会報バックナンバーVol.181/2006.07


レッスン概要(2005年)

■講演会

Q.声のトレーニングで問うべきことは?

A.ビジネスの中でのプレゼンテーションとか会議とかで、話し方も含めてトレーニングするのもよいでしょう。
 例えば今の声でも充分に伝わっていますが、何か足らないとお考えになったきっかけ、どなたかに言われたとかありますか。
 自分の声が人にどう聴こえているかというのはつかめてないのです。話し方などでは我々も似たようなものです。

 舞台中心でやっていると、ビジネス的なマナーとか礼儀の先生みたいなところでの観点よりも、声の中で強いとかタフか、からです。表現ということでいうと演劇とか舞台のベーシックになっている部分というのは、社会でもビジネスの中でもそこまでの高さのテンションで使うかどうかは別にして、共通する部分はあると思います。伝わらないと分かるのであればでは何が伝わってないのかをはっきりさせていくのが一番よいのではないと思います。

Q.うまくなればプロになれますか。

A.うまさとは何なのかというところの部分、これがスポーツだと非常にわかりやすいですね、人より速いとか遠くとか高くとか。ところが歌の場合というのは判断する側の価値観に左右されてしまうので、それを自分なりにある程度、明確にしなければならないという部分があります。
 それから自分の今のスタンスです。昔は単純に、すごい歌がうまいプロと、今の自分とギャップがある、これを埋めていけばよかったのです。
 もちろん、そのうまいということに合わせて、例えばプロのをかけてみるとうまい、自分のをかけてみると何か下手だと、リズムが合ってるしピッチが合ってるし、でも発声はよいとは言えないと。そんな要素を入れていって自分の比べたときに、わかることがあります。

 ではその要素を全部満たして、そういう意味でうまくなるのか、あるいはうまなったときにどうなるのかというふうに考えてみると、案外とうまくしていったものというのは魅力がないのが多いのです。下手な部分を見せてはいけないというところにおいては共通しているのですが、それではもちません。
 それがプロとうまい人というのの違いだと思うのです☆。何をもってやれるかということの要素が歌の場合、難しいのです。

Q.プロのためのトレーニングの基準とは。

A.例えばプロでも演目によって全く状態が違ってくる。確かにアマチュアから言ったら、下手な人がいるわけはないのですが、それでも全ての歌でうまいのか、全ての演目に対して平均的に点数取れる人をよしとするのかというと、逆に難しいところがあります。唯一言えることは、それがわかること、そして調子が悪いときとかうまくいかないときにも、他の人以上の力はキープしておかなくてはいけないということです。
 毎日昼も夜も公演するようなことになればうまいとか下手ではなくて、次の日に同じ状態で歌えるかということです。
 大きな役をもらってしまうと鍛えられていない人の場合は、その日につぶれてしまいます。そんな人にはだいたいそういう役はきません。けれども、たまに一週間、一ヶ月やると、普通のときには大丈夫なのですが、何か調子が悪くなってしまうとガタガタと崩れてしまうような人もいます。

 これはもう使ってみないとわからないです。だからそういう実績を積める場みたいなものがあって、そこに基準があると言えるのです。
 ポップスやロックで自分の曲を作って自分のバンドでやっているくらいでは、わからないでしょう。
 うまくなりたいと言われても、そのうまいというのは、なんでしょう。例えば60年代オールデイズが好きな人がうまいといううまさというのだったら少しはっきりしているのです。歌の場合はそこで問われてるのではないところがあるのです。

 音楽をやるということよりも音楽の中に声の要素というのはかなり高いレベルで入っている部分が多いので、そこから見ていったほうがよいということなのです。でもひとつの方向性は置かざるを得ない。
 いろんな方々が様々なあらゆるバラバラなものに対してアプローチしていきたいと言ったときには話自体が成り立たなくなってしまうのですね☆。
 みなさんの念頭とするアーティストはそれぞれ違う、みなさんがよい声と思っている人もそれぞれ違う、ではそれなのに歌がうまくなるには、よい声になるにはというのは、おかしい。だからそういう意味では少し方向性をつけて踏まえていくというのが、トレーニングです。

Q.自分の素質とメニュの選び方についてアドバイスを。

A.トレーナーの好みとか価値観に関わらず、トレーニングをして伸ばせる部分に集中してスタンスをとらなくてはいけないということです。
 これは、トレーニングを自分でやるのであれ、どこか通っていらっしゃるにしろ、やっていくという前提で話しています。
 トレーニングでも、持って生まれたもので、もう決まってしまうのかという部分に関しては、声ですからある程度あります。

 例えばあなたがどうしても来月から女性の声になりたいのですが、となってしまうと、これはトレーニングではなくなってしまいます。女性ホルモンの投与のように、やり方はなくはないでしょう。が、声帯は戻せない。基本的にはヴォイストレーニングの中で解決できる問題に対してスタンスをとっているということです。

Q.体が疲れるくらい、やった方がよいのですか。ときどき、のども痛くなるのですが。

A.体が痛くなるとか、喉が痛くなるのはあまりよくないと思います。ヴォイストレーニングの結果、それも、例外的にOKにしてる場合がありますが、体が痛くなると、無理にそうやって鍛えられてしまう部分はあるとしても、どこか不快なイメージが入ります。
 ただ同時に固くしてしまったり、クセがついてしまう部分があるので、自分でやるときにはあまりオススメしません。気持ち悪くなるなどというのも、その日の体調もあればやりすぎというのもあります。慣れていないというのもありますね。だからひとりでやるときにはあまりオススメしていません。

Q.トレーナーの進めたメニュを独りでやってはいけませんか。

A.もちろん、一般的には、トレーナーの与えたメニュをやればよいでしょう。ただ厳しくいうと、トレーナーにつくときとひとりでやるときと分けるべきです。トレーナーというのはそれを知った上でそういうことが起きたときでもより優先させなくてはいけないことがあるので、それをやらせているからです☆。
 後で悪い状態になっていてもどれだけずれているかを把握していたら戻せる(あまりそういう優秀なトレーナーは少ないのですが)☆。そういう形でやらせる場合があるのです。ひとりのときというのは限度が分からないからどんどん思い込んでいく。

Q.スポーツの経験は生かせますか。

A.スポーツの経験がある人というのはとても身体能力が優秀ですし、自分で何か成し遂げた経験があるから有利です。思い切りもよい。ここでは注意点のみ、あげます。その結果、汗をかいていることだとか自分が苦しいこととか何かが力がつくみたいな錯覚になってしまう部分があるのです。これはスポーツ選手だけでなく日本人がけっこう陥りやすいところです。

 例えば繰り返しやっていたら何かになっていくだろうとか、努力をしていけば絶対にかなうはずだとか、それは嘘ではないのです。そうなった人は必ず繰り返しやっているし努力はしているのです。しかし、繰り返しのための繰り返しとかトレーニングのためのトレーニングというのは本当のことでいうと出口がないわけです。訳がわからなくなってくるのです。
 それと、学校で一番、実力があるレベルと、問われることが違うでしょう。歌や芸で、学校で一番レベルなら、成り立ちません。スポーツでオリンピックに行ったというなら別ですが。

Q.目一杯トレーニングをやりたいのですが、気をつけることは?

A.私も本で書いていたのは、体を使うのもよいし声をやるのもよいですが、音楽というものをきちっと入れて、その出口を見ておかないと、方向を違えてしまうと。要は人並み外れて何かを身につけようとしたら、それはかなりギリギリのことをやることになるのです。
 スポーツで考えたらよいですけれど、怪我するギリギリの練習みたいなことをやるわけです。そのときにテンションがとても高くなければ、あるいは回避能力がなければ怪我してしまう。
 サッカーでも野球でもそうです。はっきりいうと、私も若いときはなんとも思わなかったのですが、今考えてみたら、あんな危ないことよくやったなということですよね。野球のボールって石がぶつかってくるみたいなものですよね、ひとつ油断したら骨がすぐに折れてしまう。そういうのが平気でできてるというのは、そこに置かれていることもあるのですが、まだ体のことだから回避能力がわかるけれど声のことだととてもわかりにくいです。

Q.トレーニングが性に合わないようですが。

A.単純に悪いイメージがついてしまうことのほうがよくないですね。発声しようとか歌を歌おうというのは本来は気持ちのよいことなのです。でもレッスンとかトレーニングとかあるいは勉強とか考えた瞬間にとても気持ちの悪いものになってしまう☆。実際に息とか吐きますからね、これは別に声に限らず息をたくさん吐いたら気持ち悪くなります。それから過換気症候群、吐きすぎて酸素を吸入しすぎて、めまいがしたり頭が痛いとか起こる。
 それは自分の中で時間を短くするということと、そうなる前にそういうトレーニングをやめる、あるいは休憩を入れればよいわけです。
 「このメニューで3時間続けてやっています」と、「それは無理だろう」と。人間の集中力がそんなに持たないのと、カラオケで3時間歌っていると言うのも、トレーニングよりは気分が晴れたりする部分はあるのでしょうけれど、オンしません。
 教本で間違いやすいのは、目的は質を高めることであって量というのはそのために必要なのです。具合が悪くなったり状況を悪くさせるのであればやらないほうがよいという部分もあります。

Q.トレーニングで、のどの具合が悪くなる。

A.その場合、短くして間をあける。1分くらいのトレーニングでも1分やったら1分ぐらん、あけるほうがよいのです。
 レッスン場というのは時間がないから凝縮して目一杯つめるのですが、家でやるときにはその3倍くらいのペースでやってください。要は30分のことやるのに1時間半はかけてくださいと。時間をかけるというのは3倍やるのではなく間をあけるということです。
 ヴォイストレーニングで一番大切なことというのは声を出せることよりも、声を出せる状況を作っていくことです。理想的なことは、そのトレーニングをやった後にすぐには声よくならなけれど声のよくなっているような状態になるということです。

 何かヴォイストレーニングというのは習得するものと思っているでしょう。そうではなくて今の状態の中でも、よい状態と悪い状態というのはあるはずです。最低限、自分の力の中にそれがあるのだから、その1番よいところをきちっと自覚する。これが最低限になるようにしなければいけないということなのです。

Q.いろんなトレーニングにいったが、こんなのでよいかと迷いが深まる。

A.例えば自分の状態をすごい固めてカチカチになって緊張してやっているというのは、自分の状態よりさらに悪いところですから、一番悪いところでトレーニングしようと思ったら成果が出てこないです。

 そこで多くのヴォイストレーナーというのは、ほとんどリラックスして楽しませて固くさせないことに終始してしまいます。特にアマチュア向けのトレーニングに関しては。状況を作ることでやってしまうのです。劇団のワークショップとかと同じですね。
 実際カルチャー教室に行くと今どき怖い先生はいないと思います。本当は怖いのですが、そういう場所ではにこやかに、幼稚園児に対するみたいなスタンスです。
 確かにそういうことでほぐらせないと日本人というのは、自分ひとりで切り替えられないからです。
 強制されてやるのも変なのですが、そういう中に入っていなくとも心とか体が柔らかくならないとその後何をしてもダメなのです。
 自然な声とかよい声というのをヴォイストレーニングで作っていくと考えるよりも、すぐにその状態にすることのほうが大切です。

 ただ実際プロに対してはスタンスとしてはすごいテンションが高くて緊張した場面でその状態を取り出さなければいけないのです。人前でやることですから、ほとんどただのリラックスは通用しないといったら変ですが、そういう段階を経て、どこでも自分が切り替えをできる能力をつけていくということが一番大切です。

Q.教室で講義をしているが、伝わりにくい。

A.大学などで学生はもう講義を聞いちゃいないわけで、それを強制的に聞かせるということも必要だとは思うですが、そうではなくて、要は向こうにメリットのあることをそこで伝えられるかどうか、これを最初に分からせる必要がけっこうあります。
 内容がよければ一番よいのですが、もうひとつは意志の強さです。本気でどこまで伝えるかというスタンスを持つかということです。

Q.歌と話では、トレーニングも違うのではありませんか。

A.音楽を使うことが多いので、よく劇団の人とか声優さんとかアナウンサーの人なんかから「場違いかしら」と思われます。まして一般の人では、「音楽のところにきてしまった」と思われるのですが、私の中では全て同じです。

Q.声は出るのだが、歌ではピンとこない。

A.歌い手の声も普通の人がしゃべる声も我々日本人が一番考えなくてはいけないのは、出すことではなくて、その出した声が相手にどこまで伝わるかという感覚です。これが日本人にはあまりないのです。
 その鏡をやるのがヴォイストレーナーみたいなものです。歌い手でもそうです。今どきカラオケでみんな鍛えてますから誰でも歌えるのです。
 その声がどういう働きかけを相手に与えているのか。クラシックやまだ遅れてるところはけっこうトレーナー主体なのです。正しい発声法で響かせようと。でもお客はよい声を聴きたいとかうまい歌を聴いたいなんて思っていないです。

 実際に誰かが歌がうまかろうが声がよかろうが関係ないし、そういう客は客と言わないわけですが、でもそういう部分があって、するとそこから何が飛んでくるか何が乗ってくるかということが一番メインになってきます。
 その辺になってくるとその人の個性になってくる、ポップスで私はその辺を昔から研究しアドバイスしています。

○発声と感動させることの差とは?

 最初はクラシックの歌い手といかに響く声とか発声的な原理に正しい声に対して研究していく、それはそれでわかりやすいですね、フォルマントがどうなってるとかどういうふうな発声状態だというのは。ただその声と人が感動したり本当に心で感じたりしている声が同じなのかというとけっこう違うのです。むしろ何かしら下手、にぶいところがなくてはいけない。そこがポップスのおもしろいところですね。

 ピアノなんかでもミスひとつなく完璧な演奏というのは自動伴奏でもよいですが、綺麗だと思うし曲はよいと思うけど多分感動しないですね。ピアニストがいるとピアニストの音が見えるということもあるのでしょうが、それがいなくてもそこに微妙なズレを創るのです。例えば今のドラムとリズムボックスだったらリズムボックスのほうが完璧です。でもそのパフォーマンス部分は人間が一所懸命叩いているの見たほうが感動するとしても、音楽で人に伝わる部分に関しては人間がやらないとダメです☆。

 オペラ歌手なんかもそうですね、発声で完璧なものを歌としてブレスしてるのではなくて伝わるものをブレスしている。だから中にところどころ喉声になっていたり発声からいうと「えっ」と思うようなことが起きていても、そんなものを人は聴かないしどうでもよい。その辺から見ていくとよいのではないかと思います。とはいえ、たった一声で観客総立ちとなる声もあります。TPOが伴えば、奇跡が起きます。

Q.基礎とオリジナリティとの関係は?

A.日本では音声教育というのは成されておりません。必要を感じてやる、そういうことに微妙に対応してきたのは俳優養成の分野の一部だと思います。声優の学校からもよくこられています。学校では、声そのものとか声がどう伝わるかよりは、その先のことをやってしまうのです。演技とか感情移入など。それはそれで基礎だと思うのですが、その前に大切なことがある。
 話し方教室も実際のノウハウというのは慣れからです。話し方をうまくすることなど念頭に置いていません。要はその人の地が出てくればよいと、それが一番伝わると、それが心なのだということです。
 話し方を学んでアナウンサーみたいに間違えないできちっとできてしまったら、そんなにおもしろくない話はないでしょう。
 うまいとか正確だということと伝わるということは大きく違うのです。だから、この分野はおもしろい。魅力は総合力、トータルに磨かれるのです。

 歌も同じです。今アマチュアからプロになりたいという人がきますけど、もうそろそろうまくなるのはやめようよと、下手さを出していかないとだめだよと。
 うまくなるということはどういうことかというと、うまいという基準がどこかにあるわけです。それは何かと言うと「誰かのよう」にというのが一番大きいのです。
 例えば周りの人たちがみんなうまいと簡単に言えてしまう歌い手というのはどういう歌い手かというと、ステレオタイプですね。誰もが聴いている歌い手に似ているからみんな自信持ってうまいと言えてしまうわけです。
 本当にオリジナリティでやっていたら、まぁオリジナリティで出てきた歌い手というのは、最初ぼろかすに言われます。そのスタイルを変えないで、さらにこだわって深めていくと、はじめて生き残っていける。

Q.声や歌と作品づくりは、どういうスタンスでやればよいのか。

A.日本ではあまりプロフェッショナル思考がありませんから、本当に声がよかった人と本当に歌がうまかった人というのは一発屋くらいで終わっていますね。今20年くらい歌っているような人たちもそうではないでしょう。センスがあるとか作詞作曲力があるとかで、新しいものを打ち出す力はあります。つまり、創作力です。プロのほうがいろんな色をつけられてしまう部分があります。

 私の場合はいつも理想の部分と現場の部分で苦労します。現場ではけっこうステレオタイプ、うまく聴こえるようなことを求められます。
 例えばただの女の子、スタイルがどうであれルックスがどうであれ、我々が聴くのは声です。しかし、声は普通の人、歌は器用、それをプロにしてデビューさせているのです。
 すると実際にどういうことをやるかというと下手に聴こえないようにする。その人がルックスやスタイルがよかったり有名なところの出身だから通用しているだけです。ほかの人がそれ以上に歌えていても何ともならないわけです。そういう面でいうと切り分けていかなければいけないのでしょう。

Q.ミュージカルには、音大に行く方がよいのですか。

A.舞台によっても違ってきますね。いわゆるクラシックの唱法で日本の歌って全部やられていたのですが、もうこれだけヒップホップとかラップとか外国のものが耳に入ってくると、歌唱法で声楽の基本をやった人とは全く違うタイプの人ばかりが出てくる。
 ミュージカルでもアフリカンリズムとか民族色が強くなってくる。演劇的な傾向が強いのです。声楽は、必修と思って習えば、どこでもよいと思います。

Q.役柄上、ドスの効いた悪声が必要となったのですが。

A.人が嫌がる声を喉をつぶさないで出すというとても難しい課題もあります。そもそも人が気持ちよいのは発声の原理に合うからよいのですが、人が気持ち悪いと思うということは何かしらそこにひっかかりがあるからで、ということは喉をひっかけて出しているわけです。そういう出し方をしていたらよくない、リピートが効かなくなってきます。でもそういう声自体が役割で期待されているときに、どうヴォイストレーニングするのかと、喉に引っかからないようにしたら、よい声になってしまいます。人を不快にさせ、人を嫌がらせる声にする、というのは、そう出してもできるだけ基本に戻すというところです。
 そういうことを考えてみるとそれはかなり特殊な例ですが、役者には悪声の悪役がいます。これを扱うのは、私の所くらいでしょうね。

Q.声が悪いとは。

A.実際に人が自分の声をどういうふうに判断しているかということになったときに、元々理想の声があったりよい声があったり本物の声というのがあるのではない。それは日常の中から生まれてきている。先祖代々、遺伝子として残っている。自分に対して都合の悪いもの、例えば敵であったり危険であったりそういうものは嫌だと感じる。そういうものは受け継がれているのです。

○声のわかりにくさ

 個人の中の嗜好がありますね、どんなに一般的にはその人はよい声と言われていても、そういう人にずっといじめられてきたとか嫌なことをさせられたというのなら、もうその声が天敵みたいなものですね。そこの個人的事情には我々も立ち入れないです。
 私はみんながよいというあの声が大嫌いですと言われてしまうと、その人にとってはそれが真実なわけです。そうしたらその声がよいも悪いもないのです。

 匂いとか音の世界というのは我々の見る世界よりもさらに深いところにある。小さい頃お母さんのお腹にいたころからずっと聴いたりしているものです。だから非常に深い。
 それから年を取ってボケてきてもでも匂いのこと音のことは残る。例えば言語障害になっしまっても歌は歌える。というようなことで、声はとてもベーシックな部分にあるのです。
 そういうことを考えてもらえば最終的に歌のよいとか悪いとかというのは、遺伝子に働きかけるようなレベルというととても複雑なものになってしまいます。

 演技くさい演技も歌っぽい歌だって嘘っぽいもので、そういう場を与えられたから成り立つのです。その場の中ではよいのかもしれませんが、すべて取り外してみたら、通じようがありません。
 単純に考えたら、人がそれを聴かなくてはと思うもの。聴くとすごい得だなぁとか、癒されるなぁとか何かしらプラスで受け止めてきたものというのはよいものです。めざすものです。
 私の中で言うとよい声、悪い声というのはとても単純なのです。私の声の中でいうのなら伝えたいと思って伝えていたら、かすれてもそれはよい声、使える声です。伝えたくない、こんなこと、もうやめたい、帰りたいという気持ちで出している声は伝わらないです。だから、ごまかしが効かないですね。

 今日、覚えておいてほしいのは、日本以外の国にいたら、声に対してとても敏感です。オレオレ詐欺などで騙されないです。確認くらいします。音声というのをどこまで信用してよいのかというのを知っているからです。
 ところが日本人というのはそんなところで確認していないわけです。新聞に載っていたら正しい、ニュースで言われたことは正しいと。もうそういうことで騙され続けています。我々は反省しませんから、いつの間にかまた言われるとおりに信じてしまうのです。その人がどこまでそのことを伝えたくて伝えているのかを感じることです。もちろん、本人自体も洗脳されてしまったり本気で信じている分にはよくわかりませんが。

 外国でいうならニュースキャスターなんかはその人の目と同時にことばの中でどのぐらいの真実味を伝えられるかというキャリアを買われています。日本のアナウンサーみたいに大卒ですぐにキャスターにはなれないです。20年ぐらいそういう仕事をしてきて、というのは判断も必要なのですが表現力なのです。だから、そうは言ってるけど、それはきっと嘘なのだろうとか、これは本当なのだろうと、ことばだけでない部分で相手に伝えるということをやっています。日本人はそんなに疑う必要なく生きてこられましたから。だから外国に行くと声に対してはとても厳しいです。

 日本みたいに目で見て全部わかるようにしている国というのはありませんからね。
 駅名から次にどこの駅に行くからと、いちいちアナウンス、発車ベルと、とてもあるさいでしょう。案内表示板ばかりで、道路だったらここからは左に曲がればよい大したカーブではないのにカーブ危険みたいになっていて全部目で入ってきますね。
 ところが外国に実際行ってみると、アナウンスはひとつくらい。それもすごい大切なことも空港などでパッと放送で呼び出し、こないと出発します。耳が命なのです。声をひとつ聞けないために危険な目にあったりすごいデメリットを受けます。耳が鋭くならざるをえません。

 日本語教師の先生が外国人に教えようといったときに、困る。日本語教師になったのに、外国人の前で日本語を教えるのは、音声なのです。
 彼ら漢字の書き取りにくるわけではないです。音声の発音がよくないとか声が小さかったら誰でも手あげて、先生もう一度と聞く。あの先生わからないとなるのは当たり前ですね。私が受け持つのは試験に受かるためではないのです。受かった人が現場で通じるための声のレッスンです。それでは、試験は何のためにするのかということです。

 日本語教師と声優の分野ではヴォイストレーニングの中で必要性が増しています。ポップスのヴォイストレーニングの必要は、なくなってきています。
 だいたい20代の若い子だったら20代後半のその子より歌える子をつけて、そのまま教えればよいのです。声質がよくて音感リズム感があれば、別にそれで通用するというかもってしまうのです。そこでオリジナルにこだわるとか本当の声どうこうなどと言っていると出なくなってします。

 そういう面で言うと私は好きではないのですが、いちおう基準があったり、音大ではないですがボーダーラインやコンクールがあったほうが楽です。
 トレーニングとしていても、目標のないトレーニングは難しいからです。
 オリジナリティを生かしてオリジナルの世界を創りたいのでオリジナルの声をつけてくださいと言われてもいったいどうすればよいのでしょうか。

 もうひとつはお笑いの人たちですね、きちっと勉強しています。声が伝わらないとお客の笑いが取れない、昔の落語家、役者と同じですね。ひとことが伝わらないために全部がだめになってしまうケースはとても多い。今一番厳しいのはお笑いですね。
 彼らには、かむことも許されません。それで目立ってしまいます。トレーニングで直ったのか現場で直ったのか考えますが、見ているとトレーニングではなく現場で直っていきます。レベルの高い現場を踏んでいると、ことばもきちっとしてくるし声もきちっと出てくるのです。それはテンションです。彼らの場合はわかりやすいですね、要は自分たちで言って、どんなに言えても客が反応してくる、それを動かしているかをつかんでいるからです。

 彼らは、ネタを作る力はありますが、それよりもどういう声でどういう表現するかでお客さんの笑いを取っていくわけです。ネタは、構成作家でもつくれます。笑いは、彼らでないと、とれない。本来。歌も、つくる人と歌手は、そういう関係にあったのです。
 だからみなさんが笑っているのはネタで笑っているように見えていて、声なのです。他のお笑いの人が同じネタをやってもおもしろくないのです。それはオリジナリティであるのと同時に彼らが声の独特な使い方を研究して厳しく練っているからです。

 昔テツ&トモがワールドカップの韓国戦のネタをやったのですが、ちょうど4分45秒で終わるのです。あの動作とか表情はともかく、音の世界だけで取っても、彼らのように構成を取れるものではない。本当にノッている人がよいネタを完璧にやりきったときというのは、1秒2秒も狂わない、間もひとつも隙がない、完全な入り方で入ってくる、それでひとつことばを声で伝えるのです。それはヴォイストレーニングとは少し違いますが、それをやるためにヴォイストレーニングが必要であるというスタンスです。そういう世界を念頭にしないとトレーニングの目標がとてもあいまいになってくる。目標があいまいなものに対しては力というのはつきません。

○切り替えと状況づくり

 一般的なことで言っておきたいことは、自分の中の一番よい声を出せる状況をきちっと見ましょうということです。それは声だけでなくてその人の切り替えの能力によるところが大きいです。
 トレーニングからいうと一般向けのワークショップではもう笑うだけでよい。体から転げまわって笑ってなさいと、そうするとお腹も鍛えられるし声も魅力的に出るしと、みんな楽しいことがしたいし、そういうことに惹かれるわけです。確かに表現の中に悲しくて号泣するのも怒りまくるというのもあるのですが、それは今の時代、日本だとタブーですね。実際に自分がそういう練習をするといったときには、そこで笑えるような度胸といったら変ですが、そういう神経のタフさを身につけていかないとけっこう難しいです。

 だからその自らの起こす状況づくりが非常に大切です。一番よいのは朝から笑いころげるでも何でもよいから、全身、動かす。そういうことによって呼吸が深くなります。それから筋肉なんかが起き上がってきます。ずっと座ってるととても悪い状態になります。普通ワークショップは走ってみたり体を柔軟にしてみたりして、自分の気持ちや心がとてもよい状態ももってきます。

 この辺は音大は遅れていますね、先生の前で気をつけで、どうやって歌うんだろう。
 ただ最近、私の本を読んでも姿勢のチェックが20項目がある。「この20項目きちっとやると歌えないのですが」と言うのですが、結果的に5年も10年もやって、さっと立った時にそういうことが満たされているということです。自分がやろうと思ったときにすぐにやれることというのは、レベルが違うのです。

 声のことは、わかりにくいですから、みなさんが今までスポーツなんか武道とか、できたら体のほうがよいです。頭使わないでやってきたもので覚えてきたものがあったら、それに置き換えて考えたほうがよいのです。
 トレーナーの先生の言うこととか歌のこととか声のことばかり考えていたら、わけわからなくなってしまう。例えばテニスか何かで、「腰を動かすんだよ」と言われたって、腰を動かすことと打つことが最初は結びつかないですね。そういうとき、ビデオ観せて「あなたはかっこよく打ててるとイメージしてるでしょ、でもこんな無様なんですよ」と見たらわかる。だいたいそんなものですよね。

 バスケットとかでもシュートなんかサッと決めたりすると何かマイケルジョーダンに近いみたいな感じで自分では思うのですが、ビデオで観たりしたら全然飛んでもいないわ、格好はひどいわ、なんて無様なのだろうと。
 見えている形が現実なのです。その現実をスポーツや踊りは目で見て修正できます。外国人が横に入り自分が一緒にプレーするそうすると明らかに遅れると分かるのです。ギャップがみえます。目でみえるというのは、実体との距離でも触れられるので、捉えやすい。

 声の世界というのは突きつけられないのです。音はとても難しい。ヴォイストレーニングでも歌でもプロはとても柔軟ですよね、振り付けとかで覚えてきた部分もないわけではないのでしょうが、結果的には体がそこまで柔らかく気持ちがそこまでの状態で使えていなければ、そういう声とかそういう出し方ができないというふうに見た方がよいですね。だからうまく働いていくと、人間にとって無駄な力がなく綺麗に働くと。

 でも例えば手先の感覚とかラケットの感覚とかボールの感覚といっても、まず自分が一体になるために腰を使ったところの動きを意図的に最初やらないと、できていきません。最初、教えられて腰も入れなさいと言われてうまくいかないから、「打つのはいいから素振りで腰だけやりなさい」なんてことを言われるわけです。腰だけやっていたって打てない。でもプロの人たちはそうやって打っているわけです。彼らの場合はそういう筋肉ができて、動きができているから、こちらが見ていると腰からこんなふうにやってないぞと見てしまう。もうそれが自然にこなされている。
 要はやらなければ、動かさなきゃというふうなものは入っていないわけです。一連の流れに入ってるわけです。プロの体とフォームをもっているのです。

 でも確かにそういうふうになっているわけです。そういう部分を見ていかなければならない。格好がこうなって最後に打ちあがったあとにラケットがこうだからとかいうところだけ見ていたら練習にならないです。そういう部分は声も共通します。歌も同じです。ロックの外国人まね、シャウト、形だけで通じているのがほとんどでしょう。
 歌おうと思って頑張れば頑張るほど伝わらなくなってしまう、自分だけが一所懸命やっていて相手のほうはどうでもよくなってしまっているわけです。でも相手のほうに対してどう伝わるかのほうから考えるということは、日頃からそういう意識を持ってないととても難しいです。

○音声教育の必要性

 欧米では、語学(母国語)の勉強の中で音声教育が大きな比率を占めています。日本語の音声教育というのは、みなさんが小学校1年生のときに「あいうえお」とやったくらいです。
 あと音声に意識いったのは、中学生になって英語で「あ」と「え」の間の発音と言われたとか、第二外国語になってからですね。
 日本語って、ひらがなをふって漢字が読めたら、全部言えてしまいます。だからほとんどの時間が読み書きに使われてしまいます。
 だから発音を直されたとか、詩をこのテンポで読みなさいとかこういう入り方をしなさいとか間をこういうふうに空けなさいという指導は受けていないと思うのです。

 ところが外国では詩の授業というのは朗読なのです。いかに相手に聞かせるように読むか、正しく読むのではない。
 それからスピーチにしろディスカッション、ディベートと、音声表現の教育がとにかく多いです。読み書きなどあまりないです。だから我々の頭もそういうふうになっているのです。

 みなさんに質問を書いてもらいますね、そうすると10個くらい簡単に日本人は書けるのです。たいしたもので、ところがメモなしで言うなら、とたんにできなくなります。彼らは10個ぐらいパラパラと言えます。その10個をしかも優先順位をきちっと決めて言って起承転結つけてそこにジョークとかエスプリまで利かせて言うことを彼らができてしまう。これは日本人には難しいですね。
 みんなに10個言いなさいと言っても、まず10個覚えなきゃいけない、それで練習しなきゃいけない。しっかりとやらないと完全に言えませんね。
 それは教育の違いです。そういうことやってきたのが漫才や役者ですよね。客のつかみを常に考え、感じ、のせていく。これが日本人にはけっこう大変ですよ。そこからをやってみましょう。
 彼らが簡単そうにやっていることを覚えて3分の舞台でやりましょうと言ったら、普通の人にとったら一週間以上の練習になります。ところが外国の高校生はできてしまうのです、これにはびっくりします。

 優れているのは、小さい頃からそれをやってきたのです。家庭でも学校でも。例えば小学校に入って、グループ発表がありますね。要は前で発表するのが一番偉い奴だからみんな頑張って自分が発表すると競って一番いい人が発表するわけです。日本は逆ですね、じゃんけんで負けたらお前とか言って一番へたな人が下手な発表する。前に出ることが不名誉とは、おかしなことですね。そんなところから人前でしゃべれることはできてこないですね。政治家でも官僚でもみんなそうですね。私は日本で不思議に思うのは「福島さんは何時間でもしゃべれるのですね、どうやって覚えるのですか」と言われるのですが、こうやって生きてきたので、これが普通なのです。

 それは私の力が優れているのではなくて、向こうではあたりまえのことで、日本ではあたりまえじゃない。そんなことができたら不思議と思うほど、違う方向にばかり、日本人は力を入れているわけです。向こうの大統領や政治家は、原稿は見ないですね。そんなもの自分の頭に筋を入れているから、その場でもっとよく言える、その力がなければ人前に立たないですね。日本では、話せる人はよく失言する。いかに練られてきていないかの証拠です。

 だからみなさんも、声を出そうかということよりも出した声がどう聴こえるかということのほうに神経を持って生きることです。外国人はそう生きているのですが、日本人にはほとんどいないです。商売の人くらいです。
 でも日常の中でそれはとても大切なことです。声の認識力がないのでなく、意識していないだけなのです。

 「福島さんは全員の生徒の声を聴き分けられるのですか」とか言われたことがあります。例えばあなたに10人ぐらい電話がかかってくるとしますね、わかるでしょう?ほとんどすぐに。何人かは混乱人はいるかもしれない、こんな奴から絶対かかってこないというような人からかかると。
 例えば5人から10人を間違えることないですね、それは男女で声が違うからというのでない。電話を通してさえ、誰でもそのくらいの判断力はあります。
 直接会って後ろから誰かから声かけられたとき、クラスメートが40人いてもわかりますね。その声をよっぽど聴いていなければ別ですが。
 だから、人のそういう能力というのは相当鋭いのです。でもあまり使われていない。そういうふうに声のことを意識して生きていく必要性が日本の中ではあまりない。それゆえ、その能力をもつと、相当有利になるのではないかなと思います。

 最近、声の一般の本が売れ出しています。私もいろんなオーダーを受けているのですが、ようやくその辺ぐらいに日本人の意識がきたのかという気がします。相手の状況を判断するのも、例えば家族とかだったら電話パッと聴いたら、そのときのトーンなんかでわかりますね。
 何か具合悪そうだなとか何か悪いことあったのではないかなとか何か元気そうでよいなとか、何も言わなくたってわかります。
 親が子供の嘘なんか見抜くのもそうですね、目で見抜くと言うのもありますが、電話なんかで聴いたら、この子嘘言ってるとすぐにわかる。
 仕事も人間関係も、その能力の高い人が成功しているのです。

○一音からシンプルに

 「たった1音、プロになったときにその1音があったら通用するようなというような1音を2年も4年も探しにくる」というようなことを言っているのです。よくわかってもらえなくて「1オクターブはもう出るのです」とか「2オクターブを3オクターブにしたいのですか」とか言われます。
 求めるところも次元を考えないと、たいしてアップしません。2オクターブを3オクターブどころか、1オクターブを2オクターブにする必要もないのです。
 歌は、せいぜい1オクターブに2、3音です。2オクターブ飛んだ歌がヒットすることはないでしょうね。
 それだけ人間の日頃の会話の部分をテンションをあげて高めになったという精度のところにしかこないはずなのです。そうでなければ楽器にかなわないです。10個の音が同時に出るようなピアノには。

 でも人間はおもしろいもので人の声を聴きたがりますね、どんなによい楽器が鳴ってたり高級なオルゴールがあったりしても人の声が聴こえたら下手でもそっちを聴いてしまう。
 だから歌い手が勉強しにくいところは楽器と違って比較ができない。それぞれの人がもうそれぞれの声を持っているから、それがオリジナルだと思ってしまうのですね。それはそれぞれの人がそれぞれの顔を持っている程度のオリジナルで商品とか価値とは関係ないのです。それを殺してはいけないというのはあるのですが。

 もうひとつは歌というのが、ことばで楽器より人の心に強く働きかけてしまう。残念な事ながら楽器は楽器であって、人間は人間の声のほうを聴きたがってるから、そこで成り立ってしまうような気がしてしまうのです。
 だから音楽的にはあまり弱く歌われて成り立っていないというようなCDだってそれなりに商品になってしまうのです。
 今のプロのヴォーカルがどうだということではなくて、トレーニングするときにそういうことをはっきりとわけて、本筋のところをきちっと見ないとわけわからなくなってしまう、トレーニングは、ということでなのですが。

 「じゃぁ今の私だって、これでやれるよね」とそうなってしまうということなのです。
 やれてるかやれてないかの世界ですから、やれていたらよいのです。それをやれるようになろうとかもっとやれるようにしたいとか今やれてないからというのならきちっと本筋の部分で何をやっていくのかを決めます。それがレッスンです。たくさんのことを身につけていくわけではないのです。

 むしろ今までやたらとつけすぎていらないもの、わけわからなくなったもの全部そぎ落として本当にシンプルな形で、声以外、何もなくなるくらいの感じでやるのです。
 音楽とか歌の世界に入るまえに邪魔なものを取っていくということです。誰も大きな声を聴いているわけではないのです。声の中にひとつの線があって、それが歌の中でも線として現れてきてその線の動きとか変化を聴いているわけです。その変化とか動きが人に働きかけるときに音楽、即ち論理的になるのです。そのために、声の芯が必要なのです。

 リピートが重なって同じところで同じ感じで落ちていったりするのがメロディでも名曲、よい曲というのはメロディを線で結んだら同じような形がたくさんでてきます。そんなに複雑にならないです。メロディでもリズムでも、毎回毎回、変わってしまう、1曲の中にいくつもバラバラに入っているというのは駄作になってしまいます。1オクターブ(12音)の中の全部の音を使っても、誰もよい曲だとは思わないですね。
 それは人間の中に元々入ってる遺伝子とか民族を超えて入ってるようなものに働きかけるものが、スケールといわれたり、これまで流行ってきたようなリズムのパターンとして集約されているからです。それを勉強するのではなくて、それのもうひとつ元になるものを呼吸のほうからつかんでいくことです。

○声のデッサン

 私のところでは、声のデッサンの線を勉強させるわけです。線がフレーズです、色が音色です、どういうデッサン、それから音色、どんな音色。絵をみていきます。そのために、スケッチを描くことをやります。自分の線で描けること、自分の色がそこに出せることがすべてです。
 それをやっていって、それでその線がどう働きかけるかということまで見ていかなくてはいけないのです、ただ線を出せばよいという話ではない。
 そうなってくるとそんなにたくさんのことはできないし、それから自分が勝負できないような高いところとか大きな声量とか、そんなところで作品をつくっていても発展性はないですね、処理するくらいはできるかもしれませんが。

 勉強してほしいことは、例えばプロはこの中の1秒間をやることを、他の人が一生かかってできないレベルで歌ってるわけです。
 だから1音出せるということはそんなに簡単にできることではないのです。半オクターブができたら、できたらというのは、どこのフレーズでもコントロールできると、別に1オクターブでなくてよいのですが、だいたい半オクターブもあれば4フレーズぐらい歌えます。
 そこに関しては、プロに聴こえるというところからです。音量をあげたら、小さく聴いてよくわからないところも気づけます。
 一瞬の一音でできないことをどうやったら、2オクターブ近くで3分でつなげるでしょう。1音でできないことがどうして1オクターブで長く伸ばしてできるのかということです。歌になると、くせやリズムで詰めて解決するのが早いのは分かります。ただプロの人たちもそういうのはわからないから、わざとそうやるのです。

 あなたがこのことを伝えたいと思って歌ったときに、ここの間のところ2秒あいてしまいますよね。この歌ではそこ0.5秒だからと、でも0.5秒でやろうとしたらパッと入ってそこでやってしまうでしょう。そうしたら流れが崩れてしまいます。楽譜より人に伝わるほうの流れを優先しなければならないのです。
 あなたの今の呼吸と声のコントロール力じゃ2秒あけないと次に入れないのだから、2秒でよいのです。
 3年5年とやっていくうちにそれが1.8秒になって1.5秒になってそのうち0.5秒になったときにこの歌が本当に歌えるのです。
 それまでは歌えない、そうじゃないとトレーニングって成り立たないです。踊りなら、雑に形だけやったのだから、ダメ出しです。
 プロだと遅れてますよと言ったら速くしてそれでOKですね、ここの音程ピッチ下がっていますよと言ったらピッチ上げたらOK、音響で加工してしまったらOKだし、そうしたらいらないんですよ、トレーニングは。

 だから私はトレーニングの要らない人もいるからはっきりと言います。あなたはトレーニングいらないんじゃない、もうステージやればよいんじゃない、そのステージでお客さんとどうやっていけばよいかみましょうと。そのうち何か足らないことに気づけば、レッスンを使えるかもしれない。ヴォイストレーニングをしなければ歌を歌えないということではないということは言ったとおりです。むしろ余計なヴォイストレーニングが多すぎます。自己陶酔するなら、カラオケの方がずっと有益です。
 だから私はヴォイストレーニングのようなものをやっているつもりはあまりないのです。単に感覚を深めて、声を従わせる。ただ言えることはこういうものをきちっとみていこうということです。いくつかヒントを与えましょう。音楽のリズムが入っていて声が処理できればこのくらいの感覚になります。向こうの人がことばを言っていると音楽になってくるのはこのくらいのレベルです。

○優先すべきこと

 ここまでのことが少し難しいなと思う人は、プロも一流となると。どこも歌ってないじゃないか、歌いあげてもないじゃないか、声も伸ばしていないじゃないか、高いところの発声を覚えていたり低いところのやり方をやってるわけでもないではないかと、単純に言いたいこと言っているだけという程度で見てもらえばよいのではないかと思います。
 これだけの表現をするのに「それなりに体があって声がないと本当はできないよ」と、だからプロの歌い手から勉強して欲しいのは、声量とか声域よりも、そうじゃないところで、なぜもっと大きな声があるのに、その声を使わないのか、なぜもっと高くできるのにそう高くしないのかということです。そう考えたときに、それより優先すべきことがあるからです。それができないのではない。できるのにやらないということは何をしてるのか。というと、そんなことを出すのが目的ではないのです。表現を出してそれを展開してひとつの世界を構成するために計算されているわけです。

○ズレをつくる

 音楽が展開していってその呼吸に対して自分の呼吸をどうぶつけていき、どう、そこの間におくか。確かに体はあるのだけれど、その中にどういうズレを創っていくかで自分のひとつの世界をつくる。声を小さく抑えていたのでは、誰かが泣き真似みたいにしてやっているのと同じで、表現力が、もつはずがないのです。というのは音楽にきちっと乗せているというよりは、音楽を創っていてバンドの音楽とセッションしているわけです。
 向こうの流れに対して、自分はこのくらいで入っていきどこまで向こう引いたことに対し自分はどこで落ちというような形づくりを、計算ではなく、歌いこみの中でやっていくわけです。

 「じゃぁどの声量で歌うのですか」も何もないのです。そこでそうなったらそういうふうになっていく。この小さな声で「スィ」というのをきちっと伝えようと思ったら「スィ」だけの練習で1時間どころか2年くらいやっていてもよいくらいです。表現ということに耐えるには。小さな声で伝えることのほうが難しいです。声の支えと息が必要になります。

 人間が本当に必要で相手に伝えようとしたときに朗々と声になるかと考えたらよいのです。歌というのはそういう部分があるわけです。子音とか音色中心にというのも、そういうことです。クラシックの歌手はオーケストラの上に飛ばさなくてはいけないから発声して響きにしないと飛びません。ところがポップスの場合はマイクがあるわけです。プロは、響きに負ってるわけではないです。むしろ息に負うところが非常に大きい、役者と同じです。

○体で声をつくる

 例えば役者は2,3年でけっこう声がよくなって5年くらいで変わっていく、役者声というものを持っているのです。彼らが最初にやるのは体で声をつくることです、遠くに飛ばすために。一流の役者さんというのはそれを息にしていくのです、どんどん。二流だと全部、声にするのです。全部、声にしたほうが全部を声にしないで息にするより伝わらなくなってしまいます☆。声としては伝わる、でも表現としては、それは多分人間が本当に相手に何かを訴えたときには息になっている。その息が生きていたらつながる。でも、声だけになったら嘘くさいとか、根本的なものの中で判断してきている歴史があるのでしょう。

 今、日本の中から消えていくものに、音楽の中では見向きされなかった役者の発声法というのがあります。
 それが「ハイ」「ライ」こういうところです。日本でも何人かまだいますね。三船敏郎さん、仲代達矢さん、中尾彬さん、山城新吾さんとか江藤さんあたりの人たちです。声でこの人は役者だとわかる。昔の日本人はけっこう音色がったのです、中尾ミエさんの辺の世代です。今でもポップスで歌ったりすると音色がありますね、あれがないと昔のマイクは入らなかったのです。

 だいたいスタンドマイクで、距離をおいてきちっと歌わなくてはいけないから。アナウンサーでも、あごが角ばっていないとだめと、ひびく発声が問われていたのです。今はそこまで発声をする必要がないでしょう。多分、発声で歌うと何か古臭いなと思われてしまわれる。ポップスでは若い人の心を一致させられません。それは若い人が生きてるところで出てくることになってくるでしょう。

○まねしない

 実際に感覚を切り替えて実習するには、ひとつはことばから入っていくやり方からです。例えばこういうのをこの人の雰囲気とか情感とかお客さんと成り立ってる世界で取ってしまうのは真似になってしまいます。それから弱く歌ってるなとか淋しそうに歌ってるなというところは、ヴォイストレーニングにはあまり必要ないのです。基本のことが身についていたら現場でそういうふうに変化させてやることです。基本の練習してやることとは違います。歌の練習などではよいと思いますが。崩れてしまう原因になります。だから実際の練習で使うのだったら、ことばを自分でひとつに言ってみる。それでそのひとつのことを動かしていく。声から動かす。私は“メロディ処理”と言っているのです。「長い間ひとりで」と言って「長い間ひとりで」とできるだけ歌わないようにしようということです。

 私も講演はじまったときには、「先生って普通の声ですね」と思われる。「普通の声じゃない」なら、ずっと聴いていたらどうなりますか?
 場という文化もあるのです。人間のひとつの感覚の中で調整されたもので扱っていかなければいけないのです。
 それを発声を勉強したために発声バカになってしまったら本当に意味がない。発声をやることは悪くないのです。その人の感性がにぶいだけです。

 こうやっていて気持ち入ってるな、では自分もかすれさせてやろうと思ったらだめなのです。気持ちが入っていて、かすれるのはOKなのです。
 最後「ミソソ」「おくれ」と歌いだすと表現が死んでしまうのです。それはメロディをとらえてことばに置き換えただけですから。
 アーティストが出している表現と言うのは真似できない。この人だけのオリジナルです。それをいかに創っていくかというのが本当の意味での勝負なのです。日本であまりがんばってやっている人はいなくて、やれる人はやれるということなのかもしれないですけど。

○感覚の磨き方

 ことばの発声から勉強していくのは、私はイタリア語とかカンツォーネみたいなフレーズをコピーさせることからやらせているのです。曲をとにかく聴きなさいと。聴いたら音楽の中に何が入ってるのかがわかってくるから、それから声がどう使われているのかが自分に乗り移ってくるから。勉強するのはこのやり方しかないのです。
 自分の感覚とか自分の基準とか自分の歌いたいことは大切ですが、それはステージでやればよい。自分が本当に次元を超えて上達するのはそれを全部投げ出して、一流の人に食らいつくようにして引っ張らせていくしかないのです。だからとにかく聴くだけ聴きまくって、そういう感覚になっていくのです。

 自分はこういうふうに歌いたいとか自分はこんな声の出し方のほうが歌った気がするというのは、そういうふうに歌ってきたからです。その結果、今そうなのでしょう。トレーニングするのだったら、今のではいやだと思っているのですから、一回おあずけにして、そうじゃないことをするのです。長くやってきた人と変わらないと言うことです。

 日本語からやるというのは実感があるからです。「長い間ひとりで」といろいろやってみて自分で少しは分かりますね。
 今のは伝わったなとか、今のはちょっとこれやりすぎてるなとか、今のはいまいちだなとか、日本語だからわかるのです。
 イタリア語でやって、わかる人はいないと思うのです。ことばから入るのはひとつの手段、実感をきちっとことばから失わないようにし、歌からも絶対に失わないようにすることです。

 もうひとつが音楽のほうから構成をとらえてみるということです。フレーズとイメージだけで全てです。「ミミミソファファ」は単音で全部とらえただけです。自分のイメージがあって、それに声がそうようにしていくことです。そのときにヴォイストレーニングの必要性が生じます。声の準備とか息の準備とかしておかないと、イメージはこう出したいのだけれど、こういう声は出ないのだなということになってしまうからです。

 でもほとんどの人がやっているのは、この高さの声がでないとか、この音量の声が出ないとか、無理なことばかりをやっているのです。
 ヴォイストレーニングをやったからといって、二倍も音域が広がったり二倍も声量がついたりということはないです。
 よっぽど特殊な場合を除くと、限界はいくらでもあります。ただその限界に挑むことがトレーニングです。

 今もうすでに持っていて歌えるはずのところで歌えてないのが問題なのです。そこの声を繊細に丁寧に扱えることです。それを私は今のヴォイストレーニングの目的と定義にしています。声量とか声域はそれぞれ生まれ持ったものがあるから、それを邪魔してるのだったら取ってやればよいです。だからといって無限にできるわけではないのです。またそんなものにたよった歌など必要ないのです。
 音楽として、そのつなぎを見たときに「僕の」という入り方に対して「傍らに」という置き方はデッサン的にどうなのだろうという問題に入ってくるのです。
 それを外国人が聴いてみたときに、心地よく聴こえるか、ことばがわかっている人にはよいかもしれないが、音としてはどうなのか、声としては、みたいなことになります。

○呼吸があってくる

「枯葉」サラヴォーン
 音程とかリズム悪い人に渡すと何の意味かわからないのでしょう。でも、2年くらいこれ毎日聴いておけば、半分は解決するからと言っています。ただそれで解決しない人もいるのでレッスンも必要です。

 ヴォイストレーニングの見本にもなるとは思います。こうやって好きにやっていくことの中に音楽としてちゃんと呼吸が合ってくるということが必要なのです。何ででたらめにならないかというと、この人の中に優れた音楽が入ってるからです。それが入っていないと本当はなんともならない。だからそれを勉強しなさい、というのがヴォーカルの場合は一番ベースです。ですが日本の場合はそんなことで評価されるわけではないようなので、本人の中でそういうものが動いてきたらよいのだろうと思っています。

 ズレをつくっていくのがその人の表現、他の人と同じ事とやっていて他の人との差異を作っていく。ただその差異を作ったりズレをつくったときに戻せなければ、それは単にでたらめをやったとか、下手くそだとなる。それでは普通の人には、わけわからない世界です。こんなものでも、きちっと戻せてるから、優れているとみんなにわかるわけです。

 日本のジャズはアドリブまで決まったまま、フェイクといって勉強しているのです。それはアドリブでもフェイクでもなく、全部、あらかじめ決まっていて、それを覚えているのです。つまり、アドリブでなければジャズでもない。
 こうやってでたらめやってみた中で、これって使えるんじゃないかとか決めていく。よっぽど人間の声としての楽器でドラミングやってる人たちのほうが好感を持てます。

 何て創造性がないのだろう、何で日本はこうなってしまうのだろうと。自由に好き勝手にアドリブしてフェイクしてよいのに。
 それだと何かうまくないなぁと思ってしまう、下手だなぁと思ってしまって、プロの形を借りっぱなし、あるいは客の反応をみてやめてしまうのです。
 そうではなくてそれがお客さんが納得するところまでがんばって創りあげるから自分の歌になっていくのです。
 誰かのものを持ってきて、向こうのそれもどきのものばかりやって、フェイクの仕方、アドリブってこういうこととかと覚えてしまう。本人もまわりも、その日本人のまじめさが、だめにしてしまっています。

 そして、そういうものが全くないのに、成り立ってしまってしまうのです。先生がそれを誉め、お客さんもそこのアドリブよかったよと、アドリブじゃないですよね。どこまで自分のデッサンをぐちゃぐちゃにやっても収められるのだという冒険をするべきです。失敗を怖がるのでしょう。お客さんもそういうものを見たがっていないわけです。新しいものをみたがらないんです。この国は。

 外国のアーティストが来日して、「日本は何で俺らの古いヒット曲しか聴かないのだろう」と、「自分たちの一番新しい曲を聴かせたい」と。「ところが日本はそういう曲に対して白ける、最後になるにつれて昔の曲をやってアンコールは一番ヒットした曲をやると大ウケなんだ」と。彼らが聴かせたいことは昔やったことじゃないです。今やっていることなのです。ところが日本というのは30代で大御所になってしまう、その後ナツメロですね。

 70年代くらいの紅白までは、まだその年のヒット曲だったのです。今みたいに昔のものを持ち出してというのはなかったです。その年の歌を歌うというのは当たり前の話でしょう。昔の歌を歌ってはいけないという話ではないのです。創造力がないから昔のを単にテンポあげて歌ってしまってるだけで、昔のより悪くしてしまって歌っている。リカバーするならよくして歌うべきです。そういう基準さえないから、私なんか耳障りになってくる。全部が、そうなってしまうのが嫌だからこうやって活動してるわけですが。

○声をつかむ

 自分の言いたいことのイメージを与えてフレーズをいろいろやってみる。音をどう置いていってデッサンするか。単に「イェリスィ」というのは発声、単に音を出しただけです。日本人が一番できないのは声をつかむことです。「ハイ」というのです。よい声とか悪い声というのはよくわからないと思うのですが、どこかに部分的に力が入れば目つぶって聴いていてもどこか力が入っていておかしいなと思う。だから人間というのはけっこう普通の感覚の中でいろんなものを正しく判断してるのです。

○声のかみ合い

 「ハイ」も相手にきちっと伝えようと思ったら、しっかり呼吸を用意します。それで「ハイ」を100回やってみても崩れないというのが基本です。これができたからといって歌が歌えるわけではないのですが、自分の声に対して基準をつけていく能力が得られるのです。
 その100回の中の1番よいのを今度100回やってみる、さらにそのよいのをやります。何をもってよいのかというのを知ることです。
 伝えたくないなと思ったところで「ハイ」は伝わらないですね。

 トレーナーは、シロートの人や声楽をやっていない人が聞くとよいように見えるのです。日本人は大きな声が出たり高い声が出るとそれだけで評価してしまいます。それは全然伝わってない。こうして出せてしまうのです。こんないい加減なもので、舞台ができるのだったら私は大スターです。
 でもやるときにはきちっと正して呼吸を整えてタイミングをとり集中してやります。そうでないと、トレーニングさえできないです。そんないい加減なところで自分を制しないと何もできなくなってしまいます。本当に集中力がいる分野です。それと同時に自分の体を整えなくてはいけないということではトレーニングからいうとけっこう厳しいです。

 自分の体がうまく動かないし体が動いたところに声がうまく出ないし、ただ必死につないでいく、そういう練習ですよね。ただこの時点で声だけはつかんでいくのです。こうやって自分の呼吸を覚え流れというのをきちっと組み立てられるようになる。こういうふうに人の歌に合わせても自分のものをそこに出せるようになってくるのです。

 ここまで聴いたらすべてわかってしまうわけです。音に関しても、全部出ています。ことばがついてもつかなくてもよいというふうにみてください。息が必要です。息がよく聴こえたと思います。日本人の中で外国人のようにできないというのはこういうところです。体が要るのです。体で声を使って呼吸で動かして、しかも感覚で重ねていく。単に歌っていくというような伸ばしていたり平たくしていくのでなく、そこにきちっとグルーブを入れていくために体が必要です。

 歌は、鋭い切り出しで見せていくのです、声量でメリハリとソフトさをみせていくのではない。ピアノでもそうですね、力の強さで見せていくわけではないですね。どれだけ瞬間的にさっと入れてそれをすっと抜けて、それを引き受けられるというかみ合いで聞かせる。聴き手というのはその変化のエッヂの鋭さや柔らかさで感じるのです。
 なぜ声量よりそういう鋭さが必要かというと、そこでバンてやるから、そこに空間や時間が自由になる部分があってそこには柔らかくおける。そうするとその置いたことというのは相手に働きかける。それが段々長くなってくると今度は飽きてくるから、また次にきちっと動きをつくっていく。
 日本人の歌い手は歌ってばかりのところが多くバラバラになりすぎています。

 風船を破裂するくらいまで膨らましてるみたいなものです。これはトレーニングでの歌い方です。だから掛け合い悪くなっているところや加工のところで伸びが悪くなっているところがあります。呼吸だけでリズムの処理をさせるということを1曲3分やるというのはだいたい失神するみたいになってしまいます。とても歌にはならないです。でも、もしリラックスしたら歌い手になれると言ってる人がいたら「そんなわけない」と言うために。そうやってめいっぱい体のことを使ってやっていかないと、もちません。実際の歌になったときはこの7割くらいです。
 そうするともっと伸びるし、リズムとの掛け合いがよりスムーズになってきます。トレーニングで私がやらせるのはこういうことです。大変かもしれないけど、トレーニングでやっていくことは、とにかく器を大きくすること、そういうことをやっていたら、もうステージの中では体を使うことや音をとることも考えなくてよいからです。その人がやりたいように動いて、その結果で、身につくのが、理想です。

○作品のよしあしでみる

 体を使えばよいとか一所懸命やれということではない。がんばったり一所懸命やったからといって伝わるのは日本ぐらいです。実際は作品のレベルが問われます。日本の場合は、最近いろんなワークショップがあり、それは高校生の文化祭みたいになっています。「とにかくみんなで一所懸命がんばって最後までやったんです」と。
 できなかったからそんなにがんばらなきゃいけなかったのだろうか。ちゃんと寝ないと声だって出ないし、悪い作品になってるのだからと、そういう見方をする人がいなくなったのです。要は作品がよいか悪いかだけがすべてなのであって、本人の想いとか何かが入っているのは、それはよければそこに想いが入っていたということになります。

 だから感情移入で歌を動かすというのは間違えです。感情移入してないと自分は歌った気がしないというのはあなたの勝手でしょう。あなたのよい歌が聴きたいのに、あなたの感情がそれを邪魔しているという人はプロにもいます。声をひずませるから心地よくないのです。それは評価ということよりも、私が言えてしまうくらいのところで、普通の耳を持っているミュージシャンの中では当たり前のことです。楽器の人はわかっていることです。しかし、それ以上超えたものに関しては言わないです。外国人の歌い手がああいうふうに歌ったと、「ではどこを直すのですか」、「いや言うことないです、あれでよいです」となります。「私には考えつかないよと、何か知らないけどそう見せつけられたしな」と。

 一流の人たちがきめ細やかに丁寧に組み立ててる、それも全身使ってやってるところを、こちらはなんとなくアンバランスに感じるから、そこを加工するというのはわからないかもしれない、でもそこに問題があるということは常に指摘されるはずです。
 やってみせてといわれても、オリジナルはできない、あなたと違うからと。それをどうやるかというのは、あなたがやる。漫画家に対して編集部が、「じゃぁどう描くのですか」と言われ「あなたが描いて、よいのがあったらよいとは言えるけど、それが出てこないときには言えないんだよ」というしかありません。

 それを創っていくのは本人、こちらはそれに対して、これはこういうふうに見えるということを伝えます。プロのヴォーカルなら、やってみせてくれるでしょうが、あなたの正解、見本にはならない。ヴォーカルってひとりよがりになりがちです。その辺は誰かに見てもらったほうがよいです、本当に。
 自分が憧れている人の歌でだいたい入ってきますね、その憧れてる人の一番好きな曲をそういうふうな感じで歌えたときには、絶対自分で自己満足ありますよね、心地よいものですよ。それがお客さんに伝わってると思ってしまう。そういう勘違いはよくないです。

○正すということ

 ヴォーカルで活動している人をトレーナーにするのも問題があるのは、どうしてもその人の想いでステージで歌っているようなところの感覚で、違う人を判断してしまうところです。仕方ないと思うのです。自分に心地よいことが判断の基準なのですから。私はそれを、疑っていろんな人とやってきました。
 同じ人をみるのにここのトレーナーのレベルの人、7人くらいに感想書いてもらって、私と違う見方をする人もいるのだなとか、この人に対しては評価が分かれるのだなとか、そういうふうなところから、どうみればよいのかな、というのも若い人から勉強させられたところもあります。
 ただ意見が別れるなんていうのはかなり高いレベルです。

 普通であればあなたの身の回りでも、少しまともなトレーナーがいたらその人が言うことは、自分よりは多分正しいのではないかと思います。ただそれをトレーニングで考えるのかというときにトレーナーの間違いやすいのは、その日に直してあげようと、すぐに直ると思ってしまうことです。

 例えばピッチが下がってしまうというようなときに、正しい音を聴かせてこれを出させようとすることじゃなく、何でそのことが起きたのだと、根本的な原因を除いていかないとまた起きてしまいます。
 それは、そういうふうな音に対して体でキープできないことが問題なのです。その音が当たった外れたという問題ではないのです。
 マイクつけてしまえば、そこの粗を消してしまえば、ステージではお客さんは誰も指摘しなくなる。音程とか高音とか発音とかそんなところばかりの注意に行き過ぎてる気がします。そんなもの直しても通用しないです、実際の舞台というのは。

○拍手

 もっと根本的にその人が出せるものがあれば、逆に言うと今ステージやってる人たちのそういうのを見てみればよいと思うのです。「発声悪いわ、元々の声悪いわ、でもメッセージは伝わる、その力って何だろう」と。現実からはそちらを考えたほうがよいと思います。
 私は歌い手の歌をみるときに、これでどれだけの拍手がかえってくるだろうとの思いでみます。そう見てるとおもしろいものです。これだと10秒くらいかなとか、なかなか15秒なんて拍手こないです。最後でおつかれさまという拍手とか、早く引っ込んでくれありがとう、もう見たくないからという追い出すような拍手は長くなるときがあります。

 本当に感動して1分2分スタンディングオべーションが起きたときなんか、ちょっとやりすぎだなぁというところありますが、あれだけやってくれたのではこちらも10分くらいは手叩かないと見合わないな、それでも申し訳ないな、もっとお金払わなきゃと、そうなると否応なしに成り立つのです。それだけの歌い手がなかなか出てこない、環境がよくないと思います。
 こういうことをやってくると15年も同じような話ばかりしていて何千人か聴いてくれているのでしょう。ここの研究所からでもグラミー賞くらい取れなければおかしいと思うのです。特にお客さんの環境と、客のせいにするのはそれこそ情けないことなので、私は私の活動の中で客の耳も鍛え、その客に対応できる歌い手をみていきます。

○材料

 アーティスト観とか歌の評価というのは、個々に違うところがあるのですが、トレーニングをしようという人に対して、というスタンスはあります。私個人の歌の嗜好ではありません。私の好きな歌い手や好きな歌ということはないです。材料として何かしらヴォイストレーニングに関わって勉強していくときに、よいものを使い方ということで与えています。
 読み書きの方が日本人は学びやすいから、聴いたものを書いていく、気づいたことの書き出し、そういうことからはじめさせています。
 日常の会話からテープに入れて、きちっと聴いていくことです。テープが一番客観的に聴けるものです。
 テープの中で自分が失敗したものとかうまくいかなかったものというのは一番聴きたくないのですが、でも現実的にはそれが相手に聴かれてるわけです。そこで人前に出ているわけですから、それを聴いてみて自分で直して、それを入れてみる。

 文章は書くとそれをもう一回読めば直せる。ところが声の場合というのは、わかりにくい。今はテープがありますからテープで入れて自分で聴いてみたら、こういう感じで入れてみたらこう聴こえるのだな、でもこういうふうに入れてみるとこうなるのだなとか、結びついていく。
 本当は実際の場で、いろいろ言われたような声をそこでとっておけば一番よいのです。自分でとってみて、あぁこういうことだから聴こえにくいのかとか、きっとこういうところが聴こえてなかったのではないかなということがわかってくる。それでフィードバックできます。
 例えば、ここでこのくらいの声でしゃべっていると、向こうにいる人というのは、だいたいどのくらいの声で聴こえていて、こういうところは多分聴こえないな、こういうところまでは聴こえるなという判断ですね。

 自分の声が起こしている結果をどう見るかということ。それを自分で知っておくことは必要です。日本人は発声先感受能力はあまりないのです。
 空港とかツアーとか行くと日本人団体はうるさいと外国人から言われます。日本人の声というのは小さいのですが、ああいうところで羽目を外してしまうかというと、セーブしない。他のお客さんにどこまで聴こえているかなどというのがわかっていないわけです。

 外国人というのは、しつけられます。そういうトレーニングさせられるのです。例えばスピーチで、その声では聴こえません、もう少し大きくする、もう少しゆっくりしたほうがよいですね、今の切り出し方では唐突すぎるとか、アドバイスされる。詩を読むような授業も多いのです。その詩をどう読むかみたいなことになる。日本の場合は違いますね、そこには何が入りますか?とか、ここは何を言っているのでしょうかとか、音声教育がないのです。だから役者の勉強が、よいかもしれませんね。日常の会話直すのであれば日常のことばで聴いていったほうがよいとは思います。

○基本姿勢☆

 吸えと言われなくても普通吸っているわけです。ところがすぐにパッと歌わなければいけないというときに吸ったときにガタガタしてしまうとか吸っても全然足らないなら、体に入れていくようなことをして、舞台でも普通に使えるようにしましょうということなのです。
 腰が痛くなるとかいろんなことというのは訓練として出てくることもある。急がないことです。プロの体を想定して、それに対して急いでやるから痛みが出てきたりアンバランスになったりする。ゆっくりやっていくと時間がすごくかかるのです。常に程度の問題です。

 変なやり方をしてるというのはけっこうありますよね、ただ慣れないとどうしようもないと思うのです。
 例えば姿勢があるからと、その姿勢で歌うわけでもないし、体のどこかのところを、例えばお尻の穴締めてでは歌うかと、そんなことは歌い手も思ってもいない。あくまで体を作っていくとか呼吸をつくっていくときの基本動作です。
 例えばテニスでも腰から振ると言ってやらされる、でも実際に試合になったら腰なんて動かない、そうしたらそのときはシロート、プロの人は一日腰を動かすということをやっている。ウォーミングアップではやっていても、打球きてるときにそんなこと考えてるかと言ったら考えていないわけです。

 ところがシロートの人というのは手が動くけど腰が動かない、では手が動いたときには腰動くようにしようとか腰が動いてから手が動くようにしようといって結び付けていく。なかなか全身は一つで動かないのです。そのときに今まで勝手にこう打ってたときには全然体は痛くなかったのに腰ばかり動かしていて腰が痛くなるのだなぁと言っていても仕方がない。だから腰が痛くなることが正解ではないし、やると痛くなるのだったらそれはやりすぎだから、もっと間をあけてやっていく。

 トレーニングで必要なことはそういうことを通じて体との結びつきを感じていく。それから足らないことに関しては待つしかないです。そういう感覚がつき、体が宿ってくるのを待つしかない。そうでないと一日でできる……姿勢を教えてもらったらこの姿勢で歌うんですかと。
 姿勢というのは全部、結果としてそういうことをやり続けた人たちが振り返ってみたら、こういうふうな感じが何かするなというものです。

 例えばどういう姿勢で歌うんですかと言ったら、別に立つことに変わりないよと、でも自分が歌ってるときは、あなたと違ってこの辺に感じてるし、ここにこうきてるし、何かお尻はこういうふうになってるような感じがするという習得した人の感覚です。だから別にお尻を締めなくてはいけないとかあるいは締めることによってトレーニングが動くと言うことではない。体を自由にして声を出すときなんかに人間の少し共通した動きとして出てくるだけです。
 案外とスポーツをするとき重い荷物を持つときとか瞬時に動かなければいけないようなときに人間がとるような姿勢に似てきますね。別に声だけが特別なものではないです。

 ただ声というのはここに楽器があってそれを全身で支えるわけです。姿勢なんていうのは今の姿勢だって普段の姿勢だって全然悪いとは言われないかもしれない。だけど、もし例えばモデルだとしたらその姿勢ではだめ、きちっと支えられるようにしなくてはいけませんといわれたら、それはきついですね。でもきついのではやれないですよと。それに慣れてる人は、それで30分1時間経ったもきつくない。それはそういう筋肉が鍛えられていてリラックスしていることを覚えているからです。

 気をつけの姿勢でチェックして、よし、これで20箇所チェックしたといったら歌えなくなりますね。初心者の人は、あまり姿勢とか気にしないでリラックスするほうがよい。気持ちが固まってしまうと体が固まってしまうから。でも、そういう姿勢というのは何の意味もないのかというと、それはやがてできてくるひとつのイメージです。だからチェックすると必ず矛盾が起きます。例えば何かを意識してこうしようと思うとその瞬間に力が入るしリラックスできない。それでステージのものはできない。応用と基本というのは違うわけです。

 姿勢で言うのは、同じ体だったら多分、胸のところをこう引いたらお尻は締まらないし、そっちを締めると何か肩は落ちるし、全部を同時にはできないのです。姿勢も呼吸法も、先生方もいろんなやり方を言っているが、それが正しいか正しくないかもわからないのです。3年5年たって、それでその人が声出るようになったらやり方が正しかった、というよりその人にはそのやり方が合っていたということなのです。

 誰でも姿勢のことを言う。ただ実際、姿勢を確認して力を入れてしまったり体が硬くなるのだったら逆効果。だからリラックスして柔軟をして自由な感じでやりましょう、みたいに書かざるを得ない。でも逆に言うとリラックスしてすごい楽にやっていて、それで身につくと言うこともないですよね。
 スポーツから考えるとわかりやすいと思うのです。一流の人たちは緊張の中でもリラックスはしているわけです。あがってしまったとか固くなってしまって力が出せなかったということは一番タブーなのです。

 でも彼らの考えてるところのリラックスというのは、もうすでに自分の得たもの作ってきた体が全開できるためのリラックスであって、シロートの体でリラックスしても同じことはできっこないですね。それはそれだけ鍛えられた筋肉とか感覚とかで調整できてるから。喉を開けなさいとか響かせなさいとかは、先生方はそういうことをもう何年もかかってやっているからそれができる。こうやるんだよと見せて、すぐにできたらトレーニングも何もいらない。一日教室でできてしまいます。だから時間がかかります。あまり正しいとか正しくないということではないのです。

○できるようにしていく

 いろんな刺激を受けながら先生のやった声を真似したからって高い音が出るわけではないけれど、そういう入り方をすることから、今まで使ってなかった筋肉とか感覚とかが動き出してくると、早く習得できる人もいます。習得できない人もいるかもしれないけど、何もやらないことよりもよい。そういうことをやることによって他の部分ができたり感覚ができることでまた変わってきますね。そういう試みなのでやはり合うとか合わないとかいろんなことはあります。

 できてたらトレーニングではないのです。できてないからトレーニングするのだから、できてないところを何らかの形でやるのですから、できない状態が続くのは当たり前です。それ今日できたといったら、もうそのトレーニングはなくなってしまうわけです。では何でずっとトレーニング続けるかと言うと、ずっとできてないからなのです。それができるようになったときにはまた違うトレーニングです。

 だから息とか声のトレーニングなどをやる。というのはできるというところが、どこか決まっていないですね、できるだけできるようにしておこうということですね。だから1オクターブが2オクターブにならなくてよいけど、広がる分にはよい。声量だってある分にはよい。ただそれ以上に無理することによって他の部分が崩れるのであれば、例えば3オクターブ出そうと思って声量も何もないしことばもはっきりしないのだったら、それは実際には使えないからそこまでやる必要ない。もしそういうことも可能であれば5オクターブでも10オクターブでもやってもよい。

 でも結果としては歌を考えてみたら1オクターブ半以上で歌う歌などないから、8オクターブなんかの歌い手が出て使ってる、けど、あれは飛んでる音を使ってるだけで歌自体がそういうふうに書かれてるのはない。そうしたら普通は必要ないと、それよりももっと大切なことがある。
 1オクターブか2オクターブでもう完全に歌えて世界一うまいというのだったら、そういうことをやればよいのだけど、まだまだ普通のところでさえ歌えてないのに、そういう人たちと同じ以上のことを望んでもムリでしょう。たかだか1オクターブちょっとと1分くらいのコントロールをやることが歌の土俵のひとつの勝負なわけです。
 そこで完璧なことができたらそれをどんどん広げていくのはよいと思うのです。それができないのに何もかもいろんなことに手出してしまったらそれこそそこで本来部分ができる部分ができなくなってしまう。

○主体性

 日本では楽器の人たちもそうですが、必ず海外に行くと「お前はどう演奏するんだ」と「先生にこう教わりました」「そうじゃなくてお前はどう演奏するんだ、そんなことも考えないで今までよくやっていたな」というようなことを言われるわけです。
 この前、あるプロの人と話しましたが、もうヴォーカルはやめたと、かなわないと。かなわないというのは何かというと、即興で全部つくれる人と全部を考えてからしかできないところのレベルの差というのは埋まらない。まぁそこまで極めた人間でしかわからないのでしょうけど。

 一流のプロのミュージシャンなどが海外に行くとショックを受けてくるところというのは、勉強したり歌いこんだことを歌うのが、音楽ではなくて、そこで創るんだと、つまり即興なわけです。というのは教育が即興ですから、そこでやりなさいというだけ。だから、もう回してみて何となくやれることをやってみてくださいとそんなものです。できないことではないけれど日本人はそういうふうな習い方でやりたくないのです。非常に不安になるからです。

 アメリカでは、1ページ目に何か問いがあって2ページ目に自由に書きなさい、自分の答えを書きなさいとそんな形式が多いのです。日本人にはそれは難しいですね。なぜかというと日本人というのはそこに正解を求めるわけです。「頭の体操」みたいなものが合う。
 もう本当に思考の枠組みに入りたがるのですね。ひとつの答えに導くというのは創造的でありません。何もやってない人にはよいともいえますが、頭の体操だから体操でよいのです。
 私の先生が言っていたのは制限時間をつけてはいけないと、2分で解きなさいというふうなことを与えられることによっておかしくなる。本当の問題というのは3日考えて考えて解けないものを問題というのだと。何でも問題と言ってしまうことは、日本人だからなのでしょうか。

 ところがなぜそういうものが売れるのかというと、我々はそうしたいわけです。だから、日本版のをつくると必ずそこに模範解答例というのがあります。あるいは100人のうち90人はこう言いましたというのがあって、我々はなぜかそういうのを見て安心するわけですね、人と同じでありたい人たちがたくさんいます。音楽もそういうことです。好きに創ればよいという当たり前のことをやるのに時間がないとか、自由になるために音楽をやってるのにどんどん不自由になっていく。声でもそうですね、勉強していくとどんどん難しくしていく。そうではなく自由になっていかなければいけないのです。どこかでそれていくのです。

 もう日本で学ぶよりはどこでも、インドでもアラブでも、行けばよいです。アメリカの学校よりもよいかもしれません。
 日本の学校というのは平均点まであげるというのがベースですから。だからこれもこれに合わせようではなくて自分の作品にして読み込めばよいということです。

 こういう課題の中で、そうは言っても、学校の部分もあります。ベーシックな部分をみていると、感覚だけでやってみて優れたのが出るのだったら苦労しないというのは、多くの人たちの弁ですから。そうしたらどういうことをしなければいけないかというと、そういう感覚を増長するような何かを入れていかなければいけないということです。これなんかも楽器の音なんかに引きずり出されてて自分の声が音楽にならしめるというような体感をもっていく。勉強するというのはそういうことで、自分でやるとゼロからやらなくてはいけないから、なかなか1が創れないのですが、もうその1をベースにしてみる。この1より下のものは作品ではないと、最低限でもこのくらいのことは人間はできるのだからというふうにそこの基本を最低のベースに考えることによって、ステップアップしていくのです。【一般講演会 05.3.6】

○感覚と体

 学校に行って、あるいは10年も20年もいろんな先生について勉強してるけど、ここにきてみてパッと歌ってもらったりすると一音目から外す、それは先生が悪いというよりは先生も教えようなかったのだなぁというところでしょうか。歌も声も初めて使うものではないからですね。
 ヴォイストレーニングをうけにくる人はこういうところにくると「初心者です」と言いますが、こうやって会話ができるレベルを、もし楽器で例えたらすごいハイレベルなわけです。相対的にみんなが使えてるから感心されないのであって、相手に自分の意志とか思いとか伝えられる、あるいは相手を感動させることをできてしまうわけです。状況によってはですが。

 プロは、その状況を常に作れる力のある人のことです☆。声で伝えることは、3歳や5歳の子供ができるわけです。楽器じゃ難しいでしょう。
 学芸会でも一生懸命やってるから感動することといえ、現場で起きるのだから、それだけの力を持っている、その力の上に本来音楽があって歌があるのです。日本の場合はそうじゃないのです。別のもので習い事として歌があって、そこからくるから、本当は通用していないと言ったら変ですが、違和感があります。でも、通用しています。

<Q&A>

Q.商売としての音楽と本当に聴きたい上での音楽って違うんですか。

A.日本で歌が商業的に使われたのは単にかわいいだけの子でどうやって稼ごうかというところからです。他の国のアイドルはいちおうアカペラで歌えるくらいのものはあります。日本のは中学生レベルですが、周りがプロです。歌ほど周りがプロであれば、そこでお札のようにCDを刷ってもうけたり、人を何千人集めることができるものはないからです。それをのぞけば、あなたの好きに考えてよいのでないでしょうか。

Q.海外のレベルは、とても高いのですか。

A.海外は、単にアイドルでも音色があるし声量もある。フランス人はけっこう声深いんです、女性でも深いです。日本人が真似てやっても、ことばとか雰囲気だけです。

 映画の吹き替えと同じで日本というのは浄化して綺麗に受け止めていくのです。だからでしょうか、優秀に歌おうという形になってしまいます☆。
 実際のシャンソンというのはけっこう泥臭いことを歌っています。日本は、華美な美意識で綺麗な豪華な舞台という形で持っていく。
 元々は、路地でひとりが歌ったらそこで聴いてる連中がリスポンスしてくるというようなものだったです。
 欧米、特にフランスとかアメリカに対して日本人が憧れを抱いてきた時に入ったから、なおさらそういう傾向があります。
 だから日本のシャンソンもおかしくなってしまう。みんな勉強熱心なのですが勉強しかしないからいけない。でも本当に熱心な舶来主義で、向こうからきたものだけを受け入れる客がけっこういるのです。

Q.歌一本では食べられないのですか。

A.本来、歌い手とプロデューサー、向こうから何かを持ち込んだりするのは、別の才能です。単に向こうのものを訳しただけとか、持って来るだけでやれた。学者でも全部そうですね。訳して偉くなってしまうのです。本来は歌い手という才能は別ですから、別の人を探してそこに歌わせるべきなのです。
 日本の場合、歌唱の才を問われないで歌い手なれます。作詞と作曲ができてもよいわけです。食べていくのに印税がメイン、歌唱だけで食えるというの日本ではなくなっているのではないでしょうか。ミュージカルやドラマをやったりいろんなことをやらないと、食べていけません。
 メンバー全員が普通の人の生活してるというのは少ない。月10万円でも食べられてるといったらそうでしょうけど。
 日本の場合はライブにもお金がかかってしまう。他のところみたいにギター一本で100人もいたら、黒字になることがない。日本の場合は、CDが売れない限り解消できないともいえます。CD売るためにライブをやってるという構図になっています。

Q.実際声を仕事として食っていこうと思ったら、声優とか役者は、職としてあります。音楽をやる声を使っていくには、これとは違うと割り切らないといけないですか。音楽的に処理する声の出し方とアナウンサーのように息を混ぜないでしっかりとした声で出すなどは、違うのか。

A.アナウンサーは特別ですけど、パーソナリティ、落語家、お笑いの人はそうでもない。昔はマイクの性能が悪かったから声にすることが必要だった。
 もっと悪かったときは顔が大きかったり角張ってたりしないとマイクに入らないからアナウンサーに向かないとか基準もありました。
 私の若い頃はラジオやレコーディングスタジオとかマイクを吹かないでくださいと。アナウンス学校のように言われていました。
 今こうしゃべっているくらいでも吹いてるのです。ノイズが入るから、昔ならアナウンサーとしては失格です。日本語は母音中心なのですから。

 今のマイクはこのくらいでとれるからよいのです。外国人は昔からこのくらいで話していますから離せばよいのです。日本人は声量がない。
 特にアナウンサーは新人から日本の場合、表面で使いますから。こういう口の形でセットします。歌い手もそうですね。実際は発音など10cmくらい離れたところでないと集まりません。エコーがかかり加工がしやすくなったから、近くする。
 加工をあまりうけたくなければ、離す。その代わり硬くなってしまいます。そういうところに対して、音響があまりノウハウを持っていない。だから日本のセッティングにまっとうに声の出る外国人がくると大変になってしまうのです。マイク離してしまって、というか離して充分なのです。
 日本でいうと役者です。役者は体からしゃべってます。10年くらいやっていればそうなります。だから音楽的に使うためというところでは、基本では考えていないです。

Q.トレーニングとプロの歌の関係は?

A.ヴォイストレーニングをやることと自分の作品とが本当のレベルで深く結びつけば意味があるのです。プロというのは制作者です。声とか歌を勉強するということとは、別です。歌がうまくなることとプロになることは違います。「必ずプロになれますよ」とかと言うとたくさんくるのでしょう。でもいずれやめるのだったら早く諦めたほうがよいケースもあります。ヴォイストレーニングというのは別に歌手になるためにやるのではありません。歌手自体が職業として成り立っていないのだから、逆に考えたほうがよいです。声の力がついてくることによって人生がよいほうにいけばよい。

 どんな仕事だって声が必要なわけです。だから私はヴォイストレーニングをちゃんとやって世の中で声で食えないのはおかしいという考え方です。音楽界の大手でデビューできるのがプロだということになるとまた少し違ってくる、年齢制限あるのに50歳の人がきてもそれは無理と言わなければいけない。
 年齢制限あるのは日本だけ。でも若く出たところでその後、続かないのも見えてるわけです。
 お笑いの人たちのほうが熱心というのか、いろんなことをやっていたのです。業界の紹介、プロデューサーシステムみたいなのも、レッスンがそれに対する投資になっているのではよいことではない。どこかで面倒見てもらえるということは義理関係ができてしまう。生徒にとってもよいことではないのです。もっと大きな可能性があったりもっと違った可能性があったにも関わらず拘束されることになります。でもその人の考え次第です。何でもよいから誰かがやってくれたらいいやということだったらよいのです。そういうタイプはどこからも必要とされないし、プロデューサーもいらない。

○プロデューサーの才覚

 プロデューサーと接するなら現場で、今のプロデューサーは何を考えて何を見ようとしてるのかというのを知ることです。ここも招いて話を聞かせていたのです。プロデューサーがやってるような学校に行ったりすると、目的が違ってきますね。
 ただ世の中、紹介があって、そこに行けるようだと紹介がなくてもだいたい行ける力がある、というか案外はっきりしています。無理に押し込めたりそういうことをやってみたところでその先には行けない。やっていけるのは5万人のオーディションから選ばれた一人、その世界で勝負していかなくてはいけない。長くやってたとかたくさん曲があるとかそういうことではない。その人の才能がその人の作品のオリジナリティの部分と結びついてるかどうかというところです。それに関してはプロデューサーのほうがわかる。

 ただプロデューサーというのは私たちと違って選り好みがある。時代での好き嫌いもあるし、今だったら誰が売れるかとか、あるいは前にこういう子を取ったから全く別のタイプを取りたいとか、その時期によっても大きく違って動く。
 そういう意味でいうと別にプロデューサーに要らないと言われたから力がないということとも違う。うまいのはいくらでもいる。例えばミュージカル劇団でも、うまいものです。だからといってJ-POPSでデビューしたって売れない。声優で主役やってる子も何千枚も売れます。
 市場があってのもので、市場そのものをつくろうとしている人もいます。優秀な人は中国とかアジアのほうに向いていますね。向こうのアーティストを探しにいくのに動き出してきています。

○歌が売れない

 現に日本では売れなくなってきてる。CDで100万枚いかなかったというのは25年ぶりのことです。ネットのせいといわれますが、たまたま暇でお金があったから、そういうものに消費が向かってただけでしょう。そんなに必要なものではなかったんです。あれだけ売れていたのも。
 それでも本でもミリオンセラーはありますから、そういう意味では別に携帯とかパソコンにお金が取られたばかりとも言えないのでしょう。
 ネットで配られてくるとよい面と悪い面と両方あります。流通がめちゃめちゃになります。アーティスト自体がメディアを自分で使っていく、メディアをつくるのもアーティストです。
 レコード会社に行ってオーディション受けると、以前に苦労してやった人のやったものを再利用しようと考えるところがアーティストじゃないわけです。
 海外のどこのロックバンドがレコード店廻りなどしてるかという話です。商業主義とは言わないけど原点からしておかしいのではないかと思います。

 歌を歌って客が集まり、客がどうしてもそのCDが欲しいという。また他の客を連れて行って見せたいと思う。こういうのがなくなってしまった動きです。そういうのが本来です。テレビに出たから売れてしまうのも変だし、テレビに出てなきゃ売れないのに、テレビに1回出たらライブハウスが満員になるといったファンとやっても、意味がないとは言わないですが。そうやってファンが動くのだったらそういうところに旗あげるのも仕方がない。歌自体が社会を全く動かしてないです。そこまで影響を持たなくなってる。

 政治的なことにも歌は使われています。アメリカあたりではまだ関わってくるけど、日本の場合は歌ってることはしみったれたこと、他の世界にも訴えかけない。お笑いのほうがよっぽど努力している。落語家は15年くらい前からやっていた。勘のよい人たちというのはそういうところに対しては先回りします。

 要は歌い手しかヴォイストレーニングをやっていないようなときに、ヴォイストレーニングって、もしかしたら落語に役立つのではないかとか、お笑いに必要だろうというようなことでやっていた人が育っています。
 私が思うにトレーニングで育ったのではなく現場で育っています。トレーニングの成果と思わない。ああいうふうに声が出るようになったのは客のおかげ、それだけ厳しい舞台に立っている。5分のステージで1回かんでも客がしらけてしまう、3回かんだらもう終わり、ヴォーカルにはありません。ヴォーカルで3回くらい音外したって今の客は文句何も言わないですよね、しらけもしない、拍手も同じくらいくる。そこでの努力、彼らは30歳くらいで新人なのですけれども、その努力が10年積めるというのがうらやましいです。劇団などで競争原理が働いていると10年は積めるのです。

 私がここでライブをやらせ、全体を組織化していた頃はグレードを10個くらいつけていました。まだよい意味で競争意識があった頃です。今はないのです。そういう意味でのヒエラルギーとか上下ということを認めない。それはそれでよいし、目的もそれぞれバラバラにはなってきました。


○世界に通じる

 ベルカントというのも何を持ってベルカントかって、あまり関心はない。ファルセットインペットという形で、インペットの部分が少なかったんです。ほとんどファルセット。ドイツ系のリートの歌唱が多いから日本のテノールなんか綺麗な声で柔らかく出すような人ばかりです。本場の人のはけっこうダイナミックな声を出します。ベルカント唱法っていろんな人が言っています。ナポリターナで使っている人もパバロッティとかベルカントの最高の見本なんだよという人もいる。単に訳すとよい声というだけです。「ベル」「カント」ですから。
 イタリア人がひとつのダイナミックな歌唱法を総して使っていた。いろんな人が教えていますが、やり方がそれぞれ違います。目指すところもけっこう違いますね。私が日本の声楽界をあまりあてにしてないというのは、実際聴いてよいと思ってみるとそれなりに息が入ってたりするからです。そういうのも基準があると思います。

 実際世界でやれた人というのは日本であまり認められていません。中丸さんなど世界で活躍してるような人は国内にいたときはほとんど認められないで、向こうの先生について練習したからではなくて、行くといきなり認められた。それは日本の声楽界のおかしなところだろうなと思います。ちゃんとやっている人たちもいるのですが、何をもってちゃんとやってるのかということも考えることです。あれだけ予算使って国家の援助も受けてるのだからバイオリンとか指揮者、ピアニストくらいに世界的な歌い手を輩出しなければいけない。

 使う人によって定義も違います。例えばここがベルカントとかクラッシクの発声を入れてるというようなことを言っても意味がない。
 ただ人間の体ということのほんとうに個人差というところではないところで声楽を入れている。それは、実績を出してきたのが声楽だからです。世界の中で多くの民族に対してあるレベルまで確実にそのことを技術として身につけたというのは、ポップスの場合はないからです。
 確かにいろんなトレーナーがいていろんなことはやってるのですが、どちらかというとコンクールがあったら定まるところはまだ、よい。
 例えば100人受けもって100人ともグラミー賞とったなら成果ですが、残念なことにそんなことできてない。同じレッスンをしてるところでもすごい差が出てしまう。それは本人の努力だけではない部分もあります。その辺はまだ研究しなくてはいけないのですが、研究ができない。

 トレーナーによっては誰でも上達させるとか全員育てるとか言うのですが、そう思ってるおめでたさというのがよくないところです。
 他の世界でいうと世界に出してこそ、育てたということですね。マラソン選手であれテニスであれ、そういう時代です。
 するとやはり二人か三人に一生かかりきってそれで10年くらいたって世界で一番を取らせたり、そうするとはっきり効果がわかりますよね。
 本人に資質があったとしても、ポップスの世界でその人をどうやって見抜くかというのはわからないことです。歌がうまいからといっても世界ということのレベルに対して何かを出せるかと、問うというレベルに、トレーナーがいっていない。
 スポーツならまだよいのです、計測したり、歌なんかから比べたら単純です。単に遠くとか速くとかでよい。
 芸術的なことになってしまうと文化が入ってしまうからなおさらできないですね。日本人がネイティブになろうというような努力に近いことをやってるのかもしれない。ただ変わる部分は変わると言うのは確かにあります。

○育てる

 トレーナーというのは、自分が育てたようなつもりでいても、もっとよいやり方もあったかもしれないし、もっと早くそのことができたかもしれないということは常にあるのです。ただそれはその人の同じ人生の中で取り返すことができないのです。
 最近も全部の先生のやり方が否定して、自分の思いついてやった方法が一番よくできた、それを発見したという本を出ています。
 いろんな方法をいろんな先生に全部教わってたら、それは普通のシロートじゃない。もうすべてのものが体の中に入ってるのだから、そこで自分の方法などといってみても区別できない。それを二十歳の子に与えて伝えられるかといったら、ムリでしょう。
 そういう本を出すのだったらひとりでも人を育てて出してほしい。というのは、現場をもつ立場です。

 本人ができたということ、その方法のためと思い込んでること自体がすでに大きな誤りのことが多いのです。
 あらゆる先生についてやったあらゆるいろんな努力ということをまったく否定してできたといったって体はそれを覚えているわけです。その上に必ず積み重なってるわけです。仮にレベルが高いとしても、そのことと同じことをその方法ですぐにできるということはないわけです。そういうことさえわからない、それだけ熱心に研究している人たちがいます。教育でおかしくなってしまわないように願うばかりです。

○発息

 「言語に息が混じる発声を日本人が嫌う」のは日本語が高低アクセントでまず音を発さなくてはいけないです。「雨」「飴」「橋」「箸」を息を混ぜて「あ(メ)」や「は(sh)」と言ったらどちらの意味かわからなくなってしまう。
 高低アクセントというのは全部を発音にする。しかも日本語というのは全部に母音がついている、特殊なことばです。
 英語とか他の外国語だとだいたいひとつの母音の前に子音が例えばspringsとかstringsとかひとつの中にそれだけの子音が連続してつくのです。その子音ひとつひとつを認識して発音できる。日本語は「かわ」といったら「ka-wa」と全部母音がついてる。母音を聴かなくては発音されてるものを聴かないとできないということで息が入るのは嫌うわけです。

 これに逆行してるのが桑田さんなんかの歌い方です。今のj-popsもそれに近いですね。
 ラップもふたとおりです。リズム系のところは何を言ってるかよくわからないし、メッセージ系のところはリズムないけど何言ってるかだけしかわからない。本来わかれるはずがないです。日本語はリズムが入ってる言語でないから、そういうことが平気でおきてしまうのです。

 レゲエでヒットさせ、全国回ったが、ジャマイカ行ってみたら通用しなかった。ヴォーカルの才能はないとわかって、転向した。自分の才能がないとわかる才能があるというのも才能がです。 イメージとテンションがあれだけ持てる人間は私もあまり見たことないです。いろんな人間、優秀な歌い手も見てきましたが、自分が何が必要であってどういうイメージを描くかで決まる。彼が選んだメンバーもテンションが高いというのが基準です。
 音楽できるという基準で選んでない。それでできてしまうのです。それでコンサート会場いっぱいにして成功してしまうわけです。日本の歌、音楽はそんなレベルです。

 そこに音楽性とか声をトレーニングするなどということを本当にどこまで必要かということを考えなくてはいけません。ただ声が弱いとヴォーカルとしては不利な部分はあります。鍛えるぐらいはしておかなければいけないと思います。

Q.歌ってるときの顎の開きとか舌の位置。

A.トレーナーが直すこともあります。私は、出した音のところから自分で気づいて直してくれるまで待ちたいという感じです。その人の内面の中に音楽が入ってイメージがあってその声が出ていなければ、どんなに顎を開かせて舌を無理に直してみたってぎこちなくなるだけです。エコーかけてしまうのと同じです。歌は、ことばと同じでトレーナーがなおして直るくらいだったらもう直っているのです。そう歌えていないということは、そうではないことがあるわけです。

 それがたまたまいつも口を閉じて歌っているとか明らかに姿勢が悪いとか集中してないとか、そういうことでしたら指摘できます。
 そもそも歌を歌うときにそんなことが起きてしまうということはそういうことを知ってないわけだから、一流のものを見たり聴いたりすることから内面から正していくしかないのです。

○トレーナー職

 ただトレーナーというのは、1ヶ月で効果出さなくてはいけなかったりするから、トレーナーの立場からいうと難しい。私はここを長期的にみていますから他の学校みたいな心配はしていないのです。しかし、きたときにすぐに直らないと二度とこなくなってしまう人もいる。で、こさせなくてはいけません。
 勇気づけてほめて認めて何かしら直してあげなくてはいけない。そのうちトレーナーもそれで直ったと思ってしまう部分もあります。本当はその人を直すのより、知るのに時間をかけるべきです☆。長期的にみているトレーナーというのはあまりいないのです。というのは生徒を長期的にあずかったトレーナーがほとんどいないからです。初心者というのはみんな1年以内くらいに辞めてしまうのです。うちみたいに10年15年とかいるようなところというのはない。
 ここでトレーナーにした人というのは、平均6年以上いました。そんな環境というのは芸事やるのに当たり前なのです。ヴォーカルというのは単純に入ってきますから、時間で割ってみたら、こっちのほうが得だとか英会話習うみたいな感じで入ってくるわけです。そうしてすぐ止めてしまいます。

 ギターとかピアノとかはメニューが進みますからやめないのですが、ヴォーカルというのは、あまり、そうなるつもりもなく入ってくる人も多いでしょう。
 いろんなヴォーカルスクールあって、初心者としかやってないとトレーナーも成長しないです。プロとやらない限りトレーナーというのも成長しないです。初心者としかやっていないと音大で何となく知ったことと本読んだことを言っていればよいのです。何も勉強しなくなってしまうのが、よくないです。

Q.音程とかリズムとかピッチとか感情込めなさいとか、そういうことしか言われない。音声的なアドバイスがない。

A.ヴォイストレーナーがその人の歌を聴いて、英語の発音と音程、リズム、ピッチの注意などしていたらレッスン時間は終わってしまう。そんなものを注意しなきゃいけないのも、そこで直してたら仕方ないです。だからといって勉強することによって正確になる人はいる。プロやってる人でもそういうのが非常に不安定な人がいますから、私はピッチトレーナーにやらせています。

Q.実際に音程とかリズムがちゃんとなりますか。音程が不安定だからなかなか上手に聴こえないような気がする。

A.音程とかリズムを正しくしても正しいだけですね、正しいだけの歌える人というのはいくらでもいます。カラオケで歌っているサラリーマンとかOLのほうがうまいです。それを上手にしたからといって自分の中では上達してるようには思えない。
 そういう対象というのはアイドル歌手です。もうデビューが決まっていて下手で見られなくなる。要は欠点だけ隠せばよいという場合、そういうところにはそういうトレーナーを使えます。
 私もそういう仕事はもう20代の若いトレーナー、女性だったら、要はうまいほうがよいから任せることもあります。モデルだったからタレントだったから出せるものです。ですから目的は、歌の流れをとるところにおきましょう。

○日本の音楽の受容

 外国は、どんなにスターで知名度があっても音楽だめだったら売れないのです。映画スターで売れてる人はシナトラでもベッドミドラーでも、歌手としても一流の人で、両方できる人です。日本の場合はそんなことないです。歌がプレゼントみたいなものです。私は歌い手はエッセイストと同じだと言っています。プロというのなら原監督だって星野監督だってCDを出してます。売れているということはプロ歌手なのですね。でもさすがにピアノなどでは出さないですね。そういったものはムリだとわかっているわけです。

 歌の場合はエッセイストみたいなものと同じです。歌い手というのは、そういう人たちがやれてる以上のことをやることでしょう。そういう人たちが絶対やれないことをやれない以上は、名乗ってはよいけれど、価値がないです。

 売れるだけということであればおかしな歌い手もたまにいます。ただ音楽として聴き手のほうの耳が肥えてます。日本みたいに何もかも入ってくる地域は、そんなにないです。日本ほど全世界のものが何でも入ってきて、それはよいことではありますが、聴ける国というのはそんなにないのですから。

 日本のポップスは洋楽と一緒に入ってきてます。それはクラシックの歌い手が最初スタートしたところの影響と演歌もクラシックの影響から入ってきてるわけです。ビブラートとか声を楽器に負けないで遠くに飛ばすとかあるところまであったわけです。今はずいぶん消えました、日常の聴こえる程度のところで機材が多くなって、作り声というかわざとらしく「あああああ」とビブラートをかける。本来はそんなにビブラートをかけていなかったのです。
 北島三郎さんでもデビューした当初は鋭い。本当に声で最低限におさえたような表現をしていたのです。
 演歌ってだんだんそういうやり方だというふうになってしまった。演歌歌手になろうとか演歌のヒット曲をおさらいしようとそうやって真似て、だんだん本当に伝えられない部分をそういうビブラートという形でカバーしだした結果、ああいうふうになってしまったのです。

 シャンソンでもカンツォーネでも同じです。元々そんなものではなかったのに、そこで技術が受け継ぎ、ゆがむ。クラシックでも響き第一主義です。
 本場は絶対あんなことやっていないのに、そういうことをやった人たちがいるわけです。本来そんなのは認められないのです。が、日本人というのはそういうものを認めてきたのです。

○日本人の好み

 簡単にいうとJ-popsでもラップでも向こうから入ってきて、音楽にもメッセージにもなっていないようなもので売れてる。中学生でも小学生でも買う。
 黒人の世界では、マドンナとかマイケルジャクソンでさえ子供以外が聴いていたら馬鹿にされると、そういうレベルのところで線引きがない。
 白人だったら大人でもいいと思うものに対し、そういう耳のでき方というのは小さいころからそういうものに接するしかないという部分はあります。

 カサンドラウィルソンは5歳でマイルスデイビスに感動したそうです。日本の子どもで5歳で感動する子っていますか。親が好きでもなかなかいないでしょう。では5歳からその耳で育ってきたら、あるいはもう5歳のときにそうだったら、どうなるか。
 私など10代のころマイルスデイビス聴いても、わからなかった。日本でも一流だと思わなかったら聴きもしなかった。
 一流のアーティストというのをどう聴こうが勝手です。マイルスデイビスというのは誰もが一流と認めているのですが、CDを買わない人は世の中でたくさんいるわけです。それはおかしなことではないのです。

 好きな人は本当にはまっていくと好きになっていくというだけで、知らないというのもあるけど、好きな人からみたら何でわからないんだよということでしょう。ジェームスブラウンが大好きな人も、嫌いな人もいる。それがファンの好みです。判断材料をファンに与えるということをアーティストがやればよい。
 問題なのは救われようが救われまいが自分のスタイルをきちっと示してそこのこだわりにおいて他の人ができないものをやる。
 それで見向きもされないような人もいる。あるレベルを超えて、ようやくそれはすごいなとなる。
 日本の場合はロックもコピーし、新しく革新にしたわけではないですから。

 リトルリチャードが出たとき、ロックンロールは、みんなのヒンシュクものだったわけです。出てから10年も20年もほとんど、黒人差別もあり、別の意味でも大人たちには目の敵にされた。日本でもそうだったわけです。そういう形がなく出てくるものというのは元々去勢されてるものです。そういう形で音楽が取り入れられては勢いなくしていくのは仕方がないです。

 今のロックスターみたいな人はいますか。波田陽区、テツ&トモでも塙くんでもああやって音声メディアを使えるということがすでに歌なんです。声が悪いとかレベルが低い、チュニーング合ってないといったて、そんなの関係なしにやれる。
 もう少しメッセージとして大きな批判を言えばよいのにと思います。
 お笑い芸人のほうが、音声を声として使うレベルが高いです。ヴォーカリストよりも声もことばもしっかりしています。音域だって1オクターブぐらい出してるのではないでしょうか。

 漫才師がいろんな意味でタレント活動やったり司会者やったりするのは他の人たちよりもすべてにおいて舞台での才能が勝ってるからです。役者以上に使いやすいわけです。そのくらいの感性をヴォーカルも本来持っていなければいけない。世の中、力があるところにスポットがあたっていくわけです。
 そういう意味で歌も出てくればよい。もう分ける必要はないと思います。

 演出家とか映画監督がくるのは、自分の声にも関心があるのだけど、才能ある人たちを動かすときに声を指導しなければいけないからです。あるいは声ということが作品の中でけっこう重要なポジションを占めるわけです。映画であれ役者であれ。
 だから下手なヴォイストレーナーより演出家の人たちのほうがよっぽど声について使い方とか可能性をよく知っています。音楽やってる人が鈍くなってしまってはどうするのでしょう。音楽が一番鋭くなければできない商売なのですが。

○聞き方

 日本のラテンの女王といわれた人です。
「思い寄せても」
 クラシックというのはこういう形で小さく入ります。大きくなるとビリビリなってしまうからです。淡谷のり子さんとかの時代の人の特長です。
 音楽の耳というのはこういうを聴いたときにこれがAABAという構成であったと。その中で今みたいなのが日本人の典型的な聴き方です。

 キューバに先々月行ったときのCD、そこでやっていたものです。日本の最高レベルの上にキューバの庶民の平均的なライブハウスの普通の歌い手がいるくらいに考えたらよいくらいです。日本でこういうヴォーカルがいたら何とでもしてあげたいと思うのですが多分いないです。
 同じ曲です。ただAABAの構成も二回目からすぐに自分のフェイクとメロディフェイクと両方かけて完全に変えています。

Q.音ぐらいはとれて歌くらいにはなるのですが、こういう人たちはこういうパターンを40も50も持っていて、全部展開しています。こういうことをやるために声と何がいりますか。

A.勘がなくてはいけないし声の芯がなくてはいけない。例えば日本人のように1オクターブあがってるところに声が深い声でないと、もう出だしのところでできないわけです。メロディではなくてことばで歌わなくてはいけない。リズムもこういうふうな歌というのは、リズムをとっているように、わざとらしくは聴こえないです。新しいリズムの若い人たちにとってもこれだったら通用するわけです。ところが日本人のああいう歌い方というのは古い。
 けっこうああいう感覚なのです。綺麗な声を出していては、とても実際の市場に対応しません。どんな一流でもカンツォーネ、シャンソン、ラテンつかっても、あるいは70年代くらいけど昔から変わらない。日本でやってるのは真似ごとだったから。ただそのころの最高のプロの人たち、日本の中で音楽的な感性で選ばれた人たちのその先のことを、そういう比較していくというのは一番わかりやすいです。

 洋楽をやりたいというのであれば耳の捉え方の部分です。ヴォイストレーニングをやって一流のアーティストになった人はいない。一流のアーティストになった人たちは必ずその前の一流の人たちを、他の人が聴けない音まで聴いている☆。それから音の中での組み合わせるとか色んなものを作ることができてくる。
 我々は1本くらいしかアンテナがない、彼らは10本くらいアンテナがあったとすると、その9本を補っていく。
 RとLとの発音は、こんなもの、そんなことを直したってライブでは通じない。そういうことができた上で恥ずかしいなら直すことでしょう。【京都講演会 05.3☆】

■レッスン

○感覚の切り替え

 日本人の中で向こうにも渡りいろんな感覚で勉強した人たちというのは我々よりも才能あるとみてよいですね。それを10代くらいでできてしまうのですから。でもそういう人たちが歌ってる中であるいは形として取り出したところの中に別に海外がよいとは言いませんけど、日本人であるためにとらえたとらえ方それから創ってる創り方というのがあって、限定してしまっているのです。
 原曲から言うと1.2.4と同じに歌って3のところでサビをやるのですが、原曲の良さの部分がけっこう落ちます。みんながやってみてもそれに近くなります。

 私の講演会の中で感覚の切り替えとはこうやるのですと、いろいろなものをやると「そうやればよいんだ、明日からやれる」と思うのです。でも最低でも2年、そこに向こうの何かが入っていても2年です。
 そうでなければ、感覚の切り替えに10年くらいかかります。英語と同じです。
 音声あるいは音楽をずっと聴いていたらそうなるかというとそうならない。ある程度、意識的に聴けない音を聴いてやること、見えない音とか見えないリズムを自分なりに見ていってやることが必要です。

 元々そのリズムは、どうしてそいうふうに動いてきたのかという動きのベースにある感覚の部分を学んでいかなくてはなりません。
 音を聴いて叩いても、それは聴いて合わせていくわけですから、表面的な練習です(でもやらないよりはよいと思います)。そこで自分にフィットしたものしか最終的にモノにならないのです。
 そういうことを揺らしてみたり柔軟にしていくのです。我々が思い込んだり(我々の意識ならよいのですが)、体がもうすでに思い込み心とか感覚が思い込んでいると直りにくいです。

 黒人は歩いていても音楽的です。多分、音楽をやろうと思ったら歩いていて音楽的といわれるくらいのことができなければいけない。それは誰もができるわけではない。けれど多分そうやって開くことによってできた人はできていったのでしょう。勉強してみるのは決して無駄なことではないと思います。とりあえず耳から聴いている中でどう違うのかを聴いてください。

 日本人のフェイクとかアドリブは予想がついてしまうのです。それは私が優れているからではなくて当人が決めてこういうフェイクというふうにメロディを変えてしまうわけです。これではアドリブでないわけです。
 そこの場で感じたようにやるから、よりそれをよく生かす必要があるのです。変えてしまったな、元の曲壊れてしまったなとか、何勝手にやっているのかなとか、こういうふうに変えたのだなと見えてしまう。見えてしまう程度の鈍さでやっているわけです。一部の人でそれをうまく挟む人がいますが、そういう人は今度は逆に声がないのです。これは日本の特色です。

 当たり前のことながら、声がなくてやれた人というのはセンスのよい人ですから、音の動かし方に器用なのです。
 逆に声があってやれた人というのは声に重きを置いてしまう。声がどういうふうに離れるとか、それがリズムにどう乗るなど考えなくて声を出せればよいと考えてしまうので、勘がうまく働かない。
 日本のヴォーカルというのはだいたいそのどちらかです。
 体があって役者型でいく人というのは音楽センスが入らない、感情表現だけで押してしまいますね。逆にラップなどああいう感じでパッと入れる人というのはパッと入り方が楽にできるために上のほうから取ってしまって浮かしてしまう。リズムは口先で器用に作れてしまうのですが、早熟なのですが重みがない、体からの声が足らない。両方のよいところが生かせればよいのでしょうけど。

○オリジナリティ

 「想い寄せても 君のこたえは なぜに冷たい」、心が消えてしまうと意味がないですね、「胸に残るは」という思いをギリギリ残した上で変えるというのが一番です。そうでないとメロディフェイクになりません。違うメロディということになってしまう。
 元々原曲のほうが古くて、こうやって歌いたいとやるわけです。そうやってオリジナルなものから何かを真似て創られたものというのはオリジナリティ性を損なっているわけです。新しく聴いたらだめですね。

 オリジナルというのは時代の中で初めてやったこととか、周りの人がやってないからそれをオリジナルというのだとか、そんなことを言う人は、何もわかっちゃいない。どっちがよいとか悪いとかいう話ではない。真のオリジナリティというのはその人のベースのところに基づくものです。それで、時代も超える。周りなんか関係ないのです。それだけの説得力をもつわけです。
 ではこういうふうな音楽をみんなやるようになったからこれはオリジナルはないのかということになれば左右されるものではないです。そういう部分を自分の中に創っていく。時代を超える、それから国も超えていくということです。初めてやったというのは、新規というだけの話です。

 今フレディマーキュリーを観たからって古いとは観ないですね、ビートルズを聴いたら古いと思う人はいるかもしれないけど、それはその時代とまだ、つながってるからでしょう。もう少し経ったときに聴いたら新鮮に聴こえるのではないでしょう。初めて観ても、そういうものでなくてはいけません。

 この日本人の歌い方なんかも今はないから新鮮かもしれないけど今出ていけないですね。今こういう歌い方をしたりこういうふうな感じの曲のこなしをしても厳しいと思います。ところが原詩は全然古びてない。そこが違うのです。気分でパッとそのときに聴いてそのときに買ったものが今で生きてる、昔古かったのかというと今新しくこれを歌い替えたわけではないです。やはり昔もそう歌ってた人たくさんいたわけです。

 みなさん自身がこういうのを勉強するのは古いのを勉強してるわけではなくて、これが古いから新しくする力も必要なのですが、これ自体は古くないのです。これが今出ても今の人でも10年後の人でも20年後の人でも感じられるものは感じられる。その部分をやはり勉強しようということです。
 シャンソンのおじさんおばさんたちには、かなわないですよね、その時代に生きてきて、そういうもので感動して生きている。こちらは練習のためにとっているわけです。私はその方の先生になれない。その時代、生きた人のその曲に対する思い込みなどというのは想像もつきません。誰かを先生としたいといってくるのでしょうけど、自分と決めていってください。

○古さと新しさ

 「燃えるものなら」それから「愛はかようと」の韻を踏みます。
 日本人の一番苦手なところだと思います。理屈では今までも色々説明してきていますが、体で身につくには、どうすればよいのでしょう。
 パーカッションやってみても、血の違いもありますけれども、今後の日本人がこういったものを聴いて、多分時代的にはどんどんリズムにきています。
 だから私なんかは古いことをやっていても、そのままどんどん古いことになって遅れていくとは全然思わないのです。古い歌を古いところで真似てしまうからいけない。古い中で本当のオリジナルな部分というのは、古いとは言われないわけです。

 逆に言うとレゲエでもラップでもみんなこういう感覚に近いですね。むしろカンツォーネやシャンソンなんか使うよりもこういう曲を使うほうが今の若い人なんかはステージで反応するのではないかと思います。どれがよいとか悪いとかということではなく、ただ情感とかメロディというのは民族差があったり時代差があるわけですね。そうなってくるとポップスのとき一番ベースに置くべきことはリズムあるいはグルーヴの感覚だと思います。

 例えばこういう歌から入る人というのはあまり声量をつけようという考えは持たないですね。カンツォーネあたりから入ってしまうとそこにバッと入ってしまうのでしょう。だから現実の世の中で見ていったときに時代は動いてはいるのですが、どこに自分のベース、ルーツを置くかということ、それは難しいことになってくる。ここでやることはそこまでは踏み込みません。いろいろ自分で自問することです。

 そういうふうな刺激なり感覚ということが、声が出るようになり、リズムや音程とかメロディの勉強を徹底してやったときに、こういう日本人の限界線があるのだから、そこを早めに柔軟にして、揺らしておくようにしましょうということです。
 日本人がよくないわけではないのです。元々日本の中にこういう感覚で生きてきた血がないわけですから、ないわけではないと思うのですが、それを好きなところが日本人にあるということはできるとは思うのです。

○日本人のリズム

「バナナボート」
 向こうのことばで歌っていても日本人てわかってくる。でもこういう音色を持っている歌い手というのは日本で少なくなってきました。
 リズムは先行してるのですが音色がついていっていないような部分がある。
 この研究所に世の中から遅れている部分です。きっと音色なんかが聴こえるところで習い事をやっているところというのは日本中でないです。今風にやっているところほどリズムにのるだけ。本来リズムというのは音色が動いていくことによって感じさせるものでもあります。

 日本のリズムの取り方というのは、頭で叩いているだけですね。ラップもそうですね。音色が伴っていないから本当に通用しっこない。ただ両方はできないから先に言ったようなことになるのです。どっちを取るかと言ったら音程、ピッチ、リズムから遅れないことを取りましょうと。遅れてもよいし、メロディ外れてもよいから、音色がきちっとできてきたら、後で合ってくるという考え方ができないわけです。何が一番本質的なことかがわかりません。

 ピアノでも、ミスタッチしてはいけないのは当たり前なのですが、では弾けるということで何が決めてになるのかと考えたら、自分のタッチで自分の音色が動かないことには、いくら正確に弾けたって仕方ない。
 かたやロボットを例にとってみればよいわけです。人間よりドラムやパーカッションもリズムボックスのほうがよっぽど正確です。
 でも違って聴こえる部分というのはズレの部分、あるいは人間らしい部分です。その間違いのセンスがどこにあるかということで問われるわけです。
 歌はその部分がとても許容範囲が大きいのです☆、そう捉えて、ここで勉強して欲しいのは音楽のベースの部分です。

 レゲエの中で優れた作品で、彼らが音楽をどう捉え、どういうことで音の世界の中でお客さんを盛り上げていくかということは、象徴されていると思います。自分の作った曲だとよくわからないのですが、他人の曲をやるときというのはそのスタンスがなぜそれを選んだのか、どこに音楽を見たんだということをみる。優れたアーティストの選曲なり、その作り方ということで、同じ曲を比べてみるとわかりやすいです。
 作られた分にはどこが天才なのか何かが本当にわからないのですが、ただ日本人でもそういうタイプのヴォーカルというのはいます。音色とフレーズだけをテーマにしたときのものです。

○バックの音をひき出す

 音楽がバックについてないと歌えないということではなくて、実際ステージでヴォーカルがソロで歌って、それでバンドがバッと入ってくるというパターンを観たことがあります。アカペラでも、節回しを自分で変えていくみたいに、こういう音楽だと楽器が全部前提でと思われるのですが必ずしもそうではないです。
 だから今自分がやった後に、優秀なこういう楽団が入ってくれる、それを導き出すような歌い方をイメージします。
 この曲は有名ですが、この曲に限らず、リズムを中心にして、どうフェイクしていくかみたいなものです。ジャズの基本勉強だったら、こういうものがよいのではないでしょうか。日本人のジャズというと、もうガチガチに決まっています。アドリブ、フェイクの方法をパターンで知っていますというのがそのまま出てしまいます。

 アドリブでも何でもなくて普通の曲から変えたというだけです。誰かが変えたのをそのままコピーしたというものだから、そうではなく自分が創ってみて選んでみて原曲よりよいところ、みせられるところを拡大して欲しい。
 こんな形ですぐには入れなくても2番目ぐらいから、いろいろと展開して、この曲ってこんなに変えてもよいのだというものにしてください。ただ原型がなくなってしまうと、今も何の曲かよくわからないのもありました。ある程度、踏まえなければと思います。

○一つのこと

 よくなればどうやってもよいわけです。「胸が痛い」という、何を言いたいのかということです。「なぜに冷たい」とか「いつか私の愛が通う」と言いたいのだったら、言えばよいわけです。ひとつくらいのことですよね、だいたい一曲の歌の中で言うことは。
 だから「胸が痛い」でもよいし「なぜ冷たいの」ということでもよい。それを繰り返してるうちに、それがひとつの相手に対して伝わるものになってくればよい。そこまでのベースのことを勉強じゃないですね、表現ですね。

 勉強したわけでもなければアメリカに行って難しいことを教わったわけでもない人に、言いたいことを言ってるだけです。そこに音楽があり声があるということです。このレベルのことは一生かかってやるだけの意味あると思います。古いとかどうこうではないですね。
 このころの日本人のを今真似て歌ってみたって通用しないと思います。
 でもこのレベルで処理できればラップであろうがレゲエであろうがジャンルなしに処理できると思うのです。私はもっとも新しいことをやってるつもりです。みなさんが考えなくてはいけないのは自分の世界です。

 音楽の世界を創っていくことと音色の世界って密接です。音色が働きかけ音色が聴く人の心に残りまた聴きたくなるという部分あります。歌詞の世界、メロディの世界もあるかもしれませんが練習としては単純にとらえてほしいと思います。
 こういう曲に対して全部「思い寄せても」で歌ってみましょう。サビのところも全部「思い寄せても」で歌ってみれば何が起きたかわかりますね。1.2.4で何が起きてるのかというのは把握できていますか。把握できなくてもよいから1から2、2から4に対しての流れを自分なりにとってください。その間に3が入ってる。

○音との融合

 わからない歌でも何でもよいから、同じ歌詞で最初から最後まで歌ってみて、それで音楽に気持ちをゆだねてください。優れた音楽であればそちらの音楽に自分の声が引っ張られていって出ていく。かもし出されたもののほうがあなたがたの思ってやってることよりもレベルが高くなります。その辺間違えないほうがよいと思います。

 よくオリジナリティを自分の曲を歌う、自分の歌を作ったとか、それが自分の一番だとか、それは歌詞と曲の上では言えるかもしれないけど歌唱に関しては必ずしもそうならないわけです。よい曲というのは持ち味を引き出していきます。よい曲悪い曲とある。悪い曲をその人が歌うことによってすごいよい曲になるとしたら、それが一番すごいことだとは思います。曲とか歌がすぐれてるとそれを助けてくれます。みんなが歌うより自分はどう違うふうに歌うのか。トレーニングは目標をたてなくてはいけないから、目標が上についてしまいます。その上に対してやっていこう、先生に対して近づいていこうとする。でも実際の答えというのはどれだけ上じゃなく違うところに場所を確保するか、あるいは先生と違うことをやる。

 私もスポーツでよく学びました、サッカーとバスケットボールやっているとみんなボールのほうに行く、そのときは全員いくからボールのところにいかなければいかない、そうでなければ成り立たない。でも本当は誰もいないところにどれだけ自分が行くかということですね、バスケットもサッカーも、空間の取り合いですね。椅子取りゲームみたいなものです。そうやった人が勝てるんです。そこに行ったらボールは出て来るからです。
 技量があれば、こういう世界も似たようなところがある。ただ、この動きからはみ出してしまうとつまらなくなってしまう。その動き以上のものを自分のほうでつくっていく。

 音楽に親しむこともそういう形でやってもらえばよいのではないでしょうか。
 いくつか知ってるような曲があって、それを自分の歌詞でもフレーズでもいいからぶつけてください。ぶつけてみたところでモノになるものが生じてるのか、単に外れてたり下手クソなのか、どこか1.2箇所いいところはあるでしょう。だからそういうのをたくさん入れ込んで、いずれ使えるようにしていくというような勉強をしていくともっと音に敏感になると思います。

 知らない曲、メロディなんてよくありますね、私も今の曲は知りませんから、メロディでばーっとかけていくと次々出てくる、それに対してどう乗っていくのかというのは即興みたいなものじゃないかと思います。歌詞だって同じでも違っても構わないわけです。音楽がそこに誕生するかどうかです。
 予測する力それに適用する力、それをリードするような力をつけていってほしいです。

 そういう意味で楽器のプレーヤーの持ってる要素をもう一度勉強してもらうとよいのではないかと思います。
 この曲だけでなくどんな曲でも使えると思うのです。歌詞を知らないから楽譜がないから勉強できないでなくて、自分がこの曲よいなと思ったら何かしらそこに勉強できる要素がある。あなたが感じたということだったらあなたに合った要素が何かあるはずなのです。それを生かしたほうが、私が一方的に与えるものよりもよい勉強になると思います。

○歌に聞こえる声の判断

 もう5年前です。何名かの声の条件が持ち出されていて、それとプロとどう違うのだということが私の頭の中にずいぶん入ってきた年です。
 私の言ってることは根本のところでは昔から全然変わってないのです。ここに来る人の要求に合わせざるを得なくなって一度、音色を開放しようというのがあった。元々は発声の原理に基づいて声をつくっていきその上で歌に応用という考え方だったのです。そのころからそれができなくたって、歌として聴こえてくる声は認めていくようにした。

 それで海外の一流の人と日本人との中で見ていこうと、特に音色とグルーブ、いわゆる音の世界をどう動かしているかを、日本人の中で私が一番伝わりやすいものを使いました。音の世界の中でまさに第九と般若心境というとてつもないものを融合させて今の時代に取り出しているということではもっと評価されてよいのではないかと思うのです。日本ではなぜかそういうものは、いまだでてこない。でもステージでもこういうスタンスは取らないです。こういう声もめったに使わない、これはけっこう力が入ったのではないかと思います。

 やりたいことは、音色のこととグルーブフレーズのことです。トレーニングはだいたいトレーニングしようと思うから上というのを立てなくてはいけない。
 先生とか、見本の声に向かっていくことが、本来問われるのではないです。そういう世界自体がないこと、そこからどこまで距離をあけるか、先生についたらいかに先生と違ってくるかということが課題なわけです。サッチモなんかは真似する人もいないし、海外でもおいそれとできないわけです。真似すると喉をつぶしてしまうからです。それに近いヴォーカルは、1回聴いておいてもよいのではないかと思います。

○区分

 こういうのの区分けが創れるまでにはみんな育っていました。平均で3.4年はいましたから、区別がつくというのは、どういうことかというと何が真似で何がオリジナリティかというような部分です。それがわからないとトレーナーにいくらついたって、そのトレーナーの3分の1もできなくて一生終わってしまうのです。いろんなところを見ていてもそうです。
 だから耳を鍛える、音楽としてどういう判断をしていくか。どんな曲を歌うにしろ自分の中の音楽、というとわかりにくいでしょうけど、さまざまなパターンの音の動きがあり声の取り出し方があって、それが歌詞、イメージ、楽譜によって啓発されて出てくる。

 ここまでに徹底して10代のときにモータウン入れているから出てくるわけです。そこがなければそう簡単にできない。楽譜も読めなければ発声練習もしてるわけもない。そんなことと関係ないところに音楽がきちっと成り立っているということをみましょう。当時は声としてはみんな育ったと思うのです。ただその声をどう使うかというところで、こなしてはいけない。声が目立たないようにならなくてはいけない。高いところになって音楽は出てこない。それが周りがいろんなコーディネートをして通ってしまうぐらいしか日本のプロデュース機能だって働いていないわけです。

 サンタナのかっこよさはどこにあるのかというようなことから入ってみようと思います。音色のことです。音色というのは個性ですから、これがないとけっこう厳しいのではないかと思います。誰の声というのがわかるというのは声がよいとか悪いとかではなく一つの強さです。それはクラシックの声ではない、伝えられる声です。声がそのものがよいとか悪いのはあまり関係ないし、使い方のよさというのも音楽が出ることに対して従わなくてはなりません。その辺がわかっていません。どっちがよいのかはわかるのだけれど、どこがどうちがったかという認識がないです。

 例えばみんながプレイヤーだとしたらピアノとかギターを2回弾いてみたときに1回目の音の世界の中で何が起きて2回目のときにそれに対してどうなったか認識してるはずです。プロはそれをすごい細かいレベルで認識している、覚えているわけです。例えばAABAという展開があったとしたらそのAに対して次のAって、どう違っていて次のAはどうなっていたということをことばの違いではなく覚えているということです。メロディが違っても覚えているということです。そこの感覚を、それを動かせないと自分のものを出せないです。

○形より勢い

 声量とか声の響きというのは、歌ってもそちらで歌っているなと聴こえてしまう。そこに歌が挟まってしまうとそれだけストレートでなくなってしまうのです。歌の形をとってコンサートとかいろんなものをつくってきたのは日本のひとつのやり方です。その結果、歌の勢いは衰えている。
 アメリカでも一時のオールディズあたりのころの動かし方というのをできていない、ただ歌い手のレベルが落ちないというところがすごいのではないかとは思いますが。

 日本でも歌い手のレベルが落ちてるわけじゃない、昔だってそんなうまくなかったし、今の人たちのほうがよっぽどうまい。それ以外の部分において複雑になって、今の生で歌ってる人などは逆に複雑じゃないから案外と受け入れられてるのかなと思います。
 単純な声、生の声をプロの声みたいにする必要もなければ、要は何を伝えるかということで、そこにどこまで音楽を入れてるかということです。
 今はリズムのほうがメインになっています。基本の練習としては、声を音にする、音楽にする、無理だったらことばでもよいのです。そこで歌いあげてしまったり複雑なことしたりしない。イメージは大きくとるのはよいのですが、そこに体とか呼吸がついていかなかったら、あるいは発声だけになってくると今度は声しか聴こえてこなくなってしまいます。そうなるとお客さんはひいてしまいます。その辺を勉強すればよいのではないかと思います。

○発声を出さない

 なまじ発声とか歌とかが頭に入ってしまうと、どうしてもそう持っていってしまって歌ってしまったりメロディとってしまったりしてしまう。それはトレーニングとして悪くないのですが、レッスンとして応用されたときに全面にでてきてしまう。ということはそれ以上のものがひっこんでるわけですから悪いパターンです。

 よく声楽をやってポップスを歌ってるような人に、自分の中で伝えてるという感覚が声が出てるという感覚になってしまうのです。そうではないですね、みんなが聴くところは音色だったり声の変化だったりニュアンスだったり伝わるところというのは、こう違うわけです。
 ポップスでは大した声域も声量もあるわけではない、音楽的に加工してもってるわけですけど、ただ音楽と一体になっています。心と呼吸と体がひとつになって、ぎりぎりのところで表現してるから、聴こえてきます。その力がなければいけないのです。トレーニングを間違えないようにしてほしいのは、ステージに立って現場でまとまってしまうのだということです。

 お客さんに失礼はできない以上は、歌も切るところで切るしピッチだって合わせる。できなかったらそれは基礎力がないということだから徹底的にやらなくてはいけない。では現場じゃないレッスン場や自分のトレーニングでやるべきことは、たったひとつでもよいから、きちっとしたものをそこでつかむ。あるいは出したことをつかむことをやっていくことです。自分が何を起こしてるかということに計算されている部分はあるのです。しかし、それとともにメロティとことばと音楽とかそういったものがひとつになってこなければいけないです。

 外国人が有利なのは、それがことばレベルだからです。みなさんにことばで言わせてみたら伝わります。
 ところがこういう節をつけてみたりメロディをのせてみると伝わらなくなってしまう、音楽でより伝わるようにする、それも強烈に、です。
 こういうフレーズがついて、それでひとつの流れが出て心地よくなってくるとこちらはパターンが入ります。声だけで言われるよりもノリやすくなるといったら変ですが、そこで反応しやすくなってくるわけです。そういう部分で創っていかなくてはいけないのに余計な音楽が多すぎるのではないかというのです。

○構成をくずす

 あなたにつけてほしいところというのは基本能力、これは例えば1.2.4同じです。AABAですね、Bも同じにしてしまえばよいと思うのですが。
 例えばA1A2A3にしますね、そうするとA1A2A3で何が起きたのかをことばじゃなく自分で認知しなければいけないということなのです。
 確かに日本人の方はA1A2A3同じメロディでことばだけ変えて歌っています。
 彼女の場合はもう同じ歌い方したくないといってA2から変えてしまっています。これも聴いている人が知っていなければ、極端な変え方ですから普通はやらないほうがよいのですが、有名な曲でみんな知ってる、そうするとA2A3で変える。

 でもこのA1A2A3の変え方があって、この人のをコピーして自分も歌うのではない。この人にはA3どころかA30A100いくつあるかわからないのです。
 そのときに応じて違う出し方をしている。それが音楽の音を扱う、それでも勝負型というのがいくつかあるとは思うのですが、若干今度は長かったねとか短かったねと、そういうことが我々の感覚でできるのはことばです。

 日本人はメロディがついてしまうと、どうしてもピッチとらなきゃとか3拍伸ばさなきゃとか、でもそれが音楽として成り立ってる結果として楽譜に書かれてるものが楽譜として入ってきたときに音楽として成り立ってなかったらやらないほうがよいのです。
 何か歌ってしまってると思ったところが一番成り立ってないところです。そこは声が出てるかもしれないしメロディがとれてるかもしれませんが伝わりません。
 もっといろんなものを入れてる中で、それを徹底してやるために何かひとつ歌詞を選んでください。
 本当は言いたいことは「またもつれない」とか「なぜにつれない」とかのほうがよいのかもしれません。何かひとつをとって全部それで通します。そうなったときにどこまでついていけるかというふうに考えて、本当は自分がフェイクしてリズムフェイクメロディ、フェイクしてやります。

○音色の多様性

 絶対に難しく考えないこと、サッチモを聴いて、何でこんな簡単に歌えてしまうんだ、何でこんなんで上のレとかミとかファが取れるのだと。
 クラシックのほうがまだわかります。クラシックは上のほうにいくと上のほうに高くなってそれは体の力がないから太さがないと。
 届いてないはずなのにピアノ合わせてみたら確かに上のレと、昔は私の中では音色と音の関係が今ほどわかりませんでしたから、低いとこで歌ってるのに高い声になってるとかわけのわからない。本当にその音届いていて、ふつうピッチ(周波数)と聴いてる感覚って、違うのです。聴いてる人は必ずしも高い音を高く聴いてるわけじゃない、低い音を低く聴いてるわけじゃないです。

 結局、何をとるかということで日本人離れしてる人はそうとっているのだから、こちらのほうが動かしやすいということです。
 要は打楽器的に声を使う。こういうことができないと、いくら聴いてみたって歌謡曲みたいになってしまう。ただそれが日本人の耳ですから、ここで言ってることのほうが無理なのですが、日本人の耳で歌いあげていくと古っぽくなってしまう。こういう感覚で歌ったほうが現在にマッチして未来に対応できる。キューバに行って、昔の音楽が聴こえてきても古いと思わなかったのです。

 自分の中に入ってるもの、入っていないものをこうやって取ってつけていく。この歌詞、でとなってしまうとやりにくいから冷たいとか辛いとか感情が入ることばのほうがわかりやすいです。終わってしまっても入りにくいところはあるけど、ことばの発音ではなくてことばのほうのイメージが持って来るものとメロディとリズムとを溶け合わせる。
 声がある人というのはそこから声が飛び出してしまうんですね☆。ところがプロは音楽の流れの中できちっとおさめて切っていますね。
 少し極端すぎる切り方なのですがひとつの歯切れみたいな形できちんと踏んでいるわけです。そういうトータル的なバランス感覚も必要になってくる。

 お客さんが声を聴く時代ではなくなってきているというところもあります。浪曲とか浪花節とか一部オペラなんかもそうなのでしょうが、ポップスにおいては声が調和を崩してしまうことが多いです。かえって嫌なんですね、そういうふうな声が飛んできたりして迫られると。
 演劇とかでも、不条理を見せられたりしても今はダメで、ちょっとしたペーソス?とか悲しみ、人生みたいなものを感じさせる。笑いだけではやっぱりダメなわけですが、こんなものも難しくやったらだめです。すると自分が簡単にやるためにどういうふうに選んでいくかそのことばを発見していく。

○動かすことと間

 昔よく言っていたのは、カラオケでどんなものでもよいからメドレーかけて、それのところに全部合わせていきなさい、ことばはなんでもよい。わからなければ歌詞が出てるのだからと。
 そのときにピタッとくるものがもしそのフレーズそのメロディそのことば、うまくあったら、それはひとつの自分の武器になっていく、そういう動かし方を試みる。同じような形でサビのところをやってみましょう。

 要は曲を動かさなければいけない、リズムというのはそんな中で大きな役割を果たします。
 キューバでへたくそな高校生がペット吹いてたのが印象に残った。というのは回りがあまりにレベルが高かったので。
 結局のれるのが当たり前じゃのれないというのは排除されるのですが、のれるのがめずらしい国じゃ、なかなかそれは気づきにくい。そういうのは行かなくたって、いろんな音楽を聴けばできることです。

 なんで15曲も18曲も取り上げるのか。しかし歌は3分で15曲18曲って分ける必要ないのです。30分歌っていれば10曲分だし10秒ごとに切っていけば1曲だって30曲になるわけです。だから感覚を切り替えるためにたくさん使っていくとどこかによいところが出てくるだろうということでした☆。
 ある意味ではワークショップとして、生声みたいなものをひとつの声にしていく、音色をつけていくし、それからいつも発声、フレージングみたいなものを動きをつけていく、それから音楽的な関係、フレーズとフレーズの関係をどういうふうに持たせていくか、とくに終わったところから次につながるところに、集中します。

 日本人の歌って、いつも言ってるとおり、一つひとつで切れて死んでしまう。伸ばしても死ぬ。
 歌は早く切ってしまったほうがよいわけです。すると観客のイメージでいろんな形にとれる。次に入れるときにそれを決めてやればよいわけです。そうするとそこだけそういう掛け合いができます。打楽器とかリズムの強いところはそういうところです。
 一方的に打ってるようでいて、相手の反応を受けてきちっと打つ、というより相手を巻き込んでいくわけです。

 日本の場合、メリハリがつかないとか一本調子とか、そういう時間軸を壊せない。
 セリフから言ったらそうなんです。ことばの世界は、バシッて言うことによって、そこに沈黙が生まれ、そこに自由な空間が生まれ、そこに何かが発生して、ひとつのテンポというのが出てくる。聴いてるほうは心地よくなってくるわけです。
 ことばのよいところと音楽の優れたところと合わせて一体に聴こえるものをもつ☆。メロディにいってしまってるなぁとか、今ことば大事にしたのだけれど音繋がってなかったなぁとか、体の動きが入ってなかったなぁとかが大半、なかなかその一瞬がないのです。

 だからことばから入っても本当に胸が痛くなるように、声を嗄らしてはだめですが喉に悪くても、そのことで伝わるのだったら、それもひとつの表現です。3分しゃべってたって客は飽きてくる。そこから動いてくるわけです、聴かせるために。それが歌と言われるもので、そういう動きをきちっと見ていってもらえれば名曲にはよい動きがあります。

○創っている動きが歌

 だから古くならないために歌いあげてしまったり別の誰かの世界に入ってしまわないようにということです。
 それは早いのですが、新鮮さというのは一番大切なことです。それは声の力とか美しさとか発声なんかを超えてしまいます。新鮮であるということ。
 でも新鮮な人がパッと出て歌ったって客って1曲目くらいで飽きてしまうわけですね。だから声で見せていく歌い方というのはすごいリスキーなのです。
 調子がよくて当たり前、少しでも調子が悪ければだめ、それからその声を聴いてしまって、この人こんな声だとわかってしまったときに次に興味がこない。声でめいっぱい歌ってしまうとそこから表現が飛んでこなくなってしまうのです。

 それに対して、元々、声を捨ててるわけではないけど違うところで勝負してしまう人がいる。感情で勝負してしまう、では次の曲はなんなんだと、次はこういう伝えたいことだという、だから伝えたいことがある分だけ曲数ができるというのは当たり前のことだと思うのです。
 みなさんも1回カラオケのメドレーみたいなものに自分がついていけるか録音して聴いてみましょう。
 音楽になってるとしたら相当な力、甘く見たらだめでしょう。全然なってないなと思ったら今まで楽譜どおりやってきただけ、こなしてただけで創らない、創って、それを超えていかないとだめです。
 声も聴こえない、歌も歌詞も聴こえない、でも創ってる動きが聴こえて働きかける、みたいに。

 歌えてる人たちはそういう要素が多いです。そこがトレーニングとか勉強と違った歌い手の要素です。
 ヴォイストレーニングをやる目的は、イメージした世界を創りたい、このようにやりたいなぁと思ったときに、声が保てない、もてない、切りきれないということで、音楽のすばやい動きとかリズムをここちよく聴かせなきゃいけないところを損ねてしまうようなだらしなさが出ないことです。
 そのために体を鍛えたり声の反射神経を磨いておくわけです。そこを間違ってしまうと単に鈍くなってしまいます。特に日本の歌は情感のほうに入っていきます。

○最大限にする

 いろんな音色を勉強してみましょう。簡単に言うとこれを何分続けられたら音楽、ですよね、これを3分続けられなければ本当は一曲歌えないということです。そこで飽きてきたら変えればよい、やってみましょう

 ジャズなんかで楽器の人というのはこんなのを延々と10分ぐらい繰り返すこともあるわけです。同じことなのです。こういうのがオリジナルのフレーズです。こういうフレーズの中で聴かせるデッサンができなければ、本当のことでいうと歌というのはもっていないです。作曲家の力、作詞の力、ステージの力、あるいは昔を懐かしんでくれている観客の力とかでもっているのです。

 ヴォーカルが端的にオリジナリティの力を問われるとしたら、そこの部分です。あの「胸が痛い」というところで聴いている人間が「胸が痛い」ということで共感できるかどうかというそれだけです。それは日本の歌い手にないのではありません。プロは持ってるし、プロより声がよかったり歌がうまかったりするのにやっていけない人はそこがない。そこがないというより見ないのです。

 結局、歌を歌うことがプロになれることだと思っているわけで、プロはそうではないです。自分を歌うことをやらなければいけない、そこを間違えてしまうと誰も聴かなくなってきます。そこを突き詰めていくような、音楽的なことで言うとこういう部分です。だから次みたいなところもけっこう大切です。これも後ろで流れているものをとっておかないとぐちゃぐちゃになります☆。

 その声でどうするんだよ、その歌い方でどうするんだよと思っていたときがあったのですが、ステージに関して完全を期すぎますね? 歌の中でもそうです、声でもそうです。自分の持ってるところを最大限以上に出す。才能とはそういうことだと思うのです。

 私なんかは100の力を100にしか出せませんけれども、彼らは100あるとしたらそれを200、300に見せられる。その代わり絶対妥協しないです、少しでも隙があったらそういうところは取り除いていく努力をしていく。
 それが今プロになろうという人たち、あるいはプロでやっていけない人にはないのです。甘いのです、とても。楽しくやれたらいいやとか、自分たちのステージが楽しければ客が楽しんでくれるだろうと。プロになってしまったら、そういう気持ちでやっている人はいるし、みんなそうですが、そこになるまでのところは、誰も認めてくれないです。

 アマチュアの人が「なかなかうまいのに認めてくれない」とか「誰か紹介してください」と言われたって、そういうものがないのだから、それはあなたが楽しんでいるのはよいのですが、お客さんはそれにつられて楽しんでいるだけでしょう。
 作品として問われたときに、こういう完全なものを、それからステージとしてとらえたときにも絶対に自分の価値を下げるようなものは出さないことです。
 いろんな歌を歌っていても勝負できるもの以外の歌はステージの中に出しません。すると評価というのはあがってくるのです。
 ところがつまらない歌を歌ってみたり余計なものをやってしまうと、よいものまでかすんでしまいます。

 プロ的な精神です。そういうものがある人が残る。別にプロとアマチュアを分けるわけではないですが、そのこだわりをどこまでやるかといったら、よいものを見せようと思ったら悪いものを切ってやらなければいけないのです。
 歌なんていうのもそういうところで一番勝負できるところ、すると、あまり声のこととか声量なんて関係ない。こんなのよりも声の出る人いくらでもいますね。あなたがたの同期でもいくらでもいますから。でも全然違うのです、そこは。そこを間違えてしまうとヴォイストレーニングというのは本当に逆効果になってしまいます。

○切り捨てていく

 共通している部分がありますね。みんな短め短めに切っていく。アマチュアの人だったらこれを3回ぐらい伸ばしたり長く伸ばしたりそれから繰り返しを3回ぐらいする。要は効果のあがるギリギリのころまで、もう1回やってもよいのにと思うけど、そこは厳しく切ってしまうというような、そういうセンスがあるかないのかというのはとても大切です。それとともにいくつ入れるかといのは自分たちで決められるわけです。他の人の曲であっても自分で本当は変えていかなければいけないのです。

 その曲は2回繰り返しなのだけれど私がやるときには2回ではなく3回なのだろうなとか。あの人は4回で歌ったけど私は2回しかもたないとか。それを2回で歌っている人はやっていけると思うのですが、そのまま4回というのでは何も頭の感覚も働いてないわけです。あらが見えてしまうわけです。
 そういう人は声を見せたいとか歌を見せたいとか思っているわけです。お客は長くはついていかないです。暇な客はついていくかもしれませんが。

○はっきり打ち出す

 クラシックはオーケストラの上を声が抜けてくるという条件です。この時代からというのはもう随分昔ですが、音楽の中に声がどう溶け合ってくるか。今は溶け合っているとかどうこうでなくて、声を薄めて線が見えなくなってきています☆。
 そこまでいくのはよいのか悪いのかよくわかりませんが、アメリカもけっこうそういう傾向が強くなっています。
 頑なに昔のスタイルを守っているのはヨーロッパなのかもしれません。それでもずいぶんリミックスされてきている感じはします。
 そうなったときに個の音楽性を失ってしまうとまずい。それから歌い手の固有のデッサンそのオリジナリティが見えないと。すごい簡単ですね、ワンフレーズ聴けばもうわかります。すべての作品の、ワンフレーズを聴いておくと、他の曲を聴いたって瞬間的にこれ誰の作品だとわかる。メロディとか歌詞ではないところでわかること、それが全体的な強みになります。

 どこかでやっていこうとしたときの固有のファン、どこからでも駆けつけてくれる人がつく。
 これを好きな人というのはいるわけです。自分の作品がはっきりしているとよい。要はそれを嫌いという人もたくさんいるわけです。それがいないのが一番困るわけです、嫌いがいないということは好きというのもいないわけです☆。
 別の意味では評価されているけれど、それでもみんなが一流だと思っているわけではない。やってきた業績とかヒットさせた作品ということで、みんなが聴いているわけではない。プロのを全部聴いているということはあり得ない。よいものであればあるほど評価が分かれている。売れ線と違いますが、そこの部分に出口をきちっと自分の中で見ていくと。

 そういうことで言うと先ほど最初に言っていたたことはとても大切なことです。ことばできちっと創れるという方向と音から創れるという方向がある。そういうのができていたら対応できる☆。そこを失ってしまうから日本の歌い手というのは歌に流されていってしまう。作曲家と作詞家とアレンジャーの力でしかやれなくなってしまう。

 本当はそんなものではないです。駅前でひとりでギター一本でやっていたって、本当は伝わらなければいけない。そういう部分があるはずなのですが、声は伝わるのだけれど、それ以上のものが伝わらない。日本人というのは音楽が好きですから、好きというより好きでなければいけないと思い込んでしまうのでしょうね。

 バイオリンの四重奏なんてやっていたら人だかりができます。歌がやっているとこない。バイオリンのほうが優れているとは思いませんが、技術は高い。それをやっている人たちにキャリアがあるのかといったら、そうではなくて、日本人というのはああいうものにモーツアルトだったりすると、「NO」とは言えないのです。
 そういうものを認めないと自分がそういうことが分からない人間だと思われてしまうみたいな。だから我慢して、人が集まっているからって、こういうものがよいものではないかといって聴いている人が半分以上だと思うのですよね。そうじゃなきゃ歌のほうがよっぽど伝わるはずなのだから。

 そういう歌い手がなかなかいないのも確かなのです。めずらしいもの好きなのです。バイオリンを駅で聴くくらいなら家に帰ったらCDでもっとよい演奏を聴けばよいのにと思うのですが。自分が全体の構図をつかむということと同時にひとつ出した声に対して重ねていって音楽やメロディを発祥させたり、ことばを動かしたりする感覚を得ることです。

 ここのトレーニングは基本的なことですから、それ以上やりませんが、今日感じていること、今歌いたいことをコードに合わせて歌いましょう、というふうにならなきゃいけないと思います。なかなかそういうふうなことになりません。バンド入れてしまうとそれに乗っかったような歌になってしまいます。だから何もつけないでやるのが一番よいのです。
 何もつけないでやると自分に突きつけられてくる。今のは間が持ったとか持っていないとか。それで間が持たないのに、歌って、持ったと思っているのだったら、それは曲の力とか、その曲をもうお客さんが知っているという力、つまり客の力ですね。

 だからそういうものに頼らないで、自分の声なりあるいは自分のメッセージなり自分の音楽なり、全部が整わなくてよいのでやる。
 本当に問いたいことというのは共感できるように言えること。そこに節をつけてみて音楽にしたときに、ことばを言っているよりも人の心に残るようにするということ、そのふたつだと思います☆。そこで1分歌えなければ30秒で勝負していけばよい。名曲の力でやっていくとヴォーカルの感性が鈍ってしまうのです。勘が鈍るのが一番怖いことなので、そういう意味で自分の中で厳しく設定してみてください。そういうことができるときっと楽しくなってくると思います。歌わされているようでは厳しいと思います。

○作品の評価

 喉がかれたり本調子が出なかったりとか波があると、そういうベースの部分を整えます。もう何年もやって、自分の思い込みだけで歌ってきたけど1回それを崩す。基本的な考えとしては、やれるだけやって、それで自分で足らないところを知っていく。
 今音響的なこととかプロデュースの形でなんとでもなるわけです。それで飾りを少しつけて、そういうものが売れる、ターゲットと、捉えられると思うようなプロデューサーがいたら、その延長上でやっていというのはひとつある。ここはあまりそういうことに関わらず別に考えるのですが、それはあなたがそこでやるだけのことをやってみて限界を感じてみたりあるいはそれではもういけないということがあれば助けられると思うのです。

 関係においてのスタンスの取り方ですね。学校だったら、声のこと、発声のことやりましょうと。外国人の基準のところでベーシックなことをやるのと日本人の歌の世界のものとが必ずしも一致しない。世界観があって自分がこうやりたいというときに、テノールの発声をしても、まあ余裕があればそんなものがあると取り入れられることだけ取り入れてみてもよいでしょうが。
 それ以外は自分でこういこうというスタンスでよいのです。そこまで確立してなければかえって混乱のもとになりかねない部分もある。
 日本でやっていくのがみんなメインなので、確かに息とか呼吸とかの部分は非常に大きな要素ですが。音楽に対してどういう声をどう取り出していくかというのが、まずは問題です。

 例えばアイドルだったら声の力をつける時間があればもっと違う魅力のところでやれることのほうに9割集中すればよい。ダンサーだったらダンスのほうに集中、歌のこともやらなければいけないなら、方向性というのはよく見える。
 創っていく世界というのはあるが、メジャーとは言わないけど、誰もがある意味では認める絶対的に強いファンがつくかということです。
 音楽とか歌というのはどこかに答えがあるのではなくて、あなたの中にあるものを生かしていかなくてはいけない。
 向こうの基準があるのだからそれにそって伸ばしましょうと、だいたいヴォイストレーニングというのは、そういう考え方するのです。そのほうが楽だしわかりやすい。

 クラシックでもそういうことをやれてくると、もう一度自分に戻ったときに、そういうものが生きて今までよりもハリのある声になったりする。自分のほうでよっぽど自分のスタンスを固めておかないと自分の味も消えてしまう。
 味のある人であれば消えない場合もある。個性というよりも消えてしまってもどうせ大したことないと。あるレベル以上で通用しないのだから。微妙にその辺がややこしいところです。

 要は力強くパワフルにインパクトを込めてやっていくというのは大前提です。少しなよってした形の人であってもパワーはあるわけなのです。さらに柔らかい世界とかひとつの弱さのところでやっていける世界というのがあって、それに対しての声の使い方というのは微妙なところがあります。

 もし4曲目を選んでるのだったら、その4曲目で伝えたいようなことが本質的にあなたの音楽の世界なのだろうと。そう思ったときにどういうやり方があるか。だから声そのもの直すというよりは、違う音楽を入れて全く違う歌い方を聴いたところの中から、自然と内面的にあなたの音楽と溶け合って出てくるような形でやっていくことです。

 声を強くしていきましょうとか、音域をとっていきましょうとか、やってしまって普通になって、そこからまた力つけるというのは、私が意図してるところとは違うのです。市場としてあるとしても、それが見えない、プロデューサーも見えないと思います。
 これからの判断、あなたより若い人たちの感覚として、あんな歌ありかよということになってしまうので、時代の流れの中じゃ、そういうものとともに感覚的には古い部分があるのです。

○センスを磨く

 古いものに回帰したような人もいて、それは私とか研究所のスタンスとは違うのですが、現実に対応しなくてはいけない。どんなに理念がどうであっても、やっていく人はここの中でやっているわけではない☆。観客がこの中にいるのでなく、一つの音楽観というのはあったとしても、他のところの仕事を受けられないのでなく、判断基準ということでは使える部分にあてています。
 ここにきたところの意味、あなたが求めているところに対して、材料を与えて、やってみて、何か自分の肌の感覚として作品としてぶつけてみたけど、どうも世の中とかお客さんの反応が違うようだとかいうこともある。ただそんなもので左右されていても仕方ないのです。

 やるべきことは、より高度の音楽とかセンスを磨いて、それで世界を私が嫌いと言おうが回りのお客さんに受け入れられなかろうが、深めた完成度の高いものにしていき、わかる人が出てくるのを待つくらいと思います。
 あなたがこういうのをやりたいというところまでで、それ以上にすごい優れて完成度が高いということではないと思います。曲とか詞とかは別になってくると思いますが。全く違うアプローチで外堀をやっていくのか、内を固めるのか、両方をやれなくもないのですが。

 ひとつは歌そのもののところから直していく、これの場合は、プロの人もあまりに日本のお客さんとかその人が今までやってきたことと違うことを要求するので、今ステージでやってる歌は使わないことが多いです。ただ多くのヴォーカルもお客さんは古いものを期待している。
 ここにきたということは、今までと違った自分を見たいので、違ったことを期待してるのだから、同じことの延長上に、1割くらい力がついたってお客さんにとっては別に何の変わりもない。新しい客がくるわけでもない。全く違う客がほしいとか、もっと若い人たちに受け入れられたいとか、外国に行っても通用したいとなったときには、何か足らないといってくる。こちらも遠慮なく、こちらのやり方で崩させてもらいますと。

 例えばあなたにもし二倍の声量で歌いましょうと言ったら、あなたの世界は崩れてしまう。でもそこから何を出てくるのか見ましょうというのは、実際使う歌う歌じゃないものでやる。もうひとつは、しばらくそれはそれで置いていて、もうその周辺には触れないで、音楽観そのものをいろんな意味で刺激して入れていくような内面的なものですね。
 そんな歌はレパートリーにはしないし、自分でも作らないが、せめてここにいる期間にそういったものにたくさん触れることによって得ていく。
 自分でCD屋に行ってもよいわけですが、それよりは、ここで使わせてきたものを自分なりにこなして、歌としてこなしてということよりも、声の使い方とか声の伸びにあてる。

 それをやらせるのは、その人のデッサンのため。歌がよいということ、詞がよいとか曲がよいとかそんなことではなくて、たった一箇所でよいからその人だけの何かが出てくるというのを、その人の曲でみるよりも一流のアーティストが歌ってきたようなものに啓発されて出てくるようなものでみる。
 だからあなたがあなたの感覚であなたが今歌ってることはもうあなたのものなのだから、それがすごい通用していたらよい。だけどそうでなければそれを否定するわけではないのですが、その次元自体を高く見たときに他のすごいものに引っ張られて一瞬でも何かが出たときにひっぱられて自分のものじゃないものかもしれないけどでも自分の体、声から出てるものというのは自分のものなのです。
 それは普段は出ないから間違いみたいなものかもしれないけど、でもそういう間違いというのでしょうか、それを起こしていくこと自体がオリジナリティなのです。

○才能中心主義

 自分が思っているのを自分の声で表現するというのは、煮詰めなくてはいけないのですが、煮詰められるだけ煮詰めたら何億もいる人類の中のひとりで、それがトップレベルになる可能性というのは、宝くじよりも大変なわけです。
 それでも続けていったら続けてない人よりは優れてくる。けれども、そこは長くやってるのはたまたま長くやれた条件があって、お金や時間があったり、やる気があっただけで、本当の意味で音楽の真髄のところで勝負できているのかといったら、そういうものが連続して起きて何かの瞬間につかめて、次元がアップするしかない。

 そういうものを引き出すには「あいうえお」とやっていても仕方がない。自分の歌を精一杯歌っても、出てくるときもある。それは何とも言えませんが、案外異質なものをぶつけてみたときのほうが自分の思っていた本当の意味での自分の好き嫌い、それから何が自分の音楽の世界なのか、好きか嫌いに関わらず才能というものです。

 あなたが作ってきたのは、あなたのひとつの才能でもある。同じくらいに生きてきた人の人生の中では、やっていると思うけど、それを全部取っ払って見てみたときに、もっとあなたの中に何か取り出せるものがある。あるいは今までのものなんか全部投げ捨ててでも出てくるようなものがある場合もある。好きでやっているというというのはひとつの方向性だからこれは否定できない。好きなものでないと一生懸命できない。

 でも音楽というのを広い目でみたときには、ギターリストなりたくてギターやっていたのですが、ある日ドラム叩いてみたら、何かそっちのほうがよいと周りが認めてしまったらギターやりたかったんだけど、プロとしてやるとしたらドラムやれと言います
 長くギターやってたのに、それよりちょこっとやってみたドラムのほうがよいと言われたらドラムのほうに才能がある。
 だから長く見たときにはその人の好き嫌いというのは、別にその人が持って生まれたものが、世の中で評価されるのだったらそちらのほうを取っていく。

 プロの世界というのはそれじゃないとやっていけないんですね。
 他の人がやれてしまうことというのは自分なりには満足してるかもしれないし、作品はもしかすると市場の中で出ていったり今でも受け入れてくれる人がいるかもしれません。それはあなたが現実にぶつかってプロデューサーとかいろんな人たちに認められなくても自分なりにもしかしてどこかで歌ってみたり生でやってみたりすると、それがよいねと言う人がきっといるのではないかと思うのです。
 それはそれとして、もう少し客観的に通用するもの、ステージにみんなが持ち込んでくるものというのは、あなたが作ってる世界のところに感情移入する人もいるのだけど、みんなカラオケで自分でやりたがっている。
 ステージに対して期待するものというのは、刺激のあるもの、元気を出させてくれるもの、おもしろいものと、はっきり言うとすっきりするものです。

 団塊の世代というのは日常に戦っていて音楽に癒しを求めて昔のこと思い出したいとかほのぼのとしたいなとか、こんな時代が自分にもあったんだなとか、新しいヴォーカリストで聴くかどうかわからないけど、そういうものを求めてる層はいる。
 同じ世代とかそれ以降の世代を取ろうとしたらきっと彼らをすっきりさせるくらいの何かしらのインパクトを与えていかなくてはいけない。
 何かで認められて変な奴だなぁとか何でもよいのですが、こんなのは一過性で消えるなと思ったときに3、4曲目、やって許されるくらいのスタンスのものと思います、1曲として世に打ち出していくのはちょっと厳しいという感じがしますね。

○先をみる

 プロダクションにきてレコーディングするわけではないから、何かしらそういうものがあって、基本やらなければ歌えないというわけではない。てもう歌ってきてるわけだから、そこと基本が反しててもおかしな話です。
 基本やらなければ歌が歌えないとかそういうことじゃない。ただその先の世界それが多分あなたが見たところまで息づいてるというのがあって、その先にやりたいことが見えないです。あなたの中での完成度がある程度落ち着いている。次に何を狙っているのか、例えばこれでやりますからと、それでやってみてだめなときに来なさいとしか言えない。

 ひとつの落ち着きというかまとまりは持っている。それは活動する時期だとも思う。活動しながらでもよいと思うし、活動もある程度してきてるから、あまり声からあの歌い方を変えたいとは思わない。
 ただ歌い方と別に曲を処理するやり方というのは、ヴォイストレーニングとして刺激にはなるでしょう。要はあなたが違うやり方というよりは違う音とか音の持っていき方みたいな、それを技術とかテクニックというよりは感覚ですね。そんなものを入れるのです。

 今私がやっているようなレッスンというのは、先生によって大きく変わると思うのです。判断の基準も。例えばあなたの歌に関してもどこがよい悪いというのは、プロデューサー、そういう現場の人のほうがトレーナーなんかよりもきちっと見てると思います。
 トレーナーってどうしても声から見てしまうのです。だから声がよければよいという考え方になりかねないところがあります。

 ところが声楽の場合というのはそれを徹底して声というよりはもう発声、体からの声がきちっと出なければいけないということが決まってるから迷いがないのです。10代の子は先に声楽つけて、30代40代でひとつのキャリアとして何かを得たいと言う人もポップスって下手すると1年2年迷ってしまって終わることがあるけど、声楽というのは、2,3年やると声楽ってこういうものでみんな歌ってるのだなとかステップが刻みやすいのです。

 ヴォイストレーニングに期待してる人というのは結構いるのです。年配の人とかは1年経ったらどうなりますか2年経ったらどういうようなことできるようになるかとか、それは自分の作品とか自分の歌には直接は関係ないのだけども、そういうことによって歌いやすくなるとか、カラオケがうまくなるということであればポップスなんかよりも判断がはっきりできますね。

 私もたまに声楽だとこれはこういう判断をすると思うけどというような言い方はするけど、ポップスはわかりにくい。例えば歌にこれだけ時間かけて述べなくてはいけないのは、ポップスで言ってるからです。
 声楽で見てしまったら「もっと呼吸法をしっかりやって声を出さなくてはだめですね、あれではお客さん聴こえません」と。
 それはあなたに必要ないとしてもやっておいて悪いことではないです。その基準でやることによって、もっと大きくできるかもしれない。
 要は体とか声自体を鍛えていくものなので、だから位置付けとしては、逆にそこから入っていってみるというその通りです。

 声楽ではそのままでは入らないから、そこからいわゆるポップスと言ったら変ですが、マイクを使ってお客さんに伝えるようなベースのことをやってきている。それは表現の方です、どちらかというと。ミュージカルなんかは難しくて扱いにくいからカンツォーネでやっている。ああいうひとつの日本のポップスに関しての基準のあるところでの見解ですね。

 だからプロデューサーの見解にあわせるということはしないのです。プロデューサー自体は違います。今までこんなのが流行ったから今度はこんなのがよいとか、こう流行ってるからこの流行ってる線上で歌わせたほうがよいなとか、そういう意味でいうと市場をどうとらえている。レコード会社じゃないけどそういうところに強いかとか、自分たちが回ってるライブハウスの客はどんなやつなんだとか出口から言われる。
 それは一番早いやり方なのですが、それに合っていない人は苦しい。私たちもそうで、そのプロデューサーのスタンスがすごいはっきりしていて、この客に対してこういうステージやるのだから、ここに加えてくれるということだとわかるのです。それが漠然としてるような人だと組めない、というかいったい何を求めているかよくわからないときはあるのです。そういう意味でいうとどういう形でやってみてもよいとは思うのですが。

○歌の設計図を描く

 大切なことはそこで感じたことを取り入れていって表現する。とくに練習だから、お客さんの前ではなく計算しなくてはいけない。
 自分が感じようが感じまいが見せていかなくてはいけない部分はあるのです。練習の場合は頭がじゃまになってしまうので、考えないからよいということではなくて、考えないがためにあまりにワンパターンになっているから気をつける。
 考えないということは、前もって考えた形のほうに合わせるのではなくて、そこで投げ出した声に対して、決め付けないで、その声が行きたいところにきちっとおく。その時に全体とかイメージがなければ単に垂れ流しになってしまいますね。

 だから自分でここ動かせるなと思ったら動かすべきだし、もう少し離すのだなと考えたら自分の呼吸とか声に合わせて作られていく。それでそれが歌の形とか音楽とらないのだったら音楽とか歌がまだ曲に関してはまだよくわかっていないということになってしまう。ただ、やるのでは呼吸と声のトレーニングになってしまいます。歌として、もっと違っていかなくてはいけない部分というのはある。

 強く踏み込んで長くしてしまうから大変なのであって、強く踏み込んでそこで離してしまえばよい。インパクトはあるのに喉はそんなに疲れない。
 例えば外国人というのは1分ぐらいの中で、日本人のアナウンサーが50秒くらいしゃべっているのに対し、本当に40秒もしゃべってないのだけど実際には1分全部しゃべっているように見える。というのは、たくさん踏み込んで、たくさん休んでるのです☆。
 その辺で言うとこういうのもあなたのほうが踏み込んでるんだけど、長くして休みがとれなくなってパッと踏み込んでいてパッと離してしまっている方がよくなる。例えば1.2.3.4.5.6.7.8ととらえるのと、ここで1.2.3.4.でとらえるのと変わってくるわけです。そういう中で可能性をつかんでいくのもひとつのやり方です。

 我々の感覚ってよくあるパターンで1.2.3.4、似てるパターンで2番目のところにあげて、それから3番4番と降りてくるパターンがあります。これは4つの中ですがこれを8つの中でやることもできます。大きな意味では16個の中でやっている人もいます。海外のものを聴いたときにこんなに簡単につかんでしまうんだと思った。

 これなんかも、こういうふうに分解して聴いていますが、普通に聴いたら、ワーッとサビのところくらいまでいっきに聴いてしまうわけです。
 日本人というのは1小節ずつ歌っていくのですが向こうの人たちは1コーラスをひとつにとらえている。2コーラス、3コーラス、そのくらいで歌をみていて3分だと。ひとつずつとらえて、それで3分の世界つくるというのは無茶な話なのです。最初の設計図のイメージが全然違います。

 向こうから入ってきたというのはあるのでしょうが、そうではなく何で3分なのとかというと、一息で言えてて3分だなという感覚で歌がある。
 それはけっこう辛いからせいぜい1分かける。3コーラスくらいであるわけです。それを全体でとらえながら、その中に細部にきちっと宿していかなくてはいけないということです。
 
 全体からみて部分に入っていくやり方と細部の中で展開して全体に至るのと。
 最近プロの人は、みんな形から入っているのです。プロってうまいから最初に頭で考えてその通り歌ってしまうわけです。
 そういう人たちにとって、本当にやらなくてはいけないのは、ひとつの声を出した、その声がどういうふうに動きたいという動きを自分で感じて、詞の展開をしていくこと。そうやって落ち着くところに落ち着いてみたら、同じようなパターンになっていく。
 4つのパターンが見えてくる、同じように3つ目というのは踏み込んでいるということから、曲がうまれてくるというのはむしろ自然だと思います。

 彼らの場合メロディよりはリズムですから最初にカンカンカンと叩いててそこに全部入れていく。言語もそんな言語です。それは日本人には非常に難しいところだと思います。
 サビのところで叩き込んでおく、それをつけておくことによって次のところが自由になりますね。だから今の1.2.3.4とすると、4のところの頭が、本当に自由にフェイクできるわけです。それを受けてどういうふうにするかということでしょう。【R.キサス他 05.3】

<Q&A>

Q1.「表情と声の不一致」歌の詩と心の一致がうまくできません。口と声が分離していて、本当のことを歌っていない(気持ち、心が入っていない)みたいに見えるのですが。

A.一致させましょう。何年かけても。

Q2.「体でひびくこと 声の場所」自分とは明らかに違って声に音の圧力を感じる人がいます。同じ人間の体をもっているはずの私に出せないはずないのに、私の体のなかのどこにその声があるのでしょうか。

A.レッスンを続けてください。

Q3.頭部にひびかせるという感覚がよくわかりません。胸部のときのように確認する方法があるのでしょうか。あるのなら教えてください。

A.方法としては人によって違いますし、違ってよいと思います。

Q4.私は過去のことを語るのを避けているのです。私は体と精神がひきちぎれるようなときがありました。それを語りたくない、見たくないというのではなくて、そのものを見せたくないのです。語ってわかってもらえるようなものではないのです。自分もリアルに話せないと思います。それを多くの他人のまえにさらけ出すのが怖いのかもしれません。

A.歌うのに関係ありません。とらわれないように。

Q5.スポーツの稽古ではかなりキツイことをやれてきたのに、毎日のヴォイストレーニングではどうも集中できないし、消化不良で終わってしまいます。スポーツで感じた、キツイけど充実する感じが出てきません。練習がつまらないものになっています。このままの状態では未来が見えてきません。やはり修羅場をつくっていかなければいけないという気がしています。

A.修羅場というのは他人からみたら「よくやるなあ」というもので、本人にとっては、極楽三昧、つくるもなにも、どんなにおもしろい映画や本、おいしい食べものよりも楽しいことでしょう。例が悪いかもしれませんが、あの女とつき合えば修羅場といわれても、本人は楽しいからやるのでしょう。
 学校のスポーツは、勝つということで目標が明確です。日本のスポーツや旧来の組織での充実感は、ややもすると軍隊と同じく、連帯感、大義名分、奉仕、犠牲に基づく快感ですから、必ずしも同質ではありません。アーティストの充実感は、自立、自信、個として解放されたものにあると思うからです。

Q6.母音の発声について 発声練習のアエイオウと、実際の歌詞のなかでのアエイオウ(たとえば、愛、家e.t.c...)の発音の仕方は同じでよいのでしょうか。特に「イ」がうまくいえません。

A.発声と歌詞の読みは、最初は一致しにくいものです。がんばりましょう。

Q7.「素の声に戻る」しぜんな声の判断基準は何か。人によってしぜんな声も違ってくると思います。自分のしぜんな声の発見は、まず耳でわかるようになるのか、体でわかるようになるのか?

A.両方でしょう。

Q8.このごろ「歌の基準」ということばをよく耳にしますが、発声についてなら、正しさ、ということは確かにあると思うのですが、歌については「基準を示す」ということが、何の意味をもつのかわかりません。

A.体のついた声と音楽上の最低限の約束事を身につけた上でなら、好きなことを自由にやっていいと思っています。その先にまだ「基準」というものがあると思うと、当てが外れたような気持ちになります。私は、発声のトレーニング以降は、そんなもののないところで歌っていきたいと思っています。

 好きなことを自由にやってよいのは、別に発声が身についていなくとも、本人の勝手でしょう。発声が身についていたら、どう歌っても歌になるというなら、何をどう歌っても歌になるということでしょうが、そんなことは絶対にありえません。
 そのことがわからない人には、発声のための発声らしきものは身についても、歌を支える発声は身につかないでしょう。
 どんな人でも、すぐれた歌しか心地よく聞かないのであり、それを基準といっています。歌が自由なのは、カラオケやアマチュアだけです。人前に出てやる人は基準を超えなくては自由でありえないから努力するのです。それは明らかに発声をも含めた歌の基準です。

 だからこそ、トレーニングも歌もやっていくべき目標や実感があるのです。それがどうでもよければ、当のヴォーカリストこそ困ります。
歌の基準というのは、発声の先にあるものでも、私やトレーナーがさし示すものでもありません。あなたのなかにあるべきものです。しかし、アーティストのなかにはあっても、あなたのなかにないから、基準などということに支配されるのです。
 自由にやってやれているなら、そこに基準がある。そういう意味の基準です。だから、他人にこんなことを問わず、やればよいのです。

Q9.ブレスのときに肩を動かしたり腹をふくらませたりしないでも、瞬時に息を吸い込めるようになるべきと言われましたが、吸い込み方のポイントが、いまいちつかめません。肋骨がふくらんだり腹が動かないと、息を吸い込んだ感じがしないのですが。

A.普段から腹式で充分に呼吸しているという人はあまりいませんので、いざやろうとすると感覚をつかむまで時間がかかります。腹式のポイントを少しずつ掴んでいくことです。最初は意識することも大事でしょう。(T)

Q10.声を前にもっていくようにと言われたが、胸の中心で深く声のポジションをとろうとすると、この声を前にという意識と、逆の行動をしてしまう。どのようにこの二つの目標を同時に達成できるのでしょうか。

A.ここまで一度に行なうのはまだ無理です。それよりも、一つひとつ、体でよいポイントの感覚をつかんでいくことです。あせらず地道にやるしかありません。


【レッスン時間の有効活用について[時間厳守のお願い]】

短い時間を最大限に活かすために、できるだけ準備をしてレッスンにのぞみましょう。

1.体:動かしてくるとよいでしょう。呼吸:息吐きをやっておきましょう。[ロビーでは、迷惑をかけないよう静かに「su――」と息を長く吐いておちつけましょう]
2.服装:直前には、コートなども脱ぎ、すぐ始められるようにしておいてください。
3.シートの提出:入室とともに、提出(あるいは、ピアノの上においてください)
4.録音機材(個人レッスンの録音について):ロビーで準備しておくこと。入ってから何分も手間取っている人がいます。
5.終了予定5分前には、質問などにお使いください。次の人のために1〜2分前に終わるように、おたがいにご配慮ください。
  トレーナーは、レッスン時間終了前に時間オーバーしないように、終わらせるようにしています。(カラオケや、貸しスタジオと同じです)
6.事務で相談すべきことで(スケジュール、金銭、仕事、家庭の事情など)、トレーナーとの貴重なレッスン時間を無駄にしないで下さい。

◎いつもステージ本番と思って、日頃のレッスンやトレーニングにも取り組んでください。何よりも、あなた自身のために、です。

■質問シートの書き方
(用紙はロビーのレターケースにあります)
 1.自主トレーニングでの問題点、気づいたこと
 2.レッスンでチェックしてもらいたいこと
 3.レッスンでカウンセリング(話)をしたいこと
 4.本日、もってきた課題について(狙いとチェックのポイント)
 5.代表や事務あてのこと(メールがありがたいですが、封書などでも可です)

■必ず出席簿へ記名してください。

■レッスン後は、必ずアテンダンスシートを提出しましょう。(後日でも可)
 できるだけ、teishutsu@bvt.co.jp にメールしましょう。