会報バックナンバーVol.165/2005.03


 

レッスン概要(2001-2002年)


■講演会

○絞り込み

 歌は誰でもできることなのです。歌うことも声を出すことも誰でもできます。ただ、ピアノの世界でも同じ、今は10人に1人くらいは弾ける。弾けるというレベルのことと、それを人前に示して価値を得るレベルというのは、全く違うわけです。そこに関してどれくらい絞り込んでいくかということです。 レッスンでも同じです。いつもたった1フレーズからなのです。その1フレーズがどうかでしょう。音がとれているといえば全員できている。でも、伝わっていないといえば誰も伝えられていないのです。 そのことは何なのかをみていきます。それは、そこに至るまでの感覚力と、その感覚に対するコントロール力の足りなさです。そのうえで自分の演奏をどうしたいか、演奏の仕方を自分でわかっているということが必要になってくるのです。

 全ては続けないとわからないのはあたりまえです。1日で解決できることは、普通の人、誰でもが1日で解決できるようなことです。 カラオケの先生のように、それぞれの目的に応じて、合わせることはできます。 サッカー教室にいって、シュートはこう打つと教えてもらうと、そんな感じでやれている気になるけど実践に通じることではありません。実際の試合の中で、どれくらいのスピードが必要なのか、どんなことが必要なのかということはわかっていないのです。それで実際の試合に出たら、ケガをします。ヴォーカルの場合は、ケガはしません。だから、誰でも同じようにできると思ってしまうのです。

 一口に1万時間といっても、そんなに簡単なことではありません。毎日1時間で、1年で365時間、10年かかっても3650時間です。30年かかって1万時間です。カラオケが好きで、1万時間以上やってきた人もたくさんいるでしょう。でも、皆さんがみても、そんなにうまいとは感じないと思います。 だからこそ、トレーニングでは基本をやろうとしているのです。そこの中で見えていかなくてはいけないということです。そして、その見えていることに、たった一つでもよいから接点をつけていこうということです。

 そのことしかこの研究所ではやっていないのです。あなたが悩んでいることを、レッスンではやっているのですが、まだ見えていないし、感じられていないのです。また、見えていて感じられてはいても、それがうまくできない段階はあります。その場合の方が多いなら、幸せです。 どんどん見えてくるのに、全然自分が追いつかないという状況もあります。そうなると、体とか息などの問題も、オリンピック選手並とはいいませんが、少なくとも甲子園出場の選手がもっている以上の責任感とか、集中力は必要になってくると思います。それは全て時間で解決することではないのですが、そういう厳しい感覚の中に自ら入っていかなくてはいけないということが、難しいのです。

○プロセス

 ビブラートのつけ方とか、高い声の出し方とか、シャウトの仕方とか、のど声のはずし方とか、いろんな方法があるように思えるのですが、それはほとんど表向きにいわれているだけです。 もっと奥深いものがあって、それを感覚することです。そのためHPや会報などにいろんなものの必要性を示しています。 皆さんがやらないと、身についていきません。単純な話で、やれないのは、やっていないからです。それだけです。

 それが時間的に猶予できる人たちを、初心者というのです。要は、今までやってこなかったり、仮に歌ってきても、それだけの時間をつきとめていないから、逆にその分そこは待てるわけです。それが若さというものかもしれません。 自分の人生において、そこまでの時間を投資していないのです。先生にいわれても、それは違うと思うのはよい。先生の年齢になったら自分はもっとすごいことができるというのであれば、よいのです。そこには時間のギャップがあるのです。ただ、その時間を自分がこなしていかない人が多いです。 だから、ほとんどの人は、そう思って、先生レベルにもなりません。それなら、なれた人に素直に学ぶことでしょう。

 皆さんをパッとみて、よりうまいなとか、よりやれたという人は、必ずかけた時間と質があります。私が見ている限り、短期間ですぐにマスターできた人という人はいません。 ここに入って短期間でできたという人は、その前に10年あります。初心者で全く音の世界も歌も知らなくて、歌ったこともなかったのに、少しやってみたら、トップレベルになっていたという奇跡は起きません。 ただ、アイドルとか、別の価値づけの歌い手たちの場合ではありえるかもしれません。普通、その方がもっと難しいです。努力のみではいけないからです。それでも、子供の頃からいろんなオーディションを受けたり、自分の美容のためにどこかに通ってみたり、想像もつかない努力をしているのです。

 努力なら、自分の好きなことに徹底して向けましょうということなのです。なかなかそういうふうにはいかないようです。いろんなところに習いにいったりして、それで10年、経ってしまうのです。やっていることが正しいとか、正しくないということではなく、ちゃんと性根を据えてやっていかなくては、自分のものにはできないということなのです。 そうではないのに、成功したような人をたまに見たりすると、自分もできそうな気がするのです。しかし、今の自分がそういうポジションになければ、違うと思った方がよいです。また、そうなっても、たぶんそんなに楽しいことではないと思います。

 歌が下手なのに舞台に出られても、つらいでしょう。それだけ人に影響力を与えられるのなら、それはそれでよいとも思います。 皆さんの目的の中では、音を読みこんでいけばよい。急いで歌いあげてしまうから何も身につかなくなってしまうのです。急いでも、すぐに1年くらいは経つ、あっという間に人生10年くらいは過ぎてしまいます。だから、性根を据えてやることです。

○頭をはずす

 好きな歌でもセリフでも、難しいことはいいません、自分で歌いあげてみてください。すでに自分に入っている歌い手の真似はしないようにして、好きなように出してください。 最初ということでやってみましょう。そういう中で、問題を見ていきます。 のど声、共鳴は、教えられても変わらないのです。難しく考えるとすごく難しくなる、簡単に考えると、その辺の子供がやっているくらいになるのです。そういう程度でよいです。好きに出してみてください。 なぜその曲を選んだのかという面をどんどん考えていけば、それも一つの勉強の仕方になります。いつからそういうものが自分に入っているのかとか、そういうものはこちらもおもしろいとみています。 いろんな歌を自分で感知し、それっぽく出している部分、先にいっているところがあります。

 それをもう少し戻します。ことばをつけないでやってみましょう。日本語、英語の言語をはずして、スキャットにします。体とか感覚が動いていないようですから、もう少し回していきます。自分のものに専念したいでしょう。でも他の人のもよく聴いてみてください。 もう少し頭をはずしたいです。もっと言語になっていない音で、「うわー」とか「キャー」というレベルでよいです。「シュビドュバ」や、「アアア」でいこうと頭で考えるのではなく、気がついたらそのことばが出ていたというくらいの感覚でやってください。今のところから、歌っぽくしているところとか、誰かのものをとってきているのを、はずしたいのです。もっと自分の呼吸や肉声のところに忠実にやっていきたいのです。2回繰り返しましょう。1フレーズの中での構成を考えてやってください。

 頭をはずすということは、体の勢いでやる、バンとぶつける、ことばをつけるということではありません。音の感覚は流しておいて、それを声として表出するということです。今のは少しよりすぎです。音の中の呼吸で進んでいるというところから、余計なことをしないと考えてください。 歌いにいかないということです☆。声が出ていて、その声が変化するところを自分で感じて、そこを呼吸でコントロールして前に出していくのです。

 それ以上に口で作ったり、歌ってみたりすることも、歌の中では必要ですが、今やりたいことは、二つくらい前のところでやったものです。どんどんよくなっている人もいます。もう少しテンションの高いところでやった方がよいと思います。 頭から声をとっていくのではなく、自分の声を感じて、その声が前に出て、それを動かそうというふうに使うのです。それを体一つの呼吸のうえにのせていくことです。その呼吸がのらないところで、ワッと出したり、すぐに止めたりしないことです。そんなに間違っているわけではないのですが、もう少し絞り込んで出すと、こちらもやりやすいということです。もう少し自分はこう感じているという違いを、出してください。

○基本の練習

 基本の練習というのは、そこで応用するのではなく、応用できる自在性を獲得しておくことです。ここで高くあげたい、パッと切りたい、伸ばしたいとき、それをやるのではなく、それができる状態に声をコントロールしておくことです。歌の中ではそれがはずれて、フワーッとなってしまう場合もあります。しかし、それは応用された形として、その人にしかできない形になっているわけですから、それが息でかすれようが、のどにきていようが、そんなに問題はないのです。

 今は応用の勉強するのではなく、一番基本のところです。今やっていることは、基本の基本の部分です。皆さんがやっているところで、ここで急に右に曲がれるとか、ここはもっとゆっくりと置けるとか、そういうことを感じて、そのベースになるところの声を確認していってください。 結構、素直に声は出ています。それに対して、そこの自由度とか、応用性をこちらに感じさせるためにどうするかというと、より体や息を使うことと、より集中してテンションを高めておくことです。そうすると、ある程度、形がはっきりとしてきます。その接点をうまくつけられるときと、つけられない場合があります。ことばを変えたりすることで、より中心に近づいていく。そういうことをこの課題で感じてほしいと思います。

 私にとってみたら、しゃべっていることも歌なのです。その程度に身近にあるものが歌なのです。そこからそれてしまうから、歌がおかしくなったり、へたになったりするのです。 それの中に感情表現が入って、サビのところでピークになって、最後に終わることができればよいわけです。 それを2分間もかけてやろうとするから、かつ、2分間ですべてまとめなくてはいけないから、すごく難しくなるわけです。 そういう世界をもっと感じてもらうと、歌がもっと楽になると思います。難しく考えていくと、難しく勉強していって、結局、何にもならなくなります。体が鈍くならないうちに、もう少しやってみましょう。

○形をはずす

 聞いたふうなことをやらないことです。それは好きな音楽かもしれないし、それをやると気持ちがよいのかもしれませんが、自分のものになっているものではありません。だからどんどん形にとらわれていきます。その形を聞きにくる客にはよいのかもしれませんが、誰々っぽいというところで間違いなのです。 そういうものをはずしてみましょう。 それを考えているのは頭です。それは要りません。体から声を取り出して、自然とその声が動き出している中に、自分の呼吸、自分の意志のようなものが現れてくるということです。より自分の核心に辿りつこうとしてみてください。

 テンションとか、集中力を入れると、一時、声が硬くなったり、動きにくくなったりします。でも何のためにテンションや集中力が必要なのかというと、それをコントロールするためです。そこに呼吸と方向性が示せればよいと思います。 そこにリズムとか音感とかは聞こえなくても構いません。声が素直に出ていて、その声で歌い出せるようにしてみてください。それを邪魔することをしないことです。一番うまく歌えるときは、それを無意識でやっているときです。 やりすぎ、考えすぎの人もいますが、だいたい中心というのはわかってもらえたと思います。でもまだど真ん中ではありません。皆さんの中で、もっと繊細に扱えて、もっとそこでの見せ方ができると思うのです。ここで大きくなったから次は小さくおりたいとか、伸ばしたいと自分の中でそういう動きができてきます。音楽というのはそうやってできてくるわけです。

 こういうベースのことをずっとやっていくと、全然違う感覚のところでこれを認知できるようになる。それまでとは違うしなやかな体で、それを音の世界にもっていくことを邪魔しないようになる。でも「ハイ」とか「ライ」などで体を作っていくときに、ピアノでいうと、手首の使い方が悪いと注意されるようなものです。全体の流れの中で必要なことでも、体を作っている時期に、親指ばかりをみても弾けるようにはならないのです。そういうことはわけていかなくてはいけません。 少し応用をやってみます。1人の人がやったフレーズを、一呼吸置いて、他の人がとってみることをやります。全員で合わせる必要はありません。あの人はこういう感覚でやっていると、そういうことを感じてください。人数分のフレーズができるわけです。そこで多くの曲のモチーフはできるわけです。【京都基本 01.2.12☆☆☆】

○現実から捉える

 世界の基準ということを話していきます。この曲を3コーラスに分けて聴きます。 この中でヴォイストレーニングのヒントとして、一番聴いて欲しいのは、息です。いろんな問題は、すべて、まず現実面から捉えていくことです☆☆。 腹式呼吸や呼吸法とか歌唱法というと、いろいろとあるように思われるのですが、そんなに複雑なわけではないのです。 最近は、私は深い息としかいっていません。その深い息になるように、トレーニングをしていこうということです。 まず、あなたがやらなくてはいけないことは、今、自分に入っていることが何なのかということをきちんと見るということです。リズムや音感、メロディの勉強もそのうちの一つにすぎません これを1回聞いただけでも、評価を書ける人もいるし、書けない人もいる。こんなに聴いているのかという人と聞き方を比べただけでも、まだ勉強ができていないということがわかると思います。 別に何を聴いているからよいということではない。ただ前提として、何かをやってきた人は、専門的にどこかの部分を深く読み込んでいます。そのためには量も質も必要です。

○入れていく

 音楽の世界にしろ、別の世界にしろ、入っていないものは出てこないということです。最初は入っていないということさえわからない。入っていないものを入れていくということが、トレーニングの前提です。 その前に、自分に入っていないものや足らないものに気づくところからスタートです。 日本人として生まれて、日本の生活で育ってきたために、音声面での弱点に全く気がつかないことが多い。外国人が普通に歌っていて、あんなに楽に声量が出るのは、トレーニングをしたからではありません。彼らが普通に20年生活している中で、自然と身についてきたのです。 だから、研究所のやり方、ヴォイストレーニングの方法が特別にあるのではない。外国人であれば、当たり前にできることを、2年間かけてやってみようということなのです☆。

○やれている人

 歌の場合は、楽器の場合とは別です。私も批判や批評はしますが、やれている人というのを肯定して考えています。ポップスは芸術至上主義とは違う。 やれている人全てが歌がうまいわけでも、声が出るわけでもありません。でもやれているのですから、何らかの価値を出しているのです。 歌で捉えると、ヴォイストレーニングを間違えてしまう。歌がうまくなりたいのか、やれるようになりたいのかというのは別です。 ここは、音声で表現する舞台の基本をやるという目的で置いています。この目的を曖昧にしてしまうと、トレーニングの成果が問えなくなってしまうのです。

○うまいとは?

 例えば、歌がうまくなろうと思ってトレーニングをやるときに、歌がうまいということは、何をもって判断するのでしょう。歌が下手な人に対して、うまいということはいえる。しかし、どの程度うまいのかということは、あってないような判断です。 だから私が見るのは、現実にやれているかやれていないかということです、そこで判断するのです。客が集まって、感動していたら、成り立つ。さらに、リピートできるかです。 レッスンは厳しいものです。ところがわけがわからなかったら今の人はこなくなる。わかるまで待てといっても、待たない。その場で何かを与えないと続かない。 レッスンで、やるのはトレーナーでなくあなたです。 ただ、ポップスにおける基準というのは、わかりにくいのです。歌が下手でも、声がなくても、やれていればよい。では、何をもとにしてやるか、すべてはそこからです。

○使い切る

 今、息というのを聞いてもらいました。自分がこうやりたいということがあって、そのことが足りていないとなって初めて、そこにトレーニングが必要になるのです。 最初に相手に依存するなといっています。 トレーナーにつくなということではなく、自分がトレーナーを使い切るつもりでやりなさいということです。 トレーナーに委ねて、トレーナーの言う通りにやっていたら何とかなると思ったらダメです。そんなところを目標にすると、可能性が小さくなるいうことです。

○声の基準

 私が与えられる材料、基準、私の感覚や体というのは、最低限のベースにしようというのが、ここの目的です。歌って見本を見せ、まねさせるよりも、先に皆さんが日頃接しない一流のヴォーカリストを聞いて欲しいのです。 基準というのは、感覚のことになってきます。 プロというのは、価値を生み出し、それを売る。つまり、プロの感覚と、それに対応できる体を作っていくということがベースです。これは他の世界でも同じです。でも歌では、最終的にそれを音楽にしていく。 歌というのは、誰かが一所懸命にやったことを、何かしら恵まれた人や、優れた人であれば、半年もたたずに簡単にできたりする。そのために音楽に使える体と感覚があって、そのコントロールがきちんとできるために、いろんなものを入れていくことが一番のベースです。 だから、この歌い手のをそのままコピーしてとっていても、あなたの歌にはならないということです。

○音のデッサン力

 例えば、自分の歌を歌うということは、アレンジの力もあります。自分でこういうふうに変えていく。間奏で、声の展開を見せているところにこれがこのヴォーカルのもっている一つのデッサンの線、色のつけ方があります。 ヴォイストレーニングというのは、それを自由にやるためのベースの線の引き方、なのです。 オリジナルのデッサンを示すこと。そして、私はこの曲をいくという線を出すのです。 歌や音楽よりも、絵とかの世界ではわかりやすい。こういうものはどんどん自由になって、開放されるためにやる。そのためにベースが必要なのです。

○学校と養成所

 なぜどこも日本ではスクール化してしまうのかというと、要するに、習いにくる人がそれを求めているからです。誰かのように、私も誰かの歌を歌いたい。そうしたら、直接歌っていればよい。 それでは嫌で不安で、誰かについてお墨付きが欲しいというのは、歌を何かの資格と間違えている。プロでサッカーをやりたいと思う人はそんなことは考えない。養成所は、プロでやれる力を伸ばすところです。 やっている中で、自分のやり方ができてこない人というのは、落ちていくのです☆。それを上達と思ってしまうのは、怖いことです。 歌というのは、スポーツよりももっと自由にできる。より自由に開放されるために、基本を入れておくということが必要なのです。

 基準というのは二つあります。曲を聞いたときに、自分に合わない、嫌いと思っても、これはプロだなと思う優れた何かがある。そこを、好き嫌いで判断してはいけないのです。 今、学校などで成り立たなくなってしまったのは、きっと嫌いなことを、嫌いな人から学ぶことをしなくなったからです。がんこな親も反面教師もいなくなった☆。やさしい先生や友人と楽しくやっていれば、何かが自然に入ってくると思っている。 でも、好きな曲を好きなように歌っている人は、それ以上には、学べない。その人がそれでよいならば、もうそれでよい世界だからです。最近はそういう傾向が強くなりました。

○創造とは?

 音楽を伴う歌い手であれば、ミュージシャンです。ミュージシャンのもっているべき基本は、音楽が入っていなくてはいけません。 歌い手としての仕事もクリエイティブな仕事としたら、そこで創造活動をして、いろんなアイデアを出していくのが毎日です。 一流のアーティストは、誰も思いつかないような歌い方をしている。同時代でも、他の人は、最初の歌い方で最後までいく。予想がつくのは、二流です。私が評価できてしまうからです。今のアーティストでも、やれている人は自分で創造し、他と違うものを生み出しています。 私は新しく出てきたものがよいという考え方です。ある意味ではいい加減です。それを認めるかは、好き嫌いになってきますが、優れている部分は認めているつもりです。

 自分の方が、その人たちよりも声が出るといっても、仕方がない。でも実際に勉強をし始めると、そう考える先生や生徒が多い☆☆。 何にもできていないのに、声が大きく出る、高いところが出る、長くやっていることだけを誇っていく。 歌い手の中でやるべきことは、自分で出し切って、作っていくことです☆。トレーニングはその最良の状態を作ることが大切です。 NHKのプロデューサーに、演出のことを指導してもらっています。新人の俳優が、ベテラン勢と混じって演技ができるように指導していた人です。人間は自分で意識することによって、オーラを出すことができる。視線などの細かいところからも、次第に変わっていきます。

○状態から条件に

 トレーニングとは、自分の条件を整えていくことです。状態が飽和しないと、条件にはなりません。状態は、集中したり、リラックスしたりするのも、そのときの調子で悪かったり、よかったりします。トレーニングでも、最初はこの状態につられるから難しいのです。 劇団などにいくとよくわかります。慣れている人はパッとその瞬間に入れるのです。素人は入れない。 ヴォーカルでも同じです。そこに入れて初めて表現が出てくる。その舞台というのは一人では作れないのです。この場でやっているのは、その中で自分が時間と空間をつかんでいくためです。声や歌というのは、そのための武器にしかすぎないのです。

○声のせいでない

 多くの人が大きく勘違いしているのは、自分がうまく歌えないのは声が悪いからだ、声が出ないからだ、と声の責任にしていることです。歌えない人は声があっても歌えないのです☆。 ヴォイストレーニングというのは、声を出す練習ではなく、声を出せる状態を作ることです☆。 そのために最悪の状態のときでも、最低限人前に出るに耐えうる条件を備え安定した、コントロール力をもつようにしていくことです。最高のときを思い出して、それがいつも出すというのは、日頃からトレーニングをしなくては無理です。 歌がうまくなりたい人は、カラオケ教室にいった方が、丁寧に指導してくれます。どの音がはずれたか、そこで直します。

 私はそうはしません。もし音が外れたら、根本的に音を外す感覚のところに問題があるからです。その音だけを直しても、直るのではない。その感覚を感知できなかったという根本のところを正すべきです。 ちょっと油断したら、次にとれなくなるというのは、本当の意味では、身についていない。身に入っていない。 ポップスというのは、自分なりのズレを作っていく表現のことですが、そのズレを作っていくためには基本が入らなければいけません。 ポップスをやっている人は、みんな学校にいって勉強してきたのではない。鋭い感覚をもって、それを正してきたのです。

○レッスンとトレーニング

 この前、日本に来ていたカサンドラ・ウィルソンは、3歳からマイルスデイビスを聞いていて、5歳でもう感動していた。そんなことは日本人には特別なことです。そういう恵まれた育ちでうまくいく人も、日本の中にもたまにいます。そうでない場合は、補わなくてはいけません。そのためにレッスンがあるのです。 レッスンではそういうことに気づけばよいのです。トレーニングは身につけるためにやることです。この区分けを間違えてはいけません。毎日トレーニングしていたからといって、何かできるのではないのです。 その気づき方、自分の足らないものを知るために、レッスンにくるのです。それが自分でも気づけるようにしていくのです。そして、それを実践のトレーニングに移せるということが大切です。

○聞くことでの違い

 大切なのは、レッスンという場です。こういう場で音楽を聞くのと、家でラジカセで聞くのとでは違う。聞こえ方が違うし、聞く方のテンションが違います。 この空間の中で、何かを創り出そうという状態になることが大切です。理想は音楽になるということです。ミュージシャンの力がつくとは、楽器プレーヤーと同じだと思えばよい。 早くことばの世界を越えることです。音楽は、ことばで伝えられない人にも伝わる。基本をやれるということは、なるべく何もない状態に戻っていく、体一つでもやれることです☆。 ここで聞かせているものは、なるべく体の見えるヴォーカルで、あまり音響的な効果をつけていない、飾りのついていないものが多いです。そういう題材を使いながら、比較して聞いて、自分のものをそれにぶつけていくのです☆。

○実感

 最初のレッスンは、絵でいうと、直すのではない、今まで描いたことがないのだから、まず描きなさいということです。300枚くらい描いてみたら、誰でもこれはよい、これはダメというのが自分の中で出てきます。 その自分の実感を疑ってしまうと、何も成り立たなくなってしまうのです。すると、あとでは伸びなくなります。 先生がこれがよいというから、私はこういう発声をしている、という人で、やれた人はいません。自分の実感が一番大切です。それは時間をかけ、一流のものと接していたら、自分でわかっていくはずなのです。

○声のみせ方と声の基本

 外国の歌い手は、アドリブやスキャットを含め、1曲の中で声の見せ方をふんだんに入れています。日本人の場合はそこをカットします。間がもたせられないのとともに、客があまり興味がないということもあるかもしれません。 だから逆に本物に似させて、技術をこれみよがしにみせつけると、日本の客は感心してくれます☆。あまりよくないことですが、過渡期として必要なのかもしれません。 そこで本当に成り立たせるというのは、すごく大変です。そこに基本の力が効いてくるのです。

 基本は時代も国も超えるものです。 ポップスの場合は応用でやれればよい。ただ、もっと応用をやりたいと思ったときには、基本が必要になってきます。基本があればそんなに迷わないでしょう。 こういう歌はすべて呼吸でコントロールされています。決して声のよさとか、使い方とか、響かせ方などで左右されているのではないのです。高音の出し方も、ビブラートも、ことばの処理も、方法でやられているのでないのです。人によって違うものです。 まずは、優れている、優れていないという基準をつけるということです。それを価値として舞台で表現する、そのための体の原理が必要ということです。

○タイムラグ

 最初に指示を与えないのは、自分でできることは、まずできるだけ自分でやりなさいということだからです。そこも個性の養われる大切なポイントです☆☆。 人に教わらなくても、それを見ていく中で、どれがよいのか、どれはいけないのかということが、実感できてくるのです。それを大切にしなくてはいけません。スポーツなどと同じです。 基本というのは、そこを落としこんでいきます。決めていきます、そして自分の基準や、感覚ができてくるのです。それができないうちは、まず観る力を鍛えることをやらなくてはいけません。

 応用の状態と、基本の条件の間にはタイムラグが生まれます。腕を強くするために、腕立てを毎日やりなさいといっても、すぐに強くなるわけではないのです。その腕立てが、何の苦もなくできるようになったときに、初めて腕が強くなったということになるのです。 それが当たり前の体となって自然に使えるまでには、タイムラグがあるのです。 トレーニングというのは、意識してやるのですから、それが無意識になってやれて始めて身についたといえるのです☆。トレーニングはそのためにやる。

 ところが歌の場合、「どのくらいでできるようになりますか、」などの質問が多い。 声にするとか、よい声を使うということと、伝わることは違うのです。 発声だけならばもっとよい声が出るのです。目的は声とか、歌を伝えるのではなく、声や歌に乗せて、何を伝えるかなのです。 カラオケの勉強がプロに成り立たないのは、見えているところだけをとっているからです。人が歌っているものをそのまま勉強すると、コピーしても働きかけはその半分以下になります。その曲を勉強しようと思ったら、その歌い手が出しているその感覚を読み込んでいくことです。

○歌手とトレーナー

 優れた歌い手とトレーナーは、声を認識するレベルまでは同じなのです。でも、何が違うのかというと、オリジナリティです。トレーナーは器用にいろんな人の真似ができるものです。アーティストはそれはできない。しかし、自分のもっとも強いところでの創作活動ができるのです。 だから、うまい歌い手を真似して、何かやれた気になるのはやめた方がよいのです。

○日本人と外国人の違い

 例えば、この「ハイ」でも、きちんとためておいて、息の中から声にするところでいろんなポイントが課題としてとれるのです。子音が中心になっているところは、そういう出し方をします。 高音になるにつれて、息を吐けなくなったり、体を使えなくなるのは、日本のヴォーカルの特徴です。浅くのっぺりした響くだけの声になる。 息を吐いているのがベースで、そこが回ってきてグルーヴとなってリズムを作る。外国人でほとんど息しか聞こえないところも多い。

 日本語の場合は母音がついているため、それを響かせて歌っていくのがベースとなっています。つまり、それが正しい歌い方にされてきたのです。 だから、日本人の場合は、日常と歌の声とを使い分けているのです。外国人にとってみれば、息でコントロールするということからすると、言語も歌もそんなに変わらないのです。 統一して感覚を処理する。そのことでいうと、ことばと音の高さ、発音、メロディ処理、これはまさに日本語の特色です。それに対して外国人は、音色、リズムと捉えます。 最近のJポップでは、リズムは昔よりもよくなってきたというより、向こうに近づいている。しかし、言語の感覚のところからは入っていないので、弱い。

 「ハイ」というのは、それを一つにする練習です。皆さんも、普通の生活でしゃべっているときや、叫んだりしているときは、ことばを分けていない。なのに、歌うときにはそれが分かれてしまう。それをつなげるのです。 「つめたい」と歌詞にあったら、日本人はまず「つ」を高めではっきりというようにという指導を受ける。外国人は逆で、強アクセントがつくところだけが聞こえればよいという考えです。「たい」に「つめ」がついている感じで、「たい」だけでもわかります。そこで踏み留められるような声の芯をもっていたり、息をもっているからです。 海外のヴォーカルは、同じ音においても、シャウトしたり、響かせたり、抜いてみたり、いろんな扱いをしています。声も楽器の扱いと同じでようにしているのです。

○音域と声量

 ファルセットとか、裏声から入らないのも、それは応用だからです。その人がその音が使いたいと思って、その気持ちになったときに出てくるものだからです。教えられているのは、ものまねにすぎませんが、多くの人はそれが正しいと思っています。 よく質問されることは、ポップスの高音はどうなるのかということです。それはクラシックの高音とは、トーンも感覚も違っています。 私はその音を出したいときに狂わないだけの応用力があれば、その人から出てくるものでそれまでよいという考えです。

 音域に関しても、声量に関しても「どこまで伸びるのですか」と聞かれるのですが、体の原理に忠実なところまででよい。あとはどんな得意技を使っても、音響技術でやっていても、音楽のルールに反しなければよいのです。そのときの感覚のレベルが、高いか低いかということです。 多くの人が自分で自分のことを限定してしまうのです。特に高音を伸ばそうとか、音域を伸ばそうと思っている人は、そこにとらわれているのです。 体もついていないのに、その音に当てて、それでできたと思ってしまいます。 そのやり方でデビューできて通用している人はよいのです。そうでない人は、根本から考え直さなくてはいけません。 私がしゃべっている声は、皆さんにとって低く聞こえると思います。それは日本人が音色を聞けないということです。

○目標

 ほとんどの人が現実をみているのに、なぜか練習をしている間に、おかしくなっていくのです。それは自分の声の原理とか、感覚を見ないで、自分はその出し方しかできないと決めてしまうからです。あるいは、トレーナーに全面的に頼ってしまう。そこで、自らの判断力を磨くという、もっとも大切な目標を見失ってしまうからです。

○デッサンの編集

 いつも見て欲しいのは、声を出したときに、そこに表現できる器ができているのかどうかということです。そこにメロディがついていればよい。楽譜の音程などにとらわれている、そこから出られない。 歌を歌うということは、映画の編集作業と同じなのです。自分のルールが一曲の中で守られていれば、どこまで伸ばすかとか、どこで切ったとしても、それは自由です。その人の感覚や呼吸の中に歌が入っていて、それが展開させていくのです☆。そこで捉えないと、複雑になってくるのです。 オリジナルフレーズというのは、絵のデッサンのような勉強です。いろんなタッチを出して、自分の感覚のままに声や体が動くようなトレーニングを積んでおくのです。トレーニングの本当の目的はここまでです。歌をどう歌うのかは、その人が感じたままに歌えばよい。結局、聞き手はどこで聞いているかを知ることです。 発音や音程が聞かれるとしたら、その時点で歌としては失格です。それを感覚で調整してやらなくてはいけないから、難しいのです。レッスンではこういうことをやっていきます。

○トレーニングの基本での目的

 トレーニングでやっていくことは、できることをより確実にできるようにすることです。そのときにできないことが巻きこまれていくのです。できないことはできないのですから、よりできることを完全にやることによって、できないところが徐々にできるようになっていくというのが理想です。そうでないものは、全部付け焼刃です。本当の力にはなっていきません。 例えば、今日よいものが出たと思っても、それを自分が自覚して待っていて捉えていなければ、次には出せないのです。これは声の世界で行われるから音よりも難しいのです。そのためには耳や心で聞けるようなトレーニングをしておかなくてはいけません。

 半オクターブくらいで。声量がなくても、表現できていたらよい。声量や声域も、それが目的ではなくても、プロセスで得られたところであれば条件としては充分です。 日本人なのに向こうの歌い方をしなさいというのではありません、向こうでも通じる徹底した基本ができることによって、日本のものも楽に歌えるようになるということです。 ヴォイストレーニングというのは、より可能性を広げるためにやるわけです。何でもできた方がよいが、何でもできてもしようがない。歌で全部を使えるわけではない。いつでも使えるために器を広げておくことが大切です。【講演会2 01.2.17☆☆】

○歌の特殊性

 たとえば、私がバッティングセンターに行って、今日すごく打てたからといっても、明日から清原のように打てるとは絶対に思いません。それはそのギャップを知っているということでなくとも、自分ができる程度のことは誰でもできる、もっとできる人がいるということを、知っているからです。 スポーツの場合は、速さとか強さとか、基準がかなりはっきりしているのでわかりやすい。記録や勝敗で争うからです。 ヴォーカルの場合はエンターテイメントであり、それが見えにくいのです。

 たとえば、楽器のプレイヤーの場合に、そこまでに何万時間もやっている人と同じ時間をとることができません。その中であらゆる演奏家のパターンを入れて、そこでさらに自分の武器となる何かを見ていかなくてはいけない。ほとんどは時間的に無理です。それは、楽器という一つの決められた土俵でやるからです。そういう意味では野球も相撲も同じです。

 ところがヴォーカルというのは、その土俵や基準が決められていない。その人がいるところで、その人が決めていくものだからです。 だから私も、入所をオーディション制にしていない、年齢も問うていない。ポップスの場合、現実は自ら創れるからです。ヴォイストレーニングをせずに、小さいときから歌っていたら歌えたという人はいくらでもいるのです。ですから、小さい頃から歌っていてそうなったというプロセスを取っていくのか、それを見切って違うやり方をとるのかというような、その二通りくらいしかないのです。

○学ぶ軸

 研究所というのは、後者をとっています。一般向けとしては、他の人よりも経験が浅く、不器用で、パッと歌えなかったという人が半分です。普通のトレーニングや他の学校に行って、1、2割を上達したところでやっていけないのであれば、どうするかから考える。そういう人が世の中でやれるためにどうするかということで、トレーニングをする。 10年分のことを2年間で見ていかなければどうしようもない、そこが一番の根本です。次に10年分の経験をどう与えるかということがメニュです。 J-popをカラオケで100曲歌ってきた人と、あらゆる世界中の音楽を1年聞いて1曲仕上げた人では、同じ能力だったら、あとでどちらが秀でるかということです。

 テレビを単に見ている人と、それをビデオにまとめて、本当によいところだけを何回も見ている人とは、見方が違ってきます。映画を見るにしても、それを声で聞いている人と、ストーリーのおもしろさで見ている人とは違ってくる。そういうすべての日常の中の価値観のようなものが、その人の生き方なり表現していくものに一致していく、そこに奇蹟の起こる可能性が出るし、楽しくもなってくる。ただ、それには最初が大変です。

○教わる価値とは

 今、やれているのは、そういう人です。一緒に入ってくる人がかったるくて仕方がなかったという人だからやれたのです。他の人にはもっと社会的にやれる才能がある人もいた。どちらがよいということでもない。 要は、その問題と必要性をきちんと絞り込めるかどうかということです。 誰かと出会ったときに、その人から自分に本当に必要で、かつ取れるものを取っているのかということです。9割がいらなくとも、1割取れるものがあれば、取ることです。そこの差だと思います。 私もいろんな先生につきました。メインでついた先生からは、私しか取れなかったものがあったと思います。他の人は大半がとれなかった。だから価値があるのです。みんなが同じようにとれるくらいなら、それは価値がない。 すぐに教えてくれる先生のすぐに教えられてしまえることよりも、なかなか教えてくれない先生の教わってもなかなか身につかないものの方が自分のためには必要なのです。

○何をとるのか

 最初にいっておきたいことは、外国人の感覚と日本人の感覚の違いです。主として音色とリズムでとるのか、ことばとメロディでとるのかということです。まず、ことばを一つにするということです。 リラックスして「ハイ」といってみてください。この中でいろんな声があります。基準ということがどういうことかは、皆さんでも瞬時にわかるはずです。今のはよい声だとか、今のは緊張してのどにきていたということは、わかります。

 「ハイ」 音声の世界というのは、この中に何が起きているかを見ていく世界です。皆さんの中にもいろんな「ハイ」がありました。私が今やってみせた「ハイ」というのは、誰でもわかるとおりに、不しぜんです。もともと歌の世界や声の世界があるのではない、あなたが聞いている感覚の中に許せるものと、もう聞きたくないというものがある。それが働いている延長上に歌や音楽がある。 ではもう一度やってみましょう。 2回目に修正をかけることが、レッスンでは大切なことです。1回目は出せるものを出すのですが、次は自分で修正をかけて、相手の期待以上のものを出すようにします。

○お腹からの声と深い息「ハイ」

 そこで何が起きているかわかりますか?自分でイメージしたのに、その通りに出なかったという場合もあると思います。それを100回やって、1回でも狂ったら歌は歌えないということです。真っ当に歌える人であれば、1回も狂いません。ここではそういう意味でトレーニングと歌をわけていないのです。

 今の状況の中で、何がまずかったのかを自分で考えてみましょう。急にふられてドキドキしてしまったとか、前の人が早くて焦ったとか、そういうこともある。そうしたらそれが問題です。 それは慣れることである程度は解決できます。 日本人の場合「ハイ」ということばを与えられて、お腹から思いっ切り出せる人はなかなかいないのですが、外国人は簡単にやることができます。その違いというのは、骨格や食べ物が違うのではありません。発声というのは、息を声にすることです。彼らが体から言えて、日本人が体から言えないのは、日常のところの呼吸と声たてから違っているということです。 最近はあまり腹式呼吸とか呼吸法などは使わずに、単に深い息といっています。

 それぞれ息を吐いてください。なるべく深い息を吐いてください。日本人のヴォーカルは、英語の発音をきちんと正確に歌うがために、息が聞こえない。向こうの人たちの歌には、息の動きが聞こえる。それは英語の発音自体が、息を吐き捨てるところの上に乗っているからです。 強の音に弱の音が巻きこまれて、弱の音は発音していない。今のことをやっただけでも、汗をかくほど体を使う。 息を深く変えていくために、どのメニュをやればよいですかと聞かれても、何でもよいのです。それを目的にしてみればよい。「ハー」と伸ばした方がよいのか、「ハッハッハ」と切ってやる方がよいのかは、誰もわからないのです。

○ロングスタンス

 普通の人ならば2年で辞めることを、やった人は3年から先も頑張っていったということです。みんなが辞めたところから続けたことしか、自分のノウハウにはなっていかないのです。世の中に器用な人はいくらでもいる。2年くらい頑張る人はたくさんいますが、それを3年、4年と続けていける人はほとんどいない。それは声をコントロールするのに有利な条件づくりになってきます。 ことばの処理でたとえとして、「つめたい」ということばを使っています。彼らがいうときには、後ろから2番目か3番目にアクセントをつけ、「たい」という。強いところに集め、他のところを切り捨てていく。

 向こうのジャズを聞いても、聞きとれないことが多いでしょう。日本の人の歌はほとんど聞きとれます。日本人は強弱ではなくて、発音のところで声にしているからです。日本人の歌が楽譜に書きやすく、むこうのは難しいのは音色でもっていっているからです。 日本でやられている発声練習というのは、音に届かせるための発声が主です。体には結び付けないで、上の方にあてて響かせていく。これはのどを避ける効果があるからです。

 私が認めているのは、体が使われている発声、体でコントロールできる発声です。そうやって出していると、ひずんだ声でも、3年後、5年後、それが抜けていくからです。 日本人にとって一番わかりにくいのは、そういうものが変わってきたあとの、柔らかい声とか響きの部分しか見ないからです。その体のプロセスが待てないのです。どうして、2、3年で判断してしまうのでしょう。 そのまま出しているのは、サッチモのような人です。だから研究所で使っている見本には、体が見えやすい人のが多いのです。

○可能性のつなぎ方

 昔は、五木ひろしさんが出すファの音でも高いと言われていたのに、今のJ-popではハイC(ド)の音まで使っています。マイクなしでは通用しません。あの当時はアカペラでも通用する音域でとっていました。 それはどちらでも構わないのです。声をどう使おうが、その人の勝手です。 ただ、声のことで真剣に体と一緒に作っていきたいのであれば、そういうふうに考えてみるべきです。五木ひろしのファの音は高く聞こえ、サッチモのファの音が低く聞こえる、それは日本人が高低の感覚でとっているからです。音色が、読み込めないからです。 今皆さんに大切なことは、どこまで先に可能性をつなぐかということでしょう。トレーニングを始めるときにどっちが歌いやすいかということではないのです。浅い声で歌った方が楽に歌えるに決まっている。でも5年後、10年後を考えたときに、体が変わる可能性はない。

 要はエンジンを変えることこそ、もっとも大きな可能性だということです。これは変えても、うまくいかない人もいるかもしれません。でも試したこともないのであれば、試す価値はあるでしょう。 ヴォイストレーニングでやるというよりは、感覚の方でやるところが大きいです。音楽自体が踏みこんで、離していくという進み方をしているのに関わらず、日本の歌というのは、そこについていけない☆。低いところ、高いところ、伸ばすところ、短くするところということで進んでいるのです。 セリフでも同じです。そんな棒読みの表現の世界はありません。音楽的に声がついていくのに、体が必要なのです。

○ことばをベースにパワーを

 おもしろいデータがこの前新聞に載っていました。向こうのキャスターが1分間にしゃべっている時間は30秒にしか過ぎないのに、日本のキャスターは50秒近くしゃべっている☆☆。つまり、日本人は間以外は全部しゃべっているのです。 歌でも、彼らはすごく歌っているように見えますが、リズムでことばを切っていて、歌っているところは、伸ばしている部分だけです。何が違うのかというと、リズムとしてのことばをベースにしている。そのため、加速度、スピードが違うわけです。それが歌のメリハリになります。 ピアニストでも、すごくダイナミックにドラマティックに弾けるというのは、大きくて力のある人ではない。小さな女性でも表現できる。彼らの中に、確実なスピードがある。そのスピードの速さ、打鍵の速さに、聞く人にパワーが聞こえるということです。

○声量や声域は、結果

 声量や声域にこだわる人というのは、このピアノの音量鍵が3倍あった方がよいとか、もっと鍵盤が長いピアノがよいピアノだといっているようなものです☆。 今はマイクがあるのですから、ほとんど意味がない。トレーニングの第一の目的にはなりません。 ヴォイストレーニングでは、それは結果になるということです。自分の体を一番合理的に使ったときに、そこで完全にコントロールできる領域が、声域、声量とも広がるということです。

 厳しく判断すると使える声は、最初に自分が思っていた音域よりも狭まります。3オクターブ、4オクターブにしたいといわれても、確実に使えないもの、安定しないものはゼロです。 2オクターブくらい使えるつもりでくると、半オクターブも通用しないとなる。ピッチ(音高)がとれても、コントロールでき、表現が宿らなくては仕方がない。 通用するということは、完全に表現として再現できるということです。そうでないと怖くて使えません。そんなに怖い場所に立ったことがないから、あるいはそれでごまかせる客しか持っていないからよかっただけです。真剣にトレーニングをやるとか、勉強しようとするときには、こうした基準が必要になってきます。

○表現でみる

 今の「つめたい」というのは、日本人は4つの音でとり、つなげます。表現は伝わるところを創り、残り、捨てるところを捨てなくてはいけません。彼らは一つの線のなかに読み込みます。私の述べる“メロディ処理”です。洋楽を聞いたら、そうやっているはずです。 リズムと音色中心というのは、彼らの言語でそのまま音楽です。たとえば、ラップにはメロディがないし、スキャットにはことばがありません。楽器的な使い方の歌が多いのです。 それに対して日本語というのは、一つの音を次の音に均等に伸ばしていきます。

 話しているところから違ってきます。まず相手を威嚇しないように話さなくてはいけません。この日本語の特徴をよい意味でも悪い意味でも助長してきたのがクラシックです。クラシックは母音を伸ばしていきます。「kiss」といえばよいのを、「キィスゥ」というのです。 現実の場から考えなくてはいけません。あなたが共感を示せるヴォーカリストというのは、その人の世界や感覚が理解できる、そこにあなたの求める何か深いものが入っているのです。それがあなたの体とか声を通じてみたら、それぞれに全く違った形になるのです。

○表現のための声

 音楽を聞くときに息を聞くことです。今は加工が入っていて、その人の本質的な声がわかりにくいです。音響で変えてしまった声を、どこまで同一人物の生の声としてみてよいのかということは、むずかしいのです。 そういうことでは、何でもできてしまいます。人がコンピュータに譲れない部分というのは、音色と感覚の部分、演奏上のその人のずらし方です。 ピアノでも今は自動演奏があります。それと人間のプレーヤーとの違いはどれだけはみ出せるかです。そのはみ出し方が収められるかどうかです。 音楽でいうと、はみ出すためにインパクトを入れておかなくてはいけないということです。たとえば、強く速く踏みこんだら、そのあとに自由な空間ができます。そこで遊びができる☆。それをずっと同じペースでやっていると、聞く方の集中力が落ちて、伝わらなくなります。

○ルールと作詞作曲力

 音楽というのは、一つの共通したルールの中でやる。それは誰かが決めたルールではなくて、自分の中で打ち出したルールにそって、どれだけドラマチックに一曲をきちんと終わらせられるかということが勝負なのです。 音程やリズムの世界でも、考えるときに、7つのスケール、8ビートのリズムなどがみえる。しかし手順を無視していて、できあがったところを取ろうとしているから、学べません。

 作詞や作曲もやらせているのは、歌唱中での作詞や作曲ができなければ歌にならないからです。 ヴォーカルというのは、違う人の曲でも、自分で解釈をし、アレンジをし、歌唱としては作詞作曲をやっている。周りが期待する以上のものを、そこに出し、巻きこまなくてはいけません。 たとえば作詞家になりたいというときに、カルチャーセンターの作詞教室に行く人がいます。しかし、自分で毎日10個書いている人は、2年間続けると7000個できる。7000個あれば、その中の自分のベスト10というのが選べるようになります。その中で絞り込めるのは基準ができてくるからです。それを先生に見せて、何かいわれたら、意味があるでしょう。ところが、つくってすぐに先生に見せて、何かいわれたとしても、どうしてそういわれるのかがわからない。その世界の基準が見えていないからです。 曲が作りたいと思ったら、今日から自分で作ってみればよいのです。

○日常での歌

 一番の基本を見ていくことです。それは人に対して、ことばでも音楽でも何かを伝えるために使うということです。そうやってきちんと相手を説得するために、ことばを使ってきた文化の延長上に、全世界で音楽が発信されている。それをきちんと自分の中に入れましょう。そこから出てきたものが一つの形として歌になっていく。 世界の優れたアーティストには、音楽がたくさん入っているのです。全部入っていると、しゃべったら音楽になってしまいます。 声を出そうとか、高いところをとりにいこうとか、リズムを刻もうなんて考えていないのです。こうやってしゃべっているレベルで消化できていくということです。

 日本人は残念なことながら、歌に関してはそこまでできていません。まだ歌が日常のど真ん中に来ていない。1オクターブ半もあるものを、日常の中で創造していくということが、かなり難しいのです。 たとえば「ドドード」という音楽に「ギターよ」という歌詞をのせるとき、「ギターよー」と歌ってしまうからおかしくなってしまうのです。自分で「ギターよ」といいたいように作れば、歌も声もそれでよい。それで崩れてしまう部分が自分のトレーニングの課題になるところです。

○デッサン

 最初に基準の設定が必要です。それは姿勢がよいとか、声がきちんと出ているとか、発音のよし悪しではなく、まずきちんと伝わるかということから見ていくことです。相手の方から聞いて、それが伝わっているかどうかです。 柔軟性というのは、そのための前提です。その人の気持ちや感覚とかがそこに巻きこまれて、それを声に乗せて伝えるのです。まず自分の中にイメージを作らなくてはいけません。そのときに、テンションは落ちないようにします。 テンションの落ちたヴォイストレーニングというのは、間違いです。テンションが下がったところでは、声は扱えないのです。ピアノなどでも、テンションがなくても間違えずに弾けますが、演奏を入れることはできません。

 「レミファ」という音に「イエリスィ」ということばを乗せて、何度もやってみるのです。その中でどれが音楽になっているかです。そうやってデッサンのようなことをやりながら、作っていくのです。 研究というのは自分のデッサンづくりをやるところ、野球でいうと、素振りをやることです。自分の中にどんな色や線があるのか、いくつも描いてみるのです。 絵でも陶器でも、それを見れば誰のものかというのがすぐにわかります。それがオリジナリティです。ところが声の場合は一人ひとり違いますから、そこで甘くなるのです。音の中での判断ができない。 ところが外国人は声があるので、その中で音楽的にすぐれ、新しい線を描けたり、誰もが期待する以上の動きを作れる人だけがプロなのです。それを目指さないのであれば、そういうものの必要はないと思います。要は、自分の線を描き、自分の色を描くのです。

○うまくても仕方ない

 よく漫画家の話をするのです。ヴォイストレーニングをしたり歌を歌うのもよい。しかし、どんなに絵がうまく描けるといっても、この中にはすぐに似顔絵を描ける人はいくらでもいる、誰かふうの漫画を描ける人はたくさんいる。でも大半は、いつまでも他人の絵を写すだけで、一生終わってしまいます。 それに対してデビューできる人というのは、最初の絵は案外と下手なのです。でも下手なのになぜデビューできるのかということがポイントです。 絵が下手にも関わらず、載せたくなるような何かがあるからです。それは、ストーリーやタッチ、キャラクター、そしてコマの割り方など、斬新なアイデアです。

 絵はあとでうまくなればよいのです。でもその人しか出せないタッチやキャラクターが生み出せないなら、漫画家になれません。漫画のコピーをいくらしてもダメなのです。 今ヴォイストレーニングをやりたいという人には、そういう人が多いのです。大切なことは、そこで表現を出すということです。そうやって何回も何回も繰り返して、自分のものはこれしかないというものを煮詰めていくのです。その作業の延長上に歌があるわけです。 ポルノグラフィでもウルフルズでも、世の中に出たヴォーカルというのは、うまいとか下手ではなくて、何かを新しく創り出しています。他の人に自分にはこれはできないと思わせます。

○新しい世界を

 声のことも歌のことも、皆さんが決めていかない限り、決まっていかないのです。決まっている人に対して、いろんなお手伝いができる、とことん決めていくお手伝いはできると思うのです。 歌がうまくなるかとか、声がよくなるかというのであれば、誰でもやれば、その辺のカルチャー教室程度にはできる、それなら最初からそういうところへ行くのがよいと思います。

 私は弟子を作りたいのではないのです。研究所は、そこにいる人をも材料にしてみて、新しい世界に問える場、その力をつける場でありたいと思っているのです。 落語でも自分でそれぞれ自分のネタを考えるでしょう。勉強するときには、古典を徹底してやります。それが自分、オリジナリティを問うことになります。研究所はその時期です。なんでこんな曲を聞かなくてはいけないのかとなると思いますが、それは逆なのです。 自分一人ではそういうものは聞かないのですから、大きな経験になります。これだけいろんなものをやっていく中で、少しでも自分にフィットするものがあれば、それはすごく大切なものなのです。

 好きな曲を好きなように歌っていると、楽しいばかりで、全然わかってこない。それでは力がつきません。それでやれればそれでよい。ここは見えないところを見ていく、足らないものを入れていくところだと考えてください。 学校を全部まわり、プロダクションも全部回ればよいのです。ほとんどのところは無料体験レッスンもやっています。いくと、いろんなことをいわれると思います。そういうところになくて、ここでしかできないということがある。他のところもみんなプロでやっている、それなりにちゃんとやってくれます。そのくらいで解決することであれば、そこで解決していけばよい。私もお願いしたいくらいです。 ここに正しいヴォイストレーニング法があるわけでも、本物の声があるわけでもないのです。

○大逆転のために

 何かを表現したときに、あなたの中で本当によかった、悔いはないと思える瞬間があれば、それが本物の表現へのアプローチだということです。それが歌であれば、本物の歌、本物の声へのアプローチということです。あなたにとっての本物とは、あなたのなかにしかないのです。 その感じ方は人によってそれぞれ違うと思います。その感じるレベルがあなたの作品の質を決めます。

 私は本音でやっています。初心者に、絶対上達するとかプロになれると言えるほど、甘い世界ではありません。ただ、やった分だけ変わっていく。 私ものどが弱かったから、よくわかるのです。のどが強かったら、やっていなかったかもしれません。コンプレックスがあって、そこで大逆転が起きる瞬間というのは、人生のドラマの一つでしょう。もっと才能がある人はたくさんいたのです。 そういう意味では、自分がどういうタイプかを知るということです。

 日本の場合、スポーツでも受験でも、1、2年で勝負が決まってしまうことが多いのですが、こういう世界は5年、10年かけてやっていく世界です。最初の3年、5年眠っていても、あとの7年、10年で起きあがったら勝ちです。 そういう勝負の仕方は、あまり日本人はわかっていません。自分が器用で即戦力型タイプだと思ったら、そういうやり方もあるでしょう。私は大器晩成タイプに合わせています。器用なタイプはすぐに自分でやれると思って出ていく。それはそれでよいのです。ただ、もっと深い意味でここを活かして欲しいと思っています。【京都講演会2 01.5.19】

○先を見る、学ぶ

 日本人には、あまり10年、20年をかけて何かをやっていこうと、先のことの計画を立てられる人は少ない。 たとえば学校でスポーツか何かをやっていたら、1年生のときに上手い下手がみられ、それでレギュラーが決まる。もしかしたら5年目に大きく芽が出るかもしれないという見方では、見られていない。 ヴォーカル業界も同じです。10代の器用な人が先に出てしまいます。5、10年かけたら育つ人というのは、才能がないのではなくて、タイプが違うのです。小説家とか画家であれば、そういう人はたくさんいるのですが、音楽の場合は、市場が20代前半までだったので、それに当てはまる人を優先していました。 楽器の人というのは音で聞いていますから、スピードにしても、音色にしても、自分の演奏とプロの演奏の違いが、否応なしに突きつけられてきます。同じ楽器ですから、明らかに違うのは、その感覚とイメージ、それから筋肉、体なども含めた自分の技量であって、基本が足らないということがわかります。

 日本のバンドのレベルは上がったのですが、ヴォーカルの場合はわかりにくくなっています。さらに、音響技術が発達してきたこともあります。声というのは、それぞれの人の楽器が違うので、そこでの判断がつけにくい。楽器の人は、練習をたくさんしている。いつも状態が変わり、練習時間による成果に限度のある声では、確かにわかりにくいのです。 声や歌に関していうと、みんなが学校やスクールで勉強して歌い出すのではない。本当の意味で歌やせりふの初心者などいないのです。 たとえば、「ヴォイストレーニングにおいて、ピアノのバイエルにあたるは何ですか」と聞かれる。ヴォイストレーニングの基本というのは、声を使って相手に伝えられるということでいえば、おわっている。こうやって会話をしているだけでも、かなり高いレベルでやっていることなのです。

○基準を知る

 歌も相対的な実力差ですから、皆さんよりも上手い人がいるから、自分が下手だと思うだけです。他の人が全然歌えないところに行ったら、皆さんがスターになれる。 ヴォーカルに関しては、絶対的な基準がないので、わかりにくいのです。自分が下手だとか、上手くないということがわかる人は、相当に上手い人のすごい歌を聴いて、その基準をもってくることです。それにぶつけるのが一番早い上達法です。

 J-popが見本にとりにくいのは、同じレベルで歌えても、あるいはそれより上手く歌えても、どこかでやっていける保証はないということです。 昔はプロの基準というのがはっきりとあったので、プロ歌手をめざしてどうトレーニングしていくかというような基準もあった。今はそれがありません。 だから、スクールとか学校の勉強自体の考え方も、変えるべきです。学校に行ったり、ヴォイストレーニングをやれば、上手くなるが、やっていけるということではありません。 トレーナーの考えや感覚が一番遅れている。はっきりいって、やってもダメな人はダメです。そういうときにどうするかということを考えなくてはいけない。

○世界相手にシンプルに

 私はここでやっていることが、世界的に見るとど真ん中と思っているのですが、日本では偏っているのでしょう。 今「自分の歌を歌おう」という本の最終校正を入れています。 ヴォイストレーニング問題というより、ヴォーカルの学び方から、その前の問題まで下りてきてしまいました。一言でいうと、表現の問題です。 のど自慢でチャンピオンになっている人よりも、仮に音が外れていたとしても、爺さんや婆さんの歌の方が面白いし、心から拍手を送りたくなる。

 なぜチャンピオンの歌が面白くなくなったかというと、勉強したり、声を磨いて歌の技術を身につけたからです。勉強したのに、歌がつまらなくなってしまう。そんなことは考えずに、野良仕事をしていたのに、その歌の方が面白いというのは、おかしなことです。そこから日本のいわゆる表現や、歌というものの考えが、ズレてきていると思います。

 他の人に似る歌い方はするなということです。それではかなうはずがないからです。声が悪くても、自分にしかできない歌を歌えば、それを気に入ってくれる人がいる。 ここにも、10代の人が来ていますから、どういう路線をとるかということは、人によりけりです。 こう歌いなさいということではなくて、自分がこうやりたいと思ったときに、それに必要な感覚とか、集中力や体力を身につけていく。そこで充分なところまで、やっておくことです。だから、歌を教えないし、歌は歌えない。自分のステージで歌いなさいということです。【講演会 01.11.4】

○声の基準と年月

 声という基準が甘くなっている。それだけ世の中で声のことをきちんとやっている人がいなくなったということです。 歌を歌っている人も、声の力自体は大してありません。そういう意味では、日本の声も絶望的な状況に置かれている。 でも面白いもので、世の中のレベルが下がると、やりやすいからよいという考え方もあります。きちんとやれば、必ずやっていけます。 2、3ヶ月程度で声のことをやろうと思わない方がよい。そうしないと、今までのことも中途半端になって、いい加減になってしまいます。2、3ヶ月でできることというのは、状態を整えることしかないのです。 それでも、自分が今もっている声の使い方の勉強はできると思います。

 今まで歌ってきているのであれば、その中でできることはやってきているのです。そこで根本的なことをやらないのは、それで今できていることが一時崩れたり、うまくいかなく恐れがあるからです。 そこで、本当にその必要性があるかどうかということが問われるのです。根本的に変えるためには、最低レベルに達するにも2、3年はかかると思います。 調整トレーニングというのは、全くの素人か一流の人、あるいは声を壊した人以外に、私は認めません。そうでない人で本当の力をつけるなら、強化トレーニングしかない。負荷を与えていくしかない。すると副作用も生じます。

 たとえば、体から声を出したいと思ってトレーニングを始めれば、今まで歌ってきたやり方が一時、否定される。 誰でも体から声を出したいのに、どうしてそれを結果として避けてきたかというと、体から声を出すことによって、一時、不安定になり、高いところが出なくなったり、歌の流れがうまくいかなくなるからです。 だからプロの人ほどそういうことをやらないできている。トレーニングが一時矛盾するのは、当然ではないでしょうか。

○外国人の感覚

 声を出すことに関しては、残念なことに、日本語を話すよりも、外国語を話す方が有利だということです。それは環境や言語そのものに関しても同じです。 音楽や演劇にしても、向こうから入ってきたものがほとんどですから、向こうのやり方にそった方が、素直に無理なく伸びる。 ヴォイストレーニングというと、複雑で大変そうに思われるのですが、私は簡単にシンプルに、苦労せずに楽にできた方がよいと思っています。

 高い音や大きな音にこだわらないのは、クラシックの人の苦労を知っているからです。 声楽の場合、自分の力だけでは何ともならない場合もあります。生まれつきの楽器のよさも大きく関係してきます。西洋音楽において、まず、声がすばらしいという価値観に基づいて、判断されるのです。 そういうものから取れることというのは、向こうの環境におかれていたら誰でもできただろうという部分です。そこはトレーニングでできるのではないかということです。 たとえば、外国人が二十歳までに獲得すべきことについて、自分にとって有利なものであれば、それを得ておくことと思います。すると、体や声の発声のことよりも、感覚の問題になってきます。 最初のレッスンなら、1時間のうちの50分音楽を、歌を聞くことです。その中の感覚やイメージが大切なのです。

○わからなくてもよい

 レッスンというのは、自分に足らないものや欠けているものを補うためにあります。これがなかなか難しくて、気付ける人は少ない。気づく人は私の一つのことばでも100個くらい気付く。1000人に1人くらいでしょうか。気付けない人は、レッスンが終っても、いったい私が何をいいたかったのか、わからないままです。 でも、それでよいのです。最初から、わかったと思い込むよりはよい。 そのことばが、長くやっていると、あとで皆さんの体験と結びついてくる。そうでなければ、わからないまま聞いて、わからないままできるようになれば、それが一番よい。ほとんどの場合、すぐにわかろうと思う時点で間違ってしまうのです。

 こういう世界で認めなくてはいけないのは、自分でわかるほど、甘いものではないということです。私もいまだにわかりません。どうしてエラやサラがああいうふうに歌うのか、わかりません。 でもわけがわからないところに惹かれる要素がある。それは、認めざるをえない。わかってしまうくらいでは、つまらない。 わからないということは、自分よりもすごいこと、すぐれたことができているのです。それをわからないまま入れて、わからないまま出していくしかない。

 それをいちいち説明したり、マニュアルにしても仕方がありません。わからせるのでなく、わからないよということを伝えるために話しています。 よく、こんなに話せますねといわれるのですが、たぶん、本で1000冊でも1万冊分でも出せる。 作曲家でも、指揮者でも、みんなすごい量の執筆活動をしています。みんなそれなりに自分の中で判断し、区分してきたからです。 まず私の本やHPを全部読んでもらえばよい。それを読んで、一回全部忘れて欲しい。所詮書いたものは、書いたものでしかありません。だからこそ読んだり、ことばで答えて済むことは、活字で全部済ませて欲しい。 最初に本も渡しています。そんなものが何にもならないというところから、スタートです。何もならないから読まなくもよいのかというと、そうではない。それと同じことをどうせ自分もやっていくなら、頭の中で先にやる。人の経験を自分に生かせばよい。 ここは、カルチャー教室などとは学び方が違うのです。そこでは、私の本の内容を12回にわけて、一年終りましたとやっている。

 それでは何一つ声も歌も何も変わらないはずです。先生は優れている。しかし、どんなによい授業をしても、相手がとれない。先生と同じくらいの集中した練習を同じ量やらないからです。 私はクリエイティブなことをやりたいので、何をやっても構わないといっている。逆にいうと自由な分、厳しい。レッスンにも、出ても出なくてもよい。研究所は、無理に人を入れたりはしません。出てこいとよびつけません。迷っている人には、最初から入るなといっています。これが自分には絶対に必要だと思わなければ、少しやってみたという程度で終ってしまうからです。中途半端に関わっても仕方がない。

○入っていないもの、息、強弱アクセント、音色

 日本人に入っていないものをいくつかあげていきます。 我々は息を聞いていません。日本語というのは、原則として音として発せられる。発音、それも母音が中心です。 外国語は体から息を吐いて、それを妨げて音を出す。そのときにいろんな音が出る。子音が中心で、子音というのは、いろんな音色をもつ。その強さや音色の豊かさが日本語にはないのです。 日本語の場合は高低アクセントで、音の高さ、メロディーが重視されます。 向こうの言語は強弱アクセントで、子音を発するときの息が音色になり、ミックスされたヴォイスになるのです。吐く息のところに強拍ができてリズムが出てきます。 ですから、彼らの音楽は音色とリズムが中心です。スキャットやラップなどは、器楽的な声の使い方になります。

 声量や声域は、あればあった方がよいことは確かですから、ヴォイストレーニングで可能性を広げておく。 しかし、マライアキャリーのようにやりたいといっても難しい。もちろん何でもやっておいたら、どこかで使えるかもしれません。 ただ大切なことは、使えるところをより確実に動かすということです。そのことから感覚をより深めていくのです。 半オクターブで4フレーズできればよい。半オクターブが出たら、歌えない歌はない。ほとんどの場合は、出だしが問題です。出だしの部分で人を引きつけられなかったら、サビは聞いてくれない。 よく10曲くらいを持ってきて、どれがよいですかと聞かれるのですが、それが本人にわからないことが最大の問題です。

○発声では歌えない

 自分の足らないところを、テクニックや、マイクの使い方で補うという方法は、トレーニングのやり方としては、あまりよいとは思いません。 歌が早くうまくなりたいのであれば、カラオケの先生についたり、歌謡教室にいった方がよい。先生が歌うように歌い、先生が直すように直してもらえば、素人よりはうまく聞こえる。 でもプロにはなれません。そこには、プロになる条件を持たないからです。 ここでも基本の「ハイ」が発声できる人というのは、一、二割くらいです。できるということは、人にプロの声を示せることです。どんな状態でも、いつでも繰り返せるということです。

 歌というのは、発声を勉強しなければうまくならないと思っている人が多い。全くその逆で、発声を勉強してしまうからうまくならないのです☆。発声に関わっているうちは、と言ってもよい。 気持ちを表すような音を出さなくてはいけないのに、気持ちよりも発声の方を重視している。 クラシックでも、日本ではそこに発声が聞こえてくる歌が多い。 そういうことがわからないうちは、世界の超一流のアーティストのをたくさん聞けばよい。一流ほど、歌で声を見せよう、技術を見せようとしている人はいない。 すごいと思ったときに、そこにすごい声があったり、技術がある。接点のつけ方として、そういういい方をする。

○日本の常識と感覚を正す

 私は一声区という考え方をしています。なぜならば、一流のヴォーカルというのは、高音域発声があって、それを応用して歌っているわけではないからです。高音域発声が特別にあるのではない。 日本では、常識と思われていることと、現実の場でやられていることが、かけ離れている場合が多い。 日本では、歌うときに、鼻から吸いなさいと教えられる。そのまま鼻で吸う音をたてながら歌っている人がいます。そんな歌い手は外国には一人もいません。鼻からスーッて音がしている。鼻から入れるとか、口から吸うという意識があってはいけない。

 体や息を鍛えていけば、瞬間的に息を体に送りこむことができる。普通の人にはそういうことができないからトレーニングがあるのです。それだけの体ができていないと、息を伸ばすこともできないし、パッと切ることもできない、最適の状態をキープできない。そのためにトレーニングをして鍛えるのです。お腹のまえがポコポコ動く人もいる。 多くの間違いは、声ではなく、感覚、イメージの間違いです。彼らの感覚は、少なくとも日本人が思っている感覚よりも、とても早いスピードで入っています。その感覚がない限り、いくらトレーニングをしても、そういう声も体も養成されません。外国人の歌を聞くときの捉え方を学びましょう。

 そこにヴォイストレーニングの必要性を与えなくてはいけません。そのためには優れた歌の中から、自分に何が足らないのかということをストレートに聞かなくてはいけません。そのレベルに、いろいろと差がある。 それをこちらでは決めつけていません。何もない人は、最初からやっていくしかない。感覚がある人はその感覚をもとに作ればよい。ここでは体の原理からどうかということを見ていきます。そのことを周りがわかるように、まず自分でわからなくてはいけません。

 正しい勉強法があり、それでやらなければ歌がよくならないと考えること自体が、よくないと思います。仮に正しさというなら、感覚の鋭さになる。感覚が鈍ければ、どんなに勉強してみても、その時は何ともなりません。それは、感覚を鋭くするための予備期間です。 それは舞台の中でも同じです。タレントやお笑いさんのもつ鋭い感覚ぐらいは必要です。 表現として自分のいいたいこと、はっきりしたビジョンがなければ、いずれできなくなってしまいます。その上で音声というのがある。体や息がどのくらい足らないかということを、自分で日頃から知っていなくてはいけません。

○何がやれるのか

 こういう世界は大変そうに見えますが、今の歌はあまり大変ではない。今ヒットしている人くらいに歌えるのに、なぜ自分はデビュできないのかと悩んでも仕方がない。もっとうまく歌える人も世の中にはいくらもいる。そういう人を目標にはとれないのです。 10代の人はどんどんオーディションを受けなさい。すると、そういうところで選ばれる人なのかどうなのかが突きつけられるでしょう。 何を自分の武器としてやっていくのかということを、見なくてはいけないということです。 声が出るようになれば歌がうまくなるということもないし、歌が歌えればやれるようになるということでもありません。その逆といってもよいかもしれません。

 自分は何がやれるかということに対して、歌や音楽をどう使うかということです。声や歌に何を乗せるかということが大切なのです。それが乗っていない歌というのは、いずれ飽きられてしまいます。 もし自分の歌としてやっていくのであれば、歌があなたの創造物でなくてはいけません。一つひとつのフレーズを自分が創らなくてはいけない。 自分の歌のどこがいけないのか、わからないうちは鈍感なのです。よかったとしたら、まわりの反応でわかる。お笑いなどでは、受けていないということがすぐにわかります。しかし、歌に対しては、客が甘い。

 基本をやらなければいけないか、楽典が必要かとか、楽器を弾けなければだめか、理論がわからないと困るかという人が多いのですが、はっきりいってどうでもよい。自分がこう伝えたいというものがあり、感性があれば、それを遮るものは、気持ち悪いと感じる。その感覚が元にあるかどうかでしょう☆。正していくのに、知識が足りないからということこそが間違いです。 その感覚がないとやれない。やれるためには、それが体にあることが条件となる。それが唯一、私が声や歌や音楽に信用がおけるベースです☆。そういう道があるということをどこかで覚えておいてください。それで取り組んでいくと、問題がもっとクリアになると思います。

 考えて欲しいのは、まず主張があって、その手段として音楽や歌を使う。嫌なこともたくさんあるなかで、自分の世界を磨いていった。そうやって生きた人が残したものを聞いて、それを想像するくらいのイマジネーション、それを感じられるような感覚は持っておかなくてはいけない。

○パワー

 あまりヴォイストレーニングや発声に期待するなというと、私自身で、やっていることを否定することになりますが、あなたの精神や、感覚を、声を通してお客は聞いている。 実際にロックやブルースを創ってきた人は、毎日の生活から声の表現に喜びを見つけて、それを音楽につなげていった。同じレベルの土俵で勝負するとすれば、そういう人生や生活への態度がなければ無理です。

 ヴォイストレーニングや正規の教育を受けて、歌い手になった人はそんなにいない。そこを楽器とか他のものと混同しないことです。 ちょっとしたことが一番大切なことです。声の素振りをやっています。自分のデッサンをどうやるのかということを見つけるために、使ってください。 トレーナーに学ぶより、仲間、自分よりもやっている人に学んでいくことです。 今やれる人というのは、いきなりバンドをやって、いきなりオーディションを受けて、それでやっていっている。その気力が足らないから、うまくいかない。としたら、つけるべきものは、パワーです。

 それは他人でなく自分の感覚からです。声や歌のせいにして欲しくないのです。そのために感覚のヒントをもらいに来て欲しい。 10代の人であれば、体や耳を作って、将来それが使えるための教養をいれておく。それぞれが深めていけば面白い世界だと思います。

 プロの世界や芸事の世界になってくると、一般的な常識があまり通用しない。だからノウハウとか、教えることで何かできるのではない。その人が何かをやれる人なのかどうかということです。 それをトレーニングで補強できる。 トレーニングをやれば何でもできるようになるのではない。何かやりたいということに対して、トレーニングはあくまで補強としての位置付けです。それがなければ、どんなにトレーニングをやっていても何も出てこない、そのことを知ることが一番大切です。【京都講演会 01.11.23】

○レッスンと歌

 私の考え方では、レッスンというのは、自分で気付けないことを気付きにくる。時間やお金を使うということは、人の経験をとりにくる。絶対に一人ではできないことでなければ、そこに行く価値がない。ですから、一人でできることは一人でやらなくてはいけません。 ヴォーカル教室やカルチャーセンターが成り立たないのは、一人でできることをやらないで、先生のところにいって、一人でできることを教わっているからです。

 勉強ができない子が、家庭教師をつければ、その時間は勉強するから、成績があがるのと同じです。落ちこぼれないようになることと、それで食べていけることとは全く違う。基本以前の基本の問題です。一人でやれることを一人でやっている人、その上で他人からも学んでいる人にかなうわけがないでしょう。 私の時間は、音を聴くことやその感覚を入れることで割きたい、その感覚から体に結び付けて声を出す。その二つが大切です。

 プロの優れた感覚を身につけることと、それに対応できる体を作ることです。 歌は教えられません。音声を表現する舞台としての基本をやっている。音声というのは、真っ暗闇で聞こえてきます。そこに表現を伴わせなければ、誰も聞かない。 お客さんは声や歌を聞いているのではなくて、そこに何を乗せたかということを聞いているのです。そこの勉強をしなければ、発声練習をしても、体を作ってもあまり意味がありません。

 もう一つは舞台ということです。舞台として人前に出てやらなくてはいけない以上、私は独学は成り立たないと思っています。小さいときから舞台の感覚があって、それがベースに入っていれば別ですが、歌でも声でも、それを聞いている人がどういうふうに受けとめているのか、どうやれば嫌なのか、どうやれば心地よいのかということのかけひきです。そこに判断がいかないなら創りようもないのです。 それが伝わっているのかどうかわからないというのは、日本人にとって難しいことです。外国人が簡単にできるのは、舞台表現に近いことが初等教育、いや生活にあるからです。

 ここでは、欧米人が二十歳までにやっていることを、日本人は経験してきていないので、そこのところからです。音声で表現する舞台というものがあって、その一つの応用形が歌という考え方をしています。 ここのレッスンというのは、基準を与えて、それに対する材料を与えている場です。ですから、あなたはここが悪いからこう直しなさいという教え方ではありません。こういうふうに聞こえないということは、こういう部分の基準や感覚がないのだから、こういう材料を使って、そういう部分を磨きなさいといっている☆。

 レッスンでほめられるということは、めったにありません。ほめて伸ばすといわれるのですが、ほめられるのは、ステージで素晴らしければ、よいのです。ほめなくとも、まわりの人が感動するのだから、それで全てわかるのです。 芸は、納得させても共感させてもだめ、感動させてようやく成り立つのです☆。それが芸術で不可能なら、演出をしてもよいのです。 自分では気付かなかったところに気付いて、一人で黙々とやるしかない。ステージをやって認めてもらうということと、トレーニングで力をつけるというのは違う。その関係をきちんと見ておかなくてはいけません。

○目的と現実

 たとえば、世界で通用するヴォーカルになりたい、そうしたら、世界の基準ということを知らなくてはいけません。世界で通用したヴォーカルのところへ習いにいけばよいでしょうか。いえ、そこで学べない自分の力をどう補うかを考えてみましょう。 自分自身でその世界というのはどこかということも考えなくてはいけないのです。もっと具体的にしていかなくてはいけません。 プロになりたいとか、歌がうまくなりたいとか、声がよくなりたいというのは、漠然としていて目的にはならない。だから実現しないのです。 己の資質を知らずに○○のように高い声を出したいと思っている人も、同じです。大半が10年もたったら才能がなかったとあきらめます☆。

 目標設定と自己認識で両方間違っているのだから実現しない☆☆。仮に同じような高い声がでても何ともならないからです。 誰もがそう考えています。サラリーマンやOLでも、チャンスがあったらデビュしたいと思っている人は、たくさんいるでしょう。 目的を具体的にしなければ、トレーニングには落ちてこないということです。その目的は誰かが与えるのではなくて、自分で作らなくてはいけません。

 ヴォーカルの世界はすごく判断が難しいのですが、運とか時代に左右されるものであるのとともに、技術で認められるのではないからです。キャラクター、パーソナリティも問われる。ミスコンに選ばれたとか、スポーツ選手で歌がすごくうまいという人もいる。そういう人と一緒に考えてはいけない。 何も勉強しなくても、15、16歳でデビュしている人もいる。その人と自分との違いをきちんと見ていかなくてはいけない。そうしないと、現実の問題には落ちてこないということです。【講演会 01.12.2】


【Q&A特集】〈(→)は、100メニュ、100のQ&A参考〉

Q.音色というのがわからないのですが☆。

 声の中にも音色というのはあるのですが、音の世界を色に例えているのです。 結局は、品、色気のようなものだと思います。三味線の触り、ギターのギューンという音、そういう音も含めて、人間がアナログであるところのもの、純音として出てこないところに、心が引かれるものが入っている。プレイヤーでも、すぐれた人というのは正確をめざして弾きません。人の心の琴線にひびく音色を出すのです。

Q.舞台で、ゆっくりと静かに、感情が落ちているようなセリフをいうときに、なかなか届きにくい感じがするのですが。

 低い声や弱い声で表現するときには、テンションが高くなければいけません。威厳をもつということもです。 初心者であれば相手を脅すほどの強さは持たなければいけないと思います。気持ちでカバーできる分はあるとしても、実際の舞台では音声で聞かれますから、ある程度の強さは必要だと思います。 日本人は、音の高さ、低さ、強さ、弱さというのは、形からとって調節するのですが、実際は感情の問題です。感情を強く表す、すると、その強い感情を一度引いておいて、弱い声で表すこともできるわけです。そうなるとシンプルになるのです。その辺の基準は役者から学んだ方がよいと思います。

 昨日は藤山寛美さんのことを話しました。ああいう人たちが身につけてきた、芸の中での声の使い方というのは、間とかタイミング、音色を完全に計算しきっているのです。今は寛美さんの娘の直美さんがあとを継いでいます。そこで似ているようなところは、寛美さんが作った部分です。それが受け継がれて、勘九郎さんとの芝居の中にも生きている。ということは、日本人の中に共通して受け継がれ、そこに触れているものをまとめあげているわけです☆。そういうところから盗る方がよいと思います。

 寛美さんの場合に限らず、役者は第一に状況を作っているのです。それだけトーンを落として、投げ出したような感じにしておくためには、その前にシンとさせておく。すると、ボソッと何かいっても客は聞くわけです。せりふの効果は状況との兼ね合いになります。だいたいの場合は、そのセリフではなくて、そのセリフを出して許されるだけの、間合いの勝負になるわけです☆。そこでボソッと出すためには、その前に笑わせたり、強く怒ったりしなくてはいけません。いうのは簡単ですが、実際には難しいことです。

 間というのは、怖いものです。それはMCや芝居から覚えるしかないと思います。これはよい間だと思うものを、自分にたくさんいれておくことが大切でしょう。その人間の生活の中から結びついて出てくるものでありながら、舞台として生きてくるものです。それがダメな人は舞台では生き残れないでしょう。伝え切れないでしょう。どこに神経を割くかということは、そのセリフではなくて、そのセリフをいえる状況をどう作るかということです。そういう意味では、歌い手も似ているところがあると思います。【「イリア」入門 01.12.8】

Q.レッスンやトレーニングをやるにあたって大切なことは何ですか。

 それは具体的な目的をもつことだと思います。歌い手になりたいとか、歌がうまくなりたいというのは、目的のようであって、そうではないのです。そんなことは誰でも考えているのです。それ以上に絞り込まれた目的を明らかにしていきながらやっていくことが必要です。そうでない人は、目的を明らかにする目的から始めてください。あとは続けることだと思います。

Q.ステージからやるのは、よくないのですか。

 とてもよいことです。そこで足らないところをトレーニングで補うのです。 しかし、ある面では、サークルやバンドのステージの方がよほど逃げることができます。場の設定ができているからです。 音楽というのはバンドがいて、ステージという形が先にできていることが多いでしょう。一人芝居や、お笑いの方がずっと厳しいでしょう。営業の人なら売り込むときに、うまくいくときといかないときが、はっきりとするでしょう。 それから考えれば、ともかくヴォーカルや役者に限らず、その人が職業意識をもって本気でやっているのかどうかということだと思います。いい加減にやっている人たちは、あとでもたなくなるし、本気でやっている人は、そういう場を踏まえてプラスにしていきます。

Q.ヴォーカルをやっている人は、人前に出ることが怖くないのでしょうか。

 やり続けているのは、繊細な人が多いものです。舞台に出る前までは、かなりナイーヴになっているものです。 でもステージにあがったときは、そこが仕事の場です。あとがないし、他もないのです。そこでの覚悟ができているかどうかだと思います。また、そういう覚悟せざる経験を踏まえてきたかどうかです。 トップの人になるほど、大きな期待と責任を背負うのですから怖いものでしょう。常にあるレベル以上のものが求められ、それに対して応えていかなくてはいけません。その人のすべての信用に関わってくるわけです。 そういうことでいうと、大して期待されていないうちは、自分の全力でやれば、みんな誉めてくれるのです。 しかし、一回金メダルでもとってしまえば、次が銀のときは、なんだといわれるわけです。 上にいく人は、常に克己心をもっていないと厳しいと思います。だから大体が辞めていくわけです。

Q.上達するための秘訣はありますか。

 土日もお正月も含めて全部仕事です。そこで休みたいと思う人は、みんな辞めていきました。レッスン生でも本気でやる人は同じです。夜も私は十時すぎまでレッスンです。そこで最後までくる人だけが残っていくのでしょう。 その人の中に続ける理由、モチベートがなくなってしまうと、辞めてしまいます。ステージでも同じでしょう。 10代や20代のうちは、他にやることがないし、周りの友達も暇だから、一所懸命にやるのでしょう。しかし、そこできちんとしたことができていなければ、徐々にステージに上がるのがしんどくなるわけです。 仕事になれば、迷えなくなります。 多くの人はレッスンに出るか出ないか迷っています。その迷っているところのロスというのは、大きいです。自分の覚悟がないとき、やれている実感のないときは迷ってしまうものです。そこでどれだけ一心不乱にやれるかです。

Q.年齢制限について。

 ここは全く関係ありません。他のヴォーカルスクールのように、今風のことをやっているわけではありませんから、本人が気にしなければ問題ありません。要は、変えられるものと変えられないものがあって、変えられないものに関しては、それを利用することです。

Q.どんな声でも出せるのか。

 その人の発声の原理にそって出せるところまでは直せます。しかし、全く今までの声の性質と違うものを出すことは、できないし、やらない方がよいと思います。 自分のものと全く違うものを追いかけるということに、意味があるとは思えません。たとえば、男性がマライアキャリーのように歌いたいと練習しても、何年やっても彼女の10分の1もいかないと思います。 人間にはやれることとやれないことがあるのです。トレーニングをしたからといって、誰かのような高音が出るわけではないし、ハスキーヴォイスで歌えるわけがありません。誰かのものは必要ないのです。 今の時代は、高い音、低い音や声量などは音響さんに頼めば作れるわけです。ポップスの世界は、常に最新の技術を使っていくものです。その辺は総合的なことになってきますので、一体自分の表現にとって何が必要なのかということを見つめることです。Q.歌のうまさは生まれつきですか。

 天性という考え方をしてしまうと、トレーニングということ自体が成り立たなくなってしまいます。世の中には、トレーニングなどしないでパッと歌手になれる人もいます。デビューできる人もいるわけです。しかし、それは分けておかなくてはいけないのです。自分はそういうことができる人なのか、できた人なのかということです。

 たとえば、16才でデビューした人よりも自分の方が歌がうまいといっても、なぜ自分は16才のときにデビューできなかったのかということこそが、大きな違いなのです。それは業界の人に見つけてもらえなかったからなのでしょうか、デビューできないどんな理由があるのでしょうか。仮にあったとしても、それだけではないはずです。 それならば、自分はどうやって道を切り開くのかということです。そのために、こういうところやいろんなやり方があるということです。そういうやり方も自分が選んでいくしかありません。

Q.スポーツはした方がよいのか。

 声というわかりにくい世界に対して、スポーツの世界は勝負する土俵が決まっているし、体に身につけるというプロセスがわかりやすいことで、とても参考になります。 どんなスポーツでも1、2年間徹底してやったから、それでプロになれるとは思わないでしょう。ヴォーカルの場合はなれると思っている。それは、実際になっている人もいるからです。しかし、それは特殊なことで、それをもとに考えないことです。 カラオケのうまい人がプロのヴォーカルになれるかというと、それも全く別のことなのです。 スポーツをやっていると、そんなに簡単にできるものではないということが、直感として働くということです。その辺の段階がスポーツの方がわかりやすいのです。頭と体と心の使い方を覚えるのにはよいと思います。いくら頭で覚えていても、実際にできることではないということがわかるからです。

Q.作詞作曲を身につけたいが、必要か。

 ヴォーカルというレッスンには、作詞作曲の能力も基本技術に入ると思っています。きちんと歌える人は、作詞作曲の能力があります。その能力がなくて、自分の歌を自分なりに歌うということはできないからです。 それは、多くの人が考えているような、曲をコードからつくったり、詞を添削して直すというのとは違います。 それは音楽という作品づくりの中でやっていくことです。

 他人の歌を自分なりに歌って、自分の世界を築くことは難しいです。ヴォーカルやバンドに、作詞作曲に力も問われています。 ヴォーカリストは、歌うことについての専業なのですが、シンガーソングライターが多くなるとそういう歌い手がだんだんいなくなってきます。 今のアーティスト性というのは、作詞か作曲のどちらかで問われます。本当は、ヴォーカリストは歌でそれをどう見せるかということなのですが、そこも音声よりもバンドの色や性格におきかわりつつあります。音楽ということで捉えると、トータル的なプロデュースです。作詞も作曲もできた方がよいということです。

 しかし、作曲や作詞を教えてもらうことより、自分がどれだけやっているかということです。詞も自分で毎日10個ずつでも作ってみましょう。2年間で7000になります。すると、自分なりによしあしが、わかってきます。他のすぐれた作品の基準も自分に入ってきます。 当人が量をやっていなくて、そういう基準ももっていないうちは、どんなに人に教えてもらっても、大したものはできないです。それはどこの世界でもいえます。 作詞作曲がやれるかと考えるよりも、今日からやればよいのです。ヒットさせるのが難しいだけです。

Q.感情がこもると声がつまってしまうのですが。

 それは、あたりまえのことです。歌でも泣いたり感情を乱してしまったら歌えません。感情くらいで左右されない程度には鍛えたり、コントロールする力をもつためにヴォイストレーニングというのは、最低限の技術が保てるためにやっておくわけです。

Q.客観的評価と主観的評価について。

 役者も同じですが、表現する世界の中に入りこむことよりも、それをとり出し、突き放して提示することを同時にしなくてはいけないわけです。 まず入る練習をしなくてはいけません。しかし、そこから抜け切り、突き出す練習も必要です。 そのために、歌をどういうふうに相手が聞いているかということを想定しなくてはいけません。これは感覚の中で鍛えていかなくてはいけないことです。その距離のとり方というのは、経験と感覚の中で養っていくしかありません。

Q.ユーミンやたけしの声には超音波が多いとテレビでやっていました。特別な声が必要なのですか。

 1/fの揺らぎとか、超音波を含んだ声というのは、テレビも視聴者が喜ぶからおもしろがってやるのですが、あまり関係のない話です。関係ないといっても、人間の感覚できないところで確かに働いているといわれたら、そうなのかもしれません。聞く方がそこまで敏感に感じているかというと、今度は聞く方のセンサーの問題になります。 声の判断というのは、かなり主観が入ります。日本人の場合は特にそうだと思います。その人が好きだったら、その人の声が好きになるでしょう。 音声については、外国人の方がストレートです。日本人は、むしろはっきりと表現することを嫌う国ですから、そこまで声にはこだわっていないのです。しかし、ユーミンや中島みゆきの声、随分とカリスマ性をおびてきたのは、確かです。

Q.声優に必要な声とは。

 昔の声優さんは、役者の基本を踏んだ人たちでした。さらに役者の世界からは一段低く見られていたこともあって、コンプレックスをもって、芸を築いてきた。そのため、ベテランには、力がある方が多いです。体で声を出していくということを体で覚えています。 今のように、声優学校で発音練習だけをして出てくるような人たちとは全く違います。特に若いときのアニメ声は、百害あって一利なしです。 相手との呼吸とか、感覚というものも必要になります。 そういう意味ではヴォーカル以上に、自分でありながら、自分を全部捨てないと、演じられないのです。置き換えという作業をしなくてはいけません。

Q.楽器はやるべきか。

 手軽なところでは、ピアノがよいと思います。楽器をやった方が、音の中の感覚を知るにはよいでしょう。声楽をしても、わけのわからないまま終わってしまう場合も多いのです。でもピアノなら、弾けるけれども、プロとは違うというところが見えてきます。そういうことでは、楽器からやる方がよいと思います。

Q.舌や口が動かずうまく伝わらないようなのですが。

 日本人の場合、伝わるかどうかは、前に立つときの開き直りの問題で、あまり部分的な問題ではないような気がします。 要は、その人が本気で伝えようとしたら、おのずと直ってくる問題というのがかなりあるわけです。だから、歌は、歌の勉強でなくステージングで直すべきなのです。 たとえば、日常の会話でも、伝わるためには、その人の話に内容があること、そして伝える強い意志があることです。それが第一です。 社長なら、そんなにきちんとしゃべれなくても、社員はよく聞くはずです。それは聞かないと、自分が不利益になるという立場の力があるからです。 結局、どうしても伝えたいという意志があって、それが出ているかどうかというのが第一です。これは歌でも同じことです。その上で内容があるかどうかです。その二つが伴えば、それほど滑舌とか、発音がどうこうとか、細かなところまでこの国では問われないでしょう。

Q.外国人の声と日本人の声、まったく深さが違うようだが、どうしてか。

 研究所も一つの基準を出しています。それを今の時代とどう合わせていくかということが、大きな課題になってきています。 私からみると、日本の基準というのは非常に偏っています。これはポップスを輸入してきたときから偏っているのです。 たとえば、ドイツの映画を、アメリカ人やフランス人の声優が吹き替えするときに、日本のように、あんなにおしゃれな語り口にはなりません。 それは日本人の欧米願望のところに基づいた、翻訳表現をやっているからです。でも客がそれを期待しているから仕方ないのです。

 歌でも、日本に入ってくると、シャンソンでもジャズでもおしゃれなものになってしまいます。本当はそんなものではないわけです。それは一つの日本の取り入れ方だったのです。 少なくとも、戦後は、それでよかったかもしれませんが、今の時代は直接本場のものを見ることができるわけです。それをわざわざ啓蒙する必要があるのかということです。ロック、ヒップ、ホップ、オペラも同じです。今は同時多発にいろんなものが出ています。また、欧米のものがそんなによいのかという考えもあります。

 日本では、ミュージカルも、声楽のメソッドでやられているわけです。でも世界からみると、一つの基準にしか過ぎないわけです。日本には日本のものがあるわけです。それをもたない限りは、本当の意味ではインターナショナルにはならないような気がします。もちろん、日本では、声はあまり強く使われないという根本的な問題があります。

Q.口は大きく開けた方がよいのか。

 私がそんなに口を開けていないことでもわかると思いますが、本当は関係ないのです。ただ、全く声が出ない人や初心者の人には、ビジュアル的にも印象がよいということと、ことばがはっきりしやすいということで、注意することはあります。 たとえば、新人アナウンサーは、口元をきちんと開けています。しかし、ベテランになってくると、あまりそういうことをやらなくなります。 日本の場合は、アナウンサーとヴォーカルや役者では違ってきます。

 外国人は同じです。彼らの歌や芝居は、日常の中に音声の表現の世界があって、それをそのまま取り出す程度です。そういう国であれば、アナウンサーもヴォーカルもそんなに変わらないのです。 ところが日本の場合は、それぞれ独自のやり方を作っています。そして、上の人と同じようにやりなさいと教えられてしまうわけです。 そういう意味でいうと、日本はおかしな方向でずれているのです。本当の表現力というのは、日常のものをパワーアップさせた上に成り立つものです。

Q.どのように声の高さを上げたり下げたりするのか。

 あまり声の高さということを考えない方がよいでしょう。何かを相手に強く訴えたいと思ったら、声は高くも強くもなります。本当に説得しようとしたら、低くなるわけです。それは結果として決まってくるのです。 そういうことを方法論として考えるからいけないのです。こういうふうにすると先生に習うと、それを一方的に与えられてしまうのです。自分が本当によいと思っていなくても、それをやることになってしまうわけです。そうして、おかしくなった人をたくさんみてきました。テノールの発声でロックを歌う人は、いないでしょう。

Q.上達が止まってしまったのですが。

 上達が止まったと思うことは、目標があって、それに追いつかなくなったのでしょう。さらなる進歩のために、よいことです。 逆に、自分でこうなりたいと思って、仮にそうなれたときには、自分の目標を喪失です。世の中に通用しないとか、力が認められないという場合は、それに対し、目標をとることでしょう。 その場合は、目標の設定のやり直しをしなくてはいけません。 目標があって、それに到達できないということは、やり方が悪い場合もありますが、その時期、時間を待たなくてはいけないこともあります。

Q.声量や声域は努力で無限に引き出せるのでしょうか。

 こんなことはあり得ません。普通に考えてみてください。ただ、技術の進歩などで、どうにかなるときがくるかもしれません。 なぜかヴォイストレーニングなどをやるとなると、いきなりおかしな声楽家のような考え方になるのです。 好きな曲を歌ってください。というと、いきなり「赤とんぼ」や「春」を歌う人もいます。☆歌がうまいのに、発声練習やレッスンではさえない人もいます。 大体ポップスの場合は、何でもありの世界です。自分が出せないところならば、それをどう補えばよいのかを考えればよいのです。音響も大きな武器です。

 ステージとしてやっていきたいのか、声のことをマニアックに追求していきたいのかというのは、大きな分かれ目です。トレーナーの選び方にも大きく関わっていきます。 たとえば、YMOの高橋幸弘さんなどは、ドラムだけでは向こうの筋肉隆々の人たちには敵わないからといって、シンセでやろうとなったわけです。日本のシンセ技術は、世界では負けないからです。世界に出ていくことを優先するなら、それも一つの手です。自分を知っているところからくるやり方です。そういうところでの開き直りは必要です。

Q.毎日の練習時間はどれくらい必要ですか。

 練習は、時間をやればよいということではないのです。内容です。しかし、一時に長くよりも継続です。 どこかで量を質に切り替えていかなくてはいけません。毎日3時間練習しているといっても、その3時間をどう使っているのかということが問題なのです。 とにかく発声練習に関していっていることは、テンションが高いところでやらないと何もならないということです。やってはいけないのは、テンションの低いところでの練習です。テンションを高め、そういう場の緊張感がないと、音も聞こえないし、声も聞こえません。自分の感覚や声などは到底自覚できません。

Q.顔や体の大きさで声は変わってくるのですか。声について、何が問われるのですか。

 ポップスに関しては、全く気にすることはないと思います。そういう時代でもありません。声域や声量でも、それをどう定義つけするかということは、難しいことです。 今は、むしろマイクの加工がしやすいとか、音響さんが変えやすいというような声が、実際にはもてはやされています。電話などでその人の声を聞いていたいとか、この人の歌を聞いてみたいと思わせる声かということも、大切なことだと思います。 声量があるといっても、歌にはそれほど関係なくなっています。そういう感覚に変わってきています。

 他の国に比べて、声に関して日本人が不利だというのは、政治家やエアロビクスのインストラクターなど、一番声を使って表現すべき人たちが、声をつぶしているということでもわかります。ダミ声、塩辛声がよいというなら別ですが…。特に、日本語そのものが声帯を痛めるということも関係してきます。外国の各種インストラクターやキャスターなどは、とてもよい声をしています。

Q.声と体の年齢による変化について。

 体はいつも変わっていきます。年齢毎に変わっていきます。その日その日でも変わっています。 特に10代の頃は、わかりにくいですね。ホルモンバランスなどもあって、トレーニングの効果は、測りにくいものです。レッスンとは、関係なしに、調子がよかったり、悪かったりするので判断が難しいです。 声があるレベルで安定してくるのは、20代後半からです。10代のときのように、奇跡的なことも起こらなくなりますが、年齢とともに、徐々にコントロールしやすくなります。

 声というのは、体の状態とテンションと気持ちの状態が一致していないといけません。最初はなかなかコントロールできるものではありません。ところがやっていくと、どんなに調子が悪かろうが、気が滅入っていても、切り替えられるようになります。歌の中でも、1フレーズのなかでも切り替えが必要になってきます。 体や精神状態がよくない人もいます。それをうまく切り離してやっていくことです。そのために、自分の体を知り、自分の状態をコントロールするということが第一だと思います。

Q.しっかりと学ぶために気をつけた方がよいこと。

 学校は、将来の自分の力をつけるためにいくのですが、第一に今ある力を精一杯出さない限り、本当の意味での新しい力というのはつかないのです。つまり、外からいろんなものを教わるという考え方では、一生かかっても何にもならないのです。 ヴォーカルの場合は、それだけ自分が出せるものが何かということを知らなくてはダメだということです。それが歌ではとても難しいのです。 正しいトレーニング方法の習得などと考えない方がよいのです。それを自分が作っていくのです。 同じ志をもっている人との交流など考えても、交流だけで終わってしまいます。

 どこにも世間のようなものがあって、そこに慮(おもんばか)って居心地よくあろうとしていたら、何もできません。 自分は何を価値として出していくかということを考えなくてはいけないのです。その人が一人でも、誰から何といわれようと、きちんとした自分の作品があれば、世の中は認めてくれます。少なくとも私はそういう人を認めます。そういうものが何もなくて、世間と仲良くしていても、アーティストとしては誰も認めてくれません。そういうことで、自分の目的に対して特化できるかということが日本人には難しいことのようです。

Q.高い声はどこまで出るようになりますか。

 こういうことはやるまえに質問してもあまり意味がないことです。まず、何をもって高い声というかです。答えようもありません。 トレーニングによって大きく変わる人もいるし、そんなに変わらない人もいます。トレーニングというのも、何百時間もかけて身につけてきた人と、全然やっていない人を比べることはできないわけです。何時間やるかということも、すべて当人の問題で、押しつけることはできません。 本気でやったら身につくけれども、本気でなかったら身につかないといったとしても、その本気というのがどのレベルかということも、違うわけです。歌が好きで歌っているなんて誰でも歌えるわけです。当人の声域の限界もあります。そういう判断は難しいです。

Q.音程がよくないのですが。

 皆さんが好きな歌を好きに歌うときには、音程など意識しないと思います。意識したら狂ってしまうと思います。 ということは、本当は音程を意識する練習がいけないということです。 ただ、同じようにやっていつも間違ってしまうという人にとっては、それを確認しながらやるということは、トレーニングの方法の一つです。でも一つの方法にしか過ぎないということです。 音程を歌っていると、観客も音程を聞きます。音程を外した瞬間にわかるのです。ところが優れた歌い手は、音程を意識しないで音楽の流れのなかでこなしています。ときどき音程を外している人もいます。

 しかし、音程というのは、音と音との間のインターバルですから、音色によっては、悲しいところなどではフラットしてしまうこともあります。それが間違えということではないのです。 結局、歌い手は音程を正確に歌うのではなく、そこの中で自分を表現するわけです。そこの中で自分のもっている呼吸とルールがあります。そのルールで説得できたら、人は心地よく聞くし、それが破綻してしまったら、音痴と聞くわけです。 要は、聞き手と歌い手のどちらの中に深い基準があるかということです。音程だけ聞くと、外していても多くの人はそれに気づくことがなければ、そこでは、音程ミスの問題は起きていないのです。【講演会1 01.3.9】

Q.発声のときに息がもれる音がするのですが。

 教科書的な答え方ですが、声立て(声にする変換効率)をよくすることです。私は、最初、息の強化を中心に考えているので、あまり気にしていません。真っ当な人ほど息が聞こえてくるわけです。 日本でよくこういうことがいわれるのは、アナウンサーなどで、声量がない人がマイクを近づけて使うときに、息で吹いてしまうとノイズが入ってしまうからです。 外国人のように、マイクを離しても入るような声量がある人の場合はあまり関係がありません。外国の言語は子音が中心です。子音は息を吐かないと出せないのです。しかし、無駄な息はよくありません。 だからといって、雑な息もれ音は、のどにも悪いし、厳しくチェックしましょう。

Q.声帯は強くできるか

 声帯の強さは、一般論的には、のどが強いとか、弱いといわれています。日本のヴォーカリストでは、たとえばシャウトが、10代のときにできれば、ある意味のどが強いということになります。しかし、上達とは関係がありません。 もともとそういう歌い方ができる人は、発声を勉強しようと思いませんから、雑になってしまう場合が多いようです。逆にそうでない人の方が、きちんとなっていくことが多いような気がします。

 要は、自分がのどをどういうふうに使っていくのかという問題です。確かにのどは強くはなっていきます。しかし、何をもって、強いということかでしょう。トレーニングの結果でいうと、常に再現できなくてはいけないということです。 のどが弱いと、たくさんしゃべっているだけで、のどが疲れて再現できなくなります。しかし、自分の状態を知ってコントロールできればよいのです。そのやり方を自分で知っていくということです。

Q.声を出して汗をかくのはよいのでしょうか。

 汗をかくのはレッスンの目的ではありません。腕立でも足上げでもやっていたら汗はかけます。むしろ集中度の問題だと思います。 人間が本当に何かをやろう、伝えようとしたら、汗ばんできます。体や心の状態が変わってくるのです。体質や環境にもよります。ヴォイストレーニングでも同じことだと思います。

Q.何から始めたらよいでしょうか。

 まず歌や声をしっかりと聞くことだと思います。最近はホームページに載せています。そういうものを参考にしてください。 右にあるものを左に移しかえれば、歌になると思っている人が多いのです。 ヴォイストレーニングにしても、方法論や内容を求める人が多いのです。確かに方法論も内容も大切です。しかし、それは何のために大切なのかということが飛んでしまったら、意味がないのです。それを知ることが必要です。

Q.どういうやり方が正しいのでしょうか。

 ヴォイストレーニングのやり方といっても、私のところのトレーナーは、それぞれにやっています。その人が一番よいと思った方法でやっているわけです。もちろん、相手にもそれが本当に通用するかどうかでいつも悩んでいます。 ヴォーカリストも同じです。だから、一つの方法があるとか、こういうやり方が正しいというふうには思わない方がよいです。 むしろトレーニング自体を自分が作っていくのです。 方法論を求めると、いろんなトレーナーについて、結局、混乱して終わりです。そういう人を何人もみてきました。それは最初の考え方やアプローチの仕方が悪いのです。

 自分が何をしたいかということに対して、方法論を使うわけです。しかも、声においては、自分の歌自体がその人の方法論なのです。発声という方法論があって、歌があるのではありません。 自分自身の目的がないときに、こういう人の声になりたいと思うと、それはその人の10分の1くらい近づいて終わりでしょう。 あまりヴォイストレーニングとか、発声の力とかに頼らない方がよいです。声とか歌を勉強しないと歌えないと思ってしまったら、何もできなくなってしまいます。 それを知った上で、相手に対し、気持ちだけでもっていくと、声や体が足らないと思うことでしょう。そこでヴォイストレーニングが必要であったり、声楽の勉強が必要になってくるのが本当です。

Q.個性と発声の関係は?

 その人のオリジナルなものではないと、誰も価値は認めません。そのために新しい創造が必要です。それは一から、自分で創り出さなくてはいけないのに、ほとんどの人がそれを他人に預けてしまうのです。 たとえば、漫画を描ける人はたくさんいます。でも、漫画家の漫画をいくら写していても、それで漫画家にはなれるはずがありません。有名になった漫画家には、デビューのときにはすごく絵が下手だった人もいます。下手なのにデビューできたということは、それをカバーする何かがあったということなのです。ストーリーや、人物描写がおもしろかったりしたわけです。つまり、表現するもの、表現する心があったのです。読む人をひきつける何かがあったのです。 絵などはあとからうまくなればよいわけです。どんなに絵だけを練習していてもダメなのです。 大切なのは、自分の絵やストーリーをどう作るかということです。 その辺がヴォイストレーニングについて誤解している人が多いわけです。声や歌をいくら勉強しても、それは何も創造的なことではないのです。

Q.どういう精神状態のときの声が、一番、人の心を揺さぶるでしょうか。

 それは一心不乱に集中しているときだと思います。ある声を出すように訓練するわけではありません。 トレーニングの場というのは、リラックスしているのと同時に、非常にテンションが高くなければいけません。体がガチガチに固くなる人は、解放してみることです。 実際に舞台やステージをやっていく人は、もっとも高いプレッシャーのところで、楽に声を使わなくてはいけないのです。 だから、テンションの高いところで練習した声しか、本当は使えないということです。 よい声と悪い声の違いというのは、自由度です。まずはテンションの違いです。伝えなくてもよいくらいの気持ちでいい加減にやると、発声に悪いことが起きます。伝えようという必要性を強くもっているときは、その声がうまく整理されていくのです。 もちろん、人の心を揺さぶるかということについては、相手にもよります。同じ話をしていても、揺さぶられる人と、揺さぶられない人がいるので、難しいことです。そこでまず自分の気持ちや感じていることを、どうやって人に伝えればよいかということを考えた方がよいと思います。 歌は、それを音や声を通じてやるわけです。それが自分の中でピタッと決まれば、伝わる人には伝わるような気がします。それでよいのでないでしょうか。

Q.自分の声は正しいのですか。どの声がよいのでしょうか。

 発声をやっていて、どの声が正しいか分からないというのでは、およそダメだといっています。歌のどこがよくてどこが悪いでしょうかということも、同じです。 本人が自分ですごくよいなと思わないものを、人がよいと思うはずがないからです。それはどの世界でも同じです。 自分ではよいと思っても、他人はそれほど思わないものです。まず自分が惚れ込まなくては、人に与える価値にはなりません。さらにあるレベル以上で考えると、そこに客観性が必要となります。

Q.理論は芸術活動において、どういった手助けになりますか。

 あるとき優秀な人が出てきて、みんながそうなりたいとなったときに、その人がどうやってきたのかということが、トレーニングの仮説、つまり理論になるのです。もちろんそれはその人にしか通用しないことかもしません。そこから、他の人にも通用するとなったもので、それぞれのトレーニング方法というのができてくるのです。 もっと革新的な人は、自分のやり方を考え、自分のフォームを考えていきます。ただ、日本の場合は、上の教えた通りにやらなくてはいけないところもあり、自分流というのはなかなか通用しません。声楽の世界も、ほとんど先生の言う通りにやっていく場合が多いです。

 私が何かを人に説明するときには、話は順序立てなくてはなりません。論理性がなければ、聞いている人がわからないのです。そういうところから理論というのはできてくるわけです。 知っておくとよい法則、ルールは、あります。音程でも、リズムでも、楽譜そのものの世界があるわけではないのです。自分が気持ちよければ、全部そういうルールに入っているのです。 なぜ多くの名曲がわずか7つの音(スケール)でできるのでしょう。そこに人間が感知する共通のものがあるのです。ドの音の中に倍音が入っています。それがコードの三和音になっていくわけです。物理上の音響特性になってきます。

 自分勝手にルールを作ってよいわけではないのです。しかし、しぜんなり、人間のもっと昔からあるルールにあっているわけです。そのリズムを自分が見つけて、どう感じて、どう出すかということが大切です。 ドラムの音でも、音声でも、コンピュータで作ることはできるのです。しかし、それだけで感動することはできません。演奏とは、状況に応じ、感覚をどうずらしたかという世界に入っています。自分がやりたいことは、その支えなり手助けにはなっていくと思いますが、メインではないということです。

Q.上達していくためには、どの程度の練習をすればよいですか。

 スポーツの選手と同じです。どの程度のことをやるかによって違ってくると思います。やっている人は、24時間ずっとそのことを考えています。だから、やることなのです。 詞を作りたいとか、曲を作りたいといってくる人がいます。まず作れよということです。自分には何もないから作れないと思ってしまうことが間違いなのです。 あなたが毎日10個の詞を作っていくと、1年で3千できます。それを3年続けたら1万作できます。その中でどれがよいとか、ダメということがわかってくるでしょう。なぜダメなのかということもわかってくるのです。1万作作りながら、すぐれた人の作品をみれば、わかります。そこからスタートになります。

 週に1つくらい作って、10年やっているくらいでは絶対にものになりません。プロというのはどこかで詰めてきたのです。100年もやったわけではありません。1日に10個書くという思いとか気持ちがあって、やれるところから始めている人と、どこかの学校に行かないとできないと思っている人とでは、大きな差があるのです。 歌でやれている人を考えても、音大にいったとか、ヴォイストレーニングをやっていたとか、作詞作曲を誰かに習ったという人は、ポップスでは大していません。

 研究所でも、ここには、気づいたり、チェックしたりするのに使うためにあります。自分一人でのやっている量にはかないません。一人でやるだけのことをやって、ここは、自分でできないことのために使わなくてはいけません。 ところがほとんどの音楽スクールやカルチャー教室は、自分でやればできることを、やっているのです。一人でできるのに、先生と一緒にやっているというだけでは、食っていけるというレベルにはなりません。 自分では絶対にできないことのためだけに、他人を使うべきなのです。お金も時間も使いようでは有効です。 今はそれがなかなかできないようです。全部を人に依存したいのです。人に依存するということは、自分ができなかったらお前のせいだといいたいのです。それではたまりません。最近はこういうことからわかってもらわなくてはいけなくなりました。

Q.毎日やって効果がある練習方法は何でしょうか。

 本にもいろんなトレーニング方法が書いてあります。結果的にどれをやれば一番よいかということは、わからないものです。 たとえば、私がやったことが正しいのかといっても、他の人よりもたくさんやっているのですから、比べようがないのです。 トレーナーも人に教えるときには、自分の直感でこれがためになったのではないかということをいっているのです。 でもその時期に違うことを試せるのではないのです。 効果が出るためには、体のことが大切だと思います。それが息と声につながっていくトレーニングが必要です。

Q.電話や会話のときに聞き返されるのですが。

 あまり気にすることではないと思います。発声が原因と思う人が多いのですが、その人に絶対に伝えたいという意志や内容が足らなかったり、その人のおかれた立場によってくると思います。伝えるときに、自分でそのことを強く意識しておくということは必要だと思います。

Q.歌っている歌手の歌い方に似てくるのですが。

 そういうパターンもたくさん入れておくことです。それも一つの勉強方法なのです。 しかし、ある時点からまねしないで、その感覚をつかめるようになることです。 見えないところを見ていくようにしていくのです。 まねをしたらいけないといっているのは、絶対に真似したらいけないところだけをまねしてしまうからです。本当にまねてよいところというのは、見えないところです。 まねることによって、うまくなったという錯覚が起きます。これがよくありません。その歌い手と同じ呼吸や同じ音色を作っていくわけですから、その人を絶対に超せなくなります。

 トップスターをきちんとまねさせるところから始めるから、新しいことができなくなります。でも日本の客もそれを期待しているのですから、それはそれでよいともいえます。新しいものは、どこでも突出していないと認められにくいのです。 歌うときには、自分の声が見つけられないものです。それは一声から自分が知っていくことです。自分がどうやれば声と心とがフィットするのかという、自分が実感できる基準をつけていくことです。

Q.朗読と歌との声の使い方は違うのですか。

 一般的には、違うという人が多いようです。しかし、私はこの差をなくそうと思ってきました。そのために、日常の声から歌うときの声まで、全部含まれるだけの余力のある声にならなくてはいけません。日本人の場合はとても難しいと思います。しかし、外国人は一致させている人が多いようです。どうして違うのかと考えると、やはりおかしいと思うからです。

Q.多人数の前が苦手なのですが、やり方は人それぞれでよいのですか。

 小説などは、一人で学んでもよいと思うのです。でも、声を使っていくということは、音声技術と表現です。人前で何ができるかというところから入っていくべきだと思います。人前に出ないと、その基準が正されないからです。 今の人たちが人前での表現が苦手というのはわかります。しかし、そこで自分が何かということを知り、自分の表現をつきつけていくことです。 自分の思っている自分なんて大したものではないのです。それは他人にぶつけてみて初めてわかることです。

 要は、オリジナリティや個性だけでやっていく世界です。オリジナルや個性というのは、他人と違うということです。他と違ったところにこだわることです。どこに対して心が働くのか、それをどう変えたいのかということを拡大していくのが、その人の個性になってきます。 あなたがいなかったら次の人でよいというのでは、やれません。 結局、自分を知るために、集団の前に立たないとダメなのです。その勇気がなければ何もできません。

Q.業界にデビューするには。

 個性とかオリジナル豊かに、自分の歌をつくっても、必ずしもデビューできたり、活躍できるわけではありません。業界にとっての向き不向きもあるわけです。 まして日本人にとっての歌というものは、いい加減なものです。デビューできたら、CDを作って売れたら成功となるわけです。 そういう商業主義に歌を使うということは、自分の考え方には合わないという人もいます。そういうものを使って広めるのは嫌だという人もいます。それぞれの思想において、歌のスタンスがあるのです。 単に売れた人が優れていて、売れていない人が優れていないということではないわけです。デビューは、それぞれのやり方で、一様にできません。

Q.レッスンの練習は何時間くらい必要ですか。

 声の調子を崩さないところで辞めるのがよいのでしょう。レッスンは、その中で最高の状態できちんと使えるのは、たったの2、3分間くらいです。最高の状態とすると、その日の最高は1回でしょう。 過去からのつみ重ねの最高は、新記録みたいなものです。必ずしも毎回はでません。それが何度も使えていたら一番よいのです。その人の中の最高の状態が練習中に2、3分であればよいということです。どこに基準を置くかということです。 芸事ですから、基準を上げていこうと思ったら、いくらでも上がっていくわけです。その人の望むレベルによって決まることです。

Q.腹式呼吸を完全にマスターするためにはどうすればよいですか。

 腹式呼吸は、完全にできたとかゼロとかいうマルバツの世界ではないのです。皆さんでも今、やっているわけです。 歌い手に必要な呼吸は、それを歌の世界に結びつけて必要な歌唱表現を支える分取り出せるかということです。歌うときには、腹式や胸式を使いわけているわけではありません。どこかで切れているわけでもないのです。 だから、腹式呼吸を100%完全にマスターするということはないのです。自分が伝えたいことに対して、不自由でないだけ使えているかということです。 しかし、体の調子が悪くてもそれが楽に動くような状態にまではしておくことです。

Q.ヴォイストレーニングには、ストレッチや柔軟が必要だとあります。声とはどういう関係がありますか。

 考え方が逆です。ストレッチや柔軟体操をいくらやっても、声は出てこないものです。声で本当に伝えようと思ったときに、自分の体が動かなかったり、息が流れないとしたら、そこで必要になってくるわけです。 伝えようという状態が飽和しない限り、トレーニングなど何の意味もありません。だから声との関係もつかないのです。その人との声の必要性の問題になります。

 歌というのは、本当に本気でやったら、自分自身でどんなにダメで伝わっていないかということがわかるはずです。その基準をどこにもつかということです。 トレーニングというのは、できるだけ器を大きくして、可能性を広げていくためにやります。でも歌というのは、それを切りとって、一番相手に伝わるように編集していく作業です。それができれば声量など大してなくても歌えるわけです。

Q.日常で注意しなくてはいけないことは何ですか。

 常に意識を音声の世界の中での表現にもっておくことです。 月に一回、舞台をやり、ビデオで撮って見ます。それを100回見て、自分のよくないところを100個直せば、ほとんどの問題は解決するのです。その上で、トレーナーが必要なのです。ところが、ほとんどの人がその100個に気づくことで、10年以上かかってしまうのです。誰が見てもおかしいのに、声だけが伝わるということはありません。

Q.縄跳びやジョギングはトレーニングになりますか。

 自分がどう結びつけていくかということです。一つの的に対して、そういうものが結びついてこなくては本当は、使えません。 私は映画も本も見ます。それは自分の仕事ややっていきたいことに対して、自動的に役立つような脈絡をつけているからです。当然つかないこともありますが、どちらを優先するかというと、つくる方を優先します。 それは自分に与えられた使命が、そういうものを他人に対して出していかなくてはいけないからです。そういう意味での結びつきをつけて集中していけば、縄跳びやジョギングも役に立つと思います。

 もちろん、縄跳びやジョギングをやったら、声が出るようになるということはないことです。自分の中で必要性を感じて、その位置付けをきちんとしておかないと、結びつきができてきません。 そういう習慣とか場を作っていくことです。そういう習慣が身につけば、そのあとも自分でやっていけるということです。

Q.どの発声が一番よいのか。

 声や呼吸なども、人にどれが一番よいのかと聞くのではなく、自分の中でまだ磨かれていなければ、出ていないと思わなくてはいけません。自分が絵を描いて、その中でどれが一番よいですかと聞いても、あなたが一万枚の中から選んだ絵ならば、こちらも言うことはできます。しかし、まだ皆さんの深い才能が出てなかったり、気が出ていないもので、その人を判断してしまうということは、失礼なことです。 一万時間やっている人間と、10時間くらいしかやっていない人間を比べて、ああいうふうにできないのですが、といっても、それは才能でもなんでもないのです。やっていないだけです。そういう意味でいうと、基準も難しいです。人間はやることで大きく変わっていくものだからです。

Q.疲れると音程などが外れるのですが、トレーニングをすれば解決できますか。

 疲れたと思ったときは、気持ちで負けているのですから、休んで気分を変えることと思います。その状態で、音を直すことはできると思いますが、結局、音がとれていても、それで伝わることにはなりません。自分の中で切り替えないといけません。【京都説明会 01.3.17】

Q.ミュージカルの出演者と他の発声の違いはありますか。

 ミュージカルでは、日本の場合は結構、似ています。ほとんど声楽に準じた発声をとり入れています。それ以外では、途中で声を壊したり、合わなくなったりすることもあるようです。 でもそれは個人の実力で違うので、全体的にどうこうといえるわけではありません。 また劇団によって、かなり色が強いです。そこの演出家の好みや趣向が反映されると思います。 たとえば劇団四季や宝塚だったら、一つのイメージがあり、その中での優劣というのが見えるし、お客さんもそれを期待しています。なおさらそこから抜けられなくなって、違うタイプというのは、出にくくなるわけです。

 ミュージカルにオペラの声が使われてないわけではありません。むしろ日本でミュージカルをやっている人たちは、一通り声楽を噛んでいる人が多かったと思います。オーディションの基準にも、声楽の色が強いような気がします。 マドンナやバンデラスの「エビータ」などは、声楽とは関係ないところでやっています。それでとても優れた作品になっていると思います。そういうものも見ておけばよいのではないかと思います。 日本の方が、声楽的に磨かれてきた声でやっていることが多いです。外国ほどその人自身にあった方法では行なわれていないような気がします。☆

Q.発声方法を学んだときに、口から息をせず、鼻からするようにといわれたのですが、歌うときも同様でしょうか。

 一般的な答え方であれば、歌の発声方法において、口からではなく鼻から吸いなさいという教え方が通っています。 私もトレーニングで聞かれると、鼻からの方がよいと答えています。これは、口から吸うと口の中が乾いてしまうのと、空気が悪い場合に悪い影響を及ぼすからです。 でも、たとえば風邪をひいたり、鼻がつまっているときには歌えないのかというと、そのときは自然と口などからも入っているわけです。

 ここにも邦楽のベテランの人が2、3年来ていたのですが、わかったことがあるといわれました。彼の師匠は鼻から吸えといっていたのに、よく見ると師匠は口からも吸っているということでした。教科書で書くときには、鼻から吸いなさいとなるのですが、実際とは異なるわけです。

 日本でそういう教え方をされている人は、鼻からの吸う息音をもらしてしまう人が多いのです。それでは間に合っていないのです。向こうの人のように鼻の穴が大きいわけでも、吸う力が強いわけでもありませんから、それでは邪魔になるのです。 要は、吸うということを意識しないことです。働きかけは、吐いているときにすべて行なわれるのです。 吐き終わって苦しくなったら、体が戻るのです。そのときにどっちから入ったかなどはわからないでしょう。 ただ、トレーニングなどでは、口から吸いなさいなどといって、思いっきりやると、声帯の状態がカラカラになって悪くなります。ハードにやるものに関しては、口から吸いなさいとはいっていません。どこで吸うということではなく、いつでも吐けるという状態を素早く作ることが大切なのです。☆

Q.どうしても音程が外れるのですが、どうしたらよいですか。

 その人の中に基本的な音のマップや、音の流れという感覚が入っていないことが主な原因です。練習の仕方としては、きちんと曲の流れを聞いて音楽を捉えていくということです。 しかし大半は、意図的に音に注意して音程練習をすることになるようです。この場合、フラットしないように、顔面にひびかせ、あてていく方法でなされることが多いようです。 譜面を暗記して何度も練習したり、CDで聞いて、くり返しましょう。 本当は、その人の中にその歌や音楽が入っていたら、あとは楽器と同じです。自分がすべてを描けるという状態にしておかないといけないのです。ただ、練習のプロセスではいろんなものがあります。私自身は、長期的に口を大きくあけたり、前にひびかすことは、不しぜんに思っています。☆

Q.普段からきちんと発声して会話した方がよいですか。

 これも難しいですが、一般のレベルのことと舞台のレベルのことは違います。たとえば、「いつもウォークマンで音楽を聞いていたり、いつも鼻歌を歌っていた方がよいのですか」と聞かれるのですが、私自身の考えでは勧めていません。そんなものをやってうまくなるのだったら、誰も苦労しないということです。 むしろそういうことくらいで、やれているとか、うまくなっていると思ってしまうこと自体が危険です。練習というのは、高いテンションでやらなくてはほとんど意味がないのです。 それと、そこで気づきが得られないから、独学に限界があるのです。 ヴォイストレーニングでは、テンションが低い状態でやっていたらのどを壊すし、決して歌にもプラスにはならないからです。

 人前に出るときには、どんなにリラックスしていても、必ずテンションは保ち、相当集中していなくてはいけないのです。ステージで使える声や状態を作っていくための練習が、それよりも低いテンションでやって許されるわけではないのです。 さらに日常で声のことを考えたり、意識していたら、あまりうまくコミュニケーションはとれないと思います。 だから、区別しておきましょう。 歌の世界も、今日はお腹から出そうとか、声が出るかなと考えてしまうと、歌の中に入れません。それはその前にやるだけのことをやって、忘れておかなくてはいけないのです。

 現場と本やマニュアルの世界とは違うわけです。口の開け方なども、いつも迷うのですが、書くと、初心者に対し、一人でやって効果の出ることにかたよらぜるを得ません。わからなくてよいのです。新人アナウンサーなどの場合も、口をしっかり開けないと声が飛ばないから、聞きづらいから、そう述べるのです。 たとえば一所懸命、声を出すトレーニングをしたら、のどを壊したという人がいました。トレーニングをしていない人がトレーニングをしたら、これまではやっていなかったのですから、うまくできずにのどに負担になるのです。普段、走ってない人が、いきなり10キロ走ったら、筋肉痛になるのと同じです。危険なことは、個別に判断していくしかありません。

Q.歌手になりたいのですが、まず何をしたらよいですか。

 まず情報収集として、業界やいろんな学校を回ってきたらよいと思います。ほとんど無料で親切に案内してくれます。音楽スクールの無料体験レッスンに1回ずつ出れば、何十レッスンにも出ることができます。 それで基本的に同じことをいわれたら、そこが悪いのです。みんな商売ですからそんなに悪いことはいわないと思いますが。一口に歌い手といっても、いろんなタイプもいるでしょう。そういうことを知ることができると思います。その上で、私の話を聞きにくるとよいでしょう。 一番必要なことは、自分の出口を見ておくことです。

 J-POPでデビューしたいというなら、オーディションです。学校へ行っても、デビューできるかどうかわからないから、とりあえずいろんなオーディションを受けてみなさいといっています。 劇団でも歌い手でも、誰がその人を認めるかということなのです。もっというなら、才能のある人に認められるかということです。 実力は実力なのですが、ヴォイストレーニングをやったからといって、プロにはなれるわけではありません。

 声や歌がすごくよい人がトレーナーをしていても、その人自身どうだったのかということです。 最終目標はわからないとしても、どうなりたいのかということをはっきりさせておくことです。そうしたら、世に認められた人たちが歩んだ道というのがいろいろとあることがわかります。今ヒットチャートをにぎあわせている人たちは、決してスクールなどで育った人たちではありません。

 私も歌いこなす人でなく、アーティストとしての人や後世に残る作品にしか関心ないのも、歌い手にこだわっていません。プロデューサー、演出家、いろんな人と外で会っています。 私が業界と切り離してここをもっているのは、業界とは別のことをやるためです。業界でやれることは業界でやった方が早いでしょう。 レコード会社の音楽スクールも、そこにくる人たちを育てるより、何万人の中から選ばれた人たちの方が、デビューさせやすいに決まっています。そういう人を一時そこに置いておくことはあったとしても、ルートは全く違います。☆

Q.誰をめざせばよいのか。

 技術が進歩してきたために、役者でもヴォーカリストでも、それほど基本の力が必要とされなくなってきたのです。その代わり、ほかの意味での才能やその人のオリジナリティが必要になってきました。それは特に、ヴィジュアル面で問われてきました。 これは10年前から同じことですが、「今デビューしている人よりもうまく歌える」ことをめざしても、そんな人はいくらでもいるわけです。 昔の歌い手の時代であれば、まだよかったのです。演歌の世界でも、出ていけるという基準があったからです。ただ、師匠に弟子にとってもらうのが大変でした。

 今はそれがありません。特に大きく音楽の志向も変わり、デジタル加工が進んでいます。 ポップスですから、最新の技術を使ってもよいわけです。声量が欲しいといったらマイクのヴォリュームを上げればよいし、声域を出したいといったらミキサーに頼めばよいのです。それを使て聞かせるのもポップスの魅力です。そういうときに、自分だけがやれるものをもち、その基準をどうおくかということです。

Q.のどの開き方と、低音の響かせ方について。

 日本人女性の場合は、地声を使い慣れていない人が多いので、そこでの発声に慣れていくことが第一だと思います。裏声でしか歌ってきていない人の場合は、トレーニングで、最初は男性と比べて遅れます。日本の女性の傾向としては、普段しゃべっているところでさえもう少し低く設定した方がよいわけです。実際に体から一番よい状態で声を出してきた経験が少ないからです。大きな声でしゃべっただけで、声が出にくくなるという人も、たくさんいます。☆

Q.最近、高音部が出なくなるのですが。

 声には年齢や精神的な影響も大きいです。安定しているはずのプロの人でも、何かの拍子に、うまくいかなくなることもあります。また、体自体は訓練していても、年々体の状態が変わっているのです。 声の場合は一度悪循環に入ってしまうと、そこから抜けられなくなりがちです。のどの使い方をセーブしましょう。休ませ方が、最大のノウハウです。 ヴォイストレーニングでも、4、5年の間は一番声が出るのは、練習を休んだときでしょう。練習をしっかりやっている人たちは、状態があまりよくないことが続くものです。そういうときは、無理をしないことです。 一番調子の悪い状態が自分の実力だと開き直るしかありません。逆に、プロとして人前に立つ立場から、最低ラインを普通の人より少しでもアップさせておくということです。

Q.声が出ないときが多く、うまく歌えない。どうすればよいか。

 今はマイクとか、音響も使えますから、ポップスの場合は自分の状態を踏まえて、どういうふうに声で音楽を整理していくかということになります。 調子のよいときは、しっかりと歌ってよいのですが、悪いときは、客に対してマイナスの部分をみせないことが必要です。 声が出なかったり、歌が歌えないからといって、ステージがダメになるわけではないということです。 むしろ逆に声が自由に出るときほど怖いものはありません。声がうまくいくと思っているときほど、どこかで思いあがって、歌がぶれ、失敗します。

 歌の一番難しいことは、役者の舞台以上に客観的把握がしにくいところです。もちろん、そういうトレーニングもあまりありません。 自分が好きな曲を好きなように歌っているときは、声が出ていれば自分でも気持ちがよいわけです。しかし、それは客とは関係のないことです。 そういう意味でも、声の調子の悪いときにどこまで持たせられるかということです。それが自分の実力でもあるのです。しかし、今はやり方でかなりカバーできます。こういう状態のときはこうやればよいと、自分自身でそういうことを知っていくことです。 そういう点での課題が増えてきました。最近はいろんな環境が変わってきているので、そこでの切り替えだと思います。

Q.柔らかい体にするにはどうすればよいですか。

 体が硬いよりは、柔らかい方がよいとは思います。体を柔らかくすれば声が出るかということは、直接的な関係ではないです。ただ、スポーツなどと同じで、感覚も体も柔軟に動ける体勢にするということが大切なのです。 ヴォイストレーニングなどもダンスから入った方が理想的です。リズムなどは、もっとストレートに体で感じ表われるものです。また、頭だけで考えてもできないことで、体で覚えていくしかありません。 どんなスポーツがよいかともよく聞かれるのですが、健康法と同じで、その人の相性です。毎日走ることが丁度よい人もいれば、走ったことだけで一日疲れる人もいます。自分のことを知っていかなくてはいけないと思います。

Q.不規則的な生活と仕事との両立はできますか。

 両立という問題になると、歌い手でも役者でも、豊かで、恵まれた環境で成功した人というのはあまり聞きません。そんな人は、こういう世界に入ろうとは思わないでしょう。コンプレックスとハングリー精神がないと、続かないところもあります。 しかし、こういう問いを問うこと、それが言いわけにならないように気をつけないといけないと思います。 確かに規則的な生活をして、決まった時間に声も出して、おいしいものを食べて、充分な睡眠をとるということは、声のことでいうと理想的です。しかしそういう環境が整えられているという人は、ごくわずかだと思います。それ以外の人たちは、全く逆境からやっている場合が多いです。あなたしだいです。

Q.日本の中の音声文化の評価は。

 私は、音楽業界やマスメディアと関わりながらも一線を引いています。日本の音声文化は、明治維新後大きく変わり、戦後に変わり、また平成に入っても変わって、どんどん根っこがないものになってきています。外国や日本でも、地方に行くと、よくわかるのです。 そういう意味でいうと、日常の声そのものというのが、説得力を持たない、個性を出さない、自分を主張しない、歌もそこにクロスオーバーしつつあります。 今は逆に自由になってきたのですが、雑になってきたのです。役者、テレビのタレント、ナレーターでも、いい加減に出しています。音響が声を拾えるだけの技術を持ってきたためです。 日本は技術的には優れていますから、ハイテクなどの使用も一つの方法だと思うのです。 昔から、プロの世界のものが、一般に落ちてくる、衣裳ならファッションとして、メイクの方法も、化粧品も一般化する。しかし、日本の場合、声は日常の中の生活の中に、魅力的かつハイレベルには落ちてきていません。

 日本は外国のように、自分のことばでしゃべって、そこで判断してもらうというような風習がありませんでした。アメリカの大統領のようにテレビ討論などで決まってしまう音声への厳しさもない。 そういう意味での音声文化が、これから始まるのかどうかです。10年前には、そうなってくると思っていたのですが、実際はひどくなっています。 テレビなどでも、昔はことばがはっきりと聞こえましたが、今や母国語にテロップを出しています。テレビの使われ方が変わってきたとしても、やっているのは、音声のたれ流しです。リーダー役であるべきマスコミ関係、テレビ局関係、音楽関係が、鈍くになってきているということで、難しい現状だと思います。

Q.バンドでレベルの高いコピーからやりたいのですが、うまく歌えません。

 歌とか声というのは、一つのツールにしかすぎません。そのうえにあなたが何を乗せるのかということだと思うのです。人のものをコピーするのは、一つの方法だし、それが悪いということではなくて、それをメインにするなということです。 自分がそのファンとしてやっていくのか、舞台に立つ立場でやっていくかということです。歌とか舞台というのは、応用ですから、基本がなくても応用でできてしまえばよいというのなら、それでよいのです。

 ヴォイストレーニングをしたら、表現力が鍛えられるのではなくて、表現力のある人がヴォイストレーニングをすることによって、声で表現を詰めていけるのです。音声面で詰まらないから、より繊細にパワフルに声を扱う感覚や技術が必要だということがわかったときに、きっと、トレーニングが役に立つのでしょう。 ヴォイストレーニングの先生について、先生の言われる通りに声を出していくということであれば、音大の2年生くらいに、みんな同じように成長してしまうくらいで、とどまると思います。いや、そこまでもいけないのかもしれません。

Q.日本のヴォーカリストの力というのは、どのくらいですか。やっていくのに、どうすればよいのですか。 よくわかりません。

 一番根本的なことをいうと、日本でバンドをやっている人たちはみんなミュージシャンですが、ヴォーカルだけはミュージシャンではない場合が多いということです。 ミュージシャンというのは、音の世界に住んでいて、音で自分の世界を創造していく人です。そういう意味では、今のヴォーカルの創造力は、作詞作曲、アレンジ、パフォーマンスに向いているような気がします。 前の世代のヴォーカリストの多くは、作詞や作曲、プロデューサーなどに転向しました。印税の収入が入るということもありますが、歌の中では自分のオリジナリティ性とか、作品の創作ができなかったのかもしれません☆☆。

 今の日本の歌い手はシンガーソングライタータイプが多いですが、歌そのものでの音声表現というより、作詞作曲の方でのアーティスト性の方が強いです。 歌は全部総合的になって、わかりにくいのです。声優さんでも、CDを出して、売れています。これも、トレーニングと成果というのをどこに求めるかということを、個人個人がきちんと見ていかないと難しいのです。 私が気をつけているのは、リピートがきくかということです。誰でも一回は出せるのです。講演会でも来る人が素人であれば、そのときはそれで通じてしまうのです。

 でも本当のことでいうと、くり返して来るかということが問題なのです。2回来ることを常に続けていたら、ファンは膨れていくわけです。 ヴォーカルが恵まれているのは、事務所に所属しなくても、自分でやろうとすれば、それなりにできることです。ところが、どこかのオーディションで合格しなければ、歌の世界が開けていけないと思っている人が多いのです。施設を訪問したり、介護で音楽療法的に使ったり、歌の使い方にもいろんなやり方があるのです。

Q.ロックなどの早いテンポのものを歌うときに、のどがダメージを受ける感じになるのですが。

 テンポの速い曲をたくさん聞きましょう。速いスピードについていこうとしたら、よく滑舌をやらなくてはいけないとか、口を回さなくてはいけないとかいいます。しかし、そのまえに感覚の問題です。早いテンポの音楽を聞き慣れて、それを体にいれること、そして声や発声器官がそれに伴って調整されていくというように、イメージの方からきちんと作っていく方が大切です。

Q.役者をしてます、低音でしゃべれるようになりたいと思っているのですが。

 イメージの問題をきちんとしていけばよいと思います。理想的には、無名塾の仲代達也さんくらいのところがベースです。昔の役者さんたちは音声の教育をきちんと受けています。黒澤映画の三船敏郎さんまでさかのぼってみてください。 あの時代は音声にもそんなに技術的な加工をしてありませんから、どういう声がどういう動きの中から出てきているのかということがわかりやすいのです。声のことや体のことを見るには、当時のものの方が勉強になると思います。そういうものをたくさん自分に入れていくことです。役者であれば、そういう役者のパターンを入れていけば、おのずと変わっていくものです。

Q.どんな姿勢でも声を一定の大きさ、高さにキープすることはできますか。

 トレーニングしだいで声量や高さをキープするということはできると思います。 止まっているときよりも動いているときに声が出にくいなら、それを体に教え込んでおくしかありません。意識していると遅れてしまいます。 ただ、姿勢によるギャップが見えて、よい状態、あまりよくない状態ということがわかっているなら、直るでしょう。 トレーニングというのは自分で設定します。こうやるといつも声が出にくいとか、このことばで必ず崩れるということが発見できれば、それに対して対応をとるのです。 根本的なことが直れば、そういうことは考えなくてもよいのですが、今、舞台などをやっているのであれば、その箇所箇所で目立つところを、修正すべきです。 しかしポップスでは、キープの必要もどこまであるか、でしょう。

Q.呼吸のトレーニングで、どのようにすれば、長い息が続くようになりますか。

 目的は、いつでも声を発せられる状態を準備しておくことです。息が入ってきてパッと吐いているという状態に直ぐ戻せるというような、呼気機能を強化していったり、その周辺の体の筋肉をトレーニングで鍛えておくことです。 長い息が続くようにするには、その中での配分が自然と自分でわかることが大切だと思います。

 たとえば、息を無理にずっと吐いて、急にパッと入れるとすると、普通の人であれば、これだけでお腹が痛くなると思います。自分で痛いと感じれば、体は動かなくなります。しかしトレーニングしていくと、自分でコントロールができるようになるのです。 こういうことを実技の中で鍛えていく人もいます。役者の早いセリフを何度も繰り返して体に入れていくとなると、必要性が身につける方向に働きます。ただ体のことからいうと、体の動きから正していった方が、声に無理をかけなくて済むと思います。

Q.トレーニングは、自分でやるのですか。どこからやるのですか。

 トレーニングでも、同じことをやって、それで力がついていく人と、それで壊してしまう人がいるのです。 たとえば、体力をつけるために毎日走るというときに、すでにジョギングで毎日10キロ走っている人には心地よくても、体力がない人にとってみたら、徐々に体を壊していき、ストップしてしまうことになるわけです。その人の状態によっても、対処によって違ってくるのです。

 歌の場合は、みんな初心者といっているのですが、本当の初心者というのは一人もいないわけです。必ずどこかで歌っているし、声は使っているのです。だから、わかりにくいのです。 ヴォイストレーニングでは、こうやって話してコミュニケーションが取れていること自体で、もうバイエルくらいは卒業しているのです。つまり、何ができているのか、何ができていないのかということがわかりにくい世界です。楽器のように全くゼロからであれば、レベル1とか2といえるのですが、歌の場合は日頃話しているところが歌にも関係してくるからです。

Q.滑舌がよくないと言われます。

 練習はどういうことのためにやっているのかということをわかっておくことが大切です。 早口ことばができたからといって、そのことで何かが伝えられるかというと、それはたまたまそのセリフはうまくいえるということです。そういうことを繰り返すことによって、音に敏感になってきたり、自分のチェック機能が厳しくなってきます。それで直っていくのを待つことが大切です。 早口ことばや滑舌などは有効だと思いますが、あまりやらせていません。さらに日本語的なことばの分け方とか、口先でのことばを作ってしまうことになるからです。

Q.音程が悪いのですが。

 音程練習なども必要悪でやらせていますが、気をつけています。 たとえば、皆さんが好きな歌を歌うときには、その音程練習は絶対にやらないと思います。何回も何回も聞いていたら、いつのまにか音程も覚えてしまって、歌えるわけです。 ということは、その音感とか、音の進み方が自分の中で心地よいと入っていて、その心地よさが出てくることが一番大切なのです。その心地よさが出てこないと、お客さんも心地よくないわけです。音感にしろ、リズムにしろ、理論の世界があるわけではないのです。

Q.日本人が外国人のアーティストのようになれない理由はなんですか。

 私も本や講演会などでこのことを正直にいっています。日本のアーティストをけなしていると思われてしまうのですが、そんなことではありません。 今やっている日本のアーティストもみんな知っていることです。逆にいうと、彼らの多くは向こうを見てトップになれたのだから、皆さんも向こうを見てやった方がよいのではないかと思うのです。日本のトップでやれている人たちが、見本にしているもの、彼らが聞いていたアーティストを聞いた方がよいと思います。 言うまでもなく、向こうの歌というのは、向こうの言語文化、音声文化の上に成り立っているものです。

 レベル的にいうと、日本でもいろいろとやっていますが、そこで感じるギャップには、大きな壁があります。でも、日本人ののような歌い方もありましょう。日本の中ではそういうものでもいいなと思えるのであれば、それはそれでよいと思います。 それは環境の問題というより、言語と感覚の問題です。彼らの音楽というのは、基本的に彼らが生きていて、感情を込めているものが、そのまま歌につながっているわけです。その辺は、日本の歌に対する考え方と歴史の違いだと思います。【講演会1 01.4.6】

Q.完全に腹式呼吸をマスターするのに、どのくらいかかるか。

 完全とは、ありえないでしょう。程度の問題です。つまり、自分が必要とするのに最低限、必要なところまで、あればよいということです。必要に基づいて、伸ばしていくのが理想です(若いうちは、体力づくりのように形から入るのもよいでしょう)。

Q.呼吸のトレーニングは、どのくらいやるのか。何カ月で身につくのか。

 これも、毎日30分以上やって、3年で1ステップです。つまり、人様にみせて通用するものになるには、人様以上にやらなくてはいけないという相対的な実力ということからみると、2年くらいで大した差はつきません。 日本人でも、すぐれた人、やってきた人は、あなたが2年やったことを1、2ヵ月で超えてでしょう。腹筋でも呼吸の深さでも、オリンピック級のアスリートなら、あなたの2年分の力は、すでにもっているでしょう。 ところが人間、続かないもので、3年、5年となると、やめていく人が大半なのです。しかし、勝負はそこからなのです。 トレーニングにおいて、こういう基本の力は、どれだけあっても充分ではないし、あればあるほどよいのですから、やること、そして続けることです。といっても、絶対必修ではない。すべてあなたの目的しだいです。

Q.呼吸法は、どれが正しいのですか。

 私の息の吐き方は、間違っていますかと言われても、息や呼吸が間違っていたら、死んでしまいます。あなたの体と息は、奇跡的なバランスの上で成立しており、正常です。それを人並みはずれて使おうとしたときにバランスがくずれるので、強化しておくのです。

Q.呼吸トレーニングは、何をするのか。

 何でもよいでしょう。人それぞれに思い込みのなかで、トレーニング法を試みています。どれが正しいかでなく、目的は確実に声をコントロールするために必要です。息の支え、呼気の完全に近いコントロールをするのに必要な筋肉群や感覚を鍛えるということです。ドッグスブレスほか、いろんな方法がありますので、自分で実感のあるものを組み合わせることです。 それより、体からいつも深い息が出せるように一日に何回かに分けてトレーニングするとよいでしょう。

Q.発声と呼吸との関係は?

 ヴォイストレーニングでは、声を出すことがトレーニングなのではなくて、声を出せる状態を作るためにやるのです。それは大きな声とか、高い声を出すためにやるのではありません。自分の声を繊細にコントロールするためにやるです。ただ、体の原理に忠実にしていくために、結果として声量、声域は拡がります。 要は、一本くらいの神経で歌っているものと、何十本もの神経が通っているものとでは全く違うわけです。

 その声を支える息が、吐くたびに違っていたり、吐いている量が調節できないとしたら、声も歌も扱えないのです。これは楽器やスポーツでも同じだと思います。だから、呼吸を鍛え、整える術を身につけておくのです。 ということで、下手に発声トレーニングをするよりも、スポーツや舞踏など、体を使うものの中での呼吸や、そのときの息の使い方を参考にした方がわかりやすいものです。体と息のレッスン※などをやるとよいでしょう。何かを極めたことがあれば、そこから学ぶとさらによいでしょう。

Q.歌で声は伸ばせないか。

 それができれば理想です。 試合をしていたら、強くなるのは全くの初心者がある程度のレベルにいくまでで、理想的にいかなくなるから、基本のトレーニング手強化、矯正するのです。 カラオケのように歌を歌で直すのは早いのですが、根本的な問題には降りてきません。歌は声のことで直し、声は息のことで直していくのです。息のことというのは、体のことになるのです。つまり、体で息をコントロールするということです。

Q.声帯によってすべて決まるのか。

 自分の声帯を、高い声向きで低い声は出にくい声だという人もいるのですが、そんなことがいえるのであれば、私も声帯を見てやり始めます。 なぜそういうことをしないのかというと、プロは必ずしもそうでないことをやっているからです。こんな声帯ではこんな声は出ないということをやっているから、プロなのです。

Q.精神的に鍛え、行動していくためには。

 行動していくしかないと思います。考えるよりも、行動して結果を出していくしかない世界です。そこで鍛えられるのです。

Q.音楽を仕事にしていくかという具体的なノウハウはあるか。

 仕事というのはプロとしてお金が入るということです。いろんな人との関わりが大切だと思います。事務所に入って、囲い込まれる人もいるし、フリーで契約している人もいます。 歌い手の場合は、もっと広いフィールドで活動している場合もあります。どこからどこまでを仕事と決めるのかというのは難しいです。 たとえば、日本で自分の思い通りに仕切って、やりたいようにやれている人というのは、20組くらいだと思います。ほとんどの場合はやりたくない仕事も受けながら、厳しい状況でやっていると思います。 ライブハウスでやっている人が、それで生活ができているかというと、二足のわらじでやっている人ばかりでしょう。

 こういう仕事については具体的なノウハウというより、人脈のコネクションになってきます。 ヴォーカルでも、どちらかというと曲を作ったり、打ちこみをしたり、何かのサンプルを作ったりする方が仕事になる人もいます。司会などをやる人も多いです。 要は、あなたに使ってもらえる才能や能力、そして作品があるかどうかでしょう。音楽を仕事にしていくことは、ノウハウでなく、能力なのです

Q.アナウンサーの声には魅力があるのでしょうか。

 あなたが、魅力があると思わないなら、それでよいでしょう。 職業として求められたり、その必要があれば、そういう声や話し方を身につけたり、演出することも能力の一つです。 外国のキャスターはそういう声を作っているかというと、ほとんど地のままです。その人が普段しゃべる魅力的な声と同じです。文化の違いもあります。それは肉筆に対し、見やすい活字の違いのように思えます。 そういう意味で、自分の声をどういう形でスキルアップしていかなくてはいけないかということです。 自分の声を本当の意味で個性的にスキルアップしていくことは、必ずしも今の日本という世の中のニーズなり、要望に応えていかないというギャップがあります。 あなたがスキルを得ていくほど、それはあなた自身の魅了からは外れていくけれども、プロのしゃべり方にはなっていくということもありえます。選ぶのは、あなた自身です。

Q.日常の会話の中での大切なポイントは何ですか。自分の声が相手の心に届いているか不安だ。

 日本でなら、声よりも内容をもつか、伝える意志をもつかのどちらかです。大して声など聞いていません。 その人がいっていることを聞かなければ損だなと感じれば、誰でも聞くわけです。どんなにぼそぼそ声の社長でも、みんな聴くはずです。 あとはそこでの状況作り(演出)だと思います。そして伝える意志の強さです。そのことを伝えなければ、死んでしまうと思っているくらいであれば、伝わると思います。 声そのものよりも声の使い方です。そこにその状況や状態を意識的に取り出すことの方が早いのです。 また、内容がないものは、つまらなくなります。おたがいの接点がとれているならおもしろくても、とれないならつまらなくなります。

Q.歌の判断について、プロの条件とは?

 私はいつも歌は応用だといっているのです。応用されたところでは判断ができないのです。歌が下手だといっていても、売れていたらファンがいるわけです。なら、よいでしょう。 歌を教えるということが、先生のように歌いなさいということであれば、先生ほどにもうまくはなれないと思います。 実際にやれている人たちの中には、ひどい声も、のど声の人もたくさんいるわけです。Jポップの男性はほとんどのど声に近いし、女性も単にのどを外したところに高い音域を作っているというくらいです。 しかし、下手ではないわけです。 外国人と比べてどうかというのも、今の10代のファンには、その必要もないのです。私はやれている人に対しては、ストレートに認めています。

 やれていないときに、やれている人と同じやり方がとれるかどうかで見るしかありません。 他人のやり方はとれないのです。どんなに同じやり方をして歌ったとしても、おもしろいとは思いません。 どうしてプロがおもしろいのかというと、声だけではなく、その声を出すための彼らの音楽性とか、彼らの感じていることが、すべてミックスされているからです。その声だけをまねするということは、つまらないことになってしまいます。そこの引出しの部分が必要なのです。

Q.吐く息と声量との関係はありますか。

 呼気圧が高く、声帯できちんと調節できていれば、声量は増えます。声量そのものは声の大きさではありません。 たとえば、ピアニッシモは小さく出すのではなく、感情の弱さです。音は小さくても強い表現もあるわけです。いや、表現である以上、強さが必要です。 声量の場合も、聞いている人に声量があると思われるような歌い方が、声量というものです。 ポップスに関しては、吐く息を全て声に変えない場合も多いのです。外国語は子音が中心になっています。 息を吐くということは、表現としては強くなるということです。たとえば、ピアノを弾くときに、力を強い人が弾いたからといって大きな音が出ても、ダイナミックな演奏になることはありません。打鍵のスピードによります。そこでの鋭い入り方や弾き方によって、違ってくるのです。

Q.歌を教えなくてはいけないのですが。

 歌を教えるには、相手の中に入って、相手の悪い状態を自分に移し変えて、それを是正するということを繰り返します。 自分のよい状態を知っておかないと、相手の出し方をまねするだけで、自分の声帯も痛めてしまうわけです。そういう意味では、タフでないといけません。 歌を教えるということは、必ずしも音楽的な仕事とはいえません。ひどい声の人、音程が合わない声、リズムの外れた歌をずっと聞く。その負担は精神的な面でも大きいものと思います。 プロの中で歌う方がよっぽど楽です。まして、初心者を教えるのであれば、自分の基準をもっていなくてはいけないと思います。

Q.肺活量がトレーニングで増えることがありますか。

 大人になったら、トレーニングで大きく増えることはありません。ある程度の年齢のところで吐ける量というのが決まってきます。アスリートや声楽家には、驚異的に人の2、3倍くらいある人もいます。 しかし、ポップスの中ではそれほど問われることではありません。また男性と女性ではすでに1000CCくらいの違いがあります。声量もそうですが、量そのものというより、その使い方が問題です。

Q.日常の声が浅いので、普段の生活で気をつけることはありますか。

 日常でしゃべるときに気をつけたくらいでは、声そのものは直らないと思います。 歌っているのであれば、あまりしゃべらないことです。 ヴォイストレーニングをやっているのに、今までと同じように電話をかけ、しゃべっていたら、のどを痛めるでしょう。普段の生活でさえ、のどを使っているわけです。 最初のうちは、トレーニングをやると負担がきます。声を出して、調子を整えていくということができるのは、かなり上のレベルです。 普通の人は、一回のどに引っかかってしまったら、雪だるま式にのどにどんどん疲れがたまっていきます。最初の段階では、調子の悪いときは、のどを休めるしかありません。

 実際のステージングや練習のときに、テンションが高ければ、そんなにのどは痛めないのです。やっていけないのは、気が緩んでいたり、テンションが低いときの練習です。人間は本当に集中していると、本当に危ないことは回避することができるのです。最近はそれができない人たちが増えています。一人勝手に思い込んでやるから、壊すのです。 全体のバランスとして、音楽が入っていないと、その回避ができないのです。声を大きく出そうとか、息を強く出そうということを目標にするから、結果として声帯を壊してしまうのです。でもその人の中で音楽が入っていたら、絶対にそうではないというギリギリのところで回避できるものです。 だから、ヴォイストレーニングというのは、自分が一番テンションが高いとき以外は、やってはいけないということです。リラックスしたらよいということではありません。テンションの低いところでやっているので、よくありません。 テンションを保った上で、あまりにカチカチだと歌えないから、そこにリラックスが必要なのです。

Q.普段の電話などで声が聞きにくいといわれるのですが。

 最近は、少し普段の生活での声を気にする人が増えているのですが、私の正直な感想は、そこまで普通の日本人が声に関心があるとは見えません。テレビなどを見ていても我々日本人は、とても音に関して鈍いと思います。 発音や滑舌などは、あまり気にしない方がよいということもあります。電話に入りやすい声と入りにくい声があります。男性の少し高めの音に合わせてあるようです。

Q.何歳からやればよいか。

 大体10代後半までは、声に落ちつきがないのです。自分の調子とは関係なく、うまく声が出たり、調子が悪くなったりします。その頃は、練習がしにくい時期だと思います。 音楽を聞いたり、息を吐いたり、体を鍛えたり、なるべくのどに負担がかからないようにやっていくことが大切です。 よい声や音楽をたくさん聞くことがよい勉強になります。自分の状態が悪いときは、休めることが第一です。

Q.自分の嫌だなと感じる声と本当のよい声との違いについて。

 人それぞれ、感じ方が違います。ご自分で考えてみてください。【講演会 01.4.22】

Q.いつもの歌い始めのキィでいくと、盛りあがりの高いキィが出なくなったり、それが怖くて低いところから始めると、最初が出なくなったりして、いつも安定しないのですが、それは体ができてきて、歌いこんでいったら、解決することでしょうか。

 これは、呼吸、発声と声域の問題です。歌い出しのキィはピアノでとって歌い出せばよい。 気分的なものによっても出す音が違いますから、練習のときなども、自分のキィを確かめてからやることです。何度もやりつくしていないから、わからないだけです。 たとえば、サビのところを歌ってから戻ってみると、最初のキィがわかる。最初が低すぎる場合に、それは出している音のところで明確につかんでいないのです。 男性の場合、低いところで「ソシレ」の「シレ」と入るのと「レ」から入るのとでは、そんなに感覚的には違いはなく、他の人にもわかりません。逆に高い「ソ」を取ろうとすると、そこで狂ってしまう場合もあります。 自分が音を判断できる領域、中間音などで歌える歌であれば、比較的すぐに歌えると思います。

 そうでない場合は、音をとってから練習をすることです。キーボードでとってやる方がよいと思います。練習のときは、低くなったり高くなったりしても、それを調整しながら、勘を磨いていくことだと思います。 リズムなども同じで、実際のリズムを自分でキープしていないと、アカペラで歌ったときに保てなくなります。 出だしのところというのは、とりにくいのです。サビから入れば、だいたいテンポもキィも定まってきます。自分でサビのところをイメージしておいてから、歌い出すことです。その役割をしているのがイントロです。そうやって自分のとりやすいところからイメージしていけば狂わないのでしょう。

Q.たとえば、悲しい曲を歌うときに、自分を悲しい気持ちにさせて歌わないと感情を出せないのですが、実際はその感情を排除して歌わなくてはいけないのでしょうか。

 それは練習のプロセスでの段階です。 たとえば、どんなに「悲しい」といっても、そのことが実感できなければ、悲しいという音色情景も描けません。 だから自分で思い出したり、イメージを作ってみることは、自分の内的なデッサンをしておくことになります。それも一つのやり方です。入り口としてはよいと思います。 ただ、その内的なイメージを作ることと、ステージでそれをそのまま出すことというのは違います。 「悲しい」ということを音楽としてステージでやるときには、ことばで「悲しい」と伝わるよりは、リズムとか音感とか、音そのものの世界にもっていかなくてはいけなくなります。 ことばで「悲しい」ということを音で「ミーラー」と弾いて表現すると、そのことが抽象化されるのです。逆にいうと、抽象化されるから、より多くの人に普遍化されて伝わるわけです。それは自分だけの「悲しい」ということとは違うのです。

 それは人に示すものにはならなくなります。 歌というのは、全体の中での位置付けも決めていかなくてはいけませんから、それぞれに優先することが違ってきます。 フレーズの練習のときは、いろんなアプローチがあってもよいと思います。感情が一番出るようにやってみるとか、声にその感じが一番出るようにやってみるとか、音楽的にスムーズに流れるようにやってみる、いろんな観点があります。それは歌によっても違ってきます。 そのことと、ことばの感情表現などのどちらを優先するかということでしょう。音楽的に捉えてみると、ハーモニーとか、進行自体の方を優先することになります。それは音声に全て含まれていなくてはいけないということです。 しかも、そこには音色そのものと音の組み合わせによるものとあります。 でも練習のプロセスとしてはよいと思います。本当の感情表現をすると、作品としてよくなくなってしまう、ある程度は切り離していかなくてはいけません。

Q.頭部に共鳴させることがよくわかりません☆☆☆。

 わからないうちは、わからなくてもよいことです。私が話しているときも、頭部に共鳴しているし、そのように聞こえる人もいる。頭に共鳴していなくて胸でいっていると思う人もいる。なかにはのど声と聞く人もいるわけです。私自身も、その3つのどれとも聞く気になれば聞こえる。 全部イメージの世界でのことです。その人がどう感じるかということは違ってきます。感覚的なことばですから、自分が実感できたときに、ああこれかとわかればよいのです。それは歌の中だけでなくても、起きることです。

Q.のど声はどう見分けるのですか☆。

 自分の中で同じようにみえるのど声の中でも、理想に近いところと、これを続けていったら壊してしまう方向があります。それは次第に自分で区別ができてくると思います。 ことばで考えると、声をのど声と正しい声との二つに切ってしまいます。 のど声の中にも、正しい声はあるし、正しい声でも、のどにかけている声はあり、その軸がはっきりとあるわけではないのです。 要は、その中で細かく見ていけるような基準と、その神経をもつことが大切なのです。 先輩は腕立てを50回やっても疲れないのに、自分は30回もできないといっているようなものです。その時期というのは待たないと仕方がないところがあります。

 ただ、それを一方的に間違った方向にやっていく人が多いので、方向として若干、雑さといい加減さを中心に正しているのです。 ただし、声楽的には、あきらかに使えない発声として、しゃがれた声をのど声としています。 正誤ということではありません。ただ、明らかにのどをつぶすようなことはやめるべきでしょう。その辺も難しい問題です。昔の日本の歌い手や役者にはのどをつぶして、それで鍛えられた声になった人もいたわけです。 そんなものから見ると、ヴォイストレーニングでいわれていることとか、理論というのは、吹っ飛んでしまいます。しかし、そういう面はどこかに現実、かつ事実として、置いておかなくてはいけません。 私も立場的に、のどはつぶさないようにといっていますが、つぶしたからといって、同じ間違えを繰り返さなければよいと思っています。どこまでの冒険ができるかというリスクは、本人が背負うべきです。他人が押しつけることはできません。

 人生で二度試せないということもあります。二通りのやり方を同時にやってみることはできない。必ず一つをやったときに、それよりもよいやり方があったかどうかという検証はできないのです。それが楽器などと比べて困ることです。 私が研究所を半分以上、研究生に任せているのは、私のレッスンを彼らは組み入れて、実際の効果を出した、その分、彼らの方がわかることもあるということからです。 研究生にもやりたければやればよいし、やりたくなければやらなければよいといっています。 もっとやりたいことが出てきたら、そちらをやればよいと思います。私の中では、歌と他の世界のことを、大きくわけているのではないのです。表現の世界としては、同じです。 研究所にきて、ここで誰よりも歌について、批評できるようになったというのであれば、それでもよいと思うのです。それで自分の声の可能性が広がることがあるということです。そういう部分の方が勉強としては大切に思うのです。

Q.歌うときに口元や顔の表情がないので、その練習が必要だとは思っているのですが☆。

 必要だとわかっているのならば、やればよいのです。鏡をみてやりましょう。自分は表情がないと思っているのであれば、自分で鏡でみて練習してください。どうしても自分ではできないとなったときには、こちらから何かいえます。 自分でもう気づいているのですから、上達への第一歩です。それを直すのに時間がかかる場合もあります。でも自分が絶対に直さなくてはいけないと思っているのであれば、突き詰めてください。

 うまく直る場合も直らない場合もありますが、そこからアプローチをとるべきです。 問題は、みんな結構自分のことで気づいているのに、不思議なことに解決のためのアプローチをとらないことです。そこに先生が何かをやってくれたり、アプローチのとり方をいってくれるのを待っているのです。自分で気づいていたら自分で直すべきなのです。 行き詰まったり、どうしてもできない壁になると、トレーナーが、何かをいってくれます。そこまでの間のことというのは、自分が気づいていてもやらないのですから、他人が何をいってみてもあまり変わらないのです。 今は、きちんと口元を開けるということは意識しないで構いません。むしろ発声を邪魔するような要素を取り除いていくことです。顔の筋肉を柔らかくしたり、口もとの不自然さを除いていくことも一つのやり方です。

Q.発声のときに「ハッ」と出している声を、歌につなげるそのつなぎ方がわかりません。

 声の中に全部の答えがあるのです。本当の基本のことができていたら、一回で完結できます。その中に全ての課題が入っているのです。 優れたヴォーカル一人の中に全てのノウハウが入っています。ただ、それを読み取れないし、それと自分との接点をつけられないのです。そのためにいろんなアプローチがあったり、そのときどきのステップがあるわけです。 「ハッ」を息でぶっつけて出していては、つながらない。「ハッ」「ハイ」「ハイラ」「ハイラー」のようにつなげます。そのために深い声を伴ったやわらかいひびきの「ハイ」が必要なのです。 やりにくいのは、みんな待てないからです。待たずに頭の中で判断してしまうのです。すると、程度の問題がやり方のよしあしにすりかわってしまいます☆☆。

 私の「ハイ」は、歌につながっていて、あなたのは違いますよね。そこが問題なのに、できないから、あるいは、きちんとやれないから、やり方に疑問を抱くわけです☆。 「ハッ」でも「ハイ」でも歌詞の頭の一語でも何でも同じなのです。つなげるのでなく、つながるのです☆。 たとえば、どの分野であっても、自分の頭で考えていることと、体が結びつくのに、少なくとも3年はかかると思います。一万時間くらいは必要です。技を覚えて、それがすぐに実戦で使えるわけがないのです。それはすべて相手に見透かされてしまいます。 たとえば、ここでやっている発声というのは、1音のところで「ハッ」と一つしか出さない。歌というのは1オクターブあります。どれだけの段階があるでしょう。やり方がどうこうではなく、全部がつながっているわけです。セットを自分でしていかなくてはいけないという問題なのです。【京都基本 01.2.12☆☆☆】

Q.日頃の練習は、息吐きと朗読の練習が中心で、飽きてしまうのですが、自分のやり方が単調すぎるのでしょうか。歌う方がよいでしょうか。

 トレーニングというのは、基本的に意欲がないとつまらなくなるものです。目的がなければ、何の意味もないことだからです。 トレーニングをやると汗をかいてすっきりするとか、気持ちがよいということもありますが、それはボクササイズみたいなもので、新陳代謝をよくしたり、体のためにやるというのと同じです。すぐれるためにやるのとは、また目的が違ってきます。 自分のやり方が単調かどうかというよりも、それが何のために必要なのかということの意識づけがないから飽きるのです。

 長くやっていると、大半の人はそうなってきます。どこかの段階でやめたり、いい加減になる。最初は今日から毎日、頑張ろうと思ってやっていても、3年後にさらにやっている人はほとんどいない。 単調だから、歌う練習を取り入れた方がよいかどうかというのは、直接には関係はないと思います。ただ、歌った方が刺激があるということであれば、それがよいと思います。 要は、トレーニングでもっともっと緻密なレベルへ入っていくべきなのに基準がないこと、くり返しが目的となってオンして深めていっていない、その意味や判断がつかないことが、よくないのです。

Q.体が固いので、集中できなくてイライラするのですが。

 体の問題は体で解決しなくてはいけません。スポーツの医者のように、体のトレーナーが必要だと思います。確かに声のことも音楽のことも関係してくるのですが、ヴォイストレーニングを凝っている体の状態でやるというのは、よくない。柔軟体操や呼吸トレーニングで、集中できる状態にしていくということが必要です。

Q.レッスンのフレーズに歌を使うのは?

 レッスンで古い歌を使っているのは、わかりやすいからです。今の音楽はいろんな加工が入っているためです。体として戻して学ぶときには、生に近い声の方がわかりやすい。音楽としてのヒントにもよいのですが、声、息、体の感覚を得るために使っています。 自分の発声に正しいという確信がもてるかということも、かなり個人差はあると思いますが、どのレベルを求めるかによっても違ってきます。 パヴァロッティくらいになると、日本人はみんな間違っているといわれるかもしれません。間違っているとか、正しいという白黒のつく世界でないだけに難しいです。 この確信というのは、あくまで自分の中の確信です。結果的に客にそれが伝わったら、よいのです。

Q.練習を能率的にやるにはどうすればよいか。

 能率的ということを考えれば、トレーニングというのは効率を追求します。結果として、大半無駄なことでも、ものになればよいのです。100個やって90個くらいは無駄、ただ、こういった無駄というのも大切です。他の人が誰にもできないことだからです。そのなかから自分のものとして積み重なっていくものがキャリアになります。自分がこだわりたい部分に、どれだけ時間をかけられるか、どれだけ執念がかけられるかということです。 もう一つは、その中から表に出てくるものをきちんと見ておくことです。それが自分のものとして、とても大事なものでしょう。

Q.何を歌っても同じように聞こえるのですが。

 そのこと自体も悪いかどうかというのは、どういうレベルで判断するかということもあります。その人のキャラクターがあって、その歌い方で歌っているなら、必ずしも悪くない。 歌の場合、難しいのは、総合的に判断されてしまうことです。たとえば、ギターやピアノだったら、よりうまい人を隣に並べてみたら、音楽としてのレベルではっきりします。

 ところが歌の場合というのは、そうでない要素が多いため、比較しがたい。 自分の歌を録音して、ワンパターンになっていると思ったら、自分で脱皮するしかありません。 こういうことは、ヴォイストレーニングと結びつく以前に自分のイメージ、感覚の問題です。表現をどう描くのかというところに絵がないとなかなか落ちてこないのです。どう表現したいのでしょうか。 人の曲を歌うと、自然にものまねになるということはない。本来、人の曲を歌うときにぶつかってくる問題があり、それをクリアするのが練習です。 ところが、自分に似ているようなヴォーカリストの曲では、その人のように歌っていても、成り立っているように、自分も周りもみてしまいます。それがよくないと思います。 自分の持ち味を見つけるというのは、毎日のトレーニングではないのです。気付きです。

Q.自分の歌を自分の持ち味で歌うためには?

 まず一つはいろんなことを入れるということです。今の時代のものも必要ですが、古典や世界中のものを含め、自分の中で少しでもこだわれるものがあれば、そういうものをたくさん入れることです。そして、そこと対話していかなくてはいけません。 あるレベル以上やれたような人の音楽観や、歌唱スタイルをみていきます。

 ポップスは、その時代に左右されていますから、それをそのままとり入れてもダメです。 もしあなたが今の感覚で生きていて、未来に対して表現したいという思いが強ければ、それはそういう形をとって表れるでしょう。ただ、少々時間はかかります。そのときに今のものしか入っていないと、弱いことは弱いです。 日本のヴォーカルでもちゃんとやれている人は、世界の優秀なヴォーカル、向こうのヴォーカルを入れています。楽器の人たちも同じです。

 「自分の歌」というのは本当に難しい。 人によっては、もしかしたら歌や音楽を選ぶこと自体が、自分からの逃げになることもある。小さい頃から声や歌で人を喜ばせてきたとか、それが表現の手段だったという人が、音楽や歌を選ぶのは自然なのです。しかし、そうでない人が、それを選ぶところで、もう自分でないものを選んでいる。だからこそ、そこに自分がきちんと接点をつけることまでは、やっておかなくてはいけません。音楽や歌の場合は、その辺が甘いために、却って難しいのです。

Q.日本のロック、ポップスで、しっかりとした声のヴォーカルは誰だと思いますか。

 しっかりとした声を持っていることが、ロックやポップスの条件ということではないのです。それは一つの有利な条件にしか過ぎません。だから、自分についての判断というのは、他人をみるのでなく自分の土俵でやるしかないのです。

Q.声はどのくらい必要ですか。

 それは、自分が表現するときに、最低限どこまでのことが必要なのかということです。 私の場合、このように隣でガンガンと音が鳴っている中で、みんなに聞こえる声が必要です。昨日も8時間、レッスンをやり、今日も昼からやって、まだこのあとにレッスンが残っている、これだけいろんなことをやったあとに、のどが耐えられる必要があるのです。

Q.歌がうまくなるために習得する技術や声とは?

 歌のうまいへたというのは、あまり関係ない。実際その人がステージを中心にやっていたら、そこで出している価値がきちんと伝わるかどうかです。

 歌というのは、たぶんうまい人ほど本当に上達していたら自分がうまいとは思えなくなってくると思います。 何もわからない人は、音程を外さずに間違えずに歌えたら、それで完全に歌えたと思える。 プロは客の求める必要性におっていきますが、それを超えると芸術家になります。 最初は自分が本当にその曲を死ぬ気で伝えようとしたときに、こんなものでよいのかという基準からみていくとよいでしょう。そうなって初めて、ヴォイストレーニングでのお腹からコントロールするという感覚が出てくるのです。 始めに方法論から入ってしまうと、行き詰まってしまいます。 本の場合は、具体的な方法論として書くしかありません。抽象論ではどうしようもないからです。

 しかし、当人の熱意はノウハウを超えるということです。結局、その人間の中での状態とかテンションが飽和して、耐え切れないから体がついてきたり、呼吸がついてくるのです☆。 それが起きないのに、どんなに体を鍛えたり、声を鍛えていたとしても、あまり意味もないことなのです。 すごくおもしろい分野で、何事も白黒、正しい間違っているということで考えていく人には、理解不可能な世界だと思います。 今売れている人たちに、どういう理由があるでしょう。分析してみてください。できている人は○、それ以外は全部×ということになります。 しかし、私はいつも、現実から考えるのです。理想は理想として、実際に現実はどうなっているのかを見ます。 本来であれば、こういうヴォーカルが売れるべきとか、こういうヴォーカルは絶対に売れないということを持ち出したら、現実とは大きく違ってきます。でも、要は自分です。

Q.一人でやる練習に限界を感じたのですが、グループの中でレッスンしていくことで何か得られますか。

 自分の問題をわかるために他人をきちんと見るのは、ためになります。しかし、トレーナーがついて、トレーニングをしたら何かなるとは考えないこと。それは主体性の放棄です。他の人のを聞き比べることによって、いろんなことに気付いていくことです。 ポップスは自分で全部決めていかなくてはいけません。逆にいうと、そこで得たものをどう自分に使えるのかということです。使い切ったところで、そのあとに余るだけのいろんなものが、他人に対して提供されているのかどうかということです。

 はっきりいうと、世の中でやれる人というのは、グループの中でダントツであたりまえです。ダントツでもやれないことはあっても、そこでダントツにもならない人が、他のところにいったら、認められてやれたということはありません。日本の場合は、あまりに音声の基準が甘くて困るのですが。 劇団でも同じです。 しかし、やれないのは技術や実力ということではなく、その人の考え方によるところが大きいです。だから、最近は考え方から入るようにしています。

Q.コールユーブンゲンの効果的な使い方について。

 読譜力をつけリズムとピッチ、特に音程をとれるように使われています。日本では音大受験用に使われています。耳で聞いてわからない場合に、楽譜に落として目でみるのは一つの方法です。 ただ、先生の基準が、ピッチさえあっていればよいとなりがちで、音程以外のことが、犠牲になりかねないところがあります。 他のトレーニングとの位置付けをきちんと決めてやるとよいでしょう。効果的な使い方ということでいうと、読譜力をつける。音楽的でないから、発声の勉強に使わなくてよいでしょう。

Q.アカペラコーラスのもので誰を参考にすればよいか。

 別にどれが参考ということではない。出ているCDをいろいろと聞き、その中で自分の好きなものでよいと思います。また誰のがよいかということでは、キリがありません。コーラスグループのものも聞けばよいと思います。

Q.声を出せる環境がないのですが。

 カラオケボックスなど、工夫してください。声の勉強に関しては、実際に出せる時間は、20、30分あれば充分です。あとは体作りとか、息吐きの方が大切です。音をどういうふうに読みこんでいくか、自分の中のどういうイメージで、それを解釈、構成するかというようなことが、大事です。 90パーセントは、その勉強です。もちろん、声を毎日、目一杯、出した方がよい時期というのもあります。それ以外は、体の柔軟とか、息のことを優先した方がよいです。

Q.外国人のトレーナーは?

 体作りとか深い声を一緒にやっているときに、高いところまで感情だけで前に声を出すと、のどに負担がきます。 外国人のトレーナーというのは、発声のポジションが元々深いので、あまり日本人が何ができていないかがわからない。彼らはそこで声をからしてしまうようなレベルでの苦労をしていないからです。 日本人には、ヴォーカルの指導やヴォイストレーニングより、ステージパフォーマンスが大切といっている人もいます。 向こうでは10代でできていること、人前に出て、お客さんをどういうふうに惹きつけるかということです。 音楽的な刺激になるが、必ずしもよいともいえません。 外国人のトレーナーについて、のどがつぶれてしまったという人もいます。日本人に対し、のどのしめ方、ミックスヴォイスを、外国人と同じ教え方をしても、ついていけないのです。日本人は元々のどが開いていないからです。

Q.歌うときの発声は、どうするのか。

 あなたが挙げている人たちというのは、自然にしっかりと歌っている人です。 ステージとしての意味合いで、ダイアナクラールやエラというのは、かなり強調する場合もあります。彼らはそこで発声ということをことさら意識していないと思います。自分が投げかけた声とかニュアンスというのが、どのくらいの強さ、弱さ、柔らかさによって、相手にどういう効果をもたらすかということは知りつくしている。 こういう感覚は、向こうの国では普通の人でももっている感覚です。プロは、小さな頃からすでに音楽の世界、つまり音楽が入っているわけです。

Q.日本人と外国人との差について。

 日本の若者に民謡や演歌などをやらせてみたら、ある程度はうまくできるのに、ゴスペルとか向こうのものをやらせてみると、少し崩れたら0点、つまり崩れて底なしになってしまう。 その間に支えているものが何にもないからといえます。文化の違いや今まで生きてきた中で、そういう感覚を無理にでも目一杯、入れてきていないからです。彼らの音楽には、もちろんそういうものがそのまま入っているのです。それを発声法でやろうとか、歌唱技術でやろうというのは、私には違うような気がするのです。

Q.リズム、トレーニングについて。

 リズムに関して、あるレベルから上では、体の動きでとってはいけません。体でとるのはビジュアル的な要素で、自分から出てくるリズムに体を動かしているのです。 リズムを取るために体を動かすとしたら、それは練習であって、持ちません。初心者がリズムを体に入れる練習のときに、手でとるのは許されますが、ステージではみせないことです。

Q.腹式呼吸の確認法はありますか。

 今あなたがしゃべっているのも腹式呼吸です。私はその人の中で、声がどこにも引っ掛からずに腹から出ているのかどうかでみます。どちらかというと、劇団の判断です。口でしゃべっているなと見えるのか、腹から出ていると感じられるのかです。 ことばが不明瞭になるというのも、腹式とは直接、関係ないようです。しかし、発音よりも発声で解決するとしたときに、つながってきます。 私が伝えられることというのは、20年かけて私が得てきたことです。たとえば、外国人は歌う前に既に深い声を持っているということです。

 日本人が半オクターブで使い切れれば、上出来というレベルで彼らは、1オクターブは持っているのです。その条件の部分のトレーニングこそ、日本人に欠けているところです。それはないよりもあった方がよいということです。ないならばないで、何とかならないわけでもないのですが。

Q.のどの状態が悪いときの練習方法はありますか。

 のどの状態のよくないときというのは、使いすぎ、風邪や、お酒を飲んだとき、一番よいのは休めることです。 声が出やすいときというのも危ない、慎重にした方がよい。自分の中でベストな状態というのは、自分ではないのですから、崩れるのが早い☆☆。 よく風邪のひき始めによい状態が起きる人がいます。普段練習しているときは地の自分が出る。そうでないことで違う感覚と声になる。 自分の中で異様にテンションがあがっているとか、体が調子のよいときとかではなくて、何かの拍子に出やすくなることもある。それがよければものにしていく、偶然では困るのです。ただ、その感覚で切り替えていくのは、多くの場合、自分の判断ではできないのです。

 自分の中の深い自分の判断でやっていくこと、優秀のアーティストが持っている判断基準を自分の中にいれて、自分よりもそっちを優先させなくてはいけないということです。 よく自分が歌いたいように歌っていたらよいという人がいるのですが、だから伸びません。それはそれで歌っていればよいということになります。

Q.リズム感を身につけたいのですが。

 楽器をやるのが一番よいでしょう。楽器というのは、そこにどういうふうに合わせ、どういうズレを作るかということで、自分の音を作っていくからです。さらに、耳で聞いて比べやすい。そこで、リズムを探究してください。 ヴォーカルを楽器的に扱うというレベルでは、楽譜、あるいは伴奏に対して、ずらしたデッサンを、自分の中にもっていないといけません。それがなければ、誰かが歌っているように歌うだけで終わってしまいます。 体のところから鳴っているように発声するということも、ヴォーカルにとってはあまり必要ではありません。 ましてサウンドでミックスさせてやっていこうとするのであれば、むしろ優秀な音楽プロデューサーなどの意見を取り入れながら、どう楽器的に処理していくかいうことを考えればよい。そこは昔と大きく違うのです。

Q.プロの実力とは。

 昔はヴォーカルとして自らの体を楽器にするということは、本当にトランペットと同じように歌うということでした。 今は音響の加工で大半、片づく。トレーニングをして、あたりまえの大声になってつまらなくなったという人もいる。 実際、今歌っている人はほとんど生声に近い。ただ、生声の場合はトレーニングをしていないので、同じくせのつけ方で誰でもできるのです。そのことによって、世の中に通じた人はよいのですが、それ以外の人の価値はなくなってしまいます。 その辺をトレーニングでしか超えていけない人と、ポッと出てやっていける人とでは、ずいぶんと違う。 プロは、テンションの高さとか見せ方とか、いろんなものは持っています。その人が、他の人にやれない何をもっているかを考え、自分を省みましょう。

Q.声量と本当の実力との関係は?

 声量のことも、今ではあまり実力と関係はないのです。ただ、声があった方が助けてくれる場合が、ステージ、歌の中である。 私も、体調のよくないとき、鍛えられた体や声量が助けてくれる。普通のときはそういうことは感じません。 たとえば、声量で見せようとしている歌が一番厳しい。それに頼ってしまうと、最高のレベルを極めない限り、まともな歌になりません。なまじ声量がない人の方がうまく聞こえるのも、そのためです。 中途半端な技術もそれがない人の方が伝わる。心をこめて一所懸命だからです。

 優秀なヴォーカルもアマチュアなら、調子が悪いときの方が伝わる場合が多い。 声というのは一つのトータル的なイメージですが、単に声がよいといっても、それだけで終わる場合もあります。結局、そんなことを超えてきたものしか、自分を支えていくものにはなりません。 音程、音感がよいというのは最低の条件です。英語の発音がよいなどというのも、他に誉めるところがないから言われることでしょう。 真っ当なヴォーカルの歌を聞いたときに、この人は音程がよいとかリズム感がよいということは、思い浮かびもしないはずです。そういうことを思わせるというのは、それ以外のものが伝わってこないからです。

Q.声量を上げてマイクを使わなくても歌えるようにしたいのですが。

 今はこういうことを考えなくてもよい。ポップスの場合は現場から考えることが大切です。 たとえば、キィが届かないといったらキィを下げればよい、音量が足らないといったらヴォリュームを上げればよい。 ポップスは最新の音響技術を使ってよい、時代の先端のものを全部使っていくのが、正攻法です。その上でそれを抜くのはよいのです。 なまじそこに入りもしないで抜けてしまうと、古くならざるをえない。オールディズやプレスリーを歌っていても、その時代の人に敵うはずがない。 昔ほど、声の中の勝負ではなくなってきているだけに、声として求める基準も難しくなってきています。 トレーニングの基準をクリアするためにやるのではありません。プロになりたいとか、CDデビューがしたいという人は、そういう基準でみるようにしなくてはいけません。

Q.立って呼吸練習をするときに、下腹部が出ず呼吸が入りにくいのですが。

 吐いた分しか入ってこないので、あまり無理に広げようとはしなくてもよいでしょう。 多くの質問というのは、3年、5年かけてしかできないことを、その日とか一週間くらいで、どうすればよいのかと問題にされてしまうことで生じるのです。本当は呼吸も充分に間をあけて1回のペースでやらなくてはいけないのに、2秒に1回くらいのペースでやってしまう。テキストには細かく書けないのですが、目的は体づくり、呼吸づくりなら、それを忘れないことです。

Q.発声するときに声がこもっていて、響きがなく暗い感じになるのですが、何がいけないのでしょうか。

 大半は声のことというより、その表現の意志や伝える姿勢という問題があると思います。私の声も今、響きも抑えていますが、伝える意志が強いと伝わるでしょう。その意志だけではどうにもならない部分のために、トレーニングが必要なのです。 また、調子が悪いときにボロが出ないために、体や声の最低限の条件は必要です。しかし、よりよく表現するために、伝えたいものが声で出せるかということがもっと大切です。 そういうものは歌をやっている人より、役者の方がよく見ています。

Q.滑舌が苦手なのだが。

 私は滑舌も早口ことばも、あまりやらせていません。滑舌とか発音というのは、発声の上に乗っているからです。滑舌の練習をやって早く話せても、内容が伝わりません。その意味を伝えることが大切です。その辺が実際とは違ってきます。

Q.高音域を出すときに、のどぼとけがあがったり、あごに力が入るのですが、その対処法はありますか。

 高音域の問題はとても多いのですが、それが自然に出るのであればこうやって問題にはあがってこない。高音を出そうとすれば不自然なことが起こるし、自然にやったら高音が出ない。そのときに、自然なことをとるのであれば、高いところを使わずにそこが出るまで待つ。高いところを出したいならば、不自然なことを少しでもカバーするやり方を見つける。 できるところでなければ、トレーニングというのはできないのです。できると思っているところがきちんとできていないから、できないことが生じるのです。

 普通は、歌の歌い出しやことば一つに対しても、できているものと思って先に急ぐのです。 なぜ高音域や音量が出ないという問題にいくのかというと、そうでないところはもうできていると思っているからです。そこに基準がないからです。要は、音程がとれていて、ことばがいえていたら、それでOKだと思っているのです。そうしたら、感覚の切りかえが、それよりも難しいところができなくてあたりまえです。 のどぼとけを下げたり、あごをひくのも、あまり部分的処方にならない方がよいでしょう。

Q.声量を上げるには走るのが一番よいと思うのですが、どういう走り方がよいのでしょうか。

 これはチンプンカンプンですが、声量を上げるためというよりも、プロになるためにステージを見て、明日から走らなくてはいけないと思ったのなら、よい勘をしています。そこで明日からヴォイストレーニングしなくてはいけないと思う人より鋭いです。 本当にすばらしいステージを見たときに、それは何からくるのかというと、ほとんどは、集中力の高さと、それを支えるための体力です。まずは気構えです。 それが今の若い人たちの場合、とても弱くなっています。8時間くらい立てないと、人前で5分ももたないのです。そういう毎日で体を鍛えることが本当は大切です。

Q.始めにやるレッスンは何ですか。

 一つの声をきちんと聞くということからでしょう。次に自分でイメージをして、それをきちんと出すこと。絵でいうと、デッサンの練習です。 まず自分で何を描くかというイメージが持てなければ、それは入れていくしかありません。歌というのは、表面的に歌で捉えてみても、できてきませんから、声で捉えます。 声のことは、同じように出しても真似にしかなりませんから、息で捉えます。息のことは、息は目に見えませんから、体で捉えるのです。歌やせりふとして、なされたものを体のレベルで捉えられるかどうかです。 誰かがそう出せたということは、それはその体とか息に基づいている。すると、なぜ悪かったのかとか、どこが響いたかとか、何を意図してやったらそういう声が出たのかということが、見えてくるのです。自分のことはわかりにくいものです。

Q.効果的な歌の練習は?

 VTRを撮り、それを100回くらい見てチェックするとよい。ほとんどの人が10回も見ていない。本来はそこで直すべき問題がたくさんある。本気で問題を解決しようとしたら、自分で7割くらいはできる。 自分のステージの何が悪いか、みてくれがどうなのかということは、プロと比べて見るのが一番わかりやすい。手の動きや顔の表情、厳しく比べてチェックすると自分の悪いところは、だいたいわかります。 まず100回見て、100項目チェックして、自分で直すことです。本当はそこから先をやるから、トレーニングに時間を費やす意味もあるわけです。 ビデオがあなたの先生です。ほとんどが自分が見たくないから見ない、でも客はそれを見せられるのです。声の世界でも同じで、自分が気に入らないのに人様に売ろうなんてとんでもない。そこまでのことはやっていかないと、続かなくなっていくのはあたりまえです。

Q.レッスンの心構え。

 私の基本的な考え方としては、いくつかありますが、今は必ずしもそういうわけにはいかなくなっています。もったいないと思っています。 他人のところに行くとか、誰かに習いに行くというのは、絶対にそこでなければできないことをやるために行くのです。ということは、それ以外のことはやるべきではないのです。あとは自分ですべてやらなくてはいけない。私は、そう考えています。 メニュで考える力をつけていくことが一番の勉強です。「学び方」についての本も出しました。それでも足らず「自分の歌を歌おう」という本も出しました。

Q.歌う練習には、何をやればよいですか。

 歌というのは、別に音楽がついたりバンドがついているから歌というのではない。音声で伝えたら歌と思ってください。 私は、歌った方が伝わるのあれば、歌でやればよい、歌で伝わらないのであれば、歌をやる必要がないと思っています。なぜわざわざ歌って人に迷惑をかけなくてはいけないのか、と思います。歌というのは、それだけこなせないと難しいものです。聞いている人が元気にならなくては嘘です。 本当に歌っていきたいと思うのであれば、そういうふうに考えていくとよいでしょう。誰かの歌を歌ったり、世の中で広がっている歌を歌うというより、自分にしか歌えない歌を、自分のスタイルに汲み上げていくということです。

 アイデアとかイマジネーションを膨らませ、そこでの創造作業が歌なのです。 歌に関する定義なんてあってないようなものです。外国人はしゃべっていたらそのままラップになるし、キャキャキャーといっていたらスキャットになってしまう。もちろん、音楽が入っていたらということですが。日本のように、向こうから輸入すると形から入って、楽譜通りやらなくてはいけないというものではないのです。音楽を入れる時間をとってください。

Q.僕も欧米人のように歌いたいと思っているのですが。

 彼らはステージに登場したときの雰囲気から違う。音楽が来たという感じです。こちらはイントロがならないと、音楽は始まりません。それも力です。我々の中にあるステレオタイプのイメージも含めて、すべては個人の力だと思います。

Q.音楽はいろいろと聞いていった方がよいのでしょうか。

 聞きたければ聞けばよいし、聞きたくなければ聞かなくてもよい。どれがよいとか悪いということではない。先生にいわれて、無理に聞いても意味がない。自分で自分に足らないと実感し、本当に必要性をもって、心から欲しいということで聞かないと、何にもならない。 レッスンが終わったあとに、使った曲を買って聞いている人がいる。自分でも次々に見つけていかなくてはいけない。先生が使っているからというのでは、単なる安心感です。

 常識的に考えたら、聞いた方がよいのはあたりまえです。でもそれよりも優先するべきこともあります。世界中の音楽を聞くくらいはやって欲しい。自分がやりたい分野のを徹底して聞かなくてはいけない。 自分では絶対に聞かないようなものをここでは聞いておきなさいといっています。どうせ自分でやるときには、自分のやりたいことをやるのです。漠然としているときこそ、普段やらないものを聞いておくとよい。 そういったものから得た感覚なり感触の中に、一つでも自分のこだわれるものがあったり、好きなものがあったとしたら、それは大きな発見です。あとから生きてくるということです。

 J-popをみんなと同じように聞いても、大して自慢にもなりません。たとえば50年代のどこかの音楽を全部知っているとすると、それは力になる。 自分から聞くということは、そこに何か自分の感覚がある。その感覚を見つけていったり、出会っていくということが大切なのです。 ポップスが生まれたところ、どう変わっていったかも、知っておくとよいでしょう。 音楽をやろうと思っているのは、どこかで音楽に感動し、音楽と出会ってきているのでしょうか。ステージをやりたいのに、トレーニングをしてしまうとそれを忘れてしまう。そういう毎日をもてるかということです。 自分はどうしてもこの音は放せないとか、いろんな思いが出てくる。トレーナーというのは、それをサポートする役にしか過ぎない。巷ではトレーナーに任せて、そのトレーナーの10分の1もできずに終わってしまう人ばかりです。

Q.音楽を真剣にやりたいと思っていて、楽器は少しやれるのですが、歌うことへのコンプレックスがあります。どうすれば治るでしょうか。

 楽器というのは、あるレベルのところまでは早い。そこからの音づくりが本当に才能というか、その人の中からどういう音の世界が出てくるかということになります。 歌の場合もそうかもしれませんが、少なくとも日本の歌はそういうレベルで問われているものではありません。 楽器のよいのは、自分の体の状態がどうであれ、その音を確かに出してくれることです。それに対し声とか歌の分野というのは、毎日楽器も変わります。自分のイメージを取り出すのは大変です。5年先、10年先の自分の声なんて、予想もつかない。それだけ不安定な中でトレーニングをしなくてはいけない。同時に音楽も奏でていかなくてはいけないということが一番難しいです。だから、気にしないことです。

Q.うまく歌いたい。

 なぜあんなにカラオケのチャンピォンの歌がつまらなくて、思いっきり音程を外している婆さんや爺さんの歌の方がおもしろいのかということを考えてください。ステージとしての表現力ではお年寄りの方が勝っているわけです。キンコンカンコンは、音程とリズムと声のよさなど、正しさに対してならされます。 プロではない人のは、うまい歌ほど案外とつまらない。嫌味に聞こえて、途中で切りたくなる。それは本人の得意げなところが出てしまうからです。それとプロの人が客に与えていくというスタンスとは大きく違う。 のど自慢だからそれでよいのです。しかし、それを混同しないことです。 うまい歌を目指してやっていくと、リズムと音程だけがよくて、のど自慢のチャンピオンほどにもうまくないということで終わってしまいます。

 爺さんとか婆さんとかの音程を直していったら、それなりに個性的な歌になっていく。日本の歌とか音楽というのは、かなり偏ったところで受け取られているのは確かです。 決して日本人や、その歌を貶しているわけではありません。何かを学んでいくときに、これは優れている優れていないという基準をつけないと、トレーニングが成り立たないからです。 ほとんどの場合のヴォイストレーニングに期待されることは、歌がうまくなりたいと、声がよくなりたいということです。これは基準のように見えるのですが、正しい歌い方、正しい声など、ないのです。ほとんどの人が漠然にそう思っていることです。

 皆さんにどのくらい差があるかというと大して変わらないのです。大切なのは、歌がうまくとか、声がよくなるということ以外の目的が何なのかということです☆。そこから入っていかないと、本当のヴォイストレーニングにはなっていきません。 一回地下に潜るようです。あたりまえのようにやれる人は、うまくなっていくのです。どこでも、やれる人はやれるし、やれない人はやれていないのです。【京都説明会1 01.5.19】

Q.スクールの方針とことごとくぶつかるのだが。

 そのスクールには、方針があるだけマシです。方針があるから、ぶつかれる。多くのスクールや学校は生徒とぶつかる方針さえ、出しません。ただ、それがトレーナーの独りよがりではまずいのですが……。 トレーニング同様、矛盾ということでは、矛盾していく方がよい。自分で考えるようになる。 すっきりと学びたいというのであれば、カルチャー教室のように、全12回とかでカリキュラムが組まれているところにいきましょう。

Q.1週間後に控えたライブに対しては、どういう準備をすればよいですか。

 そこでMC、曲の構成は100%考えておくことです。1週間前というのは全部出来あがって、一度、全て忘れなくてはいけません。自分がやろうと思うより、忘れることだと思います。

Q.のど仏はあまり動かない方がよいという声楽家がいたのですが、それはどうなのでしょうか。

 あまり気にしない方がよい。動くからといって固定したり、上にあがってこないようにと抑える人がいるのですが、それはやり過ぎです。私はその人なりでよいと思います。 姿勢もトレーニングのときと実際のステージとではかなり変わってきます。 のど仏も個人差がある。現実問題として考えてみると、いろんな人がいろんな使い方をしていると見た方がよいと思います。 あまり細かいことまでトレーナーに任せない方がよい。特に、本をみて受け売りの人、模索をやめた人、断言してしまう人には用心しましょう。 どうなるかは誰にもわかりません。それは自分で決めていくことです。

Q.高音になればなるほど、息を混ぜた声が出しずらくなるのですが。

 J-popの歌い手は、最近、向こうの人たちの息を混ぜた声を真似て、すごく浅い息をマイクに吹きかけています。あれは間違いとはいえないまでも、だらしなく聞こえる。でも、それで売れている。 ただし、本来トレーニングとしてやるべきものではありません。それで高音というのは出てもコントロールしづらいからです。 理想としての息を混ぜた声というのは、声の中にしぜんと息がミックスされている声です。音が高くなろうが、低くなろうが、それがそのまま変わらない。歌の表現から考えていくことです。

 ただ日本の発声法や歌唱法というのは、それをノイズとして嫌って、きれいに声のひびきをそろえる傾向があります。 だから日本の場合、使われる声がだいたい二つに分かれてしまう。それは急ぎすぎるからです。形を先に整えなくているからです。ハミングで調整しましょう。

Q.日常で話す声を低く出したり、あまり大きくは出さないのですが、それはよいですか。

 よく日常の話す声に気をつけてトレーニングをしたい、行き帰りにハミングで歌っていた方がよいですか、ウォークマンで24時間音楽を聞いていた方が、トレーニングになりますかなどと聞かれます。 本当はどれもあまりよいことではありません。のどや耳が疲れるだけです。 レッスンもトレーニングも、本当にのどや声を守ろうとしたら、すごく高いテンションが必要です。そういう高いテンションで友達と話せるかというと、日本の中では難しい。

 私も皆さんにこうやって話しているときは、テンションを落としています。プレッシャーを与えてしまうからで、大きな声で言い続けられたら、疲れるでしょう。 まして皆さんが友達と話すときに、お腹から声をしっかりと出したり、太い声やポジションなどを考えて話そうとすると変になります。会話が成立しなくなる。それがきちんとできている国であれば、こんなヴォイストレーニングの基本的な問題は、発生してこないはずです。

 私の練習に対する考え方は、テンションの下がるような練習は、害ということです。声を出すことでは、あまりそういう場を持つべきではない。またそれで練習に入るべきではない。 一番大切なことは、テンションの高いとき以外の練習を、練習と認めないこと、やらないことです。のども声も消耗品です。使うほど疲れてきます。 ステージよりも低いテンションでの練習は、意味がないと思ってよい。それであれば、ステージをやっていればよい。ステージではいろんな大切なことが入って、体や声のことに充分に専念できないから、そのために練習の意味がある☆。

 ヴォイストレーニングを始めたら、日常ではそんなに声を出すべきではない。逆にのどや声を大事にすることです。ロビーでたくさんしゃべっている人は伸びません。そこが表現の場になって、レッスンでの疲れが回復しない。電話魔も同じです。本気で自分のことをやっている人におしゃべりはいません。そこは気をつけた方がよいと思います。

Q.腹筋や背筋を鍛えるのは意味があるのでしょうか。

 これは自分で、それが必要だと感じてから初めて意味がある。 10代の頃であれば、体力づくり、筋力づくりを、優先してやっておくとよい。これを聞いておきなさいといわれて、たくさん聞いておくことも必要でしょう。 20代なら歌ということを全身で捉えらるようになることが、より優先されます☆。体力とか、集中力、腹筋とか背筋が、どんなに必要なのか、逆にどんなに欠けているのかを実感する☆。それは5時間走れるという体力ではない。体を集中して、ある一瞬に対してどう使えるかということです。 オリンピック選手などが有利だというのは、体力があるからというよりも、コンセントレーションがあるからです。そして、体で知っているからです。音楽の世界も、時間の感覚とそれに対しての体力、集中力の問題に関しては、かなり厳しいのです。

Q.自分の歌になかなか納得できない。

 ヴォイストレーニングを探し、育った人を見たが、その人自体の歌い方にも納得できませんでした。 私もかつていろんな発表会に招待されました。それだったら、教えた先生が歌った方がマシだと思ったものです。よく他の人に見せられるなと思う。一般の人に見せるには、それなりの責任が欲しい。 見にきた人の苦労さえ乗り越えていない人が歌っても、何ら伝わるのではありません。 ただ、歌というのは、さまざまな脚色の中でやられることが多いので、ごまかされてしまう。 文化というのは、一つのところに足元をつけてやっていくところからです。 日本の音楽や歌が世界で通用しないのは、そこに根付いていないからです。日本でも、まだ残っているところはあるようです。

Q.スクールで、オリジナリティが育たないのは、なぜ。

 他の国の人がそれを認めるかどうか。ロックやポップスというのは、向こうの生活から現れてきたものを輸入して作っている。それはどうであれ、レベルとして世界に出ていくのは難しい。 ただ、クラシックとか、何のジャンルでもいえることですが、国を越えてその人が認められるだけのものがあれば、どこでも通用する。それが中途半端だから一番いけないのです。 日本の場合、先生が他人のオリジナリティを認めない。先生というなら、自分でできないことができるような生徒を育てなければ、先生とは呼べないのです。

 日本では結果として自分のできることの半分とか、10分の1くらいできる人を育てようとする家元制も、師の下に弟子をつくる。そうしたら、つまらないものしか出てきません。 先生というのは先に生まれた人だから、自分を最低限として置かなくてはいけない。最低限自分の条件がある人が、100人、1000人といたら、もっといろんなことができてくると、考えるべきでしょう。 私は、よく他のトレーナーに、あなたは自分よりうまい人を一人でも育てましたかと聞きます。返事はほととんど返ってきません。 ここはいろんなアーティストは使いますが、それに似ているアーティストは認めていません。ただ、日本人の難しいのは、それをやりたいのです。誰かの歌を誰かのように歌いたい、それが目標なのです。 歌っているときには、必ず操作はかかっているのです。ただ、日本人はピアノでもムーディにとか、もっと静かにとか、そういう表現を好むのです。要はインパクトのある表現を嫌うのです☆☆。

 でも、世界でピアソラが認められたら、そういうのが芸術なんだといって、それに似たようなものも認め始める。はじめて出会ったものや、その可能性、おもしろさを正しく評価する。そういう耳ができていないのです☆。 よくここでも言っているのは、最初に自分自身で認める耳をもてということです。私が何か言うと、「僕もそう思ってました」と言う、世の中そんな人が9割です。 声や歌を聞かせようとしている時点では、まだ開放されなくて、それに何が乗っているかということが大切なのです。その世界の方をきちんと作っていくことです。その一つの現れとして、その人のバックグラウンドや奥行きのようなものが示される。そこでの勘違いが多い。どこかに正解があって、それをやっていれば歌えるようになると思っている人が多い。ほとんどの人が、なかなかそういう見方、聞き方ができていない状況です。

Q.最初の段階で主にやった方がよいトレーニングはありますか?

 これは何を目的にするのかということによっても、ずいぶん違ってくる。それぞれのキャリアでも違う。声の状態も最終的な目的によって大分違う。 ただいえることは、今できないことはできないから、今できることと思っていることが実はどんなにできていないかということを知ることです☆☆。そこからセットしていくとよい。 10代の人は、まだ何をやっていてもよいと思うのです。 声を壊そうが、のどを痛めようが、そのことでその状態を知ることができます。あまり大曲ばかりをやっていると、それの繰り返しで何も得られなくなって、何もオンしていかなくなる。 学べる環境やシステムを作っていくことが大切です。 ここでしっかりと勉強しなさいということではなくて、ここを出たあとに、自分で勉強していけるようにしておきなさいということです。【講演会 01.11.4】

Q.ヴォーカルに、向き、不向きというのはあるのですか。

 何をもって、向いている、向いていないというのかということですが、こんなことを考える人は、あまり向いていないでしょう。まして、他の人に聞いているようでは。 よく明るくて人前に出るのが好きな人でないとタレントやヴォーカルには向いていないのではないかといわれるのですが、そうでしょうか。 10代ならそうかもしれません。しかし、長くやっている人は、だいたい逆でしょう。タレントやお笑いでも、暗い人しか長続きしていません。

 面白いもので、日本のヴォーカルというのは、だいたい器用な人たちが10代のときに出ている。そこから上達しなくなる。最初、器用でうまい人というのは、あまり残っていません。 器用ですぐにできてしまうという人は、それに愛着もない。努力したこともなく、簡単にできてしまうから放り投げるのも簡単、他に面白いことがあれば他の分野にいく。歌よりもドラマ、モデルよりもタレントや女優をやる。より評価され、いろんな意味で役得のある分野に移っていく。その方が、音楽活動上も、プラスだからです。そういう意味では、一概にはいえない。

Q.初心者のレッスンや練習時間は30分くらいというのは、どうしてですか。

 何をもって練習というかということにもよります。30分の練習どころか、3分でも1分でも厳しい。 レッスンというのは、気付きにくるところです。気付きにくるということは、できていないことに気付く、何が足らないか、何が入っていないかということに気付く。そうでなければ、わざわざ習う必要はない。自分で歌っていればよい。 そういう意味では、模範的な練習というのは、今までできなかったことができることです。スポーツの世界でいうと、自己最高記録、ファインプレーが出たということです。

 そういうことを考えると、効果が顕著に出てくるのは、最初の半年くらいです。最初はやっていないのですから、あたりまえです。その先になると、そんなに自己更新記録は出なくなってきます。そこでやめる人が多い。あるいは、また次のトレーナーを捜し、その新しいやり方で喜んでやることになる。 多くの人がレッスンやトレーニングをやっていると、確実にいつまでも上達していくように思っているのですが、必ずしもそうではない。悪くなる人もたくさんいる。同じことを繰り返したり、一所懸命にやっていることで終っているのが、練習といわれていることのほとんどです。 ヴォイストレーニングでも、ヴォーカルトレーニングでも、ほとんど曲やメニュをかえて同じことを繰り返しているだけです。それはリピートで、オンしているのではないのです。

 オンすることは、自分が精一杯やることはあたりまえ、それが新たに変わっていかなくてはいけない。そうでなければ、練習というのは意味がありません。だから、目標を高く取らないと難しいのです。 たとえば、皆さんの歌でも、相手がその人に力があるかないかということは、1、2フレーズでわかる。本当に出だしの5秒でわかります。ということは、5秒で厳しい練習をしていない限り、5秒でも通用しない☆。 そう考えると、30分間きちんとした練習ができる人というのは、本当にいないものです。 普通の人の練習というのは、時計の針が30分回ったら、それで練習が終わったと思っているのです。そういうものではない。

Q.効率的なトレーニングはありますか。

 息を吐くトレーニングがベースです。効率的というよりも、息と体との結びつきをつけなければ、歌に使えることはありません。その結びつけ方というのはマニュアルとしてあるのでなく、感覚的なものです。 効率的なトレーニングと聞かれると難しい。やれた人というのは、結果として、あるレベルまでは効率をとらずに量をとっている。どれが正しくてどれが悪かったのかということもわからない。 ただ、人の10倍やっていたら、2倍くらいにはなる。人の2、3倍やったくらいでは、人並にもならない。また個人差もあります。 そういう意味で、量ということも、いい加減な目的をとってしまうと非効率になります。目的を絞りこめば、それに対して効率的なトレーニングになると思います。

Q.これだけはやらなくてはダメだというトレーニングはありますか。

 誰にも共通しているものはありません。ケースバイケースです。同じやり方で、同じ時間やりなさいということはない。 何が必要なのかといったら、そのことを知ることが必要です。自分にとって何が必要なのか、何をトレーニングとして課すことが必要なのかということです。 ただそれに対して、絶対唯一の正しいやり方があるとか、そうすれば必ずうまくいくとは誰もいえません。 結果として、誰かがそうなったとしても、それが誰でもこのようにできますという保証はできません。

 私も自分がどれだけのことをやったかということを知っています。それだけのことをやれる人が、世の中にそんなにたくさんいるとは思いません。 まずそのことが前提にある。 やれた人もいました。でもそれぞれ伸び方もやり方も違いました。 ここは、研究生全ての残したもの、プロセスでのVTRから感想文まですべて保存しています。そこで、日本人については、そのプロセスがとてもよくわかります。共通のものというのはとれない。その人が自分にあったやり方を、どう見つけていくかということになると思います。

Q.プロのヴォーカルとして必要なことは何ですか。

 いろんな面において、うまくできるのは当然ですが、それよりも、下手なことをやらないことです。 誰でも風邪をひいているとき、熱があるとき、悪いコンディションのときがある。私も同じです。私に会いにくる9割の人は一生で一回しか会わない人です。そのときに私のやったことが悪かったら、もう二度とお客さんとして来てくれません。 だから、継続的にやれている人というのは、そういうスケジュールの中で、きちんと自分をコントロールする術を持っていることです。

 月に1回ならともかく、それが毎日となると、きついものです。そういう中でやれる人しか残っていきません。 そういう感覚があり、感性が豊かで、勘が鋭くない限り、その世界では勝ち抜いていけません。 練習で9回失敗していても、本番の一回のときに必ずクリアできるという集中力と運がなければ、落ちていきます。 優秀な人はたくさんいます。しかし、それがないために落ちていった人も多い。誰でも一回しか見てくれません。その一回でできたことを実力と呼ぶ。そういう力が必要だと思います。

Q.自分がイメージしていることを体全身で表現したいのですが。

 今の時代であれば、お笑いをやればよい。歌の世界よりもお笑いの方が厳しい。そのことは、やはり歌の方が大変ということです。失敗できないということが突き付けられない世界は、却って難しいのです。 音楽は、自分でバンドを組んで、自分たちの好きなことをやって、気持ちよく歌っていたらよい。 誰かに下手だと思われてもわからない。そのため、ほとんどがレベルがあがらない。 歌の場合、表現とか舞台ということではなく、基本的にバックの人たちとの共同作業です。プロモーターとか、アレンジャーとか、いろんな人が協力してやってくれます。 ところがお笑いの場合は、一人や二人で場を作らなくてはいけません。役者などで力をつけたいのであれば、一人芝居からやると一番よい、それと同じこところだと思います。歌も、一人からスタートしてください。

Q.今から一通り終えるまでどれくらいかかりますか。

 昔、この研究所で勉強されていた、長唄の師匠に話をお願いした。 その方がいっていたことは、70歳の人は80歳の人に稽古をつけてもらい、80歳の人は人間国宝みたいな90歳の人に稽古をお願いしている。その人間国宝の人は、もう一生なければ稽古は終らないといっていたという。何をもって一通り終えたというのかということです。 今よりも歌がうまくなるといっても、それが数字として示されるのではない。自分の目的が決まらないと難しいのは、何でも同じです。2年で長いという人もいれば、2年では短いという人もいる。 こんなのは20年やってもわかりませんという人もいます。 それはその人の目的意識によって違ってきます。だから声や歌でも、自分がどのレベルを対象にやるのかということになると思います。本を一回読んで、一通りわかったともいえることですから。【京都講演会 01.11.23】

Q.大きな声を出さなくてもできる、声量を増やす練習はありますか。

 多くの人の一番の間違いは、大きな声が出すことが声量を増やすことだと思っていることです。 声量として人々が聞くのは、大きさよりもむしろ鋭さであり、そこでのヴォリューム感です。イメージ構成なのです。声を大きく出すのでは応援団と同じです。野球などのスポーツの応援にいけばよい。それは音楽的には反映しない。 たとえば、ピアニストで指の力が強いからといって、ピアノの演奏に大きさやヴォリューム感が聞えてくるかというと、決してそうではありません。まして、でかいピアノならダイナミックになるわけではない。

 マイクのヴォリュームを最大に上げたとしても、声の感覚がきちんと統制されていなければ、うるさいだけです。 次に、大きな声を出すと大きな声が出るようになるというのも、人と段階によります。原則として、急いではいけません。 私は練習の中において、声量を増やすこと自体が目的の練習は用心すべきという考え方です。結果として、体と音の原理に基づいて、声量として出てくる、遠くまで伝わる声と、普通の人が考えるような、体を使って大きな声を出すというイメージには大きな違いがあります。遠くまで届く声と、大きな声は違う。 それがポップスのヴォーカルにどのくらい必要かというと、人にもよります。それは自分の判断で決めることですが、呼吸、体づくり、そしてイメージづくりの方が大切です。

Q.息を吐き切る練習で、肩の回りに力が入ってしまうのですが、力が入らないためにはどうすればよいですか。

 トレーニングというのは、必ず何かの目的のために、何かを犠牲にしなくてはいけない。その悪い分は最小限にくいとめる。そのためにどうそれているかは知っておくことです。 たとえば、初心者が思いっきり息を吐き切ろうとして、力が入る。力が入らないことを目的にするためには、別のトレーニングが必要です。そこにメニュを作ればよいのです。 多くの人は、トレーニングというのは一つのパターンしかなくて、そのことで全部できなくてはいけないと思っている、それは違います☆。 無意識でトータル的に力が働くのが、ステージで望まれることです。 トレーニングはそこでできないことをやるのですから、無理がかかる。トレーニングは補強であって、トレーニングのためのトレーニングではありません。 柔軟や首、肩の運動を入れましょう。目的に合わせ、トレーニングをいろいろとセットしていくことです。

Q.声を出す練習のときに、それが正しいのかどうかその都度、指摘して欲しいのですが☆。

 あなたの中にイメージがなければ難しいと思います。 仮に素振りを何万回やっても、プロのバッターにはなれません。そこでどういうことが行なわれているかを体で知らないのに、その感覚が入ってくることはありません。 たとえば、F1のレーサーになろうと思って、自動車教習所に10年間通っても、絶対になれないのと同じです。それが結果として、どういうふうに使われるかという感覚が入っていないのに、体を鍛えても、効果が出ない。もし、それでやるとすれば、10代まででしょう。 まだ何もわからない幼少の頃からやっていると、そういうふうに体は変わっていく。それでも単に振っていればよいということはなくて、要は勘や筋です。

 つまり、どういう球がきて、どういうふうに打つのか、というイメージが必要です。単にボールを当てるのではなく、自分の力が一番発揮できるところにポイントを絞ってやることです。 それが正しいかどうかということを、いちいち指摘しても、その都度、力が入ったり、動きが止まる。習字で1枚1枚、横であれこれ言われてうまくできますか。 高度の身体感覚は、静かにまわりの空気とさえ同化した状態で神経をとがらせ、自分の呼吸、声と会話しなくてはいけないのです。つまり、何もできていない段階では、素振りそのものが正しいか、正しくないかということは、まだ問題ではない。 声に取り出すときに、その声についての判断はできるが、それは皆さんでも判断できる。その人の基準の取り方の深さなのです。まず、出した声へ自覚が必要なのです。自覚のための指摘は、すればよいというものでありません。大体トレーナーのイメージで歪められがちです。自分でつかんでいくことです。

Q.自己流でやっているのですが、基本のことも必要でしょうか。

 ロックもポップスも、自己流で歌っていてよいでしょう。ただ、すぐれたものにしたいのなら、その判断の深さがどこにあるのかという問題なのです。 自分の目的に対して足らないことを自分で把握して、それを補う、この一連の流れに疑問が出たら、他人の経験に学ぶ。 つまり、よいイメージが喚起できない、そのイメージに声が対応できない、多くの人はこれを声の問題と思っていますが、だいたいイメージの問題です。

 CDの聞き方一つでも、その人の世界観になってくる。 先生がこの曲はよいから、こう聞きなさいというのは、一つのタッチです。

 先生以上にそこに感じるものがなければ、その曲はその人にとって、身にならない。今のレベルではあまり必要がない。聞く感覚をきちんとつけていくことが、大切なことです。 基本は何のためにやるのでしょう。自分がうまく応用できない、自由に気持ちの通りに表現できない場合に、そこで何かが足らないということを知ったときに、初めて基本の必要性が出てくるのです。 10代は時間がたっぷりあります。心や表現といってもよくわからないので、型から覚えていくということも一つの方法です。同じことを繰り返している中で、これはよいとか、ダメという実感を厳しく得ていくのです。

 ところがそういう時期を過ぎてしまうと、そこから基本をやっても意味がないということより、全部の基本をやっても、何もならない場合もある。 その人が基本の定義をどこにおくかという問題になるのですが、私がいっている基本とは、再現できる力と、柔軟力もしくは応用力に富んでいるということです。 自分が好き勝手歌っていて、なぜうまくならないのかというと、好き勝手に歌うというのは、自分が決めつけてこうやればよいと思ってやるからです。何万人に一人の優れた人でもない限り、誰がどうやってもうまくいかない。あなたがそれでよいということでも、たぶん成り立たないのです。人に対して成り立たないということです(しかし、何千人に一人、それで成り立つ人もいるのも確かです)。

 自分に対しては、身内や友達の中ではよいかもしれません。しかし、自分が日本一うまくできているのかという現実をみればよいのです。 こういう世界は、何を表現にするのかということで、大きく違ってくる。そこが難しい。 ヴォーカルが難しいのは、総合力で問われていく世界で、声がよい、歌がうまいのも一つの条件にすぎないからです。 そういう人が必ずしもプロとして向いているわけではない。現実を見ても、プロの要素はみんなもっています。声が出ていなくても、歌がへたでもやれている人もいる。プロの資質は別にある。たとえば、欲です。

 人間の世界は相対的なものです。自分がより感覚の優れた人とやるときにできないとか、何かが足りないと思ったときには、そこで何らかの補助的な手段をとればよいと思います。 ただ、基本というのは、私は絶対的なもの、他人との優劣の差よりも、ずっと大きなものに対して究めていくものと思っています。 何にしろ自分が徹底して必要だと思わない限り、やっても意味がない。学校にいって、こんなことやってもつまらないと思って基本らしいことをやっているつもりでも、結果として時間とお金の無駄、機会損失です。 本当に優れたい人は、どんなに基本が大事かがわかるからやる。その大切さが自分になければ、空回りになります。でも、本当の基本を身につけている人は、驚くほどいないのです。

Q.「は行」の発音が悪いのですが、それは正した方がよいのでしょうか。

 スポーツなら、体の原理において正していきますが、歌においての発音というのは、一つの要素にしか過ぎません。 音響技術が発達していますから、そこで直すこともできる。そうなると、何を優先するかということになってきます。 自分の歌い方でやってもよいのですが、基本からいうと、何事もできないよりはできた方がよいという考え方をしています。 あなたのいっていることは応用の問題です。それを正すことによって何が失われ、正すことによって何を得られるかということです。

 それを正そうが正すまいが、歌として成り立っていたら通じるし、そうでなければ通じないのです。 歌はその人の世界になってくる。その人が何をとるかということになる。本当に深くて、自分のオリジナルなものというのは、簡単に世の中には理解されないし、普通の人には受けが悪くて認められにくいものです。正した方がよいが、「は行」としての発音として正さなくても、直ってくるのを待つのが私のやり方です。

Q.緊張すると、声が細く高くなってしまうのですが、それはヴォイストレーニングで直りますか。

 誰でも緊張はするものですから、それが状態に表われたら、だめということではありません。しかし、それで何かがうまくいかないなら戻せるようになりましょう。 自分の中で自覚できることと、修正できることが大切です。 それはヴォイストレーニングでやっていくというよりも、お客さんにわからないレベルで処理できればよい。 緊張しない人ほどろくな演奏はできませんから、そのときに体の状態が変わってしまうことが問題です。緊張すると、体とかのどの状態が変わってしまうくらいにしか、体のことを理解していないし、鍛えていないということ、そこを鍛えていくことです。

Q.声を色っぽくしていくためにはどうすればよいですか。

 歌い手でも、色気がないとやっていけないといわれています。日本の場合はそうでない人もたくさんいます。難しいのは、そういう色気というものは、声そのものといっても、その人の思想、考え方、生きていることに出てくる。歌というよりもむしろステージングの問題になってくる。気分を出さなくてはいけない。 音楽的にそれをもっていくということはできると思います。小さい子でも、色気のある子はいるし、ちょっとしたニュアンスとか、ためで出せる。声に色気がある人もいる。その置き方が人の心に残るものを出していく。

 10代でそれを出せる人たちは、小さい頃からそういうことをやってきているのか、天性、しぜんのもの、声質がそうなのでしょう。しぜんに人の心を動かすものを感知して、出せてしまう人もいるのです。 それを勉強としてやっていく方法はあるかというと、歌の技術としてはあると思います。でもそれは出そうと思って出せるわけではない。結局その人がそういうふうな生き方とか、考え方をしていなければ、やっても通用しないと思います。そういうものはかなり主観的なもので、誰かはそこに感じ、他の人は感じないという場合もある。ヒットしたり、ポピュラーになってくるものは、そういう要素が共通してよい方にあると思います。

Q.ことばには、その人の人間性が見えるものですか。

 あなたが思うように思えばよいでしょう。ことばも声も、その人の精神性は出てくる。それは顔つきや姿勢とか態度にも表れてくる。 でもプロの世界でいうと、内実はどちらでもよいこと、その人の人間性がよいから歌が優れるということではありません。 歌や小説や絵など、芸は作品として評価されるべきです。悪い人よりもよい人がよいということではない。 犯罪者でも作品が優れていればよい。これが、アートの独立性です。

 ただ、その逆は成り立たない。人間性が優れていても、歌はへた、声も出ないとなると、その世界ではできないでしょう。 虚構の中のリアリティを演じればよい。その人がどうであろうと、その役ができればよい。 ただ、どんなに作ってみても、隠せないものは出てくる。仮に活字であっても、それが浅いものか、深いものかということは、より上のレベルの人たちにはわかる。 でも今の歌の世界では、深いからよいとか、浅いからいけないということはありません。【講演会 01.12.2】