会報バックナンバーVol.163/2005.01

 


ブレスヴォイストレーニング理論>


Q.高い声は、強い体や、強い息で出るものなのでしょうか。

A.ブレスヴォイストレーニングは、歌唱発声以前の、日本人の声を外国人並みに使えるように基礎の基礎として位置づけたものです。それゆえ、役者とか声優などにも効果を出しているのです。 つまり、ここで述べる高い声とは、日常範囲内のものです(といっても私個人は1オクターブくらいまで同じように出します)。 ブレスヴォイストレーニングは、半オクターブ完成してきたら、1オクターブ半歌えるから、1オクターブを優先させなさいといっています。これは、ことばして使われるとき、半オクターブくらいだからです。1オクターブ以上の高音、ハイトーンは、個人差があるので詳細には述べていません。

 また本やネットでは、読者などで誰がどう使うかわからないため、安全を考えて、それが伝えられる限度と私が思っているからです。 日常での高い声は、歌では、中音域といわれるところにあたります。それゆえ、ブレスヴォイストレーニングについての本では、ハイトーン、ファルセットなど、あるいは声区のチェンジについて、細かな言及は避けています。 大きな声や高い声(低い声)は、生まれつきの条件(声帯や体)なども含め、一人ひとり違うものを考慮しなくてはいけないので、簡単には答えられません。

 そこで私は、声の基礎づくりに対し、歌は応用と位置づけてきました。 つまり、ブレスヴォイストレーニングの本質は、日常レベルの発声における鍛錬なのです。男性で女性の声は出せなくはありませんが、ソプラニスタでもなければ、多くの人のベースの目標にはならないということです。

P.S. 余談ですが、たとえばロックに言及していないヴォーカルの本でも「ロックヴォーカル基本講座」とタイトルがつけられて売られたものもあります。もちろん、この場合のロックは、私の意味する“精神的な”革命だったのであり、ロックボーカルのハイトーンの発声のコピー法などという定義しようもないものは入れていません。日本人には、有名なロックヴォーカリストのようになれる本ととられてしまったようです。

(多くの方が誤解されてますが、タイトルは著者でなく、出版社の編集部や営業部がつけるものです。一応、著書に了承の形はとるのですが、なかには全く聞いていなかったタイトルで売られたものもあります。いきなり発売前に変わるのもあります。拙書の「人に好かれる声になる」は、原稿があがるまで、依頼時に示された「パワーヴォイスの秘密」で書いてました。)

Q.「ハイ」のトレーニングは、のどを痛めるのではないか?

A.何を使うかでなく、やり方によって、どんなことばもよいトレーニングになるし、のどを痛める危険性もあるのです。 そのやり方は、文章で正しく伝えるには限度があります。「ハイ」のトレーニングの是非でなく、その人に必要かということと、必要ならどうやっているかということになるのです。 通っていてさえ、全く違うやり方でやっている人もいるのです。それも、是認しています。養成所とは、自らの可能性=オリジナリティの実験場と思うからです。 たしかに「はい」の「H」は、英語などではベースなのですが、日本人は使いにくいものです。だから無理に力で出してはいけません。 狙いは、息を強化することと音色や声の深さにあるのです。歌唱のもっと基礎、もしくは役者のトレーニングと捉えてください。歌のなかで“Hai”というのは、使えるでしょう。だから、このことば自体に間違いはないのです。(いつか、詳細は説明します)

Q.お腹を固くして出すのは、おかしいのでは?

A.丹田呼吸ということで、そのように捉えている人もいます。目的によっては有効なこともあるでしょう。おかしいと思ったら、やらなければよいのです。 ついでなので、少し詳細に述べておきます。

○常識を知り、それを超える

 ブレスヴォイストレーニングでは、高い=強い息を使うという、日常での声の常識からスタートしています。 もちろん、高音域発声は、音からいうと周波数が高ければよいのであり、そのために声帯や共鳴器官をどのようにするかという音声生理学などの考え方を無視しているわけではありません。 そこにおいては、強い体も、強い息も、力も不要です。単に高く高く音を出すなら、ファルセットでわかるように、声帯のヘリ(仮声帯)での使われ方によるのです。どんな人も、単に高いだけなら、かなりの高さまで出せます。裏声で「ラリホー」といってみてください。

 私自身は、J-popの声(発声?)をも“しぜん”と認め(拙書「自分の歌を歌おう」参照のこと)、音の高さを相変わらず音程といってはばからない専門家に苦笑しつつ、でも、ここまで皆に間違って使われたら、もう音の高さを日本では音程と呼んだらいい……と思っているくらいに、現実に寛容、寛大、柔軟であるつもりです。 なぜなら、科学や理論で解明されたことを、すべて信じていないし、大して重要視していないからです。(これはまた後にくつがえされることもよくある。私が、後で間違ったと思ったところは、ほとんど専門家といわれる人の本から引用したところであった。) 一般の人の声帯は、こういう声だと音声医がみたらおよそあたるのですが、一流のプロのなかには決してそれでは出ないはずの声を出していることもあります(そうでなければ、ヴォイストレーナーは皆、ヴォイストレーニングを声帯の検査から始めるべきです)。

 また、現実には、半年安静と手術された歌手が、2週間後には、前と変わらぬレベルで歌っていることも、珍しいことではありません。 つまり私は、現実、現場に対応してきた者として、そこで磨いてきた自らの感覚を最重要視しています(その経験をプロとも素人とも積んできています)。 音声学も歌唱法も発展してきたのは確かとしても、必ずしも実績となっていません。そのことより、そんなものを読んで理屈で考えたくなる人が多くなると、本などがたくさん発売されるというだけのことでしょう。何ら確認され、確信できるものでないのです。

 スポーツと違い、変わってきたが、進歩してきたといえないのは、現状の歌手のレベルからも明らかです。 私は、自分の勘を信じつつ、それにすべてを頼ることなく、世界中をまわり、専門家と会い、書物を読み、それより多くのすぐれた実践家と会い、確かめてきました。他の人よりも自分の声や自分の歌を盲目的に信じ切らなかったところに、妄信的にヴォーカリストよりも批評家精神が強かったのでしょう。自らの声を研鑽した経験を第一に、常に今の声をも確かめながらやっています。それでも試行錯誤なのです。 その上で、独りよがりであってはいけないと、声の分析の専門家(科学者、医者など)とも共同研究を長く行なっています。

 こんなことはどうでもよいのですが、この日本という国は、ノーベル賞でもとらない限り、独創的な発想や研究は、そのまわりの人たちにつぶされていきます。 私は、その状況を知った上で、新たに仮説として提唱し実践し、日々新たなる研究者などの実績などと検証をしています。 ところが、それを私のやる前、つまり30年以上まえにでも知られていたことをもって、是非を論じる人たちの勉強不足というか、机上の理論には、後進情けなしと心配します。こういう人は、簡単なことを難しく用語のオンパレードで述べるから、すぐわかります。研究が好きなのです。 時代に逆行しても仕方ありません。 机上で、あるいは自分の身にしか効果を出していない人の言説は、他人には不要です。 もう昔の人や海外の人の理論に頼らず、実践して実効をあげる段階でしょう。新たなる創造において時代は切り拓かれるのですから。 ということで、私の“今”の感覚で述べていきたく存じます(これに理論や実践や知識が追いつくのは、今までの経験では5〜10年後ですが……)。

○感覚の切り替え

 1オクターブの中での、ブレスヴォイストレーニングの目的の第一は、まずは感覚の切りかえです。 これまで音として発されてきたところを、音の流れ、メロディでしか聞かなかった耳を、音色とフレーズ(リズムグルーヴ、強弱リズム中心)で捉えていこうとするものです。 音声表現である以上、言語から入る方がわかりやすいからです。  第二に、表現と絶対に切りはなさないこと。  第三に、創造性。  第四に、オリジナリティ。  第五に、音楽性(ヴォーカルの場合)です。

○新たな朗読法

 知人の渡辺知明氏は、表現読みで1オクターブ上での声を折りまぜての使い方を朗読に活かされています。“しぜんに”伝わることのダイナミックさ、テンションを失わない、形にとらわれない新たな朗読の実践法です。P.S. 歌は、すべてがとはいえませんが、日常の声の使い方の延長にあります。それゆえ、1オクターブ半で充分、最高100ホーン(これはテノールで特別の場合)以上の声などいらない。仮に世界中で5〜6オクターブ必要とする歌ばかりヒットするような日がきたら、私は自分の非を認め、潔く退くでしょう。

 つまり、生活言語において、感情の高まりは強い声=高い声=たくさんの息、もしくは強い息=体を使うこと、によって表現されてきました。それを歌声というのは別にあると考えたところに日本人の飛躍があります。(むしろ、歌声として、言語と別の表現形態、鼻歌とか溜息、叫び、呼びかけの延長上に生じたものとしては、あるのでしょう。ヨーデルやソプラノなど。これはこれでよいのですが、ポップスにおいては主ではない。)

○のどは必ずしも鍛えられない

 こうなると、日本人のなかでのよい声として、多くの人が認めるのは役者声に近いといえます。かつて役者のトレーニングは大声でせりふを言うことで行なわれてきました。つまり、大声でせりふを言っているうちに、言えるようになるなら、そのようにトレーニングしようというのです。 それは、まず舞台で大きな声が必要とされたという、声楽にも似た事情がありました。 「のどを鍛えるもの」といって、トレーニングでのどを壊しても、それにより鍛えられると考えたのです。

 今は、こういう考え方は否定的されています。しかし、何事にもすべて否定できないものでもあるのです。 10年かけて日常でそのように生きた人は、トレーニングなしで、できるようになっている。ここが、声の難しいところです。さらに、同じ条件下で、やれる人もやれない人もいるのも確かなのです。 つまり、声を壊して鍛えられた人もいたが、壊したままの人もたくさんいた、ということです。こういうリスクがあるのは、人によっては、やってはいけない方法ともいえるわけです。つまり、自分を知ってはじめて、生かせるのです。

 ただ、ここで間違ってはいけないのは、大声を出してトレーニングすることでなく、大声が出せるようになるという結果が重要ということです。 厳密にいうと、大声が出せる体や発声コントロール力をつける目的の結果、大声も出せるようになったということで、大声が出なくても構わないのです。 つまり、大声が出せるようになること(目的)に、大声を出す(トレーニング)が、ふさわしいかが、検証されていない。さらに今は、大声を出せることが目的として必要かということも疑うべきでしょう。

 私は、歌を歌うためには、大声を必要とは思いません。ただ、ヴォイストレーニングによって、かなりそのようなことも可能となるのは確かですから、副次的産物(効果)としてみています。(この大声と声量というのも、きちんと定義しなくては、初心者を迷わしてしまいます。) 大声や高い声を出さないとわからせられないトレーナーは、二流、声の基本がきちんとできていたら、最小の声にて違いもわかるはずでしょう。

○「ハイ」の目的

 「ハイ」のトレーニングは、  1.声を認識し、  2.正しく動かし、  3.それで感覚を知り、  4.体を対応させ、  5.イメージを養い、  6.感覚を深め(磨き)、  7.体をつくり(鍛え)、  8.さらに対応力をつけていく。 つまり、いかに繊細に柔軟に声を扱えるかという目的に対して、おいています。 そして、さらにそこには、歌のイメージづくりの問題が、大きくあります。 歌という音楽を指導するのに最も必要なのは、イメージ、イマジネーションです。大きな声、高い声を、これよりも絶対視すると誤ります。

○ボイストレーナーの能力

 私の能力は、きっと耳の力、つまり声で音楽たるものの成り立つイメージを構築し、そこから判断できることです。その上で、自らの声も磨かれてきたからです。 だから、プロの方が、私の耳と音楽の判断力を頼ってこらます。 私よりベテランの方、何十年も舞台をやられた方やミリオンセラーのヴォーカリスト、ジロー、銀巴里などに出ていた人、邦楽の名手など、私が代わって、その活動をやれといわれても無理なレベルの方も実績のある方も、ここにくる。そういう人は、自分の歌や、そのなかでの自分の発声でないものを、もっとベースに求めていらっしゃるのです。

 トレーナーは、磨かれた鏡であればよいのです。面がゆがんだり、曇っては困ります。 歌うなら歌手に、語るなら役者に、専念すべきです。 何よりも、大きい声、高い声だけしかとりえのない見本をまねさせる愚をおかさないようにすることです。ここは、範例のある声楽家とはもっとも異なるところですが、声楽も進歩しないのは、日本ではまねさせているからではないでしょうか※。

Q.共鳴について。歌うときに、胸の真ん中と軟口蓋を意識してひびかせるのか、それとも眉間にひびかせて意識して歌うのがよいのか知りたい。

A.教科書的に答えるなら、低い声は胸声、高い声は頭声で、眉間や頬骨などを意識してくださいということです。 でも現実面、相手の状態をみないで与えるアドバイスは一般論にすぎず、すべて有効なのは各論(各個人の各問題に対する各対処法)でしかないことを知っておくとよいでしょう。

○声楽の限界

 まず第一段階として、この質問に対して、体(発声原理)に基づいた回答でよいのか、どうかです。 ポップスのヴォーカルや役者にとってのめざす声のイメージは、このような質問のベースとなっているクラシックと異なるものであることが多いのです。 つまり、その人の目標として、何をめざすのかから、切って切り離せないのです。 ところが本による独学やヴォイストレーニングによって、多くの勘違いが生じます。 軟口蓋、眉間にひびかすなどということばは、声楽家やその本から得た受け売りです。それに従って学ぶこと自体が、目標においては、正しくないこともあります。つまり、こういうステレオタイプから、世界的な一流ポップス歌手も、あるいはB'zやサザンオールスターズの桑田佳祐も生まれ得ないということです。 次に、主として声楽家の述べるこういうことばがどのくらい妥当性があるかということです。つまり、どこかにひびくという感覚を、どう認知したかということでの問題です。 同じ発声でも、個人によって認知の仕方は違います。それを頭のてっぺんと思う人も眉間と思う人もいる。それを自分のトレーナーの指摘することばで覚えるからです。そのように、多くは同じことばが使われながら、やられていることが全く違うケースは、少なくありません。

○独学とトレーナーの限界

 私の本を読んだ人の多くも同じです。レベルが違うのならまだよいのですが、明らかな方向違いも多いです。それが本で独学するときの限界です。 つまり、そこで受け手の才能ともいえるレベルの高さが問われてしまう(これはあくまで、キャリアでなく、才能、勘のようなものです)。つまり、自分が進歩したければ、この勘を磨くためにレッスンすると考えるべきです。 それを文字からつかめるレベルでは、90パーセントは間違うか、とても甘い基準で勘違いしています。その結果は、何年か後でないと言えないのですが。 まして、トレーナーからそう言われると、疑いもせずそう思い込む、この積み重ね、師→弟子→弟子の実体を伴わないことばだけの口移しの伝達が、真実の成果を損ねていきます。

 たとえば、舌の使い方について。舌が長くて柔らかい人と、舌の短くて固い人なら、発声時に比較的のどの奥がしぜんとあく人と、逆に狭くなる人では? アドバイスも変わってきます。 まして右すぎたのを左にいかせようとトレーナーがしているのを、他のトレーナーがみたら、一時、左にいきすぎているから右へ戻しなさいとなるでしょう。 目標とともに完成した声のイメージも、それぞれのトレーナーで違う。さらに同じ完成のイメージの声であっても、それに至らせるプロセスや優先順位や方法は、人によって違う。それゆえ、どのトレーナーも、他のトレーナーの指導を受けた人や、レッスンを併行している人を好みません。

 しかし、私などは、この少し考えたらわかりきったことに、トレーナーが甘えていることの自覚がないことの問題の方が大きいと思うのです。 トレーナーの好みでヴォーカリストがつくられるのではない。トレーナーは、第一に最高の耳をもった最良の客であるべきだからです。日本では、プロデューサーの耳の方がまだ、的確といえるようです。他のところで応用できないなら、基本の力がついたとはいえません。

○ことばの限界

 ことばと実際のやれている状態がどこまで対応しているかということになると、文面でのやりとりは、およそ無効です。 たとえばこの場合、この二つの発声をきちんと高度なレベルで区分けして、できているなら、使い分けたらよいだけです。どう活かせばよいのかがわからないなら、どちらかというと自分の歌のイメージの不足なのです。あなたのなかで、どちらがひびいていようと、そんなことは歌という作品には関係ありません。トレーニングの渦中では、これがわからなくなる。それどころか、トレーナーが生徒以上に盲目的にそうしていくことが多いのです。つまり、トレーナーこそがその距離をしっかりとみつめ、後日、しぜんに戻るように、みていなくてはいけないのです。ここを勘違いするから、歌=トレーニングなどという安易なレベルで、レッスンが使われてしまうのです。くれぐれも、本当のトレーニングは次のようなものだと思ってください。

 1.すぐに役立たない。  2.歌やせりふに必要なことと正反対のこと。  3.よりきめ細かく、繊細に声を扱う。 ウォーミングアップは、その逆です。  1.すぐ役立つこと。  2.必要なこと。  3.より広めの音域や声量にて。 つまり、まとめやすくしておくのです。これは、私の持論、くり返し述べてきたことに基づきます。トレーニングとは、  1.意識的に  2.部分的に  3.強化するための必要悪で、不しぜん、つまり中心から目的に応じて離れたところを鍛える(負荷トレーニング)です。

[EX.スポーツにおける腕立てふせ] 歌は、結果オーライ、  1.無意識に  2.全体的に  3.調整されて出てくる、しぜんをよしとする。 これは、歌唱のイメージの問題、つまり、先に述べた最初の段階の問題になるのです。何よりも「発声やひびきから歌うのではない」ということがわかっていません。問われることは、人の心を揺さぶる表現がどう生じているかということです。たぶん、どちらもそうなっていないから、意味ないのです。

 私は「迷わない声でも間違っていることが多いのに、本人が迷うようなら、すべて違うと思った方がよい」と思っています。ここで述べたことは、声楽家やヴォイストレーナーのやり方を否定しているのではありません。レッスンもトレーニングも、必要悪である観点から、マニュアルやノウハウの限界について述べたものです。 医者と声楽家の共同研究である「発声のメカニズム」(音楽之友社)で裏づける記述を引用しておきます。この本は、日本人とイタリア人の楽器(生まれつき)や声の使い方(育ち方)の違いを前提に、トレーニング方法を声楽家のイタリア留学経験と、医者の科学的な所見、検査の目から、メスを入れた画期的な本です。私の立場や述べてきたこととも酷似しており、ありがたい本です。 日本人の声楽家やヴォイストレーナーからは認めがたい本かもしれませんが、私はほぼ、肯定できます。(もちろん、新しい本、仮説は従来の研究の末、常識化したことへの模擬や否定であればこそ、価値も大きいのであり、その検証というのは、また別ですが)

【参考資料】

○これは、シャワーを浴びているとシャワーカーテンがシャワーの流れる気流になびいてきて体にくっつく原理=ベルヌーイ効果で説明できます。

○1)声の高さを決定する要素A)あなたの声帯は高い声向き? 低い声向き?  声帯の重さが声の高低を決定するといわれています。軽い声帯は高い声に、重い声帯は低い声に、適しているといえます。

○B)喉の開け方 喉の開け方にはいくつかのパターンがあり、この詳しい内容はフレデリック・フースラーとイヴォンヌ・ロッド=マーリングの『うたうこと』(音楽之友社、1987年)にわかりやすく書かれています。これをもとに、大まかに声の出し方を2通りに分けて考えてみましょう。 その2通りとは、「喉を狭めて声を出す方法」と「喉を広げて声を出す方法」です。イ)喉を狭めて声を出す方法=標準的日本人(※1)が普通に出す声 歌謡曲やミュージカルなど、語りと同じ感覚で歌声を出すと、声が“前歯に当たる”感じになります。これはフースラーのアンザッツ(※2)I型に相当しますが、喉はやや上がり気味で狭くなります。原著では「白い声」と表現され、下あごは上げ気味になって、浅く平たい印象を与える声が出ます。口は横に開く感じです。ロ)喉を広げて声を出す方法=欧米人的(イタリア人的)な声 日本人でも、少ないながらこのような声を普段から出している人もいます。声が“胸に当たる”もしくは“うなじに当たる”感じで、フースラーのアンザッツII型とVI型が、それぞれに相当し、深みのある、歌唱では丸い感じの声になります。喉は下がって広くなり、下あごが下方に開いて首と近づきます。口は縦に開く感じです。※1:この本では「鼻腔共鳴の強い声」を「標準的日本人」と捉えて話を進めてきました。(以下略 P98あとがきより)※2:Ansatz<ansetzen「当てる」という意味のドイツ語からの派生語。日本語では「声の当て場所」「声の当て方」に相当する。

○アンザッツI型は「白い声」と表現され、あまり良い発声ととらえられていないようですが、感覚的には自分の声を「前歯」に当てて発声する方法です。この場合、喉頭は狭く高い位置にあって、声帯には負担のかかる発声法であるといえるでしょう。一方のアンザッツII型の発声は「明るいイタリア的な発声」と表現されるものですが、感覚的には自分の声を胸に感じる発声法です。喉頭は広く低い位置に保たれます。喉頭の空間を広く保っているため、広がりのある声を出すことができ、しかも声帯には負担が少ない方法といえるでしょう。

 日本ではよく「頭から声を出しなさい」「笑ったように頬を上げて声を出しなさい「のどちんこを上げて大きい口を開けて声を出しなさい」などと指導されることが多いと思います。これは鼻腔に声を共鳴させて声に明るさを持たせる意味がありますが、この場合“喉を開ける(広げる)”ことを意識しないで発声すると、アンザッツのI型の発声となります。このような発声が好まれる音楽もありますし、日本人には親しみやすい声ととらえることもできます。しかしこの発声法は声帯に負担をかける危険性もはらんでいます。私の印象ではテノールの歌手がこの発声で歌うと、日本の聴衆の場合受けが良いこともあります。そのせいか、私のところに来るテノールの歌手たちは喉頭が割と狭く、診察時に声帯は見えにくい状態になっています。声のパートと喉の広がりは必ずしも一致するものではないはずですが、おおむねテノールは喉が狭く、バリトン、バスと進むにつれ喉が広い傾向にあります。(※2=22ページ図1-2-3参照)

○従来行なわれてきた「頭から声を出す」「顔に声を持ってくる」「軟口蓋を上げて声を出す」「頬を上げて笑ったような顔で声を出す」「重心を前にかける姿勢で歌う」などの常識的に正しいといわれている方法は、日本人によく見られる、いわゆる喉を狭くして発声するという習慣が、より強調されてしまう場合があります。

○このような事実が声に影響をもたらしているのです。ですから、良い声を手に入れるには、まず暗く、深く、丸く声を出すように注意していただきたいと思います。

○2)喉の位置とあごの関係 「上あごを開けて」あるいは「上あごを開ける感じで口を開けるように」とレッスンなどで言われた経験のある読者がいることでしょう。しかしよく考えてみると、上あごは頭蓋骨と一体化しているため、実際には開かないものなのです。ただ確かに上あごを開けるような感覚で口を開けると、鼻腔を意識しやすくはなります。「目の後ろを開けて」「額から糸を引くように」「頭の中を広く」「頭の中で回して」「軟口蓋を上げて」など、とにかく鼻腔共鳴を手に入れるための表現方法にはいろいろな言われ方があり、どれもが当たっているようですがよく理解できません。 しかし日本人は鼻腔共鳴を多く伴って会話をする人が多いので(次項「マスケラの誤解」参照)、ことさらこだわる必要もないと思いますし、鼻腔共鳴を追求するあまり、喉が上がって詰めてしまっているのでは、上達の妨げになってしまいます。

○イタリアでのレッスンの折、ボローニ先生からよく「マスケラ」と注意されました。そのたびに鼻腔を意識して歌いましたが、マエストラからは「大変良い。でも少し違う」と言われます。それである日、思うところがあってまったく逆のことをやってみました。「マスケラ」と言われるたびに、声を体の中にしまいこむように歌ってみたのです。当然、声は顔から離れて首の中へ。首の後ろや背中といった所から出てくる感覚になります。自分の声が耳の後ろから聞こえるような感覚で声を出したら「そう! それよ! 見つけたじゃない! それがマスケラよ!」。 その時、鼻腔を意識するより、喉の位置を低く保って声を出せば、マエストラの言うマスケラに当たった声(鼻腔共鳴の強い声」を実現させうることがわかりました。しかしそれはそれまでに考え、感じ、実践してきたこととはあまりに距離があって、とまどったことは言うまでもありません。口は両鎖骨の中央のくぼんだ所に、声帯は胸骨の中央にあるような感覚で、そこに声をじっと保ったまま出す感じです。「胸からまっすぐに声を出す」と言ったらいいでしょうか。ですから顔に声が当たる感覚はまるでなく、決して首から上に声があることはありません。声が横隔膜に跳ね返って出るような、体中が共鳴体になっているような状態、まるで首なし人間にでもなったような感覚です。

○4)「笑い顔発声」の罪 ところで、顔の筋肉は首の筋肉などともつながっているわけですが、頬の筋肉を上げると首全体の筋肉も上がるので、当然喉も上がることになります。それに悲しい内容の歌を歌うとき、笑った表情で歌うのは無理があろうというものです。喉の周り、とりわけ首の筋肉が緊張していては良い声は出せません。顔の筋肉だって同じことなのです。ぼんやりした表情で下あごを斜め後方に開けると、顔の筋肉は緊張しなくなりますし、喉をリラックスして声を出すことができます(リラックス感を会得するには時間を要しますが)。

○★Dr.萩野の見解

 私たちの提案する声づくりの第2段階では、横隔膜でしっかり支える呼気をマスターします(第4章を参考にしてください)。そして、この支えのある呼気で広がった喉を使って発声する感覚を覚えます。 この段階では、まだ艶のないがさつな声として、聞く者には少し物足りなさを感じさせるかもしれません。歌っている本人も“芯のない声”で自分の声に自信が持てない状態に感じられることもあります。また、多くのヴォイストレーナーにも“間違った方法”と早合点される可能性もあります。しかし、ここを克服できるかが真のオペラ歌手になれるかどうかのポイントだと思います。横隔膜の支えがしっかりして、この歌唱法が板についてくるとビブラートが自然にかかり、やがて艶のある深みを持った声に変化してきます。この段階ではじめて「声をどこにもっていくのか」という本人が決められる自由が出てきます。喉が下がって広い感覚がわかった上で声を顔に感じれば、いわゆる「マスケラ」になります。

○★後野の見解

 後野は発声指導において、喉を開けるフォームを一定にすることを優先して発声させるために、母音を本来の形ではっきり発音させない手技を使っています。 母音をはっきりさせて歌う演歌や日本語のミュージカルの場合は、母音に伴って舌根が激しく上下すると思われます。それに連動する喉頭の上下運動と声帯の上の空間の共鳴腔が広くなったり狭くなったりする変化が、とても大きくなるでしょう。 後野が歌う際に母音の発音に伴う喉頭の上下運動を極力抑えているのは、母音を1つの固まりとして捉えることによって舌根と喉頭の上昇を抑制し、共鳴腔を一定の広さに保つためだと思います。

○ここで私の経験をお話しましょう。声楽を学び、ある程度歌えるようになると、師事している先生とそっくりの声を出す生徒がいるのを見かけます。確かに「習うより慣れろ」「物まねから入れ」などと言われることもありますから、そのような状態になっても不思議ではなく、それがあながち間違いというわけでもありませんし、正しい場合もあります。しかし先生と生徒の間には確固たる個体差があり、そっくりな声を出すということは先生の声色をまねしているだけであって、決して正しい発声を身につけたことにはならないこともあるのです。正しい声を手に入れたければ、正しい声がわかる自分以外の耳をいつもそばに置いて、逐一観察してもらうことも大事ですが、決して好き嫌いで自分の声を判断しないことです。何が正しくて何が間違っているのか、客観的に自分の声を聞き分けられる耳をはぐくむことも、歌を勉強する人にとっては重要なことなのです。

 感覚的な話になってしまいますが、マスケラのところでもお話しましたように、声を体の中に埋め込み横隔膜に振動を伝えながら歌唱する感じです。息を吸うとき、なるべく胸が上がらないように息を吸い、みぞおちより下、おへそより上の部分に集めるように息を入れ、横隔膜を平らに保つ感覚で、その張力を失わないように声を出します。体が大きく膨らみ、胴鳴りする感じで声を出すようにすれば、響きのある声が自然と出てくるのです。「「医師」と「声楽家」が解き明かす 発声のメカニズム」〜いまの発声法であなたののどは大丈夫ですか〜 萩野仁志・後野仁彦(音楽之友社) より抜粋。


レッスン概要(2001年)

■特別レッスン福島英のワークショップ(「状況設定と歌について」)

○感覚とイメージ

 うまく音色が出ている人や、少し柔らかく出ている人もいます。一方で、相変わらず自動機械のように出している人もいます。そんなに差はないと思っているかもしれませんが、そこには大きな違いがあります。それを知ることから、スタートです。声そのものよりも、感覚やイメージの面での大きな差です。 その部分こそ、その人の音楽にあとで形をとっていけるかどうかという大切なところです。

 単に声が「アー」と出たからといって、歌が始まるわけではないのです。「アー」といいたい気持ちが音色や感覚を作っていくのです。ほとんどの人はどのくらい声が出るのかとか、高いところまでいけるのかに、興味が向くのです。それは声で勝負と思っているからです。それでは声楽家には適わないでしょう。 「ア」にもいろんな「ア」があるわけです。その人のイメージがあって、何かそういう気持ちになったときに、そういう色が出てくると思ってよいのです。それを大切にしてください。 題材は何でもよいでしょう。大体歌というのは、何をいっていても歌になるのです。ただ、それだけでは動きに入っていけません。 セリフや歌になってくると、何が間違いで、何が正解かがわかりにくいのです。それでも感覚的に置き換えていくときに、どこで間違うかということです。誰かのやった通りにやってもダメです。

○声を使える状態に

 少し動き出したり、何か始まりそうだと思えた人もいます。判断してみてください。声を使うということのまえに、声が使える状態を自分で作るということです。それはセリフでも歌でも同じです。 自分が思ったとおりにしか声は出ません。そうやって声が出ていればよいということではない。それが何を伝えてくるかということが大事なのです。  ・自分のイメージした声と出ている声。  ・自分の思う声と、相手に聞こえる声。 自分でイメージをきちんともって、それを出せば、あとは何もやらないほうがよいのです。それができていないのに、声を出してしまうから、体勢ができていないのに弾いてしまうような感じで、すぐに崩れてしまうわけです。

○すごい世界の追体験☆☆

 常に考えなくてはいけないのは、そこで終わってしまったらダメだということです。「どこか」で固めてしまったら、次に何も動かなくなってしまいます。声は固めるのではなく、声を動かすためにやるのです。 フレーズ練習の「ハイララー」のようなものは、動きを捉まえて、それを動かしていく練習です。「どーこーかー」と平行に動かしているだけではありません。 歌い手は、それを一度握った上で、引いたり押したりしているはずです。きちんとセリフがいえているときには、そういう感覚があると思います。 それを音楽的にうまく収められる人を、本当はシンガーというのです。そこは天才的な才能が必要になってくるわけです。

○0.1秒のなかに

 日本のレベルはともかく、外国のレベルでは、そこに0.1秒の差を見極めるようなところがあります。彼らのレベルでは当然そういうところが全部見えていないとできないわけです。見えていてもできない場合もあるし、見えていなくてもやっている人もいます。それは本当にすごい世界です。 それは歴史に名が残っていくような人、サラヴォーンやエラなどの天才を聞いてみるとよいでしょう。 感覚をどこまできちんと見ているのか、それを完全に扱えるために、どのくらいの体が必要なのかということを、実感して欲しいと思います。 変に発声練習をしたり、ドミソとやっているよりも、それをきちんと感じて、そこに自分の接点を合わせることしかないのです。

○補強メニュー

 ヴォイストレーニングに特別な方法があるのではありません。効果を上げるのは、明確な問題への補強メニュだけです。みんな発声練習なんてやらなくても、そうやって耳を鍛え、体で出してきてうまくなってきたのです。それをヴォイストレーニングでやるとしたら、そういう人たちの体験を自分が追体験するしかないのです。 いろんなメニューがありますが、私は追体験に近いものとしてやっているつもりです。せいぜい10センチしか見ていない人には、1センチくらいの単位で見れるようにしようとしているのです。そのまま10センチで見て、発声をやっていても変わりません。

 このことを2年やったときに、2年分やったんだということが見えることを、第一目標にして欲しいと思います。それは単に高音が出るとか、大きな声が出るということではありません。そういうことは今やったことが確実に出せることが必要なことです。それが課題としてあるわけではないのです。 そういう観点からもう一度整理してみてください。その上で、ステージング、マイクの使い方や、声のテクニックの問題やいろんなことがあります。 しかし、それが先に来てしまうと、自分が一体何ができているのかわからなくなります。 こういう場で何にも頼らないで、自分一人で人に与えるということをやっていたら、それは的確に相手に伝わった、伝わっていないということがわかるようになってきます。

○トレーナーと本質

 その感覚はあなた自身が持たなければ、いくらトレーナが持っていてもダメなのです。トレーナが、それをいつも教えているくらいであれば、うまくなりません。 自分のことなのですから、トレーナがわからないくらい、感覚を鋭く持つことです。そのうちに認めさせるというくらいに思って、やっていかなければいけません。 私のところにも複数のトレーナが来て、いろんなことばを使っています。迷うとしても、彼らが見ているのは本質の部分です。その本質のところで合わせて欲しいと思います。あなたが本質をみているところに、どう使えるかということです。 それが、ずれていたらどうしようもありません。正しいやり方というものがあるわけではないのです。そうやればもっと原理に基づいて出せるとか、より働きかけるというところに、その人のより深いものがあるわけです。それを、鈍い自分の感覚や体が邪魔しているのです。それをとり除いていくのが、レッスンです。

○課題

 課題は、簡単なようでいて、難しいことばかりです。劇団にいっても、私は同じことをやります。ただ劇団は、声の癖があっても、表情、動作も含めて相手にどう伝わるかということを中心にやります。 どういうふうにやれば、お客にどう見えるかということを、徹底して厳しく知るわけです。 声の場合はそれを音声で見ますから、逆にもっと難しくなります。一流のプロはそういうところで勝負しています。そういう見本はいくらでもあると思います。

○状況設定メニュー:「今、この」

 「今」ということに対して、「この」をどう置くかです。それを計算で考えるのではありません。そこに何かの動きを作っていかなくてはいけません。 一番単純なことでは、握ることと離すことです。あるいは練り込みと開放です。 その両方を入れてしまうと重苦しくなって、動かなくなってしまいます。 話す時も同じですが、本当に心から伝えたくなってくると、体が動いてくるものです。 イメージによっては、やりにくいものもあると思いますが、それが結果としてリアリティを持つよう、定めなくてはいけません。伝えようというところに心身が集中していたら、その表現に何らかの自分の感覚が働いてくるのです。 要は、声とか音量ではなく、それがどういう語感を持っているか、そこに何かしらの伝達イメージがあるかということです。 それを伝えようという状況ができたら、相手に伝わっていくのです。

 私が日本人の歌に不足していると思うのは、発音とことばはきちんとやって、メロディと音程がそれないように歌って、そこでおわっているところです。その人の持ち味が出ない。個性に対して、それをどういう色づけで出すかということが、当人の意識にないからです。 レッスンで問うているのは、今やれているかということより、やろうとしているかどうかです。やろうとしていてできないのは、課題に落ちてくるからよいのです。 ところが、やろうともしていないものはできません。だから、まず状況の必要性を与えてやらなければ、声も呼吸も必要なく、本当に身につかなくなってきます。 語尾の先まで、それを言い終えて、きちんと相手に働きかけるところまで、責任をもっているかもっていないかです。 初心者のステージは、終わったらさっさと頭を下げて帰るのですが、それでは何をやっても伝わりません。残りません。相手の心に伝えるのであれば、拍手をもらうまで、そこにいなければいけないのです。

○発音のまえに発声「とてもきれい」

 体を使うためには一つに捉えなくてはいけません。たとえば、どこかの発音トレーニングのように「と・て・も・き・れ・い」と、バラバラにしていくやり方は、小手先技で、体で覚えるやり方ではありません。一つのフレーズの中で「とてもきれい」というのを回しておかなくてはいけません。 どんなボールがきても、ど真ん中を振っているのと同じで、それだけをバンと出しても、返せません。相手に伝わったことにはならないのです。そこはフォームとして持って合わせなくてはいけない部分です。 感覚としても鋭いというなら、そこにたった一つ、何かニュアンスの中での変化を入れることです。ピアニストが、楽譜通りに弾いてはいても、一人ひとり違う演奏になるのと同じです。 その違いは何かというと、「とても」を「とっても」にはしなくとも、「とても」の中にそれを出そうとしているこだわりです。

○フレーズが動く

 もしそこに花があるとしたら、赤い花でも黄色の花でも、黒い花でも、構わないのです。絵の世界では、どう伝わるかです。 音楽の世界も同じです。そのために、自分の中では、少なくとも練習では、意図を持ってやることです。もちろん、体の方に素直にやって、その変化を拾っていくやり方もあると思います。 それはどちらでもよいのです。頭で計算してからやってみて、あとでそれを自分の体に合わせていくのもよいでしょう。先に形だけで作っておわってはいけないということです。 あくまで働きかけがあるかどうかという部分が大切です。そのためには、体と心が一致しているところの集中力を持って、フレーズが動くようにしなくてはいけません。そこからはみ出たときには、作れば作るほどおかしくなってしまいます。そこを気をつけてください。

○変化と結びつき

 まず、ことばの中にきちんと感情を入れたまま動かしなさい。状況を描いて、自分の世界を創るのです。すぐれた役者はそういうことはできるわけです。 では「やめてくれ」というのを、3回、10回繰り返してやったときに、どうなるかということです。 そこで何かの変化をつけたくなること、それが音楽的に動いてくるものが、歌なのです。音楽的な処理の部分です。 「やめてくれ」と回数を増すにつれて、表現の効果も増していくためには、どうすればよいのでしょうか。 そのときに、大きな声だったらよいということではなく、そこにどういう変化を作り、どう動かしていくかということになってくるわけです。 声とことばと、歌とこういう部分のことを、きちんと結びつけて欲しいということです。

○声を発する「アー」

 すごく雑になってきました。「ア」から始まる歌があったとして、この「アー」にメロディを与えなくても、ここにメロディが入っていなければいけないのです。 メロディというのは、音程がついているということではありません。この「ア」の中に、自分の心の動きが音の動きとして出ているということです。 たとえば「アメイジンググレイス」を歌おうとしたときには、「アーーー」という出し方はしないはずです。 メロディをなぞるのでなく、そこの感覚をどういうふうに展開するかということを考えてください。その呼吸をどう配分するかということで決まります。 まず自分のイメージを持っておいて、その上で「アー」をどう置くかということです。※ 練習は、意図をもってやってください。こう見せたいという意図に対して、自分がどう動いたかということを確認して欲しいのです。それによって、自分のまだ足らないところを見ていくことです。

○引きずらない「おーい」

 声で持っていこうとしたときの一番の欠点というのは、声を引きずってしまうことです。発声でも同じですが、声で何かを動かすためには、声そのものが邪魔をしたらいけないのです。 声を出そうと考えて、声で持っていくときにはそうなりがちです。そこでいろんなことができてしまう気になるのです。 発声で無駄を起こしてしまうと、本当の表現そのものにはならないのです☆。声や音楽が働きかけるということは、声や音楽や技術が見えてはいけないのです。

○声を見せない

 この辺が日本では勘違いされているところです。実際に生活の中でそのことを伝えようとしたときには、声やことばのことなど意識していないはずです。 音程を取りにいったら、音程が見えるのです。それと同じで、声を取りにいったら声が見えるのです。ことばでも同じです。相手に受けとって欲しいのは、本当は声とかことばではなくて、そのイメージです。 体と心を一致させて出しているときには、自分の意識では声を出していないのです。相手に伝えることは思っていても、できるだけ声を出そうとか、リズム、音程を正しくというようなことは考えないことです。 人間が何かを真剣に表現しようとしたら、必ず心と体は一つになります。 それを放り投げたときに、いろんな変化が微妙につくのですが、それ以外のことはやっていないのです。

 発声とかヴォイストレーニングというのは、そこで妨げられるから強化するためにやるのです☆。しかし、ややもすると、その強化自体が目的になってしまいます。声を見せればよいとか、大きく出ればよいということになるのです。そうなると、伝わるものがなくなってしまいます。 声や歌が見えないようにしろといっているのは、聞いている人は、それを見てしまったら、次に飽きてしまうからです。

○真剣=テンション「熱い」

 感じは出ていますが、それでは日常のままです。もっとテンションの高いところで、音楽的に処理するとどうなるのかということです。 普段にご飯を食べているように、舞台でもご飯を食べればよいということと同じになります。それを集約して見せていかなくてはいけません。 一つに捉えなくてはいけないのは、体や呼吸が一つに伴わないと、伝わるものにはならないからです。

○必要性の必要「愛」

 これは「ハイ」と同じで基本的なところです。これを声や、体でとろうと考え出すと、口先の「ア・イ」となってしまいます。まず自分の中で一つで捉えることが大切です。「愛燦燦と」 感覚を4つでとってしまいがちです。「あい、さん、さん、と」でわかれます。これをどう感じるかということは自由ですが、その上で自分で何かの動きなり、その意図を出さなくてはいけません。 自分でしか出せないものを試みなければ、本当のことでいうと、体も呼吸も声も必要がないということになります。 いつもいっているのは、必要性があればそこまでは身につくということです。

 大切なことは、プロが歌ったものでも、1,2つの変化で捉えるのか、7,8の変化で捉えるかというセンサー能力です。 次に、それを捉えられたときに、自分の中でどう整理して、どうセッティングするかということです。 そうなると、いろいろと足らないものが見えてくるはずです。 ところが日本の場合は、発音や音程が悪いと、大体その二つくらいで練習します。それは関係ないところなのです。 まっとうに歌っている人というのは、リズムと発音なんて気にしていません。どの音色と動きだったら相手に伝わるかということです。

○体優先

 トレーニングのときに、余計な力が入ってしまうのは、最初は仕方がないことです。そうすると「あい」が前に飛ばなくなってしまいます。そうなると、そこでの変化がつけられないのです。 初心者が体を使うということは、トレーニング中ということで、私はあまり注意していません。普通の先生などがみると、耳が悪いとか、音程がフラットしているととられるものです。 本当はトレーニングと歌唱は完全に分けなくてはいけないのです。たとえば、最初は体を使うことと、音程をきちんととろうとすることは矛盾することです。音程を正しく出すだけであれば、口先で音をとっていく方が簡単なのです。でもそのやり方では、あとでフレーズを動かせなくなるので、とらせたくないのです。

○めざすところ

 お客さんはうまく歌えることを期待しているわけではないのに、歌い手をめざす人は、うまく歌を歌いたいと思っています。本当は、その人の個性や、どう動かすのかというところ、そのおもしろさや新鮮さを聞いているのです。 日本の場合、歌がうまい人ほど、慣れているだけで、古めかしかったり、生命力や新鮮さがない場合が多いです。そうなるような育て方はしたくないのです。 トレーニングですから体のことを考えてもよいのですが、ステージで出すときにはそこを切り替えて、前に放り出すことです。 最初の「あい」というところで、一致しなくてはいけません。そこがバラついてしまうのは、体のこと、呼吸のこと、心のことが一致していないからです。ほとんどの人の場合がそうです。

 練習の課題として、「あ」から「い」にかけて、どのくらいの時間を感じられるかということをやってみればよいと思います。そこの中にはいろんな線ができてきます。それは無限にあります。その無限にある中で、歌い手というのは、その中で自分に一番よいものを瞬時に選んでいくわけです。 今は確実にど真ん中で振って欲しいのです。あとで外角でも内角でも打てるためにやるわけです。まず、一番力が働くところでミートするためにやるわけです。そのためには、全体的な把握の経験と、状況設定が必要です。 それを音との間でしていかなくてはいけないから、難しいわけです。 次にそれを音楽として、1コーラスで問うことはもっと難しいことです。

○生きているところ

 プロは、自分の限界を知りながら、自分のできるところをプラスにし、できないところはマイナスにならないように、ゼロにしてみせているのです。マイナスさえ出さなければ、プラスを積み上げていけます。 たとえば、歌い手のため息が聞こえるところというのは、表現が生きているところです。 歌を発声としてひびきのつながっているところや、高音、大音量のところではなく、表現の変化が見えるところを聞けるようにしてください。 よいところはどんな歌い手でも持っています。でも、本当に一流の人ほど、あまりに自然に歌っているがために、わからない場合が多いのです。

 そういう状況設定を練習の中でやっていくことが、大切だと思います。「アモーレ」 届かせるというにも、その1本くらいの神経を、複数、末端まで届かせられるようにしたいものです。 音の世界は見えないからわかりにくいのですが、「モーレ」で広がって乱れています。最初に「ンー」をつけましょう。 たとえば、「どんな」などがやりやすいのは、「ん」で握れるからです。そこから広がるという感覚をどこかで感じてください。 ここで一番聞かれるところは、「アモーレ」の「レ」の動きです。「レ」でぶちっと切れたら、音楽にはなりません。

○声量の量とイメージ

 どのくらいの声量で歌うのでしょうかと聞かれるのですが、声が大きすぎたら、当然体がついていかなくなるし、逆に小さくすぎたら、今度は体が動かなくなるのです。その状況をきちんとつかまえた上で、キィ、テンポによっても、音が狙う効果が全く違ってくるわけです。 ことばでも、メロディでも、踏みこむところをきちんと捉えることと、それをどう開放するかということです。声は消えても、そのあとに意識があって、その線が続いているわけです。そういうイメージで、歌っていないところに対しても、きちんと最後まで持っておくということです。

 たとえば、この「アモーレ」を10回繰り返してみましょう。それが気持ちよく相手に伝わるようにする。そのとき、たぶんミュージシャンであれば、きちんとそのことを踏まえて演奏するでしょう。そこで一番効果が出るように、新鮮に何かを起こして、最後は収めるわけです。 ヴォーカルはその辺が雑であっても、他の魅力で持ってしまいやすい。ただ、練習するのであれば、その状況設定のところでどういうイメージを持つかということでしょう。そして、それをどういうふうに動かせるかということが大切です。もっと欲をいうなら、きちんと元に戻せる限界まで、大きく離れさせられたら、最高です。

○学ぶべき課題

 学んで欲しいことの9割は、自分で創造することです。 すべてを即興のことでやって欲しいのです。自分の歌ができていないということが、わかっていたら、何をやってよいのかわからないということはないのです。 こう動かしたいのにできないというのであれば、そのうちわかるのです。しかし、どう動かせばよいのかがわからないという人は、それを学ぶこと、その音や動きが見えなければ、真の上達はできないのです。

 結局、聞くべきところを聞いていないのです。音楽は勉強しているし、歌もたくさん歌っているようでも、そういう音の中の変化を受けとめ、それを自分で再構成して創り出すことをやっていないのです。 やってみたときに、うまくいかないのはよいのです。 すると、自分にできることは何かということがわかってきます。自分のできることをやることと、それができないのであれば、その手段は一時、捨てて他の手段でやるという、その両方が必要だと思います。

○プロの備えとまやかし

 プロのライブを見ていてうまいと思うところは、自分のできることとできないことを、はっきりと知っているところです。できないときに、二次、三次、四次、十次くらいまで、補助手段を知っているのです。だから失敗しません。 出だしだけでも、何か失敗したときのために、次の備えがたくさんあるわけです。歌詞を忘れたときには、いくつかの歌詞を用意しておいて、それも出てこないときは、スキャットでやるというような、周到な準備があるのです。

 自分やステージを知ることは、そんなに簡単なことではないですが、そういうことを徹底してやっているわけです。 自分はこういうときに、こういうミスが起きやすいということも知っています。また同じ力があったら、どうすればよいかという使い方を知っているのです。それはプロの歌い手であればみんなやっていることです。 プロでも、相当間違っているし、おかしなことをやっていますが、見ていてひどいと思わせないようなカバーを知っているのです。 しかし、これにたけると、それ以上に上達しなくなるのです。つまり、こういうテクニックは、両刃の剣です。

○尽きない課題

 よく課題がわからないという人がいるのです。たった1フレーズの中に、どのくらいの課題があるのかということをきちんと見てください。くみとる能力があれば、課題は尽きることはないのです。 この「アモーレ」を3回やるだけの中にも、5年分の課題が詰まっています。 自分が創造するイマジネーションや、作るという力がないから、課題がなくなってしまうのです。 ポップスのヴォイストレーニングに関しては、私は、歌自体が方法論だといっています。自分が何かやろうとしたときに、そこで邪魔する要素があるから、それを邪魔しないために何をやるべきかということなのです。 それなりに聞こえてきたものもあったし、何をやりたいかということも見えてくるように、がんばってください。

○人工的=嘘

 音の世界で会話するということが一番難しいことです。絵なら、もう少し周りから見て比べやすいのですが、音の世界はつかまえようがないので、こういうことばで説明するしかありません。 でもそうやってプロの歌を聞いてみると、さすがにいろんなことをやっています。同じところを繰り返すにしても、前のところではこうやったから、次ではこうしようとか、そこでは偶然に起こったようにみえても、そのことは彼らの感覚や体が知り尽くし、最高に効果が上がるようにやっているのです。

 よい音楽をたくさん聞いてみてください。一流の歌い手は自然にやっています。それに対して、自分のは人工的だとか、嘘があるとか、そういう単純な基準があると思います。 トレーニングをやったがために、声が出ていることだけで安心して、他のことがわからなくなることも大いにあるようです。そういうことを気をつけながらやってください。【京都 状況設定 01.7.22】

○トレーニングの対象となる人

 ここには、毎日のように通う人、かなり遠方から来られる人、年齢に関しても15、16歳から50歳くらいまで、キャリアも全く初心者の人から、プロの活動中の人、音大生やトレーナーをやってきた人などさまざまな人が来ます。 また、声優さんや役者さんもいます。いろんな人のいろんな要求に対応できるようにしてきた結果、いろんなことがわかってきました。 まず、どんなシステムも、まず自分がどう使うのかということがないと、うまくいかなくなります。 そういうときには、最低限のものをとるというところから考えてください。

○飛び級とマイペース

 たとえば教材でも、私は最初に全部を渡します。順番に一冊ずつ渡していった方が、今の人たちの学び方には合っているのです。学校がそういうシステムだからです。 でもそれは、無限の能力を限定することにもなるのです。 読んでわかるようなことであれば、最初に全部読んでおけばよいのです。一週間もあれば読めるわけです。読んでわからないからこそ、レッスンに出るのです。 読んだり聞いたりして解決できる問題というのは、早めに片付けておいた方がよいのです。そこを徹底してやれば、本を読んだだけでは何にもならないところがわかってくるでしょう。 そこで始めて体とか感覚というのが、働いてきます。 一つの正解しかない知識の勉強は、早く脱してください。こういうものは自らの問いをつくるためにやるのです。それ以前に、できるだけ一般的な問いは、わかるところは、つぶし、忘れてしまうのです。

○方法論のを否定する

 ポップスのライブをやる条件というのは、ありません。1パーセントの可能性があれば、あとはその人間の力でもってやれるわけです。かなり曖昧なものなのです。 ヴォイストレーニングそのものに関しても、私は本音で伝えていきたいといつも思います。 しかし、本音でいうと混乱してしまうのです。 本音とは、答えはどこにもないし、正しい方法も、どの発声がよいかということもないということです。それを見つけ、そして創り出すのが、あなただ、ということです。 でもそれではレッスンは成り立たないから、いろんな形であなたが組み込める材料を与えています。つまり、音を聞き、声を出せる場としてレッスンはあるのです。 声楽というやり方も、ポップスというやり方も基本は同じです。しかし、常に今という時代や、現に生きている人に、どういう形でセッティングしていくかという問題があります。 できるだけ本質的なものを、押さえていきたいものです。 実力をつけようとしていく人は、自ら、場を動かしていくことです。

○条件づくり

 何を目的にこういうところを利用するかということは、二つの軸で考えてもらいたいと思います。 まず体づくり、声づくりがベースです。これは、音楽をたくさん聞いて、自分の体をつくって、それをチェックしていくという、トレーニングの根本が条件づくりになります。 条件というのは、やれるだけやるという状態が飽和しないとできてきません。 もう一つは感覚の勉強があります。これは音楽を聞いて、その中に入っていき、それを読みこんでいくことです。そして、そこから何か伝えていくべきものを出していくということです。 そのために、一番ハイテンションの一番よい状態を、舞台で即、つくれるようにして、即興中心に総合的にやっていくということです。○基準のとり方

 私は、歌がうまいとか、音程やリズムだけでなく、その人の諸条件が整ったときに、どういう舞台ができるのかということでみています。その可能性を探るものがレッスンです。 一番困るのは、歌もうまいし、リズムも音程も完璧で、声もよいのに、何の魅力もないし、つまらないという場合です。 それは根本的に直さないとダメです。今までやってきたことが、生きていることも含めて、何ら表現として結びついていないからです。 条件づくりのところに本来の実力というのが伴ってきます。 学校というのは、それを整えるところで終わってしまうのです。リズムや音程が間違っているから正しなさいと。間違っているから直すというやり方では、表現ということとは結びつきません。 しかし、10代くらいの人になら、それも基礎固めともいえます。

○コミュニケーション力

 ステージを支える人間関係やステージでのコミュニケーションは、伝えるということになってくるのです。このコミュニケーションは友だち同士で仲よくやっていけることとか、先生とうまくやっていけることではないのです。 むしろ未知の人、異質な人に対して、どれだけ自分が働きかけられるか、または受け入れられるかということです。 世界で認められている音楽というのであれば、それを満たしています。それと会話ができ、そこからどのくらい学べるかということです。 流行のものは誰でも聞いているわけです。同じように聞いているところでは、どんなにうまく歌えるようになっても、差はつきません。 まわりの人とコミュニケーションがとれたといっても、近所づきあいです。一番嫌いな人とか、一番苦手な先生とうまくできるコミュニケーション力なら、少しは意味があります。 自分がやれていないと思ったら、それに対してどうやっていくかと考えることが必要だと思います。

○表出と表現

 それから実力としての、技術です。こちらは磨くべき本質的なところです。 表現というのは、そこからしか現れてきません。本質をつかまないままの表現というのもありますが、それは表出です。自分がただワーッと叫んでいる程度のレベルに過ぎません。表出は、結果として誰にも受け入れられず、そのまま流れていってしまいます。 表現というのは、人の心を動かすものですから、結果がでてきます。何らかを過剰に与え続けなければ成り立っていきません。 ライブでも“自分の考え”といったもので表出に振りまわされる人は、少なくありません。

○レッスンとトレーニング

 レッスンは、気づくためにやります。それを身につけるために一人でのトレーニングが必要です。自分でやらない限り、身についていきません。自分の足元に必要なことというのは、自分で汲み取っていかなくてはいけないのです。 大きな流れは示します。自分が何をしなくてはいけないのかということは、自分で発見し構築してやっていくのです。 そういう意味でいうと、レッスンに出るということは、舞台に出るのと同じくらいの気持ちでいて欲しいのです。そこで、知人や友人でない、第三者に対し、自分を解放し表現することです。 これが、今はなかなかできないようです。お金を払っている客のまえであれば、へたなのに出てはいけません。しかし、レッスンは自分の意志で、出るのです。遠慮する必要はないのです。失敗を許された時空=場です。周りの人についていけなくても、自分のやれる権利としてあるわけです。

 心臓を鍛えてください。そういうものに適応していくように、実力をつけていくしかないのです。 まず、出続けることです。そしたら、たとえ、はた目にみえなくとも地力はつくのです。 自分の小賢い判断で、出なくならないことです。何事も続けるしかありません。そのことが信用になってきます。

○才能とタイプ

 ことばとして出てくるもの、CDやライブも、当人の可能性は出てくるものですが、これが全てではないのです。 一番見なくてはいけないのは、その人のオリジナリティのところに出てくる才能です。 自分の才能を知り、自分で信じなくてはいけないということです。それが出てくる前に、自分で見切ったり、安易に方向転換してしまう人が多いわけです。 いろいろなタイプがいます。1、2年目は調子がよかったのに、あとはダメだとか、6年くらい練りこんで、ようやく才能が出てきたとか。そこは続けるということの努力の結果でしかありません。 芸が宿るためには、時間を自分のキャリアに変えていくしかないわけです。トレーニングの中ではそれを見てください。

○だめになる原因

 そういうことを邪魔する要素として、悪いコミュニケーションがあります。それぞれが一人できちんと自分のものを出していく、それがまわりに受けようが、受け入れられなかろうが、自分で耐えるということです。 ところが、人の悪口を聞いて安心したり、自分の口からそういうものが出るとき、すでにその人は学ぶ気持ちや姿勢を失っています。 少しやれるくらいで、人よりやっていると思い上がり、たいして何もできていないのに先輩風を吹かし、自説をぶち、自己満足にひたる。やっていないと、人は、ぐちをいえる相手を欲するのです。 そして、多くの組織はだめになっていきます。

 そこから離れる勇気もない、そういう群れがどれだけ一人の人間の無限の可能性をつぶしてきたかを私は知っています。創造性を宿らぬようにする最大のガンは、慣れ合いです。これをもち込まないようにするのは、苦痛でもあります。 客は、やっている人をどう批判してもよいのです。でもやっていく人は、何事をも自分の力をつけるエネルギーにしなくてはいけません。一人で深く傷つき、それを背負い、創造へ精神を傾けている人が、残っていくのです。 よい人間関係というのは、決して慰めあうことではないのです。お互いを励まして、厳しく向上していくところに生じます。

○最低2年はかかる

 2年とは、ここでどんな取り組みをして、どういう人だったということを、私が思い出すのに最低限の年月です。皆さんから出てくるものの中で、本質的なものや、才能などが、ようやく訴えかけてくるということです。 そこまでは、そういうことができるための素地が、できていく年月を過ごせたかということになってきます。 顔も歌も人となりも覚えます。それも一つの取り組みです。それが重なると、まあその人のいうことだったら、こちらも大体、聞けるというような関係になってきます。

○人間関係と信用

 私が仕事をしている人たちは、ほとんど10年以上の付き合いがある人たちです。大学の仕事でも、研究所でも、全ては自分一人の力ではできません。自分一人の力でやっているようでいても、人さまの力で成り立っています。 自分がやっている世界をきちんと出していくには、二つの要素が必要です。一つは自分の実力をつけることです。 もう一つは、信用です。 すごく実力があるとか、声だけ聞いていたら、この人はすごいレベルだといっていても、世の中でやれていない人はたくさんいるのです。誰にも認められないのは、ほとんどの場合は、地道に信用を重ねていないからです。

 たとえば、世間では、居場所を点々とコロコロと変えていたら、それは信用にもなりません。その人を見ている人にとっては、1、2年いては辞めていく大勢の中の一人にしか過ぎないからです。その人は、点々とする人ということにしかならないのです。 仮に実力がなかったとしても、10年、一つのところにいたら、それはその人にしかできないことになり、信用になってきます。

 この前、ここに急に入ってきた人に、プロデュースをして欲しいといわれ驚きました、自分の作品も何も出していないのに、プロデュースして欲しいなどということは、成り立ちません。その人も、こちらも、信用を壊すことにもなるからです。要は、信用がないところでそれをやるということは、三者の信用を壊してしまうわけです。 やることでそれぞれの人間たちがもっている信用も失われるということは、最初から成立しないのです。
 たとえば、これまで私は本一冊全て書いてから出版するかを判断されたことは一度もありません。信用で仕事はくるのです☆。 おもしろいもので、やれている、やれていないということを結果から見てみると、生き方なり、考え方なり、その人間がどれだけそのことに対して、時間と年月をかけたかということになります。 もちろん、時間だけをかける人間はたくさんいます。全部のレッスンに出る人もいます。

 でも私が見ているのは、それで、どこまでやれているのかということです。そして、どのくらいオンしているかということです。年月が必要なわけではないですが、2年間くらい、とことんやる人というのは、たくさんいるわけです。ただ、そのことを続けてやる人は、少ないものです。その分、信用を勝ち得ていくと思います。

 この前も、欧米のアーティストのCDの著作権をとりたいという話がありました。その人に信用があると思えば、私もすぐにその場で電話して、私の親しい出版社の社長のつてで、輸入の著作権に詳しい外国語が話せる弁護士を紹介しました。すぐにビッグなビジネスができてしまうのです。世の中はそういうふうに動いているわけです。 人間関係とかコミュニケーションというのを間違えないで欲しいのです。力がついて、周りの友だちに認められたらよいということではありません。 プロの人たちに認められないとダメだということ、そういう人たちはそういう人なりの基準をもっているということです。そういう世界に問うていかなくてはいけないということです。

○取りくみ

 レッスンは、世界への窓口として使ってもらうのが一番よいと思います。学校の授業くらいにしか思っていなければ、その程度にしかなりません。外の大きなライブなら頑張るとか、内輪の小さなライブだから頑張らないということではないでしょう。その人が、どこにいてもどれだけのものが出せるかということです。 皆さんの提出したもの一つでも、およそ、わかるのです。 最初は力はなくてもよいのですが、その取り組みに対してさえ、いい加減であれば、いい加減なものしか返ってきません。

 一つひとつのレッスンを受けるとき、一つのライブに対して、どういう用意をするかで、全て問われるのです。 何かのチャンスでせっかく実力が認められたりしても、それを支える体制とか、自分の生活がつくられていなければ、すぐに終わってしまいます。そういう人は、たくさんいます。だから、そうでない人しか、残らないのです。 たとえば、ライブの日に体調が悪いときもあります。ここで、自分がどうやってきたかということが、利いてくるわけです。そういう経験がなければ、その辺で歌っている人たちにも勝てないのは、あたりまえのことです。

○主体的に使い切る

 どこでも、あなたが主体となって、使い切れるところまで、使ってみるということです。 ここで一つのライブがあったとしたら、それに対して、紅白の出演依頼がきたというくらいに考えてみて取り組んで欲しい。そうでないと、それくらいの力もつかないということです。人並みの力のまま、何年も経ってしまいます。 来るときは、一番テンションが高くて、何とかしようと思って来るわけです。その初心が、2年、4年、6年経つことによって、さらに大きくなれるように、その気持ちを忘れないようにして欲しいと思います。上達は、どこにいてもその人の生き方、考え方によります。自分の初心が逃げにつながって、ここではうまくいかないから、他のところにいけば何とかなると思う。それではダメでしょう。

○創造の素と姿勢

 たぶんほとんどの人が、今まで生きて、いろんな人に会ったり、いろんな音楽に接しているのに、自分が創るための要素を何もとっていない場合が多いと思います。 どんなに能力のある人がレッスンにきてもレッスンになるように考え、私は、自分の小さな能力ではなく、世界で最高級のレベルでのレッスンに落としているつもりです。 外国からプロが来たとしても、レッスンになるでしょう。そのときは、きっと、とても楽しいレッスンになるでしょう。ここのレッスンでの即興ライブで自分のものが問えるからです。

 私は、音声を学ぶ場を提供しています。もちろん初心者や、それがわからない人たちには、そこまでの感覚づくり、体づくりの場でもあります。 自分も他の人の程度にしようとか、これ以上やって目立ちたくないというコミュニケーションが、どこの場もダメにしているわけです。 すぐにできなくてもよいから、最高に自分が楽しくなるレベルにまで、落としこんでいけるようにしてください。 同じことを同じレベルでやっていたら、人生がつまらなくなってしまいます。そういう創造性のない人のレッスンには、誰も来なくなります。

 たとえ、同じことであっても、ここにきた人に対して、新しく何かを創り出そうと思っていない限り、もたなくなります。 ここに長くいる人は、私の話を全部聞いてきているわけです。そこで何かを与えようとすると、常にこちらが勉強していなくてはいけない、いろんなものを見て、考えなくてはいけません。 これだけのことを話すのでさえ、サラリーマン化した大学の教授であれば、1年かかっても考えられないし、論文一つ書けないのでしょう。私などは、何にも頼らずやってきたから、10分間で常に新しいことを考えて創り出していくことができるわけです。

 自分が創ったものがおもしろくて、はじめてこういう仕事がやっていけるのです。もちろん、最初はおもしろくないのです。なんて情けないものしかできないんだと思っているのですが、その時点をどこで越えられるかということです。そのうちにだんだんとおもしろくなってくるわけです。オリジナリティをどう問うかということになります。 そういう習慣と場をここから勉強していってもらえばよいと思います。 音楽業界でも、過去の財産で一生やっている人たちも多いのです。日本では知名度があがれば、それで大体やっていけるからです。ただ、そうでない皆さんが同じであっては仕方ありません。

○上達するシステムづくり

 ヴォーカリストには、肩書きがつくわけでもありません。 今まで自分たちが思ってきたことを実際にやっていくのと同時に、ここのよいところをとり、悪いところを切ってください。自分が否応なしに上達せざるをえないようなシステムをつくることです。自分で一生続けられるような魂を得て、そういう動き方を、日常の中に組み立てられるようにしてください。 そういうことがよく分からない人は、まずレッスンを中心とした生活をしてみたらよいと思います。仕事も学業もいろいろとあると思いますが、時間と意識の問題です。短時間にどのくらい集中できるかということです。 素直に、どこからでも学ぼうという心は、失わないようにして欲しいのです。やり方とか、このレッスンの目的に、あまり振り回されないでください。

 大きく勉強できることは、他人の経験から学ぶしかありません。同じレッスンもこういうふうに受け取れるのかというようなことを見て、気づきをたくさん得ることで、勉強方法ができていくと思います。 努力して苦しむというよりは、自分で創って楽しむということに向けていってください。一所懸命やっていると、ある時期はせまくなってしまうときもあるかもしれません。そういうときも初心やトレーナーのことばを忘れずに、続けて欲しいと思います。

 たくさんの財産、材料を、どう皆さんに還元するのかが私の苦心することです。 ロビーで声を無駄にして、たむろしている人は、口にするのを拠り所としています。やっている人はレッスンが終わったらさっさと帰って自分の勉強をしています。にっこり笑って、群れない人をライバルにしてください。 自分がきた目的に対して、レッスンの場を使うようにしてください。とにかく主体的に取り組んでやってください。【オリエン 01.2.24】

○感覚を増幅する

 100%の力で表現することがすべてではないのですが、練習の中では、100〜120%でなく、いつも200%のつもりでやっていかなくてはいけない。そのことを、どこかで徹底して意識しておいてください。 音の世界というのは見えません。プロの歌い手をそのままコピーすると、どんどんおかしくなるのです。それは役者の世界でも同じです。 たとえば、私が手を0.3秒で20センチ動かした。これを、あなたが同じようにまねしても、10センチくらいの動きになるか1秒くらいの時間がかかってしまうのです。

 トレーニングというのは、相手が一瞬で出したと思ったら、そのことを自分がやるときには、2倍以上の大きさの動きを感覚としてもたなくてはいけないのです。すると2倍以上の早さでやることになります。それではじめて、しぜんに私が最初にやった動きに近いことができるわけです。 そういうふうに感覚を拡大して読みこんで、練習しなくてはいけません。その辺はトレーニングと、実際の違うところです。つまり、しぜんでやれるようになることを目的にトレーニングをするのです。 それを全部体の中に入れて、初めてしぜんな状態で動けるわけです。200の力をつけて、はじめて100の力でしぜんにやれるわけです。 トレーニングは100を200にしていくことなのです。歌をまねるのは、感覚では100を50にする練習をしていることになります。早く上達するのですが、それ以上の域には、いけません。【講演会1 01.3.9】

◎腹式呼吸

○腹式呼吸の謎を解き明かす

 プロの人の息と声を聞いてみてください。音声を大きくかけて聞くことによって、歌うの人の息や体を見るのです。すぐれた音響設備のもと、全身ですぐれた声を聞く体験が必要です。※ ビデオなども、目で見てしまうと、日本人はすぐに耳がおろそかになってしまうのです。 ライブやコンサートを映画などでも、その人の息使いが聞こえるようなものがよいでしょう。 映画を映画館で見ると、俳優の息使いまでわかるでしょう。そうして、音声の世界の感覚を体にとり入れていくのです。

 次に、歌を聞いてください。歌というのは、ことばとメロディの世界で成り立っているようですが、実のところ、音色とリズムで音楽になるのです。 音声の世界で、歌に声を使うのであれば、声を音楽のレベルで処理できるようにするということです。 トランペットの世界のように器楽音と思えばよいです。 そのレベルでの演奏ができると、世界でも通用します。今、世界で成功するということは、アメリカで認められるということのようですが。

○息の深さ

 息をよく聞いてみてください。歌声に全部、息が混ざっていると思います。息がとても深いのです。 最近は、日本人にもこういう息を真似て録音している人が多くなっています。しかし、大半はだらしなくなっています。本当の意味で、息でもっていっているのではなく、作った息で歌っているからです。それっぽくやっているのですが、全く違います。音響で加工して、その差をわかりにくくしています。 まるで声の芯がどこにあるのかがわからないでしょう。本当にきちんと歌ったものというのは、芯がしっかりとあるのです。しかし、今の録音の仕方は、点をとって、それをつなげるようにできます。 カラオケで歌っても、マイクやエコーを取ったら、ひどくなるでしょう。
 本当に歌えるということは、そういうものを全部取ってみても同じということです。つまり、基本に戻るということは、そういうあとからついてきたものを取り除いてみる必要があるのです。

○呼吸法

 よく腹式呼吸とか、呼吸法を教えて欲しいといわれます。 腹式呼吸は皆さんでも普段からやっています。腹式呼吸と胸式呼吸がわかれているわけではありません。腹式ができない人というのは、いないのです。ただ、歌やせりふに必要とされる表現に、体が対応できないと、不用意に動いてはいけないところが動きます。 最近は、私は腹式呼吸や呼吸法というよりも、深い息といっています。使い方によって、胸や肩などに余計な動きが目立ってくると胸式といわれます。どうも、お腹から声が出ているという感じになっていないから、問題が起きます。 呼吸法とか、ヴォイストレーニングでは、息のコントロールを自分でできるようになるためにやるのです。

○歌のモチーフ

 声を単純なフレーズで動かしているところがモチーフにあたるところです。 自分はこの歌をこういうデッサンの線と色で描いていくということです。歌とか音楽というのは、そういうことから始まっているわけです。 芸術作品を見たら、これは誰の作だとわかるでしょう。その根本になるのが、その人独自のタッチです。そのデッサンが歌に展開されているということです。 日本人のもつ歌という考え方は、メロディにことばをのせて、声でつないでいくというものです。それとは違うわけです。 ヴォーカリストは、自分がこの線をこのタッチで描くということを、一つの曲を使って創造しているわけです。そうやって自分の歌を創り出していっているのです。

○スタンダードとオリジナル

 日本の場合は、スタンダードの曲を歌うとしても、基本のところに戻さずに、自分の好き嫌いで歌っていることが多いようです。これは自分たちの歌としての応用では通じても、自分で何をどうつくるかというベースの力は、ありません。 つまり、自分の本来のオリジナリティが何なのかということです。音楽の中で、それは、音色とその使い方で問われます。それは、声質でないのです。 歌というのは、声そのものが一人ひとり違う上に、そこでいろんなことができるために、却って創造的なものになりにくいのです。

○オリジナルの世界とは

 たとえば「明日があるさ」(坂本九、ウルフルズ)を作り直してみましょう。そのときに他に替えられない、何が出せるかという力が、あなたの実力のすべてだということです。 ヴォイストレーニングや、呼吸法をやることも、そこで何がやりたいのかがなくては成立しません。 つまり、もしあなたが望む声や技量をもつまえに、それをも、どう使いたいのか、どんな絵を描きたいかということなのです。確かに、そういうことはそれを持たなければわからないというかもしれません。しかし、持てたらどうかということがなければ、何をどこまでもてばよいのかも定まらず、迷いのなかで上達は止まります。そして、創造活動というのは始まらないのです。 プロは、彼らにしかできない、彼らの世界を歌うと思います。自分のものは何かということがなければ、自分の世界も出てこないということです。

○歌が上手くなることや声がよくなることは、目的ではない

 もし、あなたが何かを手に入れたいとしたら、そのことが手に入ることがあたりまえになるような環境とシステムをセットしましょう。そして、その上の目標を持つべきです。 たぶん、この声とこの感覚があったら、自分がどんなことがやりたいのかということがあれば、そういうものは手に入るでしょう。それが、必要性です。 あの人の声だけが欲しいとか、こういう歌い方がしたいといくらがんばって真似していても、大してものにはなりません。まして、決してこういう世界のクオリティには届かないでしょう。

 一流のアーティストは、やりたいままに好き勝手に歌っているようにみえるでしょう。その中でどこが正しいとか、間違っているということはありません。ただ、すぐれているか、どのくらい深いのかどうかです。結果として、創っている私の描いた世界はみんな正しいというところでやっています。だからこそ創造物=アートなのです。

○状況に対応できるのが、プロ

 歌がうまいとかへたということよりも、その前に客との信頼関係はどうやって築かれるのかということです。歌のうまさ、声のよさなどを見られているのでは、通用しないのです。 それは、人間性や人格でなく、歌が独立した作品として価値をもって働いていることです。それを支えるその人間が、その人間であるということがまず第一です。 それを他人の(歌の)ように歌ってしまうと、そこでその人の価値が出なくなるのはあたりまえです。 ヴォイストレーニングでも、そういうことに気づいたり、または近づくために徹底して、状況に鋭いトレーニングが必要なのです。

○トレーニングの目的

 トレーニングは、あくまでトレーニングです。何かの目的を達成するためにあるのです。トレーニングが目的になっている人が、たくさんいます。ボクシングのボクササイズのようなものです。健康のためとか、ストレス発散のためにやるのは、よいでしょう。カラオケならばそれがよいのです。 しかし、表現活動というのは、同時に創造的な要素が不可欠です。それは自分が声とか歌を使って、何を表現したいかということです。 誰も大して歌も声も聞いてはいないのです。要は、歌や声に何を乗せるかということです。 やれている人というのは、それを明確にしているわけです。 それがない人たちは、誰かのように歌っているだけですから、何の価値にもなっていきません。やれていかないのは、あたりまえです。そのことも場でぶつけて知っていくことが大切です。

○レッスンは、オンすること

 ここでレッスンの意味について、まとめておきます。 まず、レッスンというのは、どんなところにいたとしても、仮に毎日練習したとしても、それだけでは決して身にはつかないのです。 レッスンというのは、気づきにくる場所です。何かを変えるために、気づき発見するのであり、こなすのではないのです。だからレッスンが終わったあとは、レッスンノートを書くことです※。私は、全員のすべてのレッスンノート(アテンダンスシート)に目を通しています。その中で、よい内容のものは他の人に気づきをシェアできるように、会報に載せています。

 気づかないこと、足らないこと、入っていないこと、それは直しようがないのです。その必要性を本人が自覚していないからです。だから気づくことです。 本当に必要のあるものは、必要のあるところまで身につきます。それを私は、自分の身と声をもって体験してきました。しかし、そのためには、気の遠くなるほどの時間や情熱が必要です。そして何よりも、レッスンで気づいたことを確実に身につけるトレーニングが必要です。 トレーニングというのは、一人静かに黙々とくり返しやるしかないのです。不安や迷いのなか、雑念を切り、ブルドーザーのようにパワフルに前進していくものだけが、得ていくのです。

○テンションの高いこと

Q.1日何分間やるのですか。 レッスンになるのは、今までの自分のできぬことができる瞬間ですから、1日に30〜60分のレッスン時間としても、そこに1分どころか2、3声もあれば、すごいものです。スポーツでいうと、毎日、自己新記録を出すことにあたります。大半は、年に何度かそういう感覚や声を出せるくらいでしょう。私は2年間でたった1フレーズでよいから、プロとの接点がつけば、次の2年はそれを4フレーズにするので充分と思っています。それがいかに難しいかは、天才的なアーティストでさえ、歌では、1コーラス1分間くらいなのです。つまり、その4フレーズを、64から128フレーズくらいにすることで、すべてなのです。

○日本人の弱点

 最初に気づいてもらいたいことは、日本に生まれ暮らし、日本語で生活していたら、当然のことながら欠けてしまう要素がたくさんあるということからです。 外国人の中での音声は、日常のことばレベルで、日本人からみると舞台と同じです。 歌を聞いても、高音発声をマスターして、歌に使っているのではありません。劇団での稽古と同じで、感情が高ぶるとか、怒りが込みあげるとか、悲しいから音がしぜんと高くなるのです。

 相手を口説こう、なだめようとすると声が低くなってしまうというように、歌にもっていっているのです。それには、それだけの声の器があるからです。 裏声、ミックスヴォイス、ビブラート、シャウトも同じです。ビブラートやシャウトの方法があるわけではありません。そういう気持ちが音声にのってきたときにそうなるのです。 日本の歌は、そういうものから切り離されていました。その人が地べたで生きているというところと、違うところでやっています。しぜんより、技術を優先します。発声法で歌おうとしていたのです。

○音声の判断力がない

 向こうのアカデミー賞やグラミー賞のスピーチを見ていると、その人が生きていることがそのままスピーチという作品になっているような気がします。 この前イッセー尾形さんがおもしろいことを言っていました。他の国に行くと、笑いというのはそれぞれバラバラのところでおこるそうです。だから、作品を通してのざわめきが落ちないらしいのです。 ところが日本の場合は、みんなが笑ったところで一緒に笑うから、急にワッとなって、すぐしーんとなるというのです。向こうに慣れてしまうと、日本ではやりにくいそうです。 つまり、向こうではそれぞれが自分の判断で笑うのです。当然、受けるところが違ってくるのです。 クラシックコンサートでも、日本の場合は、どう拍手しなくてはいけないかと、まわりを気にして、同調しようとします。自分に判断がないのです。とってつけたスタンディングオベレーションばかりで、ブーイングがない。だから外国から来た歌手などに、なめられたりするのです。

○強弱リズムの感覚がない

 向こうのものを聞き比べたときに、高いところを歌っているとか、低いところを歌っているということは、あまり感じないわけです。つまり、基本的に強く出しているか、弱く出しているかの繰り返しです。踏み込んではなす、あるいはぐっとつかんで突き放す、そのように歌い手が声を動かして魅きつけているのです。そこでは、統一した音色が、自由に心に働きかける音色に変わっていきます。 レッスンでは、こういうものを聞いて、統一した音声を獲得していきます。それが基本です。 彼ら自身は、高くとろうとか低くとろうとしていません。日本人と比べてみてどう違うのかということを、耳の中で捉え直していきます。そして、その上で音色と感情をミックスさせ、もっとも効果的に働くように応用していくのです。これが、オリジナルフレーズ※のトレーニングなのです。

○本当の基本とは

 かつてのヴォイストレーナーは、自分が歌って、それと同じようにやりなさいとやっていたらよかったのです。声や発声、歌のうまさがプロと結びついていたからです。 今、そういうヴォーカルアドバイスは、すでに売れている歌手や少なくともデビューが約束されている人にしか通用しません。トレーナーと同じ声が出たり、それが使えたからといって、何の戦力にもならないわけです。現にそのトレーナーは、どうだったのかと考えればよいでしょう。それで通用するなら、トレーナーの歌が大ヒットしているはずでしょう。

 いろんなことができた上で、そういうこともやりたいということであれば別ですが、昔の基本が今は基本ではなくなってきたのです。でも、それはもともと本当の基本でなく、声の応用技でしかなかったということです。 本当の基本というのは、変わりません。きちんと音の世界を聴いていくということ、そこで起きていることを見逃さないことと、その音楽を受けとめて、自分だったらどういう形で創るかということです。それを磨くのが、本当のレッスンだと思います。

○自分の音の創造する

 楽器の世界というのは、みんな音色とその使い方で勝負しています。ピアニストもトランペットも同じです。 私がピアニストになれないのは、自分の音がピアノで作れないからです。自分の気持ちを音に託して表現するということを知っていても、ピアノに同化できないのです。 それはどうしてかというと、ピアノでそういう聞き方と弾き方ができないからです。ピアニストやバイオリニストは、楽器が体の外にあるため、それと自分とを一体化するのに膨大な時間がかかります。皆さんも、今からバイオリンのプロになれると思わないでしょう。 でもヴォーカルは、めざせるのです。それは、初心者であっても、すでに声は使ってきているからです。そして、現に演奏のへたなプロも、たくさんいる。 しかしヴォーカルだって、アメリカでは10代でまわりに天才と思われなければ、やれないからやらないのです。

 ヴォーカルが、20代からめざせる理由。  1.すでに初心者ではない。  2.日本ではパフォーマンス、作詞作曲、タレント性など、ミュージシャンとしてより、パーソナリティが問われる。  3.日本では、現にやれている人がたくさんいる。 声というのは、もっと複雑なものが含まれてきます。 私は、4フレーズも使えたら、2年は卒業だといっています。2年間で半オクターブが扱えればよいといっているのです。 ノンブレスで息に声をのせたり、おいたりしているレベルに、2年では決して至りません。 日本の歌というのは、歌っているわけです。そこで即興的に、ジャズマンのように創造するのでなく、こなしています。 向こうの歌手が、高いところになると、マイクを離すのに反し、息を吐けなくなって、マイクを近づけていきます。

○本物の歌、声とは

 今のポップスも、向こうの形を取り入れているのは、昔と変わりません。浅い息のところで声を垂れ流して、形の悪いつながり方の真似しているので、きちんとした作品にならなくなってしまいます。でも聴き手は、そんなこと聞いてはいません。 そこで、今のJ-POPのシンガーの評価も難しいのです。 しかし、ポップスですから、それぞれの世界が出ていればよいというわけです。 声が出たり、歌がうまいからといって、人々に伝わるのではなくなってきています。生声やいい加減な発声の方がよいとさえ言えます。

 つまり、音声で表現する舞台の死の時代、誰もが表現を聞けなくなってきたのです。まあ、よく言えば日常化してしまったので、日常レベルの歌でよい。そして、日本の歌もしぜんになりつつあるわけです。 そこで、マニアックな発声を教えようとするトレーナーの鈍さは、どうか気をつけていただきたいものです。(特に日本のミュージカルのなかでは、いまだ昔のように、形や技術を前面に押し出したいやらしい歌、生声、こもり声、口内音、音響技術に頼った歌も、どちらも私のいうしぜんな歌ではないのです。)

○音響技術の進歩と声力の衰退

 昔は、少なくとも声のよさ、ことばでのドラマが伝わるとか、そういう条件があったわけです。それからマイクに通りやすい声でなければダメだったのです。ところが今ではどんな人の声でもマイクは拾えますし、機材もかなり進歩しました。

○基本に戻る

 しかし基本というのは、時代や国によって変わらないものです。50年前でもあとでも、どこの国にいっても同じものです。 人間としての変わらないものに密接してあるからです。もちろん、その表わし方は時代や国によって違います。 自分の声を深めるなら、そういう体の部分とか感覚の部分を参考に聞いていくべきです。 体の原理と働きというのがあります。それを磨いてこそ、体を声の楽器として使えるわけです。自分の体の原理に基づいて、声を使っていこうというのが基本です。 そこの部分と、今のJ-POPで使われている声が、かけ離れているのがややこしいところです。 国や時代では変わっていかないところを見て、そこで創造できるためにどのくらいの声やその使い方が必要かということです。そうでなければ、トレーニングもあり得ないのです。

○レッスンとトレーナー

 レッスンでやっていることの一つは、一つのフレーズから1分間に膨らましていくようなことです。いろんな音楽や表現のパターンを入れます。 私のレッスンを受けてきた人でも、自分がレッスンで何かを得て、何かに気づいたから上達したということがわかっていると、自分の気づいた点をみんなに伝えてくれます。それも、ライブです。 ただ、その人の気づいたように他の人が気づくかということは別です。そういうことでいうと、相性ということもあります。 私も一人よがりにならないように、他のトレーナーを置いています。声楽家も二期会の人、黒人シンガーなども、一流の人をお願いしています。 それだけ研究生は混乱するのですが、それを超えてその中で自分にとっては何が必要かという選択ができなければ所詮、自ら学べるようにはならないのです。

○十人十様

 ですから、声楽のレッスンを主に受けている人もいます。声楽は基準がはっきりしているので、はっきりさせたいときには便利です。まあ、それを補助にでなく全面的に頼ろうとするところで、だいたいだめなのです。それは私のトレーニングも同じです。主体的に使い切る能力が問われるのです。 10代のうちは、まだ体ができていませんから、根詰めて声のことをやるよりも、むしろ基本の力をつけておくことです。 10人いたら10通りのやり方があってよいということです。それぞれが、伸びる時期も必要なレベル、年月はすべて違います(胸固い)。

○感覚の切り替え

 日本人の感覚を一時、向こうの人の感覚に切り替えさせていきます。私は日本人は日本語をもっとも理解している以上、最終的にそれで表現を磨くべきだと思っています。しかし、声が楽に出やすく使えるような感覚にするために、他の国の人の言語や曲を使っているのです。

○どちらもできる分にはよい

 日本人でなく欧米人がよいのではない。どちらもできた方がよい。あとで選べばよいのです。 たとえば、人によってそれぞれ出しやすいことばが違います。よいものを伸ばすのです。

○日本人の発声法

 日本人の考える発声というのは、母音中心です。そこから共鳴させていく。のどのはずし方というのは、上の方にあてるという形がほとんどです。マ行とかナ行とか、鼻濁音で開くようにしていきます。それも一つの方法です。

○話す声と歌う声は同じ

 しかし、もう一つ、日本の中で忘れられつつあるのは、劇団の人の発声です。かつて劇団の人は、3年くらいでかなり舞台で通用するプロの声になったものです。話す声も、劇団の人たちの方がよいです。 劇団では、体に声を入れるというやり方をとっています。大半は、無理、無駄がかかり、声楽的にみると、胸に押しつけたり、のどを押しつけているようです。しかし、それは、勘がよくなるとギリギリのところで回避できるのです。 外国人の歌手の話し声は、役者と同じように素敵です。日本人は、話す声と歌う声は違うと思い込んでいます。本当にそうですか?

○歌は声の応用の一つ

 声のよしあしをどこで判断するのかということは、難しいです。私の判断というのは、その声がよいとか悪いではなく、その声をどこまで繊細に、あとでコントロールできるような応用性をつけられるかという柔軟性でみます。せりふも歌も、応用した声でその一変形です。 人間が一番高いところをギリギリで出すと、そこはそれで何かは伝わるわけです。 ところがヴォイストレーニングでやっていくことは、あくまで基本のことです。応用というのは試合ですから、乱れても伝えるという目的を果たせばよいわけです。目的が違うのです。

○歌は教えられない

 私が歌を教えないのは、歌は自由にその人が好きなように歌ってよいからです。歌は試合ですから、フォームが乱れようが何しようが、そこで勝てばよいわけです。十代のJ-POPに熱狂するファンは、アーティスト?やステージに魅せられている。それは否定しようもない事実です。 しかし、必ず乱れ、オンしていけなくなるから、基本に戻すのです。 そればかりをやっていると、試合ばかりをやっているようなものですから、声が出にくくなり、芸にも限界があります。それを体の原理にそって直すのが、基本のヴォイストレーニングです。これを歌の発声と、ごっちゃにしてしまうからいけないのです。

○歌の目的

 歌の目的というのは、体の原理を使うことや、声をしっかりと出すことではありません。人に声で働きかけ(声だけではありませんが)、人を感動、興奮させたり、人の心を動かしたり、何かに気づかせることです。 たとえば、オペラでも、完全な発声のものが必ずしもプレスされているわけではありません。少々発声が崩れていようが、熱く、より伝わるものでなくてはいけないのです。完全完璧な演奏でなく、個性的にして普遍的な何かを、かもし出すものです。つまり、新鮮、生命力、リアル感を失ってはだめなのです。

○タイムラグ

 よく「一日でやり方を教えて欲しい」といわれます。教えられないのは、やり方こそ、経験が必要だからです。その人を離れた独自のメニューというのは、ないからです。 さらに、トレーニングというのは、身につくのに必ずタイムラグが出てくるからです。 歌というのは、誰でも歌えます。歌えればいいというのであれば、すぐに歌えます。 そこでできないということは、よりできる人に比べて、いろんな部分で欠けているものがあるからです。できない人は、それを音程、リズム、発音、声量、声域のことだと思うのです。 しかし、それがすべてあって、何も伝わらない歌の形、形の歌がどれだけ多いかわかりますか。それは弱点補強として、やることであっても、本当のメインの課題ではないのです。

 まず、ヴォーカリストとしての、というよりアーティストの感性で生きているかということ、そして何をどう表現したいかということがあります。次に、それを充分に人々に伝えるために、手段として欠けているテンション、感覚、体をつけるという順なのです。体づくりはとても時間がかかります。これは状態でなく、条件だからです。 たとえば、腕の力が弱いから打てないといわれたときに、腕立て伏せを100回やって、すぐにバッターバックスに入る人はいないはずです。そんなことをしたら、余計にうまく使えないわけです。その腕立てが全然苦にならないくらいの力がついて、自分で気づかないうちに、それが試合に反映されたときに、初めて腕の力が抜けて、真の力がついたということがわかるのです。

 信じることも必要です。他人のやり方で左右されてしまわないこと。トレーナーが誰であれ、正しいものは、現にあるのであり、そこで受け継がれていないなら、自分のミスなのです。 つまり、自分を信じられないから続かない。そういう人をみてきました。残念なことです。 本当に真剣に全力でやった人は、決して他人のせいにしません。それだけは覚えておいて欲しいと思います。先生やスクールをよく変える人も要注意です。 文化のベースは一処(ひとところ)で懸命にやること、どこでも3年間は学べるものがあります。

○トレーニングは必要悪

 トレーニングというのは、部分的に、意識的にやるもので、必要悪なのです。だから、トレーニングが真のトレーニングとなることも、その日にはできません。そのことを意識しなくても、自分の体で対応できるようになって初めて使えるわけです。

○トレーナーをみていたら、トレーナーを超せない

 ところがほとんどのトレーナーというのは、それを同時にやってしまうのです。 高いところが出ないといったら、こう出しなさいと、音程が取れていないといったら、この音を覚えなさいと、見本をみせてまねさせるわけです。そのこと自体は悪いことではありません。でも、それならアーティストのビデオをみていたら、すぐにできるということでしょう。 それができなかったり、それが調整できない感覚と、それに対応できない体が邪魔しているわけです。その条件を分析して作っていかないと、根本的な解決にはならないのです。

 つまり、まずは感覚を入れること、そしてしぜんにとり出せるようにまわりの条件を整えることです。何よりも、現にプロのヴォーカリストになった多くの人は、発声法もヴォイストレーニングもやっていません。 1.自分の作品を創ること。 2.自分の武器を磨くこと。 3.自分の勝負どころを知ること。 4.自分の限界と対処法を知ること。 5.感覚と体を特化させていくこと。 6.判断基準をもち、鋭い感覚で対処すること。 7.人々に働きかけること。 8.プロに認められること。 9.プロに学ぶこと、一流のものを聴くこと。 10.それをコピーして、感覚を磨くこと。

 つまり、スクールで教えられる発声法やヴォイストレーニングをやるのではなく、自らの作品が求められるレベルになるようにするプロセスで、音楽を入れ、声を使い、結果としてその人に必要な発声やヴォイストレーニングをやってきたかということです。 もちろん、発声だけとかヴォイストレーニングだけからみると、10パーセントもできていない人、アマチュアの一般レベルよりもひどい人もいます。でも、よいじゃないでしょうか。 声や歌で悩むより、人前に出て活動することが優先するから、アーティスト、ヴォーカリストなのです。その逆の声マニアは、私は歓迎しません。つまらない顔で目が輝いていませんから。

 日本人の歌にそこまで発声が問われていないということではありません。外国人であっても私はこの1〜10が基本だと思っています。だから、ブレスヴォイストレーニングは、この10に沿ってやっています。 つまり、技術として教えるものでなく、感性として身につけるもの、一流のアーティストがしぜんと幼い頃から踏んできたプロセスを、音楽や歌が、楽譜を声で置き換えるのでなく、そこに原始に人の心に一声で働きかけ、今も変わらないものを、とり出すのです。

○状態が飽和して条件となる

 頑張って、一所懸命歌ったら伝わるというのは、あくまで状態の話です。確かに状態というのは、モチベートしだいで変わることはあります。 でも大切なことは、状態がどんなに狂っても、それを支える条件を作っておかなくてはいけないわけです。 ヴォイストレーニングは、最悪の状況のときに最善の状態にもっていく自分なりのやり方、術(すべ)を知っておくためにやります。基本トレーニングとその応用とのくり返しによって、自分を知り、常に自分のベストに短時間で調整することが可能となるのです。 スポーツをやったことがあれば、思い出してもらえばよいと思います。 たとえば、水泳などは一所懸命に泳ぐほど、タイムはどんどん遅くなってしまうのです。それは一所懸命にやるほど力が入ってしまうからです。

○強化トレーニング

 大半は、プロの人への教え方と初心者への教え方を混同しているのです。 私が明日から巨人軍にいってホームランを打ちたいといっても、無理です。とにかく走れといわれるでしょう。 歌でも同じなのです。歌を聞いて、本気でやりたいと思ったら、まず、声を出すことよりも体力作りと集中力において、この人たちと同じくらいのものを持たなければ、到底ものにならないわけです。 案外と、走る方が正解なのです。一見、横道にそれているように見えますが、体力がなければ、集中力も保てないわけです。声のコントロールには、最高のレベルの集中力が必要です。そういうものの足らない人は、それも一緒に身につけていくことです。

○身体の体験に学ぶ

 歌や音楽で考えるより、踊りとかスポーツで考えた方がわかりやすいことはたくさんあります。スポーツは結果が出ますから、わかりやすいのです。また、舞踏や他の芸術は目でみて比較できます。 声は、最初はつかみようがないのです。それをみて、つかまえ、動かし、描き、しかも人に働かせなくてはなりません。 どんなに頑張っていても力が入っていたら、よい結果が出ないのです。今までにそういう経験があれば、常にそういうことについて思い出してみることです。そして、どうすればよかったのか、考えてみましょう。

 バスケットでも、もっと強くなろうと思っていたら、NBAやプロのバスケットの試合を見ることです。ところが、試合に負けたら、努力が足らなかったとか、もっと一所懸命にやろうといって、練習時間を長くしたり、もっと走り込めば勝てると思いがちです。本当はそういう問題ではないわけです。 歌も自分でトレーニング方法を作るのです。方法を探すことです。そんなことをやってよいということさえ、その当時は考えなかったのです。 トレーニングの中でも、その中で自分はどれくらいできるかということが問題になるわけです。やり方のまえに、考え方も大切だということです。

○歌の方法論は、歌そのもの

 ヴォイストレーニングとか発声方法は、方法論としてあるのではなく、ポップスに関しては、歌うことが方法論そのものだと思います。 歌の中でいろんな試みをすることと、ヴォイストレーニングで試みることは、同じということです。 ただ、それを歌という形でまとめて、作品として客向けに切り出すか、その作品の支えとしてやるかどうかという違いです。 客によって変わるから、歌であり、ライブです。しかし、トレーニングの基準はこんなことで揺らぎません。 要は、歌とか音楽といって、知識とか理論の方に逃げるのではなくて、むしろ自分が思ったように声を出してみなさいといっているのです。 せりふも声も、それで人に働きかけてごらん。そこから、みんなもできるレベルでなく、やる、または、あなただけしかできないことをどう出していくのかという、根本的なところを詰めていくことです。

○ライブ

 あなたの固定観念で固まった歌と私の講演と、どちらが自由ですか? ライブですか? 私の講演会は、  1.4時間にわたり、声で働きかける。音声で表現する舞台。  2.客によって自在に変わる。全くの第三者としての客。  3.ワンウエイでなく、ツーウエイで始まる。  4.他に誰もやれない。  5.有料、予約制。  6.リピート客が、やってくる。 プロシンガーは歌で魅了します。私は声の基準を一声で示しています。外国人もプロの人も、実力のある人ほど、すぐにわかります。  1.シンプル。 2.論より証拠。

○1日10編で2年、続けよ

 作詞の勉強をしたいという人がいます。まず自分で毎日10個ずつ書きだしてみなさい。それを2年間やると7000個できます。その中で自分の一番好きな詞を100個並べてみると、どれがよくてどれが悪いかということがわかるようになります。 その中から、一つを誰かに見せて指導を受けるのであれば、それはとても意味があります。つくる才能よりも、自分で選んだ眼力を問われるのです。 そんなことさえしないのに、最初から指導だけ受けていても、大したものにならないのです。

○現実をみる

 歌もアーティックなものも、そんなに日常から離れたものではありません。私もいろんな考え方、外国人からも理屈や体のことを勉強します。この分野の本も文献もCDも、入手できるものは、すべて知っておきます。しかし、今、行なわれていることの方が切実ということは、どこかで見ていなくてはいけません。 つまり、私の考え方よりも、今の若い人たちの感覚の方が正しい。それは、時は未来へ歩んでいくからです。人間のなかで、ものの価値は決まってくるからです。

○プロとアーティスト

 私は、ある面ではプロだから、そして状況に対応します。声がよいとか歌がうまくても世に出られない人は、その対応力、つまり客が来たいするものに対し、それ以上のものを返せない。そしたら、それは仕事になりません。 しかし、一方で今の業界にどっぷりつからないのは、アーティストとして自分の作品づくりを主に生きているからです。研究所は私のアトリエです。決して学校、スクールやマニアックな研究の場でなく、私自身が感覚や体を磨き、客の反応を知り、時代を呼吸しながら日本で作品を磨いていくところです。

 私は決して歌うことがアーティックなことだと、もはや思っていません。レッスンや、この本を書いている方が画期的なことのようにも思えます。音楽に対しても、幻想を抱いているわけではない。演劇でもスポーツでも、いや商売人、起業家、実業家でも、自分しかできぬ作品を人に働きかけているなら、全く同じです。 ここには、役者、お笑いの人、一般の人がくるのも、肩書きで人をみているわけではないからです。

○こだわり、煮詰める

 ただ、あなた方が間違っているのかは、今の時代の息吹は吸っているのですが、自分自身の中でまだ煮詰めていないことです。あなたがよりあなたであるまでに、徹底して、こだわっていないのです。 誰の中にも正解、その人にとっての歌もあるのです。それがこの程度でよいというところで終わっているから、伝わらないのです。 人前で問うたら、その判断が厳しくなります。そこまでこだわって深めてきたのかというところを出さない限り、人は納得しません。それは、少しくらい声がよかったり、歌が上手くてもダメなのです。

○やれるレベルと基準

 研究生はここでうまくなったというよりも、99%は当人がやって、ここでやったことは、それを導く核としての残りの1%くらいだと思っています。 そこで聞こえてくるものがあるとしたら、第一に、本当に真剣にそのことにこだわってやってきたという姿勢から伝わってくるのです。 すると、何を歌ってもだいたい伝わるわけです。ことばを間違えようが、そんなことは誰も聞かなくなるからです。そういう力をつけていく方向でやる方がよいと思います。 やっていく人へは、精神的なアドバイスや考え方を説くことが大切です。やらない人には、やるようにさせることが必要ですが、やりたくてやるのに、それはどういうことでしょうかね。

○歌は創造物

 彫刻の世界でも、焼き物の世界でも、何かを作るときには、まずこれで何を表現しようかと考えるでしょう。ところが歌や音楽をやろうとすると、いきなり違うところにいってしまうのです。誰かのつくった形にのっかり、そこからおりずにいくのです。

○偏見

 1.ロックは高音、シャウトが決め手。 2.バンドには、Bs. Gui. Dr. Key.、4人必要だ。3.高い声、低い声が出ないと歌えない。 4.声域は2オクターブ。 5.楽典、理論が必要。 6.絶対音感が必要。 7.ルックス、スタイル。 8.楽器ができないとだめ。 日常がだらしなくて、だらしないことばを使っていたら、歌もだらしなくなってしまうわけです。これはいつも前の世代の人からいわれてきたことですから、それはそれでよいのです。 しかし、歌にしても、一から始めるのであれば、詞や曲の世界ということよりも、体から声を発して、人に働きかけることをやった方がよいと思います。 体の次にそれを支え、効果的に伝えるための呼吸です。それから音の世界にそれをどう取り出し収めていくかということです。

○即興で問う

 向こうの人たちはみんな即興の力というのが問われます。だからここのレッスンのように、ワンフレーズを与えられて、自分の好きなように動かしてみなさいというレッスンが多いのです。 サックスのように声を出してみましょう。声だろうが、サックスだろうが、音の世界では同じなのです。 そこでのイメージが足りないときには、イメージを磨いていくしかありません。イメージはあるけれども声が伴わないとなって始めて、声を自由に使うためのヴォイストレーニングが必要になるわけです。 多くの人たちが、ヴォイストレーニングという方法論があって、ヴォイストレーニングをやっていたらどんどん歌がうまくなるように思っているのですが、そうではありません。 他人から与えられただけの発声トレーニングなどは、とてもつまらないもので、やらない方がましです。あなたが退屈に思うものなら、感性と歌を殺します。創造的ではないからです。私も、そんなことをする世界には、いません。

○音の捉え方

 楽譜で、音符が並んでいるのに、ことばがつくと、日本の場合は、だいたい、ことば、メロディ、音程という入り方でとることになります。 音を取りにいこうとするから、音程が外れてしまうわけです。そういうことを考えたところで、もう間違いなのです。 外国人はどうやっているのかということを聞きましょう。 日本人に足らないもの、入っていないものにはいけないものには気づいてください。でも、その反対に彼らが気にしていないものとか、練習していないことは、必ずしも練習しなくてもよいということです。 強弱リズムで動いているということは、メロディや音程に発音は二義的なものだということです。

○音楽の柱をたてる

 あまり、低音という感覚はないのです。三つのところで動いているとしたら、この後ろで伴奏が、どう打っているかを聞いてみましょう。 楽器のプレーヤーの演奏というのは、必ず音楽的に成り立っている柱をきちんと立てて踏んでいます。 外国人のヴォーカリストは、そのレベルで音声処理しています。日本人の歌い手の場合は、音のつけ方がいい加減になったり、フレーズをキープできない場合が多いです。

○強いのが高くなる

 原則として、高い音に対して、強く置いています。息を強く使っているという感覚です。これには、1オクターブ以上、ことばで処理(シャウト)できるポジションが必要です。 日常の表現と同じで、音の高いところが一番強くなるというわけです。ところが今の日本の歌の場合は、全部逆です。 高くなるにつれて、息を吐かなくなり細くなります。歌い方も時代によってずいぶん変わってきたと思います。ただ、なるべくシンプルに捉えた方が楽だということです。 これは、音域をとるための発声だけから考えると、反対したくなることですが。私は一声区の考え方です。

○難しく歌わないこと

 日本人の歌い手にはすごく難しく歌う人が多いです。たとえば、ベテランほどクラシックのように声量がなければ歌えないとか、難しい歌だと思わせてしまいます。そこでもうすでによくないのです。 一つには、日本人の歌が母音共鳴で伸ばしていくためです。つまり、体や息が足らなくなるし、ひびかせ方がポイントとなってしまうからです。棒読みから棒歌いになっているのです。しかし、声のよさ、ひびきの美しさを人々は聴いていたのです。つまり、予定調和、ウィーン少年合唱団のような世界をめざしたのでしょう。 しかし現実に、声はいろんな感情をことばにのせて吐き出します。歌という音楽にしたところで、そこにある感情は生きています。より効果的に計算されて使われているから、作品なのです。 声そのものの魅力、それとそれをどう使えば、どう人の心に働きかけるかの効果を知り尽くしています。

 そこでは、安易に発声で伸ばすことはしません。むしろ、最小の声で、最大にどう感じさせるかを示してくれます。声の場合、楽器以上に音色も使い方も自由です。だから、基準もやり方も、難しいのです。つまり、名人のデッサンなのです。 私も、ことばやフレーズでは、働きかけられます。それで多くの人は、わかってくれます。1曲をもって、しぜんに最高におさめられる人をもって、ヴォーカリストと呼びたいものです。 外国人の歌は、誰でも歌えそうでいて、実際に自分で合わせて歌ってみると、声が届かないとか、のどが締まっていくようになってしまいます。 でも彼らがすごく簡単に歌っているのは、それを完全に消化して、体でシンプルに取り出しているからです。それは自由に作るために必要だからです。

○伸ばさず切る

 日本人が思っているほど、彼らは歌っていません。伸ばしていないのです。伸ばすということは、創造できる個所を少なくしてしまいます。強く踏み込むことによって、そのあとに間ができるのです。その間のところでいろんなことをやるから働きかけるわけです。

○インパクトは声量でなく、鋭さ(ピアノの例で)

 そもそもインパクトは声量でなく、切り口の鋭さなのです。

○ひびかさず、練り込む

 「ハイ」というのは、基本の練習です。発声というのは、きれいに息が混じらずに響かせるように思われていますが、本当にそうでしょうか? 声をコントロールしなくてはいけないのですから、まずは、握ることです。声の芯を捉えておけばよいわけです。その芯を、外国人の歌い手はみんなもっています。それが息音として、聞こえるのです。(ヤッホー) 下手な歌い手というのは、キンキンと響いているだけです。息が浅くて、体が結びついていないのです。口の中で音を作っているわけです。 今の10代の男の子は、たいてい生声です。口内音で作っているから、マイクを近づけても入らないわけです。 発声の原理からいうと、一番、正しいのは、遠くに聞こえる声です。それが共鳴がよい声だということです。小さくしても、聞こえる声が共鳴している声で、マイクにもスムーズに入りやすくなります。つまり、どこにも妨げられていない声だから、正しいとわかるのです。

○アカペラ、マイクなしでみる

 今のJ-POPでは、マイクにリバーヴをかけまくっていますから、森の中から遠く声が聞こえてくるような感じがします。たくさんの加工が入って、素人には、いえ私にも地の声はわかりません。 昔のものは生でストレートに入っていますから、その人の体が見えます。あまり加工していない録音のものが、使いやすいのです。 ましてやアカペラやマイクを外して歌っているものがあれば理想的です。舞台でもたまにマイクを外して歌うときがありますが、そういうときの声は生の声ですから、わかりやすいです。 今のマイクは高度な技術ですから、プロデューサが一流であれば、誰が歌ってもそれなりのものができます。その辺で、今は基準が取りにくくなっています。(カメラマン)

○深い息のh

 強弱というのは、息を深く吐いて、そこに中心、つまり芯のようなものができていくのです。だいたいは、これが拍、吐く、つまり強リズムになります。この息から声を作るときに、息を妨げると、いろんなノイズ音が出てきます。そのノイズ音が子音であり、様々な音色なのです。 日本人は、一つの声しかないとよくいわれています。残念ながら、歌い手も同じようです。 これも、特に高音をとるのに平べったく薄い声でひびかせ、点であてる、そのため動かせないし、ひびきやシャウトにももってこれない、したがって音色もほとんどつかない貧弱な没個性的な声になるのです。日本人の若い女性の歌声は、とても似ていませんか。おかしなことでしょう。

○トレーニングをやらずにやれた人のことは、できない

 きれいな声で歌える人はどこの国にもいますから、それはそれでよいのですが、声が魅力的で、もうそれを聞いてしまったら、歌がどうであろうと、その声に惹かれてしまうという人が何万人に一人くらいでしょう。でもそれはトレーニングではできないことです。 でもトレーニングをやらないでできている人を追いかけることほど、難しいことはありません。 白鳥英美子さんやカーペンターズのカレンなどの声質、これは生来の楽器そのものの性能です。トレーニングでは、できることをやるしかないわけです。そうすると、声そのものをよくするよりも、使いやすくするという基本に戻らないといけないのです。

 なぜここは今のJ-POPの歌い方を教えないのかというと、日常の声レベルのパフォーマンスだからです。せっかくお金と時間を費やしたのに、カラオケでほかの人並に歌えたからというなら、プラスマイナスでゼロです。気づくということにしても、今流行っていることをやっても遅いわけです。しかし今から30年前から伝わってきたものに学んだことは、あと10年経ったとしても、褪(あ)せないのです。

○世界の一流に範をとる

 私は、カンツォーネ、シャンソン、ジャズ、オールデイズを中心に使っています。それは日本のものやロックだけを取りあげるよりも、世界中の音楽の方がいろんなリズムや発声が入っているということ、さらに時代を現実に動かしてきた何か、思想とか表現が入っているからです。 そういうものがなければ、本当に人の心に伝わらないし、残らないのです。人の心に残り、他の人にも伝えたい、後世の人にも残したいと思うから、すぐれた作品は永遠の生命を得るのです。 いったい歌にする必要、歌う必要があるのか、せりふで伝わることはせりふでやる。だから私は講演でやり、活字で伝わるのは本やHPや会報でやる、それで講演は、本でできないことをやるわけです。それを含めて問うからこそ、どう歌うかということも定まってくるのです。

 しかし、文化、芸術、そして応用された作品である歌の判断は、やっかいです。アートであるから好きなファンも嫌いな人もいる。人に働きかける以上、誰かの心には入るけど、誰かには嫌われることもある。 そこでやっかいなのは、歌うということ―。研究所ですぐれた歌を聞かせても、「私はその歌を歌いたくない」「そういう歌い方はしたくない」「そういう声をめざしているのではない」ということになるのです。つまり、歌手やトレーナーの歌をまねることは、こういう非創造的な時間になりかねません。歌でなく声のフレーズ、働きかけにこだわるのは、そのためです。

○普遍的なものをめざして

 何でも同じなのですが、人間の中で表現できるものというのは、喜びや悲しみ、人類愛とか大自然とかで、だいたいそれくらいなのです。 だから、歌詞とかメロディではなく、そこまで戻ってみることが基本だということです。そこまで戻ってやっていけば、いろんなものがとりこめるようになってきます。 今の歌は、形が先に作られてしまっているので、それをそれなりにできたところで、どれだけのものでしょう。その中で何も動かなくなっているわけです。

○一フレーズから聞きとる

 自分が気づいたことがあれば、それを家に持ちかえって、100回でも1000回でもやってみるのです。最初は、その気づきのために、後には人への働きかけのために、こういうところに来なさいといっています。だから毎日でも、月に一回でもよいのです。もちろん、毎日が理想的ですが。 一人の歌い手の一つのフレーズの中に全部のノウハウが入っているのです。それを聞きとれないことが問題なのです。もし自分がフレディマーキュリーやマライアキャリーのようになりたいと思って毎日それを聞いていたら、そうなれるでしょう。そうなれないというのはどうしてでしょうか。

 体や感覚が違うこともあります。しかし、そのイメージとか、そのバックグラウンドにあるものが取れないからです。さらに、楽器そのものの限界もあります。 もちろん誰でも表向きは取れるのです。ことば、メロディ、リズムの形は、練習すればとれます。ただ、表向きの誰もが取れるところを取ることは、すでに間違いなのです。

○アマチュア感覚を脱する

 アマチュアというのは、絶対に真似してはいけないところだけを取っていくのです。プロの人というのは絶対にそこは取らないで、感覚でとり、自ら変じて正します。プラスのところだけをつないで、あとのマイナスは除いていくわけです。 だから、歌という作品を最初のワンフレーズ聞いただけでもわかります。 映画でも最初の5分を見たら、おもしろいのかつまらないのかがわかります。俳優などが監督をやり、自分の思いこみを入れてしまうと、長くなって切れなくなり失敗することは、よくあるのです。 映画監督というのは、それをばっさりとやれる人です。歌でも同じです。

 ところが日本の場合は、たくさん歌った方が偉いとか、あとで最後に歌った方が偉いとか、そういう違う思惑があるのです。2分間を持たせられない人が10分間、歌っても迷惑なだけです。結局1曲でよいところだけ出すことが有利です。 デモテープで、10曲も持ってくるということがどんなに不利かということがわからないのです。 人の印象に残るというのは、できるだけ短い時間でたくさんのものを多くの人に与えることです。未知の可能性が最大の魅力です。 だいたい2曲くらいを聞けば、その人のキャパシティはわかります。それで全部わかってしまうということは、それ以上の魅力がないということです。 この人はもっと他にもいろんなことができそうだと思うから、また次も聞きたいとなるわけです。

○マックスとミニマム

 練習というのは段階として二つあります。最初は最大で最大を出していくのです。しかし、ある段階からは、最小で最大を出していくことをやっていかなくてはいけません。それはどこかで切り替えなくてはいけないのです。

○トレーニングは、キャパを拡げる

 声量でも音域でも、最初は出せるだけ出しておいてもがよいのです。それも、体の原理や理想的な働き方と関係します。 しかし、バッターはストライクゾーンだけを確実にヒットにすべきで、どのようにもバットが当たるようにする必要はありません。日本のヴォーカリストをめざす人は、そういうことばかりを発声練習でやっているように思えます。 間違えていけないのは、声量や音域があっても、作品になるわけではないということです。 その作品を伝えたいがために、自分の一番よいところだけしか使わないのです。作品に最も効果的にという観点から使うのです。声量も使わず、音域を下げて歌うこともあるのです。 ところが日本の場合は、声域も音量もないから、一番高い音に合わせて歌うような安易なやり方をとるのです。

○学べなくなる

 トレーニングや音楽の勉強をやる前には、本質的なものが見えていたり、純粋に聞こえていたものが、練習を一所懸命やることによって、見えなくなってしまうことはよくあることです。不幸なことは、本人がそれに気づかないことです。 常に考えておいてほしいことは、ヴォイストレーニングの方法があるのではないということです。 声が出にくくなったとか、音がとりにくいとか、そんな一時的な現象の解決でなく、アートとして、何を滋養とするのかで、みて欲しいのです。将来、自分が柔軟に動けるようにするためのものを得ていくためにやることです。 基本がどこでどのように開花するかは一人ひとり、プロセスも時期も違うのです。

 日本のようなところでは、5年や10年続けてみて、自分がどうなっていくのかというようなことは、ほとんど何も経験せずに育っています。そこで、どうしても器用な人がやれた気になってしまうのです。 1、2年でやれないと、やり方のせいにしてやめてしまう人も少なくありません。とても、もったいないことです。 仲代達矢さんも、何度も声を壊してあの声を手に入れました。 外国人は、生涯を通じて何を成したか、人々に届けたかということでみています。 日本の場合はテーマパークと同じで、何万枚売れたかとか、何人お客が入ったかで決まっていくかのようです。もちろん、動員数や売れ行きも一つのバロメーターです。しかし、皆さん自身の目的をはっきりさせていくことです。

○説得力のある声

 日本の発声練習というのは、「ドミソドソミド」というようにだいたい点を取りにいきます。そこで薄っぺらい声になって、みんな同じような音色になってきます。 外国人のように一人ひとりが全然パワフルな違う音色にはなりません。 こういう練習というのは、次の1オクターブを取りにいくためには必要なのですが、ポップスのように1オクターブくらいで歌えるものに関しては、むしろその中で、どこでも自由に使える声を優先すべきです。体を入れた声でないと、説得力が出てきません。

○プロと接点をつける

 ヴォーカルから学ぶときには、このフレーズを同じ密度で出すと、この人は7秒持たせられるけれども、自分は2秒しか持たないとか、あるいは同じ7秒を伸ばしたら、この人は声に厚みがあるけれども、自分のは薄っぺらくなるとか、そういうギャップを見ていくことです。 そういうイメージを自分の中で持つことができれば、だんだん体や感覚というのは変わっていくのです。 まねするのでなく、入り込んで感じて変わっていくことが大切です。変えるのでなく、変わるのを待つことです。 私の歌い方はこうだから、声も違うし歌も違うといっていたら、接点がつかなくなってしまいます。

○まねてはいけない

 日本の歌の勉強の一番ダメなところは、だいたい見本とする人の個性や雰囲気、情感みたいなものをとってしまうのです。 これで演歌とかシャンソンはよくなくなっていきました。 とってはいけないところをとるからです。歌い手とお客との中で成り立っているもので、ある時代に応用されている応用例の一つにすぎないからです。 皆さんがやるときには、息とか体は同じように働いていても、出てくるものは違っていなくてはいけません。 感覚が麻痺してはいけません。今、聞いている人たちの心に対して、表現として出てこなくてはいけないのです。

○日本語でない発声ポイントをつかむ

 たとえば外国人だったら、ことばのところでそのまま歌い出していきます。要は、あとで自由に動かせる方が基本としてはよいわけです。 口先で作ってしまうと、そこから先は動かすことができなくなります。 ただ、カラオケみたいに、まとめて形として歌うのであれば、それでもよいのです。 トレーニングのプロセスにおいては、そこで自分の表現が出せるように、基本のことをやっていくわけです。「アベマリア」の「ア」や「リア」などは、より母音の深いところをとっていくのです。これは日本語のポジションではありません。 クラシックではどちらかというと、先に上に伸ばしてから下の胸の方につけていくというやり方をとります。原調で歌うための高音域獲得が優先されるからです。しかし、のどを使わないということでは共通します。

 ただポップスの場合は、のどを使っても構わない場合もあります。 要は、再現できるか、できないかということです。その人ののどが強くて、いつでも同じことができるということであれば、使っても問題はないわけです。 その辺の判断は、実際にやってみないとわからないこともあります。 役者の1、2年目というのは、体の中に声を入れていくやり方をとります。これものどをストレートには使ってはいけないのです。 日本の歌い手や役者には、のどをつぶしている人もいるので、気をつけてやることです。

○音声の基準

 ヴォーカルの上達に、基準はありません。それぞれバラバラです。昔は私も声を基準に判断をしていたのですが、最近のように音響技術が進んでくると、判断基準を若者の耳にも応じて変えるところも必要です。 私は音声そのものにある感性や働きかけでみます。※ 要は、個性、売りものというなら、トレーナーができないことがやれるかどうかという判断です。トレーナーというのは器用ですから、他人の声や歌をまねることくらいできます。 そこでできない何ができるかとなると、その人の音楽性、音楽観になってきます。声の違いではない。作詞作曲なども、声の使い方での力にはなると思います。 日本の場合は、それに対しルックスやスタイル、若さなども有利です。しかし結局は、総合的なステージ力ということになります。

○耳の衰え

 最近の私のレッスンでは、歌をどう聞いていくかというイヤートレーニング、表現や舞台に何が足らないかということに気づかせるため、どういう教材を放りこむかというベースのものを入れる方に時間を費やしています。 私の頃はラジオを聞きながら歌詞を書きとめ、イヤートレーニングがなされていたのです。 最近の人たちは目で見ているだけで、耳で聞くことをやっていないのです。 真剣に聞いている人は、あまりいません。耳の力が弱いのです。 英語の発音がよくなったといっても、口先での発音がよいだけで、プロのような柔軟性はもっていないわけです。 私は、フランス語もイタリア語も、ポルトガル語、スペイン語なども使っています。そういうもので耳と声を扱う器官の柔軟性を養うためです。 さらに日本語をつけて歌っていく。すると、それなりに感覚を移動させなくてはいけないし、体で足らないものもわかるわけです。【講演会2 01.4.6】

○講演会のスタンス

 講演会をどういうスタンスでやるのかは、皆さんの話を聞いて決めています。先日までベトナムとカンボジアに行っていました。またニューヨークに行かなくてはいけない。私はいつもそうやってバタバタとしています。 研究所は16歳から50代の人まで来ています。ましてや講演会には、さらにいろんなところで指導されている方、プロで活動している方、合唱団の指揮者の方、あるいは小・中学生まで来ています。それぞれの目的を明らかにし、共有した後、進めていきます。

○オリジナルの声

 ここでいうオリジナルというのほ、独特のとか、個性的なということではなく、元来のという意味です。 太鼓と同じで、どこを一番叩けば響いてくるのかという部分が決まっている。人間の体には、元々体がうまく働く原理があります。その原理を無視すると、うまく使えません。 声帯を壊すと、ハスキーな声になるといっても、音域も柔軟な対応もできなくなります。楽器として壊すことはよくありません。

 そういうふうに考えたときに、スポーツと同じで、体の部分は変わっていくのだから、強ければ強いほど、使うかどうかは別として、条件としてはもっていた方がよいという考え方をしています。難しいのは、息から声にしていくことです。 いろんなやり方もあるのですが、私はやり方を介在しないで体と声が結びつかないと使えないと思っています☆☆。 たとえば音域を重視してとっていくのと、声量を重視してとっていくのとでは、すでにそのやり方は違ってくる。まして息を確実に声にするのと、息がその中にたくさん通うようにするというのでも、違ってきます。ここでいろんなバリエーションが出てくるのです。

○声楽と見本

 本当は、音楽の世界から考えた方がよいのですが、そういうと、まだ音楽の世界がわからないとなってしまう。そこで原理の方からやっていきましょうとなるのです。その中で一つ決められた土俵をもってやっているのが声楽の世界です。 声楽は、特に10代の人で、のども弱く、声帯も強くない人によいと思います。音大生がやれるようなことはやっておこうということです。体よりも響きをもって、のどを外すやり方とか、音の中でどれだけ丁寧に音を扱わなくてはいけないかということを勉強するのによい。要するに、音の使い方の部分の練習にするとよい。

 ただ、声楽にも、トレーナーを見つけるのに苦労します。自分ではできても、人には伝えられない人も多い。小さい頃から環境が整っていて、習得のプロセスがわからないまま身につけてきた人も難しい。 たとえば、一つの音を出し、それを正しくとれない人に教えられるのは、それを克服して音が取れるようになった人が最適でしょう。最初からその音が取れていたという人は、方法やプロセスがわからない。だから、いろんなタイプのトレーナーがいるし、いてもよい。いろんなトレーナーの中で、自分にフィットするものを自分が選んでいく。トレーナーがどんなにその見本を見せてみても、そのことが学べるということとは関係がない。それでできたら、ビデオを見ているだけで、できているはずです。

○呼吸トレーニングと体

 深い声は、わかりにくいので、わざと息の音に出します。これを完全にコントロールしなくてはいけない。日本人の場合は、ほとんどが母音中心で、響かせていきます。 胸声しかやらないのかと聞かれるのですが、あまりこだわっていません。バランスをとるのに、下の方を鍛えようということです。全身を使うことを覚えるためです。 腹式呼吸の練習でも、横とか後ろを使いなさいというと、前は使わなくてもよいのですかといわれる。前は黙っていても使っている。前の部分を鍛えていくよりも、横や後ろは使っていないのですから、そこを1にしていく方が大変なのです。だからトレーニングとなるのです。 そうやって5、6年経つと、前と同じように横や後ろの部分も動いてくるようになります。そして、歌のときに体が自然と動くようにつながっていく。

 それを1日とか、1年でやりたいといわれてもどうしようもないのです。そのくらいは、器用な人であれば、もうできています。 根本的な考え方として、誰かがどんなに努力してやったことというのも器用な人は1ヶ月でできてしまう。でも3年以上やったことというのは、どんな器用な人も、ある程度の努力が必要になってくる。まして5年になってくると、ほとんどの人が辞めてしまい、他の人は真似できなくなるのです。その人がそのことを続けているかどうかということです。3年くらい経たなければ、人と差をつける一歩さえ、踏み出せないと思います。

 確実に変えていきたいならば、一番のベースは体です。体というのは、最初はやればやるほど変わってきます。最初はかなり変わっていきますが、5、6年経つと、体はそれほど変わらない。そこから感覚の部分が変わってきて、1秒、あるいは0.01秒の世界がわかってくるのです。そういうことが見えてきて初めて勝負できるようになる。そういうギリギリの部分で音楽もやっていかなくては、変わってはいきません。 変わっていくことを、判断していくのは、息が声になるときの体の状態です。体も息も声も、それぞれに鍛えていくのですが、その結びつきというのがもっと大切なのです。 一つのことばで「ハイ」と出したときに、体のどこにも響かすにまっすぐに出せることが大切です。自分の出した「ハイ」の中で、どれがよいのかわからないといわれるのですが、自分自身で厳しい判断で見ていくと、そんなに間違わないでしょう。

○確実なトレーニングとは

 たとえば、トレーニングになる部分というのは二つあります。一つは体が変わっていくという、条件の部分と、もう一つは、その使い方が変わるという、状態の部分です。状態というのは、リラックスしてやりやすい状態を作る。そうすると、歌には入りやすくなります。それでも自分の最高の状態にはいかない。そんなにあやふやなところに、トレーニングはおけません。

 トレーニングは条件を変える方向でやる。誰がどう見ても、こいつはピッチャーとしての筋肉をしているというところでやっていかないと、本当の力にはなりません。 トレーニングというのは、変わるところでやらなくてはいけないという限定がある。オーディションか何かであれば、使える人をとればよい。研究所では、どんな人を引き受けても、その人に対して変わっていくところをやらなくてはいけない。それを、その人の感覚には頼れない。勘がよい人しか伸びないといっていたら、誰も伸びなくなります。 スポーツで考えてみると、クラブでバスケット部に入った人が一番うまくなる。それは体が変わる時期に、バスケットに必要な筋肉などが発達して、その体の使い方などが身についていくからです。それでプロになる、ならないというのは、さらに別の問題です。

○プロへの方法

 プロになる条件とは、そこで頑張ることではなくて、きちんと将来の出口を見られることです。試合に負けたときに、朝練をやろう、練習時間を延ばそうかといっても、大して効果はない。相手も同じように練習しているのですから、それで勝てるはずがない。しかし、やらなくてよいというのではない。 そのときに、コーチや先輩などが、一流のNBAの試合を見て、自分たちのビデオを見て研究しなくてはいけないといっていたら、違うでしょう。根性で何とかなるものではないということです。こういう分野でも、多面的にやっていくことは大切なことです。それぞれのトレーニングに、具体的方法をきちんと置いていくということも大切です。 発声の練習といっても、その中に細かい目標があり、それに対してどういうトレーニングをセットするかというようなことが問われるのです。そうしたら、人が作っているメニュくらいでは足りなくて、自分のメニュが必要になってくるはずです。

○状態から条件に☆

 状態が満ち足りてくると、条件が変わってきます☆。本当はこのプロセスが一番よいのです。 自分がステージで、本当にこれでは足らないと実感するから、状態で対応し、対応できなくなって条件が変わっていく☆☆。 たとえば、「ハイ」というのも、どこかに響いていると思ったら、どこか部分的に当たっている。よくありません。「ハイ」一つにしても、必ずきちんと自分の呼吸を整え、姿勢も正し、テンションを高めて集中してやることです。 そうやって状態を整えてやると、どこにも触らない声がでます。どこかに当たるということは、自分の中では響いても、自分の中で回っているだけです。伝える声にはなりません。

 声の判断の一番難しいところは、客観的に聞けないことです。そういう意味で、その声の邪魔をしないということで判断していけばよい。邪魔をしないためには、どこかでつかんで、それを支えていないといけない。リラックスしてみてもやれないということです。そのための支えられる条件をきちんと体から整えなければいけません。 「ハイ」一つにしても、一音としての基準がある。この「ハイ」を何十回できたからと、それでプロにはなれません。プロとしてこのレベルで声を使っている人が、これを100回やったら、のどにきたとか、声がかすれたということはありえません。歌はこれよりももっと高いレベルでやっているからです。 そこの音楽的イメージや動かし方というのは入ってきますが、発声の原理からいうと、声の応用になります。それを楽器として見ていくのは、次の段階です。

○声の技術とイメージモチーフ

 歌から音楽になるという部分で、本人はそんなことは考えていないと思いますが、声の技術を見せています。日本のヴォーカリストはほとんどこういうところを省きます。外国のヴォーカリストは、4分の歌のうち、1分くらいは声の技術を見せている。スキャット的にやたり、長く伸ばしたりします。私はこの歌を、私の持っている声や音色、このデッサンで描きますという部分でやっているのです。つまり、ここはモチーフを見せているのです。 ヴォイストレーニングでやるべきことは、ここまででよい。それが歌にどういう形をとるかというのは、ステージでやればよいのです。 そういうイメージを持ったときに、声がそのとおり動くようにやる。そのデッサン練習は素振りのようなものです。とにかく完全に振っておいて、バットがボールに当たればホームランになるという、体と感覚をもっておくということです。

 それとともに、ボールのミートポイントのときに、同じような振り方をしていたらダメです。そこで一番早く当たるように加速度をつけ、そのあとに抜けるようにする。そういうことを全身にきちんと叩きこんでいく。全身で歌っているのか、口先だけで歌っているのかという差が、世界の大きさとして出てくる。耳で世界のレベルを知ることからです。 歌でも、その人に音楽が入っていたら、ただ、しゃべっているだけでそうなるでしょう。 よくしゃべっている声と歌っている声は違うという人もいるのですが、他人の受け売りのまえに、きちんと現実を見ればよい。

 この中で高音発声や、ビブラートとシャウトをどういうふうに使っていますかといっても、そんな技術などはいらない。そういうと、すごくいい加減かもしれません。でも、そんなことを勉強して何か意味があるのかというと、コピーもどきで、まず使えないはずです。 豊かなイマジネーションや心、気持ちから出てきたものを、誰かがそう名付けているだけです。当人たちはそんなことは考えていない。 そういうことを考え出すと、余計にややこしくなってきます。実践で使わないものはやらなくてもよいのです。全部をやらなくてもよい。トレーナーなら、少しそういうこともやらなくてはいけませんが、アーティストは自分に必要なものと、そのなかで強いものを見つければよいのです。

○結果オーライの演奏感覚

 今日かけているヴォーカルはほとんどそうですが、結果として歌えているところが、テクニックになっている。テクニックの習得からは入っていません。「呼吸を一つでも間違えたら終わり」、それが彼らの感覚なのです。ボクシングと同じです。 それに対して、日本の歌というのはそこまでのテンションは求められていません。シャウトも嫌われています。雑だから仕方ありません。声しか聞こえてこないなら、表現ではありません。ただ、何かを壊していかないと新しい世界はできていきません。 普段、皆さんはこのくらいのヴォリュームで気持ちよく聞いていると思います。その気持ちよさをそのままやろうとするから、間違いが生じてしまう。

 その気持ちよさというのは、あくまできちんと支えられたものであって、その支えるところを勉強しないといけません。そして、支えもいずれ、離していくのです。 歌の勉強の一番難しいところは、真似しやすいところは、絶対に真似してはいけないところです。アマチュアはそれをまねる。たとえば、歌い手が伸ばしていたら、それをそのまま伸ばします。見本がそうやっているから、何も考えずにやる。

 そこを伸ばすには、伸ばすための理由があるのですから、学ぶとはその理由を取らなくてはいけないのです。その理由を取った結果、自分の体とか声が反することであれば、それは切らなくてはいけません。 誰でも真似できるところではなく、誰もが真似できないところを取らなくてはいけない。その歌い手の磨かれている部分を、鈍い感覚で移し替えようとしたときに、間違いが生ずるのです。ただ、こういうタッチもあるのかということで、真似をしてみるのはよいと思います。

○体とイメージでもっていく

 これを体の世界にもっていこうとするなら、ヴォリュームを大きくして聞いてみる。すると、この人の体が少しは見えてきます。 ヴォーカルスクールなどは、この「ハァァ〜」のような発声ばかりを練習するのですが、こういうところは、練りこんだらしぜんとリラックスして、声が深くなるわけで、練習しても仕方がない。 どこを勉強しなくてはいけないかというと、高いところが出ないとか、声量が足りないということではありません。たった一箇所でもよいから、これと同じテンションで入れること、そこを探すことです。 このくらいの音量で聞いたら、誰も棒立ちで歌っているとは思わない。目をつぶって聞いてみると、このくらいは体を使って歌っているだろうと想像できると思います。自分の体もそういう感じで動いてこない限り、このレベルで声を統制することもできないし、それを発することもできない。

 それが体ではわかってきたが、声にしたときに声にならないという問題が起きてくるから、トレーニングになるのです。その前提として、体の支えや筋肉、息が必要になってくる。具体的にそういう問題を一つひとつ置いていかなくてはいけないのです。 こういう歌は声楽からみると特殊な歌い方です。でもポップスでは、話すように歌ってもよい。その方がずっとよい。 たとえば、この出だしの「スィー」だけの勝負です。いろんなものをつけて歌うのですが、技術が見えたら終わりです。誰もこういう歌い方を真似することはできません。人が真似できない部分を持つことが大切なのです。

 こういう曲をかけると、高いところや大きく声を張り上げるところだけを練習したがる、そうではなくて、この曲のイメージを、どういう絵にしていくのかという部分を出さなければいけない。 まして今は技術が発達していますから、声域とか声量が問われるのではない、その人の音色とかデッサンが問われる。そこに、その人の示したいもので、かつ他の人が示せないものが何もなければ、どうしようもないのです。

○器

 もっと鋭い感覚で、ことばと音楽にするということが、同じであって同じでないという部分を見ていくのです。彼らはことばの中に、このくらいの感覚を持って、それが音楽になる、そこを聞いてみてください。 たとえば、この「セレーナ、イヨーエロー、セレーナ」というフレーズが、2年でできたら相当早い。 毎日、一所懸命にやって、それで2年で1フレーズくらいです。 1オクターブではなくたったの2音だけです。そんなことをやって意味があるのかということより、そうやっていかないと本当のメニュができない。 ここだけをきちんと完成することができれば、あとはそれが半オクターブあれば歌える。声を半オクターブも扱えれば、1オクターブ半くらいの歌は歌えます。

 一つの音さえ握って動かせないから、苦労するのです。いや、できていると思って、見えないところがいつまでも見ないから、苦労もできないのです。 こういう人の歌を聞いてみると、高音発声や、裏声などは、こういうことができてからの問題ということもわかると思います。音楽的に遅れたり、ためて入ったりしても、結果的に持っている。そういう見方ができるように、勉強はしていくことです。

 基本は応用とは違います。歌は応用です。応用というのは、その国で、そのステージで、そのお客さんの中で通用すればよいのです。基本とは、どの国にいこうが、何年経とうが、同じです。そして、いつでもどこでも通用するというものでなければ、基準の取りようがありません。そうでない限り、そんなにいい加減な基本をやる必要はないのです。 やらなくてもよいところに時間を割きすぎている場合も多いです。それはエンジンをまだ大きく使える可能性があるにも関わらず、自分で限定して、小さなエンジンでやろうとしているようなものです。どちらを取るかは自由です。

○音程感覚

 日本人と外国人の感覚の違いを具体的に話していきます。ここのレッスンは日本語をつけてやっています。私たち日本人は「レミファミミレレドドシシ」のメロディをとります。でも彼らは、高低でとるのではなく、強弱で捉える。 こういうことは、欧米人が優れていて、日本人が劣っているというのではなく、文化の違いからです。しかもどちらを選ぶかでなく、両方できた方がよいということです。 どちらを選ぶのも勝手ですが、向こうの感覚の方がシンプルに捉えているということです。大きな歌を日本人が歌うと、すごく複雑で、難しくなってしまう。そのためにかなりの技量が必要になってきます。そこで使われるほとんどの技量は声楽です。

 それに対し、向こうの人は吐き捨てるように歌っているだけです。ポップスはそういうところの、日常から出てくる音楽でよいと思うのです。 彼らは音程を意識していません。皆さんも自分が気持ちよく歌を歌っているときは、音程は意識していないはずです。そういう問題が起きてはいけないのです。 そこで音程を覚えて直しても、別の曲になったときには狂ってしまうのです。その音が自然に取れている人とは、感覚から違う。そこを根本から改めないと、いつまで経っても音程が悪い人は直らない。しかも、その音は呼吸で支えられていなければダメなのです。流れをイメージとしてとるトレーニングと、そこに声を動かすトレーニングが必要です☆。

○小さな声やリズムの支え

 私はどんなに小さな声にしても、どんなに低い声を出しても、伝えられます。体で支え、テンションも保っているからです。 ところが日本人の感覚では、低くて小さなところは、息も体も入らない。口先で歌う。当然のことながら音が狂いやすくなります。どんなに小さく出すにしても、体で支えていなければ、表現として支えられない。そういう体の循環をきちんと作っておかないことがミスなのです。一番根本的なミスは体と感覚のところのミスなのです。

 たとえば、リズムが悪いからといって、そのリズムを丸覚えしても、その人の体の中にリズムが入っていなければ、決して心地よくない、違うリズムになったときに外してしまいます。ロックを歌っていようが、演歌を歌っていようが、いろんなリズムの曲を使います。そこでできないということは、ロックのリズムもきちんと取れていないということなのです。ボサノヴァのリズムを歌わないからといっても、対応できないなら基本が欠けているとみて、トレーニングすればよいのです。そうやって課題をきちんと置いていかないといけません。自分のやりたいことだけをやるのではなく、そういう気づきの中でやっていくことです。【講演会 01.7.8☆☆☆】


■新入懇

○改革とは

 ここの価値観を考えてみてください。何を優先し、何を落としていくかということです。次にどういうふうに考えるかということです。 皆さんはまだ入ってまもないので、新鮮によいところも悪いところも目につくと思います。何でも思ったままにいってください。できるだけこちらも皆さんの現実にそうように変えていきたいと思います。理想は理想として、現実が動かないと仕方がありません。 最近は柔軟になっているので、こんな失礼なことを言ってはいけないということもよいです。ただ、こちらの立場までは考えなくてもよいのですが、常識的に考えてみてください。

 たとえば、値段を安くしたら時間が短くなる、広いところでやるなら値段は高くなる、そう望むときに必ず矛盾してくる条件というのがあります。そのよいところだけを全部並べて出してこられても困ります。ここもギリギリの線の中で、ここをきちんと使えている人の感覚を考えながら運営しています。 トレーナーの才能を、皆さんにセットするのに、いつも、今のやり方がベストとは思っていません。

 いろんなことを決めていくということは、何かしら限定が出ながら、その中のどれを一番にとっていくかということです。それぞれ違うと思います。夜の9時くらいの授業があった方がよいという人と、午前中のレッスンがある方がよいという人もいると思います。それをどこの線で引いていくかということです。 いつも私の中では、全部をなくしてみて、誰もいない、何もないというところにおいて、そのときの理想というのは何なのかということから考えています。長い人は10年以上います。歴史をもってしまうということは、不自由になることです。それを改革できなくなったら、今の日本の企業や政府と同じです。

○人前での実感を得ること

 みんなに同じようなことをいわなくてはいけないのであれば、一人に時間を割くよりも、一時間をみんなに割いて、それを半分でもとった方がよい。とる方がとれないと、自分のことは何もいってもらってないとなります。それなら、今の流行りのように、全部を個人レッスンにした方がよい。 グループに30時間くるよりも、3時間の個人レッスンの方がよいという人も多いようです。どちらともいえません。 声をよくする、歌をよくするということより、人への働きかけがどうなるかということ、どうやって人が人を認めていくのかということ、何に心打たれるのかということを知るのは、大切です。同じ舞台に立って自分でやって、たった一つでもよいから実感をつかんでいくということが、大きな問題になってきているのです。その力がないと、声が出ても、歌がうまくてもやれないのです。

○何が問われるか

 ヴォイストレーナーなども、歌がうまくても、顔やスタイル、音楽的才能、オリジナリティがないということで、やれないと判断される。 皆さんが一番つけていかなくてはいけない力は、一人でやれる力です。それを持った上で、声とか歌とどう絡み合っていくかということが、大切です。 これだけ音響技術が発達して、どんな人が歌ってみても、それなりに聞けるものになるのですから、その中で何が問われるのかということは、時代とともに読んでおかなくてはいけません。 声や歌よりも、それによって開かれていくというような人生を、どう構築するかということを伝えなくてはいけないと思っています。

 そのためには、自分を疑ってみる必要がある。 私は10代の頃はやれていなかった、顔もなかったし、声もなかった。まだ大人として一人前に通用していない自分は、間違っていたと思ったのです。10代でもやれている人はやれていたからです。今でも14、15歳でやれている人はたくさんいます。それは幼い頃からやってきているからです。ただ、それを30代、40代になってもずっと長くもっていると、もっと難しくなります。頭が固くなり、プライドが邪魔するからです。実績がないのに、人に頭も下げれない人を誰も使ってくれないのは、あたりまえでしょう。 そうしているうちに無駄なことに時間もかけられなくなるからです。あなたが思っている自分は、何ら特別でなく、他の人と同じような自分だということです。やれるということは、世の中と接点をつけていくことの上にあるのです。それは、決して仲間うちでやって、やれていくものとは違うのに、そこをわからないのです。

○お笑い界に学ぶ

 吉本興業、萩原欽一さん お笑いの世界の方がよっぽどわかりやすい。自分がやれるかやれないかということを、自分で問うためにも、今のお笑いの中に入って見たときに、どのくらいの位置付けがとれるのかと考えてもよい。いろんな意味で相当足らないものがあります。それが勉強の目的になります。 歌とか声の問題ではなくて、問われているのは感覚です。鋭い感覚を出して、それを音楽的に処理しているかどうかです。

 人の歌をそのまま歌って通用する人もいますが、その辺を見ていって欲しいと思います。 少しステージでやれる人とか、同じ世代でもちょっとできる人を見て、あいつは認められるのに自分は認められないと、愚痴をいっているよりも、そこにはやはり理由があると思えばよいのです。 みんな妬みやすい。ちょっと世の中で認められたり、出ていっている人を見ると、自分はそんなに大したものだと思わないとひがむのですが、違うのです。 その人の力うんぬんでなく、その役割を与えられることが、実力とみていけばよいのです。 だからそういう人は転びません。たまたま出ていって消える人と、ずっと残っていける人はそこで全然違います。

 最近、欽ちゃんの書いた本の紹介もしました。彼が思っているようなことが、今の若い人には入っていないと思います。 腹が減っているときに、どうするか。道端で大人に頼んでおごってもらう。今の世の中でも一時間以内に、誰かにおごってもらえると思います。そういう発想自体がない。 彼の話では、たとえば、100人弟子がいて、そのうち自分が覚えられるのは、一人か二人くらいしかいない、それで残りの98人は何をしているかというと、その98人の中で悪く思われないようにしている。目立ったことをしないのです。 それはすごくおかしなことだというのです。やっていきたいということで彼の弟子になったのに、そうやっているということは、おかしいというのです。

 欽ちゃんに話しかけてでしゃばっていると思われるのが嫌ならば、最初から来なければよいのです。 自分の中でそう決めてきたにも関わらず、そうしか動けないというところを自ら省みられないからそうなるのです。 何でもありの世界です。遺産がある、親が有名だ、ルックスがいい、それぞれの人が全てを力として使っていけばよいのです。そのときに、自分には何があるかへの探究がはじまるのです。 そういうふうに考えていかないとやれません。自分の中で自分を限定することが一番もったいないことだと思います。

○毎日の過ごし方

 見えないものが見えていくためには、行動です。自分で作っていけば、否応無しに突きつけられていくのです。 最初はプロも、ほとんど皆さんと変わらないのです。たくさん作っていく中で、そこから自分を見ていくのです。どんなに作ってもだいたいは通用しないのですから、そうしたら人よりもたくさん作って、そこで残っていくのです。 そういう毎日を過ごしていたら、パッと一回で取り出せるようになるのです。それが体に入るとか、心に入るということです。

 ファンはいらないから、敵を作ること、自分が伸びるためには、自分が何くそと思うような敵がいるのもよい。こちらが日々脅かされるくらい、あいつがやっているからもっとやらなくてはダメだと思うようなライバルが必要です。 才能がある人はたくさんきました。私よりもずっと才能がありました。でも大半は、やがてどこかで群れて愚痴をいっておちていく。 やれていない人というのはすぐわかるのです。いい訳ばかりを考える。何かを成し遂げてていく人生の中では、そんな暇はないのです。 私の友人がこの前も亡くなりました。自分もあと3年くらいだと思えば、他人のことを構っている暇はありません。あなたは、まだ世に出ていないのですから、尚さらそうでしょう。力をつける時期は、ますますそういう暇はないのです。そういう状況をつくり、自分の中で打破できるかどうかの勝負です。

○つまらないレベルから、伝わるレベルに

 自分のことばだと思って使っているものが、自分のことばではない場合は、伝わらないし、おもしろくない。自分のやったことがつまらないとしたら、一回それを疑わなくてはいけません。自分の中では通用してきたかもしれませんが、ことばが単に散文になって、どこか聞いた口調になっています。 最後に「これはパロディです」というのであれば、おもしろかったかもしれません。

 自分のものをビデオで何回も見てください。ビデオで何十回もチェックすると、人の何倍も早く進めます。10年分人生が得するほど役立つ。そういうものがあっても、そういう使い方をしていない。 だから早く教えてあげたいのです。まず今の力でどこまで伝わるかということです。よく見せる力も必要です。今の力がどうであれ、今日ここでよく見せられた人の方が勝ちなのです。そのことはずっと続いていきます。よく見せる力で足らない部分は、わかってきたら補うことができます。

○毎日の準備

 大変だったと思いますが、結局、そういうことを続けることを選んだのでしょう。もちろん、やらされただけで、まだ選んでいないでしょう。これを毎日やらなくてはいけないのです。これが毎日になるということがあたりまえになったときには、この仕事ができていく。 普通の人には今日のことでも大変だと思います。 毎日やるということの上に、そういう舞台がいつきてもよいという準備はしておかなくてはいけない。声とか歌ということは、程度問題です。どんなに1、2年で頑張るぞ、完成させるぞと思っていても、自分の基準が厳しくなってくれば、そういうものではなくなってくるのです。 プロデューサーがきたときに、どうやって口説こうかと考えればよい。初めて会って、最後に誰が印象に残ったかを聞く。そのときに名前が挙がるのは、キャリア、年齢ではないのです。

 そういうことの繰り返しが、自分の中に勉強のシステムとして組み込まれるかどうかということです。本からでも映画からでも、いろんなものから学べます。 欽ちゃんがいっていることで、自分が頑張っているときは、誰でも気持ちがよい、それに対して気持ちのよくないことをやって人生を終わってしまうのは、もったいないことだということです。 妬んだり、愚痴をいったり、一つ次元が上に立てば、つまらぬことで、才能があっても性根が腐ってしまう。たった一度の人生で、そのパワーや才能をどうしてそっちに使うのでしょうか。批判、非難をまるで、正義感だと思ってしまうのです。作品や行動だけで勝負することです。

 そのために、まず器を作っていくことです。伝えたいことがないというのは、人よりも傷ついたり、苦しんだりしたことがないからでしょう。 だから、もっと傷ついたりしている人を助けたいという心にならない。一回孤独になって、本当に苦しめばよいし、傷つけばよい。 たぶん今まで生きてきた中で、そういうことはあったと思います。なのに、違う方向に逃れている。そういうところで正面を向いて接点をつけられる人は、ほとんどいないのです。

○きちんとみる

 才能とか個性というのは誰でもある。それを自分できちんと見るか見ないかというのは、すごく大きな問題です。今は見ていない人が多く、もったいないという感じです。 音楽や歌などに救われた経験がある人は、感謝してください。それで人を救おうというところから入るのではなく、まず自分を救ってください。 自分が自立していないと人は救えないのです。声に関しても、自分の声は気になると思う。そこから改める。 トレーニングや舞台でうまくやろうとは考えなくてもよいです。うまくやろうとする姿勢は大切なのですが、あまりよい子になろうとすると、よくなくなってしまいます。 皆さんの声でも、素直さが出て、魅力的な声のはずなのに、トレーニングでちゃんとしなくてはいけないと、頭の方で考え、私が見たいあなたの声とは違ってきます。 あなたが本来のあなたでありながら、きちんとした魅力が出せるようにしていくのは、難しいことだと思います。

○必要な人

 伸びた人というのは、危ない人、気持ちが悪い人、そうでなければ、おもしろくて愉快な人です。どちらにしても、あまり友達になりたくないと思うようなタイプです。 なぜ友達になりたくないかというと、奥が見えないからです。たくさんしゃべる人、難しいことをいう人、きれいごとをいう人というのは、薄っぺらいからわかりやすいのです。友達としてもすごく楽、会話もはずむ、危害もない。でもだからといって、自分を伸ばしてくれる人にならない。 それだけ奥がある人というのは、何を出してくるかわかりませんから、そう簡単に友達になれないが、音楽や舞台で奥が少し見える。自分になれたら、親しくなれるのです。

 残っていく人はそういう人だけです。それが100人のうちで1人か2人くらいだと思います。そういう人が私にも仕事をくれ、支えてくれます。 そういうものの見方をしていくと、本当の意味での信用ということも、どういうことなのかということがわかります。 日本というのは、暮らしにくいところだとは思いますが、そういうネットワークというのか、できる人たちの信用の中に放りこまれていたら、どんなに借金をしようが、大変なことがあろうが大丈夫です。 一人のしっかりした人からきちんと認められたら、だいたい一生やっていけます。その一人の人が誰なのかということです。それだけの話です。それがないのに、トレーナーがどうだとか、あの人がどうだといっていても仕方がありません。

○自由の深さ、衝撃

 舞台でも、何か正しいことをしようとか、間違えないようにやろうとするから、伝わらなくなるのです。 そこに正解があると思ってしまうと、その通りにやらなくてはいけなくなります。でも創造というのはそうではないのです。 自由なことを自由にやっていて、どこまでの深さを問うかということです。聞いている人が、何かこいつにはあるなと思うかどうかです。 しゃべっていることは何でもよい、声だってどうでもよい。そのことで内容がダメになったり、この場がダメになることはない。 ロックとは、こうだと決めつけ、歌を歌う声はこうじゃなくてはいけないと決めてしまうと、間違えてしまう、つまらなくなる。 そんなことを考えてやり始めた人はいない。その人がやっていることが、衝撃を伴えばロックなのです。

○自滅好き

 日本というのは、気をつけていかないと、足を引っ張られます。ことば尻を捉えられて、よいところだけをとればよいのに、ああだこうだと、そういうふうにさせているのは誰なのかと、気をつけてあげているのはこちらで、その気がなくなりゃ勝手にさせます。あなたにこちらが必要かもしれませんが、私には、そんな考えで伸びない人は必要ないのですから。

 最近はいろんな人がきます。この前も声優さんで今度、アニメの主役をする、収録までに間に合うように見てくれということなのですが、こちらではどうしようもない。「D」の「P」だけをやれるような人がいませんかといわれても、その「P」だけのために使うなら、声優プロダクションの方がよい。きっとこのプロダクションはつぶれるでしょう。 この人も今回のアニメで最後になる。いえないところが辛いところで、こちらはあまり関わらない方がよい。頼まれたから考えているので、どうして頼みにきているのに無理を言うのでしょう。しかも、本人自身によくない方向で。 私でなくても、誰でもよいから、何かを少しでもやれた人がいったい自分をどう見るのか、周りの人たちに対して、自分は何を与えられる人として見られているのかということです。あとでこいつはおもしろくなるなということでよいのです。

 人は長期的にしか信用は築けない。そういうふうに見ていってください。私がいっているのは、2、3年でごちゃごちゃといっている人はどうしようもないということです。長くいればよいということではなくとも、人間の中の一番の信用というのはそこです。一つのところにどれくらいいたかということです。 そういうふうに考えて、自分の文化というものを育ててください。文化というのは同じところで、自分の中の拠点というものを置いて、そこの根っこから吸い上げてきたものでなければ築けません。あっちこっちにいったからといって、何かができるわけではありません。 皆さんもこれから長いか短いかわかりません。顔を出さない、そういうところが、信用できないとなるのです。

 入るときは、よく思われるようにいろんなことをいう、でも続けない、ここでさえ信用されなければ、世の中はもっと厳しいのです。こんなこともいわずに簡単に見切ってしまいます。 欽ちゃんの本に出てきた98人は、あの本を読んでも、自分がその中の一人だとは思いません。そう思える人であれば、そこで98人に入らないことをやれています。そういうことをここではいいます。 ここだけではなく、いろんなところに関わって、そこで皆さんがどう変わっていくかということが大切だからです。

○やれるようになる

 年齢とともに人生がよくならないというのは、おかしいことだと思います。大人になる方がずっと楽しいです。 私は10年前に戻りたいとは思わないし、去年にも戻りたいと思いません。そんなに悪い人生だったのかというと、そうではない。いろんな人に頼りにされるというのは、ありがたいことだからです。 そういうふうにならないように歩んでいる人を、あまり当てにしない方がよいということだと思います。 最近入ってくる人には、自分のバックグラウンドをきちんとつけていくことが必要だと思います。 世の中で少しでも何かやれた人たちは、みんなが同じようないっていることでも、雑誌とかで特集されてしまう。ということは、それほど世の中の普通の人たちは、それを特別だと思って読んでしまうほどに、そういうことが目新しいのだということです。そんなに難しいことではないのです。

 一番よいときの自分が動くように動けていたらよいのです。そうでないところで動かされることがどんどん多くなると、冴えなくなるのです。 あなたが楽しい人生を送っていくことが一番の目的だと思います。 その上で利用して欲しいと思います。やれていない自分というものを、どこまで厳しく見ていけるかということです。うまくいってなければやれていないと思えばよいのです。 ただ、何事も時間がかかりますから、その時間は皆さんにはある。私にはあまり、ありません。毎回勝負としてやっていかなくてはいけないのです。時間を見方につけてください。 何を見ていくか、何を身につけるのかということです。そこをきちんと勉強をしていくと、音楽も声も皆さんの本当に大きな武器になっていくと思います。【新入懇 01.4.22】


■入門レッスン

○何か起こす

 ステージで固くなってしまうのは、場数を踏んで慣れていくしかないと思います。自分に何が起こるのかということがわからないからです。 慣れてしまうと緊張感がなくなってしまうので、その程度をどうするかということは難しいことです。常に何かが起きることを想定してやっていくことです。そういう場をセットしておくことが一番大切です。

 今の日本の音楽のステージはその辺が甘く、どんどんと音楽は進んで、歌詞さえ覚えていれば、なんやかんや口ずさめてもつ、声が走っていないため、緊張感が失われることもあります。役者さんは常に相手がいて、絶えずハプニングが起きますから、その瞬間瞬間で対応する力がつきます。歌い手もそれが必要だと思います。 テンションを高めておく方がよいでしょう。より強く集中することによってのみ、自分を客観視することができます。 足元がついていないから、自分で仕切っていないから、緊張したからといってよくないということと、必ずしも一致するわけではないのです。

 たとえば楽器でミスタッチを5回やってしまったら、誰がどう見ても悪いとわかります。 歌の場合は、そこで何も感じられないような、馴れ合いの中の歌にならないように、充分気をつけなくてはいけないのです。逆にいうと、そこで何かを起こさなくてはいけないということになります。 それがうまく収まるかどうかということは、自分の世界ではなくて、客や音楽と共有された世界で、常に一つの戦いなのです。 音楽が厳しいのは、決まった時間の中で終らなくてはいけないことです。話は少しくらい伸ばすこともできます。そういうことでは、その感覚をどうつなぐかということは難しいと思います。 一番高いテンションで出ていったときに、どこまで降りてこれるかどうかということです。そのままいってしまったら、だいたい失敗です。

 自分だけ話し続けて、最後まで客のことを考えない、そういう時期があってもよいと思います。 若い頃は、何か新しいことをやったり、力で押していったり、インパクトのあることを何かやらないと、誰も振り向いてくれません。 でも、それだけではダメなんだと感じてくると、リラックスしてくると思います。

 特に日本人の場合は、こちらのテンションを下げて、同じところまでリラックスしてあげないと、向こうも力が抜けないのです。ステージは戦いという見方をしていないから、こちらがテンションを上げてしまうと、引いてしまうか、消化不良になってしまいます。 向こうはそれにぶつけてくるから面白いのですが、日本人は、ある意味では気持ちの交流みたいなものを求めてしまうのです。その辺は非常に難しいと思います。最終的に、自分がどういうステージングの立場をとるかということになってくると思います。

○MCと客観視

 歌の場合は、歌だけではなくて、MCなども含めてステージングとして見られます。音楽の世界で勝負するんだといって、自分の曲を6曲歌い続けても、日本のお客は受け入れないと思います。 その間にMCが入って、そこでその人の人間性がわかって初めて、次の曲を受け入れる。それが全部イタリア語の曲とすると、聞く方に拒否反応が出てきてしまう。 そこで途中で日本語の曲を入れたり、説明を入れ、実際の演奏レベルは低くなっても、ほっとしてか、そちらの方に好感が持てるのです。

 どこまで歌い手の責任に負うかということは、その都度判断していくしかないと思います。 その結果を受け止めるしかありません。その結果がよかったのか、悪かったのかということは、本当にわからないのです。ただこちらがいえることは、人のステージを厳しく見なさいということです。 何もわからなくとも、他の人がやっているのを見ると、すごく勉強になるということです。そこは客観視できるからです。師匠が見ているところと同じ位置で見るからです。自分がやるときにはそれができません。

○音色とフレーズ☆

 音色ということで「イリア」というのをやってみましょう。 こういう中でこれが音色かなと思えるものがでれば、それがとりあえずの音色です。ここではもう少し音楽の構成を立ててみましょう。「ドシラミレ」の音で「イリア、ララ」をやってみます。「イリア、ララ」 そこで音色の展開とか、音のニュアンスが出てきます。皆さんが今やったことは、線をなぞっただけです。色が出ていないのです。 それは自分で何回も何回もやって決めていくしかありません。状況の作り方や間のとり方もこういうところで練習できるのです。 「イリア」の置き方でも、「イーリア」や「イリーア」とも置けます。そこで何かを置くことができるということです。違う課題でやってみましょう。

 「あなたはいつでも」を「タラララ、タラララ」という音に乗せずに、「あなたはいつでも」ということを表現して欲しいのです。「あなたは、いつでも」 こういうものを処理するときに、これを通すイメージが必要です。そこに何を置くかということと、そのストーリーが要ります。そこが音の線とフレーズになるのです。そのイメージをまず頭にいれなくてはいけません。ことばでやると、もう少しやりやすいと思います。「あなたは、いつでも、笑顔で、こたえる」 そうやってフレーズを徐々に作っていきます。ですが、発声で考えるのではなく、感覚で考えるのです。発声からどれだけ自由になれるかということが大切です☆。

 次に何かを持ってくるように置かなくてはいけません。「あなたはいつでも」のところだけをやってみましょう。それを音楽から離れないようにやるのが難しいわけです。ことばであれば、簡単に動かせると思います。 今はできるとかできないというよりも、よく聞いてください。フレーズを伸ばしたり短くしてみて、そういう世界もあるというふうに感じてください。「あなたはいつでも」というのは、次に「笑顔」を持ってこなくてはいけないのです。 それが単に「タラララ、タラララ」と同じものが続いてしまうと、創っているということにはならないのです。オリジナルフレーズということにもなりません。自分はそれをどういうふうに持っていくかということが問題なのです。

○フレーズとリピートの効果

 要求されていることは、「ファミレレ、ファミレレ、ミレドド、ミレドド」という中で、「あなたは、いつでも、笑顔で、こたえる」ということを表現することです。今はあまり落とさず、ことばだけとか、一つの流れの中だけでやってもよいでしょう。リピートとその変化に重点をおいてやってみてください。 その中の動きは、常に自分が創っていかなくてはいけません。こういうのをフレーズ練習としてやるのであれば、同じところにアクセントを置いてやってもよいのです。しかし「タタタタ、タタタタ」というのがずっと続いてしまうと、読まれてしまうのです☆。 これを強弱で聞いてみる、いろんな動かし方をやってみながら、決めていくしかありません。そうやってだんだん声にマニアックになっていくのです。

○思い込みの排除

 演歌でも浪曲でもポップスでも、いろんなプロとやっている中で感じることは、やれる人は、これはよい、これはダメということを本人がよくわかっているということです。 自分の思い込みだけでやっているのではなくて、どこがよいということも、これがダメということもわかっているのです。皆さんもそういう厳しさで選んでやっていくと、やがて通じることになると思います。

 昔は単に「あなたは、いつでも、笑顔で、こたえる」とだけいわせていました。それではダメだ、伝わっていないといわれるのですから、どうしてダメなんだろうと悩んでいたのです。そこからは自主課題なのです。こちらは答えを教えることができません。いろんな条件があって、いろんなやり方があるのですから、あなたが自分でよいと思ったら、まずはそれをやることです。 雑なのか丁寧なのかわかりますか。ここでは他の人の分析もできます。感覚を細かく見ていきながら、ある意味では総合的に見ていくこともできると思います。こういうところは、見逃されやすいところです。

 偉大な人たちはこういう部分をしっかりとやっています。声量を出すところとか、高いところよりも、こういう部分をきちんと押さえていくと、するとできてくるようになるのです。 「ダウンタウン81」では、その人間の出している声がそのまま歌に反映していたと思うのです。あの声はしぜんな声ではなくて、きちんと整理して使っている声なのです。ただ日本人はそういう声をあまり好まなかったり、認めないからよくないだけです。現実にはそういう声で歌っている人が多いのです。そういうことを感じながら勉強してみてください。【「イリア」入門 01.12.8】

○型の使い方

 役者さんのセリフの部分で、それぞれの基準を見ていくことと、そのための材料をきちんと準備することをやりましょう。 どういう世界でも、基準と材料を与えるために型というのがあります。型どおりにやるのではなくて、型というので単純なことを深めていく。型の目的というのは、感覚を深めるのです。ですから、簡単なことがよいのです☆。 違うことばかりをやっていたら、どれが正しいのかがわかりません。 歌というのは、それの最たるものです。違う歌ばかりを歌っていたら、何ができて、何が深まったのかということがわかりません。 そういうことで、ここは「ハイ」という課題を置いています。型の中で一番身につけて欲しいことは、日本人のないところの感覚です。

 「ハイ、ララ」でやるときに、「ララ」のところであまりアタックしないでやってください。「ハイ」でアタックした深さのところで、そのまま「ララ」をいう。 型はできることを深めていくことが大切です。できないところはできなくて構いません。体と声が一致していなければ、できないのです。できるところだけをやることが大切です。 できないところをどんどんやっていくと、フォームが乱れていい加減になって、できたりできなかったりということが甘い基準で行われることになります☆。これでは、やがて伸びなくなってしまいます。 その悪い例が、自己流といわれるものです。自己流でも伸びる人というのは、そういうことを踏まえてやっています。 「ミレド」の音程で「ハイ、ララ」をやってみましょう。

○自然体で柔軟性

 基本の基準としては、自然体で、再現に耐えて、柔軟性があるということです。 個性はそれぞれにあるのですが、今やっていることは、生まれつき備わったままに声を出している。これがそのまま歌に使えるということとは違います。基本では、歌うところの発声ではなく、体と密着しているところの声を確実に出していくのです。「ハイ」 「ハイ」の「イ」であまり切らないようにしてください。日本人はどうしても柔らかく出す傾向があります。イメージ的には、もっと威厳を持って、威張っている感じの方がよい。 体全体のところで受け止めることと、それをそのまま操作せずに出します。そこで、作為していることをやめるのです。他の人のを読み込めるようになると、感覚もつかめるようになります。「ハイ、ライ」 今はジャストミートできなくてもよいです。どうずれているのかを見ていくことです。

 プロの人は、自分がやったときに、そこでどうぶれたか、なぜ外れたかということがわかっています。 間違えてはいけないのは、声を出したら練習になるのではない。声を出せる状態を作ることが大切です。 それをやることで、次の日に感覚が鋭くなったり、神経が鋭くなることが大切なのです☆。 自分の出る声を出して歌ったというのは、声を消耗しただけです。 ステージとしてはともかく、トレーニングということでやるのであれば、半年後、一年後に有利な条件を得ていかなくてはいけません。数をたくさんやればよいとか、速くやれればよいということではない。それをやることによって、質が高まり、オンしていくかということです。

○最低ラインは再現性

 トレーニングが結果に結びつかないのは、最初は頑張ってやっていても、三年続けて、オンしていかないからです。 もう、できたとばかりに高いところを出し、応用ばかりをするからです。そのうちにくせがつき、いい加減にもできる気になり、乱れていきます。 そのときにきちんと見ると、フォームが乱れたことに気付き、基準がずれていることをチェックできるわけです。 そのフォームも目で見えるものではないですから、自分の原点のところをきちんとつかんでいくことです。本当の中心感覚の獲得には、二年も三年もかかるものです。 それで何が得られるのかというと、すごいことができなくても、確実に戻れるということです。どんなに調子が悪くても、そこのレベルまでは持っていけるということです。 そこがプロとしてやっていける最低ラインです。

 そういう意味では、歌で使える、使えないということではありません。自分の体を楽器としてみたときに、それはどういう感覚なのかということを見ていくことです。 自分の体を読み込んでいくことが目的ですが、他の人の体や声がどう変わっていくかということも、見てください。 それが何よりも自分の勉強になる。自分の体も変わっていきますが、他の人の体も変わっていきます。早く変わる人も、あとで大きく変わる人もいます。それぞれ一長一短です。よいところもあれば、悪いところもある。

○何が引きつけるのか

 一流のアーティストを聞いたときに、そこで何が起きているのかということを、自らの感覚で読み込めるようになることです。彼らはいろんなことができます。そこから、どうして舞台ではそれを選んだのかということを見ていくのです。 ポップスの場合は、声のよさや歌のうまさだけではなくて、メッセージ性、音色、色気など、そこにいろんな判断があるのです。そういうことを追体験していくのです。 わけのわからないヴォーカルほど、たくさん聞いて欲しい。 最初は何をやっているのか、わからない。こういう歌は簡単そうに聞こえるのですが、どんなにやってもやれません。声量も声のテクニックもあるのですが、それほど歌っていない。皆さんはもっと声を伸ばしたり、クレッシェンドをかける。この人はしていない。それはなぜかということです。

 自分は自分でもよい。でも、この人の歌い方も一理あるということです。多くの人は一本調子になるのに、この人のは何か引きつけるものがあると思ったら、そこにより深い解釈と表現力があるし、音楽的なバックグラウンドがある。そういうところを見ていかないと、学ぶということにはなりません。 自分と他の人とのちょっとした違いを厳しく見ていくことが大切です。そして一度相手のものを肯定してみる。そうやって自分の感覚を豊かにし、いろんなバリエーションを入れていく。 声量や声域がなくても、オペラの曲であっても、ポップスのプロの歌手は歌える☆。それはそうでない見せ方を知っているからです。

 そういうパターンを勉強していくことも大切です。こういう曲は歌えないと思っても、きちんと解釈して、自分のものにしていったら、よりよいこなし方がある。 少なくともポップスの世界では、声のよさや声量の大きさで見せて勝負している人はほとんどいません。それを追いかけても、声楽の世界のように、やっと向こうと同じレベルの最低限に達したところで終ってしまう。だいたいそこまでいかずに終ってしまいます。ポップスは自分から始められる。あなたしだいなのです。【基本 入門 01.12.6】


■レッスン(入門以外)

○声自体の必要性の低下

 本も、忘れたくらいに読むのが一番よいと思うのです。必要なものは早めに入れる。ともかく、勢いにのっている人は強く、そうでない場合は、難しいところがあります。それぞれがどう受けとめるかというのは、TVはお祭りですからよいのです。新しい才能というものが、どの程度、人を動かすのかということです。 ここ2、3年、声が育たなくなってきたということ、いいや、たぶん必要がなくなってきているということです。 2オクターブにわたって、声楽的な発声をすることと、ポップスやロックをやっていく意味というのは、どんどん離れているのです。

 昔、歌い手というのは、音響が悪くて、まず声が出なければなれなかったのです。今は自分の好きなように、音響で声質そのものも変えることができるようになっているのです。 声そのものを磨くことよりも、声で感覚を磨けということをいっています。昔から、私がいうこととズレてはいません。舞台のこと、表現のこと、音声のこと、この3つがやれていないから成り立たなくなってきているのです。

○本当の才能

 基準が、外国でも通用するということでの、ハイレベルの声とリズムの感覚ならわかりやすいのです。しかし、いろんなタイプを認め、ステージからを考えたときに、すごいものだけでなく、おもしろいもの、それが出ているものを見たら、客は満足するもの、そこで少々でも練りこまれていたら、何でもありの世の中の感覚も必要としました。そこに優劣関係をつけてしまうと、こちらの頭もクラシックになってしまうわけです。 日本の声楽の大半は、無理に呼びあっても客がこないのです。それに比べたら14、15歳の子がやっているポップスの方が立派ともいえるのです。ただ、残るか残らないかということを考えると、どちらも難しいです。

 全て、問われるのはオリジナルのフレーズなのです。声は抜きにして、まずはいいじゃないかということです。聞いていて、気持ちがよいならばよいわけです。 それを私は“たま”の頃からいっています。本当の才能や創造力は、声ではありません。 歌い手を発声で見てしまうのは、間違いということです☆。ただ、その世界を出せるような自由な感覚になるために、声とか体をどこかで解き放たなくてはいけない。自分の好き勝手に声を出していたら、大体の人はのどを荒らして不自由になってしまうのです。そういうことで楽器を作っていく必要があるということです。

○オリジナルフレーズとは

 トレーニングでは条件を整えていく。声楽のレッスンは、基準がはっきりとしている。基準が明らかでないと、初心者にはわかりにくい。私があまり細かいことを言わないのは、歌がどんな声かということは、現実には、問われなかったからです。問われないような、何をもつかということが大切です☆。 声とか体とか息も、一つの条件にしか過ぎないのです。そういう部分は変わらないのです。オリジナルな声よりも、オリジナルなフレーズの方が大切だということは、ずっといっていることです。

 レッスンの中で、オリジナルフレーズをいうことは、どういうことかというと、スタンダード曲を与えて、自分はこう変えて、よりよく出せるというものです。おもしろいとか、すごいということをどう思わせるかということが一つです。 音楽をたくさん聴いて、そういう中での洗練された上での判断なのか、それともちょっと聞いて、それを付け合せただけなのかということは、すぐにわかることです。 そういうもので、曇らない何かがあるとしたら、天性としての才能で出てくるものもあるでしょう。大体誰にでもないのです。音楽三代といいますが、親、兄弟の影響も受けています。

○音を動かす

 そういう漠然とした育ちの代わりに、トレーニングがあると考えてください。 曲を歌うときに、何かを見せられる人というのは、1割くらいしかいません。何で見るかというと、創造性でみるわけです。いかにその人でしか歌えないようにしているかです。 そういう面でいうと、日本のポップスも音で動かしていたのは、ごく少数、そういうところを感じとり、自分でどういうふうに歌っていくかということの詰めをきちんとやっていくと、それは作詞作曲もしていることになるのです。 でも、変えてよいところと、変えてはいけないところがあります。そこがセンスになってきます。どう変えればよいのですかと聞かれても応えられません。 よいものが出たときに、それはよいということははっきりわかるわけです。それは、瞬時にわかるはずです。

 日本のヴォーカルが進歩しなかったのは、批判のなさ。外国人は悪いといわれるから、よいものから残る☆。日本の中では優劣のスケールが取れなかったのです。 向こうのものはよいか悪いかは別にして、日本のものは、スケールがないのです。 最近の女性ヴォーカルも、それまでと比べれば歌唱力があると受けとめられるのです。外国人の物まねをみていたら、何か違うという感じになると思います。それほど人間の感覚というのは、あいまいなものです。 それを職業にでもしていなければ、その日の気分で聞いてしまうのです。それは歌唱力で聞いていないからです。

○勉強の秘訣

 縦のつながりを考えていこうかと思っています。 ビデオを見て、曲に関しても、しっかりと見て、そのあとに歌ってみる。そこで自分の表現として取り出せるということをやってみましょう。そういう組みたてをもう少し関連づけてやる。 ここまでわけのわからない時代になってきたら、自分がよいと思うものをどんどんタイムリーに、レッスンで使うことです。 学校化すると、その辺がずれてきます。時間と空間の捉え方がボケています。 ヴォイストレーニングをやることよりも、一日8時間くらい、アーティストの生活をやってもらえばよい。

 勉強というのは、机につくまでが大変でしょう。レッスンも、ここに来たら何かやるわけです。来なくてもよいなどと思ったら、何もしないわけですから、そこで感覚が落ちてしまうのです。そのシステムを自分で組みたてない。自分の力を出し惜しんでいるから、伸びない。力を使わない方が得だというふうに思っているのです。 よくいっていますが、手間をかけないと、楽しめません。何でも楽しむのはよいのですが、人間はそんなに全部を楽しむことはできないのです。“YAWARA”ちゃんでも読んでください。

 一つのことでもよいから、普通の人の数倍の手間をかけて、そういうことを楽しめるようにすればよいのです。歌とかでも、そういう姿勢ができていないと、紅白レベルの楽しみももてないと思います。自分の時代の感覚を磨いていくことです。 この曲を好きに、変えてみてください。一番よいのは、それぞれの能力が一番生かせるような役割分担をして、自分たちで作品を作り上げるということです。そういうことが一番よい勉強になります。

 一人でやれることは、創造することです。そのことが人の作品よりも楽しくならないと、続かないのです。こういうスタンダードな曲を聞いたときに、少しでもよいと感じるものがあったら、それがあなたに入っているオリジナルな何かなのですから、そういうところを深めることです。大体の人が、そのまま突き詰めないからいけないのです。本当のオリジナルはそこからしか出てこないのです。【「花はどこへ行った」A 01.01.05】


■京都レッスン

○パターンとテンポ

 132ぐらいのテンポでやりす。今の音楽に聞き慣れていると、そんなに早いとは感じない。慣れていても、そこに無理があってはいけない、すぐに対応できなくてはいけません。 テンポに関しては、感覚が狂いやすいのです。ゆっくりなものをやると、80でも早く聞こえます。相対的にずれていきます。どのテンポになっても、その中で感じられるようになることは必要です。

 音の動きがテンポによって、自分の体が対応しやすかったり、対応できなかったりすることがある。それは曲によっても歌うところの高さによっても違ってきます。高いところをゆっくり歌うというのは難しいです。曲の効果も歌っている内容自体でも変わってきます。 たとえば、先にリズムとテンポを決め、それに乗っかって最後まで歌い切るということもあります。テンポの練習をするのではありません。同じ歌詞なり同じフレーズでも、いろんなテンポによって、自分に対しての負荷が変わってくる。そこの中で感情も変わってくるし、感じ方も変わってくる。それから曲の解釈も変わってきます。

 一番勉強できることというのは、同じ曲をたくさんの人が歌うことを比べ、相互に比較ができる。それとともに、同じ曲を自分が歌い替えてみると、たくさんのパターンを入れることができます。 歌の中で一番重要なパターンの勉強をすること。たくさんの曲をやっても、たくさんのパターンが入るのではありません。一つの曲を10パターンで歌っていく方が、いろんなことがわかる。 最初の頃は、何もないからそういうことがわからない。まずテンポを変えてみるということ、気づくきっかけになります。

○教材より使い方

 楽典や音楽基礎の勉強を平行してやっておくのは、意味があります。自分の中で不足を知り、トータルでまとめていく。 それぞれのトレーニングは、今の自分にとってどういう位置付けであって、何のためにあるのかということを、きちんと自分で把握しておくことです。これをやらないから、どんどんおかしくなっていく。 コールユーブンゲン、コンコーネ、これは声楽曲と、バラバラにやっています。何かをやるために、それぞれのものがあったのに、いつのまにか日本の勉強はみんなそれをやるためのもになっていきました。メニュよりも使い方が大切なのに、せいぜい順番をかえるくらいで誰も配慮していません。

○オリジナルのフレーズと声

 オリジナルのフレーズをとっていくのか、オリジナルの声をとっていくのかという問題です。私は、体や息のことを踏まえて、かなりオリジナルの声のことを中心にやってきた。 皆さんが処理していることは、オリジナルなフレーズの部分です。 1オクターブの歌をやるときに、「いつか」などをことばのところでやっていくと、歌にならなくなる。みんな口の中で作ってしまう。 それを昔はダメといっていたのですが、今の歌い手では、その方がふつう、みんなそうやって歌っています。 歌謡界や演歌の世界で鍛えられた人は、今の人の発声や歌い方は禁じられていた。青春のポップスあたりを見ていても、この世代からあとは、みんな歌い方を変えている。

 音響技術の進歩に高音発声を優先させたためです。 ただ、口で作って歌ってしまうと、あとで変わっていかない、他の人との差があまりつかないのです。 少し器用なトレーナーが、すぐに真似できる。カラオケでも上手い人ならば、簡単に真似できる。 そうなると、ますますタレントさん、有名人の土俵になって、声で勝負できなくなってしまいます。 うまいと思われるのは簡単なのですが、どんなにうまいと思われても感動させられない。何の個性もなく、みんな同じような歌になってしまう。 逆にオリジナルの声ということで、そうでない音域とか、そうでない声を持っている。そこは誰も真似ができない部分です。

○素の声とデフォルメ

 本当の意味で、今の日本の音楽を離れたところで見てみると、自分にしかできないこと、誰にも真似できないものは何でしょうか。それは、その人の素の声そのものです。顔を誰かのように真似しようとすれば、メイクか何かで、誰でも何となくは真似はできます。しかし、その人の本当のオリジナルの顔、素顔は、なかなか真似できませんね。

 そういう意味では、今の歌というのは、ほとんどがデフォルメしているようなものです。本当に自分のところで、オリジナルのアートとして自分の分野を確立していきたいと思ったら、あまり歌うための声の使い方はしない方がよい。そう考えているのは、日本で私しかいないとは思えません。しかし、今のミュージカルやオペラなども、似たような声の作り方をしています。 そこにいくと私も作品優先、日本人の歌い手の力のなさに妥協せざるをえないでしょう☆☆。となると作品とは何か、借りものなのです。つまり、日本人に合わぬものに合わせようとしているのです。 あまり高いところでとらずに、ことばでやってください。

○役割別の声?

 たとえば、日本の発声の勉強というのは、役者は役者声、歌い手は歌声、アナウンサーはアナウンサーの声というのを作るのです☆。そういうことをやってしまうからおかしくなってしまう。 職業別にわけてしまうと、その人自身の魅力とか、個性が失われてしまう。 たとえば、アナウンサーであれば、「あしたがあるさ」というのをしっかりと音にして、そこに高低をつけて、比較的高めに入っていくでしょう。 まず、その作っている部分をなくしていきたいのです。歌の中でも、のどを外すということでは共通します。いうときに、のどを外し、息を送るというイメージで腹から出すということです。

 日本語の場合は五七調といわれていますが、実際はリズムや間を入れ、六八調です。カウントしてしまうと、「あ・し・た・が、あ・る・さ」というふうになります。 これを強弱リズムで置きかえると、2拍くらいで回っていくのです。 向こうの2拍や4拍というのは、本当の意味ではとれるわけではない。 「あしたがあるさ」の中に大きな拍を作ればよいということです。それを作って上の方だけで出してしまうと、「あいああ、あうあ」と母音の部分だけが聞こえてしまう。これは日本人の捉え方がそうだからです。そう聞いてしまうと、そうしか出てきません。

 だから、この感覚を何回も切り替えなさいといっているのです。それは日本人に外国語で生活しろといっているようなものです。 今の音楽の中で行われていることの大半はそういうことです。欧米の音楽を聞くときには、本来こういう感覚に切り替わっている。しかし、ことばを読むときには、そういう練習をしていないと、そうは出てこなくなります。まして歌ではイメージが変わっても声が追いつかないのです。

○しぜんなオリジナリティ

 本当の意味の自然ということではなくて、ある体の中での使い方としてしぜんに、それをくせでまげないということです。 接点のとり方がおかしくなって、若い人の場合、そこで何かやろうとか、そこで何かをやればオリジナリティだと思っている。そうではありません。 オリジナルというのは、まず自分の体が一番よい状態で使えることからです。特に声を取り出すときに関しては、何も邪魔しないということが大切です。

 すぐに声として入れることが大切です。のどが閉まっていたら、パッとは入れません。すぐに入れるから、そこで拍を踏める。「わかって」だけをいえば、「くれるだろう」はいわなくてもよい。 接点のつけ方として、「わかって、くれる、だろう」と、それぞれで何か起こそうとする人がいるのですが、余計におかしくなる。頭でやっている人ほどおかしくなります。 トレーニングというのは、何かできないことをより大きく出そうとか、もっと早くいおうとかする。だから急ぎすぎる、くせがつきやすい。そのことを歌詞でやる。それは元に戻さなくてはいけません。

 トレーニングをやることで、よりおかしい方向にもっていかないことです☆。歌を勉強しても、なかなか上達しなかったり、おかしな方向にいってしまうのは、それを正そうとして口先だけになってしまうからです。 流れをとらなくてはいけない、感情を出さなくてはいけないというと、逆に体や感情が働かなくなるようにしてしまうのです。 歌詞を変えたり、曲をアレンジしたり、いろんなことはやってもよいのです。 ただそのことが、練習において何が狙いか、やることによっていろんなことが変わるというより、自分の体や声を使いやすくするためにどうするかです。こういうことばとか、こういうメロディだとやりにくいから変えていくことです。

○編み出す

 よりオリジナルなものを出すために、より簡単にしたり、やりやすいものに変える。より難しく、やりにくくするためにやるのであれば、練習として意味がありません。そんなものを考えてみたという、アイデア競争であればよいのですが、作詞家や作曲家にはかないません。曲や詞で直した方が早い☆。 しかし、歌い手が唯一できることというのは、作詞家や作曲家が作ったものを自分が歌うのであれば、この形にした方が、より相手に伝わるものになるということを編み出すことです。

 それは一人ひとりが、自分のことを知っていなくてはいけない。これがなかなかできない。 声もできるし、歌もうまくなる、その代わり接点が付けられない。その人にしか取り出せられないところに、接点をつけない限り、その人の本当のおもしろさや、個性というものは出てこない。 それを先生やトレーナーが潰してしまう場合が多い。 だからこそ、自分の中でも何度も何度も徹底してやっていかなくてはいけない。 セレクトを間違えているときには、トレーナーがどこまで我慢して、内側から正されるように見れるかということです。

 今やっていることは間違いだから、これが正しいということは、なかなかいえない。やってみせると、必ずまねになってしまう。一人のトレーナーにつく弊害が、必ず出るのです☆☆。 そういうものは、本当に感覚が磨かれ、体がそういう状態になったときにしか出てきません。ほとんどの人が2、3年では出せません。2、3年でできることといえば、そのシミュレーションです。たった一瞬でもよいから、その状態を作れることに挑戦するということです。

○大声の間違い

 2年から4年間の課題というのは、本当に体からのオリジナルの声で出せることと、オリジナルのフレーズで処理できるということです。 そういうものが出てきたときに、その中でどれがよいか、どれが音楽になっていくのかということを、自分で選択していかなくてはいけません。最初は自分のものはわかりません。人のをみてください。今はほとんどその接点での間違いです。 かつて、そういう間違いが起きにくかったのは、音楽の中で使われる声が比較的その人の体から出てくる声と一致していること、オリジナルの声とある程度の声量があったからです。

 大きな声が出るのは、力で出しているのではない。その人の何らかの原理がかなっているからです。それが遠くまで聞こえる、伝わる声になる。 役者でも、大声が必要なのではなくて、より伝わる声を出す練習をすると考えれば、必要以上に大きな声を出そうとはしないはずです。 大きな声を出すことが目的で、それを出そうとするから、のどを壊したり、おかしくなる。 それでも役者は根性があって覚悟してやっているので、そのうち直ってくるのです。歌い手の場合は、そこまで目的がはっきりしていない。その辺は切り替えていかなくてはいけないと思います。

 今はトレーナーをやる人の感覚が一番遅れています。大きな声や高い声を出せばよいのではない。 伝わる声を出さなくてはいけない。伝わる声というのは、その人が伝えようという意志をもったときに、一番自分になじむ声、一番しぜんに使える声です。 私も適当にしゃべっているように見えるかもしれませんが、しぜんと体を使っています。特に低音や弱い声で相手に伝えるというのは、普通の力では伝わりません。 高いところで作る声などは、軽くて受けとりにくく、無視、拒絶されることも多いからです。

○声のなかに音楽をみつける

 こういう短い時間の中でやれることは、自分の中でオリジナルの声について、一度見なおすことです。 理想的には、それをオリジナルのフレーズに使っていくということです。そのためには、まずことばの中でしっかりと声の問題を見てほしいということです。 そこで入れてみる、そこで間をあけられる、そこで動かせる、それをどう動かしているかを自分で自覚して、それを修正することです。 その中に音楽を見つけていくのです。仮にことばでいうことが10点だとしたら、それを5点、6点にしても、音楽にすることによって、さらに5点、10点稼げるのであれば音楽にしてもよい☆☆。

 最初から安易にゼロにして音楽にしてみても、ゼロには変わりないのです。 多くの歌い手の問題というのは、半分くらいは、ことばの問題の中で声の扱い方にあります。それを全部無視して、音楽上だけでやろうとするのは、一つひとつの音がきちんと出ないのに、全部を弾いてみたら音楽になるというくらいに、いい加減なものです。 でも歌い手の場合は、それが許されてしまうのです。人前でセリフを言わせてみても、何かしゃべらせてみても、何も芸にならない人も、歌わせてみたら、心地がよかったりするからです。それは表現とは少し違います。しかし、歌い手として見られる要素でもあります。そこがややこしいのです。

○出口

 今の現状を把握しながら、トレーニングの接点を合わせていきましょう。私の考えに従わなくてもよいのですが、私にはいろんな人のいろんな考え方が入っているので、そういうものを一つの材料として、自分の出口を考えてください。 レッスンが出口を与えているのではない。出口というのは誰かが与えられるものではない。どういう歌をどう歌うために、日々のトレーニングがあり、その位置付けがあるか、その都度、自分で確認していくことです。 全然足りないから入れていきます。レッスンでも、そこにあるものの一つひとつの意味を、自分なりに捉えてください。一つのイベントや一つのレッスンを受けたら、そこから10倍、100倍のものを自分できちんと置いていかないと到底足りないのです。

 レッスンを生かせるか、生かせないかは、その人の力です。たとえ、100万円かけたとしても、誰でも身につくものではありません。いくらお金があっても得られない。だから、価値がある。 人は人の力を使わないと何もできません。貪欲に学ぶ。頼ることなく、どんどん自分から学んでいってください。学ぶ力をつけ、いろんなものから吸収できるようにしていきましょう。 同じ時間や同じ1ヶ月の中でも、何を優先し、どう過ごしていくかということが、その人の学び方です。それがうまくなければ、芸事もうまくならない。そう考えて、頑張ってください。【取り組み☆☆ 京都(1)01.11.23】

○色あせないもの

 坂本九さん 坂本九さんの歌です。時代が20、30年経ってくるとわかりやすいですね。ほとんどのものが古びてきます。古びてこないものというのは、どこかに本物で、ちゃんとしたものが入っていると思えばよい。 向こうのものをそのままもってきて、日本人が真似して、歌詞だけ付け替えたようなものは、今聞いてみても、すでに古くてどうしようもない。それは応用されたことで、基本のものを失った、その時代のものにしかすぎなくなってしまった。

 ポップスですから、その時代、その時代のものでよい。ただ、それが30年、50年経っても、色あせないものであるというのは、偉大なことです。私のことばでいうと、その人の中でのオリジナルの声が、オリジナルのフレーズになっている部分があるということです。だから、余計なアレンジもなく、余計なくせもなくて、なるべくシンプルなところを示すということが、大切なことです。 その時代の人を満足させたり、売れ線を狙うことも大切ですが、時代や空間によって左右されるのは、あまりよくないともいえます。その世の中の流行の移り変わりの先にあり、受け入れやすいものや受け入れにくいものが出てくるのです。

○位置づけ

 学び方のことでいうと、同じ題材を何回か使って勉強するのは大切です。 初心者にとっては、100でも200でもたくさんのことをやらなくてはいけないと思うのかもしれません。それはやっていない人に対して、知っているというくらいの力にしかなりません。 たとえば、その映画を見たことがない人に、その映画のことを話せるという程度です。だからといって、映画のことに詳しくなくて、映画がつくれるようになるのかというと、量もある程度必要です。しかし、つくり方より、完成品をみた方がよい。それは質を極めるために必要なのです。

 私は半分は、10年間以上同じ課題を使いながら、一、二年毎に繰り返しています。よい課題は、機会を設けては、同じようなことを繰り返します。 その中で、自分の一つの曲に対する感じ方が変わってくることもあるし、曲によって自分が成長することもある。一曲からもっともっと多くのことを学ばないと、オンしていくことにはならない。

 トレーニングという位置付けは、あくまで補強にしか過ぎない☆。そのメインのところに、何が足らないとか、どうしたいというような感覚が走っていない限り、低迷していくのはあたりまえです。 トレーニングの中にはまって、その結果、何をやっているのかわからなくなる。 それはレッスンでも同じです。レッスンが主で生きてくるには、そのレッスンが何のためにあるのかという位置付けを、きちんと見つめてやっていくことが必要だと思います。 そうなってくると、レッスンを何年やっているとか、何をやっているかということが意味をもってくる、その人にとって、毎日、生きていることが一つの補強や支えになっていくと思います。

 人間は弱いものですから、そうやっていろんなもので支えていないと、どこかの時点で、迷いやめてしまいます。 トレーニングは一番そういうものでしょう。自分一人でやって、自分の中でまわっていたら、難しいのです。こんなことをやっていても何かなるのかと思い、やめていく。それは、自分がそこまで深められなかったということに責任がある。 そういう意味で1、2年目にやっておいてほしいことは、声や歌のことよりも、学び方の部分です。

○遅れていること☆

 ヴォイストレーニングも混乱してきました。時代も混乱しているところがあるのですが、一度整理しなくてはいけない段階にきています。20世紀と21世紀では、大きく違うのでしょう。 音大、音楽スクールやヴォイストレーニングの世界が一番遅れている。 たとえば、高い声を出す、大きな声が出るということが目標にとる。20年前であれば、そのことは目標にとれていた分野もあります。 高い声をめざす人が多かったのですが、私も声量のことも重視して、体からの声を出そうということでやっていました。表現力本位に考えていたからです。

 その人の体からの声がオリジナルの声ということでみると一理ある。 練習の段階においては、それも補強、強化トレーニングですから、強化のためにトレーニングをするという位置付けをはっきりとさせた。 つまり調整や整理ばかりをしていても、意味がありません。 やれている人たちがよりうまく見せるために、調整をしたり整理したりするのはよい。やれない人が、いくら調整や整理をやっているといっても、大して変わらない。 私がバッティングセンターで打てなくて、スランプだといっているのと同じくらい、おかしなことです。量も足りないのですが、それを質に変えて、最低ここから落ちないというラインを作るところまでやっていないからです。

 条件を作っていくということは、レッスンの中の一番、大切な目的だと思います。それは、よい声を作っていくというよりも、コントロールできるような声にしていくということが、メインです。 最低限のベースにおいて、普通の人よりも高いレベルで声を扱えたり、体から声が出るというような、条件の獲得の方が大切です。それが体作りの部分になるのですが、こういう声の世界も、身体感覚の部分を元にしているのです。

○虚構のリアリティ

 先週、鴻上尚史さんがある雑誌に書いていたのですが、ここ5年間、虚構のリアリティという舞台のものがなくなった。虚構のリアリティが認められなくなると、舞台の表現がなくなってしまう。そこでリアリティとして身体感覚に重きを置いていく。たとえば、井上雄彦さんがスラムダンクのあと、リアルで車椅子バスケットの世界を描く。宮本武蔵のバガボンドもその線上でしょう。 身体感覚に重きを置いて、自分の体の中で、声がいろんなことを教えてくれる。その人の精神状態、体調を含めて、いろんなことがわかります。そういう自分と結び付きの強いものによって、自己を確認するというのは、少なくとも頭で考えて文章を書いているよりも、足が地についているような気がします。

 たぶん役者とか、歌い手のリアル感というのは、そこにあったのでしょう。そうしないと、虚構の世界を演じているうちに、むなしくなる。でも、そこから創作表現がなされるかは全く別問題です。 音楽というのは、数学的、論理的、科学的であるのと同時に、もともと宗教的で信仰的なものでもありました。今求められている音楽というのは、癒し系、ヒーリング、要は働きかけをしない。 話し方より聞き方が大切になった。ゲーム、テーマパーク、テレビなどと同じ、個人が個人として対決しない。

 本当の歌を聞いたら、自分はこんなふうに生きていてよいのかとか、明日から一所懸命生きなくては、人生を考え直したいとか、いろんなことに気付かせられる、エネルギーが満ちて変わる。それで昔から舞台を見たり、映画を見たりしていたのですが、今その役割があるのは、映画やお笑いで、音楽や舞台からは、失われつつあります。 吉本の新喜劇のようなテンポのものでも、主体的にのめり込んで客が主となって、舞台を材料にして、自分の人生を考えるようなことが成り立たない。 だから、舞台のテンポもどんどん速くなっている。待てないということは、忍耐力がない、思考力がない、要はイマジネーションがない。 そうやって育ってきた人たちに、いきなり想像しろ、創造しろ、といっても難しいでしょう。

○変えられる可能性

 レッスンで、自分で歌詞や曲を変えてみます。 歌詞を変えてみるのも、曲を変えてみるのも、自分が歌いやすくするためです。歌詞を変える練習をするわけではない。人が作った曲や歌詞というのは、自分がきちんとこだわっていたら、どうしても歌いにくい部分が出てくる。安易ですが、そこは自分のオリジナルが発揮できるように、変えて作ってもよい。
 オリジナルに変えるということは、適当に変えてみたということではなく、自分の力がよりよく働くために、作品を作り直すことです。自分のスタイルにあった形に作っていくことが大切です。 「明日があるさ」と「マック・ザ・ナイフ」を取り上げます。それをつなげ、自分で膨らませていく。 レッスンの回数は関係がない。それを自分がどういうふうに消化していくかということです。そのために気付くということが大切です。 気付くということは、自分でできないということに気付くから、次に変えられる可能性がでてくる。そこを自分でできていると思ったら、何も変わらない。

○他人に学ぶ

 伸びる人というのは、自分でリスクをとり、自分に責任をもち、自分を変えなくてはいけないと、ある意味では、自分に対して非常に厳しい点数をつけられる人です。それとともに、他人に対しても厳しい点数をつけることができるのです。 同じ曲を置いているのも、他の人を評価することによって、自分とは何か、オリジナルとは何か、他の人にはできない、本当の自分のオリジナルのものを見つけなくてはいけないからです。それは真似ではできません。 今風のくせをつけた歌い方をしていたら、顔がよくて、スタイルがよくて、踊りができる人の方が有利、知名度がある人にかないません。真似というのは、器用なら誰でもできる。声もオリジナルまで行き着かないと、本当は意味がない。

 声や歌がよくなくても、有名な人であれば、出ていける。音楽に関して、ここ何年かで大きく変わってきました。 そういうことで、声のトレーニングや、音声のトレーニングはいったい何のためにあるのかということを、しっかり自分で把握しておかないといけません。やったがために、かえって悪くなってしまう。それにさえ気づかないとよくありません。 こういうヴォイストレーニングは、楽器、踊りの練習をやるより、トレーニングに足を取られてしまう人が多い。

○オリジナリティと正しさ

 オリジナルということを考えていくときに、他の人たちのオリジナリティ性も見ていく、そこから逆に、オリジナルではないところ、くせをつけていたり、おかしくやっているところも見抜いていく。 芸術活動ですから、他の人がこだわらないところにこだわって作っていく。ずれているのはよいのです。 そのレベルが高いか、低いかという問題です。そのレベルが高ければ、他の人が驚いたり、理解できなかったりする。レベルが低ければ、音痴だとか、リズムが悪いといわれる。その深さの問題なのです。

 それを音楽スクールなどでは、正しく歌えばデビューできるかのようにいって、個性などを全部潰してしまう。それを後で引き受けるこちらの身にもなって欲しいのですが。 正しいというのはどういうことかというと、そういうものを柔軟に扱えたり、応用できるための体、元に戻せる感覚をきちんと作っておくということです。だから、ここに来てもすぐに応用して、通用しなくてはいけません。 何かおかしなことをしても、最後にはそれをきちんと収められる。それを音楽的に収められる人を、ミュージシャンという☆。その辺のことをしっかりと踏まえて、トレーニングをやっていかないと、意味のない時間にもなりかねません。

 歌の勉強を10曲、100曲でやるよりも、一つの曲を10パターンに歌いかえることです。一つの中で100回やって、残りの99回は捨てていくというような勉強をすべきです。そうしたら、リピートをオンしていけるのです。 ヴォイストレーニングに必要なことというのは、優れたアーティストの、優れた一曲の中に全て入っています。そこから学べるのであれば、他には何もしなくてもよい。 たとえば、バイオリンやピアノの世界で、独学で全部やっていくには難しい。楽器を自分の中に入れるために、その感覚とそれだけの時間が必要です。どうしても基本の部分では、共通のやり方がある。 ところが声というのは、日常でも使っている。もっとコミュニケーションギャップがあったり、周りの人とあわず、逆境から這い上がってきたような人は、それだけですごいことをやってきた。歌でも同じです。そういう意味では、自分がきちんと見つめれば、わかりやすいものでもあると思います。

○分解と再構成

 単純なものからやっていきます。テンポを変えて、その違いから見ていきたいと思います。歌詞で翻弄されたくないので、自分で変えてもよいのですが、覚えてください。 この曲のテンポは98、キィの設定は自分で自由にとってください。それぞれ自分の呼吸で入ってください。最初は「明日があるさ、明日がある」まででよい。一回りしたら、テンポを変えていきます。 音程やリズムが間違っているということはわかるでしょう。それは自分で直せるところです。

 やったときに、自分のオリジナルな声が、オリジナルのフレーズに結びつくところはどこか、もっといえば、どこが歌になったか、どこが自分のことばとして伝わったか、どこが情感として相手に与えられたか、という判断をしていく。 そのために、いろんなことがこの曲から感じられなくてはいけない。その感じたことを、自分がもう一度分解して、構成して、創り出す。その中で音色、強弱リズム、いろんな大切なことも感じてください。坂本九さんのをもう一度聞いてみましょう。最初の二行を続けてやっていきます。

○テンポの変化

 リズムやテンポの練習ではありません。感覚を切り替え、体と呼吸をどう対応させるか、そしてその結果どうなっているかということです。速くしていくと、当然速く感じるようになります。この速さでゆっくりに感じられるように、聴き込んでいく。 テンポを遅くしますが、そのときにどう感じるか、あくまでそこで感じたことをつかんで、表現するということが目的です。 テンポの設定というのは、曲の中でとても大きな働きを持ちます。作詞家、作曲家、指揮者が変えたら、もしかすると歌い方を変える以上に大きく変わるかもしれません。 しかしテンポが変わるということは、ロックなどでは、違う曲以上の差が出ます。

 テンポの60と120では、速度が2倍違う。同じ曲でテンポが2倍違うのは、普通ではあまり考えられませんが、かなりかけ離れたものが出てくる。要は、狙う効果が違うということです。テンポやキィの設定によって、聞き手の受けとめ方も違ってきます。そのときに歌い手の心が、そこについていかなくてはいけません。 これで、体がついてきたり、声がついてくる場合もあるのですが、それよりも歌にするためには、その接点のつけ方を、自分で厳しくしなくてはいけないからです。 100のテンポの中から自分のテンポを見つける。ピアニストの人に、楽譜にテンポ80と書いてあるから、80にしてくださいというように雑なことではダメです。キィも半音上げたり、半音下げることによっても、違ってきます。そういうことを知って、自分をよりよく見せるために使うべきなのです。

 限界を破るために強化トレーニングや条件を整えるのです。しかし、同じ力であれば、より格好よく、より働きかけるように見せるべきです。そのときにテンポやキィの設定というのは、大きな要素になるのです。発声よりも即効です。テンポやキィを間違えるということは、音程やリズムを間違えることよりも、大きなミスかもしれません。それで最後まで決まってしまうからです。 これに近いゆっくりなテンポで歌っているのは、当然そういう効果を狙ってやっている。こういうテンポに親しんでおかないとできません。音楽の場合、ゆっくりしたところでは、かなしい場面や壮大なイメージを伝えられるときがある。そのためには体の支えや息の流れが必要になってくる。 逆に速いテンポで、高いところでやるよりも難しい問題がたくさん出てくる。

 練習の課題としてやるのであれば、このテンポに合わせてやるのではなくて、このテンポが自分の体に入っていてやるということはどういうことか、どうやればしっくりといけるのか、その中で見せるところをどうやって作っていくのかということを、やっていくことです。 感覚を磨くのに一番よい方法は、相対差を利用することです。あなたはこれを聞いて、気分によっても、速くなったり、遅く感じたりすると思います。それではダメです。日頃からこういうテンポにしっかりと親しんでおくことです。これはベースのことです。 テンポ感がなければ、リズムさえ刻めません。歌の場合は、リズムのトレーニングからやっていくことが多いのですが、それぞれが何のためにあるのかということを把握しておかなければ、いつまでもバラバラになって、おかしく出してくるのです。

○同じ歌い方の流行

 たとえば、フレーズの中でも、高いところでとったり、ことばを早くいおうとしたときに、急いでしまったり、引っかかったり、声がくせで回ってしまいます。 くせというのはとるのが難しいものです。J-popがほとんどくせの中で歌われているため、同じような歌い方、同じような声になっています。 それは、音楽に乗せて、そこで音楽を作ったり、自分で音楽を生み出すというところまで、下りてきていないからです。 しかし、ポップスでは否定できない。現実の歌い手がそういう歌い方をしている。現実でやっていきたい。昔の歌い手のようにやっていきたいのではないからです。 現実でその歌い方が認められている以上、それもありでしょう。ただ、そういう歌い方では、誰でも似たようなことができ、他の才能がよほどない限り、通用しなくなる。 オリジナルに戻さないと、将来性と発展性がなくなってしまう。 そうなると、ことばのところでしか、注意しにくい。ことばであれば、自分でもわかりやすいと思う。少しことばでやっていきましょう。

○音楽の線上に

 のどを開いて、呼吸の流れの中でいうということが原則です。それはオリジナルな声の一番の利用方法です。日本語の場合、「わ・か・い」とか「ぼ・く・に・は」とか、口で作ってしまいがちです。また高めにとっていかないと最後までもたなくなってしまう。どうしてもアナウンサーやナレーターの勉強はそうなりがちです。そうでないものは落語や浪曲くらいですが、あれはのどをつめてしまうので、見本というのはない。ただ、それを強弱のリズムでとれ、つかんで放り投げるようにといっているのは、「わ・か・い・ぼ・く・に・は」という意識自体をなくすためです。それはピアノをキーボードのように考えないのと同じです。

 たとえば「若い」あるいは「若い僕には」で、一つに入っていたら、「夢がある」が好きなところに置ける。そのときに、のどに引っかけないことと、口で作らないことです。ことばのフレーズということを、しっかり読んでおくことです。これがなければ、歌になりにくい。それでは仕方がないから、歌声を作らなくてはいけなくなります。もう一度やってみましょう。「若い僕には夢がある」 もう少し簡単にやってみましょう。日本語の練習、発音や滑舌の勉強ではない。音楽に結び付けるための動きをつかむ勉強です。 「わかい」の「か」がいえない人が多い。日本語では「いつか」などもかなり難しい。それを一つに捉えていくイメージを持った方がよいと思います。「わかってくれるだろう」のところをやってみましょう。 大切なことは、つかんだら放すということです。

 バッティングでも、一つのフォームができるのに、力は抜かなくてはいけません。「わかって」で一つきちんとつかんだら、次の「くれるだろう」は、その動きの延長線上に置いておけばよい。それがそのまま音楽の線上になっていく。外国語というのは、言語の中のリズムを使いフレーズのメリハリがつき、流れていきます。

○加工の限界

 今のはほとんどことばがいえていません。今の歌い手というのは、ことばもいえず、声も出ない人が多いのですが、音楽上の加工はできる。とても器用に加工できます。その加工の仕方のところで勝負していこうとしたら、それはそれで難しい。 あまりにたくさんの人が、たくさんの方法で器用に加工できる。そこで差別化できないということになります。 だから、プロということでは、需要の多い歌い方をして、多数の中から選ばれる何かがあるのか、あるいは、その人にしかできない部分を持つかということです。 個性といってもいろいろある。世の中の需要とは合わない場合もあります。私は、その人の体と、音楽の中の完成度において高まっていくようにしたい。そこに何か深いものがあれば、世の中には理解してくれる人はいる。ただ、日本ではやや難しいような気もしますが。

 一見、曲を変えたり、テンポを変えたり、キィを変えているだけに思えるかもしれませんが、あくまで自分のオリジナルな声、オリジナルな体、オリジナルな息がより使いやすくするために変える。それとともに、自分にそこで何が足りないかということを知る。それは否定するのではない。できないことをきちんと見て、それをセットしていくということです。 今皆さんができることの中にでも問題はある。ことばがわかりやすいのは、誰でも今までことばを人前で使ってきたキャリアがあるからです。 その辺が楽器とは異なります。そういうことでは、体の原理とオリジナルな声のことを、もう一度自分で見直してほしい。それをどう使うかということは、自分の中にあるパターンの中から、一番価値を示せるものをきちんと選べるかどうかです。

○接点と選択と見せ方

 東京でも、4、5年目の人とかつてのBV座のレベルが、地力としては違うのではないのですが、接点のつけ方において大きく違う。かつては自分ができることを知って、それを最高に優れて見せる方向をめざした。今の人たちはそれがあるにも関わらず、それを選ばずに、自分の好き嫌いで選んでやっている。見せ方の問題です。 では見せ方を変えたり、誰かが選曲してあげたら簡単なのかというと、そういう練習とか、そういう感覚を待たないできているなら、その方が大変なのです。声があったり、歌がうまいにも関わらず、見せるところがない、接点をつけていないということは、すごく鈍感なことだからです。 自分の中にある100個のフレーズの中で、何を選ぶのかということです。それを好き嫌いで選ぶのではなく、優れているかどうかで選ばなくてはいけない。難しいことです。

 誰でも高いところで歌いたい、誰でもリズムの乗りのよいところで、気持ちよく歌いたい。そのことと、果たしてその人がその形をとったときに、他の人よりも有利に伝えられるかというと、全く別の問題です。自分の声質によっては、もっと違うところのキィや、違うリズム、違う歌詞をつけた方が、引き立つ場合もある。 それは一言に鈍感というより、いつまでたっても不利な勝負に自ら挑んでいることになります。何のためにでしょう。

 最近の人たちは、それぞれの音色をもっている。それはよいことです。しかし、その音色を音楽的に、もっとシンプルに歌い上げてくれたら、こちらもしっとりと聞ける。やたらとくせをつけたり、やたらと変に歌いまわしたり、そこで大きな声を出したりして、がたがたに崩してしまう。それはトータルのところで、何を作品として見せるかということが、見えていないというより、ずれているのです。自分の思い込みだけで走っているのです。 なぜそれがもう一つ上にステップアップしないのかというと、選択の甘さです。 私も自分のことはよくわかりません。その辺は、トレーナーを見習ってもよい。なぜそういうキィの設定にするのか、どうしてその曲をやるのか、そこには必ず理由があります。ほとんどの人がそこに鈍感です。

 この歌い手がこういう形で歌っていたから、そのまま歌いました、という紹介ライブがほとんどです☆。本当は、そこから本人が創った分だけが勝負なのですが、ほとんどの人がそれをやっていない。そこからどれだけ練り込めるかということが問題なのに、ただ覚えてきただけで歌っています。それではリピートはできますが、オンはしていきません。だから、渡辺淳一さんに歌い手稼業は楽でよいといわれてしまう☆。 勉強というのは、こういう単純なことの繰り返しなのです。そこに何か意味があると思ってもらえばよい。皆さんの受け止め方によっては、もっとこの中から膨らませていけると思います。もっといろんな意味が出てくる。たくさんのことをやるのも必要ですが、一つのことから、たくさんのものが学べということです。【取り組み☆☆ 京都(2)01.11.23】