会報バックナンバーVol.175/2006.01


レッスン概要(2005年ほか)

○音色

 同じことばを言っていても客がすぐにイメージがぱっとわかなかったり情感ってありますよね、それをいちいち説明しなければいけないようなものというのは使わない。それから、演技もリズムが入って動きがすごくすばやくなるからそういう動きに対してリズム感があるようなシャレとかを入れてもスキを見せないような形で使っている。

 歌い手にとっての歌詞というのはメロディ先行にそれを音色で歌っているところには、どんな歌詞がついてみてもあまり変わらないというのが実際です。あまり変えすぎてしまってもいけないでしょう。だからことばそれぞれの中に音色があれば、それは表情となります。

 「とらえられた奴隷」があって「王様」があって、「奴隷」と「王様」というのが実際のことばでは違うのですが、音色のところとか演奏法のところで声で違いを出すかといったらあまりないでしょうね。ただ構成上に広がっていくところのイメージとか中心というのか修練していくところのイメージみたいなものはあります。フォルテッシモとかピアニッシモとかそんなところでつかんでいる人もいます。音の強さとか鋭さとか置きかたとかでは見せていきますが、音色ではけっこう難しいかなという気はします。タッチから強さも含めて音色という場合もあります。

○音楽性

 でもけっきょく自分の得意なところでしか勝負というのはできないから、不得意なところをそれっぽくやってみたって、それの得意な人にはかないません。
 店のオーディションという基準がそれぞれに違うのはそれはそれでよいと思うのです。オーナーがそういうのが好きだったりあるいはそれを選ぶそこの出演者みたいな人とかバンドみたいな人がそういうヴォーカルと思って好んでいたりするというのは当然ある。あるいは雰囲気にもよりますね。だからそこに個性をぶつけてみてその個性が認められるかどうかというようなことを問う。でもバンドの人なんか馬鹿じゃないし、お店の人もいろんな人を見てるからけっきょく問われてくるのは音楽性になってくるのです。

 声が出る人とかパワフルに歌える人というのは逆に言ってしまうとそういうところに対して弱い。この方は、ジャズのヴォーカルで私も昔好きだったのですが、パワー全然ないのですが、本当に細やかな構成をきちっととって新しく創っています。要は想像力が必ずしもパワーに裏付けされているわけでもない。だから外国でも実際マイクを使う世界なので、パワーという言い方が雑さになっていたり、あるいはワンパターンみたいなことになっている。

 私もそういう相談をよく受けるのです、「私はパワー、インパクトだけなのですが」と。ただ日本の場合のライブハウスというのは内輪、第三者とか外国人客とかあまりくるわけではないから、黒人なんかが音楽が「?」と思っても、やはり日本人には日本人のところについてしまう。そういう意味で言うと、内輪でやるものというのは基本的にはインパクトはいらないのです。BGM的にやっておけばいいだけ、文句も言われないし、聴かせる必要もないし、金取る必要もない。

 本当のことでいうと音楽性のレベルで高いものを認められたら、声がどうであれ、あとは調整だから。でも店じゃもう少し抑えたような形でやるのが普通なんだと調整できるようであれば、そうすればよい。多分調整してくださいとは言ってこないけれどもそこで歌っているうちにそうなっていくだろうし、だから自分のものがあればそんなに難しくないと思うのです。

○買ってもらえる力=実力

 ただどちらにしろ、プロダクションとかプロデューサーと同じで好き嫌いです。優れてる優れていないというのも、一種の好き嫌いです。今までそこを支えてきたりお客さんの好き嫌いをある意味では代表しているわけだから店の場合はそれ以上のメジャーで大きな店だったら別ですけれども、そうではない。

 客がなんだよ、こんな今までになかった奴いれやがって、という形でマイナスになるようであれば、保守的にならざるを得ない。その店自体が潰れては仕方ないので、それは仕方ないだろうという気はします。
 だからいろんなものを受けて、だめであれよかったにしろ、その理由を聞いておければよいですね、何でだめだったのかとかなんでよかったのかとか。でも基本的には優秀な奴というのはそこに入って辞めますよね。

 どっちが主権とるかといったら、オーディションでは入ったのだけど、こんなところで歌ってられるか、こんな客じゃ嫌だという形でやれる人。客が悪いわけでもないのです。
 どこでも場をけなしていたり、自分がやって通じないところの客に文句言っていたのでは仕方ない。世の中がそうでしょう。
 力があって認められない人というのは、私に言わせればそれは声の力か歌の力はあるのでしょうが、お客さんに買ってもらえる力がない。本当の意味では実力がないということです。

 プロということであれば仕事がくるかこないかということなのです。世の中のこと、若い人たちのことを含めて勉強してない。昔みたいに声のことだけ勉強したらなんとかなる世の中ではとっくになくなってきているのです。また声のことがそれほど求められるわけではない。音楽なんかもそうです。
 ただピアノとかギターなんかの独立性に対して、ヴォーカルというのは総合的な要素が求められるので難しいです。歌はうまくなくてもやっていけるけど、歌がうまくてもやっていけないというようなことでは、何がヴォーカルの力かということを自分で観ていかないと難しいですね。

○パワーとは

 それはどの時点で何をとっていくかという話ですね。優先順位の問題です。本当のパワーというのはすごい繊細じゃなきゃ働かない。パワーを出すことが歌とは思ってはいないとは思うのですが、世の中にはそんな人も多い。トレーニングの時期としての優先順位はパワーからだとは思うのです。後でパワーっていうわけにはいかないです。どんなに作品を荒削りに創っていてあとで細かくやることはできるのですが、最初に細かく創られたものを後で、ではタッチを出せと言ったって、それは絵でも何でも出せないです。

 そういう意味では違う創り方もあるのでしょう。基本的にその人のエネルギッシュなものが損なわれずに伝わるかということだから、その人自体がエネルギッシュじゃなければ厳しいです。
 日本のヴォーカルというのはそうではないタイプばかりけっこういますね。その辺はけっこう弱いという気がします。
 タレントさんとか他の分野の人はけっこうみんな強いです。強いというよりやっぱり体を鍛えたり気を集中することにとても重点を置いていますよね。

○美しさ

Q:歌という音楽的表現法とそれ以外の器楽曲ということで言うと、美しさというのは有利なのが器楽で、そのため曲っぽくなってしまう、器学的な美しさのほうに惹かれるところが多い、そういう美しさを歌の中でやりたいのだけれども、歌でやるってどうなのでしょう、また優れた人の歌を聴いたとしてもそういう感動みたいなものをあまり得たことがない。ただ単に勉強不足なのかあるいはやはり難しいのか……。

A:器楽というのはすごくはっきりしています。人間ではないから。ピアノでも、楽器作りの人が音を追求し、よい音にしていきます。人間が長く付き合っていく中で、みんながその音いいね、綺麗だね。あらゆるものが音になる可能性はあったのですが、バイオリンにしろ、選ばれてきているのです。

 優れた楽器作りの名人と演奏家がそこの分野に出ていっきに普及してしまったみたいな部分はあるのでしょう。消えていった楽器というのは世界中にいくらでもあるはずでしょう。今もどこかの原住民はやっているが、とても他の人がおもしろいとも思わないものも多い。
 そういう意味でいうと、弾き方や叩き方がおもしろいということ、もちろん難しすぎてもダメだと思うのです。それなりに何か音の世界が得られるからということがあって残ってきてるから。

 歌というのも楽器面はあります。楽器として綺麗な声を出そうとか合わせようとか美しくというのを追求してきた部分と、もうひとつはメッセージとか言葉から発してきた部分です。人間の言語の発祥と同じです。

 簡単にいうと動物のときに危険を知らせるようなキーとかギャーというような逃げろという合図みたいなもの、あれはことばでないわけだけどもそれで相手に伝えるということを音でできる、そういうのが変わって太鼓になってきた。危ないぞとかみんな逃げろとかいうような意味合いで、声だけではだめだからホイッスルになったり、人間の意図を汲んで楽器に置き換えられてきたような部分です。
 その中で音楽というのはそれの美しいための利用方法ですよね、ひとつの旋律があらわれ、音階からメロディからリズムからそうなるのです。

 声の中で美しいというのを追求していくとある意味では声楽とかそういう分野のほうになっていきます。ポップスの中でも声楽にとても近いところで歌っている人もいる。ミュージカルなんかでもそうですね。綺麗な声を聴かせていくような人たちもいて、伝統的なスタイルだったりクラッシックだったりするわけです。

 一方のロックというのは騒音のようで、取り入れる感覚が違う。ことばから発声してるものは音楽というよりはむしろ言葉に節回しがついているようなもの。歌に関してというのは一番定義がしにくいですよね。

○状況対応

 歌は人間がことばに節回しをつけたものとは言えますが、別にことばがついていなくたって歌。
 別に気にすることがなく自分がこだわるものに対して深めていったものに誰かが共感するのであればそれはそれでよいということだと思うのです。
 よい声でもうまい歌でもそれだけではだめでしょう。本当によい声、本当にうまい声だったらよいが、それが中途半端なものだったら通用しない、どれも通用しないはずなのに、わかりにくい。

 例えばピアニストはピアノが最高のものでないと無理、それから使い方が最高、腕が最高でないとダメなのです。歌の場合というのはそうではないところで総合力で通用してしまったりする場合があるのです。
 それから状況です。小さな子が歌っても、みんなが感動してしまった。商売になるのではなくて、伝わったという意味で、お金は取れないけどでも誰よりもそれが伝わる。でも、そこがすごい難しいのです。

 演説と同じで、例えばお葬式のときに覚えてきた文章をひとつも間違えなくペラペラ言えた子供と、泣きはらして全然言えなかった子とどちらが人々に感動を与えるかと、そのときにはすらすら言えてしまった人のは感動が薄いと思うのです。
 学校の勉強だったら、とても優秀な人でも、そういう場がもし歌だったりそういう場での挨拶だとしたら何かそこで喉が詰まってしまったとか泣きはらしてしまった子のほうが人に感動を与えてしまう。そういう部分というのは歌の場合は必ず入っています。

 状況をどういうふうにセットするかとか、とても難しいです。暗いところで歌うのか夜歌うのかどんなお客さんに対して歌うのか、全てを踏まえた上で、演出的な才能が必要とされてくる。
 どんなにその人が優れていても今どき会議室で歌ってみてみんなを感動させようと言ったらすごい難しくなる。少なくともピンスポあてて真っ暗にして黒幕ぐらいはらなくてはいけない。客の要求水準にも、関係します。
 しかし、そういうところがどこにもなくて学校の教室でやってみたらすごいみんなが感動したなんてことはあるかもしれない。

 だから美しいということが美しい声であったり美しい演奏であったりということだけではなくて、何かしら人々の真善美というのか、歌はそうだと思います。私もいい加減なことはやっても、何かしら真実とか美しいとか何か善悪で判断するわけではないが、神様がいたとしたらきっとこんなものを残すのではというのに、よっていく。
 それに近いようなヴォーカルというのは何か打たれる。何かしらそういうものを持っている人が、音楽をやっているところなんかには集まっている。
 日常の中で忘れてはいけない何かがあって、それというのはふとすると忘れがちになるのだが、歌を聴いていたら思い出せるとか自分が歌っているときにはそれと一体になっている。それでみんな道をはずしていくわけでしょうけど……。

 美しさというものをどこで規定するかというのは、芸術というのはけっきょく美への追求みたいなものだから、生産的なものでもないし、浪費する部分は多い。そういう人がいない限り成り立たない。
 演奏の形式とか声そのものの美しさということだけではないと思います。楽器の美しさの価値といったものは今測定して雑音がないと楽音だとか人間にはどういうのが気持ちよく聴こえるかというのがある。状況があると思うのです。結果的に聴いた人の捉え方に全部なってしまうのです。

 ピッチも音が高くて、絶対的な高さみたいに使っていますが、本当の意味で言うとそれも受動的な高さなのです。周波数と違って受け手の感覚での音高になってしまうから、低い声だけど高く聴こえる人と高い声だけど低く聴こえる人がいたときに、受け手のほうが感動するのはあくまで自分が受けたところに対してだから。
 だから歌い手のほうの発信源からみて美しい声だろう美しい演奏だろうといっても仕方がない。聴いている人がそこに美しさを感じたということに対して、美しさが一致すれば一番よいわけです。だからややこしいです。

 とにかく受け手との二つの間でしか成立しないから、どんなに私がこれが絶対的な美しさだと言ってみてもだめなので、絵のほうがまだ、いつもいっているとおり客がいなくても真実を描けて、いつか認めてもらうことはできるような気はします、建築とかのほうが学びやすい。建築も住む人いなければ死んでいるみたいなものでしょうけど。

○合宿曲

 合宿で使ったものでその当時にはとても新鮮にこれからこういうものなのだからこのぐらいについていけなくてはいけないとやっていたような気がしますが、もう今聴いてみるとその後みんなこんな形でもっと速いテンポで曲をつけています。なんだ、このくらいかという感じになってしまうのでしょうけど、何事も早く時代に合わせてやっていくことというのは必要だと思うので、五年前にこういう勉強をした人がその後流れにきちっと乗れたかどうかはわかりません。

「smooth」
 日本人には日本語でやるとどうしようもなくなってしまう例です。ただ、こういったものがどのレベルにこなせるのがひとつのオリジナリティでしょう。リズムだけに乗せてもやはりその人の音楽が入ってこないとなかなかこういうものというのは通用しないので、別にサンタナがよいということではなく、ポップスといえばよいのか、音楽でいうかっこよさというのはどういうことなのかを日本人の場合は勘違いしてるのだろうと思います。

 野口五郎さんはギターの面からサンタナのことを知り尽くしている、どっぷり時代に入って、かなりのテクニシャンではあります。ただ歌にしたときに、あのレベルで、こうokにしてしまうのかというのは、とても難しい判断なのだろうという気がします。
 離れてみればそんなに難しい判断ではない、成り立ってないというところでとてもわかる。歌もパロディにしか聴こえない、まぁパロディはパロディなのです。

 真剣に歌ってるのでしょうけど、ちょうど郷ひろみが「アチチ」か何かがヒットしたときに売れるならというので出したものだと思うのです。
 ただこの曲自体がとてもヒットした曲ではサンタナが出していたこういう曲のかっこよさって一体なんなのか、それを真似てはいけませんが、でもこの曲を成り立たせるためにやはり外してはいけないものというのはあります。それを日本語でやるのがとても難しいということです。

【レッスン他】

○発声と歌と音楽

 発声の問題と音楽の問題は、それぞれに違っています。だいたい発声だけを勉強しようと思ったら、声そのものだけを勉強しようと思うのですけど、でも声そのものはよくないけれど、歌としてよい人はいるし、歌もあまりうまくないけれど、ステージングとしてよい人はいるわけです。こういうところに来ると、声のことに重きを持つ人が多いし、声に優れた人が多いのですが、それがどんなに優れていても、比率は皆違うのですが、残り3分の2、のことの力をつけていかないと、声もいいのに、歌にしてみると通じないというような部分の問題があります。
 隙のことや流れのことというのもあります。

○声の一時、不安定

 一番難しいのは、ヴォイストレーニングをやると、一時、声自体が不安定になるといったら変ですが、発展中は定まりにくいこと。アイドルみたいに声量もなくて1オクターブくらいしか出ない、それしかないと、あとは使い方と見せ方に専念すればいい。声もよくないし声量もないから、どうやったら悪くならないようにみえるかというのは、そこで固定できるからいいのです。トレーニングをやっていると、常に声は変わっていって、動いていっている状態になる。たとえば、声の理想からいうと歌のほうが理想的にならないのは、これは当たり前、どうしても時間がかかるのです。

○人まねのうまさ、自分のへたさ

 ヴォイストレーニングをやっていくと、声自体が可能性を持っていく。広がって、大きく出せたり小さく出せたりしてしまう。器があると、逆にいろいろなことができるからこそ、使い方のほうが難しくなってしまう。カラオケか何かでパッと歌うのなら、声のない人よりある人のほうが有利なのだけれど、歌という土俵になってしまうと、声のあるなしだけで決まってくるのではないのです。

 ほとんどの人が勉強したり習いはじめたりすると、歌は下手になってしまいます。それは、今まで声に関心も自信も持たないで、歌うことだけに専念してやっていたことが、残りの3分の2に気がいっていたことが、気づかなくてもよい3分の1のところにいってしまったからです。

 それから歌の場合、もっと難しいのが、イメージとしたことの本当のイメージが、自分の将来のイメージでなければいけないのですが、これは簡単にわからないことです。自分のことでももう少し経ってこないとわからないのです。何となく言えているイメージというのは、大体誰かのイメージ、誰かの歌であるのです。そうするとその方向にうまくなっていく人もいるのです。その方向にいってしまうのは単に似てしまうだけで、その人の持っている声帯や発声、歌いたいようなことと必ずしも一致していないというか、ほとんどの人が一致していない場合が多いです。

 たとえばアーティストのひとりが他のアーティストを真似て、練習したらどうなるかというと、成り立たないですね。
 ヴォイストレーニングの場合、そういうかたちで力をつけた人は少ないから、力のあるひとりの人を見て、それに対して上達したと見ていく人が多いのです。
 そうなると、元々とっているイメージだけが正しいわけではないということです。そのイメージと同じになっていくことはおきないから、うまくなっていないとかあまりよくなっていないとは、言えないのです。自分の体や声をめいいっぱい使った上に出てくるイメージは、自分でつかんでいくしかない。

 逆にいうと、そういう人たちと全然違ってくるということで、価値が出てこないといけない。全然違ってくるというのは、何だか変だとかおかしいとか思うのが当たり前でしょう。アーティストもそのように考えてみればいいでしょう。忌野清志郎さんと井上陽水さんと桑田佳佑さんがいて、誰かが別の2人を見て歌っていたら、なんか変だなと思うでしょう。それが個性の部分です。非常に難しい。
 学校に行ってしまうと、ふつうはうまくなるということのイメージというのが共有されている。その共有されている中でやるのはいいのですが、共有されていなければ自分で考えていく。それが大切なのです。

○恥ずかしさと説得力

 声を出すことは元々恥ずかしいことで、歌も恥ずかしいことで、普通の国では普通の人はやらない。ところが日本の場合、カラオケになったり、開き直ってやってしまうのです。この恥ずかしさが地になるといったら変ですが、変なことをやっているなと思ったり、おかしいと思っていることが、誰かにとってみたら、それがすごく伝わるのだとか、誰かがそういう世界に対して価値を求めてくれると転換するところまで価値を創り、説得しなければいけないのです☆。そこで芸に転化します☆☆。

○ギャップをつくる

 だからトレーニングするときに、ギャップがすごく膨らんでくる時期とせばまってくる時期が交互にきます。ギャップがなくなったといえば、それで完成だから、逆にいうと、そんなもので完成してしまっていいのかなというものがある。ギャップというのは見えなくなったら無理してでもギャップをつくっていったほうがいい。

 たとえばプロの人が来たら、歌える。歌えるからそれを、もう少し高いところでやりましょうとか、もっと伸ばしてみましょうとか、早いテンポでやりましょうといって、ついていけなくなりますね。人間であるかぎり全部がついていけるわけではない。
 そうすると、そういうところで、ギャップが出るということは、まだ呼吸がきちんとできていないのですよ、8秒まではもつけれど10秒伸ばしてみましょうと、10秒になったらこんなに揺らいでしまう、でも歌では10秒使わないよといわれるかもしれない。でも、歌のなかで10秒できる人と、8秒しかできない人が、同じように8秒やったときには、やっぱり10秒伸ばせる人のほうが余裕を感じられて、使いやすくなるでしょう。トレーニングはそうやってある意味ではギャップをみて、それを課題にしていく。ギャップが見えないと困ってしまいます。

 一体、自分の歌は、どう直せばいいのかということになります。
 これで先生がうなずかなくても、これが俺は最高のものだと思うといったときには、レッスンは終了なのです。
 その人がどう思おうが、歌はその人のものだから、トレーナーが、10分の1もできていないといっても、10分の9も見えないのが当
たり前の話だから、それをトレーナーの基準に合わせる必要もない。ただ続けてやるのなら、それではだめというのが、厳しいようだけれども、毎回突きつけられるような状況に、ここではすべき必要はある。

○描きつづける

 だから、声の動かし方や見せ方というのは、どう捉えていくとか真似ていくとかいうわけではない。自分が声を動かしてみたり見せてみた、そのかたちで客が聞いてみたときに、はあ気持ちいいなとか、新鮮だなとか、そうなるのを自分で研究するしかない。
 たとえば漫画家の人が、「何を描けばいいのですか」とか「どういう描けばいいのですか」とか、「どんなキャラを出せばいいのですかね」とは聞きません。それは誰かのようにとではなく、あなたが研究して見つけて描いてくるしかない。

 ともかく、下手でも何でも描くしかないだろうと、描いたものに対しては、だめだなとかわかると、どう直せばいいのかというとやっぱり描くしかないだろうと。というのは、漫画を描けた人というのは、天才とか何とか言われたって、それだけ時間を費やして、それだけ線を引いてきている。自分で描きながら、優れたものを見て勉強してきたわけです。

 だからひとりでやるのと、こういうところでやることとの一番の違いというのは、すぐれたところからどのくらい学ぶかということです。一人で漫画を描いてきたら、誰かのようにそっくり描けるようになるかもしれないけれど、それはそれだけの話であって、自分のキャラクターが出せたり、自分の思う人間を出せて、その人間が動かせたりリアル感を持ってくるというのは、全く違います。そういうものから、自分が見て学んでいかなければいけません。

○比べる、耳作り

 簡単なことでいうと、比べる。自分のは死んでいるみたいだけど、向こうのものはイキイキしている。きちんと見ていくと、向こうはこういう線が入っているのではないか、目のところにこんなふうに空けているではないかとわかってくる。
 漫画を読んでいる人は、そういうふうには見ない。ところが描く人は、必ずそういうものを見ている。自分で描いてみると、こいつのものは、大きく1コマとってあって、こっちの方にこうなって配置がこうなっている。それを音の世界で示すと難しい。

 ふつうに聞いて、それが面白いとか心地いいとか思っている人が、思いもつかないような見方が、そのなかでできていかなければいけない☆。
 だからあなたがそういうものを出せないとしたら、声のこともあるかもしれないけれど、その前に同じ音楽を聞いたときに、これはこっちの方向から入っているではないか、ここでこういうことをやっていて、ここが効いているんだよな、とかいうことがわかってくることです。

 それは音の世界だから、漫画よりも説明しにくい。漫画は2枚比べると、同じものを描いたときに、下手なものを重ねてみたらわかります。習字と同じように、ここの線が角度が違うだろうといえるけれど、私は、ヴォイストレーナーとしては相当細かく説明していると思いますが、限度がありますね。
 自分が気づいたように気づかせていくところから、その人なりの聞き方のできるところへやっていく。
 DVDやCDのようなもので徹底して比較していく。

 一流になった人は、ヴォイストレーナーのところに行っているのではなくて、自分の耳でそれを聞き込んでやってきたのです。ただ、そういう人はたくさんいたけれど、そのうちの何千人にひとりしかやれなかったということは、気づき方や聞き方のところに差があったのです。
 そういうことをこういう場所に来て、そういう人と同じように聞けるようになるように磨いていこうということです。これが、私のヴォイストレーニングの主意です。
 自分で聞いていると思うことをトレーナーだったらどういうふうに聞いているのだろう、あるいは同じように一流のアーティストだったら、どういうふうに聞くのだろうというところです。

○差に気づく

 歌い手というのは、大体自分のことしかやっていない。音楽家のように、他の音楽家と比較せず、勉強しなくても若くしてやれてしまった人というのは、勢いだけでセンスがよかった人で、そのセンスのいい人は何万人にひとりくらいいるのです。パッと歌えてしまう。そういう人たちはどこかで、勉強はしていないのに、そういうふうな聞き方や感じ方はしているのです。
 同じ芸術品を見ても、すごく感動して、その感動って何だというのがすぐにわかる人と、それは何、ただの絵じゃない、という人がいます。自分が感動しないのだから、人を感動させるような絵が描けるわけがない。それでは、絶対に画家にはなれないわけです。
 そうしたら、そういうちょっとした差のところで、どういうふうに感じ取っていくのかみたいなことを、やっていくことが一番必要なことです。

○個性の素

 私たちが教えられないというのは、あなたがどの音楽の、そのどの部分に関して心を動かされるかというのは、それ自体が個性ですね。そこは絶対に違うはずです。そんなのが同じだったらおかしいのです。
 名曲のここで皆が感じたというのは、人間として共通の部分です。いい歌だとかいい歌い手だとか思うとか、この歌い手のなかでも、皆が好きだなというのは決まってくる場合があります。

 声の問題もあるのでしょうが、その声をどう使ってつくっていくか、声はツール、道具だから、道具を磨くのはやらなければいけない。板前さんでも包丁を研いでいる。体は外で買うわけにはいかない。そういうことはやっていかなければいけない。
 自分で切って並べてみて、味わって、それでよりよいものを味わってみて、何が違うのだろうかと研究する。包丁の使い方はどうなのかという、そこを見ていかないかぎり変わってはいかない。
 それはすごく時間がかかる。時間をかけたくなければ、逆にどんどんつくっていくことです。要はやっていかないとわからないことがたくさんあります。

○見極めと心遣い

 ヴォイストレーニングというのは、ヴォイストレーニングに対してやっていくということだけであれば、何の結果も出てこない。
 だからあなたは自信をもって自分の歌を歌ってよい。他の人が下手だとか鈍いだとか、思ったとしても、自分のなかでそうでない部分はどこだろう、伝わる部分って何だろうと、自分で自分の歌を分析したうちで、全部が嫌であっても、ここのところは何かものになりそうだとか、こういうものに対しては、自分はいいと思うところを見つけていくのです。

 ということは誰かどこかに1000人にひとりは感じる人もいるだろうと、そこの見極めが、いい作品をたくさん聞いていないと、なかなかわからない。ひとりよがりになってしまう。
 何か知らないけれど、ここが気持ちよく歌えたからここがいいのだろうとか、それだったらカラオケでも皆そうなってしまうわけです。だからつくっていくというのは、どんどん難しくなってしまうのです。
 映画でも何でもそうです。最初は面白がってやっているのですが、本当につくるとなったときには、すごく心や神経を使わなければいけない。

 要は歌い手は、自分がすっきりと歌うのではなくて、聞いている人がすっきりするようにするのです。アマチュアでもそうだと思うのです。自分で楽しむのは楽しむとして、そうなったときに、自分のなかでこういう悩みがたくさん出てくるのは当たり前です。こういう悩みに、普通の人が比べられないほど苦労して、踏んで自分で創り上げていくのが作品です。

○悩みの深化

 だからトレーニングをやって声が出るようになったら、この悩みはなくなるのではなくて、ずっとこれは抱えていかなければいけないものです。
 ただそういうことをやっているうちに、ふつうの人がいつの間にか、すごい難しいと思うことが自分の中では当たり前のことのように、できることになっていて、悩むことのレベルが変わってくる。
 声のことやヴォイストレーニングのことをやっていて、理論書もたくさん読んで、経験としては若い頃の数倍、その頃は勘しかないですから、それで、その当時より何が変わったかというと、私は当時よりわからないことが増えた。訳がわからない。

 たとえば、当時は高い声が出るとはこういうことだとわかっていたが、今のほうがわからない。大きな声が出るには、条件があって、その兼ね合いがどうで、どうすれば皆が出るようになるかというのはわからない。学んでいくと正直になる。そういうことなのです☆。
 最初わかったと思ったことが、本当は全然わかっていなくて、そういうふうにわからないことが自分にはたくさんあるんだということをわかっていくのが、勉強していくことなのです☆☆。

 それを恐れる必要はないと思います。それをわかりたいと思うのですが。いろいろなことを、それを10年20年、本気で勉強するともっとわからないことが増えていく。
 ただ普通の人が質問することに対しては、当たり前のようにすぐに答えられる。だからレベルが違ってくるわけです。そうなってくることが成長なのです。

 昔は先生がいて教えてくれたり、説明してくれたけれど、そのレベルを越えていくと誰も教えてくれなくなる。いろいろな本に発声のことは書いてあるわけです。それを全部まとめても、矛盾して、違っていて、いろいろな条件が出ています。それを答えてくれる人が、世界のどこかにいるのかというと、いない。それがわかると、人間と同じ声が、ロボットでもつくれるということなのですね。そういうことができていない以上、わからないわけです。

○わからなくてもよい

 でもわからないけれど、立派なバイオリンも、ピアノもいいものができている。それは人間が勘で、経験のなかで磨きに磨いてきて、つくってきている。時代が経てば、科学的にわかってくることはあるけれど、芸術的に技術的にというのは、それだけでないのです。
 たとえばバイオリンでも昔のストラスバリウスよりも、今のほうが科学技術は進歩して、ニカワではなくて、合成のいい糊もできているのに、あれ以上にいい音が出るのかというと、必ずしもそうはなっていないわけです。下手な人がつくるくらいものに比べたら、大量生産でできるものでも、昔からいうと桁外れに、よくなった。ただ本当にいいものというと、当時の人が、そのことだけにかけて、やってきたことにはなかなかかなわない。

 歌い手もそうですね。理論が研究され、発声のメソッドがあって、大々的にやってきている。50年前よりもどんどんいい人が出るはずですが、そうでもない。スポーツはそうなっていると思います。方法や研究に加え、用具や場所もよくなっているから、ギリシャのころに走っていた人よりも今のマラソン選手のほうが、ずっと速い。栄養もとって、いろいろやっている。

 歌や芸術分野に対しては必ずしもそうではない。だから、わかることを期待しないで、ともかくやっていく。やっていくなかで、自分で自分のことを認めてやって、誰よりもやっていったら、よい。それだけやっていったからすごいんだなと自分で思えてくるようにならないと、自信にはならないです。
 いろいろな問題があるけれど、こういうことを考えているときはいいのです。逆にこういう掴みがなくなった人のほうが心配します。イメージの流れと実際の隙が多い。それで終わるのではなくて、それって何なんだろうと、研究していくことです。研究所はそういうところです。

○自分を研究するとは

 あなたが自分で研究していく。何でとまどうんだろう。ここで書いたことの2行のことを今度は20行にして、また20行で書くと、ひとつの2行が20行にまたなっていくかもしれない。でも、そうやって細かくみていったり細かく感じてきたりすればするほど、歌がよくなっていく。

 流れがないから流れをつける練習をしましょうとはならないのです。そんなことをやっても、それを教えられてしまうと、ステージに行ったときに、あれは誰かに習った歌い方をやっているなというようになってしまいます。
 客は、そういうものは拒否します。学校を出るとそれっぽくなってしまいます。

 だから違ってきていいのです。ギャップがあるのはしかたない。それは時間がかかるし感覚が変わっていく。時間をかければいいという話ではないけれど、多角的にみる。違ってくることが間違いと思わないほうがいいです☆。それが個性の元になる。

 ただそれが音楽性として成り立つか成り立たないか、歌のなかでプラスなのかマイナスなのかというのは、見なければいけない。
 たとえば個性的に生きている人や、他の人と全然違う生き方をしたという人はいくらでもいますが、そういう人が歌ったら、味が出るかというと、必ずしもそうでない。

 でも普通の人よりも、苦労をしている人のは、味はある。でもそこに音楽の勉強ではありませんが、基本、体や感覚がないと、ひとりよがりで、どんなにその人のことばが説得力や迫力があったとしても、歌としてはもたない。
 あなたがそういう状態だとしたら、歌として持つだけのものを入れていないわけですから、それを入れていくことです。そういう勉強をしていってください。プロやすぐれた人ほど大きな悩みを持っている。がんばってください。

○ワンクッション

 自分が力を入れていたりがんばったから効果が出るわけではない。むしろそうでない部分があるから、ワンクッション置けることが大切です☆。そういう部分がちょっとあると効果を上げてくるということですね。
 だから、発声なんかはストレートに出しているものをワンクッション置いて、より集約させて使っていくようなことで、それゆえパワフルになるということです。痛めないことというのは、絶対に大切です。

 歌っていくごとに痛めていくと、客も限界を見てしまう。一曲で勝負する人はいいのですが、10曲くらいになってくると、ワンパターンにしかならなくなってしまう。そうすると壊れていってると見られて盛り上がらなくなる。

○欧米の発声の理☆

 欧米のものを見て、最初は私も喉の違い、喉が強いのだと思っていましたが、そうでなくて理にかなっているのだとわかってきた☆。本当に肝心な部分以外は、力を使わないで相当休んでいる☆。
 ああいう姿勢でやっているから、全身で全部やっているように思えても、うまく音楽の跳ね返りを利用している。
 日本人の方が、音楽の跳ね返りを利用できず、直線的にのばして、がんばって喉を壊してしまっている。
 やっぱり押しては引いてというところ。だから鋭くかけなければいけないところは、バーンとやって、あとは浮かせていたり、歌っていないようなところも多いし、子音中心だから、強くいって、あいだの間(ま)をかなり置けるのです。

 日本人のアナウンサーは、1分の中でたくさんしゃべっているのに、彼らはその半分しかしゃべっていない。パッと聞くと、彼らのほうがたくさんしゃべっているように聞こえるくらいに、差があります。

 私はよくお風呂でお湯をかくときのように、といっています☆。全部かいても疲れるだけ、肝心なところをかくと流れができるでしょう。その流れにのせる。
 水泳も下手な人は全部かく、手を上げているときまで力を入れて疲れてしまう。
 本来は、キーポイントだけで推進力を得たら、あとは全部をリラックスさせて休ませていないと、1000、5000メートルをあの速さでは泳げない。100メートルも持たないわけです。
 そのポイントは向こうの文化からきているグルーブ感であったり、その強アクセントの部分です。それを音楽にうまく取り入れる。それともうひとつ、肝心なところでバンドの力をうまく使っていますね。

○ロスの多い日本人

 日本人はバンドにのせて歌を歌うというように、歌い手が全部やっていますが、彼らの場合は、鋭くしたいといったら、それより早くバンドが入っている。歌い手が鋭くなくても、そこは鋭く聞こえて、だから大きな音をバンドが出しているときは休んでいるという感じ、日本人はバンドに負けまいと、そこでロスしている。
 バラードあたりのところには、声を置けなくなって、カスカスになっているのです。
 彼らはそういうところにきたときに、すごくやわらかくていねいに歌っています。

 歌えるというのは、喉の違いだけではないのです。人間の体の原理、流れをうまく使っています。
 ロックはもっと集約して、よりパンチを入れて、他のところはかなり動かせます。逆にいうと、なるべく歌わない。なるべく最小で最大の効果を上げることで、切っていく。捨てていくということです。
 それが我々のなかではなかなかできません。

○プロの声の見せ方

 ワーッと客に声を向けてしまって、大して歌っていないのです。
 そのほうが効果上がっている気がするだけなのです。ヴォーカルはそういう感覚、だから確かに、考えてみると3回やってしまうと自分の声も疲れるし、自分のエネルギーも使ってしまう。
 それを1回できると見せかけて、バンドやお客さんにまかせてしまう。そういう意味のコミュニケーションのとり方がうまいのです。
 常に全体で考えられて、どこの時点で、入れてひくかがはっきりしています。

 日本の場合だとちょっと疲れたからバンド紹介でもやろうかというくらいですが、それもショーアップする。一曲のなかに詰められるような計算を、我々よりもしたたかにきちんと全部を見せられることをやっています。
 会場も環境も厳しいから、そういうことに対してアドバイザーも厳しいのでしょうね。
 日本人はヴォーカルだけは頭で考えて、バンドはまあ、そんなものかという、その議論するレベルが違うような感じはありますね。

 一回のライブでも完璧な作品集になってしまいます。結局、疲れないように歌っているのです。休みで抜いていたり、途切れたところで抜いているのではなくて、歌のなかでもうできている。彼らにとったら30曲連続で歌ってもたぶん変わらないでしょうね。
 だから、全力で全部をやる仕事ではないですね。すると客が入ってこれなくなる。作品として示し、切り出しだけ、ひどいケースになるとCDのプロデュースのためのライブのようになって、日本に来たら手を抜いているように、実際そういうこともありますね。でも、必要なところを必要なところまで見せてさっさと引き上げるというのはプロのやり方ですね。

 ダラダラやってしまったり意味もなく長く、もう終わればいいのにと思うのにまだ伴奏していたりとか、まだイントロかどこでヴォーカル入るのかとか、そういうことはしないですね。そういうセンスに関しては、見習うべきでしょう。
 我々ほど見習ってやっている国民はいないと思うのですけれどね。あのままのスタイルをとってアクションまで真似してがんばっているわりには、肝心な音の世界には抜けている。

○出す個性、聴く個性

 音楽を勉強するには2通りあって、ああやって実際的に声を出すというのは、自分のイメージがあって、声を内面的につくっていくということでしょうが、もうひとつはイメージそのものを疑うというか、勉強するということです。
 どう出すのかというのも個性ですが、それがどう聞こえるかというのもやっぱり個性です。
 ある人はこれをいいと思う、ある人は同じ曲のなかでも、人の歌を聞いて、ある人は何も感じないけれど、ある人はすごくそこに感じるというのが、音楽をつくっていく上の原点です。

 こういうものを与えているのですが、いいものも悪いものも中に入り、そういうものを混在しておく、そうすると案外と面白い、違う聞き方をする、捨て曲で入れたのに、この人はすごく評価をするとか、その人の人生経験からの反応もあるでしょう。

○曲を聴くのは

 曲は比較するためにかけるので、日本人の入れて外国人のを入れてみます。
 これはシャンソンが入っています。キューバの「キサス・キサス・キサス」が入っています。さらに「赤とんぼ」の7.8パターンが入っていて、クラシックも入っていますし、こういうものを1年聞いていくとなじんでくるかもしれない。たぶん、聞かない曲が多いと思う。

○習ったままに出すな

 内面が変わっていかないと、どんなに発声の形ができても、発声マニアっぽくなってしまう。特に教わってしまうままでしょう。
 自分でやってきてから来るといいのですが、そうでない人はどうしても依存症、先生はどう思っているだろうなとか発声的に間違っていないだろうかとか、そういうことが出てしまうと、一番つまらなくなってしまう。
 最初にレッスンに来るのはいいことだと思うのですが、ただ、先生がよくて教えてくれればくれるほど、ステージにそれっぽさが出てしまう。こんなにつまらないことはないのです。

 どこかでこの人は習っているなというのが見えてしまうと、本当の意味での主体性というのはないと、そうなってしまうのです。
 音楽をやってきていないと、見本がメインになってしまう。すると今の若い人の感性には、反していきます。見本をああいうふうに歌うということは、ロックでもなければ、J-POPでもない。
 そうでなければ、テノール歌手がどんどんポップスに進出すればいいという話になります。それはありえない話です。どちらかというと聞くほうにシフトしてください。

 97年くらいまでは私の基準がすごくはっきりしていたのです。ある意味でいうと、ポップスであってもクラシックを歌えるくらいの体が必要だという部分で、です。
 なかにそうでないようなメンバーが何人か出てきて、はっきりいうと発声を聞いてもよくないのですが、歌になるといいというケースです。
 とくに関西に多くて、聞くレッスンというのはやらなかった。すると、音楽的な才能はあるのだけど、ひとりよがりとオリジナリティの合間のところで、CDを聞いていない差が出た。というようなことで、表現のほうから入ったときに、ステージを何がひっぱっていくかという見方を大切にしたのですね。

 発声からどう歌おうかということではなく、ロックを歌っている人が持っているものを得ることです。確かに詞や曲がよくてヒットしたという部分もあるのですが、誰かが代われるかといったら代われないのです。
 彼らが歌唱力があったら世界的にヒットしたかは別、歌唱力がなかったから歌がだめだったのかというと、そうではなくて、それなりのバランスがとれた歌い方でできています。

 私もまだ興味がないけれど、もう10年くらい経って体が弱ってきたら、日本人の歌唱、さだまさしさんとか南こうせつさんの研究をするかもしれない。そんな曲も聞きだした。研究所が私にとって、日本の歌を見直すきっかけになったということはあります。

○世の動き

 そういうなかで「胸が痛い」。
 私は課題をあまり考えない。今の日本がどう動いていて、それに対してここに来ているメンバーがこういうメンバーで、まだ、こういう感覚が必要だからこれをしようという感覚なのです。
 私だけの動きではない。全体の世界、日本の動きがあり、それから、実際にここに集っているメンバーの欠けているだけではなくて生かせるところ、声が出なくてもこういうもののところで生かせるものがあって、そこで勝負できる人が出てくるのではないかという、そういうところから考え方です。ずいぶん変わってきた部分もありますね。

○セッション感覚

 こういう歌がなぜ優れて聞こえてくるのかというと、音楽のなかの声の位置関係を、きちんとしているからです。その声の比率を低くしたのがYMOだと思えばいいですね。
 下手で声もよくないヴォーカルでも、その声を音楽のなかではけっこう効かせられるわけです。

 本当に必要な機能を必要な機能で最低限、入れます。日本人で一番欠けているのは、セッション感覚です。バンドをやってきた人間はそういうところが強いですね。プロの人の、歌だけをアカペラで聞いていてもわからないのです。
 バンドにのせて聞いたときに、自分のできないことをバンドにまかせバンドが引き立つようにし、自分のできるようなところだけを歌でのせていくようにするともつ。
 発声から歌をつくってしまうと、セッションという考えがなくなります。それはそれで閉じていても、トレーニングにはいい。

○ミニマムとマックス

 でも考えてみるとプロの人は、マックスでマックスを出しているのではなくて、ミニマム、最小限で最大限どうするかでしょう。
 そうでない歌い手は、声があってもステージが持たないです。というのは限界が見えてしまう。
 お客さんのほうが、この人はここまでのことができる、でもここまでなんだというのが見えてしまったとたんに夢というのは消えてしまうのです。
 こいつはいろいろなことができるけれど、あまり出していないなというところまでにしておいて、ある瞬間にすごいことを出して、また見たいなと思わせます。
 見れなかったら、見に行こうとか次には何をやってくれるのかとか、リピートを考えたときにはそういうところが必要です。そういうことからステージを見て、こういうものはうまくセッションしていますね。

○音楽で飛ばす

 このくらいの距離のとり方、役者なんかと同じです。入り込みすぎず、抜けきらず、ある意味で突き放した部分、これは感情移入だけでやってしまうとだめなのです。中にはいってしまったら、本当に胸が痛くなってしまう。そこで音楽で客にとばすというところからの表現ですね。これ以上には近づかないことですね。

 すごい悲しそうで痛そうです。
 この前韓国の「オールド・ボーイ」、残虐な映画を見ました。許容範囲をちょっとすぎましたね。普通の映画はあの手前で止めてしまう。
 悲しいのでも涙が出てきて止まらなくなって、カタルシスになってしまうところまで映画の途中でやってしまうと終わりですね。もう泣かせないでくれというところでスッと止めて先にいって、もう一回くらい泣かせる。これが表現者の考えなければいけないところであって、最後までそのままに終わらせてしまったらいけない。本当にチラリチラリとみせていくという感じです。

 だから歌なんかもクラシックはそれを突き詰めていっているのでしょうが、それでも作品のなかでは昇華させていかなければいけない。そこで全部消耗してしまう。客が理解できるかたちにしてしまうと、難しいですね。そのために何をしなければいけないかということは考えてみてもいいと思います。

○ニュアンスを移す

 “風”、「22才の別れ」と並ぶ「ささやかな人生」、きれいな曲です。
 歌っているだけでしょう。こういうものをもっていって、フレーズ集として、どこか自分が動かせるところを感じてみて動かしてごらんというもの、この歌がどういうというのではありません。
 その条件というのは、日本人として、卒業式でも何でもいいのです。ひとつのシーズンで感じるような感情のなかで出てきたもの。「なごり雪」でもよかったのですが、そういう歌のなかでニュアンスをとり、今の歌に生かせるようにもっていけばいい。だから歌っているだけではないところで捉えなければいけないという、曲全部になってしまうと難しいと思います。

○私的と公的

 この辺は個人的な感情で選んでいる曲です。
 これは「木戸をあけて」。庭の裏の戸を開けて、家出をする少年がその母親に捧げる歌です。フレーズ集にしたい人が一番多かったため、ちょっとまずいなと思った覚えがあります。
 ああいうときに愛というテーマで語らせたり、モノローグでもってきたりすると、ほとんど失恋のことを持ってくるのですね。
 要は自分の私的世界のことと表現する世界の距離のことをしらないと、自分が体験したことだからそれを言ったら、皆理解してくれるだろうというふうになってしまう。

 内輪だったら理解するのですが、とんでもない話で、個人的な事情をステージから聞きたくもないわけです。あるレベル以上でいうと。
 愛で失恋しか考えられないのは、あまりよくないですね。
 「すごい男の唄」というのが流行ったときに、「すごい男の唄」のフレーズでどんな男がすごいか書いてみようと言ったら、ゴキブリを退治したすごい男になった。すごい男がそういうことでいいなら、歌にならないですね。パロッているぶんにはいいかもしれないですが。

○日録、福言

 あくまで表現者という立場になったとき、私もくだらないものをたくさん書いていますが、それを総合して合わせていったときに、そこにひとつの基準ってあるんですね。かなりいい加減なことやぐちゃぐちゃなことを書いていて、会報に載せても恥ずかしいのですが、これでたぶん最低限だよと示しているつもり。
 公にするということを、どっかに頭に入れています。ブログでも日記でも。それを外れて書いてしまったときに、内輪以外ではきびしい。
 たしかに日本は、内輪ではないと厳しい部分もあるのですが、でもその距離感をみていかなければいけないというのには、参考になるのではないかという気がします。

○リピート性

 思い、歌詞、曲、それからその人の声質、歌ときちんと合っているという基準から見れば、ある意味オリジナリティで入るのではないかという歌ですね。
 次のさだまさしさんやスティービー・ワンダーになると、何やってもそうだなというふうになります。
 そういう名前に捉われずの部分でぎりぎり成り立っているのではないでしょうか。あるいはこういう感覚を入れておかなければいけないのではないかというようなことでもあります。
 声で歌うのもいいのですが、その声をどう使って、聞く人間に、もう一度聞きたいと思わせるのが最低限ですね。
 何度でも聞きたいとは思われなくても、もう一度は聞いてみたい。聞くためならもう一度足を運んでもいいなというところから。歌1曲でその力がなければ成り立ちません。それは歌手であろうが何であろうが。

○深い声と音楽的な動き

 結構動かせそうですが、いざそうなると大変ですね。
 こういうところはセンスというか捉え方ですね。声から捉えると動かしにくいところです。音楽的なところで目覚めてしまうと声が扱えないから、声が宿らないまま動かし方を覚えてしまって、深くならないままになってしまう。声からやっていくと、なかなか声の感覚から離れられないから、音楽が動きにくくなってしまう。
 日本で両方持っているヴォーカルがいかに少ないのかということです。

 天地共にあるところでの動きですね☆。全体から考えられているのと、単にたたきこんでいくだけではなく、微妙に変化させているわけです。そこにマイクがついてくると、その変化が非常にきいてくるわけで、何もやっていないようでいてけっこうやっているのですね。もちろん本人がやっているつもりでやっているわけではないのでしょうけれど。

○生かすと殺す

 うまく3コーラスが一貫に一本という感じですね。これで確かめにいったらふつうは終わらないのですが、次の歌詞を入れて最後で一本つながっていますね。本当でいうとまだ終わっていないわけで、ここまでで切っている。うまくつけているのです。
 あまり歌詞に使わないことばや新しいことばが多いから、こう動かしにくいのと、逆にいうと彼女の場合、殺している部分がずいぶんありますね。特に頭の音は、ほとんど殺しています。「確かめ」の「たしか」もそうです。そこで強くしてしまうことによってグルーブが崩れてしまうから、そういう部分に関してどちらを優先しているかということです。

○声とノリ

 こういう歌い手さんは日本にもずいぶんいて、ただノリのほうをきちんと組み立てていく。これもひとつの力です。声があることがノリを邪魔してはいけない☆。声があることはノリの原動力として、ノリがないところにノリをつくったりするのはいいのですが、そこで頭打ちにして、日本人のクラシック歌手がポップスを歌ったような、何とも情けない歌になってしまう。
 8つくらいに聞こえていても、この8つを聞いたから、次の8つというような、ひとつ聞いてみて次のところにつながって、またひとつ聞いてという、そういうところまではまだ入っていないですね。

 リズムボックスでもたたいて、この歌詞に合わせていくのはけっこう難しいというのはあると思います。ただ、逆に今の10代の子、このころ宇多田ヒカルさんあたりが出てきたのだと思いますが、そのレベルでいえばむしろそのほうがやりやすいんだろうなというところでしょう。
 私が許せる日本語というのは、この範囲までというところです。それ以上、いってしまうと、何をやってもいいということになってしまいます。トレーニングには使いにくい。当人がどうやるもいいのですが。

○変える

 「やさしく愛して」
 これができるかできないかということ。それを変えてはほしいわけです。変えたものが、もっと大切なことは自分に合っているかどうかということですね。要は自分がやれば引き立つ、他の人がやったら駄目になるというのが一番のオリジナルです☆。
 このやり方は誰もとれないなという、それがいい悪いではなく、上手下手ではないところに勝負を持ち込んだほうがいいよということなのです。ポップスに関しては。

 こうやるやらないは別にして、こういう発想の中から選んでこなければいけない。彼は彼の感情を知り、彼の体を知り、声の効果を知っているから、ああ動かした。だからああやっていいわけではないけれど。
 そう多くのパターンがないからいろいろな人のフェイクを見て、そうやってもいいんだというところから入っていく。逆にいうとそうやらなければいけない、何かつくらないと、これで自分の作品と言えないんだというようなものを出します。

 これなんかもうまくできているものです。この歌い手のセンスというより感覚と力のある最高の範囲内のところまで出している。もっと余裕があれば、もっといろいろなものが出るかもしれませんが、それで充分だと思うのです。この歌い手以上に、声やいろいろなものがあっても、それがこういう部分があっても、聞き手のほうはハッとしないし驚かないし、また入っていかないものです。それなりにことばの解釈もしているところを見習ってやってみましょう。

○くんでいく

 こういうものは自分で勉強しないとどうしようもないですね。本当に自分で何回もいろいろなものを、それとともに判別していって、変えていいフレーズが見つかったりする。それが通用するなと思ったら、ひとつの引き出し、財産になっていくし、そうではないなと思ったら、それを見つけるまでがんばるしかない。
 本当はそれを見つけるまで歌ってはいないのです。
 歌えている歌えてないというのは、楽器のレベルでやることでしょう。皆さんのレベルになったら、元歌を歌えていようが歌えていまいが、自分が変えた部分で成り立つような作品まで降りていって、もう一度つくり変えていかなければいけない。

 気にくわない歌詞があれば変えてかまわないし、メロディを変えてもいいし、ただ原曲は原曲のすぐれたところがありますから、それを全部変えてしまうのなら、最初から自分で作詞作曲をやってみる。3つとも優れるというのはいかに難しいかという部分があります。
 いい曲を選び、いい歌を選び、その曲や歌詞の選び方にどういう基準を持つかといったら、ヒットしたからいい曲だというのも一理ある。そこには必ず何かが入っているのですが、その何かが入っている部分のところをきちんとみて、そこで自分がくんでつくる。

○よみがえらせる力

 一番いいのは、くだらない曲じゃないけれど、ヒットしなかったり駄目だったりしているようなもののなかから、自分が見出していって歌い上げてヒットさせるというような、これが歌い手の才能の部分だと思うのです。
 よく歌い手が変わっていたらどうなっていただろうというのが、ありますね。昔のものでリバイバルヒットさせたもの。当時はよくなかったが、誰かが歌ったらヒットしたというようなものが、よい。

 昔、著作権がなかった時代というのは、日本の歌謡曲でも、3人が向こうから輸入してきた歌を三者三様に詞をつけて、歌って、誰のが一番ヒットしたというようなことで争って競作した。切磋琢磨ということになります。自分の歌を自分しか歌わなくなってきてから、そういうことがなくなって、何でもよくなってきた。
 けっこうこれも難しい。この手に慣れていないと。カラオケで最近の歌を歌いこなしている器用な人のほうが、うまく歌えているのではないかといえます。そういう人たちとこういう歌い手の違いはあると思います。

○デッサンする

 漢口の物語ですね。「フレディ」とかなんかで青い目なんだとか、さだまさしさんは中国に縁の深い人で、これを日本人にすると、物語にならないという部分があるのでしょう。青い目が黒い目ではいけないのかというのでなく、その時代をそういうことがあるんだろうなと。
 次のためにもうひとつ、「木戸を開けて」の小椋桂さんと、「ささやかなこの人生」の伊勢正三さん、何を目的にしているかだけを見抜いてくれればいいと思います。

 その一言があるかないかということ、それに対して皆さんがどう歌うのかというのが、こちらから見るとオリジナルが見やすい、あるいはその可能性が見えるところだと思います。ただそれは自分自身でデッサン練習をしておかないと、パッとここできたからといって、ただ、この曲をやらなければいけないということではないのです。

○キャラとタッチ

 日ごろの課題曲や使っている曲のなか、自分の好きな曲のなかからつくっていけばいい、そうすると、いくつか決まってくると思います。最初は量だと思います。
 漫画家も写しているうちは楽なのですが、自分でやろうとするとキャラは定まらないしどう描いていいのかわからない。そうやって描いていくなかで、こういうキャラとかタッチとかつくっていく。一生それから抜け出さないで、同じタッチのキャラばかりの人もいます。
 でもそれはそれで、基本デッサンは決まりますね。デビューのときには、ほぼ決まりますね。その上でどういう色が出てくるか。20年経たなければ出てこないような、そんなものではないはずなのです。いろいろとやってみてください。

○いい声を聞かせるのではない

 どういうふうに音楽を見ていくかということです。音響で何でも技術でできるようになるとステージからひっぱってくるしかないというのが、私の考え方です。発声から歌をくみ上げていっても遅い。
 いろいろなクラシック歌手がポップスを歌っているものから聴かせます。いかに彼らが歌うと声しかないのか。クラシックでも、ドラマで見せていこうという人もいますが、ほとんどの人がいい声を聞かせるのが自分の仕事だと思ってしまう。となると、ポップスを歌うこと自体がおかしいわけです。ポップスは、いい声を聞かせるためにつくられた曲ではないから、無理があるわけです。

 3倍くらい伸ばすわけにもいかないから、トンチンカンなことをしているということです。長く音楽をやっていても、ここはわかりにくいでしょう。
 今日やっていることは、この二人のように、別に声や発声がいいわけではなく、どちらかというと、声も声量もそんなにないけれど、音楽の世界のなかで、どう自分の声を使えばいいのかを知り尽くしているものを。それに基づいて曲を変えていったり動かしていくことによって、トータルとして高いレベルで見せられる。

 音響なんかが発展してくると、当然そうなってくると思うのです。昔の役者は声が飛ばないと、役者になれなかった。歌い手も同じなわけです。
 ところが今はそういう条件ではないのではないのです。そういう意味でいうと、ヴォイストレーニングも声量声域というわけにはいかない。
 生声のよさで1万人にひとりくらいやっていける人はいるし、千人にひとりくらい、フレージング、発声のよさでやっていける人はいる。もし100人か10人にひとりあたりでやっていこうとすると、音楽の組み立てですね。全体としてどう見せていくかが大切です。

○つなぎ

 ただプロの歌手ほど、日本ではあまりそういうところに気をつかっていないです。その前にどういうふうに置いたから、次はどのタイミングで置いたから、どの声量でどういうトーンで入るかなんて考えている人にほとんど会ったことがない。
 逆に声量がない人やアイドル出身の人は、声量も音域もないから、そういう部分でのセンスをつけざるをえない。ジャズのITさんのようなセンス。
 私は今はくみする気はないのですが、自分の体も衰えて、年をとらないとわからない部分もありますが。2000年、ちょうど、このくらいですね。いろいろな音色のほうを見ていこうと、いろいろな人を使いはじめた。

○ことばとリズム

 あとはことばの情感ですね。情緒というところから出てくるところに、ことばを伝えるのではなくて、ことばのバックにもっているイメージのところを伝えるときに、音色と音楽の組み合わせの中からいいものを出しているところに広げました。
 このころ、新しくなり、そういうものに対して声でやっていたので、対応できなかった。それはまずい、今の時代はそうではないのだから、ということで入れたのがこういう曲ですね。

 リズムに対してのフェイク感に対してのバランスがいいということです。歌のうまい人ほど悲惨になるだろうなと思ったら、やっぱりそうなった。カラオケのうまいOLの方が対応できてしまう。ここまでやってしまうとやりすぎになってしまう。
 ああいうかたちになると、他の人がやると真似になってしまう。このくらいのレベルのところでは、フェイクとして許される範囲、トレーニングとして使えるのではないかということです。

○流れ

 私が選ぶときの基準は、1回聞いて、もう一度聞きたいなと思うもの。何度も聞きたいと思うものはもっとよいのですが、もう一度聞きたいというのは、声や曲で、声の使い方、バランスの感覚、フェイク、アイディア、そういったものがその人なりにあっているという部分のオリジナルですね。
 だから皆がこのようにしなくてもかまわないのです。ただ単に歌っているだけではない。このレベルのなかで歌が動いています。そういうことを組み立てている。
 ことばといってもどちらかというとグルーブ感で組み立てたうえで、もう一度ことばを置かないとうまくいかないというところがあります。歌い終わった後で、何かが残ることを、全体から調整してうまく歌ってください。

 せっかく歌えていても、その流れを受けてちょうど置くところにおいて、どこに置いても、それ以上に大きくしてその流れを崩してしまうと、次が今度は入り損なってしまいます。ひとつの掛け合いで、自分で主体的に動かさなければいけない。
 でもその動きのベースの部分は音楽と一致していなければいけません。だからといって音楽に流されてやったり間があいているかといってあけてみたり、ここの長さだからといって歌っていると、そのとおりに出てしまうから、ある意味、計算して動かしています。皆よりずっと動かしています。
 皆より声量がなくても動かしている。今流行りのフェイクも入れて、必要のないところもあるのですが、肝心なところではことばでもっていっているし、離したり止めたり、切ったり、そういうなかでこの音楽とのギリギリのバランスでいいところをとります。

○動きと構成、バランス

 一番必要なのは、この歌い手のオリジナルな部分が出てくるために、どうオリジナリティに加工するかということです。
 この歌い方があるということで、これで誰かが歌ってもだめなのです。動かしたらOKということではなく、動かしたものが成り立ったか成り立っていないか、もっというなら、他の人がやれないように自分はやれているのか。それは、誰かがやったら真似になってしまうよという、個性が強ければ強いほどいいわけです。

 でも個性だけだとひとりよがりになってしまうので、今度は作品として成り立っているかどうか、音楽の構成でみます。
 そうなったときのぎりぎりの掛け合いのようなものです。感情移入も、入れすぎてはだめなのです。作品として受け取るのは客なのです。ステージ側からひっぱられるところでやめておかなければいけない。
 映画でも残酷なものでもホラーでも、そこで本当に、子供ならともかく大人が不快になりすぎては、よい作品でない。つまりアーティストではバランス感覚をもっていかに極端なことをやるかなのです。

 映画のほうはどうなっていくかというような、編集しているセンスでもあり、歌なんかもそれに近いわけですね。
 そこまで見たくない、普通だったら10秒くらいで切れるところを延々とやる、そういう趣味のある人は楽しいかもしれないです。でもアメリカではもうつくれないぞというのが、パンチなのでしょう。
 けれど、それをどのくらいに置くかというのが、その時代によって違うし、受け取る人によっても違う。アメリカの映画をイスラム、中国やインドに持っていったら、大変なことになるわけです。
 ただ、そうならざるをえなくなっている。日本なんか柔軟なほうだと思います。全部ごちゃまぜにして訳わからなくしております。

○J-POPの進歩と不毛

 歌なんかでも、どこまで握ってどこまで離して与えるかということを、きちんと捉えていなければいけないということでは、かえって歌唱力がなかったり歌が下手だったり、声がよくない人のほうが、その分のセンスが磨かれていきますね。
 声のいい人より、アイドルの方が、声量も声域も声もよくないため、いろいろな技術を覚えてしまう。それを音響で加工されたときに、最初はごまかすしかないからそうなるのですが、わかってくるとうまくやっていける。J-POPは、そういうところで進歩していったと思います。

 生で歌うことを考えなくてもよい現場では、掛け合いなのです。楽器とだけではなく、音響技術との掛け合いです。自分のオリジナルを見つけることや、体からのところは、こうやって裸で声だけでやらないといけません。最初からつけてしまうと、カラオケでエコーで勉強するみたいなものになってしまう。そこは自分がいろいろなものに助けられてやってしまう分、勉強できなくなってしまいます。それをやれば誰だってできてしまう。歌い手の歌唱力よりもカラオケの歌唱力のほうがついてしまっているわけでしょう。そうすると歌い手の地位がどんどんなくなって、実際そうなってしまっているわけです。

○ことばの表現感覚から離脱しない

 さだまさしさんのこの歌の場合、「フレディ」だったり「青い目」だったり、こういうものを日本人の名前にして「ヘンゼルウッドのおじいさん」なんか出てきます。これ全部、日本人名にしたらどうなんだろうということを見たら、成り立たないのかなというような部分もあります。
 あたまのところ、けっこう大切なところです。これが一番最後に出てきて終わりですね。もう一回組み立て、最後に「フレディあなたと…」といったところが最後に来ます。

 ランデブーとは今はいわなくなりました。ロケットが2つに分かれたあと、逆にくっつくことをランデブーといった。歌でもあなたとランデブーというのが流行った。自分のことばでしゃべっている感覚から、なるだけ離脱しないように、歌らしく聞こえないようにしましょう。
 歌っていくという、そういう意味でいうと、ことばでつないでいくわけで、ことばの力、それでもメリハリをいろいろつけていますね。やっぱりこれだけ大きな曲になると、なかなかもちません。次、こういう「ヘイゼルウッド」ですね。

○一流の失敗に学べ

 一流の歌い手から、選曲ミスだったり歌唱しそんじたものを聞くと、その人の限界から学べます☆。あまりにも完璧に歌われているものはわかりません。天才的な人が調子のいいところでやっていますから。そうでないものの方がよくわかると思っています。
 それほど声量なんかで勝負していない、ことばがていねいだったり声が高かったりするけれど、そういう人たちがどう入れているのか。たとえば皆との解釈やイメージの違いでも比べてみましょう。
 「青い目」で、彼の場合はニュアンスを言っているわけです。それを強く出しているのではない。これでもそこで強くおいてしまうと、その前の盛り上がりがそこで起こしたいろいろなものがお客さんに落ちてこなくなってしまうのです。もう歌い手が引き上げてしまうことになってしまうのです。

 動きをつけていいところは動きがなくなってきたり、退屈になってきたり、何らか動かさなければいけないところを、最低限つければいいだけ、本当は大きくつけてずっといくのが一番いい。そこの掛け合いをきちんとしておかないと、歌がこま切れになってしまう。それを脱するにも、いろいろなパターンがあります。
 ひとつの歌唱法のパターンであり、限界でもあるのですが、彼の場合、これだけ大きな歌はそれほどないですから、この歌なんかは結構大変です。

○反戦と今

 反戦歌でありまして、この時代はどうだったかわかりませんが、思い出の曲というようなスタンスでつくっていたと思うのです。歌い手のスタンスとしては、そういうふうなものが今においてどういう意味を持つのでしょうか。
 中国が租界であって、植民地、いつの時代も同じですね。人間のやっていることは全部繰り返し。そういうものと結びついて、別にMCでいう必要もないし、この歌のなかに込める必要もないのですが、どこかでその意識がないと、今を生きている人間なんかにはもうひとつ伝わらなくなってきます。
 観光名所の案内版、古いとき、これはこうだったんですよ、というようなことになってしまう。そうすると反戦歌をつくった意味が本当はなくなってしまう。

 思い出というかたちで日本の場合は片づけていきますが、最近見ていると、きな臭いったらありゃしませんね。大変なことになりますよ。
 ロシアは、資源の多いところです。世界のなかでも一番開発していて、中国は世界中の工場、この2つが結びついたら、アメリカより巨大になる。アジアにはインドなんかもありますこれらの地域を結んだときに、境はどこになるかといったら日本、台湾、韓国、いや日本ですね。今、フィリピンやアメリカが引き上げていて、日本人はアメリカも軍縮しはじめたといいますが、そうではない。
 日本にもってこようとしているわけでしょう。横須賀は一番いい基地でしょう。整備できる。フィリピンでは、修理できない。そういう意味で着々といろいろなことが進んできている。オリンピックの北京まで持てばいいのですが。

 本当にそんな中において、こういうものに対して思いを込めて歌っていったりする人が、ミュージシャンにもお笑いの中にもない。どこにそういう人たちがいるのか。
 もっと大変なことがすごいいろいろあるのに、日本にいると見えなくて、他の国ではそういうことを考えている人が普通にいるわけです。
 日本の場合は、トップの人さえ考えてくれないから、どうするのだろう、たぶん外国に住んでいるような人たちが日本のことを心配しているのではないかという気がしますけれどね。

○歌で裏切らない

 どっちにしろ、その時代時代でポップスが出てくる以上、皆が歌うときには歌い替えていくべきでしょう。それが本当に思い出でもいいと思うし、亡くなっていくおじいさんに対してのことでもいいのです。
 作曲作詞家が込めた、魂のようなものがあるから、それを自分のなかで増幅することです☆単にいい曲だなということになってしまうだけでは、お客さんの心が動かないのです。
 そういうことを考えながら、今やって欲しいのは、全体を考えること、かっこいいとか悪いとかでやっているのではなく、わかりやすいですね。

 こういうことをいわれ、こういう中に入っているフレーズの中に「おじいさん」となると、それをどう動かすのかというのが。「ダディ」「グランドファーザー」といったら全然わからないけれど、おじいさんというのなら、それぞれのイメージがあって、ことばがオリジナルになってくるわけですからね。それを歌で裏切らないことをすればいいわけですね。

○モノローグの事始め

 モノローグをはじめたのも、合宿のなかで通用したのがことばだけだったから、新入懇ではことばだけにしようとしたのです。それまでの課題は「赤とんぼ」でした。あんな難しいものをよくやっていたなと思います。
 それからするとことばというのは伝わるわけだし、ことばを表現した以上になるなら歌う意味がある☆というのは、私の基本的な考えです。
 そこを見ないで歌い上げてしまうと、それはやっぱり今の歌がそうであるようにどんどん説得力がなくなっていきます。単にリズムをつけてしまえばいいという話になると、かっこいいやというぶんにはよくても、皆、そんなものにお金は払わない。それ以上のものを与えてくれなければ。もう一度聴きたくなるような歌は、どういうものがあるのか、というようなことでしょう。

○世界に出れない日本の歌い手

 それからこういういい曲は日本にもたくさんあるのですが、そこで歌い手が世界レベルでないと、世界にはいかない。
 アニメや映画、スポーツも含めて、日本人がたくさん出ていっている中で、一番肝心の歌が、まだです。今のほうが世界にいきやすいのに、いっているのは能や歌舞伎でしょう。歌舞伎はすごく革新的なことをやっていますから。
 歌のほうが勢いがなくなってきている。メディアが変わってくるのでどうなるのかわからないのですが、英語で伝えなければ伝わらないというような時代ではないのです。
 こういうものを動かしてみて、オリジナルと一致したものを自分のポケットにしまっていくこと。ことばってそうでしょう。
 「おじいさん」というのをつかんだら、そこでつかんだものがどこかで今度は「おばあさん」が出てきたって、できる。

○引き出し

 同じようにメロディやフレーズや声質、たとえばさっきの「青い目」なんか、私なんかすぐに思い出しますが、そのニュアンスが同じところで使えそうだなとか、ここで「目」の使い方を覚えた、そういうトーンを歌のどこかに聞くんだったら入れられるなとか。
 材料をたくさん増やして、自分の引き出しにしまっていくことが、これはプロの歌い手でも皆やっていることです。日本人はどちらかというと、ことばから持ってきています。皆さんは、リズム、リズムフェイク、フレージングのメロディフェイク、その感性でいいと思うのです。
 あれだって動かしていますね。ああやって動かした結果、よくなる。
 誰も今は1番、2番、3番と同じようには聞きたくない。でも本当は、同じように歌ってみて違うように伝えられたらいいのですが、それができないレベルとか、あるいはそれをできないから変えてみるのもいいのですね。

 要は変えたことに意味があるのでなくて、変えることによってもっとベースにあるものを見ていく。応用しないと基本がわからないというような。
 だからいろいろなことをやっていい。課題をこなすのではない。ここで与えられたものを別に覚えなくてもいい。メロディや歌詞をもっていかなくてもいいから、自分でやって、これ脈ありではないかというのをやって2,3個くらい、あるいは10個くらいためていって、そのうちレベルが上がってきたら、やった瞬間にこんなのはだめだというのがわかると思います。だから、取り組めるのです。

○合宿の成立と作品の成立

 合宿が成り立たなくなってきたのは、上のクラスのレベルの基準、私がトレーナーにしていたレベルが、瞬間的に、これはだめではないかと思うところに、1時間も2時間もがんばるように生徒がなってきたところからですね。

 要はどんなに頭でアイディアを出しても工夫してみても、それで通用するわけではない。どこまでに仕上げなければいけないということもあれば、できる範囲内というのは、決まってきています。
 それぞれの範囲内ということで、それが見れなくなってしまうと、とても低いところから組み立てなければいけなくなって、すると創造的なものってできなくなってしまうのです。

 自分たちには何が武器があり、何がないかということを知っている人たちが集まらないと、創造作業というのはできない。よく学生や主婦の会議で、意見の出し合いばかりをして、どんどんぶれていったり、どうでもいい話になってしまうのと同じです。
 ああいうコーディネーター役を、私がやる自信もなくなってきた。そういうセンスがないとメンバーではなかなか難しい。
 共同でやっていくときも、ひとりでやっていくときもまったく同じです。ひとりでやっても共同でやっている範囲で、こう見ていくわけです。

○Q&A100の本について

 音楽之友社でQ&Aの本も、掛け合いです。
 自分のところで出したいところと世の中のわかるレベルのところのしのぎ合いみたいなものですね。わからないものを出してしまったら、皆に迷惑かけます。だからといってわかりすぎるものはいくらでも出ている。私も書いていますから、必要ない。すると、そこでの創造力、工夫が必要になっていきますね。

○成り立つのと崩れるの

 歌なんかでも同じだと思います。ことばの世界では日本のほうが厳しいですね。歌も本当はもっときびしいですね。ただ、そこで勝負している人があまりいないということです。
 皆さんでいうと、1行目、成り立っていると、その1行目が成り立っているところで最後までいければ、成り立つのですね。
 それがどこで崩れたかというのを自分で判断できること。崩れないためにどうするか、ひとつは力をつけることと、もうひとつは音響やメロディやことばを変えて、やりようがあるはずなのです。

 歌一曲成り立たせる方法は、皆さん充分に持っているわけです。ただその組み立てが悪いのです。それが難しい☆。
 皆でも、映画も写真も撮れる。そのなかのどれを選ぶか、どう並べればいいのかということのほうが大切です。

 もともと映画監督というのは、編集マンみたいなもので、どこで切るか、自分の感情とは別に計算します。観客はここで泣くだろう、でも泣かせすぎだ、まだ涙が足りないなというような、そのぎりぎりの掛け合いのなかで作っていく。それが見れるのは監督のセンスです。
 私は、監督よりカメラマンのほうが偉いと昔は思っていました。カメラマンは撮るが監督は何もしていないのではないか。オーケストラでも、プレーヤーのほうが偉い。指揮者なんか、ただテンポをとっているだけではないか、なぜカラヤンの名前が一番出てしまうんだ。だいぶ前にそれはわかりました。それはカラヤンの作品なんだ。

 要は道具としてそれぞれの楽器プレイヤー、そんなこというと失礼ですが、映画監督でも演劇の演出家でも、その名前で評価されるのかというと、演出家の世界を役者が演じている。監督もそうです。
 野球はどうでしょう。堀内監督より、清原やイチロー、松井のほうが偉いという感じがしますが、弱いチームで、王さんや星野さんがいたから優勝したというのなら、監督が偉いとか、監督を変えたほうが優勝するのなら、選手が偉くて監督はいらないというようになる。一概に言えませんが。

○離す、入れ替える神経

 自分の作品に関しては、日本のニューミュージック的なものを使うのはそういう意味です。ことばからの実感のなかで、メロディもいい、それをよりオリジナルの歌い手よりもうまく生かす。
 オリジナルの歌い手は3つともやっているから大変、細かくみると、いろいろなものを持っています。それはステージの中からひっぱられてきたものです。同じように歌っていたら飽きてくるだろうな、これじゃだめだろうなというような、切磋琢磨されていく。

 皆さんもそこのイマジネーションは必要だと思います。発声からそれるかもしれないけれど、実際の結果としてどこで離す、どこで入れ替える、どこでつかむというのは、ステージの感覚のほうからとるとよいでしょう。
 それをお笑いはステージの経験ができるのですが、歌い手のステージは反応がない。
 耳で聞いている人ばかりではないから、お客さんを前にしても勉強ができにくいので、お互いに聞きあったり、自分の神経を高いレベルにするような場が必要です。自分たちの練習の場もそういうふうにしてください。【☆05.4.10 Q&A】


■レッスン(改訂版 '97)

○体力と感性

 誰にも同じものを与えて覚えさせていくということは、知識の正誤をチェックすることで判断できる世界でない限りできません。ヴォイストレーニングのやり方も人によっていろいろと違います。最初のうちは伸びなくてよいと思います。伸びる器をつけていくことが大切です。何もしないと体力はどんどん落ちていきますので、それだけ可能性がなくなります。可能性がなくなる方向にしてはいけません。まずは、体力づくりから始めましょう。

 もう一つは感性です。こればかりは、できるだけよいものに触れて感動しまくるような経験を積むしかありません。最初はよいものばかりを見て、その次につまらないけれども売れているものも含めて全部、見ていくことです。そのうち、つまらないものが売れていることも、そこに理由があるということがわかります。

○ひびきとあてることばかりではない

 体があって、横を向いていると思ってください。私は、クラシックのように「ひびき」に「あてる」という考えをあまりとっていません。何十年もトレーニングをして体ができた人間が、そこでの感覚でやっていることを、その感覚そのものからはとれないという考え方です。
 これは、たとえばひびきにあててごらんと言ったときに、それを感じて練習することも確かに一つの方法ですが、それと同じ体がない限り、ひびきにあてようとするのは、のどをあててしまったり、全然足らない息であてようとするために、無理が生じます。それをやるのであれば、時間をかけなければいけません。声楽のトップレベルの人たちがやっていることを、ポピュラーでの初心者が同じことで追うことは無理です。そうすると、まずは自分のできる範囲内でやっていかなければいけません。

○声楽より役者のトレーニングを

 私は、声楽を10年、20年やる人よりも、役者さんの方が2年、3年で声が強くなっているという部分から入ることをお勧めします。役者さんの場合は、かなりの確率で声が身についていくのです。
 早くて安全ということがいえます。歌から入らず、声から入るのです。歌をやっていても声は変わりませんが、役者をやっていたら3年、5年で声が変わってくるというのだったら、そこまで早めにいってしまって、それだけ強い声をもって、そこから歌や音楽を考えた方が、ポピュラーの場合、早いと思うからです。

○大曲から始めよう

 課題曲は、ギャップを知ってもらうために体を使わないと歌えない、それだけ息を吐かないと歌えないということがいやでも思い知らされるような曲がふさわしいでしょう。歌えなくてよいのです。上達するほど、1オクターブくらいで曲自体が単純になります。
 ということは、逆にその人がオリジナリティを出さなければ歌にならないという意味で難しいのです。2オクターブある歌の方が、最初から最後まで間違えずに歌えば一応、盛り上がって、1曲が終わるということでは、簡単かもしれません。
 だいたい2オクターブもあるとがんばりますから、何かが伝わります。ところが、1オクターブくらいの名曲というのは、気を抜いたらそのままいってしまえるのです。だから、最初から一瞬も気を抜かないで、伝え続けないといけませんので、大変です。

 ただ、日本人にとってみたら、声域があるということ自体が大変なので、まず音域があるということに対して、大変でなくしていくのです。好きなロックや、日本のポップスばかりをまねていると結局、振り回されるのです。つくられすぎている部分が多いからです。それに対して、20年も30年もたっていて、これはプロの歌だと思われるものを使った方が基準がはっきりとします。作品としてのよしあしよりも、学ぶ見本としての使いやすさです。

○内部感覚と奥行き

 そういったなかで考えて欲しいことは、楽器と同じように音を捉えていくことです。たとえばピアノでも見るだけ触るだけではわかりません。イマジネーションを走らせるのであれば、一流の人たちが弾いているところの音とその流れの感覚、それの内部の感覚を捉えることです。最初は、声を出すことよりも、その感覚を入れるということです。音はできるだけ大音量にして聴きましょう。

 歌というものを体で捉えて、そこで何かをやろうとしなくては、伸びないからです。歌には、奥行きや深さがあるのです。
 やっている自分をコントロールしている自分が後ろにいます。自分のなかで出ている声が前にひびいたり、きちっとあたったりしていることは結果であり、そこに意識があるのではなく、それを完全に統御している人間が後ろにいるわけです。

 そういう感覚というものは、スポーツにも例えられると思います。バスケットボールも、優秀な選手というのは、ドリブルをしていても足もとに目がいっているわけではありませんし、意識もいっていないはずです。
 捉えているのは全身感覚です。優れたプレーというものは、すべて全身感覚です。自分が体の部分を意識しなくてはできないということは、プレーができていないということなのです。だからこそ、部分のことは部分のことで徹底してトレーニングでやっていかないといけないのです。

○リラックスと脱力

 息を吐いていくことも、筋肉を鍛えたりすることも、ヴォーカルにとって体をうまく使えるようにしていく要素です。バスケットでいうなら、シュートを何本も何本も打っていたら腕が強くなっていったり、すごく疲れても、力の抜き方というものを覚えます。素振りも同じで、そこから自分のフォームができてきます。
 ところが、声というのはそう簡単にはいかないのです。
 声帯は、筋肉といっても直接的に鍛えられる筋肉ではないのです。まわりから鍛えられてはいきますが、無駄に力を入れないようにやっていかないといけません。

 ですから、最初はリラックスをと教えられるのです。しかし、それをやるにも、5年、10年かかります。教えられたことによっても、多分、教えている声楽家以上にはなかなかならないのです。
 若い人でも声楽家に何年も付いている人もいますが、超せないのです。それは、練習量も違うし、意識も違うということもありますが、結局、それを見本で、そこを到達点にしているからです。一方的に教えられているだけだからです。どうせなら、パヴァロッティやドミンゴなど、一流どころにストレートに勉強していくことです。

 野球を覚えようと思って隣のおじさんが朝、野球をしているからといって、それを見て練習する人などいません。ところが、日本の場合は、往々にして歌の世界でそういうことが行なわれています。
 私は生徒にも、同じ生徒のライブに行くなといっています。結局、そんなところでつるんでしまっているから伸びないのです。
 その時間に本物を聞いてトレーニングしている人に、当然、抜かれていくわけです。
 ただ、それだけ本物を聞いている人がいないし、本物のところも聞けないから、日本では学べる人が、あまりいないのです。

○他人の声から学ぶ

 まず、一人で主体的に学ばなければなりません。他の人を利用するということは、そういう人の出したもので学べるものを取り入れていくのです。それは、同時に反面教師にもなります。それとともに、表現・自分人間を知っていくことです。
 あなた方が知ってきた人間というのは、まだまだ一面的なものだと思います。どれだけの声をもっていて、一人の人間がどれだけの声を出せているのかを知り、それを自分にも求めることです。すべてフィードバックして、自分の中にいったいどんな声があるのだろう、どういうものを伝えるためには、どれがどのように使えるのだろうと考えてください。
 体はパーツになっているわけではありません。簡単に区分けができるわけではありません。

○基準をもつ

 しかし学び方というものは、そうやってことばで区切って何らかの基準をはっきりさせていくことです。そうでないと、学んだような学んでいないようなことになってしまいます。本当のことを言うと、10年以上かかってでじんわりと浸透してきたものが、しぜんと出てくるものがよいのです。それは理想で、それだけでできるのであれば全員が歌い手になれるのです。
 それから、なれる、なれないというのがあるということは、外国でもあるのです。同じところでもそれをどうつかむか、どう出せるかというところに才能があり、センスの問題もあります。

 最近の日本の歌の場合は、何を歌っているのかよくわかりません。声も1ステージで荒れてしまうような歌い手ばかりです。
 ベースのことを20年前のプロといわれるところまでやれば、少なくともあなたの中には声は宿ってきます。
 出ていけるか、出ていけないかは日本の音楽業界がそういうものではありませんから、別になります。
 そこから、ようやく練習になるということです。音と出会うのに時間がかかるのです。

 ですから、自分の基準をもたなければいけません。それがなかなか、難しいのです。器用に練習ができたり、トレーニングができているつもりの人ほど、無法に走ってしまいます。あるいは、好きなヴォーカルのまねになってしまうのです。歌というものはそうではなく、あなたの世界を構築して伝えることです。その人の言いたいことや、生きざま、どういうものに感動して、自分はどういうふうに取り出したかという世界を表現するものです。
 表現を団体でできるということはないのです。表現できた人が団体になることはありますが、基本は個です。ですから全部、個として対していきます。個々の歌い手に対してもそうだと思います。

○大局からつかむ

 いろいろな学び方、教え方があり、それにどうやって気づいていって、どうやって身につけていくかが大切です。スポーツや芸術などの学び方を参考にしましょう。
 普通の芸事なら、なかなか入門できないのです。入っても、まだ入門していないのです。
 その間にいろいろなものが宿ってきます。その間にもいろいろなものを勉強します。
 常連で甲子園に出場しているようなところでは、ベンチにも最初は入れません。試合どころか、練習にさえ出してもらえません。半年、1年くらいはそうです。外側から見ます。でもそのときが一番、練習になっているのです。

 要は、客観視する力がつき、それだけのエネルギーがたまるということです。この世界は、こうなっているということがわかります。
 内に入っても外にいるから、批判性をもち、基準ができるのです。それがいきなりプレーに入ってしまったら、わからないのです。
 野球部員が9人しかいないからといって、1年生からレギュラーになり、毎週、試合に出れたとしても、すぐに負けるのです。

 何が一番違うかというと、何か起きたときです。伝統のあるところというのは、自信があることと共に、そういうところの下積みがあります。みえないところにノウハウがあるのです。何かが起きたときに対処できます。最低限で犠牲を少なくして、リカバーできます。それは、自分たちの中で、そのことを見てきたからです。

 たとえば、一つ失敗して、もうレギャラーを外されるというところであれば、一球の気のゆるみが何につながって、こうなると、先輩の痛みを自分の痛みにつなげて、いくつも経験してきているのです。(☆)
 ところが、そうでないところでは何となくいけるというところでこてんぱんに負けるまでわからないのです。そのときには遅いのです。

 スポーツの場合は、まだ勝敗の結果がはっきりしています。しかし、歌い手や、タレントの世界はみえないだけにシビアです。
 若く世の中に出るような人は、痛みなしには名は得られないということが率直な感想です。若く出て、こてんぱんにやられると伸びるのです。向こうのことばで言うと、No pain no gainです。

○No give no take

 それと同じでプロの世界は、No give no takeです。与えなければ得られない。あたりまえです。与えたら、次に得られるかもしれないということです。
 10回与えたら、1回くらい得られます。だから、10回与えていけばよいのです。私も10人に与えたら、一人くらい生き残るかもしれないと思っています。それを、10人が10人といっていると、少しは長くいても、結局、誰も残らなくなってしまいます。ここは長くいてくれるが音楽の世界に一人も残らないなら意味がないのです。
 そこがあなたの場合は、一番大きいでしょう。、今まで人間の中でもまれるというような体験や、比較して基準をつけて、自分でゲットしていくようなことは、かなり特殊な人たちではないと経てきていませんから、そこからスタートです。

 歌い手になることは、特殊なことです。ヴォーカリストというものは、才能です。だめな人が、どんなにやってもだめでしょう。ただ、そこまでやらないことには、問えない世界です。ですから、そこまでやっていくのです。そこまでやっていくと、いろいろな意味で豊かになる世界だと思います。
 歌い手は、現実に生きている。歌がうまくても、現実を見ない人がいます。それはそれで歌が好きだったらよいのですが、基本的には現実に生きて、歌を、あるいは声を、ことばを通して欲しいものです。
 シンガーソングライターっぽく歌っている人はいくらでもいるのですが、現実離れしている詞を歌っているのだったら、そのへんのおにいちゃんやおねえちゃんなどの若い人たちにうけそうな、詞を書いていた方が、うけるだけマシです。中途半端なものでは通用しません。

○最下音

 最初の部分は、だいたい胸のところです。胸のところからより深いところに入っていきます。最下音というものは自分が一番、低いところでとれるところです。
 女性の場合は、地声での発声を経験していないとわかりにくいかもしれません。誰でも出せるところですが、私が話しているところは、そのポジションに近いところです。そのままオリジナルの声を歌にしているところが、胸の中心でとっているところです。
 ここで1年、2年ねばれと言っています。役者さんで深い声をしているところが、1の延長上にあるようなポジションです。
 これで、上のところにひびきがしぜんにいきます。「ハイ」と上下のひびきを一本のたての線でつなげます。
 のどは、はずさないといけません。「ハイ」これがそのまま、「ハイ」と入るとして、「ハイ」「ハイ」と浮いてくるというわけです。

○のど声、つくり声をなくす

 中音域くらいになると、ギリギリの感覚に比較的、なってきます。高音域というものは、実際、ポピュラーの場合は使う人と使わない人が出てきます。基本としてかためることは、中音域のところまでで充分です。
 その上のとり方、ハイトーンというものは、いろいろなトーンの音色があって、その人をみてみないとわかりません。そこでなければテノールのようになってしまうでしょう。ここでも、いろいろなパターンがあります。

 日本のハイトーンの出し方は、決められています。やわらかくていかにも民謡から出てきた歌い手のようでなければ、今のJ-POPのようにのどにかけていて、つくった声で高いところにもていくために加工したものです。これは、音響の加工が入っているから、みれるようなものの、こういうところでアカペラでやったら全然、通用しません。
 つまり、海外に行っても、声そのものとしては認められにくいでしょう。発声の原理からそれているからです。
 それを使うために、のどを痛めて下の音の方もそれてきます。音感やリズムも定まりません。とても悪くなります。従って、演歌よりも甘くなっています。今の演歌もずいぶん甘いのです。

○基本の発声とは

 音感がよいとか、リズム感がよいというものは、聞いていて気持ちがよいものです。それは、単純にわかります。美空ひばりさんを聞いていて、リズムがよい、音程がよいなど、そんなことも思いません。ところが、カラオ大会などのチャンピオンなどとは全然、違う力があると思うのです。同じ声のなかで、この格の違いは何なのだと思うでしょう。それは全部、総合力、観えないところの違いなのです。
 一つひとつ分析してみたら、声は音波ですから、音をいかに正しくとっているかという分析はできるのです。でも、その音というものがピアノの音に対して、あてているというものではないのです。自分でつくっているのです。

 あてている声は、つくっている声と同じで、それが全部、一体となって入ってこないといけません。線でとるのは声が10分の1のトレーニングになるくらいに、残り、10分の9のことをやらなければいけないということです。ほとんどの人は、発声や音程をやると他のことをやらなくてよいと思っているのですが、徹底したレガートこそが基本です。それをやった上で、さらに10倍のことを、他の方法でトレーニングしなければいけません。リズムもです。

 そのうちCDを聞いてもすぐに、8フレーズくらいにとれるようにはなると思います。そうでないのなら、まだ何もできていないということです。楽譜が読めるだけでは何ともなりません。人と合わせていった場合、苦労します。読譜くらいはやっておくべきでしょう。楽器を一つくらい覚えておけば、役立つことは多いと思います。

○統一音声

 いきなり入ることは難しいでしょうから、「ギターよ」と、それだけことばで言ってみてください。
 少し変えてみて、思い切り言ってみてください。常にステージだと思ってください。そのことで材料を作品の片鱗として示し、他の人に与えなければいけません。自分で表現するという実感をそこで得ていかないといけません。「ギターよ あの人に 伝えておくれ」。ことばでも歌でも同じです。それをやったあとに、まわりの人が何も思わないのだったら、それは歌えても成り立っていないのです。声が出ていてもそれだけです。

 ただ、最初は自分のことを確認するために、声を出してみてください。「ハイ」だけで構いません。
 なるべく体全体で捉えてください。頭で考えて、いろいろ出そうとしているのですが、体が伴っていません。それを、だんだん一体化していくのです。これだけでもけっこうかかると思います。そのときにも、なるべく操作をしないことです。

 操作が具体的にどういうものかというと、「ハ」「イ」や「ハイッ」などです。今まで「ハイ」には、二つの音を出して、「ハ」と「イ」でした。勉強してきた人ほど、発音として明確に分けていると思います。そうではなく、そのことを耳で捉えて体に入れて、そのまま「ハイ」(HIの@)と言うのです。使っているのは、呼吸だけです。

 すべて、その先のことも含めてです。音程の練習やリズムの練習になると、どうしても音程だけとる、リズムだけとるときが出てきます。最終的には一体にならないとまとまって出ません。「ハイ」だけでもう一度、やってみてください。

○トレーニングの条件を絞り込む

 日本語の場合は、大きくすると高くなってしまいます。高くすると、高くしてさらに大きくするわけですから難しくなります。ですから、基準をきちんとつけるということであれば、条件は一つに絞り込んで変えていくということです。
 たとえば、「ハイ」ということに対して、「ハァーイ」とやったら、これは長くなって高くなって、さらに「ハ」と「イ」が分かれているので統一するには、5段階くらい難しくなるわけです。そうしたら、同じところでまず、長くするとか同じところで強くするとかに絞って、条件を急に難しくしないことです。

 なぜ、大きくできないかというと、大きくしようとしたときに条件が変わるからです。
 たとえば、ゆるい球がきたときに、バットで小さく当てていたのに、これをもっと強く振ってください、遠くに飛ばしてくださいと言われたら、今度は大きく振らないといけません。大きく振るだけで、慣れていない人は崩れていってしまいます。
 「ハイ」と大きく言わなければいけないとしたら、もっと空気を用意しなければいけないので、そこで肩やあごが動き、それを使おうとしたときに、バラバラに動くのです。こういうことが、次の呼吸を邪魔してしまうのです。

 最初は仕方ありません。最初は、そういうことに慣れていくしかないのです。慣れるまでは、量をやっていくしかありません。姿勢一つ保つことでも、2年、3年かかります。スポーツや踊りをみればわかるでしょう。柔道でも何でも、小学生と中学生では、姿勢一つを見たら違うのです。

○口のなかでつくらない

 もう一度、「ハイ」をやってみてください。
 それを体でつくるということなら、なるべく口の中でつくらないということからです。口の中でつくると、ノイズがつきます。違う音が加わるのがわかるでしょう。他人のものは、わかりやすいのですが、自分のものはわかりにくいものです。体を使える人をみてきたら、自分が体を使えていないということが、感覚的にわかるようになります。

 それとともに、息だけは入るとか、出せる、体だけは動くなど、いろいろなタイプの人がいます。
 これは、今までの生活の中で、息をどのくらい使ってきたかということでも違います。姿勢一つでもそうです。ダンスやヨガなどをやってきた人の方が対応しやすいでしょう。
 全然やってきていない人は、なぜ、この姿勢で悪いのかと悪いことがわからないでしょう。わからないから、出た声で判断をしていくしかありません。出た声がひっかからないことです。

 単純なことを言うと、今やっている基本の練習というものは、ここで100回やっても、30分間続けてやっても、全く変わらないようにできる、できるところでやるということが条件です。

○ベターな声をとり出す

 姿勢も息の出し方にしてもそうです。だからといって、ロボットのように「ハイ」「ハイ」「ハイ」「ハイ」と自動的な機械音になるのは、違います。固いのは頭と感性のまひ状態です。常にあらゆる変化に対応できる“中心音声”を求めてください☆☆。
 体で受けとめるのです。鋭く、やわらかいということです。きちっと捉えている。捉えていて、変に力が入っていなければ、やわらかいのです。

 どんなプレーでもそうです。力でやっていくというものは、通用しません。力でやってはだめです。
 素人の場合は、力で投げた方が力一杯、振った方が飛ぶように思うのです。そういう段階があってもよいのですが、のどの場合は、人によっては悪い状態になってしまいます。それを、バランスを取りながら、自分の体で支えてあげることです。

 体を前屈させて「ハイ」と言ってみてください。最初は、背中を下までもってきてから、肩の力を抜いてみてください。あごはひいてください。あまり、頭を下げると血がのぼりますので、気をつけてください。足は少し開くとよいでしょう。
 この姿勢で、お腹の動きを感じてください。横や後ろの部分です。この状態で、息を「ハ」「ハ」「ハ」「ハ」と吐くと、前よりも横が少し動きます。手を当ててみるとわかるでしょう。あまり触りすぎていても、肩が動いてしまうので、その点は気をつけてください。膝を軽く曲げるなど、自分でやりやすいように変えても構いません。

 これをやったからといって、お腹の横が動いて、すぐに声が出るというわけではありません。しかし日頃から動かしておくと、少しでも声を出したり息を吐いたりするときに、横や後ろの方につながりやすいのです。声楽家や、発声のできている人は、お腹の横やうしろが動きます。これを何回もやっていると力が入ります。足そのようににふしぜんなことになっていたらおかしいので、足を曲げたり、体を伸ばしてみたりして直してください。体をいじめるトレーニングではありません。
 息を吐いていくうちに苦しくなって、くらくらとすると危ないので、最初はたくさん休みながらやってください。そのへんは、その人の体力や今までの経験によりますので、一概には言えません。

○息と体とリラックス

 そこから深い息を吐きます。息とお腹が結びつきます。慣れない動作をしていると、いろいろなところに力が入りますから、常にほぐすようにした方がよいでしょう。しかし、ほぐしながらはできませんので、固まっていると思ったら、そこでほぐすことです。いつも動いているだけが、よいわけではないてのです。
 声もそうです。出しながら考えてみてもだめなのです。まず、考えるだけ考えて用意しておいて、それから出してみる。そのときは、もう思い切り出すしかありません。同時に修正していたら、変なクセばかりついていきます。やるときは、やるしかないのです。やり終わったあとに、今のはおかしかったからあごをひいてみようとか、直すのです。迷いがあると、いつまでたっても身につきません。

 迷いながら練習している人が、多いのですが、声を出すときに、迷うということは、うまく働かなくなることなのです。一度出したのなら、間違っていようが、最後まで責任をもつしかないのです。
 歌う前に「ゴホンゴホン」とやる人がいますが、それもクセになってしまいます。それをやらないと、落ち着かなくなってしまう。そのことはのどを痛めたり、のどに負担がかけてしまうのです。ですから、やらないようにしてください。
 体を曲げてみて、もう一度「ハイ」をやりましょう。息で「ハイ」とつけて、声で「ハイ」と出すのです。

 「ハイ」と言っていくなかで、のどに負担のない声を見つけていってください。息を吐くときにも、なるべく深くなっていけばよいのです。口の中が乾くのはあまりよくありません。声帯もよい状態ではなくなります。どうしてもふしぜんなときは、休んで少し口の中を湿らすことでしょう。ただ、私は人工的に何かを与えることは好きではありません。自分の唾液が一番よいでしょう。
 少し吐き方を考えて、間を空けるなどしてみてください。のどがカラカラになったところで声を出そうとしても、無理です。最初は、そういう状態になりやすいものです。スタジオは、だいたい乾燥していますから、尚さらです。

 ですから、最初には、すぐに声を出さなくてもよいですから、それをやることによって、自分の体がこう動いている、体と息はこんな感じなんだという、内部に関する感覚を捉えることです。足先から頭の先まで感じとることにしてください。何か特別のことをやらなければ、人間は意識しません。だから、こういうことをやります。

 ところが、歌い手がやることは、伴奏に合わせて声を出すわけではなく、それを自分の体で表現するのです。それが一つの表われとして声になって送られるのです。そのときの表情や体などの動きが内側でとれていなければ、当然、歌も死んでしまうわけです。泣いた顔になって、初めて泣いた声が出ることと同じです。
 トレーニングというものは、表情トレーニングなどもそうですが、そんなことがあることを意識するためにやるのです。気の長い話です。いろいろな面で、続けていると、それに適した体になってくるのです。毎日やっていたら、それだけ早くなれるし、1日休んだら、それだけ遅くなります。

 今、何をやればよいのかわからないということでも続けます。ただし、声を痛めるだけのトレーニングだったら、やらない方がよいでしょう。まだ、体を鍛えたり、息を強くしていくことだけに専念した方がよいのです。
 声に関しては、「ハイ」でも「ライ」でもよいでしょう。自分の体全体が共鳴してきて、歌にはまだ、使えなくても、この声だったら8時間使っても枯れないだろうという、一つの強さ、安定したところをもつことをめざしてください。
 そうすれば、そこに戻せば、もとに戻れます。安定したところがないままに、進んでしまうから、間違ったときに、あるとき声がでなくなってしまったり、うまくいかなくなってしまったりするのです。ちなみに歌は、この安定感からどこまで遊離できるかというスリリングな勝負のように私には、思えます。

 とにかく、今、大切なことは、自分の体を知りながら、自分の中にある声と、その声はどうやったら出るのか、それとともに、今出している声がどのくらいあっているのかを意識していくことです。
 初心者の発声などは、すべて間違っている以前の問題なのです。合っているのでしたら、トレーニングをする必要がありません。
 もちろんこれも、どこに基準をおくかで違ってきます。声の大きさやよい悪いではなくて、基本的に体の結びつきから考えてみてください。

 初心者で、合格という基準は、体が結びついていて声が出ていることです。男性の場合、今まで太い声や、大きな声で話していた人は、比較的、有利です。そうではない人にしてみれば、ギャップがあるように感じられるでしょう。そこをきちっと深めていかないといけません。
 ですから、歌に入るのが遅くなってしまいますが、歌に関しては、音感やリズム感を学びながら、よい歌を聞いて、一ヵ所でもよいから、自分の内部の感覚に入れていくことです。再現まではいかないとしても「これって、こうつかんでいて、こうなっているんだ」と、自分の感覚の中に受けとめていってください。

○試行錯誤

 発声教室でヴォイストレーニングをやるようになると、却っておかしくなってしまう人が多いのです。ここは、本音で言っているので、一つひとつ受けとめていたら、わからなくなるでしょう。膨大なことばを語るのは、ことばを無力化させ、その限界を知らしめ、ことばのイメージで伝えるためです。

 どこかの教室へ行って「毎回わかってきました」というのは、かなり、低レベル、その最高目的で実用性がないくらいです。そんなノウハウはありません。そんなものがあれば、すべてそこでよいのです。苦労しません。いる人をみてください。
 何でそうではないかというと、そのことで試行錯誤をしなければいけないことと、一人ひとりが違うからです。私もあなたの声は瞬時に判断できます。しかし体から出てくる本当の音色はそうならないとわかりません。本当のことを言うと、2年間は必要です。2年間みたら、3年後、4年後に会ったときに、調整することはできます。それだけ変わっていくもので、奥深いものです。

 基準というものは、確かにあります。やって欲しいことは、その本質的なことです。
 サッカーでもボールを蹴って、ドリブルして、ゴールに入れればよいとみえます。バスケットでも、ドリブルしてシュートしてジャンプして、カゴに入れたらよいだけではないかと。しかし、ゲームの本質は、そんなものではありません。

 ところが、実際、コートに入ったら何も動けなくなってしまうのです。何が必要かというと、全員の動きが肌でわかっている感覚と、うしろを見なくてもボールがついてきて、それを先に行って取るだけに動いている体の感覚が大切です。
 その感覚が大切なのですが、いきなりゲームに入って覚えられることではありません。ですから、それを外から見て、客観的に判断する時間と、それをワンツーワンやスリーオンスリーなどシミュレーションで覚えていく時間が必要なのです。一流になる人は、感知しているのです。
 それを急いでしまうとだめです。そこでは本当にじっくりやってください。子供の見ようみまねの野球やバスケットが今のJ-POPの声のレベルです。

○トレーニング量の意味

 課題曲や課題のモノトークがそうです。ただの優秀な人は、モノトークを10回読んで、できるかもしれません。それをあえて1000回、自分がまだできていないと思ってやってくるのが本当に優秀な人、学べる人です。100回もやったら覚えられるでしょうが、覚えることが勉強ではありません。こなせたらよいのではなく、問題は、それをやっているときに何を得られていくかということです☆。
 あとで応用できるものをつけることが基本の力です。
 1ヵ月に一つ与えられたときに、それを千回でも一万回でも真剣にやったところで、他の人が気づかないものをどれだけ気づくかという勝負になってくるのです。

○壊すのは恐れるな

 最初は、ゆっくりやっていきます。難しいこともやりますが、どれがよい授業、悪い授業ではなく、あなたのなかでどう組み込んでいくかです。こちらが決めてしまわない方がよいのです。
 性格もあれば、急いでやりたい人もいるでしょう。間違っていてもよいから、体の力で思いっきり出したいという人もいます。いくところまでいけばよいのです。のどが痛くなって気づくでしょうし、大きな過ちになるまえに何とかなります。それも一つの経験です。

 プロは、安全に鍛えてきたかというと、そんなことはありません。壊して、それを直す経験をしてきているから、プロでいられるという人が多いのです。
 気力が勝ってしまったら、壊すときもあります。スポーツでも、他の人よりも体レベルにいこうとすればそうでしょう。それを恐れながら、あれもだめ、これもだめでやっても大したものになりません。味も素っけもない歌になってしまうのです。

 本当に、自分に大きな自信をもって欲しいものです。他の人の10倍、間違っていてもよいですから、2倍くらいは身につくだろうくらいに考えて、10倍くらいやればよいのです。同じレベルでのミスを絶対にしない厳しさをもってください。
 最初は、量の勝負だと思います。そういう感覚で、今までとは違う、ここで出せる作品として仕上げてください。
 歌が1フレーズではなく、1曲単位でかかったとき、1時間のなかで消化して出せることは、今考えると、難しいことかもしれません。
 きちんとやっていたら、本当にそれができるようになるのです。最初は間違えるし、音程もとれない、リズムもとれないという状態です。

 ましてや、カンツォーネやシャンソンなどになってきたら音程さえとれなくなってきます。できないから、授業に出ないのではなく、だからよい授業だと思ってください。
 そこまでのギャップを最初に与えられる場は他にありません。それに対応できない限り、真に他人に働きかける能力がついていないし、そこまでのレベルにいっていないことがわかるのです。ですから、難しい授業や厳しい授業ほど、なるべく出てください。

○創造

 そもそも、これをやれ、これはだめと制限されてやっていくものではなく、あなたのなかでイマジネーションを膨らませてみて、他の人はこうやっているけれども、私はこうやっていくんだと打ち出していくことが、こういう創造的なものへの取り組み方です。そこは、なるべく自由にやっていきたいと思っています。それが出ないと、おもしろくもなんともありません。その二つをきちっと使い分けていってください。
 とにかく、最初は、私の方が待っている段階です。今のあなたの体の固さと息を吐く弱さでは、どこにいってもたいしたことはできません。せいぜい「ハイ」や「ライ」です。そこで1オクターブ、半オクターブできるということでしたら、待たなくても宿ってきます。それでよいのです。
 そういう人は歌に入ってしまえばよいのです。今度は、歌から歌のオリジナルのフレーズから自分の何が出てくるのかを学べばよいのです。

○体の声とフレーズ感覚

 ここは、単純に言って、2つのノウハウがあると思います。まず、オリジナルの個体に関するノウハウです。
 今の日本人の普通の人の声は使いにくい。自分の中に突き詰めていって、体が使えれば、パワフルな声が取り出せるという部分です。これは、役者さんや声優さんが、ここに来ている理由だと思います。

 それとともに、もう一つは、その声でなければ、処理できないリズムや音感などの複雑なものをシンプルに捉えてパッと出せるフレーズの感覚です。これは、その人の呼吸でなければもっていけませんから、全員が同じということはあり得ません。
 全員が同じようになるということは、全員が犠牲になっているということです。日本の合唱団のように、誰かに合わせているのです。
 自分のものを突き詰めていかなければいけません。自分の声も知らなければいけません。自分の声については、自分で知らなければいけないのです。

 私のレッスンは、オリジナルのフレーズの方を中心にやっています。声は時間がかかるからです。2年でできるという保証はできません。「ハイ」くらいだったら、必ずできる、女性の場合は時間がかかってもよいと思っています。
 ただ、できたのだったら、できたなりに使っていかなければいけないのです。いつまでたっても球拾い、キャッチボールだけでは仕方ないのです。

 それを、簡単なシミュレーションの中で出してみて、どこまで通じるかということを感じながらギャップを埋めていきます。どこがよくて、どこが日本的にクセをつけていているのかを知るのです。どこが国際レベルでも通用するのかは、1曲の中でも分析できるのです。そのような感覚が、自分の中に入らない限り、自分の歌に関しても客観的にみることはできません。なるべく、聞く機会、さらにその基準を考えていってください。

 これは、歌における価値観のことを言っているわけではありません。私は、自分の価値観を外しています。「私は嫌いだけれども、ここは優れている」と、ことわります。それは、そのうちわかってくるでしょう。とても公平だと思っています。
 わかりにくい人は、古い日本の歌から入ってもらっても構いません。感覚的にフィットしなくても声と体と息ということを考えて、自分に移し変えるようにしていくことです。そのイメージで練習していってください。
 もっと単純にいうと、今までやっていたこと、聞いていた声、出していた声も、どちらかというと、そんなにベストなところではやっていないのです。それを徹底して変えるのです。今まで聞いていた声より、よい声を、オペラでもなんでもよいですから、今までよりもたくさん聞いてください。

 できれば、それ以上に今まで使っていた声よりも深い声をたくさん使うのです。体についた声というものは、いくら話していてものどは疲れない、のどが開いていて、体から出ているからです。あなたが「ハイ」と言ったときと比較的、近い声です。
 今、なぜそれができないかというと、芯と結びつきがないからです。合理的にコントロールされて使われていないからです。どんなにスポーツをやっていても声は違います。スポーツ選手でも、すぐにできません。
 私もスポーツはやってきましたが、初めは15分くらいのレッスンでめまいがしてきました。最初は、10分が大変だと言われましたが、本当に10分が大変でした。それは、姿勢をキープして、すべてをその声に集中して出すからです。

 スポーツとは、筋肉の使い方も違います。とにかく息を吐けるようにしておいてください。どんなに息を吐いても、誰にも負けないくらいになってきたら、それなりのところにいくと思います。
 息の吐き方の違いは、最後まで問題です。プロの日本人ヴォーカリストも、向こうの人たちに比べたら、平常のペースで向こうがプロの歌い手、こちらはアマチュアの初心者のようなギャップ、息でそれだけの差があります。
 これは、言語の差です。英語やイタリア語のように、息を使わなければいけないような言語を日本語の場合は必要としていません。ですから、言語からをやってみるのも基本といえます☆。【「とりくみ」プロのトレーニングのために 97.4.8→05.10.1 改訂版】


<Q&A>

ブレスヴォイストレーニングQ&Aブログ(Q5〜9)

Q5.日本のバンドというのは、バンドの作ったものの上にヴォーカルが乗って、向こうのものというのは、ヴォーカルが引っぱっている感じがするのですが、その違いはどう思われますか。

A.バンドの上にヴォーカルが乗っかっているというよりも、作詞作曲、バンドのキャラクター付けというのは、ヴォーカルがやっている場合が多いでしょう。要は、ヴォーカルがフレームを決めている。ただ演奏面では、ヴォーカルがバンドを抑えるだけの力がないから、浮いて見える場合もあります。それはそれぞれのバンドによるケースで違うでしょう。

 そしてキャラクターとしては、総合演出力を持っている人が多い。どちらかというと、そういう人はヴォーカルをやるよりも、映画監督とか、演劇の脚本に向いている場合が多い。実際にそちらの方の才能を開花させる人もいるでしょう。
 でも日本では、歌唱力が不足していても、アイデア、独創性があれば、ヴォーカルとして充分に通用すると思います。

 日本のヴォーカルで、ヒットした人の半分以上は、ミュージシャンとは違うのではないでしょうか。向こうの場合は、アイドルで出ても、残っている人は、まぎれもなくミュージシャンで、アーティストです。どちらにしても、音楽の能力がないのに、ヴォーカルをやるということはありません。私はお笑いも歌い手と同じように考えているのですが、その人の才能がどこにあるかということ、どう表現や音楽と接点をつけてやっているかということだと思うのです。だから、あまりこのようなことを問うても仕方ないことでしょう。感じ方とことばの使い方での違いにすぎません。

Q6.今まで感動されたものの中にはどういうものがありますか。

A.いろんなものを世界中で観てきました。大体10回のうち1回は心から感動できる。
 この前イスタンブールで、ベリーダンスのショウを観たのですが、最後に舞台をしめる歌い手がとてもうまい。ダンスなのに、歌、しかもマイウェイなんかでしめる。ああいうところで下積みをし、出ようという人たちがわんさといるのですから、しぜんとうまくなる。
 日本でいうと、津軽三味線や沖縄三味線などで人が育つのと同じです。まだ民謡酒場みたいなところがたくさんあって、客と先輩の耳が肥えているから、芸が鍛えられるのです。

 自分ではチャンピオンだというつもりでいても、長年聞いているお客さんからみると、まだまだ足らないところがある。そうやってののしられながら磨かれていく。
 三味線を早く弾けるだけでびっくりする客では困る。それだけの技術を前提として、音色が変わっていく瞬間というのを客は知っています。そのレベルになるから、みんな聴きにいくのです☆☆。
 歌も同じでしょう。現地のジャズなどでも、単に歌っているのを聴きたいということではない。そういう瞬間が起こるから聴きにいくのです☆。

 昔は私も、そんな実験をした。マイルスデイビスと竹山さんのを両方かけて、それが5、6分に一回くらい、音がうなったように、不思議な瞬間が生まれるときがある。
 初めての人たちにはわからないのですが、少しやっている人なら案外とわかる。同じところで感じるものがある。そういうものが、音楽や歌の感動のベースだと思います☆。

 単に感動するだけであれば、ブロードウェイミュージカルの、一つの声だけでも感動した。まして二つの声が合わさるようなものには、深く感動を覚えます。彼らの歌が確かなものの上に成り立っているのがよくわかります。

 ステージを見ていても、こちらが仕事としてみるのを忘れたときが、きっと感動しているときなのだと思います。裸の自分になって、歌い手もいなくて、声だけが働きかけてくる瞬間というのが、ここでも何度かはあったのです☆。
 そう考えると、旅行中に歌を聴いて感動しやすいのは、頭をはずして聴いているからかもしれません。もちろん、そんな思惑を飛ばす力が歌い手の力であって欲しいものです。

 ロックの感動というのは、また少し違う。ギターの音がうなって、声との掛け合いなど、いろんなものとコラボレートし、リピートしたところにある。すでに知っている曲を生で聴けたという感動などは、歌そのものとしての感動とはやや違う。曲がすごくいい、生で聴くと、さらによい。また涙がぽろぽろこぼれるという、そういう感動もある。

 もう一つ私には、日本のフォーク歌手なども、歌など嫌いだけど泣かされてしまうという、日本人の感性みたいなものがあるようです。
 私が泣かされたのは、かぐや姫の解散コンサート、気づいたら、ファンと同じ気持ちになって泣いているのです。いや、ファンだけじゃなかったでしょう。そういうことはあります。ステージが音楽や歌を超えてしまう。人間というのは一所懸命にやっている姿に弱い。必死に頑張っている姿にも感動してしまうものです。

 不思議なのは、いまだに美空ひばりさんです。私は30代過ぎてから、彼女と本当の意味で出会ったつもりですが、追悼でのテレビを見たりすると、何曲か胸に迫ってくる。小さい頃から天才的に歌がうまかったのはわかるし、若い頃はあまり見たいとも思っていなかった。でも見始めると、聴き入ってしまう。ハリーベラフォンテが、彼女の歌を聴いて泣いたということも、ことばを超えたところにあるものが伝わったということは感じます。

 ここのステージでも感動してしまったものの半分は、こいつはここまで頑張ってるのかという涙でした。そういうものはいくら除こうとしても、みんなも同じように、心を打たれているのです。本当にうまいものだったら、そんなに涙なんて出ないのではないかという気もします。こうして、ステージのレベルでみるものが、昔から比べるとどこもかなり甘く受け入れられるようになってきていると思います。

 昔は公的だったステージがどんどん私的になって、第三者に対して問うていたものが、身近な人に共感を得ようとするものになってきています。私は、そんなところには、もうのっかれない。この先に何があるかは、わかりません。

Q7.本物とは?☆☆☆

A.トレーニングなどをやり始めて、気をつけることは慢心です。頭でっかちになると、「僕は昔、あんな歌に感動して泣いていたのは、恥ずかしい。世界にすごい歌がたくさんあるのを先生に教わりました」などという。世界にすごいものがあることと、あなたとは関係ない。あなたがつくったものでない。それを聞いて涙が出たかどうか。あなたが感動して泣いたときの心の方がずっと本物なのだよ。その関係において、本物の瞬間がもたらされる。私はそう思います。関係性というのは、相互の準備が必要なのです。

Q8.誰でも他人の作った歌や詞に感情移入できるのでしょうか。

A.どんなミュージシャンでも、ある時期は徹底して音楽を入れていると思います。ある時期からは聴かなくても大丈夫になってくる。自分のものが確立したら、自分から滋養をとれます。大体クリエイターというのはそういうものでしょう。
 ただ歌というのは、必しも感情移入で進んでいくものではないのです。むしろ音楽的に捉えていくと、もっと論理的なものです。その歌の中に一つのルールを決めて、より数学的にその構成の中で、きちんと組み立てられているのです。他人が作ろうと、自分が作ろうと、同じです。

Q9.好きな歌と売れる歌が違うのですが…。

A.この質問は私が答えるのは難しい。自分のヒット曲が大嫌いだというアーティストも確かにたくさんいる。この質問自体の意図によっても違ってきます。
 私が昔外国にいったときに、音楽なんて大嫌いと言い放った人がいました。私は初めて音楽が嫌いと断言した人に会って、とても感動した覚えがあります。日本の中では、音楽が嫌いでも、そういえる人はあまりいないからでしょう。

 あなたがコマーシャリズムから独立したヴォーカリストになりたいというのは、それはそれでよいと思います。しかし、お金があってもよいものがつくれるわけではないのですが、よいものには、お金もかかるのです。私には、売れても売れなくても、好きでも嫌いでも、実績として認めるという、姿勢があるだけです。


特集:福島英対談集vol.5
[I氏と]

司会(以下M):科学的な体系化というのは、まだなされていないのですね。

福島(以下F):ずっと試みてきましたが、個々に出したところでやっぱり、そっちに寄り過ぎるのも危険です。
今回はもっと対立点が明確に出てくるのかと思ったのですが、それが技法のひとつの目的だったのです。
トレーナーなんかは、その中の問題まで入らないですね。自由にやらせておけばいいとか、やらせたらダメとか。だから皆、同じ考え方しているのかなという。向こうが配慮して下さったのか、そんなにぶつかることもなくきました。
今まで会った方というのは、既成のものに対して、ぶつかる方向でアウトロー的にやってこられた方だから、ど真ん中の方となると、合唱でしょうか。

M:NHK の合唱団の方とも考えたのです。

F:コンクールの審査員の方ですよね。
合唱のビデオを見ると、たしかに本よりはこういうことをやっているということをつかみやすい。合唱の場合というのは、ある意味で統一目標があります。ポップスの場合、基準がバラバラになってくる。声楽なんかもいまだに、喧々諤々、方法のいろいろ、考え方が違うのはいいことだと思うのですが、もう少し整理できると思うのですね。
トレーナー側でなく、ひとりの生徒から見ていく☆。あらゆるトレーナーのなかで、この先生がたぶん適切だろうなというコーディネートが大切なのに、一般的にはこれが許されないですよね。
自分で選ぶことができないわけではないけれど、大体は最初に行ったところの先生についてしまう。英会話ならよいけど…。他の先生につけるなら、外に習いに行かなくてはいけなくなってしまう。その先生と合わなければ、やめるしかなくなる。ポップスでも同じです。
ただポップスの場合は、拘束はしないから、やめてしまうと、違う学校に行って、また違うトレーナーがいて、違うことをやる。これもどうかということでしょう。確かにトレーナーに優劣はあるのですが、相性でいい選択ができているかできていないかというのも、大切なことです。
いつもここでは、いろいろな先生がいるし、全部使ってから、出て行けといっているのです。

自分の才能を伸ばすことよりも、人間関係のほうが、日本の場合は幅をきかせてしまうのですね。ここでもグループをやっていたころ、学校のようになってくると、入所年齢も全然違うのに、コロニーができる。
私なんかはそういうものを嫌っていますから、一切そういうのはやらない。どこも一人でやれない日とが群れたがる。それは勝手だけど、一人でやればよいのに、ここでやると私がやったことになる。
努力目標として、最初にグレードをつけたりなんかしていると、そのことで支配されて、そのことが目標になってしまう。自分の目標に対して、それが足場になるのではなくて、そっちにいってしまうのですね。その時点から、世の中から隔離されたところの、新興宗教みたいな人になってしまう(笑)。

カルト集団は、自分のところの情報しか与えないということです。早く世の中に出て行けと言っているところはそんなにおかしくない。
他で勉強しろと。うちでも勉強してもいいけれど、というのがよいくらい。
私とだけ、やっておけばよい。他のものは全部間違っているとなると、それはエセ宗教と同じ。
ビジネス的にはずっとそのほうがいい。信者が勧誘なんかし始める(笑)。
ゴスペルなんか変な意味で、そういうところはありますわね。中での人間関係とか、そこが絶対的な価値観になって、その先生がカリスマみたいになって、友達連れてきて膨れ上がって、みたいなね。

だから、ほとんど音楽は、自己を中心にまわりだす。自分がつくって他人を楽しませていくみたいなところから、反れていくことになりますね。
日本のサークルが皆そうですね。自分たちが楽しめたらよい。本気でやる人が少ない。生徒の交流が、お互いの売れないライブチケットのノルマのこなし合いみたいになって、まわってしまうのです。
そっちに大切な時間とお金を使ってしまう。自分のライブに呼んだ仲間のライブのときに、行かないというわけにはいかない。そんなんで3年終わってしまう。
その時間とお金を、私なんかは一番いいものを、ブルーノートでもどこでも聞きに行ったほうがいいと言っているのですが。今の子は、こっちが何を言っても動かないですからね。
いいものを聞くしか上達する方法ってないのに、そうなってしまうのです。
初心者のバンドも、行き場所がなく認められる力もなく、周りのレベルで組んでしまう。
本気になると必ず解散する。そのまま仲良くやってしまうと、皆が妥協してやっているから、続いている、続けることの方が目的になるのですね、日本の場合。

上達すれば、皆欲求不満を抱える。こんなことをやりたくないと思いながらやっているから出れないので(笑)。欲求不満になりたくないから厳しくならず、上達しない☆。
その構造は外からは見えているのですが、中では見えない☆☆。

F:ビジネス的にとか、学校のなかでコミュニケーションをうまくやっていくなら、先生もそれを促進してうまくやっていった方がいい。最終的にはプロになるのは1パーセントもいないのだからという、逃げ口上になってしまう。そうしたら音楽を楽しんでもらったほうがいいから、苦労させるなとなる。
そこが日本の場合、あいまいになってしまう。
私の仲間で、音楽で身を立てている人というのは、漫画家くらい苦しんでいます(笑)。とことんやるしかない。それを見て、一線引いているのでもないでしょう。養成所と言っている以上、こちらが一線引いて見ていたら、永遠に出て来られないわけです。革新しなくてはいけない。
そうでない人は、最初から客として、いつまでも生徒という位置づけを本人にも教えた方が、不幸だけど真実です。

M:連載や特集でも、現場の先生が、私はこういう発声の練習をしていますよとか、こういうふうにトレーニングしていますという、現場の実践が出ています。
今回は、それぞれの声を専門とする、専門の方々から見て、つまり学校現場とは違う立場から見た、スペシャリストが声について、声を育てるとか練習するということに対して、どう考えていらっしゃるのか、いろいろなジャンルの方が出てくると、学校の先生とは違う発想ややり方があるのではないのかと企画してみたのです。意外とそんなに違うことは出てきません。わりと皆さん一緒ですね。

F:そうなんですね。呼吸法だったら呼吸法について、テーマを絞って、さまざまな発声法とか、合唱のなかでもあまり扱われてこなかったジャンルに対しての特殊性な事例が参考になるかと思ったのですが。皆さん大きな視点で捉えていらっしゃるから、具体論に入らない、というよりも、合唱のなかに話が入っていないですね。Iさんは、その道のプロとしてははじめてですよね。

I:何でもやります(笑)。

F:合唱を経験していらっしゃるのが、はじめてです。どちらかというと皆さん、ソロ中心で、合唱をやらないので。

I:まあ、純粋歌唱というのでしょうか、音律的に。それをハンドサインを使いながら、あまりこだわらなくても、自然に、もちろんそれだけではないのですけれど。移動ドにこだわらずというか、ハンドサイン、音名、ドレミがいいのか何がいいのか考えつつ、今やっているのはそういうことです。ただ、その基礎的な事項がわかりやすく書かれている書物があまりないので。

F:それは純正律のことですか。

I:純正律の研究と、純正律的に歌うときに、何を気をつけていけばいいのかということは、また別問題だと思っています。両方とも、学校の先生の現場に知られる手段があまりない。

F:元々、純正律は使っていないですよね。ピアノがもとで、合唱は私はよくわからないのですが、基本的には、ピアノ曲。

I:ピアノを使ってようが使ってなかろうが、その、どういうこと?というところからだと思うのです。純正律ってどういうこと、ハモるってどういうこと、私が今書いているのは音程のところです。

F:ピアノでも、いわゆる倍音のところから、たとえばドから上のドをとって、そこからそれに倍音する上のソからド、そしてミ、そんな感じで進んでいきますよね。だから3和音でも、純正律。

I:最初、どこからやっているのかな。

F:ユニゾンで、やるわけですよね。

I:最初は自分の声を聞こうとか、相手の声を聞こうというところから、一定の音程で相手が歌っているところに、あわせて歌ってみよう。それをひとりでやろう、皆でひとりに合わせていこうと、聞いて歌うという作業くらいを連載していたのです。

F:ハンドサインというのは、私はパンフレットでしか見ていないのですが。手話ではないのですが、指揮者もハンドサイン出すみたいなものですね。耳にしか聞こえない音の世界において、ビジュアルを使う、元々の発想というのは?

I:いえ、あれはコダーイさんで使っています。

F:その教育メソッドからきている。

I:イギリスから来ているのではないかと思うのですが、考え方は誰かというのは、元はないと思います。

F:私も音楽教育法というのは、集めるだけ集めているのですが、あまり使わない。

I:今使っているのは、かぎられたポップスや調性音楽でしか、使えないやり方です。ただそれが、一番巷にあふれていて、結論からすると、アンサンブルをどうするかということです。どこから難しくなっていて、どうやって楽しくハモって、音楽でコミュニケーションできるのというところで、身近な音楽はこういうものになっているというのは無視もできないというところですね。

F:私がやるのは、マイクとか一切使わない、実際にはアカペラなんですが、あなたのは、合唱ではなくて、ハモネプみたいに、3人か4人でやるというようなものが中心なんですか。

I:アメリカなどはまだゆるくて、4,5人のマイクを持ってやるだけのがアカペラというのではない。アカペラのなかには、もっといろいろとあります。
たとえばベースとパーカッションとリードだけはマイクを使って、あとの10人か12人くらいはハモっているとか。

F:本当のベース?

I:ヴォーカルベースです。そういうグループも、大学のグループは多いです。たとえば20人くらいのチームがあったら、その中からいつも12人でいこうとかいう、日本でいうと、むしろブライダルの聖歌隊ではないのですが、出る人数は決まっている。メンバーはもうちょっと多めにいて、本番にあわせてメンバーを選び。練習は皆でやっている。

F:野球とかサッカーみたいに。

I:あ、そういうことですね。そのグループごとの決まりがあってというのが多いですね。

F:トリオやクワテットとか、4人くらいまでは単位としてわかるのですが、12人というのは何の根拠?

I:わからないのですが、うちのグループは12だよと決めているところは、12人用の楽譜がいつもあって、それを代々と引き継いでいく。

F:オーケストラみたいなものですよね。

I:ただ、合唱団でいうと、上が抜けて下がきます。だから抜けた分だけオーディションをしていくというやり方で補う。

F:バンドとかと同じですね。

I:そうですね。それをもう少し、少ない人数でやっているところもある。

F:ソプラノやバスといった、声楽的な分け方をするのですか。たとえば、6パートで。

I:つくり方は、勘です。ソプラノ、アルト、テナー、バス。

F:たとえばソプラノだと3人とか、大体決まっているとかいうことでもない。

I:もうグループごとですね。何か決まりがあって、そこに合わせている、人に合わせてやり方が決まっている。

F:合唱団の場合は、強制的に分けますよね。

I:まあ、指揮者がいませんからね。私が携わっているのは、コンテンポラリーなマイクを持ったアカペラから、ルネサンス、グレゴリオとか学校で歌われているような合唱とかいうところまでの範囲、声を合わせてるようなところがほぼ、守備範囲。

F:合唱団で、一人の子がソプラノになるかアルトになるかというのは、その子で決まるんですか。それとも、人数で決まっているんですか。

I:合唱団ですか?

F:ええ、でも合唱団って人数も決まっていないわけですよね。その年に入った人数。

I:結構、そうですね。バラバラじゃないですかね。日本の場合は合唱団ごとに、パートリーダーがお互いのものを聞いて決めたり、一般の合唱団の場合ですね。あと、学校だから先生が聞いて決める。

F:基本的には、レギュラー、補欠というのはないわけですよね。全員が出てるわけですね。

I:そうですね、はい。
むしろ今どきの合唱団というのは、人数不足のところが多いと思うので、より多く取りたいというところもあると思います。たまたま男性が多いとか女性が多いとかなった時に、高い声の男性が多ければ、楽曲の中のこの部分は、メロディーがまわってきてるので、アルトがちょっとテナーに入ってもらってとか。

F:その年の人員配置にもよって、先生が、ちょっとアレンジを変えてみたり。

I:4つのパートに分かれていても、ゴスペルの曲を歌ったりしますね。それは、曲ごとに決めたりとか。ただそのパートというのが、声なのか、運営上の分け方なのかという部分もあると思います。
大きいグループになってくると。運営上は4つなのだけれども、歌う時は5だったり6だったり、8だったりというのはあると思います。

F:その辺も先生の裁量になるわけですね。いつも、必ずしも全部歌っているわけではない。

I:全部の声のアンサンブルにおいて、個人としてのアンサンブル能力をどう伸ばしていったらいいのかというあたりが、僕のテーマです。

F:合唱から、いわゆるアカペラというところは、大きな区切りがあったわけですか。

I:たぶん、歌っている人には区切りがあるのですが、私にはあまり区切りはないです。

F:それは、リーダーか指導者という立場で見てということ。

I:マイクを使う使わないというのは。

F:大きいですか。

I:僕にとっては、あまり大きいことではなくて(笑)、どっちでもやろうよみたいな感じです。例えば、マイクを持って歌っているプロのグループでさえ、最後、一曲だけオフマイクでとやると、お客さんとの一体感があったり、喜ばれたりする。歌い手も結構そういうものを望んでいたりするのもあるでしょう。
ただ、マイクを持って歌っていない合唱の人たちが、PA類を嫌う部分はあるでしょう。もちろん、自然的な音響を好むのは当たり前の話だと思うのですが、ライブハウスとか音響機材側で、対応できているものは少ないかも知れない。

F:難しいですよね。アカペラだとその空間にもよりますが。まだ自分たちで把握できるけれど、音響に一度ゆだねてしまうと。

I:アカペラというのは、どこにお金を、というかどこに力を入れているかというと、自分たちの聞く方ですよね。だからいいモニターを置いて、しかもいっぱい置いて、しかもチャンネルのチェンジもいっぱいできるものを置いて。

F:そのモニターというのは、返る方ですか。

I:フロントスピーカーと同じものを置いています。4つ転がして、中の方がお金がかかっているくらい。

F:基本的にヘッドホンでなくて、それを聞くわけですね。

I:耳からじゃないと歌えないですね。もちろん、耳をふさいで皆で歌っても、ハモれないのと同じで、聞かないと歌えないので。僕がアンサンブルのための、歌い方のテーマといったのですが、何をやってるかというと、聞くことでしょうね。
歌うことの指導と同じくらい聞くことが大事かな。

たとえば、語学学習で言っても、最近いっぱい聞くことで、ヒアリングをすることで話せるように、書けるようになる、普通の子供と同じようなところでやっていることを、語学ではやられているのですけれども、まだ音楽ではあまりやっていないような状態です。
歌は、声を出そうとか。その前にいいもの、いい歌を聞いて、それを真似するとか、相手がどういうふうに歌っているかを聞いて歌うとか、それは音程だったりリズムだったりということに限らず、音色とかアーティキュレーションとか、音楽そのものとか、グルーヴ全体のものとか、いろいろなものがあると思うのです。でも、それはやっぱり聞く力がちょっと、聞く機会にまだ恵まれていないなと思っています。
歌いなさい、歌いましょうが多くて、レコーディングでもそうですよね。

たとえば、芸能界にいっても、レコーディング3回でテイクOKな人は、自分のを聞いて今のが良かったか悪かったかというのは、ディレクターが言う前にわかっています。もう一回歌いなさいと言われて歌って、3回目にもう一回歌いなさいと言われて歌ったら、いいテイクがとれてしまうという、アーティストもいらっしゃる。そういう方々、耳がよくて今のテイクをもう一回聞かせてくださいと聞いてみて、自分で判断して歌う。

F:歌った時点での判断と聞いた時点の判断、優れている人ほど、歌った時点でそういうものが分かるようになりますよね。

I:要は、理想の音を持っているわけですよね。このほうがいいなというのがその時点であるので、それに向かっていく。ピジョンに向かって動いているというか、目標に向かって動いている。ビジネスマンも変わらないかもしれませんが。自己実現な感じですよね。

F:そこの判断をどうするか、難しい。ポップスになってしまうと、オリジナリティが出てきてしまうから、またちょっと違う判断も必要になってくる。

I:だとしても、本人はよりいいサウンドを求めて、よりいいサウンドというのは、こっちではなくて心なんだなという部分がないと、先に進めない。現状のどこをどうしたいかということ、本人自体がないと進めないです。正しいものがあってそこに合わせるというのではなくて、やりたいことが単純にあって、そこに向かっていかなければいけない。そのためには、今歌った自分の音を聞く力がないと。

F:そこが才能ですよね。

I:一回目歌いました、二回目歌いましたで、わからない人は三回目を歌っても一緒だろうという(笑)。それは、ディレクターから何か指示をもらわないといけない。

F:結局、何か腑に落ちない、アンバランスになってしまうわけですよね。

I:それは、合唱やアカペラをする場合にも、一緒です。それはたまたま、自分の声だけではなく、相手の声も聞いたりしなければいけない。

F:当然、バックのバンドの音から、ですね。日本の場合はヴォーカルがその線をきちんと見せないから、バンド。ヴォーカルの方でそれができないから、バンドの方が、やたらと音楽に入り込んで、アレンジャーがやたらと脚色をつけて、よけいわからなくなってしまうのですね。本当はアカペラのところで、ヴォーカルが歌える力があってから、アンサンブルやセッションをしたりすると、一番いいのですけれどもね。

I:私、この間の講習会でも、そう思って同じことをやっていたのですが。ただ取り上げるときに単旋律で、皆が歌っていたりする。ソロだったりユニゾンで歌っている時でさえ、ハーモニーやアンサンブルを意識した方向に持っていくかどうかで、いきなり三年生になりましたからといって、合唱があるから二部合唱をしましょうでは、今までと全然違うことをしなければいけなくなってしまう。
そうではなくて、たとえば、音感やリズム感というのを、アンサンブルでできる状態、単旋律でさえ、メロディーでさえ、その土台を作ってあげてから、次の段階にいかなければなあと思うのです。
私が言っている、アンサンブルというのが必要ないと言えば、別にいい、した方がいいというのであれば、そういう接し方をもって、教育が行われなければなあと思います。

F:音楽の旋律が、複線的に見えるというのは、究極的にはオーケストラの指揮者だろうと思います。あそこまではふつう見えません。同時にスコアをあれだけ読めません。けれど、それが最低レベルでなければ、バンドとのセッションもできない。
でも見えない人は見えないですね。私なんかは、声の方から入ったから、声の力とかばかりにいってしまった時期もあるのですけれども、ある時、全然、声域も声量もないのに、歌のうまい奴がいる。声も大して出していないのにもつ。それは声で聞いたら間違いだと。
というより、実際にプロになっている人の多くが、日本の場合はそうなんですね。そんなに声量もないし声域もない。なのに、何で魅力があるかというと、声質そのものにある場合もあるのですが、多くの場合は音楽の組み立てが、プレーヤーと同じようにできる。
ジャズなんかはそうですね。日本のジャズヴォーカルは、迫力もインパクトもないのですが、非常に音楽的に繊細な動かし方をしている人なんかは、高く評価される。だから逆に声のことや体のことが置き忘れられてしまう部分だということもなくはないのですけれどもね。

I:どっちも必要ですよね。

F:本当に両方必要なのですよ。

I:だから、バランスがとれるかとれないかのところで。

F:難しいですよね。だいたいどちらかですね。

I:これがいいとこれが悪いというふうになってしまうと、やっぱり機会均等に行われている、たとえばバランスのいいものの表現とか鑑賞になってしまって、歌は歌っていればいいし。鑑賞というと、レコード鑑賞となるが、そうではない。

F:そう。その両方が入らなければいけない。

I:歌うために聞くというか、声を聞いたり、相手の声を聞く。

F:ソロでも、自分で歌うと自分らしさが出たり、感情移入したりすると音楽は消えてしまうし、音楽に乗っているように歌っていると、どこの誰やら、本人はどこへ、という、その2つがとれる子というのは少ないですね。まして、声があったり声が良かったり声域声量があったり、高い声が出たりする子は、なかなか音楽的なところにいかない。

I:最近、民族音楽や日本音楽的なのものも取り入れられてきている。ただ、両方に共通的な、中国の昔の琴の調弦であるとか、完全5度を基本につくってあったりとか、どこかで三度にいく、インド、国が違うかもしれない、7度へいくとか、いろいろなところへ、5度の次にどこに持っていくかという発展が変わっていけると思うのですけれども。
たまたま3度のものにいってしまった国のものが、わりと西洋的に広まってきたけれど、それでいろいろなものを埋め合わせしようとして、だんだん平均律になってきたというのがあると思うのです。
5度はそう変わらない部分なのかなと思います。倍音の最初の部分もあると思うのですけれども。

そこを僕は最初、キーポイントでおさえて、無調の音楽は調性音楽で、自然の法則に従った動きというものを一回入れてから、そうではないものに壊したりとか、そうではない分野にチャレンジしたりとかというのはいいと思います。
教育の中では、そこを通すということが小さい子には必要だと思います。
たとえば、流れている音楽はいっぱいあるのですが、文部省唱歌の中に、ペンタトニック、5しか使っていない曲があるということには、僕はとっても意味を感じています。

I:機能的にそういう曲を一年生二年生の時に持ってくるというのは大事なのではないでしょうか。教材選択がジャンルではなくて、楽曲のファンクション、機能や構成要素をもう少しとらえて、教材選択をなさるといいと思います。
その5音を、たとえば「チューリップ」の「ミレド」、「ドレミ ドレミ ソミレドレミレ」という、「ソソミソララソ」、ドからラまでの音があって、その中へシャープやフラットが入ったり、半音が入ったりという曲を、その発展系で取り上げる。
それを一年生のうちにやってしまってもいいと思うのですが、構成音やモードの部分だけを見ても、そうなってるといいのに。

F:コールユーブンゲンのように、2度3度4度の順ではなくて、本来であればやりやすい順に、4度や7度なんかは、とっつきにくいでしょうし。

I:グローバルに考え過ぎて、むしろ現場的ではないかもしれないですけれども。本人の興味がどこに行こうが知ったことではなくて。もちろん動機づけは必要ですけれども。
でも、学校で音楽をやる役割としては、どこへその子の興味が向いても、ベーシックになる部分はおさえてほしいというのがあります。
そういう意味では、ペンタトニックの音程の前に、わらべ歌の「なべなべそこぬけ」みたいな、音程が3つしかないようなものをやるべきだと思います。そこから5つ、そこから半音程が入ってきてというような、そういうところでのつながり方ということ、学習指導要項に、そこまで反映できるのかはわかりませんけれども。

F:先生の力が必要だというのはありますね。

I:やっぱり私の仕事は、そこかなあと思っているのです。芸能や芸術とも、教育ともつながった状態で、最終的には国の音楽教育をどういうふうに方向付けていくかというところで、提言ができればいいと思います。

F:言語教育や、ことばの表現から、劇団の方はいろいろと注文を入れているようです。
教育までは変わらないですけれどもね。彼らが忘れてしまうのは、音楽面のこと、それはいい加減に扱われています。
だから、私なんかはコールユーブンゲンなんかがある分にはいいのですが、もっと日本的なものはあるべきだと考えます。それから日本人が西洋の音楽を勉強するとしたら、向こうのものから入るのではなくて、その前のベースのものを最初にやる。日本は5音だから、まず5音でやったらどうだと、いきなりそこまで行ってしまう。

I:でも、明治より後ですよね。向こうへ行って研究をしてきて、東京の芸大の前のところで、曲をいっぱい作られた方々の時に文部省唱歌は作られていて、西洋の長調短調の基礎をやるために、特に長調の概念を持つために作られたというくらい、あのころのは多いですよね。

F:基本的に、日本の歌は短調で、その前の時代の、長唄とかまで全部入ってきてしまう。そこでも違うのですが。

I:勉強したけれども、こういうふうに書いてって、4つくらいありましたよね。その音程の取り方とは、また別に概念を持たなければいけなくて、あれが始まったのだろうという。今、長調や短調の概念の中で、ほとんど動いていて、そうではないものもいっぱい出てきてはいますが、機能的な部分ではそのへんは基本なのかなと。教会旋法まで変える必要はないと思うのです。

F:日本人の基本というのもあるのでしょう。さかのぼると、人間の、あるいは生物体としての基本の部分に入ってしまう。今、街で、日本の古来のものが流れているわけでもないし、そういうものを聞いているわけではない。
簡単なのは、小さいころに聞いていたり入っているものを、きちんとゆっくりと繰り返し学んでいく。しかし、耳に入っていないことには仕方がない。だから、雅楽でも声明でも、それが入っていることには取り出せるものがあればよいのですが。
本当にここ10年20年は、まったく入っていない子も、あるいは少しは入っていてもデジタル音で全部、ゲームの音楽で一杯になっているともいえるですけれども。

I:そういう面もありますね。

F:一番いいのは、生活ともに入ってようなもの。要は音だけではなくて、育った体験と一緒に入ったものというのは豊かなものです。

I:わらべ歌や民謡だったり。

F:昔はそう言えていた。今は、「かもめかもめ」「とおりゃんせ」をやれというわけではない。
幼稚園のあたりでは、何となくやっているようなことというのは、もしかすると街中ではなくても、ベースになる。少なくとも、あのころまではベースになったわけです。そこらへんも、向こうのものが安易に入ってきて、何となく向こうのものはかっこいい、日本のものはダサいというような感じになってくるのでしょう。

I:100年経ったので、でもいろいろな蓄積はあるので、いろいろな音楽に日本は取り組んでいる。でもそのころの唱歌的なものや和楽的な中に、いくつか音楽教育価値の高い、というかそういう要素を持った曲はありますよね。

F:源氏物語を読めば、すぐに日本語ですばらしい文章が書けるわけではないけれども、何かしらの美的感覚や何かを作る時のちょっとした判断力として、そういうものがあるのとないのとでは全然違うでしょう。全然違うというより、日本はそんなことを言わなければいけないのをおかしいのであって、ほかの国だと、それはどこかで入っている。教会とか街中とか、そこの部分ですよね。

I:たとえば「海」や「チューリップ」を教えられる先生というのは、あまりいらっしゃらないのかもしれないですね。歌えてしまうので、歌って終わり、もっと歌詞をよく読むとやっていくと、国語の授業になってしまう。それは国語ですればいい。

F:日本の歌の場合は、勉強させると、役者ではないけれども、役者的感性のある人の方が強いから、国語になってしまう。歌を音楽としてではなくて、詩とその背景で聞いてしまう。

I:大事ですけれどもね。でも、そっちに偏り過ぎています。数学では足し算であるとか、繰り上がりの仕方がどうなっているかということは、算数の教材研究の中で、学校の先生は勉強するわけですよね。
昔の、音楽では何を勉強してるかというと、音楽史であるとかいろいろなことをやると思うのですけれども、音楽科教育教材研究で、とても基本的な、ペンタトニックの曲を、どういう構造でどういうふうに指導するかということ、ペンタトニックであるとは、どういうことなのかというのは、やっぱり触れられずにいく。皆さん、それはスタンダードではない話になってしまうので、音大のゼミでしか、純正律は語られないとかになっていく(笑)。

F:そういう構成的なやり方というのは、日本の場合しない。たとえばユーミンの曲ってこういうふうに構成されていて、こういう特徴がある、この音は装飾音、経過音としてうんぬん、というようなことを1曲ずつ、いろいろなものを例にあげていくと、とてもわかりやすい。
知っているものを理屈で教わるのは簡単なんですが、理屈から教わるとわけのわからない。ピアノをやっている子だったらわかるでしょうが、長調短調だって、ラからはじまる、ドからはじまる、そんなやり方では(笑)。
人に教えるようになって、はじめて、こんな深い意味があったのかというのに気づく。こういうふうに小学生の先生が教えてくれていたら、どんなにわかりやすかっただろうというのがあります、本当に。

I:例えばハンドサイン、ドのハンドサイン、とりあえず皆で一緒に歌うというのをやった後に、最初に、別の音程でハモる、やはり完全5度入ることが多くて、ドとソをハモってみましょうと。
半音一つを、先生向けの説明としては、平均律は700セントなのだけれども、ハモラせようと思うと、2くらい、2セント高くという意味ですよ、だから子供たちにも、下がったときは、こう上げてくださいという、まゆ毛を上げててもいい、目を大きく開いてでも、ほっぺた上げてでも、ちょっと笑ってでもいい。

言い方はいろいろ、僕らは2セントでも上に行こうと思ったら、重力に逆らわなければいけないので、結構つらい。おろすのは楽だけれども、上げるのはすごく力が要ります。それもドは安定させたままで、少し引きあげるような作業というのを最初に、ハモり時にやる感じです。
そこから、調和音、ドミソに入っていく場合もあるし、ミを少しドとソに比べれば、少し柔らかく、少し下げて、先生には数字をちゃんと言います。でも、それを狙うことが目的ではなくて、だいたいその辺でいい音と、でも、ドとソを決めなければミは入れないから、そちらの方が重要度は高いという部分の感覚をつけてもらう。

ドとソがあるのだったら、この702セント、さらに上にレがあるので、その9度の高い感じというか、普通ポップスではよくやるけれども、濃い感情を出そうと思ったら、主音、たとえば和音でみても主音と9度離れたほうがいいし、調でいったら短調の第2音目、長調の第2音目とか、ドだったらレの音が、いつも高めにきてくれないと、その下の属音とハモって属和音を作れないので、いつもそれを広く全音域ということを練習していったりという。
その感覚を付けた後は、あとは好きに歌えばいいんじゃないという感じなんです。一度そこは通した方が、感覚的に音程をあの子、格好よく歌うよね、という感覚的なことは感覚的ではなくて、僕ら大人になってからでも、理屈を考えていっても、子供の時は体験させてあげればいい。

それを「海」や「チューリップ」を使って、ペンタトニックのものを使ってやってから、ハーモニーとか。違うアレンジになったら、音程は揺らぐので、それはレファラのレは低いんだけれども、どっちをとるかはセンスなのだけど、センスだと逃げてしまうので、躍動的に音楽が動いていて、旋律性が優先されている。
和音的に、たとえば属和音でとまっているときには、レは絶対に暗いだろうし、そうでなくて、レファラのレとか、ファラドを使っているサブドミナント系の音を使う、しかもゆったり音楽が流れているとき、和音をつくっているだけだったら、さらに低いほうがいいかなと。
でも、それはやっぱり最終的に決めるのは、耳で決めていく。要は瞬間的なハーモニーの完全5度とるのか、旋律的な調の音をとるのかの部分は、揺らいでいく音は絶対にあると思います。

F:本当に言葉を転がしていったら、旋律ができてきたり、音を出していったら、ハモッていたり、小学生相手になる。

I:何となくにはなっている部分を、ちょっと一回、先生向けにも生徒向けにも、紐解いている感じで、それをどう使うか、どう表現されるかというのは、もう少し先なのかな。

F:表現まで入る必要はたぶんない。ユニゾンで充分。

I:そうです。ユニゾンでも、ノリの練習はユニゾンでできる。

F:難しいのは、子供によって、ハモッているという感覚がすぐ分かる子や、倍音が聞こえてくる子もいれば、まったくそれこそビジュアルでやったり、絵を書いてやったほうがわかる子とがいる(笑)。

I:ただ、先生の言葉掛け一つで変わってくるとは思うので、それが、先生レベルでは、たとえば算数で繰り上がりの仕方は、7+8=5と5を足して2と3をあとで足してなど、いろいろなやり方があります。先生は知っていても、教えなくてもいいし、ただ引き出してあげるというのは必要なのかなと思うので。歌でもこれのがハモるとか、こっちの方が格好いいなとか。

F:普通に音を出しても、ピアノから勉強するのとギターから勉強するのと違いますよね。両方の楽器で見れば、音の仕組みはとてもわかりやすくなるけれど、ピアノだけだったら分かりにくい。

I:コードとして捉えづらい。

F:2つの楽器をやらせてあげるとよい。実際にいろいろな現場の中では、ドラムがあると、ある高さの声に対して振動したりしますよね。たとえば上のレが出たら、それに合って、ブルブル鳴り出したりする。そうしたら、そのくらいのところから、この音の存在、音って動いていて、それは振動なんだとか、物理的現象なんだとか、そういうもっと基本的なところが全部抜けたまま、いってしまっている。

I:とっても感情は大事だし、情操的には大事なのですが、もうちょっと精神的に高い、むしろ数学の美しさとか美術の美しさに近いような形での音楽の美しさの部分をを伝えたい。

F:いわゆる、デジタル的といっては変ですけれど、楽譜を見てみて、これが数学的と思うような、ひとつの論理の中の美しさ。

I:論理かな、そうですね。

F:勝手に歌ってごらんといって、自分で作詞作曲で曲をつけさせたら、大体自分の中に入っているメロディしか出てこない。ろくなのができないというか、10個つくってみたって、大体似たものになります。でも、それが、その子のもっているベースではあるのですよね。

I:それを消さないで、あまりロジカルに作りすぎるとベートーベン、モーツァルトになっていってしまうので(笑)、それをポップス的にするにはどうすればいいのか。

F:ポップスの中でロジカルって、たとえば自分で10曲つくってみると。10曲つくってみた中で、自分が一番いい曲と思う曲、7つの音でほぼできる。1オクターブの全部の音を使って、前衛音楽でもない限り、頭が壊れてでもない限り、12音も使わない。今のがいい歌、思うのだったら、それを楽譜に書いてみたら、こんなにきれいにしっくり書けてしまうと。
歌詞はまだいらないわけですね。
メロディは7音スケールに、せいぜい一つか二つ、フラット、シャープくらい書けてしまう。それが一つの論理性ですよね。めちゃめちゃに音が使われていくのではないと。人によってはどんどん転調していってしまったりする場合があるのでしょうけれど。

I:和音を勉強すると面白いのですが、コードから入ると、子供は喜びます。コード理論の講師やっているときもあります。ハモりをやるために。

F:この前の先生なんかは、「俺の音楽理論はコードしか教えない」と言っていましたが。そこから入ったほうがわかりやすいですよね。特に合唱をやる人なんかは、コードそのものですものね。

I:僕はどちらかというと、純正律は何をやっているかというと、むしろ、調性、調律ですよね。ハモる人って調律しないですよね。オケなんかはしますけれど。
キーをまず調音の位置を合わせて、それからどういう調律の中で自分たちが歌うか、一緒の調律の中で歌うよねという。僕のと君のと違うけどみたいな(笑)。

F:基本的には、ある程度、相対音感のなかで進めていくわけですね。

I:ただ、ある程度、絶対的に近づけておかなければいけない音と、後は遊びの音と、基本的な5音階くらいは違わないようにしておく必要があるけれど。

F:今の合唱団って、固定ドを使われているのですか。

I:どうなんでしょうね。ケース・バイ・ケースだと思います。ちょっと、移動ドが見直されてきていますが、どちらかという議論がありますけれど、どっちも必要ではないかと思いますけれど。

F:フラットとシャープが4つ以上ついたら、移動でしないと、わけがわからなくなってしまう(笑)。

I:自分で音声やるときには固定ドでやっていますね。レファラドミとか思いながらやっています(笑)。

F:小さい頃にピアノをやっていたので、絶対音感だけはあって。

I:すごい。僕は絶対音感がないんです。

F:それがすごく邪魔するんですよ。トランスポーションで弾けない。でもうちのピアニストは、絶対音感があるのに切りかえて弾けてしまうのです。

I:それはすごい。

F:ドの音を出しているのにミの音が聞こえてくると、できないとすごく不便なのです。トランスポーションを電子ピアノでやってしまえば、全部C調で弾けてしまう。

I:100セントずつでしか動かせないということですよね。僕にとっては、すごく不便な。もっとあいまいな音程を歌いたいというのが。

F:いまだに絶対音階が必要って、それを身につけたいと、かなり音楽的能力が高い人でも、いますよね。

I:デジタルに音楽をとらえていくには。でも僕からすると、何か音楽的ではない感じですね。

F:便利なのはアレンジャー、どこかの曲をパッと聞いたときに、原譜で書ける。

I:旋律を意識させるのか、旋律としての移動する美しさとハモる美しさは別だと思うのです。ハーモニーばかりやっていくと、その瞬間瞬間のハーモニーばかりがよくても、一人ひとりがぐちぐちゃな音程だと、バランスのとれる指導を開発しなければと。今は、その開発に興味があります。

F:部分部分はきちんと完成度を高めなければいけないけれど、音楽である以上、時間軸で、当然、流れに乗せなければね。コード、音程はたて、リズムのグルーヴみたいなものはよこ、織りなるものですから。

I:リズムの話、聞くことが大事だよねという。「あーきのゆうひー(拍)にー(拍)」という、拍が「あーきのゆうひー(無)にー(無)」と、ないところを意識しないと、急いだりとかずれたりとかしていく。でも、カノンになったときには、「あーきのゆう あーきのゆう」というふうに、音があるので、大体クラシック、ポップス、ジャズでも拍の頭は、誰かが叩いている。パーカッションかもしれないしベースかもしれないし、混声合唱の中でもアカペラだったら誰かが歌っている、それを誰もそこまで打点をしないところがある部分というのが、リズムの合わせづらいところです。そこの部分を一緒に4人なり5人なり、パート全員、合唱団全員が感じないと動けないというところは、あまり皆さん練習させないというか、逆にいうと回数でやっている。

F:リズムトレーニングで、音楽から入る部分ですね。そこはポップスでも同じで、日本人というのは、打ったところしかカウントしません。俳句の5・7・5も、あれも8・8・8をカウントしたら、8ビートです。
英語だと、リズムの等時性をとっていきますから、しゃべっている間にカウントを入れていくから、言っても言わなくても、それが進んでいくけれど、日本語はそれがない。
日本の音楽自体にも、元々なかったですからね、間というのが、演奏者の一つの感覚で、声明みたいな、どこから入ってもいいし、どこの音程から、どう展開してもいいしというようなもの、ああいう今の子や今の時代には、逆に日本人には入っていないから、どうなのかなというのはありますね。

I:リズムから見たら面白いですね。1拍目からはじまるのか、1拍目裏からはじまるのか、たまたま8ビートだと思ったら、「タタタタタ ・ タタタタタタタ タタタタタ ・ 」といくのと「タタタタタ ・ ・タタタタタタタタタタタタ」とくるのと言葉によって変わってきますから、たとえばもっとずれて動くときもあるし、そのリズムのずれ、こういうリズムになるような俳句をしてきましょうとか、国語とかでやる、音楽の授業になるのかな(笑)。

F:日本の場合はそうなってしまうのですよね。

I:一応、シラブルが一音ですから、そういうやり方もできなくはない。
あ、フェイクとこぶしって何か似ていますよね。息を流しながらやるとフェイクで、息を止めながらやるとこぶしっぽくなる。

F:喉の使い方みたいなもの。

I:そういう一音で動き回るといっては変ですが、動きというのも曲の中に。

F:あれもこぶしを覚えてしまっている人が、フェイクをつけないように歌うというのは、小さいころに民謡をやって、先生についている人には、また大変。邦楽の発声が一回ついていると、直しにくい。ただ、今の時代になると、それも個性と見てしまったほうが、壊す必要はなくて、そこに味があるといういう見方で。

I:坂本九さんみたいに、その時代にたまたま合って売れてしまう人も、芸能ではいる。

F:元々、邦楽のベースのものが、西洋音楽っぽく開花するのが、おもしろい。外国人が歌っても、絶対にああはならないですからね。それが入っている人が強いというのは確かなんですよね。そこにはそこの何かしらこだわりがあるから、それが磨かれコラボすると面白いものが出てくるし。

I:民族音楽、日本音楽的な間のとり方で。

F:浪曲でもいいし、落語でも漫才でもいいのですが、ちょっとした間の掛け合いというのは、やっぱり練られているものであれば、お客さんに通用する。一番いいものをとっているわけですから。それが、ただの8ビートみたいになってしまうと、良さが伝わらなくなってしまう。本当はそっちから入った方がいいんですね。

I:日本の音楽だと、放物線のような感じがするので、出発されたところから落ちという、この落ちるまでの距離を、計るような間の取り方というのはあると思うのです。
向こうは、逆に飛んでいるあたりが、テンポが変わらない限りだいたい一緒なので、もしくはビートが変わらない限り一緒なので、その中でどう動くかという、ちょっと物差しが違う、大きく二つは違う。

F:柔剣道とボクシングみたいな違い。だから日本人の場合は、向こうの感覚でパッと入れないんですよね。言葉もそうですけれども、瞬間的につかみというか、頭の出だしは必ず遅れる。センスのいい子なんかは、逆にそこは取るのだけれども、そこをとっているだけ。
ヴォイストレーニングをやっていって一番難しいのは、体が変わっていくから、体や息と一緒にヴォイストレーニングをやっているときに、その先生がリズムをとれとか、音感を正しくしろというのは、全く矛盾するものを同時にやることになってしまう。

I:アンサンブルをやらせるときには、僕はだいたい体を動かしてもらう。

F:そうですよね。体で入るしかなくて、耳で聞いてから取れなんて言っていたら、もう遅れてしまうわけですから。でも、音楽スクールはそういうところが多いですね、アンサンブルは、よく聞いて、ドラムの音を聞いて入れよとか(笑)。

I:そうですよね。聞いていると遅いですよね。ただ、体の動きがあっていると入れる。その動きだけ説明しろといわれても難しい話なので。

F:その体が動かないんですよ。だから、動く子は逆にすごく器用だから、そうすると今度は、体からの声ではないところでやってしまう。マイクなんかあると口先でやれてしまう。そうすると、本当の意味で体の根本でコントロールしない声だから、今度は説得力もなければ、本当の意味では合わせられなくなってしまうのですね。

I:アカペラは手ぶらでできるので、歩かせています。同じテンポ、拍でいこうというときには。一人だけ歩き方が違うと、たぶん違うことを感じていると思うけれど。

F:ゴスペルなんかも、歩いてやればいいのでしょうが、それができる人が止まってやるのはいいのですが、止まっていて、合唱団のようにやるから難しい。
合唱団が等間隔に並んで歌うことに、違和感というか、あの先生はファシズムなんて言っていましたが、もう少し楽屋裏で騒いでいるような、その子たちの生活感覚で音楽が入ってきたらよい。最終的にはきちんと並ぶというのは、一つのきれいな見せ方だし、声の揃いもいいでしょうが。皆がバラバラの方向を見るというのは、無理でしょうが。

I:海外のプロ、日本も最近はできると思うのですけれど、オーケストラでは、だいたい指揮者なしで演奏できますからね。それを、指揮者がやりたいことをどう表現しようかという感じ。でもたぶん、日本のアマチュアのブラスでそれをやれといったら、合わないでしょうね。だから、合わせることについて、アンサンブルすることについて慣れていないので、指揮者は合わせるためにあるみたいになっているので。

F:誰かがテンポを、それは優秀なところだったら、皆テンポは取れるのでしょうけれど。

I:聞いて拍感であるとか、音程感であるとか、誰のリズムが出たら格好いいとか、そこはリーディング的な要素があったり。

F:基本的にピアノがついているわけですからね。なければ厳しいでしょうけれど、できるはず。声を出すから、全体の声は聞こえにくいでしょうからね。お互いの顔を見合えば、10人くらいまではできそうな気がしますけれどね。

I:やっぱり少人数は、そういう面では大事かと思いますね。クラス全員、30人40人で歌っているのというのは、個人にとっては。

F:だめでしょうね。かなりいい加減になってしまう、当然のことながら、ピッチなんかも落ちやすく、リズムも遅れがちになってしまうんでしょうしね。声を合わせて読ませるのと似ている。

I:行事を優先していると、その子がどう伸びているかというところについては。それは総合的に引き合う作業をさせるのであれば、もっとグループ活動、班活動なのでしょう。それで、最後に一緒に歌おうはありです。
ただ、学校のセレモニーのために音楽の授業が使われるというのは、どうしてもあると思うので、あまりそっちに向かいすぎると。

F:受け身になってしまうしね。日本の音楽をやっている子は、自分で先に進んでいくというのに、非常に恐れを抱く。遅れて出る分には目立たないのですが、先に出ると目立ってしまう。

I:1対他、だと怖いですよね。それが、1対1が集まっている状態だと、多少はやれるし言い合えるしという部分はあると思います。5人くらいだと、まあ、やるしかないですし、一人ひとつのパートだと。

F:日本の、ポップスの場合は、すごく単純に、シャープめにとっている子と、リズムを先に出る子のほうが優れているという(笑)。

I:そうですね、それはありますね(笑)。

F:テンションが高くポジティブにならないと、そうならないから。

I:やっぱり芸能商業的なものと、そこに向かう音楽学校と、普通の学校と、学校以外で遊んでいる子と、結構いろいろなものがかけ離れているような状態なのです。学校教育はどこへ向かっているのかというのは、外から見たときには、何か、必要ないんじゃない、議論しても、しょうがない内容になっている気がしますよね。じゃあ、何をやるかなという発想からですよね、逆にどの音楽にも役に立つし、どの音楽の基礎にもなる部分で、音楽家の存在をかけてやらなければいけないことは何だろうというときに、発想的に、どうしても大きな合奏も含めてですけど、アンサンブルなのかな。

だから、聞くことと演奏することを、いろいろな人間関係のバランスをとることに通じてくる部分もあると思うのですけれど、感情面、情操面を重視している音楽から、もう少しコミュニケーションの音楽にシフトしていかないと、その基礎を学校でやるようなことをしていかないと、音楽でやらなくても国語や体育でできるじゃないとか、他の科目に全部とって変わられる。
音楽特有の、算数はなきゃいけないよね、九九はやらなければいけないと思っているのだったら、音楽はそれと同じくらいの必要性がなくてもいいのといったら、やっぱりなければいけないと思うのです。もし学校でやろう、このまま、音楽家を残していこうと思うのだったら。九九をやるのと、同じくらいに。音楽は何をやるのといったときに、情操というのは、もう弱すぎるんじゃないかと思うので。

F:今だと、音楽療法が一番強いかもしれない。

I:そういう精神的なものや感情的なものであったりというのは、目に見えないものは確かに大事、「星の王子様」じゃないけれど、でもそれだけでは、純正律や理論が必要だということではなく、理論ではなくて、バランスをとる感覚は、どこの科でもできないし、とっても大事なことだと思う。

F:やっぱり実習、聞くことも含めて、実習的なものでしょう。理科のなかで実験なんかが面白いのと同じで、そのレベルで落とせればよいですね。
体育が好きな子が、音楽が好きというふうにならなければ、本当はおかしな話。国語が好きな子はもっといい、全部が嫌いな子はまた別でしょうけれど。だからリズムや音感になれば、日常との接点ですね、音楽なんかが一番、日常から遠くなって、国語は勉強しておかないとしゃべれないし読めないし、算数は計算ができないとお金の勘定がと。そういうものに対して、音楽も必要、体育だと本当は体力がないとやっていけないと、一番大切なことかもしれない。その意味はあるのですが、現場でややこしくなってしまっているだけの話ですよね。

I:私は、たまたま芸能で動いていたら、授業もビジネスもやってはいるのですけれど、一番自分が生きていく上でのコンセプトというのは、音楽でコミュニケーションをする、アンサンブルすることの文化、文明にまでなればいいのですけれどもね、インターナショナルに通用するやり方で、特にアジアの中で、それがコミュニケーションの手段、そういうバランスをとれる人間づくりの基礎になるようなものをつくりたいなと。
ヤマハは、オルガン教育からはじまって、ピアノ。どちらかといえば、語弊がなくいえば、ゴスペル教室をやっているというのだけれども、基盤になっている考え方はソロからはじまっている。
それに見合う理論、プログラムを開発したビジネスがしたい。誰かが引き継いでいくためのものを開発、学校教育でも使われるのであれば、それのもとの部分が作れるといいなと思います。

F:私なんかは、ここは専門の先生にまかせていますから、やることは、世界中のいい音楽を生徒に紹介してあげること、いい先生も。それをこのスタジオを使って、家よりはいい音響で聞く。
今ここでかけているのは、一つの曲をヴォーカルが5,6人歌ったもので、徹底して比べてみる。
特に日本人は向こうのものを受けて、歌っている歌手がたくさんいますから、それが原曲と比べてどう違うのか。そこの耳がなければ音楽はわかりにくい。比較というのはひとつのやり方ですね。だから、わかる子はいいのです、プロの子みたいに、自分でできてしまう子は、自分でやればよい。

I:逆なんかは面白いですね。アジアの人は日本のものをカバーして歌っている人がいる。日本人のオリジナルと向こうのものを聞くのも面白いかもしれません。

F:結構うまいですね。U以上のレベルの歌い手はたくさんいますよね。台湾や中国に行くと買ってくるのですが、日本のも日本で買うより安いんですよ。

I:フィリピンとか韓国は最近面白いと思います。フィリピンは、スペイン支配が長くて、ラテンベースがポップスなんですね。あれは面白い。ヴォイスはアジアン。
そういう人たちが日本のものをアレンジして歌っているのは面白い。韓国の人たちは、とてもことばを自分たちにつけて大事にして。

F:彼らは、子音が多い、息が吐けるから、ロックなんかを歌うと、欧米のとわからないくらい、完成度というより迫力がありますよね。

I:日本みたいに母音が全部ついて終わるという歌い方ではなくて。

F:結構息を吐くんですよ。だから、欧米のものは全世界で取り上げられているけれど、そういうものでいうと、日本のなんかよりは、うまく同化している部分がありますよね。

I:意味を伝えるのに、音節を少なくしますよね。韓国も。日本語は音節が多いので、ひとつのことを言うのに、言葉を縮めるしかない。

F:最近、ひとつの音にたくさんつけていたりするけれど、結局、3連符や5連符になってしまう。全部同じように打っているだけで、きちんとことばがまわっていないんですよね。ラップでも、頭だけ打っていて、あとは後ろのほうはエコーでカバー。

I:日本語で省略ことばが流行るのは、わからなくはないですね。もっと気持ちを早く伝えたいというのは皆ある。東京のほうから、テンポの速い地域から、どんどん言葉が短くなっていく。英語や韓国語、中国語とかは、音節が少なく意味が伝えられる分。

F:昔の訳し方では、原詞の意味の3分の1くらいになってしまいますからね。

I:その分、俳句や短歌は、気持ちを凝縮していくようなものは発展してくるんでしょう。それは海外に受け入れられるんでしょうね。言葉と結びつく部分に音楽、特に歌がある、最終的には表現しているという。そこはどうなんでしょうね、すぐれた言葉づくりがあった状態で、音楽の時間は音楽をしたほうがいいのかなという気がしますね。

F:国語の時間も、聞くことと話すことが中心になってくるし、英語もそっちのほうにだんだん変わっているので、そういうものがベースにあれば。

I:向こうは文字と音ですから、逆にいうと音の部分が学校教育で弱い。その部分は、向こうで音楽としてではなくて、音声としての音をもっと開発してほしいという気がします。そこの中にリズムもテンポもイントネーションも、いろいろなものがあると思うので。

F:あとは楽器ですよね。それこそ合奏すれば結構、楽かなという気がしますね。リコーダーだけで終わってしまうのは、もったいない。

I:自分で、一つコードが鳴らせられるピアノやギターのような楽器というのは、楽しい、というか、やれるようになってくると面白い。ひとりでもアンサンブルできる。

F:もしかすると、パソコンでそういうものがある程度できたりするかもしれない。昔の日本の楽器ではないけれど、もう少し簡単な、打楽器から入る。
あとは音楽鑑賞、クラシックからとるのもいいのですが、ある時代のある曲に偏りすぎていますよね。昔の歴史の教科書みたいなもので、ほとんど西洋だけ。それを全世界的な、楽器も、いろいろなものに触れさせたい。日本の歌謡曲、演歌あたりだって、クラシックでできていると思いますけれどね。

I:そうですね。鑑賞も必要ですよね。商業音楽に乗っていないような音楽を聞く時間というのは、やっぱり音楽の時間ですよね。

F:ここなんかも、キューバの音楽をかけると、全部がわかるわけではないのですが、わかる子やすごく敏感な子も、それに対して反応する。西洋音楽は受け入れられないけれども、どこかの国のものに対しては感受性の働く子というのはいると思う。ベートーベンでもモーツァルトでも全然違うが、でも大きく見てしまうと一つの文化圏の一時代に入ってしまうわけです。

I:時代も違いますけれど、レコードは一つのレコードという作品ですし。実際に演奏したものとは違うものが多いので、その辺をやりはじめるときりがないですけれども。

F:そう、きりがないというのはあるんですけれどもね。

I:でも、たとえば加工できるものは現代としてとらえて、加工できない生録するしかなかったものはクラシックとして。すべて民族音楽ですけれどもね、その文化文化で。

F:だからといって、音楽の時間、先生にQueenのDVDを上映してほしくはないなという気もするし(笑)。

I:系譜を勉強するのはある程度、大事でしょうね。

F:最初の楽器作りから、やりたい。縄文の時代から全部たどって、ぜいたくですけれども、音楽の。でも大学に行かないと無理かなあ。

I:地域がばらばらだし、難しいですけれども。その辺はハンガリーなんかをまねしてもいいのかなと思いますね。学校の時では、自国の民謡、わらべ歌をきちんとそれをやる。面白くないかもしれないけれど、そこが元になってポップスができているとかいうところの道筋をつけてあげるところが、学校、先生で大事なところなのかと。

F:せっかく歌舞伎や能、狂言なんかの舞台の鑑賞があっても、あれを音楽とは誰も見ないで行っているんですね。古典を見に行っている。音楽の一番いい授業なんですけれども。ああいうものの実習をやったりするような学校もあるみたい。みんな頭の中で区分けしてしまって、すべての授業に音楽が入っているとは言わないけど、、リズムや呼吸、声なんかというのは入っているわけですからね。

I:鑑賞でいうと、越天楽を流れているのを聞いて終わりというのではなくて、それを実習してみるのもいいのです。けれども、たとえば、吉田兄弟が三味線でやっていますが、雅楽の人がやっているバージョン、ショーだけで一本で都はるみさんがやっているバージョンとか、いろいろなものへ皆、チャレンジしているのが、現代のものでどうつながっているかということを聞かせるのもいい。
わらべ歌や文部省唱歌でやっているような歌というのは、この音系譜でいっているものは、たとえば最近流行りのこの曲と一緒だよというようなところまで。

F:結びつきは、先生が少しでもつけてあげると、大きいのですよ。社会科見学でも、社会の授業の地域文化でも音楽にかかわってくるでしょう。祭りでも修学旅行でお寺やお宮さんに行ったら、声明から雅楽、せっかくそういうものを聞いたり、身近に聞く機会があっても、だれもそれを説明せずに、接点を付けないと、子供は分からない。すべてに音楽があってという、すべての教科のつながり、音楽だけではないでしょうけれどもね。あまりに教科が分かれて、そこの関連が取れない。

それぞれの教科というのは、一体何のためにやっているのか、どういう関係があるのかというのは、どこの先生がやるのかわからないですけれども、そういう位置づけがあると。私なんか大人になって、駅のベルになんの曲を使ったりしているか、目ざといことは気づいたりするんだけど、それまでそれを音楽とは思わない、音の働きとは思わないんですね。

I:純正律を研究している先生、中央線は自殺が多いとかいいますよね。でも実際あるかもしれない。純正律的に見たときに、第5音が低かったりとか。
今はそうではないけれど、昔のK.Aさんとか、何となく音程が第2音が低い。普通にドレミファソファミレドのときに、レが低くなってしまう人はいる。感情的に関わっているか、だるい感じ。それは度を越えてしまうと、音程が合っていないといわれてしまうかもしれない。

F:どの辺までが許されるのかというのが、その人の個性によってずいぶん違うところがある。

I:たまにCのコードでレのときは高くいってほしいんだけど、そのときにとドレーといってしまうと、完全5度がつぶれた感じになって、結構きついかなと。

F:普通は上がるときに上がり切れない音と、落ちるときに下がりきれない音と、何パターンかその人によって違いますね。でもその辺は今の子たちのは、気にならなくなりましたね。それも一つの個性かなと。そのずれが心地悪く聞こえるとき以外は、悪くないんだけど。

I:個性にいけるときもありますよね。

F:私の感覚としては、自分の専門的な耳で見るのは、作曲家の人にまかせて、お客さんの耳で聞いて、客としてこれがわからなければいいというレベルで聞く。

I:商業音楽的にはそれでいいんですけれど、教育や芸術になってきた場合は、ある程度、ここ数十年のことを歴史を変えてしまうことだから、生理的にはあまり気持ちよくないものは。

F:その生理的な問題なんです。その生理がどこにあるのかを、どこにとるのかということ。

I:長期、大局ではないけれど、振動、周波数が簡単な状態のほうが、精神的にはたぶんいい。もし時間があれば研究したいですけれどね。

M:でも生理的に、振動数の調和する。

I:α波が出ているはずですよね。

F:声になるとすごく難しい。楽器だと簡単なのです。狂いは絶対に許されないことなんですけれど、声になると、全体のバランスの中で、どの音をとっているかということと、客がどうとらえるかということ、発信側だけではなくて、受け手側のとらえ方がすごく大きくなってしまう。

I:音や音程だけではないところもあります。

F:ことばを聞いている人に対して、音程を外れても気にならないかもしれない。ことばや生の声は、音楽より強い。だから、純粋に物理的なものだけで、判断できない比率が大きい。
楽器的にチェックすることやクラシック的にチェックすることもできるのですが、ことばを読んでいる詩人が、そこにメロディをつけて、そのメロディにどこまでの音楽的な完全を求めるかということ。

たとえば詩人のステージの音楽性というのは、あまり意味のないことになってしまう。客は、ことばの音楽性はともかく、音楽には何も求めていないし、歌が上手下手ということも。結果的にそうなってしまうんですよね。だから、そこは難しいですね。そういってしまうと、基準がなくなってしまうのかというと、それはよくない。私は、音楽にこだわる方ですが。

I:たぶん、音程が決まるということ以前に、音程を決めることによって生じてくる、ファンクションが、「なんとかではなーい」という曲があるとすると「なー」のときに属和音でドミナント機能が働いているので、しかも上から下へ降りるとしたら、その雰囲気があれば、音程がくずれるというのは、ファンクションが入っていれば、「い」がちゃんとドに終わらなくてもよい。

F:はい。もう一つは、全体のルールですよね。そこまではそうやった、ところが同じものが次のときにでたらめのことをやって、その連続を聞いているうちに不快になってくるときがあります。
一回目から若干狂っているのだけど、それが再現されていくと妙に味が出てきて、これはこの人なりに完成された作品だなあと、ファンにはよいが、でも自分は合わないという判断はできてしまうという部分はよくある。

I:合唱団を聞いていて、曲が進んでいくごとにハモッていくグループとハモッていかないグループが結構ある。ハモッてくると気持ちいいのですが、ハモッていかないのは、それはそれで、意図的にそれをやっているのなら、面白い演奏方法だと思えるときもあります。進んでいくごとに不快感を与える演奏というのでさえ、ステージの中では演出的に続けるのであればありですよね。

F:それがお客さんと、私なんかは、まったく違う。その人間が3番まで歌ったら、1番を聞いたものを完全に入れた上で、2番3番を比べるから、だんだん2番3番でやっていっても、テンションが落ちて、私の評価はだめということになってしまう。ところがお客さんにとってみたら、3番の最後がよければいいんですよ。1番がへたくそで、2番がちょっとよくなって、3番がよかったらよい。

I:気持ち的にはどんどんよくなっていく。

F:逆だと困る。でもそれを曲1曲での完成度とみたときに、そこに大きな改善の余地がある。全部がよくなければ本来はよくないのが、その辺が聞き手の音の世界となると、時間だから。絵は誰が見ても客観性があるけれど、音は残っていくものだから、残っているのを積み重ねて聞いている人と、そこだけ聞いていく人とは、判断基準が全然違います。私がコメントしてみても、わからない人はしかたないし、そう聞く奴もいるんだとしか言えない立場ではありますよね。音の世界は難しいですね。日本人の場合、構成的に聞いている人は少ない。

I:私もそう思います。

F:情緒的に聞いています。ほとんどは感情論じゃないかというところになる。音楽になると全然聞いていない。
私は自分を越えて客観的に聞かなければいかなければいけないと思うので、理屈で説明できるように心掛けてきました。いつもプロが相手でしたから。1回目はこう歌ったのに対して、2回目の頭はこう歌っていないじゃないか、何か論理をもっと言えないと、よかった悪かったではよくない。そうすると音楽の構成、つまり論理に頼るのですよね。
それが許されなければ、音楽を抜きにしても、その人がつくったルール、あなた、1番でこういうルールをつくったはずだ、それに対して2番3番、反することをやっているじゃないかと、それは不快だということですよね。

I:長い時間で音楽をとらえるということは、構成をつけて歌う。

F:プロデューサーあたりも、ことばの情感や歌声そのもののところでしか聞いていない。音楽の作り方はあまり聞いていないですね。作曲家やアレンジャーがやってしまう。

I:4小節以上の流れで聞いてない。その部分がとれればOK出しちゃう。

F:それは昔から、日本の特徴ですね。歌って、たとえばABAとかAABCとかなっているのに、その意味の自覚がない。
もっと言えば1番2番3番とあるから、そう歌っているのであって、それが3つ繰り返されている意味がない歌い方やアレンジの仕方がすごく多い。特に向こうのものを移してきた歌は、向こうの人は6番まで歌うけれど、日本では2番でやめるべきで3番を歌うから壊れてしまうというようなものも、平気で6番まで歌ったりする。とにかく形そっくりに左右されてしまうのですね。そして、似ている、そっくりがよいと歌い手も客も思うから、本物っぽいという妥協で成り立つ。

生徒の歌をアカペラで聞いていると、Aメロってどこまでなんだよととなる。逆に1番歌ったけれど、それが3曲聞こえてしまうということもある。ブロックという考え、ブロックの中で合わさっていて組み合われているというような捉え方を、歌い手が元々していない。
歌詞の中ではしている。ストーリーが移っていくにつれて。サビとそうでないところくらいはあるのだけれど、それ以外でAメロが2回繰り返してサビというのは、Aメロを1回でサビみたいな感じだったり、Aメロが4つ、どちらかというと、まとまりをとらず、細かくしますね。

I:リズムの一番小さいところは、指揮者はもちろん感じなければいけないだろうし、一般の人たちは16ビートか8ビートかというのは、感じていなければいけない。けれど、リズムチャンネルと拍を感じるビートのチャンネルと、フレージングしている、4や8小節のフレーズ、もっと大きく練習番号ごとかもしれませんが、3つ4つのリズムやテンポ、拍に対するチャンネルを、複数チャンネルで感じる力が必要ですね。

F:それがないですね。ヴォーカルは、楽器の人と違い、単旋律、自分のメロディしか感じていない。少なくとも下のベースの音を感じなければできないはずだし、セッション感覚がないんですね。バンドはバンドでセッションして進んでいるのに、そこに入りきれないで、上だけなってしまう。

I:それももし一人で歌うのだったら、なっていない音を想像する。

F:はじめから形がすごく決まりすぎている。インストゥルメンタルは休み。日本人らしい。本来は一緒にずっと歌っているはずなんですけどね。

I:そこの中で、今鳴っていない音を聞いたり、誰もとらなかった拍を聞くという部分もそうでしょうけれど。歌おうとする先をイメージする力をつけるのは大事かなと思います。

F:バンドのチューニングがおかしかったり、リズムがおかしければ、まずヴォーカルにすぐに響いてくるはずだけど、案外とわからない。それは自分で心地いいとか歌いやすいとかにくいとかで、わかるはず。結構歌いにくい状態でやっていますよね。
日本でもバンドは優秀ですから、プレーヤーがヴォーカルにアドバイスすればいいと思いますが、できないんですよね。バンドは言葉がないのと、ヴォーカルは特別で、俺らは歌えないから言えないという、変はコンプレックスがある。
僕は有名なギタリストに一回、ヴォーカルのああいうの許すんですか、というと、俺ら歌えないからよくわからないんだと。バンド同士では厳しいチェックが入るのですよね。ドラムに対してベースが言い、お互いで音、呼吸も合っているのに。やっぱり歌とのセッションができない。

M:さっき、コダーイの話をしましたが、自国の民謡なんかを大事にして、それをベースにカリキュラムをつくるというのがありますよね。
日本の場合は、一方ではわらべ歌や文部省唱歌を大事にするという動きがあって、一方では、西洋から音楽家が輸入してきたものを移植したものと、ねじれて、整合性がない気がするんですね。

I:僕もいろいろわらべ歌を調べてペンタトニックの曲を探しているときに、これは明治なんだ、これは昭和なんだと分けたのですが、あのころ伊沢修二先生がされているのがあって、その前はなかった。西洋のものをそのまま、子供たちの教育のために、意図がかなりあって書かれたと思うのですね。

F:唱歌とかは、全部、明治以降ですね。演歌でも西洋音楽、その前のものとは違っている。

I:何でわざわざそういうものをつくったかというと、その頃のは、商業音楽ではないんですよね。ということは教育のために、西洋音楽を受け入れるための下地が、その辺にあると思うのですね。

F:体の運動化の西欧化のためのラジオ体操みたいなものと、あとは小説の口語文の文体一致というか、しゃべっているものと文字を一致させるのと、連動していたんでしょうね。だから北原白秋あたりの人たちのがどんどん歌になったり。

I:ただ曲は残ったけれど、考え方が引き継がれなかった、考え方が、引き継がれている状態ではないですよね。現代になると、わらべ歌なのかポップスなのかというふうな議論というのは、教育の中ではジャンルとして必要なのではない。子供の準備段階、発達段階がどうなっているとか、音楽の系譜をどう伝えていって、身につけさせたいことは何で、知らせたいことは何という、計画的なことが教育は必要だと思うのです。
そこの部分なしに教材選択やわらべ歌が大事ということは思わない。
わらべ歌の中でも、部分的にこれは使ったほうがいいのではないかというのもある。この段階では使っていいけれど、この段階ではいらないというような、取捨選択には、もうちょっと楽曲をきちんと分析するべきです。それは感情的な分析ではなくて、物理的に研究するということと思います。

F:なぜそういう歌が生まれたという部分もありますが、日本人が受け入れて、流行した部分もある。
文部省唱歌ということでも、すべて上からきたものといえない部分もある。それは意図的につくった部分もあるでしょうけれど、それを言ってしまうと、戦後の歌謡曲から今のJ-POPまで、全部向こうのものをアレンジしているのも確か、それは日本の昔からの文化そのものですよね。

I:私がさっき受け入れたと言っていたのは、かなり意図的にヨナヌキ音階が多いと思うのです。F先生が言われた昭和や戦後の部分というのは、商業音楽の部分の西洋音楽な部分で、むしろリズムやグルーヴだったりする部分だと思うんです。教育の中で使うということであれば、その中にいくつかいい教材はある。でも選ばなければいけないと思うのです。
わらべ歌がいいとか文部省唱歌がいいということではなく、それを使って何をするかの部分をきちんともって。
忘れかけている音程感は、人間として残していきたい、日本人は残していきたいということであれば、そこを根っこに残していくこともできるだろうし、それだけでは現代の音楽にも楽しみということにも対応したいということであれば、どこからどういうふうに、今の現代の音楽につながっているのかを、つないであげる仕組みは学校でないとできない気がします。
ハンドサインも、コダーイが全部すごいと思わないけれど、そのコンセプトになっている、僕が言っている聞くということであったり、母国音楽をもつくっていこうということであったり、声をつくって合わせていこうということであると、4つくらい大きな柱があります。その部分は日本の音楽教育の中で、使える部分が、多いという気がします。

F:ハンガリーは国が小さいのですが、アメリカなども州単位、ローカルが単位で、日本のように世界中のものが全国に均等に棚に並んでいて、地域のものがないというのはあまりないでしょう。ハワイでも6割は現地の歌い手のもの。
そこに住んでいる人が聞くし、世界で流行っているものなんて、好きな人が聞くくらいなもの。
今の日本はあまり日本でない、といっても世界にそれだけヒットするものがなくなったというので、日本のものを聞くようになってきましたね。
かつては、日本のフォーク派と、世界のロック、パンクを聞いていた人と完全に分かれていた。お互いのことをばかみたいに思っていてというのがあったのですが、今は、世界の音楽の力が、そこまでにならなくなったという気がしますね。

I:僕はアリス、チャゲアスやりながら、シカゴ聞いていましたけれどね(笑)。

F:まあ、チャゲアスだとまだ結びつく。

I:世代がちょっと後。

F:考えてみれば、あの頃の日本人のトップアーティストは、とことん向こうのを聞いていたのも確かだし、ギターも向こうのものをコピーしていた。

M:ジャンルに対するこだわりというのが、少しずつ、どんどん薄れていって、ジャンルを境目がなくなってきましたね。J-POPをやりながら、向こうのロックを聞いてしまうのが、今は当たり前になって。

F:その中でもまた細かく分かれていて。

I:アカペラとかすごいです。ジャズやっている人とロックやっている人の接点がまったくないですからね。

F:まだそうなんですね。

I:なんで、そんなナヨナヨした音楽やっているのというふうな人たちもいれば、何でそんなうるさいのというのも。

F:まさに邦楽から、ジャズからフュージョンからクロスオーバー、全部、クラシックから民族音楽まできてしまって、リミックスが簡単になってしまったからなのでしょう。昔の頃のが全部、いつでも買える。本当のことでいうと、年間の日本の行事っていろいろなものがあるから、あれなんかで流れてくる雅楽とか、聞こえてくる音自体が、本来はベースのもの、遺伝というところまではよくわかりませんが、少なくとも小さい頃からの日本はいろいろな通年行事があるでしょう。そのときにかけている音楽や聞いてくるものが、商店街でも、スキー場やテーマパークで民謡が流れていたりして、共通して皆が聞く音楽文化があった。それがもう、バラバラに、しかし画一的になりましたものね。

M:今、行事という話が出ましたけれど、たとえば雅楽というのは、普通は聞く機会なんてまずないでしょうね。

F:お正月にお宮におまいりに行くときくらい。

M:僕は、先代の高橋竹山が全盛期のころ、ラジオの英語放送で流れていたのが、高橋竹山の民謡だったのですね。ずっと、何であんなださい音楽なのと思い続けていたのが、高校に入って、音楽の先生が、「お前ら、津軽民謡を馬鹿にしているだろう、しかしジャズとフラメンコと津軽三味線というのは、全部一緒なんだよ」といわれて、そこで人生観が変わりました。
そういう一言や感想、聞かせて、それが自分の生活や環境とどう結びついているかが、説明できない授業がまだ多いと思うのです。その高校なんかの鑑賞の時間というと、受験勉強の疲れを癒す居眠り時間になっていますね。

I:批判するのは簡単で、僕もできないと思うのですけれど、勉強していないとね。そうなってほしいですね。

M:もう一つ、気になっていたのが、指導要領が変わって、中学校では日本の音楽をやりなさい、小学校でもできるだけ触れさせなさいといっていますよね。でも教える教師が、そういう訓練をまったく受けてこない。
西洋音楽一辺倒で、ピアノを弾けても三味線の音階や尺八の音色に対して、異文化なんですよね。
外国の音楽をはじめて聞くのと同じような、そういう経験しか持っていないわけではないですか。そういう人が日本の音楽を教えることは、土台、無理なんですよね。
ともかく何でもいいからやりなさいと言ったときに、片方では地域のお祭りの囃子をやる人がいれば、能をやる人がいれば、長唄をやる人もいる。いろいろな方がいらっしゃるんですよね。熱心な先生ほど、見ていると、能や雅楽にいっている気がするんですよ。

F:グランドからグランドに。

M:そうそう。ある意味では、庶民の生活とかけ離れた鑑賞芸術なんですよね。なんか、ずっと僕は違和感を覚えていたのですよ。

F:日本の場合は、自分の身近にあるものを落としめて、海外から評価されるとよく見えてきたりする。どうしても自信がない。もっと素直に本当は入ればいいと思います。私は洋楽ばかり聞いて、日本のものも聞いてはなかった。けれど、かぐや姫の解散コンサートなんか、深夜ラジオで聞こえてくると、やっぱり涙ぽろぽろという部分がある。それは、認めたくないと、ひとつの吟持だと思うのですけれど。それを素直に認め始めてくれば、もっと楽しめた。
山城組や鬼太鼓座でもいいのですが、お祭りなんかでも、和太鼓に感動してもいいんだよと。なのに先にそうでないものができてしまうのですね。そういうものを拒絶して、あれはただの祭りだとする。
そうではなくて、お囃子でも何でも聞こえてくるもの全部が音楽、楽しい。大体何で見に行くんだろうというところから考えてみれば、けっこう生活に入っているんですよね。かえって学校で音楽があるから、音楽というのが外側になっているだけです。学校の中でも楽しめるはず、でもそれが学校なんですよね。

数学で三角関数みたいなもの、これは現実に何をつくるのに使われたとか、言ってくれるとわかりやすい。サインコサインって一体何だったのかという。たとえば、これがあったから宇宙に行けたんだよとか、地球の大きさが測量できたんだとか言ってくれると、もうちょっと楽しかった。勉強しないと社会に出て困るという、でも、音楽、体育なんかも、そんなことを言い出していたら、難しいかもしれない。
外国の教育は、それがはっきりしていますよね。教育者が、いわゆる教育する業を選ぶときに、それを目的に選んでいるから、こういうのが好きだからこれをやったとか、先生、円周率がたまらなく好きだから、この職を選んだんだとか、そこに生徒と通じてしまうところがある。
日本の先生は、そこがないから、少なくとも、先生というちょっと尊敬しなければいけない人が、何かしらそこに人生の意味があるんじゃないかということを匂わしてもらえると、もうちょっと入っていきやすい。先生が好きだからその科目を好きになる理由があると思うのです。

I:何をやるかは、ある程度、長期的視野に立った状態で誰かが決めていかなければいけないと思うのですけれど、どうやるかに関してはもう少し現場にまかせてもよいですね。何をどういう方向でやっていくかというのは、すごく弱い気がしますね。

M:唱歌の方も、指導要領で、どんどん減っています。その減らし方が、何でこの曲は残ったんだろうということ、その教材を使って、その作品がどこに行くのかということが見えないままです。

I:教育の目的が見えない状態ですよね。

M:そうですよね。誰かの好き嫌いで選ばれたんだみたいなものが、日本の教育。

F:教育の原理、私がギターをやったとき、教則本の最初の曲は「荒城の月」でした。好きでない。でもそれはAマイナーを覚えるための最初の基本コードだから、それが一曲目にきたと、そういう位置づけがあればいい。
好きな順番に覚えればいいというわけでも、やればいいわけでもない。それが次にどこにいくかが見えていれば、安心ですよね。

I:目的としては、商業音楽でもないし、軍国国家主義でもないのだから、何をやるかというところが、しっかり見えてほしい。日本の音楽教育は何をやっていくためにやっているのかというプログラムがないですね。
そういう意味では、コダーイはプログラムを持っていて、それを国家が受け入れて、たまたま社会主義だったので、全部の国中に行き渡ったという部分では、ラッキーかもしれません。

そういう部分を文科省はにぎっている。もっと手をつけられない状態になってくると、音楽がなくなる可能性は十分にありますね。それなら音楽学校や音楽教室に行けばいいじゃないというと、その言っている音楽というのは、商業音楽的なことが強いと思うので、でなくて、教育の中でしなければいけないことは、どこなのかなということが、何か持たなければでしょうね。

M:日本では商業音楽と、学校教育の中での音楽というのは、きちん整理されていないですよね。

I:いや、商業音楽のほうが勉強していますよね。お金になるというのがありますけれど。でなくて、教育音楽の中で、どう子供に、何を、どういう計画で教えていくのかということは、やっぱり勉強していかなければいけないのではないですかね。
もちろん勉強していないということを言っているのではなくて、それをどう生かしていって、現場をどうしていくかというのを体系的に考えるというのは、現場の先生はできない。大学の先生もできない。
誰がやるのかといったときに教育委員会、政治をやっている人たちですよね。そこへ諮問する人は誰にしているのか、そのあたりの仕組みをもう少し試行錯誤していただいて。僕は結論だけいうと、音楽家は必要だと思うのです。しかも絶対、必要だし、商業音楽ではできないことを、学校教育ではしてほしいと思います。

F:歴史の教科書に対する論議くらい、音楽の教科書に出てもいいんじゃないかということですね。20世紀を総括、私論でもいいから、1回やってしまっていいと思うのですね。明治維新以降の、現代は難しいと思うのですが。20世紀にリズムは出尽くしたし、ポップスも含めて入ってきた。今の子にキューバやバリの音楽まで、すべてがわかる必要はないにしろ、もう少しクラシックと違うような接点から入っても、そこからバッハやパイプオルガンにいったりする子もいるかもしれません。
入り口は一つではないから、何かしらそれが結びつくと思えば、高校生でも大学生でもそういう子は、家でも聞いて、自分の癒しにしたり活力にしたり、もっと本当に役立てられる。
学校のものはすぐに役立たなくてもいいのだけど、音楽は、社会の生活とともに必要性があって受け入れられてきたもの、人間の社会生活を変えるくらいの大きなものですね。なのに歴史が教えられてないのですよね。歴史の教科書にビートルズが出てきてもちょっと。

I:もう一歩手前で、出会ったときにどう聞けるかとか、どう表現できるかくらいまでのところは、何か学校教育でやってほしい。

M:出会ったときというのは。

I:たとえば今、いろいろな音楽に出会う機会を授業で与えるのも大事だろうけれど、もちろん全てを与えきれないわけで、出会ったときにどう感じてどう表現するか、どう頑張って一緒にやるかという基礎的な部分なところは、学校教育であってほしいと思います。

M:一方で、私が思うのは、小中高と、音楽の時間で教わったことというのは何も成っていない。

I:そうですね。だから楽しいということに、逆にいきすぎていると思います。動機づけとしては楽しい方がいいと思うけれど、オープンにはじまってオープンエンドになっていると思う。それは、娯楽的要素や商業的要素です。
たとえばヤフーでひいてみると、エンタテインメントに音楽があって、芸術のところにはないですよね。だから、とても芸能的商業的な要素が、芸術に影を落としすぎていると思います。教育として音楽をとれることの意味は、誰かがきちんと問わなければいけないと思いますね。

M:私の頃なんかは、今みたいにひらかれていなかったですから、教科書どおりに鑑賞は何と何を聞かせるというのがあって、そのとおりにやっていたわけじゃないですか。それは退屈で、その教材を使って、どこに結びつけて最終的に何をしていくのかということは、ないがしろにされて、カリキュラムに消化されていっただけな気がするんですよ。

I:そうですね。

F:カリキュラムは教科書だからしかたないと思うし、歴史でも国語でも、教科書自体は生徒には面白くないけれど、それの副読本とかサブリーダーとか、あるいは先生が話をそこにつけることによって、ふくらむ。これは、あの映画のバックに使われていたよと、ひとつ言うのでも違う。
古典を読めといわれてもも面白くないんだけど、そのときに与えられたもので読んだものが、きれいだったなとかいうイメージだけでもよい。啄木の短歌でも何でも、そのときはたいしたことないけれど、暗誦したのを大人になると思い出したり、行ってみたところに碑があったりして、いろいろなことが書いてある。そこで結びつくものでも遅くはないと思うのですね。材料として、きちんとその人の中ればよい。訳がわからなくても、暗記をするのも必要かもしれない。ただ、音楽はそこまで厳しくないから、国語だったら暗記したりするんだけど。音楽だと本当に意味のないペーパーテストで、この作曲者は誰かとか、そこで終わってしまいます。その中でどういう世界が描かれたとか、どういう気持ちのときに彼がそれをつくったのかとか、そういう部分が欠けている。

I:ちょっと欲しいですよね。西洋のものも、今、日本音楽も大事なので、それも基礎的な部分は何か残るものが欲しいですね。それが音楽言語ですね。
たとえば日本人だったら、今誰でも楽譜が読めるわけではないですよね。でも、ハンガリー人は読めます。小学校4,5年くらいになってくると、両方使えたりとか、それがいいか悪いかは置いておいて、でも共通の音楽言語というのがあるわけで、そういうふうな部分があってもいい。ただ、文科省が、音楽を面白くしなさいとは書かないですよね。

M:そうですね。

I:それは僕は、現場の仕事だと思うのですよ。面白くなるために何が学習指導要綱に必要かというのは、僕は違うと思うのです。何をどのような方向で教えなければいけないかを上は考えるべきで、そのお上にしたがって、現場が動かなければいけない。この仕組みが変わらないのであれば、お上は考えて、現場ではそれをどうやって動機づけをするかは、考えなければいけないと思います。
つまり目標のために動機づけは必要だと思います。でも、それが今は逆転しすぎているという気がします。子供たちがその教材を楽しめないから、共通教材を減らしましょうではなくて、何のために共通教材があってというほうが筋が通っている気がします。
営業マンにマーケティングしなさいというのと同じですよね。会社がマーケティングを考えていないのに、一人ひとりの営業マンがしなければいけないというようなものです。


<VOICE OF STUDIO>

レッスン感想

★出だしがダメだった。弱く出しすぎて、表現として成り立たなかった。弱い表現は強い表現よりも難しい。今の自分ではもう少し強く出したほうがよかったと思う。今後も課題となってくると思う出だしの部分。出だしで自分の声を確認するのでは遅すぎる。もうすでに表現は始まっているのだから。今の自分で成り立つ弱い表現、大きく捉えた弱い表現。歌として成り立つだけの弱い表現。成り立たなければ意味がない。そして、集中力。最後の最後まで繊細にさばける集中力が欲しい。語尾の問題にもかかわってくるが、後半のほうで崩れやすくなっている。この要因として集中力が大きくかかわってくる。こればかりは練習での自分の姿勢、この曲へどれだけ入り込めたかが、深くかかわってくる。最後までしっかりシュミレーションできたらそこまでは崩れないだろう。組み立てが甘いし、もっとできるはずだ。それに付随して体力、体に関して。この曲を歌うとドッと疲れるが、これくらいでへこたれていたら人前では何もできない。せめて人前で30分出せるだけの息、体が欲しい。緊張感はもっと増すだろうし、疲労も激しいはず。それでも少し余裕が持てる息が欲しい。基礎的な部分がまだまだ足りない。先ほどより、語尾について。集中力が大きく絡んでくると思うが、それと同時に、この曲へのイメージ、入り込み、繊細さなども絡んでくる。もっと自分が繊細なら、出しているときに自分の表現が許せなくなってくるはず。こればっかりはじっくりやらなければそう易々とは身に付かないので、じっくりやりたい。この曲は、セリフとメロディが混じっているようであった。特に、セリフからメロディに戻るときが大事で、崩れやすく、繊細なところだと思う。分けて考えたらバラバラになってしまうし、違和感だらけになってしまう。ここは一つ、シンプルに捕らえ、うまい具合にやるようにしたいがうまい具合にできない。できなかったら自分でできるように改良するしかない。成り立たせるために。リアルさ。今回の曲はもっと何かできたはずだ。大きなことを言っているので、もっと大胆に、高かが外れるくらいでもよかったかもしれない。もちろん崩れないということが条件だが、勢いというか、リアルさというか、足らなかった。何を犠牲にしても、伝わなければ意味がない。今回はどうだっただろうか。ただ、これについては、しっかりした基本があってのことで、何もない状態ではただ自分が騒いでるようにしか見えないだろう。でもそれだけの気持ちはいつでも必要だし、毎日生きている限りは必要だ。今回は内に秘める熱いものが感じられなかった。情熱さ、リアルさとはなんであろうか。とにかく、基本を大事に、それを元にやってみようと思う。(7月V検)

★課題曲:カルーソで懲りたので、村上さんと張り合わないよう気をつけた。この歌を歌うには、自分が普通すぎた。自由曲:カラオケになってしまったかもしれない。今日よかったと思うところ:表情がいつもより良かったと思う。今日よくなかったと思うところ:おどおどしてしまったところ。緊張しないように意識して、テンション自体を落としていたところ。次回までにすべき課題:引き続き日々の使い方を改善する。(たぶん一生の課題)→付け焼刃ではどうにもならない。でも、本番には何が何でもやってやるという気合で挑むことは忘れない。1曲完成させること。→部分的には自分でひらめいたと思えるところがあったが、曲としては成り立っていない。最近考えていること・・・V検の位置づけについて。V検は通過点であるが、節目でもある。だから、今の状態ではうまくV検を利用できているとはいえない。最終的に自分はどこに向かいたいのか、仮定をたてていくことが必要。(7月V検)

★発声練習。レガートのときも、スタッカートのときと同じような鋭さを持って、遠くへ向かって声を出すこと。「Ricorda」イタリア語。読み方はローマ字読みに近い。“リコルダ”が、カタカナひとつひとつをなぞるように分離している。もっと息を流して滑らかにつなげる。息の深いところから、遠くへ声を届けるように。口を縦に開ける。これは口の奥を開くためであって、口先を開けることが目的ではない。日本語の歌詞で歌うと、意味が分かっているだけに、しゃべるときと同じように声をつめる感じになってしまう。発音の明瞭さよりも、息の流れを重視する。歌うほうがしゃべるより身体も息も使う。深いところから遠くへ声を出し、幅を広げる。それがしゃべるときにも生きてくる。遠いところへ出しているのを近くへとコントロールすることはできるが、その逆はすぐにできるものではないから、器を広げておく。普段カラオケに行くこともなく、歌うことなどまったくなかったので、声を出すにも、どうしようとすればどんな声が出るのか想像がつかず、自分の声を聞きながら、へええ、こんな風に出るのかと思う状態だった。しゃべるときに比べ呼吸する息の量が断然違うため、息の流れというものをより意識せざるを得ない。ただしゃべることだけでトレーニングするより、呼吸、声の訓練には効果的と思った。普段はちゃんと聞き取れるようにということを主に意識しているが、意味以前に音声としても魅力のある声を作っていきたい。(7/10.V.H)

★今日も前回に引き続き、対応できないまま終ってしまいました。自分の中では「なんでできないんだ・・・」と思いつつも、身体が反応しない。音取りにいっても取れない。情景、情感は感じ取れない。フレーズもただ音や言葉を発してるだけで何も入ってない。入れられない。曲によっては反応が鈍いことがあるとは思っていますが、こうも連続で対応できないのは自分でもショックでした。対応力がないのか、慣れてないのか、肌に合わないのか・・・。考えるほど頭が痛くなります・・・。ココロと身体はつながっていると改めて感じました。イマジネーションが足りない、追いつかないとココロも解放できないので身体も思うような反応を示してくれない。声のポジションもフラフラ。息も薄っぺらい。脳みそも閉じて、筋肉も動かない。声に何も宿らない。ただ発してるだけ。以前からですが、まだまだココロの解放が苦手です。曲や詩からイマジネーションを膨らませ、テンションを上げていきたいのにその手前で止まってしまう。反応できないままで止まってしまう・・・。「形があっても実がなければ意味がない。実があれば形はなくてもいい」というようなお話が印象的でした。(書き方に語弊があるかもしれませんが)僕は前者だな・・・と思いながら聞いてました。先生もおっしゃってましたが、自分の内面を見つめていくしかない。何も気にせず、ダーッと歌ってしまいたい。そのほうが自分でもいいなと思うことがあります。ある意味楽?逃げ?かも知れませんが・・・。どうしても何かを気にしつつ歌っている。でも本当に気にしないといけないことでなく、実際の場では大して必要のないことなのかなとも思いながら。迷って、考えて、自分で道を探して進んでいくしかない。悩んでこそ大きくなれるというもの。ホップ、ステップ、ジャンプも助走がなければできないですし・・・。夏バテ克服して、しゃんとしてV検に臨みたいと思っております。(7/21.※合同.F)

★今日はたくさんの音をはずした。体のほうは以前よりはマシになったと思うが、感覚のほうがいまいち幼いようだ。感覚が鈍いから、音をはずしたり、すぐ崩れてしまうのだろう。今日のレッスンでさらに痛感した。自分は何もできない。人の前でも何も伝えることができない。とにかく、一流といわれるものを自分の中に入れて、出して、血肉にしていきたい。もっと細かく。そうすれば、体ができてくるころには、その体自体も生きてくると思うから。それまでコツコツやっていきたい。苦手なところも見えた。今月のV検課題曲にも当てはまるが、フレーズの語尾がまだ雑で、言葉そのものが文字としてしか感じられない部分もたくさんある。血の通っていない言葉が通じることはけしてない。どんなに整った歌になっても、言葉が生きていなければ、問題にならない。このことについても、もちろん感覚のことが絡んでくる。この鈍くて動かない感覚をどうにか変化させなければ明日は無い。とにかく、基本を常に意識して、体と感覚のバランスも考えつつレベルアップしたい。自分の声を使いこなせているか。自分は使いこなせていないと思う。自分の声をもっと生かせる方法と、器自体を大きくする方法を同時にとりたいが。コンディションについては段々判明してきた。なので、それに沿って生活リズムの組み立てやすくなった。もっと探求して自由自在な声を手に入れたい。これからどのように変化するか楽しみでもある。最近テレビを見ていて、コージー冨田を見た。その番組は、物まねの番組で、省エネをテーマにエネルギーを使わないで物まねの番組にするというものだった。たとえば、照明をろうそくにしたり、バックミュージックを使わなかったり。コージー冨田はその伴奏無しで、鈴木雅之の真似をしていた。もちろん伴奏がないので、アカペラだった。うまいかどうかは別として、なんか成り立っていたように思う。プロの芸人さんでもこれくらいはできるんだなと思った。なんか恥ずかしくなった。自分も芸人さんのような根性で!?学びたい。(7/21)

★いざという時の備えとして毎日がある→普段やっていないこと(練習していないこと)は、いざという時(本番)にできるわけがない。F先生は、スーツの話をされていたが、まったくその通りだと思った。自分自身に関しては、本番さえできればいいという一夜漬けの考えで生きてきたので、歌に限らず、日々を無駄にしてきたと思う。→努力し、改善する。秋の並木道:一人だけの夜は〜など聴いて自分なりのイメージが浮かんだはずが、いざ歌おうとすると歌えなかった。→これがイメージ不足、聴けているという勘違いなのだと思った。「何を伝えようとしているのか」これが抜けやすい。歌を目的にしてしまっている。[再び]少しの差について。まわした時に、明らかに自分より表現できている人がいた。そこには、ものすごい差があるということを、常に意識する必要がある。私は調子に乗りやすく、うぬぼれやすいので。(7/21.※.F)

★レッスン開始まで時間があったので、ひさしぶりに目をつぶってウォークマンを聞いていて、回りの人とあいさつもしてなかった。♪ギターよ静かにの、はじめのところの読み。はじめに歌詞を、どういう流れのなのか最後のところまで黙読。“しゃべり出したらど〜だっていいんです・・・”、要は“ギターよ・・”って出るまでのテンションをどう満タンに集約させるか?声を出してから修正できると思わないこと。“ギター・・”は絶叫なのか?それともたんたんか?が、あとに続く人のテンションを促すため、やや強く出てみようと思った。レッスンのはじめの息を吐くメソッドでも、(何か気持ちを込めて吸って、そのある感情を思いながら吐いて)と言われたが、気持ちがあれば息が流れる、体が鳴る。こころに体や息が従属するのであって、息を流さなきゃとか、よけいなことを低いテンションで頭で考えるトレーニングはちがう。ひとつひとつテンションを集約させて、渾身の思いで出すから、それ以外は無意味だから、家で出すひとつひとつが本番で、(れんしゅう)なんて(グレーゾーン)はあり得ないということ。先生の講評をいちいち頂く形でなくても、みなで次々回して、ランニング・ハイになったり、解けてバターになったトラみたいに、ぐるぐるしてくのもいいかもしれない。一般の人にも応用でき、とてつもなく健康的で、スタンダードに伝承できる練習の型がきっと見つかるはずだ。(7/23.G.H)

★CM「サントリー ピュアモルトウィスキー山崎」(「声優入門トレーニング」p.136)1回目は文章の流れや盛り上げるところだけを意識していて、特に高低に注意が行っていた。情景やキャラクターをイメージしたわけではなかった。自分のキャラクターはとりあえず捨てて、50〜60歳くらいのダンディな男性がバーのカウンターでぼそぼそつぶやいている感じで。それが2回目に、前述の男性のイメージを思い浮かべて読むと、1回目にちょっと盛り上げようとして高くしたところが、どうしても高くは読めなかった。こういうのが、イメージが行動を規定するということなのだろうかと思った。誰かの身体を借りるような感じがした。課題 語尾の力が抜けて速くなってしまう。丁寧に最後まで力を抜かず言い終える。(書道で言う「止め」みたいなものが必要ということだろうか。「終わりました」という感じ) CF「資生堂 エリクシールドラマティカルエッセンス」1回目は、20代半ばの女性向けTV-CMという想定で、明るい感じにしようと読んだ。もっとテンション上げて。2回目。頭からはじけるというよりは、お鍋のフタを中から無理に押し上げようとしている感じ。明るく突き抜けようとすると声も大きくなる。テンションそのままで、ボリューム半分に。ボリュームを絞ると、緊張感も下がる気がする。半分までは行かなくても3分の2くらいには下がってしまう。だんだん上げていけばそのテンションに持っていけるが、上げ慣れていない。瞬間的に持っていけるようにする。今のうちは音量を押さえることはせず、テンションを上げることだけ意識して練習する。声の高さや調子そのものをどうするか直接考えるよりも、イメージから入ったほうが適切な声が自然と選ばれるし、統一感がくずれない。原稿を渡されたときに、何らかのイメージ、気持ちを読み取って、自分の中に気持ちをつくってから読む。次回、サントリー山崎、資生堂エリクシール、リコルダ(7/24.V.H)

★高い音になると逃げて(内にこもって)声を出してしまうことがわかった。高い音になっても、外に向けて声を出すこと。(7/25.Y.OK)

★−薄まってしまう−Yのレッスンは2週間に一回で、その間に注意された事など課題をつくり練習するのだが、いまだに前回と同じ事、似たような事を言われてしまう(もちろんもっと時間をかけなければなおりようがないものもあるだろうが)。もっともよく言われるのが、とにかく響きを明るくしろと言う事。Wでもこればっかり言われる。そして時間をかけてYで正してもらってやっとそれらしく出る。しかしそのレベルの基準でトレーニングがまだ出来ない。二週間やって、悪くはなってないにしろさほど進んでもいない感じ。根本的に体力が足りないとかは今すぐには無理だろうが、心構えで変わるものはさっさと変えなければまずいと思った。声を前に、やや上向きに飛ばす事を心がけてみようと思う。(7/25.Y.OK)

★(地震のせいもあり?逆に)冷静でした。自分なりに考えていた流れに乗れてましたし、「こう歌おう!」とか考えずに歌えました。今日よかったところは、頭中心でなかったところ。考えてはいましたが、そちらに気をとらえなかったので流れに乗れたと思います。曲に対する違和感をあまり自分に当てはめず、客観的に、突き放せていたように感じました。あと、実際どうなることやら・・・と不安に思いながらやってきましたが、案外できた(レベルは別として・・・)のが良い意味で意外でした。今日よくなかったと思うところは、サビに向けてと、サビへの切り替え。構成があいまいでしたので、はっきりとしたメリハリが出せなかったように感じています。自分でも感じてしまったのですが、テンポダウンに伴うテンションダウン…。ふと落ち着いてしまったところを見透かされてしまいました。それに付随して後半集中力が低下した箇所(新たな希望と光を)があり、フレーズの語尾が乱れてしまいました。次回までのすべき課題は、集中力とテンションの持続。力を抜くこと、場所はあってもいいと思いますが、抜いてはいけないものもある。まだ抜けてしまうほうが早い。持続することに身体が、精神が慣れていないので・・・。それと、曲の締め、最後の締め方。「終り良ければ全て〜」などということわざがありますが、大事なのにバテてしまい締まりが悪くなってしまう。普段からの意識も低いのだと思うので、最後まで神経を通わせるよう取り組みたい。その他。声についてです。今回、出し方を変えてみました。一応曲の最初からやっていたのですが、サビの部分ではテンションが上がって、意気も息も上がって、キーも上がったようで上あご〜奥にも力が入っていたみたいです。胸やノドに余計な力が入らないので、ストレートに声が出せていた感が自分にはありましたが、指摘を受けた後思い返すと、練習時より力んだので声が抜けてなかったような気はしました。ビデオを見ればわかることなのかもしれませんが、かぶせすぎが気になったのは最初からでしょうか?それともサビ以降からなのでしょうか?気になったもので書かせていただきました。(7/28.2)

★まさかもう一度「3001年〜」と歌うとは思わず・・・。2回目・・・もう少しやれると思っていましたが、へばっててダメでした。本当の「歌う体力」はついてないんだなと思いました。体力も、精神力も両方が高い状態を出せないまま歌うことになったので、ある意味開き直りましたが、動きやスケールが小さくなっていたなと。体力づくりは日々の意識改革と訓練から・・・。本番では頭中心でなかったのは良かったのですが、今回は頭も身体も働かない感じでした。なので、ある意味素の部分で歌っていたのかもしれません。そうしたらイメージ不足を露呈・・・。リアルさに欠ける。型にはまりすぎ・・・言葉がひいてる・・・。それでも普段よりは良いという指摘・・・う〜ん、微妙です・・・。普段がいかに足りないかっていうこと・・・。歌う体力をもっとつけたいと思います。(7/28.AH)

★−自信を持ってやる−やはりまだ圧倒的に経験値が低いから、自主トレーニングで自分で判断するのが不安になってしまっているのかもしれない。レッスンでは、まずい声を出せばとめてくれるから、安心して思い切り出せる。自宅では、そのつもりでなくても多少ブレーキがかかってしまっているように思える。早くそのギャップを埋めなくては。とにかく高音でも、まず息を強く吐くこと、迷わず支えを強くする事。ポジションを上げることと下に支えていくバランスが難しい。後は、常に先を考えながら歌うこと。いきなり高音を出そうにも準備してなければ出ない。一小節前から意識しているだけでも、かなり違う。そして、低→高のとき、力で音に当てずに、息を混ぜてソフトにつなげるイメージを持つ。とにかく息に声を乗せる。あくまで息が先。コレを徹底する。(8/8.Y.OK)

★歌っているときにあごが動いたり無駄な力が入っているということがよくわかった。高い音でも外に出す、逃げないようにすること。(8/8.Y.OK)

★−テンションが低い−テンションが低いと、声のポジションも低い。ぶら下がる。一瞬でも油断すればそうなる。いままで、それだけ低いテンションで生きてきたのかと思うと、なんとも省エネな人間だと感じた。姿勢に関してもやっと人並みになってきたが、最初は背筋を伸ばして生活するだけでしんどかった。今日はとにかく低い音でも高音のようにポジションを高く保つ事に集中した。いつもYでやっている事だが、低音ばかり扱っているとだんだん落ちていってしまう。リズム、音程はポジションを意識しながらだと雑になり、かなりひどい。まずは高いポジションを常に保てるようになる事が先決だと感じた。(8/8.Y.OK)

★歌う前の心構え・準備を意識することが大切だということがわかった。イタリア語がただ単にカタカナにしか聴こえないのが自覚できた。深いところからの発声じゃないとイタリア語にならない。ここのところ、声が安定しない。今までやったことのないこと(息をたくさん出す、とか)をやっているので声帯がついてってないのだと思う。あわてないでじっくりとりくもうと思う。(8/11.V.H)

★今日は、一番後ろにいたので皆の様子がよくみえておもしろかった。歌に対する姿勢が甘い。→どう読み込んでもいいから、深い世界に入る。「愛のカンツォーネを」は聴いたことがことがあったが、実際に歌うと音が取れなかった。→聴きかたがまずいということ。(8/11.※.F)

★コードの基礎を学んだ。持ち合わせの本では理解できず、今回直接質問することになったが、他にいくらでも本は出ているので、探してみることも必要だったと思った。→行動力不足、受身。(8/13.VP.M)

★声の切り替え(地声→中声→裏声)を学んだ。V検の課題曲には、何らかの意味がある。今回の曲は、声の切り替えを学ぶのにぴったりの教材だということ。最近、技術面の鍛錬がおろそかになっていて、最初の発声練習ではよいポジションから声を出すことができなくなっていた。ひとつの課題だけに執着しないよう気をつける。(8/13.AM.M)

★−音の明るさの問題−今回は音程に関して、かなり細かく注意してもらった。音に合わせようとするとどうしても緊張して力が入り、自然と響きが落ちてしまうようで、意外と直すのが難しい。その一音の中で、一番明るい音を常に保つのにかなり体力を使う。短3度で下降するときや休符の後に落ちすぎてしまう。気を抜かない事と、あらかじめ次にどの音が来るのか頭に浮かべて準備した上で出す事を心がけるだけでも変わる気がする。自分の声はぶらさがって聞こえる事が非常に多いようで、特に低音の練習をしてるときにそれはよくわかる。しかしほどほどの高音でも、あがりきらず自然とセーブしてしまってる事が気を抜くと起こる。とにかく毎日意識し続けるしかないようだ。(8/16.W.KU)

★曲や詞に対する「設定」「構成」「展開」がいかに甘いまま取り組んでいたか再認識しました・・・。1回目は、設定をかっちりとイメージして出すこと、テンションを上げていくことだけで歌って、キーが高めだったこともありましたが、声や音程のことを考えずに、音と気持ちの動きで進んでいけた感がありました。自分では声が少し気になったのですが、「技術的」でなく「感情の動き」として聴こえたとコメントをいただけたので、そのように認識しようと思っています。2回目は、自分の声を聴きながらやりつつ、1回目のようなテンションでという課題・・・。どうも歌う前から、1回目とは違うことを考えてしまい、体もそれに反応していたようでした・・・。聴くことが先になると、すぐに設定やイメージの世界から逸れてしまって、技術的なところが中心に来てしまいました。歌っている最中に「あ、これから高くなるからこうして・・・」とか頭に浮んでしまい、「いや、そっちじゃなくてイメージから離れないようにしないと」と修正しようとする。すでにこの時点で設定やイメージからはかけ離れているんですよね。自分で感じながらも、もう止まらない・・・。間を空けることも忘れてる・・・。勢いも大事ですが、方向が狂ったら思い切って間を長くとるなどして修正できるくらいの余裕と冷静さも必要だなと思いました。(8/18.AH)