会報バックナンバーVol.172/2005.10


 

レッスン概要(2004、2005年)

■入門レッスン

○歌うところより歌わないところが大切

 メリハリの一番の目的は、なるべく歌わないところをたくさんつくるためです。
 歌うところというのは声を出して、自分で動きをつくらなければいけないところ、あとはできるだけ、そこにのっかって楽に歌うために、どうやって流れをつくっていけばいいのか。
 だから、考え、いろいろな流れを変えなければいけない。変えなければいけないということは、もうすでに流れがあるわけです。その流れがあるからこそ、流れを変えたところがお客さんにはわかる。
 ところが短くすれば短くするほど、お客さんにとってはバラバラに聞こえるから、今度はお客さんがつなげる努力をしなければいけない。それぞれの歌詞やメロディを読み込んでいって、客がこんな歌かと思うのは大変なことです。

 当然、歌い手がまず流れをしめしてあげて、その流れがとぎれてきたら、ひとつの流れをつくっていくということ。結局、何も考えないでフヮーッと出しているところが一番いいのですが、それはそれだけではできない。その前に何かしら起こさなければだめですね。今みたいなところでも、考えなくてもできるところは、その前にうまく入れているわけです。その箇所を多くしていく。最終的にはすごく少なくしていくということです。

○4つの単位で考える

 ひとつの歌を20個で起こしている人と4つで起こしている人とだったら、4つで起こしている人の方がよい。さらに、ひとつで起こしてそこで3つつないだりすると、もっとうまくやれます。
 だいたい4つ単位くらいです。ひとつを起こして10個つなげられるかといったら、それは途中で動きがなくなってくる。
 ただ、日本の歌というのは、一つひとつをしっかり歌っていくがために、それぞれが切れてしまうし、全体の位置づけが客にわかりにくいということが出てきます。そうすると歌詞の世界になってきます。

 こういうものを使っているのは、できるだけ音楽の世界に近づけたいからです。
 だから、皆ことばではわかっていなくても、歌ったとき、たとえば日本語でやると歌いにくくなるとかバラバラになるとか、1234といったら、最後の4番目になるとあまっているとかたどたどしく感じたりとかします。ところが、外国語でやると案外流れにのれてしまうのは、元々のことばのリズムがあるからです。あえて日本語でやってみましょう。

○パワーがない分、技術に頼ってしまう

 なんかつまらなくなってきたとか、1回目聞いたときはよかったのに2回3回と聞くとつまらない…と思うのは、こういう音楽がもつ、そういうものを離れたパワーや流れがお客さんに掛け合えていないからです。
 それなら台詞やナレーションの世界で勝負した方がいい。結局、ナレーションの世界でも勝負できるくらいに人間の声やことばは強いから、音楽を外れても持つから、歌い手自体がわからなくなるのですね。そうすると一つひとつをていねいに歌うようにということにつながってくるわけです。

 だから楽器の人を考えてみるとわかるように、一つひとつは結果としてていねいに弾いて、情感は入っていますが、やっぱりどう起こしていくかということになります。
 練習としてはそちらにシフトしていく。せめてここにきて、ここの歌をやっているときはそうやっておいて、ご自分の歌は自分の歌でやりなさい。
 ここでやっているのは、ある程度ステージでできる人ですから、そこの課題ではないのです。課題がないと何も変わりません。私らが聞いていても、原曲を歌っている人とそうでない人、アマチュアや日本の歌い手とは力の差がすごくある。それは何かとは言えないのですが、たぶんこういうものの積み重ねですね。創造性になってくるわけです。


○「卒業写真」のフレーズでみる

 この歌は、いろいろな人が歌うのを何百曲と聞いています。やはりユーミンの影響を受けていますね。自分ではわからないと思います。
 「まちで みかけ たとき なにも いえな かった」、楽譜からいうとこういう歌い方でよいのですが、それのニュアンスみたいなものは、出ていません。彼女は一つひとつを切っていく歌い方をしますから。
 この歌で一番力を出せるのは、「そつぎょう」から「しゃしん」で追い込んでいって、盛り上げて、そこに「あの人は」を落として、「やさしい目をしてる」の引き立たせるというフレーズをどうつくるかです。

 ユーミンはそういうかたちをとりません。同じように「そのままだったから」というところ。この2つが決まるか決まらないかが、曲としてみると、サビより大切です。それから「人ごみに流されて」の「て」の置き方や、「ここからわたしを」の「わたし」なんかが、ユーミンだなと思えるくせです。
 まだ似ていない方です。一般の人なら、もっとそっくりになってしまう。最後の「あなたは」も、普通に楽譜から考えたら、ここで強くしてユーミンみたいなかたちで無表情に、単に歌っているようにはならないと思うのです。

 「人ごみに流されて変わっていく私を」に対して、「あなたはときどき」というのは、本当は受けになっているはずです。ここなんかは起承転結で、弱い転じ方を「あなたは」のところでどのくらい置けるかというのが、この歌を引き立てるかどうかです。
 ユーミンはそういうところをほとんど裏切っています。裏切っているのに、別の意味で彼女の魅力で持っていっている。ユーミンより歌唱力はあっても、ユーミンより伝わらなくなってしまいます。
 特にこれをギターなんかでやると、全部が「かなし ことが あると」というように、すべてがそうなっていきます。彼女みたいな歌い方に、ニュアンスがなってしまうのです。別のプロなども動かそうとしていますが、似てはきています。よりうまく歌えるはずですが、もっといろいろな持っていき方があるでしょう。

 それをほとんど小さくしてもいいし、「やさしい」を伸ばしてもいいし「やさしいめを」を伸ばしてもいいし、「しーてる」でも「してるー」でもいい。
 前半と違う歌い方を後半でできるから、はじめてこれが一行つながります。ところが3つくらいに分けてしまうと、全部細々してしまう。
 だから自分でなるべく楽にしてしまうことです。「卒業写真の面影がそのままだったから」も同じように考えてください。

○ひとつにする

 「その まま だった から」くらいですが、「そのままーーーだっ たから」というような、こういう歌い方をしろということではありません。まずひとつにする。ひとつにするには、どこかに動きをつける部分と受ける部分をつくらなければいけない。それができてみてからもう一度動かし、最終的には楽譜の世界に戻っていくのです。
 だからそのニュアンスをもっていけるのかわからないですが、こういう練習をしておいてポツポツと歌うのと、最初からポツポツ歌うのとでは、聞いている方にとってはまったく違います。流れや動きをその人がわかって歌っているのか、わかっていなくて単に楽譜を置き換えて歌っているのかということなのです。

 オリジナルでというと皆、わからないとか、勝手に歌えばいいのだろうと思う。勝手ではなくて、自分の呼吸と歌の呼吸をギリギリで合わせていくことです。その人なりにひとつくらいしかできないものなのです。
 だから今みたいなことをやれば、1時間に10個くらいのものができるかもしれませんが、その中でひとつ持つか持たないかを問う。ほとんどを持たないで、そのひとつを見つけるがために、皆、日ごろ勉強しなければいけないというのが、バイオリニストやピアニストの世界なのです。歌い手もそのはずなのですが、そういう練習を誰もしないのです。
 こういう曲をつくっている人たちの方が結構しっかりしているわけです。自分の声だけの力で持っていかれないから、前に持ってきたりシンコペーションをかけてみたり、曲を変えます。

 ただ、いい曲をスタンダードとして歌う人は、戻さなければだめです。自分が作曲家でありアレンジャーであるということ。そういうふうについているからそう歌うのではなくて、そういうふうに歌えなければ編曲してもいいから、自分が出せるものに歌っておいて、そちらがよければ変えればいいのです。他の人の曲を歌う必要はないのです。
 ところが日本の場合、そういうことでメロディやリズムをフェイクするとおかしくなってしまう。歌い手の力がそこまでないから、同じように歌うようになってつまらなくなってしまいます。だからお客さんでも、そんなことをメチャクチャにやっていながら、音楽に納められてしまう人を待っています。原曲が歌い手が違うと、どこまで化けるのかを学べばよいのです☆
 SMAPの歌はこんなふうに動くのかということです。あれは曲も歌詞もいい。SMAPが歌っても結構いいのですが、綾戸智絵さんが歌うと全然違う見せ方やセットをしていく。この歌はこんなふうに化けるのか、もっといい歌だったんだなとわかるわけです。そういうことをやるのが、歌い手の本当の意味の力です。

○叩き台としての選曲☆☆

 ステージでやる歌はもってこないようにといいます。こうやってしまった結果、わけがわからなくなって自信をなくして、歌い方が定まらないままステージに出てしまうと、お客さんは感じてしまいます。だからなるべく捨てる歌や二度とやらない歌や私が渡している歌を、たたき台、潰しとして使ってください。
 全曲やらなくてもよい。1,2部分、歌を壊してしまえばいいのです。壊して自分で歌ってみたときに、よりよいものが出てきたら、それを自分の引き出しに入れていく。

 たぶんことばなどはずいぶんやっていると思うのです。たとえば「あなた」というのを歌い分けたり「かなしい」というのをいくつかのパターンを持っている。でもそこにリズムのグルーブで動かしたパターンがまだ持っていない。というより日本語でやるときに必要がない。
 だからそれをイタリア語でやってみて、こういう動かし方をしているのだ、自分のは4つに聞こえるけれど、この人のは4つ分けているけれどひとつの流れが聞こえるという聞き方の部分で勉強する。自分でやるときはテンポやキー、何を外してもいいし、ことばを入れなくでもよいので、流れが出ているかどうかを自分できちんと見てください。

 曲の流れが出たというのなら、曲が壊れていてもよいです。3,4年経ったら、その流れで曲に入ってます。今はそんな簡単にできません。「しゃしん」と大きく言ってみたら歌にならないというのは、当たり前です。でもイメージは必要なのです。
 自分の声では間に合わないけれど、そういうものを聞いていたときに、こういうイメージがありなんだ、こんな伸ばし方がありなんだ、という発見です。

 向こうの歌い手というのは、やはりすごいアイディアをたくさん入れているわけです。そこを聞いて練習してみてください。
 お得意の曲をもってくるとズタズタになってしまいます。目的が違うからです。ここでやることは部分的なところをすごく拡大して、トレーニングに結びつける。「息が足りないからできない」「体が足りないから感覚が足りない」というようなことを知っていくのです。自分の感覚でそのままやってしまうのはトレーニングには意味がありません。歌謡教室のレッスンになってしまいます。そうすると粗だけ探して直していけばよくなってしまいます。しかし、こなすのではなく、歌をダイナミックに歌いこなすためにどう考えるかです。

○声や息の素材

 日本の合唱団が歌っているような感覚に、向こうの歌い手がどうしてならないのかということについて述べます。
 響きの部分での、上でまとめていく部分。これは歌の高音が高い以上、世界的に共通の部分です。生声ではやっていきません。ただ、あまり目立たない人もいるし、ハスキーな声が磨かれた末に深い声になって、上の響きのようになっている人もいます。その辺は人間の声の複雑な部分で、解明できないところです。
 それに対して、下の素材というのは、声の素材や息の素材と言っている部分で、日本人に一番かけているところです。

 日本語ということ自体が、深くポジショニングをとらない。最近は、せめて表面的にリズムから入る英語の学習CDがある。私が見てきたビデオの中では、西村先生というのが、英語はHでハーッと吐く、この練習をしなさいと提唱しています。たしかにそのとおりです。
 もうひとつはイタリア語の発音やドイツ語の発声教材、あるいはクラシックの教科書にもたまに指摘されていますが、喉の位置の問題、日本人は喉をつめて高くなっていってしまう。舌根が上がってしまう。舌から全部結びついて悪い状態になってしまいます。
 最近、体を知ることを勧めています。舌というのはすごく大きい。上あごなどといいますが、実際下あごはあるけれど上あごというのはない。上あごを上げろと言われても、頭蓋骨なのです。などという、知識面です。

 そういうことでイメージが合っていけばよいのですが、解剖図をずっと見て、発声をしようとしても、よけいにできなくなってしまう。
 だから、知るのはよいのですが、それに動かされるのはよくない。イメージをつくるために知っておくこと、後で結びついてきたらなんとなく、正されていく。知識ってそういうです。すでに確定しているものは、確定するほどに使えないものです。生きているもの動いているもの、生ものに学ぶこと。
 たとえば「歌ってどう歌うのですか」というものに対して、「響かせた声で歌う」と言われたからといって、そうしましょうということにはならないと思うのです。それを同じような誤りがおきかねない。

○肺活量のこと

 音楽の友社から、Q&A本を出す企画というのがあります。本音でずっと書いていくと矛盾が起きてしまう。
 声のことを頭で学んでいる人はたくさんいます。すると、「トレーニングをすれば肺活量が増える」というような嘘も知ります。でもそういうことを言う人が、何を「肺活量」と言っているのかということです。肺活量は医学的に言ったら成人したらしぼんでいくだけで増えることはない。でも、呼吸を使えることを肺活量というのであれば、間違いでもない。

○ピッチ

 日本で音程といわれているのはピッチのことを言っています。本来、音程が下がる、届いていないというようなことには、音程とは使いません。
音程というのは、音の程、英語でいうとインターバルで2音の間隔、幅です。2音の幅がきちんととれていないのも、ほとんどが2音のうちの高いほうが届かず、狭くなってしまう。この幅のことを言っているのが誤用されていく。いつのまにか「もっと音程を上げて歌ってください」ということになっていってしまう。

 でも皆そう使っていて、トレーナーまでもが使っているのであれば、それは有りなのではないかと。訳語と考えないで、日本語の音程の定義がそういうものなのだと考える。伝わればよいのですから。それよりは「リズムが悪い」という方が伝わらない分、もっと悪い。「音程が悪い」というのもトーンが暗いようなことを言っている例が多い。

○焦点化

 音色とフレーズのことをやっています。体からの声は、歌に使うときには、特に焦点化しなければいけない☆。これがひとつの決まりです。しっかり歌っていると、どんどんロスをしていきます。サッチモのような人でないかぎり、吐き出す歌唱法はできないしやらないほうがよいと思います。

○起承転結

 長短で日本人はとっていきます。あと高低、いわゆる楽譜の世界にこれらが表れているわけです。
これを変えましょう。歌は、波のように押して、引いて押して、引いて押して、2フレーズ単位です。4小節単位くらいで起承転結をやっています。
起か転のところ、必ず起で起こすのかというと、案外と、承のところで起こしていることも多いのです。
起のところにテーマがきて、起を置いて、承のところから大きく動かして、それで転のところで戻るのもある。
 起で起こして、2,3,4とぶらさげているのもある。

 大体の場合は1と置いておいて、2で大きく起こす。こういうのが日本人の一番ないところ、アフタービートの感覚です。それで3のところで音色を聞かせていく。強くする場合の強調もあるし、弱くすることもあります。転じるというのは必しも強くしない。弱くすることもある。
 サビになると弱いことも結構あります。日本人はサビになると高くなるので、強いと考えています。
それで結はなるべく歌わなくていいようにする。この流れが崩れてはいけない☆。
 この流れをどう歌うかということが音楽の勉強、バイオリニストやピアニストがやっていることです。そういう勉強をして、後半は促せる。早めに何か起こさないと、聞いていられません。
慣れ親しんでは、耳をふさいでしまう。だから常に新鮮に何かを起こそうとしないといけません。

○流れと鋭さ

 要は鋭さということです。声の大小とか高低がきて、単に大きくしたり小さくしたり、高くしたりということと、鋭さは違うのです。そういう鋭さや切り出すところを見せていく部分と、それにのっけて発展していく部分が不可欠です。単純に聞いているとわかります。
 バーッと入られると驚いて、もう一回それをやってくれないかと思っているところで、ちょうどやってくれると、やったという感じになる。
でも、そればかりが連続すると、休む暇もないしつまらないから、その上に何かをのせて何かしらを伝えて、その動きが止まりそうになる前に、絶妙に起こしていくというのが、音楽としての歌です。
彼らの場合は4つのフレーズでもできているし、ひとつのフレーズのなかの4つのことばのなかでもできています。4ブロックのなかでも、歌一曲の中でもできている。
歌1曲というよりは1コーラスですが、ここで使っているような、1コーラス2コーラスくらいだったら、両方を結びつけています。日本人がまだ消化していないということなのです。

○形

 3番まで外国の歌はあるから、我々もそうしようか、なんとなく3分歌わないと、客も歌われた気にならないから3分でつくった。ということ、そこに何の創造性もないのです。
 感覚があるなら、本来ならば、そこの感覚が6番までいったり1番だけの曲に定めていく☆。外国にいくと1番までもいかない曲もあります。8番や10番まである歌もある。ところが日本は、輸入して、向こうが6番まであるからこっちも6番までというような移し変えしかしていない。

 日本人が使うのだったら3番までで充分というか、そんなに長く伝えられない。ムリに形をとるから、お客さんが退屈していく。すると2番のところでアレンジを入れてみたり、3番でテンポを変えてみたり4番で語りにしてみたり、おかしな方向にいってしまう。
 ステージは形にしなくてはならないから、仕方ない。やりたいだけでやれることを考えない選曲ミス。本来は戻って直さなければいけないことです。
基本力が弱いのです。日本人は応用する力はあります。一番よい例は、これだけ下手な歌をうまくするのに、ヴォイストレーニングも発声も使わないで、カラオケを作ってしまった。こんなこと日本人しか考えないでしょう。

 欧米では、素人が一人で人前で歌うというような失礼なことはしません。よほどうまい人しかしない。歌い手や芸人というのは、見下げられているところもある。インドに行って、なぜカラオケがないのかというと、あれは奴隷のすることだからというのです。
 国民的歌手は別格ですが、人前で歌うということは蔑まれることだという感覚があります。
 音楽や歌は聞くものだ、心地よいものだ、自分が歌うものではないという、欧米も似たところがあります。
 皆で歌うときは楽しんで歌いましょうということはあっても、ひとりで歌うというのは失礼なことそれだけ歌が大切なのです。日本でも、うまくない人が歌うのは、本来、失礼なことです。

○かつての歌

 この人は、噺家になりたくて出てきた人ですから、ステージはしゃべりが売りでした。昔のステージというのは、ヒット曲一曲が出る。そうするとそれだけをコンサートで何回も歌う。あとはトーク。今の人たちみたいにレパートリーがない。1曲ヒットして、あと歌える曲が2曲くらいしかない。なかには1曲を1時間、50番くらいまで作って、延々とやったというのもありました。

○耳を鍛える

 タモリさんがよく中国語などのものまねをやっていました。
「バナナ・ボード」も「こんげつぁたりねぇかりねばなーぬ やまぐちさんちのごむほーす」とかなんとか、あのころは皆、歌詞もわからない。聞こえてくる歌詞に日本語をつけて覚えていた。
 そんな覚え方をここでする必要はないのですが、そんな時代もあった。でも耳は鍛えられるのでやってみればよいと思います。英語以外の言語がいいと思います。

○リズムの時代

 20世紀にほぼやりつくしたのがリズムパターン。ヴォサノバなどはつくられた。いくらでもつくれます、世界的なものとして、あらゆるリズムが出てきた。
 この当時、50年代、カリプソやソン、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、それらが得意な日本の歌手、それらに憧れた日本の歌手がいました。
 坂本スミ子さんのようなラテンの女王もその一人です。
 特徴としては、声楽をやっている人が多いのですが、成功したのは音色をもっている人です。
 当時はオールデイズなど、向こうから直接入って、日本人も音色をけっこう持っていたのです。
 今の歌い手は聞いて、ぱっと声がわからない人が多い。しかし、日本人でも深くできるということです。

 「デ 荷揚げすめば」
 発声の教育をうけた人ほど、きれいだけどパワーがない。でも、こういうものが歌という感じだったのです。かなわないというより根づいていないのです。

○日本の歌の断絶

 日本人が歌っているものは、向こうから輸入したものにすぎないとしたら、それで無理がくるのは当たり前です。
 決して声がかなわないわけではない。たとえば私が外国人と漫才を見ていても、外国人は内容はわからない。でも雰囲気的にわーっとなると、おもしろくて笑っていたりする。
 彼に通じる声の表現力は、今ではお笑い芸人がトップクラスにある。歌い手より、声の使い方、タイミングをふまえている。声の輝きがあって、何を言っているのかわからなくても伝わる。
 外国のコメディを見て、ことばがわからなくてもこういうことだろうなと想像して笑ってしまう。
 歌が伝わらないのは、単に日本人の努力不足。歌が原初的なエネルギーを失ってしまって、退化している。歌い手が怠けているだけです。

 もうひとつはどこに音楽のルーツを求めればいいかということ。今の団塊の世代から上、7,80歳あたりの人が、縦のつながりをバサッと切ってしまった。
 そこまでは、接待を受けたら、都都逸や小唄ひとつくらいひねっていた。
 それがカンツォーネやオペラを歌うといったら、そのこと自体がおかしなことです。
 団塊の世代から後、そういうことになってしまったのです。邦楽はそこで途切れてしまった。
 邦楽でも80、90歳の人は声が出せるし、それなりの世界を、歌舞伎でも狂言でもつくっている。謡い一つだって、世界に訴える何かをもっている。今も昔も伝統の入っている人の歌は、強いのです。

 日本ではどちらかというとビジュアル的な面の方が評価されています。日本人の声や伝統のところでの出し方というのは、きちんとは受け継がれていない。
 それから日本の若い人自体が、学んでいない。
 そういうものに興味をひかない世代の責任にできないのですが、それだけのアーティストが出ていないという話になってしまう。おとされてきた分野、なんとなく忘れられてきた分野なのです。

○歌手の感覚の遅れ

 琴や中国の楽器を入れて、編成して「伝統楽器の夕べ」にして声をちょっと入れてしまうとか、人形劇をやって、そこで3,4曲歌うとかいうかたちにすると日本でも引き合いがあります。
 歌手にしても、もうテレビで歌っていないでしょう。歌に3分もお客さんが聞くだけの興味をもっていないわけです。
 お笑いの人でも一席くらいやらせてもらえるのに、歌手が呼ばれても歌うことすらないのです。
 それだけ普通の人の感覚から、歌い手の持っている価値がずれている。ということは歌い手が遅れているだけなのです。もっと他の人たちがききやすいものをすればよい。

 波多陽区なら出られるわけです。あそこで環境問題とか世界的なテーマを歌えばいいのに、芸能人の悪いことばかりしかいわない。そのレベルで日本の芸能界が成り立ってしまっている。
 そんなものを聞きたい人が多くなっている。それ以上のいいものを見ていない。あるいはいいものは外国からくると、いつもそういうもののコピーにいってしまうわけです。
 音一本や歌の世界だけでやっていくのは、これからさらに難しくなっていくと思います。いろいろなところとコラボレートやリミックスをしたくなるもの。

 ここに来ている人も映画監督や人形劇をやっている、舞台の現場の人の方が、声の使いみちをわかっています。
 どれだけ声ひとつで、その作品価値が変わってくるのか、すると声の勉強をしようということになる。自分が女優や漫才師になったら、声の使い方はベースだと、思うわけです。
 歌い手が一番思わない。おかしな話です。音楽で負けることはないから、やれるところまでやって、レベルもそんなに上がらないでファンが離れていく、それが実力かなと思っている。
 他の世界は競争世界、役をとられたり出れたり出れなかったり、いろいろなことがあるから、結果、つまり表現力に敏感になっていく。歌が一番遅れただけのことです。

○歌の成立

 単純にいうと、しゃべりたくなった、しゃべってみる、同じことになって詞になる。そのうちに人が集まってきたから節をつけたくなる。ここの詞が気に入っているから10回繰り返すという感じでやっていたら、歌なのです。
 それをコードから作ってみるとか4人メンバーがいないと歌えないというからおかしくなっていく。そういうものは他人の過去の財産です。
 自分の体ひとつになったときに、感じられることはたくさんある。日常の中の小さなことばでも人を感動させるようなことが現実にはいくらでも起きている。そういうところから離れたところにどんなに歌を持ってきていても、そんなものは必要はない。
 体や感覚の分野から入るというのは、私にとってはノーマルなイメージ。ただ声の比重をどれだけ置くかというのは、人によってずいぶん違ってくる。はっきりいうと、歌は声がなくてもやれてしまう世界でもある。ビジュアルや踊りでやっていく人もいる。

○限界からわかること

 なりたいものが何かというのに時間がかかる。要はイメージする力が必要で、ある程度からだや声と相乗してできてくるものです。
 誰かになりたいというのではなく、自分になりたいというのなら、本当に自分のイメージをつかんでいかなければいけない。
 楽器や絵や踊りよりいいのは、すぐにわからないこと。しかしそれが可能性の探究心なく、甘えになっています。踊りなんかはいきつくところまでいくと限界になるでしょう。 そうなってくると自分でできることとできないことがわかってくる。するとできることの中でやろうとして、はじめて作品になってくる。

 声も同じです。何でもできたほうがいいと思っているけれど、声もよく出て何オクターブも出せたら、歌なんかどうやっていいのかわからなくなってしまいます。そんなことを求めるから表現できなくなる。
 神様があまり声を出ないようにしてくれたり、声量も出なくてすぐ喉にかかるようにしていると、これしか勝負できないとわかる。切り取られたなかに自分のできる限界があり、表現の可能性がある。そのこと以上のことをやりたければ、それ以上の人を世界中から見つければよい。

 イメージをどうもつかによってなりたいようにはなれる。誰かのようになりたいと思うから皆、なれなくなってしまう。自分になるというのは、自分の持って生まれたものを最大限に生かすことです。それを生かせないところは自分ではない。そうしないから、世の中と接点をつけられない。一般に非常に多いわけです。

○やれる世界とは

 頭で考えていて歌が歌えるようになるものではない。誰も歌なんか待っていない。だからあなたが伝えたいものにこだわっていくこと。それをどういう表現形態でやっていくかというのはやってみなければわからない。やっていて、それが才能だと思えば、それを進化させていけばいい。才能はわかりにくいのは、やるだけやらないから。才能があっても、磨かないと世には出られません。

 人と同じ努力をして、人よりも大きく出られる人、それも才能です。すごく努力をし、人の数倍もやって、人と同じ程度にしか表れない。これはあまり有利な世界ではない。そこでやるかどうかはその人しだい。
 100努力して100しか出ない。10しか努力していなくても1000くらい出る人もいるのです。
 やれる世界でやっていったほうが世の中のためにもよい、自分のためにもよい。そういうことがわからないと、いつまでたっても価値にならない。声もやらないとわからない。

 そうなると1,2年くらいでは、すぐやれなくなります。それでもやるのも経験というのが私の考えにもあります。
 22,3歳でチヤホヤされるのならそうされたらいい。そこで得たものや人脈も生きるかもしれない。それでトレーニングの期間をうやむやにすることではない。

○バラエティこそTVの本質

 いろいろな形で世に出る人がいます。本業を持っていてエッセイを書くくらいの気持ちでテレビに出るというのは、これはこれで大したものです。
私は、テレビで出るのが芸能人だという感覚でいます。バラエティこそ、TVの本質だと思っているからです。
 作家は、いつもひとりで閉じこもっているから、たまにああいうところに出ないといじけてしまう。私は毎日、人を見ている。ああいう人たちの中で、そこの現場に20年いるような人たちには、かなわない。かなわないところで勝負しようとは思わない。
 テレビは、ひとつのことをコメントするのに、どのタイミングで言うか、そんなところで勝負していたら神経が擦り切れる。やるかやらないかのどちらかなのです。水が合う合わないというのもあります。

 ただ、才能の集まっている世界です。皆が芸能界が好きで、やっているのではなく、才能があるからそこでやっている。
ありすぎるから他のところではやれなくて、そこでやっているような人もいますから、そこはきちんと見ていったほうがよいと思います。
人材の宝庫でもあります。今の世の中で一番やれる人たちは、たしかにテレビに出ている。やれるが出ない人もいます。多くの人は出たいのに出れないので、そこから言ってみても仕方ない。メディアの一つ、使い方しだいですね。

○聞き方

 とにかくよいものが徹底してその人のなかに入っていて、聞き方がプロの聞き方になっていないかぎり、たいしたものは出てこないのです。そのことを2年くらいでできれば相当早いのですが、4年5年とかけていくことによって、磨かれて深まっていくこともあります。
ましてそういうところに自分の作品があるのであれば、曲につけてみたり、いろんなことを応用してみれば実感をもったところでできると思います。
2,3年たって、声楽をやるのもよい。いろいろなかたちで磨いていきましょう。個人レッスンになったので、個別に対応しやすくなってきました。足りないといえば多くすればいい。あくまで自分の活動があって、ここに補強や知りたいことがあればくる。あるいはここに出しにきて、舞台より厳しい基準でチェックしてもらえればいいと思います。

●グループと個人

 養成所という考えだったので、全員が平均レベルになることを考えていない。一番才能のある人が満足できるレッスンとなれば、それがわからない人は必死になってついてくるしかない。
ついてくるといっても、スポーツだったら、力がないとへたばってそのギャップがわかるのですが、気づかないので難しい。時間がかかる。
当然、それだけのレベルの人は、くるまでいろいろなことをやってきている。そこをレベルダウンしてしまうと、いい人から抜けていく。いい人から抜けていくようなことはできない。

 プロだけ集めてもやりにくい。現場より体から考えたい。声に関しては素人より声のないプロもいます。日本でいえばアマチュアとプロは、声に関してはそんなに変わらないということで一緒にやれていた。すると力のあるプロは入りにくくなった。
それが限界になって、目的がそれぞれに違って、期間も違ってきた。
昔はあるレベルまでいくまで、人前で歌うことを考えなかったのですが、声や歌のことよりも、どう働きかけていくかという創造やメディアのほうに時間をとらないと、先がない。本当は自分でやることですが。
本当に日本のレベルが高ければ、もとのかたちに戻れると思いますが、今の日本の場合は気づくまでの時間のほうが優先的にとられてしまう。

 実際、歌や声がそうなった、ベースをもっている人たちが活躍しているのかというと、むしろ逆です。
まじめな分、客も集められない、曲もつくれない、という感じに現実の場がなっている部分もあった。
 そんなことはここで教える必要はなかったと思うのですが、もしかするとトレーニングで気づかせないできてしまったのかもしれません。
声においては優秀な人に、こういうふうになってからプロになるのかと思っていたという人もいる。

 自分の作品がないかぎりプロにはなれないのです。こちらからいわせれば、そんなことは自分でやっていると思っていたということ、ここでやるべきことではない。ところが関わるざるをえなくなってきた。そうなると個別にみていくしかない。
 その問題が一番大きい。創造に取り組ませる。呼吸や声や歌がよくなっても、働きかけるものがなければ使いようがない。そちらのほうが大切です。ここでそういうことのヒントを学べる、といっても創作はひとりでやっていくしかない。

 いろいろなところをまわってこられる人も多い。要はトレーナーの利用のしかたです。それがすごくもったいない人と、うまく使い切っている人の差が大きい。

○レッスンはサービス業ではない

 器が大きいのがいいのかわからないが器を大きく見せるように対応していく。本当の意味で、自分の中で合うというより、自分のもっているものを生かせる人間はすごく少ないと思います。100分の1もいない。
だからいろいろな人とやるというのもあるし、自分でなくても人にまかせたほうがいいこともある。自分以上のものを、トレーナーも持っている。
 芸大に入りたい人に対してなら、芸大に受かったことのある先生のほうが適役です。そういう意味でいうと、むずかしい。結局、わからないでしょう。答えは永遠に出ない。
 その期間を違う先生につけていたらどうなるかというのもわからない。その人が「すごく役にたちました」といっても、別の先生だったらもっと役立ったかもしれません。その人が「全然だめだった」といっても、あとで役立って、その人が判断したよりも結果的にプラスに出たということもある。それは思い込みなのです。

 日本では、やさしかったり寛容だったりする先生のほうが評価が高くなる。そこも確かにひとつある。ただ、本当の意味の才能やレッスンに求められることとは違う。
 本当に自分の求めることが絞られて、とても高いレベルで求められたときは、人間性が悪かろうがなんであろうが、そこのレベルに対して対応ができることが、第一です。
 はっきりいうと医者なんかはそうですね。たとえばむずかしい手術で、誰もできないというものを、その人だけは抜群にうまいといったら、サービスや人間がどうであろうが、その人がやるのが一番いい。それ以外に関しては、へたな先生なら、説明は別の先生がやってくれたほうがいいとなるかもしれない。

 スポーツや医学の世界ははっきりしているのですが、声は結局わからないでしょう。同じ時期に同じことを試せない。思い込みで進むしかない。そういう偶然の中で自分の置かれた状況のなかで、どれだけ他人を生かすかということ、それからその状況を打破する力があるかどうかです。先生を変えるのも打破の方法の一つではあるが、大きい目で見ると、それがよかったか悪かったかはわかりません。
 ある意味では求められたことをトレーナーは与えるのですから、本人が満足してくれたらそれでいいとなる。もったいない使い方をしているというのでも、「ありがとうございました」といえるなら、それはそれでいい。

 私なんかはそういうのは大嫌いで、やる以上、世の中に大いに役立ってくれないと困るというところはどこかにありました。そんなのだったらやらなければいいのに、と当人には言わないが、もったいないということなのです。もっともっと使えるのにといつも思う。私が会報書くくらいは、レポート出せよと言いたい。そうしたくないならそれでよい。
 歌や声に気をとられたり、レッスンに時間を費やしたがために、それを他にふりむけたら、その人がもっと世の中で役立つ才能があったかもしれない。その辺になってくると、好き嫌いなどの問題も含めて、こちらで定めようがない。むずかしいですね。永遠に判断できないから、今もここを開放しているところです。

○教えられるということ

 私は教えたいとは思わないし、ずっと教えないと言ってきました。
歌い手なんかは、自分は恥ずかしがりやだと言っても歌っているのだから、自己顕示欲が大きいのと言われるのと同じで、ふつうの人の感覚から見たらわからない。そもそも少しばかり接しても、教えられるものではないとは思います。

 私は20歳のときに他人のところに教わりに行ったというのは、10代で世の中でやれている人がいるのに、自分はやれなかったという、勝負はどこかで区切るのしかないのですが、私の時代はそうだった。
20歳くらいで死ぬとしたら、何もやれていない。そうしたら頭下げるしかない。
歌えるようになっても、すごい奴がいっぱいいる。常に上しか見ていないときは、世界と自分が近く思える。
そういうものは教えるとか教えられないとかいうもので見るということではない。何かしら天が与えた才能というものについて、私は好き嫌いで考えるということはありません。

 自分が好きであろうが嫌いであろうが、天の与えた才能があれば、それを使い切るのが人生です。
 他人の役立つために生きているのではないけれど、そうすることで他人に役立つ。そのほうがたぶん幸せです。好き嫌いを超えて、それが使命です。
 そういうことでいうと、無理して歌に関わったり声を出したりしなくてもいいと思うし、皆歌いたいとか自己実現したいといっても、ほとんどの人が成していない。

 がんばって、努力しているといっても、それで切り開かれていないのは、おかしい。切り開くためにやっている。切り開くというのは失敗や成功ということではない。やるかどうかだけです。セッティングを最初からきちんとしていないのではないかということです。その辺ののど自慢チャンピオンめざして歌っている人のほうが、まだ人生と歌をきちんと一致させている。

 歌に振り回されて一生棒にふったといっても、当人がそう考えているだけです。歌って何なのかといったときに、最初のあこがれのままにいって、自分が歌を歌う立場のほうに、本当の意味で立てていないのです。
 誰かが作ってきた土俵で、自分がやりたいと思っているからできない。そうやれる人は20歳でやれています。
そこでやれなかったら、自分の土俵を見なければだめです。そうなったら、自分の土俵というのは他人から教えられるものではなくて、その人がそこで生きてきたなかで、感じたり思ったりしたようなものです。
それが一番ごまかせられやすいのが、日本の中では、音楽というより歌だと思います。

○歌というものは

 音楽はごまかせない。ピアニストは腕がよくないかぎりピアニストにはなれない。ところが歌というのは、状況をつくってやれば誰でもやれてしまうかのように思われている。場の力でけっこう感動してしまい成り立ってしまう。それなりのドラマも生まれてしまう。非常に安易だから、気をつけなければいけない。

 勉強しているつもりでいて足をとられていることになる。楽譜を読んだり発声を習ったりするのもよいのですが、本当はそうではない。
 自分の伝えたいことがあって、それを本当に伝えようと思ったときにことばにして、それにちょっと節をつけてみたりすると、より大きく伝わるから歌を使う。それをかたちから入ってしまうから、ことばで言うより伝わらない。
そういうなかで日本の中では歌が使われてきたから、誰も歌に見向きもしなくなってきた。だからお笑い芸人の勉強をしろといっています。

 私の動き自体が、なぜライブハウスにも歌い手にもあまり興味がないのか考えて欲しい。お笑いや落語の人を見て勉強している。誰かのところでのっかってやっている人は勢いがなくなる。
 福島が教えたら福島以上の人間は育たないのです。私が最低ラインでなければ、研究所は何の意味もないのです。トレーナーのようになるということはそうではないということなのです。
 自分の可能性を100人に与えることによって、100人が少なくとも自分と同じだけのものを、早く手にすれば、可能性が広がるのです。世の中はそうして動いてきた。

 教えることは嫌いです。昔から教えないといわれる。それでよいのです。
 私は生きて動いていれば、表現し続けていればいい。歌い手なら歌っていればいい。本当にいい歌を歌える力があれば、誰かが影響を受けて育つ。私はこうやって生きていくなかで何かをつくっていったり伸ばしていったりすることにおいた。
皆、区切りすぎなのです。歌はこう、仕事はこう。日本の場合はレッテルとの戦いですね。それがわかっていないと、自分でメディアをつくっていくとか動かしていくことができない。結局、自分のステージでなければ自分の客を採っていかれないのです。皆、歌にたいして幻想を持ちすぎています。

○表現と世の中

 歌や声は、戦うための武器、少なくとも私にとってはそういうものなのです。戦っている人たちがことばを発しているのが歌であって、どこかに逃げ込んでやるのは余興。
カラオケならどこかでたれ流しでやっているのでいいのですが、メインに生きていくのなら、そんなものは教えられっこない。
今の出版、マスコミ、音楽業界、私がやれてしまうくらいでは、本当に情けない。何とかならないかという気がします。
それは人のことをだめというより自分がやるしかない。だから恵まれていると感謝もしています。
 アメリカのような世界だったら、どうやろうかどう育てようか、トレーニングして何になるかと最初から見えてしまう。
日本なんかはそんなところで反応しないし、つくりようによってはいくらでもやれる。多くの人がやっていない。一番肝心なのが、表現の核の部分です。

 表現したいというのはいいのですが、それが生きているエネルギーという核の部分であって、ただの歌いたいという欲の部分では、人は決して歌を聞きたいと思わない。経済や政治とは関係ないのもおかしい。自分がこの時代に生きてここにいてというところが原点です。そうするといろいろなことが全て関わってくるのです。
 東京というのはややこしくって、何も身近にリアルに感じない。
私も音楽以外のことばかりにわずらわされることになります。そういうことに対して、音楽でも表現でもよいのです。どう対峙するかというところ、その思想がなければ、歌なんか必要ない。
 誰でも歌っている。レッテルを貼られるのもまだ返してくるだけいいと思う。
 私が政治のことをいっても仕方がない。でも皆、表現する題材を身近にみないで探しているのです。そんなのを探さなくても、足元に落ちている。どこか他のところにあると思っているのです。生きているもののど真ん中にあるし、そこからつかんだものでないと通用しないのに。

○いい人=先生?

ヴォーカルやアーティストでやっていく人はわがままです。それがどこまで貫けるかということです。貫くということがわがままなこと、それを納得させる力が必要になって、本当にそういう身の置き方ができればいい。
先生っていわれる人は、案外といい人です。それはそれで立派なことだと思います。
 昔は何かの職についたら、そういう身の置き方になったのです。
力をつけないかぎり蹴飛ばされる。今は、蹴飛ばしてもくれないから、自分の力というものがわからないのです。ひとりでやればすぐにわかることなのです。

 ひとりでやったら何人集められるのかどれだけ稼げるのか、そういうことをいうと音楽はそういうものではないという人がいるけれど、プロとして音楽でやっている人は稼いでいる、人を集めているからです。よいものをつくるにはそれに専念する時間も世に出すための人や金も必要です。すべて一人でできない。
 そうするとお前の音楽って何だということで、多くの人は芸術から離れて、やっているうちに人が丸くなって、家庭や社会でやれるようになって、それはそれでいい。大人になって成長していく。
 そうなれない人が人類にいいものを残していたり犯罪者になっていたりする。
いつも、いろいろな人がきておもしろいことはおもしろい。専門学校や大学は、人様のところなのでそこまで本質的に関わってこないのです。
 それこそ、そこの周りの人に迷惑をかけてしまう。どこの専門学校も似ています。ただ、競争意識が働いていて、プライドではなくて、やることをやっているところはいいですね。音楽大学よりはずっといい。
 音楽に関しては、そこまで芯が入っていない。いい人すぎるのです。教科書しか知らない。なんか強制されたようになっている。日本の特色ですね。

 外国人なんか外国から呼んできても、日本人に対してそうなってしまう。同じ外国人同士だと競争意識やプライドがあるからけっこう強く当たっていく。本質的なことでやっている。
日本人は音楽を知らないから、「楽しんでやっていたら音楽になります」というような。彼らは人を扱うプロです。
成り立っているように見せるのです。錯覚させることが誤りです。確かに音楽は楽しいし、人と人がつながっていける。それが根本ですが、それは誰かの土俵の上でやらされていることであって、自分がその立場に立ったら、それだけのものではないのです。
 学校に行っていると、生徒はお金を払っているから、そこでお客さんになっているのを忘れてしまうのです。
価値をもってやればいい。そこまでこちらの力もない。昔のある時期に成り立ってきたのは、こんなところに本当に信じ込んできた人がいた時期です。信じられないのに成り立つわけがない。信じる力しか人を動かさないのですから。今のように整ってしまうと、難しいですね。

 教科書以外のこと、人間を伝えるのにアーティストに必要なことは、一般の人として生きていくには、つらいものとなる。私がアーティストにすることはできない。多くの人は思い込みに生きているからです。


○イメージの課題

 常に課題は、イメージがどうであるかということとイメージに対して声がどこまで伴っているかというかということです。
 イメージにしたがって声が出たときに、それでいいのかどうかという判断からです。
 ふつうのトレーニングはイメージに対して声を伴わせる。たとえば高いイメージに対して声が高くとれないからギャップがあるとか、もっと大きく、柔軟に出す、というようなイメージを先に肯定して、そのイメージまで声が扱えればいいという考え方です。あるいはイメージがなくてとりあえず音域や声量があれば、イメージが描けるというかたちです。
 音響がこれだけ何でもできるようになってくると、人間が自分の身体でやれることよりも、音響がやれることのほうが大きい。そうすると上手下手でも声量のある人でもない人でも、差がつかなくなってくる。ただ、音域というのはピッチなので、唯一、高いところが出る出ないという人が分けられます。

 同じ歌を歌って同じキーを歌うのであれば、そこは勝負ができます。ポップスの場合は出ないなら下げればいい。そちらで違う歌い方ができると、聞いている人はどの音まで出しているというところでは聞かない。
 その人のめいっぱい高いところがどれだけこなされているかということです。
だから単に勝負ということを考えるよりも、高いところを余裕を持って出していたほうが、ギリギリ出している人よりはいいということになるのです。

 ただ、そういうことでさえエコーをかけると判断できなくなる。私たちは判断をしますが、普通のお客さんはそこまで判断をしない。ましてバンドの音がかぶさってきます。生の声で伝わっているわけではない。マイクや音響を通して伝わっていくときに、音響のほうで7〜9割加工できるのであれば、生の声にフィードバックしてもしかたない。逆にここで、生の声でいいなと思ったものが、音響でそれほど伝わらないとしたら、逆のほうがいい。

 本当のことでいうと、イメージのほうをどう持つかというのを、再設定するということ。それに声が伴うし、もし伴わなければそれは使えない。いずれ伴ったときに出てくればいいんだなという考え方です。一番の問題として、イメージをいうのは、自分の声を聞いて違和感を持つ。何で持つんだろう。それは自分の声に何かしらの理想があるからです。
その声は、テレビで聞いている声であったり憧れているヴォーカリストであったりするから、決して自分の理想にとってはいけない声なのです。
そのイメージに対して、問題を設定していって声をつくっていっても物まねになっていくだけです。
本当は自分のなかの理想の声に対してイメージを設定しなければいけないのです☆。そんなものは出てみないとわからない。
 声も3年5年という目でみれば、ある程度の範囲はわかる。変わらない人もいるのです。これから歳をとらないとわからない。自分でも変わってきているけれど、他の人の中でも変わってきている。すごく大きく変わる人と変わらない人がいる。
 変わらないのがだめなのかというと、声の良し悪しから、あまり判断ができないのです。むしろ声の中味も問題です。

○声の理想

 たとえば、敬語というのは正しい間違ったというのは言えるのですが、声というのは個性だから、あなたの声の出し方はだめ、この人はいいといえない。まして、ことばや台詞として使われたとき、役者でも歌い手でもそうですが、ああいうふうにやらなければというのは、楽器が違うのですから、言えないわけです。
 一番勘違いしてはいけないことは、まったく違う人の影響下にあることでおきる。自分の理想の声を設定するのはよいのですが、それが自分の声を理想にした延長上の設定になっているのか、難しい。

 音響がこれ以上進歩するとどうなるかわからないのですが、生の声として魅力があるという人はいます。その表現、使い方、組み立て方というのもある。そのイメージを細かくわけないとだめです。たったひとつの声で見るところ、声の使われ方やフレーズに対してみるところ、それから声の組み立てに対して見るところ、歌い手には3つのバランスがそれぞれ違うかたちで入っています。
 そういったときに自分は声が完璧だから、聞き手も心地いいから、その9割に焦点を当てようとすると、響きや声そのもの、オペラ歌手のベースの部分となる。彼らの場合は発声技術に負っているけれど、ポップスは困ったことに、その2つのうえに個性や使い方がのっているのではなく、その使い方がおろそか。組み立てだけでやっている人もいます。その辺が今日の音色の課題みたいなものです。

○身体の声

 ここで使いたいのは、身体につけた深い声です。それをやわらかく開放して、微妙な響きを出して歌うのです。ベースとしての身体づくりをいっています。身体としての声がまずひとつ、そこで身体の深いところで練りこむから、フレーズが動かせる。
 そうやって自分でリズムのグループを刻んでいく。グルーブのところに対して、歌を乗せて歌っていく、これはセンスのいい歌い手に多いのですが、声自体は本当の意味では回っていない。でも音響効果を使えば、そういうふうな感じが出る。それでは身体づくりと音的にどうやって置いていくかということが反するわけです。
 身体を入れようとしたら、当然音がセンスよく回らなくなる。音やノリなどを重視したら、身体を使うことはできない。だからどこをとるかは、その人によります。
 最初の1フレーズに、2年かけようということです。役者には必要なところです。ことばが腹から言えて、音色がつけられて表現力が伴うということです。

○タイミングとバランス

 ところが歌い手の場合は、そういうところでない部分で7割方つくられるようになってきたので、あまりこだわらなくなりました。
そこにオリジナルの声をとること、自分の中の楽器としての最高のものにのせたいというのは今でもあるのです。ある意味ではクラシックと共通する部分です。
 ここで聞かせている日本人の共通な部分は、けっこう、そこではないところに声を音色をつくっていますがそれを音楽的に消化することによって、音楽としても聞かせられるようにしています。
 どうしても3分もたせなければいけないし、声域も伸ばさなければいけないということもある。音程をあまり出さないで処理できなければいけない、ことばが伝わらなければいけない。
音域を何よりもとらなければいけないということから、バランスから考えていくと声は浅くなってしまう。そこに関しては昔は基準を置いていた。そんなこといっても、すぐに1オクターブ、きちんと腹から声が出るわけではない。その必要があるかというときに、伝われば勝ちという部分があります。昔ほど腹から歌うことは、めざしてみるが、全員に求めなくなってきた。

 それよりもバランスが必要です。トレーニングというのは、猛烈にダッシュを20本やりましょうということです。しかし、たとえばサッカー選手が、それを試合中精一杯やっているわけではないでしょう。自分のところにきたときには集中して完全にキープするけれど、ボールが遠くに行ってしまったときに、その集中力とその動きはとらない。当然全体は見ているし、自分の身体だってリズムにのせている。遊んでいるわけではない。観客から見ていて「さぼっている」と見えてしまうのはだめなのです。その全体のなかのリズムで、タイミングとバランスがあります。すごく集中して、完璧に1センチもそれてはいけないという、パスやシュートをもらったときはそういうときだと思うのです。でもそれ以外のときは、その集中力は必要ない。というよりそれを全部持っていたら、つぶれてしまいますね。

 実際ポイントでとりに行こうというときは、全力ダッシュをしなければいけないしドリブルで抜かなければいけないというのがありますが、守備でボールがこなくて、向こうでがんばっているときは、別に休んでいるわけではないけれど同じことはやらないですよね。
 歌はひとりですが、歌の中でそういう部分も出てくるということです。全部マックスに歌っていたら、ぎりぎりに詰まってしまって壊れてしまう。本人が伝えようとする気持ちだけで、実際に観客には伝わらなくなってくる。それはなんでもそうです。余白みたいなものが必要です。
 絵でも、全部ベタで塗ってしまったら何も伝わらなくなってしまう。よく大きな声を出すのではなく線で描いていきなさいといっています。
聞く人のほうからすると、デッサンや変化が見えるとか、動きが見えるとかいうことでなければならない。そうでないところでどんなにがんばってみても、それは空回りです。それは自分の感覚の中で決めていくしかない。だから、ここをがんばろうとかいうことは、歌の中ではそんなにない。歌うのはその歌によって動かされるようにおさめていかないと仕方がない☆。

 自分で見つけていくしかないというより自分がつくるのです。絵でも描いて、バランスが悪いと思ったら、バランスをよくしなければいけない。でもそのなかでも、背景をぼかしていいところときちんと描くところがある。でも人物の、人間の目を描くほどの集中力や注意深さというのは必要ないでしょう。それは決して捨てていいとかぼかしていいとかいうことではなく、そういう意味です。

○ピークにつなぐ

 最終的には何を問うかということです。全部は問えない。だからひとつ決めてひとつのテーマを伝えるということです。もうひとつ絵を入れたいのであれば、あの瞬間のあの音がテーマなんだよということで、そこでうねりだして、そこに違うテーマも入れたいのであれば、もう一枚描きなさいということなのです。一曲でひとつ伝えれば精一杯。

 つなぎを含めて曲というより、何もなくてやってみればいいのです。たとえばそのピークだけをやってみればよいと思うのです。ピークだけを人前で歌っても、客は納得しないでしょう。じゃあ何が必要かということです☆。
 歌い手だけではなくバンドなんかも入ってきます。ひとりで歌うのか、ピアノをつけて歌ったほうがいいのか、アカペラか、ギターをつけて歌ったほうがいいのか、それは、全体のバランスで計算です。どういう観客で何を問うために自分のスタンスとしては、どうしたらいいのかということです。

 1番まで歌ったほうがいいのか、3番まで歌ったほうがいいのか、これも歌だけではない要因で、いろいろと決まってきます。だからかたちから入ってしまうと訳がわからなくなってしまいます。なのに、皆、曲の形から入るからわからないのです。
 あの人の歌で、ああいう支持をされたから、そう歌っているとなれば、考えなくていいのですが、その結果その人のものではなくなってしまいます。
 余白なしの歌があってもいいし、いきなりサビでもいいし、それは自分がどうつくりたいかということ。人の歌を歌うときは違ってくることもあると思います。

○ブレス

Q.プロの歌を聞いていると、踏み込んで語尾を歌ったあと、ブレスを感じさせないで次にいっているようですが、実際はどうなのでしょう。
 ブレスしていないときもあるでしょう。ここは勉強のために、わざとブレスがもれて吹き込まれているものを使っています。ブレスを入れないような録音に後でしていけば、ブレスは見えないし、目立たないようになります。

Q.1フレーズは語尾でとめたら終わりなのか。

 フレーズ自体の定義は、さまざまです。小節、一呼吸、ひとつの流れ、などある。私もかなり適当に使っています。
半オクターブで4フレーズと言っている。「4フレーズはどこまでですか」と言われても、なんとなく4小節から8小節くらいかなという程度なもので、そこでブレスを2回したら、3フレーズではないですかと言われても、そういう考えもあるなということで、定義が決まっていない。
 ひとつの呼吸の流れとして、厳しく言ったら歌の中では全部つながっている。1ブロックでもつながっている。AメロならAメロだけの流れもつながっている。それは、ことばをわけられたらよいのですが、あまりわけられないのです。

○日本のシャウト

 日本人のこの手のシャウト型という人は、10代後半から出てきて20歳前後くらいにデビューして、まだ身体や声ができていない。力でぶつけていて外れていきます。外れていくから、それは浮いてきてしまいます。喉がつまりかねないから、何かしらそこでやることによって、音楽として生かす。これも「た」で入れ替えています。それを音の流れの方に乗せることによって、イメージとしてつないでいく。だから声からみたらめちゃめちゃなことがおきているのですが、歌として聞いたらひとつの説得性を持ちます。
 逆にいうと発声なんかを勉強したら、こうはならない。だから、これがよい。
 そのまま深まっていくタイプはあまりいなくて、だんだん喉をやられて40歳くらいになると、声がなくなってしまうことが日本では多い。

 こういう「た」の切り出し方というのは、破綻させたものです。「た」があって「げ」のところで持ちこたえられなくなっているのですが、「げ」で動かそうとしているのが浮いてきているから、「た」でまったく違うところで切り込んでいる。感覚としてはロックのベースの感覚のほうに沿うようになっていますから、この人独自のオリジナルにはなっています。

 「あい」の方に集中して入れ直して、そこだけ瞬間的に入れるのだけど「ひび」のあたりは捨ててしまっている。ところが普通の人というのは「あい」のあたりにここまでテンションを持って来れなくて切り返すことができなくて、だらっと入ってしまって「ひびを」でがんばってしまったりする。そうすると全体の歌の流れが引き締まらなくなってしまいます。

 これも「せえ」から「と」のあたりで、もう少し粘れると、もう少し歌が大きくなるのですが、さっさと見切って先に進んでいく。それは頭で考えているのではなくて、ロックという感覚が入っていて、そのグルーブの動きにこういう人たちの声は伴っていくのです。
 だから声が厚くなったり薄くなったり、若さや技術の未熟さではありますが、それよりも強い音楽のグルーブ感が入っているから、案外と聞いている人には違和感はない。声の分析をして聞く人はいませんので、そういうところは見習っていいと思います。

 こういういうところも、少しバラードっぽく「い」のところですぐに行かないで、もうひとつねばっている。こういうのはプロのひとつのサービス精神というか、そういうつもりはないのでしょうが、ふつうならこういくのだけど、ためて、それから開放する。いわゆるメリハリになってくるわけです。だから結果的にはうまくいっているのです。だめな例として出しているわけではないのです。

 「よいどれ」
 後半の方は言えていないのですが、パッパッと言い換えてしまうことによって音楽は壊さない。

 ここもそうです。「しらけた」のところはよいのですが、その後になると浮いてしまっていて発音不明瞭で訳がわからないのです。持ってはいます。

 「厚化粧ひとつ」
 こういうのはフレージング、ひとつのオリジナルフレーズだったり動かし方です。他の人がこれを真似しても、この人の真似だと言われてしまう。だからといって、それっぽい癖がついているのかというと、こいつはこういう歌い方だとひとつの型です。この人の型が出てくるわけです。

 「あの歌を」
 こうやっていくと、自分のバンドですから、声などで切りにくいところをバンドで効果的に出していっていますね。だから、歌だけで勝負するわけではない。そういうことも考えていけばいいと思います。

○反発声論

 こういう発声というのは、胸を中心に頭声に持っていかない。合唱団や声楽、ヴォイストレーナーがやっているようなことに完全に反するかたちです。完全に開いてしまったかたちです。ただ、マイクがあるということは、自分の喉を痛めない人で、完全に同じことができればやりようはあるということです。
 欧米なんかはそういうパターンが多い、ただそれが響いていくので、さらに高いところまで出るような人が多い。このくらいで上のファくらいです。普通、男性だと上のシドレくらいのところで、感覚を変えないと持っていけない。中にはミくらいまで持っていける人もいる。大体ドからドくらいまでは感覚が同じで持っていけるのです。

 私の考え方では、上のドくらいのところで同じくらいに揃えておいて、3つくらい下のラくらいから感覚を変えて、ファからソくらいまでカバーすればいい。ただテノールやカンツォーネの発声からいうと、今度は上の響きをとりにいってきますから、こういうかたちにはならない。
 劇団四季が典型的、カンツォーネやシャンソンなんかも日本の歌手はそういうやり方をとっています。だからそれがいいのかどうかは、日本の場合は両極に分かれています。ただ、こういうふうにやれている人はあまりいないので、やれるようにしていくのもヴォイストレーニングです。どちらかというと役者よりの入り方ですね。

○お湯をかく

 無理して歌っているようだけど、音楽が入っているのと音楽の流れが入っていてグルーブの中で、ある意味では回転させている。同じような声の出し方を真似て、ほとんどの人が喉をつぶしていくのは、直線的に出すからです。歌っているところの全部、喉をゆるめないのです。
 ところが本当に音楽が入っていたり、リズムがわかっていたりすると、お湯をかくようなもので、かかなければいけないところをかいたら、後は流れにのって、次にかくところのポイントまで休みます。

 外国人はあれだけ歌っているようでも休んでいる。きっかけのところとグルーブのところには入れるのですが、それ以外のところはほとんど休めている。
 日本人の場合は、母音が中心で1フレーズに4つあれば4つのことば、8つ音が入っていたら、8つとも言うでしょう。ラップなんかでもひとつの音符に3つつけながらも、結局3分割にして3連符で言っているので、喉が休まらないのです。だからそういう意味でいうと、もっと体を使えるようにすることです。
 このように歌えるのに日本人は歌っていない。深く出せるのに高いところで浅く抜いていく。たぶん高いところで響きで出すことに歌い手自身の快感があって、そういうのと一致していくほうをとる人が多いのだろうなと思います。あとは鼻に響きを集めていって置いていく歌い方は、喉を外すひとつのやり方だと思います。

○ロックする

 「HERO」ではなく「疲労」に聞こえますね。
 悪い癖がつくからあまり使えないのですが、うまく使っています。カンツォーネをやっても、後には、日本語のほうがいいということで、ベースの練習に使っていました。
 今の時代での、必要性はわかりませんが、要は声で歌おうとしていない。リズム、グルーブの中に音色を持っていくような感覚で歌っている。日本にはなかったロックの発声です。

 私の「ロックヴォーカル基本講座」の本はロックのことを書いていないといわれますが、やっていることがロックです。別にロックというジャンルでやっているのではないのです。なかなか理解しにくくて、発声教本のようになってしまいます。

 あなたはこれをどうするか、それに対してプロは、どうしているのかということです。歌の流れ、この歌のリズム、ロックの感覚のことを優先できているものです。

○つまった表現

 「ただ一言だけ」
 こういうところはポジションを変えないでやろうとするから、こういうふうにつっかかっていくのです。
 ヴォイストレーニングをやっている人は、これを意図も簡単に当てる点を変えたりまわしたり、抜いてしまったりするのですが、それが本当にいいのかというと、案外とつまっていくほうが気持ちが伝わる場合がある。
 こういうことは教わるということより、最終的には自分の中で選ぶということです。いろいろなよけ方を知っているのは大切です。ただよけ方が歌い方ではないということです☆☆。
 歌を全部成り立たせるために、音が取れなくなってしまったり、流れが崩れてしまってはいけないから、いろいろなことは知っておいたほうがよいが、本質的には中心のところの一箇所で声をもったほうがいい。

 技術的には高くないが、日本人の枠を破っているところがある。というよりはその人自身の歌ですね。彼らもいろいろな歌を歌って、浅くやっているものもあります。いい曲は歌っているうちに熱が入って、体が使える、音程やメロディだけではないものが聞こえてくることもあります。練習課題としてうまく使えばいいのですが、悪く使ってしまうともっと悪くなりかねないところがあります。

 もっているかということと、それができるか、つなげられるか。まずアイディアといっても難しいから、こういう人たちから、こういうやり方、こういうパターン、こんなことを盗んでやる。
 普通でこれをやるイメージはわかりますね。日本人の歌う退屈な「第九」を聞いてもわかります。声のある人たちがやる本当に退屈きわまりないものに対して、決してそうはしていない。見せていくのです。
 「色即是」のところも、要は入れるところを決めて、抜くところというよりも捨てるところを決めたらいいということです。全部を歌っているわけではありません。もし全部を歌えるのであれば、それを1カ所あるいは2カ所に集中させて、他のところは流れに乗せています。

○変じる

 ここで一回終わるわけです。
 だから終わる前に、歌い上げて終わる場合もあるし、同じように歌う場合もある。常に考えてほしいのは、彼はもっと歌えるのに、なんでここでこういうふうにしたのだろうということです。それは何か伝え方を変えるために変化をつけるためです。

○歌わない

 慣れていないと、歌わされてしまうのです☆。彼は歌っていない、描いていっている。この曲に対するキャリアだけではなくて、体や声や息、あるいは音をどういうふうに見せていくかということに対する、いろいろな意味のキャリアの素があるのです。

 だから彼がどう使うかは別にしても、この曲ひとつを聞いたら、どれだけいろいろな音色を豊かに入れて、いろいろな引き出しをもっているかがわかる。

 それにしても、いつももってきかたが、ワンパターンだという感じがします。それは彼の作品で彼が選んでいるわけです。トレーニングはこういうことができるために何をやるかということです。こういうことをやれるベースの部分をつけていく。このことをやればいいのではない。しかし、結果的にいうと、こういうことを直接やっていったほうがわかりやすいですね。

 フレーズの中で息が使えていない、使えない、保てない、あるいは切れない、パッと入れないとか、入ったのだけど抜けないとか、見せ方を変えたのだけれど全然つながっていないとかチェックする。

 自分のやった先、イメージしたことに自分の置いたことがつながらない。じゃあ、つなげようとすると今度は何も出てこない。よくあることです。

 自分を出してしまうと音楽にならない。音楽にしてしまうと自分が出てこない。それは自分が音楽を学べていないからです。もっと学んでいくと、自分の音楽がそこに出てくるわけですから、たくさんやればいいわけでないですが、いろいろなことに気づくことです。自分の体や呼吸、イメージと心、いわゆる心身を一体に練りこんでいくような練習を一番のベースにする。だからといって喉を壊してはだめです。

 けっこう若いときに感覚的なものでやれたり、けっこう喉が伴っていたり太い声があったから、シャウトになったような人、こういうのは稀有な例で、大体、センスがあると声は浅くなってしまう。

 そうでないとなかなか音楽にならない。音楽にどうするかというのを考えて、自分の声を調整してみてください。

 このくらいのものはあまりことばに左右されなくていいです。ことばがぐちゃぐちゃでもフレーズが聞こえていたらいい。どうせ普通の人が聞いていてもわからない、でも聞いていて、フレーズとして成り立つか成り立たないかというのはわかる。
 ということは、最初の一行、くらいのところでも2年分くらいの課題になると思います。

 ここのところまで構成までできたら、もう歌の課題は出てこないと思うのです。音域的にも声量的にもそうです。あとはこれの繰り返しです。アレンジャーの仕事でもあります。
 これを誰もが歌うのはきっとこうだろうな、それに違いをつけたい、違うことをやると変だ、でも変じゃない、それが何か説得力があるというところを選びだしていく。
今できることとできないことがあります。でも今だったら、こうという作品、それから将来はもっとこういう作品にしたいという方向と、その両方で見ていってもらえばいいと思います。

○形をとらない

 声がいい人は声を生かせばいいし、使い方がうまい人は使い方をやればいいし、両方よくなくても、音楽的な見せ方もある。それからもうひとつは音響がいろいろなことができます。

 ただ、音響から入ってしまうと、また形になりかねない。ごまかせてしまう部分があります。そうするともう歌なんか歌わないでコンピューターに歌わせておけばいいということになってしまう。そこは人間がやるべきところです。

 私があまり高い音や長い音、大音量ということをいわなくなってきたのは、そこは人間から離れて形だけになっていくからです。人間が勝負してもかなわなかったり必要のないことだろうと。

 一番難しいのは、その理想のイメージと、そのイメージに対して声が伴わないとうまくできないというのです。本当にその理想のイメージが自分のオリジナリティに根ざした上にあるのかというのは、長くやっていかないとわからない☆。

 ほとんどの場合は憧れから入りますから、自分でないイメージです。そのイメージに対して近づけていくのは、真似をしていくことになってしまうから、どう考えてもうまくいきっこないのです。

 そうすると自分自身の本当のオリジナリティのイメージというのは、今の自分でなければないわけです。将来の自分ということになってしまう。それは直感的に探るしかない。つくっては壊しつくっては壊し、まだ見ぬものです。そのイメージの問題が大きい。イメージに対して声が届かないとか大きく出ないとか、そういうことこそ技術なんかより音響で、相当片づく。

 残念なことながら、日本人の耳自体がそんなところにない。海外にいくと私くらいの耳で皆が聞いていると思えばいいのです。理屈は言わないけれどだまって聞いている部分では。

 日本でそのレベルで聞いている観客というのは、ほぼいないわけです。それでもとことん追求してよいものをといってもいいのですが、そのかかる努力や年月を、もっと別のほうに向けなければいけないというのは、現実論としてあるのです。

 日本なんかを越えて、世界でトップのことをやるというのなら別ですが、日本人が世界でトップをとれたとしても、そこで賞をとれたことで日本で認められるかもしれませんが、たぶんそのまま日本でやっていたら、あれなら外国人を聞いていたほうがいいということに、なってしまいます。そこが難しい。

 研究所を出て洋楽そっくりに歌えるような人がたくさんいるけれど、洋楽そっくりのレベルで仮に歌えたところで、所詮向こうのワンオブゼムではないかとなります。日本人で聞くくらいなら、向こうの歌手の歌を聞いていたほうがいい。

 それから声がすごく出る人や響く人が歌っても、それならオペラ歌手を聞いたほうがいいとなる。声が伝わってこないとか、否定的な側面から見るわけではないのですが、何をやってみても結局、その人の作品というものを感じられるようにつくらなければいけないというのが第一です。

 客が何を聞くかということは、配慮せざるをえないのです。そこを自分の感覚でやってしまうと、自分と同じ感覚の人間しかそこにこない。

 日本のジャズなんかでやられているのはそうですね。ジャズに詳しくて、洋楽をよく聞いて、日本人なんか口先でしか歌っていないというところに、“それっぽい人”がいるとすごいとなる。たいした差はないのです。

 ただその見せ方が慣れているだけでまわってしまう。本場のところからやっていることからしたら、真似事にしかすぎない。でも、日本ではそこですごい差がついたようにして成り立ってしまう。その辺が難しいですね。

○オリジナリティ

 本当のオリジナリティはまわりに相当嫌われるものです。皆が嫌うから、それが好きな人は絶対にいるのです。とことん嫌われるようなことをやれば、とことん好きなやつが何百人か何千人かにひとり、いる。CDは100人にひとりが買うわけではない。1万人どころか10万人にひとり買ったとしてもすごい数です。だから逆に考えてしまったほうがいいのです。
 何かに似ていたり何かに同じになっていたり、何か他の人もできそうだったり、ということではないことは何だろうかと。そうするとあまりないですね。

 絵でも描いてみたりしても、たしかに自分が書いたからオリジナルなのですが、でもこの手のものなら、その辺の絵画教室に行ってみたらひとりくらいはいるぞと、思われてしまう。そこから全部外れたようなことをやろうといったって、キャンパスの上に針金を立てて、おかしいことをやってみても、何でもできると、今度は訳がわからなくなってしまう。誰かが納得できるところの何かを出すというものを出すのは、けっこう難しいですね。

 歌の場合はごまかしのオンパレードですから、曲なのか演奏なのか、踊りなのかリズムなのか、全然わからないところで成り立つ。
 「第九」の「般若心経」盤のコピー、オーケストラですごく声の出る人を集めて、馬鹿みたいに退屈なことをやっています。これを彼らに歌わせると、きっとそんなふうになるだろうなと予想もつきすぎる。
 でも通の人は、決してそういうことではないことをやっている。これはできない、トレーナーも研究生も、私なんかもできない。そこは根ざしている部分です。

 それが受け入れられるか受け入れられないかではなくて、その人しかできない部分というのは強いですね。客のほうから考えてみるというのは、現実面必要です。ただ、ベースとしては自分のものをつくっておいて、それを客に対してどの部分で示すかというのは、切り取っていくしかないですね。
 私は会報と出版している本との関係のように思っています。両方持っていないと、お客さんだけにわかるようなものだけ書いていると、自分でやらなくてもいいなという話になってしまいますね。

Q.自分の癖なのか語尾が粗くなる、ずれてしまう。

 技術的なことなのか、精神的な集中力の問題なのか。トレーニングを受けていると、LとRがどうだとか、aなのかeなのか、ということは教えやすい。勉強したような気になるからです。でも、現実面、ほとんど関係ないですね。

 私は考え方を変えてしまった。昔は日本人の英語は心地悪いなと思っていたけれど、最近はシカゴでもジャマイカでも、現地の特徴が出るからいいと。日本人訛りの英語をそれ以上、きれいにしてはいけないと、そのほうが味があっていいじゃないかという考えです☆。

 方言なんかはニュアンスがありますね。しゃべるだけでことばが伝わる。声の質や動かし方、やわらかい。あの情報量をそこで育った人が、標準語に変えてしまうというのは、伝えるうえでマイナスになってしまう。

 東京にいたら仕方ないけれど、芸の世界ではそれで成功している人、関西弁でやっている人もいるし、現地のことばでやっている人もいる。

 高いレベルでないかもしれませんが、語尾が気になったりというのは、それを技術で片づける場合もあるのですが、やっぱり作品としての厳しさとして直っていくほうが望ましいと思うのです。

 あるいはそんなところが乱れていようがなんだろうが、客は楽しめるというところまでの、何を出すかということだと思うのです。

 アカペラで聞くと、私も厳しく言ってしまいますが、実際、あれにエコーがかかって歌っていたら、もちます。カラオケだってあれだけよく聞こえてしまうのですから、ほとんど語尾なんて問題ないですね。自分のなかではこだわっておくのは必要ですけれど、もっと大切なことをやらなければいけない。

○プリミティブと現実感

 日本にいると安全です。死にそこなったりしたら気がつくのですけれど。そんな体験をしていくというよりも、何かしら覚悟が必要な気がします。日本はそんなことをしていたら、世間がうるさいですけれど、日本の場合、歌が見えにくくなっています。私が海外に行くのはそうなんですけれど、ストレートに言いたいことが出てくる。言っている。それが表現であって歌なんだとわかる。そこにメロディや楽譜や演奏は、あとからついてきたものです。その現象のパワー、プリミティブなものを失ったところに形から入っていくと、かえって訳がわからなくなってしまいます。

 だから、本当に言いたいことを形に起こせばいいのです。昔から歌は社会運動や反体制的なものと結びついていたのでしょうが、今の時代はそうではない。10年くらい前に、「今の時代はコンビニは定価で売っていて高いとかそんなことしか歌えないのか」と言ったことがあります。実際にはすごく深い問題が、たくさん起きている。それに対して情報もですが、実感がないと表現や叫びは出てこない。何かしら運動しろということではない、運動自体がカタルシスのような人もいますから。ただ、当たり前の現実感が大切です。

 これからどうなるかわからず、私はきな臭く思っていますが、どこでも軍人がいて国を守っていて、そうでない国は全部略奪されて滅びている。我々は特殊な皿の上に乗っているようなものです。それをきちんと戻して、だから軍備しろということではなく、自分の責任を持ったところに、いいたいことを述べていく。お笑いの連中と言っているのですが、彼らも仲間内の悪口なんかで終わってしまって、どうせ歌うならブッシュや小泉、改革のことを歌ったらいいのだけど、そこまでなってしまうと視聴者がついていけない。本来、世界中のアーティストが歌っている歌詞や思いは、そういうレベルのことです。

 そういうことではなければ、単純に「誰よりも愛する、好きだ好きだ」というようなもの、過剰なものがことばになってついて、そこに嘘や偽りがないわけではないのですが、そういうことにとりあえず共感できたり実感できたりすることから成り立って、浸透する。日本の歌だって、そういう部分はあるし、そういうものがヒットしていますが、昔ほど大きくない。アメリカあたりでも60〜80年代、マイケル・ジャクソンがまだがんばっていた時期、ああいうひとつのイベントが社会を動かしていく、市場に経済効果をもたらすというものはさすがになくなっています。

 そういうことでいうと、歌という括りで考えていくよりは、声やひとつの形態として見ていったほうがいい。日本の場合は、音楽だけがくくられていて、それをやっていることに特権意識を持っているような人が多いです。

 私もそういう人といつも接しているのでよくわかりますが、音楽やっているからえらいのではない。坂本龍一さんなどは、別の分野とコラボレートしてきている。というのは、音楽の限界が出てきているという気がします。それとメディアという問題、音楽というもの自体が本当はメディアです。音にのせるということは、音波としてとばせるし、パッと渡したら相手も聞くことができる。でも、いろいろなCDをもらったりライブハウスもいろいろなところをやったりするけれど、本当の意味でわくわくしない。何か起きているという実感はないですね。

○リアリティと創造

 それが日常的になっている国もまだ、たくさんあります。どんどん音楽が遠くなってきています。歌もそう。ことばや声の世界も、なんとなく関心はあるけれど、胡散臭いというか中途半端というか、せいぜい敬語の使い方とかそんな程度だなという感じ。でも実質に、人間の肝心な場面やすごい重要なところでは、声が使われます。その声同士でコミュニケーションがされ、泣いたり笑ったり、そういうことが行われる。

 それ以上の歌を歌うというのが当たり前ですが、そういうことをもっとリアルにやっていくべきだと思います。

 ネットや本もいいのですが、相手と直にやっていないので、どちらかというと悪い方向にいきますね。歌やことばで相手と面に向かいあうというのは、人間は信じられるものとなり、いい方向にいくのです。そういうものに歌や音楽が使われるべきですが、歌い手たちが楽しみだした。今の日本の音楽は全部そうです。やっている方が楽しんでいて、お客さんが付き合っているという感じです。少なくともプロであれば、お金をとる以上にすっきりさせてやる。その辺の、エロ映画でもいいから、なんか知らないけれど金出した以上のことはあったなということでないと、金を出して惜しくなかった程度では成り立たないのは当たり前です。

○思い先行、歌の進行先行

 歌の場合の感情移入ということではなくて、ある意味、思い入れたっぷりにやるタイプで、その思いとロック、今のリズムグループみたいなものが先行していて、発声とか発音や、声がけっこういい加減になっているんだけど持つというのがベースの部分です。さっきの曲は、優れているのですが、若いときのものですから、中途半端になっているところがあるのです。今かけても伝わるところは伝わる、逆に今の歌が失ってしまった部分ですね。

 同じポジションのところでキープして、高音発声とか語尾を丁寧に、まさに歌の技術を習った人ではないから、そんなところは無視して思い先行、歌の進行が先行ということですね。ロックの。そうなったときに音が少しくらい落ちていたって、けっこう持っているのではないかという部分をみましょう。

 それとともに何を集約しているのか。だから歌がきちんとまわっていったらいいのですが、それがたまには流れてしまったり持ってこられなかったりするのだけど、どこかでかいているから、分析して聞かなければそう聞ける。

 もうひとつは絶対的なオリジナリティですね。他の人がやってしまうと真似にしかならない。あれなんか真似っぽいということになる。それは彼のがいい悪いということではなくて、彼の形として、もうすでにあるということですね。

 普通の人でやったらでかい声で歌えばいいのだろうというところだけど、ここで彼が何をしているのか。まず普通の人が普通に歌おうと思ったときにやるとどうなるだろうかからみる☆。それに対してそうでないことを何をやっているかというふうにみる。決して歌っていない。普通の人が歌うとそうなってしまう。これもそうでしょう。「あんたに」といったときにそうならないだろう、「あげー」のときもそうならないだろう、こんな形で入らないだろうと。

 皆が真似ても、これは真似にしかならないのですが、これに変わる何か違うものを出せばいいということです。オリジナリティとは違い、ここでつくるだけのものです。でも半分以上は、あなた方に入っているものが出てきます。

 勉強するとこういうことができなくなってしまいます。こんなことをやってはいけないといわれるし、トレーナーなんかには何をやっているんだお前、と言われます。逆にそれをやらなければ、客はひきつけられないことでもあります。だから反します。

 教えていくとか勉強するとかいうことは、今までにある手本をどこか念頭に置くわけでしょう。

 本当のアーティストはそれをひっくり返してしまう。そんなやり方があったのかということ。

 この前も、岡本太郎の太陽の塔を見てきました。周りを囲む建物ができた。それが30メートルだったら、太郎は70メートル建ててしまえ、つきやぶってしまえと言った。そういう発想は、普通は出ないですね。その下におさめようと思いますものね。全部逆をやっていって、それで成り立たせる。

 ただ、成り立たせなければだめなのです、本当に。そのときにパッと言い合って高さを決めてしまったという、それはそれまでのいろいろな感覚、本当に感覚なんですね。ただでたらめなのかもしれない。

 もっと高いほうがよかったのか低いほうがよかったのかは、誰もわからない。でもあれだけしかイメージがなくてね。

 愛知万博は、あのキャラクター、あの人形で、シンボルも、もうちょっとやりようがあるのではないか。思い切って、トヨタ博にしたほうが、よいのではないかと思います。

 すごいはっきりしていますね。「日々を」なんか捨ててしまっているでしょう。だから普通は逆なのですが、「愛」の「あ」のところにあそこまで集中して入れない。きちんと歌ってしまったりしてしまうのです。これが人の普通の感覚です。それをまったく逆にする。だからどんどん捨てていくというより、よりやりたいところ、動かさなければいけないところに集中していくというふうに考えてください。

○踏んで収める

 この手の歌い手に関してのベースの部分は、日常的に言っていることばと伝える実感以下にしないことです。歌の場合、すぐに表現力がなくなってしまいます。

 すごく単純にいうと、心が伝わるかとか思いが伝わるかとか、そんなところで聞いてみて、練習というのであれば、リズムやグルーブや音色にベースをおいて、その上に音程やテンポ、リズムや発声をみる。最初にチェックするようなものは最後にしていくというようなこと。これ自体がそういうことを守っているのではないです。守っていないけれど踏んではいるのです。それで音がすごく外れているとかめちゃくちゃな音符ではないわけです。自分でつくった曲は自分で動かせるわけです。そういうことを越えてみてください。

 自分でつくっていく時期より、あとになって悪くなってしまうのは、誰かがやってしまうからです。アレンジを誰かがやってしまったり、演奏をもっとうまいプロがやってしまったりする。自分がバンドを牛耳れるなら、本当にバンドとのコラボレーションのなかでつくっていかれるわけです。

 だから、自分の歌の切れの悪いところは、バンドの切れで持たせるとか、それも全部含めて、音楽、歌です。それがちぐはぐなのが多いです。歌のうまい人ほどそうです。歌のうまい人は、伴奏に歌が乗っているだけで、せっかく伴奏がいるのに、両方の演奏、セッションにならないのです。伴奏者が下手なわけではない。別々に歌えばいいのにというふうにことです。

 離れちゃったり、切り離してしまったり。今の「ろー」のところの「と」や「の」もそうですね。ところがトレーナーが教えてしまうと「と」や「の」をきちんと言ってしまったりして、そうすると何か動きが違ってくるのです。

 だから、ある意味のオリジナリティです。誰もこの人以外に、この歌を歌おうとしない。いい曲であるのに、歌わない。あまりにもイメージが強すぎて。

 日本の場合、人の歌を歌うというのはなかなかスタンダードにならない。民謡くらいですか。外国は皆がいい歌を歌って、スタンダードにしていくのですが。歌いやすい歌と歌いにくい歌があります。演奏者の個性があまりにもありすぎるとね。

○異次元に歌う

 たぶんロックの世界というのは、クラシックの世界みたいに芸術家をお客さんが聞くのではなくて、自分のなかに動かしている動きを、完結させないで投げ出すことによって、それに客が動くというものであると思う。

 未完成とは違うのでしょうけれど、非常に完成度の高い作品もたくさんあります。ある意味では開放させたまま、あるいはつまらせたまま、あるいは終始できないままに客とのコラボレーションをとっていくのだと思います。

 クラシックでもよくコミュニケートするものもあるけれど、狂気的な感じになぜならない、サッカーみたいにならない。

 歌い手のなかで全部描いてきれいに歌ってしまうと、歌い手の世界になるから距離ができてしまうという気がしまう。今でも若い子たちが集まるのも、そういうものだろうなという感じがします。

 本題に戻りまして、ひとつの基本フレーズからです。このベースの。ここがある意味ではフェイクしているところの最大点の揺れのところですね。この2つの間のところで、この歌が動いていきます。

 もっとすばやいし、もっと集約しているし、それから3つ置いているのでなくて、3つも並べていますね。

 こういうところでもそうでしょう。普通であれば、歌ってしまえばいいところでしょう。でも流さないのです。とにかくできるところの可能性を使って、全部動かしてみようというところです。そういう意味ではここだけやってみてもいいですね。

 さっきのところはきちんとつくっているから、次もつくると見せかけておいて、この辺のところから、休んでいるというわけではなくて、抜いています。もっと抜いてもこれだったら持つと思います。それだけ余裕が出てくるわけです。全部歌っていたら大変ですから。

 音色の問題、フレーズやオリジナリティの問題、よくいうのは、こう歌ってしまうのが、3つくらいにおいて、だいたいここが離れてしまいます。そこはグルーブをもっと、逆でもいいです。それがだんだんこう略していって、動いていく。こんな感じに歌がなれば、こっちにいっているけれどこっちにいっているよとなります。

 ところが日本でそういうことを感じたことがないのですが、欧米のものによく感じたのは、こっちのものを歌っているのに、響きはこっちにいっている。3つくらいの声が瞬時にこう、とにかく時間軸を崩すのですね。チクタクチクタクといっているものではない。

 2つの声ではないはずなのに、なんでこっちをこうやって伸ばしている間に、高い声を出せるんだろうというような、この縦の線が、こういうようなものがこうなるというような比喩、こうでないところになったときに、いろいろなものが動き出すでしょう。

 普通の時間に支配されるというのは、それ以上に動かせないとみえる。ただ、日本の場合は時間にきちんと合わせて、長さを揃えていくところで歌声を聞かせるようなところで、非常にいい歌もありますし、いい歌い手もいます。【05・4・9】


○質疑応答

A:ケースバイケースですよね、プロデューサーといろいろやってこられてるから他の方とは違って、お分かりかと思いますが、凝っていくときりがないのと、それからそこはヴォイストレーニングなんかからは一番相反する部分に近いですよね。いわゆる音楽的な加工をどうするところだから、それはもうプロデューサーや実際レコーディングスタジオの音響さんの担当すべきことです。

 確かにマイクの使い方とか音響の使い方ということは我々現場にいますからわかるのですが、プロの中において、どういうミキシングをしていくか、例えばマイクひとつだってどう選ぶかというのは専門家というのがいないわけではないのですが、それは誰をスタッフに加えていくかということですよね。

Q:弾き語りを長くやっていて・・ピアノを弾いて・・ピアノがあるから歌っているというのがあったんですね、いざレコーディング、立って歌だけ入れると、座ってたらできたことが立つとできなくなったりします。

A:座ってやればよいのではないでしょうか、別にレコーディング立ってやらなければいけないということではない。

Q:弾き語りだけではなく、歌だけでやるとかオケと一緒に歌ってみるとか、そういうこともしてみたいとは思うのですが、なかなかそれがうまくいかない。

A:それは慣れです、それとともに例えばギターを持ったほうがいいとか悪いとかピアノで弾き語ったほうがいいとか悪いというのは単純な話でいうと、声だけのことを考えたら演奏は全部プロにやってもらえという考えです。

 場合によっては両方合わせて音楽ですから、そのときに本当のプロの一流よりは自分のギターとかピアノはうまくないけれども、自分の歌とミックスさせていくときに、そこは第三者ではできない世界というのがあるというなら自分で弾くべきでしょう。
 そういう場合は何でもできたほうがよいほうが確かなんだけど、最高のものを創ろうと思ったときには、その選択こそががスタイルになってきます。

 ずっとそうやってやってこられていて新しいことをやってみてもあまりうまくいかなかったり慣れるのにすごい時間がかかったりするのであればレコーディングだって座ってやればよい。
 ステージで、座って歌うというのは特殊なスタイルですが、そのほうが作品がよければ私はそれでよいと思うのです。ただステージもビジュアル的な面が大切になってくるので歌ってるだけじゃお客さんに働きかける力が弱いとなると、お客さんあってのものなので、自分のターゲットとするお客さんが自分に要望してることに対して自分が創っていく。

 作品はお客さんの要望どおり創ったらまともなものできませんから、そこは一線引くとしても、ステージになってしまったら、ある意味じゃサービス的な部分があります。曲のおひろめのパーティみたいなものでしょう☆。
 だからそこを発声で片づけていくのかステージングで片づけて行くのかというのは問題ですね。ケースバイケースです。要は何を基準においてそこを判断するかです。

 私はもうライブはお客さんへのサービスということで100%客受けではないけどお客さんをすっきりして返すこと、そんなところですごい作品ができるとかできないとかいうことは問うべきではないでしょう。レコーディングは客のことは一切考えないで最高のものを追求すべきと、簡単にはわけています。
 これだって現場によって違ってくるので、だからあまりトレーナーが加味するべきところではない。プロデューサーの営業面販売面と作品面に関しての判断になります。だから私らはアドバイス求められるということはありますがこちらからこうしなさいということは言わない。それぞれのステージでのことなので。

Q:地声、ファルセット、ミックスヴォイス、コントロール、ピッチ、体の安定、日本語発声、ピッチ、レコーディングで自然に歌う方法・・・

A:慣れていくというのは、レコーディングでも自分でいろんなところでやる、ここも考えようによってはレコーディングスタジオと思えばよい。ライブやっていると思えばその練習にはなります。

 ピアノとという形も今後の方向性になってきますよね。オケの溶け合い方もヴォーカリストが考えることではないと思っています。むしろ楽器を選んだり作ってみたりどういう人を一緒に組みたいとかいうのはヴォーカリストが考えるべきでしょう。音響的なことを歌っているヴォーカリストが考えるというのは無理です。

Q:でもプロデューサーから要求されるのです。

A:それはプロデューサーの責任、レコーディング担当者にやってもらいましょう。オケとの溶け合い方は音響技術ですよ。

Q:私自身が何かするべきことではないのですか?
 オケにもっと寄りかかって楽に歌ってしまえばいいのにと言われても、そのまま歌っているつもりなのですが、何かが違うらしいのですが、わからないときがけっこうある。

A:あなたはあなたのベストをつくすだけ。あとはコミュニケーションの問題で、それは音響さんやプロデューサーがあなたに対してスタンスとして求めてること、あるいはひとつの代表的な聴き手買い手の立場からこういうふうにとアドバイスする。

 音自体をミックスさせていったりリバブかけたりエコーかけたりするような度合い、ここに関してはプロデューサーの指示に任します。プロデューサーがコントロールできるところとできないところがあるのです。
 身体面であなたの持っているリズム感であったりピッチ感であるとあなたになります。だからコミュニケーションというのは、何を言いたいのですかということをはっきりさせないといけません。プロデューサーによって言葉の使い方違いますから、同じように使っていても全然違うことを言っている場合があります。一体どうなのだと聞くしかない。

 例えば私の中のこの一曲の中、あるいは私が全部やった10曲の中のあなたが言っているのは一体どこの声のどこの感じがいいのかとそうやって具体的に詰めないとわからないです。

Q:余裕がないことで、アカペラで歌ってるみたいだと言われたから、多分歌が必死だったのでしょう。

A:音楽と合わせるため、よく聴いて歌いなさいと言ったら外れますから。前準備と当日のリラックスでしょう。

Q:そのピッチ感とかも、いわゆるアコースティックのピアノとシンセとか微妙に違うじゃないですか、私あまりそこまでこだわりなくやっていたのですが、プロデューサーの方が完璧を求められる方で、完璧なピッチという。

A:それはどのレベルでやるかということです。ただ現場でできないと言ったら失礼ですが、そのことを満たしてないヴォーカリストに対してそういうことを言うことは無意味でしょう。さらに固くして作品をダメにしてしまうだけです。そんなこと考えたら、より自然によりよく聴いてその中でリラックスしてやるということと逆のことがもっと起きてくるから、どんどんできなくなってしまうのです。
 ステージというのはもう歌い手のものですから、レコーディングにしろステージにしろ他から口出すべきことではない。今までやったことを信じてめいっぱいやるしかない。

 そんなところで注意するのは要はレコーディングしてはいけないということです。あるいはライブしてはいけないということです。プロデューサと本人との間の問題です。それをごっちゃにしているのはよくないです。
 よいものを作りたいかもしれないけど、声も歌も半分は自信ですから。そのときにノリきってない状態をやってしまったら、もう何を注意したってもっと根本的なことが崩れます。ピッチあったって伝わりません。それこそピッチを音響でなおしたほうがよいです。
 後で、もっとよいものを取り出せば今音響の技術は何でもできるのです。現場でプロデューサーが聴いた声とレコーディングされる声が一致する時代ではない

Q:でもどんな状況であってもベストの状態で歌えるのがプロなのかなと思うので、それを身につけたい

A:ふたとおりですよね、そのプロデューサーでなければ絶対世には出ていないしやれなかったというタイプの人もいる。それから理想でいえば、ここでトレーニングして他のトレーナーについてみたり他の場所に行ったときにもし違うこと言われたとする。でもそれに合わせられないぐらいだったら、本当の基本力はないと。世間の人が言っている程度のことに合わせられないぐらいの力しかないのだと思って、また基本やらなくてはいけない。

 応用力というのはひとつの力ではあるのですが、ただ私は日本のトレーナーもカウンセラーやプロデューサー大して信用していません。昨日より今日のほうが作品確実によくても、気分とか機嫌で、あるいはその前の会議で少し感情的になったら、もうそれを作品に持ち込んでしまう。けっきょく作品に対する基準を持っていない人が多いです。
 プロデューサーも売る人ですから、それの全責任者ですから、お金の面での収支の責任を持っていることが作品に対して必ずしも見れるわけではないでも、売れることには一理あります。

Q:私が言っている方はミュージシャンの方なんですよ、プロデューサーだけど音楽的なことをやる方です。

A:それはヴォーカリストのことを楽器と同じで考えている人だからなので、楽器ほど完璧なヴォーカリストも中にはいますが日本にはあまりいない。
 楽器のレベルでヴォーカリストもみてくださいと言うのは私はよく言っていることです。ヴォーカリストに対してとても評価が甘いからヴォーカリストが迷ってしまう。
 あなたがたバンドやっていたときにドラムとかギターでお互い言い合うでしょうと、そこがだめとかそういうはいり方ではと、それと同じようにヴォーカリストを見てくれたらよいのです。

 ところが声だからわからないとか、自分は歌えないからみたいな感じでそこに敷居を作ってしまうのです。もっと大きな問題はヴォーカリストの声は日本においては楽器的には聴かれていないということです。お客さんとの対応においてもっと問題があるのです。
 外国だったらはっきりする基準を日本の場合は持ち込めないのです。

 ただ私はトレーニングにおいては持ち込んでいます☆。トレーニング以外においては必しも持ち込めないです。お客さんが満足するのはとりあえずは条件にはなります。お客さんが例えばビジュアル的にあるいはダンスなんかのほうで満足するのだったらその分の演出を入れてあげるというのは当然のことだと思います。ピッチの狂いの0.いくつのところで聴いているなんていう人がいたら、別ですがそんなレベルでは全然ありません。だからと言って悪いものを創る必要はないのですが、難しいです。

 日本の場合はその人の声がオリジナルだという考えがひとつある。そんなことを言ってしまったらその人の顔がオリジナルだと言ってしまったらそれはオリジナルなのですが、商品として通用するオリジナルかどうかというのは全く別です。それから歌というのが言葉を伝えてくれるがために楽器なんかと全然の意味で人の情感が動く。特に日本人はそういう意味で感受する部分が多い。
 音楽とか楽器の面での判断基準というのがお客さん自身で高くないので、すると我々も自分の楽器的な耳で聴くのは専門の現場だけ、実際のコンサートとかになってしまうと現場本位です。

 レコーディングはさすがにピッチとか狂うとまずいです今レコーディングどおりライブで歌えるヴォーカリストなんていうのはいないです。ライブでとてもうまく歌えている人がレコーディングやったらめちゃめちゃになります。ふたつわけなくてはいけないくらい大変です。
 レコーディングはどんどん細かく気難しくなってきて、ピッチなんかうるさい。そこまで聴くお客さんあまりいないし、あとでピッチで治せばよいのだから。切り張りで作っているのだから。基準がなくどうでもなるからです。けっこうみんな難しくなったのです☆☆。立場がそれぞれ、考え方が違う、求めるものも違う。本当によいのは自分を理解できるスタッフを集めて、他が何を言っていようがそれを貫いてやることですよね。

Q:メンタル面、プロデューサーとの関わり方

A:好き勝手やってみてついてくる人だけとやったほうがよいですよ。

 ことは言ってもそこの学校にいるなら、そこで学べることはできるだけ学びなさい。それはすでにもうある環境ですから、それを生かすこと。だいたい辞めてここに入りたいというのですが別にそれが一番よいわけではない。そこをきちっと使い切ってから来て欲しい。何か使い切れない部分はあるとしても。

Q:先生も私ひとりだけではなくて、いろんなクラスを持っているし週に1回というのもあるからこなすのですが…。

A:けっこう難しいことのひとつというのは、目標の取り方です。ここも一般の方もこられる。声優、役者さんも、実際にここでレッスンでしている。でこういう音楽かけると、「え、ミュージシャンなるわけではない」と「歌なんだ、間違えた」という人がけっこういる。私にとっては全部同じ声というところ、その応用のひとつの最高のところにヴォーカリストがある。そこの中での声のノウハウというのは一般の中にも落ちてくるというようなことなのです。

 歌っていうのは今何でも許されるようになってきましたから、トレーニングをすると思ったときには歌の理想系というのはある程度想定しないと何でもよしになってしまう。何でもよしなら習いに行く必要もなければ勉強する必要もないのです、自分でまずやればよいわけです。
 だいたいの人はヴォーカリストになりたいという憧れからはいってきます。自分の好きなヴォーカリストがいてああいう風に歌いたい。楽器だったらそれでいいのです。スタートが遅いかもしれないが20年30年かかっても時間を同じだけかけてみたら才能が出てくるかもしれない。
 ところがヴォーカリストというのは全部できるようになるわけではないのです。まず自分の持って生まれた楽器に限定される部分があるのです。

 だから例えばローリンヒルみたいに歌いたいとなったときに多分あなたには可能性は少しはあるけど私にはないですね。私のほうがたくさんいろんなことはやってきたかもしれないけど、それは男性として生まれその声帯を持っている限りああいうふうな形の勝負というのは不利なことになります。
  つまり自分の将来の体あるいは楽器を使いこなした上での理想上の声とか歌のイメージを持つのがとてもヴォーカリストの場合、難しいですね☆。だから最初はこうやって一流のアレサフランクリンなんかはよいと思いますが直接入っていくことが一番よいというか唯一の方法だと思うのです。

 だから実感をもたなければいけないというのは第一です。ギャップが見えない限りトレーニングというのは成り立たないのです。スクールというのはあまりギャップを見せません。すぐにそういうふうになれてしまうとか、もう半分ぐらい同じように歌えているように見せてしまいます。私からしてみたら初めて歌った子がそうだったらもうそれはプロなわけですから、そこには大きなギャップがあるのです。
 みんなプロになっている人というのはひとりでやっています。全部自分の判断でやっていて、プロになれたのだから優秀だしとても勉強熱心だし素質もあったわけです。しかしもしかしたら違うやり方をとったらもっとすごいプロになったんじゃないか、外国に行っても通用するような歌が歌えたのではないかとか誰でも思っているのです。

 そういうことに疑いを挟みだすとこういうところしか日本にはありませんから、くるわけです☆。こちらもわからない、やってみないと。そういう基準ができてくると、やることというのはけっこうはっきりしてきます。
 だからギャップを見ることが一番だと思うのです。ギャップというとみんなわからないというのですが、好きか嫌いかわからないがシロートだと思いますかというと、いや確かにプロだと、わずか5秒くらい聴いてみてもプロだと思うと、そこなのです。

 スクールでは一番わかりにくくなっているのは、確かです。スクールのほうにトレーナーを教えに行っていますからわかるのですが、スクールは好きなことやらせるのです。好きなことと優れていることの区別が大切です。しかし歌の中ではとてもつきにくきです。
 というのはもともと好きな人の歌を好きなような声で好きなように歌っていて気持ちよく歌えたら誰がどうみたって自分では気持ちよいから文句ないわけです。でも第三者が聴いてひどいという場合だってある。

 一番ギャップがわかりやすいのは自分が絶対嫌いだけど優れている見本に学ぶことです☆。古い曲、こういう歌い方自分は嫌いだと、でもこのひと声ってプロだよなとかこのフレーズは自分とは力は違うな、大嫌いだけど認めるというのは優れているというところの基準なのです。
 だから学校から出たような人は私はだいたい聴くと、あのヴォーカリストの影響だなとかああいう歌い手さんのコピーでずっと練習してきたとわかる。だいたいその歌い手もトレーナーも越せないですね。当然です。
 そういう人たちは自分を知ってやってきているのだから。憧れでそれを真似してやってきているわけではないアレサフランクリンあたりをひとつの基準にみて勉強しましょう。去年できなかったけど今年ああいうふうに歌えてしまったということはあまりないです。あそこまでいくと。最高のところに目標を取ったほうがよいです。その中のことをどう見ていくかというようなことだと思います。


A:スティーブンタイラーの、発声法を知りたいなどというのはあるのですが、そういう“発声法”というのがあるわけではない。ロックとかポップスの人というのはヴォイストレーニングやって、そのようになったのではないのです。日本でも、ほとんどの人は自分でよい音楽を聴いてそのモノマネとかそういうもので歌ってきてる延長上でなってきているのです。
 だから発声法って考えないほうがよい。発声法と考えるのであれば歌そのものがもう発声法だと思ったほうがポップスなんかの場合はよいのです。

 ある程度発声法と実際の演出とをわける場合あります。あまり発声法をやらなければ歌えないとか声が悪いからヴォーカリストになれないみたいな方向に入ってしまうとキリがないです。では10年やって20年やってみてキリがない。
 だから今からやるというのであれば、発声というのはあくまで補強にしかすぎないということです。
 やる必要があるかどうかから疑えばよいのです。ヴォイストレーニングって最近よく聴くな、流行ってるみたいだ、あれをやらないとプロになれないということはないです。ただ何を持ってヴォイスとレーニングというのかそこから考えていなかければいけない。

 私なんかもう正直に断ることあります、あなたはヴォイストレーニングいらないですよ、そんなことやってる間があったらさっさと活動しなさいと、別にうまいからということではないです、当人自体が必要性を感じていなければやったって仕方ない。
 例えばピアニストなのにピアノの基本もやらないで弾いてうまくなった人というのはよっぽど特殊な人だと思うのです、習いもしないでプロになった。たまにいます、独学だけで。よっぽど特殊な環境で何かめぐまれていないとそうならないです。
 でも声の場合というのは使ってきていると思います。みなさんがかなりのレベルのところまで。歌ったことないのに歌える人はいないですが、歌ったことのない人もいない。プロの活動に次の年からは入れてしまう人も中にはいるのです。


Q:自分の声は人にどのようにどのように伝わっているのかに興味を持ちました。

A:職業と関係あるけど直接の関係ではないですね、耳鼻咽喉科ですとまさに声のことを扱うのですがそちらのほうの興味とは違いますね、むしろコミュニケーションでしょうか。この辺になるとケースバイケースだとは思いますけど、声そのものにどのぐらい原因があるというのは今話されている感じだと何もないと思うのです。
 自分の出している声の大きさなんか日本人は経験がないからわからないのですが、これは計ってみればよい。誰かに手伝ってもらい、そこに座ってもらってこれで聴こえますかとか一番後ろで聴こえますかと。全部状況によって違います。外でこの大きさだったら多分聴こえないと思います。その辺が一番どのくらいが適量かというのも含めて決まりはないのですが。

Q:レッスン終了の目安というのはありますか。

A:私にはありません。だいたいうぬぼれはじめてきたら出します。レッスンをやっているから音楽とつながっている、トレーニングをやっているから何かしら蓄積していく、それは前提ではあるのですが目標ではないという考えです。私は世の中に使ってそれではじめて意味があると思っています。できるだけ早く出て行ってほしい。ただ目的をその人が持っている限りは、何回とか何年というのはない、ずっとつきあいます。
 多くの人にとっては3カ月コースとか半年コースなどくらいでしょうか。なら、カルチャーセンターなんかによい先生がいます。スクールなんかよりも、安くて、そういうところだと3カ月コース、続けていれるみたいなシステム、その辺はケースバイケースでしょう。たくさんの人がヴォイストレーニングをやりだすようになって、そういう先生がたくさん出てきて、いろんなところに講座が出るようになってきたから私は助かってきたなと、そういうところで習って全部やってきたけど足らないという人だけにきてもらうと効率よいです。そういうことで今過渡期だと思います。
 何事も声だけの責任ではないことがとても多いです。ほとんどの人が声を気にしてこられますが、それは何かきっかけはあるのでしょうか?誰かに何か言われたとか。

A:特に聴覚能力がない人というのはしゃべっていていたらわかります。自分の声もコントロールもできないし、だいたい声を大きく出す人が多いですね。本当の音痴かどうかというのも何万人にひとり、しゃべっているところのイントネーションとかアクセントのところでわかります。声に悩む人は周りにその人の声に対して厳しい人がいるのです。あるいは直接は、声ではないのにそういう注意をする人が。ここ何年か本当に声が原因でといって来た人が声が原因だったことというのはないですね。あまり気にされないほうが私はよいと思うのですが

Q:今まで2年間専門学校に行っていてそのときから音楽というものを真剣に考えました。プロのチャンスはありますか。

先生:ここでチャンスというのは、スクールでオーディションしてみたりプロデューサー呼んでみたりということなのでしょう。以前大規模にやっていたときはオーディションもプロデュースもやりました。基準として私なんかが勉強するのにプロデューサーを呼んでいたことはあります。
 でもプロデューサーが点数満点つけるということは私から言わせてみたら、うまいだけ、何でデビューさせないんだよとなると、でも似たタイプで若い子がいるから全国探せばもっとよい子がいるからと。そうしたら満点つけるなよ、という話なのです。

 いわゆる学校というものの中での評価と現実の評価というのは全然違います☆。だから私はそれをもう一緒にしたいわけです。でも一緒にすると言ったってプロのヴォーカリストの必須条件がありますかというと、そんなの声でも何でもないです。作品を制作する力です。それにおいてプロの作品かということです。
 ピッチがよいかとか悪いとかいうのは第一条件ではない。本来のことで言ったら声を扱ったり音楽を扱う人間がそんなことに鈍くてやっていけるわけではない。どこかのところでは大きく降りかかってくることではあります

 普通に考えてみたら、普通の人においては、そんなものはすぐに治らないです。もっと音楽が入り込んでそういう世界の中にどっぷり使って正されてくるものです。もともと勘がよかったりピッチがよい人なんかが10代の若いときにそういう世界で出て場を得たりします。5年もたったら大体もっていません。プロになれたとかデビューしたとかそんなことはあまり意味がないといったら変ですか。専門学校にきたらすごいところに100%就職できるといってるのと同じです☆。日本人てだいたいそこだけで見るのです。私は人生でみます。彼らが5年後10年後どうやっているんだと、大学生に追い越されて半分以上辞めてるといったら失敗ではないかと。少なくともその企業に入ったという部分においてはね。
 そこまではっきりさせてきちっと言えばよい。入れたことで喜ぶ、それはチャンスかもしれないけど。
 そういう意味でいうとプロのヴォーカリストの必修条件というのは少なくとも声ではないです。その人のポリシーであったり、若いうちでいうのだったらエネルギーと感性です。

 半年ぐらい前からヒットしているSってご存知かもしれませんがピッチも何もないです、はっきりいって。私はずいぶんお笑いの連中と接してますけど100%エネルギーです、それが回ってるうちに音楽に落ちてきたり漫才になったり。では彼らのでたらめみたいに歌っているようなのは音楽でもロックでもないのかといったら、紛れもなく音楽でロックです。どこかのロックっぽいの歌っていたりどこかの発声練習でやったような声で歌ったようなもののほうが胡散臭いです。だから客が動かない、聴いている人が、また行こうという気にならない。友達誘おうと思わない。うまいなよかったなと思うけどそれっきりです。そういう人自称ロッカーやジャズメンはたくさんいます。

 プロの条件というのは口コミで広がっていくことです。お客さんにウケるかといのはまた別の問題はありますが、少なくとも主張がある。だいたい私は1年半ぐらいかなと全部見ていますが、それをこえるとましです。お笑いでもそうです。テレビの中でホストになったりレギュラーになったりはできるけど、芸の本当の最高のものが出せているのはなかなか1年半続かないですね、多分それだけ日本のエンターテイメントのレベルが低いというだけです。
 ヴォイストレーニングをやっておかないと、歳とったら声でなくなります。日本のヴォーカリストのレベルでいうと、10年20年で本格的な人ほど、それは大切なのです。

Q:深い息のトレーニングと集中力について。

A:集中力の問題は二番目ぐらいに大切です。集中力つけることに3年、かけたほうが、下手なヴォイストレーニングやってるよりもよっぽどよい。それが足らないとしたら致命的な要因です。これは漫画家であろうがなんの仕事でも全部そうです。人並みはずれた集中力がいります。
 この前プロの漫画家さん(バキで有名)に会ったら、「俺最近集中力持たない、30時間しか続けて描けないんだよな」と。そんなものです、プロの現場は。
 すぐれた漫画家の才能がある人がたくさんいたでしょう。でもその集中力がなければ、歳とったらやっていけなくなる。みんな楽したいからやらなくなってしまう。ポリシーとか使命感とかバックアップしてくれるようなものがひとつあればよいのですが、それを最初から持っている人はあまりいないです。

 世界の平和のために歌いたいと世の中の人がみんな安らぐように自分の歌を届けたいと言う人に限ってもたないのも、このせいですね。理想論でなく、本気からしか集中力はでてきません。
 あなたが歌わないほうが世界の平和のためですよとかみんなが安らぎますよとか言えないから、がんばってくださいと言うのですが。現実にやっている人は有名になりたいとかモテたいとか目立ちたいとか単純ですね、動機が、だからすごい強いですね。
 それで突っ走れるまで突っ走しっていったときにむなしさを感じて音楽面にうつってよい歌になって化けますね、だいたいそんなものです、役者お笑いとかも。だから人と同じことをやっている人が人より優れるというのはなかなかないのです。最初から変わっているというのはひとつの条件なのだろうなというのは思います。

A:あなたの歳ではあまりハードに声を出さない場合もあるのです。実際、声変わりが起きてから、人によって違いますが、20代入るぐらいまで無理をしてしまうために悪い方向に行ってしまうこともあるそうです。
 私も最初は20代以下はお断りということで続けていたぐらいです。そういう意味でいうと、声楽から入らせ、いわゆる音楽の基礎を2年、3年やってみたからといって大して変わらないのだったら音大に入れるとか音楽をやっているということが残るような部分で時期を過ごさせたほうがよいと思ったのです。

 「何だったんだ、この3年は。」というよりもよいということです。
 声に関しては年齢というのでないことはないのです。21、22才ぐらいからのほうがトレーニングということでは、人によりますが危ないことがおきにくい。10代の子には、ホルモンのバランスとか色んなことで練習と関係ないところで声に変調が起きやすい。10代の子はできるときはすごいできるのに何の理由もなくトレーニングにも関係がなく、いきなり声が出にくくなったり崩したりするときというのがあるのです。体がまだついていっていないのでそんなこともあります。

Q:「実力がないのに売れてしまっているバンドのヴォーカリストみたいになりたくない」

A:10代でデビューしている人というのはだいたい勘がよく最初からできあがってる場合が多いのです。それはそれでひとつの才能だと思います。例えば他の人よりも同じものを聴いても聴き方が違う、着眼点が違うとかいうタイプがたまにいるのです。音感なんかも大してやっていないのにとれるというよりはよい音感をしているみたいに、わかる。それは、めったにいないのですが。リズムなんかもそうです、長年やっていて、すごいなという子が10年で一人。どうしてこういうリズムが入ったのだろうなと思う子がいました。
 そういうのはトレーニングでどうこうというところではないのです。ヴォーカリストというのはそういう部分が少しあるのです☆。役者なんかは努力でトレーニングであるレベルまではあげられるのです。ヴォーカリストというのは、10年20年やってうまくならない人もいるし2,3年でめきめきうまくなる人もいます。現実にそれは学校とかトレーナーということではなくあります。

 トレーニングをと言っている以上、一般の人に開放してるのはできない人ができるようにならないと本当の意味でトレーニングではないし、トレーナーの力ではないと思うからです。もう10年プロでやれている人というのは、やれているのだから最初から才能がある。自己流でやっていながらそこまでいったのだから。そういう人たちはそういう人たちでこちらも勉強なります、もうやれているのはこちらが育てているのでもなければその効果でもないわけです。ただ急がないほうが私はよいと思うのです。

 声が枯れてしまうとかいうようなこともあります。歌声の魅力なんかということも、日本人の中で10代ではけっこう厳しいですね。たまに外国人なんかで変わった声、おもしろい声の人がいます。
 10代あたりで伸びた子というのはけっこういます。親に演歌とか民謡を叩き込まれたり、すでに入れています。だから「はじめてです」といっても10年ぐらいキャリアがあるのです。環境が必要です。
 高音なんかもうまく出せないと何でも発声でできるところまでは出せるようになります。やった分だけはできるようになりますが、必ずしもそれをメインにはやろうとはあまり思っていないのは、ステージとは別だからです。

 人をひきつけて離さない歌声というのも人と変わっていることが素質なのかなと思いますね。ひきつけてというのは、必ず対象がある。みんながひきつけられるという公約数的なものもあるがそちらのほうが難しい。生得的に得て誰が聴いても「あの声いいよ」という声で生まれつくのはけっこう難しい。トレーニングができることというのは、その声をその人が与えられているのに生かし切れていない部分をみる。きちっと生かしてない部分をきちっと生かそうというところに戻す使い方です、それで見せていくという部分があります。
 極端なこというと声がめちゃめちゃであっても歌として感動を与えるというのは不可能ではないのです。色んなことをきちっと入れていくと表現を生じる。

Q:今は・・テクノとかハウスとか、そういった音楽にも興味があって、ジャズの今までの中でも割とファンキーなものに憧れて勉強してきた。そういう風に歌える曲と自分の曲のイメージにあわせて声を変えているというのもあるのですが、綺麗に流れるような曲のときと違うと思うのです。それがよいのかどうか、ということ。
 またスタンダードを自分なりに歌っているのですが、自分に一番よい声のキーを決める難しさ・・・バンドのメンバーは何も言ってくれないので、自分で判断するしかないので、そこでもういちど自分の基本の声というのを確認したい
 ステージに立ちはじめて長く経験があるわけではないですけれども、その中で例えばどうしてもジャズでもヴォーカリストモノは何か別物みたいにとらえられていますので

A:ジャズというのはヴォーカリストいらないんですよ。ジャズプレーヤーには、よほどすぐれたヴォーカルでもなければ余計なものでしょう。

Q:それをすごく感じるのです。私自身もヴォーカリストがのってないライブも大好きですし、ヴォーカリストいらないと自分自身も思うときがあるので何とも言い切れないですが。バンドのメンバーと同じ例えばスキャットだったり、声が楽器みたいな感じでセッションするために必要なことはまだ勉強するべきことはあるのではないかと思っています。

A:自分のバンドということではなくて、店に入ってるバンドということですね。日本のジャズは、また一種独特の世界のようです。
 ジャズを好むような店、それを好きで入ってきてるようなラウンジとかもそうですが、まず第一にジャズに最も必要なフリー的なこと、オリジナリティであることをあまり認めない。どちらかというと、スタンダードな曲をBGM的に使いたがっているところがとても多いですね。バンドのジャズやっているおじさんというのはけっこうよい人が多いのですが、ハワイアンとかオールディズとかの人たちに比べたらプライドだけ高いところがあり、とても細かいところにうるさいのです。そこと若い女性との組み合わせというのは日本の場合、多いといったら変ですが、男性ではなかなか出ていけない。恵まれてはいるのですが、そこの中だけで回っている。田舎のジャズと言っているのですが、そこに溶け込むか人間的に寛容さがいる。音楽面では多分難しいと思います。

 本当のセッションということであればよいのですが、特に同じメンバーの中でやっている場合が多いですから、そこにヴォーカリストという異質なものが入ったときには難しい。ヴォーカリストがバンドを従えるしかないというのが私の考え方です。要は彼らに嫌われようがなんであろうが、それ以上のもので彼らをひっぱるしかセッションというのはないのです。むこうの出したものに五分で組もうなんていうことだったらいらないのですから。技術からいうとヴォーカリストのほうが劣ります。

 残念なことながら20年も30年も一筋とかやっていらっしゃる方の耳の感覚に、外国のジャズのヴォーカリストみたいなきちっとしたセッション能力があればよいのですが日本の場合はそういう鍛えられる場自体がないから、どうにもていねいに合わせる歌い方になります。
 津軽三味線の民謡酒場みたいなところに行って、セッションでもやったほうが本当の意味では力がつく。日本のジャズの中でジャズやろうというのはジャズの力はつかない、ただジャズっぽいもの力、なぜならお客さんもそういうのを聴きたがっているからです。それは私は別分野だと思っています。

 要は本当の意味でヴォーカルが引っ張っているわけではないのに場が成り立っていて、そういうものを聴きたがっているという特別なマーケットなのです。戦後のどさくさのなかから、パワーだけうすまって日本にあるのです。
 私はそういうところに基準を置かない、というのは、基準を置けないのです。お客さんが楽しんでいることはよいことです。ゴスペルのサークルと同じです。そういうことで癒されたり日々の仕事に元気を得ている出演者とお客さんがいるのですから。

 楽しく勉強したいというけれども、ヴォーカリストのステージと言うのは基本的にお客さんが楽しむものでステージをやっている人が楽しむのは、お客さんが楽しんだことを受けての楽しみです。そういうあたりまえの考え方がどんどんおかしくなってくる。みんなステージに出たいよステージで楽しいことやりたいよと、それなら、ステージでなく客席だけでやればよい。お金を払ってやるべきことで。お金を取っている以上はお金でうんぬん言うことではないのですが、ヴォーカリストは価値を与えるということでしょう。その辺のことがどうも。
 ただみんなそういうことで悩んでいて「misty」をやらなくてはいけないと。そうやって場があること自体はよいことでしょう。それを変えられない、変えようとしないヴォーカルの責任でしょとなってしまうわけです。

○声に関心を

 声はすでに入ってきているのです。生まれてから声を出しているということは聴いて覚えたことです。
 ところが日本の場合というのは聴いてそれを話すというところで自然に幼稚園ぐらいのときに「あいうえお」がわかってしまうとそれで全部読めてしまいます。あとはもう膨大な漢字の読み書きを覚えなくてはいけないほうにエネルギーを集中してその練習ばかりしています。中学校になって英語の発音でようやく耳で聴いて音声をつくる。我々のころはヒヤリングもスピーキングもほとんど日本人のしゃべれない先生が教えていたわけですから、今は恵まれているのでしょう。でもそれで初めて音声のことをやって、英語だってきちっとしゃべれるわけではない。ほとんどの日本人が身についていないわけです。

 だから音声に対する教育ということがアナウンサーの学校や演劇養成所で初めての体験となる。それだけ声のことについて全く知らないしやっていない。耳が鍛えられていないというのも大きいですね。
 どこまで自分の声が届くかなどというのは、欧米では常識的なことですね。新幹線で騒ぎ捲くったり団体客がお土産店でうるさかったりするのは日本ぐらいです。それは日本人の声が大きいのではなくて、程度がわからないのです。
 自分たちがどれだけ声で口害を発しているのか、日本の場合は無礼講みたいなところがありますからそれはそれでよいと思うのですが。そういう国において声に関心を持つということはこれから必要になってくることだと思います。まして声を扱う人にとっては尚さらです。

○体に入れる

 でも歌なんかは音域をとることに急いで高い音出そうと、そういうことでやっていくのでなかなかベースのことができてこないものです。
 最初私がそれに気づいたのは若いころ、役者の養成所に声楽を教えにくる先生の声というのは普通の人と変わらない、でも役者の声というのは、4、5年でみるみる変わってくるのです。役者の声になっていくのです。それというのはどういうことなのだろうか。と。
 私は10代のころに歳をとらないと声というのは深くなっていかないと思っていた。しかし海外に行ったら10代でもけっこう深い声、しっかりした声を皆出している。ということで、それは使っている量、これが必要という部分はあります。

 それとトレーニングで考えるということは誰でもができなくてはいけない、どこにその責任を持たせるかということです。こういうところくる人はふたとおり、とても優れた人とそれから他の学校に行っても間に合わない、自分に大きな変化がない限りなんともならないという人です。上の層と下の層と言ったら申し訳ないですが、やってきた人と何もやってなかった人ですね。
 トレーニングとしてみたときに、どうして同じように生きてきてそれだけ声が使えないのかというと体に入れていないという部分がとても大きいです。体というのは単純に言うと鍛えたら変わります、みなさんが今1km走るのが厳しいというのも2年計画ぐらいでいったら今よりは走れるようになる。腕立てができないと言っても1年やれば10回が20回でもできるようになる。
 そこの力においては体自体というのが器としてはあったらこれを変えていくというのが一番べーシックな考え方です。
 トレーニング引き受けるときの安全策です。要は勘とかセンスとかにまかせていたら、ある人はよいけどない人はどうなるのだろうとなりますね。
 歌って直感的にとらえるところがあるのです、10代なんかで歌える人というのはそういうアンテナがあるのです。それは海外でもそうです。

○比べられない

 カサンドラウィルソンの伝記読んでいたら5歳でマイルスデイビスに感動している。そういう環境とかそういう捉え方ができる人というのは、日本人ではありえないですね。
 だいたい今の私だってわからないです。こういうのはきっとよいのだろうなというけど、5歳とか10歳の耳で聴いてみてどう感動できるのか、音がおもしろいとかいうレベルではできるのが音楽的にということは、何か見えてなければいけない。
 だから環境はあります。レッスンというのは、目的とすることは感覚で言うのだったら次元のオンです。要はオンしないと意味がないという考え方です。
 ここも10年20年長くいろんなところでやってこられた人がいて、長くやったことは偉い、でもそれが成果に身についてなければ意味がないのです。

 ヴォイストレーニングや歌の練習は他のもので比べられない。英会話3年やったら絶対上達します。あなただいたいこのレベルです、これだけのお金だしてこれだけの時間やればここまでなりますと。ヴォイストレーニングにおいてまだそこまでまだできないですね。相手みないとわからない。あなたもこのコースにすれば半年でここまでいくなんていうのは、低レベルでないといえない。自信は与えられるのですが、受け手によるところがとても多いです。
 その人たちがヴォイストレーニングをスタートするところまでの総量、どのぐらい声を使いどういう感覚できたのかというところが、アンテナですね。だから私なんか自分に置き換えて考えてみると自分が音楽を聴いて受け止めてたのが1だけど、そのときの同じような音楽を同じだけ聴いていても10とか100を受け止めていた人がいるのです。そうしたらいくら量を100倍にしても叶わないと、そのアンテナに対して増やしていなかくてはいけないのです。

 【人間にも目で見て覚える人がよい人と口で言って覚えるほうがよい人とタイプがいますね、どちらかというと日本人の学習形態が全部読み書きです。よく言うのですが、みなさんのように質問を書いてもらうと10項目簡単にかける。これ外国人にやらせるとけっこう難しいですよ。でも言わせると簡単に言えてしまう、10個言えてしまう、しかも10くらい覚えられてしまう。10個言うのに1分もかかりませんね。
 3分くらいの中で彼らの中で音の世界の中の構築は、そこにできるのです。例えば10個のことをこの順番で言おうと、それでこの辺りにはちょっとおもしろいこと言ってやってと、今の漫才はそのレベルだと思うのです。かなり高いレベルです。5分間の音の世界を自分のほうできちっと持っておいて、それをきちっと構成してしかもそれをお客さんの前に出たときに臨機応変に変化させてきちっと見せていくということです。お笑いのネタというのは昔から使っています。テツ&トモも日韓線のころ、4分45秒、耳だけで聴いてみて全く隙がないのです。タイミングもドンピシャ。そういうレベルのことを彼らの中ではやれているのです。】

 それは音楽家がやるべきことなのです。歌も同じ世界ですよ、ところが歌の世界って甘くて、メロディがあってバンドがついていて、どうやったら間違うのだろうというぐらいレールが引かれてしまっているでしょう。でも本当はそうではない。

○量とレベル

 言いたいことを言葉で出しているうちに音楽になっていくのです。そこに何かしら色気がついてきて人をひきつける。そういうのが出てくる、そのプロセスをとってしまっているのです、今の音楽というのは。最初から高音が出ませんとか、ピッチがどうこうのそんなもの最初はなかっただろうという話です。

 何か言いたいことがあってみて、音楽になっていったわけでしょう、そこの中で実感をきちっと持っていかないといけません。
 このときに問題なのは、レベル。特に初心者の方の場合は声が出るときと出ないときがありますね、けっこう差があるのです、特に10代。このときに私はレッスンというのはここから上のことです。ところがほとんどのレッスンというのはここよりさらに悪いところでやっているのです。全く意味のないことでしょう。劇団だったら、シロートのワークショップで鬼ごっこをやってみたり笑わせたりそういうことで体をリラックス状態にして声が楽に出るようにするわけです。普段出していない声でも、でてくる。みなさんでもこんなところで座っていたら声でなくなる、歌いなさいと言ったら大変でしょうけど、その辺走ってきて、ちょっと恥ずかしいことやってひらきなおったという感じになると、けっこうよい歌が楽に歌えるわけです。この状態が大切です。

 例えばこんな時間があったらひとりひとりの姿勢を先生の前に出てやりましょうというセミナーもできるのです。ではここに出て体のところ、顎ひいてなんて、私がやったらあがってしまって出る声も出ないでしょう、そうではなくて自分の中でコントロールして自分の一番ベストのものを求めます。これを私はベターなものから上にしましょうといっています。
 量をやると言う考え方では、たまに10代の子なんかが「毎日6時間カラオケBOXでやっています」という。「それえらいね、でもそんなに集中力持たないだろう」と、そうしたら何をやっているのかというと声を壊すことをやっている。
 声というのは楽器ですから使い方を間違ってしまうと、悪い疲れが全部きて悪い状態になります。

 今日調子いいと思ってたくさん練習すると次の日悪くなります。仮に1日よかったと思っても残りの6日ダメだったら1日のステージとしてはよいのです。ところがトレーニングにしては最悪です。その1日がステージだったらその1日のために残りの6日をダメにしてしまっているわけです。その辺がちょっと体育会系のとにかく筋肉をいじめていったら力がついてくるというのでは、よくありません。
 日本的な考え方にも本当はもっと合理的なやり方がいや、感じ方があるのに、感じ方をふさいでやり方でやってしまう。これが諸悪の根源です☆☆☆。
 集中力とか忍耐力をつける分にはよいのでしょうが、声に関してはとにかく声になるところしか力ではないです。使い方をきちっとしなくてはいけない。

○聴き込み

 皆さんが考えることは、トレーニングの期間にできるだけつないでいけたらよいことレッスンはそのためにやるのです。今まで自分ができなかったことを、自分にとっては間違えもしくは奇跡ですがそれがひとつ起きると、そこだけがオンです。それがどの次元までいくかということです。
 あまり通常感覚でやらないことです。これをやるときの問題がトレーニングと相反するのです。レッスンの場というのも、そこに先生がいるというのもあまりよくない。そこで音程のこと考えるなど頭使おうということもよくないです。
 自信を持ってやれば出るのです。自信をなくしてしまったり考え出したり迷い出したりしたら出なくなってしまうのです。
 昨日やれたことが今日できないなとか去年できたことができないと思いだしたら悪循環に入ってくるのです。それだけ精神的なことと結びついてるものです。切り替えですね。役者も同じです。この業界に向く人というのは切り替え能力ですね。役者は多重人格でなくてはつとまりません。

○やり方ではない

 歌の中の練習でも同じです。
 レッスンでやるべきことというのは、全部できるようにとも全部が歌えるとも思わない。必要もないのです。三日間の合宿でも同じようにやるのです。グループで月4〜8回で月18曲くらいやっています。実際にやるのは2、3曲でも聴かせるのはそのぐらい聴かせている。
 3日間の中で18曲と思ったら、優れた子だったら2時間ぐらいでできます。歌詞を完全に覚えることを除けばベーシックなことはほとんどできてしまいます。普通の人がやったら3日間かけて1曲の歌がまともに歌えないです。そのぐらいの能力差がでます。何でそういうやり方をとるかと言うと、能力を伸ばすためにはそういうやり方しかないのです。最終的な結論を先に言ってしまうとやり方というのはひとつしかない。プロの人がやってきたやり方を学ぶことです。しかしそれはやり方ではないのです。

 彼らはヴォイストレーニングとか発声とかやっていない。やっていないがその時代のひとつ前の一流のヴォーカリストを聴いてきています。レコード盤が擦り切れるぐらい聴いています。その条件がなくてまともなヴォーカリストになれた人間はひとりもいないです。ミュージシャンだったらヴォーカリストに限らずそうです。

 そのことと同じことをやるときにどう聴くかということです。そこに才能が現れるのです。
 声も出せるのと、歌えるのは違う。客と成り立ってはじめて歌えるといえるのです。
 ヴォイストレーナーの才能も同じです。「聴くこと」です。どれだけ耳の中でその世界をとらえられるかということ。難しいです。1曲を暗記するのはそんな難しくない。それは棒読みと同じです。その中に音として何が起きて声として何が練りこまれどういう形で進んでどこにどう置いてどういう効果を相手に与えているかというようなことを1曲の中にあるいはワンコーラスの中にあるいはたった一声でもよいですね、そこから考えてみるのです☆。

 多分ほとんどの人は何もやっていない。それをやっている人は楽器のプロプレーヤーです。同じ楽器ですから、毎日8時間ぐらいやらないと自分の体と神経が結びつかないですね。私が口を動すぐらいにピアノの指が動かなくてはいけないので徹底して量をやります。優れた演奏を聴いて同じ速さで弾けるようにします。そこまでがアマチュアのトップのレベルなんですね。同じ速さで弾いているにも関わらず聴こえてくるものが違うのではないか。何で同じピアノ、ギターなのに同じ音色が違うのか、それは楽器のせいではないのですといって音の世界に入ります。
 ところがヴォーカリストの場合というのは体が違うからそういう比較が成り立たないですね。プレーヤーの場合同じテンポで弾けるようになったときに初めて何でこんなに音色が違うのだろう、何で音のつながりがこんなにスムーズなんだと、そこの音の世界にはいっていけるのです。
 ですからやれる人はやれるし、やれない人はギャップをきちっと知っています。やはりプロはプロなりにすぐれています。だからオーディションでも技術で明確に成り立つ。

○上達を目的にする間違い

 ヴォーカルは音の世界だけではないですから、とても判断がつけにくいです。ただ私が音の世界のほうにもってきているのは、そうではないとどうしても上達させますから。上達させることが目的で、上達しないのにくるという人はいないからです。目的を上達と出さなくてはいけない。
 私の古い本は全部目的があって今とのギャップを見なければいけない。ただ今難しいのは本当の目的が声だけではなくなっているからです。音楽だけでも歌だけでもないというところでけっこう難しくなっています。
 ヴォイストレーニングというのは、それの補強にしかすぎないと思っておいたほうがよいです。絶対条件ではないのです。

 ヴォイストレーニングをやれば声がよくなって、歌がうまくなってそれでプロになれるということではないのです。歌がうまいとか声が使えるということとプロになれるということは違います。歌がうまい人本当に世の中にたくさんいます。でも場を持たない人がほとんどです。
 歌が下手でも場を持っている人もたくさんいます。
 プロが目的ならステージをまずは目的にしなくてはいけない。
 自分の発声について生まれた体から探りたいということだったらヴォイストレーニングというのもストレートにつながるとは思います。何事にもやれるところとやれないところというのはあるのです。

 私も最近よくわかってきたのですが、他の学校を見ていて、どうしてそういう作品をよいと言うのか、何でみんな退屈してるのに退屈って言わないのだろうか、何でみんな他の生徒のつまらないものを笑顔で聴けるのだろうか、どんどん洗脳されてしまうのですね、そこでは拍手しなければいけない、そこではみんなで盛り上げてあげなくてはいけない、がんばってあげなくてはいけない、誉めてあげなければいけない、はっきり言うと、高校生の文化祭のレベルより低いです。幼稚園の子が一生懸命やったことで思わず拍手してしまうほうがレベルが高いというかしぜんなことですね。

 そういう面で言うのだったら上達を目的にしていること自体に、間違いがありますね、それから正しい間違いで判断していくことにも根本的な矛盾があります。「上達を目標にする間違い」というのは、誰でも最初は誰かのようになりたいから入ってくる、となると誰かのように近づいていくことが上達だとなりますね☆☆。
 ところがやれた人というのはみんなその誰かから離れていくのです。やれた人というのは誰かのようにから絶対に誰もできないところにいくのです、そうすると誰かのようにやりたいやり方というのが一番意味のないことだとわかります。

 どうしてそう成り立ってしまうかというと、例えばサークルとかで評価されるとか周りの家族がうまくなったねと言ってくれる、その評価は全部これでしょう。平井堅みたいになってくると何かすごいうまくなってきたねと言ってくれるし拍手も多くなるでしょう、でもプロからはどんどん遠ざかっていくわけですね、それはどちらでもよいと思うのです、アマチュアとして歌を楽しむのだったら、それで構わない周りの人の評価もほしいでしょう。ただ、プロをやっていく人には違うように考えることを進めている。それは結局は誰でもできる仕事というのはその次になくなってしまうからです。

○ヴォーカルは肩書きになるのか

 二十歳くらいでかわいい子には仕事がきます、色んな場も持てます。でもそれというのはかわいさで得たのだから5年10年たっていくと減っていくだけで増えてはいかない。次のかわいい子がそこにくるだけの話です。
 それは音楽でも歌でもないとはっきりと言っています。歌をそういう使い方を日本という国ではしてきたわけです。
 単にかわいいだけの子でお金をたくさん取る一番のよい方法というのは歌をやること、CDが売れる。声優でもそうでしょう。【原監督でも星野監督でもCDはみんな出しています。プロです。何万枚も売っているのです。その辺のアマチュアのバンドなんてかなわないぐらい売っているのです。だからプロヴォーカルとは言わないのですが収益あげているのでプロです。
 そういうことで言うとヴォーカルという肩書き自体、エッセイストと同じで誰でもつけられる。だから要はあまりそういうところで考えないほうが若いうちはよいと思います。】

 声というものの楽器が個人のものである以上アマチュアでやるとしても誰かのようにやっていくやり方というのはレベルの高いところから見れば、胡散臭くなります。低いところから見れば上達したように見えます。みんな目標にするのですが、それをやってダメになってきたのが演歌とかシャンソンです。昔の人たちは向こうのものから聴いてしっかり独自に色んな音色を出している。だんだんそういうやり方をとるようになってだめになる。そこの中のトップの人はよいのですが。トレーナーというのは、音楽スクールでもよくわからないから声楽の人がやる場合が多いです、音大生で声楽をやった人がやります。

○ベストワンへの厳しさ

 みなさんが考えていて欲しいのは、できるだけベターな声の中でやっていくようにしたほうがよいということ。気持ちがよい状況を自分で作る。
 自分の過去に出した声の中で一番心地よかったら、そういう状況から入っていったほうがよいですね。それと逆行することはあまりやらないほうがよいのです。でもトレーニングするところというのはだいたい逆行します。レッスンスタジオ入ってそこが一番くつろげるというのはいつまでもないと思います。その緊張も必要なのです。
 劇団はいろんな役があるからどんな人でもその人にあった役がある。ところがヴォーカルの場合というのはオンリーワンとは言ってもベストワンなのです。そこの中の中心、トップでないとやれないです。

 役者は脇役ですごいよい人がいます。悪役で役をやらせたら他に出ないとか、ばあさん役だとこの人しかいないとかいろんなキャラが作れる、ヴォーカルも確かにあるのですが、それでもそこの中では優れてないとだめなのです。
 そういう意味で言うと、なるだけ敷居を高くし、レッスンも緊張状態の中でやれて当たり前だとします。逆に言うとどこのステージとかよりも、レコーディングスタジオよりも一番大変な場としてレッスンの場は置いてます。

 ここの先生は、ある意味ではとても厳しいです。音楽に対して、見方が厳しいです。
 ここはプロの人がきますから普通のプロでは対応できないという、特殊な事情があります。
 ただそういう人たちのほうが一般の人に対してもギャップをきちっと出してもらえるのでわかりやすいのです。
 誉めて伸ばすやり方というのは確かにシロートに対しては意気込みをさせるし何より、学校に親しみをもたせる。執着してそこにずっといたいとかここにくると気持ちがよいと思わせる。しかしそれはカラオケ教室と同じです。

 そこが居心地のよい場所になってしまうから、だめになる。私のところも人数が多かったときキャンパスライフみたいになって、そこにきたら音楽の仲間がいる、そこで歌を歌ったらみんな認めてくれる、それで私は壊してしまったのです。それでは人は育たない。
 要は内輪でやれても世の中でやれないと仕方ないとは言いませんが、何を目指したのかを、己の胸に問うてください。
 そんなのだったら歌でなく、日常に使っている声で、勤めている会社とかバイト先で、人々に尽くしなさいと、それができないのに何で歌う必要あるのという考え方です。だからあまり世間と切っていないのです。
 そこで声優さんでも役者でも映画監督の助手でも人形劇やっている人でもいろいろな人がくる。現実を見えなくしてしまうことのほうが私はよくないと思います。

 学校は目的が違います。学校は平均に全員をあげるところです。養成所というのは10年に1人でも世界的レベルの人が出たらよいのです。小出監督の高橋選手みたいなものです。ただスポーツほど順序がはっきりしていない。なるだけ他のところにいない人を出そうというのがここの目的です。
 その辺は今回の新しいオンブックスの本で、随分と書いたのです。プロ用に、ここを辞めた人と、ここの生徒に向けてです。今まではここにこない人に書いたのですが、これはここに来てる人に書いたのです。
 今年の前半は私は一般向けに書きます。ジュニア向けとか女性向けも。後半にヴォイストレーニング全部まとめて20年やったことの全てを入れ込んで出して、今年は終わりです。

○一つの音

 こう考えてください、気づくということ、要は耳が変わらなければ声が変わらないよというふうに考えて内面から変えていくと考えてください。英語と同じです、聴こえなくてはいえないのです。
 気づくということは何に気づくのかというと気づいていないことに気づく、例えば入っていないこと、足らないこと、あるいは補わなくてはいけないこと、こういうものに気づけばよい。

 歌1曲の中でいくつぐらい気づいてるかということになります。歌にメリハリついてないとか一本調子だと、みんな声のせいにしてしまうのですがそうではない。
 この歌で言いたいことを書いてください。そうするとここのところは柔らかく歌おうとかここのところは少し声を落としてとかここは張ってとかここは優しさを込めてとか書いて10個ぐらいですね。私から言わせてみせればひとつの音符でひとつ言えます。あるいは3つの音で5つは、そういうことがわかっていなくてはいけないです。
 ことばにできなくても感じてるということであれば、そんな雑な捉え方はないとなる。歌が10ぐらいの解釈で動くものではない。ひとつの音からひとつにつながるところに相当な理由があって、だからそういうものにどう気づいていくかということを少しずつやっていくのです。

 それとプロの声というのは、みなさんが何も一曲聴いて判断する必要ないですね。多分2秒か3秒、鋭い人だったら1秒でわかる、あまり鋭くない人でも10秒ぐらい聴いたら、これはアマチュアではないだろうなというのはわかります。
 そこが声の一番ベーシックな部分の判断の練習です。ただ今のJ−POPS歌ってる人が同じことをやったようなときにどれぐらいプロなのかというのはわかりにくい部分はあります。マイクで入っています。音響効果を入れたところで判断すると先ほどのプロデューサーの世界になってしまう。下手でもどうみせていけばよいか、ここからやっていきます。

○日本以外の感覚を入れる理由

 一般の方がこれるということはそのベースのことが日本語と日本人ということにあるからです。
 トレーニングというのは誰かが気づいているけど誰かが気づいていないことを基準に取れない。ここにくる人というのは日本人で日本語で日本の生活してきているのだから、そういう人が気づいていないことからやっていったほうがよいということです。
 別に日本人がダメではない。欧米人がよいわけではない。しかし日本人だけがかなり特殊に声を音声の世界での表現力を失っている。それはあまりない。世界の人はもっと楽に声を出して歌っています、音楽性がどうこうということではない。もっと強い声をたくさん使っています。

 今度またサッカーがありますが応援で一晩で声が涸れてしまう国民なんてて日本人ぐらいです。エアロビのインストラクターでも選挙運動で後半に入ってくると声涸らしてますね、普通はおきないです。あんなことが起きたら政治家もトレーナーも失格です。普通の国では自分のことばでしゃべれなくなる、あるいはそういうふうなところまで自分の声をコントロールできない人が何ができるのだとなる。日本の場合は日頃声を出してませんから、できないのです。
 そういうことで言うと、こういうところで入っていないところの部分で日本以外の国、世界では、どうなのかから、みます。みなさんが違う環境に育っていたらその条件を得たのではないかという部分、人間だったらもうちょっと日本人も人間ていうことでとらえたらもう少し声が出たのではないかとところでやります。

 だからトレーニングの考え方というのは、よく正しい間違いとか対立されてどっちのやり方がよいとかいわれることがあるのですが、トレーニングというのは何でもやれるだけやっておけばよいのです。だから別にここをやったからこっちをやる。全部否定するということではなくて、こっちばっかりやっていたからこっちもやってバランスとりましょう。あるいはもっと大きな器になって、それでそこでやりたければもう一回ここを選べばよいのです。要は選択すればよいわけです。その選択の自由度を持っていくこと自体が器を大きくするということです☆。
 では日本人の聴けないところから入っていきましょう。

○呼吸法

 みなさんの歌のイメージと反するような言葉を言っていくと思います。例えば響かせていないでしょう、歌っていないでしょう、発声切り替えていないでしょう、そういうことです。
 歌っていないというのか、どういうことかと考えてもらうとその定義が通用するでしょう。その上で本を読んでもらうとああいうことを言いたかったのだろうなというのがもう少しわかると思うのです。
 単純に言うともう10年ぐらい前から私は呼吸法とか発声法も、あと腹式呼吸なんていうのは使わないようにしてます。どうしてもそれを知りたくて入ってきて知りたいと言う人には、私でもトレーナーの先生でもそういうことはやってきていますから教えますが。

 では「腹式呼吸というのはこういうことですよ」と、やったりします。講演にくる人はよく「腹式呼吸を知りたい」とか「呼吸法正しく教えてほしい」と言うからです。一番困るのは「自分の吐く息が間違っていますか」とか「この吐き方はダメなのですか」と言われること。全部程度問題なのです。

 程度問題というのは今みんなが座ってやっているのは全部腹式呼吸なのです。腹式も胸式もないのです。人間が考えてしまったから腹式胸式になっています。両方使ってやっています。切り離すこともできないです。
 ただ普通に言われる悪い胸式というのは胸の位置が目だって出てきてしまったり、体がぶれてしまったりすることでしょう。でも酸素がどうしても足らなくて外側から見たときに目立った場合にそういうだけです。
 決してそんなものが3つの呼吸法があるわけではない、その辺から入ってくるとどんどん理屈っぽくなってしまって現実と違ってきます。
 だからもうそういうことばはあまり使わなくしたのです。

 それだけ息を吐く必要性がなければその呼吸法いらない。だから身につかないのは当たり前です。本当の意味でヴォーカリストが持つべき腹式呼吸をきちっと身につけている人は、日本では声楽家とポップスの中でも一部のヴォーカリストしかいないです。
 というのはそれ以上に歌う必要性が日本にない。それ以上の腹式呼吸あっても仕方がないのです。だから自分が使いたい程度に応じて体が鍛えられ、息が保てたらよいわけです。ただアマチュアのレベルでも5秒続かない、あるいは途中で言葉がいえなくなってしまったりするのは困る。それは程度問題です。

 みなさんが健康体としたらここで吐いている息で普通でしゃべる分には充分使えます。しかし、こういう歌を歌うには全然足らないのです。でもこういう歌を歌おうという人は本当にごく一部です。
 声もですが、声や息がありあまるほどあったら、それが自由に使えるというのはひとつの考え方です。
 例えばトレーニングということで筋肉を余分なところまでつけておくとそうしたら、それは、いざといったときには役立つだろうと。ただ今私が考えているヴォーカリスト、役者の声レベルをめざすなら、そういう考え方でやりますが、ふつうのヴォーカリストに関しては自分が歌うのに必要にしないものは一切いらないのです。そんな時間があったら音楽を作ったり深めたり、ステージでやることを優先すべきです。体は最低限でよいのです。

 ただそれをどこまでというのがわかりにくいから最高のところからもってきたほうがわかりやすいということです。
 1年2年でこういう息にはならないです。最低で5年から7年ぐらいかかる。声楽家の世界でも呼吸に20年ぐらいと言われている。パバロッティとかになったらわからないですが彼なら日本の声楽家を見て、「これでは息が足りないよ」と言うかもしれない。呼吸法というのはすべての問題みたいに言われている。だから呼吸法を知りたいとかいうことになってしまうのです。
 腹式呼吸というのは、みんな勉強してきたと思うし、本にもその辺で寝転んで息を吐いたらできるとある。間違いはないです。
 ただそれ以上の表現が必要が必要なときに身につけておかないと、実際の舞台で歌の中では正しい間違いということではなくて相手に及ぼす効果が違ってくるということです。

 例えば役者が最後のところでひとつのセリフでエンディングにしなくてはいけない、あるいは場面をバッと変えなくてはいけないというときに、ひとつのセリフを言って息がなくなったり間があいてしまうともたない。歌い手でも同じです。速くなったり大きくなったりして急に小さくしなくてはいけない、そういうときに体がついていかなかったら本来は成り立たない。成り立たないのに歌の中にはマイクなど便利なもの、まったく成り立っていない流れの中で成り立ったように見えるような装置がある。それを使うとできてしまうのです。

○ギャップをつくる

 私がプロの歌い手とやっているのは、それを全部はいでいくことです。、プロというのはもう歌えているのだから教えることないのです。それでもくるということは、自分の歌に足らないと思っていることがあるからなのです。そうしたら足らないことをこちら側がめいっぱい見せてあげないとレッスンも成り立たないですね。歌は聴いていて安心できるぐらいうまいのです。でも何が足らないのかと言ったら基本なのです。こういうレベルの歌になったときにそれだけの呼吸が体が声がついてこない、それだけの速さで声が扱えない、同じ速さで扱ったときに伝わるものが全然ない、こういうことが起きてくるのです。

 多くの場合はマイクでのごまかしです。みなさんもおわかりだと思いますが、カラオケでやるととてもうまく歌えているものがエコー切るとかなり下手になって聞こえます。マイクなしで録音してみるとこんなにひどかったのかということになる。それを真の実力としないといけません。こういう人たちはそこで全てのオプションの効果をつけているのです。

 ややこしいのは実際ビブラートがきくような声では今の日本の音響のカラオケには悪く入ってしまうのです。装置自体でビブラートがかかり観客に効果が与えられることが工夫されているからです。プロの人はそういうのは嫌います。特にカラオケは全く響きがなくて声が出ない人がやると一番うまく歌えるようにセッティングされているわけです。声出さないで歌ったほうが綺麗に聞こえますね。
 もうひとつはコントロールの問題です。実際に感情を入れてそのことを伝えようと思ったらめいっぱいの声というのは使えないのです。「愛してるよ」と本当に言いたい、それを大声で言うということはないです。ヴォーカルの世界でもないです。
 でもトレーニングというのはそれを大声で言ってみます。それは10分の1で言ったときにも伝わるようにまず表現としての大きさを取っていくのです☆。

 こういうことから学んで欲しいこと、プロといっても別に発声法やっているわけではない、私は息吐いてもらって比べてみましたから徹底的にプロの体を知っているわけですが、どういう息を持っているかということです。その息が養われてくればどんなトレーニングでもよいのです。
 別にここのトレーニングではなく今やっているトレーニングも結果的に同じになってきます。

○トレーニングの検証

 どのトレーニングがどこまで正しいかというのは誰も実証できないのです。6つ子でもいてその母親がそれぞれ違う形にして構わないですと言われたら実験が一回できると思うのですが。
 みんな違う、筋肉も違う、その人に対して効果をあげたとしても、自分でなければあるいはもっとよい方法だったらもっと効果があがったかもしれないという疑問は常に持っているのですね☆。
 効果があがらなかったというときにも、私だからそこですんだが他のところに行っていたらもっとひどくなっていたかもしれないということもあるのです。それもだれもわからない、ヴォーカリスト自体があるいはヴォイストレーナー自体が思い込んでいるだけで進んできています。

 では「何秒吐くのですか」とか「どういうトレーニングをやればよいのですか」という問いも、そのトレーニングが本当にその人にぴったりかというのがわからないまま進んでいます。
 そういうことの問題というのは、トレーナーは「自分ができたら自分がやれたことが正しい」と押し付けます。そこがひとつの大きな間違いです。役者でもそうです。

 声というのは出していたら鍛えられていくのだという人もいますが、そういうやり方とってしまうと喉を壊す、違うやり方でないとできないという人もいます。声を壊してそれで鍛えられてよくなっている人もいます。
 応援団でもいると思いますが、そういう人がトップに立つとまたそういうやり方を押し付けていきます。するとそういうやり方に合わなかった人が能力なかったということになるのですが、必ずしもそうではありません。劇団も私からみると、ほとんど喉声発声です、でもたまたまそういうふうに、壊さない人もいる、そして伸びてくる、では壊さなかった人がダメだのかと言ったら、声というのは無理に出したら壊すようにできてますからそのほうが正常なわけです。トレーニングというのはそこからスタートしなくてはいけない。

 わからなくなったら現場をみること、ではこういう歌を聴いたときに息がどうなっているかをみる。歌を入れて比べてみる。その中にそういう息が入っているのと入っていないとが違うとしたら、そういう息がなくて音しか取れていないのだ、体と結びついていないということです。
 もしわからなければ同じことやってみればよいのです。ハーと吐いてみる。私は最初に深い息を吐いてごらんと言われ、「深い息?ハーッ」「それで歌ってみろ」と言われ結びつかなかった。

 体を使って息吐いただけですから、その先生がそこで求めたのは「ハーーー」(本当はのどの音もついていないのですけど)。
 これは別に特殊なことではないのです、英語とか発音したらそういうところが必要です。ドイツ語などでもそうです。
 深い母音を取ろうとしたらそういう息が必要なのです。日本語の「フ」とfとの違いに、そのぐらいの差があるのです。
 そういうものが現実面こういうところに現れているわけです。だから何もどこかに隠されているのではないのです。
 優れた歌い手が誰でもよいですが、音響によって見えにくくなっています。デジタル加工によって、森の中、霧の中から声が聴こえてくるようなのは勉強しにくいです。
 ところが30、40年前以前は、そんなに加工していませんから、けっこう生で聴こえますから、そういうのがトレーニングのときによいわけです。

○声よりも詞のイメージの日本

 日本人の歌というのは、心情的な面に入っていくから海外に出れないJ−POPSは日本では売れるが海外では売れないと言っています。レベルが低いだけの話です。当のヴォーカリストはみんな知っています。アメリカやヨーロッパ、あるいはブロードウェイでも見ればやっているのはどのレベルのことなのかということはわかります。それがよいか悪いというのはまた別の問題です。
 彼らの場合は音の組み立ての中できちんと音楽を創っていくのです。音の組み立てというのはこのフレージングをどういうふうに組み立てていくかという、絵の世界で言うとレイアウトとか構成です。
 こういうことでの耳が日本でもジャズのバンドのプレーヤーみたいなものはみんな持ってるはずなのです。持ってるのにヴォーカルに適応してくれない。

 というのは、その人の声であるということがオリジナルに見られてしまうのと、それから言葉の持つ強さです。
 特に日本のお客さんは、向こうのリズムとか向こうの感覚でフレーズが動いていることよりは日本語としての言葉の裏にある世界のほうに惹かれます。
 それは今の時代でも同じだと思います。J−POPSで流行っているのを見たって言葉の後ろにあるものと声の質感ですね。あの声の質感というのは磨かれているわけではなくて、使い方は器用ですがどちらかというと持って生まれたところの素直な声です。電話なんかで聴いたときにこの人の声よいなと思う程度のところでやれているのです。

 それは厳しいかもしれないが別に私ではなくて、多分あるレベル以上やっている人は昔のサッカーのリトルリーグぐらいかなというでしょう。はっきり言って音楽というのは国境を越えますから日本の文化がどうであれある国で何百万枚も売れているものが他の国で抹殺されるという時代ではもう全然ないです。日本人のダンサーでさえ世界的な活躍をしているのです。
 クラッシックのバレリーナも出ています。スポーツはともかくとして。あんな遺伝子によって体型が決まっているような分野で活躍できるだけの日本人になった。でも声では誰も出ていない、どういうことなのでしょうか。

 音楽的な能力がないのではないですね、バイオリニスト、ピアニスト、指揮者トップクラスいくらでもいます。
 まず環境があります。それからお客さんが期待する部分があって、我々も常に現場ではそこの要求に答え、そこで理想が崩れるのがいやだから。そこはわがままでできる場を持つという、もっと早く日本は追いつくと思ったのですが逆になってきましたね。
 音響の力が大きくなってきてそこで加工してしまえばよくなってしまう。だからCDの売上が落ちて、お笑い芸人のほうが流行っている時代ですね、でも、そうではないのです。単純に言ったらヴォーカリストの力が落ちて、お笑い芸人の力が高いのです。声を使う力としてそうなのです。

 彼らの声の使い方とか声の中での表現力のほうが、ヴォーカリストの残念なことながらメロディに乗っかってしまって歌詞つけて歌っているものよりもインパクトがあるのです。それは我々にとってではなくて若い人たちにとってもそうなのです。それだけの話です。
 だから今勉強するのだったらお笑いの人、なんでもよいです。他のネタを他の組がやったとしたときにどのぐらいインパクト持つかというと、ダメになってしまうでしょう。ネタがよくても、ネタだけではだめなのです。
 私はまだ、二流三流のお笑いの人も見てます。もっとよいネタでやっている人もいます。でも声での表現力がないから客が聞き取れない、インパクトがないから笑いをとれないのです☆。
 テレビに出て毎回、自虐的にやっているほうはまあ、別として、声の個性を生かしきっています。要はあの声があるからネタが生きるということは彼らは知りつくしています。

 分ける必要はないのです、テツ&トモは、歌もうまい、元々歌い手志願です。人前で何かやるというのはお笑いも歌い手も同じです。さだまさしさんは落語家なりたくて歌い手になってしまった。中島みゆきさんだって、詞を描きたいと言ってそういうことに。そこは私はわけていないです。
 音楽やっているつもりの人ほどやたらと分けるのです。大したことやれていないのに、すごい聖域にいるみたいな、まるで音楽やっているのがそんなに偉いのかということです。世の中がどこを支持するかを見ておけばどこで学べばよいかなんていうのはよくわかります。

○日本人にない基礎

 それだけのことを6分間の歌であげるために、どういうことをやらなくてはいけないかみたいなノウハウというのは、彼女に限らずプロに全部入ってるのです。このときのことを詩で書いたものをHPに入れてあります。ひとつの聴き方として、これが歌だということではないのですが、どこにもメロディ、音程リズム感も英語のうまさも声の大きさも表われない、そういうものを超えたところに乗って何かが伝わってくるという部分で必要です。
 もうひとつ音色ということを日本人聴き取れないのです。息の世界が日本人にないからです。日本語に強い息は要らないですから息を体から吐くことは、なかなかできない。

 こういうものを入れていくというのは内面から勉強していったほうが、言われるとそう変わって聴こえる、気づいているというか聴こえているだけではだめなのです。実際日本語の中だって英語と同じぐらいの色んな音というのがあるのです。「うん」だって5通り以上ある。ところが我々は「うん」ていうと「うん」はひとつしかないと聴いてしまっている。自然と聞き分けているのですが、ひとつしか聴いていないということは、ひとつしか気づいていないのです。だからそれを意識的にしていってより聴けるように耳を細かくしていくというのは勉強のひとつのアプローチです。

 いくつかの条件があります。これができるには音楽が入ってること、それから扱えること、呼吸が音楽の上に乗せて展開できることひとつでも狂ったらぎこちなくなってこういうふうにならないです。
 声を練りこめることあるいはその声を常につかめているどこでもはなせること、そのベースに音楽が必要ですけれど、簡単に見えますね、でもそこで日本人だとこういうのは「ラドソファ」変えてしまうのですね。
 特に今の若い子たちは高いところになってきてしまうとすぐに発声を変えてくる、トレーナーもそういうふうに教えます。
 要はその人の今の体をベースにしていますから、だからまずこういうふうに歌う感覚自体がないです。40年ぐらいさかのぼるとけっこういるのですが。

 歌い手が音楽としての構成を重視してないのです。日本人は、その音を取りに行こうとか言葉ひとつひとつをつなげてみようとやっています。
 そんな短絡的なことはやってはいけないのです。今のも1オクターブないわけです。かなり難しいです。
 私の本でも2年間で半オクターブできたら早い、2年間で1音でもよいよと。「ハイ」の練習はそういう深いところをやるトレーニングです。
 だから例えば一般の方で声が出ないとか言う人は役者の養成所行ったりすると無理に声を使っています。ところが「ハイ」と言うのは何かというと「h」から入って「i」にひびかす。「ハイ」が100回できたから、別に歌がうまくなるわけではないのですが声をつかめるようになってきます。声門を開き、のどの奥をあける☆。日本人の喉のところをはずしてみて体のところで声を持てるようになるのです。

○音色

 映画を見たり歌を聴いたりしてみて何か世の中に芯のある声というのがあるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないか、あるいは深いところで響いている声があるのではないかと気づくのも、音色の問題なのです。
 私の声は日本人から言ったら音色という観念がないから単に低いで見てしまう。でも、基本的には何が違うかというと体使っているだけ音色が深い、音色の問題。ただ日本人と言うのはそれがない。だからこういうのを自分たちでやろうとしたらいきなり音域がこんなにあるとなる。わかりやすければアレサでも、ベッドミドラーとかサッチモとかああいう声に合わせてやってみたら何か1オクターブ低いと思って歌っていたら何かもっと高いところで歌っているぞとわかります。五木ひろしさんあたりとサッチモの声域というのは同じぐらいのところで歌っています。それは日本人のは鼻側のほうにまとめていて柔らかく出していますし、彼らはけっこうストレートです。どちらを選ぶかはどうでもよいです。

 私が言っているのはトレーニングできるところをやるのだから息がついていくか鍛えられていくかということがベースです。それから歌がひとつになるかということです。
 日本人でワンコーラス1番つらぬいた集中力で持っていっている人というのはほとんどいないです。さっき聴いたような曲と言うのはその中でも稀な例です。2番、3番ぐらいになるとかなりテンションダウンしますね。
 ところが外国人はそういうこと絶対起こさないです。3番まであるということは3番までの理由があるから3番まであるわけです。日本のシャンソンなんかも向こうのが6番まであるからといって6番まで歌っているのです。そうではないでしょう。作品から考えたときには1番伝えられるのが3番までだったら3番までにすべきなのです。1番で全部言えてそれ以上2番からテンション落ちるのだったら1番で歌いあげておかなければいけないのです。

 最近短歌とか俳句と同じだなと思います。日本人で言うと半オクターブあれば4フレーズぐらいかなと15秒くらいのところで世界レベルにならないと。歌の世界というのは論理的に考えたら簡単ですね、1秒で同じことができない限り3分で同じことなど絶対できないわけです。まずその1秒です。1秒の世界の中で、こういうレッスンでもそうですね。
 何かわからないけど2年でも5年でもやってみてピッチがどうこうリズムがどうこうというよりも一瞬でもこれってすごい声だなぁ、これがもし3分できたらプロになれるというのが、1音出るか出ないかです。

○ベストのキィー、ベストのテンポ

 音域が1オクターブか2オクターブか3オクターブどうでもよいのです。今の世の中1オクターブあればよい。ただ全体になったときに難しいのは1オクターブ半ぐらいで構成しなければいけないからで、それでやっていることは3年たっても5年たってもだいたい4フレーズぐらい半オクターブぐらいの中で本当に表現ができる。

 自分の一番自分の出しやすいところのキーで自分の出しやすいところのテンポでなら、そんなにたくさんないのです。自分が選べるとしたら甘いだけです、私から言わせると。ひとつだって通用するところというのは本当に見つけられない、基準から言うと。そのひとつ通用するところを見つけてみて、半オクターブでやってみて、そこでプロと同じことができたなと思ったとしても、出だしだからもっと低いところでやらなくてはいけない。サビのところはもっと高いところで出さなくてはいけない、そうすると1オクターブぐらいは安定した声がないとできないし構成しなければいけないしということでまた難しくなるのです。

 場面場面は取れても、全体つなぐということから場面をやるためにはもっと力が必要になるのです。練習はまずそこからです。
 とにかく自分のキーというのか自分の一番できるところの声で一番できるテンポで流れを出すことです。それをお笑いの人というのは音楽ついてないからできる。流れを失ったら悲惨なものですね、シラーっとしてしまいます。
 ところが音楽というのは助けられてしまっているから、だから基本をやるというのはそういうことで、全部剥いでいかなくてはいけないのです。

 日本というのは悪いことに向こうから得てしまうと、そこの上に何か創ろうとしてしまいますね、ところが音楽だって文化なのだから全部剥いでいって一番底になったところに声があったり息があったり体があったりする。それでひとつの言葉を伝える。それが伝わった、では次に紡いでいこうと、それで1分になった。
 自分の声で伝えてここまで伝わったでもここのところでギターが入ってくれるともっと効果があがるぞとやってその理由の元でドラムをつけるのです。最初からワンセットあってそこに乗っかって歌っていたらこれはもうシロートもプロもわからないです。もう成り立っているのです。箱として。

 それをきちっと見ていかなくてはいけない。だから1曲歌うということはこういうのを聴いたら大変だなと思う。でも18歳の子でもセリーヌディオンだってマライアキャリーだって歌えるわけです。練習したら一ヶ月ぐらいで。ということは土俵が違うだろうということをまずみなくてはいけないわけです。そうすると1音でも2音でも半オクターブでもよいから土俵の同じところで勝負するということです。だから真似するということと少し違うのです。

○音程

 ほとんどの人がこういう曲を聴くと、気持ちよいままに歌ってしまいます。
 リズムや英語の発音を正すことなど、あまり見ません。他の先生に任せてます。ピッチトレーナーも別に置いています。
 それはどうしてかというとそんなこと考えていたら何も表現でないということです。元々基本となったときにそんなことを考えて誰も歌っていないからです。ピッチを考えて歌ったりしないでしょう。みんなでもそうですね。得意な曲で自信持っている曲でピッチなんか取らなくて取れていますね。カラオケで。だからもし取れていないとしたらそれはたまたまその曲が苦手だったりあるいは逆に変に間違えちゃって覚えてしまっただけの話です。そんな複雑なことを12個の音の中でやっているわけではないのです。使っているのは7つ、プラス1つか2つですね。だからもっとダメなのはピッチを正されるというようなところです。何が起きているかというと音楽がずれているのです、ピッチがずれているのではないのです。

 プロの歌っているのでピッチずれているのたくさんあります。めちゃめちゃひどいのもっとたくさんあります。それでもそんなこと客は気にならないですね。
 それというのは、「サ」の音がきちっと聴こえないので、そんなものが気になる程度にしか歌えないのであれば元々成り立っていないという話なのです。そんなもので客は聴かないし批判もしない。

○まねない

 こういうのでいうとこれを拡大してみる練習の方法としてみて、真似てはだめだよと。なぜかというと、例えばこういう動作を真似てみると、ここに行くと手が出なかったりそれからこうゆっくりになってみたりして真似てるつもりで同じことをやっているつもりで、だいたいスケールの小さいことになってしまいます。

 トレーニングですからプロはこう出せたということは本当はこのぐらいやれる能力があってこのぐらい出しているわけです。だから音を聴くときに自分の中で少しゆっくりになったなと思ったらすごいゆっくりになったのだと、パッと入ったなと思ったら、それはすごい早く入って、ただその結果としてそのぐらい自分の耳に聴こえるのだと受け止めないと本質的な勉強はできないです。それが感覚を盗むことです。
 だからこういうものでも例えば何回も聴いてみるとかあるいは大きな音で聴いてみる、「一緒に音楽を聴きましょう」と「そのことが一番大切なのですよ」と「歌ってばかりいるから歌えないのだよ」と特に歌ってきた人にはそう言ってます。歌えてて歌えるようになってるならもうなってるではないかと。当たり前ですね。

 そんな難しいことではないのだから、これだけの話で、何かすごいここに響かせる発声法があってそれをマスターしていないから俺は歌えないのだとか、本とか読むとそうなってしまうのです。
 そんなものはないのです、感覚があれば何でもできるのだから。そうしたらその感覚がないというのはいったいどういうことなのかというと耳の中で相手の体を読み込んだりそこの中で何が起きているかという能力にまだ欠けているわけです。それを身につけていけばよいのです。

 これはトレーナーの研修なんかでよく使うわけです、「ハァ〜」という最後のところ、こういうところを教えるのは日本もそろそろやめましょうと。こういうところというのは歌いきったあとにあくびしてるみたいなもので流れとして出てくるものだから発声法でリラックスして出したりするようなものではないと。

 何か1箇所でもよいから入り込める部分とかこの歌で言うとこれだけ歌おうとしたら確かに難しいと思う、でも1秒でよいよ2秒でよいよと言ったら接点はついてくるのです。同じ人間だから。
 だからうちの生徒がこういうの全然できないわけではなくて、2秒とか3秒はできたりする。でもそのことを1分でやろうとしたらすごい難しいことなのだよということなのです。
 2秒3秒できないのがどうやって30秒できるのだと、あるいは3度とか1度の中でできないことがどうしたら1オクターブ、1オクターブ半できるのかと言ったら当たり前の話ですよね。もしできてるとしたら基準が甘くなっているだけの話なのです。ギリギリのところで表現することでなんとかそこについていくしかない。

 だから、もし芸事を勉強しようというつもりで考えている人であれば上達法というのはひとつしかないです。自分より優れた感覚のものに引きずられるようにしてみて自分を失っていってそこに巻き込まれていくやり方、それしかないのです。
 本当に上達しようとしたら。スポーツなんかはそうですね、自分たちの中でどんなに努力してみてもダメだけど高校生だったら大学生のところ行ってみたりプロのところに入ってみてぶつかったりして、一瞬ニ瞬でも動けたらそれが革新するということですね。

 要は自分で考えたことでやってきた、自分の感覚でやっている、そしたらたいして上達しない、いや上達くらいしかしない。自分の体でやっているというところでもうやれるところまでは長くやっている人はやっているわけです。そこを壊さない限り次のものというのは得られません。芸術品はみんなそうだと思いますけれど、それを一般に戻すと普通に声が出ないとか大きな声が出ないとか言う場合には、一番簡単なのは日本人のところで限定しているものをはずすことです。
 例えばイタリア語をやってみるとか少しオペラっぽいところの、何もオペラの練習をする必要なくてワンフレーズだけ出してみるとかしてみます。

 ポジションを深くするとか声のポジション喉を開けてみるとか、大きな声を一瞬出してみるというのでもよいのです。「ハイ」でもよいでしょう。
 ただ大きな声を出すということで歌が大きく出るわけではないということです。そこがややこしいところです。要は力を働かせようと思ったら力が働かなくなってしまいます。それでフォームが必要になったり呼吸が必要になってきます。それがうまくまわったときに力が働きます。
 多分役者も同じです。ヴォーカリストがやらなくてはいけないのは全身を一体にすることです。一体にして声を出すという感覚をどこかでつかんでいくことです。

 これはスピーチなんかでもそうだと思います。外国人の映画俳優なんかから勉強するとよいと思います。私は役者には黒沢映画使っています。仲代さんとか三船敏郎さんとかああいう動きの中で剣を切りあう動きの中で「えい」とか「やぁ」とか言ってるほうが声が背骨のほうから出てくるのです。そういうのが定着してきたら1年2年たって、声を再生してみましょう。
【05.5.21講演会】



特集:福島英対談集vol.2
[K氏と]

K:昨日、仕事から帰ってきて、真夜中にあまりにも眠れないので、トニー賞を見ていたの。3時までやっていたんだけど、よく口が開いているのね。やっぱり口ですよね。口がきれいに、これだなって思った。まず、あごを下げること。

F:日ごろ、我々は動かしていないですからね。

K:今年のトニー賞で女優賞をとった方も、すごいきれいな響き、通りもそう、よく私のところに来るのは、「クラシックとジャズとゴスペルはどう違うのですか」と、「ジャズはジャズの発声があるですか」なんておっしゃるけれど、結局同じなんですよね。ニュアンスが違えば、当然表現によって出す声も違う。それには説明はいらない。その方の感性なんですよね。

フランス語なのか英語なのか、ドイツ語なのかイタリア語なのか、そのことばによっても全然違う。口の開け方も違うし、舌の使い方も違うし、全部違うわけではないですか。
私はだから、歌はあまり教えたくないのです。歌はその方のもの。だけど、発声は、皆、人間ならば、人間は皆同じつくりにあるのだということを申し上げるのです。昨日、口の開け方、見事でした。やっぱり訓練してらしたんだろうなと見ていました。

F:昔はイタリアっぽく大きな声を出したいという、単純なものだったのですが、今は、ずいぶんおとなしくきれいな声を、小さく響かせるようなものがメインになったようで、ずいぶんダイナミックではなくなったらしいですけれど、日本人はなんとなく皆、パワーダウンする感じですね。

もう教えるということはやらないのです。できるだけ聞きなさいというか、ていねいに聞きなさいと、それだけだとまた教えてくれないと言われてしまって難しいのですけれどね(一同笑)。

皆、声を使ってきているのです。「歌も初心者です」といいますが、それはヴォイストレーニングに初心者なだけ、ヴォイストレーニングってら、ヴォイストレーナーのところに行ったらやっているものが、ヴォイストレーニングだというくらいなもの、何も発声やヴォイストレーニングをやって、皆歌い手になっているわけではないのです。

K:そうそう、そういうことです。

F:そういうことが感覚的に鋭くできる人と、誰かが少しサポートしてあげたほうが入りやすい人とがいて、そこだけの差なのです。だから、本なんかを出してくる人は、はっきり言って全部が間違いですね(笑)。本当に、本のようにやらなければいけないと入ってしまうから、もう最近は読まないでくださいという(笑)。本に書いてあるのがおかしいと思ったり、自分がそれに沿ってやって何か変だと思ったら、その方が正しいんですよと。

初心者と思うからいけないのであって、しゃべることも歌うことも、皆小さいころからやっています。たまたま耳の入り方や環境がよくて、うまく調整できてしまっている人はうまいし、そうでない人はそれが足りないだけ、そういうことでいうと、日ごろの聞き方や、声の発し方のところを気をつけるのが原点です。誰もが発声を習いに行ったり、ヴォイストレーニングをやってから歌い手にはなっていない。
プロになると、いろいろとコントロールをしなければいけないので、勉強しなければいけなくなりますが。

ましてロックやパンクをやるという子が、本を読んで学校に行くというのは、順番がおかしい(笑)。ストリートなんかでやっていて、どうしても人を振り向かせられないよというのなら、どこかにアドバイスをいくのはよいのですが、最初からやるのはまじめか依存的すぎる。

K:そうですね、それは危険ですね。かたちにはまってしまいますね。やっぱりその子の感性が出てこないで、最初からかたちになってしまいます。

F:だから残念なことながら、いろいろなスクールができたり本がたくさん出て、私もその一人ですが、そうなればなればなるほど、その人にとって歌を歌うことが遠くなります。ヴォイストレーニングという特殊な技術があって、そこに行くと高い声の出し方とかいろいろな声の使い方を教えてくれて、それでうまくなるというような、そんな感じ、それが必修と思っていらっしゃる方が多いのですね。

それはもって生まれたところに皆備わっていているもの、ただ、それがうまく出せなかっただけ。小さいころから音楽が聞こえたら、家中で踊っているような家庭と、そういうことをやると怒られてしまう家庭との違いです(笑)。

K:はい、うるさいからやめなさいといわれるところね。

F:それで全然違ってくるわけで、そうやって育ってしまった十代までのことを、もう一度ていねいに声を扱っていくというのが、ベースですからね。

だから習いにいく、あるいはいきなり声も音楽も聞かないで、先生の見本についてしまうというのは、本当に危険ですね。私は、本当に本だけでやらないでください。そんなものを信じてしまうと、とんでもないことになりますと(笑)。

音楽が徹底して小さいころから入っているといいのです。喉をしめたり気持ち悪いことをやっていたら、こんなのは音楽じゃないとわかるでしょう。自分の歌らしくないから、おかしいなと自動的に修正できるのです。スポーツなんかをやっていて、スポーツのように基本トレーニングだと思ってヴォイストレーニングに入ってしまうと、かたちだけになる場合が多いですね。

K:本当に、音楽って教えてもらうものではないですからね。ゴスペルをやってしまうから、ゴスペルのよさというのをどうしても私は語ってしまうのですけれど、要するに子供のころから、クリスチャンの方は教会に行って、音楽がそこにあるわけですね。それこそ、基本的な音楽はドミソドファラシレソで、その和音が自然と身につくわけですよね。

ゴスペルはいつも、歌と共にあるわけだから、まずことばありきということが聖書でも言っていて、そこからはじまって、賛美するすばらしい音楽に、すべてのことが入っています。譜面とかそういうことなしに。

だからそのうちに、先生がおっしゃるように耳ができ、聞く耳が自然とでき、自然と歌う心が育ち、自然と感謝をすることを学び、全部自然なんですよね。それで気がついたら、あ、音楽が好きだからプロになろうかなとか、ある人はブルースやろうかなとか、ジャズをやろうかなというふうに、そこから勉強がはじまるのよね。

だから基礎はもうできている。社会ができているということね。そういったから、だから勉強のしかたも、私はたまたまアメリカで勉強してきたのですけれども、もちろん日本でもクラシックの先生に少々習ってきて、あまりむやみやたらに怒る先生がたまたまいなかったのですが(笑)、中にはずいぶん、それはないんじゃないのという先生もいらっしゃるわけですよね。

そういう先生を思い出すと、できないから怒るのね。でもアメリカの先生は、できなくて当たり前だというのね。「できないから私のところに来たのだから、ゆっくりやれ」ということを言ってくださるの。そうすると安心する。「いいのよ、できないからあなた、お金を払って私のところに来たんでしょう。じゃあ、ゆっくりやりましょうよ、いいじゃない、いつかできるから」と言ってくださるのね。そのかわり、「ちゃんとやりなさい。形をきちんと学びなさい」と。「形だよと、口の形、全部形なんだよ」ということを言ってくださったから、習うということが、もちろんプロになって大人になって、またやり直したのですけれども、基礎がもちろんありますよね、そういう環境で育ったわけですから。すごく面白くレッスンできましたね、すっごく楽しく。

まず自分がやる気があるんだから(笑)、本当にやりたくて来ているわけですからね。だから、そこに行ったら歌が歌えるとかということよりも、自分の問題をちゃんと抱えていったから、それをちゃんとクリアしてくれる先生がいらしてくれたということ。そこで本当に歌、歌は自分で歌うものなんだなあということをすごく感じましたね。

しかしながら、発声というものは終わりはない、というふうにそこで学んだし、本当に何度も言いけれど、やっぱり子供のころに自然と入ってきたことが、すごく大事ですね。やっぱり聞く力ということ。

F:それがもうほとんどですよね。いいものを聞くしかないのであって、発声だけをやっていたらおかしくなってしまう。

スクールに行くのは、依存的な子が多いから、そこに行くとすぐできるだろうと。けっこうトレーナーを転々とうつる人も多いですね。またトレーナーのほうも「前の先生のやり方がおかしいよ」と言う。必ずしもそうではなくて、前のところに行ってできた人だっていたのに、できなかったからこっちに来たのだったら、なぜできなかったのかと考えることでしょう。とにかく時間でやろうとしているのに、前にやった時間をムダにする。

K:そうですね、はい。

F:日本の場合は、すごく短い期間でやろうとします。私も専門学校で教えていたことがあるのですが、2年といったら、20歳、世の中にどんな音楽があるのかを知るくらいでいい。そこで歌えるとか関係ない。
欧米が一番違うのは、生活が教会中心になっています。そこに行くとあのおじいさんが死んだよとか、あそこのお宅に赤ちゃんが生まれてと。それと音楽が一体になっているんですよね。揺りかごから墓場まで。

私たちも15年くらい前かな、ゴスペルを2年間くらいやりました。とにかく日本人は感情を出せないかというので、結局、がんばりすぎて一生懸命やってしまうから、気分だけ盛り上がって。声を壊してなかなか難しいというのを感じたのです。無理に楽しもうとか無理に歌おうとかいうのが、先にあるのですよね。そんながんばらなくても、急に変わるわけではないのに。

K:それと、もうそろそろわかってもいいのではないかなと思いながら若い子の歌を聞いているのですが、黒人の歌を聞いて黒人になろうとしすぎているというのですか、世代も違うわけですからね。やっぱり日本人なりの歌を、もっと自分なりの歌を歌おうという賢さがなければ、やっぱり喉をつぶすしね。
だから自分なりのゴスペルを歌いたいから、発声するなんていう人が来ると、私、ものすごく嬉しくなっちゃうのです。
私、よく発声では、童謡を歌ってもらうのです。アカペラで。あなたが一番覚えている、何でもいいわ、といって歌わせると、皆ちゃんと歌うのね。カラスなぜ鳴くのとか歌うと、皆きれいに歌うんですよ。

ただ、私一番気になるのは、声の出し方ですが、自分の声の高さを知らない人が多いですね。
お坊さんか写真家かと思ったわ。同じようなものよ。人の心を写すんだからね。うまいでしょ。最近そう思ったの(一同笑)。最近、何人か写真家の方がいて、その人の写真を見ていて、なるほどなと。
歌を歌うというのは、その人がその人のことを知らないとだめなのよね、自分を。どのくらいの高さが心地いいのか、要するにしゃべることと歌うことが同じになったら、本当は一番いいの。しゃべるように歌う。このキーではっきり響きがあって、通ればいいわけだから。それを一緒に探してあげるのが、私の仕事だと思っているんですよ。だからヴォイストレーナーというのは、教えるのではなくて、一緒に探す人なんです。ガイドだと私は思っています。

F:その人のキー、高さなりテンポを、本人が、まあわかっていないですね。それから、選曲もそう。私たちも外国人から「何であんな高いところであんなに速く歌っているんだ」と言うから、「あなたたちの真似をしているんだよ」と言ったら、「いや、俺らはちゃんと合っているところの合っている速さで歌っていて、あれは全然違うんだ」と、彼らは素直に心で聞くから、わかるのです。日本人で逆に向こうのものにあこがれている人たちはもう同じようにやりたい。指導者もそうですね。だから形だけでムリがくる。

K:そうなのよねえ。自分もそうだったからわかるんですけどね。早くわかった方がいいわね。黒人じゃないということをね(笑)。

F:そこまでなりたいという人もいますけどね。だから楽器と違って、同じ楽器を買うわけにはいかないから、可能性はあるけれど、絶対に限界はあるのです。私だってそんなことをいったら、マライア・キャリーのまねなんてできませよと、やったってみじめなものでしょうと(一同笑)。それはもう、日本人として生まれ、こういう声なんだから、それを何でもできるなんてことはない。
でも、トレーナーでも何オクターブも出せるとか、いろいろなことを言う人がいるわけですよね。誰でも高い声が出せると。そういう人もいるけれど、もしその人のオリジナリティがそこでないのだったら、そんな苦労をして、生まれついて合っていない苦手なところばかりで、雑に音楽を奏でる必要は全然ない。

ただ、日本の現場は、私はミュージカルも立ち合っているのですが、全部原調主義なんですね。合唱団もそうです。
皆、3度くらい下げてもう少しゆっくりやればできるのにと思うのですが(笑)、とにかく向こうと同じ、それは無理だろうと。あれだけ鍛えて、小さいころから高いレベルでオーディションを乗り越えた人たちがやっているのを写しとるのは。
だから日本のミュージカルも音程とるだけしかできなかったり、すごくもったいないのですよね。歌い手のところにしっかりと合わせてあげれば、皆できるのですが。声楽はキーを下げるわけにいかないので、しかたないのかもしれませんが、皆、高音づけ。特に最近の音楽は、元々日本人は高い音が得意な人がデビューしていたところがあって、誰しもそれがよいはずがない。

K:はいはい、そうですね。表層みたいな音楽ですよね。やっぱりそこが、それこそ音楽家のあり方もそうなんですけれど、たまたま昨日、私の友人に、20年ぶりに会いまして、彼はブルースをやっている人でヨーロッパを中心に動いているのですが、ちっともヒットソングを出そうなんて思っていないし、そういうことでないと、音楽をやることはもう生活と人なのだから。彼は日本人でオルガニストなのだけれども、まず仲間はオーストラリア人とドイツ人と一緒にやっているのですね。彼は、お寺さんの、ご住職の坊ちゃんで、お父様が亡くなったから、自分がその跡を継がなければいけないので、両方やっているのです。お寺の仕事と音楽。自分の仲間も違う仕事をやって、音楽をやっている、そういう人は多い。

世界で、本当に音楽で食べられる人は少ないですよ。だけど音楽を続けたいという気持ちは別ですよね。音楽を続けていくことはできるわけです。
だから私は、学校で教えていたときもあるのですが、必ず生徒さんに申し上げるのは、プロになろうと思うなと、そうでなくて自分の生活の中で、やっぱり音楽を楽しむということを、私は皆に知ってほしいと。

あと、どんな音楽が、いい悪いではなくて、どんな音楽がその時間に合うか。TPO。たくさんのものを聞きたいですよね。クラシックを聞きたいときもあるだろう、演歌がいいときもあるだろう、たくさんの音楽を、私は提供してあげることはできるよと、そこで選べる人になってほしいと。

歌手にならなくたって、自分のおうちで、子供に添いながら歌ったり、ちょっと台所で。音楽ってそんなものよ。ヒットしてどうのこうの、それは本当に一部の人だと思ってほしいと、皆に言っています。うちのメンバーにも言っています。

ふだんの生活のなかで音楽を楽しむということですね。私は、発声は厳しくやるのです。気になるものですから、いろいろ。だけど、発声は30分くらいやって、後は歌を聞いたり歌ったりして、とにかく楽しむことですね。
あと、自分の歌をやりたい人は、自分がどこのレベルにいるかということを知れば、学ぶ心もできてきますね。

F:そうですね。

K:ここができていない、ここがまだ足りないんだというチェックを、私がする役だと思っているのですね。もうその程度でいい。

F:トレーナーというのは、鏡でいいのですよね。一番厳しいお客さんの代表。

K:そうだと思ってます。私はいつもそう。しかもミーハーの代表だから(笑)、あなたの歌が好きか、私ミーハーよ、ふつうのおばさんだと思って、私が嫌だと思うことは皆が嫌だと思っているんだからねと。あなたのその鼻声気に入らないとか、のどにひっかかっているとか、うぅっうぅっっとやりたくなる(一同笑)。

私が思っていることは、皆がたいてい思っているんだから直したほうがいいよと、そういう役目だと思っていますからね。まあ、プロの人はまた別ですけれどね。

F:歌の中で、食べていけるというのは、かなり特殊なこと、日本でも、作詞作曲の印税収入以外は、ほとんど食べられている人っていないわけですからね、現実問題。

K:そうですね。その彼なんかは極端なことを言っていましたね。昔から伝わっている曲で、いい曲はたくさんあるって。でもそれをやっていたらお金にならないから、オリジナルというものをつくってお金を得ようとするんだけど、それもどうかねって。自分の稚拙な詩とメロディで、すばらしいメロディがあるのにね、恥ずかしくなっちゃうよーなんていうふうに考えている人たちもいるんですよね。

F:プロでも分けている人が多いですね。自分たちのサウンドはこっちだけど、売れないから、こっちでちょっとはやらないと、客が集まらない。お客さんの要求に答えるのもプロですから。元々ゴスペルなんかも、神様から与えられたものでお金をとるとかレコードを出すなんていうのは恥ずかしいというスターもいた。

K:そうですよね。それがこう、いろいろな意味で、地域の活性化のためにお金が回ったり、まったく生活のために、皆さん本当の意味でやっていらっしゃるわけですからね。私、そう思います。

F:だから、ああいう商業主義やビジネスとまた別ですね。ただそれで食べていけるのも理想であったり、そういうお金もないことには、当然活動もできませんから。

司会
はい、できればですね、トレーニングというと大げさですが、学校の小学校、中学校の先生が、いろいろな歌を指導するときに、たとえばゴスペル、たとえば童謡だったら童謡、こういう歌を歌うときの発声の指導のしかたですとか、声の出し方だとか、あるいはその音楽の持っている独特の声というのはどういうものなのかということを、学校の先生方にわかりやすく教えていただければと。
「天使にラブソングを」あたりから、特に中学生くらいは、ゴスペルの歌を歌いたがっています。学校の先生方もやるのですが、いいわねと、かっこいいな、やってみたいなと思ってくださる先生と、生徒がやりたいというので、しょうがなくて、私、こんなのをやったことがないけれどやってみようかな、という引けちゃっている人では、教え方も熱意も違ってくるわけで(笑)。

F:音楽教師っていうのは、私は、クラシックの先生もトレーナーとして雇っているのでわかるのですが、声楽上でこなせる貴族の役みたいなものに対する感性や歌い方はあるのですが、「ライオン・キング」のハイエナ役をどうやるんだとか、動物振り付けをやりながらということになってしまうと、もうお手上げ、そこに関わりたくないというところがあります。かなり苦手意識というのか、邦楽のことで言いましたけれど、非常にキャパが狭い。
学校の先生は、今、邦楽をやらなければいけなくなったみたいですが、もっとも日本の邦楽や伝統音楽を聞かないできた人、小中学校の先生は、ふつうの人よりも聞かないでよけてきた人たちが多い。でも実際、生徒がやりたいのはクラシック的なもの、昔だったらシューベルトとかあったのかもしれないし、いいのもありますが、人気がない。

K:私たちのオリジナルで、清元の三味線の人にアレンジしてもらってやったのね。そのときに、「おーえーどーにっぽんばし ななつだち」というように、日本独特のななめにフッとふるようなメロディの歌い方ってあるでしょう。私はたまたま日本舞踊を習ってきたり歌舞伎が大好きだから、見よう見まねでできるのですが、できないの、若い子。どうしようかなと思ってしょうがないから、清元の人と相談したら、キセルを持たせて花魁の真似をさせて、「主さんえー」とやってごらんと。やったの、棒を持って、こうやって割り箸をはい持って、と。花魁になって、一回回して色っぽく、「主さんえー」とやってごらんと言ったらできるの。

F:へぇー

K:それで「お江戸日本橋」が歌えるようになったの。この独特な「チリチリツンツルツントトトン チリチリチリチンチリチンチリチツツツツンツン」という斜めの曲線が歌えるようになるの。だから、先生がさっきおっしゃったように、見たり聞いたりすることが最初です。私だってゴスペル、小さいときから、黒人の歌が好きでね、見ていたんですよね、黒人のステージを見たり、ミュージカルを見たり、映画を見たりしたから、今こうやって何となく歌えるわけで、習っただけではできないだろうと思います。やっぱりそんなふうに踊ってみたり、それこそ見よう見まねから入らないと、できないですね。ほとんどはね。だからその、動物の役も、動物を見ていてもしょうがないけど(笑)、それこそ本場のを見て、その心を得て、心を得ないとできませんわよね。

F:そうなんですよね。そういうのって、いわゆるきれいな声で美しく響かせて売っているのとはまた別の表現ですから。

K:だから、もっと理想的な姿であるのは、基礎を知ってつつクラシックやアリアを歌えつつ、動物になるわけですよね。それが発声のテクニックがありつつ、最終的には歌というのは、テクニックを持ちつつ、テクニックを捨てることじゃないですか。

F:叫び声だけやると、のどをつぶすんですよね。だからクラシックや基本を知っていることでのどを守り。

K:基礎をやりつつ、動物になるわけですわよね。

F:それがクラシックに聞こえてしまうと失敗してしまう。

K:そういうことですね。トニー賞の人たちを見ていると、皆さんクラシックを勉強して、すごくきれいな響きで抜けもいい。だけどミュージカルを見て育っているから、ミュージカル風に歌えるのでしょうね、きっと。そうですよね、先生。

F:ベースに入っているものが出るんですよね。一見器用だったりうまかったりしていても、長年こうやっていくと、後で本当にうまくなる子は、小さいころ、どこかに絶対他の子よりも何か入っているのですよ。それがないと、それを後からどこまで入れられるのかどうかわからないのですが、うまくなった子はすごくたくさんの曲を知っているか、どこかの、我々も知らないようなところをすごくたくさん聞いていたり、何かあります。

伸び悩む子は、発声をやって、ちょっと器用であっても、底がない。ないから入れるしかありません。後からでもいいのですがね。
だから、どれだけいいものを聞いているか、どの程度それを深く聞いてきたのかというのも、こればっかりは音楽をかけても退屈する子もいれば、すごく入れる子もいる。生き方や育ちとか、いろいろなものがある。音大のお嬢さんよりは苦労してきた子なんかのほうが、音楽がわからなくても、入っていけるんですよ。

K:そうなのよね。下手ウマってやつね(笑)。発声が別にできているできていないでなくても、魅力的な歌手はたくさんいるわけですからね、ちょっと別ですね、そこは。

F:そこはリアリティというか、なんか物まねっぽくやっているのか、そうではなくて、ゴスペルをやっていても、その子が心からやっているのかというのは、ずいぶん違いますね。

K:ですから、私のところもプロの方がいらっしゃって、発声のことなんかやっていなかった方が多いのですよ。でも「ツアーを回っていると、のどを痛めるのだけどどうしたらいいのか」とか、「発声ができていないんじゃないか」と必要があると、一番早く伸びられます。やっぱり必要性があって来られるわけですから、そうであってほしいですね。最初から、先生がおっしゃたように、門を叩くのではなくて、やってみてどうしてもできなければ…それがいいですね。

F:先生ご自身は、当たり前のように、むこうに自分の課題を持っていかれたと言うけれど、その課題を持てるという人が、すごく少ないのですよ。「先生、課題を探してください」と来るのですよね(笑)。

K:そう、それはちょっとね。そこまでは違うでしょうということですね。

F:私も歌ではうまく説明のしようがないから、漫画家の人が「何をどう描くのですかとは質問に来ないでしょう」と。(笑)描いたものを「ここはいい」とか「ここがちょっと」というのは言えるけれど、どう描くですかというのは、描きたいように描けばよい。

K:(笑)

F:この前キューバに行ってきたのですが、日本に帰ってきて、何で皆、歌でこんな苦しい思いをしているんだろうと。もっと自由になるためにやっているんだから、発声や音が外れることにそんな気を使ったりして。確かに発音もきれいなほうがいいけれど、それは人に伝えられて、さらに伝えようと思ったときにもっときちんとできるべきで、伝わるものもないのに、RとLの発音をどうするかとか、そんなところから入ってみたって、難しくなっていくばかりでしょう。

K:だから、ゴスペルのよさというのはそこにあるんでしょうね。とにかく下手でもいいと、歌うことがすばらしいよと言ってくださるわけですよね。そこがとてもいい。ただ歌うことによって、のどをつぶしては困りますけれどね、その辺はある程度きたら、やっぱりいい歌を歌いたいのなら、少しずつ、発声というものをやってみるかということですね。ちょっとずつですよね。

F:必要性ですよね。だから皆、先に本とか受け売りの知識で、腹式をやらなきゃとか、お腹から声を出さなければという、それをやるから間違ってしまうんです。毎日やっていたらいつかそういうふうになっているわけですから。

K:自然とね、実は自然とできているわけですから。

F:いい歌を歌っていたら。さっきの先生ではないですけれど、私もどちらかというと強制的にバイエルから教わった世代ですから、その嫌さというのはわかります(笑)。あれで伸びる人はいいのですけれど、嫌になる人も。

K:多いですよね。

F:私なんかは完全に嫌いになってしまったのですが、今の子たちでも、音程など細かく注意されてしまう。ちょっと暗く出ていたり、テンションが下がっていたら、ピッチが下がっているといわれてしまう。ピッチを下げて歌っている人は、外国にもいないわけではない。堂々と歌っていたらあまりそういうふうに見えない。

「ドレミ」というのを「ドレミ」に当てて歌うのではなくて、そこに音楽が流れていて、心が動いて、自分にも心地いいんだよ、その心地いいことに反することをやるから、こっちが聞いていてつまづく。お客が聞いていてわかるわけもないのに、音痴だとか音が外れていると。その心地よさの感覚、音楽の流れの感覚のない人に何かを教えていくのは、難しいというより、まだやらないほうがいいですね。どんどん頭でっかちになって、その人も苦しめてしまう。

K:音楽の専門のことを勉強するときは、それなりの経験を積んで、そういう目的意識があった人が、勉強という名の修行を積むべきで、音楽自体は勉強するものではないです。歌を歌ったり、声を出したり体を動かしたりするのは勉強ではない。もうレクリエーションなわけです。だから中学生くらいまでは音楽ってレクリエーションなんじゃないですか。それ以降じゃないですか、勉強するというのは。

F:そうですね。だから頭を使わせり難しくすることを、先生から避けるべきなんですね。

K:よくファルセットだ地声だということをおっしゃるけれど、どっちでもいいんですよ。声が出ればいいんですから(一同笑)。私、中年の方に、実は歌をご一緒に歌っている時間が月に何回かあるのですが、東京女性合唱団というのですが、高い声が出ないのです。煙草吸ってたりなんかするから「私出ないわ」と。その声で結構です。私なんかめちゃくちゃよ。ここは高いほうね、ここは低いほう、もう出ればいいからって。だから「ナントカー(高)」と歌っているときと、こんなふうに下がっているときもあるの。でも私、それでもいいと思うの。

それよりも大事なことは歌いたいという気持ちですよね。メロディに乗せて声を出すという心地よさ。これ、しゃべるときと全然違うじゃないですか。それを死ぬまでやっていただきたい。そうすると、きっと寂しいなんてこともないと思うの。
もう、とにかくコミュニケーションのひとつのツールであり、歌うというのは、命を豊かにするツールであり、上手に使うべきですよ。

声だって、私も低くなりましたよ、キー。もうとんでもないの。若いときのキーなんか。でも、若いときのキーのままに歌われる方がいるんですよ。ある歌手は、いまだに20代のときと同じキーなの。憎たらしいですよ(笑)。特殊だと思ってる。違います?

F:はい。

K:私は低いキーなら、男みたいに出るようになっちゃったのですけど。それと不思議ですね。あまり高い声を出したくない。出す気持ちがもうない。嫌、というかもういいの(一同笑)。もうなんか、この辺で歌いたい、この辺の世界よ、私というんだけどね。

それって人の気持ちって変わると思うんですよ。高い声を出したいときと、低いほうが自分の心が落ち着くというときと。自然にまかせておいたほうがいいと思うんですよ。子供さんが何も、立派な声を出すことはないですよね。いいんですよ、キャンキャンした声で歌えばいいと思っていますし。

F:だから、一旦音楽に入って、日常のなかの様々な声があって、合わさってくる。
お笑いの人たちがいろいろな声の使い方をしていますよね。ああいう人たちの一番魅力的なその人の声の上に、さらに、舞台とかプロになるためにというのは、鍛えるべきなのです。ほとんどの人は、歌いだしたりするときに、自分たちの一番悪いところの声、状態も悪くて心ものっていないような声を出して、同じ声で歌わなければいけないみたいに思っているから、すごく不自由になっているんですよね。

K:そうですね、あと、自分が自分の役目、自分がこの世界を表現するか、要するに自分のいきたい場所の目標がはっきり定まっていないまま、歌を歌うという行為をしてしまうから、キーもよくわからない、というんですか。シミュレーションできていないの、どうしたらいいのかということ、それもあるんじゃないかなぁと思うの。

F:話なんかも目的がないところでやるから、その目的が高い声や大きな声になってしまう。伝えることをやるのをいいだけなのだから。

K:そうですよね。

F:ところが今の歌は楽譜から入ってきて、先に曲から入って、バンドや音をつけるところから入ってしまうから、無理をしてしまう。先生が言われたとおり、しゃべっていることの延長でいいわけですから、無理に高いところや低いところを出す必要も本当はないはずで。

K:ないんですね。どうしても、まあ、それもよくわかる気もします。
私は発声に来た方に、私はひねくれているところがありまして、絶対に大きな声を出させないのです。しかも普通の声、「M M M」息を切ってください。「いつ大きな声を出すのですか」「いいの待ってください」。「結果だから、声は結果じゃないですか」、こうしているうちにあたたまってくれば、自然と出るようになります。「発声というのは、別に大きな声を出すためにやるわけではないんですよ」と申し上げるのです。

皆さん大きな声を出したり強く出したりすることがいい声だと思っていらっしゃるところがありますね。それがちょっとかわいそうですね。

F:大きな声が出せる人がうらやましいとか、それが上達の目安のような勘違い。でも今、そんな時代ではない。昔は音響もなかったから、ある程度、そういう部分が必要だった部分もありますけれど。

K:そうですね。だから逆に、大きな声ばかり出して、それがいいと思っている子がピアニッシモができない、ということは表情ができないということなのですね。表情がない。いつも同じ一定の大きさで表情で歌っているから。

私は、日本の歌手たち、特に若い子が足りないのは、もう少し興味を持ってほしいのは、表情ですね。表情がもっと細やかに、さっき先生もおっしゃったけれど、マライア・キャリーとかああいう人たちは、表情が欲しいからああいうフェイクをつけるのであって、フェイクをつけることが目標ではないのですよ。表情をつけるとそうなっちゃうのね。

これを私は伝えているのです。歌で表情をしてほしいと。声は皆出るのです。ある一定の声は。そうなると大事なのは、最初に先生がおっしゃったように、やっぱり聞くことですよ。よく聞いて。

F:表情としては聞いていないんですよね。音の動かし方を形として聞いているから、ていねいではないのですね。今、声を使うので一番ていねいな人は、朗読している人ですね。

K:なるほどね。

F:歌い手なんかは、彼らの語尾の置き方や入り方を見習ってほしいくらいですね。声優さんも役者もけっこう雑に最近なってきました。

K:私、実はうちのグループの稽古をつけていまして、すごく気になりはじめたのが、切り方なんです。切り方に、ただ切るのね。ただ3つ伸ばすとかね。いや、そうじゃない、もっとことばの意味の切り方を、もっと自分なりに研究してごらんと、言ったわけなんですけれど。

たとえば人間怒るとき「ナントカ!」とほとばしるように息を出すし、落ち着いてしゃべるときは、ていねいにていねいに「なんとかね」、マルなんて聞こえるくらいの話し方をするでしょうと。切り方がとても雑。

F:生活のところでの、声の使い方、感情程度の使い分けさえ、歌のなかでやっていないですね。ソロの歌は、エコーがかかってしまうので。先生のところはアカペラでやられるからいいのですけれど、歌い手はマイクを持つと、すごく甘いですね。

K:そうね、高校生くらいの子は、ここでもありましたけれど、ポップスがずいぶん学校の教科書に出てきて、そういうのが歌だと思っているようです。若い子がほとんど、先生方も、お好きな年齢の方がいらっしゃるのか、若い先生方なんかはそういうふうに歌うのが、歌と、これは若い子にちょっと媚びているところもあるんじゃないかなと。

F:ありますね。

K:でも本来、歌というものはそうではなくて、心ということに気がついていただきたいですね。

F:先生が言われていた童謡とか、日本人のベースにあるところがなくなってきました。小学生や中学生で、本当の古典なんかをやると興味を引くし、現代的なものをちょっとアレンジしてやってみても興味を示さない。だからいいものはいいとわかるそうですが、そういう人が学校にいるかとなると、そこが問題ですよね(笑)。

司会
学校の先生の問題もあるし、もうひとつは学校制度。私、前に足立区や葛飾区の高校を何校か回ったことがあるのです。今の時期暑いですから、皆、窓を開け放っているじゃないですか。学校に行くと、あるクラスが授業をやっているんですね。教壇に先生がいて、教壇を囲むように前に10個くらいの机にいる子は、授業を受けているわけです。残りの20人くらいは逆を向いて、トランプをしたり携帯をしてたりするわけです。授業になっていないわけですよ。

そういうなかで、音楽の授業をどうやってやるのかと思うのですが。ともかく教科書に載っている歌曲をやらせようったって、誰もやらないわけですよ。

K:そうね、確かにね。

司会:そうすると、しょうがない、「今、流行りのJ-POPSでやろう」と、そういうところは、ちょっとありますね。割とちゃんとした学校なら、先生に指導力があれば、よしクラシックと、ちゃんとやるのです。やると、けっこういいもんだと言うんですよね。

K:基本的には先生自身が信じていらっしゃることをやるべきですよね。自分も音楽が好きで先生におなりになったわけだから、自分が習ったように教えてあげればよい。
そこで、自分が習ったときとちょっと違うなと思ったら、工夫なさればいい。原点は先生の信じていることを生徒にきちんと教えるということですよね。

教えるというか、伝えることなんでしょうね、私たちの役目というのは。私もなるべく教えるということを、やらないですね。人間にある機能は同じと、いつも思っています。
ある奇特な方が、私に何百年前の発声の本というのをくださったのですが、同じことが書いてあるんですよね。こういうことが基本になって、いろいろな方がああでもないこうでもないと考えて、昔よりはすごくメカニズムもはっきりされ、ことばで発声を説明してくださることになってきた。けれど、私たちの習った先生はそんなに言ってくださらなかった。せいぜい、舌をもっと下げろとか、感じが、感じが、といって、感じで教えてもらった気がするんですよね。

でも、習いたくて習いにいっているわけだから、わかっているのです。自分がどこができていないのかということを。
だから、先生方も本当にそれを知っていて教えてくださっているわけ。
昔の先生よりも今の先生のほうが、教え方自体は上手になっている。メカニズムで教えてくださる。昔はこの辺に響かせて、この辺、この辺ってどこだろうというふうにね(一同笑)。今の、向こうのをよく研究していらっしゃる先生は、本当にいろいろな方法を知っていらっしゃる。のどを開けるにはどうしたらいいかとか、それこそ割り箸を使う先生がいらっしゃる。まあすごいことをする先生がいるなと私は思っています。いろいろな方がいろいろなことを研究していらして、教え方のマニュアルというのは、昔よりはたくさんありますね。

F:ありますけどね。本当に役立たせるのは、却って難しいですね。

K:そう、ただ、そこの裏に音楽が流れている空気というのを、生徒に伝えているのかなというような気がする。私の生徒なんかも、先生をやっておりますので、あんたが先生をやっているの!こりゃ大変だ!(一同笑)ということで、忘れちゃいけないことがあるよということをたまに言っているのですが、とにかくたまに電話をすると、教えることに悩んでいるという。教えすぎているんですね。教えなくたっていいじゃない。

F:そうなんです。たくさん言いすぎるんです。でもしかたなくて、生徒さんにとっては、たくさん言ってもらえる先生のほうが、評判がよい。何かていねいで、黙っているだけの先生だと、何で私来ているのかしらと、依存できない。見せつけにくればいいんじゃない、こっちは聞きたくなれば聞くし、そうでなければつまらない顔をしているし、それだけのこと。無理に聞いてあげること自体が、歌ではないですものね。そこまで言うと、向こうも大変になってしまうでしょうから、そこが難しいところですね。

K:子供でも大人でもきっとそうだけど、たとえばある日はCDをかけて、その時代のことを話したり、この歌のバックグランドはこうよとか。
これこれこういう時代でこういう人よということを聞いて、はぁーっと、はじめてそこで心が入るわけ。すずめの歌。それは、とっても、実はそういうことがとっても大事だと思っているのです。それは聞く方にとっても大事だと思うのですね。

だから、私はなるべくコンサートで、そういうお話もするようにしているのです。この歌のバックグラウンド、どういう気持ちがあって、この人たちがあって、この人たちがこういう曲をつくったか、どういう気持ちがあってあなたたちが歌うのか、そういう気持ちでお聞きになっていただくと嬉しさがあると。

そうやって音楽ってシェアしていくことだと思うからね。それは学校でもぜひやっていただきたいです。歌うばかりではなくて、話を先生がしたり、こんな時代だったんだよと、そこに人間が介在することによって、絶対人間って興味を持ちますよ。
だって一番楽しく話しているのが、恋愛、恋愛話、皆してますよ。そこに人間が介在するからですよ。人間が泣いたり喜んだり、笑ったり憎んだりしているから、面白がるんですよ。もう「渡る世間は鬼ばかり」なんですよ(笑)。

そういう話すると喜ぶの。だってそのなかに音楽があるんだから。そこを話さないで、音楽をやるのは、私は一番、間違いですよ、これは。そこに音楽の醍醐味があるのですから。だから子供たちにぜひ、そういうことも伝えてほしい。
たとえばドヴォルザークの「新世界」を私たちは歌っているのですが、いやぁ好きな曲なんです。自分で去年一昨年か、CD出したとき、さてさてこれをドヴォルザークがどんな気持ちに思って、ここにこれを書いたんだろうなと。

たまたま私の友達、ニューヨークの、ドヴォルザーク研究家みたいな人がいて、たったひとりですよ、研究家やってるんですよ、大好きで。その人、ドヴォルザークが住んでいたアパートの隣に住んでいるのです。そのくらい彼のことが好きなんです。どこが好きなの?と聞いたら、チェコスロバキアを追い出されて、Kさん、この辺から自由の女神を見て、いつか国に帰りたいと思ったんですよ、と言われたときにぞーっとしたの、あーって。で、彼は外国から自分も来たと。アフリカからきた、しかも奴隷からきた、ハーレムがとても好きで、ハーレムによく通っていたと。だから彼の音楽は、なんともいえない音符的にはも、なんともいえないブルースみたいな旋律もあるし、それはそういうところから彼はきっと感じたんだろうなと。音楽のバックグラウンドというのは、絶対に知ってこそ、聞いていただく価値のあるものだと思っています。

F:そうですよね。興味持てば、いくらでも調べられるんですものね。
ミュージカルでも「エビータ」でも、あの時代のもの、それからマドンナやバンディラスが自分たちで製作してまでやりたいと思ったのか、いい曲というのは、結局誰かが残そうと思ったのだから、残っていったのだから、その経緯をたどっていけば、自分の歌というのもけっこう定まってくる。でも今の子はそこまで調べないみたいですね。もったいない。

K:たとえばロックをやる人は、必ずブルースをやるもんだという原則みたいなものがありまして、昔の子は皆ブルースをやりました。ところがブルースを知らない。それこそフレディ・マーキュリーというのは、クラシックが好きでオペラ歌手になりたかったそうですね。でもやっぱりロックが好きで、ああいう歌い方ができたわけですよね。

K:やっぱり何を歌いたいか、どんな世界を表現したいのかということによって、おのずから歌いたい歌が決まってくるし、それに必要な発声もあるということなんでしょうね。

F:最近の子って、すぐに歌い手になれてしまうから、ディスク・ジョッキーをなどやっていて。でもやれる子はイメージ力がすごいあるんですよ。要は歌唱力なんかではなくて、テンションの高さと。

K:見据えている。

F:そうなんですよ。だからステージやろういうときに、音楽性のすぐれた奴なんて自分もわからないから連れてこない。テンションの高いやつ。こいつは子供もいて貧しいけれど、これだけのことに賭けているような(笑)、それだけの選び方をしたって、相当なものはできるのです。
今、音響がいいから、バックがプロであれば。そのイメージの確固たるものがある子というのは、少ないですね。

「どう歌えばいいんですか」というところから入るから難しくなる。思うとおりの、その思うとおりがなかなかないから学ぶ。そのためにインプットする。

私たち、嫌なことや大変な時期があっても、音楽が聞こえてくると元気がわいてきたり、声を出したりすると、すっきりとする。そうでないことを、くだらないと思って、そういう絡みをしていたら、そんなに歌って変なものになっていかない。

K:音楽の時間に、携帯なんかを使わせないようにするには、いろいろな歌のドラマをちゃんと伝えてあげれば、皆興味持ちますよ。

F:そういう先生が、私たちのころはまだ先輩にいて、話をしてくれた。レコードをかけて、ここがいいんだよと、こっちが聞いていてもわからないんですよ。何がいいのかなと、でも後になってきて、そういうのがかかると、ああ、こういうことだったのかと。絶対に時間がいるのです。そんな簡単にわかるものではない。でも誰かがそれを言ってくれていたことで、耳ができていく。自分だけで聞いていたら、つまらないと思って、何とも思えなかったものを、尊敬する人にこれだけは聞いておけよ、と言われたら、何か聞いてわかってくる。
マイルス・デイビスも、本当に熱心な人が本を書いていて、ここのこれ、というのを何回も聞いているうちにそんな感じになって、あ、いいなとわかってくる。そういう学習作用が必ずある。
学校の先生も本当に好きな曲を、本当に熱く語れば、わかる子は半分くらいはいます。後の半分の子は、時間がたってから、わかるきっかけにはなりますね。

歌がいきなりうまくなったり、後でうまくなった子というのは、どこかで、いろいろな経験のなかで、この曲でわかったとか、この歌い手のこの箇所でわかったんだというのを踏んできていますよね。ただ歌っているのではなくて、キイになる経験が必要です。
ミュージカルがいいのは、全部背景がありますよね。物語が。だからその社会とが非常にわかりやすいですよね。

K:そうですよね。

F:曲だけで耳だけで聞くよりは、オペラでも何でもいいのですが、そういうところから入っていくとよい。本当に、ショパンでもベートーベンでも、住んでいたところを見てくる。単に聞いて偉い人の曲だと思うのと全然違いますよね。

K:そうよね、もっとリアリティが出てきますよね。うちのメンバーにもいますよ、メンバーに入らせた理由は、高校生のころからヴォーカリストになりたくて、とても歌がうまい。もうピッチもなかなかいい、けれどなんかこう、暗いのね。はつらつさがないの。もうひとつ大事なのは、ことばの意味がよくわかっていない。いろいろなことを知らないのです。

私は今教えないよ、うちに帰って辞書引いて自分で調べてごらんなさいよ、と言ったこともあります。あまり快活ではないから入れたのです。少し人と接触して、楽しくやりなさいよと、あなたなんかすごくうまいんだから、ものすごくすばらしくなるんじゃないのと言っています。

まだちょっと時間がかかっていて、でもずいぶんはつらつとしてきたのですが、結局は、その人を自己開発するというか、その子がその子自身にもっと興味を持ってくれればいいのですね。自分に興味を持ってくれればいいのです。そう仕向けていくというのが、大人の仕事だと思っています。

F:昔、内向的な子や友達できない子を劇団に入れたりして、そうするといい役者になった。案外、内面的なものがプラスに働くと強い。

K:そう、そういう方いらっしゃいますよね。

F:たくさんいらっしゃいますね。

K:だからたぶん、音楽をどう使うか、音楽の時間が、要するに義務教育のなかにあるというのはそういうことですよね。音楽を使って、どうやってその子を成長させるんだというひとつのものとして、音楽があるわけだからね。いろいろなことを先生がお話になればいいんですよね。

司会
片や、指導要領で、小学校何年生はこういうことを教えなさい、中学生になったら、これとこれを教えなさい。日本の音楽をやりなさい、西洋のクラシックもやりなさい、ジャズとか邦楽もというので、先生はそれをこなすのに手いっぱいになってしまうという。

K:それは世界的にもそうなんですか。

F:日本の場合は全部やりすぎますよね。音楽界自体も、世界中の音楽が集まっています。海外は、ご存知のとおり大体、現地の歌手が半分以上、ワールドミュージックなんていくら流行っていても、ちょっとくらいしかおいてない。地域の、カントリーじゃないですけど、それが中心であるべきでしょう。ただ日本の場合は、けっこういろいろなところから入っています。それでも、昔は西洋一辺倒だったわけです。今は日本の曲なんかが入ってきて?。

ただ、先生自体が対応できないんじゃないですかね。子供たちはウォークマンを聞いていて、カラオケで歌やっているんだから。

K:ギャップがあるんですね。

F:そう(笑)、やっているんだから、音楽をやっていないわけではないのですよ。自分たちの音楽を持っていて、リズム感もいいし、友達とカラオケに行くんだから。

K:先生よりリズムがよかったりするんじゃないんですか。その辺に関してはね。
どうすればいいんだろうね。もう少し先生たちが遊んでくださるといいのかもしれないですね。

司会
僕らはあまり表立って言えないのですけれども、文部省が10やりなさいといったら、10のうちのなか、得意な種目3つくらいをやればいいと思うのですよ。10全部やるというのは絶対に無理なんですよね。

F:確かにたくさんのものを聞かせるのはいいことかもしれませんが、生徒が入ってこれなかったり感動していないようだったら、本当にいいもののここだったら、若い子にわかるだろうというのが、絶対にあるんですよ、歌でも。全部聞いてしまったり、オペラを全部見せたりしたら、退屈な子しちゃう子でも、本当にいいものだけを何回か繰り返して、何かわからないけれどその時間気持ちよかったなとか、もっと形式的なところで編集してしまうのもひとつの手ですね。

K:編集というのは大事ですね。どうやってアプローチしていくかというところの、たくさん持っていたほうがいいかもしれない、引き出し。

F:一番、その子にとっていいところを、この映画のここのところだけでいいから、何回も見てごらんでもいいし。

K:そう、今言おうとしたの。あそこで流れていたのよ、この歌とかいうと、興味持ちますよね。

F:ただCDをかけていたりしていてもね。子供ってそういうものがないと難しいから、ディズニーのあんなものでもいいし。あと物語がついていると、それは全然興味の引き方が違いますよね。

T(飛び入りゲスト)
僕でも授業はアレンジは必要だと思いますよ。音楽の授業のなかで、音楽の時間で音楽習ったというのが本当はないんですよ。

F:私もそうでしたね(笑)嫌いでしたから。

T
唯一覚えているのは、僕はリコーダーがすごく好きだったのです。学校から帰るときも家に帰っていてもやっていた。だからある曲だけ、「メヌエット」というのがすごく好きで、音色も、それを誰かに聞かせたいと、そこでわざわざ外に聞こえるように吹いていた。そういう印象が、この音楽がいいというのをちゃんと教えてくれないと難しい。

ただこの歌を歌いましょう、はい、時間だから終わりというのではなくて、吹いた感じ、この音色の旋律の、マイナーへいくところ、マイナーとはいわないですけれど、この悲しい感じのところがすごくいいよねとか。

F:わからなくてもいいんですよね。何か、そういうのをいいという先生がいるんだと。

T
中学はもっと退屈だったんですよ。音楽室があって、シューベルトとかそういう作曲家たちの絵がばーっとあって、19何年とか、五線紙の書かれたそういうものがあって、もう嫌だったのですよ。で、レコードをかけて、レイ・チャールズ。英語の先生がすごく変わった先生で、映画で見せられた。英語を学ぶということで、そういうことがあったんです。

F:ある程度、先生のなかで裁量があるから。

T
そうですよね。作業させるというのは大事なことだと思います。


F:三味線弾いたりうなったりしたら、生徒がつまらないと思うのかというと、すごく興味を引くし面白がるし、そういう彼なんかそういうことをやったなかから、ファンができたり、後でもしかして何百人何千人にひとりでもいいから、そんなことを職業にする人が出るかもしれないという。でも実際、大きいですよね。

だから、確か音楽が選択制になるということで言われていますが、音楽と体育と美術の先生というのは、ふつうの先生とはまた違う影響力を与えている方が多いですよね。あとで有名になった画家が、一時学校で教えていたなどという例。

だから音楽は、私なんかが一番思うのは、すごくもったいない使い方をしているなと。今、あれだけCDを安く借りられて。私なんかは大人になってから、あんな顔をしているんだと、はじめてLDで見ました。本当そうですよ。イメージしていて、成人してから、歌っている姿をはじめてビデオで見た。今の子なんかはすぐに見れるでしょう。だから逆に、イマジネーションが足りない。私なんかは「100万人の英会話」なんかで覚えていた世代です。すると耳だって、ちょっとはよくなる。録音できなかったですからね。たぶんかかるだろうといって、常にベスト・テンなんかを聞いて、聞き取れなかった(笑)。今、そういうのがないですからね。恵まれてはいるのです。

K:そうしろと言っても、そんなこと、今は不可能というか、それこそ逆に、理不尽な話になってしまいますからね。今の時代の、それこそ考えてものを教えていかなければいけないから、もしかしたら、先生方のご苦労は昔よりは大変かもしれないですね。何でもあるからね。

F:そうですね、「聞いて覚えてこい」といっても楽譜を買ってくれば、手に入りますしね。

K:面白いのですが、私は今はゴスペルを通じて、プロフェッショナルではない志向の方々と音楽をやっていることが多いです。いわゆるアマチュアといった方がいいのですが、非常に楽しいのは、たとえば口三味線だとか、口で同じことを繰り返していく、ゴスペルは同じことを繰り返していくことが多いわけですね。そうしますと、自分が知っている楽器の音を口で出したり、自分で想像していることを口で表現することが、とても楽しいみたい。それはきっと子供も大人も同じだと思うのです。ですから、これはひとつのカリキュラムとしての話なのですが、歌を教えるということでなくてもよいと思います。楽器と同じような音を出してみたり。たとえばこの前、音楽家と面白いことを話していたのです。歌の最初って、人が小鳥みたいに声を出してみたくなったり、森の中に入って、さわさわと音が聞こえて、そんな音になれたらいいなというところで、音楽ができているんじゃないのという話をしていたわけ。だからそれこそ、もっと原始的なことを、原始的なこと好きですよ、素人さん。

VOJAなんか、鳥の声出してといったら、最初は、えーとかいっているのに、あなた、おサルになってなんて言ったら、やだ、と言いながらきゃっきゃっきゃっとやるのよ。それでひとつの音楽になるの。だから、何かもっと原始的な、本当に一番最初の、音楽はどうしてできたんだろう、音楽は何のためにできたんだろうということを一緒に考えていくところに戻ると、けっこう面白いことができることだと思いますね。

司会
それは学校でも十分できると思いますね。

K:そう。クラシックだって何であんな高い声で歌わなければいけないの、どうしてというと、人間の心持がきっとああいう高い声を出したくなるんだよね、とか、きっといろいろな話がきっとできますよね。だから心と体とくっついているわけだから。

F:難しく考えないで、考えないで、考えないで、といっていたら、それがもう歌なんだよと。

K:そう、考えるのやめようよ。もっと感じようない?と言って。今、眠い?眠いころよね、お昼も終わったし、じゃあ、眠い声で出してみようとか、いびきってどうやってかくっけ?鼻どうやって鳴らすっけ?とか、だからスキップができない子が増えたように、いろいろなことができなくなっているの。

F:自分で体を楽しんだり、声を出すということを楽しんだりする感覚がなくなってきて、誰かが機会を与えると、そこの中では許されたみたいにやるんですけど。うちなんかも合宿で、笑い転げてごらんと言うと、最初ばかみたいなのですが、のってくると体からすっきりするみたいな感じで。

K:そうよね、赤ちゃんになってみようとかね。

F:日ごろのところにいかにそういうところがないか。たぶん、小さいころに、そういう母親がどのくらいいるかわからないですが、物語をつくって話してあげたり、怖い話をしてあげたり、声の世界ってああいう世界なんですよね。

K:そこから、ストーリーが生まれて歌が生まれてくるわけじゃない。

F:だから若い子なんかはもう、声なんて特殊なことではないのだから、表現をつけて楽しく声を出す、話す、そうなんです、話さないんですね。

K:迷ったら基本に戻ることですよね。私、いつもそうですもん。その基本は何かというと、さっき話したように、これだけ文明が進んでいる、いろいろなものがありすぎる、だったら何もないところにいってみようということです。

いつもないの、何もないと思ってみようということしかないですね、発見が、もうないんです。そこしか。私はいつも自分にもそういうことを課しています。何もないんだと思いたいんですね。だから、何もないと思えば、皆さんには悪いんですけど私はメールもしないんですけれど、何もないと思えば字を書くし、しゃべるし、そこしかないですよ、もうこの時代は。

F:逆にメールがあるからしゃべらないでいってしまう。

K:だったら、もう使わない、私みたいに。それしかないですよ。

F:それだったら、連絡をとりに電話かけたりしてしゃべりますからね(笑)。

K:会いにもいかなければいけませんでしょう。でも、私、それが本来の人間の生活だと思うのですね。だから、もちろん携帯、そういうものをいけないとはいいません。必要なときもあります、メールも必要なときもあります。お仕事なんかするとものすごく便利だと思います。よかった、メールができてよかったと思うんです。でも、そればっかりではいけません。

やっぱり忘れてはいけないものがあるんですよ、絶対に。それはやっぱり何もないと思うこと(笑)。いつも家族とも言うのですが、あなたたちともたまに言うけどさ、家のなかの電化製品で今絶対に何かをなくしなさいと言ったら何なくす?ひとつだけ残していいとしたら何残す?というのを話します。

皆それぞれ違いますね。冷蔵庫あったほうがいいとか洗濯機があったほうがいいとか、皆それぞれ違うのです。
でもないことを想像するほうが、人間の想像力がたくましくなる。使えますね。頭も使えるし心も使えますね、体も使えると思うのです。

ですから、先生方もぜひ、何もないと思っていただきたいですね。だって、なくたって歌は歌えるでしょう。まずアカペラがあるし。ドレミファソラシドではない音もありますからね、きっとあるんですよ。

F:無人島に行って、小説には飽きても、歌なんか何回でも歌えますしね。

K:でも、メロディなんかは浮かばないかもしれませんよ、先生。ひとりでいるから、心も動かない。たとえばやっぼーとかおーいと言ってみたり、きれいだな海がーなんて言うくらいで、あまりメロディは浮かばないかもしれない。

でも、それもその人の歌ですよね、きっと。何か、人間が声が出る限り、体が動かせる限り、脳が働いている限り、心が動く限り、何かできるのよね。というところに立ってみると、私思うのだけど、赤ん坊だって、人間が一番発達が遅いわけではないですか。すぐ馬なんか歩けてしまうのですから、人間は1年くらいたたないと歩けないわけですよ。そこまで時間をかけて、人間は成長してくるということを信じれば、絶対私、何でもできると思っているんですよね。

だから、やっぱりゼロに戻ることですよ。そうしたら何か生まれてきますよ。その先生も、学校の教育を受けて先生にまでなられたのだから、いろいろなことがおありになるんだと思いますよ。そこを信じてほしいですね。先生方の、先生自身を語っててほしい。絶対あると思う、苦労して先生をなさっているわけだから。たくさんの引き出しが実はあるのよね。外に求めているのよね、内に求めるのではなくね。内に求めるべきよ、もっと信じてね。

F:私から言わせると、学校の先生というのは、もう自分の劇場を持っているのですよね。

K:そうそう、パフォーマーなのよね。

F:自分を見てくれる生徒が40人いるというのは、たとえば我々が40人の客を集めようとしたら大変なことですよ。毎日40人、その大変さを知らないんですよ(一同笑)。そこでもっと楽しめるし。だって自分の影響力を、40人の生徒に1年間毎日のように持てるわけでしょう。まあ、私は別に影響力を与えたいとは思いませんが、ただそれは、下手な歌い手の客よりも多いですもの。

K:それはまさしくそのとおりです。

F:それで、学校の先生が演出している学芸会や運動会なんかは、500人1000人といるでしょう。これ、私が集めようとしたら、大変ですよ。3年がかりで客を集めないとこないのを、毎月のイベントみたいなことでやっているのですもの。

その幸せというのは、頼まれても私はやりたいとは思いませんが(一同笑)、それを選ばれた人は、やっぱり味わうべきだと思います。

やりたいことって、野球の監督とかオーケストラの指揮者というのですが、あとは劇団の演出家、ここは平田オリザさんのすぐそばですが、演出をやっているときは俺が支配者になれるからと(笑)。根本なところではそうなのです。

それを学校の先生はやっているわけでしょう。あれを他の、私たちが集めてやろうとしたら犯罪ですよ(笑)。それだけの権限があるのだから、楽しめばいいのですよね。しかも音楽を使ってやれるのですもの。

K:今年のお正月に、オーケストラの子供たちのドイツの映画、すばらしい映画でしたけれども、あのなかで私、ひとりで感激して涙流しながら見ていたのです。

一番嬉しかったのは、生徒がターンを回ることができないことでくやしがることですね。単にそんなことを簡単にできるじゃないということができない自分を知って、愕然として、逆ギレじゃないけれど、こんなことやらされて冗談じゃないわと言ったりしていることを、じっと見つめていたり、たかがターンができないということによって、落ち込むことを先生方が支えていく姿というのは、まさしく教育の理想の現場ですね。

だから、たとえば歌でも自分は音痴だ、音を出せない、皆と同じ声が出ないということで、恥ずかしがって歌うことが嫌になったという人はたくさんいますでしょう。でも、やっぱりそこをちゃんと見つめていってあげるという、時間の余裕というのも欲しいね。

たぶん現場は大変だと思いますよ、先生は。そんなことを言ったってと言われると思う。でも、そこに先生の喜びが実はあると思うの、私。だから本当に、先生というのは、私自分が体験していますから、ことばだけではないです。やっぱり生徒とともに成長していく仕事だと思うのね。

だから、じっくり、先生が一緒に悩んでもいいと思うんですよ。困っちゃったな、これ先生できないんだけど、どうしたらいいと思うと言ったっていいじゃないですか、生徒に。先生この曲知らないんだけど、教科書に載っているけど聞いたことないんだよ、歌ってくれる?とか、テレビとかでかかっているの?、ヒップホップでこうやってやるの?とかあらー知らなかったけどやってと言ったって、私いいと思うのね。それでなんとなく上手になってくるみたいな、何でもいいと思うの。

司会
日本の先生はそれが下手。すごくそれができないですね。外国はわからないですけれど、日本の教師は、教師が上で生徒が下という感じがずっとあったじゃないですか。だから、今、本当に、Kさんがおっしゃったように、私こういうのだめなの、こういうのできないから何か得意な子いない?と生徒にやらせて、あ、なるほど、ちょっと先生も今日練習するとか。そういうことができる先生がもっとたくさん生まれてほしいんですね。

K:私は実は、皆が知っている曲を知らないことも多いんです。あまり聞かなくなりましたし、自分の世界に入っていますから。本当に譜面を書くのも面倒くさいし、何もかもちょっと落ちてきているのですが、だから私言っているのです。あなたこれやって、あなたこれやって、リーダーは気配りしていればいいの、リーダーは気配りなのよ、あなたたちやりなさいと言っているんですよ(笑)。そうすると、どんどん伸びてくる。伸びてくることに気がついた。私、気配りだけやろうと思っているくらい(笑)。やっぱりできないことはできないというほうが、かえって仲良くなれるみたいな気がする。

F:わかりっこないですからね。若い子が聞いている曲とかを、全部。そこに序列を無理にもってくると、先生はあんなの知らないんだ、俺らのこと、と。よくわかってないのにとなってしまう。正直に言ってしまえばいいだけで(笑)

K:逆に信頼が生まれなくなってくるような気がしますね。私たちはもう大人だから、そういうことが通用するんですよといわれるかもしれないけれども、中学生でも高校生でもいいじゃないですか。「先生これ知らなかった、いい曲ね〜」、だけど知らなかったからちょっと歌ってと、それで勉強する今日から、と言って、悪いけど来週は先生のほうが勝つよ、なぜならば先生なんだから、と言ってみたり。いろいろなことで楽しくできると思いますね。

F:学校の先生って、私もたまに行くのですが、すぐれた先生ほど自分で全部やって、全部配ったりするんだけど、いい加減な先生って、お前ら取りにこいと行って、生徒も動いたほうが楽しい、楽なんですよ、ずっと座っていたりするよりも。だから何もやらないのがいいんですよ、先生が一番。優秀な生徒が授業をやればいい。

K:それもひとつの方法ですね。だから先生自体が楽しくないとかわいそうですよ。しかもこういう音楽の、どんどん文部省に削られていく、狭い時間のなかで、先生悩まれていますけれど、先生がどうにか楽しんで授業をされるような方法を見つけられるというのも大事なことなんでしょうね。

司会
私なんかもそうですが、学校の先生から見ると、クラシックの西洋の発声と、ジャズやゴスペルの発声というのは、違うのかというのがよくわからないんですね。

K:同じです。これは同じです。だって人間のメカニックなんだから、同じなんです。歌うものによって違う。表現が違うのです。じゃあ、その表現はどうやってわかるんですか、というと、そんなことまで聞きなさんな、あんた見てらっしゃいよ、あなたが見たいものを見てくれば、当然その雰囲気がわかるでしょう。

そういうふうに表現するためにも、発声は、昔からある人間のメカニックを利用した発声はひとつしかありません。もちろんイタリアン発声とかベルカント、ドイツ式とかありましたけれど、今はそんなになくなっていますよね。まあ、ことばが違いますから、ちょっと違うふうに聞こえるわけですけれどね。ドイツの人は奥がゴーッとなったり、そういうことばですから、イタリアは横にガーッと大きく開くような、でも基本は同じです。あとはその方の感性ということです、そこは絶対に間違わないほうがいいです。

F:だからクラシックということばで言ってしまうから、ポップスやロックをやっている子は、クラシックや声楽を勉強しなければいけないのかと思う。ただクラシックというのは基本的にタップやったりコンテンポラリーのダンスをやる子だって、やっておくと、体とかの意味では一番いい。

クラシックというのがあるのではなくて、クラシックといわれるものは人間の原理に忠実なもの。だからクラシックを全然知らなくて、声楽もやっていないのに、ポップスでも、ある程度声のメカニズムをきちんと捉えて徹底してみると、結局はクラシックの発声になる。ただポップスはそれだけではなくて、それから離れた歌い方もできるから、そこでやれる人は勝手にそこでやればいいのですけれど。案外、邦楽でも民謡でも、クラシックの人とまったく同じ考えをしている人が多い。

K:そうですね。謡曲の方なんかもそうですね。

F:邦楽も、高いところだけで響かせてはだめだとか、もっと腹から声を出さなければいけないと、名人はそう言っています。そう嘆くだけのことが起きています。人間としての体の原理の上に、細かくいろいろな表現形態があります。ただクラシックはオーケストラに、声が飛び越えなければいけないから、声の原理にすごく忠実ですね。ゴスペルとかはもう少し楽、そこまで声を響かせたり、体をつくらなくてもできる部分がありますね。

K:黒人の方でも、ちゃんと霊歌を歌うことが希望で、ゴスペルのプロになられる方は、声楽の勉強をします。子供の頃、教会でまねで歌っているのですが、ある程度の年齢になると、発声の先生について、コンコーネなどもやって、アリアのひとつでも歌う。意外と黒人の人たちは、アカデミックなことにあこがれているのです。何となくわかりますでしょう。ですから、「僕の声を聞いてくれ」と朗々と、「アー」と歌うわけです。なんだクラシックじゃないか(一同笑)、「好きなのね〜」と言うと、「もうアリアが歌いたい」とおっしゃる方が多いですよ。そういうことなんじゃないんですか。人間というのはね。だけど、ゴスペルを歌うと違う声が出てくるの。面白いねえ。

司会
発声のメカニズムそのものは、ポップスもクラシックもないのに、ゴスペルを歌うときには、やっぱりいろいろな工夫するしかないと。

K:ゴスペルというと、フェイクをふにゃふにゃしたりするというような意識がありますが、黒人霊歌はそういうのがないんです。黒人霊歌はストレートに歌うのです。ですから「ボギーとベス」の「サマータイム」なんか、クラシックとして歌われているわけです。

ストレートメロディで歌えといわれる。ふにゃふにゃしたのは俗っぽいもの。だからあまり、フェイクとかラップとかやると、黒人たちのある程度の年齢の方は嫌がる。もう汚い(笑)とおっしゃいますよ。あまりよしとはされていないのです。私もそう思います。自分勝手に歌っているだけで、本来のものじゃないよと。

F:結局、シンプルになってくるんですね。声も曲もいいのですから、「余計なことをしないでくれ」と(笑)。

K:もっと言えば、「あの子たちは声が出ないからふにゃふにゃするんだよと。そんなことをやるんだよ。まっすぐ声を出せばいいんだよ、ちゃんとストレートメロディを歌えないのはだめ、神様に通じない」なんていう、厳しい言い方なさいますよ。もっと神様はストレートなものがお好きだと、そのために発声をヴォイストレーナーのところに行って勉強して来いと、おっしゃいます、皆さん。それこそが、音楽の真髄だと思います。シャンソンだってそうではないですか。私、いろいろな音楽があると思いますが、ラテンの方だって、ある程度プロの方はそういう勉強をしているに違いありませんよね。

F:アカデミックな部分は必ずあって、あるレベル以上いく人はそこで入りますよね。

K:シンガーが立ち止まってしまって、「自分の歌は演奏は、」というときは、結局はテクニックに戻るわけです。そういうところで悩むし、もう一回基礎に戻らなきゃと勉強なさるわけですから、何でも同じだと思いますね。

F:とにかく人間の体から声を、本当にていねいに扱おうと思ったときに、呼吸でも何でも原理に行きつく。たとえ声楽やクラシックを勉強しないで、民謡だけやポップスだけを歌っていても、本当にすぐれた人だとクラシックができるようになるわけです。

ほぼ99パーセントの人は声楽にいく。少し基本のことをやったほうが早いことは早いですね。ポップスはいろいろなことが許されてしまいますから。

K:私はキーは低くなりましたが、声は出るのです。自分の思った声が出るのです。でも声が出るのと歌を歌うのは違います。声が出ても歌は歌えないというのは、自分の歌はまだまだ成長していないと思うのですが、歌というのは違うのですよ。声というのは、一音一音が出ればいいわけですから、歌というのはメロディがあって、そこのメロディをそれこそレガートにきれいに、だから「ア ア ア ア ア ア ア ア(ド レ ミ フ ァ ソ ラ シ ド」ということはできても、「アアアアアアアアアアアアア(ドレミフォソラシドレドシラソ)」、まあこれは音階をやっているわけです。歌というのはいろいろな音がくっついたり離れたりしながら、レガートで歌って、そこでことばがあり。しかもプロですから、お客さんがいるというような状況で、本当に発声がいくらできたって、歌は全然また別。歌は私は、死ぬまで勉強だと思います。

もちろん発声もそうですけれど、でも発声はやっていなくても、声は出ますよ。だからさっき先生がおっしゃった、発声は歌手だけのものではないですよ。生きている人皆がやればいい。

声を出すということ、毎日毎日声を出していれば、声というのは絶対に出てきますから、ひとつのコミュニケーションをつくる道具として、声は出ないより出たほうがいいですよ。声が出ないことで、話ができなかったとか、すぐ声が出れば話ができたのに、声を出す癖がないから、今日も話ができなかったというようなことで一日が終わられる方もいらっしゃると思うのです。

でも声は出たほうがいいです。ただ歌は別、歌はもっとデリケートなもの。発声は運動みたいなものですよね。走っていれば走れるようになるのと同じ、でも歌は違います。もっと違うものです。それははっきりわかられたほうがいいです。

F:役者でも、音楽が入っていないと歌にはならないですね。表現にはなるし、ステージはできてシャンソンなんか歌えるのだけど、本当の意味では歌ではない、音楽ではない。せりふで語ってつないでいくというのは舞台、音楽というのはもっと違うものが降りてきます。それはすごくプロやすごく技術がなければだめというのではない。たまにすごくど素人の方でも、瞬間的におろすことはあるのですが、カラオケでも感動することがありますから。めったにないんですけれどね。

本当に年間いろいろな人を見ていると。だから、何かその瞬間が宿っている。プロはそれをけっこう計算して、あるレベル以下に落とさないようにできて、その人は一生できないことが多いのですが(笑)。

でもそれでも不思議なものだなと思いますよ。ピアニストでそんなこと絶対にないですもの。はじめて弾いてみたらプロが感動したということは。ただ歌はたまにあるのです。本当にその人が素直に、何かの状態でこういったときに、そこのメロディをこんなふうに働きかけるんだとか、こっちが勉強になることはすごくたくさんありますね。

K:そうですね。きっと歌の難しさという言い方はいいのかな、それで、その辺はわからない、今は難しさということばを使っていきましょう。1曲1曲のシチュエーションというのは違いますわよね。その1曲に取り組むのは大変なことですよ。作曲家がどんな気持ちでつくったのかとか、どんなことなのかということがあって、その物語が入ってきて、その物語に必要な声を出して、ここは大きいここは小さい、これも100ぺんも200ぺんも歌わないと、自分のものにはなりません。だから歌を歌うというのは大変は労力が、イマジネーションもリアリティも必要だし、バックグランドも調べなければいけない。いろいろなことがあるから、歌を歌う。それと同時に先生がおっしゃったように、そんなこと関係なく歌えてしまうときもある。歌、うまくいっちゃったというときもある。非常に微妙なものなんですね。

F:絶対大丈夫だと思っていたプロだとか、この子のこれに賭けようと思っていたのが、ぽしゃーと本番でだめになってしまう。リハはすごくよかったのに、全然だめになってしまうときもあります。

K:あとミュージシャンとのアンサンブルもあるから。ミュージシャンによっても心が変わる。こんなフレーズが来るはずだったのに、こないからちょっと違うところにいっちゃったというのもあるし、いろいろな細かい要素もあるから、歌というのはまた別のものです。でも、発声はもうメカニズム、体操みたいなものですから、できますということですね。

司会:これ、あまり小学生や中学生に高度なものを要求するのはあれでしょうから。

K:そうです。前もお話したかな。ジャニーズさんは歌を教えていないのですね。ある程度になったら自分で勉強しろと言っています。マイケル・ジャクソンも、スティービー・ワンダーもそうです。音楽の勉強をはじめたのは18ですから。あれはモータウンのやり方だそうです。好きに歌わせる、だって皆歌えるのだもの。歌わせとく、勝手に。ある程度から勉強させていく。18くらいになったら、しかるべきところにいって、楽典だとか、発声だとかをやるそうですね。リズムのことだとか。黒人なんか、リズムがいいのに、さらにリズムを勉強する。実は世の中にはメトロノームというものがある。何だそれは、あ、ちゃんとやるんだ(笑)。そうすると、いかに自分が感じではできていたけれどメカニズムではできていなかったということを知ることによって、正しいリズムをさらに入れていくということをやるそうです。ですから、ほっとけばいいのです、子供は。楽しい環境をあげればいいのです。

F:感じが先に入っていることがすごく大切なのですね。最初からメトロノームでやってしまうと。

K:全部あとからですね。譜面もあとから。最初は見たり聞いたり楽しんだり。雰囲気を知ってもらって、音楽ってこんな楽しいよということ。

F:それで向上しようと思ったときにそういうものがあると。

K:然るべきところに行けばいい。

F:日本の歌手になった人でも、音楽教育でも落ちこぼれだったとか、合唱やっていたら声が低くて太くて、全然そこでは見向きもされなかった人が、こんな歌手になっていたと。綾戸さんでも誰でもいいのですが、そういうことを話してあげると、高い声が出ない子なんて、別にそれでいいんだと思いますね。そんなところでコンプレックスを持ったり、ちょっと音程が悪いといったら、他に音楽の環境がないから一生、そう思ってしまう。30くらいになって、音程が悪いと思っている。別に普通に音感はあるから、なんでそう思っているのか、小学校の先生にそう言われたとか。だから私は絶対に言わない。他のトレーナーが言う分にはいいのですが、私が言うと、もしかしたら、次の日から来なくなったら一生、その人は音程が悪いと思ったまま生きてしまう。単に量が少ないだけなのです。他の人よりやっていないだけだから、やれば、音痴というのはしゃべっていてわかりますから、直らない人は、普通にしゃべれる人は、耳があって、口がこうちゃんと動いているわけですから。さっきも言ったとおり、できるだけ耳に入れること、しゃべることですよね。

あるトレーナーを招いたときも、歌は教えないと、ステージパフォーマンスを日本人が足りないと。ただ彼のやり方は、周到すぎるから、生徒が自分でできた気になってしまうのです。私から言わせれば彼がいるから成り立っているので。10代の子からしたら非常にいいのですが、結局彼の舞台だなというかたちで、こっちは見ている。ただ、外国に行くことから比べたら、安い経験ですから、それはそれで。確かなんです。ステージパフォーマンスというか、彼がやったのは、彼に頼むほどのことでもなかった、いわゆる演劇なこと、役者の先生がいるから、本当はこちらでできるのですが、彼はそこが足りないと至ったと思うのですね。我々日本人は、日常のなかで音楽とまだ切れている。だから、朝起きたら声を出したら、わかる。人の声をよく聞いて、そこのベースの部分がすごく足りないなというが感じますね。むしろ国語の教育です。

K:それからもうひとつ、たとえばリズムのことを、生徒にちょっとでも伝えたかったら、皆で同じテンポで歩いてみようと。タンタンタン。本当にふだんの生活のなかから、特別なことをしなくても、きっと何かが生まれてきますよね。その辺から小学生から中学生くらいはやられたほうがいいですよね。

F:リズムは本当にそうですよね。彼らが楽しめるものですものね。

司会
体を動かしたというお話、リズムを歩いてみたり、声を出す、そういうすごく、人間の根源的なこと、それが基本なんですかね。

K:「ア ア ア(同時に拍手) ア ア ア(裏拍に拍手)」、両方ありますよね。手をたたきながら声を出す、手をたたいているときは声を出さない、声を出すときは反対の行為をする。何が言いたいかというと、そんなこと馬鹿馬鹿しくてできないや、といっている子に、そうじゃないの、じゃあやってごらんと、結構できなかったりする。

そのときにできるまでやること、だと思う。当たり前のことができなかったり、もっというと恥ずかしいからできないから、そんなこと格好悪くてできないやということをやらせた、ということなのです。

けっこう当たり前のことってできないのよね。中学校くらいになると斜にかまえてくるから、ダッセーとか言っちゃってやらないかもしれない(笑)。でもそこが大事だと思うの。ダサいことやらなきゃだめだと思っているの。

F:昔、ケンパッケンパッとか丸を描いてやったでしょう。ああいうことの遊びがもうないから、そういう感覚で入らない。昔、円を描いて、そこを飛び越える、パン パン パン とやらなかった?

K:あれはすごくいいリズムトレーニング。

F:飛び石でもよい。学校には似たような設備があると思いますね。むしろ体育の授業になってしまうのかもしれないですが。

K:日本人の政治家は、外交で口下手、侍の美意識、そこも大事だけど、しゃべらなければいけない、恥ずかしがっている場合ではない、照れてる場合でないだろうということがたくさんあるわけですよ。政治家でさえそうですよ、困ったこと。

小さいころから、恥ずかしいことをやらせたほうがいいのです。恥ずかしいことをすると恥ずかしくなくなるわけだから。ダサいことをしろよと、それが人間の生活なんだよと言ってから、格好いいだの格好悪いだのを言ってほしい。そこをリズムとかメロディとかを使って、人間のそういうところを取り外してくれると、もっと外交もきっとよくなりますよ。

F:ボクシングでもいいし、音楽をかけて跳ねさせているだけでもよい。体育と国語と音楽の組みなおしをちゃんとやれば、サッカーのドリブルなんかも、音楽のためにすごくいいでしょう。

K:ゴスペルを歌うことにちょっと誤解があるようなので、けっしてふにゃふにゃ歌うことではないことは知っておいてください。だって楽譜どおりに歌えば、ゴスペルのメロディはゴスペルになるわけですから、全部曲ができていますから、そこは黒人の方もおっしゃっているので、日本にいる方は、好きでやっている方が多いから、割合その、わかってくださいますよね。

全般に言いますと、極めてらっしゃる方は、ちゃんとこういうふうにやっていらっしゃるわけですから、それなら日本人もできると思っているのです。こういうのが、日本人だとなかなか、無理をしてしまうのですが、普通に歌えばいいんだよということを言ってくださるので。

F:日本で教えていらっしゃる方は、一見テクニック重視というか、こんなことをできるんだよという、ミュージカルの劇団でもそうですが、本当の本場のところではやっていないことを、お客さんのところから見るとすごいというサービスをしすぎ。

K:曲芸みたいなね。どうもサーカスをやらせているような感じがありますよね。そういう先生が多いなかで、たまたまそうじゃない先生を探して、と皆いっているのですが。それだけ覚えておいていただきたい。ゴスペルはストレートに歌う歌なのです。ちゃんと歌ってほしいです。

F:どの歌もシンプルですね。いいものは。

K:だからけっしてフェイクをすることが大事じゃない。フェイクはしたければするわけであって、それをしなければいけないということではないのですから、フェイクどうしたらいいですかというのは、それは自分で聞いて覚えなさいということです。

F:アドリブどうするんですかというのと同じですね。

K:そうです、音階をふつうにつんでいくわけで、私が言っているのは、とにかくドレミファソラシドをよく歌え、そうすると、フェイクは自然と、音はドレミファソラシドしかないのですから、よくそれをしていれば、フェイクはできていくはずよ、あとはやりながら聞きながら。

あとレガートに歌うこと。この間面白い実験をしたのです。マライア・キャリーの話が出たのですが、この前「朧月夜」というのを皆で歌って、マライア・キャリーが英語で歌っているのがありまして、それを聞きまして、これはいい課題曲になるなと思って。「なのはーなばたけーに」を「なのぉはーな〜ばたけ〜ぇに」と、レガートをかけると絶対に音がついてくるから、そこでこういうのが生まれてくるのよといったら、すごく納得したみたい。そのくらいレガートみたい。

もうくっつけてくっつけて、くっついてくるここの音から音をくっつけてくることによって、「ドーォレーェミーィ」とうねりが出てくる、そこでフェイクが出てくるのよと説明をしたら、わかったみたい。とにかく歌はレガートということを、ゴスペルの方によく言われる。レガートに歌え、バターのように歌えというように、それもひとつのゴスペルを歌うひとつのテクニックだと思います。

F:ああいうゆったりした曲のほうがわかりやすいですね。速い曲だとわからない。

K:あと大事にしなければいけないのは、やっぱりブレスですね。それを吸う時間が早すぎて、スピードがかかっているから、日本人の悪いところが走るんです。どんどん走る。

F:体が使えないですからね、結果的にスッとこう、入らないと。

K:歌ったら吸う、歌い終わったら吸うのではなくて、同じようなことなんだけど、ものの考え方なんだけど、私の先生からいわせると、もう歌う前に吸えと。歌ったら楽にしておけと。リラックス、でもそのときに実は息は入っていますよね。入っているのだけど、さらに意識して息を吸うのは歌う前にしろと。すると、ここの給付のところに余裕ができるのですね。そうするとなぜかゆったりしてくる。終わってから吸うと、歌わなくちゃと、(息)と吸うからあわてちゃうみたい。だからあわてさせないのは、歌い終わったら息吸うなーと言っているのです。歌う前に息をゆっくり吸って歌いなさいというと、ちょっとこの間が広くなってくるみたい。

F:流れですね。要は流れが壊れてはいけない。彼らの曲と同じ速さでやると、日本人は流れはとらないですね、点で打っていくだけで、あとはエコーがつなげてしまうから、歌えてしまったように思ってしまう。私なんかは、最近向こうの人たちの速さでは、日本人は難しくて、1秒くらいあけて、さっきの曲くらいゆっくりの曲だと、流れがつながる。あれを彼らの場合は3倍くらいのテンポで、しぜんにやれているわけだから、それはちょっとずつ早くしていくしかないですよね。ブレスでも0.5秒くらいで、0.4秒、0.1秒。ところがプロの人や器用な人は、パッと口先で0.1秒でやれてしまうから、もたない。

K:本当はできていないわけですよね。その辺のテクニックをきちんとさせることが、とてもいい音楽をつくるところの大事なことなんですよね。

F:器用な人ほどわからない。テンポは合っているんだから。

K:意識していないから、瞬間はできるけど、そこは私が一番興味を持っているところで、歌は好きなように歌えと、ただ、歌う準備と歌った後の始末、そこを煮詰めていくこと、そこがもしかしたら、歌の勉強だと思うよとは言っているのですね。

F:1曲やろうと思ったら、落語家が一席やるみたいなもので、そこにいろいろな要素が入っていますから。

K:間ですよね、どう使うかという。

F:私もよく言っています。でも言っていることを自分がやったときに、どの程度できるのかなというのをよく考えるときがありますけれど。

K:だから、発声は誰でもできるけれど、歌は難しいといっているのはそこなんです。

F:だから、素人さん相手だと、発声でもっていくと、発声が出ているからそれっぽく歌らしく聞こえているけれど、それはプロの前ではだめです。自分でもわかっています。生徒のほうがある曲のあるところにおいては、優秀な子はたくさんいるんです。ただ本人が知らないから、あなたはそこがいいんだよという。

K:そうそう、無意識にやっているだけだからね。

F:そのかわり、自分で思い切り感情を入れたり、歌えていると思えているところは、とんでもない、高いところでいい加減だったりするのです。けっこう優秀な人を見てきたけれど、他の人に対する判断が適正でも、自分に対する判断はすごく難しい。

K:それは私は身をもって体験しております。本当にできていないなということがあるので、こんなお役目についていいのかなと生きているのですが。

F:僕は自分ができないから、この子たちにできるようにさせると、責任逃れみたいですが、それぞれの才能のところで共同で。

K:私もそうなれたらと思っているのですが、どうしてもやめられない性みたいなものがあり、いまだにやっぱり歌を歌っていきたいなと思って、いつも悩んでいます。それはそれとして、発声は大事ですね。それに尽きると思っています。