会報バックナンバーVol.182/2006.08


レッスン概要(2005-6年)

○学び方

 日本の歌い方には、「声楽のやるように一つの音をつなげて声を聞かせる」「役者のように言葉をたたみかけていく」この二つがありますが、私が言っているのは、音楽がきちっと入っていて、その音楽を一回外してみることです。「胸に咲く花よ」という言葉、ここにどういうずれを作っていくか。ずれは作って行くがそれがずれてしまってはマズイ。ぎりぎりのところで、例えばどこかを強くし、弱くする。でも、というの形だとそれが見えてしまう。だから、強くし、弱くし、強くすると見せかけてちょっと強くして、ちょっと後を強くしてみて、弱くしておさめる、とか。それに正解はないけれど、そこにオリジナリティが出てくるのです。

自分で解釈した時のオリジナリティというものはありますが、それを自分でやってみてどうなるか。これをふまえて修正されることが必要なわけです。結局、いろんな歌い方はありますが、「自分を見る」ということは、自分がどういう音色を持って、かつどういう動かし方をできるかということです。今はできなくても可能性があるところに落とし込む。他の人の呼吸と自分のでは違うし、落とし方の入る所も違います。必ずしも同じにはならない。

全く同じになるとしたら、それは普通の人の呼吸しか持っていなくて、普通の人の感覚しか持っていないということです。ですから曲を見るだけでも、メロディはこうなっているだろう、その次にこの歌い手はこういう声でこの感覚だからこのように歌っているのだろう、さらには、それを自分の所に持って来てこなければならない、とやることはたくさんあります。

客観視することは結構大切なことです。私が文章をよく書かせるのは、文章の方が話よりは客観視しやすいからです。例えば、話だと「誰が言った」というところで、もう先入観が入ってしまいます。日本人の歌が遅れてしまっている理由は、ほかのものは、例えばスポーツはビジュアル的に客観視できます。歌も音を聞けばわかりますが、それには音を聞く能力がないといけません。学び方も日本人はどうも感情がメインになってしまう。本来は優れている、優れていないで判断すべきところ、感情がどうであれ自分に必要であるものをとりなさい、と言っています。
どうも内輪の芸だからか、そこから外に出れない。昔はプロの歌い手は周りはライバルだから、初心者もちゃんとは教えない。その人が優れたいというと自分が脅かされてしまうから。ある意味では客観視できていた。その師匠を納得させればお客さんに通用するということで学ぶ。

最近は教えるのが流行ってしまっているから、当人たちがわからない。私が生徒を見る時はなるべく客観視する、すなわち壁を作る。その人の作品だけでみます。その人がどんなにいい人で努力していても、そこで見てしまうと人間だから客観視できなくなってしまう。目をつぶって聞こえてくるもの、その中のどこに惹かれるのかの勝負です。だから皆さんもその人が好き、嫌いでなく、その人が優れているところから何かしら学べる。

世代も違うし、私の感性とみんなの感性も違う。私の感性でおしつけるわけではなく、自分で何かを受け取ったものは大事に取得して欲しい。感じるオリジナリティがあって自分が発揮できるオリジナリティがあるわけだから。アカペラはそこが見やすいところでもある。
そこでかなわない、というところがあればマイクを使っても加工しても、自分に足りないところを補っていいわけです。とにかく人のいいところを学ぶ。人の悪いところは学ばなくていい。

「何であんなにいいのに働きかけないんだろう?」というところでの学び方もある。巧くても歌が成り立っていない人もいる。でも下手なのに成り立ってる人には何があるんだろう?と。ここでも、自分で聞いて判断するよりも、私が受け入れる耳を作るのに一番役立ったのは5、6人のトレーナーが前にいて、その前にみんながいて、その前で歌っているのを聞く、ということです。先に客席の伝わっている、伝わっていないを感じることができた。自分には伝わらないけど、ここには反応があるな、またはその逆もあります。これも客観視していく一つの見方です。
歌は音だけの世界じゃないからややこしい。それでも優れた歌い手は表情もいいし、柔軟だし呼吸も整っている。テンションの高さや集中力、そこに持って行く準備のよさは日頃のレッスン、練習の中で組み立てていかなければいけません。だからレッスンの勝負はどこまで気づけるか、ということ。それがどこまで変われるかということです。

トレーニングをするときには、武器はためこんでいけばいいが、常に考えなくてはいけないのは、先に武器の使い方です。量をふやすよりは肝心なものを一つ得て行けばいい。最近の歌は同じように加工されてしまう。そういう中でどう切り出していけばいいのかということは難しいです。そこでお笑いの人から学んで欲しい、といつも言うのは、今のリアルな現場の中での心情のことです。例えば演歌。今はただ媚びている。「今」に媚びている。そうではないちゃんとしたものは今までにはあった。そういうものを歌い始めればいいんのではないかと思います。

これからのインターネット、はたまたブログの時代では、誰もが発表できる、はたまた誰かが探したら何でも手に入る。いつも言うように歌もメディアだし、声もメディアです。
今のこんな世の中では、歌や声も何にのせるのか、これも研究すべき必要があるかもしれない。本や紙の情報とは違った発想で、才能は本当に発掘できるようになっていくかもしれない。また今まではアマチュアだったらレコードを出すなんて考えもしなかったが、みんなが録音するようになって来たらどうなっていくか?そういう時代になって行く上で、早く自分に気づいていけば才能は活かせていけるでしょう。

みなさんも生きていた分だけ日本語を使って来た。それを簡単に変えるっていうのは難しい。そういうときに一回その枠を崩すのです。確かに外国だと声が出ます。周りがそれだけ声を出しているからです。外国語でしゃべった方がよい。日本語だと巧く歌えないけど、英語にしたら歌えると言う人もよくいます。でも普通はないでしょう。外国語の方が母国語より巧く歌えることは。ただ音楽の場合外国のリズムで作られているから尚更そうなるのです。それならそっちを利用した方がいい。感覚の違いが理屈的にわかってきたら、どういうふうに埋めていくかということです。

聞こえないものは出せない。だから、聞いているところが違う、ということです。トレーニングということで考えると、今まで日本語を使っていた、聞いていた、以上にその感覚を、英語やイタリア語を聞いて使ったら、できるようにはなると思う。大変そうに思うかもしれませんが、今まで使っていた分を今からやろうとすると、聞くのは大変かもしれ、ませんが、喋ってる分は日本人の場合、そんなにないのです。毎日2、3時間でも英語で喋っていたら、4、5年の間に日本語で喋っていた量を超すかもしれません。

日本語を一文字ずつマスに埋め込んでいくと、言語が死んでいってしまう。
学ぶ前に、学び方をみる、というのは非常に大切なことです。学び始めたらもうそこしか見れなくなってしまう場合もある。本当に10年学ぼうとするなら、5年かけてでもいいトレーナーを探す、というのも一つの手かもしれません。そして一旦信じたらとことんやるべきです。信じられないなら信じられるところまで自分で何かしら勉強したり話を聞きに行ったりすればいい。自分の中にある自分を判断できる自分を信じられるかどうかでしょう。でも自分で見れることにも限度があります。だからいろんな人のいいところをうまく取り入れて行く、これも必要なことだと思います。
宗教と音楽が切り離されているのは、日本くらいです。私は一番ボイストレーニングが優れていると思うのは、声明、お坊さんの声だと思います。みんながみんなそうではないけれども、信心して毎日声を出して、それが誇れる声につながる。あまりレッテルを貼ったり、ジャンルや分野を分けたりしない方が若いうちはいいと思います。

最近では声よりも耳を頼りにきてくれる。それは今の時代、声がなくなって来ているという事ではなくて、声自体が聞こえてくるというのが、表現からいうと邪魔なのです。例えば「声しか残らない」とか「言葉しか残らない」とか。「大きな声が出ましたね」「音程がよかったです」とか。優れた人は絶対、歌の後そんな事言われません。日本人が声をあんまり聞きたくないというのもあるのですが。

自分がやったら生徒がそれを見本にしてしまう。それが一番よくない。声はその人の体という楽器から出るから。誰かの所に正解があるのではなくて、自分の中の一番心地よい声、とか出やすい声、からスタートして行く。今一番出やすい声が将来でやすい声ではないが、一つのヒントにはなりますね。だから一流のボーカリストを聞いている方がいいのです。表情や姿勢や口の開け方を真似するように指導する先生もいるようですが、感情や歌の表現はむしろボイストレーニングから言うと基本的な発声を邪魔するものです。役者でもそうでしょう。本当に相手に伝えようと思ったりした時には息が絶え絶えになってしまったり、かすれてしまったりと、いい声には絶対ならないはずです。人間の心を動かして来たものがすごいきれいな声、というものではないですから、実際の歌や演技の中では。

これを聞いてみて、これをやってみる、というのでは大体自分がやった方が小さくなってしまいます。それから、真似できた所は大抵真似をしてはいけないところです。まだ自分の鈍い感覚や体で真似をできるところは一番変なところでしょう。演技で言うと、ベテランは「ここ泣いてみて」というと目だけで泣いてみたり、口元は笑ってみたりとかもできるんだけど。では若手はどうするか。それは号泣してみるんでしょう。まずは思いっきり泣いてみて、その後にベテランのような顔を研究してみる。笑う演技でも同じですね。最初から小さく演技するのはできっこないんです。ではこういう音楽ではどういうふうにとるかというと、大きく聞いた方がいいです。息も聞こえますから、わかりやすくなります。

○トレーニングとは何か

よく本でも「半オクターブにそんな何年もかかるんですか」とか「一音二音出すのがそんなに難しいんですか」なんて言われます。皆さんでなくても、例えば幼稚園児でも小学生でも歌一曲教えたら一時間も経てば歌えるんですよ。だけど問題なのはそうではない。まず接点。この中のわずか一秒でも二秒でもいいから、これをやるのにどの位大変なのか、そういうギャップをみること。ギャップを縮めることがトレーニングになるのだから、ギャップを見なければなりません。毎日、人前に出ているプロの人、歌だけではもう巧い人が何しにここにくるのか。それは自分では分からないギャップを知り、埋めに来るのです。

トレーニングとはなにか。自分が一番できることを更によくすること。それと、それよりちょっとできていない、その周辺のことがある。それらを比べてみて、いい方と同じようにする、と。単純に言ってしまえばどんなトレーニングでもこの二つしかない。
しかし多くの人は、全然できないところをできるようにしようとしている。それではもっとできなくなってしまう。声の取り扱いを雑に覚えて行くだけ。ヴォイストレーニングでは、できるところを確実にして行く。それがベースです。

役者を何十年もやっている人だったら、歌を全然やっていなくても、もつと思います。石原裕次郎さんとか、歌を別段やったわけじゃないけれど、すごく伝わるものがある。生き様も役者としての力もあるのでしょう。
人に見せて行くために自分をどう使うか、ということでは同じわけです。
ただ、歌だけが何だか声を張り上げてみて、メロディ乗せたら伝わったような「気分」に、なって回っているところがあります。そこで誤解されてしまうのです。

日本人もパワフルに歌わなくてはいけない、ということではありません。トレーニングと言われたときに、インパクトやパワーのつく方向にしておかないと。感性だけでセンスだけで歌いなさいと言ったら逆に難しいのです。我々が舞台を見るときは、他の人に働きかける力、というところで見ますから。

発する側だけで考えてはだめなのです。受け取る側がいてのこと。半分しか発さなくても二倍伝わればいいわけでしょう。トレーニングで言うと、最初はMAXをやるのです。声域も、広い方がいい。ただそれは何のためかというと、その半分の力でそれが伝わるようにする、更に10分の1の力で伝わるようにする、ためです。ステージで一番すごい人は、一番短い時間にたくさんのことを与えた人です。

歌い手なのに、本当に声が伝わるってどういうことか、本当に拍手がくるってどういうことか、に気づいていない人が多い。音楽という中の世界だけになっている。ここでは声量も何もないところで一つの声でも伝わること、その声を掛け合わせるだけでも音楽もできるし歌もできるしセリフもできる、ということをもう一度確認してください。

例えばバイト先でも「ありがとうございました」と言ってみて、今のは伝わっただろう、というのと、今のは言っただけだった、というのとを知る。相手に本当に伝わったかどうか。それを厳しく見て行くことです。外国だと「GOOD BYE」の言い方も10パターンくらいに分けて、ケースごとに言ってみる。言葉と関係ない所で声がどういう風に働きかけているかです。

よく起承転結なんて言いますが、日本人の歌は8つの歌詞があったら8つを歌うだけです。ところが役者は違う。8つのセリフがあったら、それを組み合わせます。一つ目から二つ目はすごい早く、三つ目はちょっと間をおいて、四つ目はこう切り出す、イキです。
歌も本来はそれで作られているはずです。

歌の場合はバンドがその作業をやってくれてしまっている、だから歌い手はどんどん鈍くなってしまう。本来アカペラになってもその構成を聞き手まで聞こえるようにならなければならない。敏感になると共にイメージが必要なのです。
一つ一つのデッサンのイメージも必要だし、それを組み合わせるイメージも必要です。それは役者でも同じ事ですが、舞台やミュージカルはそれを演出家がやってくれます。歌い手の場合はそれを自分でやらなくてはいけない。バンドにまかせてしまうと歌はそっちのけになってしまうのです。

海外で日本の歌い手がレコーディングに行ったりするのは、安いだけでなく、彼らは歌い手が出した音をもとに周りの音楽をつけていく。「自由」って言うのは、私も最初はわかりませんでした。その人が出したいところにつけていく、ということなんです。
かたや日本は先にもうできてしまっている。アレンジャーが、歌がどう歌おうがそれにつけて最後まであがってしまう。ライブでもテレビでもそうですね。歌い手がどちらを向いていても、進んでそれで終わってしまうでしょう。バンドが全部完パケになっていますから、セッションライブではない。そのことが鈍くさせるのがよくないのです。助けてくれているのですがね。依存しすぎると感性が鈍くなる。

一番大事なのは「こういう風にやりなさい」ではなくて、自分の自由なデッサンができること。作品として深まって行く発想をもって演じることができるようになることです。誰かの歌をうたう、誰かの脚本をやるのではなくて。そんなものがあろうがなかろうが、自分のものが成り立つようなものです。
朗読が嫌いなのは、最初に聞いた時に「あ、朗読だ」と思う。そこでもう嘘っぽい。そう思わせる事がプロだったり、安定度があるということはある。

例えばタップダンス。振り付けされたものばかりやっている人よりも、きちっとクラッシックバレエなどを習得した人は強い。基本の体作りをすると事故も起きにくくなります。プロで気をつけなくてはならないのは、才能あってやれている人はたくさんいるんだけど怪我してはいけない。イチローでも松井でもそうですね。声のことをやる前に柔軟をやったり、ダンスをやったり、いろんなこともあるのです。言葉とかセリフとか歌とかの応用をやる前のど真ん中のこととして位置づけられるのが基本トレーニングです。つぶしが効かないと仕事にならないのですが、ある程度そういうベーシックの部分があってできることがあります。声では健康管理とか常にベストに持って行けることです。

本番に強い人と弱い人でみると、永遠に本番に弱い人ってチャンスがないわけです。練習がどんなにやっても。本番のところでできたところが実力ですから。その時にピークに持っていく力をつける。メンタルとか集中力とかが不可欠です。メンタルトレーニングを生徒にやらせざるを得ない所もあります。体ががちがちだったらどうしようもないです。本当にDVDとか音楽を十分な音量でしっかり聞いてみたら、歌い手はどのくらい体が柔らかくて楽な形で声を出しているかイメージできていきます。それをどこかに思い浮かべて、ぎこちないようでもトレーニングでなおしていくのです。ピッチが悪い、声が悪いと言われる人のほとんどは、もっと集中してリラックスして、で大抵なおってしまいます。テンションが下がって音が下がってしまうのです。

トレーニングの時期は、調整なんか考えないで、まずは過剰にやりましょう。自分の内側から本当に過剰にエネルギーがわき上がるように必死でとりくみます。声がいいとか歌が巧いとかで、人がそんなに感動することはないのです。それが起こるとしたら、その人からわき上がる過剰なエネルギーがでているときです。トレーニングの間は、とにかく全身でひとつのことを表現することです。わずか一フレーズでも一曲でもそうしていかないことには、何曲歌っても伝わるわけないのです。

 日本の場合はすぐにきれいにまとめたり歌ったりっていう方にみんな行ってしまいます。そんな人はたくさんいてもみんな消えてしまう。せめてトレーニングは自由にできるものですから、思うままに目一杯やってみてください。舞台になるとお客さんのことを考えなくてはいけないから、構成したりMCに気を遣ったりと、それくらいは必要だと思うのです。舞台は実際は激しいものなのに、トレーニングがそれより甘かったら、自信も持てないし説得力がない。表現することに対する苦労は厭わずやっていけば何かはでてきます。そういう毎日を組み立てることです。

全体を聞くと成り立っていても、一カ所だけを聞くと、雑になってしまっている。それはちょっとした違いのように見えるけどその違いがすべてです。そこにアンテナを張り巡らせることです。

器用にうまく歌えることによってずっと気づかずにいってしまう。一方、味がある人は「もうちょっと技術があれば」と。どっちかなんですね、日本の場合。すごい高い声が出て心地よく聞かせる人は、インパクト、パワー、個性が出てこない。味はあるんだけど今ひとつあか抜けない、声の伸びとかが足りない。声楽家型と役者型と言うんですが。両方持っている人が本当に少ない。

都会では大きい音で聞けないので、レッスンも90分間、優れた歌い手を聞くことでも勉強になると思います。耳で聞く感覚の音と実際体で出す声、この次元がどのくらい違っているか。音でも、止まってみえるとき、その一秒の中に何秒も感じられるとき。そういうときは、自分の中でも細かく動かせるわけです。それは感覚の問題です。どこまで見聞きができるか、それが大切。ただ、中にいるとそれが見えにくい。ちょっとお客側に立ってみてそれを置き換えてみる、それができるかどうかが秘訣です。
聞いたままを使うと真似をしてしまう。悪いところをまねてしまうのです。もう少しできそうなものを、感覚のすぐれたところだけで扱うのが一番いいと思います。


■レッスン[2005]

○本当に発声の問題なのか

企業研修をやることがあるのですが、流通、小売の業界では、声ということではないでしょうけれど、言葉の使い方とか挨拶に関して厳しい。日本で言うと、マナーの先生のいわゆる新入社員、研修というものです。これはお客さんに対する接客術です。
舞台というのは、客席にきているお客さんに上から一方的に伝えていけばよい。
そういう意味で言うと、ケースバイケースの対応は、ない。客からクレームがあっても、その場ではきません。その辺はだいぶ違うのです。ただ、みんな話し方というジャンルの中に、声も含めてくくられているようです。

私は、話し方は声の一部であり、話し方から見た声と、表現を活動していく中での声というところは、違っていると思うのですね。日本の文化的なもの、企業風土も含めると、プレゼンテーションとか、人前で話さなければいけないスピーチだからと言っても、実際のお客さんがしっかりした声を期待しているわけではない。声に問題がない場合のほうが、現実的には多いのです。
なんとなく声のほうに責任を持っていくのですが、日本の社会で本当に声がないと通用しない場というのは、ほとんどないのではないでしょうか。声をどう聞くかの方がずっと大切だからです。

むしろ声があるがために通用しない、逆に事を起こしてしまうような場が多い。
ちょうど、宝島社で、女性のために「愛される声になる本」というのを書いています。そこで書いたことというのは、問題は声ではないと。その人の自信、ある意味では舞台でいうと、経験、気合のハッタリ力が声になってくるということです。それをどう演出していくかというのは、パフォーマンスの分野になってきます。それを声とか声のよしあしにもっていくのは簡単なのですが、そこでの声が治っても、本当の意味で言うと何も完結しないのです。

外国人は厳しいですから、例えばボソボソとしゃべっていると、すぐに厳しく質問がきます。日本の場合というのは、実際、この人数に対しては、この声で充分です。このぐらいに声を鍛えないと使えないのかと言ったら、そんなことはないです。
一般の人がこられるのですが、その中で歌とか役者さんの声をベースにはじめるのは、そのぐらいのレベルのところへ持っていかないと、逆に声の問題というのはわからないからです。トレーニングはなぜ必要なのだと、腹式呼吸はどうして必要なのだということも、そこまで使おうと思わなければ、本当の意味で必要ではないのです。

何でもないよりはあったほうがよいとは思うのですが、トレーニングというのは必要性によります。それがないとなかなか身につかないし、使えるようになりません。歌もそうですね。今、聴いたところまでのレベルをめざそうとすると否応なしに、そこの体とか声と息の問題になってくるのです。となりの人にきちっと話し掛けて通じるようにとか、電話で受け答えができるように、という目的になってしまうと、これで腹式呼吸とか体を鍛えるということの必要性が薄い。むしろ他のことにおいて、直さなければいけないことのほうがたくさんあります。そういう優先順位で混乱しているという状況ですね。

○定義を考える

自分でヴォイストレーニングを定義することから始めるべきです。
例えば、インテリアコーディネーターとかエアロビクスでもよいのですが、そういうところは、いちおう基準があって、資格があります。先生というのはその程度のことは知っているとか、これだけのことを身につけていない人は人に教えられないというのはあるのです。
ヴォイストレーニングというのは、元々そういうのが成り立たない。というのは、出身自体がみんなバラバラだからです。
それがヴォイストレーニングという言葉で集約されてきたために、出身も声楽の人、役者の人、医者、作曲家と、いろいろです。

例えば、ここは、一般の方から歌い手さんから役者さんまできている。それは声の根本のことに関しては、私は同じだと思っているからです。普通、音楽スクールの先生に、役者が習いにいっても通用しない。役者のところで教えている人が声楽の生徒を教えようと言っても、曲を弾けないということになる。それぞれ学んだことも違えば教えていることも違うのです。
喉を手術したような人の声をまともに出せるようにするには、言語療法士やお医者さんの指導も欠かせません。
音楽療法と同じで、医学と音楽との間にあります。役者では、音楽ではなくて、せりふとパフォーマンスも含めた演技の間にあるものです。

なんとなくヴォイストレーニングの「ボ」を「ヴ」にすると音楽、昔の「ボ」にすると、役者や合唱団とか昔ながらの年配の方々が使っているようです☆。
役者の中でのヴォイストレーニングは、演出家がやっていたり、先輩の役者がやっています。声楽の先生を呼んでくる場合も多いですね。
ポップスの学校も半分ぐらいは、音大を出ている声楽家を、指導者として迎える場合が多いです。ギターとかピアノ、プレーヤーの分野は、技術だけで優劣がはっきりしています。

ところがヴォーカルの場合は、ヴォーカルとして名の売れた人に教えてもらおうとしても、教えてくれないでしょう。教えられるとも思わないと思うのですね。独自でやってきた人ほど他の人を教えることができない。野球でいうと、長島茂雄さんみたいなものでしょう。それでは人が育たないとなったときに、どこに基準をとるかということが必要です。ところが、ヴォイストレーニング自体が決まっていないのです。

私は研究所を持って、他のトレーナーともやっています。今は一般の方々よりプロ中心にまた戻してきています。元々プロとやっていたのですが、一回そういうしがらみとって、一般の人とやろうと思って学校にしたら、すごく大きくなってしまったのです。それでは人が育たないということで戻しつつあります。ですから、ふたつの立場で常に動いています。

 研究所として本質的にやりたいところと、それからHPも含め、本を出して、ヴォイストレーニングということが一体どういうことなのかということに対して、一般の人にわかるように答えていくという立場です。
講演会は、ここの入所の説明会や研究生の募集のためにやっているわけでもありません。旗をあげて、その方によりふさわしいところがあれば、そこをご紹介します。今日は今日で勉強した部分が一番よいという立場でやっています。そういう意味で言うと、かなり自由な考え方でやっているのです。

○十人十色のトレーナーとトレーニング

ヴォイストレーニング自体をどう定義するのかということがなく、ひとり歩きしていったのでは、目的に達しません。ヴォイストレーニングをやればこうなるだろうとか、プロになれないのはヴォイストレーニングをやっていないからだとか思わないことです。
しかし、役者あたりは、そういうのがあるのは知っているけど、やりたくないといいます。プロの歌い手も同じです。そういう人がヴォイストレーニングをやっていると言い出すと、なんとなくそういうことが必要なことに思われるのです。

今、言えることは、学校とかヴォイストレーナーと言われる人のところに行って、やっていることがヴォイストレーニングと思っているわけです。これでは、百人百色、他の習い事と違って、とてもわかりにくいでしょう。
みなさんが日本語を勉強しに行くというのに似ていますね。日頃から使って、当たり前のようにやっているものに対し、いったい何を習うのでしょうか。オペラをやるというのでしたら、特殊なことですから、発声を練習しようとか音階練習をしようとかクラッシク歌唱法やベルカントを練習しようとなるでしょう。

これが役者さんのレベルとかタレントのレベルとか、漫才師まで扱っているところになると、声の定義というのはわかりにくくなってきます。
いわゆるプロの人たちがプロになるまで、自分で練習してきたこともヴォイストレーニングになるのです。
ヴォイストレーニングを受けていないと当人が言っても、発声練習をやっていなかったり、技法としてやっていないだけです。作った歌を繰り返し歌ったり、客に届けようとして、部分的に歌ったりすることは、ヴォイストレーニングそのものなのです。
考えてみると、そうではないヴォイストレーニング、いわゆるポップスの歌い手に対してとか、役者に対して、ドレミレド、アイウエオとかを、劇団に行くと必ずやっていますが、本当に必要なのでしょうか。

高校生の演劇部・放送部の世界も同じです。それが本当の意味で必要なものなのかということになると、かなり難しいところがあるのです。
二十歳ぐらいのところまで、声を使いまくって生きてきた人と、そこからゼロからやる人とは、天地の差があります。
ともかくヴォイストレーニングと名づけることによって、商売になるようになってきました。これがまた混乱に拍車をかけているのです。いわゆる本質的ではないところでやられているものがとても多いのです。

○目的にあったメソッドを

私は日本の音楽に関しても舞台に関しても、自分がここに生きている以上、自分にとってここちよいものを聴きたいと思います。そういう人たちが多くいたほうが自分にとっては幸せなので、そういう意味で声に関して、もっとお客さんも舞台の人たちも関心を持って磨いていけばよいということで、いろんなことをやってきました。本が売れ、同じような本を出す人が多くなると、そういうマニュアルとかヴォイストレーニングのやり方がどんどん出てくる。しかし、実際やられていることは形だけの、空回りな部分がとても多いのです。

一般の人よりは、役者を見ていると、私はヴォイストレーニングでやっているのですが、みんな声がよくなり、芸もうまくなっていった。それは、舞台の力ですね。喉の管理ぐらいの知識は、何も知らないよりは少し知っていたほうがよいと思いますが、表現が磨かれていったのは、厳しい客の前に立ち、あるいはよりすぐれた、まわりの芸人たちの中で磨かれた部分で声が使われてきたからです。滑舌がよくなって、声も大きくなっていったわけです。

それは歌い手の中でもいます。習いにいっていない人が、ヴォイストレーニングもやったことないという人がプロになっている。そうしたら、そうではない人を養成しているというスクールというのはいったい何なのかと、何を伝えているかということになってきます。
つまり、勘違いしている場合がとても多いのです。ポップスを歌うような人というのは、ポップスを歌わせた方がずっと声は出るのです。そこにわざわざ「ドレミレド」とか「あいうえお」をやったら、先生の前でカチカチになって、声は出にくくなります。

だから、歌でいうと高いところが出ているのに、発声練習をやると高い音が出ないなんていうことが起きてくるのです。先生方の頭が固いと、発声練習でその声を出させようとする。そういうのは逆でしょう。歌で出ていたらそれでよい。
何のために発声練習するのというと、本来だったら、応用である歌で出せなかったり、言葉が難しく、そこで声が綺麗に出ないから、発声練習で母音で簡単にしたり、出させようとしているわけです。
ところが、いろいろなマニュアルが出てくると、先生方がマニュアルに乗っかって、そのマニュアルで教えていくから逆効果になってしまうのです。そんなことをやらなければもっと歌えていた人が余計歌えなくなる。相手に応じて変じないからです。

トレーニングは、一時期そういうところはあります。意識して部分的に何かを鍛えるから、全体のバランスは壊れる。そういうのは何も考えないで自信を持ってやっている人に、そこでは勝てません。しかし、器が大きくなって、本当にそのレベルで使いこなせるようになってくると、ようやくトントンになってくる。その後に抜いていけるとか、あるいはその後に若いときに若さまかせに出していたような声で、本来だったら痛めていたはずなのだけれど痛めなくなって長く声が使えるようになるとか、そういう部分での貢献はあると思うのです。

○声をタフにする

歌手におけるヴォイストレーニングというのは、今一番混乱していますね。J−POPSの歌い手でヴォイストレーニングの理論上にいる歌い手というのもほとんどいないです。昔はそういう発声をやって、声がしっかりしていなければ歌い手として通用しなかった。
今やっているところのヴォイストレーニングで効果があがっているとしたら、マイクを含めた中でのフレーズの処理の処理の方法です。同じ力だったら、どうやればよりよく見えるかと、それは調整でもあるのです。ただ、本当の意味のトレーニングではないですね。
むしろヴォーカルアドバイザーとしてのアドバイスをしています。

私も最初はそうだったのです。現場に行ったときにはプロも声が出ないから、出ないのだけれどプロをやっているのだから、どうするのか。でもそれを根本的に治すことを、誰も期待していないのです。女優さんにだって期待していない。可愛かったりかっこよかったりしていればよい。
そういう意味でいうと、ミュージカル劇団とかのほうが過酷ですよね。
声が出なくなったらどうしようもなくなってしまうのと、昼も夜も出し続けて2、3ヶ月休みなしでやらなくてはいけない。
演目がクラッシックならよいのですが、アフリカンリズムだったり、中には悪声をやらなくてはいけないこともあります。人を不快にさせるとか驚かせるみたいな声というのは、根本的に喉をしめたりした、嫌な声なわけです。ドスをきかせた声は、ヴォイストレーニングからはみだしているわけです。

そういうノウハウはどこにもなかったのです。クラッシックをやった人でも、日本の場合、とても声が弱いからです。
 これはとてもおかしなことで、海外のクラッシックのオペラ歌手は、ロックを歌おうが相当しゃべっていようが、そんなことでびくともしないのです。日本で習って先生になったような人というのは、案外とちょっとしゃべっていると喉にくるという。役者みたいなタフなことがなかなかできないのです。その辺の問題が根本にあるのです。

トレーニングというのは、間違えさせないように正しく覚えさせるということをやっているようでも、正しく覚えた結果、そういうふうに応用がきかないということはどういうことなのか。むしろ役者で、ガラガラの声でがんばっていた人たちのほうが、5年10年経ったときに声がタフになっている。
当然クラシックみたいに高い声を出すとかどうこうということを問われていることが違うのですが、あきらかに声は変わっていくのです。
一般でも、現場の人たち、八百屋さんとかマーケットの人とか、魚市場の人とか、あるいは経営者、経営者なんかで、すごい声を出している人たくさんいますよね。

その反面、声を使わなくてはいけない、海外で言ったら一番声がよいはずの、政治家とかエアロビクスのインストラクターみたいな人の声は、日本の場合、最悪ですね。選挙戦ぐらいのたけなわぐらいでみんな声を壊してしまっている。その辺がおかしなことです。
だから今、私はあまり正しくやるなよと、間違わないと弱くなってしまうぞ、たまに間違えろよ、というようなことを言わなくてはと思っているのです☆。

これやってはだめ、あれやってはだめ、ってそんな中で歌っていては、芸術的な人に感動を与えられるものが出てくるのでしょうか。 今、本当に歌に関しては世界から、まだまだ遅れをとっていますが、音大を選ぶというところで、よくないかもしれません。美大の連中が音楽やっているもののほうがおもしろいです。発声だけはやっていて、発声っぽくはなるのですが、要は当人たちが生きている幅がとても狭いし、知っている世界はとても狭い。家から一歩も出ないような人が芸術をやっているとはいえない。過去の芸術に触れて、まねているだけ。ポップスでもけっこう似てきています。
昔のように世界中を徘徊してきて歌っているような人には、かなわないようなところがあります。そういう問題を全部含めて考えてみると、ますますわからなくなってくる。という中で、できるだけ根本的なことは伝えていきたいと思っています。

○外国語は習うな

英語の発音のほうに耳がひっかかるようになってくると、発声のレベルのことができなくなるから、今はイタリア語、フランス語、スペイン語とか何でもありですね。英語というのは、かなりいい加減な発音が許される。そんなことを専門にされている方の前では言ってはいけないのですが、私はそう思っています。この前ジャマイカ行ったら、わけのわからないジャマイカ英語です。シカゴに行ったらシカゴなまりがある。テキサスなまりがある。

本場で使っている人がそれだけなまっているのだから、何で日本人が正しても歌として通用もしないのにやっていてもしかたないだろう、だから「日本語なまりでよいではないか」というのが、今の私の考えです☆。
ただ、フランス語とかイタリア語とかそういう分野になってくると、さすがに聴く人が違ってきます。そのことを知っている人たちが聴きます。フランス人の前にめちゃめちゃなフランス語では出られない。そういう意味でいうと、ここでは、そこの語学の問題までは入りません。いろんな外国語を聴くことは、耳を鍛えるためにとてもよいことです。

逆に英語をペラペラな人で、歌詞を聴いていてもすぐに訳せるというか、訳さなくてもその意味がわかるような人は、日本語と同じように聴いているわけです。しかし、音声としてあまり見えていない部分も多い。
フランス語とかドイツ語とかは、英語から想像がつきます。ラテン・ゲルマン以外では、もう純粋に音声で聴きます。そっちのほうが感覚の勉強としてはレベルの高い部分ができるというふうに思っています。
イタリア語をメインにするのは、日本人が反復しやすいからです。フランス語、スペイン語、ポルトガル語も綺麗です。リズムのことをやるには、スペインやポルトガルなど、ラテン系の音楽が最適です。

○感覚の切り替え

声がよいということはわかりにくいのですが、発音とか言葉とかが悪い。それから自分の声が調整できていないということは、耳の悪い人に多いわけです。耳の悪い人というのはとても声が大きいし、それからはっきりと言葉を言えません☆。
それと同じことを外国語にあてはめてみたら、ポルトガル語をみなさんがパッと取れたら、それは相当レベルの高い耳とその耳で捕らえたことを発声の機能におきかえられているわけです。音声表現能力が高いということです。
日本人の場合は、あまりそれを問われてきていないのです。そういう勉強をしてきていないし、それからそういう訓練を受けてきていないからです。英語をしゃべるのも、英語で歌うことも、なかなか感覚が切り替わらない。この感覚の切り替えというのがヴォイストレーニングにおいては、大きなテーマになります。

体を鍛えるという部分は時間がかかります。2、3年で簡単に変わらないけれど、4、5年、10年と変わってくる。だからといって、20年30年やったらもっと変わるかというと、限界もある。でも体を変えていくというのは一番根本的な解決法のひとつです。
自分でしか持っていない体ということの能力を発揮していくわけですから、トレーニングからいうと一番のベースです。その人の勘とかセンスとか才能とかそんなものに頼らず、トレーニングである以上、誰にでも効果あげなくてはいけない。
では、どこに効果をあげるのかといえば、体です。1km走れない人が、2年経ったら1km走れるようにしようということは健康な人だったらできる。そこの部分、そういう力はついていくということです。でもそれは長くやっている人とかトレーニングをやっている人はみんな持っていることです。

そこからは、本当に感覚です。そこで言葉とか声というのは、昔から使ってきているものだという前提があるのです。昔から使ってきているものであるのに、そこで何かの問題が生じているということは、感覚や体が変わらない以上、根本的な解決にはならないということです。
例えば、「音楽を勉強しよう」といっても、「去年までずっとスポーツやっていて音楽は触ったことなかったのです」という人は、これは案外、大きく化ける可能性あるのです。少なくとも1年とか2年で大きく進歩します。もちろん、全然ダメな場合もあります。
しかし、そんなことに興味を持たないで生きてきた人が、急に音楽にめざめたって、声は出るかもしれませんが、音楽はそう簡単に入りません。再現芸術ですから、入れたものしか出てこない。

もうプロで20年やってきたという人が、来年には、すごい声で音楽的にも高いレベルのものを作りたいと言われても、そんなすごいノウハウは無理ですね。その当人がそこまで突き詰めてやってきたからです。それで限界があると自分で思ったのであれば、それを破るためには、その人の体自体が大きく変わるか、感覚的に今日まで日本語でしゃべっていても、明日からスペイン語でしゃべり出すぐらいのことが起きないと無理です。そういう意味でトレーニングを正しく設置することが、一番根本的なところです。

○声の使い方で変える

マナーのように、社会的な規範とか常識とかの知識を知ることによって、解決する部分もあると思います。歌でもそういう部分がないわけではないのですが、基本的には声が出ると自信ができる、自信が出ると声に自信が育ってきて、説得力が増すというふうに考えたほうがよいです。
声そのものが変わることよりも、声の使われ方、そこの部分で変えていくことのほうがメインです。
だいたいの場合、声そのものというのはその人が持って生まれた部分のところです。この楽器は鍛えられるところはあります。喉の筋肉とか声帯を鍛えるということもできる。肺活量が大きくなるということはないのですが、体のことがよりうまく扱えるように、というところにベースがあります。

同じ声でも、話し方教室とか、研修を終えることによって、自信ができて、ガラっとその人が変わると大きく変わる。例えば、性格が暗くてという人が明るくなったと、そういうふうに見えるように演出したり、自分が表現していくということはできないことではないのです。役者のワークショップは、ほとんどそういうことがメインです。ヴォイストレーニングの中にもいろんなヴォイストレーニングがあります。多くのヴォイストレーニングというのは、お客さんを増やすために、癒しをメインとしたやり方を取っている。

一般の人は、座って動かない生活で息もほとんど吐いていない、全身から声を出すということがないところでやっているのだから、毎日、山に行って鬼ごっこするような感じで、一週間すごしてみたら、それだけで相当声が出るようになるのです。
そのことを忘れないでいてください。そういう毎日を送れたら、半分ぐらい解決です。

役者レベルの声、つまり、その上になってくると、今度は演技力になってきます。声よりもどういうふうに役柄を解釈してみたり、どう演じていくのかということになってきて、その辺で複雑になっているのが声です。
だから私の本も、一般向けのところでは、トレーニングをたくさん入れてくれと言われるのですが、あてにしている部分はあまりなく、むしろ心構えとか、声に対して自分が自信を持つことを中心に考えています。

特にポップスはそうです。トレーニングの一番いけないところは上達しようと思うところです。うまくなろうとする。ところがうまくなろうと思うということは、自分の考えではあるけれど、誰かからうまいと思われるように、それが価値になると思う。すると日本のレベルで、誰かからうまいねと思われるような歌というのは、どういう歌かというと、もうどこかにある歌です。
何か平井堅さんみたいになってきたから、うまいと自分で思ってやるわけだから、本当の自分の体とか自分の声の延長上に、本来の世界というのはないのです。彼と同じ体、同じ声帯を持って、同じ感性を持って双子だったとかいうことでもないかぎりは。

○目標と方向のミス

ヴォイストレーニングは自分の延長上のところに、きちっと目的を設定するということがとても難しいのです。
プロダクションというのは、今売れている線の歌い手に目標を置きます。それに一番合わせられる人が有能だという考えです。だから2番線3番線の歌い手しか出てこないわけです。インディーズのほうがよい。自分に正直にやっているからです。

アートの世界というのは「え、こんなのありなの」とか「今までこんなのなかったね」というのが出てくるのが狙いなわけです。ところが日本の場合には、なかなかそういうところにいきません。そういうことで、うまくなるということ自体が、学校では問われてしまうのです。我々もとてもやりにくいのです。

当人たちにとって求める利益というのが、バンドの仲間とか友達とか自分たちのお客さんにうまくなったと言われたいとする。すると、今まで出なかった高い声が出たらなんとなくうまいね、今までよりもこう柔らかく声が出ていて誰かみたいに歌えていたらうまいねと、なります。そこで認められることが、何かしらプロと同じ、あるいはプロになれることだと思ってしまうのです。
私から言わせれば逆なのです。そうやってプロから逸れていってしまう。プロというのは徹底的な個性でやっていきます。自分しかできないところでやっている人しか生き残っていきません。デビューまではよくあるパターンでも、3年後には消えてしまいます☆。

すると、そういう育て方というのは、最初から、それがヴォイストレーニングとしても、やらないほうがよい。
ここみたいに生徒を超えてやっているところはよいのでしょうが、普通のところは、それはできません。生徒が毎回毎回、今回はこんなことが勉強できたとか、こんな効果があがったとか思っていくようにみせていかないといけなくなってしまっています。
その辺で、トレーナーは立場がないと思うことはあるのです。生徒がそれでやめてしまったり減ったりすると、生計に関わる。

○学校と養成所

根本的なところで二つ分けています。本当にプロとしてやっていくような人は、100人のうち99人やめたところでひとり育っていく。養成所というのはそういうところです。ひとりが全部取っていってしまうのです。
学校は全員に均等に配役して、この前、あなたを主役したから、今度はこちらを主役にしましょうとする。養成所というのは、客に価値を与えられる人だけしかできない。では、今回はひとりで全部やれと、そういうところなのです。他の人はまだダメだから、客で見させます。やるのは時間の無駄、そういうところでないと育たないのです。

これはもう180度違います。学校の考え方と養成所とは、そこの部分は違います。もううちぐらいではないと、できないという部分がある。
一般の人には、スタンスとして自分でできることは全部やること、自分でできないところに関して研究所を使うというように言っています。
私は他の国に習って、日本人でも二年間で400時間から500時間勉強が必要だということで、全日制にしていました。常に8時間3人のトレーナーで、スタジオでやりました。黒人の先生から英語の先生、とにかく全部集めたわけです。
そこで育った生徒というのは、その前の私がひとりで50人ぐらいでやっていた生徒より少ないです。たくさんの人数はきて、たくさんの学ぶ環境があったのですが、キャンパスライフを楽しみ、友達がたくさんできたということで終わってしまう。

それはうちでやる必要はない。もっと大きな専門学校で、それこそ広いキャンパスを持っているところがいい。そこに私が行って教えたほうがよいわけです。なかなかその辺が日本の場合、難しいというのはつくづく感じてきたことです。

そのときにまずかったのは、ここに毎日通っていたら何とかなると思う人が増えてしまったことです。今の大学と同じです。誰でも入ってきて、よい方に変わればよいと思っているわけです。このライブラリーも見放題で、勝手に見られるようになった。そうすると利用率がさがってくるのです。大学に大きな図書館があって、いろんな本があるのに大してみないというのと同じです。

昔はそうではなかったのです。100冊ぐらいしか本がないのに、レッスンにきていた生徒全員がそれ読んでました。だから、何かやっていく人は自分で手を伸ばさないと、とれないという環境にしておかないといけない。今、もっとも問われる力、つけなくてはいけない力とは、そこなのです。今の子たちにとっては、とても難しいようです。

通ってくれるのはありがたいし、仲間ができるのはよいことなのですが、研究所というのは、私は当初から世界で通じるトッププレーヤーが10年に1人育てばよいということでした。だから、1年の中で5、6人が、10年で1人育つと言えるレベルのところまできていなければ、失敗なのです。それは私の考え方ですが。

そういう意味でいうと、日本でそういうことをやるのはけっこう難しいと。
本人がやりたいと思ってきていながら、そうでないことを集団になったときにやっていってしまうのです。
今は個人レッスンメインにして、できる限り自分でやりなさい、自分でやれない部分に関してここを使えという形にしています。
個人レッスンですから、責任もはっきりしているのです。受け持った先生が責任をもつ。もちろん、生徒が自分自身でやるのですが。かつては、みんなが見ているようで誰も見ていない部分があった。理想的ではあったのですが、今の日本ではそのやり方ではできない。

昔は、そのやり方で育ったと思うのです。現代になるに従って、与えられることに慣れてしまっている人が多くなってしまう。難しいところです。
いろんな学校を手伝っているのですが、「そんなこと言ったら生徒がやめてしまう」と、必要かどうかその価値がないのだったら、生徒の方が正しい。居心地のよさ、あるいはトレーナーとの人間関係でつなごうとするとおかしいのです。世の中でやる力がつきません。
トレーナーがやるべきことは、教えるのでなく、本質的なことを示すことです。その魅力において生徒が学ぶべきで、あの先生はたくさん時間を取ってくれるからとか、生活上のカウンセリングをしてくれるからとか、そんなことで人気があってメインになってしまうと、どんどん目的からそれます。そういうトレーナーの人は研究もおろそかになってしまいます。

でもそれは、日本の場合、多分どこでもそうなのだろうと。生徒は狭い世界の中で、自分に親しくしてくれる人を求める。それが今のヴォーカルの学校です。お金を払ってつくった人間関係は、少なくともアートで仕事をつくる人の厳しさとは違います。他に行けない、他のところで友達できない、でもそこに行ったら居心地がよくて受け入れてくれると。
でも考えてみたらアーティストというのは全く逆のことをしているわけです。第三者に対して自分の価値を売りつづけていくわけですね。だからそういう環境の中では、せっかく10年やっていける粋のよい子がきてもダメになってしまうのです。友達ができて、その友達はコンサートにきてくれるからって、プロになれるってわけではない。友達が多くとも、それは友達できてくれるわけです。その辺が見えなくなってしまうのです。今はライブも、イベントも止めてしまいました。本質を見えなくしてしまうことは、本意ではないからです。

歳を取ってしまうと、私も考え方がまた変わるかもしれません。そういう感動できることも全員がプロになるわけではないから、若い時期に楽しめるような場を持つということをやらせるもよいと思う日がくるかもしれないのです。ただ、今までやったことなかったから、合宿で高校生の文化祭レベルのことやって感動したり、涙を流したりというのは、それをだしに運営するのは、とても胡散臭いと思うのです。テレビの仕掛けと同じです。すると、みんなここを好きになって、私のことも愛して、それで商売もうまくいく。でも世界に対して何も残せない、後世に対しても何も残せない、そのどちらを取るかは、価値観だと思うのです。

○トレーニングは戻すこと

私は「やっていくほど、声も歌もわけわからなくなってきています」と、正直に言っているのです。
何か全部わかったようにやっている人が信じられません。全部わかっていたらそれはすごいことで、社会的にも大成功するでしょう。
そうではなく生徒も集まらない、すぐやめてしまうというところでは、おかしいと思いませんか。声がどう使われているのかというようなことで考えると、当然、声も歌も何か乗せているものです。
ですから、それ自体に価値があるものではないのです。けれど、経営者でも、人を動かしてきた人が使っている声というのは、これは間違えないのです。腹式でやっているとか、どうこうということはあまり関係ない。役者でも同じです。

腹式でやってがんばって声を出したという人の、役作りしているようなのは、お客さんには通用しない。どこかで自然に戻していかなければいけない。ただトレーニングというのは、すべてを自然にいつもよいようには取り出せないから、少なくとも自分の最高の状態を毎日の最低のベースにして生きていこうみたいな考え方の上にあるのですね。

だから、一番簡単にやれる方法は、自分の過去を洗い出して、声がとてもうまく出たとき、気持ちよく出たときを中心とします。聴くほうと同時にできませんから、指摘してもらえばよいのです。案外、笑っているときの声とか本当にスポーツをやってすっきりして気持ちがよいときの声がベストです。

役者とか歌い手というのは、それを瞬時に切り替えられる能力があるというところで、普通の人よりは上なのです。普通の人は、具合や体調が悪くなったり熱出したり風邪ひいたら、声にも表われるのです、それが表われてはダメな職業です。でも経営者もそうだし、商売をやっている人は、より厳しいでしょう。そういうことがベースにあった上でそれをよりよくしていくということを考えなくてはいけないのです。

○均衡条件を知る

声とか歌の問題が難しいのは、誰もがやっているから誰もが初心者ではないのです。こうやって話していること自体が、もうピアノでいうとプロ級のことです。自分が思っていることをわずか15秒ぐらいで相手に伝えられる。ただ歌とか声というのは、みんながそれができてしまうから何も価値がないように思ってしまうだけのことです。

ですから、みんなの呼吸ももう腹式なのです。別に胸式や肩式でやっているわけではありません。胸式腹式というのは分かれているわけではありません。急に酸素が足らなくなって取り入れなくてはいけないというときに、一番早いのが肩や胸があがるというようなことです。胸式が目立って体の体勢を崩すような状況のときに、それは胸式だからダメといわれるのです。
「腹式に切り替えられますか」とか「今の呼吸法は間違っていますか」とか言われるのですが、人間はとても複雑なバランスの上で成り立っているわけです。こうやってここに座って何か集中できるということでも、相当厳しい均衡条件の中でできているわけです。
逆に考えれば、体を壊して入院してしまったら、体から思い切り息を吐いたり吸ったりすることでも苦痛になります。そういったものから比べたら、普通に歩いて息をできるというのは、かなりレベルの高いことなのです。

○なぜ必要か、どこまで必要か

役者とか歌い手というのは、それを、もっと瞬時にやらなくてはいけないのです。
自分の体調がどうであれ意志がどうであれ、求められたことに対して、体が使え声が使えないといけません。笑っていていきなり泣けと言われてもできない。それだけ凝縮された時間の中で扱えるようにするために、普通の人並みでは足らない。
だからといって、全くゼロのものをつけるのではなくて、みなさんが今持っているものをもう2、3割アップするぐらいで考えたほうがよいです。
普通の人は、2、3割でよいと言うのですが、みなさんの一番よいときの状態に、さらに加えた部分です。
ヴォイストレーニングの効果を出していないところのやり方というのは、皆さんの中で声のよいときと悪いときがある、その悪いときより悪い状態でトレーニングをやるのです。

私はトレーナーやプロの講習をやるのですが、素人の方というのは波があるのです。調子のよいときと、全然出なくて体調が悪いときと。
ヴォイストレーニングで考えるのだったら、自分の一年間でバイオリズムでもよいのですが、自分の一番よいところの部分をベースとして、それ以下でやらないことです。
声楽の先生も、ヴォイストレーナーも、難しいものを与えて緊張させたところで、声を出させてということをやっていると、逆効果なのです。
ちょっと声がうまく出たからと言っても、こんなことでやらないで、それこそキャンプでも連れて行っていったほうが、声はよくなりますね。

○繰り返しとオンすること

日本人が声を出すところというのは本当に少ないです。特に現代人はそうです。
これは韓国とか中国とかに比べても、本当に少ない。例えばサッカーの応援でも、日本人というのは後半になってくるとみんな喉が涸れているのです。連続で行ったら、次の日は声も出ないです。ところが彼らは、後半あたりから声が出てくる。日頃それだけの量で大きさも使っているということです。

私は先日、インドに行ってきたのですが、運転手と運転手の友達がいたのですが、その友達が4時間50分ぐらいしゃべり続けているのです。こんなことやっていたらヴォイストレーニングやる必要はない。けっして特殊なものではないということを理解して、レッスンしてください。

何をやるところかというと、基本的にはオンすることです。この考えがあまりにないのです。トレーニングというのはやらなくてはいけない。繰り返しながら、必ずよい状態が出せるような条件をつけていくのです。体を変えていく、感覚を変えていくということは一朝一夕にはできません。繰り返していく。繰り返していくのですが、繰り返しが力をつけるというふうに思っている方がいるのです。歌とか芝居の場合は必ずしも、それだけではないのです。

繰り返すのは繰り返していない人よりもよくなるというだけです。長くやっている、声をよく出していると、それをやっていない人よりはよくなるけれど、それをやっている世界においては当たり前のことです。リピートというのはひとつの条件ではあるのです。何のためにリピートするのかというのは、オンするためです。次元を変えていく。
英語でいうと、ずっと聴いていたら、あるとき訳さなくてもパッと入るようになってくる。そうすると次元や感覚が変わっていくわけです。

○待っていてキャッチする

芸事をやると多分、何回かそういうことを経験されていると思います。歌でもあるとき、こんなことができるとかいうことが起きます。
ただトレーニングをきちんとやっていないと、そのときで終わってしまうということなのです。自分の感覚のところできちっとそれを予知しておいてそれで体なり状態が整うのを待ちます。
トレーニングというのは、この状態にあまり任せていられないから、今日の調子がよいとか悪いとか言われる。それを鍛えていって、もっと条件をつけていくということです。

例えば「腹式呼吸をやりましょう」というのも、では何で息を吐いたり息を長くしたりして鍛えていくのかというと、状態にまかせていられないからです。もう体自体を条件として強い人にしてしまおうと。
清原選手のやり方です。打てるとき打てないとき、いろいろなときがあるし、勘で打てたりできないときがあるから、体をもう変えてしまえと。エンジンそのものを大きくするというのは、ひとつのやり方です。
こういうところは、他ではあまりやっていない。これは楽器作りです。ヴォイストレーニングといわれていても、楽器作りはほとんどやっていないのです。楽器を壊さないように、みんな調律をやっています。調律でやれるぐらいなら苦労しないという話なのです。

プロが調子悪くなったというのは調律でよいのです。清原選手が打てなくなったといったら、フォームを直せばとなります。私が打てなくなったら、どうしようもないですね、フォー ムを直しても打てないのだから。
そういう意味でいうと、この楽器の部分、それから演奏の部分、これをきちんと創っていかないと感覚が入らないです。

○耳のアンテナと書く勉強法

ヴォイストレーニングがわかりにくくなったら、役者でも歌い手でもよいのですが、わかりやすい人を見る。実際に歌い手は皆、ヴォイストレーニングをやっているわけではないのです。歌としてそのレベル以上になっているわけです、ということは、彼らがやったことは一体何なのかということを追体験させたほうがよいということです。

絶対にやっていることはひとつあります。自分よりひとつ前の世代の最高のものを聴いていたということです。
私がいえることは、それを聴いていてそうなれるのは、天才的な人で、何万人に一人だということです。この歳になってわかってきたのは昔聴いていたときに、全く聴けてなかったなということです。
それを例えば、3歳とか5歳でマイルスデイビスがわかるような人がいるような国と比べても、仕方がないのです。同じものを聴いたときに20本のアンテナでひとりは受け止め、ひとりは1本でしか受け止めていない。少なくとも10本ぐらいアンテナというのはある、それを立てましょうということは、レッスンの中でできるということです。

みなさんが勉強するときに、ここでもいろんなやり方とっています。こうやって書いてもらうというのは読み書きの教育を受けてきたのですから、書きやすいわけです。ところが10個の質問を、順番をきちっとつけて言ってくださいというと、我々はメモしないとできないですね。ところが欧米人にとっては、逆ですね。書けというと進まないのですが、言ってごらんと言うとちゃんと一番よい順番に並びかえて、途中にジョークまで言える。それは訓練の差なのです。

別に彼らの頭よくて我々の頭が悪いわけではなくて、彼らから見たら10個の質問をさらさらと漢字を使って書けるのは天才。それだけ国語の時間を費やしました、我々日本人は。だからあまりに音声のことをやっていないから、そこの部分をやらなくてはいけない。

○レッスンとトレーニング

レッスンに関しては、オンする。オンということは、今までやっていない感覚も含め新しいことを得るということです。
最初はいろんなことが起きます、低いレベルでは。でもこれが段々起きにくくなってくる。それに対して常に刺激を与えて、それが起きていくようにしていくのがレッスンなのです。
レッスンにきたときだけに起きるわけでない。むしろトレーニングをやっている中でそういうことが起きたら、それをきちっと積み上げていく。積み上げていかないと意味がない。歌とか声の世界というのはおもしろいもので、1年ぐらいでめきめき上達する人もいますが、30年40年やっても全然上達しない人もいるのです。

いろんな先生のところついて、いろんな人がきますけれど、有名な先生について見てもらったのに、最初の音で外す人もいます。先生の教え方がだめだったのかというと、そうではなくて、先生もそれを見逃さざるを得ないというままできてしまっている。
そういうことに対する配慮とか神経とかが、その人の中に音に対してないわけです。人間関係に対しては、社会が鏡になります。音は、何を鏡にしますか。

○自分の持って生まれてきたものとは

私からいうと、ヴォイストレーニングというのは、いかに繊細に丁寧に、声を扱うことができるかというところです。このためにパワーが必要だったり、全身が必要だったりします。これは何のために必要かというと、作品創るために必要なのです。いろんなヴォイストレーナーには、首をかしげたくなる人もいます。「○オクターブでるようになります」とか、「高い声や大きな声が出せるようになります」とかは、目的でも何でもないのです。歌の世界から考えてみたら、何オクターブもの歌というのはないです。

高い音を出したいというのはわかるのですが、それが苦手な人が10代に高い音が出ている人と勝負していくということは、どんなに不利なことなのかというのは、表現の世界から考えたらすぐにわかるはずです。
持って生まれたもの持って生まれてないものがあって、自分で与えられてきたものを磨くことによって高まるところまででよいというのが、私の考えです。

だから他の人より、音域が狭いということでもよい。役者さんあたりでも、昔は声量のないのが許されなかったのは、音響が弱かったからです。マイクもなかったからです。アナウンサーは、顔がでかくて顎が角張っていて、そこに音が集まっていないとダメ、そんな顔の人のほうがよいとか言われていた時代もあったのです。それは歌い手でも、役者でも、まず声が届かないことにはならなかったからです。
今そんなことはないですね。本当はそういう条件もあったほうがよいのですが、それだけがすべてではない、むしろ日本の場合は、逆になってしまっている場合の方が多くなっています。そういうところで声楽家みたいに声を出していくことだけが能ではない。むしろその使い方に対して、知っていく。

音域も声量も、私はその人が神様から与えられたものが、邪魔な使い方でうまく生かしきれていないところが開放されるところまででよいと。誰かが持っているような音域のところまで、真似してやったり誰かと同じだけの音量が出なければダメだなどと考えないことです。

表現の世界というのは、そんなものは必要とされていないのです。表現の世界で必要とされているものというのは、完全にコントロールできるところの声です。確実に出る声です。もっと言うのであれば、美しい声とか綺麗な声と言う前に、タフな声です。風邪引こうが寝てなかろうがそんなことでダメになってしまうような声は使えない。というよりは当人にとってつらいです。実際現場の人たちにとっても。
そんなところで見ていくと、案外とやることは限られてきます。そんなに難しいものではないということです。

○変わることに気づく

何をレッスンにくるのかと言うのだったら、変わるということに気づくということです。気づかないこと、入っていないこと、あるいは足らないこと、そういうことをやっていけばよい。
では、その基準をどうとろうかといったときに、ここは年配の方からトレーナーの方、声楽家、私よりもベテランの歌い手の方もきていますから、そういう方に対して、こちらが上からモノをいうことはできません。そうしたらどこで基準を取るのかというと、たまに違う国の人もきますけど、多くの方は日本人です。しかも、日本語で生活をし、日本の風土の中で生きてきている。そうしたら声に対して、これは異論もあるかもしれませんが、あまり国際的に見て、日本人は優れた国民ではないと考えます。

優れていないというと誤解なのですが、今必要とされている歌とか芝居とかに関しては、かなり欧米のベースのものが入ってきていますので、そういうベースの上でやるとしたら優れていないということです。
ここも音楽の先生や邦楽の方もけっこうきています。邦楽の先生は80才でもすごい声ということもあって、その国のものにあったものは強いのです。それはそれで優れていると言う部分があるのです。
現実的に日本古来のもののほうが、特殊になっているのは困ったことなのですが、私たちが必要とされるのはどちらかというとそうではない世界のことです。声楽については、また別の機会にあげます。

○息

日本人がまず入っていない部分、耳で聴こえないところ、そこから入っていきます。英語とか外国語の勉強でも、最近はよく取り入れられています。まず我々の聴かないもののひとつが息です。
腹式呼吸だけで考えてみたら、どこかのスクールに行ってもよいのですが、本読んで寝転んでみて、お腹が動いたからって、そんなものが何になるのかということでしょう。みんなそこでできます。営業マン研修だったら10分間でできてしまう。その一方で声楽家は40年たって、まだ呼吸法ができていないとは、それはどういうことなのでしょう。

最近、私はもう呼吸法とか腹式呼吸と言わないで、単に深いということで言っています。その息を吐いてみればよいわけです。
こういう人たちがこうなっている、現場でそう使われている。だから現場の中に答えがあるのです。それをマニュアルの中に求めてしまうと、「「はっはっは」とやっているのは、正しいのですか」、「こっちが正しいのですか」、「マニュアルのように5秒伸びないのですが、4秒ではダメですか」とか、適当です。齋藤孝さんは吸う、止める、吐くを、3秒2秒15秒にしています。「合わせて20秒だと1分間で3回で、覚えやすいでしょう」という理由です。

初心者の人は覚えやすくないとやらないのです。できたら、先に吸ってから吐かせるより、逆のほうがよい。呼吸ですから最初に吐いて、その分入ってくるほうが人間の体としては自然なのです。難しいことをいったら、誰もやらなくなるのです。まず、やることです。その考え方のほうが、私は実践としてもよいと思うのです。1分間で3回とそうしたら、5分たったら15回やったとわかる。

普通の人はそれさえやらなくなるのです。こういう話をしていると、その日にやる人が1割です。一週間から一ヶ月続く人は1パーセントか、もっと少なくなる。太極拳をやっているとか、そういうふうな日頃の中で運動を取り入れたりジムに行ったりしているような人たちは、その時間の中でそういうことを意識するだけでも随分違ってくると思うのです。
呼吸というのはそれだけ使っていけば深くなります。そういう部分からです。息というのはとてもわかりにくいのですが、浅い息って何かわかりますね。人間死ぬ前になると、息が浅くなってきて具合が悪くなる。

「ハーーー」とゆっくりやると、私は1分半ぐらいできるのですが、肺活量は関係ありません。普通はあまり音にしないのですが。わざと音をだしているわけです。こんなことできたからといって、何もならないのですが、でもトレーニングというのはそういうことです。
秒数というのはわかりやすいですから、30秒40秒になった、成長したみたいな感じになりますね。チェックする分にはよいのですが、息を吐ききった状態というのは使えないですよね。歌の中で40秒ノンブレスというのはないです。せいぜい15秒ですね。そうしたらいらないのです。
もっと完全にコントロールするために必要なのです。浅い息だとコンとロールできないのです。
ところが「ハー」と、こういう息だと、小さい声でも大きい息でもコントロールできる。そういうことは、ベテランの役者なら、こんなトレーニングやらなくてもできます。あるレベル以上の人だとできるようになっているのです。

○先生の限界と自分の判断

そういうのが本当のもので、実際にやれている人の中にあるものが、本質的なものなのです。
マニュアルとして取り出されたものというのは、普通で生きていたら、長くかかる。あるいは普通で生きていたら、できないことを集中してやれるようにする手段です。だからどの本でもよいのです。よく「どういう息の吐き方がよいのですか」と作っているほうもだいたい適当ですから、生徒にためしながらも、一番の効果はわからないのです。

自分の体でやってみて、実感したものにしているのでしょうが、トレーナーの一番大きな誤解というのは楽器が違います。私ができることというのは、必ずしも皆にできない。声帯が違うからだめということではありません。それぞれが違うところなのです。
自分が相手やれることはできないと、とてもわかりやすいのです。相手がやれることでも自分ができないことと、自分がやれることをみます。自分が天才であれば、やってみたって何もならないです。
優れた先生はたくさんいるのですが、生徒を自分の半分以下にしてしまうのです。特に日本の場合はそうです。
考えていないので、なんとなく先生のミニチュア版みたいになってしまう。みんなそうです。継承するごとに、どんどん小ぶりになってしまうのです。

先生を真似してしまうということは先生以上になれないのです。感覚を勉強すると学ぶというのは真似ぶということです。そんなことは真似れるのだったら苦労しないよという話なのです。ということは、もう声を使ってきているのだから、もしそのことが力があってできるなら、すぐできてしまうのです。
その場でそれができないということが問題なのだから、それを真似させて覚えさせる。無理に音だけ届くだけなのに、そういうことでできたという間違いが起きるのです。

普通に生きていたらあまり間違わないのです。トレーニングをしたり、何か変に頭の中に理論を作ってしまったりするから、おかしくなるのです。ここの理論がどうでも、私はひとつもやれとは、言っていない。好きなようにやればよいと言っている。それを勝手に自分で福島の理論だと思ってやって、それで効果が出ないと言われても、そういうものはないと思えばよいのです。そういうものに頼りたがるからおかしくなってしまうのです。

みなさんの中で一番ベースになるのは、自分のことばや声が人を動かしたり、人の心に何か与えたとしたら、そのときの声、そのときの呼吸がベースなのだということです。それ以上にそこで声量があったとか、そこで発声法ができているとは、あまり問われないです。ただ舞台になったときは、特殊な場なのです。日常の呼吸では通じないのです。展開も速いし、一時間ぐらいの中で、一生とかを演じてやらなくてはいけない。そこでは、少し日常の呼吸では間に合わない。そういう部分は鍛えておかないといけません。

だから呼吸でいうと、自分でやりやすいやり方でよい。きちっと心を澄ましてみれば、正しいというのは直感的に分かる部分はあっても、トレーナーの先生に言われたからといって、あまり気にしないほうがよいです。そこはあなたの判断でやりなさいというときが多いですが、あまりにひとりよがりになっていたら、こちらでそのときには言葉で言う。それ以外はもう見てるだけで、本人の中で正され、自然になるのを待ちます。
修正する感覚が働いてこないとしたら、それは雑だからです。雑に扱っているからで、丁寧に扱おうとしたら、そういう感覚が戻ります。
バットでも剣道の竹刀でも、棒を渡されて10回振ってみると、そのときの10回のうちのこれがよいとか、今のダメだとか、わかるものです。今のは入り方がよかったとか、抜き方が悪かったなとか、直感的にわかるのです。
ある程度いろんなことを経験しているとですが。何でも他の経験に照らし合わせて、違うものというのは、自分に受け入れられないしあまり合わない。
いろんな先生のところで、顎あけてとか口あけてとか無理にやっても、変なことやったなで、1年か2年たったらやめてしまうことになります。最初はそこに何かがあると思うのだけどそうではないです。そういうところで捉えていけるかです。

○日本人の耳について

日本人の耳のことについて述べます。少しややこしいところなのですが、私たちがどうして息でとらえられないかというと、必要がないからです。日本語というのは高低アクセント。というのは「箸」「橋」、「雨」「飴」これがわからないと伝わりません。例えば「ame」「hasi」となったらとてもわかりにくいわけです。要は両方が発音されていなければいけない。響いていなければいけない。音の高さがわからなくてはいけないのです。高低アクセントというのは、息では困るわけです。ですから両方を響かせて言語にするのです。

日本語というのは、そういう意味で響く必ず母音が中心についている。母音中心のめずらしい言葉なのです。高低アクセントというのは、音程アクセント、メロディアクセントと言います。どうしても我々の耳はこちらを中心に考えます。発せられているところの母音を中心に考えます。

音楽では、言葉とメロディで捉えるということが大きな特徴と出ているわけです。一方外国語というのは、例えば英語の場合、「ハー」と吐くのが中心です。こういうところの真ん中に強拍、息の塊みたいな形で勢いをつけることができます。弱拍がこれに巻き込まれます。これが強弱アクセント中心、いわゆるリズムです。それとともにこの息をハーっと吐いて、これをさまたげて音を創ります。唇とか歯や舌で妨げます。子音が中心の言葉です。

○発声の4ステップ

発声ということについて、4つの段階を踏んで覚えておいてください。
まず声のエネルギーになっているのは息です。呼気、吐く息です。吸っては吐いて酸素交換するわけです。
吐くことに対しては、長く保ったり、吐く中で声を扱うという技術は、もともと持っていないのです。こうやって生きている間はだいたい吐く、1.5秒ぐらい吐いて1.5秒ぐらい吸って均等でやっているのです。

ところが歌とか言葉は、吐く時間を長くするわけです。そして瞬間的に吸わなくてはいけない。何で腹式でやらなくてはいけないかというと、こういうことから腹式が必要なのです。腹式呼吸ができないと現場で困るのは、もう息が全部なくなるくらい声を出しつくした瞬間に、瞬間的に入っていないと、次のところにいけないのです。

普通の人だったら、こう急に入るようなことを2、30回やっていたら、お腹が痛くなると思うのです。
そうしたらその速さで準備できないから、歌とか芝居では遅れてしまうわけです。ところが中国人、アメリカ人、イタリア人など、日頃から巻くしたててケンカ腰に発しているようなところだと、そういうことが体も身についています。
そういうのをスポーツで身につけるのもひとつのやり方です。呼気が声帯のところで、喉頭原音という、響きのないブーというような音に変換されます。これで声のもとの音ができます。これが声道、咽頭のところからつながって、出口のところ鼻とか口のところまでで、共鳴するわけです。で、我々が聴いている音になる。

○母音から子音中心に

この3段階、呼気の部分、息から声への変換の部分、それから共鳴の部分、ヴォイストレーニングというのは、だいたいこの3つのところ、とくに声楽に関してはこれを鍛えようということです。
で、アナウンスとか話し方教室なんていうのは、ここから調音します。医学的には、構音というのです。いわゆる言葉、言語化にするところです。そこまでの言葉は、母音なのです。
アイウエオというのは、口の中の大きさ、舌の高さと位置で空間を変えます。音の集まりでできてしまうから、ここまでは楽器なのです。楽器と違って、それを邪魔して子音をつくる、人間の場合、言葉をつくるのです。鼻とか口の出口の前に、唇とか歯とか舌とかでつくられるわけです。

ここまでで、日本語は母音、外国語、英語は子音が中心です。子音がたくさんあるということは、息を吐いて、そこで妨げてつくるわけです。日本語というのは、あまり息を吐かないのです。だから腹式呼吸もあまり必要ないのです。すぐにできてしまうから、鍛えられないのです。
彼らの場合は、息を吐いたところを妨げなければいけない。そこのところにいろんな音色ができるのです。
彼らの音楽は、音色とリズムが中心です。ラップはことばで、メロディがついているわけではなく、リズムがついていますね。
スキャットは、逆に、言葉はついていなくて音色だけ。ドュビドュビドュビとかダダダ。これだけ大きな違いがあるわけです。

だから彼らと同じような体をひとつのベースで考えていくのです。どちらがよいという話ではないのです。両方できるようにしたらよい。なのに、あまりに日本人はこちらしかやってきていない。
こういうことをやっておいたほうがよいというふうに考えて、後で使いたいように使えばよい。
今までこういうふうな聴き方しかしてないのなら、音楽をやる人はもっとこういうふうに聴いていけるような耳にしていかなくてはいけません。

この切り替えをやるだけでも2、3年かかります。かなり柔軟な人で2年ぐらいで切り替われば早い。
切り替え方を教えると、みんな聴いていて、切り替わったと思うのですが、そんな簡単なものではない。相当耳のよい人でも本当の意味で切り替わるのにかなりの時間がかかります。
英語で歌っている人も、音色とか強弱では動かせていないのです。まず息が吐けない。英語教室では、リズムを使ってやっているところもあります。発声からいうのであれば、息を吐くことをやらなくてはいけないのです。

たまにそんな先生います。英語で息を「ハー」と吐いてここの上に乗せなさいと。一番言われるのはFの発音、「フー」と言うだけでは仕方がない。で、これがどういうふうになるかというと、彼らの場合「つめたーいことば聞いても」こんな感じになります。「冷たい」ひとつをとってみても違うわけです。

○伝えたいときと伝わるとき

我々というのは、体ができないうちにその音をとりにいってしまうから、そこのあてた音だけで、できたと思って先にいってしまうわけです。
本当はあてるのではなくて、表現できないと使えないのです。ですから、後々になっても何も変わらなくなってしまうのです。
体を使っているところの喉というのは、必要性を与えないで、あてていったり響かせたり、すると結局、体というのはいつまでもできません。本当にそこまで変わるところまでしか変わらないです。スクールの発声法では見えてしまうのです。歌うと。それも間違いというよりは、要は本人にそういう勘がないからいけないのでしょうね。そういうふうに歌わせている、合唱団みたいなもので、気持ち悪くて聴いていられないです。もう少し体から歌えばよいと思うのです。元々我々の声というのは、そういうふうになりやすいのです。

声が出るとか響く声が出るとかは関係ない。聴き手が聴きたかった声というのは、あるいはいいと思う声というのは、相手が伝えようと強く思っているときに聴こえるわけです。DNAで継承されているのでしょう。

ですから私は、よい見本をみせるときは、本当に伝えたいと思う。伝えたいときの状態をフォームとする。
逆に、「ハイ」とどこか部分的にひっかかるのが続いたら、危ないと思います。何か喉を壊しそうだとか、よくないなと聞こえます。そういう部分で判断していきたいです。
きちっと伝えようと思うと、正して「ハイ」。そういうときにはどこにも響かない。「ハイ」は、一番操作しないところ、本当に伝えようと思ったときに体から何かを出した声、だいたいは喉声になる。
人の耳にパッと入る、赤ちゃんが泣いている声とか、そのほうが飛び込んでくる。ということは役者が持っている声を、歌い手は必ずしも持たないですね。音を届かせなくてはいけない。そういうふうに考え成り立ってきた。

それなのに、音楽は音を取らなくてはいけないとか、ピッチ下げすぎとか、もともとその人の感覚の中に入っていることを始点としていない。伝えたいと思わないだけで、そういう練習を積むことがどのぐらいよいのか、体から声を出すことをきちんとやって、後はその声をどう使うかは別にしてよいでしょう。
音楽でどう使っているか、フレーズの中でみます。言葉もそうです。クセのある声や言葉というのも、一音でなくフレーズでみます。
正しいものをどう判断するかというのは、まずひとつは繰り返しがきくかどうか、基本があるというのは再現性があるかどうかということです。100回できるということです。どこかで間違ったりクセがあったりすると、うまくできなくなってしまいます。体力とか集中力の問題もあります。
もうひとつは、実際にそういう状況になったときに、そういう声が選ばれていくというのがあります。

自分の中では必ずしもよい声ではないのです。6時間とか8時間しゃべっている。実際の舞台では、深い声を使います。そういう声はみなさんにとってはけっこう圧迫感があると思うのです。そんなの2時間も聴いていたら疲れます。普通の声でないが、自然に使うのです。それはできればよい話です。判断はつくわけです。
その人が心を込めて何かを言ったときほどにも伝わらないような歌とか役者のセリフは、所詮使えません。そういう基準でみれば、すごくはっきりとわかる。自分で100個ぐらいの声で言っても、ひとつも伝わるものがない。
そこから始まらないとトレーニングというのは成り立たない。

○プランニングする

トレーニングというのが厳しいものではないのです。厳しい基準を持たなければ、かえってわからなくなってしまうのです。高いレベルの歌い手を見本にしなければいけないのは、こういう人が身につけている息とか体を身につけようと思ったほうが楽にできないが、ギャップがつきつけられるのです。J−POPSの歌では、俺のほうがうまくなったのではないかと、まして、声のほうは俺のほうがよいのではないかと、そちらの方向に行ってしまうのです。
必要性ということです。自分に必要性を与えると解決すると思うのですが、声はギャップがきちんと見えていくからタイヘンなのです。
問題として生じさせていくわけです。
問題がないと、やりにくいです。要はそれは使っていないではないかと、これでよいですと言われたら、じゃぁそれだけのことなのです。

ヴォイストレーニングは、感覚を本当に磨かなければいけないようなところです。ダラダラしていたり、時間的なスキが見えていたり準備状態がないと、身につきません。これの5秒ぐらいをコピーしてアレンジして作品として出す。3年4年ぐらいのレベルではできない。
一瞬でも入れたら可能性があるということで、それでよいのです。できなくてよいということではなくて、そこにきちんとギャップを持っていたら、近づける。
ヴォーカルほど計画性のない人というのは、世の中にあまりいない。声に関しては、ヴォーカルに限らずわかりにくいですね。トレーニングというからには計画するべきだと思うし、目標は定めるべきだと思う。いろんな感覚が磨かれて、いろんなものが入って実際に変わっていくことだと思いますから。そういうふうに接点をつけないで伸びないのは、当たり前だと思います。

現場というのは正しいとは限りません。声が大きい人と強い人というのは、声を出していることを気持ちいいからそちらのほうに持っていってしまうのです。周りの人も驚いたりするから、効果と思って直らなくなる。
でかい声を出すというのは、説得力を持っているということとは違います。いろんな声の使い方があって、その中で判断すべきことです。
声から考えるのは、アーティストとか役者をやるということでみるよりも、よいことだと思います。

文章も書いてみると、他の人が書いた本では、ここはこういうつもりで書いたとわかるところがあります。専門域で声ということは、嘘発見機ではないけど、ことばで嘘をついても、女性は声で見破る。日常の中でも声が持っている部分の働きかけの要素というのはけっこう大きいのです。電話も全部声です。言葉で聴いている部分以上に、その人の気迫であったり、落ち着き具合であったり、ごまかし嘘くさい声であったり、判断は10代ぐらいではわからないでしょうけれど、面接とかで顔みたりして判断すると、声はけっこう嘘をつけないのです。

舞台の世界というのは、わざと利用して嘘をついている世界です。悲しくもないのに、悲しがってみんなを巻き込んで、おもしろくもないのにすごいおもしろくおかしくやったりする世界です。そういう人には通用しないかもしれないけれど、普通の一般の人に、今日具合悪いとか、何か知らないけどよいことあったのではないかとか、顔色は見えるわけです。声には重きを置いて生きている人と生きていない人がいます。役者はセリフでとても鋭いです。いろんな声を使いわけたりしなければいけないということで、人の声を聴いています。
一番疎いのはヴォーカルかもしれません。本当によい歌というのは計算したとかしていないではなく、結果的に優れた歌い手が声をそう使ってしまうところに存します。頭にアンテナがあって、声をもっときちんと捉えていると、随分変わってくるわけです。

○内側から変えていく

ヴォイストレーニングに関して、結論からいうと、内面とはいいませんが、聴き方、イメージが変わっていかないと声の出し方が変わっていかないのです。意図的に声を低くしてみてしゃべってみたりするレッスンもひとつの刺激だとは思うのですが。そういう形で見ていくと、日常の中だけでも変わってくるのです。腹式をどうやるのかとか、発声法をどうやるのかというのは、一番よいやり方ではなくて、必要性、何でもよいから、表現の大がかりのものを自分のたったひとつの体でよいから、そのレベルのことをやってみようと思ったときにわかってきます。

落語でも何でもよいです。そういう表現を体力ないなら、もっと体力鍛え、もっと息を吐けるようにします。もっと大きな声が必要という感覚から入れていきましょう。ボディビルみたいにコースや英会話みたいな指標は、いずれ作りたいとは思っているのです。適当につくっていっても、あまりに個人差があって、分析してもらっていますが、むずかしいですね。
よいところのデータを取ってくることはできるのです。データからどうか、どの人が一番よいかということはわからない。うまいということを前提に全体をみたら、まだ見えない。
でも物理的に声は必ず分析できる。波の振動をとらえて判断する。要は分析してみたらそうでなかったのに、CDでかけてみて感動できるとしたら難しい。それは音にしかすぎない。人間の全身に物理的な現象から入る。

体に関しては一回柔軟にし、できるだけ精神的に前向きにする。声の場合は本当に気の持ち方です。その日によいことがあったときには、声がイキイキしてくる。そうではないときに、その声を出せるように気をつけようというぐらいです。そういう声はあるのです。
それ以上のことをやろうとしたときに、声を支える要素をいろんな意味で鍛えて、自分が何をやっているかを知っていくことです。
鏡があると、口紅がはみ出しているとチェックできる。テープで聴いて自分の感じで出してみた声が、こういう感じで出すとこう聴こえるのかということをまず結び付けましょう。

セリフの繰り返しからのほうが、日常的には使えるものになる。以前ここでも映画をかけてやらせてみた。評決モノがよいですね。裁判で弁護士なんかでまくし立てていく。グラミー賞とかアカデミー賞とかにも、優れているものはたくさんありました。英語もそうですね。日本では、田中角栄さんぐらいのものが代表になっているのでしょうか。小泉さんのでは練習にならないし短すぎる。

○声の本質とは

本はたくさんあります。身近な人に手本もいると思います。
だから歌の要素のことをやっておいて、生かすということで私はよいと思うのです。化粧もファッションも、芸から落ちてきたものです。当然声もそういうふうなところからヴォイストレーニングはあります。
ただ日常で、あまり歌や演技を特殊なところにおくと、何がよいのかがわからなくなってしまう。
ヴォイストレーニングをやって、世の中で失敗するとしたら、本当に声のことを勉強していない。やったら世の中を動かせる、やりたいようにやっていけるのが、声の力です。そういう人の持つ声の力に負けているのです。みんな技術を目指していますが、そのものではないと思うのです。
歌も認められない。ある時期、声に関心をもつというのはとてもよいことではないかと思っています。自信を持つ持たないという問題だと思うのです。正しい話し方があったり大人の話し方があるということではない。そこから何が出てくるかということです。

業界になってしまうと、なかなかそうはいかない。今はこういうのが流行りだからと。こっちに向いているとか需要のあるところに歌える人だったら、ひかれてしまう。そういうところでお客さんが、そういうことにあまり左右されないでできるのであれば、もって生まれた声というのを本当の意味で磨いていたらどれぐらいのことが可能性としてできるのだろうと。
長唄も朗読もよいと思います。そういう中で、ハードなことやったほうがよいです。レベルではないけれど、ひとつの声にしてみても、すっきりするのです。深いものと繋がるまで待つことです。声ですぐやらなくても、動きでやってしまえるのです、感情移入してやってしまうのです。だから臭くなってしまうのです。それはそれで民族性です。ただ、声だけでも気持ちよくはなる。

よくヴォイストレーニングをやるときに気持ちのよいところへ向ける。すると、気になりますからけっこう難しいです。
トレーニングを必死に2、3年やって、全部忘れ、どこか日本ではない国に行って、自然な環境の中に暮らしてみるとよい。やっているときというのはなかなか楽しめない。
カルチャー教室コミュニティみたいなものを作り、すっきりして帰るみたいな構造があります。宗教的なものは、やっている分にはよい。ただそれをもってゴスペルというのはどうかなと思うのです。小さいころから信仰してきている人に対して安易すぎる。そんなことでも声を出せる、ああいう音楽の中に声が引っ張り出されていくというのはよいのです。

○最近の問題は

ヴォイストレーニングといってきているのに、カンセリできている。トレーナーの才能を自分の最高のレベルで使えない、カンセリの先生として使われてしまう場合が多い。自分を甘やかすと、トレーナーがうまく活かせません。誰か自分を認めてくれるような人と接していたいというのは、本当は厳しいです。
現実の世の中そういうわけにはいかないから、ぶつからないのです。
昔は、理不尽なところでけっこう体験して、そういうところもあるけどそうじゃないところもあるとわかった。頭ごなしに怒られたことがないから、強く言われてもおびえてしまう。自分の声も出せなくなる。しゃべらなかったり声を出せないというのは、精神上悪いことだと思うのです。

昔、演技が大きくできるトレーニングがありました。企業でも割と大きな声で研修やっていた。社会に3分間スピーチがあった。それはそれでよいと思うのです。抵抗感がなくなるから体動かしたり声を出すということが何か損だと思っているから、だから体を動かしてみたり何でもなく自分で気持ちよくなる。
声を出したら得だよと、損得で考えるのだったら考えればよいではないか。声を出すということはすごく得なのだよと。小さな声出すより大きな声出す方が本当に得なんだと。大きく出したら気持ちよくなるし、すっきりできるんだから排出作業、カタルシス。カラオケとかは本来、ワイワイやるのですが、そういう現場になってしまうと、使えない。対応できないのですが。

日常の中で、例えば与えられたから話すのだって、苦労すれば話せるってありがたいことだなと、こうやって何か交流してるんだと、それは悪いことではないのです。いつまでたっても、頭の中狭いのです。もっと生かしてもっと知り合って、楽しい声も自信の表われですし、表情も暗くなって不健康に見えて相手からも距離を置かれるというか、批判もされていますけれど、ある意味ではその時期しかできないようなことをやればよいと思うのです。

会社と従業員とは一緒なわけですが、今結びつかなくなっているから、そこで一生、生きていくという覚悟ではないからやめる。昔は上司も選べなかったし、嫌な部下とも学べた。今は甘えて、自分自身3年いても何も学ばないで終わってしまう。何でもよいのですが、楽しいものでも、嫌だけど職場がそういうのを知っている人とやれたらよい。

にぎわいがないと、お客さんもやりにくい。シーンとしていて、ワイワイ、お祭りだと思えば楽しいのです。つまんなくてつらいのだけど、それを極めたところでおもしろさがわかってくる。クラブ活動は厳しいからやめたといわず、また戻っていけばよい。
昔はよかったというのは、それだけ頭を使うし、そのことをやることによって自分にあってるなということがわかる。どこに住んでもよいし、どこにでも生きるしかない。それしかなければ突き詰められる。厳しい修業だったらもう嫌だと思ったら、克服するしかない。何が自分にとって本当におもしろいのか、おもしろい仕事はない。我慢して音楽で食べられる仕事もある。考えることに限界はありません。