会報バックナンバーVol.167/2005.05


 

レッスン概要(2000年)

■講演会

○人の指導に従うな

 いろんな学校に教えにいって、呆れたことが、みんな同じ表情で、同じ歌い方をしていることでした。口の開け方まで同じなのです。これでは歌を聞かせているのではなくて、トレーニングを見せているようです。ゴスペルでも、みんなで同じように作って、声が全然飛んでこない。「天使にラブソング」では、一人ひとりの個性が出て、それがモザイクとしてバーンとぶつかってくる。そういうのに、あこがれてやり始めたのに、練習すると全く形だけになっていくのは、まさに日本人らしいものです。これは文化の違いですから仕方がないのです。私は少なくとも、一人ひとりの個性に基づいて見ていきたいと思っています。

 個性ということばも、安易に使われています。たとえば、今日の講演でも、皆さん一人ひとり受け止め方が違います。いろんな感想があるのですが、一人がとてもよかったと思ってくださればよいのです。個性というのは、そういうものに対して、自分がどう感じたかということです。他の人はともかく、自分はこう感じたというところを、どれだけしっかりと拡大していくかということです。それを崩してしまったら何の意味もないのです。

 だから、人の指導に従うなというのは、人の指導というのは、それでもう組んであるからです。 日本の一番悪いことは、トップスターがいて、そのトップスターと同じ歌い方をしなさいと教えられることです。それを三代繰り返すと、崩壊してしまいます。でも場はもってしまうのです。客がそれを期待しているからです。あの人のように歌ってほしいと期待するのです。それは舞台としてはもちますが、個人としての力ではありません。

○音の感覚と反応する体

 今日、皆さんに一番見せたいことは、体のことと、感覚のことです。それも、どのくらい伝わるかわからないのですが、ブレスヴォイストレーニングというのは、その感覚と、それに対応できる体を作っていくことです。これは何のスポーツでも同じです。それを表面的に見てみてもわからないと思います。そういう感覚のところの気づきみたいなことが必要なのです。 スポーツや踊りの世界では、それがみえるからよいのです。音の世界では、それを聞いていかなくてはいけません。やりたいことは、一流の人たちが共通してもっている要素にあたることをはっきりさせることと、その磨き方です。それとアマチュアの人たちがもっていない要素を明らかにしたいと思います。

 ヴォイストレーニングをして、声を獲得したら歌がうまく歌えると思っている人がいるのですが、違います。でも声を獲得するということは、楽器を獲得するだけです。楽器を獲得しても、それを弾けなくてはだめです。歌の場合、それは全部感覚が左右するのです。ところが感覚というのは、目で見えないものだけに、非常に難しいものです。

○やり方より、世界の深さ

 よく世界のレベルというのはどのくらいかと聞かれます。 レッスンの必要なこと、再現するということと同じで、繰り返しです。たとえば、方法を身につけるのであれば、ここに来てあんなやり方があると見てみればよいのです。しかし、そのやり方で何ができるかということが大切なわけです。それができるまでは、そのやり方が有効だということです。

 でもどんなにやり方を集めても仕方ないのです。あまりにトレーニングのやり方を知りたいとか、ノウハウを知りたいという人が多いのです。皆さんから出てくる質問のほとんどは、私のQ&Aの本に書いてあることです。初心者の質問もほとんどみんな同じです。ホームページに載せようと思います。メニュを知りたいという人には、ここの100メニュというのを出しています。 なぜこういうものを出しているのかというと、実際には使えないからです。しかし、情報はたくさん与えておいた方がよいのです。それをどう選んで、どう使うかということは、その人の能力です。こちらは出し惜しみはしていません。大切なことは、そこの世界の深さを知ることです。

 これは、ジョルジアというヴォーカリストのものです。パヴァロッティが、いろんなロックヴォーカルと一緒にステージをやったパヴァロッティ&フレンズのIIです。 彼は、アカペラでやったら、ポップス歌手の比ではないと思います。ところが、マイクをつけた世界でやると、ポップスの歌手に食われてしまうことがあります。それは、ダイアナロスにしても、ライザミネリにしても、ポップスの第一者だからです。ポップスとクラシックの差ということよりも、同じことなんだということです。 パヴァロッティはもっともクラシックな部分を再現するところで勝負しているし、ポップスの人たちは、それをいろいろと変えています。ただ、どちらにも息とか、体が必要です。

○変化形としての歌

 日本の場合は、たいてい、こういう歌をどうこなしましょうかということから入っていきます。本当は、自分の心とか体の部分が、声というものを伴って、初めてアウトプットされるのです。歌は、この変化形に過ぎないのです。 だから私は基本的に歌を教えません。教える自信がないというのもありますが、歌というのは応用で、その場で変化するものだからです。 対象が誰かによっても、違ってきます。基本として、同じことはこの中で組み込まれているのです。歌は応用ですから、応用から教えたらいけないのです。でも、応用は見ておかないといけないのです。 トレーニングの問題もこういうことが多いのです。声は歌の基本のことになります。

 たとえば、その国の国民的歌手といわれている人、他の国にも通用している歌い手というのは、歌で感動させます。アカペラであっても、歌で伝える力があります。だから歌い手というのです。その上に音楽というのがあって、国を越えていくのです。 国を越えて世界に通用するというのは、アメリカが基準になっています。アメリカで公演して、大成功を収めるには、ことばを超える何かがあったからです。そこの違いというのは、ことばがわからなくても通用するということです。

 歌はことばがあることで、楽器よりも優れている部分はあります。その点、日本で欠けているのは、声を楽器的に使うというところです。沖縄などには、まだ残ってはいます。 外国のヴォーカリストの場合というのは、たとえば3分の歌があったら、そのうちの1分間は声の技術だけを見せるというところがあります。モチーフとしての線とデッサン、それが変化してこんな歌になったとか、こういう歌詞になったということなのです。

○目をつぶって聞こえるもの

 歌い手がどうして判断しにくいのかというと、あまりにいろんな形でやれている人がいるからです。ここでは音声のことを中心にやっています。役者も、音声も含めて勝負するはずなのに、どんどんと生の音声の力の部分が失われています。しかし、ここは音声で表現する舞台ということの基本をやっています。ここで目をつぶって聞いて、そこで飛んでくるのが音声です。表現というのは、何かことを起こすということです。 舞台というのは、その場で即興でやらなくてはいけません。小説とか、画家とかいうのは、自分の中の一番よいものを出せばよいのです。そのプロセスを見せなくてもいいのです。でも芸人というのは、パッとそこを出してくださいというときに、外せないのです。 こういう活動ができているということは、外してきていません。どんなに調子が悪くても、生で見せなくてはいけません。

○本当にみるべきギャップとは

 トレーニングに関して、知識を捨てることです。それは体に入れていかなくてはいけないのです。よく正しい、効率的なトレーニングということをいわれるのですが、こう考えてください。 今あなたがここにいるとしたら、次にどこにいくのかということが見えなくてはいけません。そこにギャップがあります。そこを埋めようとするから、トレーニングが成り立つのです。自分が一番うまいと思っている人は、トレーニングが成り立たないし、また必要もないのです。

 皆さんがここに来たということは、ここに自分の中で足らないと思っていることがあるからでしょう。本当なのかどうかということも、一回疑わなくてはいけません。 たとえば、高い音が出ないからとか、発音がはっきりしないからとか、音程、リズムが悪いからダメなのか、あるいはもっと違うところに原因があるのかということです。その大半は、大体自分で思い込んでいるだけの場合です。

 ことばが聞こえないとか、発音が悪いとかで通用しないというなら、もともと通用しないのです。だからそういうものを直しても、仕方がないのです。音域でも同じで、それが2、3音きれいに出るくらいで通用するのであれば、始めの出だしだけで、通用するということはわかるのです。だから本当はそういう問題ではないのです。そこのギャップを明らかにするのに、まずそのギャップというのを見なくてはいけません。

 皆さんが今までどういうヴォーカリストを聞いて、こういう世界に入ろうと思ったのかわかりませんが、プロとして成り立っているにも、ヴォーカルの場合だけは、いろんな要素がありすぎるのです。ピアニストとか、ギタリストだったら簡単です。音だけ聞かせても、プロかどうかというのはすぐにわかります。

○自分の身体の音楽で問う

 でもヴォーカルの場合は、ルックスや踊りを中心に楽しいと思われてしまうのです。効果が逆に使われているのです。 たとえば、格好のよい人とか、かわいい人がいて、その人でお金を稼いだり、人を集めたりしようとしたときに、一番安易な方法が、コンサートをすることや、CDを作ることです。歌のステージというのは、周りを専門家で作ってしまえば、誰でもできます。CDを刷って、売れるわけです。 だから、そことは区別しなくてはいけないということです。あなたがそうではないかもしれないし、これからもその路線が主ではないかもしれませんが、こんなに安易に音楽にもっていくのは日本だけです。

 外国では、知名度があっても音楽的才能がなければ、全くレコードが売れないのです。ベットミドラーのように、本当に歌い手と役者を兼ねている人は別ですが、そうでない人は、へたで買わないのです。ところが日本の場合では、その人の歌、音楽が聞きたいというのではなく、その人の存在感の魅力が、プロマイドみたいなものとしてCDになるのです。 コンサートでも、向こうの新人が日本に来ると、日本は出てきただけで拍手がくるといいます。他の国では、出て、1曲歌ってからでないと拍手はこないのです。自分のことを誰も知らないのですから、歌を歌わないと認めてくれないのです。そこで、私に会えたことがうれしいのかと思うのです。まさにそうなのです。会えたことがうれしいのです。これは我々みんなの問題です。日本は、そういう国なのです。

 だから、逆にいうと、声をつけてみても、歌をつけてみても、そんなもので何とかなっていく世界ではないということを知っておかなくてはいけません。それを飛びぬけるか、もっと徹底して自分の出し方を考えていかなくてはいけません。それとともに、プロに近づくことを上達したと思わないことです。 ジャズでも、ゴスペルでもみんな楽器が違います。人間ですから、身体は同じです。声帯も、一人ひとり違います。人間の体である以上、同時にいろんな限界があるのです。その限界に挑むというときに、歌とか、音楽の世界では、高音域とか、声量をとらなくてはできない世界ではないということです。

○好みより才能を

 ここに来る人で一番多いのは、高音域をはっきり出したいとか、2オクターブくらい出るのに声が安定しないとかいうことですが、そこは使えないところなのです。その人は使っているつもりでしょうが、そこでは勝負できないのです。基本的なところの問題は、高いところが出ればよいということではないのです。 ただ、日本の場合はマイクの使い方とか、いろんなことでカバーしていくので、くせでフォローしてしまう場合があります。

 こういう世界でやっていくうえで、一番の条件は、好き嫌いで動かないということです。勉強したいのであれば、自分の好みはどうであれ、優れたものがあり、優れていないものがあるという基準をどこかできちんと入れることです。優れていこうと思わないのであれば、勉強する必要はありません。ステージをやっていた方がよいのです。お客が減って初めて、これではいけないと思うわけです。それを想像して補うために、レッスンとトレーニングが必要なのです。 皆さんがプロの6曲をどう聞いたかわかりません。あの中で好きだと思うものはなくとも、優れているかどうかというと、たとえば、あの人たちがここに出て、アカペラで歌ったら、プロだとすぐにわかると思います。そこの部分の力をきちんとみていかなくてはいけないということです。それは一瞬でわかります。

○形より実を

 韓国や北朝鮮などでも、日本と比べて基本トレーニングはしっかりとなされています。彼らに日本の音楽文化を弁明しているわけではないのですが、日本の実情を説明しています。大規模のものを維持するとなると、エンターテイメントで、基本的にはサーカスと同じ考え方となり、ビジュアル面できちんと出していくことが優先されるのです。踊りも向こうに近づけていくということです。そうするとどうしても声の力は落ちてきます。動きで見せていくためには、その速さには声がついていかないのです。

 向こうの人たちはついていけるかもしれません。しかし、日本の今のラップや、ダンスミュージックなど、あれだけ速いビートに声を乗せようと思ったら、ああいうふうになってしまいます。 外国にいって聞かせると、なぜこの速さをとるんだと、もっとゆっくりにした方がいいといわれます。それは人間の生理的な感覚だと思います。 彼らは速いのが好きだし、それに対応するだけの体と感覚を作らなくてはいけない。そうでないと、その速さ自体が生まれないということを知っているのです。 日本では、向こうで流行っているものに日本語でつけてみるということが、なぜか表現活動のようになります。それは、よいのです。

○価値からみた基準

 アーティストのことは、簡単に外からは判断できません。そのアートが何なのかがわからないからです。お客と成り立っていればよいことです。その客が全部ファンにつくかというと、誰でも、好きな人は好きですが、嫌いな人はわからないとか、聞きたくないのです。だからどれだけ少人数でも、強く引っ張っているかということでみていくしかないわけです。そうなってくると、判断が難しくなります。 声を器楽的にみていくというのが、ここの勉強の基準です。たとえば踊れるからとか、それでステージを許してしまったら、ヴォーカルの世界も、格好いい人とかわいい人が勝ちとなってしまいます。そういう人はいるのです。1時間ここに座らせても、この人はどうやって生まれてきたのだと思わされるような人には勝てません。そういう人はプロダクションにいって、デビューして、活動すればいいのです。こんなところに来るのは遠回りです。声のことをやりたいのならば、来てもいいのですが、そうでない道もたくさんあります。

 二十歳くらいで、デビューするチャンスがあるというときに、そっちに押し込むか、ここにいなさいというかです。どうなるかわからないのだから、とにかく出れるチャンスは全部出ておきなさいといっています。でもそのかわり、それで終わってしまうのがほとんど、というのもいいます。他の国なら、基本がなければ絶対に出てはいけないといいます。というより、出られないのです。 昔の日本もそうでした。作曲家の先生について、7年くらいダメといわれて、できたらデビュでした。 今は、そういう感覚が音声に関してはないです。テレビで判断されています。それは好き嫌いの世界です。客はタダですから、おもしろければいいのです。でも寄席とかそういうものは、お金を払って、足を運んできます。価値がない限り、客は二度といかなくなるのです。リピートできるか、できないかというのは大切です。

○歌に何があるのか

 ジョルジアの歌を聞いてみて、こう判断してみてください。求められている歌というのは、何があるのかということです。声のところがどういうふうに動いて歌になるかというところでの応用のことです。他の国でヴォーカルといわれて、認められている人たちは、このことを満たしています。 まして3番目の曲を聞いてもらうと、音楽というのはこういうことだということがわかると思います。そこまでいったら世界のレベルになると思います。これは世界を目指すとかそういうことではありません。 目標は高く持った方が楽だということです。50メートル泳ごうと思って計画を立てるよりも、オリンピックにいこうと思ったら、1、2年後に五千メートルくらいは泳げるようになるのです。人間というのはそこまで、場とか、環境とか、考え方で左右されるものなのです。それをよい方に使えばよいのです。

 こういう深い息というのは、外国人はみんな持っているのです。それは外国語自体にその息が必要だからです。日本の場合はそういうものはありません。彼らの発音は強弱アクセントだけの感覚でいっています。弱のところは聞きとりにくいのです。日本人が歌い替えた英語のジャズなどを聞くと、わかりやすいでしょう。それは日本人の感覚に置き替わって、日本人の英語になって出てきているのです。 今日は息を聞いてみてください。

○体の原理とテンション

 いろんな質問のほとんどが、応用面と基本のことを混同している場合が多いのです。たとえば、「本に書かれた姿勢のように歌うのですか」という質問があります。これは非常におかしな質問です。ステージを見たら、そうでないことはよくわかるはずです。ただクラシック歌手は、そういう姿勢を守っています。それは声の原理に基づいたところでやることを、どこまで優先しているかです。

 優れている条件というのはもう一つあります。それをパッと聞いてみて一瞬でわかること、そういうものは、体の原理にそっているのです。今日いろんな見本を見せます。そこで一番わかりやすいのは、テンションがあがっているか、さがっているかです。私が悪い見本を見せるときはテンションをさげます。どんな人がやるときでも、働いているのが体の原理です。これはできている人というのは見えません。オペラ歌手では、寝転がって歌っていてもわかりません。大切なことは、そこをわけなくてはいけないのです。 歌のところで応用されていることの、一番よい例というのは、試合の中の一番いいプレーでファインプレーの状態を考えてみればよいのです。無意識で、全体的に統括されていて、リラックスしている状態です。

 それに対してトレーニングというのは、自分で意識していなくてはいけません。試合は常に結果オーライの世界ですが、トレーニングはこれを出すためのものなのです。 たとえば歌がうまくなるために、歌の練習だけをしないのはどうしてでしょう。試合の中で調子が悪かったから、今晩も試合しろということはしません。必ずファームに帰って、素振りをするのです。 試合とか、歌とか、ライブというのは、目的が伝えることです。自分の原理を働かせることではないのです。よい声を出すことでもないのです。働きかけることです。

 この辺で好き嫌いの問題も入ってきます。たとえば、サッカーが好きで好きでサッカー選手になりたいとします。でも、サッカーが好きなのと、サッカー選手になりたいのは全然違うのです。これは海が好きなのと、漁師になりたいのと同じくらい違うのです。もし好きでプレーを楽しみたいのならば、仲間同士でやればよいのです。年をとった人とか、幼稚園生とやったら、キャプテンになれます。アマチュアの人たちの中なら、みっちり1ヶ月くらい練習したら、すぐに成果が出るのです。

○強化と調整

 スポーツとか踊りというのは、ビデオなどで周りからみられるだけ、あるところまで判断しやすいのです。歌というのは音の中だけでやられますから、わかりにくいのです。大切なことは、これをきちんとわけなくてはいけないということです。 トレーニングというのは、意識をします。つまり、部分的です。たとえば、腕の力をつけないと打てないといわれたら、腕立て伏せをするのです。そして腕立て伏せをしても、すぐに腕は強くならないのです。必ずここにタイムラグがあるのです。 だから、今日直しなさいといわれて、高いところが出るようになったといっても、明日から使えるものではないのです。今までそれが使えない感覚と体できているのですから、それが変わらない限り、使えるということはありません。 ただ調整はできます。プロのヴォイストレーニングは、一回そのレベルまでいった人が、それをキープするためにやります。意識して部分をやるということは、とても不自然なのです。

 基本的にトレーニングというのは必要悪でやるものです。リズム、音感、ことば、いろんな要素を徹底してやっていって、こういうものがやれたときに初めて一段アップするのです。それは他のことで考えてみても同じだと思います。だから、効率的なやり方があるわけではありません。いろんなことをやって器を大きくしていくしかないのです。 昔アイドル歌手のレコーディングの最終のチェックをやりにいっていました。それはあくまで感覚でやるものです。その人の声は、そこではもう直せないのです。一番扱いづらいのは、声だけはものすごく大きく出るとか、音域がものすごくとれることです。可能性はあるのですが、その中で厳しい選択をしない限り、ほとんど使えないということです。声がものすごく大きく出るということは、有利なことではあるのですが、応援団がプロとして歌えるわけではありません。その目的に合わせて選んだら、選んだもの以外のものは捨てていかなくてはいけないということです。これが音の中でやるには、わかりづらいことなのです。

○選択

 たとえば、ここのトレーニングの中で一番わかりやすい例として「ハイ」というのがあります。この「ハイ」を100回やってみて1回も狂わない。これができたからすごいということではありませんが、あるレベル以上で歌えている人が、「ハイ」をひとつやるときにつっかかるとか、二つやるときに何か違うことを起こすとしたら、高度な歌には絶対に対応できません。 簡単なことをできない人が、難しいことを応用できるわけがないのです。ということは、応用できているつもりでも、いろんなことが落ちているのです。

 この「ハイ」というのは素振りと同じです。大振りをして、球があたらないから手先でバントばかりしているのが、日本人のやっているトレーニングのように思います。 1ヶ月に1回くらいここに舞台を置いているのは、応用してみないとわからないからです。ファドでもハワイアンでも、それをパッと聞いて、日本語をつけて作品にしなさいということをやっています。 そんなことは今までやってきたことがないかもしれませんが、音の世界とか、音楽がどういうものなのかとか、自分の世界がどういうものなのかとか、自分の声をどうやって見せられるかというのがある人だったら、そこでできてしまうのです。これは、プロならできると思います。

 その感覚がない人が、音程やリズムがとれないからといって、いくらそのトレーニングをしたとしても、それはこなせるだけで創り出せません。ピアノを間違えずに弾けるということにしかすぎません。少なくとも人様に価値を与えるところにはいかないのです。 ただやり方として、そのマップもない人にとってみたら、そういう方法からの導入もあるということです。1オクターブというのは12個、半音があって、そのうちの7つの組み合わせがスケールになっているのです。そのような論理性があります。つまり音楽のルールというのがあるのです。これを無視して一人よがりでやってしまうと、それは通用するものにはなりません。

 体の原理、自分の感情とか感覚がある、それとともに音楽の場には、それをもっと利用した方がより表現できるよというルールがあります。歌詞も曲もひとつのルールにしかすぎません。それをよりよく破れるのであれば、自分で破ってみて新しいものを作りあげればよいのです。そうやって創造していく世界なのです。

○シンプルに戻す

 基本がわからなくなったら元に戻りなさいといっています。たとえば、バンドやカラオケをつけて歌っているのを、それをピアノ1本にしましょうというと、かなり難しくなります。それで難しくなったということは、それだけ自分に入っていないということです。誰かに助けられているのです。それを使い切っているのならよいのですが、それをごまかしている場合が多いわけです。 たとえば、カラオケのマイクで歌うとうまくとも、マイクがないとうまく歌えないとしたら、それはマイクに助けられているだけなのです。そうすると、その人は置き換えのきく人にしか過ぎないのです。そこをはっきりさせていけばよいわけです。音楽そのものも同じです。

 バンドにはドラムとギターとベースが必要というのも、誰もそんなルールは作っていないのです。それは自分が歌っている中で、リズムをもっと出したいとか、低いところや高いところの音の厚みを出したいということで、付け加わってきたものなのです。 本当は、戻していけばよいのです。一番の基本というのは、人間の体であり、声であり、あるいは呼吸の部分です。そこをきちんと見ていかないと、トレーニングというのが成り立たないのです。 実際にやっていくことというのは、日本ではあまりやられていませんが、声の楽器作りです。これは非常に単純なことです。その人が音色を出してみて、完成されている楽器だと思われることです。声の場合はわかりやすいのですが、歌の場合はわかりにくいものです。

 いろんな歌い方があって、ロックがのど声だというのを発声で判断しても仕方ないだろうということです。そういうことでいうと、そういうものが判断できるところにおろしてこなくてはいけません。声は比較的、判断ができるのです。トレーナーやヴォーカルを見抜くときも同じですが、その人間は媒体にしか過ぎないのです。 いつも声楽科の人のオーディションをするのですが、毎年、数十人見ているのに、とれないのは、声を出すことや声を響かせることが、目的と思っているからです。何かなっている人をみたら、声を響かせていたり、声があったりするだけです。本当のものというのがわからなくなったら、シンプルなものだと考えればよいのです。

○デッサン力と感性

 トレーニングというのは、一時、それをどんどん複雑にしていきます。自分の中でそれを正す感覚がなければうまくいきません。それがリアリティをもっているかといつもいっています。わからなくなったらそれがきちんと生命感をもっているかということです。みずみずしいものなのか、立体的なのかということです。絵でも、それは正確に描いているわけではなく、その人のデッサンでバーンと飛び込んでくるのです。

 ヴォイストレーニングというのは、はっきりいうと、そのデッサンの練習です。自分の線はどれかというのを見つけていくのです。日本の歌の世界の大半は、塗り絵の世界です。誰かが与えた線を、色を塗りわけているだけです。それは非常につまらないのです。声の世界ではいろんなことができるのに、もう決め付けてしまっています。アレンジャーとか、伴奏の人は優秀です。日本の場合は、そういう人たちが知識をもって勉強しているがために、ヴォーカルの立場が非常に弱いのです。でも日本のステージにおいてなら、当人の声をちょっと変えるよりも、それはコンピュータでやった方がよほど早いのです。だから彼らの方が主導になってしまいます。

 ヴォイストレーニングといわれているものは、楽器では調律の部分です。声を使うためにどう調律するかということです。そして一番大切なことは、演奏のことです。本当はこの勉強をしなくてはいけないのです。 しかし、ヴォイストレーニングの学校でやられていることというのは、30分のうちに5回くらい歌を歌ったら終わりで、その前に慰め程度の発声練習をやっています。そんなもので何かなるものではないな、というくらいの感性はもたなくてはいけないと思います。それが悪いわけではなくて、仕方ないのです。すぐに学校を辞めてしまう生徒だから、そこですぐに効果を出さなくてはいけないのです。でもそうやって何年やっていても、何にもならないのです。だからここは初めからそういうことはやりたくないのです。ヴォーカルほどいい加減に止めたり、来なくなったりするのは、他の楽器の人たちは、ないことと思います。

○見えない音声文化

 見えないところをこれから明らかにしていきます。歌というのは自分の好きなように歌えるものですから、それを歌ってみてへただなとか、緊張感がないなとか、テンションが低いなとか、ダラダラしているなと感じるとしたら、それは出てこないのではなく、まだ入っていない場合が多いということです。それを認めていかなくてはいけません。 演奏が入っていないなら、ピアニストになれません。その上で、指の練習をしていないと、うまく弾けないのです。しかし、それをやったからといって弾けるわけではありません。ピアニストというのは、徹底してピアニストの曲を聞いてきているのです。

 私は、音楽を聞く時間はピアニストよりも長いかもしれませんが、そこで聞くものはヴォーカル中心に聞いて、当然ピアニストがどう弾きわけているかというところまで、聞きわけていません。彼女たちは、この曲に対してこの演奏家はこういうタッチをするとか、そういうものを比較対象しながら、自分のタッチというのを生み出してきたのです。あ、これを使ってみようとか、そういうふうに試すこともできます。そのパターンが入っていないのに、上達はできません。

 向こうの音の世界は、音数で1500から2500くらいまであります。母音も20〜26個です。日本語の音の世界は100少々で、母音が5つです。読み書きの教育だけで全部できてしまうのです。だから、皆さんが日本語の音声の聞きとりや発音で苦労するということはなかったと思います。向こうはスペルと音が違いますから、とにかく耳で聞いては発することで直されていくのです。音声の授業が国語の授業です。詩の朗読などでも日本では、ここに何が入りますかとか、これは何をいっていますかということが問題ですが、向こうの場合はそれを読まされ、テンポや間をあけてとか、発音を直されます。徹底して耳が鍛えられるのです。これは、音声文化の違いです。

 それとともに、スピーチ、ディスカッション、ディベート、全て自分の考えをその場でパッといえるように育てられるということです。高校生にもなると、きちんと起承転結をつけて、相手を引きつけて話せるのです。それが教育の中で徹底してやられているのです。そこからさらに、踊りやタップをやったり、いろんなことを10代の前半で仕込んでいる人が選ばれて、ヒットした人がトップところにいるのです。彼らでも10年仕込みがなくて歌っている人は絶対にいないのです。 ですから、初心者の人がマライアキャリーの歌を歌えるわけがないのです。他の世界でいうと自殺行為です。どこが問題なのかというと、高い声の出し方とか、発音の問題ではなくて、その出だしの一声のところ、あるいはその用意のところが、すでに問題なのです。

○声の使い方、伝え方

 ヴォイストレーニングで間違えてはいけないのは、声ができたら何とかなると思っている人が多いのですが、声が出たからといって、絶対に何とかなるものではないのです。逆にこう考えてみればよいのです。声も出るようになったし、歌もたくさん歌えるようになったときに、自分はどうするのかということを考えなくてはいけません。 要は、2年までは誰でもいけるということです。2年から先にどういくために、最初の2年がどう大切なのかということを考えなくては、2年で止まってしまいます。

 毎日8時間練習しなさいといっても、8時間をどう使うのかわからないでしょう。その場の設定と、そのトレーニングの習慣づけが、最大のポイントです。8時間のうちたぶん7時間半は、まずその世界を聞くことに最初は費やされるべきです。ここでは、最終的に表現として問うています。その人の中でどんなに役者の勉強をしていても、どんなに内容が入っていて、人間として優れていても、ここに音声として飛んできたものが相手にどう伝わったかというところでしか、見ないということです。それを全部見てしまうと基準がなくなるのです。

 先ほど、応用のところで伝えることと、基本のところで原理をきちんと守るということは違うといいました。舞台とか、表現とか、歌というのは、それを見せて、お客さんに伝わるということです。それは必ずしも原理と一致しないということです。 たとえば、私が今しゃべっているこの声は、いい声を出そうとは意識していません。声の状態が悪くなったからといって、このレクチャーがダメなわけではないのです。 クラシックでも同じです。あそこでカレーラスとか、ドミンゴが出している声というのは、一番原理に基づいたよい声ではないのです。たとえのど声になったり、少し発声が乱れたりしても、伝わるものをプレスしています。それに対してお客さんは価値を払うからです。発声練習やトレーニングを聞きたいわけではないのです。そこを間違えてはいけないのです。

○問われるものとは?

 「ハイ」という練習を何回もやっていることは、何の力にもならないとはいいませんが、やっていない人よりはやったという力です。それが直接、歌につながるとか、試合で出せるということではないのです。ステージもほとんどの人にとっては狂います。 特に基本ができていない人は、原理を無視して、入り込んでやらなくてはいけません。それはダメなことではないのです。伝えることが問題なのです。大切なことは、それをやったあとに、それが狂ったものを修正するために、基本のトレーニングが必要なのです。そこは知っておかなくてはいけません。 レッスンというのは、なるべく自分のいいところを出そうという形で、ひとつの試合の模擬練習のようなものです。みんなここにきたら何とかなると思っているのですが、そうではないのです。ここにも優れた才能のある人が来る一方で、ダメな人がきます。でも伸びた人、伸びなかった人、最初はよかったのに素通りしていった人をいろいろと見ています。当然、声一つで出せる価値くらいは与えたいのです。

 そのときの大きな目的というのは、トレーニングして伸びるようになっているから、トレーニングしない人は伸びないのです。レッスンだけで何とかやろうとか、その先生だけについてうまくなりたいというのは、無理です。無理というより、人並みくらいにはうまくなるかもしれません。しかし、人並みではなく、その人独自にしかできないことができていくかをみています。 誰かのステージをみて、それに近づきたいと思えば思うほど、自滅していくということです。その第一人者がいる限り他はいらないのです。桑田佳祐さんの「いとしのエリー」をレイチャールズが歌っていますが、それは全然違ったものになっています。レイチャールズの世界になっているのです。

 だから結局、そこで問われるものを出しなさいということなのです。近づいていったらダメなのです。 歌がうまくなったり、声がよくなることというのは、二義的な問題です。大切なことは、プロよりへたでも構わないから、真似できないことをやれということです。 私で真似できてしまうことは、あなたのやる価値はないのです。 日本の場合は、誰かみたいに似ていくということが、上達のように思いがちです。それは誰かがそうなったら、その地位をあげるという約束をしている場合です。興業的には楽です。プロらしい部分があるから、客はこの人うまいなと思います。でも、それに助けられているぶん、何かを殺してしまっているのですから、同時に可能性を狭めているのです。

○応用の正道は常に創ること

 トレーニングやレッスンで難しいのは、自分が伸びた理由が同時に制限になってしまうからです。ここにプロの人に必ずいっているのは、「あなたがロックをやってそこまでやれたのは立派ですが、でももし足らないと思うのだったら、一回白紙にしてそれを忘れないとダメだ」ということです。たとえばボサノヴァもサンバもやります。おれはそんなことをやらないというのだったら、自分でやっていればよいのです。8ビートの応用についていけなくて、何がロックのリズムだということが、勉強するときの考え方です。

 そこで違う感覚をぶつけてみて、それを吸収できるくらいの器を作らない限り、レッスンの意味がないのです。やれているのであれば、来る必要はないのです。何か足らないと思うから、来るのでしょう。そうしたらそれは自分で何かを選んできたがために、捨ててきたものがあって、その中に含まれている場合が多いのです。 たとえば、音域をとるためにパワーを犠牲にしてしまったとか、発音を丁寧にするがために音域が出にくくなったとか、いろんなことが起きるのです。最終的にはどこかをとればよいのです。 歌というのは、その器が大きくなればなるほど、難しくなってきます。声量も出るし、音域もどんなにでも出る人が、どう歌うのかということが一番難しいのです。アイドルは声域もありません。最初からキィも決まります。設定が、非常に簡単なのです。しかしそれは、音響さんに頼むしかないのです。

○マイナスからのスタート

 我々日本人の生活の中で、どんどんと音の世界が消えています。それを取り戻そうということです。最初の2年間というのは、皆さんがもし今日来たような毎日を2年間過ごしたら、変わる部分です。本当のことでいうと、外国で生まれて、0歳から20歳まで、そういう音声教育を受けていたら、しぜんとできることです。だからそれは、誰でもできるわけです。向こうの人が普通に生きていたらできることでさえ、2年間でやることは大変です。 日本人にとってのヴォイストレーニングは、マイナスからのスタートです。マイナスからゼロにしなくてはいけないのです。それを邪魔する感覚が日本の中にはあります。何よりも、音声で表現したくないという風土があります。

 たとえば、外国にいって講演するときに、最初に質問はといったら、こういうものをとらなくても、まず全員、手が挙がります。日本でいう若手タレント気質が、日常なのです。彼らはこういう場に出るということは、目的があるから必ず結果を求めるのです。今日お金と時間を払うのは、これが欲しいからだということが明確にあります。 質問がないものに答えはありません。ここの場は見に来てくださいということで構わないのですが、それでは、お客さんになってしまうのです。自分にはステージが移らないのです。もし、そのようなことができるのであれば、優れた人のステージを見ているだけで、上達できるということになります。だからそれは違うのです。

 先生がどんなに見本を見せても、関係ありません。できている体や感覚はみえないからです。それを感知するセンサーを磨かなくてはなりません。どこかに接点をつけなくてはいけません。それをいきなり曲の中でつけようとすると、先生は、ああ歌ったけれど、自分はこうは歌いたくないという、言いわけが出てしまうのです。声の質も、考え方も違います。だから歌の中でやるよりも、「ハイ」でやろうということです。それは先生が判断するのではなく、周りのみんなが判断すればよいということです。そこでの差をきちんと出しなさいということです。

○音楽へのアプローチ

 ここで考える音楽へのアプローチというのは、息から捉えること、子音と音色のことが中心です。それは日本の感覚がいらないということではなくて、日本人の感覚で今まできたのだから、その感覚以外のものがあるということをやりましょうということです。外国語学習にも通じるところだと思います。 ここでやっているものは、統一していくということです。正しいものはシンプルで、ひとつに統一されているのです。その統一されていることをやるプロセスとして、ことばを統一し、音の高さを統一し、そしてメロディを処理していくのです。これは全部、日本的人な処理の仕方です。 たとえば、赤ん坊がことばがなくてワーッと泣いて伝えるというのに、日本人も外国人もありません。音の高さに関しても、低いとか高いとこだわること自体、かなり日本的なことなのです。

○メロディ処理

 それからメロディの処理ですが、今は2年間で半オクターブでよいといっています。半オクターブを同じ声で揃えていくということは、同じ声でしか出せないようにするのではなく、その声をつかむことによって、いろんな応用ができるようにしなさいということです。メロディの処理も同じです。 ここまでのことができれば、役者さんとか、外国人などと同じ条件ができます。それを、オリジナルの声といっています。それに対してヴォーカルというのは、早めにフレージングの処理というか、応用のことを入れていきます。

 オリジナルな声、あなた方のよい声をさらによくするという部分から、よくするというよりは使いやすくするということです。その使いやすさというのは、今使いやすいということが将来的に使いやすいということとは全然違うということなのです。そこが間違いやすいところです。 たとえば、我々が使っていることばをどうして音の世界にしているのかというと、その音を打っているところを点で取っていくのです。それでつないでいきます。日本語には、そういう性格があります。 外国語というのは、拍に合わせてリズムでとっていますから、動かしている原理そのものが違うわけです。

 我々が日常的に使っていることばでも、伝えようと思ったらそうならないはずです。表現なら必ず一つになって飛んでくるはずです。「おかあさん」と呼ぶときには、のど声になるかもしれません。しかし、どこかにフレーズがついて一つになっているはずです。「お・か・あ・さ・ん」とはならないはずです。 でも、日本語を黒板に書くとそういうふうに私たちは読むのです。そういうレッスンをしてはいけません。心や体や息が死んでしまいます。(アナウンサーの限界は、彼氏と話すときに使えないということです) 私は、トレーニングは負荷トレーニングと考えています。テンションが一番高いところでリラックスしてやらなければ、どこにいってもダメなのです。負荷を与えなければ、トレーニングをする意味がないのです。

○音色と声区

 音の高さというのが、音色とつながっていきます。外国人がやったらどうなるかというようなことをやっていきます。ことばを強弱でリズムに置き換えていくのです。これがわかりにくいのですが、低音、中間音から高音にいくときに、私の意識では高低には切り替わっていないのです。バランスの変化にすぎません。 ニューミュージックやフォークでは、高くなったら、そこでテンションを高めて声を圧縮させたり、シャウトさせたり、強く出すというよりも、抜く方にいきます。 どちらがよいとか悪いではなくて、何でもできた方がよいということです。両方できたうえで、自分で選べばよいのです。

 ただ、トレーニングということを考えたときに、声を抜いて逃していくやり方だと、基本的なことが変わらないということです。それが日本人の感覚に欠けているところです。 私の声は皆さんには低く聞こえると思います。しかし、音色が太いのです。体がついているのです。しかし、サッチモほどではありません。外国人と一緒に歌ってみると、わかりやすいと思います。それは体の強さ、息の強さと非常に関係があるのです。これがベースです。

 日本人が使っていないところの胸声の部分で、応用できるのです。ここを忘れてしまうのです。それを統一するということが前提になります。 どちらが有利かということを考えてみればよいのです。あとでどちらが声量がつくか、あるいはどちらが高いところまで出たり、低いところの音が扱いやすくなるかということを考えればよいと思います。 要は、今がよいか悪いかではなくて、体を使うということは、体が変わっていく、鍛えられていく方向であるべきです。それをどこか部分的に処理していると、声をつぶしてしまいます。

○パワー

 日本の場合は、ピッチャーでいうと先にコントロールをよくしたらよいということなのです。でも場でいうと、100キロで投げられない人がどんなにコントロールをよくしても、何の意味もないのです。そうしたら、まず最初にパワーをつけることです。 音楽の場合はスポーツと違っていろんな考え方があります。マウンドにピッチングマシンさえ、持ち込めるのです。そうなると、必ずしも声量がなければいけないとか、声域を作らなくてはいけないということではないのです。 なければいけないという限界を自分で踏まえて、それをどう使うかということを知ればいいのです。私がいいたいのは、10年もやってきていないのであれば、まず2、3年間は、どこまで体でできるかをやってみればよいということです。そこは、続ければ誰でもできることです。

 「冷たい」というのを使うのは、これが難しいからです。韓国の劇団の人に「あおい」なら半分くらいできたのに、「冷たい」はできなかったといわれました。このことばはやりにくいので、あえて使っています。 「冷たい」に音がついたら、勉強してきた人ほど「タ・タ・タ・タ」という音に乗せて、「つ・め・た・い」になります。階名で読み、「ラ」で歌ってからことばをつけるのが、日本の歌のレッスンです。 これは日本人的な感覚ですから間違えではないのです。しかし、きれいな声が出たとか、響きがよかったということでは、ポピュラーは評価はしていないということです。その評価を求める人は、カラオケ教室とか、ヴォーカルスクールにいった方がよいと思います。私は、それが相手に伝わるかどうかというところで見ています。

○高低より強弱

 最初の曲はイヴァザニッキの歌ですが、この出だしで一瞬でも彼女が「レミファミミレレドドシシ」と考えたかということです。そう捉えると「ノンソマーイ」となります。そこのところで、日本人がやることは全くやっていないということです。その感覚が、邪魔するのです。 強弱のアクセントにアクセスしているということです。「つめたい」といったら、「冷たい」ということが出ているのです。 強く打っているところがあります。ドラムのバスの部分やベースの部分を聞くと、そのところに声の強い部分がきています。ただ、歌というのはそこにそのまま当てていくのではなく、少しずらして、いろんな変化をつけます。しかし、そういう柱がきちんと立っているのがルールです。それを自分勝手に変えるのではありません。変えてよいことと悪いことがあります。こういうものに関しては単純で、自分の体を楽器として、そういう感覚の中にことばが織り込まれているべきでしょう。ことばとメロディが浮きあがって離れていくのではないのです。楽器をやっている人は、わかると思います。

 よくポップスとクラシックの違いは何かと聞かれるのです。その参考に、次の曲をかけます。これはタミアというヴォーカルで、クインシージョーンズがプロデュースして有名になりました。ラジカセでBGM的に小さくかけて聞くと、本当の意味でのヴォーカリストの限界とか基本の力というのが、わからないのです。目一杯大きくして聞くと、直接、飛び込んできます。この体に入れるという体験が必要です。 今のコンサートはかなり加工されています。勉強するときにはわかりやすいものがよいのです。こういうものを聞いたときに、まず体力づくりから、明日から走らなくてはいけないと思う人は、正常な感覚です。まだ自分は声が出ないなとか、最初の響きが悪いなと思う人は、その前の踏み込みの厳しさとか、テンションの高さとか、息が実感できていないわけです。だからその表面だけを練習していくのです。

○できることで絞り込む

 練習の仕方には、いろんなやり方があります。目標も、さまざまにあるのですが、できるだけそれぞれの目的にふさわしいやり方を感覚でとるしかありません。 劇団などでも、同じような質問がでます。「どうしたら高い声が出ますか」とか、「声量のつけ方を教えてください」といわれます。それができないということが、今やってはいけないということです。まずそこの中で体を使ってみて、一番自分が乗り切ったという状態に自分をもっていくことです。それから音楽を聞きこんで、一瞬でも入っていくということです。並の体力、集中力では疲れてしまいます。それがピークになるような状態です。そのときに何か間違えというか、奇跡が起こることがあるのです。自分でない自分が出るわけです。 それが第一歩です。それ以外の、自分のテンションで、自分の声で、自分のトレーニングをしているときには無理です。その大化けがどこで起きるかということです。

 たった一瞬でよいから、ここの部分に自分は接点をもったという感覚が得られたかどうかです。それは待っていなければダメです。待っていて、それがパッとつかめたら、次の日から出せます。先生が指摘して「それがいい」といわれても、自分で実感していなければ、わからないものです。 ヴォーカルの練習で一番ダメなのは、写真家でいうと、何百枚撮ってみても、みんな撮りっぱなしなのです。そうではなく、一番のシャッターチャンスの瞬間だけをきちんと撮って、それをよくみて、これはよい、これはダメ、もう一瞬遅く撮ればよかったとか、見当をつけていくのです。それを自分でやっていかない限り、上達はしないのです。やるにつれて器は大きくなるし、体も強くなるし、音楽もたくさん勉強できます。でも自分がそれを自分に使いたいとしたら、その瞬間に選び再現できなくてはいけないということです。【説明会☆☆ 00.4.14】

■特別レッスン

1.声楽との関係

 声楽ほど確実な基準をもって、ある期間に、あるレベルまでもっていくというやり方は、ポップスの場合はなかなかとれないのです。やらない人は身につかないことも、やった人は確実にそこまでいきます。 ポップスにおいて歌がうまいとかへたとか、声ができているとか、できていないというのは、かなりトータル的なことが準備できてこないと、何もいえないのです。だから、若い人や迷う人には、声楽のような基準を獲得しながら、やるのもよいということです。(手本、役割) ポップスは、実際に歌っている人が様々な形をとりますから、見えないものの方が大きいわけです。たとえば、姿勢も自由です。自由といっても、柔らかくみえ、力が入っていないように見えるとしたら、そのことが正しいということです。そのことが自分で、なかなかわからないから、きちんと声楽でいわれる姿勢をとってやるということです。ただし、10年がかりの勝負であることは忘れないことです。

2.家でもできるブレストレーニング

 自宅で声が出せないというのは、ほとんどの人が抱えている問題です。練習場所に恵まれている人はあまりいません。 そういうときは息のトレーニングがベースだと思います。声を出すということは、最終的に自分の息と体を確認して、声に結びつけなくてはいけないのです。 では声を直接、鍛えられるのかというと、結果としてのどを鍛えるやり方もあります。しかし私は、心肺機能と、それを支える筋力を鍛えた方がよいと思います。 バッティングでいうと、息吐きは素振りみたいなものです。ピッチャーは実際に投げて筋肉をつけるわけではなく、違う方法で鍛えるのと同じです。その方が間違わないからです。フォームもわからないのに、実際に投げると、無理がきて、おかしな方向にいったり悪いくせがついたりするからです。 声が出せないと上達しないのではないかといわれます。もちろん、全く出さないとわかりません。声も出してはじめて確認できます。それを中心にする時期も必要です。 息や体というのは、頭で思っても、判断はできません。声を出して確認するのです。

3.声を出さずにやる

 レッスンがおわって、やったことを書き出してみると、こういうことが頭に入っているとか、この質問ではやはり伝わっていないということがチェックできます。声にするというのは大切ですが、それを鍛錬したり、鍛えていったりするのは、声の力そのものだけではないのです。 その息とか体が準備できてきたら、ある時期、声を出しながら歌にする方向をみながらも、声を出すことで体を鍛えたり、より必要なところの息を使うということを、どこかで集中してとらなくてはいけないと思います。 自宅でやるべきことは、効果がみえないように思ってか、やらなくなってしまうのです。柔軟をすること、体力作り、集中力、息吐きなどは声を出すことよりも大切なことだと思います。体の条件づくりになるからです。

4.Q.単純に息を長く吐くような訓練というのはプラスになるのでしょうか。

 最終的にはどれがどう正しくて、どうなるのかはわからないのです。歌の感覚があっても、そこに息が伴わなければ、声になりません。自分でイメージをして、プレイを思い描いていても声に伝えられなくては描けません。 息を長くすることが目的なのではなくて、息というものを完全に体でコントロールすることが大切なのです。 息以外で、声はコントロールできません。息を長く「ハーッ」と吐く練習も、「ハッハッハッ」と短く出すのも、そのための練習です。

5.強化トレーニング

 何となく練習したという気になるのは、体が疲れ精神が充実するやり方とかです。強化していくことと、調整していくことは違うのです。それはどちらがあっている、どちらが間違っているというのはありません。両方とも歌からいうと、ワンクッションまえのことです。目的が違うわけです。 「ハッハッハッ」と息を吐いてやるのは、筋力を鍛えるためです。息を長く吐けないと、歌うとき、自分が途中で大きく出したりするときに、息が切れ、歌の中にも表われてしまいます。そういうことが起きないためにやるのです。 私はトレーニングというのは負荷をかけることだと思っています。そのことによってバランスは崩れます。どこかは強くなるけれども、どこかはバランスが取れないので、結果はすぐには出ません。一時、悪くなることさえあります。 それは結果が出るまでやらなければ仕方がないことです。

6.感覚とトレーニングを結びつける

 プロのビデオをみて、この人はこんなに息を繊細に使っているのに、ここではこんなにも出せるんだというような感覚を自分に入れて、そこから結びつけてトレーニングするとよいでしょう。 音程でも同じです。音程の複雑な曲を聞く、複雑なのに、その人が歌うとシンプルに聞こえてしまうと、ということは、その人はその音感でとっているわけです。 読譜の練習でも、慣れてきたら、音の流れが聞こえてくるようにしてください。 多くの人は、音が聞こえて声を出しているように思っていますが、大して聞いていないものです。まして、それを心で聞いたり、体で聞くということがなかなかできないことです。

7.舞台の状況をイメージする

 人間というのは、その状況にならないとできないのです。 たとえば、歌詞を読みなさいといっても、それはことばの発音でしかない場合が多いのです。 でも歌い手としての練習をするのであれば、その歌詞を引き受け、そのことばの背景を感じなければいけません。またそれを感じさせるように出さなくてはいけないのです。そういうことを瞬時にやれるようになるために、日頃からトレーニングをしておかないといけません。 その歌詞が心にしみるような瞬間というのは、日常の中、今まで生きてきた中にあり、そのときには必要なことができているわけです。 でもそれは知らないうちにできてしまったことであって、何時何分にここでやりなさいといって、できることではないのです。意図的に虚構の世界を作っていかなくては、それに対応していかなくてはいけません。

8.音程は、音感から正す

 音程を直すのに一番よいのは、楽器できちんと聞いていくことです。歌では、音程がわかりにくいところがあります。楽器をきいて自分でやってください。慣れからです。 フレーズコピーのレッスンが難しいのは、耳が慣れていないからです。苦手なものほど出てください。 聞くことは、とても大切です。これをお客さんのように見ているのでなく、自分がステージ側に立ったときに、自分の感覚がどこまで対応できるのかでみるということです。 それは優れたものと比べればすぐにわかると思います。優れたものを見なければ、自分の方ができているのではないかというふうに思ってしまいます。そういうものから、わからないうちに、入れていくことです。

9.声を体に戻す筋トレ

 体は鍛えておいた方がよいのですが、それが声に結びついて出てこなくてはいけません。声を鍛えようと思っても、のどそのものを痛めるだけです。息を深くして、そのコントロール力をつけること、その息をどうやって声に変えるかに集中してください。さらに、体のコントロール力をどう息に反応させるかということをやっていきます。 体を鍛えるのはよいのですが、筋トレというのは、スポーツの選手だったら、みんなやっていることなのです。それだけでは何とかなるものではありません。

10.迷いと実感

 経験していくに従って、いろいろな声も出てくるでしょう。いろいろなのせ方も出てくるでしょう。その中で自分がよいものを聞いていると、それを正す感覚が入ってくるのです。 しかし、息に声をのせるときの迷いがでてくるでしょう。 迷っているときというのは、自分でも不満足なのです。そこでは、判断の保留をすることです。 その迷いの中で、先生にこれがよいといわれても、納得できないでしょう。あなたが、心中で迷うと、正しくも出てこないのです。 結局、本人が実感してこれだと思うものとか、今はこれはダメだけれども、磨いていったらものになるという、そういう部分の直感というのが大切だと思います。だから、狂いのない体や息からやるのです。

11.できること、できないこと〜自分の声を知る

 自分がなりたい声というのをイメージするのも大切です。しかし、自分のもつ、声のことも知っていかなくてはいけません。 たとえば、私がマライアキャリーのように出したいと思っても無理でしょう。それは楽器が違うからです。でも米良さんは、女性の音域で、柔らかい声を出しています。 本当に出せるようになりたいと思ったら、ある程度は出せるでしょう。ただ本当に通用する声になるかということになると、難しいでしょう。

12.似ている見本は、よくない

 他人の声を、どんどんと意識していって欲しいのです。もちろん、それに似せたまま出してはダメでしょう。 自分と似ているヴォーカリストというのは、練習はしやすいところはありますが、同時に間違いを起こしやすいものです。どこまで自分に似ているかというのはわからないものです。似ていても微妙には違うわけです。そういうところをそのまま受けてしまうと、その人を越せなくなってしまいます。 直感的に、その人の体の原理に基づいて出しているものを捉えられるようにしていくことです。表向きに聞いてそれにあわせてはいけません。声質や声域の違いということは表向きのことです。そういうことで歌が判断されるわけではないのです。その人が、どういう感覚でやっているかということです。

13.異色なのもに学ぶ

 たとえば演歌をやりたい人と、ジャズでやりたい人というのは、感覚そのもののところで、どれが自分にしっくりくるというところから違うわけです。 しかし、自分の手近なCDくらいしか聞いてきていないなら、一度、好き嫌いを捨てることです。 勉強するにも、もっと違う国の違う時代に拡げましょう。それに関わらず、自分が心を引かれるものがあるということで、自分の深いものを発見したり、確認していくのです。そういうものを取り入れて、自分自身で思い込んでいる器を壊し、もう一度自分の中で判断し再構築していくことです☆。 時期によっても違うでしょう。今は心引かれている曲も、5年経ったら嫌いになるかもしれません。昔はあまり好きではなかったのに、好きになってくることもあります。それが自分の歌うことを支配してしまう場合もあります。 そのように自分の中で格闘していかなくてはいけません。 ここでは外国のものを多く使っています。それは先のイメージとか、先の声に対してやっているのです。全く接点がつかないようであれば、日本のわかりやすい歌や今流行っているものから入っていってもいいと思います。

14.表の声、裏の声

 完全に声帯で共鳴ができるところと、ファルセットに抜いて出すというのがあります。美空ひばりなどは、裏声と地声とのあいだに、ミックスしている部分があります。男性は、森進一さんや美輪明宏さんも参考にしてみてください。 感覚の中でコントロールしていれば、意識する必要はないと思います。高くなって、その気持ちになったときに、声が細くなったら裏声で、声が太かったら地声くらいというものでよいと思います。完全にそれをわけて歌うものではないと思います。 もともとは、人間の感覚で、コントロールしているものと考えましょう。同じ音高でもあるときは裏声で、あるときは地声となり、同じ音でもあるときは響きで抜け、あるときは太くシャウトできているというようなところから考えた方がよいと思います。

15.行動力

 一見、無駄なことのようでも一所懸命にやることです。芸事では回り道をしたり、道を間違えたようでも、何かの経験となります。自分の体や精神に関して、自分によいように取り組んで、行動することです。 頭だけで迷っていたら、電話一本をかける、かけないで2時間、迷っているなら、心の勉強かもしれませんが、本当に必要なとき、忙しいときは、すぐにかけると思います。自分のステージが迫っていたら、ぱっとかけるでしょう。その行動習慣を日頃から身につけることです。 何かをやっていくためには、皆、同じ人間で時間も同じです。それをどう使ってきたかということだけです。誰もがお金持ちだったのではないでしょう。そうでない人たちが、どうやって時間とかお金とかを動かして、人を動かしてものごとを作り上げてきたかということを、勉強してください。

16.感覚を入れる

 大切なことは、それがどう自分に役に立つかということを見つめることです。音を聞いて、合わせていくやり方というのは、知っている曲以外は微妙にずれていきます。 リズム練習で、音にあわせて打てても、音楽的にはほとんど意味がないのです。ピアノやギターがドラムに合わせてやらなければいけないとしたら、すでに音楽は成り立っていないのです。 ただ、そのマップもなく、テンポ感もないうちは、そこから練習をするということです。つまり、そういうことに反応できるようになることに意味があるということです。

17.順番にやる

 レッスンの中で、音やリズムを聞いて、歌詞をとり、フレーズを創造するとなると、それは基礎が確実にできていない限り、難しいことです。 たとえば、音感も、リズム感も慣れている人がイタリア語でやるなら、イタリア語の難しいところだけを気をつければよいのです。 しかし、初心者で音をどう取るのかということもできないなら、全部手つかずになってしまいます。 そういうものを補うための一つの方法として、基礎レッスンがあります。

18.声楽の基準は、教えるのに役立つ

 声楽をおいているのは、歌や声についての基準がはっきりしているからです。たとえば、カラオケの先生が、「いいですよ、あなたのここがいいね」といっても、それで本当に伸びるのかというと、大して伸びないでしょう。ポップスで、あるレベル以上の人たちがみんなもっているもの、レッスンに出たときにすぐできることは、できなくてはなりません。 そういう能力が、あなたにとって10分の1でも、100分の1でも、プラスになるのであれば、入れておく価値があるのです。 声楽で得たことで、チェックができることは、何かのときに役に立つかもしれません。何よりも一番役に立つのは人に教えるときです。

 楽器をやっている人は、リズム感がよいわけです。 そういうことの大切さというのが、最初はわからなくても、少しずつ、わかってくるでしょう。 いろいろな方向からいろいろなレッスンがあります。それに刺激されることです。もちろんできることだったら、やらなくてもよいのです。できないことだったり、合わないことだったりすると、つかめないものほど試みることです。すると何かが変わっていくのです。 それがすぐに自分の歌に結びついたり、プラスになると考えるから、間違いやすくなるのです。長い目で見たときに、5年後、10年後そのことで得たものが、大きく出てくるようにすることが大切です。

19.その世界を観る

 今、できることをすぐに問うているわけではないのです。最初は、自分には何が入っていて、何が足りないのか何が苦手なのか、そういう弱点を知っていくことです。 そういう基準があるようでないから伸びないのです。ここでも、そのことができないと絶対に歌えないとはいえません。 自分にとって一番よい勉強法を見つけるために、トレーナーが何らかの意味で価値があると思っていることは、取り入れてみればよいというふうに考えてください。本当によいものをみて、よいイメージを流していくことです。 そして、それは、声や体ですぐに取れないことを、知ってください。そこでどんなに練習してみても、そんなものでできるのであれば、誰でもできるようになります。 できないのは、それに必要な息とか、体とか、そして感覚が対応していないからです。そのことを知ったら、もっと聞いて、きちんとイメージをしていきましょう。体は体で鍛えていくことです。

20.条件づくり

 たとえば、息吐きを1分やって疲れる人が、もし3年やって、そのことを10分もやっても、誰よりも疲れないとしたら、そのことでやりやすい条件が整ってきてきたのです。そういう中で、できたという基準ができてくるのです。 所詮、迷っているときは使えないのです。それが使えるというふうに自分が実感できる、その条件を整えていかなくてはいけないのです。だから声一つでも、ことば一つ読むことでそれがわからなければ、テープを聞き返すことです。 何事もやって、それを切り捨てていくのと、やらないでまつ、一つの発声トレーニングばかりをやっているのでは、違います。 役に立たないというならば、徹底して、おれはこうやるというやり方をみつけ、やっていけば、それも一つの自信になってきます。

21.Q&A

Q.トレーニングで間違った方向にいくと、癖になって、あとで戻れなくなるようで怖くて、不安になるときがあります。

 それはポップスの難しいところです。でも、歌っている人たちが発声の原理からいって本当に正しいのかというと、違っています。それがくせ声として個性になっている場合もあります。 「たま」がクラシックや発声の勉強をやったら、ああいう世界にはなりません。日本人特有ののど声ですが、そのなかでいろいろな声の演出をしています。音を動かすことに、ある感覚はすぐれています。誰もあの真似はできないからよいのです。 その基準がどうしても欲しければ、声楽という基準でしかいいようがありません。 あなたの声や歌を聞いてみても、今の時点では全く練られていないと思います。これはあなただけでなく、20代前半の人なら、たとえプロであっても、そうでしょう。 練られるというプロセスを、どういうふうに取っていくかというのは、ポップスの場合は何年か経ってみないとわかりません。 発声練習ができなくても、歌を歌わせてみたらよいときもあります。アカペラでダメでも、バンドをつけてみたら結構聞けると思うときもあります。それは判断の基準が違うのです。 ステージでみて、よければよいわけです。ただ、ステージとしてよいものを作ろうとしたら、脚本も含め、劇団のように、基準よりももち味となります。

Q.のどを開けるという感覚がわからないのですが。

 のどに負担を与えたり、ひずませたりしないことです。ことばで「ハイ、ライ」というと、のどが締まっているときの感覚はなんとなくわかると思います。 のどに負担がかかると、声がかすれてきます。そうすると、のどを休ませないと再生がきかなくなります。のどを開ける感覚というのは、それが除かれていたら構わないのです。何度も再現がきくようにやることです。もっとも出しやすい音で覚えていくとよいと思います。【カウンセリング 00.4.21】

1.日本の歌の学びにくさ たとえば「エディットピアフの生涯」の劇中で、こういうものが歌われたときには、最高の状態になるのです。だから美輪明宏という人は、やはり“女優”というのか、そういうシチュエーションにはまって、そこを動かしているときに歌を使う、そのための歌になっているのです。 コンサートよりは、そういう舞台をみにいく方がよいと思います。コンサートは、身上相談が好きなおばさんたちがたくさんきています。 日本の場合は、主婦を捉えなければロングランはできません。歌だけ歌っていればよいのに、どうしても殺陣や時代劇をしなければ、一つの芝居を見て、歌が聞けたというショウにはならないのです。 弁当を食べながら歌を聞くのも、それはそれでよいと思います。 美空ひばりさんは、ある時期まではすごく世界共通のベースがみえていますから勉強がしやすいのです。しかし、それが応用されたものからは、読みにくいのです。その舞台というものをきちんと自分が知らない限り、間違えてしまいます。

2.見せ方 美輪さんの天才的なところというのは、5分間くらいのシチュエーションを与えたときの、その中の全ての所作と見せ方です。あの人は舞踊から声楽まで全部やっています。たとえば、腕を動かすだけで、船が去っていって、男と女が別れるというようなシチュエーションを、最低限の動きだけで出せてしまうのです。今の女性には失われてしまった日本女性の身のこなしも。 男が、女性のしぐさで、すがりついたり泣き叫んだりしても、ドタバタ劇にはならないのです。ということは、その動きのしなやかさとか、間とか呼吸が全て計算されているからです。 そうでないからそう見えるという部分もあるのです。歌舞伎の女形の人の方が、女性らしく見えるというのと同じです。それぞれの文化に見せ方というのがあります。

3.独力の限界 オーディションでは、歌がうまい人はたくさんいます。しかし、限界がみえるのです。つまり、独力の限界です。 自分一人で歌っているだけなので、課題曲をパッと渡されたときに、その課題曲をきちんとその場で組み立てることができないのです。そうすると、何も形がなくて15歳くらいの勢いのある人が勝ってしまうのです。20歳くらいの人の方が技量もあって、全てうまかったのですが、他人の曲になると全然ダメになってしまうのです。 ということは、応用の感覚と、感性が見られてしまうわけです。応用したものでオーディションするというのは、そういうことです。宿題を出して、それでオーディションするということではないわけです。 面接でも同じで、その場でどう答えるかとか、本人が終わったと思った瞬間に質問をふって、それに反応できるかどうかでみる、それが頭でやってきた勉強と、身につけた芸との違いです。

4.日本人の魂の行方 でもたぶん、この多くの芸は、全部滅びてしまうのではないかと危惧しております。歌舞伎以外は生き残らないのではないかともいわれています。 落語も日本舞踊も、どうでしょう。真似する人はいるのですが、人材がいなくなってしまったのです。それは歌い手の世界でも同じです。真似する人は多くなっても、自分で新しいものをもちこんだり、変えていこうという人は、いなくなります。 昔どおりに、そのまま輸入しているだけです。いや昔はまだこういうふうに変えていたのです。わけのわからないものを、向こうで流行っているだけではなく、その中の本質的なものを日本人として、きちんと取り出していたのです。 彼の場合は、舞台というのは泣きの場で、お客さんを泣かせて何ぼのものでした。それは当時の日本に必要だったことと思います。

5.日本人の非創造的環境 日本の歌い手というのは、それなりによかったときもあるのですが、それを壊そうとか、それを最低限にして乗り越えていこうという考え方を、この国はしないのです。まわりが大御所に、30代で祭りあげ、先生にしてしまうからです。その形をまねて、そのしたにつこうという人たちが集まって、よい話しか入らなくなります。 自分の芸も、それなりに保てるし、年相応に貫禄もつくし、それだけ勉強したものが出てくるのですが、それで終わってしまうのです。一代で終わってしまいます。 それをやめようとして、家元など作ってしまうと、今度は他のものを許さなくなります。許さないのはよいのですが、その基準をスタンダードとしてきちんとしなくてはいけないと思います。 発展する分野では、新しいものを作ることで、まえのものを否定していくわけです。日本の場合は、それがどこかでやられているのかということを基準としてもちこんでいきます。 そういう中で、こういう人たちはとても特殊な人たちでした。今、流行の起業家も同じで、要は、人と違うことをやることに、その人の本当の意味があるのですが、この国においてそのことは、いろいろな意味で周りの人の信頼とか、期待を裏切っていくことになりかねませんから、やりにくいのです。どちらがよいのかわかりませんが、ただ、いろいろな人がいた方がよいとは思います。

6.基本は縁の下の支え これは「メケメケ」で、ベコーの代表作です。どうしても彼のその当時の歌とあわないし、向こうからもちこまれたシャンソンの中でも、特異なものです。 自分に合わないものをどういうふうに自分に合わせるかということより、自分に合うところから、これを変えていったのがこういう形です。この歌詞一つにも、才能があふれています。 よくこういうものを真似してやっている人は、いるようです。しかし、きちんとした人は表には出ていませんが、基本が全部支えているわけです。しっかりとしたリズム感や、音感がなくてはいけないし、そうでないと音が動かせません。 基本がそのまま出ている歌い手というのは、三流です。基本がなくて基本が出ない人もいますが、基本だけしか見えないとお客からしてみれば、全然おもしろくもないわけです。 養成機関で、こういう応用された例を勉強できないことになるのです。どうすればよいのかというと、そのまえの基本のところをみればよいわけです。 私は、日本人と外国人の曲の捉え方を、そういうふうにわけて説明しました 何が消えて、何を取ったかというところと、逆に、これを原型に戻すとどうなるかということで考えることです。

7.パターンとフレーズ 「メケメケ」のところの語感、「ラ」というようなところの韻を踏むようなところ、歌というのは、そういう言語の韻を合わせたり、リズムで進んでいくものが多いものです。これも美輪さんは美輪さんなりに一つのパターンを踏んでいますが、リズムにのっかかったものというよりフレーズにのったものです。この「ラ」の二つでも違います。そういうものに音の世界というものは、微妙に反応していくわけです。 多くの人には、何が起きたかわからないと思いますが、ただ、そこで消えたものが、自分に基本があって、音が進んでいて、リズムが進んでいたら、とれるはずなのです。ことばで、あるいはメロディーで追いかけているから、消えたものがなくなってしまうと、そこでバタバタとしてしまうわけです。そういう捉え方を勉強するようにしてください。とりあえず美輪さんの取り方もあるということで、聞かせます。「別れの杯だよ 涙をふいておくれ」【美輪明宏さん 00.4.25】


■V検、L懇コメント

○発表は、はれの舞台

 感情表現の一番気をつけなくてはいけないことは、その感情表現に流されないことです。悲しく表現することと、悲しく思うこととは違うし、悲しく感じさせることであったりするのです。それは似ているようでいて全然違うことです。 歌の中の練習のプロセスにおいては、感情表現に流されてみたり、そういうことでつかんでいくということも必要ですが、そういう戦いを終えてきて、出してきたことばやメロディというのが、強さとか、張りとかきめを失ってしまうと、だらしなくなってしまいます。その辺のバランスを考えなくてはいけません。

 だからといって、両立するのは難しいことです。感情をいれようとすると、いろんなものが乱れてきます。その乱れがどこで整うかということは、日頃からやっておかなくてはいけないことです。 いろんな歌い手のタイプがいると思います。感情だけや心だけを考えて歌うとか、声のことだけでコントロールするとか、ひびきだけをコントロールして歌うとかいいますが、でも全部同じようなことではないかと思います。 実際に歌から展開した世界を出していって伝えるのに、どこをポイントとしていっているのかというようなことです。 発声一つにしても、胸や鼻のところで捉えるとか、頭の先で捉えるとか、口よりも30センチまえのところに集めるとか、いろんないい方があります。

○ルールを生かす

 強弱のつけ方で、音楽的な効果を考えたときに、これには正解はありません。1フレーズずつ叩いていけばよいと思います。それを考えなければ、逆効果になってしまうこともあります。 また、そこのちょっとした使い方で、センスとか、そのことばが生きたり死んだりすることがあるのです。 たとえば、あるところをメゾフォルテで歌って、次には絶対にフォルテにもっていってはいけないというときに、そこを強く出してしまうと、それで崩れてしまいます。

 だからといって、その歌い方がダメなのではありません。そのフォルテをやることによって個性を出してしまったり、音楽を変えてしまう人もいますから、一概にはいえないのです。 でもルールがその人の中になければいけません。そこが個性、またはその人の法則性です。1回目のときにあんなことをやったのということが、2回目では同じルールの延長上でちょっと変化をつけるというのであればよいのですが、それがわからないままであれば、気分で歌っているだけということになります。そういう意味のちょっとした計算と調整が必要になってくると思います。ただ、感情ベースでやったものというのは流されやすいので、一つ消化しておかなくてはいけないということがあります。

○イメージを大きくする

 音のイメージです。声の統一ということと、心とか音色というのは違うのです。声を統一することが、心とか音色のタッチを画一化してしまうのであれば、やらない方がよいです。動力のとり出し方の問題です。 そういう意味でいうと、美空ひばりさんは、踊りながら歌うよりも、全く動かないで、集中した中の方がいろんな世界を大きく出せるということはあるのです。 イメージの中で動いていればよいということです。体を動かさないと、そういうリズムのある声は動かせないといわれたことがあります。しかし、それはイマジネーションが不足しているわけで、イメージの世界の方がずっと大きいわけです。 ただ体を動かした経験がないとそのイメージがわきませんから、体は動かさなくてはいけません。そのことがきちんとその人の中に入っていたら、たとえまっすぐに立っていても出てくるものなのです。それはイメージの方がずっと早いということです。

 どんなに体を使おうと思っても、イメージの方が早いわけです。ボクシングなどと同じイメージトレーニングの世界というのは同じです。 なぜ体を動かさないかというよりも、体は邪魔するけれども、イメージは邪魔しないからです。理想的なものをきちんとみて、それを叩きこんでいったら、あとは力を抜いたら体がその通りに動くのです。当然それに必要な筋肉とか、神経系とか、結びつきが必要になってきます。音のイメージを体が邪魔してしまったら、体を使う意味がないということです☆。

○歌のスケールのとり方

 歌は大きく歌えば大きく歌えるし、小さく歌おうとすれば、フォークっぽく弾き語り的に柔らかく歌えます。少なくとも作詞家はいろんな意味を入れているわけです。それがそのまま流れてしまうのではなく、いったん叩いてきた方がよいと思います。 フレーズやメロディで歌っていく人は、そこまでの必要性もないかもしれませんが、日本語を大切にとか、ことばを聞かせようと思うのであれば、やはり歌で壊れても、その人の気とか心が伝わって欲しいものです。

 こういう歌というのは、難しいのです。どう歌っても正解の歌で、間違いのない歌です。だからこそ自分のものを何か入れこんでこないといけません。誰でもうまく歌えるけれども、プロは、選びたくない曲になります。誰でも歌えるから、そこからどう差が出せるかということを見られてしまいます。 そういう歌はたくさんあります。1オクターブしかないような名曲はほとんどそうです。素人は音域がないからといって選ぶのですが、プロの場合はだから難しいのだということで選びません。歌うことをこなす人にとっては、とりあえず間違わずにやれた方がよいのです。ここでは別に間違ってもらって構いません。

 表現力をどこで捉えるかということは、今回の曲で難しいところだと思います。基本的には音の世界で、あるいはフレージングや息で出していって欲しいのです。当然ことばでもっていってもよいし、心象風景でも、このシチュエーションを利用してもよいと思います。 ただ、そのために力強さがなくなってしまうと、やはり伝わるものが伝わらなくなってしまいます。そういう意味では、声を整理していかなくてはいけないし、フレーズも整理が必要です。 こういう歌ほど、レッスンが利く歌だと思います。ことばの解釈のレッスンだったら、3時間くらいできるでしょう。フレーズ構成であれば、徹底して叩けるから、歌としてはよい勉強になるものだと思います。その両方をやって、到達したところから、どういうふうに自分の歌にするかということを忘れてはなりません。

○日本の歌謡教室

 昔は、歌の勉強といえばことばとメロディで巷のカラオケ教室などは、全部そういう形で進んでいました。まずメロディーを階名で歌って、それを「ラ」で歌って、ことばをつけるというのは、正攻法です。課題曲は、銀色の道とか、ザ・ピーナッツの曲のようなものでした。そういう意味では、あの頃からカンツォーネも入っていたのかもしれません。 ことばとメロディのコミュニケーションをどうとるのかといわれて、極端な話ですが、その当時はシャンソンはことばの歌で、カンツォーネはメロディの歌などといわれて、今から考えるとおかしなことなのですが、そう思っていました。それは一理なくはないのですが、そんなに簡単にわけられるようなものではありません。

 日本の歌を歌うときに、一番問題だったのは、ことばを大切に歌わなくてはいけないということでした。サビに入ってくると、メロディを大きく歌いあげていくので、声量が必要でした。カラオケでは、その構成のときにどうとるかということです。先生によっては、ここはことばでとるとか、ここはメロディでとるとか、それは両立しないという考え方の人もいました。 そういう意識は私にもあって、今の歌でも、この中のコミュニケーションのとり方が問題になってしまう人は、日本人的センスでそれをきちんと構成していかないと、中途半端になりそうです。

 Aメロ、Bメロ、サビというのも、それがはっきりとしているから聞く方も心地がよいわけです。全然構成がわからなければ、聞く方は聞けたものではありません。それは歌い手の技量というよりは、曲が本位だったわけです☆その歌い手自体のもつイメージのところで、まだしっかりとした形がなかったということになりかねません。

○歌か、人間か

 今日も、柔らかく歌ったり、フォーク調に歌った人がいます。そういう歌い方も悪くはないのですが、ひびきを口で作ったような歌い方がうまい人たちはたくさんいるのです。 この研究所ではそういう教え方はしていません。それはなぜかというと、声がよい人とか、技術が確実にある人の方が、絶対に勝ってしまいます。10年も15年も徹底してそういうことをやっていると、それなりに技術がつきます。とある有名な劇団のような感じになります。これは作品としてもってしまうところのよさと、ある種のいやらしさがあります。そのパターンだったら、あなたでなくても誰でもできるというのは、それは好みの問題ですが、それが許されるとしたら、より丁寧にきちんとやらなくてはいけないということです。専門学校でも必ずそういう歌い方をするのです。そしたら、もっときちんとした技術を出さなくては、何の意味もないということです。

○動かす力とリカバリー

 歌は大きく歌ってしまうと、大きくなります。どこは強くし、どこは弱めるかという、力の抜き方の計算がないといけません。 日本人の歌い手の一番よくないところというのは、1コーラスでできたことが、2コーラス目に煮詰まらないことです。1コーラスの完成度に対して、2コーラス目が落ちてしまうのです。集中力の問題というのもあるかもしれません。しかし、声の中で、1コーラス目に変調を起こしてしまうのです。 リカバリーをとらないわけです。どこかでは休まなくてはいけなくて、休むために強く入れるのです。息を強く吐いたらそれだけ吸わなくてはいけません。

 吸っている時間がないから、体は鍛えておかなくてはいけないのですが、そういう場合の解決方法を考えなくてはいけないと思います。 自分が強く入れたいと思うところを、強いイメージだけ流しておいて、実際は弱く歌うとか、そういうこともできます。リズムも同じです。イメージが走っているところに、実際の声が伴わなくてはいけないかというと、ポップスの世界では、必ずしもそうではありません。かなり自由度があります。そこで踏みこまなくてはいけないところでも、バンドが踏みこんでいるから歌い手は声をもって踏みこんでなくてもよいというところもあるのです。その自由度を、自分の体がその歌を耐えうるところまで、手抜きではなく、より伝える構成をとるがために、閉めていくということが必要になってきます。

○ポピュラーのおもしろさ

 一番おもしろいのは、1フレーズ目のサビのあたりです。そのフレーズの中での感覚の可能性が、一番高度に出るのが、音楽の分野です。クラシックよりもポップスの方がより個性やセンスが出るところなのです。 それが1フレーズのところで7割出ているから、2フレーズでは100%出してくれるのかなと思っていたら、全部が崩れてしまっているというのがもったいないことです。そうしたら、1フレーズだけで練習していた方がよっぽどよいのです。

 ここの上のクラスのレッスンというのは、ことばの問題とか、メロディの問題を超えて、オリジナルフレーズの何らかの説得性やおもしろさを出していくものです。他の人ができないところを出すのです。その人のもっている独特の音色で、全てを声に歌いあげないところで、結果的に息を混ぜたミックスボイスを使ってみたりすると、わけもわからずそういうものが飛んでくるのです。その揺れ具合とか、曖昧なものが、こういうポップスではおもしろいのです。そういうものが入っているものが、案外完成した作品というわけです。そういう可能性を残して練習するのがよいと思います。 声だけが飛んできたり、ことばだけが丁寧に飛んでくるときがあるのですが、それを歌と読んでよいのかわからないときがあります。考えたとおりに建築しましたというようなもので、もう一回でよいという感じだからです。カラオケできちんと歌っているけれども、キンキンとひびいているようなものと同じです。

 そういう曖昧模糊とした中にも、プロならきちんと原理が通っているのです。その原理はきちんと息や体をつけないと、乱れてしまいます。そういうものは自分の中でつっかかってきます。 そういうことでヴォイストレーニングが必要になってくるのです。 イメージがうまくいって、体に反応するときに引っかかってしまったのか、それともイメージ自体があまり構築できずに、体も曖昧なままで、それが歌になったりステージになって、広がって聞こえるときもあります。そういうものの方が、本人はわかっていなくて出てくるのですから、おもしろいのです。 イメージを構築することは難しいことです。どれを選んでよいかわからなくなってしまうかもしれません。何度もやって確実にフィットするものを自分で見ていくことです。【V検A 00.4】

○つめる

 今日のできはどうでもよいのです。ただ、もう少し歌える人とか、もう少しは表現ができる人が、その武器を見ずしてやっているのが問題なのです。上達というのはそのつめのことです。 つめをきちんとすることと、そこで変じられる状況に対応することです。それから正しく変じなくてはいけません。 その状況を自分で引き受けなさいということです。そして、できればその状況を打破する、しかし、自分が状況をもってくれば、どう歌ってももつわけです。 それが後半にかけて、誤解されて捉えられているような気がします。それを自分が許していけるのであれば、もう自分でやっていればよいのです。 歌がうまいとかへたではなく、その中で働いている判断力がどのレベルか、あるいはそのこだわりがどのレベルにあるのかということです。そのこだわりがあれば、表現が出てくるでしょう。そこで判断していたら出てきます。

○うまさの限界

 このまえ、「万物創世記」というの番組で歌のオーディションをやっていました。10代から30、40代の人までいましたが、みんなすごくうまいのです。しかし、自分の曲のうまさと、テーマ曲を渡されてやるときには違いがあって、20歳の人が技術的にはうまかったのですが、15歳の人が優勝しました。30代の人は、自分のことしか見えていなくて、そこに応用がきかないのです。20歳の人はうまかったのですが、テーマ曲になったときにうまくまとめられなかったから落ちたと思うのですが、それは独力の限界のようなことだと思います。あれだけ歌えて、あれだけ技術をもっていたら、誰からも指摘されることなく、逆に不自由になってしまうのだろうということです。そして、ああいうもので落ちて始めてわかるのだろうと思います。だから可能性としては、そこでいろいろとより動ける人をとるということです。結果的に年齢とか容姿ということもあったのかもしれませんが、比較的公正にそういうものを外して音の世界でみていたような気がします。

 歌いたいという人は、その程度に歌える人はどこにでもいるということです。その辺の学校にもたくさんいるし、スクールのライブのようなことをやっていたら、すぐに何年経ってしまうということです。だから16歳の人でもできることはやるなということです。 10代でうまい人はいくらでもいます。30代でも世の中にたくさんいます。そういうところに埋没するために、この研究所にきたのではないでしょう。そうしたがっている人が半分以上いるのかということです。それは自分で決めていかなくてはいけないと思います。そういうせこまかした技術が欲しければ、いろんな先生につけばもっとそれっぽくなっていくと思います。

○自由になる

 ステージというのは、自由を得なくてはいけません。歌の不自由さの中でやっていたらダメです。ただ、歌という型はあるわけです。その型の中で従うのが嫌ならば、その型を自分で作るしかありません。 こういうところは、泳げない魚に水泳を教えているようなもので、それができるのは私も泳げなかったからです。頭をどんなに使っても、体をどんなに使ってもできませんでした。でもそのときに頭を使っていたから、こういうことばを皆さんにいえるし、体を使っていたから、そういう感覚がわかるのです。それは今、全部役立っています。

 結局、魚がスキューバダイビングをやりたいとか、水泳を考えるから、ダメなのです。私よりも能力のある人、勘のよい人、才能がある人はたくさんいます。声や歌の世界も同じです。でも声が身につかないとしたらこれは、頭や方法がじゃましているのです。 水の中というのは力を抜いたら浮きます。力を入れると沈みます。それから海とか川の流れがあるのですから、それに委ねれば進みます。そのうえで合理的にかいたら、より流れにのったり、より楽に進むことができるのです。だから気持ちよく泳いでいるだけであればうえを向いていればよいのです。

 しかし、少なくとも舞台や勝負の世界であれば、より早く、より強く、より遠くにということが必要です。それは他人と競うわけではなく、もともと自分がもっているものを高めて出していけばよいのです。 未だに歌は自由になりません。自由にならないから、歌えないし、こうやって学んでいるわけです。だから皆さんが、歌にコンプレックスをもつ必要はありません。 ただ問題なのは、明らかな作りものを排除していかなくてはいけないということです。 表情から見ていこうと思って聞くことです。目をつぶって聞いて見たものと、開けたときはどう違うかということで、私は音の中で判断しています。そこの実際の音と表情がアンバランスなこともあります。音の世界を表情が裏切っているのです。そうして、チェックすればよいと思います。

○リアリティ

 舞台で生きるとか、歌の中で生きるということは、仮の世界の虚構なのですが、そこでリアリティを出すために、自分がきちんと引き受けなくてはいけないということです。表情の鈍さは、そのまま音の変化の鈍さにつながっていきます。表情から作ることでなく、最終的な音の変化とか、調整というのは表情においてなされるわけです。そういうものを柔らかくしておかなくてはいけません。 私の顔もものすごく柔らかいのです。こういう仕事をやっていると、硬くなります。いろいろと悩みは尽きないという感じです。しかし、悩み終えたときは死んでいるときですから、自信をもって悩んでいって欲しいと思います。

○一瞬で切り出す

 ステージだからみんなを楽しませればよいとか、のりを出せばよいという問題ではないのです。それは、自分の客のまえでやればよいことです。その要素も必要ですが、コピー力を競っているのではありません。 少なくともカラオケものまね大会みたいになってしまうような歌い方をしてはいけないのです。それでOKであれば、もっとうまい人はたくさんいます。誰でもできることをどうして得意気にやるのかというのが、根本的な疑問です。 暗いから盛りあげようと考えてくれたのかもしれません。しかし、他のことはよいですから、まず自分のことをしっかりとやることです。それが第一です。

 そこに何の技術も表現も声もないのであれば、カラオケと同じです。だから退屈になってしまいます。いくら本人が心を入れてその気になっていても、届いてくるものは何もないのです。 自分をよいと思ってくれている人もいるとか、自分の歌を評価してくれている人もいるという、そんなにいい加減なものはないのです。それは価値観の問題ではなくて、よいものは誰が何もいわなくても一瞬でわかるのです。そのうえで好き嫌いはあります。 でもその世界を認めないのであれば、トレーニングの前提が壊れます。よいものは全員が瞬間的にすぐわかるのです。ただ、その基準をはずしてステージが成り立ったというのであれば、やる必要はないのです。

 中学生でも高校生でもうまい人はたくさんいます。でも彼らは瞬時にそれを全員にわからせることはできません。その歌が好きな人とか、そういう歌い方が好きならば、それでよいのです。人間同士ですから、作品にも歌の力以外のものがたくさん働くのです。シチュエーションでも変わります。 よいものができていなくても、がんばっていることに感動して泣く人もいます。それはそれでよいのですが、そのこととそれが価値をもつとか、見せものになるということは違うということです。

 コンテストなどに出ていると、そういう人たちは技術を磨けばよいのですから、どんどん顔の表情とかが変わってきます。わかりやすさ、うまさなどが競うものになれば、それで認められます。 でも退屈なものということは、稚拙なわけです。そういうものを課題にとるというのは、伸びたいのであれば、あまりよいことではないと思います。そういうところから、真摯さとか素直さというのは聞こえてきません。へたな人はそのことを知っているから一所懸命やるのです。伸びるまえにその真摯さとか素直さがあることです。そういうものはこういう舞台の前提です。

○表情が語る

 大体表情を見ていればそれだけでもわかります。よくないと若いのにふけて、おばさんとか、おじさんの顔をしてきます。どんなに年齢がいっても、プロとしてちゃんと歌えている人たちは、子供のように、若々しい表情があります。新鮮ではない、若々しくないものは誰も聞きません。だから歌い手は年齢不詳になってくるわけです。美容のためとか健康のためにも、しっかりとそういうものをやっていった方がよいと思います。

 真摯に素直にやろうとすると、必ず不自由になってきます。しかし、歌や歌い手を尊敬し、舞台に対して敬意を払っていると、そのことが伝わってきます。歌をなめているようには聞こえないはずです。好きな歌と、自分が選曲できるというのは別です。 選曲もその人の実力です。いつも選曲ミスがあります。人から選曲ミスをいわれるということは、情けないことなのです。 万物創世記のオーディションでは、パッパラー河合さんが選んでいたのですが、舞台裏の人たちというのはやはり狂っていません。へたなものというのは許せるのです。この人どうなるのだろうと見ているうちは、非難する人はいません。そうではない場合が問題だと思います。それだけはここではやって欲しくなかったことです。

○形のまえの実をつくる

 いつも方向修正をしなくてはいけません。自分でこなそうと思って、作ってくるのはよいのですが、そのとり組みから、完全に決めがはずれているのです。 形に実が入ってきている人もいましたが、創造ということを考えたときに、ライブハウスをそのままここでやるというのは、安全策なのです。それっぽく盛りあがります。 ギターもピアノも使って欲しいのですが、その必要性が感じられないものに関しては、ない方がよいと思います。それは皆さんの勉強のためです。自分の声さえしっかりとコントロールできていないし、それさえ聞けていないうちは生でやることです。やってはいけないことをきちんと覚えておいて欲しいのです。どこかで誰かがやっているようなものはやらないことです。それを目的にしても仕方がないのです。

 ここであなたしかできないこと、あなたがやっているものを見せて欲しいのです。だから、音楽学校の文化祭かなと思われるようなものはここでやる必要はないです。 まずは自分の声、音、音楽に、きちんと心をとり出してきたかということです。それが歌の一番はずしてはいけないところです。そこを見ないのであれば、コメントをする必要もないし、皆さんで回して、お互いにほめあっていればよいのです。そのためにここにきているのではないと思います。

○楽器のレベルで聞く

 歌は素人のレベルで聞きますが、楽器はプロのレベルで聞きます。本人の中でもそれがとれていないのがわかるのです。リズムをとれたらよいとか、弾けたらよいということではないのです。 プロのギターリストをつけて、プロのバンドをつけて、どのくらいできるのかというのがベースにあったうえで、そのプロのギターを断って、自分がギターを弾く理由があるかどうかです。今日もギターの音とか、弾き方にこだわっているということがみえましたが、それも本当は疑うべきです。 そういう場合はやってもよいですが、こういう場であれば、歌をしっかりとやることが前提です。そうでなければ、ギターを習って、ギターだけでやった方がよっぽど強いです。

○ショーより、ドラマを

 ここではファッションショーを見たいわけではなく、ドラマが見たいのです。ここで起きる歌の中や音の中でのドラマです。きちんと自分の一つの武器をしっかりと使うことです。頑張ったのだから、やれたからよいというふうには捉えないでください。 そういうものは全部抜かして見ることです。ここの場の唯一のとりえというのは本音で語れることです。友人や批評家であれば、まず頑張っているからというのを認めるのです。養成所も今は本音で育てるというところがないようです。ここでは、認めるものは認めますが、認められないものははっきりといっていきます。 ほめて育てる方がよいのかもしれませんが、周りが全部ほめて育てていますから、本音で育てるところがないといけないと思います。 だから私の価値観で動く必要はありません。こうやってコメントしているのも、他のトレーナーがこんなときにはどういえばよいのかというときに、こういうことばの使い方があるという、一つのヒントのようなことでいっています。

○歌の奴隷にならないこと

 一番情けないことは、自分自身で自分の可能性を狭めていくことです。もったいないと思います。ここにきて、いろんなことを試してもらったり、感覚を磨いたりしているのに、自分がその方向にいかせないようにしているのです。 歌というのはそういうものと決めて、その下で練習してしまうのです。それでは歌の奴隷です。 自分が歌で何かを動かすのではなく、歌のしたで自分が動かされているのです。そんなものはおもしろくもありません。そんなものだったら、ヴォイストレーニングをやる必要もないし、練習をしなくてもすぐ歌えばよいのです。 ここでは、声、ことば、音に対して、その表現の舞台で見て、そこに信頼性を置いています。ここではそのことしか責任がもてません。できたらそのことに信頼を置いて欲しいと思います。

○自由と基準

 皆さんが自分のステージで歌をどう使おうと、口を出しません。ただ、ここを有効に使おうとするのであれば、基準をつけていかないと、わけがわからなくなります。つまり、伸びなくなるということです。前半の3分の2くらいのところから、嘘が混じってきます。いろんな試みもわかるのですが、誰でもできることをやっているのです。 踊りができるといっても、そういうことは誰でもできることで、ダンスがうまい人ならばもっともっとできるのです。その武器で勝負するということは捨てなくてはいけません。

 やるのはよいのですが、そこで勝負できていると思うことは、捨てなければいけないということです。その嘘くささのうまさみたいなものは、テレビなどを見ていたらよくわかると思います。 審査員の心を打ったり、お客の心を打つ人は、歌のうまい人ではないわけです。歌がうまいといわれてしまうこと自体、ほめ殺しのようなところがあります。そこで繊細な神経で聞いてみたら、音を扱うということで聞いてみたら、どのくらいごまかしているかということです。 人の心を打つ打たない、人の心に残る残らないということを念頭に置いておかないと、何でもよい世界になってしまいます。

○マイク、伴奏なしでやる

 マイクを使うのも、楽器を使うのも難しいことです。使ったらいけないということではなく、使うのであればそれだけ覚悟をもって、きちんと歌を仕あげたうえで、さらに惹き立てるために使いなさいということです。それをダメにするのであれば、なぜ、つけるのかと疑問に思います。マイナスに働いているのだったら使わない方がよいのです。ただ、それで成り立っているという勘違いさえしなければ、試みるのは自由です。

○実験の場と反省度

 とにかくこなせていると思ってしまうことが問題です。伸びた人というのは反省魔です。 反省癖がつくのもよくありませんが、事実がきちんと見れていればよいのです。そこで声が出ていたとか、音が届いたというのは前提で、何ら創造的なものができなかったというのであれば、やはり失敗なのです。その瞬間をもってこれなかったというのも失敗です。だから厳しいし、難しいのです。 歌を一曲やればやるほどすごく大変なことなのです。こういう世界というのは大変なんだということは、どこかで頭に置いて、畏敬してそこに頭をさげて、自分の歌を高めていって欲しいと思います。 一番問題なのは、皆さんがつけた体とか感覚や武器を全然見ないで、高校生に戻るようなステージはやらない方がよいということです。ここに通ったことがすべて無駄になってしまいます。

 その結果、完成度のない舞台になっても、つまらない舞台になっても、それが次へつながるものであれば、よしとします。 実験の場で、自分なりに確認していくことです。ビデオを見てみて、わからなければ、私くらいの判断基準はもって、私よりも声を動かせる人たちが講座を開きます。そういうものを使ってみてください。 そうでないというときのことばがないのです。でもことばではないところで感じて、自分に欠けているものを補って、皆さんがとり入れたらパワーアップするものは、ここにたくさんあると思います。 たとえば楽器がうまくなったら、声のことに文句が出るし、ステージが明るくなってきたら、そのことに対して伝えられないことに文句が出てきます。レベルがあがればあがるほど厳しいものです。だからいろんなことがやれている人というのは、大変だし立派なのです。そういうふうに考えて、よい方向に受け止めてください。

●L懇3<コメント>

 1、2年に一度こういうL懇があるのです。大体Bクラスです。そういうときはコメントしないか、まえにコメントしたものを配る方が早いような気がします。今プレを見る機会もあると思うのですが、オーディションの機会もあるのでしょう。最初の方は悪くなかったのです。いつもはあまりうまくいかなかったり、へただった人はそれなりの努力が出ていたと思います。そういう人たちはビデオを見て自信をもって欲しいと思います。

 形だけで走っているのは、コメントを聞いても仕方がないと思います。ただ、もしうまくなりたければ、それを1回壊さないと、どうしようもありません。実が半分の人はなんとか見られるのです。そのように三つくらいにわけていきます。 ここでも、ライブハウスとしてごまかそうと思えば、いくらでもごまかせるのですが、それをやらないのは、皆さん一人ひとりの信頼性のところで成り立たせるためです。それが成り立ったら、もっと音をよくしてやりたいとか、もっと広いところでやらせたいと、周りの人たちは動くはずです。よいものは人に伝えたいからです。

 ライブスタイルのごまかしも、日頃皆さんがやっているところでは本当のものかもしれないし、それで伝わるのかもしれません。しかし、ここに関してはそれが出てきていることが、一つの壁になっているような気がします。そのアマの壁を壊さなくてはいけません。 歌がうまい人ほど、ここに入るとき、一度ぶっ壊されるのですが、そのうちに自分で要領を得てうまい方向にもっていくわけです。それは自分では上達したと思っているのですが、退歩したか、もとに戻ったということです。楽しければよいし、好きならばよいのですが、そういうことをいっていると、ここも楽しくなくなって暗くなります。でも高校生でもできるもので満足していたら、一生出てこれなくなるということです。 ステージに表われたものがきちんとしていない、きちんと出ていないということが問題です。へたで、声がなくて、音域がなくて、体がないというときには、ここは甘く見ています。待っています。出そうとしていないとか、その方向に向いていない場合には、こうやって正すしかありません。

 勝手にやるのはのど自慢で、こういう世界ではしっかりとやらなくてはいけません。そのしっかりという意味がどういう意味なのかを考えてみることです。本当によいものなら、2時間たつと、聞いている人が元気になるはずです。 今日の中でも、優れた一瞬というのが何度がありました。そこに対するテンションなり、使い方を基準に置いたら、そんなに狂うものではないはずです。そこでの甘さとか、こだわりの部分です。【L懇3コメント 00.04】

■入門レッスン

○デビューしたあと、伸びない日本

 彼女は異端派かつ少数民族の出身で、そこの出身ということでかなりバネとか、体とかがアジア人離れしているところがありました。日本の歌や、英語の歌をいくつか歌っていました。よいとか、悪いということよりも、一応こういうレベルの人達がトップをとっているということは、国としてもきちんとしているのだと思います。

 日本以外の国のすごいところは、デビューしてから伸びていくのです。大した指導機関もなくて、欧米から比べたら、設備もよくないのですが、逆にいうと昔の日本のように、そういう中で本人が判断し、周りも判断し、という形をしていると思っています。 曲とか歌ということよりも、声の使い方に関しては、なぜ日本という国はそうなのかわかりませんが、デビューしたころの、1年くらいの方がよほどうまく歌っています。 そのことがたぶん何も誰にも指摘されず、それで成り立ってしまうという風土が一番問題だと思います。日本の場合はどうしてもステージとしてのエンターテイメント性の方が問われてしまいます。

 日本のシンガーソングライターのアーティスト性というのは、作詞、作曲になります。他の人の曲を歌っている人に、自分の曲はないのかとみると思います。でも本来それは分業されていたものです。曲は曲の天才が作り、詞は詞の天才が作っていました。 日本でもそういう時代が長かったわけです。欧米系のアーティストでも、曲や詞を作っているのはそのスペシャリストが作っているわけです。そういうものが日本の場合はだんだん逆転してきました。しかも向こうのジャズのようなスタンダードというものがありません。みんながその歌を大事に育てていくということがタブーになっています。あれがよいといってみんなが歌い合えばよいのですが、歌いません。

 アーティストが声の中でいろいろなアイデアをいれてみたり、トリビュートアルバムのような、お情け程度に作ったものもありますが、質は悪いです。今の歌い手が昔の20年、30年前のヒット曲を歌っているのもありますが、デジタル加工で、歌い手の力がなくなっていることが明らかになっているだけです。ただ、そういう見方さえしないわけです。だから声とか、音のこと、歌のことを基準としてあるところが、どんどん日本の中ではなくなってきているということです。 昔からそんなにレベルが高かったわけではありませんが、そのいい加減さが技術力の進歩によって、さらに問われることではなくなってきたのです。

○声と体がついてこない歌

 皆さんの中でもいろいろな方向があってもよいと思います。しかし、日本ほど、歌の力があったり、声の力があってもやっていけない国もないということにもなります。もともと声の技術をどう使ってというのは、いわゆるポップス系の中ではあまりなかったわけですから、そういうことの接点をどうつけていくかということが、大きな課題だと思います。 台湾、中国、韓国は、音声の基本教育をやっていることと、それから子音中心ですから、日本人よりは英語に入りやすいし、母国語で歌っていても、若い人でもこれだけ息が使えます。 日本の今の歌い手の息の使い方というのは、欧米の真似です。単に浅い息を垂れ流して使っているだけですから、リズムまで狂ってきます。本来は息がリズムを作り出さなければいけないのに、それに合わせているだけです。声も同じです。

 今の日本語の崩し方というのは、基本的に向こうのリズムに日本語をバラバラにして、置いていっているのです。英語にカタカナをふって読んでいるのと同じで、日本語に英語的なリズムを載せているわけです。 もともとリズムというのは、もしロックを歌いたいならば相当にすごい体が必要です。ロックが入っていて、日本語がそのリズムに引っ張られて離れていくというのが唯一、ストレートなやり方です。拍を打つところで日本語をずらしていくというのは、言語不明瞭になるのです。ただ、それっぽくはなります。 日本語ラップがそうです。ラップになっていないのですが、それをラップといっています。要は、メロディーがついていないからラップだという考えです。そこのギャップを見ていく耳を養ってください。

 昨日CのV検があって、やはり甘くなってきているという気がします。結局、歌とか、音楽ということは、現実に地をおろしてこなければ伝わらなくて、それをやるのが息や体です。 本来そこにおりてきた音楽に対して、観客が巻き込まれないということがおかしいわけです。ところがその人の中だけで回ってしまったり、その中での創造活動ができずにただ歌いこなすということになると、通じません。 とにかく全てにおいて、創造的な活動として取り上げるのであれば、アイデアと、創造力、そのイメージをどうもつかということが大切なのです。それに対して現実の体がついてこない、声がついてこない、技術がついてこないということでトレーニングが成り立つわけです。

○呼吸のやりとり、音を動かす

 10代のうちはわからないから、体を作っておこうとか、集中力を作っておこうということでもよいですが、今皆さんに一番大切なことは、自分の音を作り出す、生み出すということです。 基本的に日本人は声を小さくするとテンションが下がるのです。でも逆なのです。小さくするからこそ、テンションを保っておかなければいけません。大きな声というのは、サビの部分などで自然と成り立つのですが、弱いところに対してそのテンションをもってこなければいけません。ダラダラとしてはいけません。 特に日本人の歌い方はマイクを近づけますが、そこで動きが止まってしまうのです。ことばから勉強してください。その下にはいろいろな音のイメージが隠れているのです。

 バンドが大きく出たら大きく出るというのが日本人の考え方ですが、音楽を総合的にみたときには必ずしもそうではありません。ソロでギターにとらせてやるということで音の効果を明らかにしているのはジャズがわかりやすいです。 音に関する勉強に対しては、大抵の音を読みこんでおいてやることです。これがなかなかできないのです。ことばのようであって、そこにメロディーもあるし、そこにリズムもあるのです。「イザベル、イザベル、イザベル、イザベル」 これの原型になっているのが4番です。そこから派生しています。まずサビからやってみましょう。この4つの「イザベル」の違いが出せますか。頭で考えて出すとおかしくなります。要は、変えてよいところと悪いところがあって、呼吸から外れるところになるとダメなのです。だから呼吸で変えるしかないわけです。その呼吸を変えるのが、結局心とか、気持ちの部分です。

 最終的に、音楽の心地よさというものは、結局、呼吸のやり取りになってくるわけです。ひとつ定点みたいなものが大切で、その定点を打たなければいけないというわけではないのです。その感覚をもっておけばよいのです。その定点をどう効果的にずらしていくかというような感覚が必要です。 他の言語はみんな子音中心ですが、子音というのは基本的に、発したときに音になるわけではないのです。母音は発したときに音になりますから、日本人はそこだけ捉えています。子音の場合はそこからいろいろな可能性があって、息だけになってしまうときもあるのですが、そこでもカウントできるのです☆。

 声楽家についてヴォイストレーニンをやっていると、声の効率に几帳面になりすぎてしまうわけです。これは日本の歌謡曲とか、演歌とか民謡とかでもみんなそうです。ところが実際のポピュラーは、息もれのところで声になっている音が使われている場合が多いのです。しかし、定点のところをもっておかなければ、息だけだとわからなくなります。「イザベル、イザベル、イザベル、イザベル」 音を動かすというのは、こういうことです。ジャズのアドリブとかシャウトとかも同じですが、日本人がどんなにやってみても何となくおかしいというのは、結局そういうところからきちんとつかんでいないわけです。 こういうわざとらしいことをやって、何回も舞台で同じことをやっても、きちんともつというのは、日本では美空ひばりさんくらいだと思います。

 ああやるんだと思って見ていても見れるのです。普通の場合は崩れてしまいます。そうしたら、逆に崩れないために何をやっているのかということを見てみればよいのです。それはやはり呼吸、リズム感、音感、きちんと支えている部分があるわけです。きちんとリズムも音もとっていて、絶対にはずしていません。 だから、だらしなくならないのです。これからひとつでも外れたら、もう崩れてしまいます。こういう冒険ができることが、基本が入っているということになるのです。「イザベル、イザベル、イザベル、イザベル」 1フレーズをきちんと合わせることです。合わせるということはピアニストとなら、最初の出だしで引きつけなければいけません。そこでの呼吸と声と、リズムとを分けなくてもよいですが、それを充分に自分に合わせるということを読みこんでいってください。

 1曲は誰でも歌えるわけです。どう歌うかでしょう。逆にいうと、1フレーズでやることがどのくらい難しいかというところの問題をきちんとあげてくることです。 歌えればよいわけではありません。お客さんにとっての歌にならなくてはいけないのです。それが飛びこんでこなくてはいけないし、引きつけなければいけません。 大きな声で「イザベル」といえば、飛びこんではきますが、うるさいということになってしまいます。それを支えるために何があるのかというところを見てください。発声の勉強をしながらも、発声であっては、歌はいけないというものです。【「イザベル」入@ 00.2.22】


<音楽の壁 しぜんな成長と反する上達法>

○感覚で体を正していく

 声というのは、入っているものが出てくるわけです。感覚が変わると、それにともなって体が変わります。その差が本当の意味でわかるのに何年もかかるのです。 歌を聞いても、安定感というのがあります。たとえば、何回も聞いていると飽きてくるとか、だんだんうるさく感じてしまうというのは、すごく不安定なわけです。その安定感の一番ベースにあるのは、その人のクリエイティビティへの信頼なのです。

 声でいうと、落ちつくところのベースです。歌い手が確実に声をつかんでいて、その中で世界をきちんと出しているかということです。それがたまにあたったり、ひびいたり、ひびかなかったりという偶発性なものではないのです。 本当は声一言からやらなくてはいけないところです。そのこと自体を正す基準をもつために、ここはできた、できていないということがわかるトータル的なものは、感覚で入れていくしかありません。 歌に入るまえに、声をつかむということと、それを動かすということを知ることが必要だと思います。

○感覚の切りかえ

 トレーニングというのは、部分的、意識的にやりますから、必要悪です。イタリア語の歌でやるのは、それが難しいと思うところに差がみえるからです。 Jポップスなどを使うと、誰でもできてしまっている気になるものです。でも、そこでのできるということは、単に歌えたかどうかということで、本質的なものではありません。そうなってしまうと本当の練習にならなくなるのです。 応用というのは、結果オーライの世界です。

 トレーニングは意識をして息を吐いたり、体を使ったりはしなくてはいけないのです。しかし、そこで取り出されたものに関しては、そこに意識があってはいけないというような、とても矛盾したことをやっているのです。それを感覚を切りかえることによって、うまくやっていかなくてはいけません。 最初にやって欲しいのは、外国人のを聞いて、聞き比べてみることです。どういう練習をすればよいかがわからなくなったら、1年間、かけても、よいものを聴いて、それに合わせて息はきをしている方がよいでしょう。

○体と結びつける

 口先で作ってしまいがちな声を、体と結びつけていく練習をしていくことです。声にならなくてもよいのですが、今のは少し深くなったとか、これは重くて体を使わないと難しい声だということがわかったら、そういう感覚をつかんで体に負担を与えていくことです。それをのどに与えてはいけません。体のところで踏み込むことです。体にこもらせるのではありません。ひびきはあとから出てきます。 そのベースがない人は、どこかの段階からひびきだけでやっていけなくなります。 同じ条件のところだけでやっていくと、とても厳しくなります。限界をみたらやり方を変えていけばよいのです。多くの人の場合は、まだ出る声がたくさんあるのに使っていないわけです。それを使い切り、マップを作りましょう。そして、それを捨てていき、そして本当に使える声だけを自分で完全にコントロールできるようになることです。そのうえで好きに応用していくことです。

 どこでため、どこで収めるかということです。ことばを何回もいっているところから音楽にしていくのと、先に音楽を流しておいて、その中にことばを入れていく方法です。結果としては同じになります。皆さんの中で、歌が聞こえてくる人はなぜかと考えればよいのです。 こういうものは一音で表した方が早いのです。きちんとまず提示して、ベースを作っておいて、そこから踏みこんで、また離していくというような起承転結ができています。承のところがその人のセンスになってきます。こういうずらし方はスタンダードにとても多いものです。一つの構成というのを勉強すればよいと思います。 歌というのは連続しておとしていくものですから、たとえば「ハイ」ができたからといって、そのフレーズができるわけではありません。そのフレーズができたからといって、一つのブロックの固まりができていくわけでもありません。

○全体の絵をみる

 歌の場合、部分的なことはトレーニングでやっていかなくてはいけませんが、でも100の完成度をもったフレーズを、全部並べてみたらよい歌になるかというと、そういうことではありません。中には30とか70があってもよいのですが、そのつなぎ方が100であることが、センスといわれたり、才能といわれたりするのです。 自分でやりたいということと、やっていることが、きちんと音楽として消化されるということが、すぐに結果がでません。フィーリングということになってしまいます。

 歌でも、定石というのがあります。ただ、リズムを少し早く入ったり、ゆっくりとそこでためたりするのは、全体の絵が見えていなくてはいけません。その全体の絵を見るということが、とても難しいことです。 うまい人は声がなくても絵を見て歌っていますから、それなりにもつのです。逆に、そういう全体的なものが見えてしまうがために、部分的なところで、体とか息がうまく働かないということもあると思います。 技術がある人は、その使い方をもっとひねってしまうのです。いろんなことをつけ加えて、技術を見せる方にいってしまうわけです。 歌っているところだけで勝負してしまうからダメなのです。絵を描いているところで勝負できるわけではなくて、そこで最後に提示したときに、何が残るかということです。信用できる客が、日本の場合は見ていないのです。そういう作業をしていくことです。話でも同じです。

○勝手なところを抜く

 その人が表面的に勝手に動かしているところを全部抜いてみましょう。こういう歌い手は比較的シンプルに歌っています。どこでその声を発しているか、そして声の使い方などがわかりやすいと思います。藤圭子さんなども間違えないで勉強すれば、いろんな意味で見えてくることがたくさんあるような気がします。 声としてのことがきちんと捉えられること、それとともに、息と体のところでそれがとれるということです。それから、その動かし方のところでどうやっているかということです。自分で勉強するときには、余分な動きしかやらないから、おかしくなってしまうのです。それはとって、むしろ声の使い方の部分をみて、音楽としてどこが一番根本なのかということと、声そのものを見ることです。

 いくつも中途半端にやるのであれば、こういう曲を1年かけてやってみるとか、声だけを聴いてみるとか、動かし方を聞いていくとか、その方がよいと思います。日本のジャズ歌手などを聞くと、こういうのをずいぶん聞いているなというのがわかるのですが、まねてはいけないところばかりでつないでいるので、全体の絵が見えないのです。それぞれの部分では歌えているように見えるのですが、そういうことは歌に限りませんが、そこをみて勉強してみてください。

○声と使い方

 こう歌えばいいやと自分で決めて、そこで本質のものやベースのものから離れてしまって、自分で特殊化してしまうのです。そしてそれが正されないままいってしまうのです。最初に覚えて欲しいのは共通している部分です。歌が歌えていたり、声が使えていたりする人が、どこでまず声を捉えていて、どういうふうに出しているのかということです。 よい声を出そうとしていなくても、それが普通の人と違うように感じたら、それは何か違うことをやっているのです。違う体があるのか、違うことをやっているのかどちらかです。 声のことでいうと、声か、声の使い方かどちらかです。歌を教えているところというのは、その使い方ばかりを教えているのです。 知っていて欲しいのは、その使い方をマスターした人たちの歌が、必ずしも感動を与えるものではないということです。そこの部分は何かということです。それは使い方を勉強したからダメなのではなくて、その使い方に振りまわされてしまってはいけないということです。

 使い方というのは、ややもすると、声がなくても、気持ちが入っていなくても、それでもたせるためのやり方を与えてくれます。それっぽくやれば、それっぽくみえてしまうのです。でもそれは本当の自分の力で成り立っているわけではないのです。お客さんはそういうプロをみているから、比較ができなくて、それっぽく歌ったらそれでうまいと思ってしまうのです。

 学ぶところを間違えないようにしてください。そこの部分は学んではいけないところで、やってはいけないところです。そのまえのところの使い方というのがあって、そこがなかなか勉強しにくいのです。一番表向きのところというのは、それぞれの世代によって、変わっていくのです。基本というのは変わってはいけないところです。国や時代によって、若干変わるのは仕方なくても、根本的には変わらないのです。 伝えていきたいことというのは、基準と材料だということです。基準というのは、聞いたときの一つの感覚です。また材料というのは、たくさんの曲や歌があるのに対し、自分の身につけるために、どう落としていくのかということです。

 一番簡単なのは、よい歌をたくさん聴いていたら、そのうち自分もうまくなっているということです。それが一番のベースの線です。でもそれは無理ですから、肉体的に変えてみたり、集中力をつけたり、切りかえるができる神経をつけたりする必要があるのです。その全てはできませんが、よく間違えられるのが、その情景がわかったり、気持ちがわかったら、歌の解釈をすれば、歌がうまくなると思っている人がいるのです。そういうものではありません。今聞いて欲しいことは、ベースのところの使い方での息と体の部分です。【クリスコナー 00.9.12】

■レッスン

○感覚で体を正していく

 声というのは、入っているものが出てくるわけです。感覚が変わると、それにともなって体が変わります。その差が本当の意味でわかるのに何年もかかるのです。 歌を聞いても、安定感というのがあります。たとえば、何回も聞いていると飽きてくるとか、だんだんうるさく感じてしまうというのは、すごく不安定なわけです。その安定感の一番ベースにあるのは、その人のクリエイティビティへの信頼なのです。 声でいうと、落ちつくところのベースです。歌い手が確実に声をつかんでいて、その中で世界をきちんと出しているかということです。それがたまにあたったり、ひびいたり、ひびかなかったりという偶発性なものではないのです。 本当は声一言からやらなくてはいけないところです。そのこと自体を正す基準をもつために、ここはできた、できていないということがわかるトータル的なものは、感覚で入れていくしかありません。 歌に入るまえに、声をつかむということと、それを動かすということを知ることが必要だと思います。

○感覚の切りかえ

 トレーニングというのは、部分的、意識的にやりますから、必要悪です。イタリア語の歌でやるのは、それが難しいと思うところに差がみえるからです。 Jポップスなどを使うと、誰でもできてしまっている気になるものです。でも、そこでのできるということは、単に歌えたかどうかということで、本質的なものではありません。そうなってしまうと本当の練習にならなくなるのです。 応用というのは、結果オーライの世界です。 トレーニングは意識をして息を吐いたり、体を使ったりはしなくてはいけないのです。しかし、そこで取り出されたものに関しては、そこに意識があってはいけないというような、とても矛盾したことをやっているのです。それを感覚を切りかえることによって、うまくやっていかなくてはいけません。 最初にやって欲しいのは、外国人のを聞いて、聞き比べてみることです。どういう練習をすればよいかがわからなくなったら、1年間、かけても、よいものを聴いて、それに合わせて息はきをしている方がよいでしょう。

○体と結びつける

 口先で作ってしまいがちな声を、体と結びつけていく練習をしていくことです。声にならなくてもよいのですが、今のは少し深くなったとか、これは重くて体を使わないと難しい声だということがわかったら、そういう感覚をつかんで体に負担を与えていくことです。それをのどに与えてはいけません。体のところで踏み込むことです。体にこもらせるのではありません。ひびきはあとから出てきます。 そのベースがない人は、どこかの段階からひびきだけでやっていけなくなります。 同じ条件のところだけでやっていくと、とても厳しくなります。限界をみたらやり方を変えていけばよいのです。多くの人の場合は、まだ出る声がたくさんあるのに使っていないわけです。それを使い切り、マップを作りましょう。そして、それを捨てていき、そして本当に使える声だけを自分で完全にコントロールできるようになることです。そのうえで好きに応用していくことです。

 どこでため、どこで収めるかということです。ことばを何回もいっているところから音楽にしていくのと、先に音楽を流しておいて、その中にことばを入れていく方法です。結果としては同じになります。皆さんの中で、歌が聞こえてくる人はなぜかと考えればよいのです。 こういうものは一音で表した方が早いのです。きちんとまず提示して、ベースを作っておいて、そこから踏みこんで、また離していくというような起承転結ができています。承のところがその人のセンスになってきます。こういうずらし方はスタンダードにとても多いものです。一つの構成というのを勉強すればよいと思います。 歌というのは連続しておとしていくものですから、たとえば「ハイ」ができたからといって、そのフレーズができるわけではありません。そのフレーズができたからといって、一つのブロックの固まりができていくわけでもありません。

○全体の絵をみる

 歌の場合、部分的なことはトレーニングでやっていかなくてはいけませんが、でも100の完成度をもったフレーズを、全部並べてみたらよい歌になるかというと、そういうことではありません。中には30とか70があってもよいのですが、そのつなぎ方が100であることが、センスといわれたり、才能といわれたりするのです。 自分でやりたいということと、やっていることが、きちんと音楽として消化されるということが、すぐに結果がでません。フィーリングということになってしまいます。 歌でも、定石というのがあります。ただ、リズムを少し早く入ったり、ゆっくりとそこでためたりするのは、全体の絵が見えていなくてはいけません。その全体の絵を見るということが、とても難しいことです。

 うまい人は声がなくても絵を見て歌っていますから、それなりにもつのです。逆に、そういう全体的なものが見えてしまうがために、部分的なところで、体とか息がうまく働かないということもあると思います。 技術がある人は、その使い方をもっとひねってしまうのです。いろんなことをつけ加えて、技術を見せる方にいってしまうわけです。 歌っているところだけで勝負してしまうからダメなのです。絵を描いているところで勝負できるわけではなくて、そこで最後に提示したときに、何が残るかということです。信用できる客が、日本の場合は見ていないのです。そういう作業をしていくことです。話でも同じです。

○勝手なところを抜く

 その人が表面的に勝手に動かしているところを全部抜いてみましょう。こういう歌い手は比較的シンプルに歌っています。どこでその声を発しているか、そして声の使い方などがわかりやすいと思います。藤圭子さんなども間違えないで勉強すれば、いろんな意味で見えてくることがたくさんあるような気がします。 声としてのことがきちんと捉えられること、それとともに、息と体のところでそれがとれるということです。それから、その動かし方のところでどうやっているかということです。自分で勉強するときには、余分な動きしかやらないから、おかしくなってしまうのです。それはとって、むしろ声の使い方の部分をみて、音楽としてどこが一番根本なのかということと、声そのものを見ることです。

 いくつも中途半端にやるのであれば、こういう曲を1年かけてやってみるとか、声だけを聴いてみるとか、動かし方を聞いていくとか、その方がよいと思います。日本のジャズ歌手などを聞くと、こういうのをずいぶん聞いているなというのがわかるのですが、まねてはいけないところばかりでつないでいるので、全体の絵が見えないのです。それぞれの部分では歌えているように見えるのですが、そういうことは歌に限りませんが、そこをみて勉強してみてください。

○声と使い方

 こう歌えばいいやと自分で決めて、そこで本質のものやベースのものから離れてしまって、自分で特殊化してしまうのです。そしてそれが正されないままいってしまうのです。最初に覚えて欲しいのは共通している部分です。歌が歌えていたり、声が使えていたりする人が、どこでまず声を捉えていて、どういうふうに出しているのかということです。 よい声を出そうとしていなくても、それが普通の人と違うように感じたら、それは何か違うことをやっているのです。違う体があるのか、違うことをやっているのかどちらかです。 声のことでいうと、声か、声の使い方かどちらかです。歌を教えているところというのは、その使い方ばかりを教えているのです。

 知っていて欲しいのは、その使い方をマスターした人たちの歌が、必ずしも感動を与えるものではないということです。そこの部分は何かということです。それは使い方を勉強したからダメなのではなくて、その使い方に振りまわされてしまってはいけないということです。 使い方というのは、ややもすると、声がなくても、気持ちが入っていなくても、それでもたせるためのやり方を与えてくれます。それっぽくやれば、それっぽくみえてしまうのです。でもそれは本当の自分の力で成り立っているわけではないのです。お客さんはそういうプロをみているから、比較ができなくて、それっぽく歌ったらそれでうまいと思ってしまうのです。

 学ぶところを間違えないようにしてください。そこの部分は学んではいけないところで、やってはいけないところです。そのまえのところの使い方というのがあって、そこがなかなか勉強しにくいのです。一番表向きのところというのは、それぞれの世代によって、変わっていくのです。基本というのは変わってはいけないところです。国や時代によって、若干変わるのは仕方なくても、根本的には変わらないのです。 伝えていきたいことというのは、基準と材料だということです。基準というのは、聞いたときの一つの感覚です。また材料というのは、たくさんの曲や歌があるのに対し、自分の身につけるために、どう落としていくのかということです。

 一番簡単なのは、よい歌をたくさん聴いていたら、そのうち自分もうまくなっているということです。それが一番のベースの線です。でもそれは無理ですから、肉体的に変えてみたり、集中力をつけたり、切りかえるができる神経をつけたりする必要があるのです。その全てはできませんが、よく間違えられるのが、その情景がわかったり、気持ちがわかったら、歌の解釈をすれば、歌がうまくなると思っている人がいるのです。そういうものではありません。今聞いて欲しいことは、ベースのところの使い方での息と体の部分です。【クリスコナー 00.9.12】

○世界観

 いろんな勉強の仕方がありますが、間違えていけないのは、10個やったら次は20個やらなくてはいけないというのではなく、まず10個やったら、今度はその一つひとつが10個に見えなくてはいけないのです。次の年にはそれが10分の1に見え、その次の年にはそれが100分の1に見える、もちろん、そういう計算どおりにいけば、それは天才的な人なのでしょう。量をやっているだけでは仕方がないのです。

 伸び悩むということは、入ってこなくなるから、出ていけなくなるわけです。入ってこないということは、聞こえてない、見えていないということです。 たとえば、今の12曲を聞いてみると、歌詞が聞こえてきたり、雰囲気が伝わってきたりすると思います。でもどのくらいやらなくてはいけないのかというと、今の中だけでもリズムパターンはほとんど入っているし、音の動かし方、マイナーとかメジャーのものもほぼ入っています。歌うことで必要なことというのは、この12曲の中だけでほとんど入っているわけです。 ニニロッソは、それをそれぞれわけて出しています。あるものは楽しく、あるものは非常に暗い世界を出しています。その世界観というのを出すのが音楽の世界なのです。

○スタンダードに学ぶ

 歌である以上、自分の世界観といっても自分を出しても仕方がなくて、それが音楽なり、歌との接点のところで、自分とどうつけるかということです。そうでなければ、ビートルズではなく自分の曲をやればよいのでしょう。しかし、自分が作ったり、自分がいいたいことよりも、その音楽を通じて出す方が、大きくいろんなものが伝わる場合もあるわけです。 それは昔のビートルズのコピーをやったり、その想い出に浸らそうと思ってやるわけではありません。そこの中にある音楽の力の働かせ方とか、そういう一つの窓を借りて、そして自分の世界を出していくのです。

○聴く力をつける

 徹底的に足らないのは、聴く力です。レッスンの中で7割、8割聞きたいものです。 音に集中して聞くことです。今30分たちました。こういう30分なり1時間を2年間もっていたら、大分違ってくると思います。 その中で正されていくからです。声というのは急によくなるわけではないのです。しかし、なぜよくなったり、変わっていくのかというと、その正しい感覚が間違っているものを排除していくからです。すぐには入れないとしても、そのうちにそういう体の状態ができる方向に正されていくのです。

 逆にいうと、一つのものを徹底して聞きこまないで何かできた人間というのは一人もいないはずです。たくさんの曲を知っている人もいますし、知識がある人もいます。しかし、身につけるということとそれとは違います。でもその一つのことに出会うために、ここでもいろんな曲を使っているのです。いろんなものを使わないと、その人がいつ、どれで出会うかというのはわからないからです。上のクラスの人にやってもらっているのも、私一人でチャンスや材料を与えるよりも、彼らが彼らなりにつかんだところで材料を出した方がよいからです。気づくところは一人ひとり違うのです。

○何をおもしろく感じるか、どうそれをみるか

 たとえば今の30分でも、非常に退屈する人もいれば、すごいおもしろい人もいるわけです。そのときにおもしろくなるのが才能です。どんな曲でも同じで、その音楽とか歌の中に入っているいろんな要素が聞ければ、そこにいろんなアイデアとかイマジネーションみたいなものがどんどん膨らんでくるわけです。 私も10代のころは、こういうものを聞いてみても退屈で仕方がなくて、とにかく声を出したいとか、早く歌いたかったのです。しかし、それはガキなのです。 ガキというのは、とにかくやらせて欲しいという人です。道も見ないで車を走らせたいわけです。ぶつかっても、またやればなんとかなると思っているのです。 でも全体が入っていないのですから、うまくいくわけがないのです。全部がバラバラになってしまうのです。 伸びる人というのは、必ずじっと静かに見るわけです。そこで精一杯の情報をとるのです。

 運転にたとえるとわかりやすいかもしれません。初心者だと手前のものしか見えないわけです。手前のものを見ても止まれないのですから、50メートル先を見なくてはいけません。手前を見て、わかったところでどうにもならないのです。そういう全体の見方というのをつける必要があります。 世界で優れていて名前を世紀を超えて残していくような人たちが、どうしてそういうアレンジをしているのか、歌い手とは呼吸も違うのですが、共通するところはあります。曲の中でもいろんな意味で工夫をしています。その工夫をするとか、アイデアを出すとか、イメージを出すということが、その人の世界を出すということになるわけです。

 不幸にして、ここにいてもそういうことが全然わからなくて、まえだけをみて、アクセルとブレーキだけを踏んで、楽しめないような人が多いのです。自分がそこで踏みこんで、きちんと受け止めていくことです。きちんと見て、そのイメージを描いて、やってみることです。すると必ず狂うから、それを修正してということをやらないならば、成長ということはないのです。

○作品に学ぶ

 ある落語家が、お弟子をここにこさせたいということだったのですが、声のことに非常に関心がある方で、落語もいい加減になってきているということです。 そこにいったら食えるとか、そこにいったら何とかなると思ってしまうところで、そこでダメになるのです。そこを利用したらより力がつくと思っている人であれば、一人でやるよりも優れた師とか、優れた先輩たちがいたりして、それはプラスになるからよいのです。今はそういう人がいなくなっているからすごく難しいのだと思います。 皆さんの場合は、直接はいなくても、いろんな優れた作品が残されています。彼がいうには、そういうものを聞くという時点で甘えてしまうというのです。昔の人はCDやビデオでは勉強していない。今は落語家はCDを聞いて勉強している。

 でも勉強しているから、歌い手よりもましだと思います。歌い手の場合はなぜダメになるのかというと、イマジネーションとアイデアを広げていくレッスンができないのです。 先生がいろいろと教えてしまうとできないのです。こういうものを静かに自分でじっくりと聞いて、そこで起こしていくしかないのです。それがある人、ない人というのは、歌一つ聞いてみてもわかります。声がよいとか、歌がうまいとかいわれてしまう人でも、それでやっていけるということではありません。

○勉強をするということ

 停滞はしています。停滞はしているのですが、やれてしまうレベルにあれば、結局、文句もいえないわけです。もっとアイデアもイマジネーションもあるのでしょうが、あまりに土俵が低いからです。 ああいう人はどんどん海外にいって、ダメージを受けてこなくてはいけません。動かなくなってしまうから、停滞してしまうのです。

 研究所の中にいようが、外にいようが、動くということは、同じです。別にたくさんの人に会いにいったり、いろんな活動をするということではなく、こういうものに対してどう見ていくかということがベースです。その辺を徹底して入れ替えていかないと、ダメなような気がします。 まだ、道をきちんと見ていないのです。少なくとも私が聞いているところの集中度で、10分の1、100分の1で読みこんで、それを修正してステージに望んでいるとは思えません。大体覚えてきて歌うとか、あるいは自分勝手な解釈をして、そこで工夫して変えて歌ったという感じです。それを疑いもせずにやってしまうのです。

 きちんと勉強できているというのは、こうやったらこう思われるだろうから、それはやめておこうとか、こういうやり方はないだろうかとかいう対応が予めできることです。そういうことを徹底して叩いてこなくてはいけないのです。しかし、スポーツと違って、しっぺ返しを食らうこともないですから、どうしても自分でよいと思ったら、それでよくなるのです。 そんなことだから、歌詞の解釈を400字で書いたり、10パターンの歌いわけをやってみるのです。 どういう勉強をしたらよいかわからない人には、この12曲を1年間でやったとして、そこで読み込んだことを、次の年には10分の1でまた読みこんで、また3年後にその10分の1で読みこむとやっていくようなことを勧めます。

○呼吸を合わせる

 音楽の場合は、もう曲と歌詞がある中で楽譜ができあがっていますから、それからはずれないようにすると、一応成り立つのです。そこがゼロで、それに何かをのせるとプラスされます。 ところがオーディションなどでは、みんなマイナスの競争です。それが走っているところを捉えていないわけです。 トランペッターでも、それを捉えたうえで、一つひねりを入れたり、ゆっくりと置いたりしているのです。それからきちんと構成をしています。それがよいか悪いかということを同時にわからなくてはいけないために、こういうところで1フレーズずつやっているのです。 どんなにつまらない歌でも、それが世界のポピュラリティを得ているとしたら、その中に何かあるわけです。それをどう汲み出すのかということです。音楽は自分の力で10をやるのではなく、自分の力がなければ、音楽の優れているところを7、8割とればよいのです。ヴォーカルはバンドが9割やっていて残りの1割をやっても、それでもってしまう場合もあります。それはそれでよいのです。トータルとして10できればよいのです。

 でもバンドをつけても、うまくそれをとり出せる人と、それをダメにしてしまう人がいます。ステージでも、ピアニストの音楽を邪魔する人がいるのです。邪魔するのではなく、それをきちんと受け入れて、逆に自分の世界もピアニストに入れて、そして一緒に出すというようなことをしなくてはいけません。 こういうトランペットの演奏でも同じです。バックの呼吸とぴったりとあっています。それはオーケストラでもみんな同じなのです。 ただヴォーカルがテンポ感などがいい加減だったりするからで、それは入れていかなくてはいけません。音感とかリズム感はまず聞きこんで、見えるようにならなくては、違いもわからないのです。どのくらい執着できるかということです。

○柔軟性と化け方

 いろんなパターンとか、自分が対応できないものを入れていくことによって、感覚を磨きつつ柔軟にしていくことをめざしています。 何かをパッと渡したときに、どこまでそれを柔軟に対処できるかということと、自分のやれるやれないを知っておくのです。 好きなこと、嫌いなことというよりは、できること、できないことの方が優先するわけです。プロはできないところでやらないから、失敗はしないのです。それは結局、客の立場に立っているということです。自分が投げ出したものが、何を起こすかというところからからすべてを見ているということです。それは、自分が歌いたいとか、自分が好きだというところではないのです。 同じ曲をやったときに、どう化けるかということでよくわかります。そこで積極的に作る方向に出なくてはいけないのです。100%自分が作るのではなく、それをどう捉えるかということです。とにかく相手に与えてなんぼなのです。その感覚を働かせなくてはいけないということです。

○見えない力を養う

 これは3拍子です。1951年くらいの曲です。 つけて欲しいことは、こういうものにも対応する力です。1オクターブを同じ声で揃えるという、一つの見本にもなります。 向こうのリズムというのは、4ビートのように思えて、その中に3拍子系がずいぶん入っています。だから簡単に3連ができたり、シャッフルができたりするのです。 こういう歌はロックやポップスとは若干違ってきます。ベースとしてこういう部分をクリアしていると思えばよいと思います。 彼らの血の中にはずっと入っているわけです。その辺の対応力をつけていくことです。こういうものをポンと与えられて、自分が音楽にするときに、何をつかんで何を放していかなくてはいけないかということに、そろそろ入っていってください。

 自分が歌う歌わないの問題ではなく、歌ったときに何かを起こすために、どういうふうに凝縮したり、離していくかということです。歌うのは誰でも歌えるわけです。歌ったあとに、その音楽を相手に伝えられるために、自分の世界を理解させなくてはいけません。 楽器の場合は、100%自分の音なり、自分のフレーズになってきます。歌い手も当然それがあるのですが、やや音楽面からそれてしまうこともあります。 この曲は、かなりことばからもっていっているところがありますが、それでも安定性があり、3拍子がきちんと入っています。自分がやっていてつまらなくなったときに、どう動かさなくてはいけないか、その動かし方を修正していくことを繰り返してみてください。

 でもプロでもない限り、トレーナーがいないとダラダラしてしまいます。それは自分の役割がわかっていない場合が多いのです。 でも結局、音楽でやれないということも、その人が見えていないところで何かができることは、ないからです。 見えていたらはずれないわけです。そこの部分をどうやって力つけるかということになると、やはり聞きこむしかないと思います。そこの力がとても弱くなっているような気がします。【「詩人の魂」1 AB 00.10.10】

○体というエンジンそのものを強化する

 プロの要素を全部もっていて、何でもやれてしまう人がいます。それだけの体とか、感覚とか、音楽的なものを得るのに、我々が何年かかってもできるかわかりません。できないことをやっても仕方がありません。なぜできなくなるかというと、こういうものを見本にすると技術の勝負になってしまうからです。 舗装道路の中のレースと、バギーか何かで荒地をいくのは違っています。本当は道もないところをいくのが一番よいのですが、何もないところをいくためには、エンジンの強力なものがなければいけないわけです。 同じエンジンをどう使うかということとともに、あとでどういうふうにでもなるように使っていくということが大切なのです。

○声の使い方をまねないこと

 なぜ使い方という教え方をしないのかというと、技術というのは完璧に使わない限り、マイナスになってしまうからです☆。完璧に使えるくらいの技量があれば、別に教わる必要もないのです。そうすると技術というのは、教えても仕方がないことです。その感覚がある人はできるし、その感覚がないのにそれを勉強した人は、その技術のために転んでしまいます。伝わらなくなってしまいます。

 もとに戻ってみれば、歌は別に技術がなくても伝わるということなのです。伝わったところに技術があるのです。しかし、他人の技術は自分のものにはなりません。 そう考えながら見ていくと、難しく聞こえるものを歌うのは難しいけれども、そんなに難しく歌う必要があるのかということです。日常のところに少し毛が生えたくらいが歌なのです。 ただ、彼らの日常の中に、彼らのリズムとか音楽には、民族の血のようなものが入っているから、全体として通りやすいものになっているのです。要は余計なことをしなくてもリピートが聞くようになっているのです。その感覚を作るのが日本人の場合は大変です。

○表現のための声

 よっぽど声が変で、歌唱力も声量もない向こうのプロの方が、なぜ聞かせられるのかというと、プロの表現だからです。それが一番難しいのです。それは表現するために必要な要素をそこに使っているのと、表現されたものをコピーして歌っているものとの違いです。 かつて、日本人はコピーを求めたし、応用されたものが日本人ふうにこなされるのがよかったのです。向こうのものに日本語をつけて、こんなものがありますと紹介したり啓蒙していたのです。それは、解釈かつ翻訳学なのです。もともとこなすという形のやり方ですから、それを創始創唱している人にはかなわないのです。 それは今のポップスでも同じです。 曲や詞を作っているから偉いのではなく、その中で何を成しているかというところをみていけばよいのです。ことばのところは、ほとんど棒読みになっています。

○創造からみる

 それから音楽を支える要素の価値観が違います。このような歌い方をしていると、すぐにストップがかかったと思います。日本人の場合は、理解されないものも表現となりうるという感覚はないわけです。 レッスンでも、わからないものに価値があるわけです。わかるようなものというのは、皆さんよりも5年10年生きていたら誰でもわかることですから、何の価値もないわけです。そういうふうに聞いてもらえばわかりやすいのではないかと思います。

 まねるなといわれるほど、のどにかかった声でもあるし、声量もそんなにありません。でもなぜもたされてしまうのかというと、そのときそのときの中できちんと基本を踏まえているからです。そこでのインパクトとか、鋭さをもっているわけです。ことばをつけるということも、本当は音で聞いていた方がよいのです。 ほとんど歌だけで聞かせています。

○リズムを打つことから入る

 人間の基本を考えてみましょう。人間はことばよりもリズムに反応するのです。小さな子供でも、ことばはわからなくてもリズムには反応します。楽器をやるときも最初は打楽器です。そこの方が根っこにあるわけです。 だから、基本をやるということはそういうことです。 時代や空間を超えていくということは、よりベースにあるものの中で動いた方がよいのです。音楽というのはそういうものだから、時代も超えるし、空間も超えていくわけです。 楽器よりも歌がよいというのは、そこにことばがついているからより世界が広がるのです。でも逆にそのドラマがついているがために、聞き手のイマジネーションが限定されます。それが気に食わない人は、楽器では聞きたいけれども歌で歌って欲しくないという人もいるのです。 そういうことからいうと、音楽も本当はそこまで基本に戻らなくてはいけないのです。要は、ことばでは何をいっているかわからなくても、音楽として成り立っていて、歌が聞こえてくるとしたら、そちらの方がよいわけです。

○古くならない

 歌を歌っているのではなくて、その世界を出しているからよいのです。 ピアフのは古くならないわけです。それはオリジナルなものだからです。こんなに録音状態が悪くてもバンドがくすんだ音でも、声というのは不思議なものです。これだけコンピュータで加工できる時代でも、伝わるものが伝わるのです。それがなくなったら、歌う必要はないと思います。

 高い声を出したいという人が多いのですが、今はカラオケでも作れるわけですから、技術でできることとできないことを見極めて、技術は最高のものを使えばよいわけです。昔のものを使う必要はないのです。ただ、現代に対応できる感覚のところはもっておかなくてはいけないでしょう。200年まえの人をここに連れてきてもダメということではないと思います。人間の方がそういう面では細かいと思います。技術に負けるくらいであればコンピュータでやっていればよいのです。 声を聞くことよりも感覚を聞くことです。 そんなに大きな声で歌うわけではありません。作品としてみたときには感覚の鋭さの方が問われるわけです。何も声量とか声域で争うわけではないのです。ここでいっていることは、感覚でのところの違いのことです。

○線で描く

 まじめな人ほど律義に点で音を取ってしまうのです。それでは通用しません。全部を均等に置いて、どこにもアクセントを置かないのでは聞けていないわけです。 トップレベルの人たちは、私よりも耳がよいか、声での創造力があるため、私が予期しない動かし方をするわけです。それが実力です。 点で頭を打ってしまうのは、完全に日本人のことばから入ったものです。音の高低でとったやり方です。この感覚の方にとらわれてしまうというのは日本人だからあたりまえなのです。

 感覚を切り替えて、それに体を伴わせる。その感覚には早く気づいた方がよいと思います。 これを口でいってもわからないのです。どう聞くのかというと「ララレレミミファファ」を「レーファー」くらいで聞くのです。あるいはビートのところでつかむか、強弱の拍のところでつかめばよいです。それはいつもいっています。それに優先するものはないのです。 それを日本語の場合は「ララレレ」のところで崩れてしまうのです。そういうふうに聞こえればよいのですが、見えないものは出てこないということです。ことばでいってしまったら、それがわかったような錯覚になってしまうのです。そうではなくて、ことばでいったが最後それで見えなくなってしまうのです。

 こういう一つのルールがわからなくなったら、次のところを聞けばよいのです。全部が共通のルールで成り立っているからです。次のところはさっきのを拡大しています。 日本人が高く盛りあがっていくと考えているのと同じように、そこのグルーヴの中で音が動いているのです。それは体のコントロールと音色のところでやるのですが、彼らは体で捉えているから、それは歌ったら考えなくてもそうなるのです。我々の場合はそういうふうにはとらないで、音が高くあがったとか、ことばが変わったと感じるのです。 かつて日本人の歌い手はそれで日本の客を相手にしていたのですから、それが正解なのです。今の時代に皆さんが聞いてみて、古いとか、何か違うと感じたとしたら、変えればよいのです。今を生きている国際感覚でいうと、それで正解なのです。

○深くてひびく声

 「ハイ」という、ポジショニングのことをよくいっているのは、日本人の場合の口内音をとるためです。「あえいおう」を全部そうやって音を作ってしまう人もいますが、何かうさんくさいと感じたら全部ストレートではないのです。 皆さんの中で一つにならない感覚、いろんなところにさわり過ぎていては、コントロールできるわけがないのです。それを一点でもたなくてはいけません。その一点でもつ定点のようなものが、一つのポジショニングになるのです。それはもてば有利です。もたなければ歌えないということではありません。 そこで「ハイ」といっているのと、向こうで「ハイ」といっているのは全然違うのです。私の声でも感覚ができているからこう出るわけです。

 次のところをやってみましょう。家での練習のために音をいっておくと、「レレファファレレミ」です。そこのところの線を自分で見ていくのです。感覚が違うわけです。それが音にならなくてもあるかないかということです。 声をとりにいったときにそれがバラバラにならないことです。フランス語をそのままの感覚でとると「すーびー」のところですが、彼らはここで何も変えていないわけです。日本語でやると、口の中の音がそこに入って、純粋な音色がストレートに出てこなくなるのです。 「ラレミファ」の「ファ」でどういう発声をするのかという問題ではないのです。「レーファー」が自分でとれていればよくて、その音色を自分で意識しなくてはいけません。このときに「ラ」と「ミ」のところには意識を置かないのです。それは「レ」を出すためにです。少なくともそれが体のベースにあるのです。

○のどを守る

 初心者でも、間違ってやることによってのどを壊す危険が大きいのです。体のないところから声たてを無理にやるから、そうなります。私は高いところとか、強いフレーズのところはさけて、ことばでやらせています。 役者のように、オーソドックスにのどをはずすやり方だったと思うのです。そこではのどは守られます。 役者が役者らしくなるのは、そのことを問われるからです。彼らにとっては高い音というのはなくて、悲しくなったり、すごく強くいいたくなったときに、高くなるのです。そうやって音域を結果として獲得するわけです。 それは外国人が日常生活で獲得していくようなやり方です。 息が伴わないといけないし、息を声にするときにのどを痛めやすいのです。それは人それぞれで、始めからそういうことができている珍しい人もいます。そういう人は日本でどうしてそういうふうに育ってしまうのかという研究をすればよいかもしれません。

○強弱をみる

 要は、音はつかまないと動かせないし、見えないと動かないということです。人間は見えないものに対しては体が対応できません。見えなかったら無理にでも見るようにしなくてはいけません。 その一番初歩的なやり方は、今やったように、まず強弱だけを見るということです。本当はその中でもいろんな動きがあって、その動きの線をとらなくてはいけません。そうなったら、浅いところで歌っていても、ひびきだけで歌っていても、その線が走っていたら通用します。 ただ、確実に楽器音として、ドラムとベースが入るところに声がきちんと入るような鋭さでやろうとしたときには、浅い声とか、体を使っていないものになったら、対応できなくなるということです。 ひびきとかでもよしあしがあって、変にひびかせていったり、変に発声でもっていったら、そのコントロールができなくなるのです。

 素人にはわからないのですが、ちゃんと聞いている人がみたら、甘いと感じると思います。だから向こうはミックスヴォイスを使うのです。 アマチュアの人たちの歌は、発声技術でも、そういうところはキンキンとなったり、一つの音だけがすごく大きく聞こえたりします。それは呼吸でコントロールできていないのです。ただ、当てるところを知っているから当てているだけなのです。マイクを通してみるとマイクにぶつかって入りすぎるのですが、それよりも向こうの人の息を混ぜたものの方が心地よく聞こえます。 それをそのままやっても仕方ありませんから、オクターヴくらいさげてやってみます。特に今は中低音のメリハリがつけられなくなってきているのです。聞く人はそこを聞いていないというのもありますが、でも高音はそこのうえにのっているわけです。

 息を強くしつつ、それは強く出せるためにやるのではなくて、強くしたところの力を繊細にコントロールできるようにするためにするのです。そこを間違えたらいけません。 大きくワーッと出せることがすごいというのであれば、応援団は全員すごいわけです。それができることの体を使って細かいところを出すのです。アマチュアでも声量ならプロにも勝てるのですが、プロはもっと無駄なく体を使っています。 こういうことはしゃべっても、大きなお世話になってしまうのですが、そういうふうに聞こうとして聞くと、また音程のとり方になってしまいます。まずは聞いて、無心になってそこに入っていって、やってみたら出てくるという形がよいと思います。 バーブラストライサンドもそういうふうに接すると、よい勉強になると思うのです。

○ララファビアンからつなぐ

 ララファビアンという人を、使います。いきなり、シャンソンとかカンツォーネには入りにくいようなので、これをかけて、フレディマーキューリィをかけて、この人が影響を受けたというバーブラストライザンドにどうつながるか、そしてピアフもかけて、逆のつなぎ方をしているのです。 フランス人というのは、アメリカ人に比べてもかなり深い声をもっています。ヨーロッパ出身の歌い手の英語は、欧米人の英語よりも深いところのようです。イタリアでもドイツでも同じように深くて、それは母国語からきているのだと思います。【「愛の讃歌」Bクラス 00.10.13☆】

○音を動かす

 レッスンというのは自分でやらないといけません。中には今度は音色を出そうとか、リズムを出そうとか、考えている人もいるかもしれませんが、結局、音を動かしてなんぼの世界です。その音を動かすのに必要なためにリズムとか、テンポとかタイム感などがあるのです。 でももっと皆さんに必要なことは、1行目と同じなんだというあたりまえの理解です。練習しなくても聞かせてすぐにできる問題ですが、それが入っていないということは、やったことを全部忘れているのです。それでは歌にはなりません。

○歌わないこと

 シンクロニシティ 歌は一つのパターンを入れたら、そのパターンの展開です。最初の次には全然違うものがくるのではなく応用がくるのです。そうやって展開していくのです。 ここは簡単にいうと「ドレミ」「レミファ」「ドレミ」なのです。そういうものを感覚としてもっていなければ、どんどんと違うものが出てきて、歌ではなくなってきます。それを一回でわからなくてはいけません。一回でわからないからといって、50回聞いてみてもわからないと思います。どことどこが同じというようなことは、少なくともこのモチーフが入っているか入っていないかということです。聞かせていたのかがわからないと、出せなくなります。

 彼らは同じポジションのところで1オクターブの声をもっていますから、音が離れていてもそんなに飛ばなくてもよいのです。そのままでとれるのです。 それを聞いてしまうと、全然メリハリがないというように聞こえるかもしれません。しかし、自分でやってみるとバタバタとなってしまうのです。 根本的な改革としては、息を吐き、体をつけ、肉声をつけていくことです。とにかく体から出していく声を養成していくことです。 でもそういう声がなければ歌えないのかというと、声がなくても歌える人はたくさんいるわけです。そこはイメージとか感覚の問題になってきます。そのイメージを走らせて置くことです。 しかし、今の「あなたの」の中でもできることがいろいろとあるのです。

 要は、自分が歌っているところではないところで歌を生じさせることです。歌ってしまってはダメです。その流れのうえに置いていくことです。その流れを作るために呼吸が必要なのです。流れている線の一番肝心なところだけを押さえているだけでよいのです。お客はその声とか、その歌を聞いているわけではなく、そこに何が乗っているかを聞くわけです。どうやったら歌になるのか、どうしたら音楽になるのかを考えることです。それをやるときには声を柔軟にして、練りこめるところは練りこまなくてはいけません。 空中のサーカスのように、不安定な中で声というのは動いていきます。だから、どこかで落ちつく部分というのを感覚しておかなくてはいけません。それがリズムの強拍の部分だったり、こういう人たちが練りこんでいるところです。それで安定感を出すわけです。

 今の人の歌というのは、全部つき離して歌っているものが多いし、勢いだけになっています。安定感というのはドラムや、ベースで置いているようです。 でも絶対にそこでの感覚は鋭くもっていなくてはいけません。声も一つの道具です。声がすごく出ているから、すごい歌になるわけではないのです。感覚が鈍くてすごい歌になることはありません。自分の声の使い方を覚えていくのとともに、最良の動かし方をやっていくことです。

○応用性と柔軟性

 最初の半年というのは、いろんな勉強の仕方があると思います。一番大切なことは見えるようにしていくということです。たとえば発声とか、声とか歌なんてやってみたところで何かできるわけではなくて、それをどう使うかということは、そのまえにイメージがあるわけです。そのイメージが先なのです。 そのイメージを人に説明するときにはことばにしなくてはいけなくて、ことばにすると思想のようになってしまうのです。こういうものがあろうがなかろうが、あとからつけたものです。もっと大切なものというのは、そこに対する使命感や自覚です。

 レッスンというのは、プロになる人にとってみたら全て、今日の仕事だといっています。そこで自分で自由に裁量できなければ、仕事になったときには、もっと応用しなくてはいけません。 自分ではこの歌を歌いたいのに、他の歌を歌ってくださいといわれることもあるのです。今は一芸の極地を見たいという人なんてあまりいないわけですから、そこでの応用性というのが問われます。応用性というのが本当の力です。要は過去のものにとらわれずに、柔軟に対応するということです。

○音楽を走らす

 たくさんの曲を授業の中で使っています。CDアルバムの合計数だけで何十万もかかっています。自分で聞いてもそのくらいかかるし、レンタル屋さんにはありません。CDの中から1枚だけの1部分を選んでいるわけですから、探し出すにも時間もかかるはずです。 もちろん本当は全部やればよいのです。しかし、もし10年のことを2年でやりたいと思ったら、10年の中のいらないところの8年を捨てなくてはいけません。 学び方を考えたときにポイントというのがあるわけです。ポイントというのは、あくまで自分がやっていくために何が必要かというところに特化するわけです。その方向性が見えなくてはいけないのです。

 しかし、最初はどう見ようかわからないものです。表現というのはやってみないとわからないのです。 接点がつかないときには、プロのもっている集中力を入手することがベースになります。その集中力を支えるために体力と意識が必要です。 皆さんが発声をやりたいというのもわかるし、発声をやっているとやった気になるというのもわかるのですが、一番大切なことは、プロの曲は、どこを切って聞いても音楽が走っているわけです。 ということは、まずその人の中にベースのものが走っていなくてはどうしようもないのです。ほとんどの問題がそれです。 オーディションのときに差がつくのは、その舞台作りです。舞台で表現したものは、音声でみるのですが、歌の場合は声よりもそこに音楽が走っているかどうかです。この瞬間瞬間のところに自分がついていけないとしたら、走っていないし、入っていないわけですから、そこでどんなに発声をやってみたり、声の練習をやってみても成果はでないのです。

○体を走らす

 たとえば、「腹式呼吸を毎日やっているのですが歌手になれますか」、それは無理です。腹式呼吸がどんなにできて、腹筋がどんなに強いといっても、スポーツ選手だともっとできる人がいるわけです。歌い手の場合は、それを音楽や声に使わなくてはいけないということです。 それと同じように、発声が完璧になったからといって歌がうまくなるのではありません。人が、声が今よりも使えるようになることで歌が生きることがあるにしても、そのことですべてがわかってくることではないのです。全く別のものが必要になってきます。

○プロの感覚

 ここにいる間に、プロと全く同じ感覚の中で、この感覚が1回でも10回でも認知できればありがたいものと思います。要はわからなくてもよいから見えるということです。それを本当のことでいえば、表現する、実現するということです。 レッスンでも100回でれば、100回のチャンスがあるのです。そのうち1回をつかめばよいのです。でもその1回をつかむためには100回が必要だということです。発声トレーニングでも同じで、先生のところに出てやっていると、もうわかったという気になってこなくなるのですが、同じことができていない、それ以上のことができていないということは全然わかっていないということなのです。この世界はどんなに口でわかったといっていても、できなければ意味がないのです。まずその感覚を捉えることです。100回くらいやったとしたら、その中で瞬間的に1をつかんでいけるようにするのです。

 回数をこなします。自分のテンションと自分の集中力と、自分の音に対するこだわり方や動かし方ではまず、通用しないと、そんなもので作品はできないというギャップを、知らなくてはいけません。 みんな曖昧にはそういうギャップを知っているのですが、なんとなく違うという程度で、明確ではないのです。 小学生と同じことをやっているのです。でも、小学生でももっとうまい奴がいると、そういう実感がなければ、自分も3年で、かなりできると思うかもしれません。歌の世界では、ますますみえません。キャリアがなくても歌い手になっている人はたくさんいます。 歌い手になるということよりも、声や歌に対してどのくらいの神経と、それをコントロールしなくてはいけないかということを実感していくために、ここでは、古い曲を使ってやっているのです。

○音が入り、出てくる場

 わかりやすい授業というのは簡単です。皆さんが喜ぶような息吐きや姿勢を教え、そこはそうでないということもできます。でもそのことは誰かに教わることではなくて、自分にその感覚があって、そういうものが心底腹のそこまで入っていたら、練習がおのずとそうなるのです。 日本中のスクールやカルチャー教室で発声は教えられているのです。でも大した実感をもてずに終わるのは、体に染み込んだところでそれを捉えていないからです。

 テンションがあがったところで聞こえてくる音を入れてみて、瞬間的にそれに移れればよいレッスンです。幽体離脱のようなものです。 そもそも自分の体や自分の感覚が、歌をうまくすることを邪魔しているのです。それにパッと入りきって、何も考えずにやってみたらその通りにできたというのは一番簡単なことです。 そんなことはすぐにはできないというのですが、ほとんどの場合がそれでできてしまうのです。ただ、器用な人と器用でない人がいます。 一言だけいわせてみるとすごいのに、次にはいえなくなってしまう。それは、周りがセッティングして、意識を高めているからです。何か知らないけれど体とか心がそう動いてしまう場が必要です。

○レッスンでみること

 初心者は、60分のトレーニングのうち、50分は聞くことと見ることです。これが入っていなくてはどうしようもない。音楽の材料が少ないのです。 声がよいのに、歌としてよくならないのは、音楽がその人の中に渦巻いていないからです。その人に過剰にいろんなものが入っていないと動かせないわけです。 曲名を知らなくても、歌い手を知らなくても、あなたたちがよく聞いているものよりは、もう少し意図があり、そういう感覚が入りやすいものを使っています。

 レッスンで全員がわかったとかできたいうことは、世の中において何も力にはならないということです。今日の授業は全然わからなかったといって、でも半年くらい経ったときに何となくわかってきたとか、声に反応できてきたということであればよいのです。 とにかく50分聞いてみたあとに、1フレーズだけ出してください。そのときにできなくても、感覚が磨かれていないか、体がついていかないなら、ヴォイストレーニングの問題です。その必然性をもったところにトレーニングを置かなくてはいけません。

 一番難しいのは、人と同じ意見、人と同じ見方、人と同じ感覚だったら何も出てこないということです。それなのに、なぜトレーナーの評価にすべてゆだねるのでしょう。日本人はあの人がやっているから僕もやるという感覚であり、あの人がもっているから自分ももちたいという感覚です。 本当は、そういうことをいわないために、そうでないために勉強というのがあります。そうでないために自分があり個性があるわけです。あいつがもっているから自分はいらないというようになるべきです☆そこであいつがもっていないものをもちたいとなるのだし、あいつはもっているけど自分は必要ないとか、なるのです。今はそういうものが何でも誰でもお金で買える感覚になっているのです。

 その人に音楽が入っていたら、あとはしゃべっていても歌になるといっています。音楽が入るということが難しいのです。今かけた曲でも、皆さんが本当に近づけたところが何ヶ所くらいあるでしょう。近づけたところでも1、2ヶ所くらいしかないのです。でもその瞬間のところだけが、本当の意味でいうとレッスンになるところです。あとの部分は余分なところです。 それだけではなかなかわかりにくいと思いますが、そこからレッスンに入っていきます。感覚を少しでも変えていくためにレッスンがあるのです。これと同じことをやっても、できないということはわかっているからよいのです。でもできない中でもできているところはどこなのかということと、その距離をみていくことです。この条件があればできるというところを見てください。

○本当の声や音楽と出会う

 たとえばこれを聞いて、歌っているだけでは、歌にはならないのです。聞こえてきたものをそのままとっているだけです。声は出ていても歌になっていないというのは、このことをきちんと受け止めていないからです。見ていないのです。そして入れていないのです。 その入れたものを自分の表現で、音楽として生き返らせるということです。皆さんが今まで感動したり、涙を流したりしたものというのは、そこにすごい出会いがあったはずです。その瞬間の状態にすることです。 そのときの歌い手の状態はかなり高いはずです。その状態になりきらないと、そういう声は出てこないのです。ポップスですから本質的なところだけをやって、余計なものはあまりやらなくてもよいのです。

○音の柱

 音楽ですから、音の中に柱があるのです。べーシストであれば、ビンと出すのかビーンと出すのか、それによっても違ってきます。音楽のもっていく構成で変わってきます。そういったところを考えて、歌を歌わないうちにそこの部分で作っていくことです。

○一割ですべて

 オーディションでもおもしろいもので、そこに立っただけで50点という人と、ゼロかマイナスの人というのがパッと見ただけでわかるのです。ひとこと出したときに、マイナスを重ねていくだけとなる人も少なくありません。もう少し先を見てみたいと思わせる人は相当力のある人です。 たとえばピアニストが弾いていたら、ピアノが舞台になるわけです。ピアニストはうまいですから、それを邪魔しているのか、それにプラスしているのかということです。 プラスする方法というのは、マイナスのところを出さないことです。プラスのところだけをしっかりと出していくのです。全部を歌ってしまうと客が離れてしまいます。呼吸とか発声ができたところで、歌になるということではないわけです。

 人をうならせるのは、たかだか一割のことなのです。ただ、九割の歌という部分を確実にするために、その一割のものが必要だということです。そういうことでヴォイストレーニングが必要なのです。 「が、ら」だけでよいのでやってみましょう。目的は「が、ら」に対して集中することです。そのときにいろんなことが働きます。1年目、2年目はいろんなことが起きてあたりまえなのです。そこで起きたことを自分で知ったら、その距離が見えます。そうしたら近づいていけます。

○音楽の生じる器

 自分のはわからないと思いますが、家に帰ってテープに入れて聞いてください。そこに音楽の生じる器があるかどうかということです。それは皆さんに音楽が入っていないということよりも、結びついていないわけです。 今やったことは「が」と「ら」だけを意識したことです。音楽は、意識したかもしれないけれど声がともなっていないとそのうえに乗っていかないわけです。 漫才とかでも落語の舞台でも同じで、セッティングはいろいろありますが、まず出てきて、客が聞くというところの呼吸を作ります。音楽の場合は、芝居ではないですから、まえに出てきて止まらなくてもよいですが、それを助けるために音とか、リズムとかいろんなものが入っているわけです。

 皆さんが考えなくてはいけないことは、今の「が、ら」の中に「流れる空を」という音楽が生じるベースの部分だということです。そこに音階がついているから音楽になるわけではないのです。 ほとんどのV検の発表などでは、自分が覚えてきたものをそのまま繰り返して間違えなく出すだけです。それはアートではありません。アートにするために、創造するためには基本が必要なのです。その基本というのは、ぶっきらぼうに「ミミミ、ミミレミファファファ」と弾くことではなく、そのまえに体とテンションとを準備しなくてはいけないのです。 音をとるということも大切なのですが、イメージが最低限の音を使って伝えるということが大切なのです。真似ないでそのまま出してみてください。音楽を流すというのは音程やメロディをとることではありません。その音の中に感じて出すということです。

○感情表現と発声法の矛盾

 声をたくさん出そうとすると、すごく雑になります。それはそれだけの大きさの声をコントロールできないからです。勢いだけだからです。 感情をたくさん入れようとすると声が前に出てこなくなります。 感情を込めるときには小さな声の方が込めやすいのですが、伝わらなくなってしまいます。音が動かなくなってしまうのです。それを助けるために呼吸や声があるのです。その両方を両立させるというのは難しいことです。まして音がついてしまうと、音をとらなくてはいけないという方に頭が働くのです。

 そのためには、その感覚を鋭くしていくことと体の強化によって、ギャップをなくしていくことです。呼吸の中で、自分で捉えて動かそうとすると、うまく動かないのです。 呼吸が弱く、体が使えていないと、呼吸を調整しようとしても声にならないのです。息と声をしっかりと押さえていないからです。押さえたうえで動かしていかなくてはいけないのです。 それが発声練習、「ハイ」で息を深くする意味です。 声は出ても雑になってしまうのは、音楽が走っていないからです。イメージを音にするというところのものがないのです。イメージというのは、いろんなものが思い浮かべばよいということではないのです。

 今、私がいくらイメージを動かしても、実際にピアノを弾いてみると私の手では、それが壊れてしまいます。腕とか、神経系とか、指先などが心としっかりと結びついていないからです。それではすぐに反応できません。 ことばでしっかりと体からいえるようにすることです。そこで舞台が成り立つような枠を作っておくのです。 歌というのは、その音の動きを呼吸の中で送られたところでどんどん作っていくのです。 フレーズがよいか悪いかというのは、この前後がないと決まりません。ここだけが完成するということではありません。 でも最低限マイナスになることはしないことです。その感覚と神経がなければいけません。今皆さんの神経がつながっているところを、たくさん張り巡らせて、その中で一番よいものがしぜんと選ばれるようにトレーニングをしていくことです。

○音楽が生じるとき

 まずはトレーニングよりも聞くことだと思います。歌が生じるとき、音楽が生じるときというのはどういうときなのかということです。プププとトランペットを吹いても、うまい人は一音目から音楽を生じさせています。へたな人は、そこはよいけどあとはダメだねとなります。誰が聞いてもわかるのです。ここはキュンときたけれどもあとは全然ダメだったとなる。その判断は何なのかということです。 それは、表情でもその人のやる気でもないのです。音が働きかけるときというのがあるのです。そのときの状態を自分に再現させなくてはいけません。 私のレッスンではできるだけそういう方向に出してもらいたいものです。ことばかりでは入れられないから、発声もしていくことです。

 皆さんが声楽のレッスンをやるときも、声楽の勉強ということではなく、自分の歌の中における声楽というのは一体、何の役割なのか、そのレッスンはどこの補強に役立つのかということを明確にしていかないと、意味がありません。 1年くらい経ったらきちんと組み込んでいくべきです。目的に応じて声で返していくことです。そのときに価値観が違ったり、優先順位が違うことも起きてきます。それも理解していけばよいと思います。 今日やったことは2度3度のものがこれくらい難しいということです。ライブなどをみて、いい面をとり悪い面は反面教師にしてみてください。【「去り行く今こそ」@ 00.11.7☆】

○フレージング

 発声でも同じですが、きちんと歌えている人との違いというのは、一点をどこまで絞り込んで動かせるかということです。「ハイ」だけでも、いろんなところがなってしまうのは、絞り込まれていないのです。 声が出てるとそこで何かもっているように思うのですが、本当の意味では止まれないし、動かせないから使えないのです。ほとんど止まれずに流れてしまっているのです。 今の歌というのはリヴァーブをかけて、流れているのかどうかもわかりにくいものです。 メリハリとかリズムというのは、止めて、そこで動く自由を確保することです。

 人間は止まらないと動けません。バッターでもバットをずっと振っていてもヒットは打てないわけです。きちんと動けるところで止まっているのです。 実際に止まったら、次は呼吸だけで入れるのです。そうすると次のフレーズは歌わなくてもよいのです。呼吸のスピードとイメージが次のフレーズを決めます。呼吸を使えば息が入ってくるし、その反動で呼吸が同じ線を描くのです。あとは音楽が入っていて、声の線が退屈だと思ったら、そこで変えればよいのです。そういうものは出だしだけでわかるのです。一見うまそうに聞こえても、あとでもたなくなります。

○感性と創造

 人が見ているところというのは、構えができているかどうかと音楽の柱が立っているかどうかです。その二つがあれば呼吸配分を間違ったり、音楽が途中で崩れたりすることもありません。声がよいとか、歌がうまいということは大して見られてないわけです。 もう一つは音楽的な感性で、それなりのものが出ていればよいわけです。 次を聞こうと思わせてくれたら、よいわけです。それが出ているか出ていないかということは、音楽的感性なのか、表現的感性なのか、演劇的感性なのかわかりませんが、それがないものは退屈になってしまいます。 あんなにきれいな声なのになぜダメなんだろうとか、あんなに一所懸命歌っているのになぜダメなんだろうとなるのは、染み込んでいるものがないからダメなのです。そういうときは、時間がかかっても、根本的に変えなくてはいけないでしょう。簡単のようでも、そこで油断をするのではなく、より創造の方に力を回さなくてはいけません。創造しなくてはいけないのです。

○音を観る

 おもしろいもので、見ることができている人というのは上達するのです。それを見ることができるまでに相当の時間がかかるわけです。皆さんがやってみても、全然わかっていないという人はわかっていないとみえるわけです。わかっている人はわかっています。本人がわかっていなくても、できていればよいわけです。しかし、みえないと、上達もとまります。 それには音楽の器をきちんと知るということです。それがないところで、どんなに勝手に動かしても音も客もついていきません。 だからといっても、音楽も、他人の器のままではダメです。それを自分の器のところにきちんと呼吸を入れなければダメです。そこでの会話がしっかりとできているかどうかということです。

 一所懸命にやっていて1年半くらいというのは、一番効果の出しやすい時期です。案外とうまくできたりするのです。それを確実に固定できるのはやはり一部の人たちです。ある時期は、ビギナーズラックのようなものです。ほとんど見ていると離してしまいます。 なぜ離すのかというと、周りの状況から与えられたもので、まだ自分の身になっていないからです。毎日毎日やっていたら、その後の試験だけできてしまったという感じです。本当の意味で体の奥底に入っていないのです。だからそこの部分を勉強して欲しいと思います。

○発見する

 レッスンでは、何ができなかったのかがわかればよいのです。歌というのは、発声をやったり、ヴォイストレーニングをやるのでなく、歌えたらよいだけです。そのために10分の1くらいは、必要なこととして発声をやるのです。 あと9割をもっと大切なことをやらなくてはいけないのです。 自分で何を間違ったのかをわかること、その辺が伸びていく人と、伸びていかない人の違いです。

○集約度

 あとは集約度です。日頃集中し、集約していない人がいきなりできるわけがありません。それにはすごい積み重ねが必要です。長く続けるというのは一つの才能でしょう。続けている中で何かに気づいていく。気づきの量が多くなってきます。大体ここに入ってきたときは、自分で気づいているようでいて、先生にいわれているだけなのです。それを自分で再び、体とともに発見することです。 先生が1しかいわないことも10個気づいて、始めてできてくるのです。全部をことばでいえるわけではありません。全部いったら、1曲に何百時間あっても足りません。レッスンは、最低限のところをみせているのです。発声というのはそういうことです。たった一音にどれだけの神経を使って、どんなに少しのミスでも大きな事故につながるということを、徹底してどこかで知らなくてはいけないのです。

○自分を知る

 ポップスというのは、それほど声にこだわりません。皆さんも今やれている人たちを見てください。声もなくて、歌もうまくないのにやれてしまうというのは、そこに何があるのかということを見なくてはいけないと思います。 これでどこを直せばよりよくなるか、でもそれを直さないのはなぜか、それは本人がわかっていてやらないのか、本人がわかっていないのか。 次に自分がわかっているかわかっていないかです。これが一番難しいことです。他の人のことについては厳しくいえても、自分はどうかということです。わかっていてできないのは時間が解決してくれるからよいのです。でもほとんどの場合は、わからないまま離してしまうというのが多いです。そういうときは第三者に委ねてみることも必要です。でも他人のことばで聞いているだけでは仕方がないでしょう。

 繰り返し繰り返しでレッスンが終わってしまうからいけないのです。これで1回か2回やったとしたら、家で200回くらいやって、ここで出せなかった一番フィットするものをいくつかもっておくことです。そうやって得てきたものだけが、始めて他の歌にも通じていくのです。 急にシャウトの練習とか、高音の発声練習をやっていても、そこからは大してわかってこないと思います。大体音をとりにいくために表現を捨ててしまうからダメになってしまいます。それでは本末転倒です。 部分的強化ということで、あとで結びつけられればよいのですが、結びつけられないままにやってしまうからダメです。歌っている人のを聞いて、そこで自分ができないところを何で補うかということです。彼らにない自分の武器を見つけることをやらなくてはいけません。

○声が歌になるところ

 そんなに声が悪い人はいません。もっとうまく歌えている人たちがいるのだから、そこの勉強をしなくてはいけないということです。 やはり声にとらわれすぎているのです。もちろんここは、声にとらわれてやるといっているのです。でもそれで10分の1ということをどこかで知っておかなくてはいけません。歌でも10分1です。ではあとの10分の8は何が決めるのだろうというふうに見ていくことです。 歌も声もない人を見て、それよりも自分は歌も声もあるなら、もっとやれるはずだということです。それがルックスとかスタイルだけになってくると問題がありますが、全体でどう把握するか、その中の音質をどう把握するか、次から次にどうつなげていくかということだと思います。

 YMOなども、歌は肝心なところに声を置いていくだけで、あとは何も見せません。へただということを感じさせません。全部のトータルでみえるように工夫してします。 皆さんも歌の中で、声というのはあまり使わなくても、歌になるということをどこかで覚えておかなくてはいけません。こういう音域が広い曲も、音域があるから歌えないとか、声量があるから歌えないということではなくて、出だしのわずか4つの音の神経の違いということです。そこに神経を結びつけていくような練習をしなくてはいけません。そのために呼吸と体を使ってみるのです。 レッスンの中では、ゆっくりと感じられる曲でやりつつ、ゆっくりとなってはいけないわけです。自分のテンポはどうなるのか、自分のキィはどうなるのかということをつきつめます。変わった声や不思議な声も出てくるのです。全部ストックしておくことです。一番悪いのは、このまま歌ってしまうことです。それは誰でもできるのです。

○声はメインではない

 ボソボソとささやいているような歌を聴いて、全ては声ではないということに気づくことです。聞き手に対して何を与えるかということのために、声や歌が使われているのです。 こういうものを勉強するときも、その歌い手がその曲を作ったのは、あるいはその曲を選んできたのは、一体どういう感覚が働いているのかなということを、もう一度きちんと見ることです。自分が感動したのは、そこに何があったのかということを見ることです。それを自分がやる立場でもう一度見ていくのです。 そうすると自由曲の選曲もそんなに間違えないようになってくると思います。

 音楽的にもいろんなものをもっている人たちがやっていますから、もつのですが、ステージとして見てみると、よくないときもあります。技術も声も歌も充分にないのに、やれている人たちと何が違うのかということになると、心とか愛の問題になってきます。それでも感じてしまうということは、音楽は本当に心の問題になってきます。だから心を鍛えなさいということではありません。ステージのときにそれが出るために、いかに声を押さえていくかとか、歌わないようにするかとか、そういうことです。

○MCを磨く

 MCをやらないともたないというのは、情けないことなのですが、日本では場としてそこでMCをやらないと客の心が開かれなくて、歌が入っていかないということが起きているのです。 よい歌は聞けても、必ずしも感動することにはなりません。客の態度を変えたいわけでも、歌い手を変えたいわけでもないのですが、やはり場としてMCを抜いて何かやりようがあるような気がしています。 声の中で心とか愛が見えてきたら、浄化され、歌など飛んでしまう場合があります。それ以外のものは印象に残らなくなってしまいます。

○ステージでのかけひき

 プロの一番強いのは、最後のところでどんでん返しができるところです。その原動力は、発声とか、声量とか、歌い方ではありません。音楽について知っているということと、どう聞き手に対して声を置いていけば、心が乗ってくるか、開けるかという計算やかけひきがあるわけです。 それを感じながら練習している人と、声しか練習していない人は違うでしょう。声だけにこだわる時代ではないでしょう。ステージを確実にやるために、声のことに執着して欲しいということは確かです。 何重人格にもなって、今日は声だけとか、今日はステージだけで声は、考えないとか、5つくらいチェンジしながら練習していきましょう。一つの人格だけでやっていると、あまりうまくならないような気がします。

○よい声は、不要

 昔はよい声のうえに全部が乗っていたと思います。それで、藤山一郎さんのように時代にあわせた曲などを歌っていればよかったのですが、今はもっといろんなものを要望されているような気がします。皆さんも、歌だけでなく、ステージに対していくつかの接点をもっていないと難しいと思います。 でもレッスンの中ではいろんなアプローチをしてください。今日の中で全体をつかもうと思ってやっている人もいれば、呼吸だけをやろうという人や、声だけを出そうと思っている人もいるでしょう。その狙いにあっていればよいわけです。

○トレーニングマニアにならないこと

 レッスンは皆さんが自由に使ってよいのです。それがステージになったときにはそれが一曲の中に集約されてしまいます。 歌の難しいのは、それぞれの部分で完成はされても、完結していかないことです。トレーニングというのは、そこの部分を完成させていきます。 トレーニングばかりをやっていると、全体の引っ張りの動きがなくなるのです。意識的にすごく引っ張るという気持ちをもってトレーニングをやらないと、止まってしまうのです。勢いやパワーがなくなってしまいます。勢いだけでいってしまうと、つかめなくなってそれるますということになります。その辺を踏まえて、こういうゆっくりした曲で、いろいろと感じてみればよいと思います。そこで起きるちょっとした感覚の変化から、自分の声の変化を知っていくということをやれば、ヴォイストレーニングになっていくと思います。【「ゴンドラの歌」FA(2) 00.11.8】


<一般の方からの投稿より>

★はじめまして。今日40歳になりました。普通の主婦をやりながら趣味でメタルバンド、エアロビクスのインストラクターをやっております。子供の頃からずーっと大嫌いだった自分の声を好きになる為に2年程前から自分の声探しをやり始めました(その時にやったことがバンドの結成とイントラになる事でした)渋谷のYAMAHAに置いてあった書籍で福島先生と巡り合い以来バイブルとしながらメルマガも頂いて、声を良くする為の情報が沢山あってワクワク楽しみながら読ませていただいております。以前近くのYAMAHA音楽教室で声楽を習いました、おかげでVO.として私を認め付き合ってくれたバンド仲間からも確実に成長しているって言ってもらえるようになり自分でも順調に進んでいるっと思っていた矢先の習い始めてから一年が経った頃、声楽の先生が急に怖い顔になり、私がしっかりと先生を信じてやって居ない為喉がしまりすぎているのが一年経ってもまだ治らないこんだけ喉が閉まったのも珍しいと言われました。それまではコンコーネの伴奏を弾きながら「いいよ〜いいよ〜」と優しかった先生に或る日肩を怒らせ大きな声でとがめられ投げ出され落ち込みました。オペラをやってる知名度の高い先生でしたので、自分にはレッスン受けたくても空きが無くて受けられない次の生徒が待っているからと言うことで教室を辞める事に。

 喉が絞まっているとか、今日習ったことを次のレッスンまでに忠実に練習してくること、そういった事は言われ続けていましたが、先生を信じていないなんて私の何がそう思わせてしまったのでしょう?おそらく、確かに主婦の習い事ですから、声楽に対する姿勢が甘かったのとバンドを成功させたい一心から発声に対する疑問をたくさんしてしまった所が、でしょうか。考えないで言われたことをきちんとやっていれば必ず上手くなるっという先生の強い意志だったのでしょう。それを短い30分のレッスンの中で伝えてくれようと先生も頑張ってくれていたのだと思います。少しパンチをくらって目が覚めた心境です。が、自分一人でやっていくのは本当に大変です。私は主婦が一番の仕事ですから発声の事を考えていても真剣にやるという時間がまずありませんし、要点要点は解かっていてもそれをまとめ、一に何をし二に何をし、それでつかんだものを次のステップにつなげていく頭ではわかっていても月に1回のバンドのリハーサルだけではそれがなかなか表現できません。何かを一生懸命やれば他の何かがおろそかになる、主婦の言い訳をしながら時間だけがどんどん過ぎていくだけです。お金が無くても、お金を掛けて習ってしまった方が楽で早いと思い始めたこの頃です。  家の近くでまた歌を習える教室を見つけました。声を出したいのです。私はプロを目指していませんしあくまでも趣味としてのバンド活動ですが向上心はもちろん持っていて、ライヴを観に来てくれたお客さんに恥じることなく自信をもって私の声を聴いてもらえたらというのが今のところの目的です。次元の低い所から始ってますがあと何年かしたらもっとランクの高いコピーメタルバンドになっている姿を目指して日々頭の中で葛藤しております。

 福島先生の言ってる事をバイブルとして心に刻み、どんな先生だか分からない近くの小さな教室で発声を習おうというのです。天下のYAMAHAでもあの始末です。そこから本物を見つけることができるでしょうか自分でも不安ですが、何かしら、見つけてきます。きっと、おっこれはという物があるのではないかと期待して!!!長くてすみません、一番伝えたかったことが最後になりました。今まで歌は好きでも、身体が楽器になるという意味がまるで分かりませんでした。明らかに喉から上で歌っていたのです。先生のお言葉を読んでいるうち、一番はじめには魂(心)があって→それが身体を駆け巡り→声(歌)という形でおもてに出てくる。そういう事なのかな?って気がつきました。  猫がごろごろと喉を鳴らしているときは安心してリラックスしてとても気持ちのよいときで、その音は確かに喉から聞こえてきますが、さわるとわかります身体全体に響いているのです。私にそのごろごろの発声が出来たら、そこから何か始まるような気がします。今はまだそれだけしかわかりません。未知の無知のヴォーカリストです。これから見つけに旅します、ってもうこんな年まで何をやっていたのでしょう(笑読んで下さいましてありがとうございました。これからもメルマガや福島先生の書籍を読むこと楽しみにしています。皆さん頑張ってください!