会報バックナンバーVol.184/2006.10


レッスン概要(2005年)

○耳を鍛える

いろいろなノウハウ書が出てきました。今さら自分で書くこともないし、活字の限界も知っていますが、一般の人に、耳を鍛えてほしいのです。そういう人たちが耳が鍛えられないと、いいヴォーカルもいい役者も認められません。そんな意味では、今はかなり一般向けの本に、対策をうつしています。ヴォーカルの本も、いくらでも書くことはあるのですけれど、結果的に変えていくのは、聞き方なのです。

たとえば今皆がやったことは、このプロと合っていなくて、合わせる必要はないのですが、音のとり方を、彼が100くらいで捉えているとしたら、3くらいでしか捉えていない。2桁以上の差がある。そこを直さないと、彼のレベルの音楽活動もできない。彼もそのレベルぎりぎりで活動しているのかというと、かなり楽なところで、3桁の能力がありながら、2桁くらいで日本ではやっているように思います。

この作品は高いレベルで、いろいろなかたちで動かしています。そういうものと売れるものは違うというのもあるのでしょう。
音声の聞き方の基礎というのは、ヴォイストレーニングで行き着いたところです。ヴォイストレーニングをやって歌を歌えるようになったのではない。歌を歌っている人は、誰でも聞いていた、一流のアーティスト、その当時はレコードを徹底して聞きまくっていた、そこの聞き方のところに、それ以上に聞いていたファンはたくさんいるのでしょうけれど、捉える耳が違ったのです。その耳の基準において、決まる。声を出して、ヴォイストレーニングとは言っていませんけれど、歌を歌っては正していくということこそが、実際はヴォイストレーニングですね。☆

○聞き込み

個人でも意味がわからないことを、気にしすぎるようになりました。トレーナーのほうもやりやすいだろうと思って、カウンセリングに時間を費やしてやっています。しかし、それでは、トレーナーの持っている耳にするというのは、なかなかできないのですね。

彼らは1000人に一人の人材なんです。前には、17人くらいこのくらいのレベルはいました。合宿をやって、少数の生徒に負担が全部いくので、トレーナーに外部アドバイザーとして参加し、手伝ってもらった。そういう人がどうプロセスを経てきたかということです。うちに入って、音楽をやって、6年で耳をつくった。どうやって1年目2年目3年目4年目とできてくるのか、できてくる人は、こうしてできてくるというのが、私には記憶で残っています。一流のアーティストのどこかの曲のどこかの箇所との出会いなのです。☆

それは、日本のアーティストでもそうです。J-POPSだけを聞いて育った人はだいたいいない。好き嫌いはあるでしょうけれど、向こうのレベルの高いものを聞いて、それを取り入れられた、あるいは取り入れられなくても、そこの中で基準をつけて、やってきたわけです。
そういう意味でいうと、聞き込みをやるのが一番いい。その上でそういうことでない所をヴォイストレーニングをやるのだったら、発声の勉強をすればいいのです。ただ、発声だけやっていくと、ここは別と思うのですけが、4つくらいの所を見てきましたがどこも難しい。

○修正機能

個人レッスンを開放したため、年配の方やプロが来られている。いろいろな人と会えてありがたいことです。ホームページを見ると、何でも、教えてくれるみたいに思うのかもしれません。プロの人が、そんなことで勉強するのかということで、ずいぶん来られる。そういう方は何年も、お客さんの前で歌っています。 歌を教えるようなことを、向こうも期待していない。またそう変わらないでしょう。どういうふうにするのかということになると、もう一度、耳の聞き方からですね。彼らも、アメリカ人やフランス人とか、イタリア人の音楽を愛してきた。ずっとそれをやってきた。続くということは、大変なことです。単純に比べたら申し訳ないけれど、あなた方の50,60歳くらいのときに、彼らと同じくらいに、音楽と接して人生を送るかというと、大半はそうではないでしょう。

耳の聞き方は簡単に変わりません。面白いもので、50,60歳になっても、歌の上達しない人は、まったくしない。毎晩カラオケに行っている人もいる。一方、あまり歌わないのに、結構うまく歌える人もいる。それは結局、自分の修正機能です。☆自分のところに入っているひとつのイメージに対して、どう修正できるか。

それを皆が今、自分のはわからないと思います。自分の思うとおりにやっているから。ところが、他の人のを見てみたらわかる。明らかに音にわけて、楽譜化して、その点にたいして、どのカタカナを当てはめるかということをやっていますね。プロのはそうではないです。線にばらした上で、お経を、日本語と捉えないで、音の流れの中で処理をしてしまっているから、動かせる。

声を深くしようとか、太くしようというのは、音色をつくって、線として動かせるために、です。響きだけでは限界になってしまうのですね。☆
完全に響きだけでやっている人もいます。日本の本当にきれいな歌い方をする人や、やわらかく歌うような人のなかで差をつけるのは大変です。
体や息とともに歌えないので、そこの部分に関しては、難しいと思います。本来はそこがベースの部分なのです。イタリア人と同じようなポジションを持っていないと、本当の意味で声は使えない。 そこまでは、日本ではまだ問われていないのです。

○声が変わらないスクール

たまたま若くして、声が太く出たりシャウトできるような人も中にはいる。高い声がきれいに出るような人たちもいる。そうでない9割の人はどうやってやっていくのかというところからはじめています。するとトレーニングとして効果の上がったやり方をとるしかない。
ポップスの学校は、私はよく知っている。実際にいろいろなところに行った覚えもある。そういう先生には今も60歳を越えてやっている人もいます。新しい人はともかく、20歳以上、年配の人は、ほぼ知っています。そういう人のところの、実際の生徒を見ていても、肝心の声そのものに効果はでていない。☆

唯一、そういうことで認められたのが、役者の養成所ですね。かつて役者は、1年2年とやっていくうちに、みるみる声が変わっていった。そういうことを体験したのは、ここ以外では役者の学校でしかないですね。音大や声楽を指導しているようなところで、クラシック歌手になるような人は別です。
そんなことを考えてみると、役者と歌い手とアナウンサーをわける必要もなく、やってきたのは、声のベースの部分です。花粉症もこんなにひどいのは、はじめてですが、5年に1回ですが、鍛えられた声が助けてくれるのです。

○声を必要とする感覚

あなた方のほうで捉えなければいけないのは、その声を必要とする感覚ですね。すごく声だけが出る人が、どこかでデビューできないかといらした。でかい声だけど、周りの人間が引いている。そのことを、声を出していて、感知しない人は、どこでもできようがないのです。よっぽど叩かれて、やり直そうと思わないかぎりは。そうやって生きてきてしまった。きっと周りからは、声がいいとか歌がうまいとか言われてきてしまった。それは、しかたがない。日本の場合だと、そんな注意を言ってくれる人もいない。

一方、自分がロックと言っていながら、ミュージカルもどきな発声も多い。声楽は大嫌いだといいながらも、声を追求しているから、声楽もどきになっている。オペラをやミュージカルに本気で入ってみたら、歌のことも少しはわかるのに、そういう気もない。また同じ調子で歳をとるよりは、現場に行ってみればわかるかもしれない。そこで自分が一番声が出るかもしれないし、音はとれるかもしれないけれど、たぶん役者として使ってもらえない。それはどうしてかということを知ることです。それは日本だからという意味ではないのです。万一、使ってもらえたら、やはり日本だからでしょうけど、やたらと声に自信を持って、歌に自信を持っている。世の中が認めてくれないから、変なところで私と同調してしまう人もいます。

私は、日本のレベルが低いということは、言ってはいるけれど、だからといって、やれていない人がいいとか、日本ではおかしな判断基準がされているということばかりを言っているわけではない。 そこを疑って直していかなければいけないと言っています。レベルが低いというなら、その人がやれていないのはおかしいでしょう。 

自分の歌なのか、人の歌なのかという問題もあります。プロというのは、人の歌なのです。自分の歌だけれども、人の求めるものを出していかなければいけない、価値として。それが一致している天才的な人もたまにいますが。多くの場合は、あまり一致しないです。
本でも、本当に言いたいことは書けないです。言いたいことを言うと、理解不能、伝わりにくい、わかりにくい。買った人が読んですぐに役立つようにしなければいけないなというのはしかたがない。売れずに出版社に迷惑をかけられない。そうでないものは、会報に書いています。

○聞き方、入れ方、出し方、見せ方

今日は、音声の聞き方、入れ方、出し方、見せ方、です。発声に関するのは、出し方から見せ方のところですね。
今やっているのは、聞き方、入れ方ですね。入っているものとどういうふうになっていくかということですね。それから、ことば、台詞とフレーズの聴き方、感情表現と音楽的抑揚、聞き手との呼吸の働きかけ、声の使い方、歌への落とし込み方、全部いつものレッスンでやっていることです。もう少しトレーニング方法のチェックとか、判断レベルの違いについての理解とか、それから実践に行くところまで持っていくために、個別のチェックをします。  

昔は、個別のチェックをするというのは、なかったのです。合宿のときに、はじめて個人的な面談で、年に1回、フレーズを私が直接、直すくらいでした。
あとは、そういうふうに出しているということは、それに気づいていないから、言葉で言っても、それで直るくらいなら、最初から直っている。☆
自分で気づいていくしかないというのは、今でもそう思っています。

レッスンのやり方をあらためようとは思わないのですけれど、何回かそういう違うことばで気づいたりして、変わる人もいるというふうに考えています。
だから、今のスタイルが、個人レッスンも、フレーズになってしまった。月に18曲くらい聞いて、その中から4つから8つくらい選ぶ。フレーズは8フレーズから16フレーズくらい、時間にしたら、5秒から、長くて15秒です。そこの中でほとんど決まってしまうのです。ただ、歌というのはそうではなくて、そこが悪くても、全体のなかの見せ方というのはできなくはない。それができたら歌になるとは言わないけれど、歌1曲の中で低音域とか高音域とか、あるいは急に音程がとんでしまったりしている。

一番大切なのは、できないことはできない。☆だから、できることの中で甘いことをチェックして、その基準をつけていくということです。だから、それは出し方のところからよりは、入れ方、聞き方のところ。それは材料としては同じものなのです。皆それぞれに聞き方が違う。どういうふうに聞いたかということですね。それと自分がやった後に、フィードバックできるかどうか。

歌い手が、ピアニストやギタリストと違って、成長しないのは、私はフィードバックしないからだと思っています。要はプランをきちんと立てていない。チェックして、それでやってみて、それでまたフィードバックする。それを観察して、そういうことが、なかなかできていない。プロでもやっていないのです。そんなことをちょっと考えてみてください。

○つかみ

短いフレーズだと、本当に音の中で決まる。その辺もすごく弱いと思います。お笑いの人を見ていますと、5分間、自分でステージを持たせているのです。それは歌い手のようにメロディが乗っているとか歌詞を覚えたら、そのとおりに言えばいいという世界ではなくて、その場で相手と客をみて、呼吸を変えなければいけない。自分たちのペースというのは一応持っているけれど、そのとおりにいかない。最初の切り出しから、自分たちがひきつける。つかみからやっていかなければいけない。そのつかみというのは、状況や客層によっても違う。広さによっても違う、声の使い方も違ってくるのです。

曲を覚えてくるのもひとつのやり方でしょう。けれど、その5分間の舞台というのは、すごく難しいのです。5分といわなくても1分でもそうです。家に帰って、漫才師の最初の1分でも、30秒でも自分で覚えてやってください。そう簡単にはできません。ただ、それができないということは、自分の声や表現に関して、本当の意味では理解していないというのと同じなのです。

○働きかける

音楽だけではなくて、こんなものを言葉でつかってみたり、アンサンブル的なことをやります。形はできるのですが、そこで実際の形ではなく、伝わっている伝わっていないという、一番意味のあるところで、その人のオリジナリティ、いわゆる表現が出るかですね。

研究所の中で通用するというよりは、研究所を離れてみても通用すること。簡単にいうと、周りの街の人たちが見に来るというようなことができなければ、本来、人に働きかけているということにはならないのです。そういうレベルでつくって、最終的にできなくなってきた。こなすことはできると思うのです。けれど、つくることができない。つくるための条件ということで、それを入れていかなければいけない。きちんと積み重ねなければいけない。これを聞いて、もう一度捉えて、自分のチェックよりは、他の人のを入れていきます。

○音符、楽譜を見えなくする

あまり紙には頼らないほうがいいです。今までそういう勉強の仕方をしてきているから、ずっとそうなってしまう。本当に何もないところでやらなければいけないものです。歌は伴奏や楽譜があると思ってしまいますが、それに頼っている以上は、こなしているだけになってしまう。コピーするのではなく、この本質的なことをとって、自分に組み立てて、これと同じレベルにしていく、あるいはこれを越えたレベルにしていくということをやらなければいけません。

難しいでしょうけれど、自分で判断すればいいわけです。それで働きかけている働きかけていないということを。こんな曲やメロディでなくてもよい。今、皆が自分でつくったとしたときに、そのイメージや流れを人と比べてみてもしかたない。何倍何十倍といっても、全部予測のものでしょう。その2,3割か1割か、みたいな流れやイメージが少しでも出していく。

そのレベルをどこまでも落としてよければ、小学生でもできるのです。皆が小学生のを見たら、単に声出してメロディを歌っているだけと思う。それに近いことをやったまま、まったく変わらないというのは、声のせいではないです。イメージのせいです。わずかなフレーズの中に、自分の中に何が起きているか。その前にこの歌の中に何が流れているのか。☆☆それは、思想や音楽観とかではありません。逆にいうと、音符が聞こえなくする、楽譜を見えなくすることです。☆

○基準、認識、捉え方

その言葉が何となく、そういう感じで書かれてくるのが、そのまま出てしまうということではなく、それを音楽にするために、あるいは表現にするために、どういうふうにしていかなければいけないのかという、最低限の基準というのがあると思うことです。
自分のことはまったくわからない、たぶん、そういっているのだから、誰かに入っているのかな、出ているのかな、くらいしか最初はわからない。
他の人のに関しては、もう少しわかると思うのです。ああやって捉えているんだ、ああいうふうな認識の仕方をしているということは、それぞれに違います。すごく違います。どれが正しい正しくないではありません。結果として出てきているものが、作品になっていなければいけないということです。

こうやって彼が歌っている中のことを、彼が好きだったら、とことん聞いていって、全部を真似ていくようなかたちで入っていくこともあります。その場合は、彼が感覚したものから出てきた外側の、感覚としてはこう描くのだけど、実際のフレーズとかその流れというのは、先にさーっといってしまったとか、途中で途切れてしまったとかいった、その形のほうをとっていく。
これは真似してはいけない。ただ、その真似のところから内部に入っていくこともできます。本当のコピー能力や真似ることがあれば、それはなぜ起きたのかということまで、いずれわかってくる。違う箇所を何回も比較していくと。それはひとつの勉強の仕方だと思います。とにかく、考えなければいけないのは、短いフレーズの中で何が起きているのかということです。

表現のための捉え方が、あまりに雑すぎるということです。その言葉で聞いているし、節で聞いているかもしれないけれど、声のことやその声の動きや、それがどう終わったのかということです。言葉で言えなくてもいい。だけど、たとえば400字で5枚書いてくださいといっても、書けないでしょう。

彼だったら、書けます。ただ、そういう言葉を持っていないかもしれません。私は言葉でも、皆に伝えようとしています。たとえば今の箇所でも、400字くらいは書けます。一回書いてみればいい。 書いてみてもちんぷんかんぷんで、わからないと思います。それをまた文字で解釈してみても、しかたない。そうやってヴォイストレーニングは誤ってくるから、あまりやりません。もう少しきちんと聞くところからやってください。

○ショートカットしない

役者さんは他のキャストがやったテープを持っています。ダブルキャストで他の人がやったのを見てもいるのです。その中でも何が起きているかは、ほとんど見えていません。曲や歌を覚えているだけです。ただ、声が強かったり勘がよかったりするから、案外できてしまうのです。そこで勉強すべきところができていません。そのくらいのことを、2,3年目くらいから入っている人はいます。入っていても、それだけでは上にはいけません。そのレベルの人はもう1割もいない。それは、その人の声か歌でわかります。わからなかったら、意味がないのです。そういうことを認知する人は、いないのではありません。ただ、その自分の声がそこまで使えなければ、それはわかってもらえないというレベルのことです。

たとえばこれを聞いて、「かんじーざい」となるとしたら、それは聞く耳のところで、日本語と英語くらいに違うわけです。「ぐっどもーにんぐ」と言っているようなものです。それを発音で直せといっても無理なのです。そういうふうに聞けないかぎり、ショートカットしてしまっているわけですから。
今まで、自分がもっとうまくなりたいのに、そうなっていないなということであれば、それは自分の中で、生まれてから、ずっと歩んできている中で、そういう捉え方をしてきた。そういうふうにパッパッと、ある意味では要領よく音をとれていたり、歌えてしまっていたりしたのです。そこの中で、普通に聞いてみたら聞こえるものまで、落としてしまっているのです。そうでないと社会的にやっていけないから、仕方がなかったのです。

○音声の認識力

赤ちゃんがもっともクリエイティブな可能性の開かれた時期です。1歳のところまで配線がなくて、何でも同じように聞いている。ところが生きていくのには、困るから、自分の中で認識、つまり区別をするわけでしょう。そこに遠近感覚があって、人がいて、それは自分にとって敵か味方か、近づくか、避けるというようなことを判断する。それを認めて、はじめて物が存在する。

たとえば、犬でもピアノを認識できないと、黒いものの障害物でしかない。皆が見たら、これは楽器で、ここにふたがあってとなる。これは認識ですよね。
音の中の世界も同じです。日本語で捉える。だから、英語の子音単音は聞こえなくなって、そのかわりパッと日本語を聞いたときに、それに対応してすぐに答えられるようになる。育つとともに、その配線がついてくるのです。

だから音楽をやるときに、向こうの歌を歌うときはつなぎ直す。日本人が日本語において配線してしまったことを、外さなければいけない。それを外したところで聞けるように、もう一度つくっていく。我々がネイティブになるには、無理なことです。でも、近づける。それが頭がよすぎたり、絶対音感があったり、すぐに楽譜にして聞いてしまう人になると、そういう部分を全部ショートカットしてしまうから、歌の中でもそれができなくなってしまうのです。
音がとれている、とれていない。音符が長いとか短いとか、楽譜までが、その人の音楽なのです。

聞かなければいけないのは、そうではないところです。「かん」だけなら「かん」だけのところ、これが自分の「かん」の認識と、どう違うのか。それを自分でやってみたときに、鋭く入れない、呼吸が回っていない、体が動いていない、プロが歌うときに、その感覚では歌わないです。

○全身化する

だからアマチュアの人のは、声を聞かなくてもわかる。声が聞こえなくて、ここにガラスが張ってあって、音声を消して見ても、これではダメだと、判断がついてしまうと思います。この歌にかぎらず、何かの歌を本当に歌おうと思ったときに、どういうふうにするか。アーティストのレコーディング風景とか、いろいろみたことがあると思います。ステージでも同じです。格好もついているけれど、格好つけてステージをやっているわけではないですね。それだけ自分の体で、全身にして音楽を捉えて出していかないと、あのようにはならない。

この「かん」一つでも踏み込めない。そういう中で捉えていく一音、それの練習をしなければいけません。そんなことをいって、何でこだわらないかというと、待つしかないからです。今日できないことは、明日できるわけではありません。ただ、自分で変えようと思わないと、それが必要性ということです。それがないことには変えられない。人が必要性を与えることはできない。あなた方がそれは自分で感じないといけません。

○一つにする予感

一つにしているとはこういうことです。ここまでとは言わないが、全部自分で持っていって、自分の動きをそこに出してメロディや言葉で左右されたりしていないですね。それをするためには、けっこうな全身運動なのです。スキーでもスケートもそうです。皆さんのは、口のところで、頭で考えて口で出そうとしている。レッスンでできないのはいいのです。そんなのができたら、自分でやっていればいい。それをやりに来ている。それをやりに来たら、一箇所でも二箇所でも、声がついていかなくても、この人に声がついてきたら、そうなってくるのだな、体が使えるようになってきたら、そういう音楽になっていくんだなと。そういう予感が抜けるかは、その人のイメージ力の問題です。

今の状況で、その捉え方だと、どんなに声があっても、演奏にはならないというイメージです。
確かに、声が出てくれば出てくるほど、イメージもわきやすくなるし、つくりやすくもなります。声がまったくなくてもイメージというのは、自分の中で組み立てていけるし、その組み立てる能力がなければ、声は変わらないのです。だから、「かん」というのは、こんなに大きく言えないとか、鋭く言えないというのは、かまわない。ただ、自分のやったことに対して、その方向性をとっていなければ、5年10年経っても変わらないということです。

皆の場合だと、「かん」だけが勉強みたいなものです。けれど、「かん」だけでやっていると喉をつぶしてしまったり、音楽的な面でわからなくなってしまうので、このくらい(ミミ)のフレーズをつけてやるとよいでしょう。自分でつくっていかなければだめです。いろいろなものをつくって、それが本当に深まってきたときに、音楽といわれるものになっていればいい。人の音楽をいくらやってみても、自分の音楽にはなっていかない。そこの中からの動きが出て、それがたまたま歌といわれるものになっていくくらいで、そのプロセスが基本の基本の部分として得ていくのです。☆

感覚の変化を自分の中に課してみる。その結果、できないのはいいのだけれど、やろうとしないのとか、イメージができないのは、どこかで直さないと、歌は変わっていかないですね。

○動きの中に入り込む

ヴォイストレーニングは「ミファソラミレドラソ」これで1オクターブ、こんなものです。その中の課題を自分でどれだけ認識して、修正して、それでどう確認するか。今のイメージがあり、そのことに対して声が定まっていなければ、何回も何回もやって、そのイメージと同じように、本当に一致して出ればいいことです。そのイメージ自体が高まっていったら、また課題ができてきます。そのイメージがもうできたら、歌ってみればいい。歌ってみて歌でうまくいかなかったら、足りないなというようにわかる。歌は誰でも歌えるものですから、そこを自分で、ギャップをつくっていく。

私がプロの人とやるときは、ときには大きなギャップをつくらせるのです。たとえば、これの2倍、3倍の長さにする。すると、支えきれなくなって、伸ばしきれず、表現が緩慢になって、難しくなるのです。それを2オクターブにするとか、1オクターブ高いところで歌わせるとしたら、できないです。
そんなことは実際には必要がない。そんなことを目的にとること自体は必要ないのです。もう既に、今あるところの中で、どれだけできていないのかということ知らせます。

皆が今やったこととイメージというのは、離れています。イメージのところまで、体と気持ちがついていっていない。一回でできなければだめです。練習だから、3回くらいまわしています。練りこんでいくことは、本来、自分でやっていなければいけない。練習の中で、そういう人が出てきたら、目一杯力が出せる。どんな勉強をしていてもかまわないのですが、力が出せてきたらいい。遠回りになってしまうことも、次のステップのために、ある時期停滞してしまうこともあります。

たとえば、「かん」だけで勉強していたら、歌は下手になってしまうだろう。声も一瞬低くなるかもしれません。そのことがいいかわるいかではなくて、そのことを何年か経った後に、そのことの結果として何が出てくるかということです。半年、1年だけで問えることではないのです。けれど、考えなければいけない。全身を使うことは、難しいですね。今のように音を捉えることはできる。でも、捉えたことを全力でやることって、スポーツをやった人ならわかると思いますけれど、よほど自分の体がそのことに慣れていかないと、動かない。

私はスポーツをやってきましたが、ちょっとそれを離れて、その動きの中に入りこもうとしたら、無理です。何でもそうですが、その中の動きが自分でできるようなことというのは、3年はかかる。簡単には戻せない。ジョギングでさえもそうです。そのことをきちんとキープしていく。やっていくなら、やるときにがんばるではダメです。毎日、そういうものをきちんとキープしていかなければいけないというようなことです。

○比較する

考えというより、表現の仕方が違うところがあります。スティービー・ワンダーの曲ですね。そこから入って、世界中の一流の歌い手のものを全部集めて、日本人と比べていた。郷ひろみの「アチチ」を、野口五郎さんが対抗して「愛がメロメロ」というサンタナの曲「SMOOTH」で。それからハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボード」、「バラ色の人生」は美空ひばりとサッチモ、サザンの桑田さんのと、レイ・チャールズの比較をします。日本人みたいに、メロディを歌っていないのですね。自分の音楽を出すために音楽を使っている。そういう意味でいうと、もっと崩していっていい。ひとりよがりとオリジナリティの違いを、自分の中できちんと見ていかなければいけない。

○選ばれていく声

声でも、いい声と悪い声というのがあるのでないから、どう違うのかといわれても、私も困るのです。本当に優れた作品を選ぶときに、それをいい声とか悪い声というのでは、自由度があって柔軟でなければ、とても音楽を扱えない。音楽の世界を厳しい形で見ることです。
すると、そういう声が選ばれていくということです。どの声がいい悪いじゃなくて、かすれていようが、荒っぽい声であろうが、その人がそれを完全に細かく表現することに、繊細に使えるのであれば、その声がいい声といえるのです。そうしないとポップスの基準は何もないのです。

○トレーニングの落とし穴

ヴォイストレーニングでどういう声を出すのですかと聞かれるから、答える。そういうレッスンが、一番遅れているわけです。トレーナー相手で考えてしまうと、よくありません。私は、トレーニングでさまざまな間違いが起きてしまう理由を、自分の反省もふまえ、見つめてきました。
トレーナーの教えたことは、トレーニングとしての基礎だということをもっとしっかりと捉えることなのです。☆美大でデッサンを教えてもらっても、それをそのまま使う画家はいないでしょう。それを離れて自由に描いたとき、その中に独自のデッサンがみえるためのトレーニングなのですから。☆☆

自分ができていると思ってしまうのが、まず大きな間違いでしょうね。だから、似させようとする。私のように、自分が最低限だと最初から思っていれば、そんなに間違いがない。それとともに教えるということは、目的を出して、そこに対してステップを組み立てなければいけない。音楽の場合に、自由でいいですよというわけにはいかないから、どうしても、正しく歌える、正しい声で、とってしまう。

これは日本で顕著な傾向です。日本人の習いたい人ややりたい人が、そういう一つの正解を求めるのです。一番多いのは、講演会で「それは正しいのですか間違いですか」という質問です。「この声で間違っていますか」、「間違ったトレーニングはしたくない」と。それに対応せざるをえないと困ってしまう。何が間違えかなんて、簡単にはわからないのです。人生にそんなものはない。

誰にももっといいやり方も早いやり方もあったと思います。今、皆にやらせているものも同じです。恐れたり、迷ったり、悩むことはいりません。そんな間違えなんか起きても起こらなくてもいいところまで、やってきたかなのです。正しいヴォイストレーニングを習いに行ったのでは、ないのです。発声の仕方も、自分では徹底してやっているでしょう。ある意味では量が越えていく部分もあります。
ただ、トレーニングというかぎり、なぜ、トレーナーに来てもらっているかというと、方向性として、どこまでの必要度を感じてもらうか。こんな歌でも、皆で楽しく歌ってみたら、踊りでもつけて、何かやったな、楽しかったなということはできる。サークルではそれをやっているわけです。

そして、たまに成功体験をもつ。ただ、それが文化祭の達成レベルになって、本来、悔しがらなければいけない発表で、喜んで感極まっている人を見ると、もったいないと思います。人間の可能性はそんなものじゃない。音楽はもっと深いものなのに、そんな程度で使っているのは。市民講座だったらいいのですが、研究所はそのためにつくったのではない。
そこで、そういうこともだんだんやめてきました。やめるというのもきついことです。けれど、ただ、垂れ流すよりはいいです。
これは歌と全部同じです。やればいいというものではない。本当にいいものでなければ、やってはいけないというわけではないけれど、自分の勘が鈍ってきてしまいます。それが一番怖いことです。

○待つレッスン

現場にいるプロの人で、私なんかよりもずっとやっている人と、私はやっています。そういうところから、方法論は、すぐに底が割れてしまう。仕事もつまらなくなってしまいます。そういう意味で、あなた方が正しいとか、間違いとかいうことをいわせない世界のところにもっていくことが、一番大切なのです。☆☆しかし、今のトレーナーに期待されるのは、そうでないことが多いので、難しいのです。

昔から、総合評しか出さなかったのです。「いつも個人評がほしい」とか「1レッスンごとに全部言ってほしい」というのがあったのですが、言いたくなればもう言っているのです。何かしら、そこに接点がついたり、そういう必要性があると思うと、人間は動くんですね。
だから、たとえばプロデューサーを紹介してくれと言われなくても、その子がそういう感じだなと思ったときには、まわりが紹介したくなる。そうしている。そうなっていかないと、本当のことでいうと、成り立たないのです。かえって世の中に迷惑をかけてしまう。

研究所は量より質、レッスンも人もです。よくなっていくのならいいのですが、そうでなければ、それはそれで、ある役割を終えていく。歌もそういう部分はある。もう一般の人だからと思っているときは、私は講演会でも、受け答えもていねいに、そこに、はしごをかけてやります。トレーナーもていねいにやっていると思います。

何事もやめないで続けなければ、ものにならない。私も、やっぱり続けてほしいという部分はある。自分が正しいとか、自分のやり方についていけばいいということではなくて、あるひとつの自分の中の基準というものに対して、ここはレッスンを置いている。要望にも対応しますが、本当に育っていった人には、私はそれさえもやっていないです。自立こそがすべてです。

そういうものが、何かをものにしていくときの当然のものだという感覚が必要です。私がいい加減だった分、それだけ熱心な人しかいなかったわけです。それが大勢になったら、そうではなくなった。何も言われないところで育った人が上にいく。別に何も言われなくても人は育つものです。
それを自分のところで感知して、それを確かめ出してやるための、レッスンがあると考えてみてください。

○作品を出せるスタンス

どうしても慣れていないとか時間が足りないということがあります。やり方を少し変えます。広がって、できるだけ広く使ってください。練習の時間を30秒とか1分とかとります。それで自分で何回か繰り返します。最高の作品とはいいませんが、試行錯誤しても出す。アドバイスを与えられないのは、煮詰まっていないからです。

あなた方のかたちとして出てきているものなら言えるのです。けれど、絵か何かでいうと、こんなものを書きたがっているんだな、これを仕上げるのにもう6時間くらいかかるかなと、そういうときは言えないのです。こっちが見えたら、自分の方へひっぱりたくなりますから。3回やってみて、3回とも変わってしまうわけでしょう。それを本人も自覚していない。ある程度決め付けて作品として出してもらわないと、コメントとしての意味がなくなってくる。

レッスンも、初心者に、先生がすごくていねいに言うわけです。先生がたくさんしゃべって、生徒が満足する。
そういうレッスンは、最低のレッスンです。何も成り立っていないところで、生徒が先生に充実感を感じていては伸びようがない。

当の本人が、今やったことを自覚していない。☆今のがよかったとか悪かったといわれても、把握していないから何もないのです。消えてしまっている。
絵か何かなら、比べて、この3枚目がいいといえるのだけど、せいぜいテープで聞いて、何か知らないけれど、この3つ目だと。それをまた出してみて、テープにやってみるような勉強している人はあまりいません。一番大切なことは、自分の中で認識をきちんと持つこと、それがわからないと、言ってみてもしかたない。いろいろと言っていても、なかなか直らないのは、そのせいです。

2,3割くらい入れたという感じがしたのですが、今回、またゼロですね。そういうものが自分たちでわからなければ成立しない。  自分のはわからないかもしれないけれど、今、私が言っているということは、さっきと何が変わったのか、さっきよりも長くなった、難しくなったのですが、そのために練習時間を与えているわけです。さっきよりよくならなければいけない。それは声やイメージという話ではなくて、スタンスの問題です。さっきのスタンスだったら、まだレッスンになる可能性がある。ああいう状態が続くのであれば、ライブや合宿をやってみたりしても効果がある。

でも今のだったら、いつものと同じです。いつものレッスンが問題ですが、要はレッスンというのが、本当にレッスンになる意味をきちんと見ていかないといけません。☆それは、先生方がどんなにがんばってもだめです。厳しくやるとピリッとすることもあるけれど、自由度がなくなってくる。皆がやるわけです。私たちはこうやって、方向性はつけていく。ただ、それをあなた方が持ちこまなければ成り立たないのです。

さっきの雰囲気とスタンスと、今の雰囲気は、もう全く違うのです。そのスタンスをまず戻すこと。長すぎたら半分くらいにしてもかまわないです。さっきより先のことをやらないと、本当に意味がない。今のでは何も言えない。もっとちゃんとやってくださいとしかいいようがない。1分くらい練習をしてください。

この作品にひっぱられて、さっきのが出てきたなら、それが作品なのです。自分でできていないと思ったら、一流のアーティストでひとつのフレーズを何回も聞く。瞬間でも聞く。そういうものの中から、自分の一番いいものが出てくるかたちで、はじめてオリジナリティが対比できるわけです。それをいつもの自分の練習の、自分のテンションのところに持ってきたら、自分のものしか出なくなってしまう。自分なりのものでも通じることはあります。そこは自分の中できちんと見ていなければいけません。

こういう練習は、シャウトで喉をひずませてということに見えてしまうかもしれません。そうではなくて、呼吸の流れの練習です。実際には、喉をつかったりシャウトしなくてもかまいません。「いっさい」に入るところの呼吸とか、あるいはその前の、「かいくうどう」の声の動かし方をみてください。要はフレーズをきちんと重ねていくことです。

○集中力

最近、舞台の関係で、漫画家や、原作者が演出家をやったり、舞台の構成をやったりするのが多くなった。
昔は漫画はそれだけで終わっていたのですが、今は舞台になったり、パチスロになったり市場が伸びているのです。板垣恵介さんという漫画家、「バキ」とか描いている人が、だいたい30時間くらい集中して、ぶっ通しでやると言っていましたね。

舞台で必要な集中力というのは、長時間集中することよりは一瞬です。今のでも「いっさい」のところまで集中が持っていない。そこまできちんと引き受けていない。離してしまっている。だから、まず最低限そういう基準です。歌は1分、それから言ったら、今のは5秒から10秒ですね。そういうところからきちんと自分の中でけじめをつけていかないといけない。流して、通用するわけがない。

プロとしてとか、舞台としてということではなくて、歌をきちんと自分が動かしていく、表現する、あるいは声を相手に伝えることをやろうと思ったら、すでにそのくらい必要なのですね。日常の会話ではない。しゃべりがそのまま舞台になっているような人もいるかもしれません。
それでは、トレーニングの目的にはなかなかならない。ちょっと入り込めた、戻った方もいます。そういうことを感じてみてください。

○フェイク

トレーナーの基準、よく、歌ってどう判断するんですかとか、声って判断基準が何ですかと聞かれる。それは私のヴォイストレーニングと同じことなのです。すごく単純な話なのです。日常的に、人に対して働きかけるか、動かせるかということです。
声が全然弱いのだけれど、その人のことばが動かすということもあるし、その人の顔つきや動作が、しゃべっていることや声はどうでもいいのだけれど、何かしら働きかけるということ、それも全部ありなのです。

歌の世界でも実際にはそうですね。その人の声だけとか、歌だけということではない。CDになってしまうと、音声と音楽性が中心です。そういうものも含めて、歌が難しいというのは、逆に自分の言葉でしゃべれないからです。☆
こうやって自分で何かを伝えようということは、自分の言葉をそこでつくって言える。けれど、歌は決まったものの中に自分が入れて、そのかたちの中である程度動かしていかなければいけないとなる。その考え方も本当はおかしいのです。
自分で勝手なことを勝手に、言いたい言葉で歌えばいい。こう歌う中で働きかけるものが、あるのかどうかです。
音楽として今、勉強しているのは、その音楽の呼吸としてどう見せていくかということです。もう一度聞いてみましょう。

落としましたね。そこまでは全部込めて、それで動かしています。いきなりカタッと崩れるように落として、わざとそうやったのか、うまくやろうと思ってそうやったのか、もっとうまくやろうと思って中途半端になってしまったのか、最初からこれを狙っていたのか、それはよくわかりません。作品としては、判断しにくいけれど、一本調子でくるよりは、たぶんいいという判断を私はします。

「むむ みょうじん」
ここはちょっと楽です。ちょっと方向性を変えてみようとか、ちょっと何かを動かしてみようということをたくらんでいますね。あまりうまくはいっていないのですが、だから一本調子から抜けられているというようなこともいえます。調子がずっと続いていくと厳しいところです。

「みょうじん」
そうです。そのままでやってしまうともたなくなってしまうから、女性の声で変化をつけて、際立たせています。アレンジの力も入れて、うまいところですね。

○Bメロ後のAメロ

こういうフェイクというのは、日本の男性でできる人というのはあまりいないですね。どういうことかというと、そこで起きた変化を自分がすぐに取り入れて、次のフレーズのところにより生かす方向に持っていく。音楽は入っていなければいけない。誰でもプロの人は音楽が入って、歌が入っているのが、そのメロディやその言葉よりも、優先して自分の感覚のところで新しくつくって、結果としていい方にする。

○形より実

いろいろなかたちで崩している人はいるけれど、ほとんど頭で計算して、悪い方の効果にしてしまっていますね。
ただお客さんは知らないから、新鮮なことをやってくれたといって、受けます。それはそれでいいのですが、そういうものがあからさまに見えてしまうとだめですね。皆が聞いてみて心地いいのに、何をやったかよくわからないのが最上です。☆

でも、自分がやる人間なら、そういうことを誰よりもわかっていなければいけない。そういうことをたくさんのアーティストがやっている中で、自分は何をやるのかということで問われるわけです。こういうふうな勉強をしていく。だからこそ、それを言えなければだめですね。

どんなにヴォイストレーニングをやって、声を出していても、その声を、どう使うかというところに、音楽や表現を生じしめさなければいけない。そのときにあまり、声域や声量というのはいらない。こういうことを呼吸の流れの上で、音楽を動かしていきたくなってくると、しっかりした声とかそれなりに必要になってくる。そのほうが有利ですね。

いかにも置いたようなかたちになっています。そういうものは音楽が入っていないと難しいですね。感心するのは、「ふ」とか「く」とか、歌い手からいうとやりにくい「むむみょう」とかが、連続して続いていく。歌い手の「外郎売り」みたいなものなのです。それをあまり感じさせないのは、普通の歌よりずっと難しいです。「くふおんり」も難しいですね。「おん」くらいしか入りにくいからですね。課題が変わってしまうと、1からやり直しのようになってしまうのです。けれど、基本的には、重ねているところは同じで、言葉でやってもいいくらいなのです。

○ベストの編集

あなた方のレベルが低くて、トレーナーが高いということではない。たいして変わらないのかもしれないのです。ただ、彼らは、自分の中の最高のところを完全に出すことを知っている。ここの周辺のところのトレーニング状態でやって、オンしていく。それ以下のところをトレーニングとして認めていない。あなた方の場合、自分の中の最高点と最低点があっても、強く意識づけしないから、すぐに平均ライン、あるいはそれよりも下のラインに落ちてしまう。

私から見たら、もっともっとできることがあるのに、それを出さない。レッスンの中では、その状態を自分が持ってこられるために、もっと考えなければいけませんね。私はレッスンに行っていたときには、だいたい準備に3時間はかかりました。自分が頭も体もかたいし、感覚が悪かった。3時間ウォーミングアップしないと、とても入れなかった。だから、そういう準備をしていった。中にはパッときてパッと入れてしまう人もいて、うらやましく思っていました。でも、そうやって自分のことを知っていくわけですね。オンしていることしか意味がない。いつもトレーニングは繰り返しだというのは、すぐにその状況を再現させるためです。

○過剰のための補充

ここでやりにくいのもわかりますし、慣れていないと遠慮をしてしまったりするのでしょう。けれど、それは本人の責任です。
私は、どんなに派手なことをやっても、どんな方向違いな、はきちがいなことをやっても、ここではダメとは言わないし、見てみぬふりをします。あまりに人に迷惑がかかりそうなときは、言うことがありますが、そこまでは、出ていないわけですね。
大体、注意というのは、やりすぎたときにされるのです。注意されないということは、そこまでのことをやっていないと思えばいい。

あまり難しく考えないでください。ただ、本当に自分の中の最高のところでやっていても、足りないことはたくさんあります。遠慮しているわけではないと思いますけれど、レッスンや状況の整備だったり、こういう課題を振られたときに、メロディしかとれないとか、言葉を追いかけてしまうと思ったら、それをあらためる。自分でそれが足りないと思ったら、いけない、間違っているという思わず、入っていないな足りないな、動かせないなと思う。そのことを補充していかなければいけません。

レッスンの中で補充することもできます。それは、月に3回くらいでも、残りの30日で、そうではない感覚で聞くためには、そうでない動かし方ができるためには、一体何が必要なのかと煮つめる。ここの課題は比較的明確に、私はしています。けれど、たぶん、トレーナーは、違う方面から与えていると思います。レッスン以外、残りの30日というのは、次のときにやるのではなくて、次のときに、今より対応できるためにやっていくわけです。

○ハイレベルに挑む

私のほうがレベルを落としてしまったら、皆のほうが損なことになってしまう。私ごときのレッスンにもついていけずに、表現を創れるわけがない。
そこに対しては、私がここで取り上げているアーティストは、少なくとも私よりもすごいレベルの高い人であり、声のある人たちです。そことのギャップがあるから、ついていけないといって、ギャップのないヴォーカリストを使ってしまったら、わからなくなってしまうのですね。何がトレーニングなのかわかりません。ギャップをつくるから、トレーニングが成り立つ。あるいは課題が明確になってくるわけです。

皆に一番感じてほしいのは、ここでできなくていいけれど、そこでのギャップをすごく感じて、次のときにとはいいませんが、1年後2年後にこういうレッスンを行ったときに、もう少し対応できるような形の、日ごろの取り組みは一体何なのだろうかというようなことをやっていくことです。
レッスンはそういう意味では刺激でいいと思っています。ヴォーカルはひとりでやっているとうぬぼれていきます。それをある意味ではきちんと現実的に見ていくということですね。

「け どう」のところで考えてみます。音符をつけてしまうと、こういう歌い方はできなくなってしまって、どんどん不自由になってしまいます。本来、言語とリズムがもう少し一致していたら、日本語も欧米人みたいにできる。そうしたら、そこから歌ははじまっていたでしょう。


■レッスン[2005.7]

○直接、歌にしない

人によって、喉が強い弱いというのが確かにあります。ところが歌い手というのは、音域をとっていかなければいけないから、今のようなかたちで高いところを持っていこうとする。息を吐くイメージのトレーニングにはなるけれど、実際に歌うときにそういう声の使い方は、歌では、しませんよね。
すごくわかりにくいかもしれませんが、筋力トレーニングや呼吸のトレーニングの強化するところを、直接、歌としない。こちらの方はどちらかというと、確実に声にして、流れにのせて、共鳴させなければいけない。つながりがあるところに、そのまま、ぶつけてしまうと、よくありません。

簡単なことでいうと、腕立てをしたり腹筋をしたりしていることをそのまま、素振りをして、そのままバッターボックスに行くことはないでしょう。それぞれ目的が全然違うのです。だから、今の段階だったら、もう息を吐くことに、そこまで口の中、口を動かしたり、ハッとやったりしてぶつける必要はない。声帯が疲れてしまいます。そこはあくまで体だから、しばらく喉を休めるために、今度OKというときまでは、逆に柔軟や腹筋や、そういうことでこちらは補って、あまり喉の方に持ってこないようにすること。

○喉に力を入れない

それから、息を吐くところは、できたら「H― H―」、こんな形になったり、「ハッ」と強くなったりするより「ハッ」と、このくらいの感じ、これも息があまり聞こえないほうがいいです。今までやったものからみると、たよりないと聞こえるかもしれませんけれど、要は喉のところに力が入ることを避けたいのです。だから、「H−」とやるのはまだいいのだけれど、「H―」と、このやると、ここに同時に力が入ってしまいます。
だから打つときに腕だけというような感じになってしまう。このトレーニングには喉を使わない。
今の「ハイ」を言うのも、理想的に息を吐いているところで1オクターブのイメージをとっているのだけれど、その上のほうになってくると、ぶつけているだけで音を探ってしまっている。音はとれているのだけれど、結果として喉には負担がきているのです。

○歌から声をもってくる

これに関しては低いところでやって、高いところだったら、あなたが歌っているところでやったほうがいい。それはチェンジ、声に出してやっていかなければいけない。今のトレーニングの1時間、メニュがあるとしたら、最初、柔軟とか腹筋とかを、5分から10分やって、その後は、どちらかというと、言葉の練習に入るか、歌に入って、その歌のほうから、声を持ってきたほうがいいですね。歌のときの状態のほうが声がうまく出ています。だから、今言ったところのトレーニングが歌う前に、喉を疲れさせてしまうことになっていると思います。「ハイ」をきちんとやってみましょう。この音だけに「ハイ」をやってみてください。

正しいというよりは程度の問題です。ただ、歌っているときに楽にできていることを、トレーニングで力を入れたり、無理に思い込んでやっている感じがします。イメージ力というのは、アーティストのところから、姿勢や息やそういうものも含めて、そのまま体得していく。皆、リラックスしてやっていますね。そういうところをイメージとしてはもっておけばいい。

○切り替える

同じことに2時間を使っていくのだったら、1時間で2回、使っていくように考えたほうがいいです。それから、終わった後に喉を疲れさせない。次の日にも。メニュはどんどん選別していけばいい。どちらかというとどんどんたまっていくのではなくて、今までやっていて声が出たメニュはどれかなと、そのうまく出たメニュを組み合わせていく。メニュをつくる力というのも、ひとつの実力ですが、できたら、歌を自分で発声として使って、歌で高くしたり低くしたりするようなこと、あるいは長く伸ばしたり、そういう歌から入る発声のように考えたほうがいいです。

筋力トレーニングは必要だと思う人もいるのですが、人によります。あまり、トレーニングのメニュを、今のあなたの状態だったら重視しない方がいいと思います。切り替えるのが難しいと思うのですが、トレーニングをトレーニングで解決しようというより、そのトレーニング自体のところで、逆に力んだり、力を入れたり、悪いイメージがついてきたら、自分でやっていても不安でしょう。

最初の段階は体をつくったり、強くしたりする。体というのはあるところまでは、強くなるのだけれど、それから先というのは、スポーツを見ればわかるとおり、限界になる。最初の3年くらいはどんどん新記録が出るけれど、ある程度強くなったら、今度は使い方になってくる。そうすると、たいしてそういうものが出てこない。だから体を休めていい。呼吸のことはやらなければいけないのだけれど、それも歌の中でやっていると思ってください。だから、歌から入るフレーズでトレーニングをするというふうに考えてみてください。

息だけでやろうとしていたら、逆に体の状態が悪くなってしまいますね。だから、実際にうまくいっていたら、そういうことを専念してやればいいと思うけれど、しばらくは声のバランスを楽にしたり、休めたりするために、体のことより、発声、それをフレーズのほうからやりましょう。それは、声のトレーニングと考えるよりも、体が声が出るように起こしていくということです☆

○メニュを柔軟にする

息の吐き方や「ハイ」ということだと、どちらかというとかなり喉に負担をかけている。だから、歌ってうまくバランスがわかってくれば、どこかの時点でもっとそういうことがポイントになる。そのときに、やったらいいかもしれません。今の時点では逆効果になっている。
いろいろなメニュが世の中にはあるのだけれど、たくさんのメニュをやらなければいけないということではない。
歌のためにメニュを使っているのだから、この歌の中で一番直せればいいわけですね。しばらくは実践的なことのほうをやったほうが、わかってくると思う。

最終的なことで言えば、ポップスの場合は、発声上に、必ずしも歌がのっているわけではない。発声としては正しい発声を覚えておく。歌うときには人を動かさなくては、きれいに美しく、響かせて歌ってみても仕方がない。そこはあまり、気にする必要がない。
むしろ歌の中で、自分の表現したいものとか、感情移入をしたときに、それがうまくいかないとなる。たとえばこれをより高くすると、よりうまくいかなくなりますね。そうすると、そういうことが起きないようにトレーニングしておくというふうに、今は考えたほうがいいですね。

たとえば他の音よりも楽に出ているなとか、うまく響いているというのがあれば、それを何回もやって覚えることです。それを高くしたり低くしたりして、他の発声に関してもやればよい。「が」で出したものより、よっぽど今の「ぎ」のほうが、きれいに響いているわけです。
自分のトレーニングで思い込んで、この音はこういうふうに出さなければいけないと思っているところで、固まっているところがある。
当然、体も感覚も変わってくるわけです。ところがトレーニングは、変わらないで、同じ基準でずっとやっていたら、せっかく体や感覚ができてきても、使われないで、トレーニングでレベルを下げてしまう。
歌のほうが楽になっているから、レベルが低いトレーニングになっているから、歌のほうのものを、新しくトレーニングのメニューにこうやってつくっていくことです。

○できる声を使う

歌でやったほうがリラックスしていて、発声でも、楽に高いところが出たり、うまく流れるのなら、それでよいのですね。それと同じことを発声のトレーニングでやると、うまくいかない。歌のほうがうまくいっていることが少なくありません。
ただ、歌というのは自分で動かすから、意図的に止めてみたり、発声に反するようなことも中にはやっていくので、歌そのものというよりは、歌から発声のトレーニングをつくって、それでそこの箇所を、何回も何回もやる。

だから高い音といったら、自分が今、一番歌えているところの高いところに、一番うまくいっているフレーズとか、音を選んで、それを何回も繰り返して覚えてしまうことです。それをさらに高くしたり低くしていったりする。長く伸ばしたいといったら、長くできるところで、やります。
要はできないところを皆、練習するのですけれど、できないところは余計悪くなってしまうから、自分でできていると思うところをよりよくしていくのが、一番大切なことですね。

Q.洋楽の曲を歌いたいのに、全部高い

A.その高さで一回やってみて、マイクの効果も使ってやってみてください。その高さのところに届かないのは、今のところに下げてみましょう。全部の曲を高く歌うのは無理でも、そのある一部分を歌えるなと思ったら、それを高くして、そのうちにかなり高いところでも歌えるようになります。

Q.レイ・チャールズやスティービー・ワンダーが好きなのですが、簡単に歌ってしまって、声も太くてうまい。実際に歌ってみると、すごく高い。どういうふうにして、ああいうふうに出すのか。

A.日本人より、体をつけて歌っているというのが第一だろうし、それから、発声から考えているわけではない。音の世界から考えて、ずいぶん喉にひっかかっていたり、かすれたような声になったりするけれど、音楽性の高さで、それをより効果的になるようにしている。
だから、誰がやっても真似にしかならない。手本にとるには難しい歌い手です。彼の個性、彼の音でやってしまっている。 ああいう喉の使い方から始めると、普通の人だと、喉をおかしくしてしまう。サッチモでもそうでしょう。

オリジナリティが高い人や、独自のものを持っている人を真似るのは、喉にはよくないですね。 まだ正統的に、皆にうまいなという発声に学ぶ方がよい。生まれつきああいうことを持っている人でないと、ああいう声は出せないなというのもコピーしないことです。

Q.歌手以外も歌で、トレーニングはしてよいのですか。

A.ヴォイストレーニングというのかは別でしょうけれど、ある程度の感覚と体があって、歌の中でトレーニングが行われる。
作曲を勉強しなくてもたくさんのパターンが入っていたら、ピアノを弾いていくと、これがいいなという着想とかそういうもので自分の音を見つけていく。トレーニングに関しても同じです。だから、歌の中でやっていることと、そうでないことと、大して違わないと思っています。

●レッスンの今昔

会報に載っているのは、3年遅れのも含めています。昔は6年くらい在籍していましたから、3年くらい前のものが、かなりわかるようになってから、会報で読んでいました。研究所は、プロをプロにするだけでなく、そうじゃない人をプロのレベルにすることも目的につくられています。プロにするところまで、できればいい。中間層がいなくなってしまった気がします。

20歳前後くらいで入って、6年から8年いる。それから10年15年経つと、昔の子がつながっていますから、いろいろな情報をくれます。
長くいることがいいことでもない。ただ、ここの場合は入りにくくしていますから、入ったら入ったなりの、自己投資の結果を、もう少し取りやすくする必要があるということは、常日頃から考えています。人数が多いことも、いいことではないのです。トレーナーは年々よくなっていると思います。
私のレッスンは、ずいぶん偏りがありまして、その時期によって違います。これはいろいろな理由があります。

私はもともと、教えることは非常に勉強になると思っております。3年くらい教えて、それからプロの活動に戻ればいいと。ところが3年教えさせることで、声のことはよくわかるし歌もうまくなるのだけれど、プロになるところのテンションやモチベートがなくなってしまうのです。人に対して接して、円熟味が増したというのは、社会的に見るといい人なのですが。自分のアーティストの活動を引っ張らなければいいのですが。日本は、輪の社会です。そういう人のほうがやれるのかと思っていましたら、そんなはずはない。それでプロになった人とか、完全にプロと同じレベルになる人しか、トレーナーとしないようにした。

今は、声楽、二期会のプロの人や、実績を残してやるだけのことはやったから、後進の指導をやりたい、というような人に頼んでいます。
ただ、オペラの歌い手さんは、どうしても40代、華が開いていきますから、30代のうちからいろいろなところに留学をして、穴を開けるので、困っています。本当に、100人くらい会ってみて1人しかとれない。外の世界もそうです。毎年350人のうちの1人か2人ですね。だから、1パーセントいないわけです。

そのころ、どういうことをやっていたかというと、だいたい今かけたぐらいの曲が1ヶ月の課題です。これを一巡して、曲集だったら2冊くらい終わってしまうのです。私の個人レッスンというのはそのかたちを残しています。
月に18曲をあたえ、別に18曲を覚える必要はないし、歌詞を覚える必要もないが、そこのところから本質的なことを、勉強をするというやり方をとっています。

○聞く力とイメージ力

プロの場合は自分の曲を持ってきますから、それにけちをつけていても仕方がない。ある程度やった人とか、ある程度やったというのは、普通に生きていて普通にカラオケをやってくらいです。それで歌を歌ってみて歌えないというのは、歌を勉強していないからとかヴォイストレーニングをやっていないからということではないのです。プロの歌い手だって、ヴォイストレーニングをやったり、発声をまともにしているわけではない。そこの違いというのは何かというと、聞く力です。音楽が入っていない、その音楽の中に、きちんと音を感じたり、動かしたりするような感覚がない人が、どんなにヴォイストレーニングをやっても、発声をやってみても、これは歌から外れて、よけい難しくなってしまいます。

だから一番考えなければいけないのは、誰も初心者ではない、言葉も使っているし歌も歌っている。まったくやっていない人とか、嫌いだった人もいます。その歌に対して、高いレベルからいうと、欠けているのだけれど、普通のレベルからいうと、当たり前のことで、そこまでしか聞いていないから、そこまでしか歌えない。認識しているとおりに、声は出ているのです。だから、多くの場合はイメージの問題なのです。

ところがヴォイストレーニングをやると、自分のイメージはあって、声がないから歌えないという錯覚をしていってしまう。
もしピアノを弾けたら、その人がプロ級の腕前で惹けるかといったら、たぶんピアノを弾かせてみても、最後まで間違えないで弾けて終わりというようなイメージしかないわけです。それは人の世界です。歌も同じです。最終目標が、最後まで間違えないで弾けたらとか、ただ、言葉がないので、何となく人を感動させたり、心を伝えられるとか自分の思いが伝えられるとか、そんなことを入れてしまう。けれど、その人と音楽が一致していないのに、そんなものを入れて音楽になってしまったら、バラバラになってしまうのは当たり前の話です。

○伝えるもの、伝わるもの

もし、声でそういうことを言葉で伝えるのであったら、まず言葉で伝えられるはずです。
中には音楽の才能があって、言葉の才能がなく、ひとつしゃべるのも不器用だから、音の中でそれを語るという人もいます。楽器のプレーヤーに多いのですけれど、語らせてみると何も伝わらない。でも、演奏させてみると、その人の内面的なものがすごく伝わると。こういう人ほど、まさに音楽をやる資格がある。

歌い手もそうなってくれるといいですね。見かけはどうしようもなくて、歌を歌わなければ、社会的にも生きていけないのだけれど、歌いだすと皆が幸せになるように。今は非常にその辺が中途半端になっていて、即製化された歌い手もショーアップされたような要素、人前でしゃべれるような能力は問われています。

結局、語れるものがあるかないか、それだけですね。それを無理に音楽や歌に持っていかなくても、そういうものがある人はお笑いでやったり、漫画が下手でもアニメを書いて、表現世界をやっていきますね。ものを製作していくには、製作のバックグラウンドをきちんとつくっていくことです。☆やれている人というのは、私はいろいろな方に会いましたが、そういう人たちは皆、バックがあるのです。お金や人脈があるということではなくて、自分の才能を発揮できるためのシステムが組まれています。

○研究所の行方

私が研究所をつくったのは、そういう面を何とか伝えられないかということです。会報はどうしてできていくのか、ホームページはどうしてできていくのかというと、いろいろなスタッフがやっている。私が来なくても成り立つように、最初に研究所をつくったときに、それを思いました。それが育てるということでしょう。海外に住むと思ったからです。私がタッチしないで運営できるのが理想です。

研究所をせっかくのぞいても、やめてしまう人がいる。それはそれで、その人がやれていけばいいと思うのです。必要なことを考え、好かれることを日本で考えない。そうすると、そのための行動をとらなければいけない。人間的によいというだけの先生が、どれだけ歌や音楽というのを、日本のレベルが下げているのかを知っております。その点では日本の中では嫌われるのは仕方ない。

いろいろな仕事が来ると、これはどういう意図があるのだろうといつも疑っています。はっきりものを言っていくと、はっきりものが返ってきます。それだけ、自分も痛みを背負います。いい人に思われたければ、そういうやり方もあるのですが、育たないのです。最終的に何を残すか。いずれ、人間は死んでしまうわけです。そのときに、どう思われようといいのです。実際にそういう作品をいくつ残すか、生み出させるか。

研究所であれば、人間を育てているわけです。そういう人が研究所を好きに思おうが思わまいが、そこにいたことで、何かを得て、自分の活動につなげていかなければいけないですね。日本ではそうではないでしょう。すぐに、仲良しグループになってしまいます。趣味としてはいいかもしれませんが、才能はそんなものから出てくるわけではありません。本当に誰とも孤立して、けんかを売りまくっているような人が、何かをやっていく。
その辺が日本の中ではなかなか分からなくなって、音楽というと、いきなり人間性、世界の平和、愛という。そんな甘ったるい世界ではないわけです。

私は、皆さんがひとりで自立してやっていきたいと思ったときに、こう考えたほうがいいということを伝えています。やれた人はやれた後には、ヒューマンなことを言いますけれど、人間的には、身勝手そのものです。私も10年15年経ったら、恨まれていたいと思いませんから、もう少し皆さんの心にジーンをくることをいうかもしれません。そういうときは、見抜いてください。

この前、三上博史さんの「ヘドヴィグ」をみた。寺山修司さんでデビューしてから、こういうかたちをとるようになった。日本でロックをやっている人より、きちんとやれているという意味で、そういうふうにやれた人たちはどんな考えをしていたのか、20歳のころにどういう考えをしていたのだろうかと、見ています。それから、素質はすごくあったり、才能はすごくある、歌もうまいのに、やれない人もたくさん見てきました。根本的に何が違うのかというのは、直感的にわかるわけです。

ここも学校にしたくなかったから、スタジオを引き上げて、今の場所に移ったのです。研究所の中と外ということで、わけても考えていない。ただ、トレーナーやいろいろな才能が、研究所で使えるものがあるのに、目一杯使えていないなら、もったいないと思っています。

○耳づくり、気づく力をつくるレッスン

レッスンは単純にいうと、流しっぱなしにして、フレーズを回してく。20年以上前はそんなものだったのです。入ってくるなり、いきなり2オクターブの曲をやらされるわけです。これはバレーボールも知らないのに、いきなりコートに入れるようなものです。全部並べてみると、どうしようもないのが入っていました。でも最初はそういうことさえわからない。プロですから、聞いていったら、どれもそれもすごいみたいとか、古いとかわからないとか。そういうものは音楽の中に入って、聞いている耳ではないのです。

今、聞こえたくらいの曲くらいは、知らなければいけないと思います。日本ではあまり知られていない曲を、私は使っています。曲を知っている知っていないというより、聞いた後に何が残るのか、どういうことを学べたかというのがすべてなのです。☆だから、その人の中に、音楽の流れのようなものが入っていない内に、声を出すことをやってみても、歌を歌うことをやっても、仕方がない。それはどこで入るのかというと、聞いているときに入るのですね。多くの人はきっかけまでは入っているのです。ヴォーカルをやりたいということは、何かそういうところから入ってきて、自分も歌いたいと思うわけです。

何もまったくないのだけれど、とにかく歌おうという人、そういう人は、苦労しないでしょう。そういう問題が存在しているということさえ知らずに、音楽に接していく。だから、自分が今まで生きてきて歌ってきた。それで自分の歌に不満なのであれば、そうしたら自分に戻るのではないのです。自分なんか、なくしてしまうしかないのです。

もっと大きなものの動きの中で、次元をアップしていくしかない。そのことが切り替えられるかどうかです。それを切り替えなければいけないということではないです。役者のように徹底して自分のものになっていくのに、人の役を演じることで、自分を出していくやり方ができなくはない。ただ正攻法でいうのなら、レベルの高い歌い手、音楽をどこまで細かく聞きこめるようになるか。

○ここで判断力が育つ理由

研究所は、トレーナーの耳が育つのですね。それはどうしてかというと、私がトレーナーとして優秀だとは思いませんけれど、何も言わないからです。そこに長くいるということは、学ばなければいざるをえなくなります。私が考えていたのは、自分と違って、本当に超一流のセレクトしたものを並び替えて、与えようと、これだけです。一流のアーティストが育つベースの部分です。そうではない習い方や発声の仕方をすると、トレーニングということが、先に頭にきてしまうのです。トレーニングにきてしまうと、トレーニングしかできなくなってしまう。目的は歌、あるいは表現です。表現のことが優先していく。

100のQ&Aを、音楽の友社から出している本に書いています。一番いいたいこと、あの本は、これでできるという全てを入れた本です。
ヴォイストレーニングをやったら、遠回りになったり、間違ってしまうということも含め、正当なことを書いたつもりです。

○働きかける、声の力

ヴォイストレーニングはどういう位置づけなのかということも、その人の生き方です。別にアーティストだけということでは考えていません。たとえば、声の勉強をしているのに、歌が前よりうまくなるとか下手になるとか、関係ない。そういうことに心や感覚が働いてきたのに、自分のステージが成り立たなくなっていくのは、トレーニングの誤りです。年齢とともに、日本の場合はうまくいかなくなるのです。それは若いころに、環境で甘やかされているだけの話で、もともとそんな甘いものでもない。それから社会的にうまくいかなくなる。 これもおかしなことだと思うのです。声のことを知っていたら、その力を使おうと思ったら、社会的にどんなことでもできるはずです。皆、話で動かされているわけです。

私は話のところでは動かされない。もっと根本的なところです。自分が話をすることができますから、話はしょせんそんなものだと思います。自分程度の人間は、その程度に使えてしまうということです。もっと根本的なところで判断します。それはその人が、本当に持っている自分の能力を、どういうふうに社会に役立てているかということで判断します。☆別に音楽をやっているいないとか、どうでもいい。
その人間が声を生かしているということは、どの分野でも同じです。政治家だろうが弁護士だろうが、八百屋をやっていようが、必要であればヴォイストレーニングをやればいい。ヴォイストレーニングよりレベルの高いことから、結果としてヴォイストレーニングをやっている人はたくさんいます。☆
それで、それで人に働きかけ、人をやる気にさせる。

○バックグランドづくり

著作権の問題も、ある程度、利益をとれば、後はフリーでいいと思うのです。実際フリーにされているのに、規制されますから、意味のないおかしなことが行われる。

世の中で歌いたいことがたくさん出てくる。私は会報、本1冊くらいありますけれど、毎週、本1冊分くらい、言いたいことがあります。それを音楽面にふりむけたり、声にふりむけたりしているのが、アーティストだったりする。映画でもドラマでもいいです。脚本と違う、自分を演じていたら、そういうものを持っていたら、必ずそういうものはどこかに出ます。 それでお客さんに働きかけたり、嫌われたり、いろいろなことが起きてくるわけです。そういうバックグラウンドを持っていくことを、やればいいと思います。

研究所を出てやれないのは、研究所でやっていただけのことをやらないからです。研究所でやらされていた、レポートを書かされ、曲を聞かされていた。それを本来は、自分の分野で、それ以上のことをやらなければいけない。そうなると、人間は怠惰なもので、お金を払って学んでできたこと以上のことをやらなくなるのです。もったいないことです。せっかく人に押し付けられないで、自由に好きな曲を好きなように聞いて、たくさんのものを学べる。いろいろな作品をつくれるようになっているのに、そういうことをやらないのですね。だから、当然のようにそれは終わったとなるのです。

終わっていないです。私でも今は20代の半分の時間ほどにやっていない気がしますけれど、それでも人の5倍くらいはやっているんじゃないかな。そこで成り立たせるのです。昔の研究生は、私と同等以上のことはやっていました。私のほうがあおられていました。ここまで1曲について、やってくる人がいるんだなと。それが、ベースだと思います。皆さんにもレポート出せとか、いろいろな勉強をしろとはいわない。子供じゃないのですから。出す人は出せばいいし、出さなくても自分でやっていればいい。

単に出せといって、出すだけでは、学校の勉強みたいなものでしょう。いわれたから出す、出していればいいだろう。ともかく書いているから勉強した気分になっている。そんなのだったら、出さない方がいいとはいわないが、そのための自己主張のようになってしまう。
そういう主張もしなければいけないとは思います。どこにいっても自分がやっぱり何かを働きかけていなければ、トレーナーも生かせません。

●人はこうして動く

個人レッスンを見ていたら、すごくよくわかります。プロというのは、本当に時間をうまく使います。課題の設定から、自分のどこを聞いてほしい、これとこれはどっちがいいのか、この前こういうことがあって、そのときの声はこうだけれども、次のときにそれが出なかったけれど、それはなぜなのかと。
これだけ答えたら、1年分くらいの素人のレッスンくらいにはなる。だから月に1回でも、15分でも充分。それを生かす残りの30日を持っているのです。ところがそういうことができないうちは、回数を重ねるしかない。

全日制にしているのを、やめたのは、通っているだけになってしまったからです。専門学校と変わらなくなってしまいました。毎日来れるから安心なのです。そこにいたら、何かが身についているだろうということになる。来ないよりはずっといいです。来るだけのモチベートだけでもある。ただ、本当に利用する人はそうではなくて、自分の活動の補助にするのです。お金を払うことではなくて、お金をもらうことをやっていくわけです。表現を出すということは。どこの学校でも、それを逆転させなければいけない。

私がトレーナーをつくったのは、その逆転が起きたときです。こいつがいてくれるだけで助かる、授業にこいつが出てくれるから、こっちはしゃべらなくてもいい。一流のヴォーカリストを聞かせなくても、こいつが出て、そのフレーズをやってくれるから助かる、出席してくれたらお金を払うと、その延長上がトレーナーです。☆私は決まりきった考えがありません。なんか知らないけれど、歌わせたくなったから、V検をはじめた。誰がいるかというのが肝心だと思います。そこに音をつけたくなったから、L懇というのもつけた。ライブがないのかと言われますけれど、あるとかないとかではなくて、あなたが誰かをその気にさせれば、そういうものって出てくる。でも今は外でやれという考えです。内で甘えてしまう。

ライブスタジオを借りて、自分のところのスタジオまでライブにしたところまでいったのです。
それは私がやっていることで、そこに客を呼ぶこともできなければ、感動させることもできなければ、つぶれてしまうのは当たり前です。
それでさっさっとやめてしまった。私の悪いところは、人より判断が早いところです。人はだめになってからやめるのですけれど、私はだめになるところが見える前にやめてしまう。

グループでのレッスンも、私のひとつの理想なのです。いいメンバーが集まったら、先生が言うことより学ぶことが多いのです。やっぱり同じ時代に生きている、それで精一杯いろいろなことをやっていたら、そこから入ってくる情報というのは生かせる。私に対して歌うわけではないですから、同じ世代に対してスタンスをとれる。ところが逆にそれが、単に群れるような人で来てしまうようであれば、壊してしまったほうがいい。

研究所にいると、このくらいのことができる。そういう意味では、私はどこの学校の2年間よりも、恥ずかしくないと自負している。だから、グループがだめになったから、潰しているわけではないです。

本来だったら、いろいろな表現ができなければいけないのです。こういうのが同世代でいるんだなとか、本当に歌のことで回っているんだなと。そういう人しか残りません。5,6年は学ぶというスタンスで来ている人たちです。だからといって、世の中ですごく有名でやっているわけではないから、これからどうしようかなというのもあるんですけれどね。自分の世界をつくっていったら、それが歌になるのかどうかわかりませんけれど、研究所で学べることはいろいろあると思います。     

たとえば、どうしたら仕事がくるのか。声楽は、教授や助教授になると生徒はとれるのですけれど、そうでなければなかなかとれないのです。ポップスなんてもっと悲惨です。生徒が、来なかったりすぐにやめてしまう。研究所は、そこの中でも一番難しいところをやっているわけです。

その仕事は別に、声に対して来ているわけではないのです。そこをわからなければいけないです。歌い手の仕事も、歌いに来ているのではなくて、違う部分で来ているのです。でも、それが歌で、その人の才能ということをやらないと続きません。歌がうまい人はたくさんいます。トレーナーも、それなりにうまいと思います。その辺のプロで歌っている人より、少なくとも私がとっている人はうまいはずです。いつも、仕事がこないなら、どういうことなのかというのを、考えなくてはいけない。というのは、大切なことです。

○対応力をつける

本当にオーディションだとこんなものでいい。このことが、美空ひばりのようにできる必要はないのです。そのことによって何がわかるかというと、このサンプルをどういうふうに捉えているかというのがありますね。どこまで細かく、どこまで表現としての動きのところで捉えるのか。それは耳の力です。

そこで間違っている人もいます。重心が前半にあるのか後半にあるのか、明らかな違いをみる。それを音が外れているとかリズムがどうこうとか、歌い方を知らないとかではありません。世界共通です。ただ、演歌をやっていたりする人は、こういう処理が少ししやすいとか、慣れているというのは、今まで聞いている音楽と、比例する部分もあります。まったくラップしかやっていない人が、こんなものにすぐに対応できるはずがない。けれど、本当に優秀であれば、やっていなくても対応できるところはあるはずです。それだけ音の流れを知っていると。

もうひとつは、そのイメージに対して、声の調整能力があります。当然、高いところで出ないとか、ここまで伸ばせないとか、そういうふうな使い方とか、深さがとれない、話し方ができないとしたら、そのとおりにとる必要はないのです。自分のできるところに持ってきてやればいい。ここが難しいところです。ただ自分が完全にできるところに持ってきたら、こんなことをやる必要はないのです。自分の歌でやっていればいい。そうすると、こういうものを使って練習する意味というのは、そのイメージの部分で、こういう動かし方ができるんだ、ということを表現のところから見ることです。これは誰が聞いても、パッとプロと見えると。それは何でプロと見えるんだろう、自分の仲間がやっているのを聞いてみると、何か違う。

多くはイメージの力ですが、声の技術の稚拙さもあります。ただ、声の稚拙さはだいたい直っていくのです。本当に耳ができてくると。多くは耳の問題なのだけれど、同じキーでやろうと思ってしまうと、人によって違います。まずやらなければいけないのは、キーとテンポを自分の呼吸できちんと捉えること、これが最初、なかなかできないですね。自分のものとして持っていないと、キーを変えるだけでも結構苦労する。その辺は慣れなのです。ここで1年か2年くらいやっていくと慣れてできるようになってきます。他のところではそういうことをやらない。

だいたい歌というのは真似ていけば勉強ができると思っている。そうでない。即興性がなければいけないから、自分の体に一番合うところに、すぐ持ってこなければいけない。しかもそれは今の自分の体ではなくて、もう少し先の、将来的な自分の感覚や体のところに持ってこなければいけない。
感覚や体は、こういうプロの人のほうが、見本にする場合は、みなさんよりはすぐれています。だから、その間のところで練習の接点をつけていくことです。これが常に上達していくということです。自分、イメージ、その間のところを練習すること。自分のところばかりでやっていても仕方がないのです。相手のところばかりやっていても、こんなことは出来っこないです。できたところでニセモノです。そこの接点をきちんと捉える。

○書いてみる

音をどう捉えるのか、その中で、レポートを書くのもいいのです。曲も、これを今やってみると。そのところでどれだけのことを、伝えるのか。「粋な別れをしようぜ」と、これだけです。けれど、その中で10個くらい書ける。トレーナーは20個くらい書けます。ここからここの声の使い方はこうだ、ここは普通はこうやるはずだけど、この人はこうやる、ここでこのことをやっているから、すごい効果が上がっている。お客さんに働きかける。普通の人なら、2個くらい書けたらいいのではないか。10個書ければいいほうです。

トレーナーは教えなければいけないから、何ができていて何ができていないのか、後はこういうふうに出すのだったら、こういうふうにした方がいいとか、こういうふうに行くんだったら、こういうやり方もあるなど、そこの客観性が必要です。

歌い手は自分があればいいのです。自分はこうやりたいというところ、ただ、それをやってみたら成り立たない。じゃあ、この曲やめましょうかでもいい。
我々はそういうわけにはいかない。いろいろなタイプの人がいる。その客観視を突きぬける主観があれば、その人は納得してしまう。むしろ、我々が描いているものと、まったく違うところで成り立たせるものを出すのがアーティストです。
こんなやり方があったのかという驚き、これなんかもそうです。

○人の力

普通に楽譜を渡されて「粋な別れをしようぜ」と歌うときには、むしろ皆が歌った程度にしか歌わない。こんなふうには歌わないだろうと。それがその人の力ということです。年齢なんか関係ない世界です。プロが一人いたとしたら、彼が考えることは、最初のフレーズに対して、入る呼吸をどうしようかということです。そのことくらいだと思います。 
たぶん歌詞なんか覚えなくても、この曲を知っている知っていないではない。少なくと5回くらい聞いたら、日本人だったら覚えられます。聞き取れても聞き取れなくても、別に違う言葉にしてもいい。間違ってもそんなことは見ていない。そんなのは自由にやってもらえばいいし、たぶんメロディを外すこともない。それはこの曲をコピーしようとしてではなくて、自分の中に入っている音楽の流れに対して、この曲を位置づける。☆

だから、私は一番上のクラスに言っていたことは、3回で全部やれよと。一回目にそれを聞く。2回目に自分の線でなぞってみたときに、この曲は、あるいはこの歌い手は、こういう歌い方をしているというところの、ギャップをつかむ。
たとえば「だからもういちーどー」と自分は下げてしまうのだけれど、この人は「どー」と上がっていると、そういうふうに違いというのを明確にする。3回目に聞いたときには、それをたどりながら、自分はそうではなくこう歌うということを固めると。

美空ひばりは3回聞いて、1曲を覚えたという。
楽譜を読めない人のほうが、耳がいい場合もあります。けれど、今考えたほうがいいことは、今できるできないでなくていいのです。
ここのレッスンはそういうことを問うている。そこに対しては、少なくとも、自分は今日のレッスンは簡単だった、できたとは思わないでしょう。1年後2年後、3年後5年後になったときに、こういうレッスンを楽しめるように、自分の材料をきちんとそろえていくということです。

○レッスンのレベル

だから、悪いけれど、私のレッスンに関して、ほとんどの人は、精一杯。たまに会報に、4年いて、1回褒められたことがあった。その方がまれでしょう。それは、私は感動したから褒めた。年に何人かはおります。そういう歌の中で。
だから、逆にいうと、不満足だったり、できなかったという思いをつのらせる。私の役割はそういうことだと思うのです。

歌ってそこがわかりにくいでしょう。自分で歌えて、まわりの人が全然だめともいわない。自分でも全然だめとは思わない。ほとんどの場合は、この一箇所も成り立っていないのです。ごまかしているだけ。

でも、歌はごまかせるから、トレーニングではそれはまずいということなのです。少なくとも、勉強しに行って、自分の力をつけるために行っているから、そこで心地よくなったり、楽しめるのは理想なのです。
けれど、一番見なければいけないのはギャップです。自分のイメージにどれだけ足りないのか、そのイメージに対して、自分の声がどれだけ足りないのか。それがあれば、次のときまでに少し近づけるし、変わります。変えていきたいのと、自分を守りたいというのは別です。

○ギャップから変える

プロは自分のかたちがありますから、皆さん以上に、壊すのが大変です。私は、その人のプライドと実績からくる自信みたいなものを壊さないように、(壊している場合もあるのですが、)向こうが信用してくれていたらいいのです。最終的に何かを変えたくてきたのだから。そうじゃなければ、自分一人でやっていればいい。わざわざ私に接してくる必要はないわけです。それは別にいじめているわけではなくて、よくなりたいのならば悪いところを見なければだめです。

歌は歌えてしまうから、ギャップをきちんと見せていくわけです。
いろいろなギャップがあります。伸ばしてみたら、高くしてみたら、あるいはパッと聞いてみたら、あるいは30回聞いてみたら、簡単に覚えられてしまうのだけど、3回聞いてみてできない。そうしたら、3回でできる人のほうがいいに決まっているでしょう。
そういうところの能力は絶対的なものではないです。10回聞いたら確実だという人のほうが、3回でいい加減にできてしまうよりもいい場合があります。ただ、普通に考えてみたら、遅い人よりは早い人、プロがいたら1回でとってしまうと思います。が、そんな難しいことではありません。

音楽をプロでやっている人から見たら、皆、すぐにできてしまう。この研究所の中にいて、イタリア語だったら慣れていて言える。
日本のプロの人が来たら、たぶん同じことができます。できないプロはいないです。そこは能力が足りないのだと素直に認めて、できるようにしていくというふうに捉えてください。本当はリズムなんかを感じてもらいたい。

○リズムと即興性

これはビギンのリズムです。よくわからないけれど、こんな感じのものがあったら、ビギンだと思ってもらえばいい。覚える必要はないのですが、リズムとしては入れてほしい。

声量をつけたいとか高いところを出したいというのはあるのですけれど、そこをパッと与えられたら、こういうイメージがなければ、こういうふうにはならない。息も声量も必要ないし、イメージがあると、それに伴って、内面的に息というのは変わってくる。そのイメージを勉強するのは、すぐれた人のを勉強するだけでいいですね。それをきちんと聞けばいい。

このくらいは覚えてほしいのです。けれど、「星降る夜の サンタルチアよ」、でたらめに言ってもいいし、そこのところで口が回らないようであったりうまく言えないようであったら、メモしたり書き換えたりするのはかまいません。

できるだけ即興性をつけてほしいと思う。歌詞くらいわかっていたほうがよければ、見てやってもいい。メロディを頭で入れるのは、難しいと思います。メモしてもかまいません。ぶっつけ本番でやって、ただ将来的には、できるだけ頭に入れて全部できるようにしたい。日本人にとっては、その能力だけでも、そういう能力がなければ、音楽は本当はできないのです。
私はよく4,5時間もよくしゃべれますねといわれます。けれど、しゃべれないほうがおかしい。今までずっとしゃべって生きている。そんな人は誰かのようにしゃべろうと思っているから、難しいだけです。

「星降る夜の サンタルチアよ 街に流れる なつかしの歌」、慣れていないと結構大変だと思います。こういう商売やっていると、すぐにできるようになると思います。けれど、歌い手なんかでもできない人が多いです。
とにかく丸暗記ということで勉強するからです。変えればいいのにと思います。物まねになっていくのを恐れるがために、それを一回自由度を与えるために、違う歌い手を与えます。

たとえば、今の弘田美枝子さんの歌というのは、あまりビギンのリズムは感じられない。これを、チンクエッティという少女天才歌手が歌ったものです。間違ったとか考えなくてもいいです。よりいいのがつくれればいい。どうなってもいいです。できるところまででいいです。

○思い込みをはずす

いつも問うているのは、そっくりにできたとか、同じようにできたということではない。別に変わったら、変わったらでいいし、働きかける表現ができているのか、歌になっているのかだけです。全部即興だと思ってください。
皆さんはまだ慣れていないから、すごく難しいことをやっていると思っているかもしれません。けれど、それが難しいとしたら、音楽の流れや曲のつくりを、いろいろな歌をやってきたかもしれないけれど、自分が好き勝手にやってきたり、丸暗記して歌ってきただけで、本当の意味での流れや、音の働きかけをしていなかったということです。

よく音程が外れたり、そんなにひどくなくとも、音痴の人にいうことは、聞かずに自分で決めつけてしまう。よく聞かないでそれをやってしまう。たとえば、「タタタタタタタ タタタタタタタ(星降る夜の サンタルチアよ)」に対して、「タタタタタタタ(街に流れる)」は半音が入っていますね。それは音大行って、楽譜が書き取れるとか、読譜をしたということではなくて、イメージでいいのです。それができなかったら、勉強をしてみるのもいいのです。100回聞いてそれにも気づかないというのであれば、思い込みのほうが多いですね。

何となく、「星降る夜の サンタルチアよ」と来たから、「街に流れる」も同じと決めつけてしまう。
ところが音楽を本当に知っている人だったら、ここで同じことを3回やるということは、退屈してしまうのではないかと、きちんと聞きますね。
それがどうして聞けないかというと、歌詞で左右されてしまうからです。だから、できるだけ言葉を消して、イタリア語にしてしまうと、わからない。音楽として聞こえてくるはずです。

ところが音楽として聞こえてきて、「タタタタタタタ タタタタタタタ(星降る夜の サンタルチアよ)」ときて、「タタタタタタタ(街に流れる)」ととっているなら、すごく雑な聞き方ですね。音楽家だとしたら、許されない聞き方です。
「タタタタタタタ タタタタタタタ」ときて、「タタタタータタータ」と、こうなっています。それは「タタタタタターター」、たった4フレーズのことです。

今言っていることは、10年後にできるか、一生できないだろうかと考えることではない。そのことの違いに気づかなかったり、そこさえ歌い分けられない人が、歌い手になることは、無理です。日本のレベルは、その辺でジャズを歌っていたり、何年も音楽をやっている人、あるいは楽器をやっている人ならできる。

○音楽的な理由

ということは、それだけ歌に対して雑なのです。だから、楽器の勉強をするというのもひとつの勉強です。音大に行って、読譜や聴音の勉強をするという人もいるけれど、そういう人は、そういうふうに捉えて、そういう歌い方をしてしまうのです。それも、私はあまり薦めない。
なぜかというと、これにはこの音楽の理由があるということです。この音楽の本質やこのフレーズが、聞いている人には心地いい。だから、皆がもし日本人で、こういうものに慣れていなかったら、変な音が出てきたとか、おかしいとか、俺はこんなふうな音を使いたくないと、どこかでぶつからなければいけない。

だから、2回目に変化が起きなければいけないのです。
1回目にきちんと聞けていない。2回目のこの音は、変わったということが鋭く起きなければいけない。今言っているのは、高いレベルのことではありません。ピアニストやギタリストだったら、1年目くらいに出てくる課題だと思います。コードが違う、何で違うコードで弾くんだと、それも聞いてみたら違うコードだと、それだけの話です。

なぜ比較させるかというと、ベーシックな部分でいうとイタリア人の原語のもので、このほうが優れている。ただ、その時代に日本語として使った場合に、ここから応用して、日本人のお客さんから見ると、日本人の歌のほうがいいという場合も、あります。
それをあなた方がやるときは、ここからやると、おかしな方向にいってしまいます。元に戻して、原曲から自分の表現を問います。それが何かわからなかったら、これとぶつけてみればわかるわけです。
この人はこういうふうにやっている、こういう動かし方もあると。日本語がついても歌になると。

○器づくり

課題を明確につかんでいきましょう。発声の出し方とか体のこととか、いろいろあります。まず、その必要性、こういうふうなイメージで歌いたいといったときに、たとえばこのようにやろうとしたら、太い声と呼吸の速さ、鋭さみたいなものが必要になってきます。
人によっては、こんな歌い方をしたくないという場合は、別にそうじゃなくてもいいのです。

ただ言えることは、トレーニングと言われたときに、確実に変わるのは体です。それを強くしていったり、呼吸機能を整え、パッと入る人と、このくらい溜めておいて、そこから入れる人とは違う。そのくらい溜めれる人と、どのくらい体が、強いほうが有利かということになってくるのです。
最初からそんな歌を度外視しているような人は、そんな必要もない。ここでも、その必要があるかないかは、自分で判断しなさいと。
ただ何事もやっておいて、余裕を持っておいて、持っている分にはいい。声量もあって使わないのはいい。体もあって使わなければいい。声域もそうです。

だから、トレーニングという意味では器を大きくしましょうということです。だから、皆さんが考えているヴォイストレーニングはよくわかりませんが、とりあえず歌って、高いところが出ないから、先生のいう技巧でマスターして、それに当てはめる。そんなことで成り立つわけがないのです。
そもそも、この歌の今歌えていると思っている部分自体が、本当の意味だときちんと歌えていないのです。
そういうのが、どういう意味だというのは、自分で理解するしかない。自分で、「いや、先生、私は歌えています」というのであれば、歌えばいいのです。こういうところに来る必要はない。

我々は、皆が何となく問題だと思っているものを、はっきりと突きつける、嫌な役ですが、でも訳わからなくて、5年も10年も経つよりいい。
仮に今言っている課題ができないとしたら、5年経ってもまだできなかったと、それにまた5年かけるかどうかというのは、その人が選べばいい。

○制限の中で

それがあいまいで、一体何ができていて、何が俺の歌に足りないのかとずっといって、何も変わらないというのは、一番かわいそうだと思います。ダメならダメで、はっきり突きつけられたほうが、やりようというのはあるのです。じゃあ、俺はそういうタイプでできないから、もっと音響を研究してやろうとか、アレンジによって、ここから先の音は使わないようにしてたら、作品の完成度は高くなる。そうやって自分を知っていくことがすごく大切なのです。
皆、同じ条件ではない。

今回のヴォイストレーニングの本にも書きましたけれど、ヴォイストレーニングをやると可能性は広がる。ただ、その人その人によって、皆、限界はあります。すべてができることはないです。その限界も、ある意味では個性です。☆
それを知って自分の作品の完成度をどうさせるのかということです。

最低限でいうと、歌は1オクターブでいいのです。呼吸も続くのは5秒から10秒でいいです。20秒なんて伸びる必要はありません。歌ってそのくらいでできるのです。完成度が高ければ。ただ、欲をいって、ここでは体づくりから全部やっているというふうに考えてみてください。ここでやるのは、1回聞いて1回やるのは、厳しいといわれてしまうのですが、昔もだいたいそうでした。昔の授業は、50分聞かせて2回まわして終わりというので、文句を言われたこともあります。やめる人もいた。

でも聞き方がわかってきたら、とてもやれないと思ってくるので、2回でも充分だと思うのです。ただ、その後、20回30回を家でやっておかなければいけないということです。今日のも覚えていなくてもいい。よく持ち帰れないといいますが、覚えたように持ち帰ればいいのです。歌詞を変えてもこんな感じだったと。帰り道にメモしたり、楽譜にかきとめたらいいと思うのです。

○歌と声の勉強

美空ひばりさんのは、CDで出ています。チンクエッティは、古い曲になるので、なかなかないのですが、皆の知っている曲も使います。佐野元春さんの「SOMEDAY」は、出ていると思います。カラオケでも入っていると思います。

歌い方の何がいいのかというと、うまい下手ではなくて、トレーナーが歌うと、もっときれいになってしまうのです。あのわがままさや溜め方、あの頑固さや強さが出て、あの曲の表現力が出てくる。 その辺は発声として考えるのではなくて、結果として考えます。
その辺が他のトレーナーと違って、わかりにくいところでしょうね。しかも好き嫌いになってはいけないという、厳しい状態を課しています。
だから、ひとつの音の捉え方、ものの見方ということで、何もなければ私の感覚をたたき台にして、自分で考えて違っていいと思います。何かあれば、自分のもので判断していってかまわないと思います。私のようにそろえようということではありません。

美空ひばりのもので、どこでも手に入ると思うのです。けれど、声の勉強をするにはいいですね。どういうことかといいますと、本当にいろいろな動かし方をします。

よく今の歌い手より、お笑いのほうがレベルが高いといっていますけれど、お笑いの中で使われている声の使い方というのは、多彩ですね。☆何がいいのかというと、言葉とくっついているから、表現力があるかというのが、はっきりしますね。同じネタをやっても、あまり売れていない人がやったら、つまらなくなってしまう。
それから間に対して、非常に過敏です。かなりうまい人でも、一瞬、5分くらいのなかで、隙を見せることもある。逆に、さっとひいてしまったり、ひくことも含めて笑いをとったりしているのはあります。

○大音量

先日「ヘドヴィグ」、三上博史さんを見てきました。あれもわざと引かせて、引いたところを逆手にとって重ねていく。ということで、美輪さんとまた違うかたちです。当たり役として、つかんだかたちです。
DVDで出ています。声の使い方に関しても、かなりレベルの高いところがありました。あそこまで洋楽のロックをこなせる人、たまに外国の俳優でロックそのものにやれる人がいて、びっくりするのですけれど、そのレベルに近いレベルに行っている。ロックやアーティストと、どこまで区別すればいいのかわからない。向こうのものですから、向こうのを演じる。ただ日本語でもうまく変えていました。芝居仕立てにして。ああいうものがすぐに完売になってしまうというのは、頼もしい。

日本の中でも、外国を除いて、日本でロックらしいロックを聞いたのは久しぶりではないかと思います。海外では聞くのですが、日本では聞く機会がない。ひさしぶりにロックンロール。
ZEPP東京、バンドのレベルも高いのは、わかるのですが、歌もいいのに、あれだけ音響を上げるんだなというのはどうも。音響は音響のプロがやっていますから、文句をいえませんが、たまたま2階席だったから、ハウったのかわかりませんけれど。終わったときに、手を叩いて、自分の手のパチパチが、皮膚音でしか聞こえない。耳が麻痺する状態になる。

私の講演会もすごい音量でかけていたのですが、2年くらい前から、耳が弱くて、耐えられない人もいそうなので、今は落としています。
鹿児島で千住明さんらのシンポジウムをやって、講演会でかけているテープの音を下げてくれと言われました。作曲家としてはたぶん耐えられなかった。その後、クラブで2次会があったときに、そこの音がすごく大きかったから、私たちは退散しました。

耳というのは、オーケストラの指揮もしますから、命だから、大事にしなければいけない。耳は一回壊してしまうと終わりですから。その音が聞こえなくなってしまう。そういうことで、それで行かなくなったわけではありませんが。そういうふうに音響をして、今の音響のプロが整えて、それが連日やっているのです。たまたまその日だけ、ひどく大きくしたということでもありませんから、あれでは大変です。振動しないとロックにはならないのだけれど、私は耳が強いほうだと思いますけれど、 皆、あれで大丈夫だったのかという気がします。

○声の動かし方

こういう練習でやってほしいのは、美空ひばりというのを、ひとつのレベルの手本にして、そこで扱われている声の動かし方をみるのです。
発声やヴォイストレーニングの悪いところは、ひとつのところに全部を追っていってしまうのです。体の原理からいって、ある音に対して一番うまく扱える声というのはあります。だから、それを元に考えていくわけですから、どうしてもそうなるのです。でも、実際の表現は、そこからはみ出したところで評価される。ただ、はみ出しても表現になるのは、そこに戻れるからです。戻れる部分で声楽や発声のことをきちんとやっていくのは必要です。 それは、また違うことを応用するために。

だから常に外国人のものを聞かせて、それは結果として案外発声の理にかなっている。そこに日本人のものを聞かせてやるというのは、その距離をとってほしいからです。表現になったときに、日本人はこういうふうに複雑にしている。もう一回戻って、ベースの方から自分の表現でつくれよということです。この表面を真似ることばかり、日本人はやっているから、亜流のようになってしまうのです。これは応用です。その人が応用して表現してしまうものだから、ベースの部分から離れている。ただ、昔は、けっこうインパクトがあった。

自分が楽譜を受け取っても、そうは歌わないというところから、音の動かし方を学んでほしい。そのイメージをつけるのが第一です。  そのイメージに対して、自分の声や体がついてこないということでは、体と感覚をつけなければいけない。その両方を変えていかなければいけないのです。

変えていく必要がない場合もあります。けれど、できるだけ体は丈夫にしていったほうがいい。それから感覚もするどくしていったほうがいい。しかもそれが音楽の流れに沿って、どう化けるかということです。化け方のパターンをたくさん入れていくのはいいですね。ただ、人のものを入れるのではなくて、人のものを参考に、自分のフレーズをつくっていかなければいけません。自分のフレーズというのを貯金していかなければいけません。

私の文章もそうですけれど、本を書いていると、同じような表現が出てきてしまうわけです。そこで人がよくわかるとしたら、その言葉の使い方は、ひとつの引き出しなのです。同じように、歌い手であれば、声の動かし方、音や言葉の使い方をストックしていく。

たとえば1つの曲をここでやったとしたら、「いのち」というのだったら、「命」というのが伝わった、その「命」というのは、他のところにも出てきた命にも使えるのです。そういうものをたくさん持っているのが、プロの歌い手です。もしそれが「泣き」になったときにうまく歌えないから、あの「命」のときの感覚のところで「泣き」を歌ってみようと。こういう絶対的な強みがあるのは、一番必要なことです。☆☆

○しぜんな歌

そういう部分でやりましょう。「SOMEDAY」の聞き方というのは、世代からいうと、都会派ミュージックもので、最初から、車のクラクションの音が入っている。そんなものが入っているという流れ、そういうテイストでした。TUBEやサザンが出ている中で、こういうベースです。
けっこうわがままに歌っているところもあります。そこは発声的にはおかしくなっているところだけれど、歌としては魅力的になっているところです。☆

それを真似してしまうと、佐野さんもどきになってしまう。本来であれば、そういうところというのは、発声で歌うのではなく、ここでわがままをやって許される領域があるんだと、その領域を自分が何に使うか、自分の表現に使うというふうに考えてもらえばよい。☆
後半の部分、バタバタしている部分があります。その辺が非常に、結構子供っぽくて面白い。技量のある人が歌ってしまうとつまらなくなる。

日本のロックでは耳ができていても、体ができていないから、結局、外国人のように息を捉えているのではなくて、息の音として、口の中でつくって入れていると、こういうふうに自由に動かせないのです。だから嘘っぽくなってしまう。別に日本の中では何とも思われないようですけれど、海外の人が聞いたら変に思われてしまう、非常に不自然な歌い方になっています。


■福島レッスンメモ

(1)「日本人の感覚」
1.日本人
声の大小と長短で捉える
2.必要なもの
記憶力と重ねる力
3.正しいことと、創ること

(2)「呼吸」
1.体の理解、本当に知らない
体と各部とダイナミックな結びつき
2.歌うとき、内より外(認知すること)
ことばのヒント、ことばを使えること

イメージと、感受性
あんばいと認知修正力 
全体のバランスとトレーニング
得られたことを伝えることの難しさ
人によって体も使う 認識も違う
流行の考え

(3)「目的別」
インターバルをとる
全てを歌うな
聴音−気づくこと



せりふ
サンプル
スピーチ
シチュエーション
英語のシチュエーション
スピーチ集
事実
QA
持ち味
ことば<声
社長の声

(4)「発声」
1.押さない
2.ひきずらない 地面をなめない 飛ぶ
3.ひっぱらない

発声に頼ろうとしない
演じることとごまかすこと
一人よがりとオリジナリティ
技術としぜん
しなやかさ 動き
強さ 起点
解放 語尾 消込み
強弱対比
コピー、分析、配分
客より先につまらなさに飽き、たいくつすること

(5)「いろんな声」
子育てと声の使い方
声を唱えてみよう、坊さんの声、般若心経
地方別の声、方言
声の映画

ふつうでないから、アーティストは成立する
おかしい、まっとうでないこところをさらけ出すこと
えっ こんなことやっていいのというのが、アーティスト
そこで目立て、そして実力でのこっていく
印象にのこらない人になぜ他の人がくるのだろう

(6)「表現」
過剰、狂に親しむ
色気

擬音語はその言語の特徴がでる
法則と方向
リズム 1,3 足で 2,4 は手で
ニートとは、主張できない子 

(7)「声」
1.発生
2.キープ
3.終止

動きを加えるだけ
休みを入れること
以前は、音楽が声をすいあげるといっていた
音声のフレージング(デザイン)
ハミング 男女の年齢
声域
あくび

(8)「音の世界」
音の世界において、感動が凄いが中心になっていないこと
感動するレッスンをめざしてきたが、当然そうでない人もいる。そういう人は、"サークル仲間"と私は思っている。それでも、どこかで通じると思っているのである。

(9)「自分の歌にするために」
Q.テンポとキィの設定
Q.声とセンス
Q.声のない場合
Q.デッサン論
Q.構成講 1−16 1−8 1−4 1−2
  つなげる 1→2→
  直線的にならない1 2
Q.フレーズ
1.上下(高低)
2.声量
3.テンポ
4.母音をかえる

1.イメージ解釈
2.発声
3.息が流れている

Q.息の出し方
  息は出す息ではない
  構成を支える、呼吸の動き

(10)「レッスン」
1.外国語 仏、伊
2.メロディ
3.リズム

1.発声
2.感覚
3.体

歌うのは動きをつくること
それは歌のよいところに感情(ニュアンス)をおくため
外国人は、話から音楽へ 歌っていない
1.半音を広くもできる
2.1オクターブ狭くもできる

私が聞いて飽きないものとは
表現とともに感じていくのをメニュとしている

(11)「声楽」
1.発声
2.ベルカント
3.ミックスヴォイス
4.ジラーレ キューゾ

「自分の歌を歌おう」から「自分を歌おう」でなく「歌を歌うな」といいたい
声楽とミュージカル 発声に音楽的感覚
 イタリア カンツォーネ ナポリターナ
 POPS オールディズ
役者の声には、音色と息と体がある

(12)「ヴォイトレ」
ひびき 歌 メロディ
ことば>発音>発声>呼吸 リズム
  へただけど伝わるのに、心 体 息を使う
発声で歌うのではない
歌唱後の印象
語尾処理
聞く力 
放りなげておとす 
握っているものを伝える
とばす 共鳴 入れこむ 放す
ドライブ
構成
発声よりも感覚

1.息  色
2.子音 母音
3.音色 共鳴
メロディ
強弱 高低
ドライブ
線  点
動き
声量 声域
構成 ハーモニー コード グループ

(13)「声の生理学」
物理
身体
音声
心理
日本人のための日本語練習帳(絵とドリル)
声のコンプレックスを解析する

(14)「イベントとライブ」
ひまだから観にいくというイベント力を利用しない
すぐれた人すぐれた才能をみぬく才能
世の中でやっている人のテンションに比べ、たいくつでないか
出たときはすごかった
やれているのを比べないこと
トレーナーに友だち感覚では困る
ルール、フレーズがみえない

(15)「フレージング」
yes,it was my way
1.流れ 可能性 長い!
2.修正のかけ方
 
1.すき ミスをなくす
2.運転には 1)目的地 2)配分時速 3)技術 4)走行テクニック

流れ→芯が弱くなる
演芸 息 連続  声 弱い
感情移入する 日本語

(16)「フレーズレッスンメニュ」
ゆうやけこやけの あかとんぼ おわれて みたのは いつの日か
1.キィーかえてよい 2.テンポかえてよい

1.ゆうやけこやけの
2.ゆうやけこやけの あか
3.ゆうやけ
4.    こやけの
5.    こやけの あか
6.        あかとんぼ
7.          とんぼ
8.        あか(こやけのあか)
9.               おわれて みたのは
10.                  れてみたのは
11.                    みたのは
12.                      のは
13.                      の(お)
14.             (おわ)れてみ
15.                   みた(の)
16.                (みた)のはいつの日か
17.                    のはいつ
18.                      いつの日か
19.                        の日か
20.        あかとんぼ おわれて

(17)「フレーズのつくり方」
前後感
フレーズのつくり方
あとにつづける
まえをうける
ひびきの統一
メリハリの
立体感
  鋭さ
  スピード感
  過速度
  ドライブ感
  音色
  音の定まり
  平凡をさける
  平均的(1音1拍)
  同音
  直線的、のっぺり、だらだらをさける

(18)「聞きとりの細かさ」
1.全体
2.先いって 細かくして戻る

発声
「か」での密度を「のひか」で保つ、さらにそれを「いつの日か」
「のひか」で最低1つ、プロでできたら5つ表現する
1ctc〔10ct半 ※4フレーズ〕

1.歌唱の1ヵ所1秒ひびきをやる
2.歌から入る「ラ」が発声よりよい
クラッシックはみやすい。線の流れと音色が一定

(19)「一流の条件」
出し方←聴き方
歌、一フレーズから
応用と基本のための基本
メニュ 方法
比較 声のチェック 戻る
材料
芸 →音楽 せいり
深めること
我流

(20)「呼吸のこと」
体を本当に知らないと、勘違いしてしまうことを図(体の地図)で示している。
これによって、よりダイナミックな結びつきのイメージのでき ことはプラスである。
一つの体を外側から分けることによって、名をつけることが一 のものを区分してしまう。 しかし、これは、歌い手や発声をする人の認識とは違う。
つまり、初心者にとって、正しく、体の部分を捉えるにはよい。大切なことは、動的に動かすこと。
事実と機能(働き)とは同じではない。

1.図は動いていない
2.体の動かしとは、声での動きは違う

(21)「トレーニング」
ピッチ
日本人 発音
外国人 息→音
  強 音色
聞き方→出し方
感覚(体)→出し方
(内部)→体
レッスンとトレーニング
気づかない 補強
入っていない
足らない
レッスン 認識/聞こえない→聞こえる
トレーニング 誰でもできる  
Better のためのトレーニング 
Bestのためのレッスン
肺活量はふえない

(22)「大きい/高い」
1.同じもの〔大/高〕
2.使い方の違い
3.気持ちを一つ

イメージ 計算 みえみえ みえないように
1.声→ 定めていく〜導かれる
ふくませる−足らない


■トレーナーとのQ&A〔rfはHPや本を参考に〕

Q.高いところをのばすときに、喉を鳴らしたくなるのですが、まっすぐ出すようにしたほうがいいのでしょうか?初めはあまりそんなことを考えずにまっすぐに歌うようにしたほうがよいでしょうか。

A.喉を鳴らす感覚ではなく、身体を鳴らすという感覚を掴めるようにしていきましょう。色々考えて練習することは大切ですが、いざレッスン等で歌う時には考え過ぎず歌う事に集中した方が良いです。(I)

Q.音程の練習は、ひたすら音に合わせようとして声を出してみて慣れるしかないのでしょうか。一番意識すべきなのはどこなのでしょうか。

A. 音が確認できるものがあれば、それに合わせて練習してみてください。ハミングで練習するのも効果的です。一番意識することは、正しい音を確認しながら、正しく歌えているかどうかということですが、そのために、なるべくまっすぐ前を見て、笑顔で、お腹から声を出すように心がけてください。(W)

Q.音楽や歌の活動を始めるにあたって、こわくなったり不安になることはありますか。それを感じたらどのように対処していますか。

A.不安はつきものです。まずは練習量でカバーしてください。今自分にできることに集中していく。今何ができるのか、今やるべきことは、やらなければいけないことはたくさんあります。
悩む前に自分にできることを一所懸命やることです。他人と比べてもしょうがないです。自分との勝負、自分との戦いです。不安が湧いてきたら、あぁまだまだ練習が足りないんだと反省してがむしゃらにやっていくことです。そうしていくうちに不安はなくなっていきます。
活動に関しても歌がうまくなったらとか、完璧になったらとか思わずに、まず行動していくことです。
デモテープを作ってみるとか、ライブハウスでライブをしてみるとか。行動していく中で鍛えられ歌もうまくなっていきます。
今勇気がなく一歩踏み出せず、何年か後その踏み出せなかったことを後悔する辛さより、 一歩踏み出して行動していく中で失敗し、もまれる辛さの方が耐えられます。好きで選んだ道ならば勇気を出して一歩踏み出してください。その一歩を踏み出せば道は広がります。
プロで活躍している人は、歌の実力だけではなく、好きなことに勇気を出して一歩踏み出した人たちなんだと思います。先のことを考えすぎず、今できることに集中してください。(H)

Q.発声練習や、歌う時に、前回のレッスンでも注意されましたが、お腹の前の部分がとても動いてしまいます。
自分で無理に動かしているつもりはないのですが、これは動かないように気をつけた方がいいのでしょうか。

A.目的によっても違います。一般的にはしぜんな状態でかまいません。〔rf〕

Q.下っ腹とお尻の穴は常にしめている方がいいのでしょうか。息を吸う時もしめるように気をつけた方がいいですか。

A.特に必要ありません。

Q.ウォーミングアップをしておかないとレッスンにならないかと思うのですが、どうでしょうか。

A.そう思うのなら、ウォーミングアップはしてきてください。本番のつもりでテンション高く、体も自由に動かせる状態で臨んでこそ、レッスンの効果、集中度も上がると思います。
本番モードでレッスンすることにより、本番で生かせる体の使い方、息の流れを感じることができます。(H)

Q.おなかに力を入れて声を出そうとすると、肩・首の根本に力が入ってしまう(肩が上がる感じ)のですが、どうしたらよいでしょう。

A.お腹に力をいれて歌うというのは違います。お腹は呼吸のコントロールをするためにも常に柔らかい状態していなくてはいけません。「丹田(たんでん)」は、おへそ下3センチ辺りにあるのですが、呼吸において重要な存在となるので、意識できるようにしましょう。
肩などに力が入ることは歌にとって1番よくないことです。お腹も含め、肩、あご、首に力が入っていると、発した声が共鳴しなくなってしまいます。力を抜いて歌うことは体得するまで時間がかかるかもしれません。これも練習でしか解決できません。
説明しますが、できればレッスンで解説を受けて取り組んで欲しいです。
あごの力を抜く→下あごを左右に動かしながら発声する。 首の力を抜く→左右に首を振りながら発声をする。ただし、 絶対に上下に首を振らないこと。息の軌道が妨げられてしまうためです。 
肩の力を抜く→これも左右に振りながら力を抜いて下さい。歩きながら発声すると良いでしょう。街を歩きながら鼻歌でもしている状態は実に自然な態勢でいます。それを理想としてください。
これらができた上で丹田の存在が活かされていきます。これらは体得するまで時間がかかります。何事にも順番というものがあります。高度な技術を求めようとするならば、より基礎基盤が大切になることを忘れないで下さい。(K)

Q.「なめらかな地声」というのが、いまひとつ、わかりません。自分の中で客観的にそのお手本となるのは、サラ・ヴォーンや美空ひばりです。自分なりのなめらかな地声というのは、いまひとつつかめません。特に「さあ歌おう」と力んでしまうと汚い歌になってしまいます。

A.フレーズを点々でとらえず、線のようにつなげて歌っていくこと。息を流し続けて歌っていくこと。それでなめらかな声になっていきます。「今がなめらかだ」とすぐに自覚するのは難しいかもしれません。
でも、体をしっかり使い、支えた上で、息を流し続けている。このイメージを常にもって歌っていってください。
徐々に感覚としてつかめてきます。また、のどの力も抜けていくと、なめらかになっていきます。(H)

Q.発声で、いいのか悪いのか判断がつきません。判断するにはどうしたらいいですか。何かいい練習方法はありますか。

A.自分の声を録音して聴いたとき、自分の耳で聞こえている声と録音した声とが違い、違和感を覚えると思います。歌の場合も同じで、周りに聞こえている声と、自分に聞こえている声とは違うのです。
ですから、歌っているときも、自分の声を聞いて、合っているかどうか判断してはいけません。
まずは、「よい」と言われたときのフォームを体で覚えていくのです。ですから、レッスンが必要となるのです。レッスンはその場でできるようにする(上達する)場ではなく、普段、自分でトレーニングしてきたものを確認・修正する場なのです。
「声帯を使う」「喉を開ける」などということは、理解しても、体得するのには、トレーニングが必要です。
まずレッスンのときにしっかりと体で覚えようとしてください。そして録音をして、「よい」といわれたときの声と、練習時に録音した声を聞き比べ、できるだけ「よい」といわれたときの声に近づけてください。

声は楽器です。頭で理解しても無意味で、体得して自在に使いこなせるようにしていくのが目標です。発声に関しては、特定の表現がないので、各人の感覚の違いから、それぞれの表現があり、ことばで説明するのは難しく、時には誤解を生むことも多々あります。私もできるだけ様々な表現を引用して、納得してもらえるようにしていこうと思いますが、自分なりの感覚を持つことが上達にもつながると思います。鋭い感覚をも身につけるようにしていってください。(K)

Q.家に防音室があり、そこで発声練習をしているのです。歌うとけっこうキンキンとした声に聴こえます。これは力み過ぎでしょうか。それとも 部屋が狭い為でしょうか。発声練習するのは、広い部屋の方がいいのでしょうか。 

A.どちらとも言えませんが、自分の声をしっかり聞くことです。息の流れを感じることです。
部屋の広さに関係なく、のどで頑張りすぎているときは耳にキンキンします。キンキンしたときに自分の声を聞き、頑張りすぎていないか自問してみてください。だんだんわかるようになってきます。
部屋の広さは、今あまり気にしないことです。練習できる時間、場所を大切にしてどんどん練習していってください。(H)

Q.声がかすれたとき、原因にはどのようなことが考えられるか。 

A.いろいろとあります。息の保持が悪いときは、息だけで歌う練習、ハミング、トレーニングとして、吹く練習をしてください。(W)

Q.リズム感を鍛えたいのですが、いいメニューありますか?

A.たくさんの音楽を聞くことです。リズムだけを取り出して集中して聞いていくこと。ダンスや打楽器をやってみるのもいいでしょう。常にリズムを意識していろいろなトレー二ングをやってください。歌の中でのリズムなのだから、息の流れの中でリズムをつかんでいって下さい。(H)

Q.練習中で集中して表現しているように言われたのですが、具体的にどうしていけばいいのですか。

A.自分の声、自分のやっていること、すべてに集中していくことです。本番ではこの集中力が一番大切になってきます。常に集中して本番モードでレッスンしていってください。(H)

Q.バントとしての練習方法がわからないのですが、どうすればいいのですか。

A.大まかすぎて答えにくいのですが、何を目的にするかのよって違ってきます。アンサンブルなのか、個人の演奏力アップなのか。パフォーミングなのか?バンドのメンバーがいるのなら話し合って決めてください。(H)

Q.喉をあげないで最低音の位置のままでやれるようにと言われたのですが、なかなかイメージがわきません。どういうふうに意識してやればいいのですか。

A.喉を下げるのではなく、喉仏を下げるのです。実際に下げてみて下さい。音を上げていくとき、音につられて喉仏も上がらないようにしてください。
練習の時はまず、最下音声(低い音を出していき、声になるか息になるかのところ)を出している時の喉仏の位置を確認し、そこから一音ずつ上げていき、喉仏が上がらないよう深い息で発声していってください。初めのうちは、どこの音で上がってしまうか確認してください。 (K)

Q.自分の喉仏があがるところをみつけたら、そこの一個前の音を中心に練習するのでいいのでしょうか。

A.初めは喉仏が上がるところを確認できたら、その一音前までのところを徹底的にマスターしましょう。それからできるようになってきたら一音ずつ徐々に音域を上げていきましょう。(K)

Q.強い息を吐けるようになる練習、前方の方に息を飛ばすに歌うことを勧められたのですが、歌っている時は実際に息が強く流れているのですか?歌っている時に口に手を当てても息はそんなに出てないのですが。もしかして息と声が結びついていないから 息が出てないんでしょうか。

A.強く息を吐ける体をつくっていきたいです。強く吐ければ弱くも吐けるから、幅広い表現ができるようになります。効率よく声になっているときは、口に手を当てても息は感じないと思います。
歌っているときは、息が流れているというイメージの方を大切にしてください。そして、息だけの練習の時に、実際、息を感じてください。息と体は、体が使えるようになってくると、結びついてきます。それまでは、意識して、息を吐くイメージで歌っていってください。自然と体が動いてきます。(H)

Q.集中して日々のトレーニングに励んでるのですが、慣れないせいかすぐ疲れて途中で何回も休みをいれるようにになります。

A.何回も休憩を入れてやっていきましょう。ただ、たくさんの時間やればいいというわけではなく、いかに集中してやれるかが大事です。(H)

Q.最初は体を使う感じをだすためにわざと力をいれてたりしてるのですが平気でしょうか。最後にシャウトするっておもいっきり叫ぶんですか。それともおもいっきり共鳴させるのでしょうか。

A.多少のボリュームは必要です。その際に体を使うことは大切です。慣れてくれば力も抜けてきます。
叫ぶとか共鳴させるとか意識する前に息の流れを感じてください。強く息を吐くことも、結果的に、叫ぶとか共鳴させることに繋がってきます。息の流れを感じていれば大丈夫です。(H)

Q.自分の弱点を他人と比べることは無意味でしょうか。他の人より劣っているのではないかと不安になります。

A.弱点は人それぞれで、また皆、それぞれのよさを持ってます。あなたにも、他の人が持っていないよさがあると思います。他の人の事が気になる気持ちも分かりますが、昨日よりも明日うまくなろうということに集中するようにしてみたらどうでしょうか。(W)

Q.「流れるように歌って」「もっとリズムを意識して」といわれます。どのようにしたらよいのでしょうか。

A.前にだしていくことです。
1.ひびきの焦点、2.のどにひっかけない、3.内にこもらせないなどに気をつけてください。

Q.首の柔軟をすると、いつも次の日に筋肉痛のようになり、首が張ってしまいます。あまり力を入れてマッサージしない方がよいのでしょうか。

A.どのようにマッサージをしているかわかりませんが、やりすぎでしょう。息を吐きながらゆっくりゆっくりやってください。首はとても繊細なところです。ストレッチするつもりでやってみてください。(H)

Q.低い音を出すときに喉に力が入ってしまうのですが、多少は力が入っても声をだすべきでしょうか。それとも、全く喉に負担をかけない状態で声をだすようにした方がよいでしょうか。

A.多少はのどに力が入ってしまうのは、やむおえないときもあります。まだまだ体を使えていないわけです。
息の流れを意識して、深く強く息の吸吐を行なってください。体が使えてくれば、のどは気にならなくなってきます。 (H)

Q.スタジオではいままで教わったことを意識しながらやっているのですが、バンドと一緒に歌う時の何か注意すべき点、または別のトレーニング方法はありますか。

A.基準はアカペラで歌っているときの声、息、体の使い方です。まわりの音量が大きいからといって必要以上に頑張らないことです。いつも基準に立ち返ることです。自分の声をしっかり聞くこと、体の感覚として聞くことです。そのためにはトレーニングの段階から体から声を出し、体の感覚として声を扱っていってください。曲の内容理解や気持ち作り、原曲を聞き込むこと、息吐き、呼吸法などトレーニングメニューに加えていってください。(H)

Q.音感が良くなるいいトレーニング方法はありますか。

A.「音を聞き分ける耳」を持つことが大事なので、聴音のような訓練は役立つと思います。(B)

Q.録音して聞いてもどうしても、判断がつかない時があります。おそらく慣れるとできてくると思うのですが、早く慣れる方法は何かありますか。

A.とりあえず、目の前にある課題をしっかりやることです。手当たり次第にやっても上達はしません。一つの課題にじっくり取り組むようにしていってください。(B)

Q.横隔膜の支えの力がついてきた場合、声を出して、どのような違いを、自ら感覚的に感じることができるものでしょうか。

A.横隔膜の動きの一貫として、ろうそくの火を消すようなイメージに集中して、練習してみてください。(W)

Q.原曲をきいてみるとキーが違うようにきこえるのですが、楽譜のほうで合わせるのでしょうか。また、ことばのリズムも微妙に異なるのですが、耳コピーで合わせるほうがよいのですか。

A.楽譜に合わせていくと、キーが少し高いため裏声を使わなくてはならないこともあります。今の段階では、地声を中心に安定させていきたいので、キーは下げてください。
原曲の歌い方を参考にしつつも、自分のフレーズを研究していくこと。原曲は原曲でしっかり聞き込んで、その中から自分の表現を出していくこと。

まずは、地声の音域の中でしっかり気持ちを作り、体から表現していくことが第一です。細かいことにこだわりすぎず、息に気持ち、ことばを乗せていく、息を吐き続けるなど、息の流れのことに集中していってください。 
(H)

Q.「声帯で歌う」ということが、どういうことか実感としてまだわかりません。

A.声を発した時点ですでに声帯は振動し、声帯は使っています。「声帯で歌う」というのを別な言い方ですると「深い声を出す」ということです。より声帯を振動させ、胸に響きかせるのです。具体的な声や練習方法は文章では誤解を生むので、レッスンで。この声帯で歌うということは、基礎となるため、一朝一夕でできるようになるわけではありませんが必ず体得して欲しい事です。(K)

Q.強く吐く練習は、息を一気に吐き切るのか。それとも、横隔膜の支えを意識して行なうべきか。

A.横隔膜のことは気にせず、一気に吹いてみてください。その後、支えも考えるようにしてください。(W)

Q.発声する練習の後、痛くはないのですが、声帯あたりに疲労感を感じることはありますか。発声の仕方が間違っているのでしょうか。

A.かなりの疲労感があるならば力が入り過ぎています。ダイレクトに声帯を使う練習をしているときは、疲労を覚えるかもしれません。
乾燥している状態で口から息を吸うと声帯の湿り気が失われ、より負担をかけてしまいます。
息を吸う時は鼻から、発声時に喉を開くためには、舌を平にし、こめかみを開け、喉仏を下げながら、声帯を鳴らして下さい。
この練習は量より質です。長くても30分以上やらないで下さい。フォームができていれば5〜10分程度で充分です。

レッスン時は良い・悪いの違いを明確にするために時間を取っています。自宅で長い時間練習をして、喉が痛いと思ったら止めて下さい。
この練習は痛くなることは絶対にないのですから、間違っていると思って下さい。
喉を開くことに意識が行き過ぎて力が入っては本末転倒です。力を抜くことを忘れないでください。そうすれば疲労感も少なくなると思います。(K)

Q.集中力のことで、練習量にとても迷います。レッスンの時に、自分で立てた練習メニューに対して指摘して頂くことは可能でしょうか。

A.指摘は出来ます。ただ、自分で立てた練習メニュはその時々の体調や時間などにより変わります。
応用もしてあげなければなりません。また何に対しての練習なのか、目的をしっかり持って行っていってください。
練習量は自分が集中できる時間、30分なら30分で、本番の時のように歌う練習をしてください。集中して練習することが大切です。
またいつも言っているように歌うことだけが練習ではありません。(H)

Q.レッスンでの録音は可能でしょうか?

A.可能です。
何度も聞き返して自分の声を聞いてください。
またレッスンだけではなく、自分で練習する時も同様です。
まずは現時点での自分の声を把握するところから始まります。
何度も聞き、自分が意図している表現ができているのか?を自分の耳で聞いていくことです。
最終的には自分が自分のトレーナーにならなければなりません。(H)

Q.おすすめのCDや本は何かありますか。

A.自分の興味をひくものに限定せず、歌っていくために聞いてり読んだりしなくてはならないものが、たくさんあると思います。
そういったものを自分で調べて聞いたり、読んだりしていくとよいのではないでしょうか。〔rf〕(B)

Q.歌っているときと発声しているときは、体のどこに意識をもつのか。

A.トレーニングと歌は切り替えてください。トレーニングは部分的、意識的なチェック鍛錬です。将来の完成を目的とします。歌は、全体的、無意識的な応用です。今の最良を目的とします。

歌っているときと、発声しているときは、私は区別させています。
トレーニングは、その目的において、細分化されますから、さまざまな手法、優先順位がとられます。
それは、今回の歌に役立つのでなく、将来の声に役立つようにして使うことです。(F)

Q.胸のまん中とは、どこか。共鳴は体の前面か、まん中か、どちらが正しいのか。

A.あなたの感覚するようにでかまいません。これを明確に区別することもできません。自分で決めていかまいません。体は一体ですから、箇所は、その人の感覚したものにすぎません。(F)

Q.ほお骨あたりを意識して声を出すと、しぜんと軟膏蓋の上から眉間にかけての線上の一点に意識がいくのですか。

A.個人差がトレーナー、生徒ともにあり、一般的には自分(初期はトレーナー)がよいと感じる方が優先されます。(F)

Q.息をお腹で支えられるようになるために、8秒〜12秒息を吸って、同じ秒数止めて、同じ秒数吐くトレーニングをしているのですが、きちんとお腹が使えているのでしょうか。

A.「PO」での発声練習で、「お腹を使う」(腹式)を感じていただけたかと思います。パ行という破裂音を使った練習は、腹式とわかりやすく実感できると思います。(I)

Q.強く息を吐くとき、横隔膜を下にひっぱる(横腹をつきだす)ようにうすると、胸がしぼるようにへこみます。これはよいのでしょうか。

A.横隔膜を下に張る(支える)時には、同時に胸の部分も開放してあげるようにしてください。しぼるようにグーっと苦しくなるのはよくないと思います。(I)

Q.地声から裏声にかわるとき、どうしても不自然になり、音量がかたっと落ちてしまうのはどうしたらよいでしょうか。

A.急がず、少しずつならしていってください。

Q.高い声がきつくなく出せるようにすなるには。

A.急がず、少しずつ習得してください。

Q.ことばの意味をたたみかけるように歌うには。

A.自分で何度もやって感覚をつかんでいってください。

Q.発声しているときに自分では喉に力を入れていないつもりでも、後から咳こんだり、喉が痛く感じるときは、力が入っているということなのでしょうか。力を入れないようにするためには、何に気をつければいいでしょうか。

A.そのつど、心身をほぐしていってください。

Q.息吐きのしすぎは、喉によくないですか。

A.無理に力をいれなければ、関係ありません。

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■レッスン感想録

○色々と迷うことが多くて
本を読み返していた。
自分の中で消化しきれなかったことは
いつの間にか忘れてしまうものだとわかった。
具体的には、いい音楽をたくさん聴くということ。
→聴いていても何も発見できず
すぐ投げ出しそうになる。
どう考えても聴く回数が足りない。
何でもすぐできると思うことが間違いなのだ。(TU)

○焦って余裕がない現状は、すごく苦しい。
でも、これまでの経験に照らし合わせてみると
このいっぱいいっぱいの状態の時に 
成長しているのだとわかる。(TU)

○1週間ぶりに歌った曲は、
1週間前よりもキレがなくなり、
より下手になっていた。
その場でしのぎでできるのと
身につくことには大きな差があるのだと思った。(TU)

○今までできるだけ楽譜通りに、と思っていたのは前半で、後半は考えなしにコピーをしていました。楽譜通りに歌うと同時に、おぼろげに考えていたことをきちんと文章にしてみようと思いました。ひとりごとです。

一回の人生の中で、どんなことを体験してきたか、ということは、その生の終わりが近づいたときにはっきりするのかもしれない。この生が何だったのか、ということ。
ガスはきっとそろそろ終わりに向かっているのだろう。私にはまだその感覚はよくわからないけれど、とても大変なことなのだと思う。でも人生のそれぞれのステージで、その時その時はみんな大変で必死だ。
私がまだ生まれていない頃、人気の二枚目役者だったらしい。写真を見せてもらったことがある。なんだか別人のようで笑える。最近は気が弱くなって、ますます体が動かなくなってきたようで、見ていて痛々しい。しょうがないけれど。ところで、ガスが本当はアスパラガスという変な名前だと知ったのは、私が大人になってからだ。ガスはガスだと思っていた。おじいちゃん、でも、ガスじいさん、でもなく、ガス。みんなそう呼ぶから。

 ガスはこのところよく街の劇場に出かけているようだ。今まではそんなことなかったのに。そういえば、一緒に住んでいる祖父なのに、私は彼のことをよく知らなかった。本当は何を感じ、考えて生きているのか。このあいだ父に頼まれて、劇場までガスを迎えにいった。帰りが遅くて心配だから、と。ガスは劇場の外で、壁に貼ってある公演ポスターをボーっと眺めていた。幸せそうでもあり、悲しそう、懐かしそう、何かを思い出すようでもあった。よくこうしてただボーっとしに来るらしい。しばらく私に気づかないようだったけれど、「ガス」と声をかけると思い出したように振り向き、「ああジェリー、迎えに来てくれたのか」とびっくりしてほほえんだ。 私にとってガスは、いつもこのほほえみ顔だ。孫に対するおじいちゃんそのもの。そしてポスターに目を戻し、「昔はよかった・・・」とつぶやいた。私は少しかわいそうな気持ちになった。けれど本人(猫)は、今が悪いとかそんなつもりではなく、ただ懐かしさがこみ上げていたのだと思う。

 その週末、初めてガスの昔の仲間たちの飲み会に誘われて行った。劇場の裏にある、古い飲み屋さんだ。みんなおじいさんおばあさんばかり。私は場違いで、めずらしがられた。覚えていないけれど、私が小さいときにもみんな会っているという。その日は、それまで知らなかったガスの素顔を見た気がする。昔の、役者だった頃をとても誇りに思っていること、今の役者は不勉強だと厳しい顔をすること。孫の私に、「俺は当時のいろんな大スターたちとも共演して、そりゃあ人気役者だったんだ」と話し、みんなも笑ってうなずいていた。そして、おごるからと仲間にどんどんお酒を注がれ、私は大丈夫かしらと心配しながらも、こんな楽しそうなガスを見てうれしかった。酔ってどんどん調子に乗り、実演もし始めそうな勢いで「待ってましたガスっ大統領っ」と自分で客役もやり始めた。まわりのみんなも調子を合わせて楽しそう。「歴史に残る名演技だっ」「炎の野獣っ」と合いの手を入れていた。

 こんな誇り高く、芝居が大好きな、元二枚目は役者ガスを、話し伝えていくのは私の役目だなあと思った。ここにいる老人(猫)たちは、数年後にはいなくなってしまうのだもの。私に子供が生まれたら、おまえのひいおじいちゃんはね、と話してきかせてあげよう。(KU)

○「音楽への声へのスタンス 」  
今の状態で、基本が無しにして、レポートや日記を書いたり考え込んでいるだけでは、音楽、歌声に直結していかない。今まで何度も芸術をやっていこうと考える中で空まわりをしてきた部分だ。声に芯、クリアさがなく、リアルさがない。声をつかってきていない。  スタンスがなければレッスンは成り立たない。根本的な部分。大きな人生のアドバイスを受けた気がする。つねに本心との葛藤。今、ただメロディーの力、曲の力であり、歌声はない。つねに録音などをしどういう状態なのかを確かめ、考え書き、校正し、続けていく。 ずっと心の中、うやむやなままになっている部分を突きだされているようだ。  

歌声に対する聴き方。その言葉を読み 上げるのも、もっと自由に楽に、心のビジョンと合わせていく始めは、歌詞自体 もどういう意味なのか把握せず、覚えてきていた。頭がわるい。途中から詩の内容が わかりだし、だんだんとビジョン化してきた。窓のむこう、酒場で陽気なひとりのす てきな女性が浮かび始めていた。どういう方向になろうとも、うすっぺらいものだけにはなりたくない、出したくない。そのどういう方向をもっと姿勢をはっきりとしていくこと。言葉だけでおわらないこと。真実を、奥底から吐け るようになるためにも、声に芯、クリアさが不可欠だ。課題となっている曲、自分の 書いた詩、歌。自分で聞き分けられるようになる鋭さ、耳をもつこと。言葉だけで終わらないこと。

○「あしたのジョー」の主題歌。「なんとなく聞いたことあるな〜」というぐらいのものだった。よくモノマネなんかでは、大げさに息もれさせまくって歌われていたような…。今日、感じるのはそういう表面の特徴ではなく、音楽、1曲の構成として成り立たせているところ、自分がやってみると、たしかに語尾や、入り方を間違えると、ごっちゃごちゃのとんでもない、収拾のつかないものになってしまう。そして、自分の描いた力強さ、メッセージ性をフレーズをこわさず、構成をこわさず、イメージどおりにやろうとすろと、やはり、体も息も必要である実感ができた。フレーズの前後の関係性、前のフレーズを受けて告ぎのフレーズがあり、最終的にはきっちり納めるという。いつもは、「???」という要素が、今日の曲は見えやすかった気もする。

 最後の1回しでは、「顔めがけ」から次の「たたけ」にかけて、全く計算していなかったのだが、「顔めがけ」で切り、次の「たたけ」を予感させて期待どおり入るというのが、自分の中では定石だったが、「顔めがけ〜たたけ」をいうように、呼吸が勝手にまわり、「顔めがけ〜たたけ…。たたけ!!(ここまで一息)」 「たたけ!!(シャウト)」というような感じになった。感覚としては、こわしすぎたような感覚と、「いつも待っているのはこの瞬間だ!!勝手にフレーズが動きだす瞬間!!」という表現した感覚の両方だ。これを客観視できる力が無い!!(悔)」。でも、何も起きず、まとまりきるよりは、よい感覚だと思う。自分もろ出しの暴走パターン、聴き手を意識した音楽成り立たせようバージョン、まるっきり音源の歌い手の呼吸でやってみようモード、誰々ならこうやるのではないかという仮想、等々いろいろやってみよう。(N)

○ボン→の後の小さいところが、ごまかせなくなるのが問題。
小さいところこそ、状態をよくしないといけません。
弱めても、しっかりデッサンが出るためには、どうしたらよいのか…。
簡単な曲ならば、問題なく歌えるように丁寧にする。
雑になってはいけない。
スタイル−パターン分けの研究していく
J-POPSみたいなのが、どうして歌いづらいのか…自分でもよくわからない。
小さく歌っても、テンションが下がってみえないような動きにキチッと作っていく。
「やわらかさ」注意←特に語尾
ムダにかかりすぎの力はダイエットすべし
ポイントはしぼる←長期的にみて声のためにも!(N)


○まずは腹式呼吸の確認をしていただきました。息が体内に入った時に、お腹のなな め後ろの部分までちゃんと膨らむかを確認していただきました。正直腰や足が痛くなる時があります。そのためか、無意識に深い呼吸がおろそかになる時があったようです。下半身の筋力も大事と言われて、今まで全く下半身のトレーニングをしていなかった自分に、おろそかにしていた自分に呆然としました。歌のためにも適度に下半身の筋力トレーニングを行いたいと思いました。

次にカンツォーネのレッスンに入りました。最初、「ラ」ではなく、「マ」 で歌いましたが、マだと毎回唇を閉じなければならないので、かなり歌いづらかった印象があります。そのあと、イタリア語の歌詞で歌いましたが、以前に比べると、自分でも喉周辺の力が入っていないのが分かりました。そしてその状態(リラックス)して力が入っていない)で、キーを上げていきました。
キーを上げても、しっかり息を吸う、下 から声を出すように、喉の周辺はリラックスした状態で、声を出してみる。そうすると、高くても、深い声になります。

まずは、キーの低い余裕のある状態で歌ってみる。余裕がある分、呼吸にまで意識がしっかり働く。呼吸が深い(体の低い)位置で取れれば、深い声になる。今度はその身体の使い方のまま、キーを上げていき、高くても深い、良い声を出せるようになる。この行程をしっかりと指導していただけて本当に良かったと思います。

最後に歌いました。まずはキーを下げて歌いました。身体の使い方はカンツォーネといっしょですが、声を口から出すのではなく、お腹で生み出した声を、下から額(頭)の辺りへ、そして上(頭上)へ出してみてを言われてやってみたところ、今までにない、声が気持ちよく突き抜けた感覚がありました。身体が使われているとの事でしたので、さらに煮詰めていきたいと思います。

私はとにかく高い声を極めたいと思い、トレーニングをしておりますが、日によっては、体調が悪かったり、喉が疲れていたりして、声が出ない、伸びない時があります。でも、それでも高い声を出したくて、無理矢理喉を締め付けて出そうとします。そうすると、呼吸はおろそかになり、喉周辺も力が入り、ますます声が出なくなる
。出たとしても決して良い声ではありません。毎日のトレーニングは大切ですが、体や喉を休ませるのも非常に大事なんだと最近実感しています。(SU)

○「せりふのテンションを歌に活かす」
今日はせりふを繰り返しやった。はじめのうちはテンションが低くて、声が外に出ていかない感じだったけど、だんだんたくさん息を吐けるようになってきた。
子音を意識して使うと、たくさん息を吐かなくちゃいけなくなるので、自然と体が使えてくる。その上で、子音だけを飛び出してしまわいように、1フレーズを1まとまりとして言おうとするとかなり疲れる。
でもこの感じがいいということで、このテンションを歌に持っていくトレーニングをする。
でもせりふでも、速くやっている分にはつながりやすいけど、ゆっくりにするとテンションが下がってしまう。ゆっくりにしても息は鋭く、テンションも速いときのままで言うトレーニングをやって、それから歌にいく。
慣れてしまっている形だからと、歌で楽をしないで、今日くらいの必死さで体を使うようにする。(KA)

○「発声と気持ちの両立」
今日はカンツォーネをやった。
日本語でやったが、ことばが不明瞭だといわれた。これは自分が歌詞の気持ちしっかり考えずとりあえず歌ってしまったということと、発声的にも息が鋭く吐けていないという両方が原因のようだ。
深いところから息を吐こう、声を出そうというのは結構意識しているつもりだが、そうするとやはり感情の方をしっかり準備するという事がおろそかになってしまう。
それがおろそかになると結果的に深いところから声は出ないという風に、発声の技術だけを考えて声を出すのには限界があるのだと感じた。

まずは歌詞の気持ちをしっかり作り、それが伝わるという事を最優先にしてやってみる。
その上で、気持ちを込めようとしすぎると息が浅くなってしまうから、深いところから出すという技術的なことも意識する。
ことばの練習をするときも、気持ちがちゃんと伴っている状態で練習しないと意味がないということだ。
とにかくことばで発声と気持ちをきちんと両立させ、そのはっきりした喋り方を歌へ持っていく。
難しいけど、トレーニングでも自分の歌でも、気持ちが深く伴っているか、息が深いところからはけているかの二点を徹底してチェックする。(KA)

○ストレッチとか体を動かすのを疎かにしていた。腰まわりの動きが悪くなってきたが、息吐き弱くなっているかも。前はもっと力強く吐いていたような気がする風邪?喉が痛いわけではないが、何となく炎症してる気がする

遅れがち、ついていけてない。横に広がってる気がする。
息下から。なめらかに。
低い。特に最後の音が。響きも音程もさがる

メロディーラインはとれている。息の流れがほしい。今は点で感じる。外れてもいいから流し続ける曖昧な感じがする
息を流そうとしたら「ボワッ」と広がってしまった。もっと声にするつもりでやった方がいいのかも。

ペルケのケ、ぬける。語尾をもっとはっきりさせたい
もっと息の流れに強弱を!その感じをとる

前半で息を使いすぎている気がする。だからなのかフレーズの後半もたない。ぬける。
日本語の言葉の意味つなげて。前に前に流して。
頭の方だけ強い。原曲は頭にアクセントあるが、語尾に向け強くなっている。

日本語の方が息流れている。多少外れる所もあるが、言葉の意味とれている。
イタリア語だと、メロディーを追って点になりがち。日本語の流れをイタリア語に真似出来たら (HA)


○発声練習で、息を吸うときにあと30パーセントたくさんぎゅっと吸って、と言われました。確かに、しっかりお腹を膨らませると、どっしりと地に足がついているように感じます。「オ」や「ア」だと出せるミの音が、「ミ」「イ」だと喉が絞まってしまうので要研究です。スタッカートも、速く軽くならずに、一つ一つつかむように練習したら、レッスンのときとだいぶ違いました。(KU)

○「フラットしない、特別扱いしない」
声帯で声を出すという感覚が多少身についてきたようだが、
まだ高音に行くほど力で押してしまう癖が出てきたりする。
高音だからといって構えないで、あくまで一つのつながりなのだから、そこだけ力を入れたり余計な事はしないようにする。
つまり、出だしの音から、そこまで広げられるイメージを持って出さないと駄目という事になる。
上へ行くほど下への広がり、丹田を思い切り使うというのが徹底できていないのでトレーニングする。
それと同じことで、音程差を感じさせない歌い方を心がける。

高音はポジションが上に上がってしまいやすいから、そこをしっかり丹田で支える。
コンコーネをやったが、やはり全体的にフラットしてしまう癖がある。
鼻にかかってしまうからフラットするのだといわれて、その意味がよく分からなかったのだが、要は中途半端に上に逃がさずにしっかり声帯で音を捕まえるということだろうか。
そのために、少し喉仏を下げるイメージで、加えて深く出そうとして首回りが力が入っている感じだったので、わざと少し雑に、明るい感じで出してみるとすっと出て、ポジションも安定していた。
この感じをしっかり掴むようトレーニングする。

今は上に逃がすことを考えず、声帯だけで、少し高め位の気持ちでしっかり音をとることと、
特にクレッシェンドなどでは、自分が思っている以上にしっかり丹田を使うよう心がける。
全体を通して、力は抜くのだけど、楽できるところはあんまりない。(KA)

○不覚にも自分の調子が悪くて全く思うように行きませんでした…。悔しくてしょうがないです。
日曜にスタジオに入り、バンドで練習したのは良いんですが、やった曲のキーが高かったのと、マイクの音量調整をしくじった為にかなり無理をしてしまいました。そのせいで練習後からまともに声が出ず、結果それをレッスンまで引き摺ってしまいました。本当に久々にスタジオに入って声を出したのはあるので、まずは日常的に声を出す事に慣れさせたいです。(SA)

○水曜辺りから声の調子がおかしい。うわつき、高目になっている。支えがないし、息が出てない気がする(ガサガサした感じがない)。
そこで今日は、低い声を意識。オクターブ下で歌ってみるが、うまくいかない。やはりうわつく。(HA)

○課題としてブレスのとり方はまだまだ研究が足りないと思いました。ブレスをとった後の、次の音の出し方がポイントだと思います。今回は、高い「シードーレー」と上がるところが上がりきらず、二階席へ届けるイメージを教えていただきました。確かに、自分の体の中を見ることに集中していると、上の方、外の方にアピールする意識がなくなり、低めになってしまうのだと思います。自分の外と内を100パーセント感じられるように、というのは歌も踊りも同じなのかもしれません。というか、根本はすべて同じだと思います。(KU)

○喉の奥の上の部分を開いたままにしておくと、ファルセットと地声の切り替えがやり易い。
また、おなかの内側も下に引っ張るイメージにすると、声に芯が通る感じ。(O)

○立っていると息が溜まりづらい
楽に発声、良い響きをモットーに。(NA)

○歌い方が浅いので、「O」はストローをイメージして出す。
低めの音になると、胸郭がしぼんで、裏声をキープできないので、胸郭を広げた状態を保つ。
中低音は全体的に「忘れないでいてね」で練習したように、横に広げずに、円の中に収まるように歌う。
上半身だけで声が出ているので、下半身を意識。
音を一つ一つ切って歌っているので、流れるように歌う。
低音になる時は、口の近くで声をつくる感じにする。
高音になるときは、前もって用意しておく。(HI)

○歌う前の準備
いきなり声を出すのではなく、まずは上半身のストレッチを行い、顔、舌も動かしほぐす。
歌う基本姿勢について
余計な力が入らず、骨の上にまっすぐ乗って、あたまから引っ張られる感じ。
踊りの基礎、踊る姿勢とも共通な部分がある。
みぞおちから上の脱力の練習
これはとても大切だがうまく出来ない。要練習。
イタリア語の教材に取り組んでみてはどうかとの提案。
イタリア語は英語、日本程かけ離れていないので良いかもしれない。それに何より面白そう。(FU)

○舌を出すと私の場合、首の両脇の筋が引っ張られ、力が入ってしまいます。また、舌で喉の空間が狭くなってしまうようです。
自宅で色々試してみましたが、舌を出すと舌の周囲に力が入り、首の筋に繋がって力が入ってしまうようです。今の意識のままで舌を出すのではなく、舌の周囲を上げ、中側を下に下げる意識を持ったら(U型の様に)少しは、やりやすくなったような気がします。(O)

○「自分の声に責任を持つ」
発声練習でも、声を出した瞬間に誰かの耳に届いているわけだから、それを意識して自分の声に責任を持つ。なんとなく声を出すことが多いので、いつも声が何かしらの想いを伝えていることを意識する。
声帯での発声も少しは慣れてきたけれど、まだ難しい。意識すれば出来るようになってきたけど、ピアニシモの延長上で声帯から広がっていくように丁寧に大きくしていく。力が入りやすいので、大きくしようとは思わないようにする。
自分の中のピアノとかフォルテがどのくらいかと計算して、その中で緻密に丁寧に出していく。ヴォリュームさえ上げれば、良いわけでは決してないことを確認した。(KA)

○「何かを感じながらやる」
シンプルで短く歌詞もないフレーズだけど、だからこを何かをしないと伝わらないし、上手くいかない。テンションが低かったので、音程も低かった。どうしても音符の中の一番低い音をとっていくようになってしまう。
あとは特に伸ばすときなどに全くリズムを感じていない。ただ、出しているだけだからリズム感が全くない。そして高音を低音の音色も違ってしまっていた。高音はまだ出しやすいので、低音でも同じぐらいの音色でやるようにしてみる。Yでやったような声帯で音程をとるということが、何だか今日は上手く出来なくて、ずっと上に逃していた感じだった。それも不安定な原因だと思うので、そこをしっかりやって、でも明るく出すというトレーニングをする。(KA)

○喉が回復し切れていなかったので、正直不安だったんですが、思ったよりは声が出ていました。ただ、それでもソを出す時は違和感がありました。薄壁一枚引っかかる感じです。全体的に、自分がイメージしている音よりも低めになっている印象でした。調子の悪い時は特に思い切って音を取りに行かないとダメなようです。
今日はさほど悪い感じはしませんでしたが、それでもやはり、自分で調子が良い時と比べると、思った通りの音は出ていませんでした。正直、集中が甘かったのも事実なのですが…。自分の身体の管理も重要な仕事だと痛感しました。早く完全に回復させたいところです。とかく低め低めになってしまいましたが、どうも気持ちで負けていた気がします。もっと自信を持って、胸を張って歌えるようになりたいです。(SA)

○「Me&U」Cassie 
今アメリカでヒット中。アレンジが不思議。
R&Bでベースパートをなくした、テディライリー後、ヒップホップやR&Bでは音が薄くなり、ボーカルも薄い、厚くない(熱くるしくない?)ものが増えていますが、この曲は環境音楽などに近い(曲のポイントもぼやけていて、雰囲気で流れるイメージ)、アレンジの薄さを感じました。(O)