会報バックナンバーVol.179/2006.05

 


レッスン概要(2004、2005年)

■講演会

Q.洋楽ジャンルなんでもヘビメタでも何であろうがキーだけはむりやり出せるようにしたりしてたのですが、高いキーになると頭に響かせるようなことをやっていたのです。高音でも力強く出せるはずで、ハードロックなんかを歌ったときにこの声はこう聴こえるんだろう、こういう方向でよいのかなと声を録音したりしていますが何か違う、どこが違うのでしょう。

A.うまくなるには、そういうやり方があるよと言う人もいます。私は、少し距離をおいています。というのはトレーニングということの目的が、カラオケではない、自分たちが楽しむなら高音競争もよいが、誰々にそっくりに歌いたいとかいうようなことも楽しいが、そのことと、別にプロとはいわないが、私が考えてる歌というのは、その人のオリジナルの部分を優先させる。

 高音で力強くというのは、たとえば、10年15年も音大を出たり、あるいはその分野でしっかりやると、そこにレベルを最低でもおくので、問題外のことが多い。もちろん、1年目になんとかして解決するというような問題で捉えたら、そこでも捉えられるし、そういうのを引き受ける学校もあるけど、そんなことができるのだったら、今できているということです。
 正しいか正しくないかということも、カラオケの世界になってしまうと判断する必要はないのです。周りが判断したり自分で聴いてみて満足できるかできないかということになります。

 私の判断は、本人がどんなに心地よく気持ちよく歌っていても、これはアマチュアとしてはいいことなのですが、客が面白いとは思わない、楽しめない、気持ちよくならないということは価値がないのです、それが厳しいといわれても、そうじゃなければ成り立たないんです。
 カラオケと一番違うのは、カラオケというのはあきらかにうまい人たちのように他人のように歌っていくこと近づいていくことで上達感あるいは達成感が得られるのです。

 トレーニングの分野からいうとそれにふさわしい人も、そうじゃない人もいます。
 例えばサザンのように歌いたいということが生涯の夢だという場合に、桑田さんと同じような条件を持って生まれてる人は比較的楽です。ところがソプラノの高い声が美しいような人がきたら、ああいう歌をああいうふうに歌いたいといっても、例え何年やっても桑田さんのような体と顔つきで生まれた人を越せないだろうということです。
 歌の場合は楽器が外にあるわけじゃなく、やっぱり持って生まれたものがあります。

○上手になるということ

 ヴォイストレーナーは、器用に何でも歌えそうですけど、じゃあ私にマライアキャリーやってください、ヴォイストレーナーだから何でもできるはずでしょうといわれても、無理ですね。
 まず男女で違う。生まれつき持ってるところの部分で、不可能とは言わないですが、勝負をプロとしてあるいはステージに立つ人間としては、それは選ばないですね、選ばないというのは、それは自分にとって不利な土俵で勝負しても、勝算のないことだからです。

 カラオケになったとき、そこの判断が難しいです。その中においてスクールなんかは声がひっかかってるからもう少し楽にしてあげようとか高いところがのびるから……とかです。
 本でも、読んで高いところは誰でも特訓すれば出せると、理論で言うのは簡単なのですが、そこに生徒が行って出せていない。カラオケの中でというよりは、音響の世界の中で高い音を通用させることはもう今の時代は難しくないです。難しくないというのは、ピッチがさがっていようが声がかすれてようが、音をかぶせてエコーをかけていけばなりたってしまう。
 今いいたいことは判断の基準をどこに持つかということです。実際本で読んでることでトレーニングができてるかわからないということですね。

 トレーニングというのは目的を確実性を持って試みること、普通にやってたんじゃ20年かかっても30年かかってもできないことをできるだけ短期間でやれる。あるいは普通でやると10年かかることを二年とか三年でやるためにやることです。本当にやっていこうとするとある程度無理がかかります。
 トレーニングがきついと言われることがありますが、一流のヴォーカルほどトレーニングをやってヴォーカルになった人というのはいないんです。その人が元々もっている耳の音楽能力が大きいです。そのことによってその世界ができるようにしていく。

 以前のヴォーカルでしたら声の力というのが問われたのですが今のヴォーカルに関してはその比率がかなり落ちています。プロを目指す人にとってはヴォーカリストというのは声が出る人とか歌がうまい人じゃなくてアーティスト、つまり制作者側の人間です。何を創造していくか何を製作していくか、そうなったときに声として求められるものは、その人が磨いていくことによって、もっとも使いやすくそういったものを表現するのを可能にする声なんです☆。

 だからこれはカラオケとは随分違ってきます。カラオケの上手い方がプロになりたいということでこられますと、通じません。
 以前は一流のプロデューサーを呼んでオーディションで点数つけたりしていました。カラオケのうまい人は点数は高いんです。でもプロデューサーにとっては全く魅力がない。そういうタイプは他にいます。それだったらもっとかっこいい人、かわいい人が若い層にいるからということです。点数が高いこと(歌が上手いこと)とそれをやれることは違ってきます。

 では上手くなるということにトレーニングが必要かというとまたこれも難しいです。ただトレーニング自体に関しては確立したトレーニングというのがあるわけじゃないんです。
 私は声楽をも入れてます。研究所を起こしたころは不要でした。考え方が変わったのではなくて一般の人が一般的にうまくなるということはみんな同じようになりたいということなら、確実にその目的を遂げさせるやり方がいい。例えその人の味が低いところにあったとしても世の中でやっていくためにはならなくても、高いところが出てゴスペルでも合唱でもこなせるようなことが、その人に望まれていることとするなら、声楽をやっていくほうがよい。全世界である意味じゃ効果をあげている実績をきちっともっているやり方だからです。

 ただ声楽もひとつのやり方ではなく先生によって考え方・基準が違います。音域を広げたり声量を出すということ、ロスのない発声にはよいです。
 ただポップスの世界それだけじゃなくて、そういうもので対応できない曲が増えています。アフリカンリズムのものになってきたときにそこでの発声だけじゃお客さんを動かしにくいものです。
 いい声とか発声に正しいこと上手い歌なんていうのはどちらかというと人を心地よくしますが、ミュージカルとか演劇の世界じゃ人を威嚇したり怖がらせたり不快にさせるような声じゃなくてはいけないこともあります。これは決して喉にいいことじゃないです。
 当人が不快に出してるものだから相手に不快に聴こえるということ。
 あちらの人は上手いです。上手いというより歌心あまりないかもしれないけど、声量の豊かさとか独特の感じで日本の歌も上手く歌われます。

Q.稽古を重ねていくうちに頭で考えてしまうようになって何が正しいのか分からなくなったり、表現をしたいのに技術に走ってしまうことに悩んでいました。キンキンしてるとかうるさい声と言われるのが悩みです。聴いている人に癒し感を与えたり落ち着くような声になるのが理想です。

A.今使われてる声はキンキンしたりやかましくは聴こえません。息をかなり交ぜていらっしゃいます。体調が悪かったり喉が疲れてるからか、話し方としてキンキンするのを抑えるためにその状態にしているかでしょう。

Q.声を抑えてしゃべっています。レッスンで問題になってることは「声が前に出すぎているので後ろに背中を通すときに響くように出してといわれます」声が深いというわけではないです。深くから出さないと感情が相手に伝わらないともいわれます。

A.アナウンサーの声などは若いときに体から出ないから徹底してマイクに対して口でコントロールすることを先にやります。若いアナウンサーほど口をはっきりと開けます。そうやることで口の表情でも伝えられ、声がなければ口の形できちっと確認できるわけです。発音としては伝わりやすくなります。

 そこから入って何年かたつうちにお腹から声が出るようになります。そういう人が劇団に行ったりしても必ず通用しません。
 「それでは言ってるだけでしょう」、「正しく発音できてるだけで何も心が伝わらない」と、そうなったときにもう少し体から出しなさいなどといって大声で出すような練習をして、却って壊していくのですが。

 頭で考えることは必要ですし技術を見せてはいけないといっても、お客さんが技術を求めるようなところが日本の場合にはあるのです。私自身はそういうのは好きではないです。しかし現実の場では逆にそういうことが求められてることが多いです。
 考えてなくても考えろ、技術がないのをもっと技術でみせろと、そういう時期もあっていいと思うんです。切り替えだけの話です。役柄に入ったときに没頭できるか、そのときに頭が邪魔しないかということです。

 トレーニングにもよっぽど自分が表現する世界とか創造する動機をきちっと持っていなければ迷いは増えていきます。何も迷わないより迷って解決していったり深まっていくのでかまわないわけです。意識してやっていく以上頭が働いてしまう、常にこれは正しい正しくないのチェックをしていくと、いったん表現の世界とは離れていきます。
 だから私はトレーニングは必要悪だと言っています。例えばカラオケを心地よく歌いたいと思う人が腹式呼吸、発声とか考えられたら本人は上達した気になるかもしれませんが、それが次の段階で自然にこなされるところまでの期間というのは普通の人が聴いてる分には何か伝わらなくなってしまったと言われるわけです。養成所でもそうです。

 しかし、勉強するとはそういうことです。例えばサラリーマンが本当に自信を持って心地よく歌ってる歌に養成所の一年目の子は、かなわないでしょう。
 歌というのは自信をもって絶対自分が世界で、上手いんだと歌ってるやつにかなわないところというのはあるんです。それを下手にトレーニングの学校に行って引いてしまってはいけない。

 その期間は下積みといったら変ですが、スポーツ選手でいうとオフとオンの期間であって、シーズンになって打席に立ったというときに、基本は考えない。腹式は、と考えるのは、フライが飛んできたときに両手で取らなきゃと、そんなことを考えてたらよい結果も出せないわけです。
 その切り替えというのはどうしても必要です。すでにプロで活動してる人、あるいはステージを毎日やってる人というのは本当の基本のところまでひきずり落とせないわけです。要はそのステージが壊れない範囲でやるわけです。

 ところがトレーニングというのはある意味では冒険することでもあるのです。本当はステージで大きな冒険をするためにトレーニングの中でかなりの冒険をしておく、そこからしか得られないことというのはたくさんあるわけです。
 それをやってる期間のときにステージ、レコーディングがぶつかってしまうと崩れてしまうわけです。
 だからここではステージでやってるような曲は、あまり使わせません。将来的にも歌わないような曲を使わせます。目的が違うわけです。
 カラオケなんかでしたら歌う曲そのものをレッスンしていったほうが早い。プロの場合でいうのだったらそれはもう歌えてるわけで、それが歌えてて何かが足りないとしたらそれは壊すしかないんです。

Q.声優になろうと思って養成所に通っています。発声がなっていないのでそんな表現じゃだめだとよく言われます。喉が痛くなってしまう、声があまり飛ばない、声を張り上げるとセリフが棒読みになってくる。腹式呼吸の基本が身につけられたらいいのですが。

A.腹式呼吸というのは、どんな養成所でも形だけは、やってると思います。あらかた身につくレベルがどこなのかということです。本当の役者でいうと、5年は、かかっています。オペラなら10年、それは私が見てじゃなくて当人たちが30代40代でさらにやっています。
 私はその世界に20年いなきゃやれたと思いません。20年いたような人たちがいうことがそういうことなのです。最初の1年2年でやれたと思ってるようなことがやれたというレベルだと、多分5年ももたないで業界からいなくなってしまうと思います。

 何かみんな考え方が○×式なんですね、例えばサッカーでは「プロになるのに何ヶ月かかりますか」と聞かない。「シュートができるのに何ヶ月かかりますか」ということもないでしょう。シュートはその日にできるんです。歌とか声もピアノやバイオリンと違って、やったことがない人はいない。
 そうすると何ヶ月かかるもなくもう今日できているわけです。だから何を目的にするかというところが深さになってくるわけです。こういう世界だから正しい間違いというのはないのです。

 トレーニングだって「このトレーニング正しいですか」と聞かれても、トレーナーが見て相当危ないなというものをストップする以外は、何が正しい何が間違っているかは、誤解を恐れずに言うと、わからないです。
 役者の世界もわからない。歌い手の世界はまだちょっとした感覚的なものでその人がそういう分野に強いか強くないかということならわかります。
 ただ大きく変わる人もたまにいます。役者の世界なんかは積み重ねていく人たちが多いからわかりません。鴻上さんがSPAの誌上で「歌い手というのは一声でわかってしまう。自分がどんなに努力してもやれるとは思わないけど役者の世界はまだ積み重ねでやっていける」といっていました。

 何をもって役者というのか歌い手というのかも難しい問題です。エッセイシストみたいなものと同じ。
 例えば野球をやっていようがピアニストをやっていようがちょっとしたコラム的なものは書けるわけです。それはエッセイとはいうけどエッセイシストとはいわない。歌だって誰でも有名人はCDを出してるわけです。
 言い方によっては、それで稼げるのならプロです。CDを出していない人から比べると、買う人がいる。お客さんも入るわけですから、プロです。
 声優でもちょっと脇役で売れたらよっぽどヴォーカルでずっとやってる人より売れるわけです。そういうことでいうと、この世界どこでわけるかというのはいえないです。だからその人が求めるところまで必要だということです。年齢が不利ということはないと思うのですが、考え方が老けると、だめです。

Q.グループレッスンはよくないのか。

A.グループの各人のテンション自体がトレーナーのテンションを下回るようなときになったらレッスンは成り立たないというのが私の持論です。トレーナーの平均レベルさえいかないのであれば一緒にやらないほうがいいということで個別レッスンの形にしました。
 本来は自分のオリジナリティを見るにも、集まる人が本当に本気でやっているのであれば集団の場というのは、いろんな意味で気づくことが多いのです。先生やトレーナーから習うようなことなんかよりも同じ世代を同じような目標で生きてる人から学ぶことがあるのです。

 だいたい若い人の歌を聴く相手は、年配の人じゃなく同じ世代か次の世代です。根本的には彼らがやることは何も間違ってないわけです。それを古い価値観からその発声はなんかおかしいとかいうほうがおかしいわけです☆。そういうことでいうと判断の基準なんていうのは正しい正しくないというのはないです。ただ、私よりも古い考えで色がつくようになれば、グループもよくないといえます。

 ただ声優とか役者さんは養成所のコネクションでも何でもいいのですが事務所に所属するなり仕事の入り口をきちっと作っておかないと成り立ちません。ヴォーカルというのはストリートでやって空き缶でもおいておけばいい。
 「声がみるみるよくなる本」も声優(ナレーター)さんとやったのですが、さすがにプロで1時間のCDを作るのにおよそ1時間30分でできました。例えば早口ことばでも1回でできる、そういうことをどのくらいきちっとやれているかで力の差というのはすぐにわかります。

Q.講演によって自分の考え方への刺激を期待します。プロになる秘訣を教えてください。

A.いい加減なとりくみ、はっきりいって、この世界はそういうのを人に見せてしまったら終わりです。
 役者になるのも歌も発声じゃないです。発声というのはひとつの道具にすぎず、プロの歌い手になりたいといってヴォイストレーニングをうけなくてはいけないなどというのは大きな間違いです。
 プロというのは制作できる人なのです。要は自分の作品を作れる人です。作詞でも作曲でもいいし、そんなものがなくても与えられた曲でもいいんです。

 プロというのは少なくとも価値を出さなくてはいけません。今の時代になってくるとひとりでどうこう、がんばるだけの問題ではなく、バンドの中で歌おうとしたら、プレイヤーが持ってるだけの音楽的な才能に近いものを歌い手なら本来は持ってなければなりません。役者も資格はないように見えますが見る人が見ればすぐわかります。
 さらに人を惹きつける魅力でしょう。高校のときクラスでモテるモテないとかそんな程度のものではなくて顔とかでもない(それも、ある人たちにとっては、ひとつの大きな要素ではあるのでしょうが)演技においてそういったものが出てくるかということです。声というのもその中のひとつの要素にすぎません。

 私もヴォーカルの本でいつも声のトレーニングは10分の1くらいと言っています。その人の世界がなければ成り立たないのです。若いときに安易にそういう世界を作ろうと思ったら詞や曲をつくるほうが早いでしょう。
 歌だって誰かのを真似ようと思わなければだいたいそのまま、その人の世界です。
 ただその人の世界というのは、ただの個性と同じですから、10人いたら10人とも、みなさんの顔もそれぞれ違うようにそれを個性といってしまったらそれはもう平等にある。それが磨かれていなければ結局通用しません。ただ、たまたま磨かれていなくても人を惹きつける力を持つ人はいます。

Q.スクールで伸びるか。プロになりたい。

A.学校が逃げ場にならないようにしないと難しいです。今、私はヴォイストレーナーを関係先の学校で見ています。ほとんどトレーナーに文句を言ってるわけです。
 要はトレーナーというのは歌い手になれなかった人なんで、教えるべきことは自分がなぜ声があって歌がうまいに関わらずプロの歌手になれなかったのかということです。
 それと同じタイプの人をつくったら、その先生でさえやれていないのに、時代も異なる今の生徒がやれっこないです。だからこの世界はトレーナーが目標にはならないということです。

 逆に、先生が歌手としてどんなにやれていたとして、例えばサザンの桑田さんが先生だとして、「じゃぁみんなでこの歌い方を勉強しましょう」ということではないでしょう。そういうふうに歌えていっても誰もデビューできないですね。
 そういうのは若いときの進路の選び方の考え方のポイントです。10年20年たっても気づかない人もいます。早く気づくのであれば気づいたほうがいい。
 もしプロということがどういうことなんだということであればそういうことです。日本のプロを見たって別に声がよくない、歌がうまいわけじゃない。そういう人はたくさんいます。

 全国に歌のうまい人はたくさんいて、今の日本の紅白などが吹っ飛んでしまうくらいうまい人もいます。でもそういう人たちは実際やってるわけじゃない。じゃぁ紅白に出るような人は何でやってるかというと、違う意味でのステージでのキャリアの積み重ねです。それぞれの世界をそれぞれにお持ちである、当然のことながらその歌い手じゃなきゃいやだというファンも持っているわけです。
 ある意味でいうとオリジナリティの中での魅力になってくるわけです。名前を聞いたらヒット曲が浮かぶ、これがヴォーカリストとしてプロでやれているということです。
 日本の場合ドラマや色んなことで知名度で人を集めていきますからややこしくなります。歌だけで食べているは本当に少ないのではないでしょうか。

○食べていくには

 だから私はヴォーカルのプロになりたいという人にトレーナーについてトレーニングをすればなんとかなるというような勘違いを最初に与えない。そのためにもいっていることは、ヴォーカルになって食っていくというのはどういうスタイルがあるのか、やりたいことは何なのかということを考えること。
 声や歌の勉強を10年も20年もやってる人たくさんいます。みんなそれなりにうまいです。でも1年のうちに身内の中で1回とか2回とかのステージしかやれない人が大半です。かたやそうではなくチケットがその日に売り切れてしまう人もいる。それが歌の差、声の差だとも思わないです。ならば、歌や声でだけ差をつけようというのは、方向性として違ってきます。
 じゃぁそこに何があるんだろうと知らないとプロなれない。といったら変ですがプロということを定義づけられないと思います。
 だから自分なりにプロというのではなくそれを違うことばできちっといえるようにしていくことです。

 例えばストリートで歌っている、うまいか下手かは別にしてみて、千円札が日に30枚入ると、3万円です。30日やってみて90万入る、年収1千万円(印税なしで)そうしたら日本でかなりの活動やってるプロよりも実収入はずっと上です。
 500人とか1000人集めたって90万円の利益は出ません、会場から宣伝費から全部あります。日本の場合はライブにお金がかかりますからほとんど歌い手というのは利益がないです。どこかのコンサートでも20万人集めて赤字でした。CDが売れて回収。それの宣伝、プロモーションということで何とか成り立っているのです。

 実際に歌だけで食えている人は何人いるかということです、作詞も作曲もしなくて歌唱だけのステージのギャランティでです。
 だいたいバンドで食えている人は何組くらいでしょう。東大に入るより、ずっと難しい。
 まだ役者とか声優というのは別の面でのお仕事があり、つぶしがきく、歌い手もドラマ出たり映画出たりすれば他の仕事もあります。

 あまり歌とか役者とか分ける必要はないと思うんです。ただ自分の中においてプロということがどういうことがはっきりさせなくてはいけません。
 3年後にプロになるという人がいる、じゃぁ3年後にどういう収支計画が立つのかと聞く、そんな難しいことではないです。
 1回500人集めたライブをやろうとなったときに、500人の来客リストが必要。1回のライブに500人集めようと思ったら5000人のリスト持ってなければ無理です。若いうちは50人の友達がみんなきてくれますけれど5年もたてば10分の1もこなくなります。

 それが常に新しく更新されるようなシステムをつくらなくてはいけない。そのためにCDをどう出していくかです。
 今の若い人はオーディションで受かったらやれるし受からなかったらだめだと考えている。ライブハウスのオーディションやプロダクションを受ければいい。そんなことでもやられない人のほうがずっと多い。それだけでは自分で客を持てない。

○続けていくには

 だから厳しいことかもしれませんが、ヴォーカルや音楽の分野でも活動できないということのベースは、そこの考え方の曖昧さにあります。ピアノやギターをやる人のほうがきちんとプランニングを立てています。自分が5年後にどうなるんだ、そのために何が足らなくて何が必要なんだということをきちっとやっています。

 楽器というのはうらやましいです。なぜかというと習い始めたときの最初の日というのが特定できるから、そこから何をやっていけばいいのかがわかる。それから一流のプロを聴いていたらそれにまず速さをあわせなきゃいけないのでそこに大きな目標ができます。例えばプロのピアニストと同じ速さで絶対に弾けない。ひとつの条件としては彼らの演奏より速く弾けるということ。それから同じ速さで弾けるようになったときにタッチが違う。同じ値段のピアノで弾いてみても違うということが突きつけられる。

 ところが声の場合はわからないでしょう。一人ひとりが違う声をしてるから違う顔していたら、オリジナルみたいに思ってしまう、自分の歌は自分の歌で、他人と比べられない、そんなことでよいといってしまったら誰でも歌えています。
 それからいつ始まったかわかりません、小さいころから声は出しているし歌も歌っています。

 おもしろいことにヴォーカルの分野というのは本当にヴォイストレーニングとか発声練習とかしてない人がプロになってるんです。役者になるともっと極端です。昨日までクラスにいた子がオーディション通ってしまったら主役で出ている。
 ではその練習をしていないかというと人生の中でしているのです。同じように生きてるようでいて感じ方とか表現の仕方を身につけてきてる人もいるわけです。
 カラオケでもそうですね、毎日のように5年も練習してるという人がはじめてカラオケやったという人に負けたり、ずっと20年30年先生についてやってるという人が一音目の音を外したりする。だけど何もそんなことやったことない高校生でもすごくうまく歌える人がいる。だから色んなタイプがいてやれる子はやれる子でいます。

 ただやれる子はやれちゃうがために何がやれてるかが歌の場合はわからないからほとんど伸びません。そういうのがわかった人がレッスンにきます。
 それからもうひとつは、一人でやれないという自覚です。自分はやっていかないとやれないんだということがわかる人です。普通でやってみたら普通の力しか出せない。両方がともなうと本当は一番いいのです。
 例えば女優さんでも20歳のころやれたというのが力だと思ってしまうと30歳とは言わず25歳でもう仕事がなくなってしまいます。
 それは当たり前な話であって、何が買われてるかというところと自分が売ってるというところのギャップがあり見えないままいってしまうからです。

 あとはお客さんの層があります。その時期をきちっと自分で大切にコントロールしていくことが必要です。出口をきちっと見ていかないとそれはこちらが与えられないです。
 グループでやっていたときはわかりやすかったんです。例えば2年いるとする、すごく伸びた人も、伸びてない人もいる。こちら側がやってるレッスンというのは同じ、そういう世界です。創造の世界というのは、みんなそうです。そこからどう飛び出すかです。

○何が必要なのか

 漫画家養成講座というのを東大がつくりました。他の大学に普及しそうな勢いで、ちょこちょこできてきていますが、では漫画家養成講座に学生が100人授業を受けたとしたらその授業ってほとんど意味がないでしょう、意味があるとしたらお前たちもっときちっと作らなくてはいけないよということをはっぱかけるくらいです。
 ヴォーカルはどういうふうに歌ったらいいかとか何を歌ったらいいですかとかいう質問が多いのですが漫画家だったらおかしな話ですね。
 どう描いたらいいんですか何描いたらいいんですか、それはお前が考えることだろうとなります。要は描いたものに対してこうだよというのは言えます。でも描いてないものに関しては何もいえません。
 漫画の場合原作というのがあります。漫画家が必要とする力というのはデッサン力です、どういうふうにひとつのキャラをたてるかどういうふうにコマを割るのかどういう風にひとつの話をみせていくのか。

 歌い手も同じですね、同じ人の同じ曲同じ詞をどういう風にその人が割っていくのかみたいなことです。その人にしかできないものでやらなければ勝負はできないということ。才能はそれぞれにあると思うんです。その辺の道を歩いてる人にもみんなあると思うんです。
 一人ひとりそのことをずっとやっていくと伸びていく才能、ただそれを自分が認めていって見つめていかなくてはいけない。そういうことを世の中に出そうと思うほど、場が必要、他に才能のある人が必要です。
 バンドだってそうですね、自分の才能を活かしたいという人たちを集めようと思ったら、それはやっぱりその才能ある人が必要でしょう。
 じゃぁ才能ある人たちから見て自分で何が使えるんだろうなとなったときに、自問せざるをえない。自分に売れる才能がないのに向こうはたくさん才能あったらコンビ組めないですね。

 本を売るには、出版の人が手を入れて印刷業者の人が印刷し配本の人が配本をし本屋の人もそれで食べています。何百人関わっているかわからない。ここもホームページ作ってくれる人、会報作ってくれる人、みんなそれぞれの才能です。
 音楽をやっていくときには他の人の才能を使うためには自分の才能というのを知っていなきゃいけない。他の人にその才能が評価されてないといけないという当たり前のことです。

 高い音を出したいとか言われますが、出せないとやれないのという話です。高い音を出したくて、この音楽を広めたいというだけだったら高い声出る人連れてくればいいじゃないかということです。アマチュアにはそんな考え方できませんが、プロの場合は作品のよさです。
 私がここでピアノ弾かないのは、私がプロのピアニストじゃないからレッスン生の感性に悪い影響を与えると思っているからです。プロのピアニストに伴奏させます。そういうところから才能というのは磨かれていきます。
 わかりやすいことでいうとプロの世界でやっていこうとしたときに向こうから求められる才能ということでやります。そうするとトレーニングの仕方やり方だってかわってくるわけです。

 当然プロの仕事というのは自分の苦手な部分なところにくることがあります。ここじゃ勝負できないなというところをどれだけごまかせるかというのもプロの力です。ふたとおりあって、即戦力ということだったらまとめ方です。
 ここは、はみ出してるからまとめなさい、お客さんにマイナスに聴こえてしまうからということです。
 本当のトレーニングでいったら、それがはみ出すということは何かしら要因があるんだから、その根本に戻ってそれが正されるようにしていきましょうということです。
 さらに、そのはみ出し方はあなたの中から出てきてるんだからそれが活かせるように他のところをもっと大きく作りましょうというような考え方をしていかないと本当の意味だとオリジナリティというのは出てこないです。

○レッスンとトレーニング

 日本の歌というのはそういう意味でいうとうまくなっていく人ほど私からいわせるとつまらなくなっていくのです。うまさが見えてしまったり技術が見えてしまう。あまり感動しません。
 技術を見せようとしてる部分がどうしても多すぎます。技術が前に出るのははしたないというような考えをもっています。
 ただ日本の歌手や劇団がやれてるところほどそういうことを見せるのはお客さんが喜ぶからです。声で少し変化をつけてもわからない客が多いが、そこに両手をばーっとあげてみたらみんながわかってくれるとなったらそちらのほうをとります。
 音の世界だけの話ではないのでややこしくなってしまいます。

 私は昔から音声で表現する、舞台の基本の勉強の場としています。別にカラオケでも声優、アナウンサーでもいいのですが、こちらのほうで基準を与えることはできません。
 それぞれが持ってこられたその目的をもう一度吟味してそこの中にきちっとトレーニングを位置付けていくことです。そうでないと、やらなくていいようなトレーニングばかりやることになります。
 だいたいヴォイストレーナーのところに行くとそうですね。こういう風にやります、この声は間違っています、でもそれと舞台と絡んでるのかということです。

 舞台のことをさらにこうやりたいがために、それができないギャップが基本にあるからそれを補うトレーニングをやるわけです。常に逆から考えるべきだと思うんです。もしかしたらそんな声その人に必要ないかもしれないどころか、そんな声に奔放されてふりまわされてる期間が無駄かもしれないということもたくさんあります。

 日本人が期待するのはこれはこうだ、こうやれば正しいこうやれば間違いだということだと思うのです。そういう基準は明らかにしていきたいのです。
 直感的に私がやっていたやり方が必ずしもすべてに通用するわけではないということがわかって、やればやるほどわからなくなったこともありました。すべてそういうものだとは思います。

 だから誰でもこうできますよというトレーナーがいたらじゃぁやった人を全員みせてください、100人やったら100人そうなったのか、なっていないじゃないかということです。
 ここの場合はいろんな所でトレーニング受けられてからこられます。トレーナーも優れた人をたくさん使ってきました。本質的な部分がますますわかってきました。レッスンに関しての基本的な考え方というのは、その本質に触れることなのです。

 役者さんなんかで真面目な人ほどしっかりと勉強しなきゃとかしっかりとトレーニングしなきゃと思います。ただヴォーカルも役者もどちらかというとけっこうおおざっぱに適当なものです。ここで一瞬に切り替えてそこで人並み以上の天才的なパワーを表現につぎ込まなくてはいけないわけです。
 そんな勉強していたらそういうことをできなくなってしまう人もいます。元々そういうことできない人が勉強するとなおさら真面目になってしまって面白みがなくなってしまう。そこを壊さなくてはいけないわけです。

○耳を磨く

 特にプロになりたいような人は、トレーニングのリピートから何かが出てくるわけじゃないというふうには思ってください。リピートはあくまで何かしら自分が変わっていくための条件です。
 気づくということは簡単でも、気づいていないことです。足らないこと、あるいはその人に入ってないことです。
 日本人にとって日本の生活で日本語を使ってやるがために気づかないこと、この辺からがベースです。日本人というのは世界的に見ても音声に関して弱いのですから。

 プロのヴォーカリストは、ヴォイストレーニングをしてこうなったわけではないんです。ただそうなった人というのは何かしら小さいころからそういうものを受け止めるアンテナがあって、そういう耳があって体とか声がそういうふうに伴ってきたのです。気づき方の違いなのです☆。

 同じ兄弟でもひとりはテレビ観たらすぐに踊り出して歌っていて、一人はそんな気がない。同じ二十歳になったときには随分違いますね。
 それはどうしてかというとそういうふうに踊ったり声を出してやったのは、その前に聴いたときにどういう風にその人が反応したかから始まるわけです。
 耳がそういうふうになっていなければ声がそういうふうにならない。そこの中で理想的なトレーニングというのは行なわれてるわけです。
 仮に千人いたらそういうタイプが一人くらいいるということです。

 皆さんの中でも勉強しようと思ったときに書いてみたほうがわかる人、聴いてみたほうがわかる人、色々得意なパターンがありますね。
 音楽とかこういう世界においては耳から聴いて覚えるタイプのほうが強いです。これが日本人の場合はかなり難しいです。
 音声教育もうけてないし、小さい頃からそういう聴き方もあまりしてないです。カラオケだって歌詞をみて流れてる音程にあわせて歌うことはできるわけですが、バックの音を消してみたりマイクを使っていなければ相当ひどいですね。

 ただプロのレベルでいうならその相当ひどいはずの状況において歌が伝わるようにしなきゃいけないのです。カラオケでやれていたことというのはごまかしです。トレーニングからいうと一番大切なギャップを見えなくしてしまっている。トレーニングというのは簡単にいうといつも下手な状態が一番効果が現れるわけです。

 困るのは、こういうふうにできてるのにどこが悪いの、ということです。これはトレーニング成り立たないです。
 J-popの歌い手を見本にしないのは普通の人が普通に歌ってみて歌えてしまったり、あるいは中には普通の人のほうがよりうまく歌えてしまったりする、するとそこに課題は見えないんです。すぐれているところがあっても、それが発声ではないので、みえにくいといえます。
 優れた歌い手の中で何が起きているかということを感じるところからです。耳から入るアンテナが10本立ってる人と1本しか立ってない人がいるとしたら、トレーニングというのは1本2本しか立ってない人が10本立ってる人と同じように聴き取れるようにしていくことから入っていきます。

 耳の力は非常に大切です。例えば音楽学校とか行ったりヴォイストレーナーのところに行ったら音程練習をさせられます。楽譜から入るものをひとつの方法です。でもプロの歌い手で楽譜読めない人はたくさんいます。
 音程練習なんて全然しないのに音程はずすことないです。だから本当は音程練習なんかしてはいけないわけです。音程をとるようになってしまいます。

 でもトレーニングの仕方としてそれが後できちっと消化されるんだったら、そのやり方から入るほうがいいという場合もあります。
 10年くらい期間を与えてもらえるのであれば最初の2年というのは本当は音程練習とか楽譜とか入れないでやりたいのです。
 みんなとやって音とることに関して100人中90番くらいになってしまうという人は音程練習をやればよいわけです。
 そうでない人というのは元々きちっと聴くことというのを雑にやってきたわけですからきちっと聴くことをやってみる。音程練習などしなくても歌は歌えるんです。

 みんなが得意な歌というのは音程練習なんて絶対してないですね、音程なんか意識した瞬間にはずすわけです。それを意識してトレーニングするということはヴォイストレーニングの中では当たり前のように言われていますが、それが必要なのかどうかも本当は吟味しなければいけません。
 ただ、だいたい2年くらいでトレーニングというのを普通の人は考えていますから、そうしたら最初からそれを入れて、それだけじゃないんだよということもやりつつ、急ぐのも、ひとつのやり方としてやっています。日本のお客さんが非常に音程にうるさいところがあります。

○呼吸を磨く

 息を聴いてみてください。腹式呼吸、呼吸法ってどうなのとわからなくなったら現実の歌い手の中で体が起きてる現象が自分の中で起きればいいと考えたほうがよっぽどわかりやすいです。
 息を聴いてください。息を聴くことはあまりしないです。こういう歌を聴くとだいたい高いところとか大きな声で出してるところだけ聴いてそこを勉強しようとします。そこは一番勉強できないところです。

 真似てみると一番だめになってしまうところです。だからプロというのは感覚が違うというのはどこかで持っておくといいと思います。違う人種だということじゃないです。何かしら磨かれている感覚を持っているし、そういうことを長くやっていることによって、それに対応できる体をもっています。
 自分と条件の違う人がやってることを自分の中でとらえて真似するということは、それを低いところにおろすことになります。簡単なことでいうと自分が真似できたところほど真似ちゃいけないやり方を使ってると思ったほうがいいです☆。
 歌は単純です。それでやれて本当に真似れてるのであればそのプロと同じレベルで歌えるはずですね。普通はそうならないです。そこでだいたい一番真似てはいけないことを真似てしまいます。

 まずトレーナーだったらそれ確実に声に変えなさいと注意します。
できたなぁと思ってもテープに入れてみて声や息を聴いてみるとどうも違うような気がするぞとなるのでしょう。
 先ほどもいったとおり楽器の場合だったらそれが違うということがすぐにわかりますが、人間の息とか声は声自体が違いますからなかなかわからないです。できた気になったりできてないような、深い息で別に教えてるわけではありませんが、ただ声楽や洋楽なんかだったら一番基本になる部分が入りやすいです。

○個性を磨く

 日本のいわゆる規定というのか、その人の個性が出ることではなくて、その人が誰と変わっても同じように伝わることが優先されているのです。日本の共通語というのと同じです。歌は、本来は方言のようなものなのです☆☆。

 ここの音程、音楽理論、音楽基礎のレッスンは、できるだけ個性出さないでやってくれといっています。先生が変わったとしても同じことが伝えられるようにしてほしいからです。アナウンサーとかナレーションというのは、土曜と日曜が違う人がきて、そこであまりに個性が強ければ困ります。それと全く逆のタイプが落語家であったりパーソナリティでしょう。
 ラジオのパーソナリティなんかは発音とか発声練習からいうとめちゃめちゃな場合もあります。その人のキャラクターが出てればいい。そちらのほうがオリジナリティです。
 声楽とか日本のゴスペル、合唱は、ひとつの基準を持ってやる。みんなで合わせてやるからどうしても優れた人に合わせていかなくてはいけないという傾向が強いです。それでは文化としてはだめになっていきます。

 トップスターを真似させるやり方というのは、どんどん小粒になります。最初にやった人間というのはそれを考え出してるから自分の体にあったやり方でやります。客じゃない人を客に巻き込むためには自分の最高のものを使わなくてはいけないのです。
 ところがそれを次に真似てやるような人というのは師匠にはかなわないわけです。
 だから邦楽や落語の場合は、そのときに型をやぶることが行なわれるわけです。師匠のを徹底して真似て結局、真似できないから自分の型をそこで生み出します。
 そういうふうな形で日本のレッスンは成り立ってきたのです。そうじゃないところだとだいたいだめになっていきます。どんどん弱まっていってしまうのです。それは先ほどいったとおり真似てるからです。真似てるときの弊害というのは、思ったよりも大きなものです。【04.11.13 講演会】

○日本人の聞き方

 だいたい同じ世代のものをヒットしたものしか聴かないものです。そういうものをいいと思う。それは世代ごとに当たり前です。ただそういう中に入ってれば入ってるほど違うものというのは出しにくくなってしまいます。
 だから自分を違う環境におくなり違うような刺激を入れたほうがいいです。

 私は、二通りのやり方をとっています。プロは自分の勝負できるところを磨かなくてはいけないのであまり広げない場合もありますが、そのことを持っていても、新しい世界を作りたいという人は今まで聴いてないものとかやってないものを徹底してやらせます。
 低いところでしか歌ってきてない人は高いところで歌わせてみたりします。それがどうなるかはわかりませんが、そういう世界ができてきた人ほど案外と思い込みでやってるんです。ステージに立ってしまったら守らなくてはいけないから下手なところはみせられなくなってしまう。そうすると色んな形でリスクを減らすようなやり方をとらざるを得ないです。
 それは日本のお客さんの問題もあります。日本のお客さんはそこで冒険して失敗したのをたたえるということはあまりしないです。どちらかというと確実にショーをヒットさせるようなものほうが好きです。

 例えば「今年は私はこんな歌を作りました」、「世界平和のためにイラクのためにこんな歌を歌います」と言っても、お客さんはしらけるものです。
 外国のヴォーカルはそういうことばかりやります。往年のヒット曲があるようなヴォーカルが日本にきたようなときは、ほとんど新しいところはうけません、昔の曲が流れるとすごい感動するんです。だから毎年来日するような人というのはそういう組み方をします。最後のほうやアンコールにそういうものを持ってくる。

 彼らと話してるとよく日本の客って何で保守的なんだと言われます。自分が今やってる歌を聴いてほしい。昔ヒットしたのなんて今歌いたくないものですが、それをやらないと成り立たない。そこだけにやたらと拍手がくる。
 「昔の歌より、今歌ってるのがもっといいレベルだ」、「今の歌のほうが伝えたい。今のものだから心に響くはずじゃないか」と。それは仕方ないと思うんです。どこでもそうですが、特に日本の人たちは歌にノスタルジーとか思い出とか何かそういうところで、ひたりたがる。他の人たちが評価したから自分もそういうようなことが評価したくて安心感を持ちたいというようなところで結びついてる部分が多い。

 喉自慢でも、つまらないけれどもまっすぐに歌ってるような歌が賞をとったりします。新しい試みをしていたりこんなふうにこの歌が歌えるのかと思うようなものはよくて特別賞です。真ん中にはこないです。
 ただ普通アートの世界というのは、新しいものを評価する。クラシックでもそうです。日本のが、なぜかいつも同じ、古い。
 今までやられてきてるところにどういう新しい解釈でどれだけ違うものを入れて表現するかということを問われない。日本の中で革新的にやられてるのは歌舞伎ぐらいじゃないでしょうか。お笑いもたえずそういうことをやっていますが、歌の世界は、もう危ないという気がします。

○デッサン力をつける

 好き嫌いはあるとは思いますけど、知ってほしいことは好き嫌いあってもこれはプロだと思う基準はいったい何なのかということです。ようは優れてる優れてないで見ていくのであって、好きとか嫌いというのはそのファンが好きであればいいわけです。
 やる立場になったときは優れてることをめざさなくてはいけないです。好きなこと嫌いなことというのはまた別なんです。嫌いなことでも自分の才能がそこであるんだったらそれを磨いて出すべきです。
 好きなことでもそこに自分の才能が合ってないんだったらそれは趣味としてやる分にはいいけれど作品にはなっていかないという基準でみていくことです。

 カーペンターズのカレンさんとか、別に発声練習したわけでなく生まれついてああいう声で音楽的にどうこうということよりも歌えばすごいいいなぁと思う人がたくさんいるわけです。生まれついてというものもルックスと同じで勝負のひとつです。
 ただ、今はヴォーカルの中で必ずしも多いわけじゃないです。発声というかフレーズ、声をどう動かすかという部分が、より問われます。
 例えばちょっと楽器が悪くてもそれをどういうふうな方法論を使ってフレーズにしていくかというようなところで、だいぶ歌い手が力を発揮できるようになってきています。日本なんかはだいたいこういうことです。わかりやすくいえば節回しですね。
 一流の歌い手や名の通った歌い手は独自の節回し、デッサンがあります。

 だからヴォイストレーニングは本来であれば声がどうこうというよりも、このデッサンということに対して価値をおくものです。デッサンというのは絵でもパッとみたらこれは誰の絵だということはわかるわけです。線と色です。
 線がフレーズ色が音色です。日本の場合は色の部分が少しみんな同じようになってしまっています。

 さらに演奏という意味で組み合わせというのがあります。あるフレーズに対してどういうふうにフレーズをおくかということです。こういうハーモニー感覚とか構成あるいはコードとかベースという考え方は日本の場合はあまりないです。
 例えて言うと鐘で日本人というのは、「ゴーン」となって、それが長く何かのびていくようなところに何か感じるものがあります。向こうの人というのは「キンコンカンコーン」みたいに複数の中のハーモニックを受け止めていきます。このデッサンを持った上で演奏の感覚が非常に優れています。
 向こうのボサノバなんかもそうでしょう。あるいはコステロのような歌い手、声がいいわけじゃないし、エリッククラプトンも、発声とかフレーズがいいわけじゃないけど、音楽として聴いたときにプロだなぁとパッと出だしを聴いて、もうその人に音楽が入ってその世界が伝わってくると思います。

 声を持ってやってるのですが、磨かれた声の力というのは、必ずしも発声としての優れたものではないではないのですね。その人の違う意味でのオリジナリティです。
 ピアニストとかバイオリニストだったらわかりますね、楽器が優れてる優れてないというより、例えば一千万円くらいでバイオリンを手に入れたとして、鳴らす練習はするんだけど、結局その音の中にどういう見せ方をしていくか、自分の音をみつけそれからその音を繋いでいくという世界になってきます。音楽だけではないと思うのです。役者さんの場合はそれを呼吸と言ったり間と言ったりテンポと言ったりします。

○出口から考える

 1分半拍手がくるというのは私は経験がないです。常に出口から考える。というのは普通であったら10秒もくれば長いような拍手が1分くるような歌というのはそこで何を起こしてるかということです。
 こういうところですから歌がうまい人というのはたくさんきます。うまいよ、あっそう、拍手パタパタとなってもだいたい5秒です、とうことは何も起きてないわけです。それ以上のものはこちらに伝わらない、それは当人も知ってます、でもそこの中でどんなに声の使い方や歌い方を変えてみても何も起きないわけです。

 こういう中にあるものとは歌であれば音楽が入ってる入ってないということは大きいです。ただ、他の人の音楽が入ってるからといっていいものは出てこないのです。でも、だいたいすごくたくさん入ってます。
 特に歌い手になれるような人というのは相当な数を聴いています。何万曲入っているかわからないです。20曲くらい人前でやるなら200曲くらいはすぐに歌えて2000曲くらいはレパートリー持ってて2万曲くらいは聴いていないといけない。2万曲というのは1日で割っても相当な量です。

 プロの世界というのは最低1万時間と言われていますが1日1時間365日で何年かかるかということです。1.2時間ということじゃなんともならないです。
 ただバイオリンとかピアノとか楽器の世界に比べたら外にあるものではないのでその1万時間が今からゼロからスタートするのでなく、みんな5千時間とか8千時間くらいやってるんです。
 それとともにたった2分とか3分の作品の中で問うものですから、その世界を本当に知っていたら編集で、色んな意味でできるんです。音楽の中でも。

 歌というのは面白いもので12、3歳の子でもできちゃう、人生経験がなくてもできてしまう、かなり特殊なケースですがそういう部分があるわけです。だから必ずしも10年20年トレーニングしないといけないという話ではなく、逆にいうと10年20年やったからって何かが出る保証はまったくない、だから出口から考えてたほうがいいです。

 ここも映画監督の見習いの子とか演出家とか随分くるようになって、それは歌の関係でないと思っても声のこと知りたいということできます。
 やっぱり声の使い方とか声をどうセットするかというのは人の心を動かす一番大きな要素ではあります。たしかに脚本、ストーリにも必要でしょう。そういうことは創造する者には当たり前のように言えることです。
 ヴォーカルは声で創造していくはずなんですが、案外そういうのない人が多いです。そういうふうにも聴いてきていないです。だから今日みたいな環境で毎日身をおくというのがベースだと思います。

○感覚の差を学ぶ

 確かに普通の人が歌える歌い方じゃないです。アメリカでも通用するような歌い方ってこれくらいの感覚が必要だよ、これくらいの体が必要だよというのを伝えています。
 世界で活躍したいんですという人がきますので、その例として出してます。このようにやれば必ずしも日本でも成功するとかヒットするということじゃないのです。日本の市場というのはちょっと別な部分があります。
 そういう意味で次のふたつを聞き比べてください。どちらが優れてるどちらがいいということではなく皆さんの中に今まで入ってる音楽がどちらかということ、この二つの比較はわかりやすい例です。マドンナの「エビータ」という映画でバンデュラスが歌ってるものです。向こうでこうなってるものが日本にくるとどう変わると言うことでもあります。

 全部クラシックを捨ててポップスに入って、そのポップスの中でシャウトなど、この中にいくつかつめこんでます。
 このタイプというのは日本ではどちらかというとトレーナーが理想とするようなひとつの像であり、ミュージカルとかゴスペルみたいなところでも目指されているものです。すぐトレーナーにしてもいいくらい、1000人がきてもこれだけの人は、一人です。素質も兼ねそろえた逸材です。
 だから、そうじゃない人にこれを目的に育てられないと言う部分もあります。こういう人は恵まれてます。その条件は、最初に声を聞いたり歌ったときに、わかります。
 そうじゃない人に対しヴォイストレーナーはみんなこういうふうにしようとしていますが、それは問題です。
 悪い例としてこれを出したんじゃない、こういう人はそれだけのものを持っているということ、だからすべての人がこういうふうな歌い方になれないと同時になる必要もないということです。

 これは向こうにいると、標準パターンです。日本には非常に少ないタイプです。似たような感覚で洋楽を歌う人もいますが、こういう声の強さとか子音の抜け方というのはしないです。
 高いところになると最近の日本のヴォーカリストはとくに回して音響のほうに頼ってしまいます。
 どちらがいいという話ではなく、日本人のほうはことばを大切にしメロディを処理している。どちらかというと、母音共鳴のクラシック的な感覚になってしまうのもそういう部分があります。お客さんがそちらを聴きたがっているというのもあります。

 日本のミュージカルでは、なおさらそうです。舞台で貢献してきたことというのは、オペラが何言ってるかわからないことをきちっと子供たちにもわかるように日本語として処理したということです。そのかわり日本語として処理するがために、必ず犠牲になってしまうのはリズムとかグルーヴの感覚です。日本語となかなか両立しないですから。だから私なんかが聴くと必要以上に日本語にこだわるし日本語をきちっというがためにその他の要素が落ちているけど、でもこれは別に悪い話ではない。

 日本の客が聴くのがことばとメロディです。ストーリーを聴くわけです。だからストーリーをきちっと伝えればいいわけです。間違っちゃいないし間違っていたら興業的に成功しないです。
 やれてるやれてないで私は見ます。やれてるところはまずはよいという見方です。いい加減だと言われるし理想はどうなんですかとか理屈はどうなんですかと言われますが、それでもやれてなきゃ仕方ないし、客がいなきゃ仕方ない、ファンが文句言ってるかで見ればいいんだからと現実世界でいくわけです。ただトレーニングとなったときに、あるいはここの立場でやるときには、そのままにとれないというだけの話です。
 例えばグルーヴ感とか子音の中での処理みたいなことというのを日本語でやれるというのは最終的な日本人のレベルが非常に高くなれば目的ではあると思います。

 音楽として考えたときにはわかりやすいのは、音楽というのは同じ効果を重ねていくわけです。だから、ある意味構成が立っててどこかがバンと開いて落ちてこないといけない。もっとわかりやすくいうと例えばドライブなんかでどっちかの曲しかないときに連続でかけるならどっちを選ぶのかというようになってくると少しわかかりやすいと思います。
 ストーリーでわかるというものというのはやはりストーリーがわかったらまたそのストーリーを忘れてたころに見たいわけです。

 だから私は日本の歌い手のコンサートに続けて行くことは勉強とか比較をするときの目的以外は、ないです。ところが向こうのライブハウスは同じ歌い手が出てても、あるいは一曲をずっと繰り返してるなんていういい加減なヤツがいるんですけど、それでも聴けてしまう部分がある。それは音楽の部分で聴いてるんだろうなということです。
 それがまた繰り返される嬉しさ。次にも二番のここでこういうのが出るんじゃないかな待ってるとあー出たあーというそういう部分です。そういうリピート性の部分で演奏として聴かせているということです。

○優等生か自由か

 もうひとつは自由度ということです。いわゆる日本人の歌い方は、やっぱり優秀生なんです。
 この人がトップです。1000人に1人ということは、10万人に100人はいるわけです。だから逆に言うと2番3番4番5番とつけられるわけです。2番手3番手くらいまでは出られるんでしょうけど、4番以下はあまり用はないんです。
 何で順番がついてしまうか何でコンクールができるのかというと、この歌い方自体が難しいからです。

 私がこのことをやってくれと言われたら、半年はほしいです。体力トレーニング、発声練習をクラシックでやってみて、それで二十代に戻すのに、つまり戻す、変なことでしょう。ところがバンデュラスのほうだったらああいいや今晩でも酒飲んでから歌ってみるかというような意味の自由度がある、それはどういうことかというとその中で問うてることが違うんです。

 要は難しく聴こえてしまうということは難しくやってしまってるわけです。高いところでつっぱったり裏返っちゃったらどうなるんだろうとか、あそこできちっと言えたなとか思わせてしまう。いい舞台と悪い舞台の差が、はっきりついてしまうと思うんです。
 ところがバンデュラスの場合は自分の音楽の中にそれを持ち込んでるから即興、つまりいい加減な部分があります。普通の人が聴いたらまずわかりません。それからどれがトップかトップじゃないかもわからないです。例えば10パターン出したら10パターンそれぞれにいいんじゃないかと、普通じゃわからないです。

 こういうふうな歌い方をしてみてそれもありだなと許せて、順番がつかない。要はコンクールに出れない。審査員も困ってしまう、これはこの人はこういう歌い方なんだろうな、この人はこう生きてきたんだなとか、私が思う音楽というのはどちらかというとそっちの方向です。
 その人の味のところが最高に出てるようなものです。どちらがいいとか悪いかということじゃない。難しいことを難しくやらせて、それで100人とか1000人のうち1人がなるような世界に、少なくともトレーニングは置くべきではないと思っています。

 トレーニングというのはやはりその人の一番いいところ、その人しか勝負できないところに絞り込んでそこで勝負できるようにさせてやるわけです。これが色んな学校に行くと、どうしてもぶつかるところです。
 大半の生徒も、誰かのように上手くしてくれないかと。こんな話してると普通の生徒は個性を伸ばしてくれるんだと感心して「僕も先生と同じ考えです」なんて言うのですが、当人がやってる間に結局は周りの評価を気にする。周りが評価するのは誰かのようにうまいのが一番わかりやすいです。

 オリジナルのものなんていうのは、よっぽどレベルが高くなければ理解されない。そもそもちょっと歌ってみて理解されるようなものをオリジナルとはいわないわけです。世の中に理解されるということは、必ず前にそういうパターンがあるからそれと似てると言うことで理解されるわけだから、上手くなることとその人の世界が築かれていくことというのは歌においてはけっこう逆の場合が多いです。

 音楽でも、よく外国に行ってピアノでもバイオリンでも賞をいただいてますが。決まって言われるのは「日本人というのは機械的に正しくは弾くし技術はすごいから点数はつけざるを得ない」、「コンクールではトップになるけど、表現がつまらない、個性がない」と。ただそれをベースとしてのコンクールですから仕方ない。ある時期まじめくさって勉強して外にある楽器を自分の手がこういうふうに動くようにずっと動かさなくてはいけないんだから自分の神経と結びつけるためにはそういう時間が必要でしょうし。そういうところから脱して徐々に30代40代になって自分の世界ができてくればいいわけです。

 ただヴォーカルの場合はそれができないんです。元々持ってる声帯が違うからみんなに同じ声量とか声域を問うこと自体無理なんです。同じ響きを問うことも無理です。

 ヴォイストレーナーとかプロのヴォーカリストというのはたまたま日本で言うなら、そういうことをうまくクリアできてしまった人なんです。そういう人たちほど教えるのは不適任な部分があるわけです。
 習いに来る人はそれができなかった人です。自分のようにやりなさいと言っているようですが、要はトレーナーというのは自分が上手いとか下手じゃない。相手がやれるようにならなくてはいけないわけです。うまくなることがやれることと結びついてればいいですが、そうじゃない。だから非常に複雑なんです。

 与えられることはそういうことをつきつめる環境です。要はそういうふうになった人はどういう環境におかれどんな耳で音楽をどういう風にとらえどういう風に育んできたかというようなことを見ていくのです。そういう人生探検をしていくのです。
 その上で音にあわせたり歌ったりしていってもいいのですが、どこかで覚えておいてほしいのはトレーナーのように歌えても出る幕はないということです。クラシックもいろんなトレーナーがいますが、仕事や、歌う場もないです。
 人に感動を与えられるんだったら歌う場から引っ張りだこなはずです。それは別に日本が恵まれてないということではなくてそれだけ、創造した作品を持っていないということです。本当に全く創造していないのですから。逆にいうと10代でもそういうことをできる人がいるわけです。

○入れていくべきもの

 向こうの人たちの感覚をもう少し見ていきましょう。歌をやるためには歌というのを定義づけないといけませんが、歌は決まりきったものではないのです。トレーニングということでやったときに歌のどこかの部分に対して定義してギャップをみて目標と自分の現状の間を埋めていかなくてはなりません。
 例えば、この人は歌っていないです、歌っていないということを逆説的によく使いますけれども、例えばメロディやリズムがここから聴こえてくるわけじゃない。聴こえてくるものは何かというところでとっていかなくてはならないということです。
 だからプロの歌の中で共通で取れる部分をとってもらうと一番べースで入れなくてはいけないことというのはわかりやすくなると思います。

 歌以外の人でも働きかけるということじゃ同じです。言葉を動かしてるだけです。こういうところにきて「半オクターブはできる」と言われても、この歌い手レベルのようにできる人は日本でいないです。
 たった半音あるいは同じ歌の中でのひとつのフレーズのところでよいから、同じ完成度を持たないのにどうして一曲が同じになるのでしょうか。一箇所なんていうのはまだ簡単な話のはずですね、半オクターブどころかたった1音とか2音の問題です。
 こういうところもノンブレスでいってますね。声量を持ってここまでノンブレスでいこうと思ったら、呼吸のコントロールも日本でいうと声楽家のトップレベルのベースが必要です。この大きさが出せればいいとかこの長さが出せればいいということじゃないのです。この大きさとか長さが出せても歌にはならないからです。

 もうひとつの条件としてはその人に音楽が入っていないといけない、これがコントロールできなくてはいけないのです。
 考えることはほとんど高く出すことと大きく出すことばかりなんですが、それは一番わかりやすいからです。あとはピッチがとれることとかメロディがくるわないこととかがくるようです。でもそれは歌とほとんど関係ないです。

 ヴォイストレーニングの目的というのはいかに繊細に丁寧に声が扱えるかということです。
 その人が声量も声域もなくてもいいのです、それで歌が歌えないということにはならないのです。言葉がしゃべれたら歌って歌えます。いくらでも音響で加工もできます。ただ、たった一言言ったりひとつのフレーズやってみて伝えるものがなければ、どんなに長く歌ってもどんなに音域があろうがどんなに大きな声が出ようが歌にならないです。

○声量ということ

 昔は演劇なんかでも体育館なんかでやらなくてはいけないとか歌い手だってマイクに声が入らないといけないという条件があったので、まず声量というのは第一条件でした。
 今、声量で歌うような歌い手というのは若い人の中にいないです。それも残念なことなんですが昔のようなクラシック歌手みたいな、昔ポップスってみんなそういうところから入っていったわけですけど、ああいう声量で歌えるような歌い手さん、例えば岸洋子さんみたいな人が出てきたってじゃぁデビューできるかどうかというのは別です。
 ポピュラリティということはその時代によって違ってきます。ただ何もないよりは声を扱える条件があったほうがいいと、特にカラオケをやるんだったらそういう声量声域があるのはどんな歌でも対応できるという意味じゃいいのですが。

 本当のこと言うと声域があって何でもキーを変えないで歌える人より、1オクターブしかないんだけど確実に自分がそれをどうやれば出せるか知ってる人のほうが強いです。
 そうなってくると声量も声域もほんとうにひとつの条件にすぎません。ただ神様が与えたその人の素質があるのを喉でじゃましたり思い込みで邪魔したりしてるから、それに対しては与えられた部分まで磨いて開発しておこうと。

 それによってある人は2オクターブしかもしれないある人は1オクターブかもしれない、それはそれでいいです、ただ2オクターブあるのに1オクターブしか使ってないんだったらそういうところを磨いていけばいいのです。
 声量でも、それだけの声量が出るようになったから、それを歌に使うんじゃなくて、それだけの声量が出せるようになったということは楽器として原理があってるわけだから、そういう使い方を覚えた上で小さな声で歌ったときにも体とか息が働くことによって表現力がそこで伴うようにするために必要なんです。

 繊細に丁寧に扱うために必要だというのはそういうことです。
 大きな声出すことが目的じゃない。ただ大きな声が出てるということはそれが出ない人よりは何かしら原理に合ってるわけです。その音が出ると言う楽器の原理に合っている。そうしたらそれを精一杯学んでおくことによって小さな小さな声で出す。小さくするほど体を使わないと支えられないんです。小さな声小さく出したら表現がなくなってきます。

 だから本当に難しいのは小さな声とか低いところです。小さく出すのも低く出すのも簡単なのですが、それで伝えなくてはいけないということは高い声とか大きな声よりテンションを保ってないといけない、体で支えていなきゃ伝わらないわけです。コントロールもできない。低くなってくると不安定なったりするのは口先で歌っているからです。

 先に歌の技術とか発声の技術なんかができてきてからようやく小さな声とか弱い声、低い声なんかが使えるようになってきます。
 それから日常の声も、今私がしゃべっているところは歌うところやセリフを言うところともあまり変わりないです。
 朝起きたらこういう声になるというのには随分かかりました。普通は発声練習してみて歌を歌ったとき、それからそういう舞台が終わったあとに、こういう声にはなっていると思って、また朝起きると普通の人の声みたいになっている。
 だから、ここになると風邪ひこうが何しようが、こういうことずっとやってますから、大丈夫です。プロとのレッスンとか実際舞台行くと非常に厳しい状況でやるのですから。

 自分が歌って見せてそれを真似させるという教え方はもうずっとやっていないです。そのことは、よほど気をつけないと間違えを助長します。
 むしろ相手がやったことに対してトレーニングであればギャップをつくってやります。例えばここでも、30年40年プロでやっていて人も教えてます。一人よがりに、はまってきてるんじゃないかというようなことでくるわけです。そこでその人が普通で歌ってたらできていたことを再試行するわけです。【04.11.13 講演会2】


Q.オーディションで力がでない。

A.自分でそういうときに自分の力以上のことが出せる人じゃないと残っていきません。本当ににベースの力がある人というのはそんなにいません。だいたいレッスンの中で見ていて本番にもっとすごいことをやる人はやっていける。逆にどんなに勉強をしていてレッスン中によくても本番で出せないようなタイプはだめです。そこをレッスンで、いつも本番として挑み、解決するのです。
 本当はレッスンでも実力があって本番でも出せれば一番よいのですが。

Q.レッスンのさわりをしたい。

A.実際歌いたいとかここでレッスンをやってもらいたいというときに、たまにやってみたりすることはありますが、初回の場合は、すごく大切なことは、人のやり方でなく、自分を知ることです。すべての人に同じレッスンをしているわけではないからです。

Q.集中力について。

A.実力という問題というのは本当に思ったより大きいです。テンション・集中力ばかり言われたって仕方ないではないかと言われますが、私から言うと、ものをなしていく人間でそれがなければどんなにやってみたって難しいのです。
 何かしら集中力をつけることです。それは人間の体験の中でまだ変えられる部分の能力だと思います。声帯を取り替えるとか手術するとかそんな危ないことを考えない。
 ワークショップなど行ってもピッチ下がるのも声が伸びないのもまずは集中しなさいといわれます。アマチュアのレベルの問題とはそんなものです。集中力があってイメージがはっきり見えたらほとんど解決します。
 そのふたつが足らないです。もしみなさんがイチローとか松井ぐらいの集中力があれば充分だと思います。なかなかいないものです。

 日本人のヴォーカルで私が観た中で集中力が一曲持っている人というのは美空ひばりさんとあと何人か、それ以上にはそんなにいないです。本当の意味での集中力です。
 ただそこまで集中力がなくても日本の音楽とか歌が成り立ってしまう部分もあります。
 長唄で私のところから師匠になった人がいます。彼の歌は一曲で23分、40分なんていうのもあります。聴くほうの集中力が持たなくなるほどです。
 ただ人間の集中力というのはひとつの曲に関して3分、最高で5分くらい、それを短く聴かせなくてはならない。長いと思われたらもう成り立っていないわけです。

 いいところ3分くらいではないでしょうか、本当にいいところでいうと15秒ぐらいじゃないでしょうか、それが15分できる人というのはプロですね。私もレッスンして、この人きっとプロだろうなというのは集中力でわかります。

Q.低音を胸、高音を顔のほう中心に響かせるようにしたとき、中間部分で喉に負担を感じるのですが。

A.実際としては、イメージによります。どこに響かすかということも方向づけとして、そんな感じにしてみたほうがいいということです。
 物理的にいうと別に高いところで上だけに響いてるわけでも、低いところで下だけに響いてるわけでもない。ただ多くの人が歌ったときに、そう感じるし、喉にかけているように感じるとき、結果としてよくない。そこで喉にはあまり響かせたりかけたりしないほうがいいとなります。喉に響いてないのではないわけです。実際一番響いてるのは喉ですから。

Q.プロとしてでなく、すぐれた歌にして楽しませたい。

A.あたりまえのように通い、あたりまえのように上手くなることで人前にたつことは、不可能です。楽しんでやるんだったらお金を出し、わざわざ人様のところに教えにいってもらわなくてもやれるだけのことは自分でやりましょう。
 プロがこういうところに来るのは、自分の才能だけでやっていけないからでなく、人のすぐれた才能を使うというのがプロなのです。
 だからそういう考え方ができていないことには人とやっていけないです。

 自分に何かがあるというのが前提ですが、その何かでさえ人とぶつかっていかないとわからないものです。その辺が画家や小説家と違うところです。山奥にこもってすごい作品を残したら、あとでそれを聴いて、その人がすごく高い評価うけるということは、ヴォーカルの場合は多分ないです。
 その時代に生きててその時代の人たちに認められていかなくてはいけない。ということは人とどう関わっていくかといういわゆるメディアの問題が大きいです。考え方は、プロをめざしましょう。自分のためでも。人のためにがんばりましょう。

Q.専門学校にいるのですが、プロになれる気がしない。

A.今は、学校に通ってることで何かが身につくとか学校の中で認められたりできることにおいて、世の中にも通用するというような錯覚で、本質を見えなくしてしまいます。
 はっきりした分野もあります、例えばヴァイオリニストとかピアニストとかは音だけの勝負、どんな格好でどんな身なりでどうであれ音が素晴らしければいい。ただそれは最高レベルでよくなければいけないですが、学校を超えて勝負がつきます。
 ヴォーカルの場合はそんなに歌がよくなくても声がよくなくてもその人間が出した作品がその人のパーソナリティに合って世の中に説得力を持てば逆に音楽分野以外の部分で価値付けされる部分もあります。

 その辺が私は考え方が現場をやってることもあり、逆です。普通のお客さんは普通の歌なんて聴きたくないんです。自分で今はカラオケで歌えます。
 よっぽどすごいものか面白いものか変なものでなくてはいけないので、まっとうな感覚は必要ですが、そういう部分をどれだけ拡大できるかということがあった上でのことです。綺麗に歌ったり上手く歌ったりするのはいいのでしょう。
 昔こちらは声を与え音楽を入れたら創造活動は自分でできていく、それは前提に来ているのだろうと思っていました。
 しかし、実際にやると真面目に勉強しようと思ってる人ほどそこの部分の能力にかけてる人が多いです。
 ヴォイストレーニングが生み出すものというのは何もなくて、何かをやろうとする人に対してヴォイストレーニングというのは技術として補助することはできる。それがない人に対しては難しいです。

Q.デモテープづくりやプロデュースは、やらないのか。

A.デモテープにしても30万円でつくられようが3万円でつくられようがどうでもいいんです。ようは働きかけるものがあるかないかです。ない分にはいくらお金かけてもらっていいもの創ってもらっても誰かに曲書いてもらってやったってなんの意味もないわけです。よくプロデュースをしてくれませんかと言われます。今これだけ情報が開かれた世界において、他から声がかからないレベルでやってるのであれば、誰にプロデュースしてもらってもうまくいかないです。
 なぜプロデュースしてくれないか? そう思わせるものを創り上げていないからでしょう。
 日本のヴォーカルのレベルは決して高いとは言えないと思います。他の国であればそういうことを20歳くらいからやろうといってもむずかしいことなのでしょう。日本じゃ多分そんなこと一切問われないので恵まれた国ではあります。そういう意味では色々やってみればいいのではないかと思います。

Q.聴く気のない人に聴かせられるような感情を込めて人に伝えられるような歌にしたい。

A.人は感情を聴きたいわけじゃないです。あなたの感情に関心ない。すごく冷たいことでいうとあなたがたが歌おうとする歌とか声とか興味も何もないです。単に歌いたいという人の一人にすぎない。
 もしあるとしたら親戚とか知人とか暇で何かイベントがあれば行きたいなと思ってる人とかにです。
 今歌が売れないといわれてるのだって、歌が流行ってないとかいい歌がないとかじゃなくて歌い手の力が弱いだけです。
 お笑いブームに負けている。というのだって人前でやるということであればお笑いも歌もないんです。
 彼らは勉強しセンスがよくて非常に表現として強いものを打ち出している、お笑いだって上の10人くらいでしか1年半程度でだめになってしまいます。
 才能がどういうスタイルをとって表われてくるという意味でいうと歌だけが特別ではないです。感情でなく魂を込めた作品にしましょう。

Q.歌はトレーナーにほめられるのですが……。

A.かわいそうだなと思うのは、お笑いの人たちは環境がありぶつかるところがあって自分たちがどれだけだめで足らなくて何を身に付けなくてはいけないかというのが突きつけられる。それに対して、日本人の歌い手というのはあまりそういう環境がないです。誰も批判せずみんな誉めてくれます。
 私は自分が感動して何か与えられたと思わなくては誉めないです。相手にも悪いですから。

 こういう所に来てこんな感じなんですけどと言われると、きっと、もっとあなたの才能を活かせる仕事がありますよと言います。
 何か音楽とか歌をやることがすごいいいことみたいに思ってる。音楽をやると楽しくて仲間ができて、それで上手くなっていく、楽しんだら力がつくと。そんな分野はありません。すぐ行き詰る。
 現場にいればわかります。
 海外に行っても日本人はなかなか勉強できない。他のレベルでは世界のトップレベルになっていますが歌い手だけが弱いのはその辺の問題があります。音楽に対するひとつの何か幻想みたいなものがあります。

 黒人の知り合いでも日本人のところでは、ゴスペルでも何でも楽しくする。日本人は音楽で楽しむこと知らないから、まず楽しくしなけない、音楽を本当に好きにならなければいけないというところ、つまり幼児レベルからになります。
 普通に彼らが生活の中に取り入れてるほど音楽がベースになってないのはわかりますから日本人に接するにはそうするしか仕方ないとは思います。

 それから彼らもプロですからお客さんに対してケンカぶつけるつもりもない。同じ黒人の生徒には罵倒しまくっています。「お前そんなんじゃ絶対だめだ」と。相手のレベルも高いから本気でできるわけです。
 劇団にも同じです。役者なんか、灰皿ぶつけられたりアホ呼ばわりされたりです。
 ワークショップは、トレーナーもニコニコです。でも人にどうこう言われることは、そんなに厳しいことではないです。何言われたって人が人に言ってるだけの話です。自分の中でレベル設定をして、それに対して頑張ることがすごいきついんです。

 私がこういう研究所作ってるのはプロセスを学ばせるためです。お笑いでも彼ら新人と言われるまでに10年です。ここでもその10年をきちっと苦労できるようにしてやろうと思ったのです。
 要はわけがわからなくて今うまいんだけど何が足らないのがわからない。そういう人に、何か足らないのがわからないまま形で10年間ぷらぷらさせることは、かわいそうだ、もったいないと思っています。何でもいいけど、これだけのことをやらなくてはいけない。このレベルだって、いうことがわかる。ここにギャップあるからトレーニングというのは成り立つわけです。ただ歌の場合、一番難しいのはそれがそれぞれに同じ目標じゃないということです。

Q.声を大きくしないと、通らない。

A.状況シチュエーションづくり、立場などに負うのです。
 学校の先生もよく子供たちの中で声が聞こえないから、声をからしてると言います。それはあたりまえで子供と声を張り合って勝てる人なんていません、こちらが大きく出すと向こうはもっと大きく出します。状況づくりで向こうを静かにさせるしかないわけです。状況に関する問題のほうが多いのです。
 会議などですごい大きな声でしゃべってても聞かれない人とぼそぼそとしゃべっていても、聞かれる人とそれは内容や意志の強さ、あるいは立場や役割にもよります。

 その人の持ってくるようなものを聞く必要のないものと思ったら聞かない。この人のいうことは聞かなくてはいけないと思えば聞きます。
 人の聴覚能力というのは聞く人がその気になれば鋭いものです。例えば10人しゃべってる人がいて、ある人が言ってることを聞こうと思ったら、そこだけが聞こえます。これをカクテルパーティ効果といいます。

Q.声量を伴わない声と、声を張らないと高音が出ないのは問題ですか。

A.というより使い方です。歌の場合は音響があります。自分のことをきちっと知っていけば声量自体が絶対条件ではないです。
 ただトレーニングにおいては、声量・声域に関して自分が妨げてる部分、神様から楽器として与えてもらったのに磨いてないために使えてない部分に関して、確保しようということです。
 だから何オクターブも出ます、誰でも声量がつきますということを考えてはいないです。
 現場でも今10代20代で新しい歌に対してそういう感覚において待ち望んでいる人たちというのはいない。
 ヴォーカリストというのはアーティストですから次の時代の感覚を形にするという仕事です。歌っていて古いなとかつまらないとか思われたら、やっていけないわけです。

 大きな声量のことですが、それも声量として効力を奏していなければ意味がありません。
 大きな声で歌っても上手いヴォーカルというのは、本当に上手いヴォーカルです。音量を上げて聞いてみてもうるさく聞こえないというヴォーカルです。
 音楽的に成り立っていないと音量をあげるとうるさいだけです。音量をそこまで使い切れていないのだから本当のことでいうとそこまで使ってはいけません。
 私のテキストで声量のほうに重視をおいてるのはトレーニングだからです。
 トレーニングというのは大きなイメージが必要なのですが、アマチュアの人に大きなイメージといっても見当がつかない。まだ大きな声のほうが見当がつきます。何もわからないで歌ってるのだったら大きな声で歌っていたほうが、大きな声が出る人のほうが、将来性見込みがあります。

 歌というのは大きなものです。全身をぶつけていっても間に合わないのですが、ただカラオケになってしまうと、ひとことひとことつないでいけば歌っぽく聴こえてしまいます。その感覚とステージということを踏まえてやっていく歌というのは同じ歌とはいえないくらい隔たりがあります。ただそれだけの必要性がなければトレーニングっていらないんです。

 もっというのであれば呼吸法とか発声などと言っていても、じゃぁ本当にそれらが必要なだけのものを歌に望んでいるのかということです。
 そこに望んでなければ腹式呼吸をやったら、却って歌は歌えなくなります。一般用の本などに腹式など考えてはいけないなどと書いてありますがあたりまえの話です。ステージで実際にそんなこと考えていたら歌にはならないです。
 でもトレーニングの時点においてはギャップをきちっと見ていくというのがトレーニングです。そのことをきちんと踏まえてください。

Q.歌とヴォイストレーニングの関係は?

A.使い方がどうなのかということです。人間の体が変わっていくわけじゃない。すごいアマチュアとしてうまい人が、あるときそれで収入を得られるようになればプロと呼ばれる。その人が何も変わったわけじゃないですから。とにかくご自分の感覚の部分からとらえてもらえばいいと思います。

 まずヴォイストレーニングということの定義を自分で決めていかないとトレーニングとはなりたたないということです。逆はよくないです。
 ヴォイストレーニングすると声が出る、声が出たら歌が歌える、歌が歌えたらステージができる、プロができる、そんなことではないわけです。

 歌を歌うステージからみたときに何が足らないのかというところにヴォイストレーニングがおちてきます。
 ヴォイストレーニングというのには皆さん初心者かもしれませんが、声を使うということはやってきています。その中でほとんどのトレーニングは入ってます。歌もそうです。
 歌ったことない人はいないでしょう。そこが声とか歌の問題をややこしくしています。誰でもできる、やってる、そこの中の価値とは何なのかということです。気をつけなくてはいけないのはトレーニングとして考えてしまうときに間違えてしまうことが多いからです。

○現実のレッスンとは?

 トレーニングとレッスンの違いから言っていきます。無理にやらしてみて何か効果が出るということはないわけです。他の人から自分を見ていくということをやっていましたが、あまりにも目的や来る人が多様になってきました。
 昔は22、3歳くらいから6年くらいいた人が多く7割くらいでした。10代の勘のいい人、本を読んできたとか紹介されてきた人、30代くらいになって本格的に動きたい人、すでに動いてる人が何かしら感じてからくる場合のほうが多いです。
 個人レッスンにしてから、プロで来る人が増えました。

 私は業界のところ以外でやるとき、一般もプロも力の差があるわけではないからと考えていたのです。プロの方は歌が上手い以外に実績もお客さんを抱えている人たちですから、そこから考えてもらえばいいかもしれません。そうするとヴォイストレーニングと歌との違いとか何をやるべきことかということがわかります。
 プロというのはみんな歌えるんです。そういうプロに対して歌い方を勉強させることはできないし向こうも望んでない。もうお客さんがいて自分のスタンスがあって自分の歌い方があります。では何をここに勉強しに来るかというと、感覚です。自分の声が何を成し得たかということを客観的にみる鏡としてです。

 20代で来る人は両極です。普通のところで勉強してても頭角をあらわせることはまずないと冷静な見方で自分を見てる人もいます。あるいは全く音楽とか歌に触れなかった。特にスポーツをやってた人は、1、2年で人前に出ることが身につくわけじゃないなというのはよく知っているので意欲のある人もいます。あとは周りから評価され自分でも歌えてるために問題がわからない人です。
 そういう人というのは優秀ですから海外に行ったり向こうのものを観たりして、どう考えても自分のレベルじゃないところでやられていることは、わかる。
 自分は違うなと、でも周りからは誉められてばかりで、具体的に言われたことないから、いったいそこに何があるのかわからない。
 だから私はそれを拡大して見せてあげることが役割だと思ってます☆。

 初心者の人が思ってるトレーニングのイメージというのはヴォイストレーナーというのは声がよくて歌が歌える。その歌の歌い方と声の出し方を教えてくれるというものです。ここにもそういう先生を置いてそういう指導もしています。
 ただ私がうけもってるのはそういうところではなく耳の感覚です。
 プロの人のレッスンの中で、私が声を出したり歌ったりするところというのはほとんどありません。何をするかというと歌ってることに対しての認識です。その中で何が起きていて何が成り立ってて何が成り立ってないかということを見て、指摘しているのです。

○感覚からみるとは?

 例えば2秒で歌って切ってるものを5秒で伸ばしてみたら、必ず何か破綻が起きます。音をあげてみたり下げてみたりしてもうまく歌えなくなります。あるいはすごく早くしてみる、そうすると入りきれないとかピッチが乱れるとかそういう問題がおきます。
 日本の歌の教育自体が片寄ってるとは言わないですけど、感覚的に入る人はCDを聴いてそれをコピーする、勉強した人は楽譜の読み方を並んでつなげるだけ。そこにことばがつくと、歌らしいものができてくるのですが、歌ではない。

 日本の一番の問題というのは歌から入ってしまうことです。どこの国でも、歌があったから歌おうとは入らないです。
 感情を越えて表現した部分から、形をとって歌になる。ファルセットにしても、そこに声が届かないからファルセットを使おうというのは、そういう世界がもうあって、それを勉強しようという場合です。
 一番ベースのところを考えてもらいたいのです。基本とはそういうことです。一番のベースのところに全部戻ってみようということです。何もなかったときに何があるのかというところから入ったほうがいいです。勉強してる人ほど複雑になっています。その複雑さが歌でも伝わってきます。

 日本は、難しいこととか複雑なことを技術としてお客さんが観たがってるところがあります。なぜ何も必要ないのにわざと節回ししているのでしょうか。でも、客も飽きないで楽しんでいます。
 そんなことを使わないとステージが持たない、それはやってる側の力不足です。
 そんなことをやってもらわないと退屈になってしまう、これは客側の想像不足す。
 要は今の客は歌なんか聴いちゃいない。

 外国人に比べると日本人は目で見ることに優れてますが、音の世界に関してはそれだけ厳しい判断を持っていなければ使い方もしてきていません。
 それがヴォイストレーニングに入る前の一番大きな問題です。
 だからレッスンは、見えないもの(=聴こえないもの)を見ていくことです。これをどのくらい見えるかという能力になってきます。
 歌も、こういう歌があるからこう歌おうというようなのはカラオケの勉強としてはいいです。しかし教えてくださいと言われても教えられません。

○プロ志向に

 別にプロにならなくていいのですが、プロと同じように考えてほしい。というのはプロは制作者なんです。声がいい人でも歌がうまく歌える人でもないのです。作品を作れる人です。
 作品をつくるというと日本では作詞作曲ができなきゃだめですかとか言われます。
 日本に多いパターンというのはプロデュースですが、これも海外で流行ってるものを日本に持ってくることのようです。これに対して日本人のお客さんはウケがいいわけです。だからこのタイプというヴォーカルというのを少し度外視してみないといけません。

 本当の意味でヴォイストレーニングからとらえたヴォーカルというのはよくわからなくなるからです。ほとんど今の日本のヴォーカルというのは、歌唱での創造力で問うていません。
 日本のはシンガーソングライター、外国人はプロがつくった曲をどう歌うかの専門家。外国にもシンガーソングライターもいます。外国の影響で日本人にもシンガーソングライターが生まれたわけです。けれどもでもここに頼ってるとよくわからなくなってしまう。初めて向こうから持ってきたから、これはいいとなる。

 レゲエ持ってきて日本語をつけて売った。「向こうにいたら通じなかった、日本全国47都道府県ツアー全部成功したのに。これが現実なんだ」、自分はヴォーカルの才能がないと。向こうにいったらそう思います。
 私もたまたまジャマイカとキューバに行きました。まぁ大した国です。ただ彼の場合は何でそういうことがやれてしまったのかというと先ほど言ったイメージと行動力です。彼ほど明瞭に将来とか自分のやれることに対するイメージ描ける人間は、あまりみたことがないです。まさにそこがアーティストのアーティストたるところです。

 彼を見ていて感じるのはイメージがここまであれば声も歌も何もなくて日本でやれてしまうんだなと、ただそのイメージを持つのは並大抵じゃないです。
 彼の動きを見ていると、この前もちょうど世界三大フェスティバルがあるということでそこに行って友人つくってキューバに行った。メジャーになったやつというのはメジャーにならざるを得ないような動きをしているんだなというのがよくわかります。
 そういうことをまた日本に持ち帰ればまた日本に市場ができる。今はついているスポーツトレーニングの普及をアスリートとやるということです。それもきっと成功すると思います。こちらが話を聞いているだけでこの人には一生、金と人脈とがついてくるという気がします。

○プロデュースシステムと声

 逆を考えてみたら5、10年で声を身に付けた人もいます。けれどもステージでやれているか、毎日のように歌を歌ってくださいとオーダーがくるかというと本当に1件もこない。そういうことが厳しくなってきています。
 なぜかというと音響の技術が固まってきたとともに、客がそういうことに対して価値をおかなくなってきました。
 例えば声がすごくきちっと出るような伝えられる役者でも、主役にはなれません。主役に持ってくるのは声の力のないタレントです、知名度の高いこと。

 昔の舞台は役者は生だから声が要りました。今はそれさえいらないわけです。
 実際の舞台に行ったりすると主役の声が一番聞こえないということがあります。
 昔はまず登用されませんでした。今はプロデュースシステムで、その人を出すことによって客が見込めるというやり方です。
 22、3歳なら、もうステージでやってしまっているのではないでしょうか。プロデュースシステムのあるようなところに行ってる人も多いのでしょう。

 今やろうと思ったら声を磨いたり歌をうまくしなくても、自分のお金でCDくらいつくれるわけです。だからそれはそれでいいという気もします。
 ややこしいことをここで扱わなくても、色んなところで勉強して自分でどんどんCDをつくってライブをやって、それで問題が出たというところで、ここにきてもらうとありがたいです。

 音楽スクール行くよりは、カルチャーセンターの先生のほうがわかっています。学校は経営ということから入ってますから、あまりよくないです。辞めさせないために誉めてるだけなんです。
 それが人前でやっていくことの前提であればそれくらいのテンションじゃ通用しません。リラックスしたら声が出ますと言いますが、舞台は、めちゃめちゃ緊張するところです。そういう状況より厳しいところで声を出すこと覚えないで練習で覚えないでどこでやるのという話です。

○レッスンとは

 レッスンというのは、絶対にひとりでやれないこと、そこの場所に行かなければやれないことだけをやるところだというふうに考えてます。それを補強するためにトレーニングが必要なのです。
 トレーニングというのはレッスンのときにリピート(再現)することができるようにする。これの基本の能力です。確実に再現すること。
 昨日やったことで一番いいことが、今日の朝一番にできるというのが理想です。そうしている限り伸びていきます。
 上手くなってくるとのびなくなってくるのは、再現はできるんだけれど再現した中でどれがいいか判断つかなくなってくるからです。日本では、プロもそうです。慣れてきて色んな処方覚えて、お客さんも呼吸のとり方もわかってくると、歌っていても実際3回歌ったうちのどれがいいのかとかわからなくなってしまいます。それでやれてるからいいのですが。

 トレーナーは鏡、というのは一番厳しい客ということです。トレーナーというのはどこよりも誰よりも厳しい客でなければいけないのです。きちっと現実をつきつけてやることです。
 そこに問題がないわけはないのです。すごいたくさんの問題があるのです。
 あなた方が一番簡単に客になろうと思ったら、自分の声をテープにとって聞いて、ビデオでチェックする。カラオケに行ってみてエコーもマイクもなしで歌ってみればいい、そうするとあまりうまく聴こえないはずです。それが現実だということをきちっとみていけばいいです。
 ところがみカラオケレベルでやっているようなプロが多くなってくると、それに対して自分も同じに歌えてるとか、それより上手く歌えてるとかということになってしまいます。そこで彼らは成り立ってるのではなく別のバックボーンが色々とあって成り立ってるわけです。

○現場とする

 今歌えてる人と同じになれても、それより上手く歌えたって、そんな人はいくらでも日本中にいるわけです。そんなものを目指してもそのポジションて絶対もてないです。
 例えばスマップの中居君より上手いと思っても、巨人の開幕戦の東京ドームにお呼びがかからない。文句言ったって仕方ないということです。全然、立場が違うんです。
 彼らの力の強さというのはあれだけの歌唱力でもあれだけの仕事とれるということです。それが本当の力です。
 仕事というのは誰かから頼まれるわけです。そのことがくるのが力なんです。やれるのはあたりまえなんです。
 だからトレーニングも考え方を変えなきゃいけません。歌に役立つようにとか歌が上手くなるようにトレーニングしたりじゃない。そんなのは現場でやらなくてはいけないんです。

 プロかアマチュアかということではなく、もう自分たちに現場あると思えばいいのです。歌は、ここで歌ったら現場ですね、ここにいるのはお客さんです。そういうイメージをきちっと持つことです。イマジネーションです。

○トレーニングとは

 トレーニングの中でやらなくてはいけないのは、今すぐに役立たないことです。プロの考え方でいうと、ぱっと例えばタップやってごらんと言ってタップができないとなるともうそれはだめなんです。
 そこにいるということはそれはもうすでにできるということなんです。そんなことはもう練習も何もないんです。日頃からやるだけのことはやっておかなくてはいけない。トレーニングに大切なことは今役立たないことです。即戦的には有効じゃない、後で効いてくることです、それを基本と言うわけです。

 例えば今タップの人たちの中で本当の意味で自分の将来を考えている人はクラシックバレエをやっているわけです。それをやることが、今日の舞台にどう役立つかではないのです。そのかわりそのことによって体の柔軟さとか、体の管理、バレエで問われるようなものを磨いていくことにおいて、身につけると、将来の役にたつ。きちっとその力を維持するとともに高めることができるわけです。
 そういうことが必要です。今やらなくてもいいこと、逆に言うと時間をかけなきゃやれないことをすべきです。

 日本人や学校のよくないところは、このリピートが何かを生み出すと思ってるところがあるんです。
 「努力すればヴォーカルになれますか」と聞かれます。そう考えるところからもう才覚がない。努力ですべてが可能になるのではないです。
 何かやった人は努力してる。努力をすれば何かできてくる世界じゃないです。努力というのを単に繰り返しをする意味で言ってる人が多いです。

 毎日毎日腕立てしたり毎日毎日発声してたら何かできますかと、そうではないです。何かをやろうとする人がさらに大きくやろうと思うときにそこが足らないからこういうものをつけていくわけです。
 リピートというのは本当のことをいうと、こういうレッスンの中で自分が今までできなかったことに一番簡単なレベルでいうと気付くことです。気付くだけではダメですが、気付かないよりはいいです。自分ひとりでは気付かないことを気付かせることが人の才能を使う一番いいことかもしれません。

○日本人が気付かないこと、足らないこと、入っていないことをやる

 邦楽や日本で伝統的に受け継がれてきたものはまた別です。ただ我々が音声をそれほど強くもたくさんも使ってきてない国民であることは確かです。
 例えばサッカーの応援くらいで喉を痛めてしまったりカラオケ一晩くらいでゼーゼーになってしまったり、選挙演説で候補者の声が涸れてるのは、私は外国では観たことがないです。アジアでも、韓国の人はすごく元気です。彼らは日常の中でけっこう体から大きな声で長くしゃべっています。

 全世界で比べても、日本人の喉はよくないです。エアロビのインストラクターや学校の先生が喉を痛めるなどという問題もあまり日本以外の国では聞いたことないです。そういう人たちは声を使って人に色んなものを教えますから、すぐれた声、ほれぼれするような声をしてる人たちが多いです。
 日本のエアロビでマイク使わないでやっているようなところというのは喉ガラガラです。あれだけ体使ってるのに声になってないです。
 その辺をなんとなくでも知ってもらった上で、日本人と外国人を比べていけばいいのではないかと思います。日本だけ特殊な部分があります。日本語が原因の一つです。

 外国のを勉強するというのは日本をとらえるためにいいことです。もっと大きな問題は、特に歌の場合は、今のJpopsのベースは向こうからきたものです。リズムもそうです。レゲエやヒップホップっぽいものから入って、今の歌はメロディが聴こえなくてもことばが聴こえなくてもいいというようなままに、向こうの感覚により近くなっています。
 日本人の体が外国人の体ほど使えてないということが実際には出てきてます。現場では音響的に加工して相当ごまかしています。ハイCまで勉強しようというときには、彼らが使ってる何千万円の音響と一緒に勉強しないければならない。そんなものでやっていても本当の意味では練習になりません。

 ヴォイストレーニングの場合、裸でやるように、何もない自分で力を発揮するようなことです。
 すると見本として見ていくものは、生で聴いてみてそれほど変わらないヴォーカルでなくてはなりません。
 私がヴォイストレーニングを最初に考えたときに、一流の歌い手がやってきたことって何だろうということでした。ヴォイストレーニングでも発声の勉強でもないのです。彼らがやってきたことというのはそのひとつ前の世代の一流のヴォーカルを聴きこんできたということです。もっと言うならレコードを死ぬほど聴いていた。

 その条件がなくて一流のヴォーカルアーティストはいないです。でもファンだってそのくらい聴いている他の人ももっと聴いてるやつもいます。
 ということから言うと聴き方のところが違ってたということです。本当のヴォイストレーニングでいうのなら、そういう人たちはアンテナ10本とか20本とかを得ていくことなのです。【05.2.27 講演会2】

<Q&A>

Q1:上降していくときに途中からのどに無理がかかり、音質も変わってしまうのですが。

A.下降のときは大丈夫なようなのですが、上降はポジションも段々あがってくるし、途中のある音から音質、ひびきも変わります。のどがしまってくるので無意識にそうするのだと思います。体が段々きつく使えていっていないとか、声の当てどころが変わってきているのだろうとは思っています。でもそれほど高いところでもないので、どうしてもそろえたいです。研究所の上のクラスの人の発声を聞いたら、私なんかよりも高いところまで(もちろん低いところも出ています)、声と出し方のフォームがそろっていました。時間をかけてトレーニングしていくしかないのでしょうか? 「高い」というイメージ自体を変えていかねばならないと思っています。変わってしまうところは(早めに切り捨てて)、出さない方がいいのでしょうか? それともその辺りも出してそろえていこうとするべきでしょうか。

 これは、日常会話で1オクターブ出せる人と、1〜2音しかない人との差と同じです。音の高さでひびきのバランスは変わります。変わらないところで1オクターブ、キープできる人がと、1、2音しかキープできない人とがいます。後者の場合、口先やひびきにすべて頼らざるをえないので(歌うときに)、その日の正解は声のあてどころで変えることになります。のどに負担をかけないということでは(のどをしめない)、この方がよい場合もありますが、長期的にみるなら、常にその時点で正しくできるところでやりましょう。心身やひびきのバランス、声、息、体の鍛錬をするしかありません。

Q2:声そのもので表現するということは、どういうことなのですか。

A.このところ、何度か「もっと楽しそうに歌って」とか「ちっとも楽しく聞こえない」とか言われて、楽しく聞こえるにはどうすればよいのかを考えていました。感情移入すること=楽しい歌は楽しく、悲しい歌は悲しく歌うことだと思っていたのですが、声そのもので表現するということは、どういうことなのですか。感情がこもるのはよいですが、押しつけは拒まれるということです。楽しそうな歌も、楽しくやるだけでは伝わりません。しぜんなのかどうか、その上に表情が出ていたら、受ける人が感じることです。

Q3:体の調子が悪く、声は出るが体に力が入りません。ぜんそくのようになり、のど声になるのですが。

A.ぜんそくをもっていても歌を歌っている人はたくさんいます。ヴォイストレーニングとは、普段の体調より悪いときにいかに切り抜けられるかということのためにやることでもあるのです。体調が悪いなら悪いなりに、自分の体に合せてその体を使えるところまでコントロールする技術を身につけることなのです。歌は、声を聞かせていくだけではないので、かすれた声でもコントロールできていればやりようもあります。自分を知ることです。

Q4:声を調整するには、確実に声を使える技術が必要ですか。

A.歌のなかには、技術をみせる部分もあります。声の技術、感性がどちらも入っていないと、3分間、もたせることができません。歌の線、声の線の上でフレーズを動かすようにして、高音になっても声が変わらないようにします。その部分に感情、情感が伴って相乗効果が得られるのです。そうすると、よい意味で高音がひびいてきます。そのようなトレーニングを取り入れていきましょう。

Q5:トレーニングの注意点は?

A.自分の体、心の状態をよく理解するようにして、整えるようにしましょう。たとえば、起床する時間からトレーニングの時間まで定め、規則正しい生活を心がけるのも一つです。自分のよい状態と現在の状態がどのくらいかけ離れているのか測り、今の限界を知ることです。体調が悪いとき、体や声が弱い人は他の人より敏感にならないといけません。こういう世界は、伝える相手あっての世界です。責任あることをやるわけですから、自分のことは自分で管理できないといけないのです。他の人は誰も管理してくれません。

Q6:「ファ」の音から裏声になってしまいます。この部分も地声にしたいのですが、そうしようとすると、のどがかゆくなり咳が出ます。

A.最初は高音域もなるべく同じポジションで捉えようとします。誰でもやり始めた頃は同じポジションではとれないし、線もつながりません。「ファ」の音から裏声になるということは、その前の音「レ」、「ミ」がもっと楽に、深くとれていないため、「ファ」を出すときにその準備ができないためうまくコントロールできないからです。「ファ」の時点で、体が負けてしまっているのです。「ファ」より低い音を確実に深くするトレーニングを積むことが、「ファ」までとるコツです。それを徹底した上で、裏声への移行を考えるのは構いません。

Q7.息が逃げてしまう。すべてを声にしたい。

A.息が逃げているからといって、息を声にしようとすると、声をとりにいってしまいます。トレーニングをして技術が宿ってくれば、声が息をとりにいかなくてもよくなりまず。そこまで待つことです。どのくらい、きちんと体から声として出せるか、そこに表現が宿るかに焦点をあててトレーニングしてみてください。そうしているうちに、あとから音量、音感、音域はついてくるのです。プロの体をよみこんで、自分との差を考え把握するとよいでしょう。

Q8:合唱のとき、他の人と一緒に合せようとすると、声をとりにいったりそろえたりしようとするので、のどにかかってしまう。課題に入りきれないのですが。

A.合唱というと、ウィーン少年少女合唱団のようなものをイメージすると思いますが、発声からは、一般にいわれるハーモニーよりは一人ずつ声を出して重ねていき、表現が宿れば、トータルの力としてパワフルになるものと捉えてください。
ここでの合唱は、他人の力(声、波動)を借りて合せることにより、ハーモニー、その場の波動、空気を感じることが目的です。
合唱で音程やリズムをずらさずに表現するためには、大変な技術を要します。そのなかにパワーや表現力を宿すと考えることに専念します。みなさんでハモって、きれいだったと思っても、必ずしも観客が感動するものではありません。

Q9:おもしろい課題はないですか。

A.おもしろい課題などないのです。その課題をおもしろくするのはその人自身です。カッコイイ課題というのは、その歌がカッコイイのであり、カッコイイものをやってできたと思ったら大間違いです。それは本人以外のものがカッコイイのですから、本人が一番カッコ悪いのです。カッコ悪いものをどれだけカッコよくできるかが、その人の力なのです。それを感じ、力をつけることを考えることです。

Q10:音程がとれません。

A.音楽、ジャンル、調が体のなかにない曲になると慣れていないためにとれないのです。曲をたくさん聞いて体のなかにしみこませるとともに、課題やフレーズを丸暗記することです。いくつかのパターンがでているので、そのパターンに慣れて違和感をなくすようにしましょう。
 音程、ピッチがとりづらいのは、声が身につかないと難しいからです。プロのヴォーカリストは、音程という感覚より音感のなかで歌っています。何度も聞いて体のなかに少しでも入れていくしかありません。オペラなどそのなかにいろいろな旋律が入っていますが、その旋律に音楽の発展性、美しさ、感情移入など、心をゆり動かす要素がたくさんあるので、そのような音の勉強も必要です。いろいろな角度からアプローチしてみてください。


特集:福島英対談集vol.9
[T氏と]


F:15年くらい前から合宿をやりました。そこで最初に歌をやらせたら、実感がない。皆、歌い手希望なのだけれど。
それで、モノローグで自分のことを1分間語れと。それが妙に説得力を帯びていたので、とり入れた。
次の年からは、赤ちゃんの声や泣き声、笑い声、今でいうと劇団のワークショップでやっているようなことを、実際に取り入れてみたら、成り立った。
30人くらいで、同じようなことを言うのだけれど、伝わる人と伝わらない人がいる。プロや役者がダメだったのです。普通の人で、いつも全然できないという人が伝わったあたりから、考えが変わった。

私の場合は、体のことはスポーツで、時間感覚があります。今思うと、音楽に役立っている。だから、最初は、何でそんなに体のことや呼吸のことを言うのだろうと、生徒にそういうタイプが増えなければ、わからなかった。今でもプロを見ていたらわからなかったでしょう。皆、健康だし踊れる。

T:芝居を始めたころ、役者が音大の先生のところにレッスンに行くのです。そのころは、耳は聞こえてきたけれど、声はこういうふうになるまでは喋れなかった。そうすると不思議なんだなあ、声のいい人はどんどんよくなるけれど、声の悪い人は悪くなるのです。声が出なくなる。これはダメだと。
私も行こうと思ったけれど、ダメだと、そういうことがあった。これはすべりだしたら辛いなと。

F:腹式呼吸ひとつでも発声ひとつでも、それぞれにやられていることは、書いてあります。私のやったことも書いています。しかし、わからない。
実際に始めると、ひとつは学校教育ということで、優秀な先生が優秀な生徒の指導をして、そこのノウハウを普通の先生に教えても通じません。先生の能力もなければ、生徒の能力もないのが、ほとんどの場合、現状です。そこに対する答えが必要だということ。私も無理しているのですが、日本の音楽は、いわゆる欧米から降りてきている。それをおかしいと思っていろいろ変えている動きがあり、現場もかなり混乱している。その二点ですね。

T:混乱しているようですね。

F:その2つの線上でいくと、ワークショップの指導者あたりが、現実にその問題を解決にあたってきているということです。
体や呼吸から入っていっていくケース、それから言葉ですね。呼吸のことと体のことよりも、言葉ということを私は注目しています。
モノローグでは、声は言葉に伴うので、でもそこで、何か欠けてきたということです。

T:言葉と歌とのつながりですか。

F:もっと広い意味ですね。コーラスや発声を教えるようなことが中心になっているけれど、そこでの上達目標以前に、教える方はすごく大切な部分を抜かしているのではないかと。音大生もそうで、音大の人だと音がとれるところからスタートしています。音をとれない人もいます。トレーニングは、うまい人がうまくなるというよりは、まったくそうではない人が、よくならなければいけない。ただ、そういうことがきちんとできているかというと、より違うヒントやいいやり方がある。そこの部分においては、音楽の先生方と共有できる。音楽教育というより、声の教育、これはどこまで入れるかですけれど、国語や社会、体育も含めて、表現やコミュニケーション、ふれあいになってくるので、そんなヒントをいただいたほうが、と思います。

T:学校でうまく音がとれない、あるいは声が出ないという人が、音楽の時間に排除されている。これを金魚鉢というのですが、声を出さないで口をパクパクさせている。自分の教室にうまく歌えない子がいて、それが一生懸命声が出るように、個人的に指導した。そうしたらば、教育委員会から、音楽指定校だから視察にくると。そこでやってみせなければいけない。そのときに「お前は声を出さなくていい」と言われたと。
やっと自分の歌が歌えるかなと、本人も喜んでいるときに、こんなひどいことがあるかと、すごい喧嘩になった。
レッスンをしていると60歳くらいで、「生まれてはじめて覚えて歌いました」という人がかなりいるのです。それで、「私は音痴です」という。私は音痴は認めない。そんな無茶なというのだけれど、無茶じゃないと。喋れる奴が歌えないなんていうことはないと。

歌の方には大変失礼なのだけれど、音楽、日本の音楽教育は、歌は何だということがはっきりさせていない。
歌というのは、自分の中で喜びが湧き上がってきて、思いを発するとか、弾みながら踊りながら声を発するとか、踊っている奴を励ましながら声を発するとか、そういうことで声が走ってくるというのが、歌だと私は思うわけです。

日本人は、西洋音階に声をのっけていくということを歌だと思っている。
だから、歌というのは何だと、歌う喜びというのは何だというのを、子供たちに体現させることが第一だというのが、私の思いです。
これは理論という問題よりは、私の思い。それが、歌えたときに60歳になろうが30歳だろうが、活き活きして嬉しくて、本当に弾むのですね。それを見たいというふうに思う。音楽教育ということに、私はかなり外から見ているけれど、もう少し根本的に考えてくれないかなあという思いがあります。

F:海外に行ったり、外国人が日本人に接したときに一番気になるのは、日本人に声の根本の部分がないということ。技術っぽいのやうまいのはある。けれど、いわゆる日常やカラオケで楽しむ、そこにあるようなリアルなものが、表現に出てこないのに、何かしら表現が成り立ったような錯覚のまま進み、そこに意味のない基準がのさばっている。
そこはもしかしたら音楽界も、演劇界も私は知りませんが、自分がそんなに見に行こうと思わないのは、そういう部分が結構ある。
合唱団の先生が言っていたのですが、楽屋の中であれだけ活き活きしている子が、ああやって立って歌って規律になっているのは、ファシズムみたいなもの、それを壊さなければいけない。それが目的になっている自体、すでにおかしい。

T:舞台、芝居の中で歌が出てくるものは、たくさんあるわけですね。元の音符どおりにやると、大体の人が歌えないのです。だから、皆が一番歌いやすい音に、たいていの場合は下げてしまうのです。それで一番楽に歌える音で歌えと。それでなかったら歌でないと思うわけですね。
このごろはどうなのか知りませんけれど、地声で歌ってはいけないという先生がたくさんいるらしいですね。僕の独断で言えば、地声で歌わなければ何が歌だと。まったくの素人が歌うというのは、ソプラノとか何とか言っているわけではないのね。ふだん喋っているこの声がそのまま膨らんで、大きな力になってパーッと声になって広がってなるということが、一番歌える条件だろうというふうに思うのね。乱暴な話ですみませんが、そういうふうに私は思っているのです。

F:声楽家のやっている研修に行くと、違和感を持つことが多く、むしろ演出家の方がやられているようなワークショップというのは、わかりやすい。声も必要なのだけれど、声がなかったら違うもので伝えても、要は結果としての効果を最大限に見ていくからでしょう。だから、たぶんそれでいいのだろうということもわかる。

T:台詞のことでいうと、声のいい人は、台詞がたいてい下手なのです。そういってしまうと怒られますけれど、つまり声のいい人は自分の声を聞いてしまうのです。自分の中に響いてくるいい声を聞いてしまって、朗々としゃべる。とたんに言葉としてすべってしまう。話しかける言葉ではなくて、歌う言葉、歌ってしまうという歌の場合は、音楽という意味と少し違いますけれど、歌ってしまうというか、気持ちにおぼれてしまう。本当に語るというふうにならない。

F:声楽出身の歌い手、特にポップスに転向した人はいますが、本当はお客さんにもう少し通じていなければおかしいのではないかと思うのです。J-POPSを歌ってみたら彼らよりうまいのに、伝わらない。
心や感情を伝えるということは、発声そのものをすごく邪魔する要素がありますね。それが邪魔するのだから、仮に技術を勉強するとしたら、邪魔されたときに保つためでしょう。

お客さんは第三者としているから、伝わらなくなったらそれはさすがにダメだから、それを押しのけて通じるために必要。特に昔は、声が聞こえなければ、ホールとかひどかったですから、大きな声で大きな歌で歌わなければいけなかった。そのために何かしら声の条件があった。それがそのまま、一人歩きしている気がしますね。この前会ったトレーナー、芸大にいるときはイタリア人のように喋っていたと。そういうことが反面教師になっています。

T:本当ですよ。昔、シャンソン歌手の方がレッスンに来られたことがあって、シャンソンは歌えるのですが、日本語が喋れない。そんなことが信じられなかったのですが、なるほど、喋れない。しょうがないから、1音1音をシャンソンのつもりで歌いながら喋りなさいと言ったのです。「私はあなたが好きです」というもの、「わたしは」と全部1音ずつ。1音1拍が原則で、1音が押せていなければダメで、それをまずやれということで、そんな長くない間に喋れるようになりました。

MC:喋れないというのは?

F:伝わらないのではない?

T:いや、日常会話そのものが。小さな声でぼそぼそとは言えるし、途中でつまってしまって、ちゃんと相手に伝わるような言葉が喋れない。とても不思議な経験でした。

F:日本の女性のシャンソンの流れの中に、声で歌えているし、きちんとできているプロなのだけれど、喋るときに「皆さん、こんにちは」とほとんど息にしてしまう。ひとつのスタイルがあるのですね。そこでは声を使いたくないのか、働きかけたくないのか、その人はいいのだけれど、そういうのを見ている中には、影響を受けてそうなってしまう人がいます。そのスタイルで。
一時、そういう人がいました。MCになったときに本当に喋れない。歌も息だけにして、マイクをかぶせてしまって全うな声を出さないのです。声を出すのがいいのではないのですけれど、おかしい。息声でも、マイクがあるから聞こえなくはないのですが、それは働きかける力が全然ない。ただ、日本にはそれがまたいいというお客さんはいるのだろうなと思った。

T:私が小学校中学校の先生と会って、一番感じるのは、歌に言葉があるということがほとんど頭にないということです。言葉そのものをちゃんと語っているということがあまりない。だから、私が聞いていると、歌っているかもしれないけれど、喋っていないよと、歌は一体何なんだろうと。
イタリアオペラには、はじめに感動と同時に、ショックを受けたのですけれど、何というか、たとえば「オテロ」でデズネモーナが死ぬところがあるでしょう。死ぬところで、演劇だったら死ぬところで「柳の歌」を歌うのだから、声絶え絶えのはずなのが、ものすごい勢いで歌うではないですか。

私は演劇の人間だったから、はじめに見たときにあっけにとられて、そのうちに人間というのはこんな素晴らしい声がある、この声を聞けーというのが、イタリアオペラだと思ったのです。これは言葉の意味というよりは、声そのものの力を聞くものだと思った。ドイツリートはそれとは全然違うと思うわけですけれども。そういう意味でいうと、日本の歌を子供たちに歌わせるのに、言葉というのは頭の中にない。と同時に、言葉をどう理解するのかというのは足りない気がします。

「夕焼けこやけで日が暮れて」と、皆、直立不動で歌っている。このごろ仁王立ちで後ろに手を組んで歌っているという人が多くなってきた。でなければ、膝をそろえて直立不動でまっすぐ立っている。
後半になると「おーててつないで皆かえろう」、なぜ皆、棒立ちになっているのか(笑)、しょうがないから「おててつないで」からもう一回やろうと、そうすると、「おーてて」、言葉を聞くと、そういう言葉ではないんじゃないのと。そういうのが、言葉として言えば、今お手々をつないで、帰りますという歌であって、「皆かえろう」というときはどういう手か、相手に手を求める、あるいは手を差し伸べる、走りよって手をとるというようなアクションがあるわけですよね。

それで「おーててーつないで」と手をつないだら、歩かなければいけない。そうするととたんに声が、まるで変わります。そういう弾み方、それで元に戻って頭を柔らかくする。すると、いきなり「夕やけこやけで」、一体これは誰が歌っているのだろうか、子供です、子供は一体何をしているのだろうか、皆遊んでいるわけですね。遊んでいる最中に、夕やけがきれいだなと思った記憶があるかというと、30人くらいいるうちの、たいてい1,2人、ありますというのです。

僕はそういう記憶がない。たとえばメンコをやっていて、暗くなってきて、地面にすりつけなくなっても、そこでやっているわけでしょう。夕やけに気づく子供なんているのかなと。そうするとなぜ「夕やけこやけ」なんだろうという質問をするのです。
すると、皆、「お腹が減ったから」「早く帰らないとお母さんに怒られる」とか、「鐘がなるからじゃないかな」と気がつく子がいる。
「鐘がなったら何で帰らなければいけない」と聞くと、「わからない」というのです。じゃあ、あの鐘は何の鐘だというと、それは時刻を知らせるのではなくて、お日様が沈むのを知らせる。お日様が沈む瞬間をなぜ知らせるのかというと、お日様が出て光を浴びたときに、命がはじまって、1日を生き切ったときに、お日様が沈むときに、人は命が終わるのだと。その後は、夜というのは、人は生きている時間ではなくて、魑魅魍魎の世界です。人間は、死んだと同じに、そーっと生きなければいけない。

子供が日が暮れてもいたら、神隠しにあってどこかに行ってしまうということもある。
その人の生きはじめる瞬間と、僕たちからいえば1日ですけれど、命が終わる瞬間を知らせるのが鐘です。あの鐘が鳴ったら、いいも悪いもなく、帰らなければ死んでしまう。ということの中での、あれは鐘で、鐘が鳴った、帰らなければいけないと、中村雨情が生きていた頃には、そういうものがまだ生きていた。
これはお日様で出るとはどういうことかとか、「こんにちは」とはどういう意味かということと、全部つながってくるわけです。そういう息遣いの中で、ボーンと鐘が鳴っているのを聞いたら、ちくしょう、もう一枚とりたかったと思っても帰られなければいけない。上を向いたら夕やけ。という、ひとつの考え方です。

子供の体がどういうふうになっていてどういうふうに弾むから、こういうふうに言葉が出てきて、このリズムがどうなるかといわれたら、まあそういうことですね。
そういう言葉が、歌には言葉がある。言葉が生まれるためには状況がある。その状況に生きるということばなければ、言葉は生きてこない。
こうなると演劇的になりますが、言葉をそういうふうに受け止めないと、私はダメだなと思う。
「真っ赤だな」という歌がありますね。「真っ赤だな 真っ赤だな つたの葉っぱが真っ赤だな もみじの葉っぱも真っ赤だな」と。「沈む夕日に照らされて 真っ赤なほっぺたの君と僕」、君と僕が出てくるのだから、これは一人で歌っているのではないだろうと。2人で組んで、「つたの葉っぱが真っ赤だ」、こっちの人が「もみじの葉っぱも真っ赤だよ」と、2人で掛け合いしてやっていくと、歌は生きてくるというのがまず第一です。

それからこれは、作曲者に文句を言いたいのですが、「沈む夕日に照らされて 真っ赤なほっぺたの君と僕」となっている。君のほっぺたが真っ赤なのはわかりますけれど、自分のほっぺたが真っ赤なのはわからない。これは読み方が違うと。
これは「真っ赤なほっぺたの君」と「僕」が、真っ赤な秋に囲まれていると、詞としてはそういうことだと思うのです。ところがあの曲だと、「真っ赤なほっぺたの君と僕」が夕日から見ると、「赤い」ということになってしまうから、相手に対する愛というか、一緒にいる喜びが出てこないと思います。

というのは、言葉からずっと見ていくと、そういうことが出てくることがたくさんあるわけです。これは、歌い方よりも、日本の作曲が明治時代のつい最近に至るまで、山田耕作先生あたりが一生懸命やっているわけですけれども、なかなか??に成りきらないというのと裏腹の問題です。言葉をもっと音楽の人が考えてもらいたい。国語と、昔でいうと唱歌になりますが、もっと結びつけてもらわなければいけないということを感じます。
言葉からはじめると、お年寄りでも歌えるようになるのです。声の発声法からはじめると、60歳以上の人は声はそんなに出なくて、歌えません。発声法をいくらやっても歌えないと思いますね。

F:日本の場合、といわざるをえないのは、日本の音楽と西洋の音楽との間に、西洋の言葉というのが当然ある。英語の勉強をして、マザーグースなんかをやって、歌う。少し素直にいけますね。日本のは、私は演劇にもオペラにも入りきっていない分、特にミュージカルはいまだに特別な違和感を感じます。結局上から降りてきたといったら月並みになりますけれど、全体の統一感なり、何かしらの基準をそこに立つものよりも、それをコーディネートする人、それを演出家ともいえないのですけれど、それを何かに動かされて、それで成り立っているようにつくられている。客も本当に感動していなくても、最後に拍手をしている。プロセスが飛んでいっているのを感じます。

この前も愛知万博に行って群読を見てきましたけれど、あれを群読というのなら、高校生の群読のほうがいい。大きな声が出たり響いていたりはしない。日本のミュージカルなども、どうしてこれだけ声で働きかけてこないのだろう、これだけ大勢の人がきちんと立派な演出家や舞台がついていて、すぐれた役者がいる。その状況に客は拍手もするし、ブラボー、アンコールなどと言ったりする。
だからまず、自分を疑いますね。その感受性のない自分というか、新聞記事に「○○知事、号泣」と書いてあったら、どこに号泣なのだろう、やっぱり私は心が貧しいのだなと。

ただ、そういうことは私だけでなく、それぞれに思うことは思っている。
歌を歌うときに歌声をつくったり、演技をするときに演技をすることで、私は表現から見ますから、二流にみてしまう。別に歌う必要がないのに歌うこともないし、踊る必要もないのに踊る必要がないんじゃないのという。それはやっぱり外国のものを生で見ていたときには違和感がないのです。一人ひとりがあたかも、その役であるのではなくて、そう生きていたように体が動いて踊り出したり、イタリアオペラはちょっと極端ですけれど、ミュージカルくらいだと、そこで歌うのだろうなと思って、歌が出る。そのプロセスが見えるから安心できるのです。それが演劇なんかも日本の場合は、ずれていると思います。

T:日本にも、歌舞伎があって、台詞から歌になるというのがあるわけです。そこまで高まる何かがあるから歌になるというのがあるのです。

F:歌は、確かに言葉だけではないなと。演劇の方が言われているみたいに、言葉が全然聞こえなくても意味が理解できなくても、言葉のバックにあるニュアンスなりでも伝わる。
たとえば外国語のものをまったくわからない言葉を聞いても感動する。歌として聞いた場合、それがもし言葉として朗読されたら感動しないとしても、音楽の中で、何かしら声や言葉以上の組み立てがきちんとあって、これはこういくな、こういってくれたという期待と効果がある。2番になると、これはまた行くんだろうな、まだかなまだかな、あーサビだという。それが日本のを聞いていても、ない。

T:それは、別の言い方でいうと、ドラマティックという意味。それが、なかなか体にしみてこないというか、ドラマティックな発展の仕方が、向こうのオペラにしても何にしてもあるわけですが、そういうのが身についていないというのが、ひとつあると思うのですね。
たとえば日本で、現代劇というのは口語の芝居でしょう。口語の芝居というのは成り立つようになってきたのは、最近なのですね。最近といっても戦前ですけれど、いろいろな芝居の中で、ドラマということの関心が出てきたのは、戦後なのです。戦前は、ドラマという考え方自体がない。

F:ドラマトゥルギーということですか?

T:そういう意味です。ドラマトゥルギーというと、起承転結とか、構造のようにとってしまいます。そうではなくて、ひとつの劇的なアクションがどう発展して、どこでどう膨らんでどう爆発するか、本当に体感としてのドラマトゥルギですね。
それがないというか、劇作家の中でもそれがわからなくて、1945年から1960年くらいまでの間、三島由紀夫とか木下順二とか、外国のを構造として、いろいろ見つけようとして、苦闘してはドラマになっていないということの繰り返しだったといってもいいのですね。

それが、1970年代から80年代になって、やっとドラマティズムというものが、若い劇作家の中で、ある程度身についてくる。アメリカのテレビドラマなどが入ってきて、通俗的ではあるけれどそういう構造があり、そういうものが身についてきたといえると思うのです。
そういうのが広がってきてなればいいのだけれど、そうならないというのは、なぜ戦前からしばらくの間、ドラマにならなかったのかというと、要するに小説の舞台化、結局は物語だったのです。物語とドラマが何が違うのかというと、結果としては、あなたが今言われたことのようになってくるわけです。

結局、歌の中にドラマティズムがない。物語、歌というものは、両方の面がもちろんあると思いますけれど、物語でいえば、ここで感動するといえば、そこを歌えると思います。しかし、そういうことではなくて、何か自分の中で矛盾が生じたときに、それが頂点にきたときに爆発する。そういうあるドラマティズムみたいなものが、ヨーロッパの歌には、基本的には流れていると思うのです。日本の場合は、平坦であり物語であって、そういうドラマティズムはない。だからそういう場の仕方というのは、なかなか出てこない。いまだに続いていて、ある時期、そういうものが出てくるかなと思った時期があるのですけれど。

F:アングラの頃ですか。

T:アングラからもう少し後ですね。アングラは試行錯誤だったと思います。その後、また一時、歌手で、自分で曲をつけるようになる人が出てきて、これで変わるようになるかなと思ったけれど、逆にそういうのは、よく言えば抒情、そういうほうにいった。今大きな声で、音響はでかいけれど、ドラムティズムの大きさはないという感じはしますね。

F:つかさんとかに、何となく若者たちもひっぱられた。ただ歌になってしまうと、基本的にストーリー、要は詞のイメージの読み込みで、日本のポップスは聞かせていますね。

T:読み込みか(笑)。

F:だから、ストーリーがわかってしまったら聞けないと。
ミュージカルだからストーリーでもある。でも向こうのはストーリーではなくて、声だけでもすごいし、声が合わさるだけで人は引き込まれるものがある。一人ひとりも、一つのせりふも一行の歌も、声もそこで成り立っている。それは技術としての差も、文化としての差もある。
日本のは、やたらと余計なことばかりつけすぎていて、演出でもたせている。カラオケに近いですね。

先生の本に、セクシュアリティという言葉を使わせていますよね。私はそういうイメージにはあの言葉にはなかったのですが、またその言葉がいいのかどうかも別ですけれど、先生がいわれているあの感覚のものが、客とステージが一体になるのか、あるいは舞台でそう起きたことが客が受け止めるのか、そのレベルではじめて人が集まりたいとか、見に行きたいとか、感動したといえるのでしょう。
今、私は本当に、日本ではライブもコンサートも演劇も見ない。ところが外国にいって、ロビーラウンジなんかでちょっと歌っている歌い手をずっと見ているから、心がないわけではなくて、それが起きない。

T:一人、抜群に声のコントロールがうまい人がいて、5,6人座っていて、今度はあいつを狙ってというと、声がパシッと背中に当たるのです。
僕もそういうものを見たことがなかったから感心しました。すごいんだなと思って。すっかり感心して、次の組をやろうとなって、聞いていた人たちはすーっと立ち上がって異口同音に何て言ったかというと、声は確かにきたけれど、話しかけられたという感じは全然しなかったと。
それを聞いたときに私は、殴られたようなショックがあった。それまで僕は、人が受け取る、僕が人に話しかける。声が届くことと話しかけるということは同じことだと思っていました。

ところが声が届くということと話しかけられるという感じは違うんだということを、そのとき突きつけられました。
聞いてみるとよくわかる。今聞いてみるとそれははっきりしていて、声がこの辺にきたとか、この辺にきてとまってしまったとか、通りすぎていってしまったというようなこともあるし、確かに私に声が来ましたと。話しかけられたと感じられるのは、声が来ましたということ自体、感じないのです。
呼ばれたと思うから、ハッと返事をする。それが声が聞こえたからには違いない。だけれども、声が聞こえたから返事をするのではなくて、呼びかけられてから返事をする。その呼びかけられたという感覚が、どういうふうにビビットに起こるかというのが、私は勝負だと思うのですね。

プロというのは、お客さんに向かって、そいつに投げかけられる人が、プロだと思います。
芝居だとト書きに客席に話しかけると。役者を見ていると、客席に話しかけていると、お客さんに話しかけている人と違うのです。お客さんに話しかけるというのは、必ず誰かに向かって話しかけている。客席に向けてというのは、漠然として声が宙に散らばっているのです。
本当に客に話しかけるということがあったときに、こういう言葉は力になる。
シャンソン歌手でちゃんと人に話しかける。私は感動するときがありますけれど、話しかけているという人と、歌って聞かせているというのは、決定的に違うように思います。

F:とりあえず向こうに追いつけ追い越せになると、どうしても声量をというのが目的にもなってきます。私がはじめたときには、私自身できなかったからですけれど、美しく響かせるということはやめようと。これは、元々声が美しくて響く人に、そこだけ見たら、トレーニングでは、かなわないと。

T:それはそうですよね。

F:じゃあ、そうでない歌い手とか役者、ロックから入ると、声も悪いし歌も下手なのに、人をひきつけているじゃないかと、ここに何かあるだろうということでした。だから、学校とかレッスンとか、トレーナーにつくと、そのシチュエーション自体が間違ってしまうから、すごく大変でした。

T:枠ができちゃうのね。

F:そうなんです。また、それを求めにくるところにトレーナーに絶対に正しいことを教えてください、いい声にしてくださいという、その上達目標自体が間違い。間違いといったら変だけれど、でもそれをできないと、トレーナーはそれを求められているからという部分で狂う。そこが声は、皆よくなったり、歌はうまくなるのだけれど、声がいい、発音がいい、音程やピッチがいいと聞かれるくらいでおわる。本当にいいものを聞いたときには、私たちはそんなものを聞かないですよね。歌い手の発音や声がいいとか言わないわけだから。

T:そうです。感動しているときはそんなことはいわないですね。

F:すごく伝わったというだけで、何も言わない。そう言われてしまうものが、レッスンの目的になっているというのは、異論のあるところです。レッスンやトレーニングは器をつくっておくのだから、現場に行ったときにそんなことを忘れてできるだけの体や声が、あればあっただけいい。
日本人の場合は、本来の目的や目標というのを、元々つかんでいるわけではないから、一生かけてやりたがる。声のいい人ほど始末が悪い(笑)。

T:役者は、有名な歌い手のところにレッスンに行って、本当にそれは不思議なことで、声のいい人は、どんどん声が確かによくなっていく。ところが声が悪い、声がうまく出ない人は、レッスンに行くたびに緊張してきて、喉を一生懸命力を入れるでしょう。ますます喋れなくなって、おしまいに声がよく出なくなってしまうのです。俺みたいに言葉がうまく喋れない奴は、ああいうところのレッスンに行ってはだめだと。声の出るということは、全然別のことで始まるのだと。その上でああいう訓練を受けるのならいいのだけれど、と痛切に思いました。

F:歌は特にそうですね。たまたまそういうアンテナを持っている人しか伸びない。そうではないと、そこで苦労して同じことをやれたとしても、これは合わないだろうなというところもある。そういうアンテナを持っていて歌える人はいるのだけれど、本当にそれは何十万人に一人、あとの二流、三流はそれに比べたらどうしようもない。

声が出るだけとか、高いところだけが歌えるということなら、かえってないほうが、早く通じないことに気づける。
なまじ声がよかったり歌えてしまったりすると、相手に伝わっていないということを知らないままにいく。周りが声がいいですねとか歌がうまいですねとかいうから、なのになぜ自分はプロになれないと、ジレンマに陥る。客になぜ伝わらないのかという疑問は、日本の場合あまり出てこないのですね。周りが褒めてしまうせいでしょう。逆にできない子は、私も今になったからわかるのですけれど、チャンス。

先生って自分のタイプにあった子しか、日本の場合は伸ばせない。そうじゃない子はやめてしまうから、結局どんな先生でも自己検証しない。うちは一人の生徒に複数の先生がつくから、矛盾を起こして、いろいろな問題が私のところに当たってくるのです。どんな大きな学校でも、ひとりの生徒のある期間に対して、一人のトレーナーしかつかないから、検証ができないですね。
もっと伸びていただろうとか、あるいはもっとダメだったのを、伸ばすことができたからよかったというようなこと。それは一切比べられないままで、ヴォイストレーニングは行われています。

T:本来からいうと、一人ひとり全然違いますものね。だからこの先生の真似をするということで何かが成り立つとは、全然思わない。

F:そうなんです。真似したらその先生より、結局うまくいかないですからね。

T:TAさんという名優がいました。この人の言い回しを真似しようとする若い連中が入ってきました。名優だから真似したくなるのですが、絶対にダメになるのです。なぜかというと、今やってくる人は、大体声がよくてスラスラ喋るでしょう。ところがTAさんという人は、有名な悪声なのです。声が悪いのに観客に通って、感動させるように喋るには、どうしたらいいかというので彼はいろいろ苦労するのです。

あれは特殊な発声法だと思うのですけれど、こういうふうに喋るのです。中に響かせて、「しばらくだったねえ」とこんな具合にやるのですね。こんなふうに鼻に響かせたりこっちに響かせたり、いろいろと共鳴に苦労されたのだろうと思うのですけれど、こういうのをいい声が出る子が真似したがる。若いころに、小劇場でやって、TAさんは二枚目ができなかったのです。名前は忘れてしまいましたが、スタイルもいい、声のいい、颯爽たる二枚目がいたのです。それが戦争に行って、生きて帰ってきて、舞台に立っていた。見に行ったわけです。確かにいい声で朗々としてスタイルもいい。

けれど声そのものは、何というか、台詞ときたら浮ついていて、きれいに朗々と通ってくるけれど、それはTAさんのものと問題にならないですね。声そのものにリアリティがない。TAさんというのは、そこを必死になって越えていった。片方にそういう人がいたからかもしれませんが、その人がつくり上げた声というのは、歌い手の場合はそういうわけにはいかないでしょうけれども、声が悪いのに訓練して一流の歌い手になったとはいかないとは思います。けれど、しかし真似をするということは、こっちの体と向こうの体とは、まるで違うのですね。

F:歌い手も本来は役者の要素のところでやった上で、歌に入らないと。実際に長くいると、ひきつけている歌い手は、矢沢永吉でも何でも、いい悪いではなく、もうあの人だという声がある。あれを真似してしまうと、あいつだといわれてしまう。
私も本には書けないのだけれど、本当のヴォイストレーニングとは自分がやれば正しいのだけれど、他の人がやれば間違いになってしまうもの。

T:それはそうです。他のレッスンも皆そうですけれど、僕は体に関係することは皆そうだと思います。

F:だから、いろいろな生徒が来たのは勉強になった。素人というよりは、まったくできない子がいる。そういう子が合宿に行くと、一番出番が少ないのに、最後に一番、心に残ったとかいうこともある。
場というのはすごく正直で、私だけが感じているのではなくて、他の人たちも、そういうオペラがいいとかクラシックがいいとかいう頭を全部抜きにしてさえ見れれば、素人だからいいのではなくて、素人なんだけれど伝わる。

ビギナーラックもあるのでしょうけれど、伝わる状況とか何かのときにすごく働きかけて、皆がすごく感動したりということが起きるわけです。そこを本来はプロというのは演出できなければいけないのですね。それを瞬時に持ってくる。そうなってくるとずいぶん耳も変わってくる。
私は石原裕次郎さんなんかは前は聞かなかったし、本人も歌は下手だといっている。確かですが。しかし、その歌に男の色気や銀座とか海の潮の香りがしてくる。そこからいうと真似できないなと。

トレーナーがああいうふうに歌えるかというと、真似はできても、伝わるものは。それは時代とかポップスとか関係なしに、その人にどれだけ一体化しているかというような説得力ですよね。だから、マイクもあるのだから、声を上げる必要もなくなり、だからトレーニングということが内側に向いていくのだろうし。

T:日本の民謡で、東北で有名な大家がいたのです。それで聞いてもらいたいと言うと、何を聞いてもらいたいといったのかといったらば、自分が弟子を育てていて、一番弟子がいると。それを一所懸命教えていて、だけれど、何か違うんだ。何か違うけれど、何が違うのかがわからないと。だけれども、確かに他の人が見て、この人はうまいし、自分も唄はうまいように思うけれど、何か違う。何を言っているのかわからないけれど、とにかく聞かせてもらいますと。たとえば、「(唄)まつしまーの」、今、非常に大雑把にやっていますけれど、こういうふうに上に響かせる位置がほんの少し微妙に違うのです。それひとつで、リアリティが全然変わってしまう。

僕は聞いているとこうだと言って、そうだと言うので、もう一回やってみる。ところが同じポジションがとれたとしても、声そのものは違うわけです。人が違うから。同じポジションがうまく響いたとしてもそれは違う。違うとすると、リアリティが、その人にとってのリアリティがどう出てくるかというと、微妙に違うわけでしょう。そうするとポジションが正確になったということでは事が片付かないと。
そこではお師匠さんと同じポジションで声が出たということでいいのかという問題がついてきた。そうすると、本当に声を受け継ぐとか何とかというのは、どこがどうなるのかというのが、すぐ結論が出るというような問題ではない。

師と同じ声が出ることではなくて、その人のリアリティを探り当てるために必要なわけですよね。そういうのは僕は専門外だから、他の方々がどう思うかわかりませんけれど、私には面白い体験でした。

F:すごく難しいですね、というのは時代によっても地域によっても何を基準にするのかというのは。最初の基準は、声楽、声楽の中でもずいぶんと違いますけれど、まだそこに目的を当てている人は、教えやすいのです。それがなくなってしまうと、すごく高度な総合判断がいります。
ただお客さんが要望するものに頼ると、弟子は師匠と同じものを求められてしまう。私はよく言うのですけれど、北島三郎の弟子といって、それは北島三郎の前座でやるから、客は似ているほど拍手をくれるから、そうすると絶対に師匠を越えなくなってしまう。そういう構造ができてしまうのですね。

T:物まねだもんね。

F:そこの内輪でいるから、それは飛び出すしかない。落語なんかもそうですね。師匠のものを完全にコピーして、邦楽でも、全部口移しでやっていく。その先の問題ですが、それは似ている人にはよいが、最初から似させない方がよい人の方が多い。

T:それは大変ですよ。お師匠さんが歌う。お弟子さんがそれを真似する。そうすると違うというのだけれど、何が違うのかがわからない。お師匠さんはいえないわけです。何が違うかというと、発声方法が全然違う。お弟子さんたちは、学校で習ってきた音階で、お師匠さんのメロディをとるのです。だからメロディだけとれば間違いないのだけど、それが元々違うから義太夫にならないわけですね。

一体それは何が違うのか、お師匠さんの横で聞いていて、僕が何が違うのかを指摘する役になった。ここが違う、声の出し方がこういうふうに違うとか、そもそも呼吸法からやらないとダメだよとかなったり、3年くらいやって疲れて、こんな仕事はやっていられないと、僕の仕事はこれではないのだからと(笑)。結局、それをやれる人がいないのです。変な話だけれど、今考えてみたら、そこで僕はヴォイストレーニングをやっていた。邦楽のね。だけれど、たとえばこれは、度外視ですよ。

今の團十郎さんは声がだめ、台詞が全然だめ、あれが團十郎になるときにレッスンを受けているところのビデオを見たことがありまして、声の出し方が、言葉の感覚を必ずくっついています。これだけレッスンをやるのに、言葉そのものがここでクッとおしたらクッととまって、次にクッと出る、そういう言葉の感覚、相手とのやりとりの息と、そういうものとくっついているから、そこはクッとホワッととかそういうことを言っても、絶対にそういうことはできない。あの人はただ一生懸命、喉に力を入れてぐいぐい押すだけですね。この人の台詞はダメだなと。今、まだ海老蔵のほうが、ずっといいですね。

F:アンテナみたいなもので、小学校レベルの合唱団というのは、物まねのうまいような子ができたり、特に向こうの高い音を、日本の場合はそのまま原調でやらせるから。私は原調反対なのですけれど、そうでない人たちのそうでない歌い方が主流です。日本人は向こうの人たちほど集中力や持続心が、声を出して表現することにはあまりない。小さいころから。だから俳句や短歌のように半オクターブの曲で30秒くらい、10秒くらいで勝負できるものを徹底してやったほうがいいのではないかと。そこだけなら通用する子が、1オクターブ半から高い発声もやらなければいけない、一曲全部歌わなければいけなくなってしまうというと、本当にかたちだけになってしまって、面白さ自体がなくなってしまいます。

T:僕からいえば声って?、言葉って?、そのもの自体の持っているリアリティがそのまま生きてこないとしかたがないですものね。今おっしゃったように、それだけの幅ならばリアリティがあるというのなら、言葉でやることが大事なのであって、それを外れたところで声を外してみたり裏返したりしても、しかたのないことですよね。

F:だから、遊んでいるときの声や、そういうところ、楽屋なんかで出している、その人の魅力のある声が一番。トレーナーでなくても電話を聞いたら誰の声なのかわかるでしょうと。それがベースだから、それと全然違うところで作品ができるのかというと無理な話です。

T:本を拝見して大変賛成だったのは、出しやすい声から出すということ。それでなかったら、言葉というのは成り立たない。それから、息から声にしろとおっしゃたでしょう。あれはすごく大事なことで、今、私がたどりついたのはそこなのです。息をちゃんと吐くことができなければ、どうにもならないと思います。

F:誤解されて、今度は息で出す人とかも出てくるのですけれど(笑)。

T:(笑)。それでも息がちゃんと吐ければ、声になっていくけれども、声だけ出そうと思って一生懸命やっていても、絶対に喉を詰めてしまうだけで、どうにもならない。

F:役者と声楽を出た人の違い、ミュージカルの子も一緒にやるからわかるのですけれど。役者はかなり無理してもかすれても演技はできますよね。

T:はい。

F:かすれた声のほうが心情が出る。ところが音楽になると、高いところを出さなければいけなくて、声を響かせないと、音として高さがとれない。
声楽家はすぐに声が荒れないように、高いところを出すための発声法を工夫してしまう。私が最初、舞台のようなもの、演出のようなことをやったときに、気づいたときに、伝わる人は息を出していると。
黒澤映画を見てみると、声で喋っているのではなくて、すごく息が聞こえているんだなと。ここは外国人のオペラやミュージカルと結構似ていると。日本人の歌は全然息が聞こえない。これは説得力が違うだろうなということ。さらに、息を吐いて高くことばを歌える発声を、日本人はできません☆。

T:オペラの演出で、僕は、とにかく子供たち皆バラバラと出てきて、いきなりバーッと歌えと。声がずれてもかまわない。そういうこと自体でも子供であるのだからというやり方をやっていたのです。そうすると結構、皆弾んできて、ポンポンと。
ところが7,8年前になりますが、もう一度「夕鶴」を演出してくれと。まったく新しい、美術的にいうと新しいつくりをやったのですけれど、驚いたのが、子供がダメなのです。

僕ははじめ、歌をやらないで台詞の稽古からはじめたのです。というのは、声をそろえて歌うように、だから、「おばさーん おばさーん 歌うとおてけれー」とやるのです。そのときは活き活きしているのに、今度は歌になったときに、皆、パタッと立ち止まって直立不動になってきちんと並んで、「おばさーん」と(笑)。
そうではないんだと、子供が遊んでいるのだから、バーンとやる。それで子供たちは少しはよくなったかなと。ところがまだ皆こうなっている。戻ると全部先生たちが直してしまうのです。先生がそれでは声がそろっていないとか、あなたはもっと声が弱いからちゃんと出すようにしなさいと、子供にならないのです。これは子供の問題ではなくて、指導者の問題だと。

F:教育の問題ですね。

T:何がその舞台で一番大事なのかをわかっていないで、ただ声をそろえてきれいに歌う。そのためにきれいに横に並ぶでしょう。子供がきれいに横に並んで、横を向いてしゃべっていたのでは、どうにもならへんというようなことがありました。

F:教育というのは怖い。うちに来る人でも、とりあえず好きな曲を好きなように歌ってくださいといったら、いきなり唱歌とか歌いだす人がいる。そんな昔に教室でやったようなものではなくて、カラオケで好きにやっているようなものを歌ってくださいというのですけれど(笑)、こういうところに来ると、そういうものを歌ってはいけないと思うのか、そのときの歌い方は、学校でうまく歌えなかった歌い方だから、やってはいけないことが全部入っている。

T:ハハハ(笑)

F:だから、私も音楽教育なんかあまり受けていなかったつもりだけれど、悪い影響だけはすごく皆受けている気がします。楽しかった覚えもないのです。

T:いつだったか忘れちゃったけれど、武満徹さんが吃音、どもりに戻ってみろという文章を書いたことがあります。スラスラスラスラいくのではなくて。そうするとそこにリアリティが出る。どもりの人が喋ろうとして、詰まっていて「おおおおおいっ」という、「俺」なんて言っていたら間に合わないから、「すすすすすすー好きや」ときたときの、バーッと出てきたときの迫力というのはすごいですね。
子供のころから何人かどもりの友達がいたけれど、僕はずっと感心して、言葉に非常に力がある。一言がバッときたら、かー??を忘れた??みたいにバッと言葉が成り立つというか動けなくなるくらいに、ちゃんとつかまえられる。ところが数年前からどもりの人のレッスンをやってみると、今のどもりはそうではない。

F:そうですか。

T:そういう人もいるけれど、少ない。というのは、今は時代病ではないかと思います。つまり「うぁぁぁ」とつっかかるけれど、「私はああでこうで、こうこうでああでターッ」っと喋るのです。すごい勢いですよ。俺みたいに喋れなくて、やっとこ喋れるようになった人間が、こんなに喋れる人たちの前で、何をレッスンする必要があるのかと。結局、追い立てられている。

ゆっくり喋ればね、というのは、短い時間で早く喋らなければいけないと思っているでしょう。そうすると、ひとつのセンテンスがあるとして、最初の音を喋ろうとしているときに、もうおしまいで喋ろうとしているわけです。それはつっかかります。
これは役者にもある病気ですけれどね。役者は台詞を知っているから、こう喋るときに、最初に喋る台詞自体をちゃんと語らないで、全体をいっぺんに喋りたくなる。そういう役者がたくさんいて、これは一流になれない。

音というのは、僕の実感だけれども、日本語というのは、1音1音出てこなければダメなので、1音1音出てくる音を、時間の流れに従って並べていかなければならない。それをちゃんとやらないと言葉にならない、いまだに私は実感していることです。

F:たいていの一流の人はそうですね。声をつかんでいて、それをきちんと動かすという、たとえられないのだけれど、一流のバッターがバットにボールをのせて運ぶというようなプロセスらしいけれど、ほとんどの人は、声が出てしまう人ほど、とれないですね。

T:ああ、そうでしょうね。パッと球が当たったのを運ぶ感覚ですね。0.何秒のことですけれど、あれと同じことですよね。声をコントロールするのは。

F:私だったら、濡れたビニール袋とかだったらこう、振り切れる気がするけれど、そんな感じなのかなと。普通の球だったら、一瞬ですからそれは無理ですけれどね。

T:たぶん、パッと球が当たって、こちらに球が食い込んで、食い込むのを運んでいって、これがこう離れていく。この間が高速道路みたいに感じられる。

F:そういうのがなければ、ファウルにしたりとか、狙ったところに打ったりとか、そう簡単に角度をつけられるものではない。それは、F−1のレーサーでも違う。子供たちも、きちんとしたものがまとまらないと、声に出せない子がいますね。そういう子が音楽になると、すごく劣等生になりますよね。

T:それがある集中の深さにいって、あるまとまったときにはすごい声が出る。僕の知っているかぎりでいうと。ところが先生たちは、もっとずっと浅いところで、一生懸命追い立てるというか、急くものだから、そういうところで皆が出ている声と付き合っているというのは、照れてしまったりしり込みして全然ダメ。徹底的に一人になって、集中が深くなって息が深くなったときには、すごい声が、すごい声というのは僕の場合、リアリティがあるという意味で、大きいとは必ずかぎりませんけれど、そういう子がときどきいます。

F:国語の授業になってしまうのでしょうけれど、いわゆる日本の学校というのは、皆で読んだり発表したり、優秀な子が答辞を読んだりして、そこに全部リアリティがないですね。あるいは選手宣誓みたいに、精神性、大きさとか気構えのようなこと、先生方はまったくチェックしないですね。

T:日本というのは本当に珍しく、国語の教育をしないところだと、言葉で喋る教育をしないところ、まったく僕もそうだと思います。
本当に今レッスンしながら、本来からいうと、これは子供のときにやることを、今意識的にあなた方にやるしか仕方ないからやっているんだよということになります。

F:幼稚園のときまでは、声を出す、かけあったり共鳴したり、そういう世界が成り立っているのでしょうけれど、学校に入るとおざなりですよね。

T:たとえば「大きなくりのー木のしたで」、これを言葉で言うと、「大きな」となりますね。「お」が2つあって、「おー」と伸びるのではなくて、2つの「おお」があって、2つめの「お」が1つめの「お」より大きくないと、大きくならない、日本語としては。その「おおきな」というのに、時間がかかりますね。

F:わからないでしょうね。

T:あの歌は、「大きな栗の木の下で」という歌でしょう。あれを聞いたときに、異様な感じがしてなんだろうと思ったで、多少調べたのです。大体、栗の木の下で遊ぼうという子がいますか。まず花が咲いているときは臭くてダメだし、秋になったら、栗のイガが落ちてくるのだから、危なくて、栗の木の下で遊ぼうという子がいるわけがないですね。あれは、調べてみたら、マロニエらしいです。

F:ほう。

T:大きなマロニエの花が咲いている下で、あなたと踊りましょうと。これなら話はわかります。だけれど、大きな栗の木の下って、大体大きな栗の木を見たことがある?、そういうのはあまりない。仙台にすごい栗の木がある。一抱え以上あって、700年くらいあるお寺の真ん中にあるのですけれど、4月くらいになって花が咲くとお寺に入っていかれないのです(笑)。だけれど、いくらなんでも、大きな栗の木の下ではないでしょう。少なくとも日本語として。

F:ニレの木とか(笑)。

T:今、大きなマロニエに変えて、歌っているのです。それだけで皆、歌い方が変わりますね。これはいろいろあるのですけれど、声と関係ないからやめますが、「あなたと私」という振りがありますでしょう。あの振りがはじめてみたときに私はびっくりした。何という自閉的な歌だろうと。
「あなたと私」でしょ、「仲良く遊びましょう」でしょ、仲良く遊ぼうという気がするかというと、自分を抱きしめているような気がしますという。そういう振りを全然無自覚でやっているということが、僕には理解できないですね。

MC:歌詞もそうだし、変な歌ですね。

T:あれは元々がアメリカからきた歌で、もっと元はヨーロッパらしいです。大きなマロニエの木の下で、というのは、ひょっとしたら、こうやって踊るような。

F:ロシアのような。

T:振りが残ってきて伝わってきているのかもしれません。けれども、日本語でやったらおかしいです。仲良く遊びましょうと、どうする?と聞いたら、皆、手を出しますものね。そういうことを含めて、そういうふうに体と言葉がぎくしゃくしていたら、それはもう声は出ないですよね。

F:無意識に受け継がれて、小さな頃ですから抵抗なく、何かしら何かがあるからまた受け継がれていくのでしょう。そこですでにギャップが、誰もチェックもせず、形だけが動く。大きな荷物と小さな荷物を持つような演技をやらせる。今の子はあれができない。本当に大きな石でも持ってこさせないと。大きなという振りをして、小さな、軽いなとやる。すごいそこは重いんだよ、グッとやってごらんという実感がないですね。

T:僕はそういうときはたいていおんぶをさせる。歩いてごらんと。4人で1人、こういうおじさんを持ち上げるとか、実際にやらないと。そうすると呼吸が変わりますものね。

F:そういう負荷をかけたり何か刺激を与えなければ、今までであれば生活の中から、とり出せた。そうは言っても農作業をしているわけではないから難しいのだけれど、プロとアマチュアの子を見ていて、一番違うのは、体の動き。パッと宅急便屋さんが来て、荷物を運ぼうというときに、プロの子はもう動いているのですね。ところが普通の子は動けない。誰かが指示したら動く。そこの差はすごく大きいなと。環境もありますけれどね。

T:体が動かなければしょうがないですよね。息がこう、流れ出て行かない。

F:今はそこに許可を求める、つまり指示待ちではないけれど、皆がやるからとか、周りをみる。先に自制が入ってしまって、苦しくしてしまっているのでしょうね。私のころは、何でも気づいてやってアピール、やって怒られたらダメとわかればいいやというくらいで(笑)。
今の子は、怒られることや声でいろいろと言われることには、すごく弱いですから、こっちもすごく気をつけて言わないと。普通で喋っているくらいでも、結構感じすぎてしまうような人もいます。だからそういう意味だと、声の経験自体がすごく少なくなっているような気がします。

T:そういう意味だと学校で、早く喋るということをせかせないでほしいと思います。ちゃんと一言一言が相手に届くように、息を深くちゃんと喋るというふうに、少なくとも学校の先生がそれだけ考えてくれることで、ものすごく違うのではないでしょうか。

今ものすごく早いでしょう、喋るのが。この間、大臣のを聞いていてびっくりしたけれど、どこの高校生が喋っているのかと聞いていた。これが京大助教授の何とかと、びっくりしたね。その次の次の日に、たまたま飯を食っていたら、また同じ、ちょうどその時間になると、ニュースか何かの後で、パッパとしゃべっている。はてな、またあいつが出てきたのかなと思ったけれど、声がちょっと違う、しかし喋り方がよく似ているなと思ったら、東大助教授と。

声を聞いているともう高校生にしか思えない。とにかく誰に話しているつもりなのだろうかと、こういう喋り方は誰なのかわかるのかなあと。自分の中で考えたことを喋っているのは間違いないのですけれど、誰に聞かせるわけではないのでしょうね、あれは。ただ、パーッと並べてしまっている。あんなに幼い声であんなに浅い息で、あんなに早く喋るのかと思ったら、僕はぎょっとしましたね。

F:国語の先生にも多いし、テレビでもいろんな講座がありますね。ああいうところで、偉い先生ほどおかしい。偉いというよりは、本当に偉い先生なら、お坊さんみたいに喋りますものね。

T:ハハハ(笑)

F:あれはあれで、ひとつの呼吸、日本人の呼吸なり、伝え方だと思うのですけれど、そうではない。理論や話題になってしまうと、やっぱり声は働きかけないですね。知識や情報を売っているわけだから。

T:そうなんでしょうね。知識を売っているというのが正確な言い方で、知識を並べてお店に広げればいいわけでしょうな。

F:だからテレビやメディアが入ってくると、状況的に違ってしまう。私はテレビに出ないですけれど、相手もいないところで喋れといわれたら、すごく辛い。

T:それはそう思います。絵本や何かの読み聞かせというのがあるでしょう。あれが、僕はずいぶん違うと思いますね。読み聞かせだから子供がいるわけで、子供が面白がるとか理解できるように喋らなければいけない。だから、うまく伝わらないときにはもう一回言うとか、この絵をよく見てごらん、こうだろうとか入るとか、いろいろな形で子供に話しかけなければいけないわけでしょう。ところがどうもこの頃の呼びかけはそうではなくて、名作がここにあると。それをきちんと芸術的に読むと。芸術的に読んだのを子供に聞かせる。

子供がシーンとしているところに聞かせて読んでいるうちに、芸術的な感受性が伝わるというような、ある意味では傲慢な考え方をしているのではないかと。こっちに生きる作品をつくっておいて、それを向こうに渡すという、一言一言、相手に話しかけているという感じがないわけです。子供たちに話しかけていないということを言っても、そのことがわからない。
僕は、よく呼ばれてレッスンを頼まれるのですけれど、話しかけていないということをいくら言っても、話しかけているということ自体がわからない。

自分が一生懸命呼び起こして、こう広げてこうやってこういうふうに声を充分に出して読んでいる。作品をつくっているということしか頭にないのです。作品をつくるということなんか、子供に話しかけるのに何の意味があるのかというと怒られそうですけれど。

F:歌も似たようなところがありますね。音響をつけてマイクをつけてしまうと、カラオケを考えると一番わかるのですけれど、本人だけできれいにやっているのです。聞いている人に、いかに働きかけないか。
だから、今、皆カラオケに行くのだから、あなたがうまく歌っているのは、いやみにしか聞こえないとか戒めているのです。素人の歌の部分で、私たちが一番退屈しないのは、その人が失敗したときですね。うまく歌われたときには、つまらなく、失敗に人間性が見えるといったら変だけれど。

T:とちった瞬間にその人がいい役者かどうかが出てくるんだな。とちった瞬間に次にぎくっと、それで?が生まれてくるからね。感受性が表れるというのが。

F:いかにそうでない何かを演じている。歌はそこを錯覚させることで成り立ってきたビジネスなので難しいと思います。本当に力のない子が、商業ベースで売るだけの工夫を、すごく予算をかけてつくってきたところなのです。

ただ本来はそういうものはどこかで一過性で飽きられるのですけれども、日本の場合は、お客さんがたくさん入ったらいいとか、とにかく歌が長ければいいとか、演出効果があればいいとか、一番ベースの部分があまり見られていないですね。
だから、本当に、日本では、一概にくくっても変ですけれど、何気なく日常の中にあるような会話とか声のところで感じることが、舞台はそれを集約したところだと思っていますから、それが舞台で起きないことが不満。
映画だと、よく俳優でつくったり、伝記映画など。あれは感動はあまりないですよね、ストーリーだけつなげて終わってしまう。正にあんな感じ。

フィクションは、いろいろなものを入れてドラマチックにできます。本当に5分くらいで泣かせる歌もあればドラマもあるわけですから、皆、その手法は知っているのだろうし構成もできるはずなのに。その辺が、アメリカとは言いませんが、ヨーロッパも含め、向こうの人たちはベースのところで知っているのかなという、日本人も知っているのだけれど、何となくいまいち、空回りしているのかなと。

T:西洋音楽とからんでいるところの、日本人が言葉なり歌なり、まだ見つけきっていないというのでしょうか。もっと古い歌だと古い歌なりに、そういう統一感というのはあるのでしょうけれど。

F:師匠とか学校とか、そういう一つの基準に対して上達しようという人がいる。一人ひとり確かに個性があって、面白いところがある。そのままでは通用しないけれど、まずそこだなと思うのです。外国人トレーナーを呼んでいろいろなトレーニングをやってもらうにも、日本人は音楽を楽しんでいないというから、現実にやってもらうとプレイで終わってしまう。

T:楽しんでいないのは確かですね。

F:表現もやっていないから、演劇的なところで会話、喫茶店の会話をやらせてみたり、皆でゴスペルを歌って盛り上げてみたりで、場をつくってしまうのです。けれど、生徒に、場を感じてもらうのはよいのですが、つくられた場を支配する方にいかず、支配されてしまう。それどころか、そこに気づかなくなってしまう。これは先から述べている構造と同じです☆。
私から見ると、いわゆる演出家のプロの仕事をやってくれただけで、本当にこういう人たちの中で起きているかというと、今まで共同作業をやったことがないから、やったという、文化祭のようなものですね。

そこでやめてしまったのです。そこにもヒントがあるのでしょうけれど、そんな大げさなものでもない。
今の子たちの生活の中に、声ということに限ればあまりないかもしれないなというのがあります。声のドラマを感じたりということからです。
昔は友人に電話して話すのに、メモをして、敬語を使って、他のうちのお父さんやお母さんが出るからと、トレーニングしていた。
今考えてみると、うちの親も結構ごたごた喋っていました。何となく理不尽にぶつかってくると、声の調子に敏感なったり、裏が読めるようになるのです。今の子たちはそれほど、いろいろな種類の声を聞いているけれど、安全だから、危なくないからそこまで行動に結びつくことはないでしょうね。

T:なるほどね。

MC:今の学校の音楽の先生が悩んでいるところというのは、昔はウイーン少年合唱団の声を理想としてやっていたわけです。それが今の指導要領で必ずしもそういう歌い方でなくてもいいと、曲にあった、自然な発声をしなさいとなったのです。自然な発声って何、指導要領には何も書いていないのです。だから、今まで西洋音楽とか教会音楽とかを理想としてきたのが、ある日そうじゃないといわれたときに、どうしたらいいのかというのは先生方はわからない。民謡を歌わせるときに、たとえば民謡の歌われている環境や言葉、たぶん違うのだろうと思うのです。その辺をポップスと民謡、それから日本の唱歌とどういうふうに歌ったらいいのかというのは、おそらく皆さん苦労されていると思うのです。

T:そういうのを一つひとつ歌いわけなければいけないというところに立ってしまったら、もうダメだと思います。僕はその子が、彼らの言い方で言えば、一番出しやすい声、僕の言い方で言うと、その子の声で、話をして、その話すままの声でどれだけのリズムと呼吸で、その歌を歌えるのかというのを、基本的に考えますね。
歌というのはその子の表現にならなければいけない。だから、民謡なら民謡の表現があり、ウイーン合唱団ならそれの歌う表現があるということで使い方があるとしたら、それはプロの使う言い方で、アマチュアの言うことではないと僕は思うのです。

その子が一番自分というものをその中に表れてくるような出し方、それは話し言葉と歌い手の歌は変わるわけではまったくなくて、話し言葉の一番自然なものがどれだけ大きく膨らむか、僕はそういうものだと思うのです。そうじゃないと、技術的なことになってきて、ますます僕の方からいうと、口パクというか、金魚鉢が増えるようになる。

おかしいんですよ、60過ぎてからレッスンに来て歌ってみて、声が出ない人が、自分でびっくりして、私こんな大きな声したことがない。小学校のときに歌は習わなかった、皆の後からついて、ちょぼちょぼやっているだけで、自分の声で自分の歌を歌えたと思ったことがないと。だから、そういうところが僕は一番悔しい。歌を歌うというのは、こんな下手でもある日ふと歌ったら、ほんのわずかな歌でも歌えなくても楽しいわけですよ。ところがそれを子供たちは知らないということ。

MC:歌える子はすごくうらやましい。でも学校の授業はどうしても歌える子が中心で、歌える子が歌ってというふうになる。そうすると何となく目立たなく後ろをくっついていく子、それから下手なのがばれないように歌う子とか、そういう子でもそれぞれ、先生のおっしゃり方で言えば、たぶんそれぞれにあった歌い方があるはずなんですよね。それはやっぱり先生たちが一人ひとり見つけていくから大変だと思いますけれど、多くの先生ができていないかなという気がします。

T:学校の先生は、音楽学校か何かを出て、それで一応歌える人でしょう。歌えない子がどうやって歌えるようになるかという苦労を、誰もしていないのです。それはだから、落ちこぼれが先生にならなければダメなのです。

MC:そうかもしれないですね。

T:僕はやっと耳が聞こえるようになって、全然音楽がわからない。雑音としてしかわからない。とにかく自分で音楽しなければダメだと思って、ピアノを習いにいった。ピアノというのはダメですね。音感教育にならない。目と手で弾けてしまうのです。ある程度までね、弾けるとまではいかなくても、とにかくある時、ふとこれはダメだと思って、バイオリンを習いにいった。

ドイツで勉強した古典的な演奏をされる方で、ピアノの蓋をあけて、ポン、ポンと音を出して、ミ、ソだと思うのですけれど、それでどっちの音が高いかわかりますかと。音が高い低いってどういうことですかと聞いたのです。先生はうーんと考え込んでしまった。
私の娘が学校に行ったら、先生が「皆、並んで」と言ったら、彼女だけ動かない。どうしたのといわれたら、先生、並ぶってなあにと言ったと。先生が絶句してしまって、説明ができないのですね。そうなんだ、並ぶというのは何のためにどうするのかというのは、そのくらいに、子供というのはとんでもないところでわからないわけです。

でもその先生はいい先生でしたね。ポン、ポンとやって、とにかく弦の調弦を、笛と音を合わせて、それから始めて、はじめは全然わからないのです。それが、やれるようになって、1年半か、大体2サイクルくらいまで聞き分けられるようになったねといわれました。2サイクルというのは、その当時、ウイーンフィルとニューヨークフィルと、あれがGの音が5サイクル違ったのです。だからその違いが、それよりも5分の2だから、ああ遠いところ?も聞こえるようになったかなというのが1年半くらい経ったときに。だから本当に厳密で、いい先生でした。

だから逆にいうと、いい加減な先生はダメですね。いい加減な先生は、生徒のほうが信用しないです。こっちを長い目で見てくれるというのは、ありがたいけれど、いい加減というのは、先生が亡くなられた後に困ってしまう。
前の先生はここがこう、ここがこうと、あるポイントはものすごく厳しいのです。ここがずれているとかリズムがダメだとかきちんと言う。できなくて怒られるというのではないけれど、その指摘だけは専門家並みに厳しいのですね。ところが次の先生に、大体いいでしょうといわれたときに、僕は行く気がなくなって、行かなくなってしまった。大体いいでしょうというのは致命的でした。厳しいということと見守っているということがはっきり違うということを、そこで知りましたね。

MC:あらためて思いましたけれど、大体いいというのは、何も言っていないのに等しいですものね。先生のやりがちなあやまちですね。

T:だと思います。だけれども、あやまちですね、じゃなくて、それ以上言えるかというと、言える先生はそんなにいないのです。ここがダメだということを言える先生はそんなにいないんだよ。だって、音楽家で優れた人が、これはあまり音楽家ではないんだな、音楽家はたいてい数学なんていうのは悪くないから。たとえばパンサーとか絵描きというのは、数学というのは数字を数えるだけでも足の指をつかって考えなければわからないという人もいっぱいいるのですね。だから、平均的に全部できなければいけないというのは、今の日本の教育の、もっとも致命的なところだと思いますけれどね。
しかししばらくぶりに、音楽が体の中に流れ込んできたときのことを思い出したな。あれはここら辺が時々、うるうるとしてくることがあるんですよ。

F:子供のころから音楽に感動して、音楽を選んだのかどうかというのは、必ずしも違う。優秀ですけれど、声楽をやっている人は、どこかで親の影響もあるのでしょうけれど、どこかで何か入ったから、やっている。
声楽をやっていながら、日常の声や日本ののど自慢なんかみていない。逆にそこをやってしまうがために、そこから見てしまうというのはあるでしょうね。それは私でも、声楽をやっているときにはそこしか基準がなかったですものね。その時期って、すごく狭くなりますから。

T:うん、そうですね。

F:声楽自体が、日本の日常から特殊なところにあるから、それがど真ん中になっている人間はもっと特殊だという意識を持たないと(一同笑)。ただ昔は、まだ町に八百屋のおじさんとかさおだけ屋なんかがいて、いろいろなのありだなという。

T:昔は三味線をやっているような人たちが、ちょこちょこいましたからね。

F:学校の教育を受けて、さらにそういうところにいくと、他のものを声のジャンルじゃなくしてしまうのですね、たぶん。

T:はいはい、そうですね。

F:私でも結構それに近いですね。一般の人とワークショップをやりだしたり、3,400人相手にしだしたときに、カウンセリングで喋っているのが本当の声であって、これまでの発声というのは特殊なものなのかという違和感になった。昔は大きな声、通る声でないと、舞台が成立しにくかった、体育館とかいろいろなところでやっていたから。

T:体育館みたいなところでやると、ひどいですものね。

F:雨降っていたりするとトタン屋根(笑)。だから、声の場合はまず聞こえないことには、何を言っていてもダメなので、声量が第一条件になってしまう。ポップスはそれがなくなってしまったので、本当に息で歌っていようが何をしようが自由。ただ体と心が動いていないものは伝わりませんからね。だから、ここで日本の歌を聞くようになって、それはお客さんが日本人だから、歌い手が日本で長くやれている人だと、そこを認めないと。プロになるといっても別にイタリアで歌うわけではないから、そうなってくると、認められている人には、声の働きかけがありますね。

T:本格的にレッスンしている人は別なのかもしれませんけれど、歌のレッスンで胸で支えるということをよく言われて、一生懸命、喋る言葉自体が、息が深くしようと声が出なくなっている人が時々います。胸の力がカチカチなのです。これをまずほぐさなければ、息が深くならない。だから普段の声が、上のほうしか出ない。全然、下の倍音というのかなあ。

F:そうですね。

T:だから、声に響きがないですね。体がそういう意味でほぐすところからはじめないと、話し言葉が成り立たないという人は、そんなにまれではないです。

F:芝居、特に時代劇のようなものから入ると、結構腹からの声って出る。

T:日本語では、発声法としてこれは、自分であまりやっていないので確信できないのだけれど、長唄が発声法としてはいいような気がします。今まで、たとえば英語の発音で非常に有名な方と対談をしたときに、あなた発声法はいつ習ったんだと聞いたらば、英語の発声は、戦後に進駐軍の電話のオペレーターをやったときに、向こうの連中はその訓練する総長クラスの人が来て、徹底的に教えてくれたと。それはわかるけれど、英語の発音であって、発声そのものは違う、もうちょっと前にあるはずだといったら、その人は、お母さんが長唄をやっている人だったので、それは長唄の発声だということを言ったことがあります。それから、もう亡くなられた、柳宗悦の奥さんだった人が、90いくつで国立の何かをやっていた人でしたけれど、あの人も日本のメゾ・ソプラノの草分けか何かですけれど、長唄をやっているのです。

日本語というのは、たとえば発声をやるときに、僕も謡いを、バイオリンのその頃に習ったのですが、はじめは声を出し方を知らないから、あーーとやっているうちに、近頃、謡いをならったのです。だけれど、長唄をやっておいたらよかったなと思ったのは、発音が違うでしょう。現代日本語と古代では。子音と母音の関係が、徳川のあれは末期、中期くらいですかね、現代日本語の子音と母音が同時に出るというかたちになったのは。長唄はほぼそういう時期から接しているわけですから、長唄が元々の日本語には近いかなという気がします。お能や狂言の発声というのは、それ以前ですから、発声の仕方が違う。だからこうなるでしょう、これは現代語にはならない。だから長唄がいいのかなと思います。