会報バックナンバーVol.176/2006.02

 


レッスン概要(2005年)

○リアリティ

 前半、声をもっと使うようなことをすれば、もっと早く息がなくなってしまう。歌というスタンスでとるのなら、バランスをとらなければいけない、最初からそんなに強く入ってはいけないという注意になる。トレーニングだったら、もっと最初入ったほうが、後半崩れることにおいて、何が足りないかがわかるということになる。
 完成度からいうのであれば、今の入り方のほうが楽なのです。流れができるから。その代わり、もたせるのが、大変になってしまいます。2行目3行目とどんどん崩れていくことになります。それはそれでかまわないともいえます。どこかの完成度が高ければ、どこかは落ちるのは当たり前で、それを平均的に歌うやり方をとってしまうと、ポップスの場合は、声のある人にかなわなくなってしまいます。

 フレーズに対して次のところ、テンポは変えてはいけないのだけど、スピード感を変えないと、同じになってしまうのです。もう少し、「ふるえていた」というところをきちんと置ける。あるいは「雨の夜」を「雨の」でも「夜」でもいいけれど、客が心に残せるところは、「雨の夜」とか「ふるえていた」という言葉くらい、これだけたくさん言っても残らない。
 それを流してしまうと、「自分から売ったけんかに」といってしまうけれど、ここまでの状況が客に与えられていなければ、次にどんなに入ってみたって聞いてこなくなる。ここで一番難しいのは「雨の夜」「ふるえていた 笑う顔 はかなげで」というところ、そこをきちんと残していかないと、伝わらなくなってしまいます。

 「はかなげ」あたりがどっちにとるのか、「売った」の「う」、「笑う」というところ、それから「少し」で完全に落とした、けれど、まだそこまで説得力がない。一回つなげておいてから落とすことをしないと、計算が見えてしまいます。
 「びしょぬれになって…ふるえていた」から「自分から」の入り方は前よりはよかったけれど、「びしょぬれになって…ふるえていた」の方が、不安定で微妙だけれど、新しさというかオリジナルなものは出ている。「自分から…笑う顔」はそういう引き上げ方でいいと思います。
 すると「そらしがちな目が」のところで、本当でいうと、1行目か2行目でやったところの感じのフレーズで4行目を終わらせておいた方が、自然です。テクニックということであると、少し反らせてみてもいいけれど、1番であまりいろいろな複雑なことをやってしまうと、曲自体が見えなくなってしまいます。1番は、その歌の一番基本線を歌うことです。それでも言葉を強弱したりというのは、歌い手の個性になってしまうからいいのですけれど、流れができないと一番苦しいのは自分になってしまいます。

 「びしょぬれになって…」からの流れ、「自分から…」の流れ、「そらしがちな目」、そこまで完全に流れができていたら、「少し」というのは変えたということでプラスの効果になる。けれど、その流れがまだ納得できないで、お客さんがどんな歌か、わからないところの「そらしがちな目が 少し」で変えると、あれっとなりかねない。歌いわけが音楽の流れを壊してしまうことがある。どちらをとるかは、最終的には舞台で考えるのです。

 役者だとこの情景を表していきます。手振り身振りも加えて、そのかわり音の線はつながらなくなってしまう。
 音楽でこれを見せようとしたときに、客はこれを音楽では聞いていないから、どちらかというと表情で、感情で「けんか」「笑う」「はかなげ」なんかを伝えてあげたほうがいいのです。音楽の勉強というなら、こういうものにメリハリをつけて歌を出せれば、他のものはもっと楽になる。
 細かいのが一番やりにくいですね。響きがそれたり入り方のところで欠けたり、語尾をきちんと終わらせたり、なかなかできない。大体の人は歌い手なんかでも、言葉におわせた方が、こういう歌は楽になりますね。流れの中で持っていけるほど強くないし、メリハリがつかないから。メロディより言葉に持ってきたほうが楽な歌だけど、あえてメロディで勉強すべきだと思います。

○気持ちの残し方

 取り方が、体や息の問題なのか、発声の問題か、最初のイメージの問題かがわからないけれど、「はじめてあった」「あのときの」と落とすのはいいのです。そのときに「はじめてあった」を受けるのは「あのときのように」までだから、「あのときの」で受けて、「ように」があまってしまったら、まずい。
 「いつまでも」に対して「変わらずに」を落とすのはいいのですが、その後に「愛して」があって「ほしかったの」があるという流れの中で持っていないと、どんどん厳しくなってきてしまいます。
 「せめて」からは入りやすいわけですから、そこまでの部分が難しい。それから後半の部分、これもなるべくダイナミックに展開しながら、気持ちの落とし方や表情のつけ方はいいと思うのですけれど、流れにのるともっと楽になると思うのです。

 「はじめてあったときになぜかあなたに惹かれ」でも、やっぱり、「はじめてあったときに」があって「なぜかあなたに惹かれ」があって、「激しく燃えたはずなのに」があって、それで「今はただ」を4つ歌っている。だから2つくらいに流れはとらえておいて、短い歌に聞こえるように、上でいろいろなことをしても、中心は「せめてもう一度踊りたいあなたと」でいいわけです。ここだけがピークと、たまに前に2行あって、最後に。普通だったら「はじめてあったあのときと同じようにいつまでも変わらず」と終わるが、これの場合はもうひとつ強く盛り上がるわけだから、その辺が歌のコツ。

 お客さんとの兼ね合いからいうと、ここで降りるなとおもって、降りてやりながら、降りてOKといっているところにもう一つ何かをやって、高まっていく。そういうことをこういう歌は踏んでつくられている。ある意味では、そういうかたちで外していっている。歌い手がそこの部分を捉えていかなければだめです。「せめでもう一度踊りたいあなたと」と歌えた後に、どういうふうにダメ押し、ここで気持ちを残していくかということです。

 ここの「くぅ」も「はずなのに」の「にぃ」のところも、ここまでにつけた感情、緊迫させたものが効果が薄れてしまう。その辺のやるやらないは、もう少し別のことで決まってくるのです。必要のないところを形からつけていかないで、自分が歌っている間に、そういうふうにしたほうが流れが出てくるなというときに、ギリギリつけていくかたちですね。「あなたに」のところ語尾をのばすことや、強くすることに頼ってしまうと、それで歌は形ができてしまうのです。それを疑わなければダメです。

 形ができてしまうのは楽なことだから、楽な分だけ、流れができていて楽なのはいいのですけれど、その流れをせき止めたところの形をつくってしまうと、それにとらわれてしまって、全部がそういうパターンになりかねないところがありますね。これも「に」をそういうふうにやっていくとか「くぅ」や「れ」もやっていくと全部そうなります。
 ここでつないだときに、次の「いつまでも」の入り方のテンションを相当上げておかないと、流れてしまう。そこで上げた上で、「いつまでも」「変わらずに」と同じようにキープした上で、「愛してほしかった」を少し変じて落とさなければいけない。

 構成はいいと思います。「はじめてあった」のところでひとつおとして、「あのときのように」でつなぐ。そこでつなぐと、そういう構成をとらなければいけなくなってしまう。それはそれでいいが、どこかで落とす。
 今の歌の中で必要なのは、「いつまでも」のテンションの高さのところ、「い」だけでもたせる。「変わらずに」も「ず」や「に」を歌ったりしなくても、「かわ」「か」くらいでテンションを保って、その余裕くらいで「愛してほしかった」を今みたいなギリギリの表現ではなくて、余裕を持ってたっぷりと落とせるようにすると、メリハリがついてくるということです。それはひとつの解釈です。
 慣れてくると、名曲ですから、自分の流れや呼吸の中で一致してくると、楽に歌えるようになってくる。楽に歌ったのが一番いい形だと思います。楽というのが、テンションを下げるのとは違いますので、その辺ですね。

 これを言葉や音色に持っていったりする表現も一つですが、あまり言葉に持っていくと、音色は出るけれど、発声的に言うと、響きが集まらなくなって、頭のところが割れたり、語尾がきれいにまとまらなかったりする。そこの注意です。
 情感を入れて、そこの言葉を少し踏み込んだり太めに出すと、それだけそこに伝わるものが出てくるのだけど、その代わりすぐに引き上げないと、甘くなってしまったりロスをしてしまったりする。流れの上でそういうものを置いていくのは、難しい。いろいろな意味で、特にことばの力が強い、ゆっくりとした歌に関してはいいだろうけれど。

 これは2通りやっておけばいいとおもいます。本当に流れだけでとっていくような歌、歌自体がまっすぐ大きいと。たとえば声楽のように歌っても持つと思います。流れでとっていく、でも必ず破綻するから、その部分を言葉のニュアンスをきちんと置いていく。そのときにやってはいけないのは、無駄なところを伸ばしたり、無理に力を入れたりしないことです。
 効果のあるところはどこなのか、その効果をきちんと押さえていく。英語やドイツ語でやらせるとかっこいい歌になるのです。

○オリジナリティの見出し方

Q.どこでどうすると効果があるのかがわからない。

A.それは自分で曲をかけて、お客さんになって、心地いいとかかっこいいとかから入ります。客観視するのは難しいですが、歌っているほうの感覚でどうしても聞いてしまいます。それを切り離して、客として聞いて、こんな変な歌い手がいるとしたら、何がいいのか何がよくないんだろうなということを、少しずつ聞いていくしかない。そうでなければ歌っている感覚の中で、徹底して正していっても、同じことだと思います。
 歌い手が気持ちよく歌えているというのは、聞き手にとってもある意味気持ちがいいと思うのです。ただ、最近の聞き手は歌えるわけですから、ある意味だと欲求不満になっているから、歌い手が歌いすぎていて、どんどん一方的に与えていく歌に対しては、難しくなっていますね☆。

 だから、声楽のような歌い方は、昔はいい声を聞けたとか、うまい歌を聞けた。今の聞き手は、それでは満足しないから、自分もすっきりしたいと思ったときに、リズムや切り出し方とか、自分にはできないなというような、何か歌い手が見せてあげないと。よかったけれど、俺もあのくらいは歌えそうだなとなると、なかなか満足しませんね。
 だんだん気持ちだけのレベルは高くなっている。だから下手にテクニックを使ったり、下手な言葉の動きを使ったりするようなことは、カラオケの人でもやっているから。、たいしたことはやっていないのだけど、できたように皆、思っているのです。
 プロが若干そういうことをやっても、あまり感動しないどころか、変に評論家ぽくなっている。声楽家みたいに、本当に声の力で持っていくのもひとつ。
 勝負は、切りかえしや安定度ですね。いろいろな動かし方をするけれど、落ち着いて聞けるなというのが、ある程度の年配の人にはわかることです。

 私にとっては、この歌をなぜ選んだかという理由が、はっきりわかることです。その歌い手が歌って、うまいとか下手とかではなくて、こんなことを出したかったから、こういうところのよさを伝えたいんだなということを聞いているほうで納得できれば、よいですね。
 そこのつかみ方とか、そこまでにこの歌には思いいれないし負けたなと、客に思わせれば持つ。お前が歌うよりも、俺のほうがこの曲が好きという場合は、なかなか持たない。誰でも歌えるから逆に難しい歌ですね。

 私が見るのは、他の人だったらできないと思うことがどこに出てくるかです。それは未完成であろうが、かまわない。そこを伸ばすべきです。似たところは、見たり聞いたり伸ばしたりする必要がなくて、自分でできると思います。
 それでなくて伝わるところはすごくわかりにくい。こっちもわかりにくいけれど、こうやって、何百人何千人も見ている中で、単純に言えば、いなかったなというところが出ればいい。私にはそんなに難しいことではない。
 それが世の中の人たちの思う価値になるかというのは、別問題。そういうときにはしかたないから、あなたの個性はこうだけど、今の時点ではこういうふうに使ったほうがいいと、アドバイスする。使いわけなければいけないこともある。
 本当にオリジナル、その人の独自のものを出すと、一般的には拒否されます。こういう歌を聞きたいと思わないで、この人が面白いことをやるのを、漫才みたいに、思うところに価値をおいたら、独創的にやれる人はもっとたくさんいる。

 皆、客は、歌になってしまうと、「ミスティ」をしんみりと歌ってくれたらと思ってしまうから、歌い手もそういうふうに歌わなければいけなくなる。皆同じような歌い方になってしまうのです。そこは、使い分けるしかないですね。客の歌の中に入るから、伸びなくなるのです☆☆。
 自分は自分できちんとした作品を描いておいて、出たところではお客さんが満足して何ぼだから、10曲のうち8曲くらいはそういうふうに歌う。それをわかっていることが必要です。それがわからなくて、どう歌えばいいんですかというところでは、作品は示せない。
 ただ、いつも考えればいいのは、自分よりもうまい歌い手が横にきたときに、そいつができないことは何だろうと思ったら、そんなにない。トレーナーを見るだけでも、この人なら、もっとこういう声が出るなと思ったりすると、そこで勝負してもしかたない。常にそういうふうに見たほうがよい。お客さんに対してと見てしまうと、プロは皆、あたり前のようにやれている。課題になりません。

 10パターンにわけたつもりでも、ほとんど同じになります。だから、そこからもしはみ出したものがあって、ものになりそうなものがあったら、それがひとつのヒントでしょう。長く歌うと、10パターンくらいやっても2,3パターンしかできない。でも曲によってはたまに違うことが出てくることもあります。そうしたら、そういうところは最初はでたらめでもものになる可能性のあるところでもあります。
 本当でいうのだったら、10パターンといわなくても、6パターンくらい歌い分けられるような力をつけていった方がいい。テンポやリズムのことではないけれど、テンポを変えることでまったう違う歌にはなります。

 大切なことは、テンポをゆっくりにして歌ってみるでしょう。そうすると違う感じで歌える。そのときに何か流れをつかんだなと思うことを、もう一度、インテンポにしてみて、そこにニュアンスを入れるということ。だから、テンポをゆっくりにすると、当然バラードっぽくなる。語尾処理もていねいになる。
 だからといって、そのテンポで歌うことは現実にはないのです。練習としてはいいですね。
 速くやれればいいのですが、速くやると、皆、雑になるだけだから、速くと思わないで速くできればいいのですね。
 キーも、ちょっと変えるだけで、感覚が違ったときに、よい感覚ならそれをとって、今のキーに戻してみたときに、何とかその感覚を出せないか。
 アマチュアの人でも、一番声が動くところやいいところだけで動かして、キーを変えて、1曲を3つくらいのキーで歌えば、相当うまくできる。
 プロがうまいのは、苦手なところのキーであっても、何とか処理する技術を持っているから、それで聞けるわけです。
 逆にいうと、ここにはプロの人がきますが、問題になるのはそういうところです。そこは、ごまかしてきているわけです。

○一致させる

 「暗いはしけ」については、アマリアを勉強しつつ、このひとつの処理のしかたはどう出るのかと思っていたのですが、あまりいい方向には出ていたようには思えない。どんな曲なのかが、このままの形だと、よく伝わらないような感じがします。お客さんに伝えるときに、どんな曲か、どんな詞というのは、大前提であると思うのです。
 知っている曲でも知らないように歌ってくれたほうがいい☆。知らない曲であっても、懐かしいように知っているように歌ってくれたほうがいいと思っています。作詞作曲を見るところではないので、とにかく伝わるようにしてください。それがはっきりしないですね。
 皆さんの伝えたい意図やポイントを見て聞いているのです。意図を外れても一回の歌ですから、その一回がよければいいという見方をしています。

 ただ、本人がどう歌おうと思ったのかは非常に大切なことで、それはレッスンのプロセスだから尚、大切なのです。歌い手であれば、そんなものは歌ってしまえば終わりです。それで活動ができていたら、続いていたら、もっとよしとする。続かなくなったり、客が途絶えてきたら、何か問題があるのかなと考える。
 ただ、レッスンの場合は、そういう意味の客はつけていません。自分のイメージ自体が合っていたのかいなかったのか、それからイメージに対して、歌として、そのようにできたのか。そのようにできなかったからだめというのではなく、ここの場においては、そのようにできなかったゆえに何かしら深めたり、何かしら新しいものが出ていたら、そっちのほうを大切にしなさい。

 要は自分の思ったように歌ってみても、長くはやっていくほど、それは固定されていきますから、どこかでそれを壊さないといけない。
 場に出るというのは、客の場に出て、それが壊されるのがいいのです。けれど、なかなかお笑いみたいに客が厳しかったり、まわりのレベルがすごく高くて課題を突きつけられたりというのは、ない。周りのレベルが高くても、歌が変わってしまうとわかりにくくなってしまう部分もある。
 それでこういう場、何かしら基準を見る場というのを、もつことです。
 歌い手の場合は一番難しいと思います。声や歌を客観視することができないのです。
 若くしてやれた人は、それが一時、一致している人です。自分の主観そのものが、歌の中に溶け合って、その歌を歌い上げることが自分の気持ちになっている。

 自分がこんなことを言いたいということがあったら、それに賛同してくれる人がいるという、そのときにたまたまいいメロディがついていたり、歌詞がよかったり、時代にあっていたりすると売れます。でも、それで終わってしまう場合が多いですね。
 長くやれる人は、2作目3作目と、客観視した作品を出してきますね。客観視というのは、いわゆる名曲といわれたり、自分が歌わなくても、他の人間が歌ったときに成り立つ曲ですね。
 だから、歌は2通り歌い方がある。ざくっと切った言い方ですけれど、主観的に自分がなり切って歌うというのと、語り手としての歌ですね。こんな物語があって、こんな人がいてとかいうようなもの、演歌なんか、女性になり切るという立場で歌うことが、昔は多かったのです。

 これをどう捉えてもかまわないし、自分のスタンスで歌うのもいいのですが、一番知りたいのは、何を伝えたかったのかということです。
 課題曲の場合は、設定されいますから、名曲であっても、自分が歌いたい曲とは、違ってきます。客観視するのはいいと思います。自分の好きな曲を好きに歌うのではないことをすることによって、何かしら自分に気づく材料になるということもあります。
 物語や感情移入のことについては、皆さんの中ではつかんでおいてもらえばいいのです。そう書いたからといって、そう伝えなければいけないと、私のほうでは見ていないです。

 あくまでここで出されたもののなかで、個別にも、似てしまうようなことが大きかったです。
 この歌のつくり自体があまりフィットしていないと思うのです。けれど、曲がよくわからなかったというのが大体ですね。この曲はよく知っているので、レッスンでかけています。別にこの曲にならなくてもいいのですけれど、この曲がどうして構成されているというのが、いまいちわからなかった。無理に、どう解釈してもいいのですけれど、効果を損ねるような変え方をしているのが、多かった。
 もうひとつは、その割に後半の部分は歌になってしまっている。それはいい意味で歌になっているということではなくて、歌にしてしまっている、歌がこういうリズムだからとか、無理に弾ませてしまったり、無理に音程にあわせてしまったり、そんな感じで、この歌だからこうなんだと、その2つを全体的に感じました。

 曲がわからないということは、この曲自体をつかまえたかもしれませんが、それが伝わるようにしなければいけない。歌になっているということは、逆にかたちを追ってしまっているよということです。
 両方ともいい意味で使っていることではないです。お互いに、自分たちのクラスの中で聞いていたら、もう少しあいつはやれていたのではないかというような、あるいは曲の中で、何箇所かいいところが出れば、もう少し全体的にまとまりようがなかったのかなというようなことが、曲が難しいといったらそれまでですけれど、そんな感じをうけます。

○修正ポイント

1.「真夜中の海辺」の「まよ」が外れる、ピッチがずれているのではなくて、曲の中で、「今夜」の「や」や、「出ていった」のようなところ、それから「もう帰らないと…いない」というところが、あなたの場合だと、サビとパワーでひとつ通したほうがいい。
 ここでの実験はいろいろやってもらえばいい。そこをより引き立たせるためにも、前後を置いていくということをいつも言っています。
 それから、弱くしたりやわらかくしたり、引いたときの処理は難しいです。多くの場合は、ほかの人たちも、強くすることによって、雑になってしまうのです☆。ということは、次に弱くしたときに、非常に目立つようになってしまいます。本来であったら、雑にしないでできるところまで強くするということでしょう。

 アカペラですから、スタジオに響いたほうがいいように思いますが、一応、私の耳ではマイクを通して聞いているつもりです。それ以上に強くする必要がないところで、強くして、そこは引き締まっていい。その分、次に弱くしたときに出だしのところで欠けてしまったりかすれたりする。かすれ方にもよるのですけれど。
 あるいは、こぶし処理ができなかったり、流れがとれなくて形だけになってしまったりすることで、マイナスになってしまうなら、そこまで強くしない。
 そろそろ総合的に考えなければいけない段階にもなって、こういうふうにしているんだから、それはそれでいいという見方はしています。全部を走らせる歌い方でやれなくはないと思うのです。

2.一番ひっかかったのは、語尾処理です。「道」のところ「今夜出てった」の「た」、「皆がいった」の「た」のところですね。それから、「私の心の中にあんたは」のあたりの瞬時に言葉処理をして、伝えたというのはいいと思うのです。
 そのときに大切なのは「あんたは」以降ですね。「まだ旅に出ていない」が一直線になってしまうと、効果が出なくなってしまうので、凝縮するとどこかで開放するわけです。けれど、開放したときの流れはどこかでつかんでおかないと、曲自体が壊れてしまう。
 だからせっかく活きたところがあったら、その流れを汲んでしまう。そこでエンディングといっては変ですが、曲は最後がありますからなかなか難しいのですが、何かやりようはある気はします。

3.これもいつもと歌い方を変えて、いいことですが、ステップアップさせていく歌い方、「星のない」の「い」とか、「海辺」の「べ」とか言い切れないままに、「私のあの人は今夜出ていった」、2つ進んでいいのですが、そこから進んで「私の心の中は…」というところ、まだサビなんか出ていないというところで、終わり切れているかどうかですね。

 だから、1曲全部歌いきって、1番歌いきって、何かを残すのはひとつの方法ですけれど、歌の場合はそう簡単にはいかなくて、サビだけのメロディが残るか、そうでなければ、1行1行ひとつずつ残していくというかたちが原則だと思います。こういう走らせ方としては、アイデアとしてはあるとは思うのですけれど、非常に難しい。歌として落ち着かせるのに、よくやるのは、1番2番、かったるく歌ってしまったから、3番か4番だけ、ワンコーラスだけ速くテンポをアップさせて、あるいは歌が終わったあとにもう一回繰り返して、アップテンポで歌いに逃げてしまうというやり方、日本なんかでは多いです。最後に半音やる度、上げて歌ってしまうとか、そこはもう歌ではないという見方です。

4.これもやりようがあったと思うのですが、ベーシックなところで発声や、技術的なこと、ピッチ、基本的なことは、一番安定しているのですが、「船がつれて…あんたじゃない」というようなところで落としたことに対して、充分なひきつけがあって、ここに落とせたのかということです。
 計算は間違っていないと思うのですが、そこに流れる呼吸が、まだ声や技術に対する、実際の使い方、動かし方、それが後半になればなるほど、「もしかするとあの人は」、みたいなところに関する間合い、ここから「かえってくる」にどう落とし込むというところが、未消化のまま行ってしまう。「あたしの心の…恋かもしれない」というところは、普通気にならないところなのですが、気になってしまう。
 「死ぬまであんたを」というもの、ここでブレス、それから「愛しているわ」、こういうところはどこで処理してもいいのですが、処理の前にどこで勝負できたのかということで聞いてしまうと難しいかもしれないですね。

 波ではないのですが、引く前にそれだけ押しておかなければいけない。あるいは、何かしら上のところにアップして、そこから降りていかなければいけない。
 この歌もどこでそうやるか難しいのですけれど、ひとつのテンションになってくるし、情感を残していくための前提になってくる。この曲をひとつに捉えるのは、非常に難しいかもしれません。
 解釈のときにはひとつに捉えていると思うので、1番に対して2番をどう置くかということを読み込んでいくのだったら、落とす前のひきつけ、かけひきの部分で、呼吸などやりようがある気がします。

5.つながってはきたという気はします。発音的なこと、私はポルトガル語を知っているわけではありませんが、英語と同じように、ブツブツとなっている部分はあっても、以前よりはつながるようになって、語感もよくなってきていると思います。音楽から、こうやって発音をなおしていったほうがいいと思います。
 決定的なのは弱くしたところです。むしろ強くしたほうがよかったのではないかと思います。サビの部分、弱くひいたことによって、この曲がよくわからなくなってしまいました。

 それから後半の「ヴォルタ」あたりから繰り返すところ、こういうところも、ほとんど死んでしまった結果になっています。弱くでうまく使えたらいいのですが、今はそういうことをあまり考えないで、完全に響きにしたり鋭く出していっていいと思います。あまり細かく考え出してくると、難しくなってきます。

6.これも考えすぎた分、処理しきれていない気がします。ずっと聞いてきて、また聞いたからでもありますが、もしこれがトップにきて、ひとりだけこの曲を歌うという、当たり前のケースであったときに、残っていくのが落ち着きのなさになってしまいます。そこはあまり、得手じゃないところだと思います。
 最初の入り方の「ラ」のところ、こんなところでも2回繰り返して3回目で変化をつけるのはいいのですけれど、その途中の変化が、そうなったら何かの意味があるのかというと、やってみただけのことになってしまっています。

 終わらせて、色気や振りを出してみても、私の評価には関係ない。やってもやらなくてもかまわないところではやってもかまわないのですが、「暗く…」から「今夜出ていった」の「いった」のところ、「あたしは信じていない」とか「あんた」とか、コミカルというわけではないけれど、色のつけ方をそういうかたちに持っていって、ということで見たときに、「出ていった」のところはしめなければいけなかった。
 「もう帰らない」から「皆はいった」で、ここで展開させていって、そこから「けれども私は信じていない」に落としこめたかというと、空回りしていますね。

 ここでどんなかたちであれ、落とし込んだときに「あたしの心の中に」「あんたは」のところも、色をつけて形をつけて、動かしている。その試みは評価するのですけれど、「なんか」のところも「出ていない」。
 皆がつまらないことをやった後に、何かしら変わったことをやったということ以上の、動きやこの歌のよかったということではないと思うのです。ただ、そういう演出の方向の切り込みということですね。
 だから、たぶん一箇所どこかきちんと持たせる部分が必要だったのではないかと思います。
 その歌に関してはあまり聞ける歌がないのが実感でも、ただファンの人も、そういうものが好きな人もいる。役者型の人は、歌やフレーズで持っていかないから、よくこういうことをします。するのですけれど、あまり音楽や歌がいい場合には、歌が活きているようには私は思えないのですが。やってみる分には、ここはいいと思います。

7.普通に聞けば、キーの設定ミス、お客さんが聞いても、キーを高くとりすぎたということになってしまう。それもOKしてみても、言えていない。「もうかえられない 私の心の中では」。キーを上げることで、そこが音が届かなかったりかすれたり。
 うまく歌えていなくても、そこで何かしら伝われば、いいとは思っていますが。ただ、それが苦しさだけであって、ぶつけただけであって、その高さでとっているから、「真夜中の海辺」の「べ」のところから乱れてしまっている。そういうことでいうともったいなかったと思います。
 強く出すぎてはいないのですが、サビのところの言葉になってしまうと、強さだけが空回りしてしまっている感じになってきます。

 キーの設定はいいと思いますが、イメージの中で持っていくのに、うまくひっかかったところが「もんさ」「月」、最後の「少年」という語尾、肝心なところです。そこが言えていて、その後に客が感じ入って、その次に入ってくると、その言葉やメロディがクリアに、気持ちよく聞こえる歌だと思うのです。それを歌い手が、間や呼吸という問題なのでしょうけれど、客が踏み込めないように持っていっているような感じがします。
 たとえばテンポをゆっくりで歌って、そのときに何かしら流れを感じたり、語尾のニュアンスを聞いたり、あるいはことばがこんな感じに変化するということがあれば、それを元のテンポに戻してみて生かしてみる、意図的にやるとおかしくなりますが。

8.もっとゆっくり歌ってから、この速度に戻してきたほうがよかったのではないかと思うくらいです。ポイントはちゃんと捉えているから、音楽の持っていき方の部分での、そこで落ちてしまっている気がします。キーが高くなりすぎて落ちるということだと思います。最後、1,2番とばした、それはかまわない。2番の後半くらいのところで、何かしらどこで落とすのかということになるのですが、その落とし方の変化のところで、失敗というよりはイメージミスかもしれない。この語尾処理よくない。掛け合いのところ、これもよくない。まだシンプルに歌ったほうがよかった。

 2番もシンプルに歌ってしまうと残せないから、こうやりたいというのはわかるのですが、表現としては持っていないと思います。それから「ずっといきていくわ」でおろして、「もしまた生まれ変わったとしても あんたと 一緒に なりた いわ」、この3つの流れ。やろうとしていることはわかるのですが、音楽からというよりも頭から入っていて、見えてしまうのです。こういうふうなかたちをつくりたくて、こう歌っているなと。だから、歌っているというのも、形はつくったほうがいいし、形が伝わるのは大切なのですが。
 少し細かいから、それを普通のお客さんくらいに戻して、普通のお客さんは、たぶん、それが形だとか、全然伝わらないのだけど、何かしら、無条件で感動してしまったりひきつけられたりするものに対し、抵抗を感じてしまうことをヴォーカルはやっています。私は、そういうものを形と言ってしまいます。

 ただ、日本の歌はほとんど形でもっていますから、それをやるなということではなくて、その形に逃げ込んでしまうと、本当の音楽や声、歌の心みたいなものは、その形からにじんでいるにはいいのですが、やがて、何も出てこなくなります。
 形は便利なやり方です。ここで伸ばせばいいとか、踏み込めばいいとか、ここは言葉を丁寧に言えば伝わるとか、その部分部分でそういうふうにとってしまう。全体で本当はとれていたのに、そこの箇所だけ目立ってしまうと、歌全体がイメージとして非常に悪くなってしまいますね。

○汚れてくる

 往年の歌い手なんかが、若いときに本当に素直に正直に歌って伝わっているものが、だんだんベテランになるにつれ、汚れてくるといいます。楽譜から乱れてくることを指した言葉ですが、デビューしたときにレッスンについていて歌っていたものを、慣れはじめると、いい加減に歌ったり流してしまったり、あるいは好きに言葉や情感を入れてしまって、歌の体をなさなくなるようなことです☆。
 楽譜から離れるのではなくて、楽譜はひとつのルールです。そのルールをとりながら、よりいい方に感覚的に、そこに書き込めなかったものまでたくさん入っていたはずのものが、どんどん抜けてきてしまうということです。歌が荒れてきたとか、カラオケをやっていたらわかるでしょう。

 自分が昔、きちんと歌えていたり、実感がこもっていたのが、軽く歌えるようにはなったけれど、何も入らなくなってしまったとか、もっと何か伝えられたものがあったのではないかというようなものが、発声がよくなることによって、よりよくなるわけではないのです☆。
 そこは難しい問題で、きちんとしたルールや処理をやろうと思うと、発声なんかが喉にひっかかっていたり、語尾処理なんかをきちんとできないと、そういう微妙なものは出していけない。発声から考えることではなくて、感覚的につかんでいくことだと思います。
 技術的なことでいうと、発声の状態がいいときに一番いい歌が歌えるのだけど、多くのステージ場合は、発声の状態があまりよくないときのほうが、人に伝わる歌になる。思いなんかを動かしていくように、リアル感を与える場合が多い。動かし方の課題を、もう少し入らなければいけない気がします。

○曲のつくり方

 言葉で読む練習は、ある程度はできると思います。言葉で読んで、サビのところをそのまま言ってしまったということで、案外成り立った部分もあったのですが、それだけでもっていかれるほど、この歌は台詞に特化しているわけではなくて、音楽に入っていっています。
 これはよく歌っていると思います。ポルトガル語では成り立つのだけど、これを日本語にして成り立たせるというのは、けっこう難しいですね。だから、本当は、プロのリズムの感覚のなかで、声や響きが見せられたりすると、いい教材になった。

 もともと、こういうリズムが我々に入っていない。彼は完全に、変えてしまっています。テンポから変えてしまっています。だから、あのテンポでやらないと自分は日本人としてこの歌を処理できないということで、自分の表現の限界を知り尽くしています。
 あのテンポとああいう「ラララ」の入り方から出発する。頭からは歌に入れないという意味では、参考にしてもらってもいい。ただ本当に皆が、自分のテンポとキーをこの歌でつかんできたのか、最終的に選んだかというと、まだ緊急課題があるような気がします。
 単純に勢いで歌ってみて、それで通せたら、それで残せるようなことを1,2箇所くらい置けないか、できたらそういうことがサビでできないかくらいに対応してくるべき歌だったのかもしれません。

 だから、いろいろ郷愁や心境、面影、ことばから読み込んだ、皆のイメージが出ていますが、実際に、他の人のを聞いて、本当に出ていたのかということになると、厳しかったのではないかという気がします。
 曲調を暗めにとっていったのか明るめにとっていったのかでも、明るい暗いでなく、音楽的な動きの中で感じてください。
 この曲だけで明るさに持っていくのは無理があります。要研究ということです。いつもに比べたら、全体的に出来は悪かった。歌がむずかしかったということもあります。こういうときはもう一曲くらい、アピールをしてみるといいですね。

 だんだん素人の前でやるというより、常に自分よりうまい人が横に来たときに、この歌を歌ったときに何を出せるのかというふうに考えてみましょう。そのためのテンポ、リズム、それから解釈のように考えてみましょう。横に一流アーティストが来たらと、そこまで思わなくても、それなりのプロが来たときに、お前のやることはこうやれてしまうよといわれないところで何を出せるのか、それが奇抜な形にならず、とことん奇抜になってもいいのですが、あいつのやっていることは手につけられないと思えるくらいにやれたらいいのでしょう。
 そんなところで生かして持ってこれるように。けっこう、オーソドックスな曲を選びましょう。徐々に今のほうに力を入れていけばいいかと思います。
 声のこと、発声のこと、歌の技術のこと、いろいろとありますけれど、歌としてというより、歌を抜かしてみてステージとして音声で表現ということが成り立つような組方を考え、どういうふうに音で伝わるか、そこを見ることができたら強いと思います。

○愛知万博の群読

 この前、京都の帰りに万博に行きました。メインは全部見れなかった。今まで行った国の観光ビデオを見ただけです。日本企業の館は、320分待ちです。どうやって入るのか、たぶん、、半年間フリーのパスポートを持って、朝いちに並び一つみて、あとは1,2時間並べば入れます。
 最初に瀬田の会場を見ました。長久手と離れているのです。70年代に私は万博を見に行って炎天下を歩きに歩いて、50円のカルピスを2杯飲んだ。

 そのときの間の悪さ、とにかく歩かせるだけ歩かせる。会場を2つにわけたのも、その間の便を悪くしているのも、バス乗り場まで5分も10分も歩かせて、混んでいないとバスを1台しか走らせない。きっと、最後まで並ぶ人が、行列が100メートルを越えたら、2代目のバスを出そうという、移動のところにためて、各会場を混まないようにしている。そんなことだと思います。
 一箇所、瀬田会場で、寺山修司の後継者といわれる人が演出した、群読というイベント、夢の遊民社の指導のもとにつくられたものですが、それが正に装置ですね。あの動きについていけないと、口だけは動いて声は出ないのです。J-POPSもそうです。あれだけテンポが速くてキーが高い。

 私は外国人に「なぜ日本のJ-POPSはそんなに速く、キーも高く歌うんだ」といわれて「それはあなたたちを真似ているから」といいましたが、「俺らはそんなことをやっていない。自分の体の寸法のところでとっていて、普通だ」と。
 キーの設定ミスといいましたが、彼らには明らかにそう聞こえる。それに似たくらいに、当然演劇ですから、声だけが勝負ではなくて、動きで勝負していた。あの動きに対して声をつけようと思ったら、上のほうで裏返すのに近いやり方でないと、腹から声を出していたら、腹筋がついていかない部分があるので、しかたない。テンポはきれいで、パターンもあるのだけど。

 私が昔、見ていた高校生の群読のほうが、ずっと声の力がありました。
 33名がダブルキャスト、1日20公演、それでも半年やる。声はかすれてもかれてもいない。その辺はまっとうにやっているところのほうが苦しんでいるのです。あれで群読というと、誤解を与えてしまう。そこだけがひっかかりました。
 群読というのは、声と声が重なりあうことによって、声の振動が寄せてくる。ワークショップで10人くらい、ここの5倍くらいのスペースでも、聞こえてくるのです。皆にここで、この台詞を言わせてみたら、充分に何を言っているどころか、声の振動も聞こえます。そのレベルのことを役者がこなせていないのです。身体として踊ることも、振り付けも衣装もよい。だから、音声だけでみても仕方ないのですが、あんなものなんだろうなと思います。寺山修司という人は、そういうことにすごく厳しかった人です。情感、ことばの端々から出てくるような音色の置き方、にはこだわっていました。日本をひとつの和ということで題材にとって、群読というかたちでやって、あれではという感じを受けました。ものは試しなので、何でも見てください。勉強できるところはいくらでもあります。

○トレーニングの必要性と使い方

 ロングスタンスで見たときに耐えれるかどうかです。30代40代、10年20年たっても、その声を壊さないかどうか。
 役者から歌に入ると、もっと表現しろというともっと大きな声を出してしまったり、無理にやるから、そのままつぶれてしまう。
 声楽はそれをハードに、日本人に対して課していますから、そういう経験をどこかでしてきている。自分の声はこれ以上やってはいけないということ、そのときに本当は大きくではないが、大きく聞こえるやり方とか、加減のしかた、コントロールの術を知っている。声楽をやっている人は逃げ方を知っているのです。

 私はそこのところでやれない人に、そういうことを伝えたい。その日に役立つことは、その日にプロはやってしまいます。即興で。踊れよといって踊れない人はプロになっていないわけです。ところがクラシックバレエをやっておいて、体を柔軟にしておいたり長く使ったりしたときに、壊れない、怪我をしないことを、トレーニングというので、どこかでおいておかないといけない。

 特に年配の方が興味をもって、昔こんなことをやっていたから、もっときちんとやりたいとかいう人たちがいます。これが結構大変なことです。要は、耳も価値観もあるし、自分はもっとできると思っているのですが、そんなわけではありません。誰かとそっくりに歌いたいということが上達の基準になっていますから、最初から無理なのです。
 ただ、似させることに対して器用な人と、自分のオリジナルじゃないと、本当の意味では通用しないタイプというのがいます。

 トレーニングということでいうと、トップクラスにも対応でき、一般の方々が受けても、その効果を感じながら、上達できるというようなものにしていかなければいけないというのは、いつも課題です。
 毎年、優秀な先生方と接していると、判断基準の違いとか、生徒の受け止め方、相性があります。同じ先生でも10倍くらい使えている人もいれば、まったくその先生を使えない人もいる。教え方や方法ではない。当人がその先生をどう使っていくかという目標意識とプランニングです。

 ヴォーカルほど、目標意識とプランニングを持たずにやっている人って、あまりいないのです。たとえばピアニストであったら3年後にどのステージでどの曲をどのように弾くというのは、皆、いわなくても考えます。プロになった人は、そのプロセスを持っていますが、ヴォーカルはだめなんですね。まだ声楽はいい方です。留学してコンクールに出てという先生もいる。いわゆる縦型の社会があれば、尺度が与えられる。そこに合わせていると、発展しないけれど、衰えない。ポップスは10代20代前半でやれてしまった人は、そこで目標を喪失してしまい、その頃の歌は30代40代に歌えなくなります。日本の場合は、20歳前後くらいでチヤホヤされてしまう。そこでやれたとしても、本当の意味で力をつけられない。大体20代でしっかり歌えた人も、30、40代で歌えなくなっているのは日本の傾向ですね。だからといって、声楽に頼りすぎるのも、弊害はあります。

 あまり私の中では分けていない。声楽っぽく聞こえるのはよくないけれど、声の出し方ということなら、邦楽も声楽もポップスも別にあるわけではない。人間にとって一番表現ができることであればいい。
 ただ、声楽が何も使わない、音響技術を使わないという条件の中で、聞かせるものとして、発展してきている。
 日本よりは向こうの風土に合うものとして、出てきているのに対し、もう少し日本の場合は、お客さんの耳の違い、音響的なものを総合して見せていくことの違いがあります。それからポップスの場合は、はっきりいうと声が悪くて発声が悪くても、音楽性や違う意味での創造性で聞かせられる部分もある。

 もっと単純にいうと、優れた作詞家作曲家であると、日本の聞き手の耳は、そこに歌唱力を求めなくても、満足してしまうわけですね。
 私はそれは嫌いで、こういうところをやっている以上、発声や歌唱に軸を立てないと困ります。トレーニングは何をもって上達というのかをはっきりさせないと。トレーニングにはならないのだけど、そこで、声楽家やスクールの人が上達だと思って、うまくやっていこうという線と、現実にやれるやれない、プロになれるなれないの線はまったくリンクしていないんですね。それが一番、大変なことです。

 トレーニングというのは、プロになるということは違うのです。たとえば、声や歌がよくなったら、プロになれるんだと思って、いろいろな学校に行っている。その延長上にあると劇団であったり、声楽であればいえるのですが、ポップスの場合は、単に10分の1の力でしかない。
 活動できる人が、声や技術があったら、よりいいといわれて、ど真ん中の本質的なことではないのです。その辺のことも皆、訳がわからないで来ます。なぜか誰も教えません。

 声や歌をお客さんが聞きたいわけではない。そういうところで違うコラボレーションした才能をつけていかないと、いつまでもやれない。
 本当に声がいいとか歌がうまいだけでは、仕事は、わざわざ歌ってもらいましょうとは来ないのです。
 だから、違う意味でストーリーや物語をつくってみたり、セッションしたり、コラボレーションして、形をわかるように提示しなければいけない。
 そういうことは発声を教えたりするこういう学校ではあまりやらないのです。ポップスの学校で、曲をつくったりデモテープをつくってあげる商売にしかすぎない。現実的にはお金を払うだけの何の意味もない。
 本人に魅力があるかどうか。それも、普段の魅力というより、ステージに立ったときにどううつるかというのが問われる。だから、だんだん落ちてきている。
 声の最高の部分の、歌や声のチェックの部分は、ベーシックな部分の声の研究をしてはやっていきたい。そこは科学や医学と一緒にやっていく。
 それとは別に一般の方々が声に親しむことで、耳がよくなって、彼らの耳が磨かれることで、耳に対応できる歌い手や役者や芸人、日本人自体の音声の表現力自体が、もっとレベルアップする。そのことによって、はじめて音の分野がもう少しまっとうになってくるのかと思います。

○場を創る力

 声楽でも日本のオペラの試みでも全部やっていますが、中心の軸が外れてしまって回っている感じなのですね。
 20年くらいやってわかったのは、鍛えたら誰でも声は出るようになる。それから歌もそれなりにうまくなる。声がよかったり歌がうまかったということと、活動に結びつくのかという軸がまだきちんと引けていない。
 そういう場もないといったら変ですが、そういう場をつくるということ、あるいは自分が持っている力を広げる才能をきちんとさせないと、開かれません。

 それをやることはプロデューサーだったり他の才能を持っている人がやってくれたらいいのです。そんな人いません。
 海のものか山のものかわからない人は、こういうところで磨くしかない。その先のことを、私はすごく単純に考えていまして、アマチュアの人がアマチュアっぽく歌うのもいいのですが、誰かのところに習いに行くのなら、自己投資だから、お金としてかえってこなくても、投資した分だけは、きちんと元がとれるようにしましょう。

 そうでない人はカラオケボックスに行って本を読んで、がんばればいい。その代わりを学校がやっているのは、情けない。
 そういう意味では、問題が山積みです。あとは先生方と生徒とのいい意味でのコミュニケーションみたいなものです。学校というのは、音大も悪いのですけれど、生徒を自分のコンサートに巻き込んで、お互いの先生同士が客を交換してというシステム、本当の意味の表現力で見たいというところにならない。本当に生徒が見たければ、そんなことをしなくてもお金を払って見に行く。
 そんなものを日本の場合は、安易に、芸術や本当の表現の力ではないところに成り立たせるようにしている。その辺もきちんとしていかなければいけない。

 プロは自分の場を持っている。前のスタジオでの試みが、発表会どころかライブまで自分でもって、ライブハウスまで運営しようと思っていたのですが、ある意味だと甘えになってしまう。
 どこでも発表会でできたことが、人生の最高の舞台になってしまうことが多いのです。それは生徒の意欲とテンションの問題ですけれど。
 だからなまじ、ここに頼るなということもいいたい。

 ステージパフォーマンスではないけれど、現場を踏ませないと、教えられない部分もある。
 本当はオーディションもあるし、ストリートもできるように、10代の頃にストリートでやって、誰も見向きもしなかったし、客がひとりくる、お金を1000円もらうということは大変だということがわかって、ここに来るのはいい。
 今の子は学校から来たりしますから、ここに発表会をやり、ライブで呼んであげてやったら、本人の鼻だけが高くなってしまう。だから、外に出したときには何もできなくなってしまう。

 要は自分の力でやらないとわからない。きっかけとして切磋琢磨させたり、競争心が働いている場合にはいい。
 以前、私はやらせようとは思っていなかったのですが、これはやらせてあげたいと思ってやらせた。アカペラで最初やって、グループでやって、順番にやっていく。それではもったいないと思っていたから、ピアニストをつけてやった。最終的にバンドでやった。ただ、公開しなかったのです。

 そこからはむしろプロデュースの感覚になってしまいます。というのは、逆にいうと、私のほうも、生徒のほうよりはお客さんのほうに向いてしまいます。プロですから。生徒では困る。プロとしてやれていないと。
 そのときに考えたのは、やっぱりテレビに出て、人を集めるのかと。やりすぎてしまうと、自分の劇団になってしまう。ブレスヴォイス座というところまでつくって、そこの手前まではいったのですが、最終的に待てよ、それでやってみるのだったら、ソロのポップスのではなくて、劇団。

 劇団やミュージカルでやってきた連中はたくさんいるのです。私は自分の才能のないところ、プロデュースや演劇に関しては、そういう人がいるのだから、そこに行けばいい。他のところに入れば、そこに入ればもっと早いという考え方もある。全部はできません。
 特にトレーニングとプロデュースという考え方はけっこう反します。それが今の日本をこうしてしまった。そこで留まることにした。
 そうやって私が最後にあいさつするということにすると、昔のどこかの偉い先生のようになってしまうのです。それはすごく簡単なステージの作り方です。生徒が客を集めてくれる。でも、そこでやられていることは、それ一本でやっている人に対して、劣ってしまう。隙ができてくる。

 発表会はやらせてあげたいのですけれど、こちらがやらせてあげたくなるところまでは、先生と個人の中でやる方がよい。最低限のリハーサルができる形にはして、でも、どこかのオーディションに直接行く、外でやる、自分たちのバンドで活動する方をできたら望んだほうが間違いありません。

 そういうのをやってきて力がないから、もう一度ここでレッスンといわれたらいいのですが、そういうのがないのに、ステージパフォーマンスを覚えて、外でやるというのでは通用しません。ストリートでやっている人のほうがモチベートが高いです。
 ポップスの場合は、声や歌で買っても、ステージで負けたら、何の意味もない。その辺は生まれ持っての、枠をはみ出すのか、枠の中でやるのが居心地がいいのかみたいなものがある。

 ここに来る人でも、合わないのは、クラスの一番後ろで歌っていればいいやとなってしまうと、プライドだけは高く、技術はないのに、口だけはたってくるようになる。難しいですね。実力など、第一人者やその前で一人でやれれば、すぐにわかることなのです。そうでない人が多いし、それはそれでそこまでリスクを抱えてやりたいと思っていないわけですから、それでいいと思っています。

○痛みを味わう

 日本はやりにくいところです。いい作品をつくろうということやいい動きをつくろうということに対して、皆ががんばればいいのに、必ずそうではなくなってしまう。
 何でそうして足を引っ張るのかとか、何でそういうことを言うのか、いい作品をつくることからいうと、邪魔することにしかならないのではないのではないかということがまかり通る。宴会の席順みたいなものです。私も世の中でやれているということは、折り合いもつけていて、理解してもらう努力の方が大変ですから。そうでなければ、こんな国を飛び出します。もっと高い次元で妥協する方法はなくもないはずですけれど。でも、難しいですね。
 特にトレーニングの場所のようにしてしまうと、もっとわかりにくくなってしまいます。だから現場、ステージは、やれている人しか残れないところは、まだはっきりするのです。

 やれるつもりでやらない人がいるような場所や、やれる力はあるけれど、俺はこういうことはやらないと思っている人がいるようなところは、一番やっかいなのです。無駄に年月だけたっていく。
 やっている人は、皆、何やかんや突きつけられて、痛い思いをして上がってきた人たちですから、それなりにわかっているので。
 一番簡単なのは、生徒にやさしくして、会うだけでも幸せだと思ってくれるような人もいるわけですから、そんな人には何も言わないで、ニコニコしてあげたらいい。ただ、トレーニングということになれば、そんなのは逆効果にしかならないわけです。恨まれて何ぼの世界です。何と思われようが、その人が結果としてやれていたらOKだという、開き直りを持たないと、日本の中ではやれない。

 日本のトレーナーなんか、犬みたいな感じでしょう。おべっか言っているだけです。
 褒めて伸ばさなくても、すごいことやっていたら、私たちでも褒めます。こいつはもう、こちらが見ていて本当に涙が出るくらいに努力しているなというと、こちらも褒めるより、頭が下がる。そうでないところに、褒めて伸ばすということは、それこそ相手の才能を馬鹿にすることになりかねない。その辺は当たり前のようになっています。

 私は、ここを出て、どんなにひどい思いをしたと思われようが、その後に、俺が毎日テレビに出て、いやみを言ってやるというくらいの感じになってくれると、それでいいわけです。トレーナーは人を育てて何ぼ、どんなに仲良くやっても、組織を大きくしても、意味がないのです。
 それは仲良しクラブ。人を育てるというのは、10年で1人か2人です。だからテニスやマラソンのコーチも3人くらいしか引き受けないでしょう。せいぜい5,6人です。ここは一時350人くらいでした。350人育てられたら、育てたとはいわない。マスではやめようと。

 ただ、その一人を選ぶというのは、なかなか難しいのです。こちらでなく本人が自分を選ぶ。
 そういう人というのは、けっこう何でもやれてしまうのです。歌なんか歌わなくても他の才能でやれてしまう。そういう人に、どこまで音の魅力や声のところで世界をつくることが意味のあるようなことを伝えられるか。

 優先順位からいうと、体からですから、先に踊りなんかを入れてしまったほうがいい。次に声ですね。映画撮るようなのは40あとからでもできるのだから、順番としては、声のほうが先がいいと思うのです。それは後からではやりにくいから。あとから歌一本というのは、すごく難しい。そこで今はすぐにタレントになったり、ドラマや司会業にいったりしている。どこでも、本業をやる時期が短すぎるのです。
 でも、しかたないですね。世の中がそういうことを求めてしまうし、そっちの仕事のほうが多い。ちょっとかわいかったり格好よかったりすると、タレント業のほうがつぶしが利きます。

 いろいろな問題がありますが、お客さんの問題もあります。お客さんを育てるだけのアーティストをきちんとつくっていかなければいけない。お客さんが悪いといっていたら、どこでもやれない。アーティストがお客さんを感化して、レベルを上げるしかないわけです。そんなことなので、どんな形で接してもらうかはいろいろあると思います。

○声と構成とリズム

 できるだけ、構成とリズムでできるだけの勉強をしてください。日本語で歌ったときには、どうせ歌詞とメロディを見せなければいけなくなるので、逆のことをやっておこうということです。今のでとってみてください。できるだけ、原曲の感じで。
 実際の歌からいうと、ここを押さえて歌って、次の構成、むしろリズムを引き立たせる。ビギンのように歌っていくことになります。日本人が歌っていくときには、この1行目を明るく、本当に幸せに「夢の街」をほうふつさせるように歌ったほうが、よい。聞き手の耳がついていかないと、楽器、伴奏者は面白いでしょうけれど、歌い手が入る意味があまりなくなってくる可能性が多い。
 その声で、描いていく、そのプロセスを、日本人の歌い手はあまりとらないのですね。

 外国人は、もともと声があるからそこで歌っているとそうなるのですけれど、日本人の場合は一回声にしてから、描かなければいけない。
 墨に筆をつけろということをよくいいます。そうやってつけているうちに、どんどんつけなくても、筆から墨がどんどん出てくる状態になって、外国人と同じようになるというのが、私の当初の理論ではあったのです。
 それがやりやすい人やりにくい人、それから、実際、そういうベースで歌っている人と、そうじゃないところ、響かせていることが一致しなくなりつつある。

 特にマイクがあるほど、上のほうの響きで成り立つようになっています。上のほうの響きと前は言われていたのですが、最近は、口の中の響き、それだけでもだめといわれないようになっている。だから、体の響きがどんどん失われてきます。そこの部分は楽器、あるいは打ち込みの音がカバーしてしまうのでしょう。
 なかなか人の心を捉えるところにはいきません。人の心を瞬間的に捉えるには、高い音や響いている音は大きいのですが、後に残るかどうかということになると、深みが必要になります。

 歌でどう歌おうがいい。体をほとんど入れていない。というより集約がことばのベースの声のレベルではされていないのです☆。体から言葉を吐き出したように動くように動かしている。
 ただことばにマイクがついて、ギターやエレキがついてしまうと、それなりのものが出るというのは、昔からロックにある。その集約度の違いが、レベルの違いのひとつ。
 クラシックとポップスの違いというのはある。トレーニングとして考えたとき、ここで歌ってるということは、体の声がついてくるのと共に、声楽とかポップスを越えた、人間の体、その人の体として、声がうまく動かせるようになってくるところにはなる。

 今、こういうふうに歌う必要はないのですが、こういうふうに歌うことによって、声が動かしやすくなる部分においては、100年経とうが、人間としてはあまり変わらないと思います。こういうところをやって、クラシックっぽくしたりポップスっぽくしたり、バランスを考えるのはよい。声のないところではきついです。そういうことを知った上でやるべきなのに、どう使いわけるかというところに入ってしまっているので、戻ってこないのです。

 感覚の勉強だと、あまり細かいことを言わないで、私なんかを飛び越えて、一流のアーティストの感覚にコピーしましょう。ただ自分のほうに戻してしまうと、自分にあるものしか出ない。勉強は2通りあって、インプットしたものをどう出すかということをやらなければいけない。インプットもしなければいけない。というのは、自分だけの土俵でやりたくないなという部分の大切さもある。一流のものから感化された中から、自分じゃないものが出てきたときに、目を開いておかなければいけない自分と思わなくても、自分から出てきたら自分とにかく深いものでないと支えられない☆☆。

 長くやっていると、自分の土俵で常に考えてしまうので、柔軟性がなくなってきてしまう。アウトプットの形として、自分にあるものを使いきっていないという問題です☆。たとえば、今やったことのバランスを変えてみる。それを重くしたり軽くしたりもできるでしょうし、体のほうにつけることもできれば、上のほうに抜くこともできる。キーを変えていけば、これを1オクターブ以上のところで動かすこともできるでしょう。単純に長くするということになっても、コントロールはかなりむずかしくなってきます。

○本当の問題にとりくむ

 私がプロの人と、何かすごいことをやるのだろうなと思いますか。そうではない。むしろ、その人たちはインプットというよりは、足りないと思えばインプットさせますけれど、フレーズのところでの10分の1、100分の1と、目盛りをより細かく刻むのです。
 歌はたいして問題もない。ないのが、本当に問題。細かく見ていくと、いろいろなごまかしが入っていたり、音が当てられている引っ張れているということではなくて、相手に伝わっているという密度において、どのくらいの問題があるかです。クラシックはその密度を濃くしていけばいいから、案外判断が簡単です。より輝かせていくとかより集約していくとか、声自体の部分を見ていくことで、物理的に計測してみてもわかるでしょう。

 ところがポップスの場合は、それを全部抜いてやってみても、よいのがある。要は10秒のうちの1秒を勝負することで、残りの10秒を10秒歌うよりも、引き出させるやり方がたくさんある☆。
 それが構成であったりリズムであったりする。「ナポリ」のような歌でも、頭から、きれいにバーンと出すような、日本人はむしろクラシックに近いような感覚ですけれど、向こうの人は、同じことができても、それほど明るい音色を使わないですね。だいたい向こうの人は、歌っていることに関しては音色に、日本人ほど左右されないですね。

 だから、その辺は能力があるのかないのか、育ってきた環境もあるから、どちらがいいか悪いかではないですね。ただそれがなくて、笑顔をつくってみたりファッションや他の要素で補わなければいけないというところで来ているのが日本ですね。
 だから、そういうベースがあった上でそういう効果を働かせてきた人たちを見るとよい。なのに全部取り込んでしまう。いっぺんに取り込んでしまうのです☆。

 本来は、基本があって、音声があって、次に表情があって、その上に衣装がある。順番はどこからでもいいのですが。
 それから費用のかけ方。豊かだからかけることができてしまうのです。だからおかしくなる。
 費用をかけないところのなかでどう絞り込んでくるかがわかったときに、はじめて費用をかけると、よりうまく使える。それをどのレベルで使えているのかは、なかなかわからないことです。

 それは声の中でもいえる。今みたいなフレーズをいくつも見つけていく。その動きをさせて、どこまでが自分の限度枠なのか、どこまでが商品になるけれど、どこまでがそこからはみ出している冒険だったり、あるいはどこかの曲のどこかの一箇所では使えているけれど、他で、スタンダードで使ってはいけないのかとか、持ち物をきちんと整理することです。

○バックグラウンドづくり

 面白いのは楽器や商品と違って、自分の体自体が変わってきます。それから感覚が変わっていくから、以前歌っていた歌では満足できなくなってくる。前の歌い方のほうがさっぱりしていてよかったというように、必ずしもオンするものではない。突き放さなければ、作品は成り立たないわけで、突き放すということは、自分で意識をしてやってはいけない。
 トレーニングで一番矛盾するのはそこですね。トレーニングのときに意識してしまう。どの分野でもビギナーラックではないですが、距離をおいて遠くからは正しく判断できることを、中に入ってしまうと、訳がわからなくなってしまう。

 そのときには楽器をやってみるとかダンスをやってみるとか、できるだけ今、自分がやっていることと離れて突き詰めてみる。
 ほとんどのアーティストが絵などを描いています。土をこねたり、一瞬関係があるのかと思うでしょうが、距離を置くことによって観る。中にはまっていって逆に出てこれなくなってしまう危険をさけている。本当に優れている人は、自分で計算したり意識したりしないのだけど、そうやって毎日を過ごしていること自体が、結果的に動いているときがあるんですね。
 そういう人たちの情報って、今はすぐ入るでしょう。何をやっているかとか何が趣味だとか、休日には何をしているかとか。それは休日ではない。ひとつのことだけで深まっていく人のほうが、深くもならない。どこかで息詰まってしまうと、今度はそこを生きてきたものですから、そこをベースにすべてのものを見て、すべてを判断し、自分のものも判断してしまう。

 私はそこを単純に考えていて、その人がやれていたり、たっている箇所がよければ、それはそれなりのものがまわりにあるんだろうなと、考えています。
 どちらにしろ、今のタレントさんや俳優は、いろいろな現場に行って会うと、昔はそんなに変わらなかったと思うのですが、体力ですね。昔は、気力や集中力といっていたのですけれど、今は若い人たちの体力がなくなっている。現場と一番違うのは、気力、体力のある人とない人、単純にいうと、芸能人は遊んでいるようにいうけれど、仮に不謹慎ですけど、戦争で借り出されたりしたら、軍隊としては一番働くのではないかと思います。ただ自分のために動く人が多いから、そういう意味だとだめかもしれないけれど。
 体力あるなというのは、サラリーマンでも本当にやっている人は、体力がある。体力のないところからバランスは崩れてきます。何かやることがわからなくなったり迷ったりしたら、体を使うことです。ジムに行ったり、旅をしたり山を登ってみたりしましょう。

 体はどこかの時点で、何かのときにガタガタときます。私も体力があったつもりなのですけれど。最近は、1日どころか60分歩いても、ということがある。こんなところに座っている仕事が一番よくないのです。私の仕事はまだ立つからいいですけれど、大変なのは漫画家さん、作家の人、机に座っているのが仕事というの。
 歌い手は、体を使わなければいけないから、そこが第一ではないかと思います。昔のロックで2時間のステージをやっていた人と、今の歌手はできないと思うのです。ほとんど、スポーツ選手並みに昔は動いていました。走りまわって、今5,60代のロックアーティストもそうでしょう。1時間で動いている歩数は、今の若い人のステージよりもよほど大きいと思います。ほとんど走り回っています。たぶんあれがベースのことだと思います。

 そんなことで、自分の体と声のことを、いろいろな問題を長くやっても出てきますけれど、やらなくても出てきます。
 やっていて出てくる問題というのは、以前と声が変わってくる。年齢を重ねることによって、若いときのものが失われるのは、しかたがないですね。人間としての生命ということでは死ぬほうに近づいているわけです。役者でも、それを技術でどう補うかということです。
 10代で全開にしてやっているのはいいのだけど、その後にただ、全開している人はだめになってしまいます。だから、どうなるかということになると、他の人の半分で、2倍見えるように、3分の1の力で、3倍見えるようにする。見えた世界が、リアリティの世界、芸事ですから、芸事でこそできる部分があるのです。
 役者が、兵隊の役をやるのと同じで、本当の兵隊をやったら死んでしまう。そこのところで、演じている力が若い人は、本当に体当たりで走らないと、走ったと見えないのですが、歳になって、演技というものがわかっている人は走らないで、すごく走ったような説得力を見せてくるわけです。

 これはステージも同じことです。手を抜くということではなく、マックスでマックスを追求する段階から、それはどこかのベースでこういう課題でやっておいて、徐々にこういう課題でより優れたものを少しずつ密度を大きくしていきます。短い時間でたくさんのものを与えることだと思います。
 1時間で2時間分のことをやっていた人は、若いときはそれが優れているといわれるのだけど、だんだん1時間のことを40分30分、10分くらいに。1時間くらいのことを3分くらい来て、あいさつすれば成り立たせてしまう人は、一番力があるわけです。
 そういうふうに考えて、無駄な力を抜いて、より集中した部分で作品を組み立てることをやってみてください。

 皆さんにこういう曲をやらせているのは、2オクターブ近くあるから大変だとか、長い曲だから大変ということではなく、逆に2オクターブある曲は短く、その短いなかでどう勝負するかということです。だから、捨てるところを知っていくことです。どの一箇所か、あるいはその一箇所を成り立たせるための2,3箇所、それをつかむかということです。そこで印象づければ、その一曲はいきます。全部を展開していくということでもない。その辺をまた戻って、やりましょう。新しい曲をいくつか投げ込んでいくので、パッと捉えてみてください。【05.6.26 V検05&レッスン】

○伝達と表現

 報道ニュースに対してはお客さんは非常に厳しく見ている。感情を逆立ててしまったりすることもありますから、一言言って完全に降ろされてしまったりするのは、ニュースキャスターやレポーターです。言ってはいけないことは、絶対言ってはいけませんから、厳しいですね。
 確かに電話応対もですが、アナウンスやナレーションというのは、オフィシャルな感じを与えますから、その人の個性やオリジナリティが少し出にくい。
 むしろ、日常の言葉で相手に伝わるというのは、パーソナリティや役者のほうが強いですね。だから、ちょっとした表現の伝え方や、間のあけかたに敏感になって、それで人に働きかけられるような声にしていく。活舌や発音の問題ではないと思います。

 声の微妙な色合いや、言葉の切り方になってしまうと役者の本分ですね。
 監督が見ていて、あいつはうまいとか、ちょっとダメだとかいうようなところで、それに伴って声が出ていなかったりする。声が出ないがためにそれができないのであれば、発声トレーニングをし、それから呼吸法や体をきちんと鍛えていくことですね。
 役者は実際に演じるときには、そんなに意識していないはずなのです。役になり切っている。そうすると、ベースはどこかというと養成所かどこかで、かなりの修羅場、テンションの高い練習をしてきている。

 たとえば泣くのなら号泣する。怒るならどなりまくる。そういうことで自分の体や声の、ひとつのはめ、自分のこだわりがなくなってしまう。それがなくなるから、映画で裸になってみたり、すごい形相になれる。初めてやったというよりは、どこかでそういうことをやっているからできるわけです。
 極端をやることによって、加減の程度がわかるということです。普通の日常の生活だったら、そんな大声を上げてやることもなければ、言い合うこともない。

○外国では呼吸がいる

 外国人の声がきちんとしているのは、そういうことを小さいころからはっきりと言い合ってきている。言葉というのは、相手を説得し、自分の意のままに扱う目的があるわけです。日本の場合は、そんなことを言わなくても、周りが汲んで動いてくれるけれど、向こうは言わなければわからない。
 言うということはどういうことかというと、一言言ってもわからないから、ある意味では1分2分も言わなければいけない。1分2分もダーッと言わなければいけないときに何が必要かというと、呼吸や体、発声というのが必要なるわけです。それを日本でいうならば役者のトレーニング。

 こう考えればいいと思うのです。こっちでやる役者のトレーニングというのは、向こうでいうと日常の中で相手とコミュニケーションするものなんだと。本来は必修で、役者のトレーニングというものではなくて、人間としての本来のトレーニングです。
 我々がこうやって喋ったり会話ができたりするのは、初歩教育のおかげですよね。母親が教えてくれて、学校で教わったから、こうやって対話ができる。それは喋ることだけど、喋り方や声の使い方というのは、外国みたいに教えてくれていない。だからそこはできないのは当たり前の話で、やっていないだけなのです。だから、音楽や歌をやるのは特殊ではないところに、声のことでやらなければいけないことはたくさんあります。

○気と声

 気というのは、腹式呼吸や呼吸法をやっている人、西野先生などに、私自身が気で吹き飛ばされたことはないのですけれど、いろいろな学問的な検証がされていたり、そのエネルギーを使ったり測定したりということを聞いてはいます。
 そこで気というのは、私には、覇気くらいのものでしょうね。要は集中力の表れの形です。ヨガとかいろいろな分野の専門家がいて、中国の人が言っている気そのものではないと思う。
 ただ、人とやっていったり人前で喋ったりするというのは、気を持っています。だから、出し方どうこうということもあるかもしれませんが、日常の中でそういうものを感じる。

 声というと出すだけの形で、声に対して、一つの方向性、ベクトルというか、焦点を与えてそれを使う。あなたがそこにいたら、それに対して声を届けるというのが、ある意味では気ですよね。
 声といっても、広がっているように捉えてしまう人もいます。発声も、ここの部屋が響けばいいと。それも声ですけれど、相手に対して働きかけるのは、相手という方向に対して、声を使う。
 だから、声を別に出さなくても気というのはあるし、飛ぶわけです。

 もっと大きなことでいうと、ここの部屋を閉め切っていると、流れは悪くなるし、開けたほうがよい。空気の気も一つの気です。
 私は専門的な気の名人ではないのですが、ただいろいろな人の演奏を聞いていると、気が入っている入っていないというのは、見えない存在としてわかります。この前のはよかったけれど、今回のはよくなかったなといったら、それは気が入っている入っていないとしか言いようがないのです。

 そういうものを感じて、コントロールするというのでは、声も主観的なものでしょう。こうやって声が出ているような、出ていないような、本当に気がするという程度のものです。
 出ているなというのは、気が声の形をとっているんだろうというように。感じながら何かを出していくものには違いがないから、たぶん似ている。
 空気の気より、西野さんのように空気投げができたり、空気で人を飛ばせたらわかるのですけれど、そうでなければ、声のほうが、わかりやすいですね。気功や太極拳など、確かにこうやったら流れにのっているというのはわかるけれど、のっていない人もできてしまって、形は全然、変わらない。乱れ方が違うけれど、声というのは聞いたら、一声でわかりますね。だらしないとかちゃんとしているとか。だから声のほうが、つかみやすいですね。

○つなぎ☆

 一言言って、また息で次の一言を言って、また一言言って、だからある意味ではバラバラなのですけれど、ギリギリつなげているんだなと。ただ、それのつなぎがきちんと出るためには、それだけ使いすぎているから、つなげなくなってしまう。だからといって、つないでしまうと、今度は力で歌ってしまうようになってしまいます。
 一つひとつが今のような感覚で、言いながら持っていけなくなってしまうから、その両方のいいところを生かせるところが、その間くらいにあって、そこでしか、歌として成り立たない。
 歌としてやるのであれば、つっぱってしまうと微妙な変化がつけられなくなるし、変化のつけ方がわかっていないわけではないのですけれど、つけようとすると、今度は流れがなくなってしまったり、逆につけ方になってしまう。ここはこうつけて、こう切って、こういうふうに入っていくと。

 だから、あまり細かく言わないほうがいいのです。どうやれということよりも、とにかく細かく変化させなければいけない。その変化が目立たないように、きちんと一本通しておかなければいけない。それをやろうとしたら、呼吸をきちんと自分でキープしていなければ、呼吸が足りないところでそういうことはできない。
 だから、単純にいうと、もっと繊細にていねいにやらなければいけないということですが、声の状態が悪くなってしまうとそれができなくなってしまう。
 今のはどちらかと言うと、演奏に近く聞いているのですけれど、ボリュームをつけて歌ってみたからといって、体とか息ができるというよりは、声が荒れてしまうという可能性の方が、突っ張ってしまうと多くなってしまいます。そうしたら今のように突っ張らないところで、少しずつ呼吸を扱うことを、細かく覚えていったほうがいいかもしれません。

○勢い

 勢いのあるライブのようなところで、勢いとして出している分にはいいのですけれど、勢いで出ることと、ちゃんと相手に残していって、次につなげられているかというのは、違うことです。喉の状態が悪くなってしまうと、強く歌わないと、速い音や大きな音は動かしにくい。
 だからそのことをやるのは悪くないのですけれど、その結果、開放が遅れたり、小さな声や裏声で歌いにくくなってしまったりすることが、けっこう不便、つまり、よくない。
 皆、何やかんや言って、トレーナーについているわけではないので、無茶をやっていて、それで後で、のどが強くなった人もいれば、出なくなった人もいるというのが現状です。

 別にどちらをやれということではないけれど、先にそういう可能性があるということを見た上で、どういうふうに自分がそのときに処するかということです。だから、感覚を優先にやっていって、声はあまり当てにしないほうが本当はいい。声で歌っていこうとすると、今のリズムや音域で、J-POPSは歌っても、もともと無理に組み立てられていますから、上達はしにくいでしょう。

○流れと自由度☆

 アクセルの踏み方が悪い。グッと踏んでしまうか、ふっと抜いてしまうか。カーブなんかも、下手な時期というのは、止まってしまうようにまわってしまうか、グッとやるか。半分くらいにしたら、ブレーキもアクセルもいらないで行ける。
 だから肝心なところの入れ方、呼吸や線がつながっていたら、そこでちょっと加速すると、メリハリがつくし、ちょっと引くこともできるのです。強く弱く、自由にできる。

 本当の歌のなかで、自分の声が使えていないのではなく、イメージのなかで、そこが雑にバッと出してしまったり、パッと切ってしまったりというところで許されてきてしまっている。マイクがあったら許されてしまいます。むしろ出すほうが優先されてきてしまうと思います。
 引く必要はないと思いますが、流れがとれているかということ。その流れになったときの自由度、プレイでも何でも、いろいろなことができると思っているときには、非常にいい状態なのですが、これは危ないとか次に上がるときには引っかかるなと、声の状態が固まってくるとそうなってくるのです。そうしたら、より強くやってしまえとかより勢いでやってしまえといったら、できてしまうのです。けれど、問題は解決しません。

○引く、ということ

 問題はひとつ引かなければいけません。そこでバッとやってしまえばできてしまうのだけど、練習だから、そこはバッとやらないで体に戻して、たとえお客さんがいても、下がって音がとれなかったり、リズムに乗れなくてもいいから、そこにきちんと音をコントロールしておいて、またつないでいこうと。それは練習だから許されることで、ライブになったら何をやっているんだという話になってしまいます。そこは分けておくことです。

 そんなに急いで上げていかなければいけないことではない。もっというのだったら、これをやって次をやってと考えてしまうと思うけれど、これだけ2年やっていてもいいわけです。ただ、同じものをやっていると、同じような癖がついてしまう。
 だからいろいろ変えてみて、柔らかい声の使い方、体と呼吸が伴ったところでの歌を覚えていくこと。
 重ねていったときには、そういう感覚が出ているわけです。音程やメロディを歌っているわけではなくて、言葉を自分が言っていたら、積み重なっている。基本であったら、ちゃんと相手に伝わるわけです。
 そこで伸ばそうとか、高くしようとか、もう少しつなごうなんかと思ってしまうと、できなくなってしまう。それが今日の状態の力です。ただ、それでいいわけです。そのことをやっていくわけです。

○ていねいに、しぜんに、ナチュラルに

 歌になると思っていることに、クエスチョンをつけて、待てよ、まだここにこういう問題があるのではないかとかいうことです。強くしなければ出ないときには、逆に少し強く歌ってみて、今度、2番をすごく弱くするとか、とにかく丁寧にしなければいけないということが、根本的なところにあるわけです。
 ライブなんかだと、丁寧には、あまり求められないのですが、自分の喉を守るために、そういう歌唱を覚えていかないといけません。せっかく強くすることを覚えても、引き立たなくなってしまいます。聞いている方にも飽きられてくるだけだから、丁寧に歌った中で、どこか1箇所か2箇所でもインパクトを、強く歌えるというところのほうが、歌が大きくなりますから。

 自然な声はわかりにくいけれど、こういう中で自分の自然、ナチュラルはどういうことかというのを、まだナチュラルよりは少しいろいろな加工をしすぎている気がします。頭から。
 だから、それは歌の中では別にかまわないのですが、自分の発声練習になれば、もっと加工をとってみて、何もなっていないし声にもなっていないけれど、体と息のところから、言葉が出るように、歌の響きになっている感じのところをやることです。
 こんなものが歌えたら、ここの課題は何もないですから。相当なプロが来ても、こんな曲は難しいというわけです。

○入り口と出口、両方からみる

 そのときには作品としての価値ではないのです。しかたないのです。それは動かし方を見るためです。そうしてしまうと出口がわからなくなるから、この曲はどう歌いたいというものがあったところから、発声はおかしかったけれど、こう歌いきれてしまったからいいやというような部分からみます。

 もしかすると発声の基本があると、ここまで崩れなかったなというかたちで、出口を見ておかないと。ここの場合は発声だけではなく、歌も入るのです。だから、歌の中で何が行われたのかというのは、自分がどう行おうかということに対してだから、そのイメージを入れなければいけない。だから、こういう歌が歌いにくければ歌を変えてやってみてもよい。
 人が見たらうまい下手というけれど、結局、それが出ているか出ていないかということでの問題ですね。きちんとそれに取り組むことが、非常に難しい。それは確かに、喉や呼吸の問題、発声法の問題というのがあるかもしれないけれど、それがずれていたって、歌というのは別におかしくはならない。むしろそういうものは後で直せばいいだけの話です。

○V検「赤とんぼ」(1)

 ここの新入懇で、モノローグが課題になったのが合宿の1回目をやったあと。なぜかというと、歌が全然リアリティがなかったから、それでモノローグならいいやと、初めて参加した人でも、そこにリアリティを出せる、それで「夕焼けこやけ」をやめた。
 元々歌えたわけではないのですが、それでもそれなりに歌えた人たちがいたのですね。
 私は、合宿の完成度が高かったのは、1回目と思っています。
 こちらの完成度ではないです。徐々にこちらは完成度が高まるのですけれど、生徒のほうがどんどん感覚が足りなくなって、中断した。8回目くらいの合宿というのは、ほとんどが経験者で、3年4年5年、京都も5年くらいいるメンバーが中心でやっていました。本来は高まっていかなければおかしいわけです。こちらがどんどんやることがなくなっていくべきなのでしょうが、なかなかそうならないところが大変でした。

 だから、教えて歌がどうこうなるものではないというのが、よくわかります。
 私自身にとっては、ここの中で一番聞いているのは「赤とんぼ」だと思います。たまに、レッスンの中でもオムニバスの中で、最近もやったと思います。難しい歌です。たぶん、最終目標になるのではないかと思います。こんなものが自分の思い通りに歌えたときには、もうほとんどの歌は歌えるのではないかと。

 共通の問題点は、前にも言ったこともあるかもしれませんが、あらためて、いくつか言っておきます。
 誰もがひっかかるところは出だしから「ゆうやけ」、「ゆう」、ウ列が続いております。それから「や」と「け」、特に「け」、「こ」、これが跳ねる音ですから、軟口蓋で出すような音ですから、「こやけの」の「や」と「け」と「の」に持ってくるのは、これは難しいのですね。それから、「とんぼ」の収め方も結構難しい。だから違う形で逃げて処理していた人もいましたけれど、これだけをとるとなかなか難しいと思います。

 テンションが高かった人の、最初の1音や2音はよかった場合があるのですが、最後までつながった人はなかなかいなかったのではないかという気がします。皆さんが、判断すればいいことだと思います。もうひとつは、形を、自由曲も一緒に言っていきますが、形を借りているというのがあまりにも見えすぎてしまうと、これはちょっとまずいですね。

 今日も何曲かありましたけれど、ずらし方から何から、技術だったらいいのですが、雑になってしまうと、形を借りて歌ってみるのはいいのですけれど、それは自分のものではないので、自分に呼吸にもう一度戻してやらなければいけないです。
 これなんかは「こかごにつんだは」の「は」や「いつの日か」の「か」のところ、検定するのにはわかりやすいと思います。「ゆうやけ」の「け」、自分で考えてみて、やってもらえばいいと思います。

 それから「追われて」の「て」を先に入れたり、「いつの日」を前にもってきた人もいましたけれど、その速さに内容がついていかないと、この曲は速く歌ってしまえば結構楽そうですけれど、でもドタバタしてしまう。1オクターブ半、急にいくような曲を、そこを無視してやってしまえば、持ったような気もします。

 「ゆうやけ」や「山の畑」だけとか、その辺が歌えた人は、いました。それから感情移入、ストーリー、日本人で、特に田舎で育ったりしたら、故郷に帰れば、赤とんぼは、まだ過去のものでもないでしょう。お客さんとの共感はとりやすい歌だとは思うのです。日本の歌い手が歌ったものも、ずいぶん聞きましたけれど、プロなりに何となくごまかして歌っているなというのがあって、真正面から歌っている人はあまりいない。さすがに、それだけ難しい歌だと思ってもらえばいいですね。

 言葉で持っていくやり方がなくはないと思うのですけれど、ある程度、声楽的なベースの上で、展開されていかないと、なかなかいいところが伝わらない。無理に持っていったら、身が持たないし。身で持っていこうとしたら、形をとり切れないというような意味では、難しい。
 まともに歌えているのは、あまりないですね。そうなるだろうと思っていたし、そうなっている。他の人の中から、ああいうふうに言葉を使えばいいなとか、ここは通じたとか、けっこういい情感が出ているではないかとか、全体では無理だと思うのですけれど、どこかの部分にあったととってもらえればいいのでないかと思います。外国人や古い日本人の歌ったもので心に残っているものがあります。古い初期のもの、あの頃の固め方は、独特の日本的なものがあって、よかった気がします。

○(1)日本の声の評価

 医者にかかった方が、かかった人の気持ちはわかりますし、本当はこういう商売をやっていると必要なんだと思います。
 私も声の専門書を読んで、30年経ちますね。皆さんは自分に落とし込んでもらえればいい。私の本を読んで、あと20年くらい、まだあるのではないかと思います。しかし、簡単に年月が経ってしまう。

 いろいろ話を聞いていて、一番思ったのは、日本で一人として歌い手がいない。日本の歌を歌えるオペラ歌手もいない。美空ひばりについては大きく評価していらっしゃる。
 今の芸大、昔の東京音大に、音楽を輸入してきた人が訳した書物の中から、発声が全部消えている。日本の音楽は、明治維新の頃はアメリカが中心だったらしいです。アメリカの方から持ってきたものが、なぜ発声が消えたのかはわからないけれど、消えている。
 日本語の中の音声教育がないというのは、音声の基準がないからしかたがないのですね。ドイツだったら、音声でドイツ人はどういうふうに音を発するべきだという基準があるのです。

 日本の場合、「あいうえお」という基準がないのですね。「あいうえお」、それぞれの基準は何なのかというと、アナウンサーと役者と声楽家と落語家と、皆違うのです。たくさんの「あ」がある。その中で、どの「あ」なのかというのは、誰も定めていないのです。
 暗い「あ」を使っている人もいれば、明るい「あ」を使っている人もいる。たとえば、母音が10個以上あるところだと、母音というのは口の中の形を変えて出す言語ですから、そこで、扱わなければいけないとなれば、いやおうなしに決まってきますね。どういう「あ」なのか、正確に決まる。本当はその辺から決めなければいけない。

 結局言語生活の問題ですね。家庭教育をきちんとしなさいとか、学校でこういうことを教えなさいというのですが、じゃあ、学校の先生が教えるかなというと、そんなことをやろうがやらまいが、自分の生活に関係ないし、下手なことをやるより自分の声をしっかりさせなければいけない。
 そうなってくると日本人の中で必要とされる言語生活がないというところにくる。必要がないと身につかないというのがあると思うのです。言語治療士や音楽療法とか、いろいろなものが、どんどん資格になっていったり、一つの基準ができていったというのですが、声の場合は、非常に難しいと思うのです。

 オペラや声楽でも耳のいい方は、日本人のをあまり認められていない。私もその一人ですが。「あれは声がないし、声楽家の歌うとおりに歌うんだよね」と言っています。「あいうえお」という発声のやり方、言葉が聞こえるということでは賛成されていても、外国人の本物のものをたくさん聞いていると、個性ということ、それから当人がどういうふうに創作しているかということを重視しているのでしょう。面白いか退屈かという見方をするのです。
 退屈でしかたないと、日本の合唱団についてもそう言っていました。世界の合唱コンクールがあって、何で日本人はああなんだという。私は特に、いろいろな人に今年は会っているのですけれど、大体、皆同じことに気づいている。同じなのに、何でそういうことがまかり通っているのかなということだけの問題なのです。
 それは教えられている人が、声というものは個性的にしかなりようがないのに、そうさせないため、中途半端になっているのだろうと思います。

○(2)鍛えた声

 ずいぶん科学的なものを試している。私も、脳の先生に1年くらい前に知り合ったのですけれど、その人がちょうど、10円玉のようなものを体に貼り付けたら、どこをうろついていても、どういう体位でいるのか、全部データがとれる。医者で検査をしても1年のうちのその日だけでしょう。それを24時間365日やるという、ビジネスを起こしています。
 そんなことを声楽家につけて、昔実験をしていたと、今日もいろいろな実験を見せてもらったのです。たぶん日本の声楽家は、もっとわがままにやらなければいけないのだろうなと思いました。

 言語生活の中でベースになっている声がないから、歌声のところに逃げてしまって、いつまでたっても、いわゆる体壁、体の壁の振動、それがないということになってしまう☆。
 だから合唱団でも上に抜けただけの響かせたような、ああいうのはボーイソプラノやウィーン少年合唱団などの、子供のやることです。そんなことを言ってしまうと、女性の裏声も否定せざるをえなくなってしまうのですけれど。それはそれで芸術として、声がきれいでいいということになっても、そこの基準がない。

 外国の場合は、ミュージカルでもオペラ歌手でも、役者でもしゃべっていたらあまり区別がつかないでしょう。結構、クロスオーバーしてしまうものなのです。だからミュージカルをやっていても、オペラ歌手出身でも、結構太い声でがらがら声でロックを歌ったりできてしまうのです。日本の場合、そんなことは無理でしょう。

 それは言語で鍛えられていないということです。それを何で声楽家がいて、といっても、声を教える人が誰もいないからだということなんですけれど。そんなことを言ってもその道を生きている人で、声楽家が声楽を教えるのにそういうことを教えていないわけではない。
 どうしてそこでうまく成り立たないかというと、教えすぎてしまうのではないかと思うのです。だから、一回くらい声を壊してもいいと、声を壊すような思いをしなければわからない。

 私も、こうなれば声が出なくなるのかという経験は、何回かしています。そういう中で鍛えられてくる部分はある。ただ、それが役者みたいに積み重なる人と、それがあまり積み重ならない人がいるというのは、持って生まれたところであるのだろうと思っています。
 日本のソプラノやテノールは、元々声帯が短くて、高い声でしゃべっているような人が多いのですが、外国人は必ずしもそうではない。大きい体の人や、声帯がすごく太いような人がソプラノをやったりしている。そういう太いものが細いものを出すのは大変だけど、そこが技術なのです。
 だから、日本でそういう人たちというのは、高いところまで特訓をしないうちに、声のパートを決める。

○(3)年齢別プログラム

 音大で入学前にパートを申請しなければいけないのが、おかしい。その制度がずっと続いている。入ってから、声はいくらでも変わるし、パートも変わってもいいというのですが、それなら元々テノールで受けさせなければいいのです。そんな試験にしてしまうから、10代の頃に高い声を出そうとなる。甲子園野球と同じですね。ピッチャーをどれだけ潰しているかわからない。

 皆が悪いと思っていながら、この国は変わらない。たぶん、ハードな言語生活を送らなければいけないのではないかと思います。それからもっと壊してみて、強くしていかなければいけないのではないかと、これは前のH先生とも裏で一致したことなのですけれど、私の立場では言えないし、まだ書けないことです。
 そうなってくるともう少し、ミュージカルやオペラや役者がやっていることが中心にくるだろうと思います。それぞれの分野の人が全部ずれていっているのではないかなと、直感的に思うのです。

 だからといって、声を壊すリスクのあるトレーニングはやれない。実際のレッスンのときに、向こうみたいな喉声で出すようなことを教えられるかというと、教える立場としてはできない。中心のところでやって、歌うときには勝手にやりなさいと。そう言ったときに、勝手にやる人は早く潰してしまって、それでも鍛えられてしまった、そのうちの何割かは育つのでしょうけれど、勝手にやらない人はそこで終わってしまう。きれいに歌えるかもしれないけれど。そこの部分をどうやって、学校に降ろしていくのかは難しいですね。
 合唱団の指揮者なんかは、コダーイのシステム(ハンガリーのわらべ歌のようなものを音楽生活に入れていく)、何歳のときにはどういうことをやらせるというのを体系的にやっていくべきだという。教育法は音楽にもたくさんあるのですが、そういうものをやりながら、研究家が研究している。けれど、私はどうも全部がそれている気がします。

 外国人がやって、それでパフォーマンス的な授業、声で感情を表現しようとか、嵐がきて助かってみたいなことを声でやっているのは、面白いということをいわれます。それは日本でいうと、劇団のワークショップですでにやっている。うちも黒人のヴォーカリストに頼んだときに、彼がやったことはテーブルを出して、向かい合って、2人で演技を即興でやりなさいということでした。そんなことをやってできるくらいなら、声の問題なんて片づいている。
 だから表現ということが必要だとか、耳を鍛えなければいけないということ、つまり、音の世界というのがこんなにあるというのを知るためにはいいと思うのですが。「大きな耳」というような本が出ています。ライオンの鳴き声を聞いてみようというような、私もそんなことをヴォイストレーニングの本に書いたこともあります。

○(4)日常と現場に学ぶ

 どうしてそういうふうに、本当のことを知っている人たちも皆、現場になってしまうと違ってしまうのか。そう見て、私も現場では間違っているのかもしれないと考えるのです。合っている間違っているということでもないので、そんな討論は成り立たないのでしょうが。
 声を壊す壊さないということではなく、深めることにおいて、正しい間違いという考え方はあまり入れなくてもいいのだろうということです。
 ロックなんかも元々シャウトでいくわけです。しかし、あれをシャウトと勉強していくやり方はよくない。体を使ってみたことで、音楽が本当に入ったときには、それは自分にとって心地いい、イコール相手にとって心地よくなるわけだから、いろいろな逃げ場がある。

 最初に私が「基本講座」に書いていたのは、音楽は入れておかなければいけないこと。音楽が入らないところでトレーニングをやってしまうと、喉を潰してしまう。出口があって、声のことをやっていかなければいけない。
 いろいろな活動が行われ、いろいろな先生が集まり、いろいろなところでこんなにもやっているということはわかりました。が、外国からいろいろなものがあっても、またそれが日本の合唱団のような形になっていくんだろうな、何で日本はそういうふうになるのかということの方が、大きな問題です。

 外国人は1分か2分、続けて喋らなければいけない、そのためには、腹式でなければいけないし、ある程度声が深くないと、相手に対して説得できないという、生活上の理由がある。しかも教会に行ったり、親の声を聞いたりしている中で、音声のことは磨かれてくる。その必要性を入れなければダメですね。
 小泉さんが手本かどうかわかりませんが、あれは短いのですが、彼はすごく言い切る。結果的にああやって声で人を動かしているわけです。現実面に働きかけている声から勉強していった方がいいと思います。

○(5)発声のよさと結びつかない表現力

 それから、喉の快感、自分の心地よさが、声に負担をかけないところに求めたときに、歌として、伝わるものが減ってしまうという問題もあるのです。
 私なんかもここで見ていましたが、3年から4年目くらいいても、1年半くらいがピークなのです。それが、形を伴って、3年から4年目くらいのときにいい作品を、中途半端な声なんだけど出すのです。聞いていてジーンとくる、伝わるレベルのとても高いもの。
 ところがそれを、どこかで発声を整理してしまって、きれいにできるようになると、当人なんかはイガイガがなくなって、すごく響いて楽に出るようになったという。
 それは私もテキストでは理想とするところですが、どうも違ってくる。実際トレーニングをやっているときには、体を使って、きついところで声を振り絞るところから、最終的にはそれを抜けて、声を意識しないようにして、出るようになる。

 T詩人が言っていたことは、ステージで読むというのは、詩で書くのと違って、当人がそこに表れる。でも、できたら自分はそこにいないようにしたいんですよねと。深い意味ですが、落語なんかでいうと、一番いい落語というのは、噺が見えて、当人が見えないのです。その声が聞こえて、長屋だったら長屋の風景しか見えないし、幽霊話だったら、幽霊だけが浮かんで、その人が語っているというのが見えなくなる。それが究極のものだということです。

 彼が言っていたのもそういうことで、そのときにすごくいい声で朗々と朗読してしまったら、どうなるかというと、やっぱり声がうるさいわけです。だからTさんは、オペラや合唱団や朗読の人たちも嫌いだと。
 ああいう生の声で、日常のおじいちゃんみたいな声でやっている。自分が生きてきた、ただの声、そしてその声さえも消したいと。
 本で読んでもらうのと、リアルなライブでやるのと違う。あれはあれで一部あるなと思いました。いろいろな芸術をプロの声でやっている人より、案外とTさんの声が一番自然だという。
 そういうことを考えたときに、声がきれいになって、美しくなっていくことの何かが、人々を感動させるのかどうか。音楽である以上は、旋律として非常にきれいに、声楽家がミスタッチしてはいけないのと同じで、声もそうあるべきでしょうけれど、何となく歌に関してはそういえない部分がある。

 美空ひばりさんなんかは、わざとじゃないけれど、結構変な部分をつくっていることがあるのですね。それが言葉や歌になっていたりすると、効くのですよね。心に効く。
 それは下手ということではなく、うまさで見せないための下手さなのですよね☆。そういうことがあると、ほっとしたり親密感が増したりする。
 Tさんでいうと、関西系のフォークが自分の詩に一番合っていったというようなことだと思います。
 だから、当然楽に出れば、発声なんか、こうやって楽にすべきだという。でもそうやれた人が、結局、中途半端な声楽をやったり、それっぽい歌い方しかしていない。そうなったら、当人の表現している世界やつくり出している世界、作品で問うしかないということになってしまいますから、声の問題は飛んでしまうのです。

○(6)嘘っぽさとリアルさ

 確かに朗読も嘘っぽいといったら嘘っぽい。日本人映画の吹き替えも嘘っぽい。だから、考えてみると、コロンボやルパンをやっている人は、ひとつの芸風となっている。ドラえもんも大山さんしかできないようなものだったから、そこまでくると、一つの声の個性といえるのでしょう。
 そうでない人のは、言いまわしを聞いてみたら、何でこんなに気取ってお高くとまったような、日本では使われないような、まさに言い回しをするんだろうというのは、たくさんありますね。それはそういう人たちがつくり上げてきた世界だから、それを期待していうようなプロデューサーがいて、お客さんがいるのでしょう。欧米ドラマの吹きかえは、かなりズレている。
 今の若い子は、できるだけ原語で聞いていたい、吹き替えはいやだとなってしまった。それは当然、役者のキャラと声が合っていなければおかしい。日本の場合は過度に違う。

 たとえばドイツ映画をアメリカで見るとき、英語の吹き替えというのは、結構自然なのです。声も似たような人をつけている。日本の場合、最近は似たような人をつけていますけれど、まったく違うものをつけている場合の方が、多かったですね。
 役者は声が低いのに、高いのをつけている。だから、原語で聞くとびっくりする。吹き替えでストレスが溜まってくるような感じです。

 私は最近、韓国の映画がだめで、何かあの韓国語が疲れるのですね。元々、韓国語があまり好きではないのですけれど。歌も含めて、軟派な歌になってきて、日本よりもひ弱な感じです。本来、そういう歌ではなかったし、もっと強い言語だったわけですけれどね。そこに、生理的なものがあるんだと思います。たぶん欧米のリズムが入っているから、ドイツ語もあまり好きではないのですが、英語の方が抵抗感がない。フランス語は鼻につきます。その生理状態になってしまうでしょう。

 そういうことでいうと、日本語のベースはどこになるのかというと、水戸黄門や寅さんなんかの辺になるのかという気がします。
 そもそも言語を決めつける必要はないのですけれど、音楽の勉強をするというのは、自分の中で音声の基準をとらなければいけないから、自分にとって正しい「あいうえお」は何なのかと、それから「あかさたな」、子音もそうですよね。それを他人の見本にとっているところに、日本のおかしいところが出てきているところがある気がします。

 確かに外国の合唱団は、日本の合唱団みたいではない。でもウィーン少年合唱団は、日本が目的としているような線上に、確かにあるけれど、それでももう少しきれいに抜けているかなという気がしますね。
 こういう問題は皆さんの中でどこまで自覚しているかという問題ですが、そういう研究をしなければいけない気がします。
 昔は言語の研究をずいぶんしていたのです。ロックを日本語で歌うという問題、私より上の世代で、英語で歌わなければロックじゃないと言っていた人もいたわけです。
 それは結果としては日本語が勝利したというより、訳のわからない言語、結局体の原理に合わない言語を、音響を加工することによって、体に入らないまま、伝わるようにしていくというような、そっちにしてしまった。カラオケというのがベース、コマーシャルなんかもそうですね。だから、その辺はどこに最終的に日本人の声が残るのかなという気がしますね。

○(7)どれもこれも声がおかしい

 政治家の声と教師の声は、日本は一番汚いから、すごく問題があるんだ、では見本となる日本人の声はどれなんだろう。アナウンサーはアナウンサーで一理あるでしょう。
 加賀屋さんや安藤さんはファンが多い、嫌いな人は嫌いですが、アナウンサーに関して好き嫌いがありますね。でも、好きだという声のなかにアナウンサーを入れている人が多い。松平さんもそうですが、番組とあっている人は落ち着いて聞くことができます。民放は、中途半端なアナウンサー。そういうことでいうと、あれもひとつの日本語の文化の上にある。

 歌はずいぶんと外れてしまいましたが、ミュージカルも劇団も外れてきている。ドラマもいい加減になってきているでしょう。そうなってきたときにどこに行くのかなというと、サンボマスターのところにはいかないと思います。ただ、サザンが出たときと同じようなもので、別に音楽やことばというものに属していなくても、そこから飛んでいても何かしらの効果を人間にもたらすものであれば、その方が新しい芸術だろうと思います。

 それをやってきたのが、美術とか建築の世界です。これまでにないものがいい、音楽は20世紀に、現代音楽という形でやって、とことん敗北しましたね。現代アートは残っているけれど、現代音楽というのは、聞いていたら頭が痛くなるようなものですから、それもおかしいなと思うのです。

○(8)言語をベースとする

 とにかく、基準はどこかで持っている必要があって、それはブレスヴォイストレーニングの基準とよく言われたのですが、私が今になって考えてみると、まさしく言語生活の基準ですね☆。
 基本講座や実践講座を見てもらっても、歌のことは書いていないのです。いわゆる言語の中での基準。そのベースの上に、歌もひとつのジャンルとして取り扱っていく。
 最初に言っていたことは、とりあえず2年か4年かかっても役者の声になれと。役者になった声で歌うと、歌だけでいきなり歌うよりはいいよと。

 日本の役者というのは、かつては体からきちんと声を出すことをやっていました。その条件も今、いらなくなってきていますから、そうなったときにどう捉えたらいいのかというのは別です。
 美空ひばりさんの声も、基本的には体でちゃんと振動しているような、発声の声ともまた言いがたいところもあります。ただ、高度なことをやろうとしたら、全身でひとつに捉えなければいけないということは、これは必ずあると思うのです。だから日本でもスポーツ選手は声がいいし、集中力も高い。お笑いの人も体力がある。

 そういうベースの部分を、音大は全部抜かしてきました。それで体のことがずいぶん問題になってきているでしょう。体操をやったり柔軟体操をやったり。それでは外国人に勝てない部分はあるのですね。特にオペラなんかは、外国は貴族がいて、その人たちは、遺伝子的に体が大きかったり武道をやっているから、鍛えているわけですね。奴隷と3対1くらいで組み合っても負けないわけです。何もやっていないからといってひ弱なわけではないのです。日本のお公家さんとは違うわけです。声楽は、遺伝の遺伝できています。そういう中からオペラ歌手が出てきている。

○(9)声について知ること

 元々、日本は教育が平等ですから、そういうことでいうと、保健体育や国語の問題かなと。声が変わるとか声変わりについてという課題は、音楽の先生の課題では、ないわけです。たまたま音楽で目立つから、声変わりや変声期の問題があるだけで、学校の全部の問題ですね。小学生や中学生を扱っている人だったら、当事者です。
 いまだに女性は声変わりがないと思われているわけでしょう。女性は徐々に、更年期まで入れて、1,2年で1オクターブ落ちるわけです。男性と同じです。男性は急に喉仏が出てきて、1オクターブ変わってしまうからわかるのですが、女性もそのときに1,2音落ちている。その後、徐々に低くなっていく。おじいさんおばあさんになると、あまり変わらなくなるわけです。
 やっぱり声変わりはしている。それを微妙な思春期のときに、先生方は気づかない。親も気づかない。風邪をひいたのかなと思っている程度で、過ごしてしまっている。騒ぎ立てるのもよくないですけれど。

 最近は子供は一人だったりひきこもっていて声を出さない。声変わりのときに声を出してはいけないという先生もいるのです。そんな不自然なことをやってしまうから、余計にだめでしょう。普通に声を出していたらよい。ハードにやってはいけない。普通にしていると普通に変わるのです。
 ところが一人っ子だったり家にひきこもっていたり、外で声を出したりしないから、どんどんそういうのが長くなって、訳がわからなくなったりしているのが現状らしいです。

 男性は、昔、兄弟がいると、低い声に憧れるわけではないけれど、いつまでも高い声じゃ恥ずかしいというのがあったけれど、今はユニセックス化しています。女性みたいな声でずっと生きていきたいなという人もきっといる。低い声は汚いと思ってしまうような、潔癖症の子もいるのでしょう。
 実際1代2代と、身長も体重も変わっているし、スタイルも変わっている。日本人を見たら、びっくりする。あなた方もそうでしょうが、あなた方の一つ下の世代と親の世代と、おじいさんおばあさんの世代と、同じ20歳の年齢で切ってみたら、全然スタイルが違う。そういう中で声だけが変わらないということもない。

○(10)100年で変わるか

 とにかく、日本の先生方というのは、欧米第一に考えますから、ドイツだとかイタリアだとか、そこからちょっと間違っているといっては変ですが、もう少し広くみなければいけない。それから、音大なんかも特殊に閉鎖的になってしまった。
 お笑いなど巷で声を使っている人との交流が全然ないですね。そこの世界しかしらない。だからおかしくなっているという気がしますよね。
 先生も言っていましたが、100年200年かかるのではないかと、私なんかは100年200年たっても、あまり変わらないのではないかという気がしますね。
 ただ、外国人がたくさん入ってきて、サッカーや野球のように、外からきて中から変えていくというのはあるかもしれない。日本人も外国にいったら、しゃべらなければいけない。
 それがだんだんわがままになってきています。最初に私がレッスンをやったときに印象深かったのは、外交官の方が来ていまして、声を鍛えたいと。英語力では負けないのだけど、頭では負けないのだけど、しゃべっていると声で負けると。自分の声は5分10分しゃべっていくと、声が上がってくるという。その時点で負けだと。そんな世界もあるのかと思いましたけれど。そういうふうな感覚やセンスも必要なのです。

○スタイル

 今「赤とんぼ」をどうやればいいのかわかりませんけれど、常に考えてほしいのは、やっぱり第一線でやっている人であれば、オペラ歌手でもJ-POPSの歌い手であっても、桑田さんでも清志郎さんであっても、「赤とんぼ」を何とか歌うだろうと。それに対して自分のスタイルというのはどういうものかなということを見ていけばいいと思います。
 ベースの部分は伸ばしていってほしい。伸ばさないかぎり、落ちてきます。だからここまでいったからOKということはないと思います。それを維持するためにも伸ばす努力をしておかないと、キープできませんから。

 肺活量も20歳くらいでだめになってしまうし、呼吸や声帯の筋肉も、25歳くらいでダメになるらしいです。それは体としてキープしていかなければいけないけれど。
 もうひとつはいつまでも可能性というのも見なければいけないのですが、限界というのも見てみて、今もっているもので、どういうふうに作品にまとめるのかということです。

 他人と違うようにやった人もいるのですが、それがアイディアだけだったり、あるいは何回かの練習くらいで上げてきたくらいでは、やっぱりだめですよね。そのオリジナリティそのものに対して、3年も5年も時間をかけていきます。いわゆる自分の作風、それを知っていくところに、元々持っている声や鍛えた声と、どう描くかということで見ていけばいい。
 漫画なんかだと絵のうまいやつはうまいと思いますが、うまくない人も活動しているし、絵がうまくてもだめな人もいるのです。

 声の場合は、漫画のように誰でも誰かの真似れるというものではない。限界というのが早くきます。いろいろなことに気づくのによい。俺は絶対ああいう人みたいには歌えないというのは。だからこそ逆に、どう歌えばいいのかというのは、決まってくるのです。
 好きとか嫌いとかではなくて、そこで深めて勝負していくべきだと思います。そうでないと一生、全うなレベルにいかないと思うのです。

○制限の中で形成する

 だから半オクターブしかないとしたら、それだけ制限されているということは、何かしらメリットがあるんだろうなと。
 そう見れば、アイドル歌手も1オクターブくらいしかないけれど、あとで2オクターブになった人もいます山口百恵さんのように。本田美奈子さんも、惜しかった。
 でも1オクターブのまま、下手なままに終わっているのかというと、1オクターブを見せられるようになった人はたくさんいるわけですね。
 だから、声域や声量ばかりを追いかけるのではなく、何かしら制限されているのだったら、その代わりに何があるのかというのを見ていけばよい。

 声量や声域がある人は、細かいところはほとんどやっていかないわけです。そうすると、徹底して細かくやっていけば、音響というもの音楽をつくることに使えますね。深まっていくでしょう。
 自分を見るほうの努力に振り向けていくことだと思います。

○V検「赤とんぼ」(2)

 今日も感じたことをまとめますと、まだ課題レベル、自分がもってきたところの「夕焼けこやけの赤とんぼ」の課題になりきれていない。それは時間がかかることだから、待つのですが、まだスタンスができていないのではないかという気がします。
 そのスタンスの取り方によって、もっと取り組めたのではないかと。全然違う「赤とんぼ」になったかもしれませんが。違う「赤とんぼ」になった人もいるのですが、そこに説得力がなければ、単に変えただけで、それだったら、元のほうがいいなと思われかねないところもあります。

 それは皆さんも舞台を見ていて、いろいろと感じられたと思います。何音か何フレーズかリアリティを持って聞こえてきた人はいました。逆にとんでもないことをやったり、外してしまったり、あるいはまたこのパターンかというかたちでワンパターン化。そのパターンをやるのはいいのですが、それを1分3分歌ってみて、30秒でもいいですが、相手に説得させて、ああ面白かったとか、ああよかったとかいうような、何かを起こさせなければいけない。そこでの吟味をしなければ意味がないというふうに見てください。

 言葉から入るのも、状況を思い浮かべていくのもいいのでしょうが、音楽というより声の中の力でみましょう。
 言葉はわかりませんからと、「あ」だけでやってみてください。ということで、そういう中でこの情景が「あ」だけでできたからといって、意味があるのかなと。これで歌ってみて、ドイツ人だから意味はわからないだろうけれど、「山の畑」といったら、そんな空気が流れてきたら最高じゃないかというようなところの声の力。
 この歌はこういう歌ですと説明した後に、きっとこういうことを歌っているというのは、歌を聞いたときに、全部はわからないです。音楽というのは、聞き手のほうの解釈力によります。そのときに雑になったり手が届かない、客よりも期待レベルが下がってしまったら、いけないという気がします。
 そんなことでまた、「赤とんぼ」に関しては、全部歌ってください。4つのフレーズ、そのうちの半分、「夕やけこやけの赤とんぼ」だけとか、「追われてみたのはいつの日か」だけでもいいのではないかと思います。【05.9.22 V検対談話】


<Q&A>

ブレスヴォイストレーニングQ&Aブログ(Q10〜17)

Q10.どう歌うのか、トレーナーは言ってくれない。

A.本来、言えるものではないのです。日本のトレーナーは表現面について、ボキャヴラリーが貧困です。やってみせたくらいで伝わるくらいであれば、プロの歌を聴くだけで同じようにできるのです。できない人というのは、音の中で何が起こっているかという動きを見ていません。その動きが相手にどう伝わるかという感覚もない。だから、声が出ても音楽にも歌にもなりません。どう歌うのかに、答えはありません。

Q11.音楽を感じるということはどういうことでしょうか。

A.多くの人には、ある歌に感動したから、自分もそれを与える人になりたいと思ったり、単に好きだからやりたいという、きっかけがあるでしょう。しかし、音楽の中で深く感じとることができないと、自分の歌から熱く伝わるものは出てこないものです。
 最近は、本気になるという意味がわからない人が多い。特に歌の場合は、周りの評価が甘いので、自惚れるというか、すぐにそれで満足してしまう。それは音楽とか歌以外のことから学んだ方がわかりやすいと思います。これもまた、一つの答えはありません。

Q12.自分が気持ちよい声を出せるためにはどうすればよいですか。また、自分の声がよくわからないので、それを知るためにはどうしたらよいでしょうか。

A.声とか歌というのは、技術でやっていく前に、その音楽のイメージが見えていないといけない。歌を歌ってきた人、声をやってきた人は、技術で習得していく部分があるのは確かですが、その技術よりも先立つものがある。実際にはそこの部分の方が大きいのです。つまり、その技術さえ否定してしまうものの登場を、私は願っています。
 例えば、今まであなたの中で気持ちよく声が出せた瞬間があったとしても、それが果たして聞く人にとってもそうなのかということを、客観的に見なくてはなりません。理想的な状態として声で再現できたとしたら、そこに音を合わせていくとよいでしょう。カバーしてやることも、いろんなやり方でできるのです。それをやり方でなく、声のレベルで知っていくことです。

Q13.合唱団で声域があわないのですが。

A.他の人と全く声の域が違う人が、その中で心地よく声を出すということは、難しいことです。原調、あるいは一つのキィで歌うことが必修のような、合唱やミュージカルなどでは大きな問題となります。向こうのトップレベルの人たちがやっているところと同じことをやらせるのですから、相当に無茶なのです。最終的にそういう形でやるなら、自分と合っていないものをやる分、自分の中で無理にでもコントロールして、そこに沿ってやるしかないと思います。

 日本人で1オクターブ半から2オクターブを自在に扱えるということは難しい。いつまで経っても、曲に関してはそういう問題が残ります。日本人の場合は、大体高いところは柔らかく抜いて歌うしかできません。そのため、向こうのゴスペルのような迫力、牧師さんの説教しているような歌い方にさえ、かないません。

 日本の合唱団など、みんなで合わせてやる歌に関して、特に日本の指導者というのは、どちらかというと声を押さえて周りと揃える方法をとっています。映画「天使にラブソングを」あたりから、日本でもゴスペルがブームになりました。本来はモザイク状にいろんな声が出てくるのが理想的なのですが、日本人の場合は、そこまで一人一人の個人のパワーがないので、どうしても合唱団みたいに形を整えていく方向にもっていきます。
 その中にいると、自由な声というのは出にくいのではないでしょうか。逆にそこに個性的な人が入って思いっきり歌っていたら、目立って合わなくなっていくでしょう。それ以上のスターがその中にいたら別ですが、それは難しいことのようです。

Q14.歌に生かす発声の極意とは?

A.現実問題として、声をどのように出したらよいのかというのは、力まず体に不必要な負担をかけずにやっていきます。声を出す方法というのは、気持ちから入っていく方がよい。今までにそういう声を出した経験があれば、それをとにかく繰り返してマスターしていく。繰り返していくうちにだんだん崩れていく場合も多い。でもその瞬間を捉えて正す。私は一時、外国人が持つような体とか感覚、あるいは発声のポジションを獲得するというのが、よいやり方と思っています。
 日本でも男性は比較的深いポジションを持てるのです。どちらかというと、歌い手よりも俳優さんの方が太い声をうまく動かせる人が多いです。とにかく、すぐれた音楽にひっぱられるようにして得ていくしかありません。

Q15.日本人の声の弱点を克服するには?

A.普通の人が聞こえない音を見ていくことは大変なことです。それがあなたの中ではっきりしていたら、いつか深い声として出てくる可能性があるでしょう。音の世界というのは、その音の中に入っていろんなことを経験していないと、漠然として終わってしまうのです。それを助けるためにも、基本に戻ることです。
 日本人は声をきちんとつかんで出していないので、私はそこからやります。筆に墨をしっかりとつけておくということが必要です。声がよく出るというのは、筆に墨がたっぷりついているというふうに思っていた方がよいと思います。
 よいところで、よい先生につけば、それが一番よいと考えていませんか。どこに行っても確かに何かは得られるでしょう。しかし、すべては材料にしかすぎないのです。そこを間違えてはいけません。

Q16.歌詞を伝えようとするときには、歌詞の意味を伝えようとすればよいのでしょうか。それとも、その歌詞に感情移入していおうとすればよいのでしょうか。

A.歌い手のスタンスと歌によります。ことばを大切に扱う人も、そのイメージを優先する人もいます。感情移入も同じです。それぞれに大切に扱うべきですが、歌ではもっと優先すべきこともあります。それは自分の才能、もっとも伝わるニュアンスを出すことです。
 私が聞くのは呼吸と流れです。音楽を声でどうデッサンするか、音色がどう重なるか。つまり、構成や展開を気分よく聞いているときは、あまり歌詞を聞いていないのです。歌詞のことばのニュアンスは音化したところで聞きます。一人よがりな感情移入はよくないですね。

Q17.人生経験は歌に生きるのですか。

A.経験は何でもたくさんあった方がよいでしょう。トレーニングなども経験の一つです。さらに、再現芸術である音楽においては、音楽の経験も必要です。とはいえ、量より質、その人のアンテナ、センス、鋭さ、感性、作品のバックグラウンドにあるものと、計測不能でしょう。
 もし、人生経験が生きるとしたら、開き直り、覚悟、捨て身、狂気、怒り、テンションなんかがステージの練習に出てくるのかもしれません。海外の生活経験なんかはいいと思います。でも安易に答えられるものではないと思います。
 しかし、誰もあたりまえに生きて、あたりまえに考えている人の作品など、知り合いでもなければ見たくはないのです。すごい、おもしろい、変なものを支えているのは、やはりすごくおもしろく、変な経験のように思います。


特集:F英対談集vol.6
[S氏と]

○TVタレントは、声の見せ方のプロ

S:最近、割合声が低くなっている傾向があるのですよね。体格がよくなったせいだと思うのですけれど、男性も女性も体格がよくなってきているので、声帯自身も大きくなってきているのですよね。で、だいたい低くなってきている。ここのところ二十年くらい、女性は平均10から20Hzくらい、女性の方が大きいのですけれども、男性も10Hzくらい低くなっているのですね。日本人というのは、体の小さい民族だったのですけれども、食生活が変わり、身長が伸びてきて、中国、韓国にしても体格は良くなってくる傾向があるのですね。おそらく平均的に声が低くなっているのだと思います。

それからよく最近いわれることで、声のおしゃれってどうしたらいいんですかと。普通の人というのは全然気にしなかったのですね。発声であるとか、声のきれいさであるとか、声によって相手に与える印象であるとか。どういうふうにしたら、相手に印象がよくなる、相手に好かれるとか、自分の意思をはっきり伝えることができるかということは、最近は一般の人でも意識を持つようになってきました。
そのへんはどういうときによく感じられることですか。

S:強く感じるのはテレビのインタビューで、マイクを向けますね。田舎の人ほど気をつけないのですね。
田舎の人は、日常に使っていることばで、そのままインタビューに応じてしまうのですね。それはそれで素朴でいいのですが、全国の人には通じないのです。そこで、共通的なことばを使おうとして、とちるのですね。緊張しちゃって、自分で普段使ったことのないことばですから。しかたがないからテロップを入れると(笑)。正しく話されていると、みなさん聞いてわかるのですね。

S:はい。たとえば、テレビのドラマを見ても、聞いて理解することはできるのです。話すことはできない。それは非常に大きいところだと思うのです。要するに、、共通語というのは、聞いてわかるのですけれども、自分では話せない人がいる。話そうとすると、変な敬語を使ってみたり、使っていないことばですから。それから発声もできなかったりして、変になってしまう。そういうところは感じます。でも最近、そういうところを注意する人は多くなっています。その意識の変化は何なんでしょう。機会が増えた?

F:テレビがけっこう、身近になってきた。一家に一台から一人一台のように。

S:ということなんでしょうね。

F:プロが、昔みたいなアナウンス的な発声発音をできなくなって、身近な先輩程度レベルになってきた。実際に自分の声を入れて聞いてみたり、そういう機会が多くなってきていますから。そうすると基準としてあるのは、自分がしゃべっているのもテレビ程度にはしゃべれているつもり。でも、テレビで出ているのは、タレントでも何でも、やはりプロだから、あれでもレベルは高いわけです。昔の役者みたいに、あそこまではっきりとプロしかできないトレーニングされていると、あの程度できているとも思わないのですけれど、なんかあいまいなギャップでしょう。

S:タレントというのは、たしかに今、先生がおっしゃったように、声は訓練されてるのです。声はちゃんと通るのです。ところがしゃべっている声であるとか内容であるとか、そういうものがわりあい、身近になってきたのですね。

S:ええ。話題にしろ何にしろ、自分に近いところでしゃべっているわけ。ところが彼らは、きちんとした声を出しているんですよ。その辺で、自分もそういう仲間に入れると思って、まあ、話題としてはそこらへんに入っているのですが、やっぱり声の訓練ができていないのですよ。そこでタレントと違うわけです。

F:まあ、メーキャップも同じですよね。今、そんなにきれいな人が出ているわけではなくて、身近なお姉さんみたいな人が出ているから(笑)、テレビなんか見たら、化粧品で同じレベルのことをしていると思う。思うけれども。

S:違う(笑)。

F:違うんですよね、全く。テレビであの程度に見える人は、実際にこういうところにいたら、すごい、やっぱりプロはプロなんですよね。

S:その辺はですね、スタジオにいるとすぐわかります。ああ、やっぱりこの人はプロ。たとえば、みのもんたさんは、あんな格好をしていますけれども、きちんとお化粧をしていらっしゃいます。

F:そうなんですよね。普通の若者の着るようなものを着ているようでも、実際に見ると、質も値段も違う(笑)。テレビでは、ただ似たような柄に見えるのですけれども。

S:やっぱりそういうところなのでしょうね。

F:だから、普通にしゃべっているタレントさんのしゃべり方なんかは、普通の若者たちのように思ってながら、こういうところで聞いてみたら、もう雲泥の差ですよね。やっぱりTV番組はすごくきっちりしている。

S:そうですね。えらい違いますね。内容はですね、彼らは笑ったりいろんなことをやっていても、演技をしていますよね、もちろん。それはあくまでも演技なのですよ。

S:台本に仕組まれたことなのです。ですから、的確にそのことばに答えます。会話としてもテンポが速くて、ムラがないのです。そのへんがあまりに身近に見えて、自分ではあまり感じないのでしょうが。我々もそうすればできるのですよ。そこです。しかし、それはどうすればできるかということは、発声をきちんとするということです。

MC:声のことですか。

S:はい。腹筋を使った発声をきちんとすれば、それはもう、相手にはきちんと届きますし、時相応に応じて発声をするということです。

○海外の声レベルは高い

F:それは、日本人にとっては、日常に舞台を持ってくるくらいの差があります。外国人の若者ならしゃべっているのを、そのままビデオに撮っても、絵になるのですね。日本の場合は、まだそういうレベルにない。いわゆる対話力。
だからテレビやラジオというのは、本当にこういう話の中で、どこまでどういうタイミングで、何言まで言うのかを、ハイレベルで共有している。それぞれがやっぱりあるレベルの高さで、完全に計算してますね。それから逸れたら、悲惨なもんですよ、浮いてしまって(笑)。もう二度とあいつは呼ぶなということになる(笑)。

S:おっしゃるとおりですね。そこらへんの話が、声の出し方で通じることとか、そのときの話題の振り方であったり、それに対する的確な答えであったリとか。でもそこは、やっぱり必要ですよね。

MC:それは、トレーニングでできるというふうに。

S:もちろん、声の出し方というのは、完全にトレーニングです。

F:間の取り方は、経験もあるんでしょう。

MC:その受け答えにしても。そういうものは日本人に必要なのでしょうか。

S:日本人に必要ですよね。ロサンゼルスでは、街の中で、人々のビデオを撮っても、絵になりますよね。ところが原宿に行っては(笑)。…相当、編集してますよね。

F:演出感覚が当人にどこまであるかですよね。ファッション感覚や顔のメーキャップ能力はついてきたけど、その立ち居振る舞いとか、特に会話能力ですよね。それは政治家でも、まだ雲泥の違いでしょうね。向こうのスピーチなんていうものは、そのまま映画になる(笑)。

S:うまいものですよねアカデミー賞のスピーチなんていうのは、そのまま絵ですよね。

F:日常の選挙運動なんかのスピーチでも。

S:ちゃんと、ことば、文章にリズムが付いているのですよ。言っていることは、たいしたことを言っていない時もあるのですよ。ただ、聞いていて非常にスマートです。

F:その力がないと、結局人前に立てないし、そういう仕事ができない。向こうは。

MC:子供のころからの。

F:それはありますね。教育の違い。

○振り込み詐欺の声の使い方

S:それも確かにあると思うのですけれども、我々も意識のところで、そういう話のしかたとか、声の出し方とかを、いつもどこかに意識を置いていたいものですよね。よその人と話をする場合に、声を出すときにもちょっと気をつけると、意識の中にあれば、ちょっとしたお化粧をすれば違うということです。

F:セールスマンなんかも、ミラートレーニング、フェイストレーニング、発声トレーニングをやってから、出ますよね。

MC:声優さんやヴォーカル志望者じゃなくても、Fさんは教えることはあるですか。

F:そのほうが。最近はプロには、特にヴォーカルとかは、声がいらなくなってきたのですね(笑)。いらないというか。

S:はっはっは(笑)

F:だから、朗読する人なんかは、声に対して、すごく関心を持っているけれど、音楽になってくると、これはもう音響ですね。音響の技術がすごく高くなっているから。だからテレビでも、歌い手なんかがしゃべっても、テロップがなければわからないですね、何を言っているか。そういう意味でいうと、一般の人の方が、声に関心が高くなっている。それと、もう一つは、心理的な悩みのことが、声のほうに逃げている場合もありますね。声の問題では本当はなくて、その人の自信のなさ(笑)。

S:逆にいい方向でないこと、たとえば振り込み詐欺。彼らはものすごいトレーニングができていますよ。本当にうまいですよ。お年寄りを完全にだますようにトレーニングできている。ですから、お年寄りに印象づけるところは、ことばを遅くして、ピッチ、要するに声のトーンを上げたり下げたりしながら話す。どうでもいいようなところは、ダーッと流して、そこは全然理解できないように話をつける。彼らにはマニュアルが全部ありまして、トレーニングで詐欺ができるのですよね。

F:やっぱりトレーナーがいるみたいですね。専門の。

S:聞いてみますか。実際のものがあります。これを分析すると、すごく面白い。彼らの場合は、これで数百億円の詐欺を働いているわけですから。実績があるわけです。たいしたことは、言ってないんですよ(笑)。

S:しかも、冷静になればわかるようなところもあるのですが、そこらへんはお年寄りは聞き取れないのです、速すぎて。

F:ある意味だと、聞くほうの力、日本人の場合は非常に甘いです。外国ではネットで振り込めます詐欺はありますけれど、電話で振り込む人はいないでしょうね。

S:(テープ)
「本日ですね。11時21分ころなんですけれども、○○町1丁目の付近に○○さんの車がですね、車同士の接触事故が起こったのですよ。○○さんのご家族の方で大丈夫ですか。事情は私たちにもわからないのですが、○○さんが運転されて、交通事故を起こされているのですよ。息子さんが冷静な状況でないものですから、こちらに連絡してきたのですけれどね、事故の状況と怪我の状況なんですけれども、息子さんのほうは特に怪我もしていないのですけれど、○○さんという方が、ご夫婦で車を運転されていた方でして、ご主人と息子さんは、救急隊員が見ましたところ、身体のほうは別状ないみたいなのですけれど、助手席にのられていた奥様のほうが妊娠8ヶ月目だったものですから、彼女、お腹のほうが大きく…」

F:うーん。すごい具体的ですね。

S:これが、1分間に500語ちょっとというスピードなのですよ。普通ニュースですと、早くて400。普通の会話だと、さらに遅くて300とかになるのですけれど。

MC:今、先生のテンポは。

S:これは、だいたい300です。テープは非常に早いですよね。ところが、重要なところになると、「奥さんが横にいて」とか「交通事故を起こして」、そこにくるとぐんと遅くなる。そういうふうに重要なところだけ聞かせておいて、あとは速くする。ですから、そういうふうな会話のしかたで、彼らはどっちでもいいようなところは速くて、重要なところはグッと押さえる。非常に面白い進め方です。

F:思ったより感情を抑えたかたちで、事務的な言い方ですね。こっち側が本当か嘘かなんて、まったく疑いを抱かない。

S:そう、まったく抱かないのです。しかも、2時ころ電話がかかってきて、3時までに振り込んでくださいと。

F:ははぁ、振込み時間が3時までしかないから。

S:30分くらい余したところで、電話を終わらせるわけですよ。するとすぐ振り込まなければいけない、誰にも相談する時間がない。

MC:なるほど、追い込む。

S:それも、時間を指定する。

F:私なんか今、聞かされたけど、本当のことだと。頭のところでもう疑い消えちゃいますよね。絶対に悪意ではない、親切でやってくれていると。いわゆる会社の営業で、たまにかかってくるでしょう、感情的なものなど。ああいうものではないですね。拒否するとか疑うとか、そういう感情を抱かせない、通達という感じできますね。

S:そうですね。通達という感じです。それで、何百万円というお金をだましとるわけです。これは声の技術としたら最高の技術だと思います。

MC:これ聞くと、ジャパネットたかたなんかが出てきますねえ、何か(笑)。

S:ああ、はい。ジャパネットなんかも同じですよ。まったく同じことなんです。彼も疑問を抱かせない。

MC:たかたさんから、オレオレ詐欺がきたら、絶対にやられそうな気がします。

S:はっはは(笑)。確かに手法としては一緒です。たかたさんの場合は商売に使っていますし、彼の場合は詐欺に使っている。その使い方の違いだけで。

F:でも、声の使い方でいうと役者レベルですよね。ペースをチェンジするのも、役者なら全部入っていますものね。

S:ただ、これは決して特殊な人には思いませんよね。

MC:声がいいとか、そういう印象にはならない。

S:特殊な人には思えない、けれどきちんとした発声をしているのです。

MC:役人さんみたいな印象があります。

S:そういうふうな印象にしている。

MC:正確にものを伝えようとする。

F:これに方言が少しかかっていると、地元の人かなという感じが出る。

○TVのテロップと方言

MC:バラエティやお笑い番組で、ワイワイとやって、ギャグを、ネタを、あのときというのは、なんか怒っている感情や、いろいろな感情を声にのっけているから、それで字幕が出るのかなと思いました。字幕を見ないと、オチがわからない。昔のコントというのは、動きが笑わせた。ドリフも動きがひょうきん。

F:あの頃の笑いは、身体の演技ですからね。

MC:声の力は、落ちているから、テロップがでる。

MC:補うからテロップがあるのか。

F:それは、テレビの置かれている状況が違う。昔は1台置かれて、皆で、ちゃぶ台を囲んでいた、テレビを聞くときは、静かに聞いていたんですね。今は、すごくいい加減、真剣に見ない。そうすると、あ、今、いい場面だったとか、聞き逃したときにテロップがないと、聞こえない。それだけ日常化してしまって、あいまいになっている。

MC:生番組でないのが増えている。

F:それにテロップは音が聞こえないシチュエーション、アパートでもそんなに大きく出せないし、ワイワイ友達が騒いでいて、パッと見たりしなければいけない。

MC:特に、田舎のおじさんが多い。

F:あれは方言がわからない。

S:家族だけには、わかるしゃべり方なのです。地域社会ではわかる。地域社会で通じるしゃべり方。

MC:それがまた面白いから、そのまま。

S:そう、でも全国放送には通じないのです。だって、わからないですよ、本当に。テレビでしゃべられても。

MC:だから、テレビでしゃべる人のことばがはっきりしなくなって、テロップが入ってきた。

F:それだけ、生のまま撮るようになったのでしょう。昔は、練習させてからオンエアしていたから。当時は録画じゃなくて、生だから、何回も練習させて(笑)。

MC:そのほうがリアリティがある。

F:今、民放はいい加減ですけれど、NHKなんて4,5回、リハーサルするんですよ、プロの役者に対して。

S:NHKはことば決めてきますもの。秒数まで決めますよ。

F:だから、プロの役者なんか皆、腹を立ててる。プロだから、一回でできる。

S:あれ、怒ると思いますよ、プロの役者。我々だって腹立つもん(一同笑)。

F:ね、あとはその場で何とかやりますよと皆思っているのに。

S:確かにディレクターによっても違うのですが、すみません、10秒でこれだけ言えという。だから、何回もやるわけです。2秒速かったですねとかやり直すわけです。どうしてもそこに入らなかったら、じゃあ、こういうことばを持ってきましょうと。

F:民放はそんなことはない。NHKも、ラジオなどは結構いい加減。テレビは神聖なんでしょうね。

S:この前、NHKである番組があったのですね。それはですね、時間の管理から何から、全部本人がするのです。
はい、こちら撮りますから、座ってくださいと、じゃあ、入りますと。時間の勘だけだから、そこでずっとストップウォッチが回っているわけです。何にも出ない。

MC:それはおまかせということで。

S:はい。それで自分でしょうがないから、5秒前くらいにぽっと終わりますね。で、今のはリハーサルだと思ったのです、こっちは。すると、はい、結構です、本番でした。そういう番組なのです。大変だよね、あの番組は。
途中でADが間違えてしまって、フリップ出す。それでも何とかごまかしながらやった。そういうこともあります。
じゃあ、リハーサルをやりましょうといってやるのです。それが本番なのです。そういうときは、リハーサルのつもりで話しますから、かえっていいんだそうです。

MC:力が抜けてね。

S:本番といってやると、どうしても構えて、堅くなっちゃう。人間性みたいなところ、やさしさといいますか、ある程度、無駄なところを入れてつくる。番組全体、堅い番組ですからね。だから、やわらかくするという効果もあるんでしょう。

MC:そういうのは、ベテランがやっている。

S:時間の管理をやるのは、大変ですよ。

MC:声を気にしている場合じゃないですね。

S:で、10分間くらいの番組ですから、いくつかしゃべらなければいけないわけです。で、自分で時間の管理をしなければいけないから、その中でぴちっとおさめなければいけない。しかも5秒くらいの誤差でぱっと終わらなければいけない。

MC:ちらちらと見ながら。

S:もちろん、それを見ながら。

F:何か、日本人ってそういうことがきつい。JRのダイヤじゃないけど、何秒でって。すごいですものね、コマーシャルに入る前のおさめ方も。すごいのはNHKののど自慢の終わり方、1分くらい前、チャンピオンを発表しておさめる。5秒狂ったら、絶対はみ出る。残り15秒というところで、まだ発表していなかったりしていても、最後は絶対におさまる。

S:そういう、時間管理とかしゃべり方が、普通の人にもある程度、要求される時代がなったんでしょうね。

○声と腹式呼吸

MC:だんだん、「声に出したい」とか、朗読だとかがブームに。

S:たとえば会社の中においても、レクチャーする場合は、要点をきちんとレクチャーして、しかも相手にきちんとわかってもらわなくてはいけない。一般の人でもそういうことは求められるわけですよね。それがことばや発音がおかしかったら、相手は聞く気にならないですよ。だから、相手を聞く気にさせるしゃべり方というのは、どんどん必要になってくるし、意識していなかったところで、どこかに意識をもっていたほうがよい。

MC:どんどん、物をつくって売れた時代じゃない。プレゼンテーション力。そこでの差が。別にいらないものを買わせる。

S:そういう意味では、さっきのオレオレ詐欺や振込み詐欺の手法というのは、非常にプレゼンに役に立つ。ダラダラやったら聞く気にならないですもん。結婚式の長い挨拶みたいで、嫌になる。

F:あれもね。さすがに昔みたいな、長すぎるスピーチはなくなりましたね。30分なんて、さすがに見ない。スピーチで、いらっしゃいますか。

S:20分くらいのは、いたね。

F:私は幸い、ここ4,5年ないですね。ああ、消えたなと。10年くらい前は当たり前でしたからね。長いのが偉いみたいな。

S:偉いほど長いみたいな。

(一同笑)

F:そんな感じ。

S:先生は、長い理由があるから。

F:言っていることは、自分や会社の宣伝なんですよね。

S:衆議院や参議院の先生は、皆、自分の宣伝です。

MC:そういう演出のときに、声と息と、これは息の要素が大きいのでしょうか。

S:といいますと?

MC:声をよくしようというときに、声だけからではなく息からというのも、書いてあります。

F:腹式呼吸ということですよね。

MC:はい。というのは、しゃべり方の本や好感を持たれる話し方の本というのは、いっぱい出てきていると思うのですが、息がこんなに変わるということや、意識とトレーニングでも、息というのを強調するというのは。

S:声帯を通る空気の流れが、ある程度一定していませんと、いい声は出ません。声帯を振動させるのは、肺からの空気流なのですから。肺からの空気流が安定しないと、声帯の振動も安定しません。

MC:それは、しゃべる前にひと呼吸おく意識とですか。

S:それもありますし、それから腹筋で押し上げる、腹筋で肺の空気を押し上げないと。

○海外の声コミュニケーションは厳しい

F:本当に身体の準備がいるのです。日本人は、あまり会話自体に意味を持たせないできたから、内容も考えないで言い出す(笑)。身体も使わないで言うでしょう。

MC:声を出す前に、気がついたらしゃべり始めているという。

F:外国と全然違うのは、受け方。外国というのはこうやって話すでしょう。そうすると言い終わるまで、間で入ってきてくれないのですよ。だから自分が最後まで言い切らないと、成り立たないのですよ。

MC:「朝まで生テレビ」みたいな、ああいう。

F:討論的にバシッと言わないと、で、相手の話は言い切るところまで聞く。それの繰り返しだから、すごくはっきりしている。日本の会話は何か迷ったら、やめていたら、誰かが助けてくれるから、楽なんだよね。

MC:相槌も多いですよね。

S:向こうは、助けてくれないですよね。

F:もう黙るから、怖くなって、最後まで言い切るから、こちらはシラッとしたり、沈黙の怖さは日本の場合、ないですね。特に内輪でやるとね。だから意見がまとまらない、身体も使わなくてしゃべれる。しかも、ちょこっと言ってやめられる。若い子たちが皆、尻上がりになってしまったり、「とか」とか断定しないでしょ。責任回避ですけれど。

MC:「ていうか」「みたいな?」とか、流れの中でこう上げる。

S:よくあるのが、「こういうこともあるでしょう」、「ああそうですか」という(笑)。

F:まあ、日本語のあいまいさですね。

S:確かにそうですね。アメリカあたりでは、こっちが言い切らないと、本当に何も言ってくれないですよ。

MC:まず、旗を見せろという、厳しさでもある。

F:こういう対談で、一番違うのは、日本だと、30秒か1分しゃべったら、向こうの番だなと、最初から何となくいくのですが、向こうの場合は、最初から5分か10分、一説自論をぶちまかして、そうしたら今度は10分くらいぶちまかしてという。きついですよね、それ。途中からしゃべれなくなりますものね。

S:大統領選の2人の討論がありますね。ああいう感じです。普通の会議でも。
そういう意識を持つということ、意識だけ持っていればいいと思うんですよ。自分にやろうという気持ちがどこかにあればいい。声をはっきり出そう、声をきれいに出そう、相手にわかるように出そう、それだけでいいと思うのです。そうするとだんだん変わってくると思いますよ。そうすれば自分で発声練習をしたくなるし、自分の録音して声を聞いてみたくもなるし。

MC:向こうの人は、しゃべる前にかなり息を吸い込むという感じなんですけれど。

F:そうしないと言い切れない。日常でやっていたら、日本なんかもスポーツ選手ははっきり言うようになると思うのですよね。リスクを持って何かをやってきた人は断定するんだけど、社長さんとか。若い人は言っても言わなくても、言っているだけで、目的がないですよね。説得しなければいけないという。

○はっきり言い切ることは、よいのか

MC:日本の場合は、責任回避のことばが多いと思いますが。

F:相手を変えようとか、動かそうという意思がそんなにないんでしょうよね。

S:若い子のことばなんか、逃げが多いですよね。

F:日本ではぶつからないですね。私の場合も、よくシンポジウムとかトークショーもそうですけれど、最終的にはぶつかるのを回避して、お互いの立場をまとめ、共同見解みたいなかたちでまとめます。

S:ある意味ではいいことでもあるんですね。

F:全然違う立場の人間を集めているはずなのに、皆さんこういうことですね、という、それが対立したままだと、何か皆、後味が悪くなってしまうみたいなことがあるんです。

S:一回ありましたね。「あるある大辞典」で、日本語で「チーズ」と言いますね、写真を撮るとき、「キムチ」と言ったり「キウイ」と言ったり、いろいろな言うことばがある。日本ではなんで「チーズ」と言うのかと。あれはチーズ会社の宣伝だったらしいのですね。

F:そうなんですか。

S:それで、実は何人もの専門家が話して、その場はうまくまとまったのですよ。じゃあ、こういうことでいきましょうと。後で放送を見たら、編集されて、まったくそこで話し合ったことが、最後にまとめたことと違ったことが、編集でバチッバチッバチッと対立しているのですよ。その場をうまくまとめたのですね。

F:へえ。

S:だから、してやられたなという感じはしたのですけれどね。しかもそれを、せいぜい10分かそこらの放送なのに、3時間も4時間も撮る。

MC:そこから、一番とんがったところを。

S:そうです。つまんできて、うまいまとめ方をしちゃった。だからその最後にまとめて、輪になったのです。皆さんいいですね、じゃあ、そういうことにしましょうと。ところが番組を見たら全然違う。びっくりしました。うまくやったなーって(笑)。

MC:それも、演出ですか。

F:テレビの狙いだったんでしょうね。もともと最初に意図があり。彼らはそれに欲しい絵を撮れればいいのだから。
もともと意見が違うのですから、意見が違うまま、明確な対立線が出て、終わればいいんです。けれど、何かしら、どこか根本が同じなんだなという同化力が、日本の場合は働きますね。

S:ですね。どこかでまとめなければいけない感じ。対立させて放っておいてはいけないという感じ。何でなんでしょうかね。対立させっぱなしにしておけばいいのにね。

F:もともと、対立するからシンポジウムするわけだから(笑)。

S:そのものの意見を、両方、出しとけばいいのですよね。なんかまとめようとしますね。

F:そうなんですよ。だから、よくあります。最後に、こんなまとめ方じゃないのにな、という止まり方とか、そんなこと言った覚えはないぞという(笑)。ただ、ああいうものは、時間がなくて、こっちも発言権がないから、最後にまとめた人の勝ちになってしまいますからね。日本の場合、ホストがまとめてしまいますからね。

S:ホストはまとめなければいけないという使命感があるんですかね。

F:そういう役割なんでしょうね、何となく。これだけ対立していがみ合っていても、同じ人間なんだからという(笑)。対立していたら大人気なくて、向こうの立場に立てば、それもあるな。会場の客とか視聴者が、そんなことを期待しているんでしょうね。

S:道路公団の件の、猪瀬直樹さん、あの人は雑なしゃべり方をするのですけれど、非常に声ははっきりしている。ちゃんと腹筋を使った発声ができているのです。でも、一見みると雑な話し方。

MC:なんか、もごもご。

S:でもちゃんと、ことば伝わっていますでしょう。

F:あれは、第一印象としてはすごく損ですよね。パッと見ると、反感を感じるのですよ。でも、何回も聞いていると、きちんとしたことを言っているから、ちゃんとした人だなと、長く接した人はそう見るのですが。因縁つけてるみたいな。悪役のように(笑)。

S:バシッといくからですかね。

F:バシバシといくからでしょうね。全部聞くと、数字も論拠も明確で、ちゃんとした組み立て方をしている。すごくちゃんと調べているんだなということがわかるのですが、部分的にみると、勢いだけで、この人別の分野から来たのに、因縁つけているというような。

S:あの人、ちゃんと追い詰めますよ。

F:それがいけないのかもね。

S:追い詰めちゃったらいけないのかな。あそこまで追い詰められたら、だめなのかということもわからないのでしょうけどね。
オレオレ詐欺みたいに、いつのまにかスーッと従わすというやり方ではないでしょうね。

F:日本の会議的に、まくし立ててプレゼンテーションで、論議に勝ってしまうと、そこでは勝ったことになるんですが、結果は、負けたことになってしまう(笑)。だから私なんかは、女性なんかがアメリカ並にプレゼンテーション能力をつけたいといって、それはいいんだけど、日本の場合、そのままやると、もう一匹狼、傍流になってしまいますよと。主流の人間はそこでうなずいたようでも、そういうふうには会社は動かない。そういう人は一匹狼として実力だけでやっていても、中で出世はしないのですよ。

MC:だいぶ、変わってきたんじゃないですか。

F:会社が倒れそうになればね。だから、中からはだめなのですよ。外国人を連れてくるとかね。他の会社から連れてくればしかたなくてできるのですが。

MC:そこらへんの意識が、だから少しずつ変わってきているんじゃないんですかね。今度、立候補した財務省の女性、あの人なんかはっきりしゃべるらしいですね。経済エコノミスト。

F:百恵さんとか言われている。

MC:舛添要一さんと離婚した方。性格が似ていて、2人ともはっきりものを言うから。3年で別れて。すごくりりしい感じ。きれいな方ですよね。

S:概して、自分に自信のある人は、はっきりしている。これは本当に不思議で、たとえば、さっき先生がおっしゃたように、責任回避というしゃべり方はなかなかしないです。

F:声って精神的なものが、すごく表れますからね。

S:言いにくいことになると、ことばを濁すでしょう。それはやはり、言いにくいときに濁すという発声方法をとるんでしょうね。相手にわかったようなわからないような、まあいいや、ここはグニャグニャとしとけというような、相手に同意を求めるような言い方であったり。

MC:「〜してくださいよ」というような。

S:ええ、そんなような言い方。

○声についての問答

F:今のところ、自分に投資して、声をよくしたいというような人は、声に敏感だから、そんなに声が悪いわけでも、発声が悪いわけでもないんですよ。私の講演会なんか来る人で、僕は全然声が通りませんとか、発音が悪くて、と言う人で、悪かったためしがない。遠くに離れていて、声が聞こえるということは、最高のレベルのことをやれている。ただそれと別に、何かしら、自信がないのが声のせいみたいに思っている人はいますよね。

S:なるほどね。先生のところに、声をトレーニングに行く人は、ある程度、声に高い意識を持っている人なんですね。

F:声にまったく意識のない人は、そこまでこれないんですよ。電話かけたりメールをしたりはできますけれど、その場に来るということは、勇気のいることですから。私は講演会なので、一方的にしゃべるだけですが、何かやらされるんじゃないかとか、声を出してみられると思ってか、そういう人はこない。動ける人は勇気のある人ですからね。

S:なるほどね。

F:値段にもよるんですよ。今、私は、とりますから(笑)。そこで来る人は自信のある人ですよ。私は声が悪いのですけれどといいながら、そんなに悪くないと思っているのですよ、きっと。ところが、ただで集めるようなセミナーがあります。そういうところは、誰もがお手上げの人がいきます。2,3時間で投資した分くらいのものは、取り戻してやるというような意思のある人はいかない。

MC:よっぽど自信のある人なら、テープに吹き込んで、私の声を診断してくれというのもくる?

S:けっこう来ますよ。そういう人にかぎって、診断してくれとか。どんな人かわからないんですよ。メールの相手が。なかにはメールが春よ来い、みたいな人がいるので。多いですよ、そういう人。

F:メールの時代は返事をしなければ逆恨みされてしまう。ただていねいな返事をしてしまうと、次から次にきますから。

S:メールというのは、非常に対応しにくい。というのは、電話ですと相手の声で、ある程度相手の人物像がわかりますよね。しゃべり方とか。メールだけだと、字だけの内容だけのものですからね、答えにくい。

F:情報が少ないから、まだ手紙だと文体とか文字でも人柄がわかる。

S:うちもメールは、ほとんど返事しないよね。失礼のないように、適当に返事している。

F:メールは少しあけて返事をするのですよ。その日にすぐ出すと、次もすぐ出さないと、無視しているとか答えてくれないとか怒る人もいる。出張してるときもあるのに。向こうが一生懸命なのがわかるだけに、本当にそんな親切だと思われてしまうと、対応しきれなくなる。

S:学生でも、そういうのが多いです。卒業研究にこういうものをしたい。私はこういうものを志しているのですが、教えてくれませんかと、簡単にきますよ。30年かかったノウハウに。

MC:今の学生さんって、すぐに答えを教えてもらうということに慣れている。考えることがない。

F:学校の先生とかが、「ネットでも何でも調べられる。メールを出したら、教えてくれるから」と、馬鹿なことを教えるんですよ。

S:先生が簡単に教える。

F:依頼のメールの読む読まないの権利は、相手にあると教えてほしい(笑)。まず、基本です。読まれたらありがたいと思わなければ、まして返事がくるんだったら、大変な時間をとるのに。その辺は、今は気安くなりましたよね。

S:相手は、さっき言ったような人かもしれないし。

MC:この本を買っていいのか買わないほうがいいのかを教えてくれとくる。

F:質問してくる人にかぎって、本屋で立ち読みしたとか、正直で。まだ買いましたと言ったら、こっちも気持ちがいいのに、わざわざそれを言うというのは、何を考えているのかという、こういう人に何を言っても、と返事ができなくなってしまいます。昔はそういう人がいたら、喧嘩売っているのかなと思いましたけれど、今はそうじゃないんですよ。本当に、正直。

○声と色と力

MC:日本人全体の声が低くなっているのと、好まれる声は逆に高くなっている気もするんですね。

S:これは、カラオケが影響しているんですね。男性のキーでも女性のキーでも歌えるカラオケというのが、最近多くなったのですよ。男性は、歌うのに無理な声を出すような、こんな声を出さなければいけないようになった。女性は、声が低くなってきているので、両方が歌えるキーのカラオケが多くなっているというのは、確かなんですね。カラオケを歌うのに、女性が声が低くなってきて、男性が高くなってきているというのは、なきにしもあらず。

MC:男性は声が高くなっているとも、男性ヴォーカルは声の高いのがヒット曲になる。

F:で、女性は地声で歌うようになりましたから。ユニセックス、両性化。

S:色聴というのがあります。明日しゃべらなければいけないのですが、ちょっと私、よくわからないのですよ。

F:音が見えるという現象ですか。

S:女性のキャーッという黄色い声は、何で黄色なのか。

F:昔から、幻覚の障害で、音が見える人と、目で見たものが聞こえる人とあって、音が色で見えるひともいるのですよ。

MC:ドは何色、レは何色、それぞれ。

F:それは詩人でしょう。

S:ドは赤、レ♭は薄紫とか、レがすみれ色、ミが黄金色、ファがピンク、ソ♭が青緑、ソが明るい青、ラが冷たい黄色、シが銅の色。

MC:それは詩人ではなくて、波長の何かの対応ですか?

S:実験によると、ラを使った後にじゃっかん黄色をみたように感じる。

F:もともと、病理学か何かで、音が見えてしまうという人が世の中に。

S:なんで、そういうふうになったのかわからないのですが、もうひとつは中国のお経の説がある。

F:たしか、黄色が宗教上で最高の位というのがありますね。それからきている説がある。

F:一流の音楽家が絵を描く、といっても絵を描く人も多いから、何もいえないのですけれども、皆いい素質を持っているという。

S:どうなんでしょうね。写生をすると、そのときに音楽の質によって、その人の絵の質も相当変わってくるんじゃないかと。たとえば「運命」などを聞かせてやっている場合と、ジャズを聞かせながら描いている場合と、同じ風景を描いているのでも、違ってくるのでは。

F:画も、本質的な捉え方は同じ。イメージを楽器で表すか、筆で表すかという違いにすぎない部分もあるんでしょうから。

S:ね、何かそういう気がします。やさしい絵を描くときには、やさしい音楽を。鋭い音楽をかければ、鋭さを描けるとかね。

F:音楽をかけてというのは、クスリ打つのと同じだから、ある意味、芸術家っていうのは、普通のことしかできないんだから。

S:音楽に後押しされる、あるいは声に後押しされるということはあるんですかね。

F:すごく精神的なものと結びついているから。お母さんの顔を思い出す人もいるけれど、声を思い出す人も多いし、聞こえない声が聞こえる人もいるんだから。

S:岡本太郎は描くときに、すごい声を出しながらやりますね。

F:スポーツと同じ。

S:ストレートにワーッと出しながら。

F:モチベーションを高めたり、気力をふりしぼるときも。ものを持ち上げたりするときに声を出すのと同じ。

S:なんで、ものを持ち上げるときに声を出すんですかね。

F:テニスでも重量上げでも、声で火事場の力が出るようですよ。
100メートル走なんかは息を止める。でも、息を吐いたほうがいい競技ってけっこうあるんですね。剣道なんかも。吸うときに打てないらしい。だから、武道の達人になると吸わないらしいです。

S:砲丸投げの選手は、高いときのほうが、空気の流れが速いということ、それとも筋肉が張ったとき。どちらでも声は高くなるんですけど。高い声が出るときのほうが、記録がいいということですね。

F:プロレスとかわかるし、重量上げもわかるけど、野球なんかは出さないですね。

S:うーん。野球は出さない。

F:確か、みだりにしゃべってはいけないのですよね。

S:そう言われてみると、野球は出さないですよね。サッカーは出しますね。

F:まあ、連絡ですね。シュートするときや、キーパーがとるときにも、出さないですかね。とった後に、「よし」とか言う。蹴るときも無言ですよね。

S:ぶつかるときに声を出しますよね。あれは自然に出てくるんだろうね。どーんとぶつかるから。スポーツの選手って皆、150キロくらいの力が歯にかかる。

F:すぐれた作家や編集者もそうだそうですよ。集中して使うと、奥歯が、集中力の問題ですが、奥歯がボロボロになる。

S:ゴルフの選手なんかそうですね。

F:ゴルフの選手も声は、出さない。出したら怒られますかね。「チャーシューメン」とか言って。

S:「三井住友ビザカード」なんていって(笑)。

F:なんか打つタイミングがあるみたいですね。


<VOICE OF STUDIO>

レッスン感想

★トレーニング&鑑賞日記 集約されていないのは、自分の声ではないような感じになっていたせいかも。声に体が入っていないような。もっと深いところから、体ごと入れていく、確かなものを、実感して出す感じ。声にするときは、一点に集中させ、鋭く。(6/25) 高音発声、少しだけつかめたような。喉のとこが、筒状に完全に通ってるかんじで、口を尖らせぎみで、その口からまっすぐ前に一本のまとまった声の線が出ているように。息は必ず前へ前へ吐き、通すように声を出す。すごい高い音のときこそ前へ。思いっきり強く前へ。けど、口にだけ力が入らないように注意。重心は下で。声が集約されていなかったのは、しっかりとした強い意思をもって言おう、声で伝えようとしていなかったせい。絞られてなかった。小さいときも大きいときも、いつでもしっかりはっきり、自信をもって。口先だけでなく、深いところから、強気で。(7/4)

★歌練習と高音発声トレーニング 丹田のところが中からはね返ってくるように発声すると習ったけど高音を出すときに、変なところに力が入って、その力でもって声を押し出しているようで、体を伴った声というより口のあたりで力任せに出すキンキン声になってしまう。(7/16)

★歌とは別に声楽レッスンで高いところの発声練習をしていくこと。頭らへんの上の響きも下(胸)の響きも両方大事。全部がバランスよく体に落ちてくるように。「はい」がかすれている。喉にかかってきている。(7/28)

★前々月に引き続き、V検あとの振り返りレッスン。2つがくっついて一人前って感じがする。やっとこさ少しカタルシス。<呼吸とこえ>を結びつけていくのに、フレーズを歌うように読む。詩人が読むのとはちがい、フレーズ、音楽のニュアンスを感じている読み方。ことばとことばのあいだを丁寧につないで行く神経。分からなければ、高く上がっているところを強く読んでみる。読みをすることの意味を今まで、分かっていなかったようだ。 だいぶよくなっている人もいる、固いけどぼつぼつ声が出てきたり、テンションもあるけれど、一流の音楽を入れることが足りない。コーラスなどをやっていて、音をとることにさほど苦労がない場合も、気持ちが油断して、その距離が見ることができない。自分のモチベーション、志を自覚すること、頭を真っ白にするのは大変だなって思う。こういうレッスン、なるほど10数人いれば(これがより正解・・・)っていうのが見え易いかもしれない。イケイケの時を そ んなに知ってるわけじゃないけど、合宿ができた時代は恵まれていたんだなぁ〜と思う。後半は先生の講評だった。関西も生徒5人で始めたのだから、ヒトケタになれば考えればいいのでないか?という、先生の鷹揚さに受けた。東京もポロポロとこぼれてって、だいぶスッキリ(?)したのだそうだ。で、その話の内容になってしまうのだけれど、プロになるのが目的ではない、その先の目標に対してやっていく、(上手くなろう)と思うから間違う、クラシックをやっておくのは、将来ノドをケアできるようになるため。やっていくためのバックグラウンドは、トレーナーの耳を持つことではない。自分に対して何を特化させていくのか?どんな場所におかれても左右されないこと。丁寧に、丁寧につないでもいけばフェイクできる。 続けること、やるべきことをやっていく、やればいいということ。わたしが言うより、ヤング(死語!)が書いてくれればいいのに〜。悩んでいるヒマがあれば息吐けって、以前の研究生も言っていた。上手くなるとか、プロになるとかのせこい目的を捨てて、目の前のこと、音楽に対して、己に対して(まっすぐ)になれたなら、実はそれが1番ラクな生き方には違いない。 スピリチュアル江原さんが亡くなったお母さんと交信すると(!)、よけいな苦労はしない方がいいねって言ったという。なぜなら人というのは、買ってでもしたらよい値打ちのある苦労でなく、人間(こころ?)が作り出した余計な苦労をするものだから。(8/21.G.F)

★歌で何か表現しようとしても、それに快感が伴うとは限らない。歌い終わった後の観客の声援に快感を得ることはあっても、歌っている最中には得られないことも多々あるでしょう。得られない場合に単純な解決法として、大声を出すことを選択することが問題だ。イメージを上手く表現したいんだけれども、それに伴う苦痛を和らげようとするために、表現が崩れていくのは本末転倒だ。大声を出す以外に歌で快感を得たことがないからこその無意識の選択なんだろうけど。この初歩の段階での快感を我慢しないと、次の段階の快感にたどり着けないだろう。それがどんなものか分からないけれど、大声を出すだけのものよりは、ずっといいものだろうな。観客に想像させる余地を持たせる、とよく言われるが、正にその通りだと思う。歌詞の内容を説明的に歌って、何もかも出してしまうと、事実を淡々と述べているだけになって、共感や同情がしにくい。歌手がストーリーテラーになってしまうと、それを聴く観客は、一種の又聞きになってしまう。もちろんそんな歌があってもいいのだろうけど、共感・同情の意味から言えば、歌手は当事者であったほうがいいのだろうと思う。その点から考えて、歌は細かな描写は歌に任せて、声ではただその当事者の心情のみを表わせばいいのではないかと思う。例えば、冬に雪の降る夜、人気のなくなった街角で一人、待ちぼうけをくっているシーンだとすると、冬の寒さも雪の降る様も街角の様子も、待ちぼうけをくっている状況も、すべて歌詞に任せてしまう。歌手が声で表わすものは、主人公が今どう感じているかだけ。むしろ歌手が声で伝えられるのは、感情だけといえる。どれだけ寒さを表現してみても、観客の想像を狭めるだけだし、逆にどれだけ言葉で「寂しい」と言ってみても、感情が入っていなければ何もならない。伴奏はこの二つをある程度まではやってくれるし、観客の想像(舞台設定など)を当てにしてみたら、歌手は感情を表わすことだけに専念すればいい。声やメロディや言葉は、感情を伝える手段だ。目的ではない。(※1.F)

★まったくもってスゲーレッスンだ。これ以上ないシンプルなドン底に叩き落されたような。今さらながら、日本にこんな空間があるなんて驚異だ。そしてそこに参加してる俺は幸せ者だと思う。(※2.F)

★自分独自の歌を作る、頭ではわかっていても歌にするのは難しい。間や、どうやって入っていくかなど、今まで考えていなかった。そこに目を向けなかった。同じように流れてるだけ、スキだらけ、など言われて、自分でも声じゃないところに目を向けてみたいと強く思いました。ここが大事なんじゃないかと思いました。今は出来なくても1年後出来るようにすればよいと言いましたが、これが力なんじゃないかと思いました。出来るようにするという力、はっきり言って自分は、このレッスンは分からないことばかりでした。Fさんが言ってることの大半は分からなかった。でも分からないことがあるということは、それだけ勉強できると考えるようにしました。逃げなければ分かるときが来る。だから、Fさんがこういうことが出来てほしいことは、逃げずに出来ていけるようにしたいです。こういうことは、気持ちが大事なんじゃないかと思いました。自分がどうしたいかという気持ちが歌に入れられたらをまず考えていきたい。また、トレーナーやFさんに教わるのではなく、自分で見つけていくことが、何より身につく。まず自分で考えていこうと思います。ハミングをやっていると、のどにくる。それは、口を開いているというか(イメージ)、一つに集中すれば(一つの場所に焦点を当てる)、ちゃんと、のどにかからずにある程度ちゃんとできる。

歯の裏に出すイメージで、これも一つに集中する。というか、完璧それだけに集中すること。そうすると、ちゃんと出せる。「イー」で裏にもかすかにイメージ、まえにもち、半々で出せるようにする。「イーアァー」にきりかえていくことで、「イ」の前と後ろの半々のイメージで「アァー」にきりかえるといいかも。「イーアァー」のイメージ。まっすぐイメージをもち、息読みから入ること。自分が出せないような高いところは、首が勝手に前へいって補おうとしているから、後ろに高く上がるところまで持って粋、下がるところで前にもどすようなことをすること。でも、後ろに首を下げたとき、お腹が使えてなかったので、意識を下にもつこと。声を出すのは、とにかく集中して息のイメージを大切にする。そうしないと、人に伝わるような声、ちゃんとした声は出せやしない。歯の裏のイメージは特に大切。常に意識する。(AM)

★ことばや動き、気持ちやイメージを呼吸であやつる。呼吸でそういうものを見せていく。それらを使って自分の作品をつくる。つくるとは、何かがこなされたという形にすることで、つまり何かを起こすということになる。フレーズの中では様々な動きが可能で、それらの中から自分にあっているもの、客に働きかけができるものを選ぶ。そして実際に働きかけたら、伝わるかどうかを確かめる。そこで自分と相手との場が成り立つか、共感を得られるかを、修正、フィードバックする。何かを起こして相手の経験世界へと働きかけることができたら、しめたものだ。それが相手のイマジネーションを膨らませることになる。しかし、どこかで何かを起こして広げた分、どこかで納めなくてはならない。終わり良ければ全て良しというが、いくら何かを起こしても、それを最終的に納められなかったら落ち着かない。だから、納め方を知って、それを超えるものはやらないこと。今日やった布施さんや中島さんは、うまく切り替えて納めている。音楽としてどこへ行き着くのか。その中心をしっかりと見定め、理解しておくのが前提となる。(AF)

★CM「サントリー ピュアモルトウィスキー山崎」(「声優入門トレーニング」p.136)文章を読んでます、という感じになってしまっている。マルごとにひとつひとつ文章の奥にあるイメージを読み取り、気持ちをつくること。CF「資生堂 エリクシールドラマティカルエッセンス」実際に自分が使っていて、すごくいいよ、効くよ!という感じに聞こえるように。声に出して読むことを前提にして文章に眼を通すと、そうでなくて読むときに比べて、文章を理解する度合いが低いと自分でも思う。発音のための楽譜のような扱いにしてしまっているというか、そのあと何度か繰り返し読んだとしても、意味を取るとかイメージをふくらませるという方向に行きにくい気がする。黙読だけするときと同じに、まずは普通に読み、書いてある内容を理解した上ででないと、そこからイメージを読み取り、気持ちを作ることまで至らない。(8/14.V.H)

★調子の良い日。声がふっくらとヴォリュームを伴って出てくる。たいていいつも、ここに来ると普段よりも声の自由が気かなるなるが、この日は例外だった。調子の良いときというのは、実際何が起こっているか自分では分かりにくい。ふらっとレッスンに行って、パッと出したら声が出たという感覚的な感触が残るだけ。調子の悪いときは、ここら辺が引っかかってるとか、力が入ってるとか、何かしら原因が思い浮かぶ。それと反対だ。程よい脱力が大切なのだが、意図的に出来ないのが問題だ。(7/28.H)

★体と息と声がうまく連動しない。そのことだけはハッキリと分かる気がする。体の内側がうまく動かないような感覚。体調は決して悪くないのに何故だろう。こういうときにこそ、技術をもってカバーする必要があるのだと思う。それも大切な実力。自分の体を操りきれていないと感じた。(8/11.H)

★展開の作りかた…これがいちばんの課題。あらかじめ考えてから歌わなくても、自然と展開がつけられる、感覚として出てくる用にしたい。曲によっては、まだまだしっくり来る構成を見つけられないのもある。特に聞く人にあからさまに分かる構造でなくても、何かしらの密度の濃さ(濃淡)をつけると歌のレベルが違ってくる。他のアーティストの歌を聞くときにも、表面に隠れた構成を聞き取れるようにしたい。英語の発音…これは、自分で録音してチェックするのがいちばんだと思う。発音の良いアーティストを聞いてみる。曲によっては、訛りのあるのもあって、それがまた味になっていたりするが、あまり意識的に真似をしない方が賢明だと思う。(8/11.F)

★−いきなり出来ない−基本的に、人前でパッと声を出してそれがよい事がほとんどない。すこし引っ込んでてテンションも低く、調子が出るまでに時間がかかってしまう。今日はいつもよりテンションが低くポジションが低く、高音でよくのどにかかった。しっかり支えようと考えるから、軽やかに歌えなくなってしまっている。声がフラット気味、暗く聞こえるというのは本当によく指摘される。油断すると下がって、キープするのが本当に大変。多少は明るくなってきたが、まだまだ時間がかかりそうです。(8/23.Y.OK)


<講演会アンケートより>

★とても面白く聞きました。芸術表現話として聞けました。Fさんの評価する音楽というものを、私の考える「よみ」の理想と結び付けて聞きました。一つこんな考えはどうでしょう。一般に日本語は、高低アクセントとされますが、どうもそれは、アナウンスのためのアクセントのようです。近頃私は、もう一つ強弱のアクセントが存在していて、そのアクセントこそ、日本語の表現の効果に繋がるものと考えて、実践・理論化しています。声と言葉と音楽を貫いて、共通する表現というものがよく分かりました。私も指導者ですが、息と表現についての指導はとてもよく分かります。単なる「朗読」の一本調子のつまらなさではない、「表現よみ」を目指しています。今後も、いろいろと勉強させていただこうと思います。

★非常に予想していた通りの講演会でした。声の強さを最優先するというポリシーは、非常にわかりやすいものでした。しかしながら、私の音楽観は音色重視、音感重視というところに間違いありません。その上で、F先生の考えるトレーニングをしたいと考えております。以前より本のほうは読み続けており、直接F先生のお話を聞かなくても、F先生が話しそうなことは予想しておりました。私としては、さらに音楽観について、より深く聞きたいと考えておりました。本を読み始めて8年間、先生の知らないところに弟子がいると思ってください。

★なるほど!と思ったこと ・体に入ってないものは出せない ・その人がやるから許されること、レベルが低ければ聞いてもらえず、レベルが高ければ真似できない独自性になるということ ・伝える気持ちがなければ伝わらない…..当たり前だけど再認識しました。

★表現するということは、結局、基本的には歌うことも演じることも共通するものがあるのだと思った。楽譜通り正しく歌うということは、もちろんそれは大事なのだけれど。それなら間違わない分、楽器やコンピューターの音の方が絶対いいわけで、そこに自分が入るというか、自分がやる、自分にしかできないことをやる。それで初めて、人が表現する意味があるんだと思いました。雰囲気だけで歌うとか、悲しそうな歌はなんとなくそんなふうに歌えばいいのかな、としか思っていなくて恥ずかしかったです。自分の体を鍛えるというのも、体が我々の商売道具であることを考えれば当たり前なので、どんどんやっていきたいと思いました。

★とても参考になりました。F先生の声がとても良く、そのまま歌声という感じもしました。自分もまず歌う云々より、話し声から太くひびく強い声にしていきたいと思いました。今まで声楽(もどきかもしれませんが)を3年間学んできた。変に声をしめてひびきを頭上だとか習いましたが、そんなのはほんの小手先の技術なんだと実感しました。まずは体を楽器にする。体全体で声を出す大変さと素晴らしさを身をもって実感しました。ほんの1フレーズでも本物の声を出すための大変さ。今まで自分がやってきた小手先の発声では、何十年かかっても無理だと気づきました。今は、歌を歌うとかより、とにかく体を作り上げたいです。日本人の発声の悪さを根本から直したいと本心から今そう思います。将来はオペラ歌手を目指していますが、今はとにかくオペラ、ポップス云々より、とにかく「よい深い声」を獲得したい。

★やはりとても説得力があり、サンプルとして聴いた曲を、真剣に別の観点から聴いて、改めて自分の足りないところが判った。どうしてもヴォイストレーニングを受けたような正確さより、「表現力」と思っていました。というより、私には歌いたい世界があるので、これは大切だと思うし、高い声が出なければ、アレンジしてみて歌えればよいとは、ずっと思っていました。ですので、先生の「プラスα」の話は勇気付けてくれました。が、先生がもう一つおっしゃっていたように(別にキャラということではなく、歌いたい世界に共感してもらいたい)、いくら「プラスα」といっても、元もとのヴォイスが弱いので、それを習得したいと思います。自分は、このようなスキャットというかメロディーを歌い上げてみたいし、ジャニスなどこの手を聞き体になじんでいるつもりだが、こういうメロディーははずすことが多く、どうしても自分の曲でも創らない。やはりどうしてもメンタルな部分で怖い。ハズしたら・・・という思いになるので。トレーニングを受けたからどうなるということではないと思いますが、とにかく先生の内容は共感できました。