会報バックナンバーVol.178/2006.04

 


レッスン概要(2005年)

■講演会

○声を出すと苦しい

Q.声を出すときに苦しい感じがします。歌うときではなくても、声そのもの、今しゃべっても、ひっかかる感じがあります。

A.たばこの煙はよくない。昔は皆吸っていたので、ミュージシャンは強かったのですけれど、ヴォーカルには本当はよくない。最近はそういうことはほとんどないので、禁煙、逆に少しモアモアしたところになると、抵抗力がない。
 私も昔より、たばこには弱くなりました。喫煙車両に入ると、声にはよくないのは確かです。歌にいいとか音楽にいいというのはよくわからない。しかし、立場上そう答えるしかない。吸っている人はフィルターで吸っているからいいのですが、周りの人は直で吸います。よくありません。

○トレーナーとヴォーカリスト

 声をメディアで残すのは難しいですね。広げるにはメディアというのはいいのですけれど、CDに落とした時点で違ってくる。
 それでも、ずいぶん残してはいる。ここの研究生の声も含めて、収録して残しています。データの分析をして、どういうふうに変わってきたかとみることはあります。だから、作品と声はまた違ってきますね。

 私の考え自体は同じでも、表現が変わる。今のホームページは15年前につくっています。そのときの講演会の感じも今と違い、私が前面でやっていました。
 そのこと自体がいいのか悪いのかということだと、今は、ポップスに関しては、あまり人の声を見本にとらせることはしていないです。
 というのは、いろいろな理由があって、本人が自分の声に対して、関心をもたなければいけないこと、そこに必要性を感じてきたからです。
 以前であれば、声を盗めということで、やらせていました。盗めというのは主体性があるから盗めるわけであって、それがなければ真似ごとにしかならない。真似というのは、だいたい悪いところしかとらないのです。
 昔はデメリットもあるけれど、メリットのほうが大きかっただろうということで、どんどんアーティストや声、プロデューサーなど、いろいろなものを巻き込んできたのです。今は結構シンプルにしています。

 まず、周りのものを全部除外して、歌も音楽も全部抜きにしてみたときに、自分の声と向き合うところから始めさせないと、なかなか難しくなってきています。あまり、トレーナーや私自身の声を見本や手本として立てるなという考え方になってきました。
 専門学校なんかも、まだ中途半端だからいいのでしょうけれど、ある意味、学校というのは依存症になりやすいところで、そこに頼っていたら何かが出てくるわけではない。それはトレーナーでも同じです。

 いくら有名な先生についてみても、弟子入りを全部を断っている先生についたというなら偉いのだけど、そうでない先生は誰でもつけるので、本当の意味でついたことにはならない。その辺の勘違いを、する人があまりいなかったのですが、今はそういう傾向がどんどん強くなってきた。なるべく手本見本を立てずに、多くに学ばせます。

 トレーナーの声を見本に立てて、私がやった結果、優秀なトレーナーはたくさん出ました。私の代わりができるくらい、私よりよい声になった人もいる。それは私の望むところだけど、それは優秀なアーティスト、優秀なプロということではない。
 要は教えることに対しての判断力とか、その人をコピーしてみてどうやればいいのかというものはできるようになる。私を学べばよいのだから。
 その人が私について、ヴォイストレーナーになるために来ているのならいいのですが来た人たちの目的は、アーティストになりたい、ヴォーカリストになりたいと来ている。それが目的なら、その目的からは失敗です。
 人生においては何が失敗かはわからないし、どこが才能かは分かりません。そういう意味でいうと、ここは養成所ですから、私やトレーナーを最終ラインにおいてみて、それを越す、それ以上の人間をつくるためにある。

 私がいないとやれないレベルで成り立ってしまうのは、元々ここをつくった主意と反してきます。そういう意味もあることはあるのです。声のことだけが問題ではない。
 それは私からいわせると、ここのいろいろなノウハウはとって、声は身につけたのだろうと、それだけのことでしかない。後を継ぐ人をつくらなければいけないとなったときに考えますけれど、今のところそんなつもりはない。

 声の判断は、若い人には難しくなってきたというのがあります。そもそも、正しい声があったり、本物の声があるわけではないです。その辺で照らしあわされてしまうと、結局、声ということも、最終的には好き嫌いになってしまう。
 声をどこで判断するかというと、その人が生まれ育ち、聞いてきたものの中で捉えざるをえないというのは、第一ですね。その辺から、どうやって客観性を持たせるか。そういってしまうとヴォイストレーニング自体の定義も難しくなってしまうのです。
 上達させるということは、うまくならせることであって、上達したりうまくすることと、プロでやれることやアーティストになることとは、あまり関係がない。それを混同してしまう。
 そうすると、声を身につけて歌がうまくなったら、ステージができる。ステージができたら客はたくさんきて、プロになれる、そんなつながりは現実の世界においてはない。

 商売としてやるのには組み立てられるのですけれど、人を育てることになると、もしかすると一番意味のない成り立たせ方になってしまう。だから難しいのです。
 こういうところに来て、誰かについて勉強しようというのは、上達したい。上達したいということは、誰もが上達したといってくれるような何かしら目的を置いて、そこにコツコツ近づいていくというようなことになりがちです。
 ところがアートの世界やプロでやれている人というのは、別にそこの上にいるわけではなくて、オリジナルの部分でやっている。だから、その辺を勘違いしてしまうと、トレーナーになれたり、人の歌がうまいヴォーカリストになるかもしれないけれど、それは世に出ることと違います。

 だからここに来る目的が、トレーナーになるとかコピー曲を完璧にやりたいということであれば別ですが、ともかく、アーティストになりたいといったときには、逆にここを使いきるくらいの主体性、どこに行ってもそうですけれど、それがないとなかなか難しい。
 ところが学校というのはそこを去勢してしまうことが多いのです。そこで楽しませ、そこでライブができる。そうすると成り立ってしまう。そこで成り立っていることは身内で成り立っていることなのです。

 歌もコミュニティなので、身内があるのはいいのですけれど、プロやアーティストになれる、一番問われるところは、身内外の第三者に通用するかどうかです。要は自分をまったく知らない人間が、芸として心を動かされるかどうか。
 親切な学校は、逆にそういうコミュニティが錯覚させてしまうことがあります。だから、若いときには皆やれるのですが、3,40代になるとやれなくなってしまう。そういう問題なのです。

 ここは学校と言っているわけではありませんが、そう思われているなら、あまり錯覚させたくない。
 私は学ばせるということは、つくる力をつけること。つくるのは、自分でつくるしかないのだから、本質に気づかせるというか、どう世の中や自分を見ていくかというのを、外側から少し、見られるように、そういう意味の客観性を与えることくらいだと思っています。

○日本人は、なぜ声で追いつけないのか

Q.踊り、バレエをやっていて、ュージカルや劇もやっていきたい。

A.舞踏は、音楽と絶対に関わってきます。今、踊りも大変だけど、歌があまり歌える人がいないのです。それで、何が大変かというと、声も日本人の場合、そんなにタフじゃないから、30代くらいで衰えてしまう人が多いのですね。

Q.元々持っている体の資質が、外国の人に比べて落ちているということですか。

A.外国人より落ちやすいというより、エンタテイメントの要求されるレベルでの違いです。単純にいうと、20歳、あるいは10歳の時点でどこまでできているというのが、桁外れに違います。それから、層の厚さです。

 日本のトップレベルは、ダンサーでも世界の一流の人が出て、クラシックでも、そんな日がくるというのは、ゴルファーで青木功さんが出るよりも難しい。クラシックバレエが日本人で通用するというのは、夢の夢でした。そんなことが現実に起きてしまっている。そもそも骨格が変わらないとムリといわれていた。骨格も変わってきたわけです。

 歌の場合、日本人が歌の世界でなぜ遅れていくかというと、音の表現力と耳の世界での差なのです。
 ということは、音声の中に対する鋭い耳と、それに対応できる声の調整能力が基本としてないと難しい。

 日本人がベースボールやダンスで優れたのは、外国人の中に入るからです。日本人は目で認識する能力は、世界でも優れている。味覚なんかも相当優れていると思います。
 だから、外国人が来たり、外国人のコーチが来たときには、育つ。バイオリンでも指揮でも、育っているから耳自体が悪いわけではない。世界に通用する指揮者もいますし、バイオリニストも何人もいます。

 ところがそれを言葉や音楽に持ってきて、歌となったときに、うまくいかない。
 昔から、日本人がそのままの声では向こうのものが歌えないから、それで歌うためにどういう形をとってきたかというと、やっぱり声楽を取り入れるしかなかった。今のミュージカルでも8割くらい声楽ですね。

 声楽をやっている人が優れているわけではない。むしろおかしなほうが多いのですが、逃げ方を知っています。声に対して格闘したキャリアがあるから、自分の声の限界がわかる。
 役者は演技を考えると、こうやれと言われて、がんばってやってしまう。体はがんばってやっても倒れないかぎりやれるからいいのですが、声はがんばってやったら悪い循環にいってしまう。高い声は特にそうです。

※役者は声が枯れても表現できるから、高音のケアはしてこなかった。それを日本であれば、まだそれぞれの人に応じてキー設定しないと表現力のある構成できない。半オクターブ通じないのに、皆高く一律に歌っている。向こうは1オクターブ半使える人がそろっている。

 だから、どこかで声楽を知っていると安全です。演出家は声のことはわかりませんから、もっとこういうふうに強く出せと、役者はそのまま強く出してしまうから、壊れてしまうのですね。ところが声楽の人は強く出さないで、強く聞かせるような方法を知っていて、やらない。そこまでやったら自分のが壊れる。

 長期戦ですから、半年くらい上演しなければいけないとなったら、それは喉を壊したほうがまずいわけです。現実面ではそういう問題になってしまうのです。
 そもそも日本人が演じられないようなものを無理に演じていることから問題があります。そればかりは仕方がない。ただ、それでお客さんが入って、成り立っていることは悪いことではない。

 体からやるというのはいい方法です。私は、かつては10代の子をここに入れていなかった。20歳まではどうなるかわからないし、親がかりでも困るということで入れなかったのです。そのときには、体のほうは、できたら武道でもやっておいたらいいと言っていました。
 声で修得のプロセスを取る前に、スポーツとか、ダンスでも、できたら全身を使ってやるもので、何かしら体に身につけることがどういうことかを、知っておいてもらうとありがたい。
 声はすごくわかりにくい。たとえば野球を10年やっていたとすると、最初の1年目はこうだった、2年目3年目はこうだったということが、自分の体にあると、そのプロセスがわかる。そういうことでは、同じことだとは思うのです。

 音楽に関しては、いろいろな意味で、勘が必要な分野だと思います。声に関してもです。踊りのほうが、評価がはっきりしていて、うらやましいと思います。私はフラメンコからベリーダンスから見てきた。すごいものを見ているのと、そうじゃないものはわかります。歌や音楽もそのはずですが、実際にその中に溶け込んでしまうと、なかなか音の世界はわからないところがあります。

 今のポップスはよくないといいませんが、うまくいかないのは、そこがポップスのいいところなのですが、縦の関係がない。邦楽はまだある。
 20歳でデビューできた、では何を目的にするんだ、何が自分の技術で足りないかというのは、海外なんか行ってみたら、あるいは別に行かなくても情報があるから、歌い手を見たら、ピンきり、全然違うのはわかるのです。でも、それって一体何なのかが全然つかめないから、進歩しないのです。

 バレエやピアノやバイオリンだったら、ビデオかなんかで、こんな速く弾けないとか、同じ速さでやっても表現力が違うとかいうことがわかる。そういうものは距離があるから客観視できる。
 ところが役者やヴォーカルは、自分の体にあるから、客観視ということが難しいのです。それとともに、皆、普通に歌えるのだし、演技もできるのだから、何をもって優れているかいないかというのは、自分では非常にわかりにくいです。そこが独学では無理でないかという気がします。

Q.まだ自分の本当の声がはっきりわかりません。発音発声に、基本がまず大事だといわれます。喉から出ることが多いといわれ、実際そうだと思うのですが、すごく不安定なんです。

A.ベースは、生活することです。ヴォーカルになるということが、仮にプロになるとしたら、ミュージカルの劇団に入って、給料をもらっていたらそれもプロです。けれど、一人でということを考えたら、やっぱり作品をつくることです。声を作っても、作品をつくるということが、歌唱でなくて、作詞作曲で、とまってしまっている。でも、やるしかない。アーティストとして必要なものは、ロックやパンクをやろうと思ったときに学校に行こうとは考えないことです。

 私は、Q&Aの本に本音で書いていますが、学校を否定するわけでも業界を否定するわけでもありません。
 私は、自分のもっている養成所も一度、否定しています。ある意味では衝動の中でやっていくしかない。
 もし勉強する必要があるとしたら、長くやっていきたいことを考えたときです。それから本当の底力や実力をつけたいと思ったときです。やりたいというなら、現場を踏みなさいと言っています。

 たとえば踊りは、あるレベルでできているから、どんなに街で踊って鍛えたといっても、よほど鍛えないかぎりは、日本でやっているくらいなら、クラシックバレエの人がチェンジしたときにかないっこないのです。身体能力として。
 プロだからやれている、そこで何とかやってしまうのです。そんな人しか生き残っていかれない。ハッタリ力みたいなもの。
 本当はそれではだめです。レベルの高い世界だともう通用しない。モータウンのアポロくらいで、ハッタれてまだ通用したらいいところでしょう。
 本当のオーディションで、エンタテインメント性だけで通ったというのは、まず外国ではありえません。ところが日本の歌に関していうのなら、そんなところは見てはいない。見ちゃいないといったら変ですが。

 もしトレーニングの部分でやっておきたいということは、まず自分が長くやっていくときに、一番ネックになるのは、自分に才能があるのかないのか、あるいは自分がそのことをやることに、人生に意義があるのかないのか、そのところで考えていきます。
 そのときに、いや、自分はこれをやるべきなんだという、きちんとしたポリシーがあるかないか。それがない人は大体辞めていってしまいます。
 そういうものはどこで構築されるのかというと、自分にしかないものに気づいていくしかない。ということは、どこかで自分にしかないものを気づくような場所やきっかけが必要でしょう。

 普通の人からは普通のものしか出てきませんから、普通でないものを取り入れる期間というのを必要とします。
 たまたま生き方がめちゃくちゃであったり、家庭がぐちゃぐちゃであったり、環境から恵まれて、人生からすると不幸な人、小さい頃から、日本の今の時代に育って、ずっと飢えてきたというような、そうしたら、それはそれで何かしら人にないものが入るのだけど、そういうものがない場合は、短縮して養成所みたいなところでやるしかないのです。

 だから、トレーニングの目的というのは2つあって、人々が普通にやっていたら何年かかるもの、それを短期にやることが一つ。もう一つは凝縮することで、本来だったら一生かかってもできなかったはずのことを可能にすることです。
 これがどこまでできるかはわからない。できる人もできない人もいる。ただ、その機会を与えることに意味があるということです。

○スクールと養成所

 私はこの養成所に関しては投げ出しているといったら、変な言い方ですけれど、動くように動かしている。それは、一人の天才やすごく才能のある人がここを活用できるように、整えておくため。
 普通の人が来たときには機能しないとしても、そこが学校との違いです。
 学校は落ちこぼれの人が平均レベルになるようにしなければいけない。そういうところに才能のある人がきたら、退屈でテンションの低いところにはいないですね。いられないです。
 アマチュアとプロを区別するわけではありませんが、本当のプロが来たときに対応できる体制は整えておきたい。
 といっても、本当のトレーニングは、本当のプロのプロにだけ通用するのではなくて、まったくそれを持っていない一般の人に役立たないと、嘘でしょう。
 プロのプロはできるだろうから、それから考えると、ここに来なければ、そうならなかったという人が伸びないと、トレーニングとはいえないだろうと、常に頭にあるのは、その2つですね。
 他の学校ですむ人は、紹介したりします。カルチャーセンターを紹介しても、そこで本当の意味で人が育つとは思っていない。
 ただ、何かを取り入れられる人だったら、どこで学んでもよい。その上でここの使い方を自分の中で入れていく。

 本当に必要なものは、自分を知ることです。もっというと、最終的に残るようなものというのは、自分でしかできないものです。
 私も他にもやりたいことが何やかんやあるのです。ここもプロデュースとトレーニングと両方やらなければいけない時期があって、ライブハウス近くまでやったのですが、もういいやと。

 プロデュースとライブハウスは、もっとうまくやれる人がいる。それは才能のある人にまかせる。そういう人と組めばいい話です。
 全部はできません。ここも常に5,6人の先生を外から入れて、私がなるべく表に立たない。私よりも皆優れているからです。
 グループはグループで楽しかったのですけれど、私が楽しくなってはいけない。

 今は、昔、かなりのところまでいった年配の人も研究所で見ています。歌はトレーナーよりうまいです。30年も第一線でやっているような人たちですから。そんな人がなぜこういうところに来るのかというと、歌というのは自分で思い込んだままプロになってしまったという人は、そのまま突っ走っているのです。違う可能性があったということや自分がもっと大きな可能性があったのではないかということは、ある歳にならないとわからない。
 自分があるところまでやれてこそ、もう少し世界に通用するヴォーカルになっていたのでは。プロとして日本では通用したけれど、私の歌って何なんだと思うわけです。

 人生半分折り返してくると、ひとつ離れたところからみるようになると、これで終わっていいのかどうか、後から考えるわけです。そういう時期に来られる人も多い。
 そういう人たちは非常に優れているのです。指導を受けないで、プロになれて、お弟子さんもとれるような人たちですから。

○ヴォーカルという職

 経験がないといっても皆、音楽を聞いてきているし、歌も歌ってきている部分はあります。ヴォーカルは役者とちょっと違って難しい部分があります。
 それはキャリアにあまり左右されない。音楽畑につかっていて環境がよかったというのは、海外の場合には条件になります。ただポップスの場合は、小さいころの環境だけで、親子代々音楽家でなければ成り立たないようなことはない。

 歌と声は皆扱ってきています。本当の意味で初心者というのはいないのです。必ずどこかで歌っているし、どこかで声を出している。
 逆にステップが成り立たない人が多い。
 早い人であれば、1週間とか1ヶ月とか、パッと歌ってみたらうまかったという人もいる。これは別にそこまで歌の練習をした人がうまくて、そうじゃない人が下手ということではない。合唱団か何かだと別です。
 ただ、逆も言えて、20年30年やろうが、音ひとつとれない人とか、ずっとうまくならない人もいるのです。

 役者の世界やスポーツの世界は、3年5年やると、特に10代のときに2年やるだけで、相当違いますね。クラブに入って1年入ったら、クラスメイトの中ではトップに立てますよね。そのようなことがない。
 役者はある程度の努力でやれるような感覚を持っている人がいるのですが、ヴォーカルはどこかの段階で、天性的なものがある、それは声だけではなくて、むしろ耳とか、感覚ですね。それとともに、自分の土俵のつくり方みたいなところです。どこに根っこを下ろすのかによって、声や歌は1割2割の力でやれなくはないのです。いろいろな見せ方ができます。

 実際、ヴォーカリストという肩書きはあまり使われないのです。その当人の職業としてやっていくとしたら、シャンソン歌手やジャズヴォーカルとでもしないかぎり、仕事といっても頼みようがない。
 皆がカラオケをやるようになっていますから、今のヴォーカリストは、エッセイストみたいな感覚になっています。昔でいうと、何かをやった人が、日常を語ったことがエッセイだったのです。

 ヴォーカルも今、それに近い。皆、デビューしたいというのですが、そうしたら、声優のほうが端役で出ていても、3000枚くらい売れます。普通のロックのアーティストがアマチュアで3000枚売ろうとしたら、けっこう大変です。3000枚どころか、300枚売るのだって、現実問題、けっこう大変です。
 原監督でも、星野監督でも、皆レコード出しているのですね。相撲取りも相当出しています。プロのヴォーカルとは言わないが、歌は誰でも歌える。ファンだったらそういうものがほしい。長島さんが出したら、100万枚くらい売れるかもしれない。

 そういう意味でいうと、確かにヴォーカリストというのは、歌の世界の中でやっていくのですが、歌唱印税が低くて、それ一本で食えるということがない。2,30年、音楽だけで食っている、テレビやタレントとしてのドラマ、そういうものをやらないで食べていて、やれている人は、作曲作詞印税のおかげです。

 ステージで黒字になることは、日本の場合、あまりないのです。相当高いです。利用料、演出料がすごくかかるのです。
 ヨーロッパのヴォーカルのようにGパンひとつで来て、アコギで、3000人入るといったら、それを何回かやれば儲かる。
 唯一稼げていたのが、演歌です。1ステージ300万や500万、だんだん難しくなってきましたが、裏でいろいろな人たちが支える。商店街でやることもあったのですが、興業としてうまみがあったのでしょうけれど、今はそういうものがだんだんなくなってきています。
 お金が出せなくなってきていますね。演歌歌手ということ自体、つくられています。

○ヴォーカルへの道

 だから、単純でいいのであれば、ヴォーカルになる方法は、ヴォイストレーニングや学校へ行くということよりも、とにかくヴォーカルになった人をきちんと見ていくことです。
 なった人は、必ず2つ要素があるのです。一つ、自分たちより前の世代の一流のヴォーカリスト、それを誰を選ぶのかが一つのセンスですけれど、それを徹底して聞いていく。
 昔でいうと、レコード盤が擦り切れるくらいに聞いたと。それがなしにヴォーカルになった人は、いないです。

 ヴォイストレーニングをしてヴォーカルになったかといったら、まずそんなことはしていないです。プロになってみて、ちょっとやってみたりするくらいです。
 私は役者にヴォイストレーニングをさせています。そんなものが屁の足しにもなっていない。客の前に立つことによって、語尾もきちんとなってくるし、声も大きくなってくる。私の力だけで何かなっているといえないです。

 もしヴォーカリストにああいう場所を与えてくれたら、客がすごくしらけてくれたら、もっといいヴォーカリストが出る。
 ヴォーカルで今の日本のポップスでしらけるときってないでしょう。曲歌って、拍手がこないときはないでしょう。ある意味だと、それは歌とか曲で聞いてもらっているわけではない。
 その人が前に出てきて会えたから拍手しているし、すごく歌えたからといってすごい拍手がくるわけではない。失敗したり真ん中ととばしたり、サビで声がかすれても、きちんと拍手がくる。スタンディングオベーションになったりする。

 それは演出面の力でそうなっているのです。元々アイドルなんかで、価値がない、クラスでかわいいだけの子を、並じゃないから、それはそれでいいのですが、集客するにはどうすればいいかというと、歌を歌わせればいい。周りはプロで固める。それでCDを刷れば、お札のように売れていく。1枚100円くらいでできているのです。そうやって歌の世界が、日本の場合、成り立ってきた部分があるので、どうしても基準がないですね。

 今、関わっている子、プロで来ている子もいます。自分のスタンスを持たなければだめで、それが歌一本ではなくなってきているのです。すごく声がいいよでは番外です。
 昔なら、声のいい人が青森にいるといったら、プロデューサーが飛んできて、それで全部やってくれたときもあったのです。
 次に歌がうまい人がいるということで、北島三郎さんくらいの時代で、のど自慢で勝ち抜いてというときがあった。今、その2つでも無理です。

 ヴォーカル自体が、ある程度、カリスマ的な何かを持っている。むしろファッションリーダー的なもの、女性の場合は特にそうですね。そういう要素がひとつ、それからビジュアル面、踊りで見せる、ダンスの構成で見せる、これも一つですよね。
 今の客は歌を聞いたくらいでは満足しない。いい場所でゆっくり誰かと食事でもして、それからその後にお土産ももらってという、総合的なものの中でまた行こうかなという気がする。それを打ち破る力があるというのが、本来の歌でしょう。

 どこに今、落ちてくるかというと、私は1年前くらいから取り上げている、サンボマスターでも見に行ってこいというのです。声はガラガラで、歌もへぼっています。でも、そこの中に音楽が生じたり、何かしら連帯感的なものが生じるのがロックなのです。かたやロックを勉強して、それをきちんと歌えるようにやっている人は、行き場がないですね。

 以前だとテーマパークやオールディーズハウスなどがありました。どうしても比べられてしまう。それが好きな人はいいのです。
 ただ、その時代を生きた人よりはどうしても、さびれていきます。今、その人のコピーをしただけで、食っていけるようなヴォーカリストが日本や世界にいるのかというと、そういう力も実際になくなってきているでしょう。

 最終的にマドンナ、マイケル・ジャクソンくらいのところまではまわって、社会に連動していた。
 外国でもすごく優れたヴォーカリストが出ていますが、そこまでの社会現象にはなっていない。その辺で音楽の限界を感じて、違うかたちにメディアを動いている人が多いです。その辺もひとつの勉強と見てもらえばいいと思います。

○日本の歌の組み立て

 この前、邦楽家の野口さんと話していたら、三味線も口三味線で、歌いながら覚えていくらしく、ギターなんかは口ずさみ歌うわけではないけれど、教えたり習ったりするときに、楽器の人のほうが結構、歌の理解していらっしゃる方が多い。それはどうしてかというと、音楽的な構成で捉える。
 日本のヴォーカルは、洋楽のパターンのものを歌っているはずなんだけど、その中での構成や組み立て方だと、楽器をやっている人はわかるけれど、ヴォーカルだけやっているとわからない部分が、結構たくさんあります。
 循環コードでなくてもいいのだけど、こう終わってからこう行くんだというのが単純すぎると、ここにこう入っているから、ここに利くんだよとかいうようなことが起きてくる。その耳が、日本の歌の場合は抜けてしまう。

 どうしてかというと、ヴォーカルの声はその人独自のものだから、ギターはまずプロと同じスピードについていけるようになったら、今度は音色の世界に入りますよね。ところがヴォーカルは自分の声だから、人の音色の世界になかなか入れないのです。本来は、そこの音色が働きかけているのです。
 それから言葉の力の強さです。日本の歌詞は、その言葉が持ってくるイメージで構成されている場合が多い。リズムや音楽といいながら、詩の世界なのです。

 だから音楽的にすごく矛盾を起こしているヴォーカルはたくさんあるのです。途中にメロディ抜いて言葉にしたり。それを海外のを真似たようにしているのですが、彼らは音楽的構成が成り立っているところでそれをやっている。けれど、日本の場合は、それを耳で捉えて真似する。
 1番が「うれしい」で2番が「かなしい」だと、1番はにっこり笑って、2番は悲しい顔で歌うようなふうに、日本の場合はなってしまう。海外はポーカーフェイスです。聞く人間が、音に対してそういうふうに感じてもらえばいい。

 日本の歌がどうしても、世界のレベルや音楽のレベルにいかないというのは、日本のバンドや楽器の人は優秀だけれども、ヴォーカルに対して、それを求めないのです。ヴォーカルに力がないのは第一です。ナビやフレーズの、声の中での演奏、スキャットやアドリブ、ゴスペルやらジャズの人とずいぶんやりましたが、それこそコピーなのです。何ら自分のスタイルがなくて、向こうから持ってきたパターンをいくつか当てはめているだけです。

 真似しているなと、聞いたこともないのにわかってしまいます。自分のつくった曲なのに、音が外れていると言えるくらいに、稚拙なこと。そういう部分は、楽器の人でもわかる。昔、有名なギタリストになぜ注意しないのか聞いてみたら、歌えるだけで偉いと、変に、歌に対してはコンプレックス持っているのです。そうではなくて、同じ音の世界で共通することです。ギターでドラムができないのに、ドラムには言う。ベースには、言っているのに、ヴォーカルに言わないのかと言うと、ちょっと別だからと、音楽から外れているのです。

 元々、ヴォーカルってよそ者なのです。バンドの人たちが音楽を楽しむのに、どちらかというとキャラみたいなものでついている。
 だから本当のヴォーカル、セッションレベルまでできるヴォーカルはいいと思うのです。それは楽器音と同じで、楽器として使うから。
 そうでない人がかったるく歌うのは、音楽の世界を壊すことなのです。そういう感覚は外国でもある。

 日本の場合は、キャラクター性がすごく強いと思います。ジャズは20歳前後くらいのかわいい子はやっていけるのに、男性はいない。
 40歳くらいになると、だんだん行き場がなくなってしまうのに、何を基準でステージができているのか、ジャズだったらやれる場所が、日本でもあるのです。そうでなくロックやポップスのヴォーカルをやっていたら、場所自体がなくなってしまう。その辺の問題は、ヴォイストレーニングの問題より大きいのです。

 これからプロになりたいとか歌でやっていきたい人は、最初に考えることだと思うのです。私は今回の本で書きましたが、ヴォイストレーニングの必要性でさえ、疑ってかかるべきだろうと。
 要は自分の目標が、やりたいということであれば、やれるように計画をし、プロセスをとらなければいけない。ピアニストでもギタリストでも、3年計画くらい立てているのです。3年でこのくらいのレベルで、こいつのここの部分くらいは完全にできるようにしようと。ところが、ヴォーカルの場合、何もないでしょう。声を出してみようとか、せいぜいあるのが、この高さまで声が出るようにしようとか。そこまで出たところで、出ている人はいくらでもいるのだから、だから何なんだということにしかならないような目標になってしまうのです。

 最近プロデューサーと話していて、日本のヴォーカルや歌い手は、一発当たってしまえばやれてしまうけれど、だからこそ、計画性やプランニングや目標の設定がない、こんなにない分野はないというところに一致しました。逆にいうと、そこのいい加減さがヴォーカルのいいところで、そんなことを計画を立てて、毎日こういうことをやるというのがヴォーカルに向いているかというと、その真面目さがステージで裏目に出ることもあります。その辺は難しいところですね。

 どこかで深めなければいけないのは確かなのです。ただ、その深め方が、人様がどうこう言って、そこで言っているのではだめ、だからと言って何もやらないのではもっとだめ。うぬぼれの強い面と非常に謙虚な面があります。これはヴォーカルとしていいことです。真ん中ではないということです。ただそれが、どこかでモノになる。昔から、どこかで切れる人でなければいけないし、でもどこかでコントロールしていないといけない。

○ヴォイスとレーニングの前提にあるもの

 最初から音楽をかけると、役者さんや声優さん、アナウンサーや営業マンは、場違いなところにきたと気まずい顔をされます。
 まったくそんなことはありません。むしろ、最近、一般の方向けのものにしています。
 日本人自体の声が変わらなければいけないと思うからです。それには耳が変わらなければいけないのです。耳が変わるためには、日本人の音声の表現の中の世界が成り立たなければいけない。

 この必要性は大きくはなってきます。国際的にも大きくなっています。日本人も皆、違う価値観を持って、コミュニケーションをしなければいけないという必要になっています。
 何かしら個性化が叫ばれるわりには、音声は弱体化してきていますね。一つは体力や忍耐力ということもあると思うのです。

 年齢ということに関しては、健康にリンクしていることがありますね。当然、呼吸を使い、横隔膜から声を出すことは全身運動です。そこで捉えるのだったら、どこかを痛めていると、声の調子がおかしくなる。全身のバランスによるところがあります。
 だから、まず健康状態を整えるということが第一。特にステージやプロになりたい人で、体力がなければ、ドラマー並みの体力はほしい。あればあるほど有利だというところがあります。

 スポーツなんかは目標がきちんと定まっているからいいのですけれど、ヴォーカルの場合気をつけなければいけないのは、どんなに体ができていても、声とは少し違う。たとえばダンスをやられている。ダンスをやられているということ自体で、普通の人より声がいいのです。それはスポーツをやっている人もそうです。体をつくって、体の状態をよく保たないといけないですね。

 だからヴォイストレーニングの中の姿勢とか、呼吸法のベースの部分は、試合なり本番に望むときの状態を整えるようなところの部分、メンタルトレーニングや、いろいろな方法もあるのです。
 そういうことをきちんとやっている人が自然にやれることを一般の人はなかなかやれない。そこをやらなければいけない。モチベートやテンションを高める、サイキックなことをやらなければいけない。

 もうひとつは、だからといって上がった緊張したりしてはいけない。リラックスのようなこと。そういうのは慣れていくしかない部分もありますね。
 一番いいのは、今の若い人に言っているのは、できるだけ嫌な場所に行けと、嫌な人に逢いに行けと、ここが嫌なら一番いい、ここに来るたびにそれだけ強くなって、そこでリラックスして自分を発揮する。
 学校はそこを逆にしてしまっています。声を出させるために、リラックスさせなければいけない。ワークショップでもそうです。私も一般の人に接して、ニコニコしながらやっています。一日で終わるときに、よけいな緊張を伝えても、何も伝わりません。

 声で一番最初に知ってほしいことは、皆さん自身もご存知だと思いますが、いいときと悪いときがあります。そのいいときをきちんと自分なりに押さえてほしいということです。もっといいときがあったり、もっと悪いときがあったりしますよね。
 私はヴォイストレーナーの学校を何校か顧問して、トレーナーの悩みを聞いています。
 学校では、こんなしゃべっている時間があったら、発声練習をやりましょうとやる。そこなら劇団のワークショップのほうがうまくやっています。
 そういうところでは、最初鬼ごっこなんかをやります。体があたたまってきたら、今度は声を出して鬼ごっこをやってみるのです。それで半分以上費やす。童心にかえってワーッと声を出せる状態にするのを、ヴォイストレーニングの学校は5年10年たっても、1回もやれないのです。

 役者は案外、単純です。演出家やトレーナーの方も、現場に迫られています。素人で来た子を、人前で上がらせないように演技をさせなければいけない。そういうことに関しては長けているのです。
 現場をもっているところは強い。学校では、だんだんぼけてきます。皆さんの中で、日常、あるいは3年5年くらいでゆっくり声を変えたい人には、一般の方だと宝島の本、これがほとんど声を使わないで声をよくするという本です。「愛される声になれる本」というものです。

 せまいところでいうと日常で、もっとよいのは山に登ったり、友人とスポーツをしたり、飲み騒ぐのはよくないとしても、カラオケでも、自分の中で声をいうのは、いろいろな状態で使われているということをまず知ってほしい。私が一番気をつけてやっていることは、日常の中の一番いい声を最低限にすること。ここでもトレーナーの声は最低限しています。

 その人の声の一番出ないところをプレッシャーかけたりしてはいけない。ただでさえ、教室やスタジオに入って楽譜なんかを渡されてみたら、声は出なくなるのです。役者でも、そんなことできるくらいなら、そんなところに行かなくても歌えます。
 だから、普段のところよりも声を悪いところにしてしまうのです。そこのところでリラックスさせたり慣れたりするから、普通に戻っていく。ヴォイストレーニングの学校ってこんなことくらいです。こんなに悪くしなければ、普通に戻らせる必要もない。プラスのことをやらなければいけない。それがトレーニングなわけです。

 日本の場合は、ワークショップで効果があったとか、1日勉強に行ったら声が出るようになりましたと言っているような人は、だいたいここの範囲でやっている。トレーニングとして、プロとしての体づくりとは関係していない。感覚に関して、体に関して、プロは普通の人と違う。そこの部分を補うためにトレーニングをする、という考えがないのです。
 音楽だから楽しんでいればいいという。楽器でいうと、10万円ではなく100万円のを手に入れなければいけない。その部分がなくて、今ある体でいい声があれば歌える。

○表面的な教え方

 それから結構、表面的な教え方がいい部分もあるのです。アイドルはそういう教え方で、体は普通でいいわけです。そうすると、最初から定められます。こういうものを最初に固定させると教えやすいのです。こういうところがフラットしているから、もうちょっと上げなさいという教え方ができます。
 プロデューサーも、ちゃんとしたアドバイスをしている。たとえば、ピッチが悪いとか、音程が下がっているとか、しかし音程は2つの音ですから、下がっているも何もないのです。広すぎたか狭すぎたかということです。

 ピッチというのは、その音高です。ピッチが下がっているというのは、元気がないとかテンションが悪いということの方が多い。本当にそこの音があっているかあっていないかというのは、あまり関係ないときも多いのです。
 ノリが悪いときは、リズムが悪いのかテンポが悪いのか、グルーブが悪いのか、何を言っているのか、よくわからない。定義しないで言っています。

 言いたいことは、人のところにお金払って時間を費やしていくのだったら、普通の体でできないことまでやれと。
 私はヴォイストレーナーと考え方が違うので、基本的にトレーニングは、アマチュアの人に対しては強化しかないと思います。強化トレーニングは負荷トレーニングです。

 多くの場合、ヴォイストレーニングの場合には、調整トレーニングに使われています。当たり前に考えたらわかると思うのですが、どんなに調整トレーニングをしても、力がつくわけでない。大リーグに行っても、ボールが見えない人に、勝負になるも何もない。ここに投げるよといったところにバットを振っても、間に合わないわけならば、そこは体を変えるしかない。

 音楽や歌の世界は、そういう考え方をあまりとらないのです。どうしてとらないかというと、20歳までにこういうことをやってきた人というのは、20年かけているから、鍛えたという感覚がないわけです。
 もうひとつは発声の取り方にも、息や発声を使わなくてもとれる声ってたくさんあります。マイクや音響がよくなってきて、現実的に、そういう条件を持っていない声でも通用するようになっている。これは確かなのです。

 その辺でどう考えるかというのは、大切です。私が声に対しておいている定義というのは、別に大きな声や高い声ではなくて、基本的に繊細にコントロールできる。繊細にコントロールするために、それだけ支えられた体や、それを鋭く調整する感覚が必要ということです。
 そもそも表現の世界に対して、こういうふうな感覚を持たないで、雑に歌うようなことで成り立ってしまうステージであれば、トレーニングそのものも必要ない。

 もうひとつは、普通の人並みにうまく歌えないという人が、どんなに器用な先生についてみて、器用に歌おうとしても無理ですね。
 声自体があまり出ないという人は、声が出ないなら、出る人には負けてしまう。そういうときに体から声が出るようにして、根本的な条件を変えるということです。

 だから、多くの人が音痴や、感覚の問題だったりということが、体の問題と解決することがありますね。そもそも高い声が出にくいというのは当然ですけれど、ピッチが安定しないとかリズムがうまくいかないというのが、必ずしもリズムや音感がないのではなくて、声が出ないがために、うまく響いていないがために、そういうふうに見られてしまうことがあります。だから、体の感覚は両方一緒です。

○レッスンの変容と使い方

 私はトレーニングに関しては、5年くらい前は、全日制にしていました。毎日、1日3時間4時間まで使ってもいいとしていました。今は完全に個人レッスンにして、月2回から8回くらいまでです。
 私のレッスンで15分というのもあります。月に15分で何ができるのかとよくいわれますが、本当のレッスンとは5分、60分あってもできていない、1分くらい。

 レッスンの考え方ですが、全日制にしたときの良さと悪さ、良さというのは、何もわからない人がわからないなりに、それだけ時間を来ていたら何かは身につくというよさです。とにかくそこに行っているのだから、その言語がしゃべれるようになる。
 反面、依存症にしてしまう。そこに行っているから、何かが身につくという、それだけ時間をかけたのだからとなる。本人が製作していなければだめです。

 レッスンの時間を短くするということは、そこに対してテンションなり準備ができます。歌1曲の世界は3分、賞味でいうと1コーラス、それを聞くか聞かないかでいうと、5秒から10秒くらいの世界です。
 どこかの聞かせどころの5秒を、きちんと構成するために1分くらいあって、1コーラスという、それだけの世界です。そこの中で入らなければいけないから、15分といったら、長すぎるくらいです。

 どんなレッスンをしているかというと、月に20曲くらい与えます。無茶な考え方ですが、昔合宿で、私が与えた曲は3日間で18曲です。自分の表現をつくれる人は、この18曲をベースで入れるのにどのくらいかかるかというと、18曲といっても1番だけですから1分ない。歌詞を覚えるのは確かに無理で、それに3日かかる場合もあります。それでも、だいたい18曲叩き込むのに2時間くらいです。すぐれた人であれば、1時間くらいです。4回くらい聞いたところでほぼ覚えてしまいます。
 一般の人がやると、1曲を3日間でやるのに、全然時間が足りない。30日かけて1曲くらいでも足りないわけです。それこそがれっきとした能力の差です。

 楽器をやっている人ならわかりますね。ギターやドラムだったら、プロなら一回パッと聞いたら、だいたいのことはできますよね。ヴォーカルの中でも、音楽的な理解ができていたら、歌詞で覚えようといったら、大体こんなことをいっているなと、そうしたら、その歌詞どおりではなくても、その世界を即興で歌ってつくって、ことばを補うことくらいはできますよね。
 ところが幼稚園の子ならそういうことはできない。機械的に「あ」「る」、次は「い」、というように覚えてしまうから、すごく時間がかかるし、間違いも起きる。

 歌はそういうものなのです。そのとおりに歌うのではなくて、一回自分の中に入れてしまったら、あとは、自分のほうが優れていたら、変わったらもっといいものが出る。自分のほうが優れていなければいけない。
 多くの場合は、アーティストのほうが、優れていますから、追いつくのにやっと。でも、この時期が一番楽しいのです。
 一流のアーティストをどういうふうに聞くか。トレーニングでやることは繰り返しでいい。ただ、時間ということではなくて、むしろ、この1分、5秒の中で、どのくらいの気づきを起こすか。

 結局レッスンは、気づきのためにあるのです。あるいは切り替え力。これをプロ並みにつけるのが第一です。何で18曲も与えるかというと、それだけ与えると、人間は飽和してしまいます。どうなるかというと、やれるようにしかやれないのです。そうすると逆に本質的なものが見えてしまうのです。バーッと与えてしまうとよい。

 最近のゆとり教育のように、1週間で2曲でしょうとやっていては、とてもじゃないけれど、3回くらい聞いたら全部歌えてしまうような人が、世の中にはいるのだから、追いつかない。やってみて追いつかないなら仕方ないけれど、やらないで追いつかないのはどうしようもないから、情報としてはたくさん与えるということです。
 それで3日で形つけて発表しろといったら、大体何とかなるのです。そのときに音に神経を行かせる。簡単にいうと、18曲って音の世界ではそんなに難しいことではないでしょう。せいぜい嬉しいこと、悲しいこと、恋愛、世界や自然のことを歌って、そんなものでしかないでしょう。それが様々なシチュエーションとして、歌として違っているだけです。

 18曲といっても、1曲と捉えたら1曲です。映画でも18曲で、1コーラス分だとしても20分くらいでしょう。そうしたら、これは普通の世界でいうと、1ステージです。歌い手が1曲だけ歌って、持つステージはないですね。その人の世界ということでは、そのくらいやっているのです。そのくらいの把握をしなければどうなるかということです。

 歌い手はすごくだらしない、いい加減だから、3分の歌を細切れに覚えてくるだけです。逆にいうと、1曲の中だって18曲くらい入っているのです。いろいろな場面が入っている。そういうところでつながらないと、本当の表現にはなってこない。
 そういうことに気づくようなシチュエーションをとっていっていたのです。レッスンは15分でも15秒でもいい。最近の日本人だと30分いくらかとか、他の人は10分長くてずるいというような、せこましいことになっています。

 言いたいことはレッスンは気づきにくるんだということです。この気づく回数、深さ、それを変えていくことが大事です。トレーニングは最初はこんなんです。10代のときは、こんなんだからと、トレーニングということではなく、成長期でそうなってしまうのですね。別に何も悪いことしていないし何も練習していないけれど、すごい声が出たり、すごくだめになったりする。それはコントロールしようがない。
 ところが年齢がいくにしたがって、それなりに落ち着いてきます。人生も似たようなところがあります。
 でも、それを1回崩してみて、なるだけ高いところに、レッスンに来るときとか、自分で勉強するトレーニングするときにはそろえていく。これを確実にできるようにするのが、トレーニングです。

○奇跡をめざす

 プロの条件は、奇跡的なことが年に何回起きるかということは当てにできませんから、最低限にここより下がらない。声が悪くなったときも、ここよりは出るということ。
 発声練習では出なくて、ドクターストップもかかり、ステージで声もガラガラなのに、ある高い音の瞬間、パッと歌えてきちゃうという、それが能力です。
 客はそこしか見ないから、その人の発声練習なんて、どうでもいい。ところが真面目に練習をしている人は、逆なのです。発声練習はできて、ステージではまったく声が出なくなるという、これは非常に不利な人ですね。

 トレーニングとしては確実に、ひとつの最低ラインをつくっていく。これが高くなってくればなるほど、いいことが起きる、いい状態にキープできる。そういうところで、はじめて気づく。
 気づきというのは、こういう世界で何かというと、人間が普通の人より優れていくことの唯一のやり方は、自分よりレベルの高い人に引きずられるようにしていくしかない。高校生なのにプロのなかに混じってやってみたら、一瞬だけ体が彼らと同じように動いたとしたら、そのときの感覚にするのです。この辺が普通の人には難しいみたいです。

 皆、自分が正しいと思っていて、自分の感覚でやろうと思っている。自分の歌を自分の声で歌いたいと。それは私から見たら、その人がよほど天才でないかぎり、大勢の中のひとりにしかすぎない。自分の世界や歌といっても、それはその人の世界だから、こっちは関係ない。そっちで自分の世界をつくってこちらが欲するくらいにしていらっしゃいということです☆。

 ステージというのは、そいつがこちらを巻き込むわけでしょう。何らかのかたちで、そこに活気をつけてくるわけです。こちらがつけるわけではありません。だから、そういうことで言ったときに、そういう力はどこでつくかというと、一流の作品の中から、感化されてです。そこに瞬間的なものでいいから、その感覚を捉えられたり、そういう声や音楽的な処理ができたりということを組み立てるしかない。
 感覚的にでもいいし、自分が声がうまく出るなと思った部分でもいいです。私のプロに対するレッスン、アマチュアの人でもレベルの高い人に対するレッスンは、その人の一番いいところだけを持ってきて、それを最低ラインにするということです☆☆☆。

 だから、他の高いところで出ないところとか、英語がぐちゃぐちゃとか音程が悪いところ、その辺のところはかまわないのです。学校に行ったら、それを直されますが、それを直してみたって、その辺のOLやサラリーマンでうまい人にかなわない。
 ヴォーカルスクールはそういうことができない人が来ています。だからそういう意味でいうと、確かにカラオケのうまい人のほうが力が上なのです。そういうものを直していって、彼らの半分くらいの力にして、どうなるんだということです。彼らが、ここまで歌えないから聞き手のほうに回らなければいけないなと思う歌は、そういうところからはやっぱり誕生しない。それが一流と認められるかは別としてみて、少なくとも、声が動くところがベースです。それをどういうふうにベースにしていくかというのは、音楽が入っていないとやりようがないわけですから、それは入れてもらうしかない。

 バンドのプレーヤーに比べて、ヴォーカルの音楽の入り方は、浅い。作詞作曲している人は、だいたい同じになってしまうから、スタンダードをたくさん聞いて、優れているものをどんどん入れていくしかないです。
 一番いい状態は、その人が天才なら別ですけれど、そうでなければ自分の頭や感覚が働かないときが一番うまくいっている。そういう自覚をしたときのほうがいいですね。自分にこだわっているかぎり、自分の声で持っていこうとするし、自分の気持ちよさで歌ってしまいます。確かに自分が気持ちいいときはそんなに悪くないと思っていますが、自分が気持ちいいことが、人に気持ちいいのかは別なのです。

 スクールが成り立たないのは、自分たちが楽しいステージをやれば、客も楽しいんだと思っていることです。私たちはそういうのが一番しらけます。あいつらは楽しいんだ、何で私はここにいるんだろうという感じでしょう。
 やっぱり客は、向こうが苦労して、こっちをすっきりさせてくれなければ、いけません。こちらが金を払うのに、何であいつらが楽しんでいるのを見にいかなければならないんだという感じでしょう。

 友達か何かなら、元気な姿を見て、明日から頑張ろうとかいうことでいいのでしょう。その辺の勘違いが、全体的におきています。
 すごく陰で努力したような人たちが、楽しんでいることは、レベルとして高いから、本当の意味では伝わるのだけど、そうじゃない人が単に楽しんでいるのは、表現にもなりません。音楽にもならない。だから、それを一緒くたにしてしまっています。

○日本人向けの学び方

 緊張してやると、皆、声が出なくなってしまうから、成り立たない。でもステージは一番大変なところでやるわけです。ステージよりもプレッシャーが高い場所、それが練習の場所です。ここの研究所のこのステージでやったのなら、どこの場所へ行っても怖くないというところをおいてやらないといけない。その辺が他の学校に行くと、そんなことをやると生徒がやめてしまうとなる。

 学校は、生徒を集めなければいけないということと、その生徒をやめさせてはいけないというところに縛られてしまうのです。そこには縛られなかったから、ここは減ってきています。でも、長い人は10年います。
 当初、50人くらいのときは、私が何をやらなくても動いていたのですけれど、100人を越えて150人くらいになってきたところから動きにくくなって、300人を越したときには、専門学校に行っていたときと同じような感覚でした。

 ここに来て、あいさつするだけという、キャンパスライフになっているのです。友達同士で刺激しあうといって、つるんで遊びにいっている。お互いのライブに行っていたら、何かが成り立つだろうという錯覚になってしまうのです。
 昔はそれより、トレーナーの一言がきいていたのですが、だんだん今の世の中、周りの仲間内の100言を聞くようになってきた。だから、そういう意味は個人体制に切り替えざるをえなかった。

 私はグループをやるときの唯一の条件は、うちのトレーナーや私よりも、テンションが高い場合です。生徒のほうが高いときでないと、特に日本の場合は成り立たないです。先生がテンションを上げてやっているようなグループでは、まず何も育たない。先生が疲れるだけ。先生はそうやらざるをえないところがあります。カルチャーセンターなどは、そうやっているところもあります。しかし、やっぱり本人が自覚を持たないといけない。

 一般の声に関しても同じように考えてください。自分の中での声を判断すること。それから、歌や発声になったときのほうが、日本人は感覚や声を非常に鈍くしてしまっています。日常でも、我々は声に対してどういう感覚を持っているか。
 あまり感覚はないのですが、それでも皆さんが日常の声を、全部記録し分類できたとしたら、何十種類も使っているはずです。ところが、歌になると一種類くらいしか使っていないことが多いのです☆。

 基本となる声はひとつ、そのひとつの声を動かしたところに、いろいろな声の表現は出てくる。だからといってひとつではないのです。
 だから、日常で出している声のほうが、いい声を出していたり、楽に体から出していたり、腹式で出していたりすることが、結構あります。それは関連づけることです。

 日本人の声は、元々強くないから、舞台や歌を歌うときに、必要だったのは、大きさだったのです。音響が悪かったから。だから、役者声というのをつくってみたり、あるいは歌い手のための声、コーラスでやっているみたいな声、あるいはミュージカルで急に出てきて、ぶったまげる声がありますね。何でいきなり踊り出すのかとか、何でいきなり音程だけ歌っちゃうのとか、さっきまでようやく台詞で感情移入してきたのにと思う。こういうことが日本の場合は、形しかとらないから、力がないといったら力がないのだけど。
 本来であれば、そこで成立していなかったらやめるのです。ところが客のほうが、そこで疑問を呈しないで、おかしいものをおかしいといわないから、あれについていけない俺がおかしいんだとか、あれに感動しない俺の感性が悪いんだとか思って、成り立ってしまう。

 日本人を馬鹿にしているのでなく、日本はそのレベルにしかないから、がんばりましょうということです。
 そのレベルしかないところに出ていけないというのは、情けないことです。ふつうの世界の10分の1の努力で、トップまでいけてしまう世界。アメリカで20歳をすぎて、ヴォーカル初心者ですけれどやりますということは、許されない。10歳くらいでかなりうまくても、歌えているなんてとんでもない。村中の人が知っていて、天才という人が、ヴォーカルできるかと考えるくらいです。
 向こうの知り合いの話では、マイケル・ジャクソンやマドンナを聞いていたら、馬鹿にされてしまう。我々でいうと、そんないいもの聞いているのという、そのくらいの差がある。それは、環境だけではありません。

 できるだけ高く望みを持ったほうがいいということです。気づくということを言いましたから、書くのも、ひとつの勉強です。こういうものをどういう判断するかということです。トレーナーになる必要はないのですけれど、判断の基準というのは、必要になってきます。それは声に関してもそうです。

 そのときに、一流のものをどう聞くかというのは、あります。聞いたときに、好き嫌いが出てきますね。それを日本人の場合は、まず、分けることです。好き嫌いと優れている優れていないというのは、違うということ。
 日本のヴォーカリストがなぜあまりうまくならないのかというと、好きな人の好きな曲を、好きなように歌っていたら、そのように歌えたら気持ちいい。そこに疑問なんかないですね。
 楽器の人が、それをできたら、同じになってしまったと、これじゃ二番煎じだと何か考えますね。自分の音は、どうなんだろう、どうやれば自分の音が出せるのだろうという課題に入るのですが、ヴォーカルの場合は声が違うから、好きなように好きな歌を、好きな人のように歌えてしまったら、それ以上ないのです。

 だから、勉強するにはできるだけ嫌いなものを、嫌いだけれども、すぐれていると認めざるを得ないもの。これは嫌いにだと思うようなもの、けれどこいつがアマチュアかと聞かれると、プロだと認めざるをえない歌や声だと思います。
 そうしたらそこから学ぶものが、プロの基本のものなんだということです。これをやらないで、ヴォーカルは嫌いな曲を聞かないし、まして歌うこともありえません。だから好きな曲を自分だと思っている。その中で、声とある程度、歌をわけて、声の中で見ていってほしい。

○正誤で考えない

 もうひとつオリジナリティというのは、自分の表現の中から出てくる場合もありますけれど、同じ声を聞いたり同じ歌を聞いたり、それをどう捉えるかというのも、一つのオリジナリティですね。
 他の人は見向きもしないけれど、俺はこの国の音楽のこの曲がすごく好きなんだと、何かしら思うとしたら、そこは自分の将来につながる可能性があるのです。
 その国の音楽をやれということではなくて、そういうふうな音の動きとか、そういう感覚は、どこかに自分に入っているか、そうでなければ、何かしら、血の中に感じる。

 皆そういうところで入っていく。だから、皆さんも大体、こういうことをやる方というのは、歌や歌手を聞いて、何かを感動してきているのでしょう。それはひとつのきっかけになります。ただ、それが目標ではないということです☆。自分の目標とそこを切り替えなければいけないのです。

 気づくということだから、だいたい気づかないことを考えてみればいい。まず入っていないものは気づかない、それから足りないもの、こんなものを補っていくのは、ひとつのレッスンの勉強だと思ってもらえばいい。
 どこまで戻すかというと、ここの場合、多彩な人が来ますので、根本的に音楽の好き嫌いを人と語っていても仕方がない。日本人だからそうであったということ、日本人、日本語、日本で生きてきた。たまにこの条件から外れる人が来ることもありますが、日本に留学しているというような人は別です。

 しかし音楽の場合は、音で構築されたという条件です。この条件の中で音声というのが、けっこう外れているのです。さらに、日本ということで、世界の標準からも。
 こうなってくると、欧米がいいのかという話になってしまうのですけれど、欧米はいいのだけれど、欧米だけではなくてアジアだけでも、アフリカだけでも、同じ。リズムだけになってしまうと、もっと違うのです。

 全世界に対して、効果を上げたというのは、声楽です。これは欧米が強かったから、キリスト教が広まったのと同じように、優れているかどうかは別です。そこでやられていた教育が、クラシックバレエと同じように、やっぱりアフリカやアジアの歌手、それからイタリアだけではなく、ドイツと、ヨーロッパ全土に優れた人たちを生み出しているということは、民族の血をこえてやるやり方が、この中にある。
 というよりは、これだけ試される機会を与えられたということです。

 日本の邦楽も全世界でやってみたら、効果が上がるかもしれない。が、そういう機会がなかった。たぶん、日本のも、空手や柔道と同じようにあると思うのです。こういうことから考えたときに、どっちを選べということではなくて、あまりにこっちで全部やってきたのだから、それが必ずしも強い世界ではないのだから。
 音楽に関しては、むしろ弱小国です。中国、台湾、韓国の人の声はすごく強いし、大きいし鋭い。そうじゃないところに一回中心をとってみて、人間のところに戻ってみて、もう一度考えようと。

 トレーニングに関しては、よく正しいか間違いかといわれるので、総論として、そうではない。結果的に応用できればいい。その先生が正しいとか、正しい方向とか簡単にいえません。確かに勉強するほうとしては、間違ったものにお金を出したくないし、時間を費やしたくないと思うかもしれない。
 何が正しいかというのは実証されていない。単純にいうのなら、基本を身につけていく。基本というのは何かというと、応用できる力です。

 だから、ここでもあらぬ混乱を、いろいろな先生につけることで起こしてしまいます。もし、先生のやり方が違った、優先順位も違ったというときに、その先生がこうやりなさいといったときにあわせられないのなら、それは基本の力がないということです。
 まったく意見が合わないのであったら、その先生につく必要がない。その先生から学ぼうというのであれば、そこで応用できなければいけない。
 学校を卒業して、留学したり、クラシックやジャズをやってみたときに、それはだめだよと、言われるのはいいのです。そのときに、こうやりなさいといわれたら、できなければ基本もないということです。そういう考え方です。

 私としてはこっちをやりなさい、あっちをやりなさいということは選ぶ必要はない。両方できるようにしましょうと。
 使うときに、こっち側に戻って、こっち側を全部捨ててもかまわない。こっちが必要なら、こっちも使えばいいというようなこと。その辺は日本人は、非常に真面目で、本当にそこで二者択一苦しんでしまう人がいますが、正しい正しくないということではないのです。
 もっというのだったら、誰かには正しいけれど誰かには間違っていることもあります☆。その辺を知っていかなければいけない。
 レッスンをやるときに、第一に感覚、日本人に足りないところは、耳の力といいたいのです。まず息を聞く必要が、我々の言語にはありません。声も言語から来ています。日本語の歌、日本語の成り立ちからいって、強い息というのがない。そこを聞いてみてください。

 呼吸法の問題は一番大きいのです。簡単にいうと、バレエでいうと、少しは踊れるとする。一番簡単な箇所を2秒くらいだったら、ちょっと隠れてどこかでやれば、プロの人以外にはわからないくらいには、踊れる。ところが足を上げてとか、ジャンプしてということをやらされたら、ばれてしまいます。それはバレリーナにとっては当たり前ですけれど、我々にとっては高度なことです。

 できないところに対して取り組むのではなくて、まずできるところに関してきちんと繊細に見ていく。その感覚を働かせるためのことです。
 できるできないをどこで聞くかというと、私も自分の若いときは今と比べて、聞く力は全然足りないのがわかります。
 同じ曲を1回聞いてみても、そこにアンテナが20本立っている人と、普通の人だと1,2本しか立たないという違いだと思えばいい。

 気づくとはどういうことかというと、勉強、トレーニングしながら、そういう人が一瞬でできることを自分も、5年10年たったときにできるようにしていこうということなのです。
 そのためにどうするかというと、真似するのではなく、真似してできるのなら、もうできているのです。多くの人が真似できないことの原因を声量がないからとか声域がないからとか、思っていますが、そうしたら一瞬のところをやってみればいい。一瞬のところをやってみても、相当の違いがあるはずです。

 ところがバレエで後ろのほうでちょこっとやったものをやっていては、一般の人にはやれたように見えてしまう。でもプロの人が見たら、瞬間的にわかる。それは姿勢を見たり、1秒見ただけで、こいつは素人だ、何で出てきたんだと、プレイをしないでわかる。

 多くの人が声量や声域が出ないというのは、一流の人の高音を出しているところしか見ていないのです。それをやって、そこができていないと思っている。でも、それは出だしの5秒でわかってしまっているわけです。
 わからないのは、自分の基準がそれを許してしまっているからです。音程をとれて、メロディがいえて楽譜があって、ことばが言えていると、そこは歌になっていると。歌になっちゃいない。人がお金を払う歌には。だから、そこからいかなければいけない。

○息を聞き、入れる

 まず、今聞いてほしいことは、息です。トレーニング論でふっかけられてくる場合があるのですけれど、ブレスヴォイスのトレーニングなんてないといつも言っているのです。勝手に生徒や一般の人が本を読んで、論にしてしまうのです。こういうやり方というふうに自分でつくってしまう。
 それでやってうまくいかなくなると、こんなやり方は間違っているとなる。だから、そういうものではない。それはその人なりに、捉えなおして、自分の論としてつくっていかなければいけない。誰もに当てはまる理論というのはあるのではないのです。

 自分がやってきたことが正しければ、それが理論と、人に説明するときにはなってしまうということにすぎない。だから、その人が迷ったら、現場を見なさいよという。それは私の声や発声を見なさいということではなくて、その現実にやられている一流のステージを見なさいということです。

 そのなかで息はどういうふうに使われているか。もっというと、腹式呼吸などやらなくてもいいし、呼吸法がよくわからなかったら、それこそ必要性がないわけです。
 本当に必要に思ったら、言われなくてもそれをやります☆。その必要がないところでやっているトレーニングというのは、そこまで必要性を見つけるための予備期間です。まったくトレーニングになっていない。
 役者でいうと、瞬間的に動けなければいけないというのは、瞬間的な演技を要請されなければ、必要ないのですね。でも、そういうレベルで要求されている人は、そういうことをたぶん要求するというようなことです。

 ですから、わからなくなったら現場を見る、一流を見るということと、その現場の中にあるということにヒントを得なさい。
 たとえば腹式呼吸にしたいといったら、腹式のトレーニングをするのではなくて、歌の中にそれが使われているところはどこなんだと。息だから聞こえないのだけれど、聞こえるものもあります。よく聞いたら聞こえます。

 皆さんが考えることは5年10年トレーニングしたときに、そういう息が自分の歌の中に出てきていたら、そういうことが身についたんだと考えたほうが、よいです。

 トレーニング法をどんなにやってみても、それはトレーニング法です。現場とは離れています。どこの学校でも、腹式呼吸というのはやっています。営業マン研修というのでは1時間でやってしまうところもある。カルチャーセンターでも1日目にやってしまう。でも、次の日から何も変わらない。それは今までやっていたことを単に確認しただけなのです☆。トレーニングにはなっていない。
 息を聞いてください。一番違うのは息の量ですね。太さも違います。それは言語と音質の違いです。
 歌っていない、というのは、結果として歌になっているのだけれど、きちんと成り立たせてくみ上げていくことをやっていく。

○自分の力を把握する

 ヴォーカルも声も間違うことはそんなにないのです。ところが日本の歌のように音だけとってみて、つないでみてやってしまえば、わからなくなる。皆さんがカラオケに行って、エコーをきかせてみたら、ボソボソとしゃべっているようまものでも歌になってしまう。
 エコーを切ってみたら、下手になるし、マイクをつけてみたら、もっと聞けなくなりますね。

 だから、トレーニングというのは、裸のところでやらなければいけない。そういう虚飾をとっていかなければいけない。基本に戻すということです。バンドの中では歌えていると思う。マイクを外してみる。バンドをとってみる、ピアノと一本でやっていく。
 そうやっていくと、どんどん自分の力が明らかになってきます。
 力をつけるときのやり方と人様に見せるときのやり方はこのように逆です。

 人様には力のないのを見せてはいけませんから、どう考えても、できないところは最大限、かくさなければいけない。誰も下手なところを見たいと思ってきているわけではない。
 ところがトレーニングと同じようにそれをやったら、たとえばカラオケに行って、毎日3時間歌っていたからと行って、それだけ雑に扱っていたら、何もやらないよりはいいと思いますが、それを10年やったからといって、そんなに歌がうまくならないですね。
 それはどうしてかというと、自分が思っているところの基準までしか判断できないからです。その基準自体が高くなっていかないと無理ですね。その基準を高くしていくというのが一番大切なことです。

 客観的に聞かなければいけない。その客観性をもって追及していくことと、ステージは反します。
 ステージで衝動的にやるときに、頭が働いていたら、遅れてしまいます。その切り替えがどのくらいできるかというのが、問われます。なかなか両立しません。

 日本でも洋楽をうまく歌えるヴォーカルがいるのです。ほとんどの場合は、ジャズも、衝動性やインパクトにかけます。エネルギーがない。研究してしまうとあまりに、真面目になりすぎて、そこに入り込んでしまうのです。客にはそれが伝わらない。
 かたや、若いだけで暴走しても、歌はそれで伝わる部分もあります。そういう人は一発屋で、その後につながらなくとも、それもあり。
 きちんとした意味で構築しているわけではない。たまたまひらめきが世の中に受け入れられたりすることがあります。それを両方やらなければいけない。楽器の人はそのあとに絶対うまくなっていくのですが、ヴォーカルの場合、必ずしもそうではない。なぜかというと、いろいろな技術を覚えていってしまうからです。下手に思われない技術、と守りに入ってしまうのです。それはしかたないのでしょうか。

 日本のヴォーカルはそんなに声は使えないのだけれど、向こうと同じだけの曲を歌わなければいけない。となってしまうと、薄まってしまうのは当たり前の話。
 その薄まったところを見せないように、いろいろなところをやります。それが歌の邪魔をしてしまうのです。それをとってしまうとお客さんに伝えられなくなってしまうから、どんどんそういう方向にいきます。

 だから名の残っている人は、すごいことをやってきているのです。けれど、日本の場合は、往年晩年になってくると、ピッチさえ狂ってしまうような情けない状態になってしまうことが多いです。
 批判されないからです。作品についての優劣、優れているのは言われるのだけど、劣っているときに何も言われない。クラシックではメタメタに言われます。オペラでも、この前はよかったけれど、今回はメチャメチャだったというような人がいるから、よい。落語でもお笑いでも正にそうですね。ところがポップスはなぜかしら、褒めの言葉しか来ないのです。それが一番歌い手にとってはかわいそうなことです。

○息、音色、リズム中心に

 高いレベルでいうと「ハーーーー」、こういう息をコントロールすることです。これが呼吸のコントロールになってきます。深い息というのも、日本人にはわかりにくいのです。けれど、なんとなく浅い息はわかるでしょう。死にそうな息のとき。深い息というと「ハーーーー」というのを連想しがちですが、これでは歌えないですね。深い息というのは、「ハーーーー」、本当は音がつかないのですけれど、音がつかないと口を開けているだけに見えてしまいますから。「ハーーーーーーー」、これだけでも汗をかきますけれど、ゆっくり出すと1分か2分とかになるのです。別に長さを競ってもしかたないので、吐ききってしまいました。本当は長くやると後のほうで形が崩れるからよくないのです。けれど、まったくわからない人にしたら、長く吐けるというのは、努力目標になるというようなことです。

 本当はコントロールできるところでやめてよい。本を読んだら、20秒を40秒、それを60秒にと書いてあります。歌の中で実際に10秒以上伸ばす箇所ってどこにあるんだということです。台詞がどんなに長くても、まず20秒、伸ばすということはないです。そんなものを40秒にしても60秒にしても、何の意味もない。でも、トレーニングになるとそうなるのです。
 私が書いているのを引用して、さらに付け加えてしまうのでしょう。そうやって本質が外れていってしまう。本来は息をコントロールするはずだったものが、長さ競争になってしまう。
 高音競争も声量競争も同じです。実際、神様に与えられた以上のものはできない。ただ、それを磨いていなかったり邪魔したりしているから、それを使いやすいところまで使いましょう。それ以上のものは望んでもしかたがない。

 トレーナーだったら、マライア・キャリーのように歌えるのかというと、意味がないし、仮に同じにできたとしても、男性が女性を真似するというところで、非常にハンディキャップがあります。そこが楽器と違います。楽器の場合は、そのプロと同じ楽器を手に入れたら、同じ音色を追求できます。ヴォーカルはできないです。似させれば似させるほど、違ってきます。

 参考として、日本語と外国語、ベースのことですが、洋画を見ながら声を体で浴びてください。英語でなくてもいいのですが、そういう発声ポジションをやってみるというのも、ひとつの声をマスターするためのベースにはなります。一番わかりやすいのは、同じ曲で比べることです。
 特に日本語がはっきりしています。きちんと口を開けていないが、音楽の流れやシャウトがうまく入っています。今のJ-POPSにこういう人が出てくるのは、ありえないでしょう。
 何となく今の若い子にとって、古いとか押し付けがましいとか、違う意味で拒否感が働きます。だから、うまいということと現実にやっていくバンドとの違いがあります。

 何が一番の違いかというと、こういうものは、コンクールになったときに、この人は1番、この人は2番、3番と、順番がつきます。ということは、その上に何かしらの基準があるのです。オペラでよりうまい人がやったら、これより上になるかもしれない。
 それからこの人が仮に30日出たとしたら、たぶん私だったら、30番まで順番をつけられると思います。たとえば3日のが一番よかった、8日は高音のところがかけた、7日のところはリズムのノリが悪かったと。そんなかたちで全部点数がつけられると思います。

 上達するということは、ある意味、評価の土俵の上にのっているのです。それはトレーナーになりやすい人、トレーナーの基準に合いやすい人なのです。だから、我々もこういうふうなヴォーカルになりたいというのなら、非常に育てやすいです。ただ、こうなったから、他のところでどこでも仕事に困らないというと飛び出すと、危ないですね。それはどうしてかというと、見られるものがそれしかないからです。だから、これをバンデラスがどう歌っているかを聞いてみるといいかもしれません。

 だいぶ違うでしょう。それが、日本語と外国語の、その2つの言語の違いでもあります。日本でどっちが好きかというと、それまで聞いてきた音楽も大体わかります。相当年配の人だと、日本人のはわかるけれど、こっちは何じゃというようになるでしょう。
 地方の人だと、どちらかというと、声楽っぽくて日本語の歌の方がうまかったし、きちんと歌えていましたね、上手だったと見ると思います。
 それは価値観の違いですが、日本語でやってもらって伝わるほうがいいという部分はあると思うのです。ただ、音楽というときに考えたときに、それが日本人がそこから出られない部分になっています☆☆。バンデラスの歌は正解はないのです。相当いい加減にやっても音楽が入っています。

 そもそも、どっちを選ぶかというと、ストイックなかたちはきついですね。もし、前者の人のように歌ってくれといわれたら、半年くらいかなりストイックな生活を送って、体を鍛えて、オペラの先生について、戻すとなる。そう考えること自体嫌になってくるのです。

 だから、自由度の違いもあります。バンデラスのは人と比べられないでしょう。このほかに誰かがいたとして、どれがいいか悪いかは、好みになりますね。だから、嫌いな人がいるということは、好きな人もいる。そこの部分の自由度はあります。
 それから順番がつかない。これ、ヴォーカルの場合、大切なことです。学校の卒業したヴォーカルと、巷でストリートでやっているヴォーカルの違いは、ストリートは下手かもしれないけれど自由、学校でやっているのは大体順番がついてしまいます。こいつの次はこいつがうまい。そのこと自体が本当はよくないですね。

 それから音楽としてみたときに、皆がドライブに行って、1曲しかないときにどっちを聞くかと、こうなってくると、けっこう、50代以下になってくると、ストーリーでは2回くらい聞けても、3回目くらいになってくるとつらくなってくると思います。ストーリーで運んでいる。歌が何を言ってしまったということがわかったら、それ以上に何を聞くかというときに弱いのです。そこで物語がわかってしまう。
 英語で聞いて、英語はわかっても、そういうふうには聞きません。英語で歌われたから、こんな意味だったというふうには聞かない、ほとんど解釈しない。楽器音として聞いていくわけです。それは外国語だからということではない。演奏という形態のなかでやられている。歌というのは、音楽なのです。

○日本人の声感覚

 ヴォイストレーニングの学校でやっていることは、この生の声の発声、ここの部分です。これはしゃべっている部分とか「あ」といっているところです。それからフレーズとしての発声、フレージングがあります。ロングローンにしてみたりする部分です。ここの中でメロディを処理する。もうひとつあって、それが演奏の形態としての音楽的な構成です。
 ここの構成の部分で、日本の歌というのは、あまり成り立っていないのです。そういう耳で客が聞いていないからです。

 もっというのなら、声はひどい、歌い方もうまくない、でも味があって、好きだというヴォーカルは、世界中にたくさんいますね。そういう人たちはここで成り立たせているのです。
 たとえば、エルビス・コステロ、声もそんなによくない。作詞や作曲の力もあるけれど、それを除いてみても、味のあるヴォーカルはたくさんいます。発声も、生まれつき声にも恵まれていないし、歌唱もそんなにうまくない。エリック・クラプトンもそうですね。ギタリストといえばそれまでですが、ヴォーカリストとして音色や構成がある、ファンの人たちは、そこでみているのです。

 声から捉えてしまうと、どちらかというとこちら側のほうが中心になってしまう。そうするとうまいとか、基本ができていると思うのは、声楽出身のヴォーカルかもしれない。
 でも現場で盛り上がったり、ステージとして、音楽として強いのは、どちらかというと後者のほうなのです。きちんと構成ができて、ちゃんと盛り上がって、お客さんが押しかかる。
 声楽出身者で欠けているのは、そこの魅力です。日本語をきちんと言ってしまうがために、音楽的な構成と流れがなかなかつかめない。

 息のこと、音色のこと、こんなことを日本語で聞く必要がないのです。聞いてはいないのです。
 日本語で認識できるのは「あめ(雨)」「あめ(飴)」、「はし(橋)」「はし(箸)」、これがわかるでしょう。「はSHI」、こう言われると困るわけでしょう。ところが外国語は、そうでしょう。そこに強いアクセントがつくから、そのアクセントをついているところを元に、何の単語かということを見ていくわけです。日本語とポリネシア語が母音中心です。基本的には外国語は子音が中心です。

 我々の発声を扱うエネルギー源は呼気です。吐く息のことです。これが声帯のところで声に変えます。喉頭原音という、一番基本の音になります。ほとんど響きがないのですが、これが共鳴して、楽器音になります。人間の楽器音は、基本的に母音です。母音がこの時点では鼻、あるいは口から出ているのです。

 それに対して、もう一加工、人間がやること、ことばをつくることです。構音(調音)ということです。ここのところで子音をつくるわけです。出ている共鳴音を妨げるわけです。どこでやるかというと、歯や唇、舌とかでやる。
 この4段階があって、日本語は楽器の部分のところまでをベースにした言葉なのです。彼らはこれを妨げます。妨げるがために息を吐く。英語だったら、Hの音が中心です。「H−ッ」こういうひとつの吐く息の流れの中に、強拍がうまれてきます。ここに弱拍が巻き込まれていくというのが、ベースの構造です。

 この強拍、弱拍というのがリズムです。日本語は、高低アクセントというのが音程アクセント、メロディアクセントとなります。
 外国語はリズムが中心ということと、もうひとつは息を吐いて、それを妨げますから、子音が出るということは、同時に音色が出るのです。いろいろな音色が出ます。いろいろなところで妨げられるので、音色がつくられます。彼らの音楽は基本的にリズムと音色で動いています。
 我々日本人は、メロディと音を発することはそこで発音、ことばになります。我々の歌は、ことばとメロディが中心なのです。聞くほうがそうだからしかたない。

 四季のを聞いてもそうですが、高音のところはすごく厳しそうでしょう。声が裏返らないかとか、聞き手が想像してしまう。それは結構不自由なことではあるんです。
 ひとつの土俵の中ではきちんとできています。それは私はベースのところから変えてしまうつもりでやっています。

 日本の政治家やエアロビのインストラクターなど、皆、声がかれているのです。外国人にはそういうことはないです。言葉を使って説得していく政治家が、声を枯らすというのは、言語道断です。外国などでは考えられないことです。
 深夜で、外国人の通販番組をやっていますが、すごくいい声でしょう。あれが普通なのです。体から息を出して、体の状態をすごくよくしているのだから、普通よりも、声が深く楽になるのです。
 日本の場合は、そういう人は、体を動かして、息は吐いているのだけど、声にするときになかなかうまくいかない。

○音声耳を鍛える

 この前、万博で群読というのを見てきました。彼の芝居は、体の動きがすごく早いから、それに対して声は上のほうでひしゃげてつくる。そうしないと、体から声を出していると、喉を壊してしまう。だから皆、そういうふうになっている。

 あの群読力は弱いですね。高校生を集めてやったほうが大きく聞こえます。だから動きが中心、見せるのが中心。群読は、小学校でやっているみたいですけれど、皆で詩をあわせて読んだりする。声の響きが、狭いところなのにしゃべっていてもよく聞こえない。だから日本の芝居もそうですが、結局動きのほうにとられてしまうのです。客が目で見るほうにいってしまうからです。
 我々日本人は、目で見るほうについてはすごく細かいのです。声をよくしようと考えないで、カラオケを発明します。そういうところが、芸でいうと、全部裏目に出てしまうのです。特殊な国です。
 本当に食事でも、目に対しては、本当に細かく色を分けたり形を変えたりします。その分、耳に関してはそういう必要がないのです。

 音自体が少ない、母音が子音とあわせても、百何個くらいの組み合わせでしょう。日本語は逆さことばもできれば、駄洒落もできるのです。少ない中で使われているから、言語だけでやりとりしていると誤解が出てしまう。だから読み書きが中心です。我々の教育は、漢字の書き取りとか読み書きで終わってしまっているのです。

 その間、彼らは何をしているかというと、演劇のワークショップのようなことをやっているのです。詩の朗読のしかた、どのくらいのトーンで、どういう間をあけて、このくらいの人数だったら、どのくらいの声量で喋れば、いちばんよく聞こえるのかを学校でも家庭でもやっているのです。
 兄弟2人にディスカッションをさせて、どっちが正しいかを兄弟けんかでも判別させる。すべて音声が中心です。彼らの場合は、小さいころからやっています。我々が養成所に入って、4,5年やることは10歳くらいで終わっている。

 今、お笑いの人が、振りネタなんかで、そこで新しくパッと振られてみても、3分や5分、演じられる。ああいう感覚が、彼らは普通の人にあるのです。なかなか大変です。私も昔から、司会をやっていますが、なかなか大変です。たかだか3分間でも、その文章を覚えるだけでも相当苦労します。
 ところが外国人の場合は、それを小さいころからやってきているから、質問も日本人の場合、書かせれば10個くらい、さっさっと書ける。彼らの場合は書かせると、結構、面倒なことになります。言わせたら10個くらい自分の中の配列を組み立てる。冗談を入れてと、要はなれているのです。

 日本人では10個の文章を並べて、思い浮かべて、順番に言おうとしたら、苦労すると思います。
 プロじゃないと、まずその10個を覚えるのが大変でしょう。人前にいったときに、その順番で言えたり、あるいは、きちんと並び換えを考えたりを、頭の中でやるだけでも大変でしょう。でも音楽の世界は、そういう音の中での記憶術が非常に必要なのです☆。

 今の日本人の若い子は、歌詞をひとつ聞かせ、その中で何が起きましたといっても、覚えていない。すごく耳の力が弱くなっている。
 ラジオ世代の人は、これはこういうことを歌っていると、わかりました。歌い手の力も落ちて、スピードが速くなったり、どうでもいい歌詞が並んでいることもあります。それでも共感しているということは、それが成り立っていることです。つまり、教えることが難しくなっています。

 教えるのに古い曲を使います。コードや歌詞、なぜこういうふうに組みたてられて、最後にこういうふうにくるのか、この歌詞がこう終わっていなければだめなのかというのが、説明できるからです。ところが今のだと説明できないのです。これとこれは取り替えてもいいし、この言葉、こっちでもいいんじゃないかというふうになってしまうと、教えにくい。【05.7.2 講演会】

<Q&A>

Q1:声に厚みがありません。大きな声を出そうと意識すると、声が高い音を出す準備をしてしまいます。その状態で大声を出そうとすると、のどがしまって、出された声が汚く感じるのですが。

A.最初に声の厚みがでないのは、仕方のないことです。声の芯から線をつくって厚くするというイメージをもってトレーニングしていきましょう。声の芯の捉え方として、一つはことばから「ハイ」と深いところと頭のひびきを結ぶ縦で捉える方法、もう一つは「ラー」という線から細く出して、少しずつ太く、体を巻き込んでいく方法があります。両方を一致させていきましょう。大きい声イコール高い声というイメージは、低音域では一時、そのように考えてもよいです。しかし、そのことでのどがしまってしまうなら、問題です。そうならない準備をする必要があります。準備をしないと、大声を出そうとするほどのどがしまるし、またガサガサして汚い声にもなります。

Q2:発声のトレーニングをしていると、のどが渇くような感覚になるのですが。

A.のどが渇くということについては、体質にもよると思いますが、息を吐くという行為は口の中が渇くのがあたりまえです。しかし、渇きすぎるとよくありません。唾液は粘着質ですから、必ずしも水分を摂取してとり除いてしまうのもよくない場合もあります。最低限の水分を摂ったら、少し休みましょう。
対処法としては、間をあけてトレーニングすることでしょう。のどが渇くというのは、発声が悪いのか、無駄な息を送りすぎるからです。歌を歌っているときは、のどが渇いたり咳き込んだりしても歌をとめてしまうことはできないので、その間、コントロールして、もたせなければなりません。

Q3:「サ行」で息もれする感じになるのですが。

A.「です」「ます」のように、ことば上の問題と、歯並び、あごの形など発声上の問題とがあります。普通の「S」なら、多少の息もれは構わないと考えてください。特に、日本語の場合は、母音で終止するために息もれが目立ちやすいのです。子音で止めて構わない言語は、もっと言いやすいでしょう。あとは、声のポジショニングでカバーしていきます。

Q4:低音になると声のヴォリュームが下がるのですが。

A.低音になるにつれ、声が大きくなっていく人は、まずいないでしょう。声を深いポジショニングでとっていくことです。のど声にせず、声の邪魔をしないで巻き込んでいきましょう。のど声にすると、声が大きく聞こえるような気がしますが、マイクには入りづらいし、使いにくいのです。低音にいくにつれ、声は小さくなるものです。低音になって歌がもりあがることもないです。きちんとコントロールすることが問われます。低音で声を聞かせられたら、かなりのレベルです。

Q5:声を出していると、体に力が入って力んでしまいます。胸に声を保ったまま、音を上下に移動できません。

A.力まないように、リラックスしていきましょう。ポジションは、あまり固定して考えなくてもよいです。実際、その日の調子によっても、ずいぶん違うという程度に考えましょう。あまり決めつけずに、声の感覚から判断してください。ことばに踊らされないように。


特集:福島英対談集vol.8
[O氏と]


○しぜんな声を求めて

F:私は確か学生のころに、林光さんの「日本オペラの夢」を読ませていただいています。

O:今でも、クラシックはそうでしょうけれど、ちゃんと声を出す、ドレミをちゃんとやる、リズムをちゃんとやる、声が出る、稽古をつけようかというやり方をすると思うのですけれど、そういうのは何の役にも立たないということがわかってきた。
まずしゃべろうよ、まず語ろうよ、自分たちが今まで何十年間生きてきたとして、「おはよう」ってどう言うのか、そのことによって、まず個性というのが、そこで当然出るわけですね。
言葉というのは、普段は、ほとんど技術がない。技術があったとしても、備わってきたその人の歴史がその言葉となつている。無理もあるかもしれないし、間違っているかもしれないけれど、とりあえず、そこでその人の言葉がある。
それをまず出してみよう。そこから、その言葉をどういうふうに音楽に融合していくかという、考え方がまったく逆から入る。わかる言葉を作るのではなくて、まずその人が普通にしゃべっている言葉を、なんとか歌にしようという、そういう発想に徐々に変わってきています。

いろいろなところでワークショップをやるのですけれど、日本語をわからせるというところは、もう過ぎてしまっていて、わかって当たり前、その先に何とか、個性もそうだし、私たちはお芝居をしますから、その役者の心情、表現も当然なのですけれど、それぞれ、オリジナルな発声方法といいますか、その人の骨格でしかできないようなもの、そういうものを目指したいと思っています。
だから、うまい下手ではなくて、本当にその人だなという、そういうものが素敵だという。僕たちのやっている中にもキャラクターが必要ですから、それを目指してつくる。その人がつくると、そんなことを考えています。

技術のレベルがいっぱいありますから、そこはいろいろなでっこみへっこみがあるのですけれど、まったく歌ったこともない人を教えるのも、とても面白いわけです。
「歌は小学校で歌っていました。でも先生に音痴と言われて、嫌いでした。なぜか友達に言われて、ここにやってきました。私は場違いなんです」と、そんな人を相手にする。すると、確かにどうしようもないと思うのですけれど、ところが必ず何かあるのです。
声が出ないといっている人のほうが、声を奥にしまいこんで、実は隠している。たぶん十何年間、音痴だといわれた経験から、隠し続けている。ところが、これが出たときはすごい体験です。

そういうものも含めて、基本的に技術論に入っていくと、小学校の先生も教えているのですが、「すみません、学校に貼ってある『あいうえお』の口のかたち、あれをやめてください」と、あれで教えたらダメなのですと、日本語をどういうふうに歌うかというときに、「あいうえお」というのを考えていたら、遅いのです。そうでなくて、初めての人と話しをするときに、ちょっと緊張しながらでも普通に喋ろうと考えますよね。そのときに、単純にこういうふうに口が動いている、結果として。誰も動かそうとはしていない。このまま歌うべきだという考え方なのです。

楽器としてそれではダメで、軟口蓋が開いて、奥が開かないのは、確かにそうなんだけれど、イタリア語のベル・カントを発するときには確かにそうなのですけれど、日本語もそういう部分はあるけれど、すべてそうではない。むしろその部分の少ない。日本語の言葉のよさというものは、全然違うところにまだあるし、しかもそれは個人別、個人の宝物として持っていると、僕は思うのです。
これがいい、これが悪いではなくて、発見することが多いのです。いろいろなところであまり訓練されていない人のほうが、というか。へぇー、こんなことができるのかと、この頃は、常にまずその人の言葉、喋ってみてくださいと。まずドレミだけつけようか、みたいな、そんな入り方からやっていく。基本的に、その人が喋るということは、その人の対人関係の表現として、一番それがスムーズだと思っているし、たぶん、そういう体でいるはずだと。
そうすると、その開放された体が、そのままメロディにと、ちょっと抽象的な言い方になりますけれど、そこから遊びましょうよというようなことをワークショップではやっています。

ですから、正しい発声や正しい日本語というのが、僕の中にはまったくないのです。個性が基本的に全てではないか。それを歌を使って、もっともっと面白くしようよという、そんなふうに考えています。子供もワークできますけれど、子供もほとんど同じ考え方です。

地声論争とか、頭声論争とかあると思いますけれど、ナンセンスな感じがして、どっちもいいよというか、どっちもいる。子供の元気を出すのに、頭声だけではどうしようもないでしょう。子供の自然なまま、育ったまま、歌にするのも絶対にいいし、だからといって頭声が悪いわけではない。
極端に言う人がいますよね。頭声だけでやれ、地声だけでやれと、そういう話を聞くと、言っていらっしゃる意味がよくわからないですね。じゃあ、それでやってくださいと、聞いてみると、つまんない。活き活きと歌を歌うことが重要で、そのためには、どっちも必要なんだけど、実はその融合が一番難しいわけです。そこで困っているから、ひとつの技術という人がいると思うのですけれど、全然そんなことがないと思っているのです。その辺、たぶん学校の先生の教え方とぶつかるところがあると思いますので、そういうことを言っていいのかわからないけれど、僕の中ではそこには、ある憤りを感じます。子供の個性を殺して、という。

F:ワークショップや劇団には、そういう立場の方が多いです。

O:本当にそう思います。

○通る声をめざして

F:林さんの著書で、今でも覚えているのは、いわゆる音楽から離れる、発声から離れるということ。そこの中に入っていってしまうよりも、ことばや芝居のほうがメインになるということでしょう。この位置づけが、どのくらいあるのかわからないのですが、今、私は、ポップスを見ていますから、今のお話を聞くと、ポップスの場合は、マイクを使いますから、向こうの発声からみて、いい加減な話し方から、いい加減な声の歌になるというのは、自然なことで、その子の個性優先です。あるいは、平田オリザさんのように、小さい声しか出ない人は、小さい声を背負ってきたのです。それが個性だからそれを大きくする必要はないと。

しかし、たとえば体育館などの生の役者の舞台では声量がいるし、オペラになってくると、今度は声域が必要になってきますね。ポップスの場合は必要がないのですけれど、私もそういうところでワークショップをやったり、合唱団はあまり接していないのですが、劇団なんかでやると、どうしても声域声量の問題にかぶってくるのですが、それはそんなに、苦労していないということですか。

O:ものすごくしています(笑)。ただ、ひとつ言えることは、体育館にしても、一番ものを言うのは、声量よりかは通る声。声が通るということは、生まれつきもありますけれど、もちろん頭声がよくなることもひとつだけれども、それだけはなくて、自然にそこに、本人の声として出ているときというのは、意外と通る。

すごく訓練したけれど、つくり声というか、物まねで歌っている部分は、割と、近くで鳴っていて通らなかったりすることが多い。なるだけ開放されて、言葉を出すことによって、最初は細くても、経験を積んでいくと、経験は武器になっていくのです。

こいつは細いから無理だろうと思っても、10回くらいやらせると、あれっと本当に細かったものが、だんだん芯に、それがない人はダメなのですが、一本あれば、どんどんそれが広がっていく。その細い声でどう歌うという、別の技術のようなものができてくる。
だから、問題にしていないわけではないです。そこは微妙な言い方なんだけれど、入り口は、そのことはそんなに考えないで、その人が普通に楽にしゃべっているようにやろうと、そこから入っていって、何度もやらせるうちに、弱いということをどこかで言うわけです。
そうすると、えっと思って、また考えてくる。最初から、これだけの価値観の声がないとダメだといってしまうと、何か無理してつくってしまうし、声を出してしまう原因にもなります。

自分がそうだったので、大芸術家になろうとそういう馬鹿みたいなことを考えて、稽古をしていたものだから、すごく遠回りしていると思うのです。
自分に合った、バッティングフォームみたいものがそれぞれある。それを探そうよということで、変わらなくて、その中から声量声域、一個できると、人間は面白いもので、自信ができると、次はこれをやってみようかなと、技術がそこでまた一個伸びたりする。そういうものを目の当たりに見て来ると、訓練というのはすごいと思うのですが、本番、舞台の生で、何回もやるというのは、相当すごいものだなと思います。その辺は徐々についてくるのですね。

F:演劇の人との交流がいろいろとあるので、こういう言い方をすると、失礼かもしれませんけれど、それぞれのところに個性や価値観がありますよね。そのところでの位置づけや違いというのはあるのでしょうか。

O:大人向けの難しい作品も子供向けも同じです。つくるときに誰に向けてつくっているのかというのは、考えていない。自分たちが面白いと思っているので、もしかしたら、子供たちも面白いと思ってくれるかなというのは、あります。
要するに、これは見せてはいけないよねというのが、時々作品としてもあり、なるだけ子供を来させないようにしても、来てしまう場合もある。でも、こんなに子供が喜ぶのだったら、見せたいよねというか、子供と大人というところの線引きは、うちではまったくない。同じ価値観で考えている。

ひとつの作品で、子供の反応と大人の反応が、笑いとしてずれているときがあるのですね。わかりやすいのは笑いです。そのずれが面白いことがよくあって、その子供の笑いに、今度は大人が、子供は何で笑っているんだろうと。でも、子供のほうが先を読んでいることもあるのです。本当に笑いのツボを先に見ていることが、大人よりもある。それと逆に大人は頭で考えていますから、全部が全部そうではないですけれど、笑うタイミングが違ったり、その相乗作用というのは、面白いことだと思っています。
結局一緒だというふうに思いたいというのは変ですが、どんなに難しいことをやっていても、大人だってわからないし、子供だって、わからないかもしれなけれど、聞いてくれよという意味では、違いはないですね。

F:私が指導を頼まれるときに、自分のところは自分のところ、他はできるだけ向こうの要求に、せいぜい1日か3日の話ですからあわせるのですが、子供はかなりテンションを上げたり、高い声を出すから、どうしても役者さんの負担がくるというのです。実際には子供のいる現場まで、私は付き合いません。でも、日本の場合はとにかく高い声でやらせないと子供はついてこない。あるいはそれを実際のワークショップの中では要求されてしまうことがあるとよく言われますね。

O:耳が痛いですね。まったく、現場はそうなのですけれど、それをどう手なずけるかというのは、本当に毎日が勝負なので、子供のワークショップにいったら3時間やったら、クタクタになります。ただ、高い声、僕なんかが行くわけですから、「おっちゃん、こんな低い声だけれども」と低い声で入って、「そんな声でええの」「そんな声でええねん」と(笑)。「歌っていうよりも、喋ってみろ」とそこから入る。
喋りから、その子の一番いいところをまず見たいという、そこからやって、それから2時間くらいしたら、ちょっと頭声をやってみようかとか、それで上のクラスを見て、ミックスできる子いる?とか言って、そんなところから入るので。
行った日はとにかく子供がうるさくて、とても夜、本番ができないという、そういう現場はありますけれど。だから、それに合わせてしまうと無理だと思います。
大人の先生としては、僕はこういう生理なんだということを、どう理解させるかということです。「君は僕と体が違うから、同じ声は出せない。だけど、イメージだから」とか言って、のせながら出させるというか、そういうふうにさせています。

F:声量のない役者でも、よいのでしょうか。会場の規模にもよると思いますが。

O:この間、250人というところでやりました。250人の演劇部の高校生、県の中の演劇部が全員来て、そこでワークをやらされました。生で。これは相当、大変でしたけれど、ただホールの響きがよかったので。でもものすごくエネルギーが向こうもあるし、こっちも。16時間、1日やって、そのときに思ったのは、無理していないか。ワークショップで無理は禁物。

20メートルくらい後ろに座っているやる気のない男の子に、「聞こえる」と言って、聞こえないようにわざわざ言って、「えっ」とか言って、「聞こえる」とちょっとずつ上げている。「聞こえる」と。そのやりとりからはじめる。
ワークショップの大変さは、身にしみてわかっているのですけれど、やる側の、音に関する、一番端の子供のどこまで聞こえるか、そのコントロールは、技術的にはものすごくいると思います。それがないと、本当につぶれてしまうのですね。子供だけではなくて。だからその辺はワークショップをやるときには、気にかけるようになってきました。自分が壊れたら何もならない。

F:私も歳とともに、前のように体は回復しないというのがあるのですけれど。ただ、声量と別に間をとらせるとか、まして芝居になってくると、通る、通らないというのは、演出するとかタイミングの取り方によって、ほとんど大きな声が必要ないというのは、ありますよね。

O:ありますね。

○声だけではない

F:逆にプロのほうにいくと、なんでそんなにでかい声で、皆同じようにやっているんだと、非常にやりにくい場合があります。劇団ですと、なおさらそうですが、ほとんど意味のない大きな声や高い声というのが多いですね。

O:確かに、大オーケストラを前にしたオペラの場合に、基本的な声量がいるという考え方は当たり前なのですけれど、それには落とし穴があって、大きければ、これは芝居にしてもオペラにしても、確かにある快感はあるのですけれど、これを芝居から見ると、ものすごく無理な、ありえないことが行われていることが多いじゃないですか。

F:頭からクライマックスが来てというような(笑)。

O:作曲家がそういうふうに書いているかというと、そうでもない。「フィガロの結婚」なんかも、そんなふうに書いていないと思うくらいに、音の要求というのは、作る人はそんなことはあまり考えていないのに、やるほうががんじがらめになっているものが多いと思います。芝居もそうなので、この頃はかなり必要分だけで、芝居をする歌を歌う、それでここぞというときにしか出さないとかという、そういうのが少しわかるようになってきましたね。

昔は、もうやみくもに声を出していました。それで何回も喉をやられたりということもあります。そうではない。後ろのお客さんまで、意思が通じて声が通れば、これは話がわかる。
ワークショップも、一番後ろの子に対して、とにかく細くてもいいから通す。そのことは生でやっているかぎりは絶対に不可欠で、そこが一番厳しかったりします。

F:実際に舞台になってくると、今度は集中力とか気とか、必ずしも声だけではない何かで、伝わりますよね。

O:あーありますね。

F:それが抜けていると、方向性もあるし、伝えきれない。5,6年前に私は、声優の仕事で、指導もしていたときに、日本人は自分が届くところの範囲での、声量に関する調整をあまりしていないことに気づいた。吹き替えで映画を聞くと、小さな声と大きな声が入っていて、ボリュームをよく直すんですよ。
ところが原語では、一回音量を設定すると、編集の技術もあるから、一概にいえないのでしょうけれど、小さすぎて聞こえないなと大きくしてしまうと、いきなり大きくなったりとかがない。そういう意味でいうと、日本の舞台や映画とかいう中での、声の声量とかそういった一つの基準というのが、あまりないのかなと感じましたね。

O:鈍いんでしょうね。そういうところはまだちょっと鈍いんだと思います。

F:訓練を受けていませんからね。何人の前で喋ったときに、どのくらいの声量を出すかというような。特にプロに接したときは、感じます。プロというのは、とにかく声を出す、あまりなく届かせるというところからきています。その人らしさが落ちてしまうというのもある。ただ逆にそれでやれてしまう。

O:そうですね。それでやれてしまうから安心するというのは、ありますね。

F:高い声も大きな声も、コントロールできないのに、器用に力を入れてしまうと、出てしまってクリアできてしまうから、できなくなったら力を入れてしまうような感じで、しのぐ。かなりレベルの高い劇団でも、そこの中核のメンバーでも、そういう人が多いですね。

O:オペラの場合は現場でわかっちゃうんですね。つまり、「お前さ、あんなに力んでるけどさ、何の意味があるの」という、そのことによって音楽的には決して豊かにならないのですね。別の方法でなることもあるのですけれど、たいていそういう場合は、何回もやっているうちに飽きてしまう、見ているほうが、お前は力でごまかしているんじゃないと、自分もそういうときがあって、集中力が切れているときですね。集中力があるときには、本当に細くでも何でも、スーッとコントロールができますね。

F:ミュージカルの劇団を見ていると、声楽の出身の人は、それをある程度知っている。ところが役者出身の人は、高い音に関しては、声を枯らしやすい。たぶん声をつぶしてでも、演技では通じてきたと思うのです。だから、しゃべりの演技だったら通じます。
ところが、歌わなければいけないものに関しては、高い音からあれていきます。
演出家が声を出せというと、そのとおりに出してしまう。声楽出身の人は、それをやるとダメになるのがわかるから、声は出さないけれど出したように見えるような技術はあります。

極端に違うから、パッと見て、声楽出身と役者出身というのははっきりとわかります。声楽出身のほうが、歌においては防御法は知っている。ただ、皆似たようなパターンに歌い流してしまいますけれどね。高音のところの歌い方を見てしまうと、一目瞭然で、それを標準にしていいのかというのはちょっと問題です。○○さんの言われているような、日本語の「あいうえお」というのとは違うのですよね。

○日常の声を使おう

O:劇団○○も、昔から比べると度が過ぎるというか、クラシカルな日本語の人をいっぱい入れてきたでしょう。僕は元々あれが嫌で、日本語ではないと思っているので、自分で客席にいて、聞き取れないのです。よしんば「あいうえお」が聞こえても、文として変だ、ドラマとして変だと思うことが多いのです。僕の中では。
つまり、最初に喋ったように、今喋っているこのままで出したいということです。それには本当は、ものすごく技術がいるのですけれど、とにかくこの言葉を、僕たちが育ったこの言葉をのせたい。そこがベーシックなのです。だから、そこの発想は若干、元々違うんだと思っているのです。

自分もクラシック出身でオペラをやってきたから、遠回りはしたけれど、行き着き先は、自分の言葉と自分の体。他の人のものじゃないという、ここにしかない。
「あいうえお」のことでいうと、すでに僕の中ではない。まったくないのです。つまり、口を閉じていてもえ「あいうえお」が言えるというふうに考えています。腹話術に近いこともやります。そういう意味では横隔膜、お腹のコントロールがある程度動くようになってくると、母音なんか関係ないというか、ほとんど関係ないと思うのに、何でそんなことを今さら「あいうえお」というのかなと気になる。

F:アナウンサーは最初に声が出ないし、発音もいい加減だから、口をはっきり開けることでビジュアル的に見せるのでしようね。テロップみたいなものですけれど。

O:小学校の先生を教えることが多いで、そういう話をすると、皆きょとんとして、でも子供は口を開けないとと。でも、口を開けている子供が、本当に大きな声が出ていますか。出ているような気がするのですけれど、気分も。
ところが、僕はたぶん、口を開けている子供だったので、やってますよーみたいないやらしい子供だったので(一同笑)、歌好きでーすみたいな、そういう子供。ところが、そうじゃない子供で、好きなのだけれども、オリザさんの芝居ではないけれど、ああいう役者みたいな奴が僕の横で、歌っているわけ。で、きれいな声なんですよ。ところが小さい声で、全然がんばっていないわけです。その子は怒られるわけ。
「見習いなさい」とか言われて。田舎で育ったものだから、地声がでかいだけなんだけれども(笑)。

でもあれっと、何かきれいなんですよ。僕の声なんかより、はるかにきれいな声で歌っていて、ところが聞こえないものだから、先生はその子を怒ったりする。そのときは、あっ俺は褒められているなみたいに思っていたのですけれど、今思うと、そういう子はいっぱいいると思うのです。口を開いていないけれど、歌好きでメロディが好きでという子。それを拾わないと音楽の教室って失格だと思います。
たぶん僕よりも、その子は音楽が好きなのですね。歌が好き。僕は、声を出して誇示したいだけ(笑)、おそらく今思うと。

F:歌い手も二通りいますからね。才能も。

O:自分が子供を見たときに、確かに歌っていないように見えるのだけれども、「ひとりずつ聞くから、ちょっと歌って」というと、やっぱりモワモワしているのです。「喋ってくれる」と言って、何か話しているうちに、「やっぱり先生に怒られる」と。「何で?」と聞くと、「口開かないと」。「口開かないね、ほんとに」と言って、「おはようとどのくらいで言ってるの?」「おはよう」と。それでいいんじゃないのと。
今の話は、歌を歌うことと、口を開くこと、音楽をすることというのは、まったく無関係だと。

放送関係から演劇にいった人間が、必ず大声で「あ え い お う」ってやるのです。それを聞くと私は耳障りな気がします。確かに張った声で、見事な声で張って全部言えるのです。素晴らしいですけれど、これは歌にならない、絶対に。
その「あいうえお」の羅列をつないでいくことは不可能なのです。その力量で、僕らがやっているオペラを歌えるかといったら歌えない。だから、ここがものすごく大きいところ。

僕たちは感情が動くと、「あ」とか「い」とか言っているのではなくて、文体で喋っていますよね。文体でひとつかみで喋っている体で言っているのに、そこの一部分だけ切って稽古していても、ダメと思うようになってきた。
とにかく、どう喋る、どうつなげるか。つまり、「あ」母音でも「しゃべる」の「しゃ」の「あ」母音と、「あなたね」の「あ」母音では、すでに違う。無限にあります。「あ」母音があって「い」母音があって、それは重なるところもあって、全部重なりながら、特徴を持っている。

だから、どれを使うのかの問題で、そのときにどれを使えば一番スムーズに歌えるかということを考えて、「はーるがきーた」の「はる」の「る」はどこで言っているとか、「ほ、ほ、ほたる」の「ほ、ほ、ほたる」というときは、どこで喜んでいるのかという。どこで喜んでいるのかというところを見つけて、それを再現するのに、どういう口だとあなたは再現できるの。この人は違う、この人は全然違う、この人は「ほ」とやってほうがそうなる、この人は「ほー」とやったほうがそうなる。明らかに楽器が違う。

皆、別の種類の楽器を持っているわけですから、その人にあった言葉の中の母音だから、無限にある。パズルのようにある。それを探す稽古をしたほうが、よっぽどスムーズに歌えて、気持ちが乗るのではないかというふうに考えて、そこから入るということにしています。
だから、訓練ということもまったくなくて、普通にあなたが喋るように喋る、後は、どれだけ通るか。ここだけでやってはダメだから、どれだけ通るか、メロディをのせようか。結局またそこに、必ず戻っていく。

F:私は相手が、ソロのポップスのヴォーカルでしたから、元々、音響を使うことからきているので、考え方としてはまったくそのまま通じます。しかし、逆に劇団に行ったりすると、他の人との声量のつりあいとか、いろいろなことを演出家が言われることがある。私は個人的には見ているのですが。

O:声量のつりあいというのがあるんですか。

F:ありますね。たとえば、演技を3人でやっていると、1人が大きくて、後の2人が小さいとすると、張らなければいけないと。それは私の考えではなく、劇団の中の、いわゆる団体としてやる競技でのものです。
個性を大切にするというのは、スターシステムとはまた違うと思うのですけれども、その都度入ってくる人間によって、変わることですね。

価値観とはちょっと違うのでしょうけれど、演出される演目が動いていいという場合と、ダブルキャストとかで、組んでいて、ある程度、同じ作品ベースに皆でつくり上げていくというところだと、私は外様のことなのでわからないのですけれど、違ってくるのでしょうかね。

ポップスのソロの子は、正にそれでいいのです。声量を誰かと比べないし、小さければマイクを使います。むしろでかい声だけで歌っていって、ボリュームを落とされて粗っぽくなってしまうほうが使いようがない。本人は大きく出したほうが歌っている気がするということですから、ポップスは元々、コントロールできればいいのですけれど、ただ生で声を出してやるところに行くと、結構違うんだと。

まして合唱団は、今いったような注意は多いですね。声を出しなさい、口を開けなさい、声量そろえなさいと。
私は、口を開けなさいというのは、口だけではなくて、口の中もあれば喉もあるから、そんなものではないし、最近顎が悪い子も多いから、それを無理にはさせません。

O:弱い子が多いらしいですね。

F:顎関節症が多いですね。

O:言葉も、日本語もどんどん変わってくるでしょうね。

○トレーニングは現場で

F:トレーニングとなったときに、いわゆる調整のトレーニングはいいのですが、あるレベルの人たちの中心、初心者をプロにするということで、本当は10年も20年もかけ、急がないのが一番いいのですけれど。ただ腹筋運動をさせたり息を吐くことと同じように、大きな声を出させて、大きな声を使うのではなく、大きな声を出せるようにしておいて、それで体のこととか、呼吸のことを知って、小さな声でちゃんとコントロールして使わせるというような、そういう段階というのはないのですか。
昔は歌い手はマイクが悪かったこともありますが、でかい声を出さないと、歌い手になれないというのがありましたけれど、そういう強化という面はなさらず、現場の方から見られているわけですか。

O:自分が強化して失敗していますから、それこそ腹筋200回、息止め3分とか、高校からそういう訓練をずっと合唱部でやってきて、大きい声の出ることの訓練にはなりましたが、言葉が通るとか、気持ちのとおり言葉が出るとか、そういうことに逆効果なので、腹筋を鍛えることは悪くないけれど、そこを使って歌えというと、どうしても固くなってしまい、全然日本語にならないということを考えると、鍛えてもいいけれど、使えないよという程度。
僕が思うのは、大きく出るのをつくっておいて小さくというのではなくて、そうではなくて、その人の分に合ったものからはじめて、それで肉付けして大きくするほうが理にかなっていると思います。だから、あえて訓練というものはやらないでおこうと言っています。

F:たとえば、15分30分立っていても、それだけで疲れてしまう、体力のない子やそういう人は来ないですか。

O:現場では歌いたい子が多い。3時間歌っていても、もっと歌おうという、うるさいなという子が多いので、あまり虚弱体質の子はこない。たまにいますけれど、その子は、僕は座らせますけれどね、座っても歌おうと。

F:音大に行くと、体操とか柔軟とか、腹筋、体力強化をしていて、私自身はスポーツをやっていた人間で、そっちのほうが、厳しかったので、そこはクリアしていたのか、発声のとき、筋肉を鍛えなくてよかったなと思っています。でも、音楽だけでやって、ひ弱といったら変ですが、最低ベースはいりますね。たとえばドラムをやる子でもある程度のパワーはいりますよね。
そういう意味での、歌い手の体として、標準以下の場合。標準の体を持っていたら、ある程度は歌えるのでしょうけれど、芝居になると集中力やそういうことに関するテンションも問われます。でも、あまり問題がないのですね。来られている方では。

O:ないわけではないですけれど、それはやって磨いていくしかないので…。だから使わないというのではなくて、だから何回もやって覚えていきながら、徐々に体力をつけていく。そういうふうに意識したことはないのですが、そういうことでしかやっていないと思います。15分でへなへなする子は、精神的には時々いますけれど、体力的にはあまりいなかったと思います。

○ことばと発音

MC:今、お話を伺っている中で、一番近いところで気になりましたのは、一人ひとりの母音という話をされましたね。面白いと思うのですが、ちょっとこのままではよくわからないので。

O:今喋られている母音は、「このままではわからない」と、こういう母音なのです。で、僕は「このままではわからない」とこういう母音を使う。個性じゃないですか。それを声楽的に考えたら、この子よくないとなるわけです。いわゆるベルカントでない。そうではなくて、その母音の人でしか喋れないニュアンスが必ずあるじゃないですか。それはすごく魅力があったりするわけです。そういうことだけです。

鼻口も違えば肉付きも違うので、その人にとってしんどくないわけですよね。だから、そのままということだけなのです。「おはよう」の「お」と「これはさ」の「お」は違う。たぶん、どの人も「俺は」「おはよう」と同じ「お」でいう人はいないでしょう。日常の中で、「俺はさ」「おはよう」、ちょっと口の形が変わりますよね。そこでも「俺はね」というときと、「おはよう」といわなくて、「おはよー」というわけです。この「お」が既に、ずいぶん違うわけですね。響いているポイントも違えば、口のかたちも違う。それを見ていかないとダメだと思うのです。母音は変化しています。だから、そこがポイントです。

MC:それはすごく難しいことですね。

O:いや、そんなに難しいことでは。

MC:というのは、今の学校のシステムというのは、大きく言うと、文部省の指導要領から始まって、一律の基準で指導するシステムじゃないですか。そこからみたら、ものすごいことだと思います。口を大きく開けて歌いましょうというのが、ずっと続いてきたわけです。そこから見ると、そんないろいろな母音があったらまずいじゃんということなわけです。いわゆる学校の教育は(笑)。

F:演劇の関係者には、「お」や「あ」も、外国語みたいに10個くらいに区別して、「あ」でも記号をつけたり、音声の標準化を考えている人もいました。日本の場合はないですから。「あ」でもいろいろな「あ」がある。たとえば暗い子が暗いように喋って、それなりに生きているところのリアリティというのはありますが、声優さんのトレーニングなど、特に外から基準を入れた場合、本人のキャラに全く合わない、明らかにその声は聞きづらいというのもありますね。
今、先生がやられた「おはよう」と「お」は違いますが、それが同じに出てしまうというような子もいますよね。これは直したほうが、リアリティというか、その子らしさも出る。たとえば低い声なのに高い声を使って生きている子もいますよね。

O:そこで止める話ではなくて、まず自分の個性を見たときに、なぜあなたは、その「お」でスムーズなのという話をするわけです。それで「お互いに聞き合おうか、ずいぶん違うよね」と言って、それで一回歌おうと言って、たいていうまくいくわけです。
たいていですけれど、「楽でしょ」「楽だ」と。楽に歌うということが、一番重要なのだから、あなたの楽さが、僕にも伝わるから、それであなたの歌を聞いて、自分も楽になって、そんなにうまいわけではないけれど、とても聞きやすいよという話をします。
その後に、「でも、君も怒るときがあるじゃないか。怒って歌うとどうなるの」というような話から、怒ってみようかという芝居的なこともやって、「そういう声も出るじゃないか、そうすると君、今お腹を使っているでしょう」と言う。

つまり、言われて使うのではなくて、自然にお腹を使っている。感情が動いてお腹を使っているというのを、今度は再現できるかどうかです。つまり、感情を動かして、お腹を腹筋運動で動かして歌うのではなくて、感情で動いたときに、どうお腹が動くんだということを自覚して、今度は声を出してみる。
そのことから、「ほら、できたじゃない」と、そこで止めないで、「あなたじゃないのもやってみようか」とあなたじゃなくて化けることが遊びだと。
「えっ」となり、「そうすると、あなたのその母音じゃダメだよね」と、他の使い方もできると、そこまで3段階いけば、なかなか楽しくなるのです。

そうすると、口の開け方が違うんだとなり、開け方が違ってもいいじゃんと。「さっき、おっさん、口開けないでと言ったけれど、今度は口を開けてみて」「どう違う」と。開けるのが悪いのではなくて、開けてできる人も、開けたらできない人もいっぱいいるということを、そこでバランスをどれだけその本人がわかるか。自分はこうかということを探しながら。
この人は絶対に違うと、違いを見つけるだけでも、ずいぶん勉強になるということ。すごくいっぱいあるけれど、言葉にはできないし、書けない。

たとえば、韓国の母音はすごく多いのです。「あ」が3つとか「え」が4つとかあるんです。わからないです、聞き取れない。
今の韓国人は、聞き取れなくなっているらしいんですね、若い子は。困っているのですけれど、私も「えー」「えー」といわれても、記号、リアリティがないから、うまくいかないと思うのです。

もしそれを教えられても、それっぽくはできても、そこに全くリアリティがない。
日本語というのは、それで育ってきているから、少なくともリアリティがある。そこを頼りにしないと、その人のものが出ないと思います。
韓国語もたぶん言ったことは聞き取れないでしょう。だから、その人の気持ちによっても変わるし、その前の言葉が何かによっても変わるから、まったくないんですよね。でも、簡単です。つまりそのとおりやってと言えば、大体わかるんだよという、そんな説明で、なかなか記号とかにはならないのですけれども。

○教室・音楽から離れる

MC:でも、やっぱり一人ひとりをちゃんと見ている先生もいれば、そうじゃなくて、一律、大きな口を開けて歌っている子が優秀とする先生もいる。

O:そういうふうに一見、見えますから。

MC:皆、これを見習うようにという教え方で、そこから外れた子は評価が低いというふうな教え方ばかりの先生ではないと思うのですよ。その子のよさ、口を大きく開けなくても声がきれいとか、音程がしっかりしているとか、いろいろなよさを見ていく。
でも今の学校教育のシステムや時間、いろいろなことから考えていくと、なかなかそこまで一人ひとりを認めてあげるというのは、大変厳しいのではないかと思いますね。

O:思いますけれど、それをやらないとねという、遅々として進まないかもしれませんが、それをやらないで何という。音楽はその人のものではないですか。その人がどう楽しむかということではないですか。それこそ先生が見つけて、一緒にやってサポートしなければいけないわけでしょう。歌が、大きな声で歌えれば、優秀というわけではないですからね。それぞれやっぱり特徴があると思うし。

F:音楽の時間が入ってしまったり、教育が入ってしまったり、私も他人事といえないのですけれど、トレーナーが入ったりすることによって、普通であれば一対一で、カウンセリングのように、それでも不自然なものが入らないほうがいいのでしょうけれど、話しかけて成り立っていることでできている声の働きかけが失われてしまう。
簡単にいうと、日本人なんかは昔から大きな声を出していたら、精神が入っていて、元気で、こいつはやる気があるなというところで見られる。
声が何かを伝えるとか、相手に働きかけるというのは、選手宣誓を見ても、そこの評価ですよね。この子はきちんと私に従って、大きな声をあけて出しているからよし、そうじゃないから、こいつはだめという。そこの問題のほうが大きいでしょうね。

O:歌を表現として、もっと考えていいと思うのですね。自己表現でも何でもいいのですけれど、屈折したもの、それから喜怒哀楽というものを、その人が何歳でもいい、5,6歳でも7,8歳でも、その段階での歌を使って、自分の内面をどう出すかということが。
歌を歌うとはそういうことですよね。基本的に、いや、そうじゃないのかな。きれいな声で聞かせたいというのも、セレナーデみたいなものにあるのかもしれないけれど(笑)。

それでも、自分のソロでしょう。もっと素朴に、その人がそこに生きているために、歌が必要だということがあるとしたら、その人が生身で、音楽に対して何をぶつけていくかというところがはじまりじゃないですか。
その表現はわかるけれど、ちょっと偏りすぎだよねとか、そういうコントロールが、歌のコントロールだと思うのです。だから、その結果、声が出たほうがいいけれど、出なくてもそれがその人の中で起こっているということが、表現だと。
ただ、今度は自分がそうだった。それだけではつまらないから、こういう人はどう感じるんだろうということを、与えていく。

F:音楽の授業を好きでもない子がカラオケに行って楽しんで、歌も楽しんでいるし、声がいいとか大きく出るということではなく。またそこは、教育とか学校とのひとつの特徴でしょうね。カラオケを音楽の時間にやればよいのかということにも、でも、演劇や芝居というのは、それに近いところもありますから。演劇部なんかはそんなことをやっているけれど、合唱なんていうのは、特殊ですね。そういう意味でいうと。

O:ずいぶん、合唱団での考え方が変わってきているところも、いっぱいありますけれどね。

F:結構、リズミカルにいろいろな音楽を。

O:自然に歌うということを心がけているところが、ずいぶん出てきましたけれどね。

○「歌声」の否定

MC:そこのところが自然に歌うとか、その前のお話の一人ひとりの個性ということと関わってくるのですけれど、そこのところは昔からの教え方、考え方しか知らない人から見ると、一番わかりにくいところなのですね。自然に歌うとか、あるいは曲に合わせて歌うということは、わかりにくい。

O:わかりにくいと思います。音楽集団のところのワークショップに呼ばれて行ったら、70歳くらいのおじいさんが2人いたのです。合唱団員なのですよ。第九なんかをしょっちゅう歌っている。
私のワークショップというのは、一つ条件がありまして、必ず覚えてきてくださいと。メロディをちゃんと歌えなくていいから、とにかく言葉は覚えてきて、後は別にいいよと言っているのですけれど、入り口も覚えていないのです。
「どうもわしは覚えが」と言ったから、話しているうちに、音楽はまずどうでもいいから、合唱団だから楽譜にしがみつくのです。

「楽譜も音符もいりませんから」「え、歌でしょう」「歌だけど音符はいりませんから、音符の前にまだ、その前にあなたと私という関係ができていませんから」という。「お互いに会話をしましょうか」と。
ところが覚えていないから、見ないと言えないわけです。合唱団員は必ず楽譜を見るみたいで、こうとられたら、もうにっちもさっちもいかない。でも人間同士会話をするということは、こういうことではないですかと。でもここの前に楽譜がある。焦点がそこに合ってしまっている。それを取り除く作業がある。

その人たちはすごく素直だったから、「やってみます」と言って、そうすると、めちゃくちゃでかい声が出る。合唱をやっている。「なんとまあ」と言い出して、そこまで芝居をしなくてもいいんですけどと(笑)。「そんなんでいいんですか」と、「それに音程をつけましょう」「いや、これに音程はつきません」と(一同笑)。つまり、「な ん と」と言わないと、音程がつかないと思っているわけです。

F:「歌声」というのがあると思っている。

O:この声が「歌声」なんだと。自分はとびきり上手じゃないけれど、あるところにいると思っているのです。僕もそういうに思っていた。
その考えが消えないかぎりは、僕のやろうとしていることはできないのです。そうでなくて、あなたの喋り声、その素敵な声というのを、そのまま再現しませんかと言ったら、「え、私はこの歌声が…」となる。そんなことはない、「すみません、それあんまりよくない」と。「えらいところに来たでしょ。帰りますか」と(笑)。

F:でも、それは一番大きな問題ですよ。ヴォイストレーニングに来る人のほとんどは、今使っている声は悪くて、役者声、歌声というのがあって、それをマスターしたいと来るのです。だから、今使っている声の肯定から入らないで、否定から入っていますね。
リアリティというと、20歳なり30歳までなり、ずっとその声を使ってきたのだから、それは消し去ることもできないし、別のところに声があるわけでもないし。

O:その言葉に特徴のあるのがプロですから。ただ、問題のある声もあります。あまりにも通らない、あまりにも声帯に悪い喋り方をする人は中にいます。とにかく話し言葉を直す。歌の以前に、そこから入ります。もうちょっとそうじゃなくて喋れないということで話していく。まず、話し言葉を聞いて、問題ない人はそのまま。問題のある人はちょっと止めて、「そこでしか喋れない?」と、それはやります。あまりにも、そのままで歌声にならない声もあります。少ないですけれど、そういう人はあります。大変です。

F:商売によってもずいぶん違いますからね。

O:完全に芝居で声を壊した人で、「先生、私、歌いたいんです」と。「その声だとねえ」と。「こういう歌でいいんですか」と、「いや、そうじゃなくて、もっときれいな声」と。声帯を破壊しているから、それは、そこから直しましょうということから入る。そういう問題はまた別にあります。
障害がある場合。喋り言葉を聞いていると、だいたいわかるようになってきました。どのくらい歌えるかというのは。うまい人は役者さんにしてもそうですけれど、自分の喋り言葉をものすごくうまくつかって、メロディにスムーズにのせていかれる人。ある意味でいうと、スムーズにのせていかれる。そうじゃない人は、だいたい喋り言葉を聞くと、何となくぎこちないし。

○腹筋について

MC:話を戻してしまって申し訳ないのですけれど、腹筋というお話しが出ましたけれど、いまだによくありますよね。たとえば、中学校、高校の部活で、腹筋を鍛えるとか。

F:芸能プロダクションなんかでも。

MC:トレーナーにも、腹筋をやるという人もいれば、ちゃんと腹筋といっても、運動部の腹筋とは違うよと、わざわざ書いてくる人もいます。中には運動部と一緒の人もいるわけです。そこのところがまた、実際にやってみて声を聞かないと、言葉だけでは説明しにくい部分だと思うのです。体を鍛える、特に一番多いのは腹筋だと思うのです。腹筋を使うということはどういうことなのかというのは、大きなことだと思いますが。

O:腹筋の感覚が変わってしまった、僕の中でね。体が硬いから余計にわかったところが大きかったのです。あっここが硬いとか、ここがつまっているんだということを、お腹のいろいろな位置で言ってくれる。
ところがその硬いところがわかると、そこをちょっとだけ意識する、やわらかくしようと。そうすると割と、言葉もそこでとまらないで出る。
今は昔みたいに必死になってやりませんけれども、入ったときは体操ばかりやっていた、のめりこんだ。ただ、抽象的な体操なので、言葉にもなかなかできないし、その先生が言わないと、わからないくらいに難しいものだったので、独特なのです。呼吸の流れ、ヨガみたいなものなのです。
呼吸の流れを自分でイメージして、そういうことはずいぶんやってきた。それは、もちろんベーシックに訓練としてはあったけれど、でも、10歩戻って、そのことが今の人に通じないかというと、通じると思うのです。

つまり自分が訓練したからできるのではなくて、訓練しなくても、できるよということが、全員じゃないけれど、わかるというか、それは自分の体の中を見ていく、見ようとすることと同じように相手を見るということを、マンツーマンでしていく。そのことでどこがつかえているのということを話し合っていく。
自分がやってきた腹筋というのは、ベーシックに何らかはありますが、そんなことをしている時間にもっと歌ったり、言葉をスムーズに言うとかどう相手に伝えるかということを、実際にやっていけばよかった。
訓練みたいなことをやっていて、いっぱしに声が出たような気分にはなるけれども、鍛えてダメではなくて、鍛えてもいいのだけど、でも腹筋を鍛えるなら、背筋も鍛えないと、高い声を出すときに、腹筋だけではないし、いろいろな筋力が関係あるので、全身を鍛えろということになります。

でも、そんなことをやるよりかは、まず入り口で、出すところを間違えていると何にもならないのですよね。ということくらいは分かってきたつもりでいる。だから、筋力を鍛えろという人がいたら、僕はほとんど信用しません。そんなのは、本番のステージ100回あれば、勝手にわかるよという、理屈じゃない、その人のですよ。共通項がないから、その人がわかればいい。昔はとにかく鍛える。こうすればいいんだと。そのことが何の役に立たない人がいっぱいいますから、やめたほうがいい。そんなことをやっている時間があったら、本を読んだほうがいいとか、そこまで思う。

MC:体を鍛えるのは、体のためにはいいということぐらい(笑)。

O:そうですね。鍛えるというよりは、明らかに脱力したほうがいいと思います。

MC:そこがまた難しいですね。よく体操というのは、いろいろな方の中に出てくるのですけれど、なんだかよくわからなくて。

O:わからないですね。抽象的ですしね。体操をやるようになって、月に1回くらいやっているのですけれど、面白いけど、ね。
結局は脱力なんですよね。脱力してちゃんと地球の中心に向かって立つ、まっすぐ立つ、それだけなのです。
「オペラ歌手ってさあ」とまず真似をするのです。「ほら、こんなにして立ってるじゃない。マリア・カラスはそんなふうに歌っていない」と。超一流のオペラ歌手が好きだから。「皆、二流を見ているからよ、私はね、すごかったんだから。デル・モナコが来たときに私は横から見たんだけどさ、長嶋茂雄の走っている姿なんて」と、その筋肉の動き、体操の先生なので敏感なのです。その流れが本当にきれいだと、そのときの声がすごくいい、それがまっすぐに立っていることだという。

だいたい昔から、こう立ちますよね。胸を張って、ここで切れている。それは全然理にかなっていない。
確かにここで一回止めると、声が出たような気になります。これを支えという人がいますが、私の中では支えはないのです。そういう言葉を使わない、横隔膜も使わない。ただ、体操をやっているうちに流れるという、お腹の中に何かが流れていく感覚というのは、自分なりにある。そこを使って歌を歌っていますが、そこは説明できないですね。

MC:いやー、その支えとか、横隔膜を使ってというのは、よく出てくるのです。

O:今は、その先生が横隔膜を使えということは、どういうことを要求されているかわかります。わかりますが、その横隔膜を使えといわれた本人は、たぶんわからない。そんなことを考えてもわからないですね。

MC:ここの筋肉なんかはさわったらわかりますが、横隔膜はさわれないから、自分で横隔膜が動いているかどうかなんて、確認できないですからね。

F:響きなんかもそうですね。それだよといったら、わかるかもしれないけれど、同じ響きをここに響いている、あそこに響いているということをどう自覚するかは、もう意味がない。

O:今の横隔膜談義だけでも、一晩かかりますね。でも、本当にこれは他の人は反論がいっぱいあると思うのですけれど、横隔膜を感じないというか、そこは使うのですよ、使わないのではなくて、一番使うのですけれど、そこを鍛えたりするのではなくて、楽にしておいて、感情の赴くままに、そこを動かすということのほうが、ずっと大切な感じがするのです。
そこの入り口を止めておいて、形とか力でやっても、たぶん失敗する。自分がそうだったので。だから、もっとスムーズなやり方がある。皆で発見したほうがいいと思うのです。横隔膜という言葉をやめたいくらいです。

F:中の感覚が変わらないと。ただ、そうしてしまうと言葉にならないから、言葉を使うことで、喉を外しなさいと無茶なことを言うのですけれど(笑)。

O:その訓練もしたし、それっぽくはなりますよ、イタリア人ぽく、喋れますけれど、それは「〜ぽく」であって。

F:のどから固めてしまうのですよね。

O:それでいい声だと思って、「すごいね」と言われる。僕も、ずっとそうでした。大学では、喋り声もそうやれと言われたから、普段もこんなふうに喋っていました。それをやりすぎたので、おかしくなってしまったと思うのです。常にイタリア語のように、それを訓練だといわれて、ずっとやっていたのですね。マイナス要因しかないのです。物まねとしては面白いかもしれない。

話を戻したいのですが、お腹というのは重要ですね。お腹が95パーセントなんだという言葉を書いたのです。5パーセント、ちょっとこの辺でごちょごちょするけれど、ほとんど全部コントロールはお腹だと。昔の日本の謡いみたいに。丹田に力を入れてという意味ではない。もっと違う自由なことです。

F:丹田呼吸というのも、ずいぶんと誤解を広めていますね。丹田に力を入れてふんばると。

O:僕もそうやっていました。確かに面白い声は出るのだけれども、そこから何の進歩もしていかない。つまりお腹をどれだけ自由に柔らかく使うかということは、重要だと思います。それこそ正に、一番やらないといけない。お腹というのは実は、どこかで感じたものを、どこで命令しているのでしょう、わかりませんけれど、感情が動くのは、必ずお腹で笑ったり泣いたりしますから、そこの動きです。重要なのは。

F:ポップスは大体、格好よくやろうとするから、そこのところはあまり問題にならない。でも格好を真似でやろうとすると、全然ダメです。本当にその人の動きがきれいなときには、そんなに間違っていない。格好悪くなっていたら、大体余計な力が働いています。

○見本はみせるな

MC:今の、脱力のことといい、腹筋のことといい、本当に言葉ではなかなかイメージできない部分なので、同じことを言っているのかもしれないけれど、すごくいろいろな言い方がありますね。たとえば現場で指導を見ていて、大丈夫なのかなあという先生もいます。ただ、気休めで訓練しているっぽい雰囲気だけなんじゃないかと、心配になるのもあります。

O:先生が信用していないと子供がついてこない。この間もまったく同じ嘆きを先生から聞いて、「僕が示さないと」と先生が歌っている。「先生、それでは無理でしょうと」。「じゃあ、どうするんですか」と怒られて(笑)、もう先生が真剣なわけです。「それは、僕はあなたを、僕の素材と考えて、今、話をしている。あなたがその子供に、素材としてその子を見て」、「そのときに私はできないじゃないか」「いや、あなたができなくてもそれは関係ない。できるというのは無理ですから」。

誰でも万能はありえないから、全部できないのですけれど、こんなほうがいいと思うと、先生はできないけれど、こんなことできるかとか、そう正直に。だって、僕は、あなたのそのニュアンスは絶対にできませんということ。その辺が、もう現場なので紙に書けませんが、面白い瞬間がありますね。

F:現場から入ると間違わないのですけれど、レッスン室のトレーニングから入ると、確実に間違えますね。そこに来た状態で、その人の声としてはかなり悪い状態になって、体も悪い状態です。
多くのヴォイストレーニングでやられていることは、普段だったらもっといい状態でやられているのを悪くしている。先生と馴れ合ってくると、少し気が楽になって、元に戻るくらいで、ほとんど意味がない。最初から友達と話していたほうが、いいトレーニングになる。
ただ、現場は方向性が決まっているから、現場ではそれをやらないだろうというのは、トレーニングでは往々に勘違いで許されてしまうのでしょう。周りがその「ハイ」というのが、いい声だとか言い出すと、もっと方向がずれる。まあ、先生が見本を見せてしまうと、一番ダメですね。

○素の魅力

O:そうですね。一番素敵な瞬間というのは、30人くらいでワークをやるじゃないですか。大人のときが多いのですけれど、5人くらい見違えるように変わっていく場合、皆が、素敵っと言ったりする。その次の人も素敵なんだけど、素敵の種類が全然違う。
同じ歌を歌っているのに、素敵の違いが出て、同じ歌をやっても、これも素敵、あれも素敵と、それが一番嬉しい瞬間ですよね。そうなんだよ、個性なんだよと。その人の素敵というのが見えたときに、きっと素敵なのです。

F:それは何か、私もわかりますね。ワークショップでまったくの素人さんが発現する。歌とか芝居をやってきた人ほどダメ。
何か喋ってくださいと、モノローグを30秒くらい、やらせると、その中であの人よかったねとか、あの声、すごく来たねというのが、必ずある。
でも全員ではないのですね。私の基準ではなくて、場の基準として、あれがいいというのは必ずあって、そんなにゆがまない。

O:それをキャッチできるときって、すごくいいと思いますね。それを見る人もキャッチして、やっている人もちょっとその瞬間をキャッチできたら、日本語の力がもっと出てくると思います。それは芝居も歌もそうだと思うのですけれど、なかなかキャッチできないものですよね。非常に微妙。

F:歌だとなおさらできないですね。喋りだと、何か出てくるときがあります。サラリーマンでもOLさんでも、あーっとこっちがひかれるようなものが。

O:行く先々で言っていることを全部変えています。素材が違うと変わってしまう。ああ、こんな人がいるのかという。

F:何をふるかという、何を素材として提供するかだけを考えます。ダメなときはダメですし(笑)。空回りするときもある。この前、これはうまくいったのにと思っても、うまくいかないときもある。

○変わっていくもの

F:あとは、リアリティの問題ですね。日常の今この瞬間が成り立つのに対して、日本語、やっぱり外国人には絶対にわからないこととして、東京に住んでいると、下町の人だなとか、千葉県がかかっているなとか、わかる感覚ってありますよね。
そういったものの深い感覚が、日本の伝統芸能とかわらべ歌や唱歌とか、共通の音声言語の何かを引き受けている人たちの中では、共有されている。日本人の声とか、日本人の中でもこういう声っていいなというのがありますけれど、それが徐々に、根っこが伝統音楽の方と対談すると、噺が古くなるのは仕方がないのですが、その感覚自体もなくなってきているだろうと。

O:ずいぶん変わってきていますね。「あいうえお」の区別するのは嫌ですけれど、「う」母音というのは、ものすごく薄くなってきていると思います。「うれしいな」というのが普通くらいだとしますよね。
昔は、もう少し「う」が深かった気がするのです。今の子供は「うれしいな」、「う」と「い」の差がほとんどない。子供だけではないですが、「やったーうれしー」という。「えっ何?」とそういう子には、そこから入るのです。「それは『う』じゃないよ」と。「えー?」と、その子にはそれが「う」だから、「じゃあ、それを『う』にしちゃおうか」と、それは言葉の文化ですから、仕方がないですよね。

F:たとえば、学校の発表では感情がこもらない子も、友達同士の会話では、感情がこもっている。でも、たまにまったくそれがない子で、会話でも空回りしているような子っていますよね。その辺になってくると、ちょっと問題が。

O:やっぱり言葉は変わっていきますね。
日本の古典芸能だけでなく、たとえば外国語、フランス語にしかない、たとえば「sha」というような音色は、日本語にはないけれど、時々利用するのです。あ、フランス語のああいう感じで喋ったらというと、割と直ったりすることがある。つまり、いつもこの感覚でしか喋っていないもの、こういうものもあるということを、ちょっとその人にぽんっとあげると、そういうこともある。

僕が言っているのは、日本語をそのまま再現したいけれど、再現する手段としては、いろいろなところに転がっているから、利用しながらやらないと、なかなか発見できないと思うのです。そのまま日本語のままにやりたいのですけれど、やるためにはものすごい労力がかかるということも、わかっている。簡単だけれども、本当にやるには難しい。

F:ワークショップでは、鬼ごっこをしたり、とにかく童心に戻らせて、動物の鳴き声でもさせていると、何かリアリティが出てきたのでしょう。今はどうかわからないのですが、その戻るところがあるうちはいいのでしょう。必ずしもそれがあるのかと、最近疑問になります。幼い頃から親とや周りの人としっかりと会話してきたという上だと、確実に戻れると思うのですね。

O:それは難しい問題で、信用してやらなければいけないというか。何かはあるというふうに考えないと、その人のアイデンティティ、そこを疑ってしまうと何もできなくなる。こわいところですけれど、会話でもなかなか通じないけれど、ちょっとそのときに歌を聞いたりしたときの、その子の持っている悩み、といったら大げさですけれど、本当にわかる子がいるのです。

「あれー、すごい不幸なんじゃない」と露骨に言うと、本当にそうだったみたいで、時々、言葉で爆弾のように投げかけないと、どうしようもない子がいた。やる気もないように見えるし、音楽を楽しむようにも見えない。でも何か言いたそうなのはわかる。
何か言いたそうにして、本当に向こうのほうで。それをずっと見ているのだけれど、周りがウワーッとなっていて、一人だけどうしても、音楽が好きとかじゃなくて、影が出ているくらい。「おいで」と言っても来ない。

それをどういうふうにするかというと、ちょっとバーッと言ってしまって、「お前さ」というと、言葉が問題なのです。言葉が発せられないような、対人恐怖症というか、そんな簡単な言葉で言えないくらい、クラスの子だからいるのだけれども、そこでSOSみたいな声を発したので、「お前、悪いけどさ」と言って、悪いことをしてしまったけれど、最後はバリバリとしてきた。歌以前の問題で、それがさっきの共通項を持てるかという話になる。何とか、本当に聞いてやらないと、SOSを発信しているわけですからね。それは無視していたのでは。

F:こうやって声では生活や精神的なものが関わらざるをえない。

O:出てしまいますね。

F:入らざるをえない。そのときの状態にもよりますから。

O:ずいぶんダメなんじゃないかというか、性格的に何とかというよりかも、この子は、という人がいます。

F:プロのレベルの人だと、皆、切り替え力がありますから、何があろうが舞台に立てば切り替えるのでしょうけれど、それができない子は、この前までやっていたことが全部崩れてしまう。

O:全部崩れてしまいますね。それはもう、いつの時代もあったと思います。けれど、いつもそういうところでは、どこかでやらなければいけないから、心残りというか、何とかその子が明るい思いで歌えればいいと、そんなどころではないという現実がある場合、そこから入らなければどうしようもないわけでしょう。これはちょっと公にできませんけれど、大変。