FUKUSHIMA DIARY


2006.7月  

7.1 「摘発 安田好弘さん、佐藤優さん(1)」

佐藤:国策捜査とは、時代のけじめをつけるために何か象徴的な事件を摘発する、もしくはつくり出して行なう捜査。

安田:ホリエモン逮捕は、特捜検事の彼らなりの世直し、国体護持のための運動ではないかと。

― 今さらだけど、たかだか50億くらいの、というのは、ここ最近のいろんな偽計はその10倍、100倍とあるからで、まるで官とマスコミの有事の際の一本化の予行演習をやっているようになってきた。日本って。(F)


7.2 「摘発 安田好弘さん、佐藤優さん(2)」

佐藤:国策捜査とは、時代のけじめをつけるために何か象徴的な事件を摘発する、もしくはつくり出して行なう捜査。

安田:ライブドアの株価の上昇は、ライブドアの斬新な動き、既成の経済秩序に切り込んでいった彼らの挑戦、つまり検察が言う彼らのルール破りに投資家が期待したのであって、虚偽の風説によって株価が変動したとは思えません。むしろ検察がホリエモンを逮捕したことで、ライブドアの株価が暴落して被害者が出たのです。

― それにしても、リークばかりの検索、個人情報保護法といいつつ、たれ流し。報道を聞いていて気持ちよいものではない。(F)


7.3 「摘発 安田好弘さん、佐藤優さん(3)」

安田:血祭りにあげる手段として捜査がある。日本の事件捜査は客観的な事実を一つずつ積み上げて解明していくんじゃなくて、主観的な事実の見方、つまり事件の見立てがあって、それに見合う証拠をつまみ食いし外れたものは全部捨てていくから、有罪の証拠しかない。

佐藤:日本では起訴された事案の99.9%が有罪です。

― ルール破りは、どちらかということで、旧体制と新体制、一本勝負では旧が強いというのを甘くみたか。(F


7.4 「禅、無心 平山郁夫さん」

描くことは禅の行をしているのと同じなのではないでしょうか。
座禅をしなくても、私の場合は、描くこと自体が座禅をしているのと同じなのかもしれません。
いったん描き始めると、ときには十数時間は休みもとらずに描きますからね。
調子のいいときには五時間ぐらいが一時間にも感じない。本当に無心なんです。
それでいて、仕事をしながらちゃんと休んでますからね。
逆に集中力に欠けると、30分ほどで筆の勢いが鈍ってしまう。(平山郁夫さん)

― 禅行、あたしゃ、仕事は巡礼か礼拝と感じるのよね。(F)


7.5 「感度のよさ 平山郁夫さん(1)」

理由は簡単である。「組織に属している」と、唯我独尊にならないからである。ものの見方も、人の見方も複眼的になれる。柔軟性を保持していられる。

作家として認められたり画家として認められると、組織を離れて"独立"する人が多いが、それは大変に危険なことのように私は思える。それは、創作者としての寿命を縮めることのようにも思えるからだ。

組織から離れて独立すると、どうしても世間への"アンテナ"の感度が悪くなる。(平山郁夫さん)

―唯我独尊少なし、仁かな。(F)


7.6 「感度のよさ 平山郁夫さん(2)」

自分の考え出せるテーマなどたかが知れているとすれば、それを補うのは「いま」という時代への感度ではないだろうか。

その感度の良さを保つ自身がある人は、どんどん独立したらいいのだ。しかし、組織から離れてフリーな立場で創作活動をしていると、だんだん世間の動きとずれてくる。そうなると、多くの人たちを感動させたり、深く考えさせたりする作品を生み出せなくなる。(平山郁夫さん)

―世間へのアンテナ、ふつうの感覚がいるのよね。(F)


7.7 「才能 平山郁夫さん」

だから私は、偉大な芸術家を育てる大学をつくってください、と言われれば、「ノー」と答えるしかない。

英才教育をしたぐらいで、偉大な芸術家など育ちはしない。真に才能の在る者は、たとえ抑えつけようといつかは出てくる。

生前は認められなくとも、歴史がいずれその人の芸術的価値を評価するときが来る。(平山郁夫さん)

―どんなに抑えていても、出てくるものしか、出てくる人しか、何事もなせない。(F)


7.8 「偏向批判 筑紫哲也さん(1)」

だが、そこに何を選び取るかの選択が働く以上、「偏向」批判は必ず付いて回る。森羅万象、いろいろなことが起きている中でどれをニュースとして選択し、それらの中でどのニュースに比重を置くかにも、作り手の判断は働くのだから、この批判を免れる者はいない。あるのは風当たりの強弱ぐらいだ。

―批判を免れるものはいない。場に身を置くかどうかは、自ら選べるときもあるし、職として選んだこと、あるいはそこで評価されたことがそれを押し付けてしまうこともある。(F)


7.9 「偏向批判 筑紫哲也さん(2)」

多数派の意向と利益に立って、少数派のそれを封じこめることが、民主主義(多数派)という名の「専制」を生むという自覚はほとんど存在しなかった。まして、少数派にとって良い境遇を作り出すことが、多数派にとっても結局は恩恵をもたらすものだという洞察が作動した形跡は終始なかった。

―選択はどちらをとっても、敵を増やすわけだ。小数を支持しない限り、現状の改革は無理で、民主主義は少数の推力を倒すとともに、少数の弱者や正しい者も抹殺する。(F)


7.10 「偏向批判 筑紫哲也さん(3)」

沖縄とかかわることで私が思い知らされる最大のことは、この国の少数派、少数意見に対する壁の厚さ、あえて言えば非寛容である。
もし「肩入れ」があるとすれば、それと二重映しになる自分の所在があるからだと思う。「偏向」批判には、「影響力のある身だから発言を慎め」という注文が必ずついて回るのだが、当の本人にはそんな実感がないのだ。

―肩入れして、何とかなるほどに力などないのに、それを気に食わない人には、発表報道の公平に機会を与えることさえ偏向となる。発言、大いに結構。ただ、少しは深く学べよとのこと。(F)


7.11 「創作 松本零士さん」

漫画やアニメーションの技法の習得は、段階を踏みます。「模倣」「応用」「改良」「発展」。発展まで行けばセミプロぐらい。でも、次に来る「創作」の前に巨大な壁がそびえています。乗り越えて初めて、一人の創作家になれるのだと思います。創作は各人の体験の中から生まれますから、実際に積んだ体験こそが創作の源です。私の役割は、創作のためのヒントを与えることでしょう。

―「模倣」「応用」「改良」「発展」の4段階の上の「創造」を、体験と創作家のヒントが可能にする。(F)


7.12 「摩擦 江原啓之さん(1)」

アメと鞭を使い分けて接する知恵と忍耐が必要。部下に恵まれないと苦悩している人にとって、部下との摩擦は器を大きくするための学びなんです。人徳のなさが部下とのコミュニケーションの妨げになっているケースもありますし。

―摩擦が器を大きくする。器が摩擦も大きくすることもある。(F)


7.13 「摩擦 江原啓之さん(2)」

女性の部下に限らず、失う恐怖を抱えていては強いことは言えません。「あなたのような上司は嫌いです」と言われても「それで結構」と言えるようでなくては。ただし、心で話し合おうじゃないかという大我な気持ちを抱いてないと、横暴なだけで尊敬されません。なにしろ人がたましいを磨くことができるのは、職場での人間関係だけなんですよ。

―仕事ではじめて気づくものは、仕事以外では気づかせてもらえないものよね。(F)


7.14 「摩擦 江原啓之さん(3)」

だからこそ、職場にドップリではいけないんです。帰属意識から離れて、会社勤め以外に転職を持つことが大切。リフレッシュして精神的な余裕を持つことが、職場での人間関係を乗り切るコツだといえます。

―ドップリと突き放し、それが大きく進むための両輪。(F)


7.15 「独創性 西沢潤一さん」

問題は、国内には独創性を尊ぶ気風が乏しいことだ。他の研究者と似た研究で資金を獲得しようとしたり、ひどいときには嫉妬心から先行者の足を引っ張ったりする。研究開発というオリジナリティーが最も重要な世界で横並び主義が蔓延し、独創の芽をつぶしている。

―「横並びやめ独創尊べ」といっても、日本は横並び、教育も横並び、エリートを落ちこぼれにする独裁国家に対し、エリートを横並びにする、いや自らなるのね。だから、足を引っ張り出すわけだ。(F)


7.16 「アート モーツァルト」

モーツァルトは、あるピアノ技師をこう絶賛する。
「この人は自分の利益だけのためでなく、ただただ音楽のために働いている」
「作曲しているほうが、休息している時より疲れないので、仕事を続けています」 

―ただ、アートのために、アートが楽であるというのなら、選び続ける努力はいらない。(F)


7.17 「我を習う(1) 武田鉄矢さん」

曹洞宗のお坊さんの言葉
「仏道を習うとは我を習うなり、我を習うとは我を忘るるなり」
つまり、仏教を勉強することは自分を勉強することに繋がる、と。では、自分を勉強するためにはどうしたらよいかといえば、まず自分を忘れることだという。

―自分を知るのに、自分を知っていては、自分を知ることはできない。知っているつもりが学ぶのを邪魔する。(F)


7.18 「我を習う(2) 茂木健一郎さん」

脳科学者・茂木健一郎さん
しかし、なにも浮かんでこない。どうしてなにも思いつかないのかと、それこそ悩むんですが、ふと彼は気づいたそうなんです。自分は毎日この小径をきちんと歩いていないせいなのではないか、と。
それを彼は「黒光りする日常」と表現したんです。昔の小学生みたいに、学校の廊下が黒光りするほど、毎日雑巾で磨き上げる。そのような繰り返しの日常でしか、とてつもないアイデアは浮かんでこない、と説いてるわけなんですよ。

―歩くにも歩き方が必要。哲学者の散歩は、ただ歩いているだけではない。(F)


7.19 「自分 アウレウス」

「他人が自分をどう思っているか」に心わずらわせるな。
「自分を大切にするには、時間はもうほとんど残されていない。人生は一度しかないのだ。しかもその人生が終わりに近づいているというのに、自らに敬意を払うこともせず、他人が自分をどう思っているかという一点のみに自分の幸福を費やしているとは」

―自分より他人というのも、他人より自分だからで、他人より自分を突き詰めたら、自分より他人となる。(F)


7.20 「知恵」

「人様とのつながりが大事、顧客満足こそが販売に不可欠である」(イトーヨーカドーの創業者・伊藤雅博)
「まず汗を出せ。汗の中から知恵を出せ。それができないものは去れ。生きた知恵は汗から出る」(松下幸之助)

―つながりと汗の結晶が知恵。(F)


7.21 「101歳の人生をきく 中川牧三さん、河合隼雄さん(1)」

河合:もちろんテクニックもあるでしょう。普通の人は、歌うというたら喉だけだと思っているわけだけど、そうじゃないですよね。頬や口の筋肉もお腹の横隔膜も、それから頭の筋肉というか、頭まで上げて歌うわけでしょう。

中川:イタリアではくり返し「うその声は出すな。自然な声を出せ」と言われました。ドイツの歌の稽古は師匠の声を真似することから始まるけれど、イタリアでは、その人がもっている自然な声をひっぱり出すことに力を入れている。

自然な声というのが、プロの体、息、のど、フォームができた上での自然なのであって、そのままリラックスというのではないのです。50の器の人が自然に使えるのは、35くらいで、それをプロのように100使いたければ、150の器をつくることよね。(F)


7.22 「101歳の人生をきく 中川牧三さん、河合隼雄さん(2)」

河合:日本の声楽もドイツと同じで、師匠のテクニックを習得するのが中心ですね。

中川:そうですね。真似からはじまる。だけど本当をいうと、日本人はベルカントができるんですよ。日本人だけがあれの真似ができる。日本語というのはひじょうにはっきりとした言葉ですから。

まねるな、盗めということ。感覚を最大限に拡大して体に入れるということよ。母音中心共鳴において、日本語は声楽では有利ですが、ロックなどには、すこぶる不利になります。響かした歌唱ほど、完璧性を求められるものはないし。(F)


7.23 「101歳の人生をきく 中川牧三さん、河合隼雄さん(3)」

中川:個人レッスンをやっていましたから、俳優さんの声もずいぶん聴かせてもらいました。小さい頃の美空ひばりさんの録音にも何回も立ち会ったことがあります。

河合:ほう・・・。やっぱり天才でしたか。

中川:特別の才能をもっていました。はじめての歌でも一回歌ったら覚えて、二回歌ったら感情を入れて、三回目には完全に自分の歌にしていましたね。声も自然ですばらしかった。

私のグループレッスンでは、一回目に読み込み、二回目に矛盾を解消し、(見本に委ねるか、自分流に持っていくか定め)、三回目に創造せよっていうことでしたね。(F)


7.24 「101歳の人生をきく 中川牧三さん、河合隼雄さん(4)」

河合:たしかに日本は、とくにクラシックの場合は、お勉強から入っていったんですね。

中川:そうです。

河合:ぼくなんか若いとき田舎から出てきて、音楽が好きになって京大のオーケストラに入ったら、お勉強しているやつばっかりいるんですよ。それでみんな、いろいろむずかしいこと言うて理屈こねて、だんだん憂鬱になってくるような。いや、ほんまですよね。そういう雰囲気がありました。

中川:じつはあれのほうがやさしくて、音楽をわかっているような感じをもちますからね。若い人は喜んでそっちに傾く。

お勉強から入るのはよいけど、お勉強で終わっているのがどうも。理屈こねるのは、自分だけで悦に入れるから、楽だからよね。何のためのお勉強?(F)


7.25 「101歳の人生をきく 中川牧三さん、河合隼雄さん(5)」

河合:教養ということで一生懸命に勉強する。だけどほんとうは、それは教養じゃないんです。日本が言うてる教養というのがおかしいんですよね。もういっぺん、この頃、教養ということが言われだしたんですけど、教養というのは、ほんとうは身につかないかんわけでしょう。だけどみんな頭についているんですよ。頭につける教養が、ぼくらが学生時代、ものすごく言われた。そうすると、わからんでもいいから、ともかく本を読んで、知ってて、名前言われたら「ああー、それは」とか。それが教養のようになってるけど、あれは付け焼刃の教養ですよね。

教養って、自分の専門と違うものにも食いついていける応用性のことよね。頭で考え、しゃべっている人は、説得力がないので、すぐわかる。わからないのは、本人だけ。自分ができると思っているからなのよね。わからんことを認めないと、始まらない。(F)


7.26 「ユーモアで行こう! 萩本欽一さん(1)」

僕も、だから大変なのよ。素人の人とテレビで会話しても、なかなかオチない。全部オチが先にきちゃう。そういうふうに訓練されちゃってるからね。もう一瞬のうちに、しゃべるときにオチのほうが先にきちゃう。
でも、言葉なんてね、どんどんひっくり返していけばいいの。

待たさないとオチないのに、オトそうとするのは、頭だけまわっているから、よね。オトせばオチるのでない。(F)


7.27 「ユーモアで行こう! 萩本欽一さん(2)」

でもね、ひとつひとつ自分に答えをもってるっていうことは大切なんだよ。投げかけられた質問に答えを出していく作業が、自分はどういう人間なのか、自分を突き詰めて、わかっていく過程でもあるんだからね。だから、あまり質問されないようなことについて、自分に質問してみるといいよね。子どもにそういう癖がついていると、どんどん精神的にも深くなっていく。

自分に答えをもつ人がいかに少ないか。本などで学んでも、そのまま口から出しているのは、自分に答えをもっていないのよ。(F)


7.28 「“間”の使い方 萩本欽一さん(1)」

ところが、素人の人ほどたくさん見せたがるんだよね。だから、いつもディレクターとか作家とかが、
「ちょっと長いから、こういうところ刈り込んだほうがいいんじゃないの」って必ず言うの。そこで賞を獲る人っていうのは
「ああ、そうですか」ってあっさり刈り込んじゃうんだよね。やっぱり成功するのは素直な人。刈り込んでトントンと行くからポンと笑いが入るの。

たくさんでなく、切り込む。たくさんはボロ。たった一秒、一言だというのに、甘いところでやるから、どんどん冗長になる。(F)


7.29 「“間”の使い方 萩本欽一さん(2)」

素人って刈り込んでいくとか短くするというんじゃなくて、どんどん長くしていっちゃうんだよね。だけど、長くやればやるほど、むしろ損のほうへどんどん行っちゃう。
長いとなぜいけないかというと、長ければ長いほどやることがたくさん出てくるから。それと、素人というのは間が使えないの。だから長くなると間抜けがたくさん入っちゃう。

「間」が使えず、間抜け。たくさんを扱うのは、たいへん、もう、たくさん。(F)


7.30 「“間”の使い方 萩本欽一さん(3)」

つまり、間。間がうまく入ることを「点が見える」っていうの。素人の人はなかなか間を取れないから難しいんだけど、上手くこの「点が見える」ものが作れたら、ユーモアどころか、大賞まで取れるね。

「点が見える」って、点をねらっても、点にならないのよね。たまに偶然できる。そこから勘を磨いて、あとは無心。(F)


7.31 「運は正面からこない 萩本欽一さん(1)」

不本意にしか運はない。僕は長い芸能生活で、このことをいつも実感してきた。僕の人生、正面から運がきたことなんか一度もなかったからね。

―正面からくるのは、ふつうの仕事くらいよね。でもよい仕事は、おかしなとこから不意にくるのよね。だから、それを見逃す人ばかり。(F)


 

   

 ●2006.7 主な引用出典一覧

2006.07.04,05,06,07 「生かされて生きる」平山郁夫(角川書店)
2006.07.08,09,10   週刊金曜日 2006.6.16
2006.07.11    日本経済新聞 2006.6.9
2006.07.12,13,14   週刊現代 2006.6.10
2006.07.15    日本経済新聞 2006.5.30
2006.07.16    週刊ポスト 2006.3.24
2006.07.17,18   週刊ポスト 2006.3.24
2006.07.19   「古典に学ぶ」アウレウス(三笠書房)
2006.07.20    夕刊フジ 2006.4.14
2006.07.21-25    「101歳の人生をきく」中川牧三、河合隼雄(講談社)
2006.07.26-31     「ユーモアで行こう!」萩本欽一(KKロングセラーズ)

 

 

引用詳細版は、こちら です