会報バックナンバーVol.173/2005.11


レッスン概要(2005、2000年)

■講演会

○3つの問題

Q.自分が歌っていて、うまくないというのはわかるのですが、どこがどううまくなくて、どこをどういうふうに練習していったら、直っていくのかがわからないのです。

 ここ最近、紹介で来られたりいろいろなつてで来られる方が多いのです。いろいろなことを聞いて、いろいろなことを思う。ここでやっていることは、すごく難しいわけでない。褒めて認められたら、どこでもやっていける。
 ある程度は論理的につめられるところがあります。うまくないということは、何かしら自分のうまくあるべきという理想像があるわけです。それに対して自分のほうがそれに伴っていない。何をするのかがわからなくても、理想像をきちんとイメージできていたら、いくつかの方策しかないのです☆☆。

 まずひとつは、そのことができるかできないか。たとえば私がマライア・キャリーのように歌おうというのは、まず男性として生まれている限り99パーセントはできない。1パーセントはできるかもしれない。日本人でも米良さんや岡本さんのような人がいます。ただあの声があったからできるかどうかというのはまた別として、まずできるできないのところで、すべてできるわけではないということは知っておいてもよい。持って生まれたもの、あるいは体の原点というところがあります。
 それからもうひとつは、方法はともかく、アプローチしだいでは今の声でもできるがあると思うのです。感覚がよければ、大体できる。リズム感や音感の問題であれば、そういうことを磨くことによって、できるかもしれない。
 そこに全ての方法があるというのではないのですが、もうすでに今の体でできることなら、やればよい。繰り返してやることなのです。

 3つ目は、今の自分を変えることによってできるかも知れないことがあります。
 それぞれにその3つをきちんと見ていくことが、自分の自主レッスンです。
 私はまったく違って、そのイメージ自体、それをはっきりさせることをやっていくことがほとんどです。イメージというのは、ほとんどのアマチュアの人が思っている、こうなればいいなということが、本当にそうなればいいのかということです。
 私が見ている経験からすると、ほとんど違っています。まずひとつは、それは誰かでしかないということがほとんどです。若い人はほとんどそうです。

 さっき言ったとおり、マライア・キャリーになりたいというのは、適切なイメージの設定の時点でかなり無理なことがある。当人の能力どうこうではなくて、誰もが同じことができないし、同じことをやったところで意味がないということもあります。
 だからそこはイメージの設定です。
 要は自分の可能性の延長上のところに、目標を置いているのではなくて、他人のやってきたところ、あるいは自分のできないところに目標を置いていたら、これは誰でも失敗します。でも、多くの場合はそうなりがちなのです。
 それはしかたないのであって、歌い手は必ず、誰かの作品や歌に感動して、その世界に入っていき、その感覚で歌えていることを心地よく思います。

 プロの方でも案外とそういう部分があります。だからその思い込みを除かなければいけなません。その人として何ができるのか、上にイメージを置かなければいけない。これがまた大変な作業です。
 我々も完全にできているとはいえない。というよりは、これはわからないのです。最後まで答えが、果たしてそれが良かったのかどうか、検証できません。

○トレーニングと実践と分けること

 「ミリオンダラー・ベイビー」を見てきたのですが、ああいうボクサーの世界だと、優秀なトレーナーであって、その経験がある。かなり確実にわかるだろうなと思うのです。

 ところがヴォーカルの場合というのは、ひとつはその人が持って生まれたもの、ボクサーにもあるのでしょうが、もっと見えない部分でたくさんあります。それからもうひとつは、その時代によってルールからリングから、全部変わっていってしまう。ボクシングの場合はある程度、定められた中での勝負、まさに相対的な部分です。どういう条件が必要かというのは、スポーツはけっこう単純、といっては申し訳ありませんが、一流の分野においてのプレイは別としたら、基本の部分のあるところまでは、単純に早くとか高くとか遠くという力です。それに対して筋肉が、どれだけの強さを持てばいいかというのがわかるのですが、歌の場合は、その辺がわかりにくいというのがあります。だから、その人の延長上に目標が持てるというのは、私が見ているかぎり、ここでも4,5年いて、そのなかでも1,2割かなという感じです。ただ選ぶのは本人なのです。

 要は我々は、材料として示すことはできても、最終的にその人がどう歌いたくて、どういうステージをやりたいかは、こちらは何もいえません。
 ただそのことがあまり有利ではない、できたらこういうほうが、あなたの本当のオリジナリティではないかというようなことを指摘はできます。3,4年付き合って、ようやく本音で言えるようになっていく、ここは早くやめる人はあまりいないので、その方もそのくらいになってきているのではないかと思うのです。そうなって初めて本当の面白さ、可能性が出てくる。
 当然、芸能界にデビューする分野と違うようなルートがないわけではありません。研究所で勉強してやっていこうという場合には、あまりそういうところは頼れない。抜群にルックスがいいとかオーディションに全部通ってしまうという人ばかりでない。そういう人がくるようになれば、日本のレベルも上がってくると思うのですが。

 皆、出てライブをやりますが、なかなか続けてやっていけない。それは当たり前のこと、実力の通りなのです。
 いわゆるアマチュアかプロかいう分け方は、私の意識のなかにもないのです。プロの意識でアマチュアをやっていく。お客さんにお金を出してもらうのですから。皆、お金と捉えますが、プロだって儲かっていないのです。ライブをやったくらいでは、皆、赤字です。CDが売れるから何とかやっていけるだけで、ライブだけで、お金がざくざく入るということはない。日本の場合、規模が大きいほど、費用が莫大にかかります。
 向こうの連中のようにギター一本でアコーティックでやっていたら、何百人か集めてというようなかたちで、やれる人もいなくはない。タレントで、昔やっていたような人では、一部いなくはないですけれど、知名度がいります。

 時間の問題が大きいですね。今のお客さんが時間を割くということに対して積極的になれるものということになると、何をもってステージかというのが、難しくなってきますした。結局、昔は私は3倍くらいといっていたのです。たとえば5千円の値段としたら、1万5千円の価値を出せばいい。今どき3倍くらいではだめですね。人が紹介してくれない。10倍以上の価値を出さないと、人は動いてくれない。
 東京は、いろいろなイベントや楽しいことがたくさんあります。そういう意味でいうと表現に価値のあるものは、はっきりしてくるような気がします。全身で歌うということは、教わっても身につけるのはむずかしい、というより、必要性ですね。その必要性が叩き込まれていないかぎり、体は動きません。

○上達をめざしてよいのか

 歌というのは逆になりやすいのです。要は上達したいとかうまく歌いたいということは、下手に思われたくないわけです。ミスを指摘されたくない。するとその考え方自体がもう守りなのですから、全身を使えない。
 全身を使うというのは、それだけリスクが生じます。それを分けなければいけない。

 そもそもトレーナーの立場からいうと、トレーナーがいるということと教わるということ、学校で歌をやること自体が、上達を目指すことにならざるをえない。そこの見返り、お金を払った見返り、通っている見返りは何なんだ、それは上達することだということになる。本当は違うのですね。

 あるいは自分で練習してもそうですね。上達というのは何によって証明されるかというと、まわりの人がうまいねと言ってくれたり、うまくなったねと言ってくれたり、それは誰かのようになっていったね、プロが歌っているようなものに君は似てきたよということなのです。元々そこが間違いなのです。間違い正しいという言い方もおかしいでしょうが、それは下手に思われないようにやっていくだけのことで、間違いなく正しく歌をこなしたら、客が感動するかということでしょう。商品ではないレベル、芸術品である以上、そんな程度のもので人は感動もしなければ、感動しないということは、人が人を呼んでくるということもない。
 その辺が、私は顧問、トレーナーの指導、で気づいたことです。
 トレーナー自身がいろいろな意味で迷ってくる。私はその答えを持っているわけではないのですが、ここの場合は、優れたトレーナーと連続してやってきている。

 他のトレーナーはだいたいひとりでやっているので、他の人のことがわからないのです。ここにいるスタッフやトレーナーは、私なんかよりもずっと歌も声もいい人です。そのなかでずっとやってきているので、そうするといろんなトレーナーに対しても、どう判断すればいいのかということくらいはわかる。だから、その辺からは難しいですね。ただ本当の意味の必要性がないから、身につかないことでは、目的を明確にしていかなければいけないと思います。後でふれましょう。

 歌ったものを録音して、それを後で聞いてイメージを違うことというのが多いです。音程やリズムは音楽で入れていくしかないのです。本当の意味では解決できない問題です。歌ったものの録音とそのイメージというのは、これも判断は、難しいのですが、録音というのは録音であって、参考にはなるのですが、作品の、本当の意味での判断ベースにはならない。
 練習の場合は、自分がやっている感覚だけで歌がなおるかというと、それよりだったら、しゃべった声と同じです。録音したものを聞き返したほうが、客観性があるということです。結局は感覚だけで本当はやっていかなければいけない分野ですね。ただテープも使いようによっては効果的だと思います。

 世の中のCD、DVDも含めて、いろいろなものが見ることができることがなったということは、感覚や判断力を勉強するには、使い方によっては有効なことですね。
 だから、あまりいろいろな本を読んで、振り回されないことです。

○正しいということについて

 正しい発声というと、私は一回、音楽の分野を書くのをやめてしまったのですが、書きつくして、もう伝わらない、むしろ誤解のほうが大きくなってしまうのです。本で勉強したといってここに来られてしまうと、はぁー本なんて出すんじゃなかったと思うことがあるのです。もちろん私の受講者にかぎりませんが。

 だから正しい発声を考えることはいいのですが、正しいこと自体を定義していかないとなりません。私は以前から声楽家と組みはじめて、もともと15年くらい前には日本の声楽を否定して書いていたのですが、それは私が経験したなかでの自分の体に対してのことであって、世の中ではそうでない目標をもったり、そうではない歌い方を目指す人がずいぶんといることを知りませんでした。今回の本にもはっきりと書きましたが、ほとんどの人が、自分の作品や製作することやアーティックなことを考えているのではなくて、誰かのように声を出したかったり、どこかで求められることに対応したいと。

 そうなると声楽の方がいいのです。これは全世界で、アジアに対しても成果を上げてきた方法で、歴史も実績もあります。ただ声楽というのもピンからキリまであり、指導者によってもやり方が違う。偉い先生だからといって、すべての人を偉くなるように育てたのかというと、やっぱり相性みたいなものがあると思うのです。

 正しい正しくないというのは、案外相性のようなところで判断されているような気がします。その方は、そこにいるのだから相性が合っていると思えばいい。そこがいいからそこにいるのではないと私は思っています。他にもいいところがあるのかもしれない。

 ただ、要はそういう考え方をなくしていくことですね。トレーナーのなかで言われていることは、皆、自分のところだけは正しいということ、私なんかは自分のところが正しくないのをよく知っていますから、こんなことをいうと申し訳ないかもしれませんが、今だにグラミー賞にもノミネートされていない。

 でもやればやるほどわからなくなってくるのです。自分にとっては正しかったことも、それが人に対して正しいって言えることはないのです。私は正直にそう言っています。
 どこかに行って、伸びたからといっても、もしかして他のところに行けば、その3倍伸びていたかもしれないでしょう。ここでだめだからといっても、他のところにいっても、、もっとだめだったかもしれない。比べようがないのです。

 冗談ではないけれど、六つ子でも預からせてもらって、その6人に違う条件を与えて、それで育ててみたら、少しはわかるかもしれません。でもその六つ子にとって相性がよかっただけかもしれない。

 そういうふうに突き詰めていくと、科学的なことや医学的なことも勉強せざるをえなくなる。追い込まれて、いろいろやっています。だからといって、それを元に何らひとつ言い切れないですね。
 だから原点に戻ればいいのです。人様に対して価値を出しているというところでやれている人、声を使ってやっている人が、どういうステージをやっているか。

○実績ということ

 私は教えない、歌は教えることができないと、平気で言ってきたのは、すべて個人がつくり上げるものだからです。よくプロって何ですか、ここに入ったらプロになれますか、いろいろなものをこなしていけばプロになれますか、と聞かれました。なれないです。プロというのは製作する人です。その製作したものが人々に対して価値を認められる、この2つの部分があって成り立ちます。声は、私は昔は、自信をもって書いていました。自信を持って声をつくってきました。役者みたいにトレーニングしたら、声楽5,6年やるより、ここで2,3年やるほうが声が伸びる。その実績をここほど残しているところは、他にないのは確かでしょう。

 ただそれも残っている連中や、ここに来たところですでに、こんな話を聞いて、敷居の高いところに来るんだから、いい面でも悪い面でもふつうの人ではないというのはあるのです。優れた人ばかりが来ているというふうには思いませんが、それだけのものをかけてやってきたから、それだけのものはとれるだろうと。ただ声が手に入って、歌が上手くなったからといって、そんな人は全国にいくらでもいる。そういう人たちがやれるということと全然違うわけです。
 やれる人はやれるやり方をとっているというので、私の興味外です。今の生徒には、そんな話も、要は商品や作品というかたちにすべきときにやることは2つなのです。

 ひとつはどの時代のヴォーカリストもヴォイストレーニングはやっていない。何をやってきたかというと、一世代前のアーティストの優れた作品から優れてとったということです。優れた作品は誰もが聞いています。音楽関係者は。そこで普通の人が、1本くらいのアンテナでとっていることを100本くらいのアンテナでとる人がいるのです。そういう存在を知ったときに、こういうところでできることというのは、残りの99本を努力によって何とか立ててみる。ひとつしか聞けないものをどうやって100聞くことができるんだろうということを学ぶしかないのです。それが根本的な私のベースの考えです。

○歌で起こる間違い

 歌というのは自分が気持ちがいいように、好きな曲を歌ってしまえば成り立つと思ってしまうのです。自分の中では成り立つ。それは客とはまったく違うことです。
 本なんかで優れている優れていないと、好き嫌いは分けなければいけない。むしろ嫌いな曲で優れている曲で勉強したほうが、わかりやすいのです。

 好きな曲というのは感情移入してしまうのです。そのことでこの世界に入ってきたのですから、自分が間違わないことで気持ちよくなってしまうのです☆。

 間違えないで歌えただけの曲に、どこに価値があるのでしょうかと。それは声楽でもやっている人なら、皆歌えてしまうのです。そういうところでもっていくのがひとつ。
 もうひとつは、その時代にやれた人間を見ておくこと。それを徹底して研究しておくことです。その時代にやれた人間というのは、すでに研究するには遅いくらいなのですが、それでも自分がその後に出ていこうとするのなら、先輩になりますからね。

 その時代の接点がつかない人間たちというのは、やれていないのですね。J−POPをしゃべるより、お笑いの子の話ばかりしています。そういうところで、声ってどう使われているかということをみていったほうがよいでしょう。今のヴォーカリストの声に対する鈍感さから見たら、よほど彼らのほうが鋭いし、声に対しても訓練、鍛錬をしています。それにお客さんが判断をします。今のヴォーカルがかわいそうなのは、よくても悪くても同じような反応しかしてくれないということです。客自体が、本来成り立っていないのですが、音楽がついてしまうと成り立ってしまうのです。それでお金が入ってきたり、与えられたりするから。

 あれがお笑いだったら、はっきり言うと成り立たないです。もう二度と聞きたくないと言われて終わりです。退屈してしまうだけで、閉じ込められたところから出れないわけですから。ところが音楽は摩訶不思議なもので、特に日本の場合はそういうふうに使われてきました。それも突き放して、本当に意味では見ていかなければいけない。
 ところが音楽を教えている人ややっている人は、音楽を愛していますから、そういう考え方を嫌うのです。皆で楽しくやっていればいい、楽しくやっていれば伝わるからと、私から言わせると、本人たちが楽しんでいるものを何で客が楽しめるんだという、当たり前の話なのですが、求めるレベルでいうのであれば、違うのです。

 お客さんは金を払って、時間を費やして、何をしにくるかというと、やっぱりすっきりしたくてくるのです。うっぷんを晴らしたいとか。いろいろな思いがある。それに答えるステージをしなければいけない。延々といい声を聞かされたり、得意げに歌声を披露されても、そんなものはつまらない。
 声楽でも歌唱に優れた人が、ステージを全然できないというのは、そういう部分があります。それから時代というのもあります。

 何か音楽をいうのは、皆のプライドをすごく上げてしまうようです。私は役者やお笑いの奴らと接していますから、底辺で本当に虐げられる、灰皿をぶつけられながら生きている連中を見ると、これは5年10年経って、力が逆転するのは当たり前だなと思います。
 というのは、日本のミュージシャンや歌い手というのは、自分を変えないことが正しいと思っているのです。今の若い子たちが皆そうなのです。そんなもので自分が通用する面白い場があって、その面白いことを見せれると。

 私からいわれると芸事というのは、それで通用できるのならもうしているというのが現実です。17や18で、それで通用している人がいるのだから、その年齢をすぎてしまったら、変わる以外にないはずなのです。だから、そうすると変えたくないというのですが、役者でもお笑いでも、あれは地ではないです、芸ですから。歌でもそうですよ。日本の場合は、そういう地が出ている歌をサポートする人間がいるわけで、複雑な問題がいろいろありますね。そこを見てしまうとわからなくなってしまう。それでやっていけるのだったら、やっぱり在日韓国人の方が良かった、目の見えない人の方がやれたのではないかとか、芸術的なことと関係ないところで行き来する。

 そういうものを背負って、芸術的なところでやれている人はいいのですが、少ない。そうでないところでやれていくというのは、本来おかしな話なのですが、日本の場合は、ストーリーで動いてしまっている。だからそういうストーリーづくりからプロデューサーも入っていける。
 私なんかはそうやってしまうから余計に本人に訳がわからなくなってしまうというような気がします。

○はまり込まないために

 だから歌いたい曲や満足がいく曲に追求していくことが本質ですね。ところがトレーニングをしていくと、声にマニアックになって、そこからそれていく人が多いのです。講演会のレベルで判断していることのほうが案外と正しい。距離を開けて、その世界に入っていないと、案外見えるのです。歌って今の日本の歌は下手だと、正直に入ってきます。
 ところがトレーニングをやりはじめてしまうと、なまじ自分の声のことに全て関心がいってしまい、今度はそれが見えなくなってしまうのです。
 そういう人たちは決まってまわりを否定しはじめます。だからけっこう大変です。いろいろなところで習っている人たちがくると、机上の会議となる。

 私もよく本なんかの感想で、「先生のおっしゃるとおりのことを私は考えていました」というようなことを言われますが、そういう人もいるだろうなとは思いますが、だから何なのということです。そうでなくて私の作品はこれと送ってもらうなら、いいのですが、思想や論文でやりとりするわけではない。

 ただ同じことをしゃべらなければいけないから、本にしておけば同じようなことを言わなくてすむという程度のことです。

 だからリズム感がいい悪いとか、音感がいい悪いとか、考えないほうがいいです。曲を聞いて、いいと思ったら、そういうことができている。悪いと思ったら分析して、あまり音やリズムがどうこうといっているより、やるだけです。
 声楽のところにも、組まれていくことがある。ポップス的な感覚が知りたいという、今の時代の歌も知りたいということです。別の時代で違うものではない。

 そういうところで出てくるのは、「サの発音がうまくいかない」、「それでお客さんが感動しない」とか、そんなわけない。そんなことで歌が成り立たないという話ではないのです。表現がないから、そこに逃げているだけなのです。
 クラシックなら当然、歯並びが悪い、歯が一本欠けているために、共鳴のレベルが落ちるということがあります。私からいわせるとクラシックもポップスも、ステージができていないということは、そんなことをお客さんは期待しているのではない。それをどう直すのかというようなことは、歯医者さんと相談すべきことの問題です。しかし、案外そういうふうになってしまう人が多いのです。

 だから音程が悪いとかリズムが悪いとか、それさえよくなれば、歌がうまくなると思っているというのは、カラオケのレベルの話で、それを直しても、すごい下手だ、音程が外れている、リズムを悪いとかいわれなくなるだけです。価値が出ることとは全然違う。

 ただ学校の場合は、そういうことを第一段階に置くのです。そこから入ったほうがわかりやすいということで、そういうレッスンをするのはよい。作品からいうと全然関係ない。作品をつくるときに、誰が音程やリズムを考えてやるかということです。

 伝えるということを考えたときに、きちんと効果を踏まえて、それをより人に残そうと思ったときに、その辺が整理されてくるものです。最終的にリズムも合わないはずがない。

 合っているというのは正しいことに対して合っているということだから、そういうものを無意識にふまえた上で表現をつくることによって、ようやく人に効果を与えてくるということになってきますね。
 もっとシンプルなものにしていかなければいけないのです。歌や音楽になると、いろいろなものを習って、それの総合力でやろうという考え自体がおかしいことです。裸で人の前に立って、何かを伝えたいということをやっていたら、音楽が生まれた、そのままで歌とかいう部分をもっていなければなりません。学校で周辺のことをやるほど、複雑になってわからなくなってしまうのです。

○補うという考え方

 だからさっき言ったところに戻ればいいのです。アーティストってそんなことをやったのだろうかなと。ほとんどの人はやっていない。でもそういう人は、とても鋭い勘があった、素質があった。と言われてしまうのだから、その部分が自分に欠けている。それをトレーニングで補うために音感やリズムのトレーニングをやるというのがいいことだと思うのです。
 それは補うことであって、それをやったから歌がうまく聞こえたりよくなることではない。もともと音感やリズム感って何なのかというと、人が聞いていたときにすごく心地がいいと思ったりノリがいいと思ったりする感覚でしょう。その感覚自体が自分のなかに入って、それによって正されていないことのほうが問題なのです☆。

 それは入れていくしかない、ある程度入れていけるものだと思います。音楽は再現芸術です。
 たまたま17,8歳で器用で、そういうことができているなという人は、音楽を聞く回数は少なかったかもしれないが、そのなかで、そういうものがうまく入れられた人です。いわゆる筋がいい人たちです。

 こういうところで勉強する人は、16や17歳ですごいことができない人を筋が悪いというと、筋が悪い人です。それをひとつの音で正していてというやり方だけではなく、もっと音楽のベースというところで、音符で書かれていないことやリズムで動いているところを知ることです。そこに、人の心を捉えるものという動きがあって、そこをきちんと捉えていかないかぎり、あまり意味がないのです。

 でも、そういう当たり前のことがレッスンやトレーニングになったら、出てこない。それをトレーニングにしたりメニューやグループにしたりすると、大切なことが欠けてしまうことが多いので、個人レッスンに切り替えています。
 どうメニューに落とすのかというのは、けっこう難しいことです。最終的にいうと聞くしかない。
 行き詰ったら、もっとたくさんの曲をよく聞きましょう。リズムのいいものを聞いたほうがいいのではというしかなくなってしまうのですね。そんなものを聞いてみたもので、そんなもので直っているのであったら、直っている。だから聞き方を学ぶ。

○記憶をつくる

 私がここでよく使うのは、徹底した比較です。ひとつの歌を何人も歌っているもののなかできちんと見ていく。非常に細かく見ていく。

 耳をつくるのと同時に記憶をつくるということです☆。トレーナーの力というのは、声の力とは、私は今は全然思っていなくて、古いものには、トレーナーが優秀かどうかは声を聞けばわかると言っていましたが、今はどうでもいいと思っている。耳です。
 どこまで、音楽が見えるか、細かいところで比較できるか、その人の何を認め伸ばすかというところがあります。

 私が最初にやりだしたときは、皆、私よりレベルが高かった。最初から引き受けたのは皆プロでした。向こうは全部歌える。何を頼られるかというと、それがどう歌になっているか、音楽になっているかというところなのです。
 今でも30年くらいプロをやっている人、ここで1曲歌ってもらうと、周りが見にきたいくらいにうまいのですが、そんな人がここに何をしにくるのかというと、思い込みの排除です☆。

 私はこう思ってそれだけで歌ってきたが、正しかったのか、ほかの可能性があったのか、そういうことを勉強したいということです。
 歌い手は決めたとおりに歌ってきますから、器用でやれてしまった人ほど、そこを落としていることがあるのです。

 自分では思い込んだままやっていったら、もしかするともっといけたのではないかとか、もっと世界的に通用するような歌にやりようによってはなっていたのではないかという、目標からのフィードバックもあるのです。
 そうなったときに自分だけでは客観視は当然できないわけですから、どうやっても自分のやり方は持っている。それを崩しにくるのがここです☆。

 プロでもレベルがそんなに高くなく、10年くらいやっているとして、そのなかでは優秀、日本のなかでも優秀でも、私はひとつのシミュレーションのなかだけで通用するものだと思っています。ソロで通用するというのも、シミュレーションのなかで通用すればいいわけです。ただ音や声の判断が必ずしもあるわけではない。

○客観的基準のあり方

 私はこういうことをできるのは、この研究所しかないだろうと思っていましたが、ミュージカル劇団でも、主役級のことをやっていると身につくようです。
 まずダブルキャストだから、比べられます。同じ演目をやっていくので、いろいろな人がその同じ役をやっていくのを見る。誰かがやったときに良かった悪かったというのを、長期にわたって見ることができます。トレーナーとしての、優れた判断力がついていきます。

 10年くらいやっていてもソロではわからない人もいるのですが、そのレベルまで集団でやったらけっこうわかる。
 音大の声楽科ということでは、いろいろな先生について、ある程度、客観性が持てるということです。
 一番、とれないのはポップスの歌い手ですね。自分でしかやっていないから、自分に通用することが人に通用すると思っている。低いレベルではそうです。

 たとえば30年やっている人が20歳くらいの人に教える場合はいいのです。しかしプロに教えられるかといったら、合わないと思うのです。
 それは、共通の部分の根本の基本に戻っていないからです。しかたないと思うのです。

 現役活動をやっていると、どんなことをいっても自分の好きな歌が気持ちいいのです。それに対して基準が設けられる。それは発声の基準とは違うし、その人のオリジナルを生かす基準でもないのです。そういう意味がいうと、難しい。
 昔みたいに歌い手もアカペラみたいにマイクがあまりよくなくて、声量でがんばらなければいけないときは、ひとつの基準として発声が確固としてあったのです。

 まず声が大きくて響いてなければいけないというのがありました。そうするとそれが第一だから、基準が統一してとれたのですが、今のようにしゃべる声より小さく歌ってもよいというふうになったときに、何をもってプロの歌というかというのは難しくなっています。
 逆にいうと、全身で歌うとか声を細かく調整しなければいけないところまでの高い基準を求めないと、わからないということになるはずなのです。

○大きなギャップをつくる

 その人がどこまでいくのかはその人の人生で、プロであろうがアマチュアであろうが、プロがアマチュアの上であるとは私も思っていません、ただ、目標として、最高のものに設定しないとトレーニングが成り立たない。
 もっとはっきりいうと、ちょっとうまくなるのでいいというのなら、自分でやりなという。体や感覚を変える必要性がないのだから、マイクのエコーを調節したほうが、うまく聞こえるようになるわけです。そういうところになるとトレーニングは成り立たなくなるのです。それから選曲もそうです。たとえばここのクラスの10人くらいのほうがうまく歌えるような歌手の歌い方を、プロとして定義してしまったら、あのくらいには歌えてしまうのに、私には仕事がこない、となる。プロになりたいのに、目標にできないのです。

 すごいヴォーカリスト、すごい歌があって、それに自分は1秒も同じことができないということだから、ステップアップできるのです。ギャップがあるから伸びるのです。
 トレーニングは逆です。皆ギャップを埋めたいと思ってくるのですが、ギャップをつくることがレッスンです☆。
 プロの人は歌えていて、お客さんもいるしコンサートもできる。そういう人は、そこでのさらに大きな、細かいギャップを見たいから来るのです。

 この歌で通用しているつもりでも、本当に歌っているということとどう違うのということで来るのです。
 本当に歌うというのは大変です。1分のなかで奇跡のようなことが起きないと、本当の状態で歌えるとはいえない。初めて目標を設定してやったときには1秒も2秒ももっていないわけです。そのことをプロにわからせるのは、なまじやってきているだけに、難しい。

 いろいろなこなし方を知っているからです。こちらが破綻させるようなことをさせる。声を上げてください、3倍くらいに伸ばしてくださいとかいっても、それなりにこなしてしまう。今までの経験上うすめて、こなす。
 それがプロの強いところです。ステージに出てしまったら、お客さんに対して失敗は許されないところで感覚が研ぎ澄まされています。
 だからそこの矛盾を我々は突いていけるのです。要は1分の曲を1オクターブ以上にわたって展開するというのは、そんなに簡単なことではないのです。

 日本人で本当にやれている人はいるのかほとんどいないくらいに大変なことなのです。
 ということは、プロもそれをきちんとやっていない。1箇所だけの1秒で、半オクターブやったらそれの10倍くらいの表現ができるということを、仮に1分のなかでやっていないとしたら、それはごまかしだけ。プロというステージでいうことであれば、それはバランスをとったということになるのです。

○ギャップをつめない

 たとえば体の流れから見てみたら、そこでは2秒空けないと、どうしてもその人が入れないという場合には、ここのトレーニングでは、そこで2秒空けさせます。抽象的な言い方でわかりにくいかもしれませんが。楽譜上、曲のテンポでは0.5秒しか空いていない。もちろん、プロはそこを0.5秒でさっとやるやり方を知っているのです。体を使わず、マイクや口先を使ってやる。ステージにいたら当然そのやり方をやるのですが、私のレッスンのなかではそれは許さない。それを許してしまったら、ここに来る必要がないのです。

 あなたの今の感覚では2秒が限度だ、きちんと歌をつなげるためには2秒空けなさい。半年たったら、もしかすると0.2秒縮まって1.8秒になるかもしれない。次に1.5秒になるかもしれない、1秒になるかもしれない。それで0.3秒くらいのところまで、自分でつなぐ感覚のところまできれば、ようやく0.5秒の歌がこなせるようになる。

 このように、あくまで体や感覚を中心に考えていく。歌はどこかから与えられたものですが、それにあわせてやること自体が大きな間違いですね。
 でも上達したいということは逆でしょう。素人が0.5秒で入れない、と言ったら、先生が、これを丸覚えしてみてといって、パッと入れるようなことをやる。そんなことを覚えてしまったら、勘のいい人は0.5秒なんて簡単に入れてしまいます。高校生でもいくらでもいます。そうするとトレーニングやレッスンは成り立たない。

 だから本当に難しい問題です。でも明確です。さっきの6人は皆さんはいろいろなことを書いていると思います。好き嫌いはあると思うのです。でもそれのどこかの一部分を切り取って、パッと聞いたら、これはアマチュアではないなというのはわかると思います。
 その部分をつくることがトレーニングの目的だと思います。今の日本のヴォーカルのなかでは必要条件ではないと思うのです。そんなものなくてもプロになっている人はいるし、そうでない人のほうが多いです。だからまた現場と両方をやっている私としては、難しくなるのです。

○歌の判断

 最終的には、ここに入ったあとも歌をどうつくるかは自分でやりなさいと。やったものに対してこんな可能性があるのではないかくらいは言えるけれども、こうやりなさいとかこうやったらこうなるというのは、あまり言えないということなのです。

 けっこうメインのことを言いました。歌をどう判断するかというのは、そういうことです。自分の判断力をつけていくということで、それは自分の作品のイメージなんだから、そういうふうに生きて、その感性を磨いて、そのうえで正されるように正されていくしかないというのが、最終的なことです。

 トレーナーはこの点、レベルがすごく低く、未経験の人が多い。プロデューサーや演出家のほうがずっといいです。同じように見てもらえばいい。

 演出家というのは何をやっているかというと、台本を音声に置き換えている。その音声で置き換えて人を感動させることを、指示しているのです。

 本来そのイメージなんだけれども、その人がそういう声のまわし方ができないから、そこにヴォイストレーナーというのが必要なわけです。

 演出家は、声のこともけっこう知っています。舞台で学んでいるのです。自分なりの経験でも知っている。彼らの求める声と、私たちのやっている声も、また少しずれるのです。彼らの場合は、演劇上のなかで通用する声で、昔の役者だったら、クラシックでも演劇でもまず声量が必要だということで一緒だったのですが、今は声量がなくてもいい。どちらかというとJ-POPと一緒ですね。

 この前、ミュージカルのオーディションをみました。もう生まれたて声がいいというレベル。それは私は認められないのです。説得力もない。でも演劇のなかで使えるのは、ミュージカルと同じで、役柄がある。きのこしかできないという子にも、可能性はある。 ところがソロのヴォーカルの世界は、オンリーワンといっても、それは、ベストワンなのです。

 人を不快にさせたりびびらせたり嫌な思いにさせる声のトレーニング、そういう声を出すと喉がつぶれる、当たり前なのです。相手が不快になるということは、相手が不快になるということを起こさなければいけないわけです。そんなのはノウハウにはないのです。声で、人を不快にさせるやり方というのは、アンチノウハウ。

 特に声優や役者、特に悪役の吹き替えなんかは、凄みをきかせるとか、必要です。凄みがあったら歌でも通用するようなところがあります☆。

 そんな使い方があっても、日本でそういうことがなぜできないかというと、もともとオペラの人は正しく勉強してきたから、喉が弱いのです。外国のオペラ歌手は、私はたくさん知っていますが、しゃべり声がいいですね。

 日本のテノールなんかになってしまうと、普通の人より声が悪くなってしまいます。そこでロックをやらせてみたり芝居をやらせてみたりしたら、喉をすぐに壊してしまうからです。ミュージカルでは劇団によりますが、半分以上が声楽出身者、あとの半分は役者出身者、くっきり分かれています。

 役者のほうは感情移入ができて感情を伝えられるのですが、高い音が出ない。原調でやるミュージカルでは難しい問題が出てきます。どうしても声楽家を使わざるをえない。

 ところが声楽家の声はきれいなのですが、インパクトや説得力、個性があまり出てこない。本来はそんなに分けられるものではなく、両方があって歌手であるべきなのです。その辺は、課題です。

 最近はお笑いの人から学ぶことのほうが大きいです。彼らが4分45秒の作品をどうつくっているのかを、声だけで聞いて、彼らの振付やアクション、ギャグはともかく、声だけでつくられた間のとり方、つっこみ方、声の動かし方、その中のメリハリのつけ方、ドライブ感のつけ方、呼吸の間合いをみています。ひとつ外したら笑えなくなります。そういう漫才やコントを見て、それを他のプロの組がやってみたら通用しない。今のレベルの高さのなかでは、あのキャラクターがあって、あの声があって、ネタがきちんと生きる、それこそ、私が本来歌の世界やヴォーカルの世界でやりたかったことです☆。

 ギターやドラムがついていれば、そこで何を歌っていても通用するみたいな基準のない世界ではない。ただ音楽は音楽ですからという部分もあって、考えなければいけないことが多い。

○海外のトレーナー

Q.ジャズであろうがポップスであろうが、すべて基本は同じだといわれたことが印象的でした。ですが、先生の本のなかに、日本人がヴォイストレーニングをするときに、日本人に合ったヴォイストレーニングをするべきだということが、ありました。ジャズピアニストについてヴォーカルをやっております。フィーリングや感覚のために、ヴォイスのトレーニングをしたらもっとよくなるはずだというふうに言われました。私が考えているのは、本当の基礎の発声です。とにかく自分の課題としては、お客様が聞いたときに、耳に心地いい音で残る声、それとロングトーン、それが課題だと思ってやってきました。

 ここを出て、15人くらい留学しています。アメリカだけではありませんが、L.A.はずいぶんと行っています。うちのトレーナーも今住んでいて今度、来ます。私もいくつかの学校も昔は関わりがありましたが、外国人のヴォイストレーナーで、アメリカはピンキリですが、それこそ日本にも来ていますから、私がわかったことは、日本人に対しては非常にビジネスライクにサービス精神旺盛といったら変ですが、むしろコミュニケーションにおいて、音楽を楽しむことを主にしている。それはよいのですが、同じ土俵ではあまり相手にしていないということが多いですね。というのは、現地のヴォーカリストに対して、厳しくやるトレーナーが、日本人に対してはやさしく教えています。それだけ実力の差があるから、彼らが本当の意味の才能を発揮できない部分もあるし、ある意味では手を抜いている部分もあるのです。それは実力社会であるかぎりしかたないと思います。

 ヨーロッパあたりだといろいろな個性があって、むしろ教育的な考え方をとっている人が多い。トレーナーや国がどうこうというよりも、個人で全然違う。でも、レッスン生が、伸びるとかいうことではなく、本当はたいして伸びていないのに、そうみえるようにする。つまり、基本のなさを応用力でカバーする分にはプロフェッショナルですね。感心させられます。

 日本人に対しては、音楽を本当に楽しめていないのだから、ステージパフォーマンスからやるべき、最終的にヴォイストレーニングはステージパフォーマンスであるということ、それは私も似たような考えです。

 ステージで通用しなければ、意味がない。やっている間に、生徒が自分でやれたと思う。まるで今どきのサラリーマンの上司。その9割は私から見たら、彼らの才能の演出です。組み合わせによるものです。彼が抜けてしまったら、かたちだけは残るけれど、残らない。そういうことでワークショップなのです。

 個人レッスンでいうと、ほめて伸ばすという方針は、私は見習わなければいけないのですとですね。たしかにその上でデビューできるかは当人の問題です。

 根本的な問題のところには踏み入っていないというのは、もう10代でまわりから所望されている人、天才ですごいという人でないと、向こうはまずヴォーカルというのを選ばないのです。

 30歳になってからやりましょうということで入れる世界でもない。そういう人が10才までに育った環境というのは、意識下にない。彼ら自身はトレーニングをしては取り込めないのです。すでにそのレベルの高さからいって、大学で勉強して、ロックをやってオペラを勉強している。

 音楽的に優れた人に期待してつけたこともあるのです。喉を壊してしまったり、自己満足のなかで終わっていることが多い。言語の違いというのが、一番大きい。
 外国人に英語を勉強するというのもいいのですが、ネイティブにはなれない。だからといって、日本人が勉強しても無理。しかし、音楽は総合的なものですから、そこの部分がなくても、臨界期の壁まで戻して音を捉えるということは、できなくはない。それに近いことをやってきたつもりです。

 私も向こうの耳で聞いて、日本のものを受け入れられなかったのだと思います。日本で生まれて生きて、日本語を聞いて発してきた以上のことを、外国語でやれば、それに近い感覚になるというのはある。音楽に対してはたぶんそうです。その感覚の切り替えがないと、できない。日本人の考え方で伸ばしていくと、クラシックと同じになってしまうのです。テノールやソプラノと同じ発声で、歌っている人がいないわけではない。

 向こうの人の発声は、日本のなかでは日本人は少ないです。
 感覚では綾戸さんなんかは、日本の声でハンディキャップがあるなかで、音楽の動かし方を知っていてやっている部分はあります。日本の歌を歌ったら、向こうのヴォーカルより高いレベルの作品をつくっていける部分もある。そもそも比べると、違いがわかるので、イメージの設定になると思うのです。

 日本のジャズは、日本人の客が多い。外国人も聞くし、英語でやられている。そこでの感覚の切り替えができない。聞いてみるとわかると思います。
 ロングトーンの問題は、息の効率の問題にもなると思います。ヴォイストレーニングで、たったひとつの声を3秒キープするということからはじまる。レベルが高いか低いかわかりませんが、そのなかで多くの問題がありますから、それだけを徹底してやるひとつの方法だと思います。

○声優のトレーニング

 声優は私もけっこう引き受けるようになって、声優ブームのときに、近くに声優やナレーションの学校があるせいか、よくいらっしゃった。学校は、現場のことしかやらないのです。マイクや用語知識のこと、掛け合いのようなことばかり、すると声がある人はいいのですが、ない人は、何年やっていても変わらない。小さいころから大きな声を使いまくってきた人がどうしても有利な部分があるのです。
 ここの初期の目標というのは、役者が、3年や5年で声が変わって、そういう声になるなら、それを効率的にやれば、そのベースくらいのことが早くハイレベルにできるのではないか、そこから歌に入ろうというところです。

 声優役者は、そこだけ使おうという考え方でいらっしゃる。グループでやっていたときには、ヴォイス科をヴォーカル科から分けた。ヴォイス科のことを2年やって歌をやりたい人はヴォーカル科、そこまで高音発声もロングトーンも、複雑なリズムもやらない。聞き込むだけ。

 徹底して、体と声のことをやったら、2年でできるわけではないのですが、早い人はそういう感覚がつかめたり声が出るようになってくる。2年でできた人は、その前に8年以上ありました。本当の意味でいうと10年いるというのが、実感としてはあります。
 声優さんでも、私は出口から考えます。仕事が来なければだめなのです。

 事務所に所属すること、もう一つ、そのなかで自分にくるキャラクターや絶対的な強みが必要です。ギャランティが安く、競争率が高い世界です。生計から考えたら何もできない。ヴォーカルも職業として成り立っているわけではないから、同じです。むしろ声を使う分野での仕事と考えたほうが、いい。
 今後、声優としての仕事は、たくさん出てくると思うのです。デジタル放送や世界中の翻訳など、でも、お笑いやタレントさんのほうがずっと使いやすい。

 レベルが違います。声優学校にいって、ちょこちょことやっているのと、人前での舞台を仕切ってきた人の使い方は、現場で磨かれ、実践的この上ない。今、どんどん変わってきています。この前吉本興業はアナウンス部をつくりました。アナウンサーも吉本出身でしめられかねない。要は放送局でルックスだけでとられた人は、アイドル的な要素、でもアイドルならもっとふさわしい人がいます。

 声のレッスンということより、役者とトレーニングをやっていると、メニューの効果ではない。教えているから、声がよくなるのではなく、現場に出てその必要性から直っていくわけです。最初5分で10回くらいかんでいたのに、本番になったら1回もかまなくなってしまう。練習量が違う。50倍くらいやっている、24時間それに生きている。そのため、とことん貧乏。優先順位が違います。
 携帯を持って、そこに5千円でも1万円かけるのであれば、自分の勉強にかけること、そういうことがまわっているのは、日本のなかでもかぎられて、そういうところでは人は育っています。一部の落語家のところでも育っていますが、あとはだめです。

 それは学ぶシステム、環境ができているところです。あなたが、目標を定めることです。声優の学校に行くのもいいと思います。
 誰でも入れるところに入ったことでは、何の価値もつきません。誰もが入れないところに入ったとしたら、少しは価値がある。

 声優であこがれている人も、何かから入ってきていると思うのですが、その人に直接つくのがいい。その人は弟子をとりませんという。でも、昔は弟子とらないという先生に、10回でも100回でも行って、それで弟子になったものです。
 「ミリオンダラー・ベイビー」ではないですけれど、人と何かしら違ったところで選択していかないかぎり、道は開けてこない。そういうことからだと思います。

 声優という職で考えるよりは、ヴォイスアクターという分野で、声を使って何かをやっていく。生活がしたいのなら、声優という肩書きだけではけっこう難しいです。ひとりで5役くらいのことをやれること。
 要は5役やって、2役分くらいのギャラをもらう。そうすることで何とかやっていく。
 そういうこと徹底してやっていくのであったら、やりようがあります。学校へ行って、それで卒業できるレベルでは通じない。そういうことに皆が関心を持つのはいいのですが、アニメの声のまねから始めないほうがいいです。自分に合っている声ではないから、けっこうつぶす可能性が多い。そういう子もを引き受けています。潰してしまった子やうまく声が出なくなった子は、同じことが再発するのです。そういうものをまねてトレーニングをすると、喉はつぶれてしまいます。本当の自分の声でないといけません。だから急がないことです。

 昔の声優さんのように、役者から入るほうがいいと思います。役者の養成所に行って、体から徹底的に演技をすることを勉強した上で、それを声優の分野に生かす。そうでなければ一人舞台や漫才、そういう分野から入るのもひとつの勉強だと思います。
 下手にヴォイストレーニングをやるくらいなら、そういう舞台をやってみたところから声の力がないと感じたほうが、早くよく身につくと思います。

 そのレベルの上で来ると、もう少し高いレベルに見合うことを与えられます。どこかに行けば身につくと思うと、依存症になってしまいます。私は音楽スクールに行っていて、アドバイスしています。「スクールに入れて依存症にしてはだめだ、ただでさえスクールにくるというのは依存症なのだから、ロックやるといってスクールに来るのはおかしい。」ロックやる資格がないわけです。
 でも、それでも行くというのは間違いではないと思う。すごく向上心があったらそうする。なのに、それで通うことで満足してしまうから、何も生まれてこない。そういう意味ではいろいろな経験をしていくのはよいと思います。

○研究所の利用法

Q.音楽をやったことをなく、本を読むのですが、どれをやったらいいのかがわからない。やっても自分のやっている練習が合っているのか判断がつかない。だからずっとやっていてもこれで合っているのかというの疑問が生まれてくる。ちゃんと自分のやっていることが合っているか間違っているかを教えてくれる先生がいればいいと思います。

 昔、別のスクールに行ったのですが、いつも違う先生にやってもらうことになって、ちゃんとひとりの先生に見てもらわないとわからないと思ってやめてしまいました。

 歌うために理想的な姿勢、深い息、体から声を響かせて出す、音域を広げるレッスン、迫力の声を出す、リズム感を養う、などは練習方法のことですね。耳で聞いて、その音を正しい音に置く方法、日常の練習、マンションでできる練習などもですね。ここは年代も、いろんな方が来ている。職業欄のデータがありますが、私はあまり知らないです。昔から、ここにはどういう人たちがいて、その人たちから刺激を受けられるのかという質問、そういう人は入ってきてほしくないと私は思いますので、正直にそういうことを言って、遠ざけています。

 だいたいどこでも同じで、ステージだから自分は力を出せて、練習場所だったら、出せないというのは、おかしい。本当にやれる人は練習場所で目立ってきます。まわりがこいつやれなければおかしいのではないか、と思うようなことをぶつけてきます。
 そうでないタイプというのは、どこかで大化けするのをこちらが期待して待つしかないですね。非常にシャイな子も、ステージはすごく派手にやっているのに、こういうところに来ると猫かぶったようになる子もいる。それはそれで長いなかでわかる。地道にコツコツ積み上げていく子、最初だけの勢いという人と、いろいろな人がいる。

 私は、研究所の中や外というふうに、私は考えていません。入ろうが入るまいが、いろいろな人から勉強しましょう。ただ、勉強する人とやっていく人はちがう。私もいろいろな人から勉強しました。いろいろなところに行ったり、いろいろなことをやったところで、足りないことがどんどん出てくる。
 たとえば、こういう組織をもっていると、毎日のように次々と問題が上がってきます。それに答えるためには、相当いろいろなことを勉強せざるを得ない。

 よくいろいろな話をすると、恵まれた人生を生きてきたんだなというようなふうに捉えられますが、そのときそのときは、とにかく前を見ている。やるしかないのです。その結果として、あとで人にしゃべるときには、研究所の方法の理屈や理論も、後からついてきたものです。

 直感的にやっていく。やっていった結果、結果は跳ね返ってきますね。それをフィードバックしてみて、またやっていく。プロになりたいというと、オーディションで、プロダクションに拾われる。というふうに、考える。
 そんなことは前の世代がやってきたことです。あなた方は若いのですから、何でも一からやればいいのです。今、何でもありますから。昔はCD1枚つくるのも本一冊出すのも大変だったのです。今は大学生でも高校生でもできる。全部のツールがあるでしょう。

 それから、親を扶養したりとか、苦労している人はいますけれど、苦労しているから偉いとは思いません。誰でも事情がある。作品ができてから偉いと思います。一生懸命やることと結果が出ることは、同じではないのです。そういうふうに自分が今、何かをできる状況であるのなら、やればいいのです。やらなければ時間だけがすぎていく。歌を歌いたければ歌えばいいのです。
 場所がない。どこでもいいのです。若いうちにやらないと、だんだんできなくなります。大変になってくるのです。

 やるなら、どこかで飛び出さないといけない。どちらにしろ、人様に自分をさらす商売です。体面とか恥ずかしいとか、言い訳が出てくるようであれば、向いていないと思って、やめたらよい。どうしても本当にやりたくなるまで、何か違う仕事をやったり、まったく向いていない仕事をやってみればいいと思うのです。

 そうしたら、本当にやりたくなるのかもしれない。やりたいではなくて、やるしかない。そのやることに対して、何かが足りなければその力をつけるしかない。迷っている時間は大切ですが、無駄です。本当にやりたければ人間というのはやっています。
 そういうことであなたの歳でもやっている人はたくさんいる。やったからといって、そこで何かが出てくるわけではないから、そこからの勝負です。でもやらなければどうしようもない。そのために人に会いに行ったり、こういうところに来るのは、とてもよい経験、勉強になると思うのです。

○体がベース、ベースにオンする

 レッスンとトレーニングということについて、いつも私は、一番いいやり方があったら、そのやり方をとっていこうと思ってきました。
 私のレッスンは今、月に15分だけというのもあります。15分で何ができるのかといったら、さっき言ったとおり、半オクターブ、4フレーズくらいであれば、充分にできる。1分の曲だって15回できるのです。だから長いのです。
 歌は3分といっても、ワンコーラスやるのにたかだか1分かかるかどうかです。

 とことん短くしたのは理由があります。ステージと同じで、その15分のなかで、勝負できなければいけない。人間が本当に集中したときには15分も持たない。今、日本のヴォーカルを見ていても、だいたい1番くらいしか持っていない集中力。外国のヴォーカルが3分あれば3分持っているテンションを、キープできていない。

 それをレッスンので、15分といって短い、60分ならいいのかというと、その中で何をしているかというと、30分以上、遊んでいるわけです。そういうふうな時間の感覚がついてしまう方が怖い。一般にベーシックには30分ということでやっています。
 レッスンの目的や、内容に対しては指示をせず、トレーナーにお願いする時点で信用しています。信用できなくなったときには、生徒がいなくなっています。

 レッスンで何をするかというと、気づきにくるのです。これが一番メインです。ここに関してはプロもアマチュアもないですね。レベルが違うだけです。
 気づくということは、まず気づいていないに気づくことからです。次に気づいていないこと、足りないこと、入っていないことに気づく。気づけばそれを埋めていけます。このことの流れをつくるのがレッスンです。
 トレーニングというのは、このプロセスを繰り返してやるわけです。

 ヴォイストレーニングは、リピートからです。日本人は真面目ですから、何かをやっていけば、必ず身につくはずだと思う。確かにそういう部分もあります。
 体をベースにおいているのは、体はある部分まで変わるからです。年齢とかで変わらないことです。皆が、たとえば腕立てを30回ずつ毎日したら、たぶん1年たったら30回は、そんなに辛くならないですね。今、1キロ走っていたら、辛くても、皆さんくらいであれば、1年続けたらけっこう走れるようになると思います。

 そういう部分にベースを置くというのは、トレーニングがここの場合、とくに素質で選別して引き受けているわけではない。やる気で引き受けていることだからです。そうすると誰でも共通するところにベースを置かないと、だめだろうと。

 だから、体がベース、それゆえ時間がかかります。1ヶ月2ヶ月で、そんなに体が変わるわけではないです。でも確実に変わります。
 2年3年4年と、それは呼吸の部分、体の部分、それからそういうものをコントロールする部分に関してです。だからそこに重きをおきます。ここがリピートの部分です。

 ただレッスンで一番大切な部分は、そんなに体をつくっていないのに、もっとうまく歌えている人がいるじゃないかという、優れた人間のほうに目を向けるということです。そこから勉強したときに、オンする、オンをどこまで次元を高めていくかというのがレッスンですね。
 そうでないと続けてはこないです。毎回毎回新しいことを起こしていけるかというと、それっぽくやれば簡単なのです。なんか出たねとかいって、本人のかたち、本人のクセに押し込んでほめたりすればいいのですが、そういうやり方が一番まずい。
 いろいろなトレーナーやスクールを見たら、それはしかたない部分がある。生徒が1回ごとに結果を問うからです。今回は何か勉強できた、今回はどのくらい達成できたというふうになると、それを求められるトレーナーでは、ここのように長期的にみるようにはいかない。

○成果を急がないこと

 その一ヶ月が終わった後に、次の一ヶ月がくるかどうかというのは、その一ヶ月に効果を出さなければいけない。だからどうしても短期的な上達をみて指導をさぜるをえない。これはトレーナーが悪いというより、その人の考え方です。
 ここに来られる人は、他のところで満足していたら来ません。

 いろいろなトレーナーや学校のことでいうと、良心的なところやきちんとやっているところは、そんなに早く成果は現れないです。成果を早くうたうところは、そのやり方があるのです。リラックスさせ、声をほめたらよい。それだけです。
 今日こんなことをやっているのなら、高いところを出す方法を教えましょうとか、ロングトーンを出すやり方を教えましょうと、そういうことでまわす。

 その人が初心者ならともかく、何ヶ月も何年もやって、それができないというのであれば、その前のところに問題があります。
 たとえばこの歌の音程がとれないのですといわれても、ここで教えたら簡単でしょう。丸暗記していく。でも音程がとれなかったというのは、もっと前のところに問題があるのです。
 普通の人がやってみたら、意識しないでとれてしまうところにひっかかってしまう。それではその音をいくら教えてみたって、次の曲、違う曲になってみたら、同じ問題が来るのです。

 そういうのを私は教えたとか、勉強させたとかはいわない。ごまかしてこなしたという話です。
 それは声域、声量に関しても、同じです。単に一瞬高い音をとる、そこの技法はなぜいけないのかというと、通じないからです。
 私は現場でやっていますから、実際、その日のそのステージにたいして歌えなくなってしまったというときがありますので、応急処置としてやらなければいけない。応急処置をこメインのレッスンにおくというのは、違います。

 昔、公開レッスンなんかをていねいにやっていたとき、だいたいは、一生に一回会うだけ、地方の人はなおさらですから、体験レッスンをやって、私が親切に接して、その日の満足になるようなことをやっていました。ファンサービスです。今は、そういうことはやりたくなくなってきました。

 そこはむずかしいのです。こういう私の催しをひとつのエンターテインメント、ショーとして考え、それ自体をひとつのライブとして考えるなら、その人の、その日の満足を最大限にやっていく。その辺をどうするか。

○後のためにやる

 今日のようにここに関連をつけて勉強しようという人が多いなら、どちらかいうと、1回目のレッスンに近いかたちでお話したほうがいい。後々につながっていくことはどういうことなのかをいったほうがいい。
 そういうことが共通しているようでいて、案外と違うのです。1回でやるやり方、3ヶ月で仕上げるやり方、半年でやるやり方、それから2年、4年でやるやり方、ここはそういう条件が全部整った後のことを考えています。

 もっというのであれば、最初に引き受けるときに、ここを出るときのこと、出たあとにその人がどうやっていけるのかということから考えるから、さっきのような答え方になってしまうのです。
 声優をやるのなら、ここに入って声優の勉強をしましょうというふうにはならない。そんなことをやってやれる人は、世の中にはたくさんいます。

 2年ここで勉強したことは、声優学校で4年くらいやれば、似たようなことはできるのです。じゃあ、4年が2年になったからいいのかというと、そうでもないのです。
 そういう学校に行くと、そういうコネクションがあったり事務所に入りやすかったり、また有利な面もあるのです。そういう意味でいうと、すべての条件を比べて、考えていかなければいけない。

 そんな難しいことはともかく、足りない入っていないということに気づく。ここもいろいろな人がきます。ベーシックなところで、感覚的なことを扱うのです。ここに来る人は日本人でたまにそうでない人もいるので、けっこう困るのです。日本に住んで日本語を扱う。この辺から、考えていこうと。

 そのこと自体が音声にとって有利な条件ではない。むしろ、世界的にみたらかなり弱い条件で、声を強く使えない日本人、それからそういう必要ない日本語、外国というより人間といっています。しかし、もし人間として、こういう音に恵まれた環境にいたら、どうなっていたのだろうというところで考えてみようというところで、やってください。
 すると結局、日本人にとって気づかないこと足りないこと、入っていないことは、中には英語でやってきた人もいるので、重なる人もいますが、本当の意味でとれている人は少ない。

 ここでもこんな話をすると、今日感覚が切り替わったように錯覚する人もいるのですが、そう思ってから2,3年は感覚は切り替わらないのです。本当に3年くらいかかっているというのが7割、2年で6割切り替わったら相当早いほうです。では、何が切り替わるのかという話も含めてやっていきましょう。

○呼吸について

 腹式呼吸などということでやると、わからなくなってきてしまうのです。皆さんが今やっているのは、腹式呼吸で、呼吸法として少しも間違っているわけではない。息の吐き方が間違っていますかと聞く人がいますが、そんなことがあるわけない。
 多くの人はトレーニングはすごく特別なことだと考えています。我々がこうやって生きて、ここで話ができる。そういうときに息がきちんと動いていることが、どんなに奇跡的なバランスの上で成り立っているかという、その前提がないのです。

 その前提の上にどのくらいトレーニングをしていけばいいのか、考えることです。それでいうと1,2パーセントのことでしょう。まったく何もないところで100パーセントの呼吸法を身につけようという考え方は、とことんおかしくなってしまいます。

 もしわからなければ、皆さんが大病や事故で入院でもして、酸素でも吸っていたら、映画みたいですが、そうなったときには深呼吸することでさえ、つらいわけです。ふつうの呼吸ですらできなくなる。そういうところから入ってみましょう。
 現場で、きちんと一流の歌のなかで見てほしい。というのは、その歌のなかで使われている呼吸が、自分のなかでできればいいというふうに考えたほうが間違いがない。

 現実に使われているのですから。だから、「呼吸法は息を5秒吐いて5秒止めるのですか」、「それとも長く10秒くらい吐いたほうがいいのですか」とか、「ドックブレスは何回やればいいのですか」とかは、意味のないのです。そういう質問ばかりくるのです。
 私がたまたまそういうふうに言ったのにすぎない。
 この前斉藤孝さんに会ったら、彼は3秒吸って2秒止めて、15秒吐くと、その根拠は何ですかと聞いたら、「3回やったら1分になるから覚えやすいでしょう」と、それは間違いではない。一般の人は覚えやすくなければやらない。やらないことを考えたらどんなやり方でもやったほうがいい。健康法と同じです☆。

 私は「吸うからはじめるより吐くからはじめたほうが楽になります」といっています。そんなものです。
 テキストにとっても、その5秒が6秒だったら間違いなのか、20秒吐きなさいというのは25秒だったらだめなのか、何の根拠もないです。検証したこともないです。できればやっています。
 もっというのであれば、長くなれば呼吸の支えは崩れてしまうし、姿勢も崩れてしまうから、歌からいうと、マイナスでしかならないのです。

 でもアマチュアの人が息を意識するのに、長く吐いてみたから息が足りなくなる、今は20秒だけどトレーニングしたら25秒伸ばせるようになったというのはよい。こんなことはプロのヴォーカルからいうと何の意味もないのですが、そうやるとトレーニングらしくなります。やらない人がやれるようになります。どんな歌であれ20秒伸ばす箇所なんてないという話です。使わないもののためにトレーニングをやっておくのはいいのですが、そのために余計に姿勢が悪くなってしまったり、支えが崩れてしまうのであれば、何のためのトレーニングか分からないでしょう。現実にトレーニングはそうやってやられていることばかりです。

○難しい発声練習って?

 だから、つきはなさなければいけない。たとえばポップスの歌い手さんに来てもらいます。他の学校のトレーナーを見ていると、歌わせたら楽に出ている高い音程のところで、発声練習をやらせ、それよりも低いところでひっかかっているのです。そうしたら、発声練習をやってはいけないのです。

 発声練習は何のためにやるのかというと、日本では、歌でやる音域がうまく出ないからです。そのときには音程がついていたり、そのことばが複雑だったりして難しいから、簡単な母音で、それで半音ずつ上げていって、ていねいに上げて、もっと高いところまで出しましょう。つまり、歌より高いところを楽に出せるように、発声練習をやって、ここでマスターしたことを歌詞にもって、歌もここで高く出せるようにしましょうというのがもともとの考えでしょう。

 ところが発声練習で、ひっかかってしまう人が実際の発声練習になってしまったら、楽に出ているのです。そうしたら歌を使ってやるほうがいいじゃないですか。こんなことばかりが本当に当たり前に行われているのです。

 それはトレーナーがバカなのだけでなく、受ける人がそれを考えなければならないと思うのです。おかしいじゃないか、発声は歌のためにやるんだろう、ところがトレーニングの学校に入ってしまうと、口をふさぐ。

 トレーニングが独立してあるかのように。発声練習のための発声練習になってしまう。そこに出口はありません。そこを考えるとともに、一流のものの実際、歌われているところのなかの息、皆さんが歌ってみると、きっとこうならないと思います。これを3年か5年後に歌ってみたら、一流の歌手のようにきたら、そこで呼吸が深くなってきた、身についてきた、そういうふうに考えればいい。そのために何をやったらいいのかを考えて、自分で決めてやっていけばいい。

○マニュアルでは、オンしない

 トレーナーがいうのは、たたき台です。それを15分やればいいのか5分やればいいのか、1時間やればいいのか、わからない。だから、やって決めていく。
 本もそうやって使われる場合が多いのです。「先生、1年やってきたので見てください」と、だいたい偏ったおかしなかたちになってきますね。それは何もやらないよりいいと思うのですが、だから何なのという話になってしまうのですね。それが後でどう効いてくるかはわからないです。そのことが無駄だとは思わないし、そこにかけた情熱ややる気は無駄ではないと思います。ただ、それをさらに繰り返していくことにはあまり意味がない、繰り返してやれることは、あくまでやっていない人に対して差別化することです。多くのアマチュアの人は5年10年やってうまくなると思っている。うまくはなるのです。やるのだから。ピアノでも何でもやればうまくなるのです。ところが長くやったことでうまくなったところまでというのは、プロの人でもっとたくさんいるのですから、勝負にならない。長さは、ベースの再現性にすぎず、そこにオンした部分しか勝負にならないです☆。

 だからやれている人の世界の中で、何を違って出せるのかというのが勝負なのです。やれない人の中でやったというのは、それだけのことでしかない。

 ところがトレーニングというのが、けっこう日本人は好きなのですね。だからヴォイストレーナーもいい先生がいて、そこでやられているようなことは健康法のようなことなのに、それをずっとやっているとプロになれると思い込んでいるわけですね。絶対になれない。そうやって神経が麻痺して、気持ちよくなっていっているだけです。それは別の意味の呼吸法です。

 それがだめなのではない。体が弱い人がやるとか、他の仕事でいろいろな業績を上げている人がそういうところに来て、発声をやってすっきりするというのは、いいことです。
 ただアーティストのベーシックなものとは違ってくる場合があります。共通する部分もあるので、一概には否定できません。

○ベースの声と息

 ベースの声があるのは、今では、外国とのハーフみたいな人が多いです。日本語以外の言語をペラペラしゃべれるような人のなかにたまにいますね。韓国、中国のロックというのは、私は耳で聞いてみると、区別がつかない。日本人のロック、ジャズなどは瞬間的にそれだとわかります。ジャズもほぼわかります。外国語の8割の歌に関して、これは日本人だということがわかってしまう。発音がきちんとしているということも逆にいうと日本人らしいということでわかりますが、まず深い息が聞こえない。
 今のレコーディングは、デジタル加工して、こういうものを聞こえなくしているものが多いです。エコーがかかってしまうとよくわからなくなりますが、だいたい日本人が吹き込んだものは、音だけを並べていっている場合が多いです。
 息を吐いて言語をつくることが、日本人の持っていない部分です。

 もうひとつは、声楽出身の人は、声のひびきに変えてしまうことに重点を当てています。だから単純です。
 ここでかけるヴォーカルが特殊なヴォーカルなわけではありません。むしろあまり加工していないヴォーカル。音響で加工してしまったり、自分のなかのテクニックで違う出し方をしていない。ストレートに歌っている人を並べています。
 今の息の使い方は、聞こえましたか。浅い息と深い息というのは、何となくわかるでしょう。ヴォーカルが使っていくところは、本来は深い息です。クラシックも同じです。

 深い息を声にするポジションというのは、日本語の場合は必要ないのです。イタリア語やドイツ語にはあります。英語のほうが歌いやすい、声になりやすいというのも、リズムの言語で、かつ、そのポジショニングの問題です。日本語は浅いところです。
 その辺の問題を考えていかないと、本来、外国人の高音はそんなに高いところで出されているわけではないのです。ピッチではその高さの音には届いているのですが、子音中心、少なくとも日本人が考えるソプラノやテノールではないということです。息もです。深いポジションでとったときに音色が違ってくる。

 自分で勉強をするときに気をつけてほしいのは、ふつうの人は大きな波があるのです。すごい調子がいいときと悪いときがあります。この悪いところよりさらに悪いところでトレーニングされていることが多いのです。
 調子がよくて自分でも笑っていたり2,3年に1回のすごい声が出たというベースのところからやるのです。本来トレーニングは、ここから上のことをやらなければ意味がないのです。

 ところが緊張してドキドキしてる。さらに悪いところから伸びたということが行われるのです。
 私はこれの声を本のなかではベターな声と言っています。これを鍛えられた感覚や磨かれた体、鍛えられた体でベストにしていく。その人が持って生まれたものを鍛えたところのものまで、もっていけるようにすることがトレーニングですべきことだと思っているのです☆。
 普通の場合は、単に調律がされているだけです。

 あなたがすでに持っている声の中で、よかったり悪かったりしているのを、せいぜいその中の一番いい声にしようとしている。歌のときに悪くなってしまう人が多いからです。台詞にしたらちゃんと声になって、歌でないようなものをやらせてみたりすると、けっこう響いて、いい声が出ていたりする。なのに、歌うなり何か違うことをやってしまって、その声を生かせない。
 多くの場合、今の上下の範囲の中でやるのですが、それではトレーニングの意味がないのです☆。
 ここをやるためには感覚をつくらなければいけないし、それから体としての楽器をつくらなければいけない。だからここがトレーニングだという考えなのです。

 ワークショップはどういうことをやるかというと、鬼ごっこをしてみたり、皆でわーっと騒いでみたり、コミュニケーションをよくしてみる。外国人が日本人とゴスペルをやっているのもそうだと思います。楽しく明るく元気にやることによって、この状態をつくろうということです。それもわかります。この状態の人、ステージに来て上がってしまって悪い状態になってしまうような人が、いい状態にしないことには何も始まらないです。ここだけで終わってしまうのです。ここがヴォイストレーニングだといわれている傾向があります。
 そういう場合は、どちらかというと悪いものをニュートラルに持っていくということ、これも必要なのです。喉の手術をしたような人は、ふつうに話せるようにしていく。

 ただ、健康な状態の人に、これを目標にとらせるのはどうかと思うのです。私から見ると、ここが最低限です。ここからどう伸びるかということでやっていかないと、差別化できないのです。
 だからここまでで一番よくなっても、カラオケのうまいサラリーマンやOLに負けてしまうのではないかと思います。苦手でそういうトレーニングをしたところで。

○力で鍛えるのではない

 調律というのは、感覚と楽器を高めたところで必要になってくることです。皆さんの場合、今まで使っていた中で一番よい声が出るようにするということが、一番よいことです。それをすぐに高い声を出そうとしたり、大きな声を出そうとしたり、無理に息を使おうとしたら、声は出なくなってしまいます。

 ヴォイストレーニングで実際にやられていることは、声を壊すことが多いです。カラオケで歌って、それで日常を送っている人が、1時間も声を出していたらどうなりますか。だんだん疲れていって声が出なくなってしまいます。これはステージや舞台をやっている人もそうです。それでもう喉がガサガサになってしまって、喉が疲れてドクターストップがかかってしまって、また出ていって、結局オンしていない。悪くなっては普通に戻し、というようなこと。スポーツはそういうことをやっていくと、何やかんや力の抜き方を覚えていったり、筋肉がついていったりして、案外うまくいくのですが、ヴォイストレーニングを体育会系の人は、「他の人が5年以上かかることを俺は1年でできるぞ」と、すごい勢いでがんばってやるのだけど、大体が喉を壊してしまいます。

 時間がかかる部分はあるのです。要は、喉自体が強い楽器や筋肉ではないので、それを力で鍛えるということ自体が、スポーツでも効率が悪いやり方だと思うのです。それでもスポーツの場合は、使えるところまで使ったら、それ以上使えないわけでしょう。ダウンして、倒れてしまう。人間が生きていくためにそういうシステムです。
 ところが喉の場合は、そういうことがないのだから、壊せるところまで使ってしまう。壊しても使ってしまうのです。そういうところでは気をつけないと本当はいけない。

 ここのところでずっと抜け出せない人のほうが多いです。歌もそうです。プロになれた人は努力しないで、デビューできるのに対して、トレーニングをして10年やっても歌の音程がとれない人とか、うまくない人は世の中にたくさんいます。ピアノでも10年やっていたら、相当怠けていた人でもバイエルくらいは弾けるようになる。ゼロから始めるから、5年やっているのならこのくらい弾けるでしょうと、英会話もそうですが、時間軸で見れます。ヴォーカルに関してはそういうことは一切成り立たない。

 今まで歌ったことがないのですという人がすごくうまかったりする。それは絶対歌っていないわけではない。そんなにはやっていないのに上手い人もいれば、レッスンにいろいろなところに行っても、歌ってみたら、下手だという人もいるのです。
 そういう意味でいうと、こういう感覚のことを非常に重視していかなければいけない。役者は年月やることで変わっていけることがあるのですが、ヴォーカルの場合は、感覚の良し悪しというのが、非常に大きい。

 それをどこかで入れておいてください。今日聞いたものでもそうです。普通の人が聞くと、声を大量に出しているところと高く出しているところしか聞かないのです。そこができないからといって、真似して、声を壊してしまう。
 人間の体であるかぎり、限界が必ずあります。どこまでも高い声や大きな声が出るわけでもない。与えられた体を鍛えたところのベストの限界までしか出ないし、それで歌うには充分すぎるということです。
 それで歌のほうが大変であれば、自分に合っていない歌、選曲してはいけない歌なのです。好きとか嫌いとかではないのです。自分がそこの作品に価値を出せない歌なのです。

 だから1オクターブしか音域がない人でも、すごい歌唱力で歌っているふうに聞こえる場合もあります。表現がわかっていたら、声量や歌唱力があると言われてしまう。声から見るとまったく限定された、喉頭がんで手術をし、楽器としては壊れ、ことばも言いにくい、リズムもとりにくい。なのに、きちんと聞けるというのは、彼女の持つ音楽性です。楽器も優れているほうがいいのですが、音楽性がないことには、本当の意味で人をひきつけらない。感覚というのを体だけの感覚でとるというよりは、ヴォーカルの場合であれば音楽の感覚からとっていったほうが実際は早いと思います。
 ヴォーカルの場合は、マイクを前提に考えていく。たまにアカペラという人が来ますが、それは声楽から考えたほうが、日本の場合はいいような気がします。

○サラブレッドをはずす

 私は、万が一、こういう人が生徒で来たら、トレーナーをやりませんかといいます。それは2つの意味、いい面と悪い面とです。ここまで、歌える人はなかなかいないというのがまずひとつ、それから声のど真ん中のところでやってきているということがあります。もうひとつは、これでソロをやってもJ-POPや日本の今の音楽業界は、こういう人は受け入れない。ということはどういうことなんでしょう、今の10代20代が聞くマーケットと、この歌い方は相容れないのです。

 こういう歌い方の人は日本でもたくさんいます。トレーナーはこういうものを目標にするかもしれませんが、私はここの研究所で目標にしない。こういうものはオーディションで選ぶしかないです。1万人いて、こういうふうになれる人は1人か2人です。これはわかります。

 芸大に入っても、トップをとれる人とびりになる人は、努力だけが違うのではないのです。もって生まれたものとか体とか、そういう声帯の出来が違う部分があるのです。これはクラシックの世界で、サラブレッド的な意味で持ってうまれたものが半分くらい、努力をしています。でも努力を5倍したからといって成果が5倍上がるわけではないのです。むしろその分野に向いてない人が方向違いの努力してしまうと、結果としては出せなくなってしまいます。

 私はここを目標にとりません。この2つの意味があります。目標にとるとしたら、オーディションして、こういうふうになれるという人だけをとります。これはある意味では良心的なことだと思います。

 トレーナーは混同してしまう。その目標がこのくらいならいいのですが、大体自分の目標くらいのところにしてしまう。それは無理です。
 要はプロになりたいという人に、プロに教えたこともないトレーナーが、何ができるのかという当たり前の疑問です。トレーナーがプロのように歌える必要はないのです。トレーナーに必要なことは、そこに何が欠けていて、それを何をやれば補えるかという、相手をどうするかということです。これに対して、バンデラスはどういうふうにやっているかと。

 この手のタイプは、役者からはみ出してきたタイプしか日本ではあまりいないですね。正統的にクラシックや発声をやってしまうと、頭から切られます。おかしなことで、これを禁じてしまったら、世界中のロックはすべて禁じなければいけなくなってしまう。ジャズもそうです。その現実と遊離してしまったところで回っている。それが、トレーニングになっている。

○内から変えていく大切さ

 それから日本人と外国人の感覚のようなことを、比べてもらおうと思います。こういうふうに聞かせていることが本来のレッスンです。
 その聞き比べることができる耳においてしか、本当のことでは自分の声も変わってこないのです。まったくの未経験者はやればやったところまで何とかなりますが、今まで歌を歌ってきた方は、ヴォイストレーニングや発声をやっていないといっていながら、そのことはある意味で人についたことがないだけであって歌のなかには含まれているのです。

 よくプロの歌手に「ヴォイストレーニングをやってみても」と言われることがあるのですが、でもその歌い手がきちんとやっているということは、どこかのフレーズを何回も歌え変えたり、歌い直したり、プロとしてやってきているわけです、我々からいったら、それもヴォイストレーニングなのです。

 ただ、ヴォイストレーナーについていることがヴォイストレーニングだと思っているから、そういうことをやっていないという話になるのです。
 ということは、あなた方も同じことが言えるのであって、今までヴォイストレーニングを受けていないと言っていても、その歌のなかで歌を研究してみたり、節回しをちょっと変えてみたりキーを変えてみたりしていたら、それはヴォイストレーニングなのです。
 発声というのはコールユーブンゲンだったりドミソドソミドというものということではないのです。歌を歌うということ自体が、もう発声練習になっている場合もあります。ここはそういう使い方をします。

 レパートリーにする歌というのはあまり使わないです。それは自分で考えて自分でまとめるしかないからです。ここでやるのは歌を壊すことです。そうすると壊した歌を、使えませんから、喉を壊すよりはましです。
 だから声というのは、ある程度やってくると、今度は感覚を変えないかぎりは声の出し方は変わらない。どんなに外側から声を出そうとしても、それはきっかけにすぎない。

 たとえば、ここを上げなさいとか顎を引きなさいとかありますね。でも本当のことでわかっていたら、DVDで歌い手は見られるわけです。だから自分のを録ったり鏡で見たりすると、外側だって直せるわけです。
 内面的なものをどう得ていくかというのは、まず耳です。耳なのですが、聞こえる音ではないのです。聞こえている声のベースにあるところの体の感覚をとっていかなければいけない。頭だけでいくら考えてもだめ、そこに入っていくしかないのです。

○自分を壊すこと

 最近若い人とやりにくくなっているのは、自分を守るのです。要は自分が自分であり、自分の歌だということを守るのですが、それだとトレーニングは成り立たないのです。
 本当の効果を上げていくトレーニングというのは、自分が壊れてでもいいからもっと深い自分を引き出す。そのやり方というのはひとつしかないのです。
 高校生ならクラブでどんな一生懸命やっても、試合で負けた。練習時間を2倍にしようとしても、相手もそのくらいやるわけだから、かないっこない。そういうときに何が違うのかというと、イメージを入れるため、バスケットの試合を見る。もうひとつは大学生やプロと混じってやってみる。

 混じってみたら5秒も持たない。ふっとばされたりする。でもそういうところで一瞬でもついていけたり一瞬でも違う動きが起きたとしたら、それは唯一今のレベルから抜け出せるチャンスなのです。
 だから一流のものに引きずられるようにして、感覚や体が持っていかれたときではないと、本当のものは身につかない。
 そういうことを経験した人でないと。それがわからなければ、厳しい舞台に出なさいということです。お笑いの人のように舞台に出て、歌ったときに、本当に客に伝えられるものをやるには何をすればいいのかがあれば、少しはわかるようになる。

 仲間内で、サークルをやって身内を呼んで、そこでうまかった下手だったといわれているところでは、どんな感覚が必要か、あなたが元気でやれば、それで喜んでくれるじゃない、そうしたら元気にやることだけがすべてで、芸術的なものにはならない。レベルの高いものにはならない、問われるものが違います。

○虚飾をはずす

 ほとんど日本の場合の歌のステージは消費されている。歌手は昔の歌を歌いこなす。それはイベントです。月に一回、年に一回、その人が元気な姿を見て、元気じゃない人が元気を出すということになってくる。それも意味のあることです。ひとつの大きな活動です。
 しかし、そういうこととレベルを上げて創っていくことは、また少し違うのです。両方の工夫が必要です。芸術的に皆が聞きたいわけではない。そこで皆楽しみたいし、そこですっきりしたい部分もあります。それが音楽ですっきりさせられる。

 プロですから、そこで力が足りないことを皆知っていますから、いろいろな脚色をつけるのです。本来はベースの力があって、その上に振りや照明をつけて、バンドをつけていたことが、日本の場合は逆ですね。それが全部つくと何となく持つから、どんどん声や歌がおろそかになってしまう。かたちだけがつくられる。それでも客が許します。

 本来ならば、客がいなくなって、また元に戻るのです。ゼロからまたやり出す。ところが日本の場合はそうではなく、消費されて飽きられて、また新しい子が出てくる。誰も育たないという、悪い循環です。
 歌ほどごまかしてお金をとれるものはないからです。アイドルで、かわいいだけの子に歌を吹き込ませて、まわりにプロを置けば、お金も稼げるしCDも売れる。コンサートもできる。こんな楽な商売はないですね。

 漫才でもやらせても、数年はまともな漫才はできないでしょう。歌は、1ヶ月でできてしまいます。かわいいとかスタイルがいいとかが必要なんでしょう。そうやって日本の音楽が動いてきたところがあります。まともな人もいますが。
 こういう変わったものは、耳を鍛えるにはいいと思います。
 ここでやることはストレートなことではないかもしれません。ストレートなことでは変わらないのです。外側からどうやるかは、本なんかで書きやすいです。口の中を開けましょうとか、でもそういうことは感覚から入ったら開いてくるのです。その感覚がないのにやっても、顔だけ発声顔で、声が伴わない変な合唱団のような人が出来上がってくる。

 これは日本人の感覚です。ひとつ前の歌い方です。
 「キサス・キサス・キサス」
 A B Aというサビがひとつあって、あとは全部同じ。これは日本のラテンの女王といわれた方が昔歌ったものです。最初すごく小さく入って、淡谷のりこさんのように。「キサス・キサス・キサス」は有名なラテンの音楽です。

 この前キューバでもらってきた歌い手が歌ったのは、こういうものです。A B Aだけど、最初からフェイクが入っている。有名な歌なので最初からどんどん変えていっている。小さく入って大きくする。短く入って長くする、それから低く入って高くするというような日本人の感覚ではない。どちらがいい悪いということではないのです。
 我々の耳や体は、どちらかというとこういう感覚で動いているから、そういう感覚になってしまうということに対して、これが世界の標準だと考えてください。

○日本語の感覚を切れない

 そこが問題になってしまうということは、それができていないということではなくて、そのイメージと置き方の部分で、まだまだ解決できることが同じ体の中でもあるのです。それを踏まえないでやっていくと、テノールのような歌い方で解決しようとしていく、それの典型的なのは、ミュージカルのようなものだと思います。非常に高音が目立ったと思います。「エー バー ハー マ、タ」といってしまう。それはしかたないのです。日本語自体がそういう特徴にあって(テキストに書いてあるのであまり言いませんが、)日本語というのは、音になってしまう。高低アクセントで、両方音を発する。「あめ」「あめ」「はし」「はし」、これが「はし」となったら、どちらの「はし」かわからなくなってしまう。だから必ず発音します。音を響かせます。その辺がクラシックと似ています。これが母音中心の言語で、非常に珍しいです。ポリネシア語と日本語くらいしかないといわれています。

 響かす、発音、ことばにする。高低アクセントはご存知のとおり、音程アクセントといわれる。メロディアクセント。日本の歌はこれで動いていく。その結果、小さく出て大きくやる。長く伸ばす。高くする。そういうことが目立ってきます。その感覚から発声もそういうことを勉強しようということになってくる。

 ところがそういうことを勉強したトップの人の歌い方がこういうふうなものになっていく。向こうの人たちと、日本人の歌を比べてみると、何か古いなという感覚になってしまうのです。
 今の若い子たちはそういう歌い方をしていない。原曲も古いのです。1950年代の曲です。
 それを日本の場合は、向こうから入れて向こうより後に歌っているのに、なぜかグループサウンズでも何でも、今聞くと全部古いでしょう。ポップスだからいいのですが、向こうのものはビートルズでもクイーンでも今だからといって、全然古くないのです。

 それがどういうことなのか、ことばで聞いていることもあります。日本の場合、ことば自体が古くなることがあります。こんな歌詞では歌わないとかこんな男と女の時代ではないとかいうようなことがあるのですが、外国語というのは、そう変わらない。
 英語でいうとHでハーと吐きます。「H――――」と吐いているひとつのなかに、拍ができてきます。強拍。これに全部が巻き込まれます。

 日本人の英語が、発音は正しいけれど、それっぽく聞こえないのは、弱拍の部分をきちんと巻き込まないで言ってしまうからです。ここまで発音してしまう。これは子音が中心、息を吐くことに対して何かを邪魔させるのが子音です。発声からいうと肺があって、息があって、声帯があって、このまま共鳴して出てくると母音になります。ここまでは楽器と同じつくりです。

 これを唇や舌や歯で妨げると子音が出てきます。同時に息を妨げるところに、音色が表れてきます。強弱というのはリズムです。向こうのヴォーカルは、いわゆる音色とリズム中心です。
 この辺が本来の発声に関わってくる。なんで高いところがあんなに楽にとれるのかというと、子音の周波数自体が高いからです。周波数というのは音の高さ、ピッチです。もう一曲聞いてみますね。ここで音楽ということの違いを聞いてみてください。

○歌で不自由にしないこと

 日本人は形を受け継ぐようなことで行われてしまうことが多いのです。もっというのであれば、創造するとか新しく何かを起こすことに対して、否定的なのです。思い入れ、ノスタルジーに浸りたいというところで成り立っています。
 ジャズのヴォーカリストのプロもここにも何人かいます。お客さんにいつも歌わされるのはスタンダード、自分のオリジナルや新しい作品を持ってきても、受けがよくない。

 海外のアーティストが来てもそう言っています。日本で一番拍手をもらえるのは、今、私が一番歌いたい歌ではなくて、昔のヒット曲だ、それをラストにもってこないと、お客は満足しない、でもそれがあるとお客さんは来てくれる。他の国に行ったときは一切やらないし、やりたくもない。今のことをやりたい。今、生きている世界、今、自分が思っていることをやりたい、当たり前の話です。それは日本人の心情なので、当たり前のことができない。
 いい加減に歌っているところもあれば、歌詞を変えてみても、フェイクしているのもよくわからない。そのいい加減さがポップスの自由さです。声を問うているわけでも響きを問うているわけでもない。

 何が決まってしまうかというと、あのなかであの人が3回歌ったら、どの回が一番よかったのかはっきりわかってしまいます。それからオーディションをしたときに、誰が一番いいのかもわかります。要は個性ではないのです。ひとつの土俵の上で、その技術を争っている。だから技術点としては、高い人がよいとなります。

 ただバンデラスのように、けっこう適当にやっているような歌い方は、自由度があるから、人と比べられないのです。何をやってもいいというところがある。
 私から見ると、そっちのほうが歌。歌は自由になるためにやるものだと思っています。日本人のようにしゃべったほうが自由なほうが、わざわざ歌って、客を退屈させているという、その構図自体がわからない。

 音楽や歌を歌えば何でもありだという。日本でも、そういうところはわける必要は全然ないわけです。実際、今お笑いをやっている人の何人かはミュージシャン志望でしょう。あれなんかを見ているとそれが歌なのです。あれを歌といっていいと思います。ラップといっても。さだまさしさんなんかは、噺家になりたくて上京してきた人ですから、それも分ける必要がない。彼のコンサートはどちらかというと話ですから。歌もいいものをつくっていますが、作詞作曲の才能が入ってしまうと訳がわからなくなってしまう。

 創造する製作するといった場合、日本の場合の創造性はメロディメーカーや詞をつくることにかぎられる場合が多いですね。歌のなかでどう歌唱するかの創造ではなかなか認められなかったりします。
 お客さんの問題というより、アーティストがそこまでの創造をしないことに対して求めない。でもトータル力ですから、歌唱力がなくてもいい曲はつくる、いいアレンジができるのであれば、それは作品として認められるのであって、その辺のスタンスの取り方がヴォーカルはいろいろありなのです。【講演会「歌唱論」05.06.03】


■レッスン[2000年]

○入っているもの、出てくるもの

 こうやって何人も聞いていくと、その人に入っている順番みたいなものがわかります。それが歌になるとまた違ってきて、いろんな着色がついてくる。完成させていきますから、わかりにくくなってくるのです。  歌になった形が最初にかけたいろんなCDなのですが、そのときにやはり落ちてしまう要素があるのです。本来なくてはならない、歌として必要な支えの部分、テンポ感、リズムのこと、呼吸の一つの動きみたいなものです。  それは日本の場合は、たぶん日本人の客にとって、どう聞こえるかということで、レベルが問われます。実際に歌い手も客として判断するわけですから、それを自分で聞いてみて、自分の作品を厳しく判断して、よしとするわけです。それをよしとする基準と、それをよくないとする基準は一体何なのかということです。 

 日本は残念なことながら、演歌の先生などは厳しい人がいたからよいのでしょうが、ポピュラーの分野においては、ほとんど自分で判断しなくてはいけないのです。  音楽面ではいろんなアドバイス、アレンジでもできます。しかし、周りのスタッフの声や歌に対する未成熟性が、大問題です。  自分の思いこみで、これでいいといってしまったら、歌い手の中で起きている世界がわからないのです。楽器の人達は本当はわかるはずですが、日本の歌の場合は楽器と同じように声を扱っていませんから、違う意味で甘く許されてしまいます。それが基準を成り立たせなくして、いろんな歌の形が出ています。 

○品と格

 外国の方は、もっといろんな形があるのですが、ただ基準は成り立っています。少なくともこんな歌い方は認められることはありません。徹底して品がない歌い方はあっても、ダラダラした中で成り立っているものというのはないということです。  それはパンクにしろ、ロックにしろ、やっている人の生活態度とか、生き方とか、ポリシーとか、考え方などとは関係なしに、できあがったものは品のあるものです。よいものは格があるのです。その辺が不思議なものなのです。 

 日本の場合はそこに精神的なものが入って、生き方を正しくしていなければ歌も正しく歌えないとか、みんな姿勢もきちんとして歌わないといけないとか、軍国主義的な?ところがあります。それは日本のいいところでもあり、悪いところでもあると思います。そういうところから自由になったところで、やりたいものです。  自由に生きている人達がどんどん作り出していく中でも、日本の場合はダラダラとしてしまいます。集団で作るものほどおかしくなってしまいます。  ところが向こうのものは違います。それをどうやって見つけていくのかというと、感覚しかないわけです。あなた方が今入門の授業をみたら、そこで彼らは理解できないことを、一生懸命にやっているのがわかる。

 それと同じように、結局自分が10分の1聞いていることは、実際は100分の1だという過程をもっていかなくてはいけません。そうすると、そこでまだ聞きとれることがたくさんあるのです。  ほとんどの場合、応用力がないということは、その柔軟性に欠けるということです。それを柔軟にするための感覚、あるいはもっというのであればパターンかもしれません。

 一つの音と音をつないでいくということは、その一つの音の後ろに隠れている、100個の音を消してきたのです。それを選ばなかったが、そこで選んだ音にどれだけの余力があるということです。

 歌の揺れなども同じで、一つの点に当てていくということはない。それに当たっているが、そこにも可能性のようなものがあるのです。だから歌い手の歌というのは必ず余裕があるのです。それは、構えとか、ためということばでしか、いいようがないのです。 

○人を動かす聞き込む力

 要は、口先でしゃべっていること、声として飛んできていることは、客は本当の意味では聞いていないのです。そこで音程がはずれようが、リズムがおかしくなったりして、不愉快だなと思うかもしれませんが、そのことで信用関係が壊れたり、歌がうまいとかへただという評価にはならないのです。  どこに評価があるのかというと、その人間がどう人を動かしているかということです。そこの部分で何が欠けているかというと、聞きこむ力だと思うのです。 

 自分で決めつけてしまったら他の情報というのは受けつけられません。だから一つの情報で、歌というのは汲みあげられるのですが、その一つの情報のときに、100とか、1000とかの情報があって、そこで確実な路線で選んでいる人と、それから余計なものを20も30もとってしまって、もっと大切な一つを切り離している人とがいます。  そういうものがわかりやすいのは合宿ですが、今、講座をお願いしているのは、研究所の基準があるわけではないのですが、それを外の人達から見てもらうためです。そのときに表向きで捉えられてしまうことが多いのです。  逆にいうと、ここは音に関して限定してしまっている部分があります。世の中はもっと気安く考えて、キャラクターがあればいいなどでも認めます。

 ただそれだけでは仕方がありません。キャラクターを伸ばすわけにはいきません。たぶん、他の講師の基準と異なってくるのは、声そのものの力ではなく、トータルとしてのその人の説得性、存在感になってきます。そこの部分とルックスなどの生まれつきのものというのはその人の要素です。外見も中身の反映です。  問題は、トレーニングでできる部分がどうなってくるのかということです。私はトレーニングできる部分でしか見ていませんから、それを中心に考えると、音声の中でも、もともと声のいい人、悪い人、何にも努力しなくても高いところが出る人、出ない人がいます。でもそういう人達が必ずしも成功しているかというと、そうでもないのです。適当にできた人というのは、適当に辞めてしまいます。 

 その辺のことを考えると、人間というのはおもしろいと思います。その素質とか、才能の部分と、それが壁になっていて、打ち破ってきたというキャリアと、そこにかけた時間というのは、そのままの人生になってきます。そう簡単に引けなくなってくるのでしょう。  あとは時代が要求するものというのがあります。その辺は何がどう働いているのかはわかりません。ただいえることは、わからないものをわからないままでもいいから、受け止める。その度量の大きさのようなものをある程度みていかなければいけないと思います。 

○寛容と不許可

 だから、二つ矛盾してしまうのです。それを寛容するところの大きさと、それを絶対に許さないという厳しさの決定していかなければいけないところです。ここの場合、それを決めつけたときには卒業といっています。それはいい意味でも悪い意味でもです。  要は、作品が完成したということは、そのことをここで問うても仕方がない。それは客に問わなくてはいけないのです。  それが一番自分の高いところになるということは、絶対にない。そのあとも自分は生きていくわけですから、そういう人がプロセスの中道にあるのか、それとも横にそれたところにあるのかというのは、大切な問題だと思います。 

 日本の歌というのは、そういうことの判断基準がないので、アルバムを出す度にいいものが出てくるということは滅多にありません。外国ではあとで出したものの方がいい。日本の場合は、ファーストアルバムをこなせない。  ヒットした一曲だけが一番うまく歌えているというのも多い。それをわかっていながら、なぜそれを最低基準にしないのかというのが、この国の甘いところです。  そういうものがスタンダードになって、それが下敷きになって、あとの人達はそれ以上のことをやるのです。日本の場合は、そういう人がトップになって家元制のようなものができてくるのです。先生中心の集団です。本来はトレーナーは黒子であるべきです。 

○入っている日本 

 日本のものをよいとか嫌だとかいうより、もう一度日本のものを聞いてみないとわからないということです。日本のものを聞いてみて、影響されるのではなくて、そういうものを自分の感覚の中でもう一度やってみるということです。日本のものが入っていると思って、自分の頭で否定しているものを、本当の意味で聞いてないのかもしれません。  そういうことはレッスンでも起きていることです。判断基準は簡単なことです。  トレーナーが簡単に真似できてしまうことは間違いということです☆。それも首からしたを使わないでできてしまうようなことです。それを正すということが大切なことです。 

○どこにつけるか 

 それは「つめたい」のフレーズ処理の問題と同じで、そのときにどっちが先に働くかということです。  例えば英語と日本語だったら切り替えなくてはいけません。僕らは完全に切り替えます。ところがそこにドイツ語とかイタリア語とかスペイン語とかいろんなものが入ってきたら、切り替えというのは、相対的なものになってきます。それが薄められていくのです。 

 本来のことであれば、イタリア語で聞いて、それを日本語に置き換えてみるということを、そのイタリア語の感覚の中で日本語が生じるような方向にしなくてはいけません。  これは声楽の授業でも、本当は徹底してやっていくとできることなのです。それをことばやメロディが先行してしまうのは、日本人の昔からの音の捉え方の問題です。学校にいったり、きちんと音大に入っていったり、ポピュラースクールで結構うまいといわれてしまう人ほど、そういうふうになってしまうのです。要は、日本人以外のほとんど世界中の人達では、声が出ることが前提です☆。

 韓国の劇団の人が、「どうして日本の人は声が出ないのかしら」といっていたのです。それはなぜかというと、声が出るところじゃないところに音を作るわけです。そういうふうに我々は育ってきているのです。  この場合も同じで、3分の2くらいは、「何を」のところまでは、強弱がついてきます。そこの強のアクセントをどういうふうに置くかということがその人の個性になって、それが「な」につくのか、「に」につくのか、「を」につくのかということではないのです。  ここからはわからない世界になってくるのですが、「何を」という一つの中の、それのどこにつくのかというよりは、その強のアクセントに踏みこんだときに、「何を」のどこがきているのかということです。これがリズムの捉え方になると思います。全部小手先でできてしまうことはダメだということです。 

○ことばの実感 

 大切なことは、ことばでいえるところの実感のものまで、歌で消す必要はないということです。そのときに歌をとってまとめていくと、メロディの方に精力を割いて、声をただ長く伸ばすことになりかねません。バランスを整える方に力を割くのではなくて、ここでの期間というのは、そこに必要とされるだけの体とか息をつけるところで基準を合わせていくようにということです。だからことばにしてみるとわかりやすいと思います。「何を」だけでもいいですが「何か求めて」をことばでいってみましょう。 

○マスをくずす 

 日本語というのは、勉強すれば勉強するほど、声を切っていくのです。マスにいれていきます。だからせっかく「なにを」くらいで入っていても、「も・と・め・て」でいろんなことが起きてしまうのです。それは音の世界でも許されているのですが、体の原理からいうと、そのまとめ方の深さで、浅い踏みこみ方だとのどにかかってきます。ここでの造作ということを止めればよいのです。  「日本語を読みなさい」というときに、我々が受けてしまう指令というのは、そこの呼吸の中に「何を求めて」というのが一つに入っていても、展開しようという動きはとらないからです。 

 原理から外れたところで動いてきます。日本というのは、向こうの基本特許をとってきて、それを応用してみてつくる。例えば携帯電話のように、それを細かい工夫のあるものは作るのですが、その基本の部分は全部、向こうに押さえられています。そっちの方にはお金を使わない。  もともと変えることが得意です。ポップスなんていうものはまさにそうですが、その味付けのやり方が、素材の味を全部壊してしまうといけないと思います。日本料理などは、その辺はしっかりと素材を生かしています。 

○音色を統一する 

 「何を求めて」を普通にとると「ラ・シ・ド・レ・ド・シ・ラ」と、「レ」のときにあがってしまうのです。三流の声楽の歌手でも見てみたらわかると思います。二流はきちんと同じに統一しています。それを統一したうえで、響きのバランスで変えるのは、歌の中でも声の中でも構わないのです。  そうなったときに、普通の人の感覚だったら、高い方がテンションも体もいるわけです。  普通の学校の発声練習では、「ドレミレド」のときに、「ド」に対して「ミ」の音を抜くような感覚があるのです。だから「ドレミレド」の「ミ」と、「ミファソファミ」の「ミ」が違うのです。そんな馬鹿な話はありません。同じ音なのですから、同じ体があったら、同じところで統一できるはずです。
 それは日本では多くの人に当てはまります。3年くらい徹底的にやると、それは直ってくるのです。それはなぜかというと、絶対的な楽器としてではなくて、相対な感覚でとってしまうからです。 

○踏み込む、つかむ

 「何を」に音をつけましょう。  この辺が日本の歌の感覚で、必ず「なにをー」となってしまいます。それを裏切るようにとっていく練習をしてみることです。例えば「ハイ、オイ」などの練習をしておいて、「にを」のところで踏みこんでみると、こういう感覚はない。外国語では強のところに弱が巻き込まれていきます。実際にリズムがついていないところの発音は、いい加減でもよい、ということより、リズムがついているところをきちんと強くしなくてはいけません。それを声で大きく出すとか、音量で大きく出すとは必ずしも限らないのです。一つの拍の感覚があればよいのです。  それゆえ、実際の歌の中でそらしたりすることはいくらでもできるわけです。やらなくてはいけないのは、「ハイ」のところでつかんでいたら、そこで「オ」というのをつかんでみて、そこに「にを」というのを入れてみて、「なにを」になったときに「を」のところがきちんとキープできることです。 

○強く出す

 高い音になってくると、日本人の場合は、強く出す、高く出す、長く伸ばす、全部同じことなのです。非常に音に鈍感な民族なのです。本当のことでいえば、強く出すことと大きく出すことさえ、違います。高く出すことと長く伸ばすことは全く違います。強く出すということは、短く切るということです。  「なにをー」と大きく伸ばしていくとそれだけ薄められていきます。「なにをっ」と一瞬でいうと、同じ強さでも強く聞えるわけです。日本の場合というのは大体逆です。  その辺はいろいろな風習の中で、自然と我々の体が知ってきていることですから、それ以外の感覚をどんどん入れていけばいいのではないかと思います。「何を求めて」を「タタタタタタター」とやるのではなく「タータータ」の中に音楽が出てくるように、呼吸でやっていくことです。 

○均等から強弱へ 

 これで半オクターブあるわけですから、難しいわけです。前半の「何を」で一つに捉えて、「求めて」でまた一つに捉えてみるのです。我々が英語でいうときに、几帳面に「アイラブユウ」と言う。一つひとつの音を均等に捉えてしまって、強弱をなくして平等化させてしまうのです。そんな読み方は絶対に日常では使わないのに、なぜか教育になったり、人前でものを読むときにはそうなってしまいます。  自分の体を使うこと、呼吸を送ること、伝えることが全部飛んでしまいます。そういう中で我々は生きていますから、難しいことではあります。  日本語は日本語で聞いてみて、そこで許せないところをはっきりさせることです。プロというのはそういう体がある人です。 

 このような人達は、徹底して声楽の勉強に音楽の勉強をやっていた人達なのです。  それは体だけの問題ではなく、感覚の問題です。彼らの歌が悪いのではなくて、彼らの歌は彼らのファンに対して練りこんだもので、批判すべき対象ではないのですが、ルールが外れているなというところを私は感じます。皆さんも感じるとしたら、そこは真似てはいけないところです。彼らがやるからよくても、我々がやったらダメになってしまうのです。そちら側に引っ張られてしまうということです。うまく見分けていってください。 【日本の基準 00.4.14】 

○歌のみせ方、うまさ 

 宮川さんのアレンジというのは、日本人にうまく合わせています。この三人娘、中尾ミエさん達の外国人の感覚というのが消えている部分があります。日本語でやりたいのは、英語でやるとあまりに当たり前すぎてわからないことが、もしあなた方が英語の歌詞だけを与えられてつけていくやり方と、彼女達のつけ方は違うはずです。  彼女達のつけ方は、英語というよりも、日本語ではないところの音楽を勉強して、理解している人達です。だから日本語で見た方が、わかりやすい部分はあると思います。  フンパーティングの英語のものでやると、その感覚に乗って、問題がはっきりとしてきません。日本語のものでやってみようかと思います。  「始めて会ったときに」のところも日本語の感覚じゃないようにやっています。

 これからいろんなステージを見ていくと思うのですが、向こうのことばというのは、基本的に最初にまとめるというような感覚で入っていくものが多いのです☆。このアフタービートという感覚があまりありませんから難しいのです。  どうして外国のものが入りやすいのかというと、最初につかめるからです。「はーじめーてー」と広がるのではなく、「はじめてー」とこれだけ凝縮しておくと、それだけそのあとが自由になるのです。そのバウンドでそのあとの動かしが自由になります。

 だから、うまいとかへたとか、音が外れたとか、そういうことがあまり起こらないようにできるのです。  日本人の場合は、最初のところから開いていきます。どんどん広がっていきますから、次のフレーズくらいで体力を使ってしまうのです。

 ことばのこと、音の高低、それからメロディ処理をきちんとこなすのより、1年目のオリジナルな声だよといっています。これは日本の音楽の中で、頑固に守られていることなのです。それを壊していけばよいのです。 

 ことばをことばではなく、音にすればよいのです。音の高低も音の強弱に変えていきたいし、メロディはリズムに変えていけばよいのです。それは日本人がダメということではなくて、今まで日本人ばかりをやってきたのだから、別のことをやってみましょうということです。そうやって外国語を聞けば、もう少し入りやすくなると思います。  日本語で少しずらした感覚を調整しながら、実際は外国人の捉え方でとってみるということがとても有効ではないかと思います。日本のコーラスというのは、どうしてもメロディをとっていて、そこで合わせますから、二声でとっていても何か変な感じになってしまいます。「せめて」だけでもよいですが、ここの部分をやってみましょう。 

○呼吸で声を動かす 「せめてもう一度」 

 やってほしいことはたくさんあります。一つは声をきちんと取り出すということです。これをなるべく純粋に取り出すことです。今それがどこかに引っかかったりしてしまうのは仕方がありません。できることというのは、「ハイ、せめて」というように、器を持つこと、ためというのか、ある意味での余裕です。  自分の頭の中のイメージが「せーめーてー」となっていたら、そう出てきます。それがダメということではありません。やっていきたいことは、この曲をきれいに仕上げていきたいわけではなくて、そこの中で自分の体の実感をきちんと得るということです。 

 いろんな「せめて」がありました。まずは呼吸で動かせることです。呼吸で動かそうと思ったら、大分整理されるのですが、どこかでつかんでおかなくてはいけません。  ことばでやってみましょう。できるだけ先も読んでおいてほしい。というのは、今は「せめてもう一度」だけをしっかりいうのでもよいのですが、本当はことばでも先に進みたいのです。「せめてもう一度踊りたいあなたと」ということがいいたいのです。  そういう構成は、順番が回っている間にいろいろと考えられると思いますので、自分のイメージはどうなのかということを考えてみてください。他の人のイメージや、トレーナーのイメージは、それぞれに違います。違うから歌うときに、みんな違った形に出てくるのです。そのときに間違いが起きます。自分のイメージで間違うこともあるのですが、やってみないとわからないことです。そして、同時に音楽を作り出すということをやってほしいのです。 

○自分と離れない

 大切なことは、それが自分と離れないことです。いうだけならば誰でもいえるのです。読むだけなら誰でも読めます。その実感のところで何を入れるかです。  いくつか自分の中でできることがあると思います。例えば自分を出そうと思って、自分の呼吸の方に引き寄せてしまう、大体の人がそこで違うことを起こしてしまうことがありますが、それは必ずしもダメではありません。それは音楽的にあとでもたないということになりますが、やってみるぶんにはよいと思います。 

 本当はそういうところでいいところだけを結びつけていかなければいけません。自分と音楽が離れているのではないのですが、その中で感じ取ったものを、展開させるためにどうすればよいのかということを、先に形から作らないで、実の方から作っていきます。そこにメロディという感覚を乗せたときに、自分がどう進みたいのかということです。  一番簡単なのは「せめて」のところだけをやってみると、音は「ターターター」とあがっているのですが、そこで「せめて」といいたいわけで、何らかの接点をつけていかないといけません。外国語を使うときには、その意味というのは実感としてないでしょう。音でいうと4つです。実際のことばになるまえの部分を握っていないといけません。 

○感覚に変化を 

 この曲は比較的とりやすい歌です。そこでとれないというのは、英語で聞いて日本語に置き換えるときに、いろんなものが間に入ってしまうからです。それは曲を覚えられないとか、音程がとれないというのではない。自分の中にある音楽の進行があって、邪魔する。絶対にそういうふうにはそれないというそれ方はしては、よくないわけです。  たまにそういう曲を使うことがありますが、それは感覚に変化を起こすためです。今使っているものというのは、スタンダードなものですから、こういったらこういくというような、そういう流れをきちんと走らせておくことです。その走らせたところの表側で歌ってしまわないことです。これが難しいのです。 

 そうしたら、カラオケと同じです。両立させるというのは難しいのですが。  それができているかできていないかということを判断するために、きちんと感覚をもっておくことです。だから実際に「初めて会った」のところでも、それが「はーじめてーあったー」となってしまうと、全部作りものになってしまいます。そこで何が起きるのかということが聞きとれません。  「は」から「め」にいく間に、そこで何を起こしているかということです。「はーじ」とか、「はじー」とか、「はーじめー」とか違うのです。それはリズム、コードなど、いろんなヒントが入っています。そういうヒントをもとに聞きとっていくと、メロディがそれることはないと思います。

○ことばでの実感

 「初めて会ったときに」と歌ったときに、息も体も使っていなくて、何か実感がこもっていないと思うならば、それをことばにしていってみるのです。それから「タタタター」と捉えていたものを、「タータータ」ととってみる。そのフレーズの中でどういうふうに落とし込むかです。  マスでとっていくとどうしようもできなくて、動かないわけです。今やってほしいことは、体の中で一体で受け止めるということです。それをその都度応用してみて、一つに捉えることです。自分でことばでいえたと思ったときは、自分の中で集中した持続があるはずです。それが歌になったとたんに、「はーじめーてー」となってしまったら、最初から外れているわけです。 

 歌の方が集中力が必要だし、声を動かす必要があるのです。そこで握っていながら、うまく声が離れないから、自滅してしまったとか、息がもたなかったとか、声として外に出なかったというのは、明確な課題ですから、それでよいのです。  一番困るのは、この表面的なところだけをとってしまって、日本語で置き換えてしまう、英語を単にカタカナに変えるだけということになってしまうと、何にもならなくなってしまいます。 

○はみでたものに学ぶ 

 ことばで入るというのは一番実感としてはわかりやすいと思います。それから音楽的な面で進行をきちんと捉えて、音楽を進めている中に、ことばが発せられていくというような感覚でやってもらえばよいと思います。  皆さんの中に、いろんな音楽が入っているでしょう。そこにある種の傾向があって、それからはみ出ているものに関して対応できないというのは、補うとよいと思います☆。スタンダードなものとか、オールディズのものがあって、今の音楽があるわけですから、そういうものをたくさん聞いて、口ずさんでみましょう。そのことに「あれっ」と思ったり、ついていけなかったりすることが起きたら、それが音楽的な変化なのか、それとも自分の方の感覚がわけがわからなくなっているのかをみましょう☆。そんなに複雑な世界ではありません。 

 複雑な曲でいいものというものはありません。そうすると、必ず共通している部分があります。どこにテンションが集まるのかとか、どこにピークをもっていくのかとか、それを感じていかないと、こういうものも盛りあがりがなしで終わりということになりかねません。  この曲は、歌のテーマもはっきりしています。その解釈まではトレーニングの中で入れる必要はありません。やってほしいことは、音の世界の中にことばを読みこんだり、メロディを出していくということです。 

 もっというのであれば、オリジナルな声の原理に基づいて、ことば、音の高さ、メロディを処理していきましょうということです。「ハイ」とか「ララ」だけではマンネリ化したり、固まっていきます。いろんな曲を聞いてみて、それを揺らしながら、いろいろとやってみましょう。  こういう曲を20曲くらいばーっと一気に歌ってみたりして反応性を鍛えるとよいです。あまり一気に歌うとのどに悪いし、自分で迷っていると声はなかなか前に出ません。このフレーズは自分に入ったなと思ったら、実際に声に出してみる、そういうことで自分のことを知っていってください。まだまだ空回りしている部分が多いと思います。それはいろんなことをやりながら、音楽とともに自分のことを知っていきましょう。 【「ラストワルツ」2クラス 00.4.14】 

○散漫にしないベースを 

 フンパーティングが英語で歌っているものを使えば、一番簡単なのですが、簡単なために見えなくなってしまいがちです。日本語に変えてしまうと、その中で起きていることが明らかになります☆。それからこの三人娘が歌っている中で、日本人であるがためにとっている部分があります。  たとえば今繰り返しているところなどは、声的にかなり限界があります。そこでもう少し踏みこめたらとか、もう少し声があったらとか、ポジションがキープできたらというのが見えるのです。逆にいうと、当人がそのことをわかっていてきちんと出しているから、ぎりぎりだけれども当然伝わるものというのはあるわけです。

 余裕を見せて歌う必要はなくて、他の部分で感情表現のために走ってしまったり、丸めてしまったり、息をわざと混ぜてしまったり、そういうかったるさはあります。しかし、日本人の中の体でやっていくとなると、その判断は難しくなります。木琴などを入れてアレンジをして、それははっきりといって、歌い手の邪魔になっているのですが、コーラスという感覚でとっているのだと思います。

 日本人の感覚の中で歌って、日本人的なアレンジはつけられているのですが、彼女達自身が向こうのものをきちんと理解して、勉強してきていますから、かなり向こうの感覚に近い処理ができています。  たとえば、「はーじめーてあったーとーきにー」など鈍いことはしません。  それはしっかりしたものが入っているから、自分の中で正されてくるのです。あたりまえのことですが、英語で歌っていてもそうなるべきです。いろんな歌をきいていても、そこに判断の基準があれば、そのままにとっていきません。つけ方が悪いのではなくて、要は、散漫にしてはならないということなのです。 

 どこで踏みこめばよいのかわからないのは、感覚の問題です。サビのところをやっても、どうなるかが見える、出だしのところも、ああいうふうになってくるというのは、本人が認知できている場合は待てばよいのです。一つは体ということがあります。体のところで同じポジションがとれないときは、どうしても広がってしまうのです。  「はーじめーて」と自分でもやりたくないと思っていても、引っ張らざるをえないのです。特に音域が広いとそういうふうになります。そこの問題は考慮しなくてはいけないと思います。 

○基準を入れるということ 

 私はこの前のプレをビデオで見せてもらいました。感じたことというのは、まだ演奏に必要なものが入っていないのです☆。  音楽を勉強しているのでも、歌い手としての音楽が全然入っていないのです。それから、他人事なのです。明後日の方向のところで声を置いているだけ、日本語というのはそうなりやすいのです。一生懸命に歌うほどそうなる、それを声でなく自分で引き受けないと、変わらないと思います☆。  最初ビデオがおかしいのかと思ったのです。でも最後、Nが出てきて、ちゃんと撮れているとわかりました。ということはどういう感覚なのかというと、それはNが優れているということですが、舞台の中で今までセッティングしているものの基準で見たときに、明後日の方向のことをやっていたのです。ここのステージですから、完璧なものをやってくれとはいっていません。問題はそれをやり終わったときに、本人が気づいたのかということです。 

○創造性

 大切なことは、一曲を歌うということの大変さというのを、全然引き受けていないということです。その一曲を覚悟して歌うということは、どのくらいのものを要するのかということです。練りこめなくても、歌えなくてもよいのですが、もっと根本のことが9割足らないということを、その場で受けて出てこないということが言いたいのです。  それではレッスンも成り立たなくなるし、トレーニングも必要ではなくなるのです。それは声の問題ではないのです。声があるがために、そういうものを見ないで引っ張ってしまうこともあるのです。その人の中に入っている音楽の問題が大きいと思います。 

 何回も言ってますが、いくら真似してもダメだけれども、レイ・チャールズはきちんと自分の世界にもっていっているということです。どんな曲を与えられても、彼の世界のもっていき方でみせる。創造的な活動がやられていないのは、やれないことはやれないから、やれるものを選ばなくてはいけません。  その辺は私だけが感じたことではなくて、見た人は誰でも感じているのです。ただ本人だけがきっと感じていないから、そういう選曲をし、そういう明後日の方向で歌ってしまうのだろうということです。 

○わかるということ

 6曲というのも大変です。1曲を歌うということはもっと大変なことなのです。その大変さを引き受けていたら、うまいとかへたとかは関係なく、結構伝わるものなのです。  だから私がパッと聞いても、そういう出し方をするというのは、引き受けていないということです。それはやってみたというだけのことです。  最初はいいのですが、それを実感できないところでの積み重ねというのは、形にならないのです。どういう形をやればよいのかは、考えましょう。 

 一番困っていることは、舞台の基準ということをきちんとしていかないと、できないのです。できたらこういう音楽のフレーズをやるときに、一部分の中でその作品を動かさなくてはいけないし、そこでぶつかっていかなくてはいけません。ぶつかってできないという形にならないといけないのに、それを逃避してしまうから、できたつもりになるのです。それでいいのなら、指導の問題はありません。  このクラスに限ったことではありませんが、昔2、3ヶ月で気づいたことや、合宿で気づいたことを、わかっていてできない人は仕方ないのですが、それが2、3年というより、一生正さないままになってしまうのではないかという気がします。 

 それは個人差ではないのです。きちんとした共通の基準があります。この三人娘の中にもある基準です。ただ、彼女達は作品を作ろうとして、彼女達の中でやっています。逃がしている部分もあります。その逃がしていることを、彼女達はきちんとわかっているし、その方向が違うということもわかっています。歌というのは、どこをとって歌といっているのか、発声をとって歌ということではありません☆。そこの中のものを、引き受けているのかいないのかということです。もう少しきちんとやってみればよいのではないかと思います。歌の中ではいえませんが、こういうことの中では簡単にいえます。 

○つきつめる 

 テクニックのいやらしさ、こうやったらこうもつという計算が働いているのは仕方ないのですが、基本的に音の構成、動き、そこでは最低限どれをやらなくてはいけないということを、きちんと踏まえて正してはいきましょう。  声が出るとか出ないというのは、個人の問題です。この構成は個人的には嫌いなのですが、三人が共通の呼吸で、ここはこうやるべきだ、そこはやってはいけない、ここはもっと出すべきだ、ここはもっと飛ばすぞというような、一致した感覚があるのです。三人が相談するのではなくて、アレンジャーが決めてしまう場合もあると思いますが、ちょっとしたヒントであわせられるのです。それが読み取れないということでは困る。やらせたらできるし、声も出したら出るのですが、歌になったときに、歌は全然別のところにあるという気がします。

○ステージを描く

 そこのステージがよく見えないのです。そういう実感のないことをやっていて楽しいのか、できない人は仕方がないのですが、できるのになぜそこを突き詰めてやらないのかと思います。  それは出し惜しみではないでしょうが、きっとまだどこかで勝負しようと思っているのでしょう。それでは一生できません。なけなしのものですべて出し切って勝負していくのが実績というか、それがイコール、実力とその結果です。それは構えの問題だと思うのです。レッスンの場も、発表の場もそうです。 

 トレーニングの場は、どこかに目標をおいて、その踏み台に使って構わないのですが、踏み台であればあるほど、大きくつくることです。  これはある意味では雑です。もっときれいに歌おうとすれば、彼らはまとめられますが、どうして雑なのを私が選んだのかというと、その中の可能性があるからです。 

 こいつは今度また違うことができそうだと、そういうことが見えるものに、人というのは惹かれるわけです。  ステージに作品を出してもらうのは構わないのですが、その作品がまとまっていて固定されたものであれば、この人はこういうスタンスなんだということが出だしで見えてしまいます。  それがみえるような選曲をしてはいけません。自分が歌いきれる歌というのは、どういうものなのかということを考えなくてはいけません。大きな問題がたくさんあるような気がします。  逆に考えてみればよいのです。実際にステージをやって、もたせた人のごまかし方なども。選曲の仕方というのは、結果としてフィットするようになっています。それはセンスということよりも、そのスタンスの差だと思うのです。 

○律する

 一番問題なのは、舞台というのはより優れたものをぶつけたら、他のものが吹っ飛んでしまいます。そのときに自分が自分で律するということです。舞台の経験はここは内輪でやっています。いろんな機会を与えて、リラックスしてやってもらっていいのです。  問題なのは、そのことはやっていることですから、そこから何を得るのかということが大切なことです。そこまでも一生懸命やって、その日も一生懸命やらなくてはいけませんが、簡単に歌えるものでありませんから、1曲でまともに歌えなくても、3000曲の中でいいものが1つか2つあればいいといっています。2年か3年で1つ伝わるものがあればいいという基準で見ています。ステージすべてなどは、はなから期待していないわけです。

 問題なのは、自分がきちんと撮ったつもりの写真がどれだけずれているか、ピンぼけなのか、セットできていないのかということを見なおさない限り、直らないことです。次も同じステージになってしまいます。たとえば声が出るとか、音域がとれるとか、音感がいいとか、リズムがいいというだけなら、そのチェックしかしなければ、もうそれ以上、演奏ということでいうと発展しようがないのです。 

○テンション 

 知っておいてほしいことは、ステージでのテンションというのは、皆さんからみるとリラックスしているようにみえていても、普通の人が思っているよりも相当高いのです。それをゆるめたときには成り立たない。自分にすぐ跳ね返ってきます。普通の人が一番厳しいのです。  結局その状態の中で歌を動かすということが難しいから、いろんな妥協を入れたり、ごまかしを入れていくのです。そこを自分で見ておかなくてはいけないということです。 

 歌うのにごまかすのもいいのですが、それはトレーニングと同じで、その位置というのをきちんと把握しておくことです。力がついたら、基本のところに戻して後々にカバーしていくというように見ていく。そこの基準が曖昧になっています。すると普通の人からみると、テンションが低いようにみえます。宴会芸になってしまいます。他のところでは通用するのかもしれませんが、ここで通用するようになったときには、ヴォイストレーニングの必要性もなくなってしまいます。 

 彼女達のもっている音楽性を勉強しろとは言いませんが、あなたの中に音楽もあり、声もあり、歌もあり、「ハイ」というポジションもあるとして、それがバラバラで、ステージがそうなってしまうのも、今はできなくてもいいのですが、そういう方向にいくということを、その場に瞬間的に提示しない限り、お客さんは二度とこないです。  そういうところは厳しいのです。全部見えてしまうのです。その人はそれが歌だと思っているかもしれませんが、歌というところの一つの基準からいうと、私が寝起きで「せめてー」と歌えてしまうものは、何の価値もないということです。  いろんなものを抱え込みすぎているのです。「ハイ」でも、1年目はそれでいいかもしれませんが、2年目になったら、1年目に得たポジションを捨てない限り、深まらないのです。 

○異変

 歌でも同じで、「せめて」というので1年目に通じたならば、そういうものを捨てない限り、より高い表現にはいかないのです。それでは守りの姿勢になってしまうのです。  守りのものを見るよりは、ぶっ壊れているものを見た方がまだ面白い。問題は、こういうレッスンでも、自分が精一杯やって、集中力を高くやってみると、必ず異変が起きます。異変というよりも、できないということが突きつけられます。だからレッスンが成り立つわけです。 

 そこをカモフラージュする必要はここではありません。うまく歌う必要はないのです。うまく歌っているものほど、本人がそう思っているだけで、周りの人には何とも伝わっていないのです。  だから上のクラスの基準は正しいと思っています。私が決めているのではなくて、みんなが聞いて書いてくるものを読んでみたら、なるほどと思います。今は私が出なくても成り立つと思うのです。 

 でも本人が一番自分のことを知らないのです。本人が隣の人のことはわかっているのです。でも自分のことは知らないのです。そこが問題だと思います。隣のことを知るのは自分のことを知るためです。それを見たときに、自分のどこが落とせるかということだと思います。  本当は1曲目が通用しなければ、2曲目ということは普通の世界では与えられません。そういう構えを客は信頼してくるのです。 

○是正する 

 あがってしまってうまくでなかったとか、練習不足でうまくできなかったとか、いろんないいわけがあると思いますが、できないものを超えてみて伝わるものをもたないと、難しい。それが人柄であったり、キャラクターであるということも一つの要素だと思います。できたらそのバックボーンのようなものを身につけていくことです。  大切なことというのは、やり終わったあとからの問題です。どんどんやっていってほしいし、どんどん場に出てほしいのですが、そのあとにきちんと落とし込んでいるのかというのが気になります。他のレッスンは落とし込んでいるのかもしれません。ただステージというのは落とし込みにくい。そこを自分で見ていくしかないと思います。 

 それをどういう基準で見ればよいのかは、他の人の意見を掲示して、それを見てくださいという形もいいのかもしれません。私の基準ではなく、そこの場の中で聞きにきた人達がこう思いましたというのをみて、葛藤すればよいのです。  自分はこう思ったのに、それがそういうふうに思われてしまうというのは、どこの感覚とか、どこの呼吸とか、どの声がずれていたのかと、それはどちらが正しいということは別ですが、結構周りの人の意見は正しいのです。  それを舞台ですぐに正すということは難しいし、解釈の仕方がいろいろとありますから、一概にはいえません。 

 ただ見ていて思ったのは、あさっての方向になりすぎているのではないかということです。本人が、主体が引き受けていないのです。それでどこかの歌だけが回っているということになりかねないのです。そうすると、不利になります。それを引き受けるということはどういうことかということを考えてみればよいと思います。  こういう曲で対応してみたときの、自分の感覚というものを、自分で是正していくということ、問題点をはっきりつかんでいたら、それは時間をかけて正していけばよいのです。  それを握っていてくれたら、私は問題ないと思います。実際のステージではそれを楽しんでもらえばよいのです。問題はやり終わったあと、そこから次のステージにつながるようにしていかないといけません。 

 何ができたのか、何ができなかったのか、できなかったのはなぜか、そういう作業をやっていかないと、歌というのは感覚で流されやすいです。カメラマンでも、なんとなくそういう気分で撮ったというのが一番よかったりするのです。それを確実に出そうとしたときには、どこかでそれを練りこまなければいけないのです。そのときには非常に高い集中力が必要だと思います。  いろんなヴォーカリストが皆さんの中に入っていたら、そういうヴォーカリストだったらどう歌うだろうとか、そういう人が批評を求められたら何というだろうとか、いろんな多面的な角度から検討することはできると思います。 

○固有の体、感覚 

 ステージというのは、いろんなお客さんがきていますから、そこでいろんなものをやろうとしたら、声がうわずってしまったり、雰囲気だけになってしまったり、そうなるのは構わないのですが、でもそれを自分で許容してしまったら、次からも同じになってしまう、年をとったらもっと拡散していきます。  そうしたらその辺で長年カラオケを歌っているおじさんやおばさんと変わらなくなってしまいます。そこと絶対に違うものはあるのです。その要素というのは、失ってはいけません。それがある人が何かやることに対しては、人は受け入れるけれども、それがないところで歌や、ことばが聞えてきても、人は飽きてしまいます。その人には興味もないのです。 

 作品で勝負するか、人間味で勝負するかということもあるかもしれません。ブレスヴォイストレーニングの、体で声を動かすということも、その問題に当たってきますから、器用な人はきっとあなたの真似ができてしまうということです。そうでない部分というのは何なのかといったら、固有の体しかないし、固有の感覚しかないわけです。その人のくせが出るのも構わないのですが、きちんと練りこまれて磨かれているものと、練習を休んで、いい加減にやって出てくるくせとは、説得力が違うのです。 

 それは自分にしかわからないと思っているかもしれませんが、私でなくても、長くいる人ならば、わかることです。  普通の人を甘くみてはいけません。そうじゃない普通の人もたくさんいます。もっと厳しくなります。だから一体感をもつということをやってみてください。当時の人達は、そこに何を込めるとか、音色のこととか、そこでどうやっているかということの共通の理解みたいなものがありました。それはまた、別の面でいい勉強になります。 

 ただこれを真似ていくと、体も感覚も違いますから、何か昔ふうの歌い方になってしまったりしかねないところもあります。へんに抜いたり、浮かしてしまったりということもあります。真似るのはよくないのですが、外国のものをパッと聞いて、彼らの場合は、最初に変換機能を正すということを厳しくやっているのです。自分の限界のところで処理できないものは、その限界をみてその選曲を諦めるとか、そのことばを諦めるとか、そのキィを諦めるとか、それをしていけばよいのです。 

 その日初めてやってみて、出せるかもしれないとか、いろんな冒険をしてもらっても構わないのです。そこまでの準備や、テンションがきちんと高まって、ピークがあってそこにもっていきたいんだなという思いと構成感、そういう覚悟をその人がもっていなければ、歌というのは流れてしまいます。レッスンの中でもそれはいえることだと思います。どこかで自分の中で妥協してしまうと、コントロールは到底できません。皆さんよりも強い体の人達が、さらに集中してやるのですから、集中して動かせるために、強い体とか息とかを作っていくのです。 

○6曲の難しさ 

 いつも2曲やっていることを6曲やるときに、それがいかに大変かということをわかってくれればよいのです。単に2曲が3倍になったと考えてしまうと、それは違うのです。2曲というのは、単純にアップテンポとスローテンポのをもってくればもつのです。でも6曲というのは、最初の2曲できちんと惹きつけて置かない限り、違う可能性を出せない限り、3曲目からはまた同じかと見られてしまうのです。その辺は厳しいのです。 

 6曲もてば大体1時間半くらいのステージはできるのです。6曲を本当にもたせるということは、20曲くらいないと難しいと思います。だから6曲というのは、一人前というベースだと思います。  1曲目は誰も聞いていないのです。2曲目くらいからはちょっとことばを聞いてやろうかとか、音楽を聞いてやろうかとなると、そこでベースが出てしまいます。そこからがその人の世界なのです。それをきちんと集約してもっていくことです。だから、テープとかビデオをみて、1フレーズ1フレーズをきちんと聞きこんでいってほしいのです。そしてそこの中のことを練習してください。 

 高いと感じたらもっと低くさげてみてもよいし、声量が出ないと思ったら声量を押さえてもいいので、そこで突き詰めたものというのは一体何なのかということを知ってください。  実際の体とか声でできなくても、そういうものが得られたときにはこうなるべきだという方向性はもっておくべきです。それがあれば、そんなにステージで声が出なかったからといって失敗するわけではありません。 

 いろんな人を見ていても、相当間違えているのです。そのときにあいつ間違えやがったなと思われるのか、間違えやがって面白いなと思われるのか、そういう信頼関係が成り立っているのかというのは、ずいぶん違うのです。そういうステージを目指してもらった方が楽だと思うのです。体調が完璧じゃないとできないステージは、それはそれで大変だとは思いますが、そのまえにまだまだやるべき課題がたくさんあるなと思っています。そこをきちんとみていってください。場に出て何を感じるかということは、大切なことだと思います。 

 これは難しい曲ですが、どういうところで気づくかということを知る。あまり自分で思いこんで先に走ってしまったら、やはり勉強になりません。いろんな人の、いろんなCDを聞いてください。そこの中でこういうふうに動かしてみようとか、たくさんの応用ができるようにやってみてください。 

 この人は70年代の歌い手です。こういう歌い手を2オクターブ歌手と呼んでいるわけではありませんが、歌にとって2オクターブというのは音域でいうと一番広いレベルです。その中で低音、高音を使っていますから、発声の見本が全て入っているのです。  習い始めの頃は、低いところで太い声が出るとか、高いところでは細くなるとか、あたりまえのように考えるのですが、そこの中で何をつかんでいるかということです。声を握っていて、別に高音だから、低音だからこう歌うということではなくて、そのまま音楽の流れの中に表現していくということでしょう。まさにここでやっているようなことを実現している歌です。この中から聞かせます。ルイスミゲルでした。 【「ラストワルツ」3クラス 00.4.14】 

○材料選択のミス

 「夜明けの歌」 「小指の思い出」 「リリーマルレーン」 「ヨイトマケ」 「夢で会いましょう」 

 また15日の反省会のときにいいますけれども、今回足らなかった部分をレッスンで補っていこうと思います。同じやり方がよいかどうかは、たくさんの授業がありすぎて、混乱してしまっている部分があるので、少し落ち着かせて、特別レッスンの形でやっていこうと思っています。  最初の半年というのは、音楽とか歌は聞くだけ、それでことば、声、むしろ体の方中心です。合宿でいうと、体操みたいなことで、自分の体の状態をきちんともっていくということの方が大切なのだろうと思います。必修のプログラムとそれを補強するものをわけて、何本か立てようかと思っています。

 今回合宿で欠けていたのは、班長も含め、要は30個くらいやったうちの一つか二つしか通用しないにも関わらず、その一つはとったけれども、二つ目、三つ目は落としてしまい、あとはどうでもよいようなことをどう組み立てるかということに終始してしまったということ、結局、客観視する力の不足です。これは難しいことです。トレーナーには、はっきり見えていたのですが、班の中に入ってしまって組み立てようとしたときに、二つの立場に立たされるのです。 

 ステージとして上演すべきものなのか、それとも練習としての成果を出すべきなのかということです。私は外から客の立場で見て、文句をいっていればよいのですが、班長の立場になると難しいことかもしれません。  だからといって、その二番目、三番目にあったはずの材料が、目立たなかったけれどよいものが消えていったということ、なぜそれが班の中でなくなってしまったのかということです。  今、ビデオでみていても、そこの部分で、どういう打ち合わせがあったのか、当人がとりさげたのか、もう一度反省しなければいけないだろうということです。 

○構成での位置づけ

 それから構成の問題です。今回は脚本を最初に書かせて、それをユニットでつないでいくという形をやらせました。3つの曲をテーマとして使って、3つの脚本を作って、3つのユニット、そしてそれをつなぐためのソロフレーズ、それで25分です。  足らないと感じたのは、セレクトの段階で、最初、みんなが選んだものは、サビの部分が多いのです。要は、自分の味が出せるところとか、強さになるところとか、他の人ができないところを選ぶのではなくて、うまい人が代わってやったら、力の差を見せつけられてしまうところを低次な次元で選んだ、そこが歌いたい、大きくやりたい、長くやりたいということに支配されているのです。 

 一つの曲を、本当はAメロ、Bメロが大切であって成り立つはずなのに、フレーズを回すため、2オクターブの曲で強いところ、一番ギャップがわかるところをやらせます。だからといって、他のところの意味がないわけではないのです。  今日は、日本語の曲を使って、その構成を立てて、その構成の中の位置付けでやってみようと思います。要は、どこかを強くしたら、どこかは弱くなってくる、この弱さに対して次にはどのくらいの強さで入ってくるかという、構成、展開のことです。 

 いつもピークをどこにもってくるかということをいっています。日本人の歌というのは、音楽的な楽器の動きに対して、ことばとかメロディで作られすぎている部分があるのです。ただ逆にいうと、そこで技術が出せるし、そこでうまく歌えている人はきちんと評価されるという、わかりやすい部分でもあります。丁寧に歌えるとか、いかに繊細な感覚を出せるかということでも、ロックとかポップスの場合はそれだけではないから、10代でもデビューできてしまったり、12、13歳くらいでも歌えてしまう。というのは、ある種そういうものを越えた音楽の進行するダイナミズムや、若さの、声だけでも訴えかけてくるものがあるということです。 

 必ずしもこういうレッスンがよいわけではありませんが、こういう内容がないことには、すぐに作品を組み立てろといったときに、サビのところだけを頭から最後までやって、分担しているということになりかねません。外目でみているとよくわかるのです。一本、構成、展開をみていくようなレッスンをしていこうと思います。 

○全体の方向性 

 「Time to say goodbye」、一つひとつを全部みていきました。1フレーズの構成を3つくらいにわけて、どう捉えてどう動かすかということをやりました。  今回は全体の中でやっていこうと思います。とりあえず音をとりながら、全体をみていきます。難しいことばがあります。このとおりにはやらなくてもよいです。  ただ、この人のもっている部分を7割くらいはとってください。よく、自分で9割全部もっていく人がいるのですが、それではレッスンではないのです。それなら、自分の歌を自分の歌いたいように歌っていればよい。やはり3割から7割は何かをとっていくことです。

「うれしげに悲しげに楽しげに寂しげに」 

 こういうものをレッスンでやるときに、番号などをつけてしまうと、それで早く意味はわかるのですが、そのためにこれは4つにわけるんだという意識が働いてしまいます。本当は一つのものが4つのことばやメロディを導いているということがおろそかになってしまいます。だからといって、今はまだ意識しないでやれません。全部が平行に棒歌いにならないようにしてください。

「夢で夢で君も僕も夢で会いましょう」

 あまり強弱にとらわれずに、歌の方向性をきちんともつことです。計算するよりも、この辺をしっかりと抑えておくことです。この間合いとか、この高さみたいなものを、少なくともある種の動きが回っているようなところに乗せていかないと、作曲者の意図がなくなってしまいます。 「夜があなたを抱きしめ 夜があなたにささやく うれしげに」  歌にピークがあるということは、逆にためておく部分があるわけです。そのためておくところできちんと我慢というか、きちんとそこでもたせられないとバタバタといってしまいます。日本の歌はそういうものが多いのです。

○動かし方

 どんどんたたみかけていって、崩れてしまう歌が多いのです。そこでサビと同じだけのスタンスをもたなくてはいけません。高い声や大きな声を出さなくても、それと同じだけか、より集中度が必要になってきます。それだけためていくことが、ある種、次の音色なり、新鮮さになってくるのです。この歌でも同じです。大きくは4つにわければよいと思うのですが、4つにわけて、それぞれ最初の「夢で」に対して、次の「夢で」は変えています。その二つに対して「夜」のところから変えています。その「夜」のところから、いきなり「うれしげに」ではまた変えています。変えているということは、その人の感覚が変わっているということです。 

 全部を我慢して歌う必要はないし、だからといって全部をはじけさせて歌うこともありません。はじけたという効果がありません。そういう意味でのメリハリづけというのは、体でつけるのではなくて、気持ちの部分です。もう少し聞き込んでみてください。  他にもいろんな動かし方はあると思うのです。AからBにかけてこう変えたとか、Bからサビにかけてこう変えたというようなところでの、その変化のルールを最後まで守るということです。歌がへただというのは、自分で作ったルールをどんどん自分の思い込みで変えていくのです。だから結局、心地よくなくなってきます。 

 こういうものでも、もっと声が出せるのになぜ出さないのか、もっといろんなメリハリがつけられるのになぜつけないのかというのは、一番始めに自分がこの構成をたてたときのルールというのがあって、それは当然頭で考えるのではなく、歌いこんでいる中で出てくるものだからです。  最初でこう出しサビにこう出した以上、最後はこう収めるしかないという、決まってくるわけです。  それを全部やぶっていくと、一人よがりになってしまうのです。それはその部分しかみていないのです。そのルールは人が作るわけではないのです。 

 この歌い方も僕は好きではありませんが、これはこれで納得しなくてはいけないものがあります。自分のルールに対してあくまで誠実に歌っています。そこはおかしくない、技術的には非常に高いところもあります。  それは技術をみているというより、そこの感覚でいうと、そんな出し方もあるのかとか、これだけ強くしておいてここまで弱くするのかと思わせます。そういうことは非常に歌の流れをはずしがちになってしまうのですが、この人はこの形を一つのルールなり、自分のやり方としてやっています。それを必ず後半でも2番でも同じように使っています。それはそれで認められていくわけです。  ところが皆さんの歌を聞いていると、たまにそういうことをやるのですが、それは次のところに全然関連しないし、あるいは2番の同じ箇所でも、そのことを忘れてしまったように新しいものを作るのです。それでは1番、2番ではなく、違う歌なのです☆。 

○吟味する力 

 昨日やったことは、1フレーズの中のメリハリです。これは全体の構成のメリハリです。それを考えないと、なぜそれを強くつけたのかということが生きません。こういうことをきちんとやっていくと、聞きやすくなるのです。  この場合は二人ですから、二人のルールがあって、そのルールをはずしていません。どうしてそうやるのかなと思う前に、そのルールがあるから、そうなってしまうのです。それは頭で考えるのではなく、体が教えてくれることです。  一番目に女性が歌い、二番目に男性が歌い、そして三番目にどうしてまた男性が歌うのかということは、そのあとのことを聞いたときに、どちらがよいのかというと、選ばれているのです。  やはりプロはプロですから、我々の及びもつかない判断のところで、結果として良かれということでやっているわけです。そこのところをみていくことです。 

 これを一人ひとりが別に歌うと、また違う歌い方になります。非常に巧みにうえのところにもっていっています。そこのところでことばにつなぐがために、こういうふうな置き方をしてやるから、次の「みつめあう」でこういう感じに止められるわけです。  完全にためて、歌を歌っているのではなく止めています。歌を歌ってはいけないというのは、こういうところをきちんと出さないと、お客の心には受け止められないということです。  声がある人たちが思いっきり歌っているようでも、そうでないことをやっているところで、伝わるのです。お互いに相手の土俵をきちんと作ってやっているから、もう間違えるとかどうとかではなく、成り立ってしまっているわけです。 

 あなた方もそういう力はあるのですが、その使い方とか、出し方とか、その空間で煮詰めていない。声を出すところとか、歌うことだけに判断がいって、どこを歌いたいかとか、それは全部個人の事情であって、このキャンパスのところにどう絵を描くかという絵が見えていない。  結局議論はしているのですが、どういう意図でいくとか、どうやろうとか、内容を吟味しているようでいても、全部形が先行しているのです。それは今回一番大きな反省です。

○土俵

 とにかくこの空間のキャンパスに絵を描くのですから、その絵を誰かが見なくてはいけないわけで、そこの絵に外れる、外れないということを調整していかないといけません。  この曲も与えていたものですが、ここまでのことをやれている人の土俵に乗れない。こんなに入れられないとか、こんなにヴォリュームが出せないとか、こんな高いところまで出せないとか、そういうところは選ばなければよいのです。ところが逆のことをしていたのです。彼らより難しいところを選んでは、声を出すだけで終わっています。すると課題になっていないということになってしまいます。 

 昔の日本人は非常に丁寧に歌っていました。丁寧だけではダメなのです。そこの中で客を飽きさせない、あるいは客が見えないところを加えてやることです。客がたどっていって、こう歌うのだなとわかってしまったらつまらないのです。そういう部分ではいろんなこともして構わないのですが、それは本人が発見し、アイデアをきちんと練っていなくてはいけません。それを頭でやっても仕方がないわけです。  だからそれぞれのフレーズをきちんと作りながら、最終的に歌として一つに捉えなくてはいけないのです。その一つに捉えられることがいつもできないのです。  ましてや25分のステージを全員でやろうとするときに、それが一つになるということはなかなか難しいのです。でもそれぞれの人の中でそれがつかめていたら、相談する必要などないのです。  

 今回の失敗も全て話し合いのしすぎです。出していることを決めていくにも関わらず、出していないことをみんな求めてしまい、すでにあるものしか出てこない、またあるものはもっと使えるはずなのです。  それは今日のレッスンでも同じ。もっと使えるはずです。それをパッと読み込み、特に今はよいものからとれるようにしましょう。  彼らがわずか少しでも強めていたら、それをすごく強めて感じていく、少し遅らせていたら、ものすごく遅く感じてみるのです。そこで練習しておいて、実際のステージになったときには全体の流れの方が優先しますから、そんなところに拘ってはいられないから、そういうふうに体が自然に動いていくことです。それでよいのです。 

○ダイナミズムと舞台 

 基本というのは、スポーツと同じで、ゆっくりと「1、2、3」と覚えるのですが、実際の試合になると、そんなゆっくりとは絶対にやらずに、もっと瞬時に働きます。でもその「1、2、3」を確認してやっておかないと、瞬時に動いたときに必ず乱れてしまいます。うまくいかなくなってしまうのです。  欠けているのはダイナミズムのようなものです。それが音楽の命だと思います。  だから私はメロディとかことばよりも、リズムの方をとりたいと思っています。価値観の問題にもなってきます。その人の作品になるということより、全体の作品になるというようなことです。

 確かにソロヴォーカルは一人なのですが、一人というのは一番学びにくいのです。自分が好きなように歌ってしまったらそれでよいし、認める人も中にはいるでしょう。でも勉強するということを考えたら、その感覚を全体に、お客さんにまで共有する。そのまえに、自分のメンバーには共有できるくらいの身体感覚で進めていけなくてはなりません。  舞台の勉強としては、それが一番やりやすいことだと思います。これはスポーツでも、演劇でも同じです。厳しくするのは、どうして後ろから人が出てくるのに前は開けないんだとか、そういう全体の感覚が結びついていないこと、すると一曲の歌ももたないということです。そういうことは、徐々にわかる、というより、きっとその中に入っていたら、そういうふうに動いていくもののはずです。 

 同じところを慣れている人が5回くらいで聞けることを、50回聞いてみる。また違うときに聞いてみるなりして、気づくこと、ずっと聞いていても気づかないときは気づかないのです。  だから、パッと聞こえ方が変わるということは、一瞬不安なことなのですが、チャンスです。  私でも前はこういうふうに聞こえていたのにとか、わからなくなったのかなとか思うこともあるのです。でもそれはまた新しい気づきにもなります。ただあまり聞いていないと、甘くなってしまうこともあります。ですから常に最高峰のものをいくつか基準にもっておくと、理解しやすくなると思います☆。 【「夢で会いましょう」00.5.10】 

○切り替える 

 本当はここを飛び越えてほしいのですが、とりあえずこの空間に描くわけです。時間を使って描くのです。合宿も同じで、3日間という時間の中でまとめたものを、そこの前のおよそ30、40人の前でやるわけです。それが定まらないと、どれがよくてどれが悪いかということがわからなくなってきます。 

 それぞれの目的があると思いますから、研究所のものは土台にしておいて、最終目的に対して設定していかなくてはいけません。それが一つと、もう一つは構成です。誰も歌を聞いているわけでも、声を聞いているわけでもなく、そうじゃないところにある感覚とか、ためとか、イマジネーションとか、その人の感性のみたいなものを最終的には聞いているわけです。だからそれを読み取らなくてはいけません。  日々のレッスンと合宿とは全く同じことなのです。ただ、合宿の場合は24時間外を遮断しますから、もう少し中に入り込めるというだけの違いです。それは、本当はレッスンの中でも切り替えていかなくてはいけないし、一曲一曲で変えていかなくてはいけません。一曲の中でも変えていかなくてはいけないのです。切り替えるということがどういうことかということをやっていかないと、難しいような気がします。 

 音の中の世界をきちんと読み込むということは、単純に思われているかもしれませんが、本当に10年がかり、20年がかりのことです。それを読み込んでいる人がたくさんいる箇所においては、やはり読み込んだ人でないと勝負できないのです。それは声が出るとか、歌がうまいということではないのです。別に外国にいって勝負しなさいということではないですが、最終的な共通な基盤というのはあって、それがないと作品が作品として成り立たないわけです。そのルールを得て、作るということです。 

○教えられたものの限界 

 日本の教育とか学校のよくないところは、ここでも気をつけないといけないのは、人から教えられたものというのは、所詮それに気づくきっかけとしてしか使えないものです☆。自分で創造の活動を常にやっていかないといけないということです。皆さんが歌いたい歌とか、歌いたいやり方というのは、他人のものの場合が多いのです。V検をみていても、大体同じです。プロがここにきて「私の方がうまくできる」といわれるようなことをやっていても、土台勝負にはならないわけです☆。向こうが年上とか、ベテランとかいうのとは、全く関係ない世界です。そうじゃないものをきちんと出さないことには、誰かに紹介したりするのも困るのです。

 私が一番困るのは、テープを聞いてくださいともってくるのです。聞くのはいいのですが、だからどうなんだということです。その人の何が出ているのかということです。他人の曲をその他人みたいに歌っているものを、私にどうしろというのかということです。  どこを直したらよいかいってほしいといわれます。もともと他人のものを他人のようにやっているものに、何の改良もアドバイスもできないのです。考え方を変えることです。カラオケチャンピオンになるのだったら別ですが。 

 その辺のことを考えてみたら、ここのやり方というのも捨てたものではない。みんなが絶対に歌わないような歌を、みんなが絶対に歌わないようなところでやっているのですから。そこで自分が何を出せるかということです。  結局、デッサンの練習をやらなくてはいけないのです。塗り絵をやっていても仕方がないということです。  スクールでやっているのは全て塗り絵で、誰が一番きれいに、はみださないように塗れますかということです。塗り絵が一番うまい人は何かできるかというと、塗り絵ができるだけです。それでいくと、どんどん間違っていくのです。 

○歌わされないこと 

 今、同じ曲だけを全部はじき出して一枚にしています。前に「枯葉」を使ってみました。「枯葉」のCDだけでも100曲くらいあるのです。楽器のものも含めると、もっとあるわけです。同じ歌がたくさんあれば、それを比べてみるということが一番早い勉強の仕方です。皆さんでもできないわけではないでしょう。そのために研究所はたくさんのCDを購入しています。  多くの人は、どうしても視覚でみてしまうのです。それも大切なことではあるのですが、それを真っ暗にしてみて、音の世界だけでも成り立っている部分を程度知って、それを反映させていこうということから入っていこうと思います。すると、日本人でも捨てたものではない。ただどの辺にそれを置いておくかということです。

 「Time to say goodby」を細かく1フレーズを寸断して、全体の構成ということをやります。構成から展開のところです。  梓みちよさんという人は、ある程度日本人の感覚を外して歌っています。加藤登紀子さんなどは、語尾を浮かす。日本人的な処理の仕方なのですが、対照的です。  原曲はアダモの「インシャラー」。女性の歌手のを3、4曲流してみます。日本の歌の場合は、コピーが多いし、塗り絵みたいなものが多いのですが、日本の歌そのもののレベルの低さは、こんなふうには歌いたくはないというのが原点になるので、反面教師です。少なくとも日本のトップレベルと外国のレベルが、どのくらい違うのかということを、体ではわからなくても、イメージとしてもっていたわけです。 

○日本人から学ぶ

 研究所でこういうものを使って教えなくてはいけないことは皮肉なことですが、ここ5年くらい、使い始めました。本当は使いたくはないのですが、同じ日本人、同じ日本語、それほど体の差もないなら、きちんと基本のことをやっていたら、できないはずがないからです。ジャズのものでも、もう瞬間的に違うわけです。音楽に対する考え方が違うというよりも、日本のようにうえから与えられて、それにそろえるようなことは考えない。だからやっていけるし、楽しいわけです。  そういう部分のものをきちんともっていかないと、力がつけばわからなくなってしまいます。つかないうちはまだよいのでしょうが、こういうものはついたところで、どうやっていくかということをきちんとみていかなくてはいけないのです。二世代くらい前の宝塚のものであれば、まだ音色は出していました。歌い手がこれが私だけのデッサンだということを当然出していたわけです。 

 今はそういうことを勉強していないで、声のよさとか、ことばのよさでもっていってしまう、そこしか見えていないということです。ということは、本当の意味では聞いていないわけです。そうすると、その判断基準に関しても難しくなります。これもそんなによいわけではありませんが、構成をおってみるということで使います。 

○盲目的にプラス

 大切なことは、こういうものをレッスンで勉強しようとする、どこがサビでというようなことは、あくまで説明するときのいい方で、本当のことでいうと、こういう歌い手よりも歌えないのであれば、8割は盲目的に吸収した方がよいのです☆。

 全部真似る必要はないし、真似てはいけません。できることであれば、自分の出せるところはきちんと出しましょう。自分の歌は何なのかと、自分のデッサンは、自分の線は何なのかということです。画家でもデッサン一つでわかるのです。ただそのデッサンを知るためには、いろんな色や線があるということも知らなくてはいけません。その色や形がどう使われているかということも知らなくてはいけないし、重ねたらどうなるのかということもやっていかなくてはいけません。  でもまずは、ちゃんとしたプロセスはわからないとしても、こういうものは成り立っている、成り立っていない、これは一流品だとか、これはダメだということが直感的にわかること、そうでなくては、いくらデッサンの練習をしていてもダメです。

 当たり前のことながら、どこかは強くなって、どこかは弱くなっていますから、それを真似るのではなくて、その中で彼女が出しているベースがある。  歌がへたな人というのは、そのルールを無視してしまうのです。それは音楽のルールとか、音痴だとか、リズムをはずすということではない。自分の中でこう打ち出したいというものがないから、高くなったら高く歌い、低くなったら低く歌うというように、歌わされているだけになってしまうのです☆。 

 わからない歌でも必ず全体の中の展開、構成という部分は聞きます。  1番目の出だしはこう出たなら、2番目の頭もそう出るはずだというのが瞬間的に入る。あるいはAメロからBメロにこういったと、そうしたら、Cメロはきっとこういうふうになるはずだというようなことが伏線としてひかれる。それが外れるのは構わないのですが、当然のこととして、よい作品として心地よくこちらが聞きたいと期待する線にそっていくのです。それに対して沿っていくような感覚はなくてはいけない。もう一つはそったままではつまらないから、それをより新鮮に変えていくことです。そこの部分をこういうものからでも勉強してほしいのです。

○こらえる 

 外国人のものが、そんなにうまくなくても成り立っていて、それなりにうまく聞こえるというのは、やはり一つのダイナミズムの中で動いているからです。それが若干外れたり、よってみたところで、音楽自体が崩れないのです。  そのために、非常に強い部分があります。自分の声の中にドラムとベースをもっているようなものです☆。  日本人のものは大体そこが欠けています。うえの方でやってみて、響き方が悪かったらよくないなとか、そんなところでチェックされてしまいます。そういうのは損なのです。  ましてトレーニングをやっていく人は、そんなに器用なわけではありませんから、きちんとしたところの部分でやっていった方がよいと思います。 

 「夢で会いましょう」のところの、こういうのほほんとした歌い方の方がよほど難しいということです。感情がきちんと込められて、ことばが丁寧で、声もある程度よくなければいけないのです。  「夜があなたを抱きしめ、夜があなたにささやく」、この歌で一番難しいところはこの部分です。ここをきちんとこらえるということ、ためるということ、我慢するということです。  みんなサビを歌いたがるのです。サビなんていうのは、よりうまい人がきたらどうしようもないわけです。サビにいくためには、その前にためておかなくてはいけなくて、それができないのにサビが歌えるはずがないのです。 

 「夜があなたを抱きしめ」ではかなり苦しいのです。そして次のフレーズでは何かをやらないと客の心が外れてしまうということを、本当は歌い手が感じていなくてはいけません。  自分でも退屈してこなければいけません。  昔の歌というのは、歌詞と音の進行と気持ちとが一致するように作られています。今は逆にリズム中心にやっていて、そのリズムが日本人のリズムではないから、ぐちゃぐちゃになってしまうのです。 

 どうしてもそのリズムだけを打っていくというようなことで、ことばがまとめられてしまいますから、変なことばのつけ方になるのです。しかも日本人は、そのことばを日常でラップのようには使っていないわけです。ところが外国人はラップのように実際にことばを使っているのです。どうしてもそこが地に落ちてこないのです。それだったら、こういうもので勉強していた方が、自然とヴォイストレーニングができるということになります。 「うれしげに 悲しげに 楽しげに 寂しげに」 【「夢で会いましょう」2 00.5.10】 

○複数のものをたくさん入れる

 少なくとも、さっきナポリターナの歌い手が歌ったものとは違って聞こえたと思います。それをどの次元で捉えていくかということが、一つの勉強の仕方です。なぜここではいろんな対比をしていくかというと、日本人と欧米人、あるいは外国人の中でのいろんな曲、それからスタンダードをとるときに、ベースが入りやすいからです。  今のJポップの曲では、一人のアーティストしか歌っていないわけです。その人のライブのものを全部集めてみるといっても、全部を同じ歌い方で歌っているからです。すると結局、自分のところにおとしていけません。自分の身に落ちてこないわけです。 

 複数のものをたくさん入れていくことが一番勉強になるわけです。例えば、使い方はプロのレベルはあるけれども、声が全然ない人や、逆に声は充分あるけれども、使い方がない人がいて、それぞれ必要なことも違ってきます。集団の場で勉強するときには、手本の材料、トレーナーが持つ声という材料、あるいは仲間の材料を、空間軸でとることができます。それをたくさん集めればよいわけです。また時間軸でもとれます。それがどういうふうに変わっていくかということがわかると思います。 

 皆さんの中ではいろんな変化が起きてくるはずです。ある種偏ってきたり、また元に戻っていったり、いろんなことが起きてくると思います。  2回聞くということは非常に大切なことです。1回目できちんと入れるということ、そして2回目でそれを確認するということが、作業の中でやられなくてはいけません。ここは語学の学校ではないので、これがどういう意味かということは試験には出ないし、また必要もないことです。でももし英語というのを知っていたら、今聞いた中でああこういう歌だということがわかります。そして次のときには、ここはこう歌おうということもわかるわけです。  ここは音の世界を優先していて、あくまで歌詞というのは一つの要素にしか過ぎないのですが、でも、そういうことが音やメロディでできているのかということが、第一の問題です。 

○どこまで入っているか感知する 

 感覚とか、体をプロにしていくために、ここのレッスンの場では、絶えずそのやり方を知ったり、あるいは集中し、そこで深めていくということをやります。その深さを日常の中でどのくらいキープできるかということです。自分が歌っているときに、リズムをとって、体を動かして歌うとしたら、普段音楽を聞いているときにも動いてくるはずです。その差がわかることをやりたいと思います。自分がどこまでできるかということの前提として、自分にどこまで入っているかということを知ることです。知識の世界ではなく、音楽の世界が入っていないといけません。曲の中で、どういう音の動きがあったか、何本ぐらいの音の線が走っていたか、ことばでいってしまうと分析になるのですが、それをどのくらい体の中で感じているかということです。頭で読み込みにいかなくてはいけないのですが、頭では身につかないのです。それを体の一つひとつの細胞のところで、どのくらい自分の身に接点をつけているかです。

 レッスンの場合は、こういう音楽を聞き、その状態を感知します。同じ人間ですから、ちょっとはそれに近い状態になるわけです☆。その状態でできなければ、自分との差をきちんと把握することです。 

 その差が見えてくると、よくなる。つまり、レッスンは単純なものなのです。  いろんなテキストに書いていますが、歌が上達しない一番の原因というのは、うまいということがどういうことかがわからないことです。あいつはうまいなと思っていても、それがどういうことかということがわからない。声がきれいとか、高いところが出せるとしかいいようがない。それでは伸びない。それは絵の世界でいうと、色がきれいとか、描いているものがよいというような、関係がないことです。そこから何を見ていくかということが大切です。 

○必要性と素直さ

 息のトレーニングなどをしていても、わからないといって、みんな半年とか1年でやめてしまう。わかってやっている人などいない。そのうち、自分から深い声がパッと出たり、前と違う声がとれるようになってきて、結果的に効果が出てきたとなる。  今日これをやったら、明日必ず効果が出ますということであれば、ここでもそう教えます。そうなるはずがないということはわかっているのです。現実に時間をかけてそうなっていった人がいるのです。クラシックの歌い手でも同じです。  生まれたときからあんな声で歌っているわけではありません。普通に生きていたら、ああいう声にはならなかったのに、そういう声になったということは、どこかで何か人がわからないことを体で引き受けたということです。トレーニングしていたのです☆。 

 いつも考えて欲しいのは、研究所やレッスンのノウハウとかでやっていくのではないということ、そこで音を聞いたときに、一瞬でもそういう感覚が入ってきたら、それを24時間維持できることが、それが自分に入っているということになるのです。息でも同じで、日本で普通に生活していたら、深い息などは必要ありません。  そのことに対応できるようになったり、あるいはそのことが日常的になってくれば、そこは切り替わっていくのです。  ここでも必要性があれば身につくといっています。つまり、必要性がなければ身につきません。  そのためには時間がかかるのです。あとはそのための気づきが必要です。素直に捉え、素直に出していくことが大切なのです。そのときに素直に捉えられなかったり、出すときに素直に出せない場合が多いのです。それは頭がやってしまうのです。 

○感覚を委ねる 

 声は声を動かそうと思って、動くものではないから、私が声を動かそうとしているときは、声に意識は全くありません。伝えるという意志と体を使っているだけです。それは面倒くさいことで、体を使ってやらないと、のどにきてしまうということを体が知っているから、体が避けようとして体が使われるのです。 

 スポーツでも同じで、片手間でやっても打てるが、結果が体と勝負によくないとわかる。それでは自分の実感がきちんと持てないから、いつも偶然に頼ることになります。その確率を高くして、確実に自分がコントロールしようと思ったら、全体で支配している感覚が必要になります。  だから、こういうレッスンにおいては、場や空間を支配しなければいけないのです。それは歌い手でも同じで、声も同じです。どこかで握っていなくてはいけないし、その上で動かさなくてはいけません。そうやって握ろうとか、動かそうと考えるのは、トレーニングの中でしかできません☆。実際の歌の中ではそんなことを考えることはできません。だから、結果オーライの世界、そのためのトレーニングなのです。 

 一番よいレッスンというのは、よいものを聞いてみて、日常の自分ではなく、その世界の体や感覚になっていて、それで何も考えずに出してみたら、自然にそうなっていたというものです。子供が歌ってみて、たまにすごくうまいと感じるのは、そういう瞬間でしょう。  でもそれを確実に取り出せるために、トレーニングをするのです。どんなに調子が悪いときや、そういう状態になれないときにも、無理にでも自分で切り替えて、最低限の状態を作ってやれることが大切だからです。一番大事なことは、たくさんよいものを聞き、わからなくてもよいから体に入れて、その入れたものの感覚が頭よりも優先することです。皆さんは大体頭でやるのですが、体も考えているのです☆。こういう芸事の世界では体の方が正しいのです。伸びない人は、そちらに委ねるということが、難しいのです。  日本の場合、皆さんのモノローグなどを見ていても、ほとんど全部死んでいます。気持ちが死んで、頭と口だけが働いているのです。それでは人の心には伝わりません。 

○動きを入れる

 確かに役者の養成所やスクールでは、やり方やノウハウも教えます。しかし、それはあくまで自分で身につけていかなくてはいけないということです。私がしゃべっているとき、いつも体は声に自然に動いていますが、体が動かない人にとっては、こういう動かす練習が必要です。それを自分でやっていけば、動きやすくなるのです。そういうことは、歌とか芸事とは関係ないように思われていますが、伝えるということでは同じなのです。歌でも、全体を使って歌う人間と、部分的にしか使わない人間が勝負したら、もし同じ能力であれば、結果は違ってくるわけです。こういうものを聞いている中でも、できるだけこのリズムと感覚に委ねてみることです。 

 ほとんどの人は、2割くらいしか入れずに、1割程度しか出てこないのです。まずあなたが10割出し切りなさいということです。そこで問題が発見できる。1、2割の力のところでは本当の問題は発見できません。そこで直してしまうと、その人を限定してしまうことになるのです。その程度で直しても、所詮、通用するはずがないからです。  その人の能力がないのかというとそうではない、まず入れないし、出さないわけですから、勝負以前です。まずそこに土俵の場をきちんとおくことが大切です。最初は普通の人よりも、集中して聞かなくてはいけません。本当は、楽器の演奏とか、インストの部分を聞いて欲しいのです。自分で聞いておいてください。こういうところは大切なところです。 

 音楽が一番難しいのは、全体の図を描いていなくてはいけないということです。日本の歌い手でも、いろんなテクニックを駆使して歌っている人はいますが、心に残らないとしたら、描いているところを見せているだけで、描きあがった全体像がはっきりしないからです。音楽の場合は、それを創りながら進んでいくわけです。ライブである以上、歌はちょっとした感覚でいろいろと変わっていきます。ただ、そのベースにあるところの、その人のこなし方というのは、決まってくるわけです。 

○すべての音に対して 

 「帰れソレント」などを聞くと、声がなければ歌えないとか、あの声を出すのに何十年かかるんだろうと考えても、こういうものを聞くと、声がなくても歌えるんじゃないかとか、身近なんだと感じるはずです。  そこで気をつけなくてはいけないのは、身近で誰でもできそうなものほど、その人がプロであるということは、そこに見えないところの差があるということです☆。  むしろ声だけのよさとか、声の大きさでやれる方が、楽な部分はあるのです。

 この中でも、自分が歌ったものとどう違うのか、そういう安定性のようなものを聞いていってください。本当は、聞くところで9割くらいの勝負をして欲しいのです。接点をつけなくてはいけないので、ここでのレッスンは1、2箇所しか取りあげていません。よく1、2回しかやらせてくれないともいわれるのですが、その1、2回で大きく修正がかからなければ、あとは何回やっても同じなのです。自分が何回もとか長くやったから、やった充実感があるということでは困ります。やれている人というのは、たった一瞬で何かをつかんでいくし、たった一瞬で人に与えていくのです。そういうふうに考えてみてください。これを聞きなさいといってもほとんど聞けないと思います。少し部分的に聞いていきます。一番難しいのは、冒頭の部分です。 

 何もわからないとしても、息と呼吸だけでも聞いてみてください。それが音楽と一致しているという、一番ベースの部分です。日本人の場合、難しいのは、発音を口先で作ってしまうのです。このレッスンでは、声や息の線を意識してみてください。イメージだけを持っていても、それを出さなくてはいけません。そのイメージを持っていても、配分を間違えたとか、息や体が足らなかったという場合は、そういうことを知っていくしかありません。課題そのものは、常に小学生でも中学生でもできることなのです。ところがそこで違いを出せるということは何かというと、声量が大きさということも一つの要素にはなりますが、実際はどれだけ自分が確実に握っていて、動かしているかという部分なのです。  一見みえないところですが、少しずつ長くすると、すぐに見えてきます。ここではすごい深い息が聞こえます。ジャズは、生の声を全面に出しますから、この息も合わせて音楽なのです。この息が、次の出だしの強さやスピードを決めていきます。特に加速度、インパクトの早さです。 

 今の判断基準は、言い損ねたとか、入り切れなかったということより、体の中心がきちんとつかめていること、空振りしても構わないから、それが当たったらホームランになるような部分に近づいていっているのかということです。発音が間違えたとか、言いそびれたとか、その場その場の勝負ではないのです。問題なのは、こういうテンションに対して、きちんと声を扱いにいくことです。日本の場合、テンションを上げるというと、声を大きく出すか、高く出すしかないのですが、それでは困るのです。  全ての音に対して、どんなに小さい音でも、低い音でも、そこに表現を入れて出すということは、それだけ大変なことです。それをきちんと引き受けることです。歌い上げる必要もなければ、歌らしくする必要もありません。そうやってしまうと、本質が鈍ってしまいます。 

○わからなくても気づく 

 これを自分の呼吸の方に乗せてみたら、こんなものが出たというのでよいのです。今はそのデッサン練習をやってください。自分を知っていくことが、1年目の課題です。  例えば、このクリスコーナーが、クラシックの歌手をみて、よいとは思うかもしれませんが、そうなりたいとは思わないはずです。自分がそういう声を出すよりも、もっと楽しく、気持ちよく歌いたいと思っていたときに、そこで自分が勝負できるものが必要で、それは自分を知るということです。  その代わり、もっと繊細な感性とか、もっと違う意味での音楽性を出していかなくてはいけません。持っていても、出していかなくてはいけないのです。  今やっていきたいことは、それがあとから変わっていく部分です。こういう最後の部分も、気持ちを離さないでいたら、そういうふうに声が使えているわけです。やはり心の部分と呼吸で捉えることが大切です。

「ラヴ イズ ウェーリング ヒァー」

 なるべくシンプルにやっていくということです。彼女のように歌までやらなくても、まだその歌のベースの部分でよいのです。ただ、そのイメージを何も持たずに、声も握っていなければ、単に声を垂れ流しているだけになってしまいます。それはだらしないだけです。いくら体を使っていても、それでは歌になりません。それはなぜかというと、一つの点できちんと捉えずに、焦点が曖昧になっているのです。  今やっている練習は、素振りだったり、デッサンなのですが、そのときの要素というのは、それで完成されているということより、その人が呼吸を少し変えてみたら、いろいろと動いてくるだろうという可能性の部分です。それには当人が声を握っていて、方向性を出していることが必要なのです。感覚を鍛えるというのは、楽譜に書いてあるものを、どういうふうに自分が持っていくかということです。 

 私のレッスンは、わからないといわれるのですが、生の音から気づくことが大切なのです。できないということが自分でわかれば、それが一番よいレッスンです。簡単にできてしまったというのであれば、もうレッスンをやらずに歌っていればよいのです。  今の失敗というのは、音が取れるとか取れないということではなく、自分をそこにセッティングすることができていないことです。それは慣れていくしかありません。いくら画用紙があっても、その周りに描いてみても、みんなにはわからない。紙の中に書くことです。 

 そういう意味では、今は自分が歌いやすいところではなく、体と心と声が一致できる、感覚のところでやっていくのです。日本人の場合は、日常の中でケンカでもしない限り、音声で表現しないので難しいと思います。そういうところと歌は、基本的には同じ部分なのです。  今はそのセッティングをつけていくということです。自分の頭で考えてやっても、それは違うだろうというものしか出てきません。そういうことは家で何回もやってみて、ここに来たときには、そのうちの一番よいものが取り出せるようにしてください。 

○肉声感覚 「カンバックトュ」 

 音程の問題を全部抜かしてみても、いつも「ハイ」とか「ライ」でやっているところを、こういうところと結び付けなくてはいけません。これを頭で考えてやってしまうと、だんだんそれてしまいます。今はど真ん中で振り切り、ホームランが打てるところで、なるべくそれを体でコントロールすることが大切です。  「タン、タン、タン」という3つの置き方をイメージして、今は体の一番根本のところで捉えて、この3つの間に、呼吸を入れて自分の肉声にしていくのです。それぞれでも若干差がありますが、それはスタンスの問題もあります。時間が解決してくれることもあります。  要は、何ヶ月もかけて、自分の状態を有利に変えていけばよいのです。他の人のを見てみて、あいつの感覚は全部読めると思ったら、大した歌は歌えないのです。読めてしまうということは、その人の真似ができるということなのです。 

 いろんな人の声の出し方がありますから、そういうものから勉強してみてください。ここでいっていることは、少々真面目で面白味にはかけるかもしれません。まず基本のベースの部分で、息と体を外さずに出てきたものを、大事するようにいっています。最初から完成形を求めて作ってしまうと、あとから伸びなくなってしまいます。常にそことレッスンを結び付けて欲しいと思います。  日頃やっている「ハイ」とか息吐きの練習が、いかに歌と密接に関係しているのかということです。入ってくるときは、大体みんなバラバラでしょう。ことばの練習張を作ってみても、オレは役者になるんじゃないとか、こんなのは何も意味がないと思ったかもしれませんが、ことばと歌の世界は、同一線上にあるものなのです。歌の世界でも、それがそのまま使えるような部分がいくらでもあるんだということです。

 今まで歌っていたといっても、単に音を当てて、エコーをかけて歌っていたという場合が多いわけです。すごく雑なコントロール、雑な感覚でやっていた場合が多い。でも他の部分でステージは成り立っていたという人もいると思います。  それをここでは音の世界だけで見ているのです。その音がきちんと提示されて、その音が音楽的に気持ちよく伝わるために、どうすればよいかということです。  最後の終わり方も、日本人はこういう終わり方はしないと思います。よく聞くと、自分の絵を音の中で描いているのがわかると思います。このどの部分が音楽的な感性なのかということは、自分で判断していく。そういう部分は日本のアーティストもみんな持っています。それぞれの勝負どころは知っています。そういうものも勉強してみてください。 【「クリスコナー」00.8.13】

○イメージと聴く力 

 この前の合宿では、課題曲から脚本をくみあげ、それを音の世界にもっていき、ことばと音でつないで表現するステージを、25分をやりました。  自分がどこで勝負ができるかということを知っていかなくてはいけません。自分がやったことに対して、それをフィードバックしてより正しいものをとっていくことをやっていくのです。  いろいろと必要なことがありました。筋力トレーニングや、心肺機能のトレーニングも必要です。集中力を高めることも大切です。今回は2年前後の人が中心でした。期間は関係なく、トレーニングをきちんと積んでいる人、基本がきちんとできている人というのはすぐにわかります。 

 ポップスの場合は、声楽からみると、間違った発声が作品に使われていることが多いのです。でもそれを間違えだとすると、その人の個性の中のある種一番いいところがなくなってしまうこともあります。そこが難しいのです。  人間の体の原理として、声の出てくるシステムの部分は同じ、声楽の場合と違うのは、上に立つところの出口が決まっていることです。始めに音が決まっていて、音が下げられない、移調できない。ということは、そのキィまでの音域をとることが絶対的な条件としてあるわけです。すると取れないような声の出し方をしていると、間違いということになります。 

 でも最初はよくわからないのです。大体は、それが正しいとか、正しくないと判定できる以前の状態なのです。声というのは自分の思ったとおりに出ます。自分で思っているのと違う形でできている人もいますが、少なくとも自分が全然イメージしないようには出ないと思います。  ピアノというのは、勉強したらある程度までスムーズに上達していく。というのは、ミスタッチしたら、それがすぐに跳ね返ってきて瞬時にわかるからです。歌の場合は、音程ミスでさえ、どこがややフラットしているとか、シャープしているとか、なかなかわからないのです。発声に関しても同じです。 

 今みたいに声を回している時に、どれくらい声を聞き込めるかということです。それを自分でフィードバックして、それに対して調整する機能がどのくらい働いているかということです。  だからステージでも同じですが、自分で引き受けなくてはいけません。今のでも、何人かの人はピアノに反応していますが、あとの残り大勢は周りの声に反応して出しているのです。もうすでにそこで遅れているわけです。 

 東京では、クラスが5つに分かれています。入ったばかりの人とは、立っているだけで、顔つきからして見ただけでわかります。眠そうな人なんかは上のクラスにはいません。初めての人たちがダメということではなく、そういうふうに体や心の状態も変わっていかなくてはいけないのです。  レッスンというのは、自分が先に何か出して初めて成り立つものです。自分の中でそういうものをコントロールしていかない限り、常にオンしてはいけないということです。  レッスンに来ることはできるし、声を出すこともできます。それはその辺の高校生でもできるのです。 

 ある時期おかしくなるのは構わないのです。本当に基本を身に付けるということは、自分が出したものを、感覚の中で正していくということです。例えば、息を吐けるようになる、体が使えるようになる、大きな声が出るようになると、どういうふうに自分で選んでいけばいいのかということです。やっているうちにいろんなものが出てくるのです。それを我々が選ぶのではなくて、本人が選んでいかないといけないのです。  器が大きくなればなるほど、その中でどれを選び、他の全てのものを捨てていかなくてはいけないのです。そういう感覚をきちんと働かせているかどうかです。そうしないとステップはアップしていきません。 

○走らせていく 

 たったひとつの「ハイ」からでもいいのです。ピアノと一緒にすぐに「ハイ」と入れる人と、すぐにパッと入れない人では、それが明らかに大きな力の差のひとつになってくるということです。  楽器を弾くように、自分の中に音楽を走らせていくということは、大切なことです。声の世界、音の世界は見えにくいものです。  初心者の人は、頭で計算して考えているので、リズムでも遅れてしまうのです。上のクラスであれば、15分で1曲終わってしまいます。20分後にはメロディが完全に頭に入ってしまいます。

 日本語はつけますが、中にはイタリア語でやる人もいます。  その人の中に音楽が入っていたら、それをベースに音楽は作られているわけですから、そうすると、新しく覚えることというのはほとんどないわけです。その人の中にどんなにイメージがあっても、どんなに考えていても、出たものでしか判断できないのです。出たものの中で、どこが悪いかを本人が踏まえ、何が足らないかを付け加え、そして変えていかなくてはいけません。 

 1回目やったことと、2回目やったことが何も変わらなければ、その人の中で何も働いていないということになります。  そのレッスンで何がやれるかということよりも、レッスンでやったことができていないということをきちんとつかんで、家に帰ってから補充しておいてください。だからまず他の人の声や作品に厳しくなってください。そうしないと基準ができていきません。 「ハイ、ハイ、ハイ」  基本ができていない場合に、トレーニングが成り立たないことがあります。今やりたいことは、息とか声の方に神経がいくようにしておくことです。  ストライクゾーンで勝負しなくてはいけない世界で、ボールのくそっ球とか、ワンバウンドしたものまで、全部を打とうとしているような気がします。必要がないものは、切り捨てていってよいのです。 

 確かに音楽は自由だし、ポップスというのはいろんなものがあります。しかし、基本の勉強をするときには、一応そういうものを外してみなくては、どれを選ぶのかというのがわかりにくいのです。  だから人間の体の原理に基づいたところで見ていかなくてはいけません。自分の自習練習というのもあります。歌というのは本来、人前でやるのが前提ですから、そこで何を奏でられるかということを自分が実感しなくてはいけません。その実感があって初めて、他の人たちに伝わるということなのです。  1年くらいはほとんどよくならなくても、2年くらいは力が伸びなくてもいいのです。それでは何にもならないと思うかもしれませんが、全く声しか響いていない空間において、声というのはこういうふうに聞こえてくるということがわかってくる。それとともに、力がついてくればよいのです。 

 半年前に比べ、今はこんなふうに歌えている方が最初はよかったけれど、声も全然変わらないし、一人よがりのままだというより、よい。そういう判断がついてきます。「ハイ」をもう一度やりましょう。  他人の中で自分のことを判断する、そして自分の中で他の人のことも判断することです。他の基準からいったら、違うという高い基準がもてると思います。基本的にできるということを、問うのであれば、他の才能で外の世界でやっている人はいますが、音を問うこと、声で問うこと、それがあろうがなかろうが、オリジナルのフレーズ、音楽の中で働きかけられるようにしていくことが表現です。今考えてほしいのは、レッスンも含めて可能性です。こいつは何かなりそうだなというものを出してもらえればいい、それだけです。 

○働きかけ 

 いろんな思い込みの中で声が扱われています。こうやって全部真似されてしまうということは、感覚として鈍いわけです。  野球でも、感覚的に打点のところに最高のスピードで送り出すのです。バレーでも、全身を使って、一番自分が、物理的現象として力が出せるところにボールをもっていく。体を一つにして使うということは、声の場合はスポーツよりも難しいことです。歌ももっと難しいです。それはイメージした通りに、できてしまうからです。 

 スポーツの場合は、肉体的限界とその問題がすぐに突きつけられますからわかりやすいのです。こんなことをやっていても通用しない、無理だということがわかるのです。そうすると、試合をやらないで基本のトレーニングをやります。  歌の場合は、大きな声が出る、高い声が出るというだけで、歌だと思ってしまう。そんなはずはないはずなのに、実際に自分でやったときにそれしか見えなくなってしまう人が多いのです。 「ハイ、ララ」  単純なことですが、働きかけてくるかどうかです。「ハイーラーラー」だと思ってやっている人は、これ以上のことはできません。それを許してしまう自分を変えなくてはいけません。 

 できないのはよいし、体がまだ伴っていないのは仕方ないのですが、それよりも先に感覚が伴っていかないと、直らないのです。  そのことを伝えることは難しいです。その人の中で「ハイーラーラー」という感覚しかなければ、「どこが悪いんですか」と聞かれても、「通用しない」というしかないのです。他の世界、スポーツとか、学校の勉強とかは優秀かもしれませんが、ただ歌とかトレーニングに関して、そのテンションでやっていても仕方ないということです。  そんなことに自覚がある人であれば、くる必要はありません。自分でやっていればうまくなります。普通の生活の中で実践している人がヴォーカルにはたくさんいるのです。これが楽器と一番違うことです。 

 日常の生活の中で、声を使うことに関して、それだけの厳しさを要求されるような世界もあります。そうすると、そういう中から、表現力を獲得できる人というのは、稀にいるのです。  周りの人に合わせないで下さい。それは、どこにいってもいっています。他の人に合わせていたら、全部間違いになります。それが集団でやるときのデメリットです。それが悪いのかというより、それに気づかない方がおかしいのです。自分でおかしいと思うものは、おかしいのです。どれだけ、それはおかしい、違うといえるかという世界です。そういうことでいうと、ステージの基準というのも簡単なことなのです。 「お前を」「あなたを」  目をつぶってみて「私は」だけでやってみましょう。それで自分がよいと思ってしまったら、それでよいのです。「私は」の練習をやるのは、ことばとか、声に対して、それだけ神経を働かせるということです。 

 それがわからないうちは、わかろうと努力していかなくてはいけません。でも本気になってそれを伝えようとしたら、相当伝わるものなのです。そのときには、自分のよい表情とか、表現が出ているはず、あるいは出せるはずなのです。それは音楽とか、歌から考えてもみたら、かけ離れてしまいますが、年月の問題です。  才能の違いでも何でもありません。自分で「お前は」といってみて、それをOKにするか、嫌だと思うかどちらかです。それはよいものを聞かないとわからないのです。それはその人がどこをとり、どこを捨てるかというような、その人の本当の内部での判断力になります。そういうことを実感していくことです。  今はできなくてもよいのです。できたと思った瞬間、そこで進歩が止まります。できていないということが、どういうことなのかを少しずつ感じて、感じていたら、やがて力をもつようになってきます。 【京都 基本の基本 00.5.3】


特集:福島英対談集vol.3
[H氏と]

F:高校生を入れたときは、声楽からやらせました。ポップスでやっている人間は自己流なので、音大に入れる力を10代のうちはつけていたほうが、何かといい。その考え方は今も変わらないのです。
一般的に声が、昔から見ると弱くなっている。役者さんもタレントさんも。ですから、今、合唱やミュージカル、オペラも、あと30代くらいの一般の方々も、トレーナーのなかで二期会の方などにお願いしている。

とにかく2年3年やって、何かが変わらなければいけないのに、あまりに巷をみて、ポップスの場合は何年たってもその人が何も変わっていない。声楽というのは、とにかくちょっとは変わる。本人もまわりも自覚するでしょう。
トレーニングというのは、誰でも効果を出さなければいけないということです。ポップスはいろいろな逃げが入ってしまうのですね。

それとはっきりと上達ということを考えたときに、基準というのは、まわりがうまくなったねと言うレベルで、それは何となくオペラっぽい声だねとか何となく平井堅に似ているねとか、結局他人の基準なんですね。
そこと、プロの現場で、この子でやっていくぞというときは、それから離れていかなければいけない。どんどん似ていってはまずい。
これは平井堅さんに似てきたからやめなければいけない、あるいはいらないということになってしまう。そこが根本的に違う。
それとご存知のように、楽器のように技術能力だけではなくて、音楽、歌に関しては、昔よりも複雑になっていると思います。
今、一番声をていねいに使っているのは、朗読家の方ではないかと思います。

H:そうかもしれませんね。

F:かえって、歌い手、まだミュージカルは声楽のベースの上でも、合唱団でも場所によっては声を声楽上のベースに使いますが、ロックやポップス、ラップになってくると、いい声が聞こえてくると、そのことが古い、あるいは昔っぽいということになる(笑)。だから本来であれば、劇団○○のトップスターがシングルで出しても、大ヒットしなければおかしいのですが、絶対にありえませんよね。その辺が現場とどんどん離れてきています。

H:けっこうたくさんいろいろなものが詰まっているのですね。詰まっているのですが、コンピューターと一緒で正確なボタンを押していかないと(笑)。レッスンを始めていくと、自動的に身体がついていくのですが。

私は基本的に高校の教師でしたのでね、中学小学校の話があったときに、はたしてできるのかどうか、まったく自分でも未知数だったのです。何度かやっているうちに、なんだ、別に変わらないじゃないかというのがあって(笑)、年齢が上がれば上がるほど、これは一般の合唱団でもそうですが、故障が多くなります。癖も多くなるので、指導力の問題になってくる。中身や知識だけではなくて、合唱なんかの場合は、カリスマ性がどれだけ高いかということになる。

F:結局、場のセッティングから、その人の性格、あと考え方の癖というのもありますよね。先生に会ったときに、小学生みたいな感じでないと、全体が動かないですからね。

H:私は、自分では、レッスンを頼まれたときにでも、合唱の場合でも基本的には、音楽にさわらないことを条件に引き受けるのです。だから、職域を侵さない。

F:いわゆる声と身体のほうにという?

H:はい。だからこれをどういうふうに表現したらいいですか、こっちのほうがいいですかというのは、それは指揮者が決めてくださいと。もちろん、こういう声を出したいので、どうしたらいいのだろうということは、ありますけれどね。

F:歌のほうは、指導者の先生の価値観なりに、任せたい。でも音大もですが、いまだに声だけのことを扱われる方って、ほとんどいらっしゃらない。いきなり歌唱レッスンです。

H:たぶん、いないでしょうね。

F:合唱というのは、演奏の力というのと、声の力というものがどう関係するのか。声のところで理想的なことをやれば、そのまま歌唱力となってアップしていくものなのですか。

H:私のやっていることは、鮮度を高めることです。つまりひとつの料理として出てくる曲、素材の声の鮮度を高める。だから、ルネサンス語であろうが、現代日本語であろうが、ミサ曲をやろうが、どういうふうな器に盛られてくるかは別として、そこに盛られてくる器のなかに入れる鮮度の高さを保ったり、回復させたりする。それがトレーナーの仕事だと思っているのですね。

コンサートやコンクールが近づいてくると、どんどん上からプレッシャーがかかってきて、多くの場合はいじけてきて固くなってくる。そのときに、リフレッシュさせて、いろいろ詰まっているものをとってあげるということさえすれば、その先にことは、音楽屋さんやってねという。だから私は、自分が音楽家という自覚がほとんどない。

F:発声という部分があって、歌唱がこうあると、この発声の前に、いわゆるメンタル的なトレーニング、イメージ的なトレーニング、それから身体的なトレーニングですね。この3つのことと、発声というのは、比率というのはどのくらいですか。それともそういうわけ方ではなくて、もう一色なんですか。

H:私自身は、3つの要素だということを、いつも主張していたのです。つまり、心と身体と技術ですね。、どれがひとつ欠けてもだめなのだけれど、アマチュアや学校でやっているようなことからすると、メンタルの部分が7割近いのではないかと思っているのです。メンタルな部分と、それからハードウエアの部分、楽器の手入れの問題、これだけでほとんどすべて。

それをどういう処理をしてどういう表現をするかというのは、まさに学校合唱団でも普通の合唱団でも、指揮者次第ということがあります。
学校の場合は、指揮者が、何年いるのかわからないのですが、一番歌える子がいても、いつも卒業しちゃう(笑)。それで、わけのわからない子が入ってくるという試練が毎年ある。その試練を試練として考えるのか、逆に淀まないで済むと考えるのかということだと私は思っています。

F:合唱ということでは、ゴスペルや一般の方で関わることがあるのですが、中学生のなかで、ソロというのはあまりないわけですよね。

H:なくはないですが、コンクールを主体として考えるのかです。私なんかはコンクールはどうでもよかったのですね。子供たちの、小中高ということで考えたときに、精神衛生の問題というか、情操教育の問題としてしか捉えていなかった。

F:私のイメージで、養成所と学校。学校というのは、小中学校よりは、音楽学校に呼ばれたりして行くのですが、そこは、落ちこぼれをなくし、底上げをする。いわゆる一番うまい子がいたら、せいぜいその子のレベルのちょっと低いところに、全員をそろえることが目的になっている。養成所というのは、とにかく抜きん出た子だけを引っ張っていこうということで、後の子が悔しいとがんばったり、辞めてしまうことも含めて、スポーツクラブみたいなところがあるわけですね。学校というのは、優れた子が出ればよくなるのか、それともトータル的な底上げか。ヴォイストレーニングとは違って、歌唱の問題になるのでしょうか。

H:合唱のためのヴォイストレーニングというのは、いくつかの問題点があります。たとえば、間違えるくらいなら黙ってしまうというのが、合唱団員。合唱団員はマゾかということを、いつも言うのです(笑)。

F:私の合唱のイメージは、どうしてもウィーン少年合唱団のようなものです。「天使にラブソングを」のゴスペルのように、ひとり一人がワーッとやって、それぞれの力があって混ざり合って、誰かだけがバーンと出したりもするけれど、モザイク上にある。それに対して日本は、出る子は抑え、出しすぎる子も抑え、とにかく全体の調和を見せていくイメージが強い。これは昔の感覚でしょうか。

H:はい、いやあ、多いですね。実は、それが合唱の一番大きな問題点だと思います。そういうふうに思われるのが。

F:柔道部員の、ガタイのあるでかいのでワーッとやった合唱、そういうものが優勝するように認められるだけの幅はあるわけですね。

H:あるけれど…。私はずっとそっちのほうを目指していたのです。私がこういう仕事をはじめたきっかけも、基本的には1対1、全体を見るというよりも、とにかく個、だから合唱の組織というものは、その組織であることによって、組織の宿命によって、その個が動くことを嫌うわけです。

H:だから、合唱というものは、少なからずともファシズム、よくも悪くもね。そのいい部分ではうまくいくこともあるし、悪いときに、合唱をやっているのだけれど、落ちこぼれてしまう子、合唱のなかに何があるのかわからなくなってしまう子がいます。そういう子が救えないようなら、学校で合唱をやっている意味があるのかという発想です。そんな偉そうなことではないのですが、私はどこの合唱団に行っても、マン・ツー・マンのトレーニングをするということです。そういう条件でないと行かないということもあります。

F:その人がミュージカルやゴスペルをやるとかいうなら、目的に合わせて、かなりその人の声のイメージよりも、声楽で音域を確保しないことには見込みがないとなる。原調を歌わされる場合が多いですから。
そういうことを念頭に置くと、本当に一番伸びる声でなくても、まず最低限、下手でないように、音大の基準と同じかたちをとらざるをえないというのもあります。

合唱なんかもそれぞれの個性といっても、ソプラノ的な要素が強いでしょうから、たぶんそっちのほうに引っ張られていくでしょう。そのなかで、そこと調和する声と、いわゆる個性的な艶のあるような声で、小中学生はともかく、必ずあると思うのですね。
でも、合唱団員ということでは、すごい変わった声というのは、入団の時点でフィルターにかけられているのでしょうね。

小学校の合唱というのは、面白いんですよ。本当に聞いて、感動したりする部分がある。うまくなればなるほど、テレビなんかでもよく、テレビで見てはいけないのですが、たまにいい瞬間はあるのですが、なんか方向的に眠くなるというか、芸術的なものとはちょっと違うところ。皆でやっているシンクロという快感はあると思うです。音楽である以上、それ以上のものは、合唱のなかにも当然あるし、皆さんそれを目指されていると思うのですね。

H:その辺は、うーん、どうしたらいいのか。

F:小学生は地声で歌うのですか。

H:地声の定義によるのですけれどね。私自身は、そんなのどちらでもいいと思っているのです。というか、ちょっと書きましたが、地声か裏声かということばの問題はおいて、3種類あるのですよ。要するにウィーン少年合唱団のように、完全に頭声でなければいかんという、絶対・頭声派2割と、それから、演劇をやっている人や、ゴスペルやミュージカルが好きな方に多い地声派、確信犯的に、頭声などというふやけた声では、子供らしさがなくなると、地声でガーッとやらせてしまうという、アンチ・頭声派1割で、あとの7割はうろうろうろうろしている(笑)。
だからまさに、そのうろうろしていらっししゃる方が、納得できるような言い方をしなければいけない。ただ私は、それの基準をどっちにやろうとかまわないけれど、子供がいきいきしていないといかんし、それから指揮者が、音楽を根絶しないこと。

その先生が振ると、全国大会に行くのです。行ったはいいけれど、その合唱団員は、その後二度と合唱をやらなくなる。合唱をさかんにしているようでいて、合唱のなかでとてもすばらしい活動をしているようでいて、そのときの優秀な合唱団員はつくっているけれど、合唱や音楽の面白さなりを知らせず、一種の燃え尽き症候群を生み出している。そういうやり方に対しては、私は嫌だと言い続けているのですね。歌うということは合唱でなくとも、どんなかたちをとろうが私はいいと思う。歌うことそのこと自体がそこで終わってしまうような合唱をやってほしくないと思ったのです。

F:それは、優勝するには、スポーツでも何でも、相当苦しい。スポーツなんかはもっとハードですよね。徹底的に身体も精神も使い込んで、優勝すると、もう練習は嫌であんな経験をしたくないと思っても、やっぱり味わうと、結果の充実感を求めて、違うスポーツに行く場合はあると思います。何かしら、そこで評価を与えられたというのは、いい想い出になりますよね。合唱の場合は、そういう感じにはならないのでしょうか。

H:スポーツの場合は、ある意味、客観的に、記録や勝敗がはっきりわかるのですね。ところが合唱は、コンクールも、極端なことを言うと、どこまで編集してくださるか(笑)、たとえばある県のコンクールの審査員が何とか先生だということになると、あの先生は、この曲のこういうのが好きだからというのを自由曲に選ぶというような、そういうことがあるでしょう。だからグレーの部分がありますよね。

F:いわゆる現実的な評価の難しさですよね。

H:はい、だから、何が何でもコンクール主義みたいなところに対しては、私はわからないですね。教師同士はお互いにけん制する部分があるのですね。私は何を基準にしているかというと、どういうところで評価できるかというと、生徒が明るい顔で接することができるかどうか、これだけなのです。数学や英語はちょっと別、ただ明るければいいということではないのですが、音楽をやって暗くなるというのは、これは音楽家の風上にもおけない。

F:少なくとも音楽、美術、体育というのは、いわゆる5教科とは違いますね。

H:たとえば歌うことや演奏すること、ステージでやることに関しては、分け隔てしないというのは、ずっと私のスタンスだったのです。たとえば合唱部と応援団と、軽音楽と、カラーが違うわけですね。たとえば、軽音楽やロックバンドに対して、ブラバンというのは、半官半民のようなものでしょう。学校の野球部の応援に行ったり。ロックなんかはアウトロー的なもの、評価がまるっきり違うのですよ。

だけど私は両方の顧問をやるわけです。そうすると交流が始まるわけです。こちらではめちゃくちゃドラムを叩ける奴が、こっちに行ってやってみたり、こっちのちょっとジャズに興味を持っている子が、こっちでソリストをやってみたりという、そういうクロスオーバーがよい結果を生み出す。
我々はすごく頭が固いと子供たちに思われている。だけど今の子供たちのほうがずっと頭が固いから、だから閉鎖してしまうのです。自分の小さな世界で。

だから何だあいつらではなく、あいつらのなかにも面白い奴いるじゃんという、こういうことができることが私は一番いいことだと思っている。それでいけば、合唱も何をやってもいいのです。民謡ばかりやっていようと、ミサ曲ばかりやっていようと、その遊ぶものがボールであろうと水であろうと、何でもいい。その遊び方が、つまらない遊び方をしてほしくない。だから、その遊びをすることによって、学校が有名になるとかいうのはどうでもよくて、本人たちが健康で楽しんで遊べるということが、大切です。教員の理想主義的なところがあるのですね。

F:いわゆる生徒と教師がどっちが主人公かというところですよね。日本の場合は、音楽でもコンクール主義です。何かひとつをやっている奴は、他のものをあまり聞かない。困るのは、音楽の研究している人たちが、クラシックしか音楽と思っていないことですね。

H:とんでもない話ですね。私がしょっちゅう聞いているのが、儀太夫とか新内とか。

F:私の知り合いの邦楽家ですが、学習要項に邦楽というのが入ってきた。それを一番避けていて、歌舞伎さえも見たことのない音楽の先生方、普通のおばさんでも見たり聞いたりしてきたものさえよけてきた人に、なまじさわって、中途半端に伝えてもらうのは、ありがた迷惑だという(笑)。洋楽ができた人は、洋楽で教えてくれたらいいので、そんなところに苦手どころか好きでもない邦楽をちょっと、やられてしまうと、かえって誤解を与えてしまう。もうやってきたことだけをやられたらいいのにという話になった。

H:おっしゃるとおりですね。日本食堂の、要するにカレー食ってるとなりでラーメンを食っていて、そこで寿司食って、お子様ランチが出てくるというもの。
そういうのって寿司食うのなら寿司やに行きたいじゃないですか。ラーメン食うなら、とりあえずラーメンの専門店に行けばよい。
今の学校、そうなっちゃってますよね。だから、もっと狭くていいじゃないかというのは、ずっと思っています。

F:そうなんですよね。最近のを見ていると、僕らも勉強になるのですが、合唱の本でポップスがどうこうという、そのタイトル自体が無理しています(笑)。学校の教育は、ポップスをやらなくてもいい、本当に日本の昔からの曲、我々が教育を受けたときには、ビートルズなど入っていなかった。だからといって、そんなに悪い歌ではないし、むしろ昔の人がずっとやってきたものを捨ててしまって、新しいものを入れて、それで替われるのかという気がするのですよね。

H:それはそうかもしれない。ただ、私は音楽という教科そのものが、開口部でなければいけないと思っているのです。開いている部分ね。子供とか、社会の風潮におもねるというのではなくて、たとえば小学生であれ中学生であれ、高校生であれ、「俺たちこんなものやってみたいよ」といったら、じゃあやればと、クレヨンしんちゃんみたいに答える。その場所として、数学でそれは無理だと思うのですよ。

F:よっぽど頭のいい子でないとね。

H:頭のいい子が個人的にやるのはいい。フェルマーの定義をやってみたいと言ってきても、やればと言ってすむものではない。
たとえばまったく楽譜なんか読めないんだけどギターがやりたいときたら、やればと言ってやらせる。ピアノを教えてくれなんていう子もいるわけですね。楽譜は読めない。じゃあ、お前、ドミソのコードだけ覚えて、C のコード覚えれば、あとはDもEも覚えられるから、それとマイナーの区別がつけば、3音目の音が半音低いだけなんだから、このコードを覚えちゃえば、ほとんどのポップスの曲はコードだけで書いてあって、できるんだからと言っている。

だから私の楽典の授業は、コードだけなのです。コードだけ覚えればいいと言っている。いまだに普通の学校で、受験生や音大は別として、高校あたりで、C D E F(チェー デー エー エフ)でやっても、結構。一点ハとか2点ロとかやっても、世界に行けないと言っている。だからやるならA B C(エー ビー シー)をやれと。
小学校にA B Cを教えると、指導要領の問題で、英語を教えてはいけないことになっていたから、イロハでやって、中学校だったら、A B Cくらいはできる。まさに音楽のそのあやしいところ、あやしいところを私はゲリラ的に変えてきた。

F:うちも音大生、ポップスの人よりは教えられてきた体験があると、採用する。そういうことでは同じ力では音大の子がよい。リズム感のあることが条件ですが、それだけピアノをやってコードがみたことないとかいう。ちょっと人間的な関係があって音楽をずっとやっていたら、普通はどこかでちょっとは覚えたりするというところを全部飛ばしている。極端に差がありますが。だから、きっとすごい狭い意味での音楽というものがあって、もっと生きてきているなかに密接に関わってきている音楽というのも、あったはずなのに、学課としての音楽になっている。
今はベースが非常に弱くなっているから、特別な教養分野のようになる。元々音大に入る子というのは、親が習わせた部分があるから、それはわかるのですが、それが開かれていかないというのは不思議、象牙の塔。

プロの世界も、日本の場合は、シャンソン歌手やジャズ歌手と、何かジャンルを区切らないと、本当にやりにくそうです。
他のジャンルとの共演というのは、本当に一流の人たちは分け隔てなくやっているから、それを見てやり出している感じです。やっぱり、偏狭セクト主義というのはありますね。

H:一番わかっている人は、上で楽しくやっているのですが(笑)、中途半端なナンバー3や4あたりが一生懸命固めようとしている。

F:それでこれをやっちゃいけない、あれをやっちゃいけないというのがあると、子供の考えもそうなる。私はなかに来ている子を大事にしていて、外の子を見ないというのではなくて、むしろ外の子を見ていて、なかにいる子も早く出ていったほうがいいという、要はこれだけ情報が入る世の中なのだから、とにかく学びたいところにどんどん行って、それで混乱するも何も、よい経験です。
決められたものをたくさん覚えないと、どっかで思い込んでいたら、そこだけでしかやっていかない。考えるための刺激が必要です。

私は、できるだけ複数の先生をつけるのですね。どうしてもタイプとして、混乱する子がいるので、その子の場合は、ひとりの先生につけるのですが。ポップスだから、とにかくいろいろな人間がいて、いろいろな教え方があって、どれもあまりたいしたことないんだよということをわからせたい(笑)。
一番困るのは、先生に人生預けます、と来る子で、これはないがしろにもできないわ、引き受けるわけにもいかないわ、どうやって生きていくんだろうということのほうが心配になってしまうのです。

H:私の場合には、そういうタイプの人も多いのです。他の先生では面倒みきれない。夜中に電話をかけて、今から死ぬの生きるのみたいな、そういうことを対応できる、ふつうの歌の先生はいない。
別に対応できるわけではないのだけど、しょうがない。そういうところから頼まれて、何とかならないと言われるから、一応来てごらんと話しを聞く。

その人の声、今現在の声というのは、その人の持っている半生の投影だと思っているのです。だから、ある種のふつうの、会話のゾーンのこういう声はここのなかに入るのですが、ちょっと歌ってごらんというと、全然違った変化をしてしまう。
コンコーネの50番は、25番のなかの5番を初見で歌ってごらんと、ちょっとプレッシャーををかけたり、違う角度になったときに、声がどういうふうに変化するのかというのを見ていく。結局相手の心のあり方とか、身体の癖とかが見えてくる。それを直すというよりは支えてやるだけで、声が変わります。
その声が変わって、どっちがいいと言って、こっちの方が楽ならこっちにしなさい、さっきの方が楽ならもちろんさっきのでいいよ、というかたちでやっていく。

ところであんた何したいの、常にそれが問題なのです。あんた何をしたいの、ということ。声を出すのを手伝うことは、私は職人だからできる。その上であんた何をしたいのと言ったときに、実はミュージカルをやりたいとか、オペラ歌手になりたいとか、実は歌なんか歌いたくないんだという子も含めて、いろいろです。たぶん私は、砂漠にひしゃくで水をまくようなものだと思っています(笑)。私なんかは意地になって歌をやってきた。アマチュアの合唱のなかにも、結構意地になってやってきた人もいる、意地だけではだめだから、ちょっとここのところ、こういう力を入れてごらん、ほら変わるでしょうというところから、入ってきた。

F:皆、嫌いではないのですが、学校の場の音楽と、それから教育としてなされる、まして合唱団というかたちでやられているところが、普通の若い者同士が、カラオケに行ってみたり、その辺で自分たちでバンドを組んでみてやっているものとまったく正反対の世界に位置してますね。

H:うーん、そうも見えるのですが、ポップスの子も多いのです。たとえば、要するに合唱なんか大嫌い、あんなもの嫌だと、私たちは私たちで勝手にやるんだと言っているほうがたくさんいるのです。
でも、どうしてもこの音が出せないのだけどという、ちょっと声を出してみと言って、声を出してみると、合唱団員の声とは違うけれど、ざーっと出して、それなりに無理をしているところがある。じゃあ、ここを押さえているから、ここに力を入れて出してみと言うと、あっ出たとなる。そうするとお互いにやってみるんですね。

だから、先ほど申し上げられたように、壁が正反対にあるように見えるのは、実は、大人の世界以上にもっともっとこわがって、小さいところで小さいグループをつくってびびっている状態が今の若い子なのです。
だから私は声に対するのは、知識や技術でなく、人間は話せる人なら声は出せるから、誰もが持っているものを使って、よぶんな隔たりをなくしていくということです。仕事というよりは趣味です。だから趣味で砂漠に水をまいていると思っているのですが(笑)。

F:だから、ひとりの子を中心とみたら、その子がハモネプやろうが合唱やろうが、バンド組もうが、どうでも好きにやればよい。
実際、中学や高校でブラスバンドをやっていたり、合唱をやっている子がバンドを組み出したら、かなりレベルが高いのは確かなのですね。スポーツだけやってきた子よりできるのは当たり前。ただそこに、当人たちの考え、合唱団や、プラスバンド時代に培ったところで、何か余計なものをたくさんつけてくる(笑)。

H:余計ですね、もうほんと。
ある合唱団は、中学校時代に合唱をやってきた人間は、入団資格がないのです。使い物にならんと言って(笑)。
ミューヘンバッハの合唱団、要するに音大を出てきたり、どこかで専門的に音楽を習った奴は、うちの合唱団には来るなと言って、アマチュアだけで合唱団をつくっていった。

F:ポップスなんかだと、オーディションをして、高い声が出たり、きれいにつなげる子というのは、大体そういうところの出身なんですよ。以前はプロダクションなんかは若い子を育てるのが面倒くさいから、音大にかわいい子をとりに行った。でも結局使えない(笑)。歌はうまいのですが、そのポピュラリティというか、同じ世代の子に受けるものがない。本人には思考力はあるし、私生活にはそれがあるのだけど、歌を歌うとまったくなくなる(一同笑)。

H:そうそう、いきなり婆さんになってしまう(笑)。

F:純化されちゃうんですよ。それであきらめてしまった。

司会
それは、中学なんかで何かやっていることによって、小さな音楽のスタイルができてしまったということですか。

H:私はすりこみだと思っているのです。だから、すりこみに対して本人は無意識的に反発はあるのですが、あんな合唱なんか絶対やりたくないとか、あんな先生絶対に会いたくないとか言いつつ、なぜか価値観だけは植えつけられてしまう。
だから、中学校でものすごく合唱を一生懸命にやっていて、全国レベルまで行ってしまったとするでしょう。そうするとその子たちが、高校ではバラバラになりますよね。そこで入ると、こんなちんけなのをやってられないという(笑)。ある意味で、高校の合唱部というのは、全然、歌えない人間の集まりなのです。ものすごく歌える奴は入らないから。

司会
そうなんですか。

H:燃え尽きちゃっているから、中学で。ちょうど高校野球で甲子園に行って、大学に行ってやらないような感じです。高校まで行けば、さすがに野球で飯が食えたらいいと思うから、野球部に入る人はいるかもしれないけれど、中学までは一生懸命合唱やったけど、もうやってられないという、そのやってられねえという人間をつくりすぎてしまっているかなと思います。むしろ、高校デビューした、歌なんか歌えないし、ギャーッとやっていたら楽しいからやろうと、バンドでもやってみるかという奴のほうが、高校からやったら伸びちゃう。

F:それは我々の世界でもそうです。レベルがそこそこに高くて自尊心のある子は、活動できていない。やっている子に比べ、あんなのとやりたくないと、何かしら小さなプライドができてしまう。
優秀な子なんかも留学したりすると、日本に帰ってくると、あるいは向こうに行くなり、感化される。
結局、私たちの世界は、現実にやれている奴が偉いのですね。だから、誤解を恐れずに言うと、いい歌っていうのは、売れている歌なのです。
ところがそれを低くみてしまうのですね。いわゆるアメリカよかった、向こうの先生はすごかった、俺らのやっていたこともよかった。

じゃあ、日本でやればいいのにと言うと、日本ではやれない。すぐに客やプロデューサーのせいにしたり、日本の悪いところばかり目についてしまって、外国かぶれなのです。
アメリカってすばらしい国だと、お前何人なんだということで、最近はもう行かせたくもない。
そもそも向こうに行きたいという時点で、すでに日本の現場で汗まみれでやっていこうという精神が欠如しているのです。向こうに行ったら、格好いいものを得られてうまくなれるみたいな、それはけっしていいことではない。それと何か似たものがあるのです。音大を出た人も。
先生のタイプを見てもそうで、気さくな方があまりいらっしゃらないで、やっぱり。

H:私は、先生と言われるのは恥ずかしいのですが(笑)、先生と呼ばれるのは慣れているけれど、嫌ですね(笑)。先生といわれるのはろくなもんじゃないと思っていますから。

F:先生もいろいろなものを背負われて、すごい大変そうにやられて、子供も同じものを背負って、何かそこで違うものをつくろうとしている感じがありますね。それは我々の世界も似ています。
ゴスペルでは、フェイクかけようとしたり、本場の人はしないで、ストレートにまっすぐ歌うと言っていました。そんな複雑なことではないと思うのですね。でもたぶん、どんどん何かしら複雑になってきて、何かしら違う目安や目標ができていって、何となく大らかさがなくなってきますね。

H:そうなんですよ。大らかさがないですね。要するにこどもが育っていくのを待つという、特に我々、中学校から高校にかけての、すごい成長期を見ているでしょう。そうすると、中3と高1の3年でも、まるっきり別人28号になるわけです。

その人の内面的なことも楽器、要するに身体そのものも、ハートも。だから、これは自論で証明しようもないのですが、高校1年くらいから大学卒業するくらいまでが、1年間に3倍ずつ伸びていくと思っているのです。
声の存在感、だから高2が1人いれば、高1の3人分、高校3年生が3人いれば、高1が10人分、ヴォリュームの問題ではないですよ。高校3年生がひとり入っただけで、合唱というのは高校1年生が10人いるくらいの存在感を増す。

F:それは男性も。

H:男性も女性も。ところが不思議なことに中3のほうが高1より大人なのです。考えてみれば、中3というのは中学校のなかのドンですから、ドンとしてもプライドをずっと引きずってきます。ところが一夜明けて、高1になったら、いっぺんにぶりっこになって、「はい先輩」といって、小さくなっていくのです。
でも、楽器そのものは成長していますから、それがずっと高3になって、大学1年生までずっといって、合唱やるとするでしょう。そうすると、高3のときのきらきらした存在感ががらっとなくなって、もう素っ裸の生まれたての赤ん坊みたいに、かわいいけれど存在感のない大学1年生になっていくのです。
だからぐーっときて、ガタン、ぐーっときてガタン、だけど中身の持っている潜在的な能力、存在感は年に3倍ずつ伸びていきますから、だから大学1年生と4年生、辞めてしまう人も多いけれど、4年間大学生をやっている子と1年生とでは、3の3の3倍、30倍くらい、4年生1人いるだけで、1年生30人いるくらいと同じくらい存在感がある。

声ひとつ出させても、同じだけの輝きというか、求心力が出てきますよね。邪魔さえしなければ。ところが多くの指導者は邪魔するんですよ。あるいはお互いに相互監視体制をつくって、こうじゃなきゃいけない、ああじゃなければいけないと、そんなものどうだっていいじゃないかと。
今、その邪魔をする、急がせるというか、速成栽培することをすごく学校現場に押しつけているでしょう。これだけのことをやらせなければいけないというような。だから、それはどんどんせわしなくなっていますね。ただ見ていれば勝手に伸びていくのに。朝顔の種を撒いて、水やって、肥料やって、咲けと言ったって何ヶ月かしなければ咲かない。それを咲けといって、やたら肥料を与えたり、日の光を変えたりしても、確かにそうすれば少しは早く咲くかもしれないけれど、非常に弱々しい。
たくましさが子供から失われているのは確かではあります。すぐ切れますしね。うちではどんどん切れさせるのです。泣かせてしまうしわめかせてしまうし。私のレッスン中に泣いた子は、必ず伸びるのですよ(笑)。

F:本来、そういうのは家庭とか友達関係のなかで経験してくるのですがね、それを経験してこないからですか。

H:いや、友達関係のなかでもやってくるのですが、友達のなかで泣いても、なぐさめられるだけなのですね。私の前で泣くと、そこを突っ込まれるのです。泣いていたってしょうがないのだからと。
面白かったのは、グノーのアベ・マリアを歌わせて、大学に入った子なのですが、その子はいい声をしている子なのです。ハイCなんかバーンと歌える子なのですが、自分で自信がなくて、あくる日試験というときに私のところに来て、どうしていいかわからない、どうしていいかわからないって、お前、今まで歌ってきたとおりに歌えばいいじゃんと。ピエーッと泣いて、不安なわけですね。
駅の手前に教会があるから、お前そこに行ってのぞいてみてきなと、彼女そのまま教会に行ったのですね。たまたま、何かのリハーサルか何かを聖堂でやっていて、教会は誰でも入れるから、入ったとたんにオルガンが鳴ったらしいのです。
そうしたらブワーッと、また泣いて、2時間くらい、別にクリスチャンでも何でもないのに、教会に座って祈っていた。だから本当の意味で、教会の雰囲気に触れたのですね。そうしたら、すっかり元気になってしまって、あくる日バーッと入ってきた。

私が気をつけているのは、結局、その人の声に触るというのは、その人の身体や心のあり方に、関与することになりますでしょう。だから引っ込み思案の子に声を出させるというのは、気持ちを楽にさせて、前に出させて、身体の開かせて、声を出させていくことです。
小学生から高校生くらいまではいいのですが、お母さんコーラスのメンバーを教えたりするのね。危険ではないんだけど、何て言うんでしょう、旦那様がやきもきしたりするときがあるのですね。要するに声の出し方を教えていくと、がらっと姿勢が変わって、まるでツバメでも飼っているような姿勢でパーッと明るくなって、そうすると、お前最近何をやっているんだと(笑)。
もちろん、そういう人間関係に関与するのは、面白いことでもあるのですが、気をつけないと、特に音楽や体育の教師というのは、直接その人の身体に触れるものですから、ただでさえ今、人間関係が、一見どうにでもなるようでいて、非常に希薄になっている世の中で、レッスンをしている間というのは、ある意味で濃密な時間を過ごすわけですよね。だから、その時間をどういう作り方をするか、私のなかで、きちんとしたバリアがないと。

F:精神科医と同じですね。

H:そうそう、同じです。教えるという仕事は、相手の長所に惚れなければ引っ張り出せませんから、私よりいい声をしている奴は嫌だと思っては、仕事にならないから、こいつはこんないい声をしているのかと思うからひっぱり出してくるわけであって、その惚れるということをしなければできない。ただ、要するにネット上の空間のように、レッスンの中だけでうまく解決させないと、ひきずってしまうのです。

F:すごく難しいですね、それは。

H:学校の教師のときには、ひきずってしまうということを、ちゃんと公言してしまって、特に相手は高校生ですから。グランドピアノをど真ん中に置いて、そこで発声練習をする。そういうかたちをとるほうがお互いに楽だから、そうなんですね。たぶんお医者さんや弁護士さんなど、相手の微妙なところに触れていかなければいけないと、できないみたいな、そのほうが効果的だというのでは。

F:そうですね、そこを無視するわけにはいかない。ただ、それはもう芸術上のこととかにしておかないと、とにかく今の生徒は、依存症になってしまうのですね。
だから私も、最初は声だけなんだと、ここだけでこの時間だけなんだと切っていたけれど、今の子たちになると24時間こっちが見ていないと、何時間寝たのとかずっと寝ていなかったのとか、そういうことを知らないことにはトレーニングがわからない。そこに入っていくともう、カウンセリングなのですね。

音楽をやることで、そっちのほうが強く出てきてしまう子もいるのです。だからそこは、どこまで触れるか触れないか。
だから、昔はうちなんかは、グループレッスンは、山城組の恐山を聞かせていたのですが、今は生徒がすごく受けすぎてしまったり、昔より抵抗力がないのです。だからどんどん、無難なといったら変ですが、やさしくなる。昔だったら一瞬のところに入り込むことをやらせないと、この世界は生きていけないので、そういう体験の場をつくっていたのですが、今はやっぱりよっぽどレベルの高い子たちの自己管理のできる子でなければ、それが何になるかわからない怖さがありますね。

H:どんどん壊れ物、たくましさがないことを嘆くよりも。

F:確かにグループでやるほうが安全なのですけれど、私は今、グループを辞めてしまった。グループだと、トレーナー全員で全員を見ているから、誰も責任を負えない子が、そのなかに出てきて、何するかわからない。
私なんかはこういう職で生きていますから、生徒が怒って、私を殺しに来たと、そういうのはかまわないのですが、勝手に死なれてしまったりすると、困るってものじゃない。私の友人で、留学あっせん会社の社長がいるのですが、ここ10年で2人死んだと言います。それは、その社長の責任ではないのです。
そこに行く子自体が、そもそも日本でうまくやれなかった。あとは離婚した、今、親子留学という、離婚した母と子供が行くらしいのです、新天地に。そうすると必ず同じような問題が出る。それはそこにかぎらず、留学においては、当然、事件や交通事故というのもあります。

音楽留学でもあります。語学留学で向こうに行って、麻薬なんかにはまってしまうような子、だから、本当に危なっかしいといったら危なっかしいですね。
もう生徒の数を増やすのをやめて、どんどん減らしていって、目の届く範囲でないと、見ていられない。職場が壊れていますし、家が壊れています。関わらずをえなくなってきますから。

H:こういう仕事というのは、心のメカニズム、そういう人間性のところに、ある意味で興味がないとできない。こんなの嫌だと思っていると、そこから先に入りきれないから、だから、別に心理学をやったわけではないけれど、私自身は、たくさん、見ていきました。ある地域のエスケープゴートになる学校、要するにワースト1スクールがあって、行きたくないという学校があるわけですよね。どの地域にも。うしろ指さされ組の学校がある。

そういうところに来る子は、自分の学校にプライドがあるわけではない。偏差値なんかどうでもいいと思っていながらやっぱり抜け切れない、コンプレックスを持っていて、カツアゲやったり暴走族やったりして、はらませたり、はらまされたりという、そんなことをたくさん。
その構造的な問題というのは、上のほうの学校と下のほうの学校と、公立高校で給料が同じなのです。皆、上へ行きたがる。上のほうがはるかに楽だし、生徒も活き活きしているし。下に来た人間は、1年目から転勤希望を出す。新任ばかりがくる。若いから、経験がないけれど、そこに何かひとつ、バーッとパワーだけでやって、2,3年で疲れてくる。学校格差というのは。そこにもってきて、文科省とか県教育からいろいろなことを言ってくるので、そこでやろうとすると、外されたりしてぐちゃぐちゃになる。上では盆栽つくりながらコーヒー飲んで、文学的な話をしていられるのに、下では毎日職員会議をやって、毎日街へ出て、生徒を補導して。

私は好きこのんでいったわけではないけれど、ずっと下にいました。最後の何年間だけ、上に行ったのですけれど、ここで起きることというのは、社会の縮図みたいなものでした。結局、自分の持っている音楽的な技術というのは、それを武器として子供と接するしかない。私は、まだ教員的な発想が自分のなかに残っていて、固いとか柔らかいとかではないのですが、若い人に接するのは嫌いではないのですね。だから、本人は全然自覚していないのですが、指揮者が一生懸命やっていて、ナントカ先生という、そのイメージだけが膨らんでいって、二度と合唱なんかやらないとか、二度と音楽なんかやらないとかいう生徒をたくさん育てている部分はあるのをみてきた。だから、私は職人に徹したいというのが一番あります。

H:見学は、全部お断りしていたのですね。なぜかということで、私は年に数回満足できる授業ができればいいと思っていましたから。ひどいときはそれ以上です。私が一生懸命、ここで3人くらいで話していて、後ろのほうでは、ぐわーっとやっているとか。それだけみたら、とんでもない学級崩壊を起こしているように見えるわけです。
だけど、私は、相手が50人いようと60人いようと、音楽室のなかでは私が責任者だから、怪我はさせないし、黙らせるときには完全に黙らせる。
そのときなど理想的な授業をやっているように見えるのですよ。その、格差がこんなにある。どこの時点でごらんになったのかによってちがう。たまたまこの時点だったら、私の授業をごらんになっても、なんだ、と思うでしょうし(笑)。

司会
そのときに思ったのは、こういう学校で、音楽の先生、わりと優秀な学校の先生が多いじゃないですか。そうでない、そういう学校でも授業をどう組み立てていくか、ちょっとこれは誰かに聞きたいなとずっと気になっていたのです。

H:なるほど。

司会
出来のいい子のいる学校というのは、歌わせても皆うまいのです。ちょっと言えば、それぞれにパートリーダーがいて、パート別に練習をしてと、わりと高度なことをやったりしているわけですよね。でもそれを教えるのが偉いのか、それともカツアゲしたり補導されたりしている子が、一曲をちゃんと歌えるように、子供と教員が納得できるかたちでやったほうがすばらしいのか。

H:うーん、それは私自身も悩んだことで、私が最初に行ったところは工業高校でしたから、昔の工業高校は非常に優秀だったのですけれど、今の工業高校は今の普通高校の下にランクされているでしょう。
要するに楽譜なんか読めない、言うこと聞かない、音楽室もなかったのです。250人くらい入る視聴覚室で、前にステージがあって、アップライトが一台だけあって、そこに40人入れて、ストーブが2つあるのですけれど、そこで授業をやるわけです。そこで、だから力がなければ、生徒はこっちに行って寝ているわけです。その子たちに音楽を教えていたのです。

最初、どうしようかと思いました。ステージがあるでしょう。照明も調整できるし暗幕もあるし、何かやらない手はないのですね。音楽会をやろうということになって、この音楽会は絶対これでやるんだと、だんだん実績が上がってくると、生徒が見にくるのです。授業をさぼって。

いちいちそこで入れるの入れないのとやっていると面倒だから、来るものは拒まず、その代わり、今でいう自己責任、単位が足りなくなっても知らんぞと、そのうちにいろいろと批判もありながら、私の教員仲間たちが、クラスを連れて見にくるわけです。そうすると多いときには300人入って、ここで音楽の時間にコンサートをやっている。工業高校なので荒っぽいですから。
女の子もいましたけれど、基本的に何をしてもいいけれど、自分を表現すること。リハーサルで相当できても、そのとき私は初めてといっていいほど、ぼろっくそにやっつけるのです。

お前らそれでも男かと、15,6にもなって、たかが人前で3分間やるのに、そんなこと程度しかできないのかと、音楽の教師にそこまで言われて、男だったらそこでパンツでも何でも脱いでみろ、ぶら下げてるのかというようなことを言うのです。それこそ、男ばかりのところで(笑)。そうするとさすがにむっとして、ものすごい集中力で、わずか1週間で人間が変わったように、ステージが変わるのです。うわーっと変わる、それでステージにかけて前の子たちに見せるのです。

それが定着してくると、楽しみになりますから、投げていいもの、自分の上履きまで、それ以上大きいものは投げるなと言って、逆に運動部でも何でも、あれだけはちゃんとやっていけという伝統ができた。いい加減なことをやると、俺たちの恥だからといって、そこから何人もプロになってしまいましたね。
あるときに女の子が2,3人しかいない学年だったのですが、先生何してもいいのかというから、いい、このなかで起こったことは一切責任持つ、君らに迷惑かけることはないと言ったら、曲をかけて踊っているのです。男で、フラダンスみたいなのをやっている。そうしたら、いきなり脱いだ、バスタオル巻いていたのをすっぽんぽん(笑)、要するに高校1年生の男の子が、オールヌードで踊ったわけです。別にビデオに撮っているわけではないけれど、見ている先生がたくさんいる(笑)。すごいな、女の子も何人かいたわけです。あそこまでやればいいよ、お前、5つけてやると。

その年に私は、転勤したのですが、転勤することになったと言ったら、彼が青い顔してやってきて、俺があんなことしたから、先生飛ばされちゃうんだと(一同笑)。女の子をあそこに裸で出したらやばいかもしれないけれど、お前が勝手に脱いだのは、知ったこっちゃないと。
だから、要するに舞台の上では何でもありで、何でもありだけど、みっともないもの見せるんじゃないと。何でもありだけど、交流がなければ意味がないのだから、舞台と客席と。そのときだけは俺はプロの目で見るからと、音楽の時間なんかは、こっちで何かやっていて、ここで踊っていて、ここで打ち合わせをやっていると、学級崩壊の典型みたいな時間。

F:でも、理想的ですよね。舞台から考えるから、音楽の位置づけってすごくわかりやすい。裸になってたら1回目はウケるけれど、2回目はただの馬鹿だから(笑)、そうしたら、踊りや音楽を使う、ただ踊るのだって2回目はないか。そういう必要性があって音楽をやり出すと、頭から音楽をやりましょうと入るのとは、違います。日本の一番まずいのは、仲間内でまわってしまうのですね。

H:今、特にそうでしょう。楽屋落ちみたいなことばかり。

F:うちなんかも昔はスパルタでやっていたのですが、お金を払って習いに来る人たちは、嫌になったらさっさと辞めてしまいます(笑)、こちらが厳しいこと言うと、お金を払ってまで来る価値をそこに認めなければ、もういなくなってしまうのです。
それから内側に抱えてしまうと、学校だとまだ来ているいないでわかるのを、人数が多くなってしまうと、来ていない人たちがどうなっちゃったかというところまでフォローできなくなってしまう。まさか家まで電話をかけてというわけにもいかないので、そこが難しいですね。

演出家というのは、灰皿投げようが何しようがよくと、役者は、皆アホ呼ばわりして、力がついていくのです。
ところが音楽はそれをすると萎縮してしまう。そこまで力がないし、役者というのは、開き直ったら演技はできてしまうのですが、歌は開き直ってもうまく歌えるわけではない。自分のなかでの状態を、こっちは待つしかないんで、だからそのやり方は、音楽に関しては使えない。
だから本当にステージが動いた想いのなかで、お客と成り立っているところで実感してくるといいのです。

今の子たちが難しいのは、自分たちのなかでことばがあったり、うまく声が出て、そんな気になったところが最高のものだと思ってしまうのです。
高校の文化祭レベルのところよりも低い作品で、感動して涙流して、メール交換してしまったりするのですね。もう一生の友達をそこで見つけてしまったみたいに。そんなもの虚像でしかないのに、そうやったらやれるねといっても、必ずつぶれますからね。
だからつぶれるのもこっちも見えているから、それはちょっとでも本当のものを見てくれば、そうじゃないというのがわかるのに、です。

それだけ小さいころから何かをやったり成し遂げたり、泣いたり怒ったりという経験がないと、抱えることになってしまう。本当に危ないのです、それが大人だと。もうそこの場が自分の人生の場だとか、そうやっていくと、自分の先が開けていくみたいに。
それは我々から言ったら、幼稚園生が指導のもとで、ひとつの演芸会レベルのものをやったにすぎない。仮にやれたとしても、そこの先生の力にしかすぎないのであって、だからそれが至るところに起きていますね。

黒人のトレーナーを招いたことがあったのですが、彼のコーディネートでやるとかなりの舞台ってできるのです。そこまではいいのです。ところがそれが自分たちの力だと思ってしまうのです。彼が、外国人の歌手に対しては怒りまくってやっている。結局それだけ日本人が甘く見られているだけなのです。だから、褒めて伸ばすということと、ポイントを押さえるいうことが我々の世界では、逆になっていますね。

確かに褒めないと、皆萎縮してダメになるのですが、何が何でも褒めればいいというわけではない。私なんかは、最初から、自分が感動しているものにしか興味を示さないといっている。本当にいいときには何かを言うけれど、それ以外のときは何も言わないというふうにしないと、当人自身が迷ってしまいますからね。だから一般の方の一日のワークショップや、一般受けの審査員なんかは、割り切っているのです。この人たちとは一生に一回しか会わないと。そうしたらやっぱり楽しい時間を過ごさないと(笑)。

ただ引き受けた子たちにそれをやってしまうと、彼ら自体の基準がわからなくなってしまう。高校生がクラスでやってみてできるレベルのことを、金払って、時間をかけて、何年もかかってつくるものではないだろうと。そんなもの、その日に一生懸命やればできてしまうんだからと、どこかで伝えなければいけないのですが、だんだん難しくなりましたね(笑)。

10人も集まったら10倍のパワーが出てしまうのです。ゴスペルなんかもほとんどが勘違い、ひとり一人の技術が全然なくたって、50人ステージに出たらすごいと、こうなるのです。そのことと芸術的に積み重ねが実っていることは、全然違うのです。
歌を使うのは、すごい簡単なやり方なのです。人が集まっちゃったら、パワー出ます。お客さんもそこでのるのも当たり前なのですが。
ただもったいない、そういう使われ方だと、それは誰でもできることで、どこの誰を集めたって、そのパワーというのは出てきてしまいますね。だから、ディズニーランドと同じですよね、そこの勘違いが。一番わかりやすいのは、さっきの先生みたいに、現場でいろんな問題を抱えている生徒たちは、必要のないものは受け取りませんから、そこに音楽が入ったら、その音楽が本当に生活を支えるし、悩みをちょっと消してくれるし、心地よくもしてくれるしと、その地点で捉えてもらえると本当にいいのです。

H:面白かったのは、この前、すぐにキレて、パーンとやってしまう奴がいたんですよ。それで何回か危なくなって、それ以上やると、お前退学勧告というときに、お前、そんなにひっぱたくなら太鼓やってみろと言って(一同笑)。そうしたらプロ級にうまくなっちゃって、それでドラムがうまくなればなるほど、どんどんいい男になっていくんですよね。ぐーっと、元々渋い奴だったのですが、キレなくなって、しかも仲間を、いいバンドをつくって、プロにはならなくて、彼は警備会社か何かに行ったのですがね。本当に渋いいい男になりましたね。あのときそれをやらなければ、ボクシングか何かにいったかもしれませんね。

F:ボクサーなんかもそういう出身が多いですよね。

H:どっちがよかったのかわからないけれど。

F:長く見ると、音楽が好きでとか入った子よりも、それがないと生きていけない、自分が保てないというような子が、やっぱりやり続けますよね。役者なんかも最初、内向的で人とも話せない子が、無理に入れさせられて、そうするといろいろなものを受けてあるから、そういう表現手段を得ると、開花しますよね。

H:だから、劇団員のほうが、一般人よりもはるかに自閉的な人間が多いと。

F:皆、狭いのですね。音楽もそうです、本当に天才的な人というのは10歳くらいで出てくるのですが、そうでない人は、それにしがみついて離さなかったと、それがなければ社会的にやれなかったタイプが、精神の安定によいという人、そういう人が音楽をやる、やるもやらないも選ばなくていいですからね。だから、いいのかどうかわからないのですが、迷わないでいいだけ、普通の人よりいいのですよ。

H:私もそうですね、意地になってやっていただけですからね。

F:私なんかもそうで、才能なんかでいったら、周りにはいくらでもすごい奴がいるけれど、自分の一番、大切な時期に、すべてのお金と時間をかけたら、他の道って、ないですもん(笑)。選ばなくてもいいというのは、ある意味幸せですものね、それをやるかやらないか、今の子たちにもよく言うのですが、やめようかやろうか迷っている時間のほうが、もったいないので。

H:昔は漁師の子は漁師で、八百屋の子は八百屋という時代があったでしょう。今はどこの子も音楽家になりたがっているから、で、それなりにできてしまったりするから、何かすごく嘘っぽいのです。

F:そう、この前、先生が楽屋で言われていた「本当にそこまでやりたいんですか」という、その疑問が、本当に上達を決めますよね。本気でやっていてできない人ってあまりいないし、できなければすぐに解決するのですが、本気でやらせるところまでは、これが難しいですね。

H:本当にやりたいの、やると変わっちゃうよ、本気でやりたくない人が本気でやりたいというのですよね。

F:一生かけてやります、とか死ぬほど努力しますと簡単に言ってくる人ほど、胡散臭いものはないです(笑)。はじめてそのことばを吐いたんだろうというようなことで。結局、我々のところもそうですけれど、依存症になってしまう。それだけがんばりますからと言ってくる人は、それだけがんばるからお前何とかしてくれよというところが結構あります。

H:うちなんかは山奥の仙人部落みたいなところで、何でうちに来るのかという(笑)。

F:私のところも、最初のすごく胡散臭い場所で、噂で来てみたら、建物を見て、入らず帰ったというところで入ってきた連中というのは、伸びましたね。ちょっと前までは、すごくいいスタジオを使っていたのですが、そこは建物の力で人が来ますから、その時点でダメでしたね。いい先生をたくさん入れたから、なおさらダメになってしまいましたね。それで学校はやめてしまったのです。

結局、そこに通っているだけ、私は年間に400時間必要だということで、1日8時間×3人の先生で、全日制に近くやっていました。どこよりもいい先生とたくさんの時間、簡単にいうと、出放題というところまでつくって。その結果どうなったかというと、熱心な子は毎日のように来て、来る。そして群れて帰る。復習もしない予習もしない。

毎日のように来ているから、それでも力がつくのかなと思ったけれど、それより前の生徒なんかは、月に1回か2回しか来なかったけれど、残り30日自分で、レッスンの前は3時間、自分でどこかでやってから来るというような風習があった。
昔はライブラリーも50冊くらいしかなかったけれど、その当時来た子は、全部読んでいました。難しい本から。大学なんかで、何万冊あっても、皆読まない。だから、ひとつ立ち上がっていく時期というのは、強いんですよね。それが立ち上がってしまうと、こっちが壊さないと壊れないのですね。だから、全部壊してしまおうと思って、壊しているのです。

H:それができると強いですね。

F:しかたないですね。トレーナーって、人を育ててなんぼですから。そこで楽しむことで燃焼してしまうのですね。キャンパスライフ、専門学校と同じです。もっと悪いのは、そこで友達づきあい、くされ縁ができてしまって、友達のライブや先生のライブに行きあって、終わってしまうのです。
本当にやる気の子はそんなものに行かないですからね。私なんかは、そんな暇があったら、プロのだけをお金貯めて、見ていればいいと、だんだんそういうことばが通じなくなってしまうのです。友達同士の情報量にこちらが負けてしまうのです。そうなったらお手上げですね。結局、自分で選んでいくのだから、こちらは機会と材料しか与えられません。

だから今は、個人にしています。学校の悪いところは、そこのなかで発表会をやってしまって、そこでいろいろな人が集まるけれど、それは学校の力で集まるから、それがプロ志向でなくて、本当にキャンパスとして楽しみたい人はいいのです。
そういう人は、年に1回、1000人くらい集まれるようなところでやる方がよい。ただ多くの生徒は、そこが始点であって、そこから夢が開けてくるみたいに勘違いしてしまうのです。

私から言わせてみたら、そういう人は、もうそれが最高点です。もう一生かかって、それだけ多くの人数と設備のいいところでやるというのは、もうないのですよ。ただそれを学校というのは、やはりビジネスだから言わないんですよ。
それでいろいろなところに就職できたというのだけれども、専門学校が就職するところって、大卒の人が入ってきてしまうと、皆2,3年で辞めてしまうのです。就職まではできてしまうのです。でも、就職というのは、5年後10年後そこで活躍できているかどうかです。そうすると皆辞めてしまっているのです。そのことが好きで安くて、使われているというだけの期間ですから。
その辺が日本人の場合は、そこに入ったらというだけでPRが成り立ってしまう。だから専門学校の問題もすごい大きいのです。18,19,20歳ですから、一番おいしいところで卒業してしまう。私もいくつか、専門学校を見ていたのですが、これからというスタートラインについたときに、卒業してしまうのです。だから、音大もそうです。3年目に入ってくると、仕上げなければいけなくなってしまって、とても音楽をやれる環境にないですね。

H:今年芸大に入った子なんかは、私のところにくると、みっちり絞られるわけです。男の子だし、バカヤロウ、何やってきたんだという感じで、格闘技みたいに押さえて引っ張って、だめならマッサージして、蹴飛ばして、押さえてという感じでレッスンしていくでしょう。2人とも大汗かくのです。
音大には、発声練習は、2,3分、曲を渡されて、譜読みして暗譜して次の曲、要するにレパートリーは増えていくのだけれど、声について考えていくことは、自分でやっておかないといけません。
大学の先生より、先生のレッスンのほうがためになると言って来るけれど、もういいかげんに自分で考えてやれと言っている。

H:私がいつも思うのは、必要なのは、楽器のメカニズムを子供に教えることだと思うのです。要するに楽器の手入れね、たとえばピアノが置いてあって、1年に1回は調律するんだよというのと一緒で、歌い方とか何とか、楽器の演奏法ったありますよね。ギャーッと叫ぶシャウトと、ハミングで歌おうが、頭声でハモらせようが、何をしようと楽器の演奏法はいろいろあるけれど、こうやっていろいろ叩いてもいいけれど、楽器そのものを大切に扱うんだよということを小学生から教えればいいと思っています。
小学校くらいにヴォイストレーニングを系統だってやる必要性はまったくない。だって、個人差がある意味でぐちゃぐちゃだし、むしろ楽しければ、ギャーッとやっていて、子供は疲れたら寝てしまいますから、だから正しい発声を教えたって、何をしたって、自分が嫌だったらやらないのですから。

問題なのは、中学ぐらいになってからです。たとえば先生が小学校で教えているとしますよね。とってもいい、なんてすてきな先生でしょうと思って、一生懸命やる奴が、ろくなことをしないのです。だから、一生懸命やればやるほど、変なところにいっっちゃたりするのです。子供はあまり変なところにいかないのです、疲れちゃいますから。ところがちょっと自意識なり、自分の考え方なりをちょこっと持ち始めると、それがいいと思うと、果てしなくバーッと明後日のほうにいってしまうことがある。そんなときでもやっぱり楽器の管理。たとえば、目が悪くなったら音は悪くなるよ、とか、腰が痛かったらだめだし、生足で歩くんじゃないと。今の高校生の女の子は、ミニスカートで、パンツ丸見えみたいな格好をしているでしょう。高校でルーズソックスを履いているから、あれで少しあったかいのですけど。

問題なのは、卒業してから私のところに会いにくるのです。それが網サン履いて、生足で、こんなミニを履いて、せんせーえとか、いきなり職員室に入ってきたとたんに、向こうはニコニコと手を振るのだけど、私は、バカヤロウ、お前ブスになるぞと(笑)。
せっかく会いに来たのに、そんなこと言うことないじゃんとか言うのだけど、夏にそんな格好していて、お前はいいかもしれないし、まわりのバカ男は、それで吸い寄せられるかもしれないけれど、それで足冷やしたら、どんどんブスになるよと(笑)、そういうと、いいじゃんとか何とか言うんだけど、楽器の管理という面では、夏ほど冷えるんだよと、そういうことは。

F:なかなか難しいですね。へそ出しルックとか、ああいうのも発声にはよくないし、それこそ身体が冷える。ただファッションがああいうふうになっているときに、スタイルでやるのか歌でやるのか、スタイルのほうが強いから。

H:お前ら、こんな格好をしているから、ここが冷えてて、それで肩凝っているから、ここで声がハスキーになっているだろうと言って、ハスキーなこと自体は悪くないけれど、ここで冷やしていると、声はこうなるかなと、ちょっとマッサージして、声出してみといってやると、バンと出る。

F:演劇の現場では、当たり前なのですが、学校教育になってしまうと、先生との信用関係というか、先生のこういう体操みたいなものも、母音体操みたいなものも、こういうのを切り取ってのせると、ノウハウみたいになるんですけど、その写真だけ見て、またその姿勢だけとらせて、いくら指導したって、かえって悪いことになりかねない。この前のセミナーみたいに、ああいう流れがあって、生徒とのタイミングみたいなところでやらないと、かえって今度は、悪用されてしまうことが。

H:結局水泳の教科書を書くのと一緒でしょう。海に連れていって、ボートから落っことせば、嫌でも泳げるようになる戸塚ヨットスクールのようなもの、そっちのほうが正解だと思う。
歌の場合は、命の危険がないんですよ。登山とかスキーとか、スキューバーダイビングとか、スカイダイビングなんていうのは自己流で勝手にやると死にますから、歌は勝手にやっても死なない、ただ、声が出なくなるだけですから。

そういう意味では、勝手にやってくれるのはかまわないんだけど。普通のあまりそういう経験のない先生が、うまくいかない場合、単なる効率の問題だと思います。私なら1分でできることが、ある先生だと5分かかって、ある先生だと20分かかって、またある先生だとやればやるほどだめになるというのがあるのは、それはやっぱり、よくしたいと思っていたら、必ずいつかはできることだから。
こうやったほうが手早いですよという方法がいくつかあって、ただこの場合には、ここからこう入ってこう行きましたよ、というのを、いちいち説明できません。この子の場合はこっちからいってこう、この人の場合はこっちから入ってこう、個人差があるから、同じような症状でも、この子に必ずしもいいって限らない。だから、こんなものいくらやってもだめといったら、仕事にならない(笑)。

F:それは私も、この前も本にも書かせていただいたけれど、本なんか捨ててしまえと、冒頭に書きました。結局、こういうものを、図で書いてもらいます。そうすると、その図のとおりにこうやろうとして全身、緊張だらけになる。
たとえば姿勢でこう身体を曲げていると。それに合わせて、手の角度をこんなふうにしてすると、それはすごく悪いことになるのです。そんなことなら、もうやらないほうがよい。ていねいに図まで書いたのですが、活字だけで書くとまた、もっと違うイメージでやってしまいます。とにかく、やっちゃいけない人は何をやってもだめなのです。

だから、この前お話していて、先生の身体のノウハウみたいなものがすごくわかりやすしと、ただ、これをまた図にして貼りつけてしまうと、きっと同じことが起きる。本当に、皆こういうものがあれば、そのとおりに、こういう表情をしてこういうことをやる。教える人もやる人も、カチカチでやります(笑)。逆効果になりかねない。材料としてはいいのです。こういう方法論というのは、とにかく。

だから、私らも一番いいメニューを教えてくださいと言われるのが、一番困るのです。本当に。メニューはいくつあるんだと聞かれるけれど、何万だって何百だって、今つくれと言われたら5分で500だってつくれる。ただ一番いいとか、どう使うかというのは、トレーナーとの関係だし、タイミングですよね。季節によっても違うし、その人のそのときの身体の状態によっても違う。

こっちもやって、それが一番よかったかどうかという確証は、全然ないわけですから。グループがいいのは、他の人が直っていくのは、自分のことよりわかりやすいですよね、声の場合は。あの人がああだったのがこうなったと、瞬間的にわかるから、トレーナーと同じような感覚を得られる。目とか、こういうときにはこうやればいいんだとか、自分で鏡でいくら見てもわからないのが、あの人はああいうところが固そうだなとか、そういうのを何回もやっていると、自分に対しても先生がこう言ったということは、自分のこういうところが悪いんではないかという、そこはいいですね。

H:面白いのは、自分は全然変わらないのに、人の声がよくわかるタイプの人とか、人のことは全然わからないのに、それなりに進歩していく人、いろいろな人がいる。私なんかは、自分の声は変えられないけれど、人の声は変えられるタイプなのかも知れない。何回かレッスンに来ると、どっちかのタイプに分かれてきますね。本人はうまくならないのに、私と同じくらい耳がよくなって、あの人、ここ固くありません?、よくわかるなと、そういうようなタイプと、他の人はどうでもいいんだけど、自分だけはどんどんうまくなっていく、一応その場所ではうまくなっていく、その先はわからないのですけれど、そういうタイプ。

F:どちらかというと、わけわからないのにうまくなっていくタイプが、歌い手のタイプで、逆に周りに対して、すごく厳しく判断できるのはトレーナータイプ、トレーナーにはなれるのだけど、あまりにもいろいろなことがわかりすぎてしまうから、自分のいいところを伸ばせなくなってしまう(笑)。
私なんかはその時期見ていて、へたに育ちすぎた子というのは、声はよくなるし歌はよくなるのだけど、トレーナータイプになってしまうんですよ。要はトレーナーについてやってしまっているから。
本当に世に出て歌い手になるタイプというのは、その間で、トレーナーと喧嘩をしちゃったり、自分で走ってしまう時期があるのですよ。

H:そうそう、全然言うこときかない(笑)。

F:でも、その勢いでやったら、周りの人は歌とか聞かないけれど、きっとファンになるんじゃないかというような色気がある。その辺がすごく難しいですね。
どこかでこちらは教えるのはストップしないと、トレーナーにしちゃうんですね。トレーナーのほうが育てやすいんですね。当然トレーニングして長くいて、こっちの言いたいことはわかるようになる。それから歌い手にとって、2,3年人を見るというのも、いい経験になります。
うちは、下から吸い上げた子で手伝ってもらっていた子は、2,3年で出す。要は、トレーナー職って、生徒から先生と言われるし、立場がそこではあるから、ある意味、楽なのです。

ところがヴォーカルというのは、最初、頭を下げまくって仕事を取りに行かなければいけないから、その経験がないのにそっちをやってしまうと、ましてうちでやるのは、周りは私が全部囲いをつくってしまっていますから、本当の自分の力ではない。そこの勘違いが、起きてきてしまうのです。教え熱のほうにいってしまう。
トレーナーになりたいと言うならともかく、歌い手になりたいなら、プロの歌い手になっていくためには、それ以上、トレーナーやるのはマイナスになる。
その経験は活きるのですが、人を見るということは非常にいいことなんですけれど、逆にそんなことを関係なしに、突っ走らなければいけない時期に、そういうふうになっちゃうと、斜めにというか上から見てしまう癖がついてしまう。

それはどこかの組織に属しているときの欠点ですね。ひとりでやっていたら、まず仕事がありませんから、上から見るなんていうより、上がないですから、下からこう這い上がっていく。そうすると、ヴォーカルとかアーティストの気持ちもわかるの。先に職業がきちゃうと。
話を戻して、あまりにそれなりにいろいろなことを体験された一流の人によると、発声なんてないのよ、気持ちなのよということになってしまうと、現場は困ると思うんですね。ですから、本当は具体的にかたちとして材料提供をしたい。

H:でもね、お話していて、F先生とは基本的に私の考え方と、相容れないものがないと思うのです。

F:寝転がって、声を腹筋で出すとか、あれもビデオみたいに流れのなかで出ているといいんですが、あそこだけの写真が載るときに、それをやらせるとちょっと違ってきますよね、その使い方の問題ですよね。

H:理屈はいくらでも言えるのです。たとえば立った姿勢から、低くなればなるほど重心は低くなるから、安定はするけれど、表現力は落ちてきますよね。
表現力が高いということは、不安定じゃなければ、表現力は高くはなりませんから、つまり、不安定にしなければ表現力は出ないんですね。つまり、いい姿勢でしっかり立っても表現力は出ないのです。いい姿勢というのは常に動いている姿勢、常に自分のなかに動きを感じていられるかどうか。歌うということは、基本的に踊ることだから、ただその踊りは、いかにもアイドル歌手の振り付けみたいな踊りではなくて、自分のなかに必然的にある大きな流れがあるかどうかということだけだと思う。

F:私なんかは、スポーツで、けっこうシビアなことをやっていたので、こういうものを見たときに流れがつかめるんですね。この図を見て、この図のまねをするということは絶対にない。それで身体が覚えてきているから、現場に行ってみて、アはこう、イはこうとかいうのは、発想としてはないのです。もうその部分が、体からの使い方で入っている。ただ言われると、やっぱりアってこういうかたちなんだろうなとか、イってこうなんだなというのは、すごくこういうものでよくわかる。こういうのは現場でも使えるのですが、これを見た先生方がアだからこうというような、たぶんそういう使われ方をするだろうなと。これなんかもそうだと思うのです。
不安定とか動きがあるということは、これですごく象徴されているのに、きっとこれをこのまま生徒にやらせちゃう。それで声を出しなさいと言いかねないなと、それを文章で補えるかなというのはありますね。

ただ、現場の先生が欲しがっているのは、ツールだと思うのです。合気道やりなさいとは言えない。その感覚や動きと同じで、アはこう、イはこうとかいうのは、ちょっとするどい先生だと、何となくはわかると思うのです。
一番関心したのは、ロックの姿勢、よく聞かれるところなんですよ。教えられていることはこうなのに、実際の歌い手はこうなると、それはトレーニングではやらないのですね。でもポップスの人には、多い質問です。直立姿勢で歌うのかと言われてしまう(笑)。そんなの現実見たらそうじゃないのはわかるのですが。だから現場とトレーニングのしかたの位置づけがわからない人が多いのですね。トレーニング即現場だと思ってしまう人が多いので。

H:何やってもいいのです、試行錯誤は、悪意を持たないかぎりね。この子を生かしておくと私のためにならないからこうしようとか、そう思わないかぎりは、何をやってもいいと思うのです。その子が何かをすることによって、かわいくなったり格好よくなったり、美しくなるのだったら何をやってもいい。だけど、どんな正しいと言われていることでも、その子の顔がどんどん暗くなったり、困っていたり、苦しんでいたりするようだったら、それは何かが違っているということを気がつかないといけません。それがすべてだと思っています。

子供は、私と同じことをやられたんじゃ、どうやっても私のコピーにしかならないから、私の仕事は私を超えさせることですから。子供を教えるときに、だめだ、こいつにはもうかなわないという歌い手が出てきたら、それはすばらしいことだと思います。

F:楽しいことが舞台であって音楽であって、ただそのためにちょっと大変なこともあるんですけどね。

H:小学生だったら、私は楽しんでいればいいと思います。中学高校になってきて、コンクールだ何だと言い出すと、私の師匠がよく言っていましたけれど、色気づいてくると必ず人間は間違ってくると。12歳過ぎたら必ず人間は間違ってくると。

F:なんか、そこに行くと高まるという関係があれば、そんなにおかしくならないんですね。ただ高まることが格好いいことやかわいいことだったらいいんだけど、その辺に崇高だったり権威のあるようなことだったりすると、どこかおかしくなってしまう。本当に微妙なところなんですね。

だからワイワイ騒いでリラックスしているだけでというのは、小学生だけで、それ以上になると、さすがにそこには乗ってこないから、そうすると何かしら、より真実や美しいとか、自分たちの日常のなかで、本当にはこういうものが大切なのにということが、歌や音楽のなかにはちりばめられているのですが、何かうまく伝わらないうちに、違うかたちをとってしまうと空まわりしてしまう。

そこが本当に、このまえK先生がフェイクなんかを教えないで、レガートをゆっくりゆっくり丁寧にやっていれば、フェイクになるんだからと言っているような、本当に基本の部分ですね。ただ、それをすぐに感じられる子もいるし、すごい時間のかかる子もいる。そこの与え方ですよね。

身体なんかもそうだと思うんですよね。確かにうまくいっているときは気持ちいいし、見ていてもきれいなのです。それを本人が、今の若い子たちに言っているのは、それ格好いいとか、きれいというか、格好よくなりたくて歌っているんじゃないのでいいんですよね。なのに格好悪いことをやっているのです、すごく変な顔をしたり。

ただポップスの場合、形を入れてしまうと、声の問題がどうでもよくなりかねなくはないので、難しいところではありますね。そういうところでセンスのまったくない子が、人前に立ったらどうなるだろうというところはちょっと難しいところがありますよね。日本の場合は、10代の女の子がやたら持ち上げられすぎてしまうので、男の子は本当にわかりやすい。

自分で動かないことには、誰も声かけてくれませんから。だから女性のほうがかえって後で、苦労しますよね、特にやっていきたい人は、20代後半、一生歌っていきたいといったときに、最初はちやほやされても、後はそのぶんだけ冷たくされてしまいますから。

でも歌は女性のものですね。同じ才能があったら、女性のほうが華ありますよね。男でやっていこうとしたら、特別に何かがないと難しいですよね。だから大体役者に代わってしまいますね。同じ才能があったら、歌の才能なんかがあっても役者としての才能は、つぶしが利く。

それから、歌にクリエイティブな部分が日本では問われなくなってしまうから、皆、作詞や作曲、プロデュース、あるいはタレントや役者業のほうが、本当は歌うことってすごくクリエイティブな世界なのですが、そのレベルであまり求められなくなるので、興味がそっちに皆、30代くらいになると移ってきてしまうようですね。

歌のなかでも本当はいろいろなことができるはずなのに、その才能があまり使われない。ポップスに関してはほとんどそうですね。だから皆、役者になってしまったり、曲や詞をつくるほうにクリエイティブな才能を使うようになってしまう。それはもったいないなと思うけれど、しかたないなという部分がありますね。

H:クラシックのオペラなんかだと、逆。女の子はたくさんいるでしょう。そのなかからずば抜けていくのは、すごく難しい。男は少ないから、大体研究生の段階で、役がつく。その点で女の子は競争率が高い。歌を歌うというのは、専門的にやればやるほど、ある段階から上にいくのがとても大変だから、そこでうろうろしているうちに、だんだん他のことをやったほうが早くなっちゃったりというのがある。

F:食べていくのも大変ですし、オペラ劇場があるわけでもない。クラシックで出て、一番いい就職先が、ミュージカルになりかねない。

歌手としては食べれないのです。作詞作曲家としての印税収入だったら、まだできますが、それでもかぎられていますから。もっともっと場ができるといいですね。昔みたいに歌手がテレビで歌うのもなくなってきましたし、厳しくなってきていますしね。
お茶の間にはなかなか入れなくなっていますね。それは歌い手の力が弱くなってきているのだと思いますね。お笑いの人たちのほうがよほど声を豊かに完成度高く使ってます。

吉本興業でも相当苦労を、わざとさせています。初日からチケット1000枚売れと、絶対に身内に売るなと。歌い手は恵まれていて、どこかに入ったら、バンドがついてきて、閉じ込められた客で、よかろうが悪かろうが拍手きますもんね。しらけることもないし、鍛えられない。

結局、同じ才能があっても、お笑いの人は10年下積みがあって、30越えてからようやく出てくるし、落語だってせいぜい2つ目ですよね。歌手というのは10代でトップになってしまうと、あとは何をやっても成り立って、それでいつのまにかいなくなってしまう。
普通こういうことは10年くらい努力を重ねないと、何もできないと思うのですが、苦労する10年が歌い手にうまく与えられていないのです。それがもったいない。

まだ声楽は積み重ねがありますが、ポップスは15,6で歌えているか歌えていないか。アメリカみたいにそこまでに音楽経験があって、10代で勝負がつくのだったらいいのですが、それがほとんどなしで勝負ついてしまいますから。うちに来る子は、結構20代できちんと歌った子というのは、30,40になると声が出なくなる。先輩たちを見ているとそういうのがわかるから、あらかじめ、きちんと長く声が持つようにしていこうという子たちですね。
プロになるとレッスン料も払えなくなりますから、厳しいですね。