言われたのは、ゴスペルというのは、フェイクをしたりアドリブをしたり、変化をさせて、技術を見せるものではない。ああいうものは、全うな人は、皆嫌っていると。本当にストレートであって、その中に感じるものがある。そういうことをしてしまう日本の歌い手が結構いるのだと思います。フェイクをしまくっているような人たちのを、そう思わないでくださいと。

ゴスペルはうちも14,5年前にやりました。いろいろな人に接して、何の偏見もないし、やっている人はいいと思います。ただ、そこの中で巻き込まれている人が、声の問題で、講演会に来て、不満げな感じで帰る。人数が多くてやれてしまうことを、一人ひとりの個人の実力だと勘違いしてしまう。そこをきちんとしなければいけないということを、言っているのです。

○小さな声の表現力

「私たちは生まれ変わる 愛の力で生まれ変わる」、小さく出だしたのはいいのですけれど、小さく出すということは、大きく出すよりも難しくて、それを知った上でやらないとベースにならないからだめです。小さく出しても、そこが歌としてはベースですから、声が大きく出る人というのは、小さくすると、かなりメリハリをつけられるわけです。けれど、どこまで小さく使えるかといったら、特に出だしに関しては、その歌の基調を聞きます。それを完全にコントロールできるところよりも、完全に小さくしてしまうと、ベースにならなくなってしまいます。

だから、この場合も、「私たちは生まれ変わる 愛の力で生まれ変わる」ということを、きちんと保てるところ以上に、小さくする必要はないし、声量も表現がとんでしまったり、意味もないところまで大きくする必要もない。プロが後半を小さくするところがあって、真似をしている人が多かったのですけれど、流れの中での小ささを感じさせるべきであって、声を小さくすることは違います。それをそのままとってしまうと、止まってしまいます。

○イメージを重ねる

「遠い月日 3001年」、この辺が、半分くらいの人が、言葉が唐突でした。「えっ」という感じのままで、「えっ」と驚かすのはいいのですが、その後に「そのとき空が輝くだろう」のところで、きちんと落ち着かせてくれると、よくなる。それに対して「私の町 私の国」、またここで重ねていくわけです。けれど、これが重ねられないままに「さらに遠い未来のこと」をいきなり入ってしまう。そうすると、さらに違和感がでて、何かこの曲はこうなっているのかなと、余計なことをお客さんは考えてしまう。

あなたについて言っているのではなく、全体的な今日のイメージです。それから「放浪者も」に対し、「ピエロたちも」、それから「魔法使いも」で音楽を入れる。ここも微妙なところで、一番面白かったです。皆、それぞれ考え方が違って、出し方も違った。あなたの場合は、これを3つに分けています。けれど、この3つの分かれたのが見えてしまうと、やっぱり難しい。だから、今日の正解というのは、この辺も含めてみて、言葉で言っているのか、歌っているのかわからないまま、最後までいってしまうということです。

それを明確に区別してやった人もいますけれど、なかなか難しい。よほど間合いをとっていくか、流れをとらないかぎり、この大きな音楽の中に言葉を投げ込むのは。プロでも、私はあれでギリギリ、もしかすると全部歌ってしまったほうがよかったのではないかというような感じもします。
ただ、引き締めるとか注意を促すとか、そういう意味だと、「ほらほら兄弟たち 勇気をだして」、この「勇気を出して」あたりからちょっと難しい。

半分くらいの人が失敗したのは、「死ぬことよりも」から「難しいのは」から「生まれ変わること」への流れです。ここで一回切ってしまうのでなく、ここから「リナシェロ」のところにつながらなければいけないのです。無理だったら潔く、「生まれ変わること」で一回締めてそこからその高さのところから、上から展開するということです。これもあまりできていない。「生まれ変わること」で切ってもいいのですが、流れも切ってはいけない。「リナシェロ」がどこからか、全然違うところから聞こえてきてしまうと、失敗です。

「力強い声が聞こえる」の「る」がよくない。それから「地の底から聞こえてくる」の「る」はいいです。この伸ばし方はよかったです。伸ばすところは、ほとんどの人が失敗していました。「新たな希望と光と」で、ここも切れてしまった、気持ち切れた。歌が切れたなというふうに見えてしまいました。
「今信じるのは、生まれ変わると」の「と」、この伸ばし方が、ほとんど失敗に近いと思います。何人か自然にやれた人がいます。

○伝わるために

「やさしい目をした人たち」のところが、小さい言葉にしている分、死んでいます。ここまで、あなたの場合は小さくする必要がない。
「それによって、誰もがいつか生まれ変わる」も、並行に単調になりすぎたような感じがします。
それから2番のところ、この先ですね。「家の影にも」、ここと「熱いくちづけにも」の間合いがあまりよくない。
「貧しいもの 怒りのなか」あたりも、言葉が音楽になって、音楽の中の言葉が聞こえてくるのならいいのです。が、何となく言葉と音楽が分かれてしまっている。ここは言葉をやっているのか音楽をやっているのか、どっちなのかというままで2番が進んでしまっています。
歌いたいのか言葉で言いたいのか、分ける必要はないのです。意識としてどちらかに決めなければいけないのでもないのですが、どっちつかずのように、2番になると聞こえてきました。

「地の底から」というフレーズはよかったと思います。ただ、それを受けての「新たな希望」の「新たな」の入り方、あまりよくない。それから「魂は永遠のものだから」の流し方から、「今信じるのか」はいいけれど、「生まれ変わると」の「と」が決まらないと、やっぱり難しい。
それから「誰もがいつかは」の「いつか」というところ、こういうところに感情が、「生まれ」とかに入る。けれど、「いつかは」の「は」のところで失敗してしまっています。それから「生まれ変わる」の「変わる」のところ、この最後の「変わる」は、他の人もほとんどよくなかったと思います。

○テンション

2番目、「私たちは生まれ変わる 愛の力で生まれ変わる」、これで4つ。それから「遠い月日」の流れからから「3001年に」の置き方は悪くないのですが、「遠い月日」の入り方、流し方が、少しどっちつかずだなという感じがします。
「そのとき空は輝くだろう」ですね。それから「私たちの町」、非常に弱くした。こういうのは別にかまいません。「私たちの国」、ただ弱くすると、表現力がなくなってしまう場合が多い。それを気づかせないで、表現力での弱さをとって、声が弱くなるのはよいのですが、声を弱くしたら表現力がなくなるというのでは、意味がない。

要は、あるレベルで歌っているものに対して、強くすることと同時に弱くすることは、テンションを相手に投げかけるわけです。
だから、高くしたり大きくするからテンションが上がって、低くしたり弱くするからテンションが下がるわけではなくて、むしろ自分の一番自然で、より歌えるところから、より小さくするということは、非常に高いテンションを客に要求するわけです。
そういうところが低すぎてこもってしまったり、言葉がはっきりしなくなると、非常にだらしなくなって、そこが死んでしまいます。その危険の方が多いので、だから小さい声の使い方は、気をつけたほうがいいです。

「さらに遠い」から「未来のことを」の降り方のところ、まだもう少しできるかなと、それから「放浪者」から、音楽的に処理していく分にはかまわない。
「ほらほら」は少し工夫があるだろうなと。それから「死ぬことよりも」、これが結局、前についていくのか後についていくのか、この辺がはっきりしない。「生まれ変わること」「リナシェロ」があって、全体の構成を見せようという人もいたような気もします。
それから「魂は永遠のもの」から「今は信じるのか」のフレーズから、「生まれ変わる」あたりのところは、感情移入はいいけれども、入り込みすぎです。自分の中で入り込みすぎていることが、声として反映していなくて、重くなってきてしまっています。せいぜいこの辺で持っていたフレーズというのは、「やさしい目をした人たち」、こういうところです。それが抜けたところ、本来、心や感情を入れたところがもっと強く伝わるべきです。が、そこが全部、もう一つ効果が上げられなくなってしまって、それを離したところのほうが効果が上がっている。だから、あまりいいことではない。

○バランスということ

それから、バランスですね。「生まれ」の「れ」、「変わると」の「わ」「る」「と」、この辺が大きさの問題もあるし、前後からのバランスの問題もあります。ここだけで見るといいでしょう。けれど、全体から見てくるとくずれています。
あと後半で、間をうまくやった人がいますけれど、「生まれ変わると」から「やさしい目をした」を仮にあの大きさまでするのなら、「生まれ変わると」の後に、もう2,3倍の間をとっていいくらいです。とらなければ、きつい。
アカペラだから許されることですが、流れをつなごうとしたら、急に小さくするのはよくないですね。そこで間をとっていたら、もう少し聞かせられていたような気がします。

このくらいの距離で歌えばいいという気がします。このくらいの大曲になってくると、頭から、あまりにいろいろな動かし方をしてしまうと、かえってバランス的にわかりにくくなってしまいます。
ただ「輝くだろう」の「だろう」がちょと問題で、次も「さらに遠い」が入っていて、「語りあうだろう」、「だろう」ですね。これを除けば、比較的無難に聞けました。「地の底から」から聞こえて伸ばすのはいいのですが、私もプロのを聞いてしまっているので、どうしてもコピー的なところが入ってしまうのです。

それから「生まれ変わると」の「と」、後に関しては、前半は歌い流してしまっていいと思うのです。この曲にかぎらず。
でもこの後半のところで、きちんと引き受けられていないなというイメージはあります。「リナシェロ」、ここで引き受けなければ、前半はもう少し歌わなければいけない。前半をあの歌い方でいくのだと、後半は相当何かを出していかないと、これで終わりかという形になりかねないことがあります。

自由曲は有名な曲ですが、2行目のところまで何か曲がわからなかったです。これは明確な曲なので、もう一度音程や歌い方をチェックして、ここの2行を頭からわかってもいいと思います。それから、次のあたりは、そのままの真似になってしまっているので、少し変えたほうがいいですね。
それから「day」のところ、この動かし方は音楽的には合わない気がします。

「it is something」のところ、「that's I must say to you?」のところですね。それから後半の「I just call to say I love you」、これは一番のスタンダードな歌い方にすべきで、歌い方としては重すぎます。それから最初の「I love you」の歌い方に対して、もう一回の繰り返しの「to say I love you」は、当然高くしているのはいい。けれど、ここの対比を成り立たせるというのをやっていかないと、単に歌っていて、ここは高くなったということになる。そうではなくて、前にここは低く聞いていたのが、次は高くなったなというような効果を、お客さんに対して与えます。それから最後の「of my heart」のところは低すぎたのか、声が落ちなかった感じがします。その辺がぎくしゃくした感じに聞こえました。

○詰まらない

6.これも前半はそんなに問題なく、「遠い月日」の「ひ」、「3001年」のところ、それから「私の町 私の国」、ここら辺りから、最初の4行に対して、次の4行くらい、この辺が何となくテンションダウンをしてしまっている。詰まってきているのです。
プロだからできる、無理してやっているところをとらないことです。それを整理して違うことに置き換えるか、原曲に戻すことをやるべきだったと思います。あの歌い方で通用させるのは、相当、大変なことです。あれを聞いて通用させるのは、難しいなと思います。難しいと思うものは、偉いのではないのです。

本当のことをいうと、難しくイメージして、難しく解釈してしまっているから、難しくなってしまう。
本当はこの解釈がもっと簡単にできれば、このくらいの力があれば、もっと楽に歌える。ただ、それは個人の価値観だったり、やりたいことを放り込んでいくわけです。その中で、何回も歌って、何とかつないだということなのです。

他の人が真似て、一番よくない歌い方ではないかと思います。だから、オリジナルともいえるのでしょう。「生まれ変わると」の「変わると」、「やさしい目」の前ですね。ここが強く決まるといいのですが。「誰もがいつかは生まれ変わる」、最後のところも平凡ですね。これも、どちらかというと、やや入りすぎです。感情移入の程度問題です。感情で持っていくと、こういう歌は、厳しくなります。もう、その人独自の世界で、客があきれるくらいに移入していくと、またそれはいいと思います、けれど、中途半端にやってしまうと歌に負けてしまいます。

○もたせる

7.比較的、すんなり聞けたような気はします。「そのとき空は輝くだろう」とか、「さらに遠い未来のことを私たちは語り合うだろう」というところが、音楽と言葉の中間点くらいで、うまくおさまっているのではないかと思います。「魔法使いも仲間たちさ」もそうです。
ちょっと疑問だったところは、「ほらほら兄弟たち」とかは、よく処理できたと思います。「死ぬことよりも難しいのは」の「難しいのは」のところ、ちょっとひっかかりました。「リナシェロ」のあたりもシャウトというか、歌としていいとかどうこうということではないが。
あなたの持っているシャウトと、無理に引っ張るところが、ここまでに関してはいい方に出ていたということです。

こういう歌い方があるということは、使えます。「地の底から聞こえてくる」の盛り上げ方に対して、「新たな希望と光を」という持っていき方もいい。「魂は永遠のものだから」というので引っ張って、「今信じるのだ」で落ち着けるのもいい。非常にわかりやすいです。ただ、それがどこまで持つかなということで見ると、「生まれ変わると」、ここで失敗しているなという気がします。「変わると」のところ。
「やさしい目をした人たち」もそんなに問題ないと思います。「誰でもいつかは」も問題ないけれど、「生まれ変わる」の最後の「変わる」、この辺もあいまいになっている。シャウトで持っていっている部分と、引っ張ってやっているような部分が、自由曲を聞くとわかるのですが、同じ問題が出ています。

前半の部分はそれで引っ張っていったり、シャウトで、うまくまわしていったことが、後半になってくると浮いてきてしまうのです。要は、実がなくなってきてしまうというより、そのかたちのところで抜けてきてしまう。だから、自由曲に関しても最初の3行は、ほぼうまく落ち着いているのです。ところが次の辺から結構、単調になって、こういうところが並行に並んでいく。

流れの中で小さくするということができているのですけれど、この曲自体、音の面白さを掛け合わせていくものです。韻を踏んでいるからではなくて、そういう跳ね合いみたいなものが聞こえてこないとつまらない。きちんと歌っていくと、持たなくなってきてしまいます。
それから、後半部分、さっきの部分から最後のところ、こういうところが上ずってきて、感情が落ちていないです。感情を入れるなということではなくて、感情が伝わればいいのです。けれど、それが声が細くなって、前半にシャウトしたり、引っ張っていることの悪影響が出て、形だけでまわしているように、後半がなっています。

声の状態が悪くなってしまうということもあるのでしょう。けれど、前半のことを後半もできれば持つという気がします。シャウトや引っ張りの程度を、どのくらいにするかということです。やり方で最初が持つのだったら、それも一つの歌い方ということでは、安定しているように見てはいました。

○構成立てる

8.どちらかというと、いい面でも悪い面でもきちんとしている。「私たちは」から「そのとき空は輝くだろう」、これをきちんとしていた。ただ「私たちの国」、「私の国」で皆、小さくするせいなのか、「汚れのない世界抱いて」で、テンションダウンしてしまう。
テンポがわざとゆっくりにしたのでしょう。けれど、そのときもテンションダウンしないように、気をつけることですね。小さな声、ゆっくりしたテンポ、何かその辺を変えたことで、簡単になったと思わず、すごく難しくなったと思わないと、テンションダウンしてしまいます。表現力が落ちます。

エコーがかかっていると、客にはわからないかもしれませんが。そのことで次に張るときに、声が持っていきにくくなります。
これは単純に最初の2行、次の2行、それから「放浪者も」から、その次どうするのか、同じ形で淡々と歌っていくんだろうと思ったときに、「ほらほら兄弟たち」というのが、一体その前に入るのか、後に入るのか、ここから破格になってきます。

この位置づけが、ピンとこない。構成で持っていく場合は、構成をはっきり出してあげないと、お客さんのほうがわからなくなってしまいます。
こういう淡々と入っていく形に関しては、「ほらほら兄弟たち」という位置づけをきちんとしてやることです。それから、「リナシェロ」の後もそんなに問題はないけれど、かぶせすぎた歌い方という感じがしました。もっと抜いていくとか、響かせていくとか、何かした方がよい。この形で持っていくと、下手なクラシック歌手のように埋もれてしまう可能性があります。

問題になっている部分はそんなにないです。「新たな希望と光を」の「を」、「生まれ変わると」の「と」、よくない。
それから「やさしい目をした人たち」、ここは皆、口先でやったり小さくしたりしていましたが、きちんと歌っているので、よかった。「誰もがいつかは」で動かして、「生まれ」はよかった。けれど「変わる」で、相当、いろいろな人が失敗していますね。流れの中に出てくるところに、「変わる」を置かなければいけないわけです。もし前半や、そこまでがうまくいかなかったら、その「変わる」だけを練習と同じように頑張って、長く伸ばしてしまったら、当然破綻してしまいますよね。その辺は、トレーニングを忘れて、臨機応変に、ステージのバランスの中で、落とさなければいけない。☆

うまくのれなかったから、最後だけしっかりやろうというのもいいのですが、それで歌を台無しにしてしまうこともあります。そういうときはあっさり引くということも、大切です。1曲しか歌わないのに、1曲捨ててはどうしようもないのですが、全体のバランス、特に最後の置き方というのは、歌のポイントとして高い部分になってしまうので、気をつけたほうがいいですね。

○呼吸音とフレージング

9.「私たちは生まれ変わる」「輝くだろう」は、問題ないと思います。「語り合うだろう」の「だろう」、ここが皆、次の「放浪者」との掛け合いで、どのくらいの変化をつけるかということです。まったく同じにおいても、私はいいと思います。
実際はここから「放浪者と」のところに上がっていくわけですね。4人くらい、ここの音感や音程がよかった。あとは同じように歌ってしまった人もいた。
ただ、アカペラなので、別に半音上げるくらいのことはこちらでは見ません。

それから「勇気を出して」あたりから気になってきたのは、吸気の音が入ってくることです。息を吸う音は入ってかまわないのですけれど、それがマイクに入ってしまったときに、耳障り、しかも見えてしまう。その吸気というのは、次のフレーズを教えてしまうことになってしまうので、同じ吸い方をしたら、同じ出し方だなというふうに、客には見えてしまう。マイクがあれば、マイクを離してしまえばいいから、問題はないのですが、あまり音を立てないように考えたほうがいいです。

サビになって、「リナシェロ」よりも後が、「難しいのは生まれ変わること」のフレーズはいいし、「リナシェロ」から入っていって 「力強い声が聞こえる」「地の底から聞こえてくる」「新たな希望と」、この辺の持っていき方はうまいですが、「光を」の辺から吸気の問題です。
それから「魂は永遠のものだから」「今信じるのは、生まれ変わる」、この辺も大きさがとれているから、いいと思います。吸気を気をつけることと「いつか生まれ変わる」の「変わる」が、形だけの語尾処理という感じです。この歌のひとつの締めだなということには、見えなかった。そこがちょっと惜しい感じがします。

○発声練習課題として

練習でやったとおりには、ステージでできなかったと思います。こういう曲というのは、多くの人は選ばない。というのは、失敗するリスクが大きいのですね。うまく入れなければ、最後まで失敗して、リカバーしにくい。本当に調子のいいときは、案外とうまくできてしまったり、何か知らないけれど、関係なくうまくできてしまったりする。こういう曲でよくあるのは、絶対に前日までできなかったのに、当日だけ、すごくうまくできてしまったと。その代わり、そのステージと同じようには、一生できなかったとか、そういう曲です。

だからこそ、練習課題としては、選んでみてもいい。もしその理由や原因が自分にわかれば、こういう曲は、自分のいろいろな特徴を教えてくれます。自分のいいところも教えてくれるし、悪いところも教えてくれる。こういう勝負はできる、こういう勝負は絶対にできないというようなことも、突きつけてきます。今までの曲と別に、テーマや歌の内容はともかく、曲自体と声の組み合わせということでは、はっきりいうと変な曲だけれど、テーマや曲自体のつくりは、しっかりしています。

プロが歌うと、ああいうふうになってしまいます。あれも、説得力のあるのは、そういうことがすべてわかっていた、思い入れの歌ですから、そういう状況の歌は、普通の歌とは全然違います。感情移入するのは当たり前でしょう。そういう意味で残していこうという声のことです。
ただ、皆さんの場合は、そこを見たところの違和感を、自分なりに解消して、彼と違うやり方を見つけないと、彼と同じレベルでは歌えないということになります。あの歌い方を勉強していくのもいいとおもいますが、歌い方が古いというより、あれだけ、技術と歌唱力と、声のパワーがないと、普通の人がやると、破綻してしまう。

ビルラの歌を真似するようなもので、ある意味では発声の練習にはなるのですけれど、ある面ではそれと同じことができたら、世界のトップとはいいませんが、カンツォーネの王様と同じなわけですから、最初から真似ないほうがいい。勉強になるところはなるが王様になれるという自信がある人以外は、自分のオリジナルの部分で、勝負していったほうが、声も動きもいい。

声量も声域も望むだけ、あるという人は世界の中にいくらかいるのでしょうが、レベルの高いところにおいて、さらに王様とか女王とか言われる人の歌唱法から真似ていくというのは、そっくりになったところで天引きされます。ビルラっぽい歌い方だなとか、あるいはプロっぽい歌い方だなと。でも、ここがというところはそれよりレベルが低いと、そういう見られ方をされてしまう。そのこと自体が、非常に不利だと思います。
その分、違和感の感じるところがあれば、自分のフレーズを見つける、むしろいいチャンスだと思ってやってください。

○旧V検

このくらいの人数がいたほうが、こちらも、皆がどう考えてどう歌ったか、わかりやすい。相互にも練習になると思います。昔のV検は、5ステージあり、それぞれ、16人から20人、2曲やる人も多かった。ほとんど、私も最後には感覚が麻痺して聞いていました。またそれもいいのです。オーディションをやっていたときには、1日に70曲か90曲かトレーナーたちと聞いて、そういう状態になってくると、課題曲は同じ曲ばかり聞くわけです。そこで聞こえてくるなら、全部いいということですね。耳が聞きたくないといっているわけですから、本当にいいものだけ聞こえてくる。そういうふうに考えてみれば、案外自分の歌も、客観的に見えるのではないかと思います。

○呼吸と発声の鍛錬

要は、呼吸を意識すること自体がもう、呼吸を不自然にしてしまい、体に緊張を加えて、声帯に対しては非常に悪い状態をつくってしまいます。常に言っていますが、本当の意味で、体や体の神経系や、感覚を変えるというのは、はっきり言うと、非常に不自然で、部分的で、意識的なことをやらなければいけない。その間は、かえって声が出なくなるし、歌も歌えなくなってしまう。

よく、トレーニングをしにきて、「前まで高い声が出ていたのに、出にくくなったとか、発音が悪くなったとか言われた」という人がいるのですが、それは当たり前です。どこかを強化するということは、全体のバランスを崩しているわけですから、自信を持って、思いっきり、気持ちよくカラオケを歌っている歌よりは、悪くなります。それはスポーツをやっている人なら、水泳でも、自分が思うとおりに泳がせてくれた方が絶対に速いといっているようなものです。 そこにコーチがフォームを言い出しても、すぐにうまくいかないのは当たり前です。そういう時期があるのです。

もうひとつは、スポーツよりよくないのは、そういう状態で声を使うと、声自体が、昔より疲れてしまう場合があります。
私たちはトレーニングをやったら、今までよりもしゃべる時間も、歌う時間も短くしないと、トレーニング自体が全部オンするのではなくて、トレーニングの時間だけ、声を使っているわけです。
トレーニングした上でなおさら勉強しようと思って、いつもの2,3倍も歌ったら、両方で潰し合うことをやってしまいます。その辺をある程度、大雑把に捉えないと。

そうでないとどういうトレーニングになってしまうかというと、今できる体の中で、たとえばカチカチになっているから、「リラックスしてみたら声が出ましたね」とか、「柔軟してみたり気持ちをほぐして、そうしたら声がうまく出ましたね」と単にそれだけです。それは本来、自分の中に持っていることですね。

ヴォイストレーニングは2つあって、ポップスのヴォイストレーニングのほとんどというのは、自分が持っている声がうまく出せていない状態をよくするだけです。でも、声楽家やプロの役者というのは、声だけでも違います。歌の声だけでも、素人ではできないということをやる。それは素人のいい状態とは違うのです。どこか鍛えて、そういうことに特化できる機能というのを磨いている。
その両方が必要です。体から変えていくこと、そのときに発声のことを考えてしまうと一本化しない。
聞き分けができるといいのです。トレーニングのときには意識するけれど、歌とか声を出すときには、そんなことを考えない。たとえば声を出しながら調節するのはできないです。

○歌と発声の違いと真の上達

皆、発声練習というと、考えながら出すのですけれど、考えた瞬間に、状態が悪くなるのですから。
出した後に、よければいいという。悪ければ何かしらこちらで指摘することであって、出す前に考えたり、出しながら考えたりしたら、絶対に全うになりっこない。だからある程度、その辺は切りかえられたほうがいいと思います。

はっきりいうと、レッスンでも、音程や楽譜をきちんということと、発声をすることと、歌に気持ちを込めてということは、最初は両立しないです。それぞれ違う感覚でやらなければいけない。そのうち自分の器が大きくなってきて、自然と歌っていたら、発声にもふさわしくて、ピッチも乱れていないというようになってきます。それはそれぞれが分かれているのではなくて、本来は自分にとって心地よくて、お客さんにとっても心地いいというところで、共通していることなのです。

ところがほとんどの人は、それがいっぺんにはできっこないのに一気にやろうとしています。
だから、こうやって複数の先生に、別々のところから、それぞれの力をつける。どこかがついて、どこかがつかないと、またアンバランスになる。
そういうことで、実際に迷うことばかりになってしまう。皆、解決しようと思って、来るのですが、解決したら真の上達はしません。☆

当たり前だと思うのです。薬のように、それを買ってそれを飲んでよくなるくらいなら、面白くもなんでもない。
確かに楽によくなるのはいいのですが、それは人に対してよくなるとか、声が出るとか、そんなレベルのことに至りません。
自分の中でわかるようになってくれば、はじめて対処法や応用力もついてくる。
だから、今のところ、バランスよく、やっていくトレーナーも多い。それをやらないで、発声練習をやっていても、わからなくなってくるからでしょう。

周りがやっていたからやっていた、個人になると誰も言わないので、やらなくなってしまうのです。それは自らやったほうがいいと思うのです。
いつも言っているとおり、発声、ヴォイストレーニングをやらないで、うまくなった人はいるけれど、聞くことの勉強や、たくさんそういうものを入れないでうまくなった人はいません。面倒かもしれないけれど、書いていくと、それはひとつの記録にもなる。歌がうまい人で、人の歌はあまり聞いていませんという人はいません。 J-POPSを知らないという人はいます、どこかですごく専門的に、聞き込んでいる時間が必ずあります。その勉強をやるほうがいいと思います。

○動きと流れ

声が出ていたら、その声が動いていって、ひとつの声に次の声がつながっていって、その動きが音楽になるという動きをとることからです。☆
自分が全部やろうとしたら、聞いているほうも全部やられているのですから、きついだけです。まして、固い顔をしてやるのはよくありません。
その流れの中で、起承転結、そのように見えない中で一本、起承転結が入っているというくらいが一番いいのです。ところがそれが、起承転くらいで持たなくなってきたら、結のところでも転のところでも、何やかんや強く入れてみたり、新しい動きをおこさなければいけない。

だから流れをつくるのと同じです。ある流れを起こしたときに、それでどこまで自分がのっかれるか。そののっかりが弱くなって、ボトッと落ちてくるとしたら、その前に、早めに流れを自分でつくらなければいけない。でも、それにのっかれるのだったら、できるだけそれにのっかっていったほうが、歌としては大きくなるし、歌うほうが楽になるわけです。

○メリハリとフレージング

「思い出にむせびながら」と言えた後に「一人眠る」のどこかに落とし込む、感情移入ではないけれど、気持ちのほうを前面に出す部分をもちます。気持ちを前面に出すということは、声を引っ込めるということですね。☆
そういう部分が必要です。

一本にするのはいいのですが、あまりに一本が直線的に出て行くと、そうすると、自分の中でも動かなくなる。それを言葉で言ってしまったり、動きを止めて感情を表現してしまうと、今度のその流れから、ぽつっと切れてしまう。切れて許される場合と許されない場合がある。☆
だから、流れを重視しなければいけない部分と、それから流れが単調になることを嫌わなければいけない部分というのがあります。

たとえばこの歌だったら、そこまでは流れ重視でいいけれど、最後の最後くらいは、何かをおかないと終わりきれない。
また先に行ってしまうのかという感じにならず、エンディングを匂わせていく。アカペラでは、自由でできるのですから、少なくとも「秋風が?」のところから、これがエンディングだという形で計算していかないとまずいですね。
今のだと、2回繰り返しただけです。伴奏がついていたら、それで終わるのです。「ひとり眠る」をあまり強くしないほうがよかった。さっきのだったら強くして「暗い夜」で弱くしてもよかった。

どういうメリハリをつけているかというのは、それこそが歌い手の感覚です。ただ、本当は、そのときに起こしたことで、自分が入るべきです。☆今まではこう歌っていたのだけれど、今はこういうふうにフレーズがいってしまったから、これはやっぱりこうおさめるべきだろうという、一つのバランスみたいなものを探っていくしかない。それは自分では難しいことです。

○声で押さない

要は、声で押していってしまうと、声だけしか聞こえなくなってしまいます。だから、声で押せるときというのは、心地よく歌えるし、節もまわるのです。けれど、概してお客さんには声しか聞こえない場合が多い。声が聞こえたらいい歌と、声だけが聞こえたのでは物足りない歌があります。こういう歌は難しい。どっちで勝負するかというのがあるわけではない。その歌い手がこういうものを歌って、それなりに聞こえてしまうのは、オリジナリティです。

この歌も不思議な歌だけれど、あの歌い方も不思議な歌い方です。それがひとつの味になっている。あの歌い手が違う歌を歌ったら、こういう魅力にはなかなかならない。ある意味だと、うまく合っていると思います。
「ローラ」というのでまわっていく。それを日本語で「今」とやってみても、同じようなまわり方をしない。そうしたら、何を入れたりどう変えるのかということです。
あの歌い方は、最初から「おくれ」のところだけでも、特殊です。その人でないと、許されない歌い方ですね。とちきれそうでいて、ビブラートをかけているわけです。そういうのが、癖ですね。

○持ち味とフォーム

いろいろな歌い方があるということはわかると思います。どっちがいいということよりも、自分の持ち味を知って、勝負どころをきちんと出していくということです。それに伴わせて伴奏をつけて、テンポを決めて、キーを決めるということです。本来、当たり前のことを、日本の場合、いかにやっていないかということです。

声楽をやって、発声で歌っている人は、発声で成り立ってしまうと歌になったと思ってしまうのです。この前、KAさんのところに行ってきたら、「やっぱり歌というのは歌えないわね」という結論になった。それはどういうことかというと、楽器は自分と神経系を一緒にして、要は、こういうふうにしゃべるようにピアノが弾けるように、結びつけておくために、毎日8時間くらいやらなければいけないわけです。でも、結びついたら、あまり裏切らないのです。
歌というのは、声は出せるようになる、発声もできるようになる。そのことと歌がよくなることは、必ずしも一致しない。

皆のアテンダンスを見ると、歌い手がわからないというのもあるのでしょうが、矢沢永吉さんの耳に残ったという感想が多かった。結局、そこの勝負なのです。歌を聞いて、発声を考えてみてもしかたがない。それから、歌の上手下手を考えても、しかたがない。帰るときに誰の声が残ったか、もう一度聞きたいか聞きたくないかということになると思います。

私もあまり声のことの注意をしないのは、そこで直されるものではないからです。大きな見方として、2つの方面から入っている。流れから入って、音楽的な条件が、声楽家とはいいませんが、ああいう人たちのように、どちらかというと声に出る。あるいは持っていかれるという場合です。声が出るのと持っていかれるのはちょっと違うのですが、音楽的な意味で入っている人の場合、逆に、それをどういうふうに歌に落としていくのかが問われます。
そこで言葉や感情、それこそ役者の勉強をしてみたり、感情表現をしなければいけない。一方で感情移入はできる、声は音色を持っていたり太かったりするという場合は、音楽としての組み立てですね。

○集中力の線

昨日、合唱のセミナーに行ってきました。中高校生の優勝校のトレーニング研修がありました。いろいろな先生が、いろいろな教え方をしている。彼らが楽屋裏で言っていたことは、アマチュアのレベルは、結局、教える教えないではない。健康であることと集中力なんだという、そこに至るわけです。その集中力の度合いがどのくらいプロと同じなのか。

もう一箇所、今日の午前中、センサーをつけて、24時間心拍数や体の管理ができる技術があり、そこの研究所に行ってきました。
私の考え方として、研究所には、声と歌の問題以外は一切持ってくるなという考え方だったのですが、実際にいろいろな人を見ると、それだけでは全く足りません。声が出ないといったら、寝ていないということも原因にある。1週間まともに寝ていなければ、声が出るわけがないのです。だから、24時間の管理をどうしていくかが問われます。

長嶋茂雄さんの本は、人が書くことがあっても、自分では出さないでしょう。それに対し、イチローや桑田や清原、女子ゴルファーのやり方は、非常に参考になります。元々、素質もあり一流の人ですから、私たちが同じというわけにはいかないのですが。イチローは、小学校の頃から、きちんと考えてイメージし、そのとおりにしている。この前、留学の学校に行ってきたら、イチローの小学校3年に書いた作文の写しがあった。「大きくなったら何になりたいか」という、そこに「プロ野球の選手になる。契約金額が1億円」と書いてある。

誰よりも自分はやっていて、やれないはずはないというようなことでしょう。
毎日の課題もやって、とにかく練習ばかり、1ヶ月の間で友達を遊べるのも、5,6時間しかないと、そんな子は自分しかいないから、自分は絶対になれると。それが小中学校の環境で与えられるというのは、すごいことだと思います。でもカズや中田でも、似たようなことは言えます。

だから、我々が考えることは、それが大人になってできないと考えるよりも、大人になったから、なおさら自分でコントロールできると。外から与えられるものではない。そういうふうに考えてみたときに、逆にそれができなかったからこそ、うまくいかなかったのであれば、違うところというか、トータルで見直してみることが必要です。

○体がついた声

合唱団で、中学生と高校生は違うのですかと聞くと、中学生は上っぱなんだけれど、高校生になってくると体がついてくると、なるほどと思う。ああいう先生方の耳には、中学生と高校生というのは、すぐわかる。色気が出てくる。男性でも同じです。
一人ひとりの個体の完成度が、高まってきます。その中でやらなければいけないのは、その一本の線をつなげていくところの、つながりの中で何を落としていくかです。起承転結をその中につけるという言い方で、言っていますけれど、それが一本の線になっていて、その上で起承転結がその上に入っていると。起承転結を意識したら、流れがとられる。流れのほうでやってしまうと、今度は流されてしまうという場合がある。歌の場合は、そこをあいまいにします。

まして感情表現をしてしまったり、言葉を大切に言ってしまったりすると、その流れを失ってしまったりすることが多い。
音楽が徹底して入っていて、音楽というよりはリズムですが、グルーブが入っている人は、言いたいことをそこに感情としておいていくと、きっと音楽にひっぱられていく。これが一つの理想的な形だと思うのです。
今度、詩人の谷川俊太郎さんと対談をすることになりました。彼の言うことも、日本人がやらなかったところは、言葉の声のところの練習なんだと。

声を一番丁寧に使っている人は、私は朗読の人だと思います。声優も雑になってきました。一つの言葉をどう置くことによって、どう人の心に伝わり方が違うかということを、詩人だけでなく歌い手はあまりにも研究していないと思います。☆
合唱コンクールに出る人たちでも、声や音色ということでは、あまり考えていないですね。感情移入してしまったら、発声はうまくいきませんから。

○形より実

こういう歌で一番知ってほしいことは、情感、感情といわれるもの。声がなく音域もなくてもよい。実際、それを日本人の歌と比べてみたときに、音楽的にも成り立っているというところです。チンクエッティは、正に両方を一致させて歌っています。置くべきところに感情がきちんと置かれている。最後の部分まで。それが、前にキューバのものを聞かせたのと同じで、音楽として処理されている。日本の場合は分かれてしまうでしょう。ここは言葉で言う、次は歌というように。あの不快感が私は許せないのです。特に日本のミュージカルはそうです。要は、形から入ってしまうのですね。それでは、トレーニング風景なのです。

形ではなくて、音楽というのは、音楽として組み立てるべき実をとってから、形にしなければいけない。言葉も声もそうです。本来、実をとって、それをつないでいったら、形になる。勉強のしかたとして、形から入るのはいいと思うのです。ところが形か入ったところでOKにしてしまって、次の形にいってしまうから、そこに実というのは入らないのです。

後から入ってくる場合もありますが。10代の頃は全然わからないで形でやってきたら、20,30代で実が入ってきたということもある。中身、身、実が本質です。☆その辺をお互いに、声のよしあしや歌の上手下手というところではないところで聞いてみて、成り立っているかいないかをチェックするということです。非常に微妙な判断のようでいて、すごくはっきりしています。合唱もそうで、歌っているだけというのと、ちゃんと伝わっているというのは、かなり違います。

○ワークショップ

先生方がひっくり返したり、動かしたり、2人1組でやったりして、声を出したりすると、体がほぐれているだけなのですけれど、気持ちがほぐれるから、厚みが全然違ってくるのですね。
小学生はすごく簡単に変わる。中高生になってくると、ちょっと難しくなって、大人になると難しくなりますね。
だから、歌でということではありませんが、つながりは見ていかなければいけない。それから部分的に成り立っているかもみなければいけない。大切なのは全体として、それを歌い終わった後にどうするかですね。
どういう間をとって、次にどういう大きさで入っていくか、それが展開構成になります。
そのことをいっぺんにやれといっても無理かもしれませんが、やらないでいっぺんにできたかできていないかというふうに見ていけばいいと思います。どこが成り立っているいないかということを、細かく見ていくということです。

そうすれば、こういうものを比べて、嘘っぽくなってくるでしょう。日本人の歌い手は、声もいいし、歌もうまい。何でそれだけのことをやっていながら、伝わらないのか。そこが形なのです。
形をとることが歌だと思ってはいない。そういう人たちは、頭もいいし、歌のことも勉強している。でもとらわれてしまう。形を守るところに、とらわれてしまうのです。
だから、それは一回、分解せざるを得ないのです。自分の中でも成り立ったと思っても、分解して、もう一回成立しているかということをきちんと見る。その成立が、たったひとつの声で起きることもあるし、全体のフレーズの中で起きることもあります。その辺はあまり細かくみても、しかたがない。とにかく繰り返すしかありません。

常に考えてほしいのは、ここのレッスンに対応できることを、毎年積み重ねているのであれば、正されることだろうと私は思っています。というのは、実際にいろいろな方法があっても、歌い手がやってきたことは、耳を磨いて、イメージをつくり、それに対し、体をつけて、相手を感じさせるようにしてきたことだからです。それはお互いが、もう少し自分の中の世界ではなく、まわりの人が感動するように動かしてやろうと思えばよい。またその欲が失敗する元なのですが。

○歌の難しさ

歌が難しいのは、楽器と違って、すべての条件が整ったときに、歌が成り立つとはかぎらない。プレーヤー、楽器の人なら、体調がよくて、気がのっていて、ぐっすりと眠っていて、やる気に満ちているときは、たぶん失敗しないと思います。

ところが歌い手というのは、そういうときにも結構失敗するのです。逆にかなりひどい場合に、案外うまく伝わったりするのです。
舞台を見てきて、バンドで失敗するのはめったにないのですが、歌い手は最後、こいつにまかせたという人が、大コケしてしまったり、全然期待しなかった人が、すごくいいものを出したりする。非常に難しいといわれるのは、そういうところだと思うのです。

そういうことを起こさないようにと考えていくと、だんだん無難な歌になってしまうのです。うまいけれど何も残らない。
だからそのリスクを引き受けていったほうがいいのではないかと思います。合唱も、何となくつまらない。サークルでやっているような感じに、どうしてもなります。
その辺は、さすがに全国一になると気合が違って、プライドが支えていく感じがしますね。しかし、周りに見せつけてやるんだというようなところが、何か出てしまう。歌わないときには、その辺の子供ですから、そういうところも必要かと思いますが。

○思い込みとリアリティ

かなり強めに入れています。だから強く入れなさいということではない。日本人が歌う分には、この情景の中に合わすのもよい。
それから言葉を大切に歌うのか、音の流れを大切に歌うのか、いろいろな流れがあっていいと思うのですが、最終的には自分の強みに持ってくる。

使うときにはいろいろやって、大体自分の思い込みだけで走っているのですから、そうじゃない曲、そうじゃないフレーズ、そうじゃない形というのはやってみてもいい。けれど、それも試して、最終的に自分のスタイルをつくっていくべきです。
それが矢沢永吉さんそっくりになってしまったら、まずいでしょう。

もしそこで何かしらのリアリティを感じるのであれば、それはやってみる分にはかまわない。やってみたら、必ず真似になってきます。そこからいずれ、離れていかなければいけない。その距離をきちんと見る、といっても、最初は無理ですけれど。

初期の段階だと、秋の秋、冬の曲は冬、昔はそういうことをずいぶん考えてやっていたのです。12月になればクリスマスソング。でも、考えてみると、役者が冬の舞台を夏にやるということは、当たり前。これは、秋です。それが出せなければ負け。それを音楽として成り立たせるのか、情景の世界、言葉の世界としてやるのかは、分ける必要もないと思うのです。

皆さんがやらないような古い曲をやったり、歌わないような歌をやったりするのは、その歌自体が一流品であれば、課題としては充分だと思うのです。夏に冬の曲を歌ってみて、頭がおかしいと思われているのか、寒いねと思わせるのか、それが芸人の力の部分です。 最初は情感を、自分で移入しなければいけないから、暑い歌は暑いときがいいでしょう。冷房が入っていたら、そんなことも関係ないのですが。その体験が入っていない人は、裸になって世界中を旅行するなり、アジアに行けば、気候がどういうものかわかる。都内は人工的につくられています。

○変じる

やってほしいことは、とにかく自分が一番うまくできるフレーズ、自分が気に入ったフレーズでもいいでしょう。できれば自分が嫌いな歌ややりたくない歌から持ってくるほうが、感覚的にはいろいろな気づきが大きいと思います。それを言葉を変えてみたり、母音を置き換えてみたり、今の「に」を、「ね」にしてみる。そこでうまくいっていると思ったら、2倍伸ばしてみる。テンポを半分にしてみる。

「今日の朝」も変えてみる。同じで言ってみてから変じる。「並木の道に」に対して「今日も明日も」という2つめ、そして「落ち葉の風がまう」という3つの組み立て、人によっては4つでしょうけれど、これを2つに捉えてみたり、3つ、4つに捉えてみたり、課題設定を自分の中にしてみる。

わからなかったら、発声だけやりましょう、歌だけ歌いましょうだったのでしょう。これからやってほしいことは、実際に私が、プロの人にやっているのも同じですが、一番いいところのフレーズを動かしていって、そこから全部覚えていくということです。要は、その中で体に覚えさせていって、できなかったら後にとっておけばいい。できないところでやっているのは、声に悪いし、無理が働きます。仮にできたとしても、本当のところではできていない。

自分で成り立っていると思うところに、さらに何が足りないのかを見ていく。そこでよりベストを追求する。そのために自分が一番出しやすい言葉とか、音を持っておくといいですね。すると、高くやってみる、低く、短く、長くやってみる、速く、ゆっくりやってみる、それだけで1時間くらい、50題くらい設定できると思うのです。面倒だから、人はなかなかやらない。そういうときはテキストを読んでみる。発声の教科書やテキストをみると、だいたい20個くらい題があるのですが、そんなにたくさんをやっても、接点がついていないから意味がないわけです。高い音の出し方、ビブラートのかけ方、バラバラにやっていても、ここの1時間ですべてができるわけでしょう。

ここに自分が敏感になれば、高いところに持っていけば高い出し方だし、長く伸ばせば、ビブラートのかけ方になるわけです。そういう勉強のしかたをしていく。
基本の発声のしかたでいうと、今やったくらいのところで充分です。歌全体の構成の勉強ということになってくると、1コーラスやらないと難しいでしょう。その成り立っている成り立っていないというところを、どう見るかということが、一番難しい。ただ言えるのは、歳をとってくると、自分の苦手なことはやらないし、自分のできるところだけを底上げしていくのです。

○根本をおき忘れない

皆さんも、ひとりでやる場合には、何をやっても勝手です。中で失敗するのにも、かまわない。ステージで失敗してもいいと思うのです。一番怖いのは、発声でうまくてうまく歌えたけれど、お客さんがそっぽを向くという失敗です。これをやられてしまうとどうしようもない。
だからうまく歌えなくてもいいし、声がうまく出なくてもいい。でもお客さんがひきつけれられているという、その状態をつくったほうが勝ちでしょう。

歌い手はそこで勝負して、その上で支えがあるな、技術があるなと、何かキャリアがあるなということが伝わればいい。あまり他のものはいらない世界です。10代でもバンと出ていけてしまう。聞いている人がそんなところを聞いていない。ただトレーニングをやったり、そういうことに厳しくなってしまうと、だんだんトレーナーの耳になってきてしまうのです。それも一方ではよくないですね。

結局、何通りもやれる必要がないわけです。たったひとつに対して、全体的に強ければいい。だから、自分が一番いい歌だけを選んで、一番いいようにだけアレンジして、一番オリジナルに、そういうものが8曲そろえば、最低限のものができます。多くの人は、単にルックスをよくしてみたり、スタンダードなナンバーをたくさんそろえたりしています。ステージでそういうことを要求されてしまう分野では仕方がないですけれどね。ジャズも難しいです。
あまりにも日本のジャズの歌い手から、ソウルとかハートフルなものが聞こえてこない。テクニックもうまいなという人はたくさんいるのですけれどね。それというのは、何かしら置き忘れてきてしまったまま、それっぽくうまいからやれているし、周りもそれで認めてしまっているから。

けれど、根本的な部分がなかなか身についていない。
基本的には即興でやるものです。ただ、その場で何か、今日ははじめてこんなかたちで歌っているなというのが、あればよい。それがお客さんに見えずに、ずっとこのまま20年、この人は歌ってきたというのとは、ちょっと違ってくると思います。
歌はある意味では新鮮なもの、自分が今生きていて、こんな気分だから、こんな歌だということ。
人生は必ずしも、後になれば、いい生き方をするわけではありません。逆のほうがいいですね。
最初がよくて、最後が悪くなっていくと、いい歌い手や役者になったりするらしい。人生からいうと失敗ですが、アーティストということからいうと成功なのかもしれませんね。その辺は、自分たちのものとして考えましょう。

○語感

ここでやってほしいのは、単に歌っているとか歌っていないとかいうことではなくて、「秋」を持ってきて、「今日も明日も」と歌うのではなくて、何が「今日も明日も」なのか、きちんと伝える耳を持ってほしい。イメージと想いです。「落ち葉の風が舞う」、こんなものは小学校の合唱でも歌えてしまう。だから、昨日の小学生や中学生を同じように歌っているのではだめです。
あなた方がそこの中で、さらに、この音の感覚からでもいいから、それをはっきりさせて出せたか出せていないか、出したけれど成り立ったか成り立っていないかという勝負をかけていくことです。
人が聞いていなくてもできます。

こういう場がいいのは、誰かしら聞いているわけです。それに対してどういうふうに出るのがいいのかを頭で考えないことです。
家では頭で考えてもいいし、体をいじめてきてもいいし、いろいろなことをやってもいい。結局、たった1フレーズの1回の勝負にして、そうなったときに一番いいものが出てくるように、自分を整えていく。だから、私はあまり、5回も10回もやらないのです。それがダラダラなってしまうというのと、飽きてきてしまう。だから、1回勝負、1回しかステージでは歌えない。

ちょっと今回は悪かったから、もう一回最後に歌いますというのは、許されないことでしょう。
だから、プロセスと切り離してみて、切り離したところの時間と場所が一番よくなるようにします。だから、レッスンはちょうどいいのではないかと思います。1〜2週間読み込んでおいて、そこに何が出てくるかと。練習でやったようにやろうとは、思わないほうがいいです。

○よいものとは

練習でやるだけやって入れておいたから、そのときに出るだけのものは出るだろうというふうに考えるのが一番いいと思います。☆そうしないと、感覚とか体というのは、オンしていかない。ここで一番やっているのは、こういうアーティストのすぐれた部分にひっぱられて、バタバタでも一瞬でもいいから、何となくそういう働きかけが皆の中で起きるようなことです。

V検も18人から20人くらいで、2曲くらいずつやると、30から40曲聞きます。昔、銀巴里では、カンツォーネでもシャンソンでも、安かったのです。土日の1時くらいにいくと、4人の歌い手が8曲歌う。32曲が聞けて、夕方から夜にさらに4人で8曲、全部で64曲聞きます。
64曲聞くと、つまらなく飽きがくる。そのときにこそ聞こえてくる歌は何なのかというふうに考えてみると、わかりやすい。

感動する確率が高かった人もいました。1日で1回感動できたら、私は成果があったと思うようになりました。
海外に行ったら、最初の1曲目から、出てくるもの全部に感動するということもあるのでしょう。そういう中で、耳が磨かれるのはあると思います。

ここも70人くらいのオーディションをしたときには、耳が磨かれたと思います。ほとんど後半になると、麻痺しています。年間に1,2曲、いい曲が聞けたら、研究所の中では成功という感じでした。今聞いておわかりのように、どうしてあれだけ声があるのに、こういう歌い方をするのでしょうかと。この中で使っているのは、別の1曲で使ってきました。よく中で聞くとよく聞こえるけれど、自分でCDを買ったりすると、ひどいと思う人もいるのですが、それはここがいいのを選んでいるからです。この曲はそういう意味でいうと、あまりよくない。けれど、使えないレベルではないということです。

この2人とも、声もこういうものをいい声というのなら、いい声でしょうし、歌もうまいし音楽の勉強もしてきています。これとどう違うか。日本語のギャップはあるのですが、それを除いても、何が音楽たらしめているのかを見るには、こういうものと比べてみればわかりやすいと思います。

○声から音楽へ

声だけを追い求めている時代というのは、日本人のほうがうまいじゃないかと見てしまう場合もあります。声が、声量が出ている出ていないというのは、ひとつのそれがうまく使えているときには、お客さんに対してインパクトもあるし、快感になりますけれど、難しいのが、あまり使えないということです。というのは、何箇所で使うとか何曲で使うというのはいいのですけれど、頭から、全部それで歌っていくと、クラシックでもそうですけれど、声が好きという人以外は、離れてしまいますね。

たとえばチンクエッティの歌い方は構成が見えますね。それから「ディオ コメティアモ」という1番の主題が、きちんと繰り返しているところがどこかということがわかります。アカペラで自分の声だけで勉強していて難しいのは、展開力です。声そのものがいいということと、発声がいいということと、音楽的な組み合わせにおいて、声が使えているということは別です。
ここが演奏力なわけです。楽器がひどくて、音伸びないけれど、弦が切れたピアノとか、ギターでも何か弾けてしまったり、すごいプロだと思わせるというのは、演奏力になるのです。

極端にはひどい楽器をチューニングできていないもので弾いても、何か伝わるということ。それは演奏力の組み合わせのところです。
今の日本でいうと、うまくやれている人は、演奏力というより構成力ですね。だから、もし分けるのであったら、展開力ということにして、それをエコーをかけたりバックの音楽をかけたりしてつくっていくのが、受身の意味での構成力ですね。

海外の音楽と日本のジャズは、同じようなものを歌っていますから、聞いて、違いは、楽器とセッションできているかどうかをみるのです。楽器と五分か、それ以上にかみ合っているかどうかです。
日本の場合は、声量のある人は、楽器をおいたままで走ってしまうのです。日本語を言葉で処理してしまうためですが、相当早く出てしまったり、相当ためて、後ろで出てしまったりします。向こうではそんなことをしていません。かなりいい加減なことをしているように見えるような場合もそうです。

○音楽との接点

豊かな声量があるのは確かですが、その上で非常に細かいです。単に2つを繰り返しているわけではないのです。感情移入しようとかこうしようとか頭で考えていると、その流れからそれてしまう。身につけるということです。
それと共に、それ以上に声量があったり、迫力のあった歌い手がいるのでしょうが、そのきめ細やかさがなければ、残っていかない。
そういうことでいうのであれば、声量や音域が別になくても、歌えているという部分で、革新的であればよい。

ポップスがクラシックと違うところというのは、たくさんあります。そのまえに真のクラシックといえるほどの人は限られていますし、似た人はクラシックの中にもいくらでもいます。
ところが、そうでないようなやり方、発想力をもち構成する。言葉や情感で、音楽が入っていないのかというと、音楽が入っていなければ、歌にならない。ああいうふうにブツブツ切れているようでいても、独自の中で、世界をつくります。今、ヒロシのバックでかかっているペビーノ・ガリアルディとかもそうです。

本来は歌い手としての高度な声や技術を持っていない。むしろ声の豊かさや音楽の表現力がすぐれたピアニストが作曲家です。それでもあれだけ声量があったり、高いところが出たりするのです。

どういうふうに音楽で接点をつけるかということと、いつも言っています。これをパッとコピーするのは、パッとできるわけです。だから、そのレベルの競争ではない。10年分、入れていくとしたら、ここからここでやったことが10分の1、残りの10分の9を全部やりなさい。
たった1フレーズでも持ち帰って、ここに出すためでなくてもいい。そこに音を感じ、自分の声の使い方を学ぶ。私がごちゃごちゃ言わないのは、自分でつくるためにです。つくり上げたら、いいか悪いかはっきりするのです。すると、言わなくてもいいのです。本人がわかります。
だめだった、つくりすぎてしまったとか、全然つくれていなかったとか。成り立ったか成り立っていないかというところで見るわけです。それを月に何回か、レッスンやステージで修正すればいいのです。

○コラボレーション

うまい歌やいい声というのはいろいろある。けれど、最近私も定義を変えている。この前、本を出してから、次にどうしようかと思った。自分の声という、まさに自分というところまできてしまった。

単純にいうと、よい声やよい歌というのは、世の中の多くの人が聞きたがっている歌ですね。多くの人が待ち望んでいたり、そこに集まる歌です。あの人はいい声でいい歌だ。でも誰も聞きたくないといったら、それはそういう歌ではない。
だから、声楽や役者の世界では、何となくいい声とか、何となくいい歌というのがある。けれど、そういう見方ではなくて、ポップスだったら、とにかく声だけというのがどこまでの魅力かわからないから、ややこしいのですが、その人のトータルのキャラも含めての声でしょう。

お笑いもはっきりしてきましたね。昔と違って、今は半分くらい声の力ですね。ネタはある程度になったら、放送作家が手伝ってくれます。でも、あの表現する演技力と、持って生まれたキャラと延長上につくっている、あの演じ方というのは、誰も真似できるわけではない。

その辺は歌い手のほうが、ずいぶんとごまかされ、手伝ってもらっているから、わからなくなっている部分があります。
いい声か悪い声かはわからない。とにかく、他と区別できる部分で、自分の作品というのを、声そのものでつくるのか、声の使い方でつくるのか、それとも音楽と声とのコラボレーションでつくるのか。バンドも入れた楽器とのコラボレーションでつくるのかというのは、それぞれで比率が違っていい。

ただ恵まれて、最初から大きなバンドでやってしまうと、なかなか自分の体や声の問題がわからないで、最後までいってしまっている。
自分でいろいろな場でコラボレーションするのは、非常にいいことだと思います。むしろ、それと逆のことを、体ひとつになって、声を出してみ、その中に歌を歌うとか言葉を言うとか、伝えるという前に、その声が何かを生み出すプロセスを、きちんと見ていけばいい。

○すぐれた感覚

感覚を変えるのに、他人の感覚を利用するのが一番やりやすい。そうなったときに、3日間では自分で作品はできないから、何かしら引っ張られてやる。
引っ張る人が3人くらいで、30人を引っ張っていたのです。その中の優秀な人たち、それが逆転して、3人が30人を引っ張られなくなってしまうと、合宿もやっても意味がなくなってしまう。30人に3人が引っ張られてしまうと、皆で作品を潰すことになってしまいます。
成り立つ成り立たないということに対して、厳しく練習する。それは1曲でも1フレーズでも、一声でもいいです。

「ディオ コメティアモ」の「モ」の後とか、そんなところでもいいです。成り立たなければ、どういうふうにつくるのかと考えます。つくるとつくりすぎてしまうから、どうやれば自然に戻るのか、その辺が音楽と言葉の兼ね合いではないかと思います。
イタリア語でやると、きっとうまくいくと思うのです。けれど、どこまでうまくいっているのかが、イタリア語でやるとよくわからないですね。日本語でやると、うまくいかなくなるのだけど、伝わる伝わらないというのが、はっきりとわかります。
だから、一番いいのは、両方のところでやるということですね。声の判断は誰もやっていなかった。思い切りやらせてみたら、成り立った成り立っていないというのは、ステージで判断できたわけです。

歌い手が出てきたら、成り立たないステージというのがない。そこはイベントと同じで人と会いに来ているという部分のコミュニケーションです。そうするとローカルにしかならない。世界には出ていけない。時代を越えてはいかない。別にローカルでいいし、ポップスの場合はリアルタイムでいい。ただ、どこかにそういう感覚を持っていなければ、ひとりよがりのものになってしまうと思います。
本当にいいものは、人間全部がわかりあえるでしょう。今、いろいろなものを聞いて、アレンジが古い、言葉が古いと思っても、20年前に、ここで使っているものとあまり変わりがありません。それはきっと、この歳になってわかってきました。20年後にも使っている。

私個人が体験してきたり、その時代と地域に生きてきたというところで、皆さんは皆さんなりのところで、より新しいものとか、よりグローバルなものを取り入れていけばいい。ただ足元を掘っていかないと、結局はわからないですね。
自分の声をきちんと見ていくことと、自分の音楽、歌、あるいは表現ということをもう一度、開放して、空っぽにして、それで考えてみればいいと思います。

勉強やトレーニングの一番よくないところは、全部を重ねていってしまうから、その上につくらなければいけないと思ってしまうところです。ある程度のいい加減さというのは必要なのです。
どの言葉が残っているのかと考えたのですが、与えすぎている、空っぽにしたらわかるんだということ。何もない、教育も全部、すっからかんにしてみると、見えてくるという。たぶんそういうものだと思うのです。

○ルールとオリジナリティ

常に空っぽにして、常に積み上げていながらも、全部なくしてしまっても、残るものは残るのです。声もその最たるものです。

昨日までの声を、今日とるということはできません。2年、4年とやったことが、体に身に入っているわけです。そこに自信を持てばいい。それを変に形でつくろうと思わずにしていく。
ただ、実験の場としては、こういうコピーは誰でもできる。それを誰もができないコピーにするのはどうするか。ひとりよがりでは、誰でもできるのだけれど、それが成り立つか成り立たないかというところですね。

オリジナリティと成り立つことで両立させることです。ひとりよがりと、それを成り立たせるということを両立させたら、オリジナリティとなります。そうでなければ成り立たない。その辺の感覚です。
型やルールがあるとは言いたくないのですけれど、やっぱり流れていて、使えるものを使っていたほうがいい。でもそれだけに流されてしまうと、自分のものは出てこない。その辺の格闘をやってみてください。
最初のころは、進歩していなくても進歩しているように見えるのです。けれど、3年4年5年と経ってくると、たいして進歩しないなと思ってしまうのです。といっても、そんなものでもありません。

私は20歳のころは今の2倍くらい頑張っていたと思うのです。けれど、でも今はその半分の時間で4倍くらいのことを勉強できていると思います。思っているだけかもしれませんが。
そのかわり、余計なものがとびます。記憶力がとぶというより、ついこの間まで何をしていたかとか、どこにものを置いたかとか、それをボケと捉えるのか、他のことに専念できているがために、日常的なものがどうでもよくなっているのか。いい方に捉えたいから、物忘れというよりは、やりたいことに専念しているがために、そういうことがいい加減になっていると捉えています。
何か軸があれば、ボケるはずがない。難しい本も昔は読めなかった。読んでいたけれど、わからなかったことが、今は読めるようになってきている。そういう意味でいうと、人間は進歩していくと思うのです。

そう思って、年齢と関係ないところで、歌はいいと思います。スポーツは、どんなにがんばっても、体力でできないでしょう。でも、長くやれている人がいるというところで、我々は学べることがあると思います。スポーツの世界でさえやれてしまう。そういうところでは歌はもっと工夫できると思います。がんばってください。

○体調管理

Q.具合が悪いときや、過労のときに、がんばったらよいのか。

あまり、声のためによくない。実際は声を休めることのほうが大切なことも多いのです。
たとえば違うことで声をすごくたくさん使ったという日に、レッスンをすべきなのか、早く休んでということは、どっちともいえない。

声の場合は、日常でしゃべっていても出しているわけです。普通にしゃべっているところだと高いところとか、長く伸ばしたりということはない。そういうことに対してハミングでも小さな声でもいいし、少し感覚的にやっておく。本当に疲れていたり、過労のときは、喉声になってしまいます。
高く声を出そうとか伸ばそうとしても、かえって疲れさせかねないところもあるので、ケースバイケースですね。体の柔軟やバランスから判断することですね。

夏バテをしないようにとか、そういうことのほうが大切ですね。水分をとることとか、カロリーとかも。
食事や暑さ、そちらのほうから体調を悪くしてしまうと、声の方に直接きます。特に今は、冷房きいているところと、暑いところのくり返しでやられてしまう。喉にきますから、そういうときはできるだけ、声を出さないほうがいいですね。要は、気温の変化が急にあったときは、筋肉も声帯が対応しない。危ない状態にあります。
プロの人は、夏でものどにタオルを巻いたりする人もいます。冷房のほうで冷やさないように。暑くて汗かく分にはバテなければ、体にはいいです。夜は冷房をしたままに寝て、体を冷やして、体調を壊す人が多いようですね。


■レッスン感想録

○最近、叫びたい。
伝える=大声を張り上げる
ではないことは承知のうえで。

○偶然、できたことに執着することで
成長が止まることがわかった。

○フレーズの掛け合いは、台本のセリフのようなものだと
聞いて自分の中で思ったこと。
確かに、会話ならまったく変な答えだったら
成り立たないよなぁ。

安定を求めればつまらなくなり、
気持だけで走ると伝わるようで伝わらない。(TU)

○ミロール
どうやったらピアフみたく何気なーく 
でもどわっと加速したり止めたり
ああも時空を操れるのだろうか…。
ストップウォッチではかれば、ただのコンマ何秒のことかもですが、
それが部屋をのみこむほどの大きさに感じる。
美輪さんはこれでもか!てくらいおおげさにしている。
それで津波のようなドラマをおこしている。それはそれでとってもおもしろい。
あまり興味のない人たちが聞けば、ピアフより美輪さんに反応するのだろうな。
ピアフは特に美輪さんのと比べると、実にあっさりしているのですけども、ちゃんと起きるべく変化は起きおわっている。
それが凄い、まったく凄い。
ついこの前みたピアフのビデオの中で、ピアフがピアノを弾く男性としゃべりながら、歌ってる所をおもいだしてしまってためいきが出るのでした。(N)

○今回のレッスンで学んだ点は文章の読み方です。
ただそこに書いてある文章をただ淡々と読むのではなく書いてあることを把握し、常に人が聞いているんだという意識で文章を読んでいくという事を学びました。
それと、人に伝えるにはテンションを高く維持していくことが大事だという事も学びました。
まだまだ初見の文に対する対応が不十分なので、日々の生活にて初見の文に慣れておく必要がある。
例えば、本をてきとうに開きそこに書いてあるものを読むとか、新聞を読むなどである。(MI)

○自分で進めていく
結局大切なのは、点で打たずに息でつなげていくということなのだが、今までや今日の前半では、深いところからしっかり吐く事を意識していて、丁寧にしてるつもりでテンポがゆっくりになってしまっていたようだ。
これは丁寧というよりただ引っ込んでるかんじで、じぶんで歌を展開させていっていない。
自分でリズムを作るくらいの気持ちで前へ前へフレーズを歌っていくと、自然に息がつながりやすい。
そしてハシっているというほどでもなく丁度よかったので、気持ち的にはちょっと早くというか、自分が先頭で歌っていく感じでやってみる。
そして常にフレーズの終わりに向けてテンションを上げ、次のフレーズに向けてもテンションをあげる。
今日の最後にやった感覚で、次のレッスンを始められるようにトレーニングしておく。(KA)

○声優入門トレーニング-
p.29「呼吸法は〜」ゆっくり読む。
文章の最後に向けてテンション上げて、文末を丁寧に言い終える。
速く読んでしまうとあまり区別はつかないが、
最後まで身体で支えているということを理解する。

ゆっくり読んだときの声のままで普通のスピードで読む。
流れがあまりよくない。
言葉というよりも流れが停滞している感じになっている。
ゆっくり読んでも速く読んでも"前へ進んでいる"こと、
息の流れを意識する。
速く読んでも"つながっている"ように。
ゆっくり読むと、つながっているかどうかがはっきり分かる。

p.87日常的なことばを意識的にこなすトレーニング

EX.1(2)「まあ、あなた戸田さんじゃありません?〜」
何年ぶりか。どのくらい驚いているのか。
再会できた嬉しさ等、気持ちを作ってからしゃべる。

EX.2(2)「美咲はまだ帰らないの?〜」
ある気持ちでひと塊の言葉は一息にしゃべってしまう。
途中で細かく気持ちの変化をつけようとすると、
かえってリアルでなくなる。

息の流れがつながっているかどうか、速く読んでいると
確かにあまり気がつかない。
ゆっくり読むことでそれを確認して行きたい。

気持ちを作る。
これがなかなか難しい。
実際、久しぶりの人に会っても自分はさして驚いている
ようには見えないだろう。感情がさほど動かないのと、
動いてもあまり表に出さないのと両方だ。
とっかかりとしては、人がどんなふうに感情を表しているのか
観察してみようと思う。(SU)

○今回のレッスンで勉強になったことは、「ベースとなる読み」についての重要性です。
このベースというのは、感情がこもって読める状態である。
これが出来てから強調をつけてみたり、抑揚をつけてみたりすること聞き手に理解されやすくなる。
ベースができていないのにこれらをすると逆に聞手に解りづらくなる。
今日、習った「ベースとなる読み」が出来ていないので、もっとイメージを膨らませて、感情が自然と入るようにトレーニングをしていきたいと思います。(MI)

○展開していく
力はいれずに軽く出せるのがよいが、それでも声の出発点は腹の底ということだけは意識して出す。
そして多少息はつながってきたみたいだが、今度はひとつひとつがぼやけて聞こえるという事で、もっと鋭く吐く事を指摘された。ひとつひとつを鋭く吐いて、結果的にそれらが滑らかにつながるという方向でやっていく。
あとは盛り上げどころ、展開が弱い。次のフレーズへ行くぞという気持ちがまだ甘い。
だから曲が盛り上がらないし、先へ進んでいかない。これら全てをちゃんと意識する。
また、聞きなおしてみると、気持ちという点で、特に伸ばしているところで気持ち悪さを感じた。
何にも思っていない、考えていない感じがしたので、そういう部分に気持ちを込めたり、もっと音楽を感じたいと思った。(KA)

○今回のレッスンで学ばされところは、文を読んでいる時のある部分を強調して読むときの注意点です。
強調するということは言い方でなく気持ちを強めるということです。
これは、気持ちを改めて作るのではなく、その文の始めから終わりまでは一貫した気持ちでその強調したい部分はその気持ちが強まるということです。

まだまだ気持ちの作り方に改善の余地があるようです。
この気持ちの作り方の練習は声の練習と違って場所を選ばず出来るので時間を持て余すことがないよう練習していきたいと思います。(MI)

○出だしが一番よくて、後半に向けてどんどん 
失速すると言われ続けている。
歌い始めは、ドーム2階席のお客さんが想像できるが
歌いだすといつの間にかみえなくなって
最後は意識が完全に自分に向かってしまっている。
伝えにいくという執念が足りないと思う。(TU)

○特にアとオの音が浅くて子供っぽい。
録音するとよくわかるのに、しばらく録音せずに練習していたら、
浅くなっていることを自覚しなくなってしまった。
歌っているときは、浅く子供っぽくなっているのがわからないので、
最初は口がタテになるように、頬を押さえて歌ってみるようにする。
また、喉は熱いゆで卵をのみこんだときのようなイメージで広げる。
高い音は、頭の後ろが割れた感じで、前もって準備して出す。
自分で練習するときは、必ず録音して確認する。(HI)

○力が入ってる時に抜く方法
頭のてっぺんから引っ張られてるイメージで脱力。
両腕を頭の上に上げ、紙を破くイメージで両脇に力を抜いて下ろしてく。(OA)

○声楽の奥深さに触れたように思いました。極丁寧に繊細に声を扱う感覚は、とても面白いです。オクターブ上がるときの、きれいな虹のイメージや、角をとってなめらかなビロードのようにしていくイメージが、なるほどと思いました。声で人をうっとりさせるためには、こういう繊細な作業が必要なのだとわかり、さらに声への興味が深まりました。また、ひとつの音(ドならド)のなかでも実に様々な声の出し方があるものだと驚きました。(KU)

○どうもスタッカートは苦手ですね。音がどうしても強くなってしまい、楽に出すのが中々難しいです。音のツブが揃いにくいですし、音の一つ一つがかなり重い感じがします。もっと軽く、ポンポンと出していけるようにしたいです。それと、音が飛んでいくフレーズもやっぱり難しいです。どうも音の流れがイメージしにくいのか、少なからず音を探しながら出している感じがしました。慣れしかないでしょうね。
3番はまだまだフレーズに馴染めていないです。正直、ここのところはバンドの練習曲に追われてしまっていて、余り練習出来ていませんでした。それがものの見事に出てしまった形です。最初に歌ったものは、かなり薄っぺらく、全体的に低めと、良いとこなしでした。それが今の実力として、もっと精進します。(SA)

○前からそうですが、やはり休符の目立つフレーズは難しく感じます。リズム感の問題かもしれませんが、休符や2分の所に意識が行ってしまって、音がブレやすくなってしまいます。不安に感じる所がそのまま音に出てしまっている印象です。全体的にフラット&不安定気味になっているのも、フレーズに対しての不安感から来ているようです。合わせに行くと逆に合わなくなるというのも皮肉な感じがしますが…。いっそのこと、思いっきり間違ってしまった方が良いような気すらします。
指摘にもありましたが、休符の前後で音が結構違ってきています。実際、自分で出している時にも、同じフレーズを歌っているというよりは、休符の前後で歌を歌っているような感じになってしまっています。低めになっているのはこのせいでしょう。
休符を絡めたフレーズは、音に対する意識を切らないようにするのが難しいと本当に思います。(SA)

○落ち着いてきた
音程を取るのには慣れてきた。たまに注意されるが、しっかり意識すればできるようになる。
気をつけてはいるが、やはりテンションが下がりやすいので気をつける。
また、リズムや小節感にもうすこし気をつけたほうがよい気がした。
特別ずれてはいないのだろうが、アクセントを置くべきところやフレーズが何小節でどうなっているかということを意識して歌わないと、他のレッスンのように音をつなげていくレベルに行かない。レッスン的で、音楽的でないというのだろうか。その辺を、練習曲でも保てるように頑張る。(KA)

<Menu>

○1オクターブ半の跳躍をつなげて歌う

Calling Youを歌う(アカペラ)
「これちょっと練習したらいいかもね。地声で歌っているところは、息をつなげて滑らかに。そしてメロディーラインを聴かせられるように。それでなくてもメロディーがよくわからん。
サビの部分のところは停滞しちゃう感じがする。息の流れは伸びてるイメージ。伸びてるけど流れてる。伸びててとまっちゃう感じがする。もう少しイキイキと。
サビの前後で(テンションが変わっちゃう、人格が変わっちゃう)感じがするので、流れのままシュワッとサビに入っていけるといいかな。」

「さっきよりはいい。もっとつなげたい。歌い方で持っていくのは難しいので、裏声に入ったときに、地声に近づけて裏声出したい。地声と裏声をつなげたい。物理的につなげちゃう。そうすればつなげている声(音)を消しても、つながって聴こえる歌い方ができるようになる。

「ホリー・コールは、1オクターブ半の間でブレスしているときに、ハァーッて弱い息(声)で助走して歌っている。ジェベッタ・スティールは、つながっていないので、つなげる参考にはならないが、地声に近い裏声で歌っている点で参考になる。」(NA)

○姿勢を変えずに横隔膜だけ動かして発声

1.唇ブルブル(ドミド半音づつ)
2.舌ブルブル(ファ#ラ#ファ#半音づつ)
3.ハミング
1)ハミング
「上に息が上がっちゃってる感じがするので息だけでやってみましょう。」
2)息だけでハミング
「同じ息で(息で音程の区切りをつけなくてよい)
スースースースースー(ドードレミドー)ではなくスーーーーー(ドードレミド)」
「横隔膜の支えが弱かったり、息が弱かったりすると、咽頭で息の量をつくろうとして、スースースーとなったり、スー、スーとなったりするので、それを気をつけて」
3)ハミング(ドレミド)
「息を吸うときに上体がガクッてなっちゃうから、手を上に挙げたままハミングしてみて。息を吸ったときに背中が丸くなるのはよくない。手を組んで挙げたまま、息を吸うことだけ意識して発声。姿勢を変えないで、発声して動く部分(横隔膜と腹筋)だけ(腹式呼吸)」
4)う ハミング(ドードレミド)
5)ま ハミング(ドレミファソファミレド)
6)り ハミング(ドレミファソファミレド)
4.Whisper Not アカペラで歌う
「伸ばしている(レガード)音としゃべり(歯切れよく)のギャップをつける」
「clearも舌を引っ込めないえ前に出す&滑らかに歌う」
「歌が主(弾き語りといえども)なのでちゃんと歌う」
「最初は抑え気味で、最後は盛り上げてみたいな曲の展開に変化をつける」
「飲み込みやすいのでかつぜつよく、母音をはっきり、母音をのばす」(NA)

1.唇ブルブル(ドミドファラファドミド 半音づつ)
「吐くときにすごく力んで発声しているので、楽な状態で。(例えば吸うときも吐くときも同じ力加減くらいの自然な感じ)」
「吐くときにお腹ひっこめない。(お腹に息が入ったときに膨らむのがわかって、それを維持する。)」
「髪の毛を上にひっぱられている感じで、足の親指に多少重心がかかっている姿勢で。)
2.舌ブルブル(ドミドファラファドミド 半音づつ)
「手を上に挙げた姿勢で。手は横に伸ばして下げて姿勢はそのままで。」
3.ハミング
1)んーああああ(ドードレミド)
2)ハッ ハッ ハッ ハッ ハッ(ドミソミド)
「息もれしている。」
3)あああああ(ドミソミド)
4)ぱっ ぱっ ぱっ ぱっ ぱっ(ドミソミド)
「ぱっの方がいったん口をしっかり閉じるからやりやすいかな。お腹が動いてるのがわかるよね」(NA)

○支えの体得は一生勉強

1.唇ブルブル(ドミドファ#ラ#ファドミド 半音づつ)
2.舌ブルブル(ドミドファラファドミド 半音づつ)
3.ハミング(ドレミドレミファレドレミドミド 半音づつ)
1)ハミング
「上からっていうわけでもなんだけど、ちょっと咽頭に頼っている感じがするので下っ腹からの息を意識して、息だけでハミングしてみてください。」
2)息だけ
「音程は意識せず、息の量は最初から最後まで一定量で。(最初強くなったり、最後薄く、弱くなったりするのは×)」
3)んーああああ(ドードレミド)
「息をイメージしながら声を出す(咽頭に頼らない)」
4)な(ドレミファソファミレド ラ#〜ラ# ド〜ド 半音づつ)
「下っ腹から息を出すっていうイメージで。笑顔で。」
4.トスティ50番 NO.2
1)あ 1回通して歌う
「音を出そうというよりも息を意識して」
2)息だけで 
3)う 途中まで歌う
4)お 1回通して歌う
「cres.のところも抑え気味に歌ってあげると息が持つと思う。抜くところ、出すところにメリハリつけて。」(NA)


<Letter>

○ブレスヴォイスで本当の音楽に出会って体と出会いました。
それから今までずーっとつながっているのです。
音楽は一生のもの。やめるとかやめないとかそういうものではありません。
が、社会と関わる方法として、今は、いろんな人の体と意識の底に眠るものにアプローチするのが、私の役目だと思っています。
毎月いただく会報は宝物です。
たくさんのことばの中に、雑多な情報の中に、今の私に必要なものが必ずみつかります。感覚を錆びつかせないためにも、とても大切なものです。
とにかくやめずに続けてくださっていることに、感謝し、頭が下がります。
あいかわらずお忙しそうですが、どうぞお体を大切になさってください。
また、変化が表れたらお知らせします。〔1993年期生〕(KT)

○筋腱等軟部組織に興味を持ち、その外傷が疼痛を中心に現場施療に十数年間従事しておりました。三年前より、二期会理事伊藤美知子先生から声楽を本格的に学び始めたのを機に、喉の研究に取り組みました。
発声のメカニズムを知れば知るほど、微笑な頸喉舌周辺筋群の作用の妙に驚きました。
これまで大勢の人々に皮膚上から喉を触診させていただき、最近では指先も研ぎ澄まされ、かなり細かい筋肉を判別できるようになってまいりました。幼少より愛する歌唱と音声医学を研究する日々は至福の時でございます。
そして、先生の御著書を拝読し、とても勉強になり、また大変感銘を受けました。現在、私のバイブルとして院内に座右しております。
若輩ではございますが、Group of laryngeal muscleからアプローチする発声能力を研究しております。特に、職業として声を使う方々に検査協力をお願いして、「発声と顎関節可動域の関連」ならびに「喉周辺筋の運動療法とその評価」の窮理でございます。
(中略)この先、学会に当該研究結果を発表し、「声」を専門とする皆さまのお役に立てるよう、不眠不休で研鑽する所存でございます。まずは、ご挨拶と共に、この度の率爾な書信をご容赦くださいませ。(AI)