会報バックナンバーVol.169/2005.07


 

レッスン概要(2000-2001年)

■講演会

○トレーニングできること

 ここは一般の方も、俳優や声優などもいます。知りたいことは皆さんの目的です。それにお答えできるようにしたいと思います。その確認と、皆さんからの質問事項の中で意味がわからないものを聞いてから進めていきます。 私が話すことは、メソッドに起こし、本やHPの中にも書いてあります。 ヴォイストレーニングに対しての予備知識がある方と全くない方、ヴォイストレーニングをやったことのある人、プロの活動をやられている方と、全く今まで歌に触れないできた方もいます。

 研究所に入ると決めている方にも、必ず講演会に参加してもらい、ここで何をやっているのか、ヴォイストレーニングはどういうことなのかということを聞いてもらっています。 ここでやっていることを理解して入ってきてもらわないと、困るからです。大体の人が入ったら何とかなるだろうと思っているわけです。

 研究所というのはトレーニングで力を伸ばすところですから、トレーニングをやる姿勢とか、気力がなければ、伸びないわけです。 講演会に出て、皆さん自身がこの研究所を知るのと同時に、ここでやっている材料をお見せして、より的確に判断してください。研究所に入ってもらうための説明会ではなく、今日一日で目一杯のものを得て欲しいからです。 こういうことをしなければ、毎回多くの人が入ります。でも、多くの人が辞めてしまうでしょう。そういう意味でもご自分に本当にどのように必要なのかを考える機会にしてもらいたいと思います。

○学び方

 通えるなら出た方がずっとよいのです。 たとえば、音程トレーニングとか、音楽の知識面のことに関しては、自分でできる人は自分でやれるわけでしょう。 声はどのレベルでやるかということの問題です。へたすると10年やってみても、音大の受験生くらいのレベルにしかなれません。 1年に24回出るのと240回出るのとでは、10倍出た方が10倍伸びるということは成り立たない世界です。こういうことは、知識の習得法とは、違ってくる部分が多いのです。

 同じ人にとって、たくさんの機会があるのとないのとでは、やはり、機会は多い方がよいということです。自分がどういうふうにセットするかということは、難しいことです。全ての生活の中でみていかなくてはいけないことです。 どんなことをいっても、結局、その人の意欲が勝つわけです。 多くの人の質問にしても、それが質問になっているというレベルでダメなのです。 たとえば、「何年やったらプロになれますか」という質問が出てくること自体、その人はプロにはなれないということなのです。本当にプロになろうと思っている人は、そんなことは考えずにやっています。既にやっているということです。 でも今日の講演会に関しては、そういう人ばかりを対象にしているわけではありません。できるだけ、わかりやすく伝えていきます。

○必要性〜トレーニングは目的でない

 ここに入ってくる人は、こういう講演会を通過して入ってくるわけですから、少なからずやる気があるわけです。 やる気がある人しか時間もお金もかけないでしょう。しかし、そのやる気のレベルといっても、全く違うということです。 トレーニングも、徹底して伝わらないということがわかって、初めて必要性を出てくるわけです。その必要性をどこまで身をもって知るかということが、トレーニングに必要な動機になるのです。 本音のところでいっていくと、そういう疑問が出てくるところでは、ヴォイストレーニングもヴォーカルトレーニングも、あまり必要ないということなのです。

 たとえば、パンクとか、ハードロックをやるときに、ヴォイストレーニングが必要ではないかと思っている段階では、いくらトレーニングをやってみても、本当の意味では身になりません。しかし、徹底してやることでその人に少しずつ必要性がわかってくるにつれ、研究所も使えるようになるのです。 トレーニングをやらなければ歌えないと思っているのは、大きな間違いです。その人が目指すレベルと、その人がどういうことに飢餓感をもっているのかということに一致させていかないと、トレーニングは成り立ちません。トレーニング自体は、目的ではないのです。あくまで効果をあげるためのトレーニングです。そこがはっきりしていないうちは、本当は成り立ちません。 今はその必要性を感じるところまでも、この研究所でもっていかせているように思います。

○「うまくなりたい」「上京すべきか」

 うまいというのをどう規定するのか、プロになりたいというなら活動というのが一体何なのかということを、具体的にしていかないといけません。地方か東京、どちらも正しいか間違いかとか、どちらがあなたに合っているとかは、すぐに結論できることではないのです。自分で選んで進んでいかなくてはいけないことです。 東京にくるだけが能ではありません。東京というところは3年やっていても、少し休んだらみんなに忘れられてしまうのです。生まれ故郷でやった方が、知り合いはいるし、活動しやすいかもしれません。何をもってその人が自分の活動や自分の歌を考えるかというところに負うのです。

 チャンスというのもいろんな考え方があります。プロを目指すということでいえば、どんなに気心が知れている仲間とやれても、一人ひとりの技術がハイレベルでしっかりとしていない限り、音で聞かれたら、すぐわかります。プロというきちんとした自覚と責任と演奏技術をもっている人たちとやらない限りは難しいと思います。 もちろん年齢にもよります。 そこで自分が何をとるかということです。プロということで考えると、歌がへただったり、音が悪かったら認められません。バンドの結束力の問題でなく、音楽性とレベルの問題です。 自分がどういう音を目指すかということではつきつめるほど、他の人と異なることになるでしょう。自分がそこまでならなくてはいけません。そこまでは、大半は、まだバンドの方がうまいと思っておけばよいと思います。

○個性とオリジナリティ

 「ヴォイストレーニングで個性的な声がなくなる」と思っている人もいます。これも個性をどう考えるかということです。歌がうまくなることで、その人の個性がなくなってしまうような歌のうまくなる方法というのも、確かにあります。それでやってしまうとそうなるかもしれません。でも所詮、自分が思っている程度の個性というのは、大体、通用しないわけです。歌がうまくなったら個性が引っ込んでしまうという、その程度の個性で何ができるのかということです。そんなことで失われるのは、舞台で表現する個性ではないわけです。しかし、日本のほとんどのやり方は、創造性を問わない点で、私にはもの足りなく思います。

○習慣と環境づくり

 トレーニングというのは、その習慣と環境がなければレベルアップできません。 研究所にくるということも、一つの学ぶ環境を作ることです。お金と自分の時間を投資することによって、トレーナーや参加者など他人の経験も得るのです。 レッスンでは、当人がこないことには、どうにもならないわけです。上達していく習慣と環境を自分が作っていくということが大切です。 今はカラオケボックスなども安く使えます。練習の環境は、整っているわけです。 しかし、声を出していたら上達するとか、歌っていたら歌がうまくなるということでもないのです。そこが一番難しいところです。

 ヴォイストレーニングをやる動機を聞くと、トレーニングをやれば大体声がよくなるからということなのですが、そうではありません。ヴォイストレーニングというのは、声がよくなる状態を作ることです。 しかし、声を出してしまうがために、声が悪くなることの方が多いのです。日常で声が疲れているうえに、トレーニングで声を出していたら、声がつぶすことになりかねません。のどに負荷がかかりすぎるのです。 だから、声を出せる状態を作っていく方が大切なのです。 それは必ずしも大声を出すということではありません。大きく出したり、声をたくさん使うことによって覚えていくところもありますが、それはかなり限られたケースです。

○英語学習

 英語で歌いたいなら英語の発音なども自分で率先してやることです。いろんな英語学習のための本やテープもあり、テレビやラジオで「講座」もあります。 発音をどうして直すかということは教えてくれます。リズム教材については、よいものができました。 年齢を重ねるにつれて発音が直しにくくなるなど、一般にいわれていることをうのみにしないことです。一般論を真に受けてしまったら、何もできません。 疑問に思ったことはどうなのかということを、自分で確かめていかなくてはいけません。年をとるにつれて直しにくくなるというのは、年を重ねるにつれ勉強しなくなるからです。年を重ねている人の方がお金とやる気があれば、若い人たちよりも早く直せる例もあります。ともかく、自分はどうなのかということです。

○才能と素質

 声がよい人は、大してのどを痛めずに、楽に上手に歌っています。ということは、そうやってきたからです。歌というのは、歌ってきていない人は歌えないのです。どんなに音楽に詳しかったり、オーケストラの指揮ができたからといって、歌っていない人はうまくいきません。体という楽器の調整経験ということが関係してきます。 当人が全然歌っていないといっても、歌える人にはそれまでに絶対に歌うことが入っています。意識していないところでも歌ってきたのです。 早期の教育だけで声のよし悪しが決まってしまうのではありません。声そのもののよし悪しというのもあると思います。しかし、プロの中に関しては、それをどう使うかということの方が重要です。 昔のように、生まれつきの声のよさでデビュしたというパターンは、ほとんどありません。そういう人たちも相当努力しています。あまり生来の才能というのはあてにしては、いません。 学ぶことと続けることが才能だということです。多くのものを吸収したあとに、その人から何が出てくるか、結局どのレベルで出てくるかというときに、才能が問われると思います。

 日本の場合は、作詞作曲の能力で才能が問われることも多いのです。特に今はシンガーソングライターが全盛です。その人の歌そのものの中で、声そのものでどういう演奏能力や趣味をもつかということはあまり問われていません。その辺が日本の歌の評価の基準をとりにくくしている部分です。 ともかくできると思ってしまうことが第一の才能だと思います。できないと思ってやめてしまうのが才能がないということになると思います。それはその人の生きていく姿勢ですから、まわりがどうこういえないことです。しかし、できないことの一番の理由は、ほぼ全てができる人よりやっていないだけなのです。 ここのトップレベルの研究生の歌を聞かせると、「こういうふうに歌えるようになりますか」と聞かれます。それはこの人と同じくらいやってから問うてくださいということです。同じくらいのことは2年くらいでそう簡単には、できません。まず同じだけの時間をかけてみることです。全ては、当人の姿勢の問題になります。自分でクリアしながら始めていく方がよいと思います。

○勘

 勘に従ってやるのはよいと思います。ただ、その前提として自分の勘をきちんと磨いておかなくてはいけません。これがあるときからできなくなって鈍ってしまう人が多いのです。 ある意味では、いろんな思慮が働く大人よりも、10代の頃の方が鋭いのです。しかし、それがきちんと取り出せるかどうかについては不安定です。経験がないから、支えられるものがないからです。そこでもう一つ突き詰められ、本当にそうかと疑ったときに全部が崩れてしまうことがあります。学ぶことでよくなくなることも少なくありません。

○トレーナー

 トレーナーというのは、何かとれる人です。そこに全てを求めていたら、続きません。一体自分が欲しいのは何なのかということです。それに対して、その人がそれを与えられるのかということで判断すべきです。 その人のもっている才能を、自分が使えるかどうかで判断し、それが使えるのであれば使えばよいわけです。トレーナーはその才能を売っているのです。 もちろん、確かに相性というのもあります。しかし、好き嫌いで判断してよいのでなく、それを超えて学ばなくてはいけないことがあるはずです。 本当に学ぶとしたら、優れているかどうか判断して、好き嫌いでの判断ははずさなくてはいけません。要は、生涯をかけて何をやれるかというところを、早く知って、そこに絞り込んで生きていくことです。

○考え方

 最初はヴォイストレーニングの考え方から入っていきます。ここではここでしかできないことをやるというのが基本です。自分でやれることは自分でやるということです。 今は初心者の人も多いので、音楽の基礎的なこともやっています。 かつては、耳できちんと聞いていたら、その感覚になったときに出せるということで、やっていました。もともと形のある世界ではありませんから、実の方から勉強すべきなのです。 でも音楽が全然入っていなくて、普通の人並みにも歌えない人に対応していくためには、形から入った方がわかりやすいこともあるのです。読譜や楽典は、そのための方法論です。 しかし、いくら楽典や読譜ができても、歌にはなりません。楽器の奏者や音大生ならばみんなできていることです。でも彼らが音楽的にはよい環境で、すぐれた先生に習っているにも関わらず、どうして歌えないのかということを考えてみればよいのです。その辺をヴォーカルスクールと同じやり方をとっても仕方がないわけです。

○やっていけるということ

 最初に考えて欲しいことは、本当の目的、そして基礎とは、何かということです。ここは歌を教えていません。歌を習いたい人には他のスクールや教室を勧めています。舞台で表現するために音声が必要だというところをやっています。 今の日本では、ヴォーカリストは、舞台の表現ができていたら、音声というのはそれほど必要がないのですが、舞台で本当にきちんと表現しようとさらに煮詰めていくと、音声を欠かすことができなくなると考えるとよいと思います。そのセッティングを自分の中でどういうふうにしていくかということです。

 そこであなたが質問するとき、あるいは一対一で話すときには、それも表現なのです。そこでこの人は何ともならないと思われてしまったら、相当努力して返せるようにならないといけません。いくら音声のことだけをやっていても、何らものにならないでしょう。 難しいのは、ヴォイストレーニングをやったり、歌を勉強したからといって、プロになれるわけではないということです。それは必要条件の一つとしてもっておくことです。
 やっていける人が、歌や芝居がうまくできれば武器になるのです。そのために発声やヴォイストレーニングを生かせれば、よりプラスになるのです。そうして、やっていけるということがどういうことなのかを知らなくてはいけません。

○声をコントロールする

 ヴォイストレーニングは、声を繊細にコントロールするためにやるのです。 声とか歌だけがうまくなればプロになれるのかと考えてみればよいのです。プロは、必ずしも声がよくて歌がうまいのでしょうか。そうではない人もたくさんいます。でも普通の人ではないのです。いろんな意味でやっていける条件をもっているわけです。そこを学び身につけなくてはいけません。 ここでのヴォイストレーニングというのは、その人がやっていけるための鋭い感覚や勘をつけることと一体です。それこそがプロの感覚です。さらにどんな変化にも、すぐに適応できるための体が必要です。それを身につけるために、磨いていくためにあると考えましょう。

○合理的なトレーニング

 最近、私は発声法とか呼吸法などということばは、あまり使わないようにしています。ある人がすごい作品を出したときに、周りの人もそうやりたいと思い、そのときに初めて、そこに技術とか、トレーニング法ができるのです。 どの世界も最初から合理的にトレーニングがなされてきたのではありません。常に、試行錯誤の中でおこなわれています。そういう中でなされていくでしょう。現実そのものが変わっていくからです。 ただ、それを誰かに伝えなければいけないときには、順序立ててポイントを絞り込まないとわかりません。こういう本も同じですが、できますといっても、それはやれた人のことばでしかありませんから、メソッドにはなりません。プログラムやストーリーなどは、そうやってできてくるということです。

 スポーツなどでも、あるとき天才が出て、みんながなぜそんなことできるのか、自分もやりたいと思ったときに、その筋肉はこうなっている、小さい頃から鍛えていたとなると、それを追体験してやってみようとなるのです。そのうちに他の人にあまりあてはまらないものは消え、あてはまるものだけが残っていくようにして正されていくのです。 スポーツというのは、わかりやすいのですが、声の場合はそういうものが見えない世界で行われます。すべて音の世界の中でやっていかなくてはいけないのです。だから難しいのです。 そこで安易に発声法とか、呼吸法などが使われるのでしょう。しかし、現実には、今やれている人がもつ要素が今の時代の空気をとり入れた応用としてあります。その基本を知るために、基本を身につけやすいサンプルを使います。

○ハイテンションとリラックス

 ヴォイストレーニングというのは、まず皆さんの中で一番よい状態を整えることです。その状態が耐えきれなくなって飽和したときに、より強い表現の必要が生じると自分のよい状態のキープができなくなるのです。そこでプロの条件を作らないとダメだと体がわかって、基本が宿ってくるのです。 体の場合はわかりやすいのです。より早く、より強く、より遠くというような物理的な条件で基準が与えられるからです。歌などの場合は、アーティックなもので総合的なものになってきます。そこでの条件をプロとしてもつということが、判断しにくいので、その基準を常に自分の中で認識しておかなくてはいけないのです。

○創造としての歌

 ヴォイストレーニングが成り立たない大きな原因というのは、教える方にも、受ける方にもあると思います。中途半端になされ、何の実も結んでいないのは、先生は教えたら何とかなると思っているし、習う方は受けたら何とかなると思っているからです。お互いが責任をなすりつけあっているのです。いや、そういうことさえ、起こらないように、仲良くやっているといった方がよいでしょう。 そうではなく、何を創っていくかというところに目的を捉え、基準を確立することです。そのためには、基本をきちんと扱える力がなければ、本当に通じるものは作れなくなってしまうという状態にもっていくことです。 ヴォイストレーニングで声を扱う基本を身につけることです。そこで本当の基本ということが何かということを考えなければいけません。基本とは、何にでも応用できる力をつけることに、ほかなりません。

○歌は、まねない

 歌というのは応用なのです。応用というのは、舞台にパッと出たときに、何かをやれればよいのです。そこで柔軟に対応できて、そこでの要求以上のものを返せればよいわけです。そこで通じるように振る舞えればよいのです。 でも基本というのは、それを自由にやれるために用意しておかなくてはいけない器づくりです。つまり、そこでは可能性、柔軟に対応できる大きさを身につけるのです。 ところが多くの発声法は、ガチガチに完成した形を求めさせています。先生のなかに、正解があってそこに生徒を無理に合わせていこうとしていくのです。高い声でも表情をガチガチにして音がとれたことでよしとしているのです。

 歌を教わると、多くの人は歌を教えた人の半分くらいの力で限界になってしまうのです。習った人は、見えているものを受け継ぐからです。見えているものを欲して、見えているものをまねしたら、何とかなると思って学ぶからです。そこは一番まねてはいけないところなのです。 でも本当に受け継がなくてはいけないものは、見えているものを支えている見えない部分なのです。それを受け継ぐのが基本です。

○本当の基本

 基本というのは、どんな時代にいこうが、どんな国にいこうが、通用するというものが基本です。時間や空間を超越する。老若男女問わない。アメリカにいこうが、アフリカにいこうが通用するものが基本です。専門家でなく、一般の人にも、すぐにわかるものが基本です。 それを私は、ここ15年ほど一般向けの講演会で披露してきました。 日本のヴォーカルは応用中心でやっています。それはそれで成り立っているわけですから、それでよいのです。しかし、それで普通の人が大きく迷ってしまうのです。 大体ヴォーカルになりたいという人の大半は、誰かの歌を誰かのように歌いたいという人が多いのです。その時点で間違っているわけです。それはカラオケの世界です。もちろん、ある時期それでもよいのですが、声は使っている楽器が一人ひとり違うのです。

○まねる

 基本というのは、共通のところに基づいていなくてはなりません。それは、人間の体の原理、つまり声帯があり、呼吸機能を肺と横隔膜で司って発声しているというところに基づきます。 ですから、ほとんどのヴォイストレーニングというのは、私からみると、ヴォーカルアドバイスなのです。 カラオケ教室にいって、美空ひばりのように歌いたくてまねていても、誰もその歌のことをへたとはいいません。それはその人のうしろに美空ひばりを聞いているからです。その人をみているわけではないのです。それが誤解されやすいところです。

 自分を捨てて、そういうスターのカリスマ性をまねすることが上達だと思ってしまうのです。でも、それが目的ならそれでよいのです。 しかし、まねるのは、最終的にまねないために、やるから意味があるのですが、そこで日本の客のように似てるからうまい、受け入れられると、それで終ってしまうのです。もったいないことです。 ヴォイストレーニングというのは、声を出さなくてもできます。声を出せる状態を作ることが大切です。声を出さないところでの練習をたくさんしなくてはいけません。

○自分を見る

 こちらがこうやりなさいというまえに、その人が一体どうやりたいのかということが決まっていないことが多いのです。トレーニングで効果を出せるというのは、目的がきちんとあって、絞り込まれているからです。それは自分が見えているという前提があるからです。そのときに自分で見るのが難しいから、第三者にこういうふうに聞こえているという、鏡のような役割をするのがトレーナーなのです。 自分がどこにいるかということがあって、それを見る自分がいて、それを同時にトレーナーも見ています。そこの判断にギャップがあり、それを詰めるために、レッスンが必要なのです。

 多くの人は、このギャップに対し、即効的なメニュやノウハウを知りたがるのです。でも他人の方法論とか、ノウハウは取れないのです。材料がたくさんあるところから、それをうまく使えるようにしていけばよいのです。 きちんと歌えている人のように歌いたいと思っても、彼らは5年、10年とかけて感覚と体を変えてきているのですから、それを1、2年でやるのは、不可能です。仮に5倍、10倍の時間をかけたとしても、ここで今すぐには取れないのです。だから価値があるわけです。

 ということは、それだけの作品ができる人は、皆、それだけの個別の方法論をもっているのです。そのうえで、体や感覚が鋭く動くということや歌が歌えるということは一緒なのです。ただ、歌の場合はそれに加えて違う要素がたくさん加わってきます。だから学ぶのには、紛らわしいのです。 多くの人が間違ってしまうのは、トレーニングの設定の仕方です。どう歌ってよいのかわからないから、先生に教えて欲しいというわけです。たとえ先生が教えてみたところで、それは先生がやれることの半分以下のレベルですから、通用するわけがないのです。その人のものが出ているわけではなく、先生のものをうつしかえただけだからです。

○頭と体の違い

 たとえば、ここにいると、ここにくる初心者の声に関する質問には答えられると思います。しかし、ことばで答えられても、実際にできなければ、何の価値もないということです。それを体や声で現せて、初めて価値が生じるのです。 では何のために本を読んだりトレーニング日記を書くのでしょうか。それは頭を切ってトレーニングに専念するためです。 本を読んだら、すぐにできるということは絶対にありません。でもそういうものを読まないでやっていたら、いろんな疑問が出て迷います。しかし、初心者のほとんどの疑問は誰かに答えてもらえば、すむこと、すんでも、何にもならないこと、つまり、活字で済むようなレベルなのです。 それをスクールなどは小出しにしています。1年目に50個教えて、2年目には100個を教える。そんなものでは絶対に間に合わないのです。 それならば、最初に100個、答とともに渡して、他人の知識やアドバイスとして使えばよいのです。それでわかったとしてもできないのです。わかったのにできないということを詰めていかなくてはいけないのです。

○書いて提出することの意味

 いろんなものを渡して書かせています。レッスンの内容も、会報に述べています。読んでも意味がわからないと思います。でも、わからなくても、いや、だからこそ意味はあるのです。 私が書くのは、ほとんどの人の質問のレベルが、活字で答えたらそれは済んでしまうようなものだからです。そこはもったいぶらず、語り尽くして片付けてしまえばよいでしょう。同じ答えを何度も言うのも無駄です。何のレッスンにもなっていないところでレッスンの時間をさくのがもったいないからです。 逆にいうと、活字では絶対に済まないことがあって、そこをレッスンするのです。それはなぜかということを知り、そのことに専念してここでやるために、周辺のことは本でもHPでもすべて利用すればよいのです。

 よくプロデューサなどに、「そんなにノウハウを世の中に出してもよいのですか」「それでは研究所が成り立たないのではないですか」といわれるのですが、本をいくら読んでも、できないのです。しかし、できないといっても、読まない人よりは、ずっとよいわけです。 研究所は、自分一人では絶対にできないことだけのために、使うようにしなくてはいけません。自分でやれるようなことは全部、自分でやることです。

○くり返す

 できないのは、音楽の知識がないからやっていないからです。1回聞いてみてもわからないならそれを1000回聞けばよいのです。毎日30回ずつ聞いたら、1ヵ月でそうなります。1年で1万回になります。 どの分野でも、人前でわずか1、2分間のあいだで力の差を示そうと思ったら、大変なことです。それが1000時間ほどでできるのであれば、あなたは、神様です。それなら私も今から3年間でJリーグに入れます。 サッカーでも、サッカーのルールを知って、サッカーをやってみるためには、3時間もあればよいと思いますが、しかし、人まえで見せて価値のあるものにするなら3000時間でも到底足らないでしょう。 14、5歳でデビューできた人などをみて、自分もああなれると思うのですが、自分がその年齢のときにやれなかったのなら、そうはなれない事実を知ることです。そこをきちんとわけておくことです。

○プロの条件

 たとえば、プロというのは、たとえば私の今日の仕事、これを代わりにこの後、やっておいてと頼める人はいません。プロは、そこですぐにやれる人がいないです。そういう人はとても少ないのです。歌がうまくても、声がよくても、他人に替わってやれるのではありません。 ここでは音大生やポピュラーヴォーカリストを毎年、50名ほど面談しています。採れないのは、高い声が出るとか、大きな声が出ればよいと思っているだけでは演奏家とは思えないからです。 もちろん声楽でも音大を出たから何かできるのではなく、音大を出たあとに10年以上やっているから、演奏できる人が出てくるのですから、無理はありません。多くのヴォーカルスクールはそのダイジェスト版をやっています。

 毎日、発声練習をただやって、それで歌えるはずがないというようなことをやって、勘を鈍くしているのです。本人はレパートリー曲が増えたからうまくなったように感じていくのです。判断基準が先生にあるから、ほめられて安心するわけです。それで3年後に辞めて、ここに入ってきても、初心者と声一つ、声の使い方一つ、差をみせられないのは、方向違いのレッスンです。 歌というのは応用ですから、それに対する基本があります。歌で行われることは試合と思ってください。試合で一番よいのはファインプレーです。そのときの状態というのは、無意識で、統一感があり、全身が一つになったような感覚です。それに対してトレーニングというのは基礎づくりです。

○歌がうまくなりたいは、目的でない

 歌がうまくなりたいと思って、歌ばかりを歌っていてもうまくならないわけです。それは、目的が違うからです。試合とか歌というのは、伝えることが目的です。自分が好きだとか、楽しいとかおもしろいということを越えて、そこで他人の心を動かす価値のあるものを出さなくてはいけないのです。 よく歌を好きだからやりたい、プロになりたいという人がいます。それは動機としてはよいのですが、歌が嫌いな人は、ほとんどいないのです。

 あとで続けていくために必要なことでも、好きだから、できるわけではありません。海が好きというのと漁師との違いのようなものです。仕事なら体調が悪くても海に出て稼がなくてはいけないのです。そこを混同してしまうとダメです。 サッカーが好きで、サッカーで活躍したいと思うのであれば、弱いチームとやっていればよいのです。その中ではエースで活躍できるのかもしれません。 でもプロの世界ということを考え、客が興奮するプレーというなら、そんなもので通用するものではありません。たぶんそういう人がプロに混じるとボール一つとれないと思います。筋肉が違うし、パワーも違う。総合力も全然違うわけです。 彼らは弱いチームに勝つのはあたりまえだから、やりません。同等のチームか、それ以上のチームとやって、そのプレーを通じて観客に興奮を与えたり、感動を与えたりするのです。歌でもそこは同じです。

○日本でやれている人から学ぶこと、学べないこと

 ここはプロばかりを目指す人ばかりではありません。しかし、目標は高くもっておくとよいと思います。歌のプロというのは、声とは関係ないところで感動させている場合が多くあります。バンドのアレンジがよかったり、ギターがうまかったり、作詞作曲の能力が優れている場合もあります。 でもアーティストとして優れていればよいというようなプロセスでの基準のわからないことをやっていたら、ヴォイストレーニング自体もよくわからなくなります。だから、プロの人とは立場をわけることです。

 私はアーティストとしてやれている人は、皆、よいという考え方をしています。日本人のアーティストやヴォーカリストを卑下しているのでは、ありません。彼らから多くのものを学ばせてもらっています。 ただ、声や音声表現力ということからは、より完成された人たちに学ぶ方が迷わなくてよいというだけです。 要は、やれているからよいのです。やれているということは、出したものが客に共有され、成り立っているということです。発声がどうであろうが、歌がどうであろうが関係ないわけです。 歌をうまくなろうとしても、歌ではうまくなれないのです。それは見えているところで勉強するからです。音程、リズム、体力、集中力、いろんな要素がありますが、それぞれを鋭くして、それの入っている器を大きくするしかないのです。そうしつつ常にしっかりと正しい選択をするかどうかということです。

○声が出ても歌えない

 ほとんどの人は、声が出るようになったら歌が歌えるようになると思っているのです。そんなことはありません。それをどう使うかということを徹底してわかっていない限り、たとえ大音量と広い声域がもてたとしても、歌がめちゃめちゃになる可能性の方が大きいのです。 歌を教えるならアイドルの方がよほど簡単です。最初から声量も、声域もないし、キィの設定も一つしかできないのですから、どうして、人前で見せるかは、限られているからです。なまじ外国人のヴォーカルなどになると、一つの曲を10パターンくらい歌えて、音域のとり方も広く、キイも高くも低くも設定できるから、そのヴォーカリストの世界を本当に知らない限り、どうやって歌わせるかはわからないのです。そんな歌い方もできるのかと無限の可能性に驚くことも何度もありました。

 彼らがそういうふうに歌えているということは、逆にいうと、音量があったとしても、その音量をどこまで絞り込んで歌うのかとか、この歌にはどういうセッティングをするのかということまで勉強してきているのです。 だから、歌を通じて自由になれるのです。歌を自由に扱うこと、本当はそこをやらなくては歌にならないのです。その方がずっと難しいのです。だからこそ、歌い手というのでしょう。

○声量も声域もいらない

 声量とか声域の問題が、ヴォイストレーニングでは最大のポイントようにいわれているのですが、大きな間違いです。今の世の中ではそのこと自体、全く必要はありません。 唯一いうならば、それは、本当に声が身につくと、その人の器に応じて、自由に出てくるということです。しぜんで理想な状態として出てくるから、自分の歌として使えるのです。ここの外国人トレーナーも日本人の歌やここの初心者は、キイが高く、テンポが早すぎるといいます。音と声の感覚を磨くためにあるということです。その感覚を磨くことで、たった一つの音の大切さとか、その音から次の音にどういうふうにつなげていくかというようなことに、細やかな神経が働かせられるようになるためです。

 高い音が出ないというのであれば、音響でやればよいのです。現に声量がない人は音響でやっているわけです。ポップスですから、最新の技術はすべて使えばよいのです。 レコーディングでやっているようなファルセットは、ライブではできません。でもライブがダメなわけでもありません。そういうことがうまくできることがプロになる近道だと思っているのならば、やらない方がよいでしょう。

○うまいよりも伝わること

 私は、外でライブを見るときには、アーティストやプロデューサの目で見ます。つまり、そこの客とうまくやれていればよいと思っています。客の心をみます。 彼らが研究所にきたら声で大したことはできないとしても、そんな必要もない。舞台で表現ができているなら、何の文句もありません。 プロは自分の位置付けをよく知っています。自分はここでは勝負できるが、ここでは絶対にできない、売れるためにはこの路線でいって、これはこういうふうにするとよいとかしなくてはいけないということをよく知っています。

 それこそ舞台とか、表現をきちんと知っているということです。そのうえで音声が使えていたら、さらによいわけです。 研究所はそれと全く逆の考えです。仮にそういったものが全然なくても、声だけだしてみたら、人にインパクトを与えられることが、第一歩です。あとでの可能性が感じられる、大化けするような可能性が感じられるようにしておくことです。それは、カオス状態の魅力です。でもそれに耐えられずわかりやすい発声法を求め、自分の歌を他人の歌のようにしてしまう人は多いもので、残念です。 歌というのは応用された形ですから、それで少々、うまく歌われても、普通の人であれば興味をひきません。世の中にはいくらでもうまい人がいるからです。

○今のヴォーカリストに学ぶ

 プロのヴォーカリストを聞いて、歌い方や声が嫌いでも、とりあえずプロだと認めさせる何かがあるということがどういうことかを知ってください。何よりも必要なのは、その要素に学ぶことなのです。 優れているということは、プロの歌い手やヴォイストレーナーしかわからないということではないのです。きちんと歌えている人はそれをわかって組み立てているのです。

○自分の歌のレベル

 なぜ自分の歌が上達していかないのかというと、自分に対して甘いからです。本当に自分の歌に責任をもって、この一曲が人生で最後の歌だと思っていたら、そんなふうには歌わないでしょう。それを判断するのに甘いのです。歌は、自分の感覚で歌ってしまうからです。歌がうまいとか声のよいことにうぬぼれ、自己陶酔しているからです。 ヴォイストレーニングが本当の意味で成り立たない大きな原因は、ほとんどの人の課題としているのが、声量と声域と音程とリズムだからです。それは楽譜の世界です。

 ピアノ1曲間違えずに弾くなら、お父さんが一週間頑張ったらできるようなことです。ヴォーカルのトレーニングでもそういうことはできます。もっと高いところが出ますよとトレーナーが教えて、無理な枠を作ったりすることです。でも、テノールの発声でポピュラーのヴォーカルが歌いますか? まずは他のヴォーカリストのようになりたいとか、ああいうふうに歌いたいという形をとることをやめることです。勉強としてはそこからでもよいのですが、そうなっても仕方がないし、なったところで、結局なれないということです。 よく個性とか、オリジナリティとかいいますが、ほとんど、体の原理を無視しているからです。

 宇多田ヒカルさんをずっと聞いていたから、そういうふうになれるというのと同じです。彼女ほどのリズム感もないのに、それに代わる何があるのかということを自分でみてもいないのに、やっていけるはずがないのです。 やれない人には必ず何か問題があるのです。多くは、歌や声よりも、考え方やイメージの問題、いや精神の問題です。今はやれない人がやれるようになるまでやり続けられるようなことを伝えていこうということでやっています。 研究所に関しては、やれるやれないというよりも、まずやれる可能性をつかませることをやっています。とても時間がかかります。トレーニングすることで伸びるように設定するのです。

○トレーニングそのものは目的でない

 考えるまでもなく、トレーニングというのは、効果が出るから、トレーニングの意味があるのです。誰かには効果が出たのに誰かには出ないというのは、トレーニング方法の欠如です。それよりも、本人が一人よがりの考えで、思い込みだけでやるのは止めようもありません。今は、それが問題です。安全策をとるために可能性も限ってしまうことになります。 誰でもトレーニングをしたら、周りの人よりも伸びるのはあたりまえなのです。しかし、どのレベルで問うかということです。それはオリンピックにいくというようなハイレベルのことではありません。 そのくらいの効果を狙ってしか、トレーニングはやりたくないのですが、最近はトレーニングが目的になっている人が多いのです。ボクササイズのように、汗をかいていると気持ちがよいとか、歌っていると気持ちがよいとかいう人もいます。

 そういうのはサークルにいって、おたがい、ほめ合う(ほめ殺しですが)人間関係を求めていった方がよいと思います。やることによって自分が癒されたいのです。 それは、自分が戦って傷ついても、客が癒されることを受けて、満足を得ていくというプロの世界とは一番かけ離れたところにあるのです。 その戦いが癒しになっているのはまだ客の立場なのです。まわりを全部揃えてくれたら出るなどという立場では、何も切り拓かれていきません。それに賭けているような人たちがいるのですから。

○効果が出るまでに、タイムギャップがある

 もし皆さんがトレーニングをするというのであれば、トレーニングというのは何かを手に入れるための必要悪だということを知っておくことです。できるようになる、身につくということは、無意識にできることですから、そのために部分的なことをやることが必要なのです。トレーニングをやっていることが効果として出るまでに、必ずタイムラグがあります。時間を縮めるために無理がかかります。 それがわからないから、ヴォイストレーニングとか、ヴォーカルトレーニングを間違えてしまうのです。その日に一番うまくできるようにやってしまうのです。それは一番使いやすくて、楽な方になってしまうのです。そんなところで息とか、体を鍛えられるわけはないのです。

○入っていないものは出てこない

 まずは、自分に入っていないもの、足らないものは出てこないということを知ることです。出てこないということは、入れなくてはいけないのです。それには何が入ってないか気づかなくてはなりません。 自分の歌がよいか悪いかと聞いてくる人も、どう歌えばよいのかと聞く人も、何も基準が入っていないのです。だから正せないのです。 自分がどう歌ってよいかわからない人、どう歌えばよくなるのかがわからない人が、人まえで歌ってはあまりに失礼でしょう。自分で決めて失敗する方が、ましです。

 音程も、その音程をとりにいこうと考える頭があるうちは、その音はヒットしていないのです。 勉強のプロセスではよいのです。カラオケでは通用するのですが、プロとしては通用しないのです。 そういうところは、根本で正していかないと、声が使えるようには、感覚が磨かれません。 優れているということは、パッと聞いたら瞬間的にわかるのです。 これは体の原理に添っているからです。原理とは太鼓の中に何か入れてみたら聞こえにくくなり、空洞にすると響くようになります。こうやって音や声が届くのは物理的現象です。この伝わっている現象を邪魔するものを取り除いていくことが、ヴォイストレーニングでのプロセスです。【説明会1 00.12.16】

○日本語から、タフにする

 音声医の米山文明さんは、世界中のオペラ歌手を診断してきた人です。「日本人の声」という本で日本語は声帯を傷つけるといっています。 私は、皆さんよりも厳しい状況、ときに一日6時間くらいしゃべってから、レッスンをやっているのです。すると、壊すように声は使えません。その結果、使っているのが、自ずと選ばれた声なのです。 こういう仕事は一回失敗しただけで、おしまいです。そういう意味では、厳しいものです。あいつは大したことないと思われたら、浮かばれることはないのです。

 舞台で表現するということは、まさにそういうことなのです。こういう分野が厳しいのは、何月何日何時何分、そのときに自分がどんなに体調が悪かろうが、熱があろうが、寝不足であろうが、食ってなかろうが、ベストのものを出さない限り、やっていけないということです。体一つでやっている仕事というのは、何でも大変なのです。ヴォーカルや役者などはその代表です。

 ブレスヴォイストレーニングというのは、日本人の問題を日本人を離れることで、人間の問題に落としていくということです。方法論ではありません。結果オーライ、どんなプロセスもありです。ただ、日本人には入っていないところを入れ、外国人は入っているからこそ、気づかないところに、核心をおいてきました。 そうでないと、他の国にいったら通用しません。トレーナーでも、生きる見本や材料としてみてください。 皆さんがコンサートを見ても、本当に感動したというときだけにその人を認めればよいのです。そうでないときには間違いなのです。心が動かないものは間違いです。すごい勘違いの中でおこなわれているものも少なくありません。

○「トレーニングせずに歌っていればよい」から、スタート

 大切なことは、声を統一させていくということです。ヴォイストレーニングというのは、自分の作品を作るために使うべきです。誰かのまねをするために使うのであれば、トレーニングは、大して必要がないと思います。トレーニングというのは必要悪です。何かを絶対に解決したいがために、すごく手間取ったことをやるわけです。そうでなければ、トレーニングをやらず、もう歌っていればよいのです。 声を統一することです。ことばを一つでいうときに、たとえば「ハイ」を100回いってみたときに、しっかりと声が歌えている人というのは、全く同じにできます。でも自分がそれをやって、あいまいなのにそれでよいと思ったらそこで進歩が止まってしまうのです。

 プロの人たちがもっている条件を厳しく整えていきます。プロの人がみんな握っていて離さないところを普通の人は握りにいけないのです。アマチュアの人がそれが歌だと思っていることを、プロの人たちは歌でないと切っています。 作っているのか、まねているのかもプロにはわかるのです。表現する心がなければ、そこに呼吸がないと切れないのです。自分の中にきちんと入れ、それを突き放して見なくてはいけません。カラオケで歌っていても、心で抱きしめているだけでは、その人の勝手だろうということになります。

○入っていないもの、欠けているもの

 次にことばと音の高さのことをいいます。指摘したいことは、足らないとか、欠けているといった要素についてです。アジアも含めて、世界の人たちと比べて、日本人に入っていないことです。日本の中で普通に生活して歌っていたら、そうなることなのです。 入っていないとか、欠けているというのも、もともと日本で生活してきたから、その感覚で生きてきたのです。 私がそれに気づいたのは、昔、劇団にいったときです。劇団にはいろんなところから声楽の先生がきていたのですが、その人たちの普通に話している声とか、歌っている声があまりよくないのです。一方、劇団の人たちは、入って、2、3年に、よい声になっていくわけです。表現上の形式の違いはあります。

 この教えている方と受けている方の違いは、同じエネルギーを音域に回しているのか、表現の方に集めているのかという違いです。 私が今使っている声は、日本語ではなくて、むしろ欧米人のことばの発声に近いのです。日本でこの声で話していると、「役者をやっていたのですか」と聞かれます。向こうにいったときにクワイヤーに入って歌っても、プロと思ってもらえないのです。彼らは3歳くらいから教会で毎週歌っているわけです。 私がこういう声を出していても、彼らにとってみたら本当に普通のよい声なのです。ということは、彼らのような普通の生活をすればよいということです。

○舞台と表現をつくる

 日本の声というのは、表現をするということに合わせていません。日本の生活の中では、舞台と表現ということができていないのです。 たとえば、皆さんが隣同士でしゃべったり、喫茶店で友達と話すときには、こういう話し方はしないと思います。 彼らは電車で向かい合って話している。そして、そのまま前に出てきて話してみても、それがパブリックなスピーキングとして通用するのです。 つまり、ことばに出すということは、第三者に対して自分を表現する、あるいは自分の意志で相手を説得する、という対話を前提に使われているわけです。日本の場合は逆です。音声で強く表現すると、嫌われます。

 この話し方を喫茶店ですると、皆さんが説教されているようにみえると思います。怒るときや泣いているときには日本でも表現が入ります。 でも教育の現場、たとえば学校で先生や生徒が国語の時間に読んでいるときなどに表現はあまり入っていません。日本人が幼稚園に入ったときから、おきざりにしてきたもの、それを彼らは、生まれたときから、教育を通じ、磨きつづけているのです。彼らの表現は音声が中心です。パンチカードやバーコードは、文字の読めない人の多いアメリカで使われます。

 日本は音声で表現すると嫌われる国なのです。みんなが同じような考え方をしているから、わざわざ音声であらたてなくても以心伝心で伝わりました。表情を見て読みとり、得心する。そのため、音声表現の必要性もなくなっていたのです。 外国人は逆です。小さい頃から音声教育が徹底してなされています。聖書をみるまでもなくことばを扱えないうちは、動物と同じだと思われているからです。大人になる条件というのは、自分の意見を自分のことばできちんと人前に示すということです。 日本だけがかなり違いますが、それは日本語という性質からもきています。これは日本語の宿命なのです。だから声楽でも、向こうの感覚になったところで、何とか日本語を出していきます。日本語が一番難しいのです。オペラはもともと向こうのものですから、仕方がないところもありますが、母国語が一番難しいのです。

 ということは、英語で歌おうと思っているならば、なおさらそういう考え方をとった方がよいと思います。民謡とか演歌を歌うのであれば、日本の言語文化からやっていくのも一つの手だと思います。ただ、ほとんどの人が歌おうとしていることは、Jポップス系も含めて、すべて向こうのリズムにことばがのっているものです。向こうの感覚で取った方が、のども痛めないし、よいという現実的な対処の意味もあります。

○ゴスペルブーム

 ゴスペルは今、とても流行っていますが、ここも合唱団を作っていました。神父さんに、ゴスペルというのはクラスを作ってお金を集めてやるものではありませんといわれ、やめたのです。 もう一つは、現実に体や声を作っているときに、みんなでワーッと声を出してしまうと、のどを痛める人が多かったからです。 舞台、表現、あるいは音楽の中の一体感とか、音が人にどう働きかけるかということを知るのに、日本人にとっては勉強になることです。 ですから、今広まっているのは、よいことです。ただ、そこにいく人が表現をしたいのではなくて、癒されにいきたいということ、とってつけたような顔でニコニコしているのが好きではありません。 みんなで固まれば何かできそうな気がするというのは、嫌なのです。

 本来ゴスペルというのは、モザイクのようにそれぞれの個性の色が輝いています。それをどこかの国の合唱団のように、一人ひとりの口の開け方を同じにして、同じようにやりなさいということではないところがおもしろいのです。 日本の場合は、そういうところが文化として出ます。みんな表現をとりにいくのではなくて人間関係をとりにいくのです。それも大切なことですが、そのために、上達しなくなってしまいます。 表現というのは、そこで事を起こすわけです。事を起こすということは、事が起こりたくないと思っている人にとってみれば、嫌なことです。同じようにやっていればよいのにとか、何もあんなことをやらなければよいのに、ということです。日本の場合はそういう人が多いわけです。でもそれをやっていくのが表現するということです。 何かの体制があったり、何か打破したいものがあるからそこで事を起こすわけです。

○歌のステージ経験では学びにくる

 歌がうまくなくても、ステージやショウということで見て、もっていたらよいのです。それを見にきた人はそれで感動したりしているわけですから、それでよいのです。でもそれが逆に甘えにもなります。お笑いのテンションの高さ、客の評価の厳しさをみならうことです。 外国から日本にくると、批判はされないし、ブーイングがありません。日本人相手ならばこのくらいやっておけばよいということで、手抜きがあっても気づきません。安易なスタンディングオペレーションが多いのです。本当は多くのブーイングに対して、それは賞賛すべきものとしてあるのです。 どちらにしろ学ぶのにはよくないことなのです。ここでは、ストレートにお互いにいいあえるような気風を作ろうとしています。 このような背景が全部、音声とか声のことをきちんと人前で出すことを邪魔していると思ってください。

○音声表現を学ぶ

 声の統一ということからいうと、三つに捉えています。日本の国語の教育では、あまり音声教育をやらなくなっていました。日本語は子音+母音で、「ことば」というのを「こ・と・ば」とマスに入れるようになりがちです。読むときも、棒読みで漢字が正しく読めたらよいくらいです。「日常でそういうふうにはいわないでしょう」「それでは伝わらないでしょう」と言われることはありません。 選手宣誓も元気であれば、何をいっているか聞こえなくてもよい。相手にどう伝えようとか、言いたい内容を伝えようということを選手も考えていません。一所懸命がよしといわれるから、読みきるだけです。つまり、儀式化してしまっている。歌もそうなっていませんか。 答辞や送辞とかはもっとひどく、とうてい心のこもったものに聞こえません。それで通用してきたのです。その建前だけの見本が、国会でのやりとりです。

 外国ではそうでないということを知ってください。たとえば、国語の時間に、詩の朗読があるとしたら、そこでどう読むかが大切なことです。どれだけ間を開けるか、イントネーションをどうするか、どういう声にするか、それから発音も徹底して直されます。 日本語というのは、、平仮名を覚えてしまえば、読み書きの中で、習得できてしまうのです。国語の時間のほとんどというのは、2000近くの当用漢字を覚えることで費やされます。だから、日本人は、読み書きができるようになります。 アルファットは26個です。スペルなどは正しくつづれない人も多いのです。でも耳で聞いて口で発していくことで学んでいきます。

○日本人の学び方

 韓国では、音声の数は900から1000といわれています。 欧米だと1500から2000だといわれています。母音だけでも26個ほどあります。 日本語には母音が5つだけしかありません。音の数は公式には108です。同音異義語が多く、ダジャレなどが簡単にできます。そのため、ことばでいったことは間違いやすくなるので、読み書きでしっかりと確認していくような文化になってしまったのでしょう。 私は、質問や感想を予め書いてもらいます。外国人なら、書いてもらうよりもいわせた方が早いのです。でも日本人の場合は、10個の質問をすぐにいえる人というのはあまり、いません。そういう教育をされてきていないからです。黒板に書く方が、声で伝えるより入るわけです。だから、トレーニングにも、書く力を大いに使うしかないのです。これを耳で理解できるようにするのは、大変なことです。

○どんどんおちる音声表現力

 今、日本ではさらにひどくなってきました。何をいっているかわからなくて、TVでは字幕まで出ています。もちろんテレビの役割が変わってきていますし、それで助かる人もいるので、とがめているのではありません。それでも許されるようになってきたのは、音響技術の進歩があったからです。 現実を見てください。それだけ声の技術や声域、声量がなくてもプロになれる時代がきたとみてもよいわけです。 一昔前は、アナウンサーは顔が角張っていなくては、声の響きがマイクに入らないからダメだと、まことしなやかに言われていたのです。マイクもスタンドでワイヤレスでないため声量が必要です。いや、むしろ、そうでない方が、近道かもしれません。

 昔はビデオに録ることもできず、いつも一発勝負でした。歌い手も、その場でできなかったら終わりです。 今はやる方もいくらでもやり直しができるのです。レコーディングで1テイクで入れているヴォーカルもいなくなってしまいました。 でもそれはそれでよいのです。そういう方向に能力を磨くのであれば、声をやるよりもコンピュータを勉強した方がよいのではないかという考えにもなります。YMOなども高橋幸宏さんなどは、向こうのドラムの筋肉とか、あの反射神経にはかなわないから、シンセで日本人として世界にでられるということでした。それはそれで、すごい見切り方だと思います。ポピュラーの世界の中では何に使ってもよいのです。いや、むしろ最新の技術を使うべきです。 私の世代からみると、だらしない姿勢とだらしないことば遣い、言いたい意図や目的の欠如といった若者の生活がうまくそのまま、歌に反映されている気もします。

○ヴォイストレーニングの目的

 もうあまり高音が出ないとか、声量がないとかで失望したり喜んだりする世の中ではありません。 一番考えなくてはいけないことは、ヴォイストレーニングの目的を自分に対して、きちんと設定することです。そういうことができる体とか感覚になったときに、それをどう使うかということを早くわからなくてはいけないということです。 漫画家でも、大成した人というのは、大体、デビューの漫画はすごくへたです。それを見下したり、批判したりするべきではありません。へたなのに、なぜ世に出られたか考えるべきでしょう。ストーリーとか描写の仕方とか、そのタッチとかに人を引きつけるもの、心をうつものがあったからでしょう。そこでプロが発掘し、デビューできたのです。

 歌も同じです。誰かの絵をそのままきれいに描けるような練習をしている人は、何年に経ってもデビューできません。声量のための大声練習、高音のための高音練習は不要です。他人のものを写しているだけだからです。 ヴォーカルの場合、そういう人が多いのです。 アマチュアは新たに作り出せないからプロとして対価を得られないことを知るべきです。技術があったら、ピカソとかシャガールのように描けるというのは、一つの練習にはなります。だからといって自分の作品にはならないわけです。コピーしたり、写真でとればよいのです。磨かなくてはいけないのは、その人にしか出せないところのオリジナリティと感性です。

○プロのもつオリジナリティ

 今やかつての偉大なるプロのようにうまくなる必要も、声が出せる必要もありません。しかし、他のプロが絶対にできないことで、何ができるかということです。他の人には、決してその味を出せないように、誰もそうは歌えないことに価値があるのです。 でもほとんどの人たちが歌っているようなまねは、プロが片手間でできてしまうのです。

 のど自慢のチャンピオンの大半がおもしろくないのは、プロが本気を出したら同じことができてしまうからです。彼らがまねした方がうまかったりするのです。まねの競争では通用しません。うまいとは感じるかもしれませんが、だからといってお金を払ってその人を見たいとか、次の日もまた聞きたいとは思わないでしょう。つまり、成り立ちません。 じいちゃんとかばあちゃんの歌は、音を外していようがおもしろいでしょう。 じいちゃんやばあちゃんが生きてきたまま、出ているので、誰もまねできないのです。つまり、表現力が豊かなのです。 そこに基本トレーニングをしっかりとやって、体を鍛えていたら、もっとよい歌を歌えたかもしれないということです。なぜカラオケやのど自慢の歌のうまい人が、歌やステージの魅力がないのだろうと考えると、ヴォイストレーニングや発声だけを単独でやっても何の意味もないことがよくわかります。まじめだけがとり得な人はそこでおわってしまうのです。

○ことばと曲の才能

 声が出る人や歌のうまい人は世の中にたくさんいます。地方でも民謡などでは、うまい人はいくらでもいるのです。 習いたい人は、誰かのように誰かの歌を歌いたいというのがほとんどなのです。誰かの歌を歌いたいのは構わないのです。でも、それはそれで終わりです。 日本ではシンガーソングライターが、有利で作詞作曲アレンジをやらなくてはいけない。しかしそれの力はは、レッスンのなかでも宿っていくはずです。

 作詞とか作曲の才能というのは、たくさんのものを入れていたら、そこの組み合わせの中から磨かれるわけです。 私も話し方や文章をどこかで勉強したのですかと聞かれるのですが、そんなことをする間はありません。自分が本当にいいたいことをしっかりといっていたら、それが話や文章になってくるのです。あえていうなら、音や声の世界を熱心な研究生に述べることが最高の話し方や文章上達法でした。そんなところに文章術も、スピーチ術もないのです。歌でも同じでしょう。 作詞作曲をやりたいという人もいるのですが、そんな才能はすぐに受け取れるわけではありません。なおさらたくさんのものを磨いておかなくてはいけないのです。ことばの力も磨かなくてはいけません。

○プロデューサー全盛になったわけ

 トップレベルで、それぞれの才能は分業しコラボレートすべきです。プロの作曲家が曲を作り、プロの作詞家が歌詞を入れ、それをどう演奏するかということにおいて、ヴォーカリストはプロであるべきです。どう演じるかで、役者は、プロであるべきです。 今は一人で全部やっていますから、比較が難しいのです。その作品を作った本人が好きに歌っているのですから、声から判断しても仕方がないのです。トータルの力量です。 逆にいうと、彼らの作品を歌うとしたら、彼らよりも歌唱力においてくらいはうまく歌えなければ、何の意味がないということです。いや、うまくというより自分の世界で歌うことです。

 詩を作るのも、曲を作るのもアーティストの仕事です。日本の場合は、作詞作曲の方やアレンジの方にアーティストの占める割りあいが移っています。その結果、プロデューサ全盛の時代になってきたのです。 日本人は歌手から、作詞作曲、プロデューサーに転向する人が少なくありません。その方が創造力が喚起されるからでしょう。もちろん印税収入もあります。すると誰に歌わせようか、この人がダメなら次の人がいるとなります。それでは、ミスコンと同じです。この歌い手のためにこの曲を作ったという作り方はしなくなりました。 つまり、声の動かし方そのもののプロ技術より、読み書き中心の文化なのです。

Q.「トレーニングで何をやればよいですか」

 たとえば「ハイ」という発声を100回やってみる、というのは、それができたから歌えるのではなくて、歌える人なら100回やってみて狂わない。つまり、基本をきちんと踏まえて歌っている人は、その状態と条件をきちんともっているということです。 ヴォイストレーニングもそこから始めた方がよいと思います。たとえば、声の条件が状態からみて、「ハイ」一つで違いが出せない人が、歌でどうやって違いが出せるのかということです。(※ハイ3段階) しかし、作詞や作曲や歌い方で違いが出せるということもあります。 声を扱うところのコントロール力においては違いが出せないのではヴォイストレーニングをやっているとは認められません。 これはオリジナルの声です。そこから一つの伝えたいイメージをもって、それをどういうふうに音につなげるかという創作をしなくてはいけないのです。それは、オリジナルフレーズといって、区別しています。そこにいきなり、発声法でもっていくのは、変です。

○正しい発声法はあるのか

 返事で「ハイ」というときには、強弱アクセントをつけていいます。そのとき「ハ・イ」とは認識しません。テンションをさげてやると部分的に何か引っかかって不快だとわかるはずです。 それをしっかりとやろうとするには、集中し、体の状態と息をきちんと整える必要があります。するとどこにも引っかからず、できます。できているのかを見分けるのは簡単です。幕のうしろから声が飛んできているか、その当人から飛んでいるかです。ほとんど口元から聞こえている人ばかりです。 三大テノールを見てください。声だけが飛んで、本人には何も引っかかっていないのです。よい楽器とはそういうものでしょう。 自分がこれでOKだと思ってしまうとそこで進歩が留まってしまうのです。

 声は、その発声原理から正しく使うことです。 基本の条件をもっている人が握って離しないところを、普通の人たちは握りにはいけないのです。そして、逆に解放しているところを固めてしまうのです。 アマチュアの人がそれを歌だと思っているのに、プロの人はそれが歌ではないと見切っているようなところの違いを見ていかなくてはいけません。それは作っているのか、まねているのかの違いです。 表現する心がなければ、よくないものを切れないのです。トレーニングでは、自分の中に入れ、表現ではそれを突き放して提示しなくてはいけません。 カラオケは、それを抱きしめているだけです。確かにあなたの世界で、とてもきれいでも、あなたの勝手でしょうということです。自分と客とを一体化させるということはできません。

○音高にこだわらない

 音の高さそのものにこだわるのは日本だけでしょう。外国人はそんなに高低では捉えません。強弱ということで動かします。 一つの声で統一していくことは分野を問わず、全く同じことです。低音部、中高音部は同じところで、何も変えないようにするのが、課題です。それは音の高さにあてるではなくて、一定の音色をつかむということです。それとともに、ある意味では呼吸のコントロールで強弱をつけられるところをキープするのです。その後、それを離し多彩な音色や使い方をみつけていくのです。

 多くの発声では、安易にひびきに逃がし息を吐けなくしてしまいます。高い方になるとのどが締まってくるので、それをさける響きにもっていくのです。日本ではプロのヴォーカルもそうやっています。体が全部離れ、息も離れて、響きだけでとっているのです。そのため、踏み込めなくなります。安易な教え方です。簡単に3音くらい高く出るようになります。 この「ハイ」の音と「ララ」の音では、音は同じでも、オクターブ違うように聞こえてしまいます。音色が違うのです。高い方の音に届かないからといって声を当てていくと、どこにも当たらなくなってしまいます。こういうヴォイストレーニングが多いのです。本当に歌を歌えている人というのは、そういうことはあまり考えていません。 参考としては、トムウェイツやサッチモが、どういう音域で処理をしているのかということを聞いてください。

○できるということ

 ヴォイストレーナーについていたときは、この辺の音まで出たのにやめたら出なくなりましたという人がいます。やめたら出なくなるということは、通用しないのですから、それはやってはいけないことです。 ちょっと休んだからできなくなったということは、身についていないということです。体に身につくということは、自転車に乗ることと同じです。決して離れなくすることです。何年もやっていなかったとしても、体の状態を戻したら、すぐにできるということが、体が覚えているということです。できたということと、身についたということは違います。

○シャウト

 日本人でブルースを歌ったり、ハスキーにシャウトしている人たちは、のどで閉めて歌っています。そのため、音がきちんと落ち着かず、安定性に欠けます。のどでやり、全身を使っていないからです。 そういうことを全身からやれるようにしていくのが、ブレスヴォイストレーニングの基本的な条件づくりです。しかし、常にそれを邪魔するのは、体ではなくてイメージ、感覚の方なのです。そういう感覚が入っていなかったら、それているとさえ思わないからです。 そのトレーニングをメロディ処理につなげています。

○息声を中心にする

 「つめたい」を例にすると、日本人はここで高低アクセントが働くのです。高低アクセントがわからないと日本語はうまく話せません。彼らの場合は、日本人が高低を聞くのと同じくらい、どこに強弱がついているのかを注意して聞いて発します。むしろ強弱のリズムを出すために、そこに息が伴わせます。つまり、一つの拍が伴い、そこからことばがでてきます。 「つめたい」に「レミファミ」をつけてみましょう。そのまま「つめたい」に「レミファミ」とつけると、音をとりにいってしまいます。そうなると表現からは完全に落ちているのです。でもそれが日本語の特色です。母音中心のことばだからです。 声楽の人がポップスの指導をするときも、そうなりがちです。 声楽というのは、母音を伸ばしていくことにより、そのひびきをつなげて聞かせるから、その影響下にあるのです。 最近はずいぶんリズム、呼吸中心になって、そういう発声法は合わなくなってきています。

 母音中心というのと、子音中心というのはかなり、違うのです。子音というのは、息を深く吐いて、それを邪魔して、発するのです。すると、そこにさまざまな音色が出てきて、ハスキーヴォイスになります。 ミックスヴォイスは、裏声と地声の境をつなぐ声ですが、日本人が、安易にまねすると、のどによくありません。シャウトと同じです。息が深く、鋭くなって普通にしゃべっていたらミックスヴォイスになるのを待つことです。 彼らは、普通のことばの段階で強アクセントをつけます。ついていないときでも、うしろから2番目か3番目につけます。強拍の中に強拍が巻き込まれるような感じでフレーズができてくるのです。 それに対し日本語の感覚をもつ人たちが処理するのは、メロディ、つまり高低アクセント、まさに日本語の延長に歌われるのです。【講演会2 ブレスヴォイストレーニング 00.12.16】


■入門レッスン

○日常を拡大し集約する

 いろんな曲を入れていって欲しいと思います。大切なことは、耳のことと、それを感覚で声に表せるようにすることです。ヴォイストレーニングも歌も問われることは、そんなに違いはないのです。しかし、この結びつきをどういう目的で置くのかということです。 ヴォイストレーニングというのは、より本質を聞けることと、たくさんの声を感覚の中で多彩にとり出せるような部分で、拡大していくわけです。 基本的にトレーニングをやることによって、体が変わっていくということもあります。しかし、一番問題なのは、いつも2オクターブに渡って、音声で表現する舞台を日常にしているような人たちが使ってきたものを、クラシックもポップスもそのまま受け継いでいることです。これをそのままとってきているこということは、舞台と日常の距離があいて縮まらないことです。

 今の舞台というのは彼らの価値観での舞台です。ミュージカルもオペラでも演劇も日本人がやると、いかにもという感じのものをやります。全然違うものになるのはよいのですが、そこに相当無理があるわけです。そこを埋めようとしてトレーニングを置いてしまったがために、余計におかしくなったのです。そうではなくて、本来は、日常が拡大し集約していくしかないのです。

○舞台での音の働き

 皆さんの時空間でいえば、ものすごく悲しいとか、すごく楽しいという日常の一瞬があったら、それを集約してとり出すのが舞台です。そうでなければ、人間の心に訴えません。そのものを無理に引き離して、そのあいだにトレーニングを入れるということが、無茶なことなのです。 うらやましいと思うのは、彼らの中では、日常のことばのところに音楽を入れたら、それが歌になるのです。そこで絵筆をとったら描けるというのが画家です。 歌い手はそれがなかなかできないのです。そこで、トレーニングとか発声というのは疑わなくてはいけないのです。 歌を聞いて、そのまま歌を歌ってはいけないということは、常にいっています。 漫才師がテンションを高く「どうもこんにちは」と出てきたら、何か舞台が始まったような錯覚を客がもってしまいます。

 今の曲でも、どこから音楽が始まったか、どこから歌が始まったか、どこから表現していたかとなると、外国人だから歌が歌えるわけではなく、途中から音が働きかけてきたり、ことばとして歌が働きかけるようになってきます。 そういう意味では、素人のステージの方がおもしろいものです。その当人が立ったときに、働きかける力というのがあれば、そこで見ていくからです。

○トレーニングの弊害

 最近、私はトレーニングの弊害を感じています。それは外でも内でも感じます。第一に的が絞られていないからだと思います。 つまり、研究所を作ったときの一番の戦いは、日本のやり方が1番ができたら2番、2番ができたら3番と、そういうふうに進んでいくことでした。。 人間がそう考えて、そう教えられたら、あたりまえにそう思ってしまうのです。それは考えるときにはあってもよいと思うのですが、だからといって、それが歌の世界からみて、何か意味があるのかといったらほとんどありません。

 歌というのは、より強い思いを入れてみたら音が太く高くなったとか、しっとりと相手に聞かせようと思ったら低く柔らかくなったというように、リズムとか音色をともなって生まれてくるものなのです。 ヴォイストレーニングというのも、そこを意識してやるべきなのです。 本来はそれを拡大することをやらなくてはいけないのですが、日本の場合は目的は、声域と声量の拡大、本当に意味のないことばかりをしています。そのうえ、歌としてことばでいわなくてはいけないからといって、さらに違うテクニックを作らなくてはいけなくなるわけです。

○体と発声の原理に基づく

 声も音楽も同じです。声が優れているというのは、原理にあっているかということです。原理にあっていなくてもポップスの場合はよいのですが、原理にあっていると、それだけ楽になるからです。1の力があれば、それを10に聞かせられるのです。大きなことをやるときには、楽であること、そのため、それを支える体を鍛えるのです。。 10のイメージをもつことと、1から1をきちんと結びつけなくてはいけません。多くの人間が1の力を0.5とか、0.3くらいしか使えないまま、それをそのまま拡大しようとしているのです。それでは力が入るだけで決して使えません。 スポーツなどの原理を考えてみればよいのです。普通の人では絶対に届かない距離を投げられたり、早く投げられたりするのはなぜでしょうか。みんな体を鍛えています。でもそれだけではないのです。それを統御する神経とか、その使い方のコツのようなものがあるわけです。それは音楽も同じなのです。

 ヴォーカルというと、一人で歌っているように思うかもしれませんが、その中に音楽が動いています。その原理をどれだけ生かせるかということです。 自分は1の力しかないけれども、実際に音楽の中で9を導き出したら、あわせて10が聞こえてくるのです。声が小さくても、声量がなくても音楽の世界というのは動いていくわけです。ただ、日本人のヴォーカリストに関しては、音の中での判断に厳しくありません。 限界が、母音発声でひびきをつないでいかないと、歌っている気がしないということになったりするのです。子音がミックスボイスになった瞬間に、失敗したと思うのです。 でも声がどうひびいているかとか、息とどう混じっているかということは、どうでもよいことです。伝える音声になっているかどうかということです。 それを判断する日常のベースの中で、コミュニケーションがきちんとできていないと、難しいわけです。

○テンションと膨らまし

 いつも音声で表現する舞台といっています。 日本の場合は日常の生活のテンションが違いますから、まずテンションをあげることからです。テンションをあげてというと、プレッシャーがかかってきて、もっと音楽が聞こえなくなったり、表現に対してクリエイティブなものが働かなくなります。 だから、吸収度のます場が必要です。 日頃から大切なことは、音をしっかりと体や心に結びつけて聞いておくことです。そこで自分で拡大する作業をやっておかなくてはいけません。 聞かせている曲の中に自分なりの膨らましを入れてください。自分がやるときにどのくらいの可能性があるかを入れていくことです。 皆さんが、マップを作ることです。そしてそれを広げていくことです。

○切り替えと中心感覚

 トレーニングができていく人は、どこの音になっても、どんな歌になっても、それに応用できる力があるのです。そこの切り替えができるのです。切り替えができるということは、今やったことのどこがどういうふうにそれていて、どういう失敗なのかという位置付けができることです。 ポピュラーは、真ん中で歌う必要はないということです。発声も同じで、その距離を自分が見れていたらよいのです。のどをつぶしそうな声を出していても、自分がその距離を見ていたらよいのです。 それが中心のように思っているからダメなのです。そうしたらその人の体の原理からどんどんそれていきます。音楽でも、それを中心に戻せる感覚があればよいのです。それがなくなったときには一人よがりの歌になります。他の人たちと共有されなくなってしまいます。ヴォイストレーニングもそう捉えた方がよいと思います。

 もし10の力があったら、大体の人は、その10を薄っぺらく音域に使うのです。でもここは半オクターブでよいから、それをもう少し動かせるようにしようといっています。一音でもよいのです。 そうしたらその10の器を広くみれるようにしていくのです。声量がどんどん大きく100になるわけではなく、その10を扱える器が100になるということです。 簡単にいうと、10種類の声をわけられるのと、100種類の声をわけられるという違いです。でもそれは100個わけることに意味があるのではなく、その根本にあるところは一つの中心点の一つの声です。それはその日の感覚でずれてもよいのです。そうなるといろんな声が自分でもわかるようになると思います。 そこからある曲に対しては合うけれども、ある曲に関しては合わないということも出てくると思います。それは応用になってきます。

○基本はまじめ

 ヴォイストレーニングでやっていることは基本のことです。それは、誰がいつの時代に聞いてみても、力だと思われる何が出るかということをやっていかなくてはいけません。 基本ですからまじめになりますが、それはトレーニングの宿命です。スポーツでも同じです。どんな練習でもまじめで真剣です。ステージで楽しそうに見えても、チャラチャラとやっているわけではないのです。

○すぐれたものを盗る

 できることよりも、その距離が見られるようになることです。3回やったら、3回ともよい方向に修正をかけられることです。 最初は逆です。すごくよいものを聞いて、一回目にやったときはよいものが出るのですが、それは自分が死んでいて、そっちの方が生きているからです。自分のものが2割で、優れた方が8割だからです。ところが2回目にやると、自分が5割出てきて、3回目にやると、自分だけになって、よかったものを忘れてしまうのです。 本当に自分のものがそのレベルにあれば、よいものが出てくるはずなのですが、そうでなければ却ってダメになるのです。 きちんとプロのものをどこまでとりにいけるかということです。自分の力が1で、この音楽に入っている力が10くらいに思っておけばよいと思います。自分のを100%で1出すよりも、自分のは10分の1にしておいて、9のうちの半分の4を出した方が合計としては大きなものになります。 これは感覚や基本を勉強するうえで、とても大切なことです。自分を殺せというよりも、引き出す自分をもたなくてはいけません。

○イメージの構築と声化

 相互に聞いてみてもわかると思います。きちんと自分を大きくしていって音楽を飲み込むか、それでなければ音楽の中に自分を入れていくことです。 イメージがあるのかもしれませんが、全く声としてはとり出されていません。日本の国語の時間と同じです。それでは体もいらないし、心もいりません。むしろ小学生の方が元気に読めるかもしれません。その中に入っていくということは、そういうことではありません。 皆さんが歌詞を写すのと、自分で詞を書くのは違います。自分が実感したことでなければ、人にも伝えられません。しかし、課題のようにパッと与えられたら、そこですぐ切り替えなくてはいけません。他人のを感情移入しなくてはいけないから、役者のようにそのままの自分を出せばよいということにはならないのです。

 歌うまえのところで、それをもう少し捉えておかなくてはいけません。今はあくまで音声をつかんで、それを動かして、伝えるという表現の舞台をやっています。 今のように皆さんの頭の1%くらいで、さっとやれるようなものであれば、コンピュータと変わりません。その中で自分が感じていないもの、起きていないものを、相手に起こさせたり伝えたりすることはできません。 役者というのはこれだけの練習に何ヶ月もかけるわけですが、できたらそれを歌の中でやりたいのです。こういうセリフで全力でいっても、7割しか伝わらないのです。それを、なんとか10割にしようというのは、音楽からみたセリフの世界です。もう一度やってみましょう。同じように捉えると、同じようにしか出てきません。

○神経回路をつくる

 ヴォイストレーニングは何をやるのか、声はどう出すのか、どれが正しい声なのかというまえに、自分がたった一つのセリフでもよいし、4フレーズだけでもよいから、そこで全力で集中してやってみることです。そこで、どれだけ自分が本当に表現したいものに対して、何の要素が足らないかということを実感することです。 皆さんにこういうふうに伝えようとすると、体も集中力もテンションもかなり使います。そういう生活をずっとしていたら、ともなってくるのです。 トレーニングというのは、10年20年人間がそういうものを必要とされていたら身につくようなことを集約してやることです。 だから自分が足らないところを拡大して出すことです。クリアできていることはトレーニングする必要がないのです。 今の皆さんに望みたいことは、これをいったときに、どこか一箇所でもよいから、こちらに届いているとか、その先が聞きたくなるようなものを出すことです。それはちょっとした呼吸の入れ方とか、音色の違いとか、いろんなことで変えられるわけです。

 要は、神経を張って欲しいわけです。今までこれをやるのに、一本くらいの神経でやっていたと思うのです。こういうところに数百本の神経回路を作っていくのです。それで自分でやってみて、何か違うとか、そうやって何度もやってみることです。 全部違っていたら練習になりませんが、全部正解だったらもっと練習になりません。違うとわかるということは、自分の中で何かを求めていて待っているのです。つまり、違わなければトレーニングをする必要もなく、歌っていればよいのです。それをはっきりさせていくことです。 レッスンですから、できないことをやりにくるのです。できたことをやりにくるというのも一つの実績にはなりますが、それでもそのときに何が足らなかったかということをみていかないと、難しいと思います。【「黒いワシ」入1 00.10.4】

○独自の応用

 いつもこういう曲からどう勉強するかということを話しています。最初は何に一番重点を置くかということです。最終的には、その人がどのくらい応用できるかということに尽きるわけです。独自に応用するためには、一人勝手になってはいけない。つまり、人々と何らかの共通のところで捉えられる力がなくてはいけません。 音楽から勉強するというのは、結構、幅広く入れるわけです。 しかし、要は深さです。音楽の中に一度入って、音楽の中でもう一つ抽象化され原始化されます。その中で作られたリズムとか感覚というのは、受け入れられる人にとっては、伝わるものになります。 好き嫌いや慣れ不慣れというのは出てきますが、そういう感覚を勉強していくときには、初心に戻るためにも一度全然違うようなものをやっていった方がよいようです。

○集中力と切り替え

 レッスンで扱う曲も変わってきました。昔、一年目というのは、カンツォーネだけでした。しかも2オクターブもある大曲ばかりを使っていました。最初はまず差を痛感し声をきちんと音楽にしていこうと考えていたのです。 そこで伝わらないものというのがあって、たとえば聞く方がそういうものを聞きたいという耳をもっていない場合、必要がないという現実問題です。声がある人はそこから入ればよいと思います。残りの7割くらいはそこから落ちていく、それも個性に向き合うきっかけになります。そこで広さが必要なのです。 声というのは原理ですから、正しいものはよく出てくるし、正しくないものは出てこないし、のどを痛めたりもします。そこの部分はベースとしては必要ですから、ここにも声楽やセリフの練習などをさせています。 練習をきちんとやっていくとしても、レッスンの中で扱える限度があり、無理は禁物です。トレーニングをやって、あとは待つしかないのです。はっきりというと、集中力をつけておくこと、体力をつけておくこと、それを完全に舞台で切り替えるようにしていくということです。

○想像力

 一番大切なことは、こういう音楽を聞いたときに、自分なりに歌って、また作詞作曲も自分でやってみて、どのくらい人と違って納得させられるものがあるかということをみることです。違うだけだったら誰でもできるのです。その人の中にどれだけのパターンが入っているかということです。世界中の音楽を聞いたり、世界中のリズムを入れればよいということではありませんが、少なくともそういう中から得た方が、同じものを何度も聞くよりも勉強にはなると思います。 声のレッスンだけをやっている方が楽なのです。息と「ハイ」をやって、それで今日は出たとか、今日は出てないとか、喜んだり悲しんだりしていればよいのです。それを2年、いや10年やっても何にもならないのです。あと90年は歌のことをやらなくてはいけなくなります。それを考えたら、ある程度、線をひいて、早めに感覚の方にいった方がよいと思います。ではことばの読みからいきます。

○把握と信用

 ヴォイストレーニングというのは、歌い手だけのためだけにあるわけではありません。役者さんにも必要です。共通の目的は声を取り出すことと、伝えることです。 読みの中でも、いろんなものを安定させなくてはいけません。先月は、それを舞台と表現ということで、考えてみようということでした。たった一声出しただけでも、そこで舞台が成り立たなくてはいけないし、表現というのはそこから差異を作らなくてはいけません。それが結果として音声をもっていればよいわけです。

 そのときには自分の状態とともに、周りの状態も把握しなくてはいけません。ここは客がいるわけではありませんが、他の人はいます。自分が立っている姿勢とか、気持ちの準備、表現に対しての集中度などの問題になってきます。 「今は遥かな町」のフレーズの中でもいろんなことが起きてきます。それを認知できるかできないかということが、音楽や歌の中にも出てきます。そこでのほんの小さな乱れが、他のところを大雑把にしてしまったり、雑にしてしまいます。 そこでは、自分が自分のことの責任をもつということが大切なのです。それが信用です。その信用をきちんとやるために、真正面に向かい合わなくてはいけない。それができないとレッスンになりません。だからこそ、素直に取り組むのです。

○状態の限界と条件化

 状態のところで突き詰めて、過剰にならないと、条件のところで変わるはずがないのです。状態だけで作ったものは使えないのです。使えるということは、こう使いたいというところに対して、その状態が崩れてしまったとき、必要とされます。その必要性を強く感じることから、条件がだんだん整ってくるわけです。

 今の表現であれば、息とか体も必要ではありません。もう一度やってみましょう。 まず気持ちの問題と、その気持ちと声が一つになっていなければいけないということです。気持ちに声がついていかないのは、舞台での練習を繰り返していたら、そのうちについてきます。でも気持ちが一つにならないところで、いくら「遥かな」といっていても、それはいっただけです。 ヴォイストレーニングでも、「ハイ」というのは誰でもいえるのです。ただ、そこに何か乗ってくるように、体と心の準備をしてからやるから成果のでるトレーニングになるわけです。☆口でいっているだけならば、10年経ってもトレーニングのままで何も変わりません。

 表現として、それが応用されてしまうのは構わないのですが、自分でトレーニングの中で戻すこと、そうしないといくら大きく出してみても、体が伴わなくなってきます。 「遥かな」というフレーズがあったら、そこに限定されずに、自分の体の方に引き受けていくことです。形がつかないということは、難しいことなのです。どこで実感するのかというと、そこに体の筋肉が使われている、息が使われている、というように、その声が今は使えないかもしれなくとも、あとあと育っていく方向にしていくことです。そこでやってもいろんなことができるのです。ところが応用のところでやっているから、問題が突きつけられないのです。一度「ハイ」に戻してみましょう。

○つかむ、放つ

 ヴォイストレーニングというのはまず声が取れるためにやります。最初は声でなくても、体でも息でもよいのです。確実に取れるということをつかんでいくためにやるのです。 それはある種の感覚です。そこに迷いがあってはいけません。しかし、一度つかんだら、今度はそれを離していくことです。自分がイメージしたところに離していくのです。そのことに対していかにあまり意識しなくてもできるようになるというところがベースです。 それともう一つ音楽ということがあります。音楽というものがたくさん根っこに入っていたら、そういうふうに体が動いてくれます。歌うとか、ことばを考えるとか、意味を考えるということ以外で、すでに音楽というのは成り立ちます。

 でもセリフをいう役者から入るやり方だったら、感情移入していく、それもいずれ放つのですから、結果的には同じなのです。人間が集中してみて、繊細な神経で音を扱うのです。流れも必要なので、ダイナミックにやっていくのです。この前の課題で、それをそのまま取り出すと、こういうふうになります。不恰好な形ですが、原型が見えます。 歌に関しても、トレーニングになるのとならないものがあります。大半は簡単に歌ってしまえるからトレーニングにならないわけです。レッスンが必要とされる歌というのは、この程度のものです。 皆さんの場合は、まだ頭の計算とかこうやろうというのに対して、体が伴っていないということと、体と息での計算というのがあって、それが働くようにやらなくてはいけません。それをさらに、頭で考えていたら、余計にできなくなります。どのくらい体のところに戻せるかということが難しいです。

○総合的処理「石畳を通りすぎた」

 こういうことをやるために、呼吸と声をつかんでおかなくてはいけないということです。微妙に日本語を生かしています。こういうのを聞くと、どうしても音域と声量に目がいってしまうのでしょう。しかし、それは、本来勉強すべきところではありません。そうでないところでどう違うのかということです。 自分と同じ音域、同じ声量で出せているところで、どうしてこう違うのかということです。声量とか声がある人ほど、どこを歌っていないのかというところを聞いてください。☆どこがどういう間なのか、どうして押さえているのかというところを聞くことです。もっと出そうと思えば出せるはずです。それなのになぜ間を取っているのかでしょう。ある定点だけをきちんとつかんで、それを際立たせるために動きの中で自然とそうやっているわけです。まだ声がないとか、芯がないという場合は、イメージを読み込んでいけばよいわけです。先にイメージがあれば、声もそれに伴ってきます。

 「コインブラ愛しい 青春の日々」 

 「生きつづける」というところに膨らみをもたせて、何十にか重ねているわけです。その動きをどう作るかということなのです。 今やっているところは、そんなに声量も出していないのに、体の呼吸の流れと、その前までのポイントをついているのです。つまり音域とか、音量のところの差というのは、あまり関係がないということです。早くそういうふうに捉えるようにしてください。声量、声域がないからといって、問題があるわけではないのです。ただ、その処理の方は覚えていかなくてはいけません。腹式呼吸や呼吸法というのは、そういう中で伴っていくというふうに考えてみてください。それだけが独立してあるわけではないのです。【「美しい4月のポルトガル」1 入@ 00.12.14】


●発声練習

 今日は、発声のヒントということで話していきます。皆さんがここにきているのは、よい声になりたいとか、声を自在に操りたいということだと思うのですが、そのよい声とか、正しい発声方法を身に付けたいということが、自分の中にイメージとしてなければいけません。何が正しいのか、どれがよい声なのかという、一つの判断基準がないと難しいです。それがないと、先生から違うといわれても、何が違うのかがわかりません。 まず、最初のうちは、いったい何が正しいのかということを、自分の中に養うということが必要です。音声イメージやメンタルコンセプトといういい方もありますが、まず何が理想的な声なのかということを知ることです。ただ、理想的な声といっても、誰かの真似をするのではなく、開かれた声とはどういうことか、胸から声を出ている状態とはどういうことか、そういうことを客観的に判断する耳をつけていくということです。

 日本の音声環境はそんなによくありませんが、いろんな世界のCDを買うことはできます。一流のアーティストをたくさん聴いておくことです。一流のアーティストがどうすごいのか、どういうことをやっているのかがわからない限り、一流になれるはずがありません。そういう耳を持っていない人は、ヴォーカリストとは呼ばれないと思います。だから、いくら練習しても上達しないということになります。

 母音の練習でも、「アエイオウ」の正しい状態はどうなのか、どういう「ア」がよい「ア」なのかということを、自分の中で一つずつ確認していくことです。よい母音の状態を、純粋な母音の状態といっています。たとえば、英語の「ア」の中にもいろんな「ア」があります。「エ」と「ア」の中間や、「オ」と「ア」の中の音もあるわけです。我々日本人にはそういう感覚がないので、その差はどうでもよいと思いがちですが、それは、正しい発声ができる体の状態ができているかいないかによって、違ってくるわけです。それが発声を磨いていくときの一つの指針となっていきます。

 こういう発声練習も、最終的にどこに行き着くべきかということが大切です。機械的に声を出していてもダメです。最終的に歌声として磨いていくことを考えなくてはいけません。それを磨くためには、そこに音楽的イメージがなければダメなのです。 そういったイメージをどんどん吸収していかないと、舵のない船のように、どこに行ったらよいかわからなくなります。3、4年やっていても、そのイメージや判断基準がないために、同じところを回っている人もいます。1、2年やればどうにかなるということではないのです。発声練習とともに、耳や感性などもしっかりと磨いていかないと、最終的に自分のものにはなっていきません。

 個人レッスンなどで、先生からアドバイスを受けたとしても、その認識の仕方が違ってしまうと、先生のいっている意味がわからなくなるのです。音声に対するイメージが共有できなくては、いくら個人レッスンを受けても、身にはついていきません。まずその音声イメージをもてるようにしてください。そのためには、一流のヴォーカリストから学んでいって欲しいと思います。そして、自分なりにイメージをメモしていってください。よいとか悪いということは必要ありません。自分なりに素直に感じたことを書いてください。

 こういったものに対して、自分に共通するものとそうでないものとの違いに敏感にならなければいけません。他にもいろんな優れたアーティストがいます。そういう人たちから学んでいってください。軽いストレッチ運動理想的な姿勢息吐き、息のキープ  呼吸は、できるだけ長く深く吐けるようにしてください。歌に使う息は、どちらかというと深い息です。その息のキープをまず30秒くらいできることが目標です。母音練習「アエイオウ」 普段話しているところより、少し低いところから始めて、だんだんと上げていってください。「ラ」の練習は、普段「RA」でやっていると思います。「L」の発音は、舌を歯の裏にしっかりとくっつけてやるのに対し、「R」の発音では、舌は歯につきません。頭に小さい「ウ」を意識して発音すると、だいたい英語のRに近い音になります。

 ヴォイストレーニングの場合、「RA」は「LA」よりも少し暗い音になりますから、基本的に、練習は明るい「LA」の方でやります。それによって、「ア」の音も明るくなるのです。その状態をキープしてやってください。 発声を妨げる要因というのは、いくつかあるのですが、その一つは舌が硬くなってしまうことです。悪い状態というのは、舌が盛りあがってしまう状態です。盛りあがれば盛りあがるほど、のどが圧迫されて、声が前に飛ばなくなってしまうのです。理想的な状態というのは、舌が平らになる状態です。それは鏡を使って確認するとよいと思います。意識しすぎると、余計に舌が硬くなることもありますから、そこは注意してください。舌のストレッチ 今の「ラ」をイメージしてやってください。

 「ラララララ」「ラレリロルルロロラ」

 では、一人ずつやっていきます。他人のを聞いてみて、その状態がどうなのかを判断できるようにしてください。自分ができることよりも、まず聞くことができることが大切です。人のものを客観的に聞くときには、それを自分に移しかえられるようにしてください。そうやって自分の状態を知ることができるようになります。 まずは自分の中に理想的な声などのイメージがなければいけないので、その自分の判断基準を築きあげていってください。自分の声だけを聞いていくと、あたかもそれが正しいように思ってしまいます。そうすると、マンネリになってしまい、そこから抜けられなくなります。それを脱却するためには、他人のものをしっかりと聞ける耳を持つことです。【トレーナー特別1 入@ 01.3.18】


<Q&A>

Q.歌にことばは大切か。

 はっきりというと、音楽で伝えるのにことばは必要ありません。ことばが聞こえなくても、ピアノもトランペットも音で伝えることはできます。ただそれは、そういう言い方をしたらそうなるということで、ことばだけで伝える人もいます。歌は、言葉があるから楽器に勝るところもあいます。 だから、何をもって音楽というのか、何をもってことばというのかという、あなたがあなた自身の歌について定義づけをして決めてください。

Q.音感をよくしたい。

 音感とかリズムを磨こうと思っても、それは入れていくしかないのです。入ってくるための一つのトレーニングとして、教材を使ったりもしています。量をやることによって質を高めるということを目標にしてやっています。使い方によっては、効率的です。リズム感も音感も、一つの呼吸の中で動いているということです。

●Q.ここに他のスクールからきた人は?

 たくさんいます、他の人のこととか、みんなはどういう方向かとか、あまり、関係ないことです。私は声で判断するのでキャリアは関係ありません。誰がどう学んでいても、それと違うやり方でやれることもあるということです。むしろそのことを自分で作っていくことの方が大切です。誰かのやり方を真似したら、早く進むかもしれませんが、誰かの10倍くらいやったら2倍くらいは身につくというくらいに考えておかないと、大体挫折します。 いろんな人が他の学校を回ってからここに来ます。大して何も身についていません。それは必ずしも先生が悪いのではなく、学び方も悪いのです。その先生と同じレベル以上にいっていないのですから。学べることはもっとたくさんあったはずです。ほとんどの人が学び方が悪かったのです。だから私は学び方の本を書きました。どのような方法でというのがあるわけではないのです。

 理論や理屈は必要ではないのです。でもなぜ研究所でも毎月、会報を作っているのは、あまりに単純で、あまりにシンプルなことを続けてやるために、理屈とかポリシーとかがいるからです。 息を吐くトレーニングを3年続けてやれる人というのは、ほとんどいないと思います。それはもうその人の意識の問題です。誰でもできることをやらない、そのために学校があるということであれば、学校でやっていることは何も成り立たないのです☆。 当初、私が研究所を作ったときに考えていたのは、絶対に一人ではできないこと、絶対に時間をかけて、どこかでやらなければできないことだけをやろうと思っていました。今はそういうわけにもいかなくなっています。

 理論も、発声もヴォイストレーニングもいらないのです。そこまで一回戻ることです。バンドやりたいとか、歌がやりたかったら、好きなようにやればよい。やってできなくて悔しかったら、トレーニングをすればよいのです。 どこかに習いに行って、年月が経ったら声がよくなって、歌がよくなったら通用するということは、ありません。それは目的が違うのです。声が出たら歌が歌えるということはないし、歌えたら、やれるわけではない。歌が歌うのに、声が使えたらよりよいというだけです。

 歌がうまいからといって、何かができるのではないです。 今の世の中は、実際に歌がうまい人ばかりが歌手をやっているわけではありません。 現実をきちんとみることです。何かをやれる人が、歌がうまかったり、声が出たら、その活動を大きくできることもあります。その何かの方をみた方がよいと思います。 早く上達したいという人には、カラオケ教室にいってください。一生やったからといって、先生レベルにもなろないのはなぜでしょう。それは教えというより、学び方が悪いのです。そんなところに行かなくても、10年くらいやれば、その先生よりもうまくなる方法はいくらでもあるのです。

Q.私におけるオリジナルとは。

 オリジナルというのは、私の本の中で使っている声、ヴォイストレーニングに関していうのなら、その人の体の原理から正しく出されたものです。楽器なら、一番共鳴する音、何も邪魔しないで共鳴する音、そういうところが働いて鳴っている音をオリジナルといっています。自分で考えて勝手に作った音ではありません。

Q.低い声が好きで苦手だが、低い声も伸ばせるのか。

 低い声というのは、高い声に比べて、その人の体型など、個人的な音質がより関係してきます。もし人前でやるとしたら、低い声が出したくても、それが必要なかったり、人に不快を与えるのであれば、使わないことです。聞いている人にとっては、大して関係ない。 自分が好きだと思っていても、他の声域でやる方が周りが感動するならば、そっちを選ぶべきです。そういうことも総合的に判断しなくてはいけません。人間の楽器の限界というのもありますがやってみなくてはわかりません。

Q.自分で判断するのが不安。

 最終的には自分で判断するしかないのです。その力をレッスンでつけるのです。 トレーナーが判断していても、歌というのは自分が決めたとおりにしか出てきません。どんなに周りでそうでないといわれていても、自分が正しいと思ったら、そこまでやればよいのです。人の判断に任せていくと、自分の歌ではなくなってしまいます。

 不安なのは、練習を誰よりもやっていないからです。日本で一番練習をすれば、誰にも聞こうとも思わなくなります。世界中の人に問おうと思います。 しかし、うまくなればなるほど、不安になっていくはずです。うまくなっていくということは、きちんと基準ができてくるということですから、足らないことがわかるし、迷いも出てきます。

 よく不安や迷いを切るために研究所にくる人がいるのですが、私は逆だと思います。自分で好きにやっていたら、迷いも不安もなく、好きに一人よがりで歌っていてよいのです。でもこういうところにきたら、それを全部自分で引き受けることになる。 自分が楽に歌いたいのであれば、カラオケ教室などにいった方がよい。ここでやっていることというのは、舞台での表現で通じるものということです、その人が生きて、リスクを抱え、味わった全てを歌の中に入れていく。そうでなければ、お客さんの前で歌う資格はありません。そういうことを背負わないで、楽しく歌いたいのであれば、趣味でやっていればよいのです。

Q.のどがすぐ疲れる。

 本当にトレーニングを真剣にやろうとしたら、無駄口は、しないはずです。本当にのどを大切にしようと思い、のどをセーブします。何かを真剣にやっているときは、そんなに間違いは起こさないのです。 ヴォイストレーニングでやっていけないことは、ダラダラと緊張感なくやることです。勘を磨いていかなくてはいけない場所で、ダラダラとやっていては、鈍ってしまいます。だからのどもおかしくなってしまうわけです。カラオケなどでは調子にのるのでよくのどを痛めます。

Q.自分の声の質を変えられるか。

 口頭では答えられませんその必要性があるかないかということは、簡単にはいえません。誰かに真似て作っていくことはできます。 今の業界では、音響技術が発達したことで、ほとんどのことが可能になりました。ポップスというのは、最新の技術を使っていくことですから、音質も音量も変えられます。今の歌手には、声量も必要ないし、ことばが聞こえなくても成り立つ、これも音響技術の発達のおかげです。 昔の歌手は、声量があり、ことばがきこえなければ歌手にはなれませんでした。今や、トータルアレンジ力、見せ方も全てを含めて実力です。

Q.よい声になれば、よいヴォーカリストになれるのか。

 歌は応用なのです。よいヴォーカリストということと、よい声というのは違います。録音が古くて、声の線が見えやすいもので。よいヴォーカル像というのがあるわけではないのですが、声としてみる、曲としてみてみるとか、いろんな見方で力をつけていきます。人に感動を与える声というのも、人によって感じ方が違うはずです。よい声になる声のより使い方をするのも、一つの入り口です。

Q.個性をどのように出せばよいのか。

 個性は出そうと思って出るわけではないのです。だれでも出してしまうのです。演出して出てくる個性というのは、ずっとは使えません。私がいう個性というのは、人前に出て、商品として価値になるところの個性です。その判断を抜かして個性があるというなら、全員です。誰にもないとはいえません。業界向けの個性というのが、あって、それに近ければうまくいくこともあると思いますが、それもおかしな話です。

Q.楽しめてできる練習法は?

 それは本人の心の持ち方次第です。何事も自分がおもしろくできる能力がなかったら、どんなことも楽しめないと思います。私が楽しいと思っているのは、何であれ自分が才能を発揮し、クリエイティブな感覚で常に新しいことを創れるものです。そうでない分野もありますが、どこでもそういうことができないと、練習も、歌も楽しめないと思います。まずは、志の問題だと思います。 楽ということと、手間をかけるということは違います、何かを創っていくということは、手間をかけるということです。手間をかけることが嫌だったら、辞めればよいのです。私も嫌なときもありますが、それが人生だと思ってやっています。自分がどう思えるかです。

 例えば、自分にイマジネーションがあって、このことができたら、こんなにすごいことができると思ったら、やっていても楽しいと思うのです。 そういうイマジネーションがない人は、どこにいっても楽しくないでしょう。だから辞めてしまう。最初は基本をやりたいと思ってくるのに、ほとんどつまらないといって、辞めてしまう。でも本当に力がつくところは、基本の部分なのです。誰もが諦めてしまうから、やった人だけが力がつくのです。

Q.好きならプロになれるのか。

 ヴォーカルというのは、わかりにくいのですが、それを人前に出して、活動を続けていくということは、漁師をやっていくことと同じです。でもほとんどの人が海が好きということでくるのです。海が好きなことと、猟師をやって食べていくことが全く違うのです。漁師も海が嫌いではないでしょうが、そんなことを聞いていません、少々天候が悪くても、体調が悪くても漁に出なくてはいけないのです。

Q.一流のアーティストは誰か教えて欲しい。

 誰かに教えてもらうことではなく、自分がそう思えば、その人がよいのです。アーティストやヴォーカリストというのは、みんな応用されたところで、作品なり、歌を創っている。 お客さんの好き嫌いで判断されます。レコードが売れている人が一流だと思う人もいるだろうし、ステージがよい人が一流だという人もいるかもしれません。 例えば、マイルスデイビスは、一流アーティストだといわれています。誰もが聴いたからといって、感動するわけではない。だからアーティストなのです。 要は特定の深く、その作品を考えるファンがいたらよいのです。全世界に理解されようとする必要はありません。

Q.どう一流の作品に学ぶのか。

 その時期、その人が学んでいくために必要なアーティストというのもいます。でも誰でも同じではありません。最初からアレサフランクリンやサラヴォーンから勉強できるとは思いません。少しはわかるものから徐々に選んで聞いていくことです。 でもできたて始めから自分がわけのわからないが評価されている人を入れていくことです。 今の時代は、目は肥えていますが、耳で聞く力が足りません。たくさん聞いていく中で、何が優れていてどこがよいのかということもわかってくると思います。【京都講演会 01.01.21】

●講演会の目的

 皆さんから質問があればできるだけ答えていきます。入所希望の方には、必ずこの講演会に参加してもらっています。 それはできることとできないことがあるからです。 どこかのスクールのように、誰でも引き受けて、何でもできるようになる、全員プロにしますなどというようなことはありえません。あらゆる声が誰にでも出せるように、お約束もしません。 研究所のスタンス私たちが、、ここでやっていることをできるだけ伝え、それで皆さんに判断してもらいたいと思います。もちろん同時にこちらも判断しているのです。

●Q.自分はスロータイプなのですが、レッスンにはついていけますか?

 私に関しては、すべてのレッスンが一回で完結です。 トレーニングでやっていくということは、そういうことです。ただ、ここはそれに自分で気づいてみたり、自分に汲みこんでいく機会の場所でもあります。そういう意味では、気にする必要はありません。こちらは気にしていないのですが、本人が気にする場合があるようです。レッスンについていくのでなく、レッスンの先をみていてください☆。

●Q.成功している人、挫折している人、どんな割合ですか?

 これはわかりません。人を見て、誰は成功した、誰は挫折したということを何で判断するのでしょう。今、ここを出てポルトガルとか、ニューヨークにいっている人がいます。その人たちが挫折しているのかといえるのですか。これは死ぬときでもわからないと思います。また、他人のことは、どうでもよいでしょう。 自分が辞めてしまったらそれは挫折かもしれませんが、他の世界できちんとやれるのであれば、それは逆に自分に合うものがみつかったのだからよかったのです。1、2年という勝負で考えずに、長い目で見ていけば、そういうことはわかりません。(才能との出会い) たまたま天才がここにいたとしても、そんなことは人生の中の何分の1に過ぎません。人間の中の歌というものは、そういうもので、こういうところで限定されるものではないのです。

 ここに入ったからといって、必ずしも私と出会えて、よいレッスンができるということはない。もしかしたら、いつかお互いのことをどこかで話しているときが、一番のレッスンということもある。私たちでなく、おたがいの才能が出会えなくては、なんともなりません。 誰でも、時間が区切られて、お金も払っているから、上達する気になるのです。でも、その人が何かを出せない限り、レッスンもまた準備期間にしかならない。その人の発することば、音とか声にこちらが気付かされ、聞いてよかったと思えて初めて出会うのです。

●Q.ここでピアノやギターを習うことは可能ですか?

 私は総合スクール化をさせたくない。他のところでできることと他の専門家がすぐれていることはよそでやる。 昔は本当に声のことしかやっていなかったのです。今は音程、リズム、楽典、まで置いています。ピアノも習えます、本当は全て、専門業者に任せたいのです。 ただ、他のところにいったら、お金も時間もかかるということで、置いています。 音楽基礎は、歌をやるときに、発音が悪いと困るということで、そこの部分の接点ではやっているのですが、基本的にはあまり広げたくはない。中途半端にやるのでなければ、その専門の優れた人に習う方がよいと思います。

●Q.スクールでは、何年で、ものになるのか?

 例えば、そこに10年もいたら、ある程度、大きな影響は受けると思います。しかし、1、2年の影響なら、大して変わってはいないものと思います。 それぞれの進路ということでは、声優、役者などは事務所との力関係になります。声優になりたいのであれば、事務所に所属することです。どんなに力がついても、仕事が入ってくるコネクションがなければ仕方がない。 ここではわけています。私の人脈は、ここには、あまり、もちこんでいません。 他の学校からも話もきますが、そういう学校の場合は、デビューさせようと思っている人をいれて、広告塔に使う。ここはそういうことはやらない。

 日本の業界では、トレーナーもプロダクションの専属にしたがる。専属されるということは、もっと他に私を必要とする人を見られなくなります。こちらはどこに所属しているから見たいわけではなく、こちらの能力を必要としている人を見たいのです。 はっきりいうと、芸ごとはものにできない人にとってみれば、時間とお金の浪費になります。もちろん他にも何もないなら、やってみるのはとてもよいことです。 スクールに通ったから何とかなる、そういうセイフティと思う感覚がおかしいのです。 どこかに行ったら、自分は何かなるだろうと思っても、何ともなりません。 一人でやっているヴォーカルはたくさんいる、巷で歌っている人たちが8時間やっていたら、ここで30分やっているからといって、それで何かになれるわけがない。

 他人依存になってはいけないのです。スクールというのは、いつも、大丈夫ということをいう。 もしその人を本当に成長させるのであれば、うちにきたからお前は危ないと、友人とそこから始まらないといけません。きちんと負けてからやりださないと、下手すると中でやれている気になる。そうであれば、もう自分でやればよいのです。

 今度、音楽の友社から「自分の歌を歌おう」という本を頼まれています、その主旨は、人に教わっても世に出れないということです。その弊害を提唱する以上、自分のところではどうなのかということになるでしょうでも私は、世の中でやれる人とやってきたし、ここではそのための力をつけさせていると思っています。 でも本当は、昔からここは教えません。使い切るところだとずっといってきたのです。 たまたま私がいろんな材料になるものをもって、自分自身で勉強していることを開放している、共同組合みたいなところだといってきたのです。それを私なみの勉強もせず結果だけとろうとしても、無理な話です。

●Q.歌や声をある期間、真剣に勉強したい。専門学校とか他の学校の方に通った方がよいのか、迷っている。

 学校では学べないことで、ここで学べることもあります。必要な要素があって、何が足らないか、そこの部分だけだったら、ここでもできます。それはあなたの考えしだいだと思います。 今はここも10代から入れています。入るときに親に、声や歌は2年では身につかないといっています。キャリアのある人を見たり、他の人の歌を聞いたりすることのも勉強です。 まず体からやるということです。音大に入るくらいの音楽的な基礎は10代でやっておいた方がよいといっています。そんなことをやっても大して何にもならないということを知るために、やってみる必要が、あると思います。 でもスポーツをやっているのであれば、そちらの方を頑張っていた方が、あとから歌を歌うときに役に立つのではないでしょうか。

 日本の業界は、年齢制限など平気で打ち出しています。海外では歌がうまければ関係ありません。そういうところに合わせようとするなら、オーディションを受けまくっていないと、資格がなくなってしまいます。 ここはそんなことには合わせていません。 年齢をもとに歌を考えるということはおかしなことなのです。変えられないことは変えられません。声や声帯のことを年齢でデメリットだと思うのであれば、やめた方がよい。やっていく人はそんなことは考えていません。 専門学校も、まわってみればよい。スクールや教室などよりも、カルチャーセンターの方が。安いとよい先生がいます。そこを回って、それで足らないと思ったら、やればよい。 そこにくる人に、先生の能力の5%くらいしか使われていない。それを100%引き出せる能力が、生徒や場にあればよいと思うのですが。

●Q.ゴスペルとポップスを歌っている人の聞こえ方が違うのですが、基本的な声の出し方は同じなのですか?

 声の出し方も使っている声も違うでしょう。しかし、ジャンルによってというわけでもない。 歌の中で唯一定められているのは、基準音の音高だけです。声量もどこまで必要かということはないのです。今は音響が進歩して、音の操作ができるようになってきました。 そのため、トレーナーや、学校の考え方や基準と現実とがずれています。 現場では、高い音や、大きな声がでるようなことは求められていません。もちろん、それをとりえとするボーカルは別ですが。

 今の正解としては、高い音や声量を出したければ音響さんに頼むことです。 ポップスの世界は最新の技術を使うのです。昔のやり方でやるというのは、ずれている。そういうことは考えなくてもよい時代になってきました。 しかし、全ては常にどこまで繊細な神経で声をコントロールするか、そこに表現をきちんといれていくかということです。 これに関しては、声楽の一人者であろうが、ポップスの歌い手であろうが変わらないのです。役者も今は変わってきました。ただ、トレーニングの基本として、伸びるところは伸ばしなさいというのがスタンスです。

●Q.プロ意識をもっていない人の受入れはしていますか?

 プロとアマチュアの区別はしていません。プロ意識を持ちなさいといっているのは、効果が違ってくるからです、スキーで趣味でやっているのと、オリンピックに出たいと思っているのとではどうでしょう。意識が高ければ、1、2年でも、よくなるのに、低いとそうならない。何事も大きく目的を持った方がよいという意味でのプロ意識ということです。 ここに来ている人は、プロであってもアマチュアであっても、私に働きかける、あるいは私が他の人に対してそう思える声や歌や作品が出ればよし、ということです。

 こういう仕事は、知らないところにいって、自分を知らない人の前で、そういう人に働きかけるということです。そのときにプロとかアマチュアとかの区別があるのではない。 少なくともそこにいる人を、楽しませ、何かを与えられるのかということです。その使命感とか、責任感の部分で、変わっていくのです。 歌とか音楽というのは、力があれば、より多くの人を動かせられる。無限の大きな可能性があるものです。 身内の中でやるコンサートでも、時間を使うのであれば、それなりのものを得ましょうということです。 それにヴォイストレーニングが必要であればやればよいし、必要がなければやる必要はない。そのことを探りに来ているなら、プロというのは一体どういうものなのかを知りましょう。

Q.「体作り」という部分で、日頃の生活の姿勢、歩き方なども関係してきますか?

 音楽と歌の中で説明しにくいことは、スポーツで説明しています、例えば、プロの選手がここにきて、歩き方や姿勢が悪くても、関係がない。ただ、体づくりというのは、かなりやっているでしょう。また、他のことを習得する能力も普通の人よりもあるはずです。 歩き方や姿勢というのは、その人の意識で変わってくることです。本人がそのことを意識すると、変わってくるでしょう。 例えば、今日の講演を聞いたあとで映画を見ると、声や息のことに気がいくでしょう。そういうことは、できていくプロセスにおいて、日常的に関わってくることでしょう。 声を出すことや体づくりに痛みなどが伴うこと、あるいは自分の中にそういう悪いイメージがある場合、声を出すまえに改善しておかないと、自分で不快に感じると、そのこと自体が嫌になってしまう可能性があります。

Q.風邪をひいたときの練習について。

 風邪をひいたときは、声帯が微妙な状態になっていますから、酷使しないことです。 風邪のひきはじめに、声が出やすいという人もいます。これは、お酒を飲んだときに声がよく出るというのと同じです。 それは練習を少しやったあとのような、のどの充血状態になるからです。決して安全な状態ではありません。声が出やすいときというのは、のどが危ないときです。声帯がそういうことを知らせているのです。

Q.疲れたら休んでよいのか。

 疲れているからといって、休んでばかりいても、それでは練習になりません。そこを見分けるのはが難しいです。経験がいります。 必ず何時間の練習が必要だということではない。練習の難しいところは、何を練習と考えるかということです。それによって、メニュも時間も変わる。 ピアノとかバイオリンの場合は、それに触っているときが練習時間です。ヴォーカルの場合はしゃべっているときや息をしているときものどが使われている。その時間をどう使うかということが大切です。

Q.将来的には、作詞作曲もしたい。

 いつかといっていたら、きりがないのです。例えば、作詞をしたいというのであれば、今からやればよい。歌でも、作詞でも作曲でも、難しいことではない。難しい人に教わるから難しくなる。つくるのは簡単、ヒットさせるのが難しいだけです。 今日から10個ずつ詩を作りましょう、1年経ったら3650個になるはず。そのうちの3500個くらいは自分でも嫌だと思うでしょう、そうしたら残りは100個くらいしかない、それで5年続けたら、力がついています。それをやらない限りは何もできません。 どこかで何年勉強しても、一週間に一個くらい詩を作っていても、たぶんダメです。やれた人というのは、そういうことを量としてやってきているのです。今日から作ることです。よいものを作ろうと思うから難しい。まず書きださなくては、将来というのはありません。

Q.人と話していて白熱してくると、キンキン声になってのどが疲れてくるのですが。

 自分でそれを知っているなら使い分けをすればよいでしょう。ペース配分の問題です。

Q.のどを鍛えるには。

 ヴォイストレーニングやヴォーカルを始めたときに、しゃべっているところでののどのロスは、練習の邪魔になります。 例えば、声のことを本当に真剣にやろうと思ったら、ロビーや電話で必要以上の話をするなということです。声に神経質にならない限り、そうやっている人にはかないません。 カラオケでも、歌っているときに、のどをやられるのではありません。酒を飲んで、空気の悪いところで大声でしゃべっているからです。 そういうことをきちんと見れば、何が練習であって、何が練習でないかということがわかる。 自分が練習だと思っていることが、練習を妨げている場合もあります☆。  同じ問題を、ここでは本音でいっています。ストレスをためてもよいから、変われということです。 要は、自分の中で何を優先するかということです。 一般の日本人なら、しゃべっていることがトレーニングになるということはありません。 トレーニングで唯一やってはいけないことは、いい加減な気持ちとか、テンションの低いところでやることです。それならトレーニングをやらない方がよいです。

 一番大きな誤りは、急ぐことと、テンションの低いところでトレーニングをやることです。それを除けば、自然に声も出て、歌もうまくなってくるのです。こういう世界に入ってしまったら、周りが見えなくなってしまいがちです。 今まで何か体で習得したという経験があれば、そのときの悪かったこと、よかったことをきちんと自分で整理してみることです。そのときにこうしたらもっとよかったのではないか、あれはやらない方がよかった、でもあのときはああいうことをやっていたということがあれば、それが一番わかりやすいのです。音楽とか歌よりも、よほどわかりやすいものです。 武道やスポーツなどでは、できた、できていないということが、もう少し、はっきりとわかります。試合の中で隙があったり、油断していたり、テンションが低いだけで相手に倒されてしまいます。そういうものと歌も似ているところがあるのですが、歌を軽く捉えている人も多いです。

 あまり声にすることばかりを考える必要はないのです。息をマイクが拾っていたらそれでよい。日本人の場合、歌をすごく難しく、声にすることばかりを考えているからです。声が少しでも息になったら、発音とか、響きが悪いとなるのですが、トレーニングでは、そうでも、私などでは必ずしもそういうことではないのです。 皆さんは声を出すことがレーニングだと思っているのですが、声を出すことは、練習の一つです。声を出さなくてもやれる練習がいくらでもあるのです。 声を出す練習というのは、30分くらいでよい。そこでのすぐれた1、2分がなかなか出てこない。だから、60分くらいやると思えばよいのです。それを何時間もやっていたら、声の状態が悪くなります。 のどの鍛え方ついては、危険を伴う人もいるの文章では述べられません。

●Q.他のスクールにない、オリジナルなレッスンがありますか?

 すべて異なると思います、それは学校と養成所の違いだと思うのです。要は1ヶ月、2ヶ月で成果をあげるなら、誉めて、教えて、指摘してあげる。そういうことが実力を伸ばすように、先生方は思っているのです。それでは本当のものを殺しかねません。

 ある劇団では、、福島さんはすぐに教えないからよいといわれました。最初から教えてしまうと、それをやっていればよいというように、寄りかかられる姿勢を作るのです。さらに、目的や状況の把握もなく、一方的なやり方のみ押し付けることになりがちです。 ここでも、どうぞ入ってくださいといわないのは、結局、よくよく判断してもらいたいからです。その責任をスクール、学校、トレーナーに押し付けている限り、自分は伸びないということです。責任逃れをしているわけではありません。どこでもそういう人が多いからです。 ここでは、ここでしかできないレッスンをやりたいと思って、やっているのです。 だから、教えるのがうまい人ではなくて、きちんとやれる人を置いています。 あとで講演会の感想を見てびっくりすることがあります。声について実際に出して欲しい。では私は何をしていたのでしょう。ほかはメソッドにも書いてあることなのです。

Q.理論の必要性とは。

 理論ということは、トレーニングでの習得とはあまり関係がないのです。本を渡したり、活字になするのは、レッスンではできるだけ音に反応することと創造に集中したいからです。
 でも最初の1年くらいは、レッスンの目的と捉え方を述べています。それが要望されるときは、説明しています。 例えば、トレーニングで息を3年間は、吐きなさいといっても、誰もやらないでしょう。ただ、そこに理論があって、そうやったらこうなると知ると、もう少し続ける気になる。これが、理論の必要性です。大体、理論というのは、人に説明するときにできてくるのです。偶発的に起きていることが、人に話すときにはストーリーをつけないと、相手が聞いても理解できないから、筋を立ててそこからみてみる、すると、自然とつじつまが合ってくるのです。学術の世界も同じだと思います。だから自分が好きな理論を作ればよいし、個人のビジョンによって変わってくることもあるのは当然です。

Q.料金について

 時間とお金があれば、通ったら、何とかなると思うから、よくない。世の中の暇な人と金持ちがヴォーカルになれるのではない。そんなものでないから価値がある。 例えば、こういう講演を無料にすると、多くの人はくる。時間が長くて嫌、途中で眠くなったと、という人がくると周りにも迷惑をかけてしまいます。安いからいくという人はおかしい、安いわりにはよいというなら、まだよい。
 劇団のワークショップであればたくさんくる。昔は、自己投資しなければいけない代わりに、それをものにするという感覚があった。 講演会でも、500円で5000円とでは、来る人の雰囲気、気迫が違うでしょう。今は、こちらが客を選びたいということです。

●Q.トレーナーと練習をするメリットは本人次第で享受できるということですか?

 何事もとれるかどうかというのは、本当に当人次第です。また、先生との相性もあります。 ここも私一人ではなく複数でやっているのは、どこかでフォローされていたり、ここで育った人が教えた方がわかりやすい場合もあるからです。 会報でも、研究生でレッスン感想や情報を共有し、トレーナーだけではなく、研究生同士からも学べるようにしています。 会報には、授業で気づいたことやライブの感想が載っています。ここはそういうものを毎回提出してもらい毎月出しています。地方から月に一回しかこれない人もいます、一回のレッスンで、あとは会報、レポートで補っています。 活字で説明できることは渡して、読んでわかることはレッスンでやりたくないのです。レッスンではもっと大切なことをやらなくてはいけません。 カルチャー教室では、こういうものを順番にやって述べていく。

 でも最初に渡しておけば、有能ですぐにできてしまう人もいるかもしれない。平均的なレベルとか、できない人に合わせるがために、有能な人を殺してしまったら何の意味もない☆。そこがスクールと違います。 人を伸ばすということはそういうことです。 できない人ほど、周りができないと安心してしまうのです。トレーナーは最良かつ最も厳しい客であらねばならないと思っています。 集団の中で自分を知っていくということも必要です。だから先生とのマンツーマンのレッスンだけが一番よいとは、思っていません。まず最初は自分を知らなくては仕方がない。それは集団の中に自分を投げ出すのも一つの方法です。 全ては、集団の前にパッと出て、自分が何ができるのかということが問われるのです。周りが何を自分に求め、何に応えていけるかということを体験しましょう。

 自分が思っている歌、これが気持ちがよいと思っても、それは当人だけの話です。それでは何も起こしていけません。起こす実績を積んでいかなくてはいく。 今それをやれているのは、演劇の養成所くらいです。昔はスポーツをやるというよりも劇団の養成所に先にいきなさいといいました。今は劇団も声がいい加減になってきましたから、あまり勧めてはいません。Q.体が硬いのですが、影響はありますか? 体操などからやっていけばよいと思います。体力作りと体の柔軟は基本です。ただ、歌い手がみんな体が柔らかいかというと、必ずしもそうではありません、でもできないよりも何でもやった方がよい。全身で感覚してその感覚を声に出していく仕事である以上、体の硬さは、改良していくのはよいと思います。

Q.マイクを通さない声に自信がもてない。

 日本人はあまり声そのものは聞いていません。むしろその中に何が入っているかということです。ヴォイストレーニングも、声にすべてをもっていかなくてもよい。自分の声と使い方を知ることです☆。 伝わるかということでいうと、その人から気が出ているか、という、ベースの問題になってくるのです。 声に問題があるといってくる人でも、あまり声自身には問題がないことも多いのです。 伝わらないということは、大半は内容がないのか、伝える強い意志がないのかです。その両方をやればよい。日本の中では、それ以上声に問われているものは大してありません。

Q.人生経験が声に反映されるのを見抜いておられるのですか?

 それは声だけではないと思います。顔つきとか姿勢とか、いろんなものを踏まえると、わかります。それも説得力としてステージングの大きな武器にはなります。 その人間がおもしろいか、おもしろくないか、何かを伝えることができる人間かどうかということは、アマチュアの人では、芸の始まる前にも大体わかります。 でも歌い手の場合は、歌い出したら一変するような場合もあります。楽器の世界でもそういう人が多いです。 人前に出たらしゃべれないし、顔を上げるのも苦手なのに、楽器ではすごい演奏をする人もいます。こういう世界で一流になる人もコンプレックスの裏返しでやっている場合が多いのです。

 あまり人間性とかは関係ない。一流の人がいつも人付き合いがよくて、ニコニコしているかというと、かなり余裕ができてからでしょう。若いときは狂気の中でやっている。それは作品で問うのです。その人の人格とか、教養とか、人間性で問うのではない。 芸術というものは全精神が出るのだというのですが、それは次のレベルです。何か作り終えたあとのつみ重ねだからです。最初から丸く無難にやっていると、大体何も出てこなくなります。社会経験、人生経験などと考えてみても仕方がないでしょう。恐れず行動してください。

Q.練習内容は自分で決めていってもよいのでしょうか?

 基本的には、自分で決めていくのでよいと思います。自分が主体的に取り組んでいきます。その練習内容を組み替えたり、よりよくするための基準を知るために、レッスンを使っていくということです。 多くの人が練習というのは一つだと思っているのですが、そんなことはないのです。その人の中で、歌のレベルに応じた練習の方法が開発されてこなくてはいけないということです。 歌のノウハウや、テクニックをもっているということは、それを支えるだけの練習方法があり、練習の対応ができるということなのです。 その能力を自分でつけていくことです。メニュは最初に全部渡してます。そんなものを全部やっても仕方がない、それを参考に自分のものを作る、叩き台として使っていくことです。そのつくり方をレッスンで学ぶのです。

Q.オリジナリティを身につけるのは、基本的なヴォイストレーニングをやってからの方がよいのでしょうか?

 皆さんが考えられているように、経験年数コースとか、回数で動いていくものではないのです。オリジナリティはどのくらいレッスンに出たら身につくのかというほど、おかしな質問はないでしょう。 問われることは人前でやるということです。作品の価値自体が誰かに受け入れられなくてはいけないのです。すべての人たちに同じように評価されなくてもよい。そういう中で自分が勝負できるものをどうやって出していくかということになってきます。本当にきちんとした練習というのは、そのまま、常にオリジナリティの問題になってくるのです。

Q.自分が気持ちよいように歌ったらよいのではないか☆。

 質問の意図はなんでしょうか。気持ちよく歌ったらよいでしょう。 歌えますか? 気持ちよいとはどういうことですか? 山で声を出したら誰でもとはいいませんが、気持ちよいですよね。そうすればよいのではないでしょうか。 自分の好きなように詩をつくればよいではないか。その通りです。つくっている人もたくさんいます。 つくるのが難しいから習うのですか? つくるのは難しくない。プロとなるのは、プロとして続けるのが難しいのです。 楽しくやれたらよい。じゃあ、やってくださいな。やれますか? それは技術がないから? いえ、技術があったら、もっと楽しくやれませんよ。 朝野球の人は楽しんでますね。でも、全くうまくなくて、人の足をひっぱるだけじゃ、活躍できる人より楽しくないでしょう。 プロは大変ですか? でもリーグで優勝したら、本当に楽しそうですね。

 彼らに野球は楽しいでしょうか? 成績で年俸もかわる。努力したからってうまくいくとは限らない。だからうまくいったら楽しいのではないですか。 すぐれた人が朝野球じゃなく、プロにいくのはなぜですか。 朝野球の方が活躍できるのに。向上心があり、より多くの人を観客として魅了できる場と才能ある人が必要だからでしょう。 もっと自分をおもしろくできる人がいるから。自分一人じゃつまらないというか、何もできないでしょう。だって、すぐれたことができたら、人を楽しませたいじゃないですか。 以前、私に本をつくるのは、抜き出してまとめたらよいから、歌い手より楽ですねと言った人がいた。トレーナーになりたい人だったので、じゃあ、あなたが出したらよいじゃないですかといったら、書けないんですと。 少なくともこういうことは、私も書いたのですが、あんたのよりよくできているともってくることでしょう、もし私が本当にそう思ったら、どこも出版させてあげる。たぶんよくできていても、出版社は、これは抜き出しだからムリですねというでしょう。そしたら一つ勉強できるのにと思う。 その人は考え方が変わらないとムリ。つまり、やらない人にやっている世界はわからない。こちらには向こうはみえるが、向こうにはこちらがみえない、ということさえわからない。【説明会1 01.2.17】


<研究生投稿より>

★【日本のオペラ歌手】

 日本人のオペラ歌手、もちろんごく一部ですが、その人たちの声は欧米レベルに匹敵するといっても過言ではないと思っています。特に際立って目立つ二人の歌手、中島康晴さんと島村武男さんです。中島さんは今年30歳というまだ若きテノールで、島村さんは60歳という現役バリバリのヴェルディバリトン、そして日本人初のワーグナー歌いのドラマティックバリトンです。この二人の出現により、海外からの日本人の見方は変わったと思っています。僕は、中島さんのコンサートは10回近く聴きに行き、そのドイツ人並みの鼻腔共鳴とイタリアンチックな歌い回しには驚嘆さぜるをえませんでした。ここまでイタリアに歌える日本人がいるとはという圧巻が、僕の心の中から湧き上がってきました。

 島村さんは、ドイツでのオペラ劇場で十五年以上も専属契約した唯一の日本人です。当たり役はワーグナーのアルベリヒで、僕も何回も島村さんのコンサートを聴き、その強く深い声のドラマティック性には、鳥肌ものです。島村さんの公開レッスンで、衝撃的なことばが飛び出しました。「声楽とは叫び、叫ぶことにつきる」でした。このことばをずっと考え、自分的な解釈ですが、恐らく鳴らない日本人が鳴るようにするためには、思いっきり腹から強い息を吐いた声で、声帯の筋肉が締まり、鍛えていくことだと思いました。島村さんはあの黄金のトランペットのマリオ・デル・モナコの弟子なので、モナコの教えを現在体験できる唯一の歌手だと思っています。

 この二人以外で欧米並みに歌える歌手は38歳という若さで亡くなられたレッジェーロテノール、ミスターベル・カントの山路芳久、彼の声を生では聴いたことありませんが、CDで聴く限りでは、もともと美声だったように思えます。いわばピアノの声できれいに聴かせる声、という印象ですが、その弱声の部分が、欧米のそれと類似している点では感銘をもらいましたが、あまり研究材料にはなりませんでした。そして、もともとバリトンだったため、貴重なスピント(といっても僕が聴く分にはリリックですが)の市原多朗さん、山路さんの弱声とはまたタイプが違う、どちらかというと中島さん系統の鼻腔共鳴型です。僕も何回か市原さんの演奏会を聴きにいきましたが、金属的な鳴るひびきでした。胸のちりちりした芯が頭にある感じです。が、頭だけで胸が開いていないため、どこか日本風という印象はありますが、表現力は日本人の中では最高だと思います。次にヴェリズモ系の強い声をもともともっていたが、重い役を歌いすぎたため、近年衰え始めたと思われる田口興輔さん、現在63歳ですが、まだヴェリズモを歌い続けるスタミナは、さすが天性の持ち声だとは思いますが、僕が聴く限りはいわゆる「ちか鳴り」という気がします。

 この三人のテノールは、特に市原多朗さんは世界に匹敵する声役者だとは思いますが、中島さん並みの僕が認めるテノール歌手は、現在ウイーン在住のスピント・テノール、水口聡さんです。市原さんはスピントと日本ではいわれてますが、さきほど述べたように欧米に比べたらやはり、リリックです。水口さんは世界の中でも誰が聴いてもスピントと断言できます。日本のオペラ界を変えたいと思われている唯一の本物のオペラ歌手だと思います。その声は、一声一声が大砲のように弾力のある重厚かつ、その暗く強い音色が、構音になるとブリランテ(輝かしく)になる欧米並みの深い声、いや欧米人でもここまで観客をわくわくさせるような歌い方をする歌手はいないでしょう。そのわくわくする歌い方というのは、僕も指揮者の先生と話し、水口さんのコメントも利用させていただくと、ヴェリズモ・オペラのその緊張感を出す唯一の表現方法は、暗く、深く、低い音色でアリアを歌い出し、観客にそこで「こんな重くて、最後の高音出るのかな?」という不安を抱かせておき、クライマックスに向けて声が輝きを増し、最高の音を何拍も伸ばし続けることに尽きる。この手でテノールの勝利、だそうです。これを僕が生でやってくれた歌手を聴いたのは、往来のドラマティック・テノールのジュゼッペ・ジャコミーニ、そして水口聡さんでした。僕はここまで重くはありませんが、将来ヴェリズモ・オペラを歌っていきたいので、この表現の仕方を念頭にしたいと思っております。

 次に島村さんに続く世界的なバリトンは、牧野正人さん、直野資さん、堀内康雄さん、今は70歳で現役を退きましたが、田島好一さん、この四人がバリトンではインターナショナルな声の持主であると僕は思います。牧野さんは管楽器のように体全体が大波のような声で、その声量はあのピエロ・カップチッリを思わせます。直野さんは牧野さんとはタイプが違い、剛鉄のようなよい意味での硬く鋭い声です。本人はテノールの声帯らしいのですが、バリトンを歌ってきた珍しいタイプのオペラ歌手です。直野さんも中島さんや市原さんと同じく、鼻腔共鳴型で、ブリランテな高音を出すハイ・バリトンです。堀内さんは音楽大学出身ではなく、慶応大学法学部卒という学歴で、音楽の道を目指した異質(といっても日本以外の国はどこの大学だろうが実力重視だから、日本もそうなってくれることを願いつつ……)なオペラ歌手ですが、コンクールも総なめし、世界の主要歌劇場で歌うインターナショナルなプリモ・バリトンです。タイプ的には、牧野さんのような管型のカップチッリ型で、腹の底から声が聴こえるような太い声です。自分の感覚ですが、堀内さんは、牧野さんや直野さんよりも、そうとう息の勉強をしてきたと思いました。まるで噴水のような息が聴こえます。最後に田島さんは、持ち声だけで歌ってきたタイプのようで、あまり研究材料にはなりませんが、聴く分にはここちよく、フレーズのおさめ方がまたいやらしいといいましょうか、うまいです。ただ、あまりにもマスケラを重視しすぎか、奥の声がいまいちという感じはします。 以上が一般的に誰が聴いてもインターナショナルな声だとわかるテノールとバリトンです。このほかにももちろんたくさんいますが、ここに書いたオペラ歌手にはとうてい及ばないと、自分は絶対思っております。
 福島先生のレッスンを受け、改めて世界に通用している歌手、特に中島さんが島村さんの歌のフレーズの終わりには振り絞って強く深い息が聞き取れるようになり、改めて声は息によってつくられ、声を出すことは深く強い息の楽しいの叫び、魂の息吹だと思いました。(2005.5.5 O.S.)